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    しおり
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    同級生かせんくんあざやかに咲う夏君に降る雨が驟雨であるものかあざやかに咲う夏
    真新しい制服を身に着け、造花で彩られた入学式の看板の前でVサインを出すと母親のスマホからシャッター音が聞こえた。他にも看板の前で写真を撮りたい人が順番待ちをしていたので、いまいち光の具合が、なんて母の大人げないぼやきを聞き流して校門をくぐった。
    今日から高校生。新入生は教室へ、保護者は講堂へと案内が出ている通りに母と一旦別れ、これから一年間お世話になる教室へと向かった。廊下の途中で中学校からの同級生に会い、同じクラスだとわかって小さくハイタッチしてから教室に入る。知らない子の方が多いけど、部活で試合をしたことのある他校出身の子がいたので声を掛けたら幸運にもこちらのことを覚えていてくれて、同級生もろとも彼女たちの輪に入って自己紹介もそこそこにきゃあきゃあと話に花が咲く。女三人寄ればなんとやらというけれど、女子六人での会話はかしましいどころの話じゃなかったりするんだろうか。
    「あ、カセン」
    「赤線?」
    「違う、今入ってきた男子。うちの元彼が部活でずーっと勝てなかったって悔しがってた相手なんだけど、名前なんだっけな、カセンって呼ばれてたのは覚えてるんだけどな」
    かせん、と聞いてどきりとした。私の家が引っ越ししたので中学からは離れてしまったけれど、小学生の頃そう呼ばれていた同級生がいた。そこらの女の子顔負けのかわいい面差しだったけど間違いなく男の子だった。もっと言うと淡く拙い初めての片想いをした相手で。とはいえその同級生が件の男の子とは限らない。前いた学校からはこの高校はちょっと遠いからもしかしたら別人かもしれないし。
    彼女が言っていた人が元同級生なのか別人なのか、おそるおそる教室の入り口近くに目をやるとそこにはすっと背筋の伸びた男前が立っていた。ふわふわした緩い癖毛はよく似ているけれど思い出の中の彼はあんなに背が高かっただろうか。なにしろ私の記憶にある元同級生は背の順で整列すると低い方から三分の一くらいの位置にいたのだ。男子の中でもとりわけ背が高いというわけではなくてもあんなに成長してると本当に彼が元同級生なのかどうなのかよくわからない。
    あんまりじろじろ見すぎたせいなのか、急に彼と目が合った。あ、まずい、と思って視線を逸らしたら向こうからこちらに近づいてくるのが視界の端に映った。
    「君」
    目の前で立ち止まった彼の柔らかいけど低めの落ち着いた声が私に降ってくる。
    「ごっごめんなさいじろじろ見ちゃって、あの、知ってる人に似てるなあって思ってその」
    なんだ初日から逆ナンか、なんてからかいが飛んできたけど彼は声の方向を軽く睨んですぐ私に視線を合わせてきた。
    「知ってる人に似てるも何も、君は僕の知ってる人だろう」
    彼が口にしたのは確かに私のフルネームで。じゃあ、あなたは本当に。
    「歌川、之定くん」
    「かせん、でいいよ。もうこの呼び名に慣れてしまっていてね、初対面ならまだしも知らない仲でもない相手ならそう呼ばれる方が楽だ」
    彼は小学生当時のように丸くぷにぷにしていそうなほっぺではなく顎もシャープですっかり青年の顔立ちだったけれども、ふわりと浮かべた微笑みはかつてと同じように思えた。

    私が通っていたのは田舎にある小さな小学校だった。町の中心部もそれほど栄えていたわけではなかったけれど、田舎町の更にはじっこにある学区では同級生も幼稚園から顔馴染みの子ばっかり。人によっては息が詰まりそうな環境だったかもしれないけれどそれは後から思うことであって当時の私は何も考えずに過ごしていた。
    小学三年生の春、転校生が来るという話にクラス中が沸き立った。どんな子だろうどこから来たんだろう男子かな女子かな。そんなざわめきは先生が入ってきたことで一旦は止んだ。
    「今日からクラスに新しい仲間が来ました。入って」
    先生に促されて廊下から入ってきた子は一目見ただけでは男子か女子かはわからなかった。ふわふわした癖毛に大きな目、緊張のせいか染まった頬は丸く、穿いていた膝丈のハーフパンツはやや太めでキュロットスカートだと言われればそうも見えるようなデザインだった。
    「うたがわ、ゆきさだ、です。よろしくおねがいします」
    ゆきさだ、という名乗りでようやく男子だと分かり、教室の中で男子は仲間が増えたというように沸き立ち、女子はちょっと残念そうにざわついた。男子と女子がこのクラスは同じ人数だったので多数決を取ろうとすると大抵男子対女子になり、きれいに真っ二つに分かれるためになかなか決めごとが進まなかったりしたことがあったのだ。
    転校してからしばらくは人見知りなのか少々浮いていた存在だった彼がクラスに馴染むきっかけになったのは正にその多数決だった。
    週に一度は授業の一コマが学級会に割り振られていて、その日の議題は確か球技大会のスローガンを決める、だっただろうか。候補がいくつか挙げられ最終的に二つが残った。
    男子が強く推す、当時流行りのゲームからそのまま引いてきたフレーズ。女子が提案したオーソドックスな応援メッセージ。
    男子に言わせれば女子のはダサくてつまらない、女子に言わせれば男子のはパクりだしふざけすぎ、とやいのやいの騒がしく議論以前の言い合いになり、担任が頃合いを見計らって決戦投票をするよ、と割って入った。そうして挙手で決を取った結果、女子の提案したスローガンに決まった。決め手になったのは転校生の彼が男子の案に手を挙げず女子の方へ票を入れたことで、直後教室内の男子からは激しいブーイングが起きた。ずるだ無効だと騒ぐ男子に担任は決まったことだと抗議をつっぱねたけれど、生意気盛りの小学生男子がそれで終わるわけもなく、学級会明けの掃除の時間に騒動は起こった。
    「なんでおまえ女子に味方してんだよ」
    男子の中でもボス格の子が箒で教室内を掃いていた転校生に因縁をつけたのだ。
    「いいと思った方に手をあげただけだよ」
    箒を動かす転校生の肩をその男子が強く押し、転校生の手元がぶれて集めていたゴミが軽く散らばっていった。
    「どう考えたって俺らがいいって言った方が良かったじゃねえかよ、お前バカなの?」
    「少なくとも、人の掃除をじゃましてバカ呼ばわりする無作法者よりはマシだろう」
    ぶさほうもの、という言葉自体は耳慣れなくても良くない意味だというのは聞いていた周りにもよくわかった。男子は顔を真っ赤にして怒りも露わに転校生に掴みかかった。
    「ンだコラ、ケンカ売ってんのか」
    「今は掃除中だ、一騎打ちなら後にしてくれ」
    「うるせえんだよこのオンナオトコが!」
    とうとう男子が右手を転校生の頭にかけると思いっきり下に振り下ろし、バランスを失った転校生はびたりと床に転んで伏せた。おいやりすぎだろ、と別の男子の声がしたけれど、転校生は立ち上がって自分を転倒させた相手をギッと睨みつけた。
    「ぼくは男だ、自分の思ったことを意味のわからないことで反対なんかしない!」
    「あぁ、やんのか? 来いよオンナオトコ!」
    「まったく、雅のわからないやからには仕置きが必要だな」
    そこから取っ組み合いの喧嘩が始まった。おい先生呼んでこい、という誰かの声と駆け出す足音、しばらくして別の掃除場所から戻ってきた担任が二人に雷を落とす頃にはいくつかの椅子と机が転がり二人は髪もモシャモシャで服もヨレヨレになっていたし、気の弱い女子は涙ぐんでいた。二人は職員室に連れて行かれ、残った私達は帰りの学活に来た教頭先生からまっすぐ帰るようにときつく言われた。帰り道ではどうなったんだろうという話題にはなったけれど、転校生の彼が男子から仲間外れにされるかもしれないね、でも女子の輪の中にも入ってこなさそうだよね、などと解決に直結しないような心配をするよりほかはなかった。
    翌日、登校した私の目には信じられない光景が飛び込んできた。取っ組み合いの喧嘩をして罵倒し合っていたはずの二人がまるで生まれた時からの仲良しのように教室で笑いあっていたからだ。
    あれから二人は職員室で事情を聞かれた上で保護者を呼び出され、大人たちが見守る中で仲直りの握手によって和解という手順を踏んだらしい。そこでもまた力の込め合いにらみ合いになって軽く揉めたけれど一晩経って教室で顔を合わせ挨拶してみたらどちらともなく昨日の健闘を讃え合う流れになり、というのがボス格男子と仲のいい別の男子から回りまわって伝わってきた事情だった。
    「拳で互いを分かり合う、宿敵と書いて『とも』と読ませるような大昔の漫画みたいな話が今どきの小学校でもあるのねえ」
    家でその話をした時に母親が感心したような顔をしていた。どういう理屈で母がそう思ったのか当時も今も全く理解できなかったけど、理解できる文法を持っている人はいることはいるのらしい、というのは幼心になんとなく把握した。

    テストやノートを提出する宿題が出た時、低学年のうちは習っていない漢字を使った名前の子はひらがなで書きましょう、なんて先生から言われてきたけれど、学年が上がるにつれて習う漢字も増えて、みんな自分の名前を漢字で書くようになった。それで彼のフルネームが『歌川之定』と書くのだと初めて知ったのだけど、そのうちに彼はかせんと呼ばれるようになった。理由は単純なことで、漢字を習う時によほど難しいものでなければ音読みも訓読みも両方教わるのだけど、訓読みの苗字を音読みに、音読みの苗字を訓読みにして呼び合うという遊びが流行ったからだった。佐藤ならさふじ、田中ならでんちゅう、といった具合に呼ぶという、成長してからだと子供はばかだなあ、と切り捨ててしまいそうなくだらない遊びだった。
    歌川くんは両方訓読みなので音読みにしてかせんくん。ちょうど台風の時期に始まった遊びだったせいか天気予報をもじって「かせんのはんらんー」とか、昔の生活を体験しようという行事で雑炊が出た時には「かせんのぞうすいー」とか言われていたけれど、かせんくんは言った子の苗字を読みかえたりその上で巧くもじったりして返していた。子供の他愛無い遊びはいつしか目先の新しい別のものに取って代わられ、残されたのはかせんくんの「かせん」という呼び名だけだった。
    彼について覚えていることを順に思い出してはみたものの、かせんくんにクラスメイト以上の想いを抱いたのは同じ学校に通った四年間のうち一年足らずのほんの短い間だけだった。
    六年生の一学期。クラス委員選出に次いで決められる委員会の割り振りでかせんくんと私が美化委員に選ばれた。美化委員というとよその学校だと掃除や整理整頓に関係する仕事らしいのだけど、私がいた小学校ではそれに加えて花壇や芝生に生える雑草の草取りも美化委員の役割だった。これまでの学年でもやったことはあるけれど、今まで美化委員で一緒になった男子はやる気がなくて私に仕事を押し付けては先生や上の学年の人に怒られてふてくされるような子ばっかりだったから、かせんくんがもしそういう人だったらどうしようなんて最初は思っていた。
    「確かにぼくが好きでこの委員会を選んだわけではないからね。みんながあまりやりたくない仕事をその日休んでいたぼくに割り振ったことくらいわかっているさ。だとしてもきみだけに仕事を押し付けて高みの見物というのは雅ではない」
    かせんくんはそう言いながらも手を休めることなく草をむしった。みやび、ってそういえば三年生の時のあの喧嘩でも言ってたな、と思って私も手を動かしながらその事について訊いてみた。そんな前のことをよく覚えていたね、とかせんくんは苦笑いした。
    「雅や風流がどういうものか、口で説明するのはなかなか難しいものだね。うちの祖父が言うには日々くらしていく中での時のうつろいや季節のうつりかわりの中に見つけるものだそうだけれど、そうだね、自分の誇りを大切にしながら毎日ていねいに生きていくことも僕の中では雅であることだと思う」
    ふうん、かせんくんは頭いいんだねえ、なんてピントのずれた返事をしたような気がする。なにしろ小学六年生当時の私の頭の中には、『日々ていねいに生きる』とか『自分の誇り』とかいった概念は存在していなかった。今も存在しているかどうかは甚だ怪しいけれど。
    「じゃあかせんくんがかせんくんでいること自体が雅なんだねえ。私の雅ってなんだろう。なーんて、私じゃいつまでもみつからないかな」
    爪の間に黒い土が入り込んだ手でぶちぶちと草をむしるジャージ姿の女児(当時十一歳)には到底雅のひとかけらすらなかったことだろう。しかしかせんくんはそんなことはない、と言ってくれた。
    「ぼくにはぼくの、きみにはきみの雅があるはずだ。今は見えなくても、見つけようとすることが大事なんだ」
    そこの二人いい加減におしゃべりやめろー、と担当の先生から注意が飛んで、それから私たちは黙々と草をむしった。
    無心に草をむしった甲斐があったのか、そこからすぐの梅雨のおかげか、それとも日頃の行いのおかげなのか、梅雨が明けた頃には花壇は夏の花でいっぱいになった。
    サルビア、ベゴニア、ホウセンカ。マリーゴールドにオシロイバナ。色とりどりの花が青空に向かってしゃんと背筋を伸ばしていた。
    「風流だねえ、とてもきれいに咲いた」
    かせんくんが花壇を見て満足そうに微笑んだ。その横顔を見てやっぱり女の子みたいでかわいらしいなあ、クラスの中にはそろそろ大人びてヒゲが生えてきたとか言ってる男子もいるのになあ、なんて思っていたらかせんくんがそのかわいらしい顔を私の方に向けた。
    「どうだい、ぼくたちが世話をしてきた花壇がこんなにきれいな花を咲かせたよ。きみの雅が花を咲かせたんだ」
    わたしの、みやび。
    かせんくんが花々を背にしてこぼれるような笑顔で私を見るから、私の頬は夏の暑さとは違った熱で火照り始めた。かせんくんのことを好きだと自覚したのはこの時だった。

    かせんくんを好きだと自覚した、といっても付き合いたいとか彼女になりたいとかそう思ったことはなかった。いや、思わなかったというのは正確ではない。周囲の大人びた子達が誰かを好きになったとか告白したとか振られたとかできゃあきゃあ言っていたのを見ていると下手に何か言って近くにいられなくなるのはやだな、という意気地のない気持ちの方が強かったのだ。
    運動会、地域の文化祭、クリスマス会、学習発表会。小学校生活は矢のように瞬く間に過ぎていった。そして卒業式を前にしたある日のホームルーム。
    「おうちの都合で中学校からは別の学校に通うそうです」
    担任の口から発表されて私は教壇の前でうつむいた。学区内の大手メーカー工場で技術者として働いていた父が海外に赴任することになり、本当なら家族も一緒についていくのだけど父方の祖母が体調を崩して入院し、退院後も祖父だけでは介助に限界があるとかで母と私は父の実家がある県庁所在地へと引っ越すことになったのだ。色紙いっぱいに書かれた寄せ書きにはみんなが元気でねとかずっと友達だよとか思い思いに書いてくれたけど、私の目はたった一人の文字で目が留まった。
    『どうぞ、楽しい旅を。歌川之定』
    お習字の手本みたいにきれいな字に私は首をかしげた。旅ってなんだろう。私はもうここに住むことはないだろう。物心ついた時からいた場所だけれど元々は父の仕事の都合で移り住んだだけで家も社宅だった。引き払ってしまえばもうここに帰ってくることはない。
    最後まで私の心をかき乱したかせんくんに思いを告げることはないまま、私は住み慣れた街を後にした。
    そんな淡い初恋を三年も経ってから思い出すことになるなんて思ってもみなかった。そして、初恋はまだ過去になんてなっていなかったことも。
    高校生活を送っていく中で、三年間知らなかったかせんくんの情報が少しずつ耳に入ってきた。
    中学では剣道部に入って全国大会まで行ったこと。カセンと呼ばれていたのは私たちが呼んでいたのとは由来が違っていて、入部してから連勝し続けてきたので剣道連盟の偉い人があいつは三十六歌仙だな、と言ったのが始まりらしい。かせんくんが聞いたら雅だって喜びそうだなと思ったけど、元彼がかせんくんに負け続けてたという同級生にそう言うとぶんぶんと首を横に振った。
    「家来を三十六人切り捨てた昔のお殿様の刀が元ネタなんだってさ。そんなんで喜んでたらやばくね?」
    それでも私はどこかかせんくんらしいなあと思った。柔らかな微笑みの中に曲がることも折れることもない強さも持っている。かせんくんはそういう人だ。きっと元になった刀もきれいなんだろうなあ。
    入学してからもしばらくは知らなかったんだけどこの学校は剣道部が強いらしく、当然かせんくんは剣道部に入部したそうだ。私は中学の時は運動部だったけど高校でも続けようと思えるほど熱心でも得意でもなかったし家のこともあるので、毎日部活があるわけではない文化部系のどこかいいところがあれば、と考えた結果園芸部に入った。まあ確かに活動は週二回だし、レギュラー争いも当然ないし平和でいいのだけれど、入部して最初の仕事が植え替えだとは思ってもみなかった。
    「こ、腰が……」
    「はいはい、年度始めが一番人数が多いんだからね。夏前には部活掛け持ち組が大会に専念しちゃうから。がんばれ一年生」
    なんてこったい。
    先輩の言葉に愕然としていたけど慣れというのは恐ろしいもので、夏が来る頃には昼休みに持ち回りでやってくる水やり当番も楽しみの一つになってきた。今日も今日とていつも一緒にお昼を食べてる子達に手を振って教室を出ると倉庫からホースリールを取り出し、校舎外の水道へとつないで準備完了。ヘッドから出てくる水がもはやお風呂くらいの温かさなのに閉口したけれど少し出していれば水温が下がってくる。それではいざお仕事開始。
    「そーれ恵みの雨だよー」
    シャワー状の水が花壇の土を乾いた茶褐色から湿り気のある黒褐色へと変えていく。今年は空梅雨気味で夏になってもあまり雨が降らないからたっぷりと、ただしやり過ぎない程度に水を撒いていると渡り廊下から声をかけられた。
    「おーい園芸部、こっちにも雨降らしてー」
    手を振っているのは見たことがあるようなないような、たぶん三年生だと思われる先輩男子だった。校舎と渡り廊下でつながれている先は剣道場で、ということはこの人達は剣道部の皆さんか。暑い中お疲れ様です。他にも何人かこっちに手を振っているのでぺこりとそちらへお辞儀をしてから、渡り廊下が濡れない程度の飛距離になるようにホースの角度を調整して水を降らせる。うわあすげーよ虹だー、なんて低い声がはしゃいでいるのが聞こえる中、その後ろでかせんくんの唇が私に語りかけるように動く。
    『風流だねえ』
    距離があるせいかさっき声をかけてきた先輩くらいに大きな声で呼びかけられないとこちらには聞こえない。だから多分そう言っていたんじゃないかな、と私が思っただけ。でも、かせんくんの表情が小六の夏、私が恋に落ちたと自覚したあの日と瞼の裏で重なった。
    ホースの先を花壇へ戻すと視界の端で剣道部御一行様が校舎へと入っていく。ということは、と反対方向にある大時計を見上げればあと十分で昼休みが終わる時刻を指していた。ホースリールを片付けて教室戻るのには割とギリギリの時間だ。花壇の土はもうほぼ黒褐色だし、残りの乾いた土も水で染めて教室へ急ごう。
    教室へばたばたと駆け込み、自分の席へ行く途中でかせんくんの席近くで立ち止まる。
    「ねえ、さっき渡り廊下でなんて言ってたの」
    かせんくんがこちらを見上げ口を開いた直後に響いた予鈴と教科担当の足音は私に返答を聞く猶予をくれなかった。

    運動部が『三年生最後の夏の終わり』を迎え、一見関係ないように見える園芸部も運動部を引退した三年生が顔を出して活動人数が増えたりやっぱり受験対策で予備校に行くということで減ったり、と多少の影響を受けてはいた。グリーンカーテンにしてたゴーヤも鈴生りの豊作で、一部だけ収穫しないのはなんでだろうと思ってたけど実が真っ黄色になる頃にもいで中を割ったら種をくるむわたが赤いゼリー状のぷるぷるになっていて驚き、そのぷるぷるが甘いのにもまた驚いた。まだまだ知らないことがたくさんある。週二回の活動日と水やり当番の時だけの活動だし派手な賞レースもないけれど、夏の空に負けない色彩の強さの花や枝葉を見ていると私にはこの部が向いているんじゃないかなあと思う。
    電波の入りが良くないラジオのノイズみたいなクマゼミの鳴き声が響くともう夏も終わり。昔はツクツクボウシの方がやかましかったもんだけどなあ、なんて目を細める祖父に挨拶をしてから残り少ない夏休みの水やり当番へ出発する。最寄駅からは電車で一駅。都会なら一駅くらい歩くなんて言うらしいけれど、県庁所在地とはいえ哀しいかな駅と駅の間はとても歩こうなんて思えない距離だ。冷房で味わえる五分間限定の天国を手放して学校最寄り駅のホームに降りたら、改札口にかせんくんがいた。
    「おはよう。今から部活?」
    「いや、午後からなんだ。図書館で本を借りがてら少々調べ物をしたくてね。君は?」
    「水当番だよ。ついでだから終わったらプール入ってくるんだ」
    他愛無い世間話をしながら通学路を歩き、もう少しで校門をくぐるところで、ぽつり、と顔に水滴が当たったなと思った途端に大粒の雨がばらばらと降り出した。二人して走って校舎に駆け込み昇降口に入ると高く青かった夏空は一気に翳り雨は本降りになった。窓を叩く雨音が強く耳を打つ。
    「どうにか濡れ鼠とまではいかずに済んだね」
    かせんくんのゆるい癖毛が雨に濡れてしんなりと伸びている。プールの授業だと水泳帽で隠されているせいで見慣れないかせんくんの濡れ髪にちょっとどきどきして、そんな風に思ったのを気づかれないようにわざと明るい声を出した。
    「いやあプールの用意してきてよかったよ、バスタオルで水気取れるから」
    とりあえず教室行くね、と上履きに足を入れるとかせんくんも一旦教室に行くという。
    「濡れたままで図書館に行くのは本に良くないからね」
    それもそうだね、と相槌を打って一緒に教室に向かう。プールバッグからバスタオルを出して髪と肩の水気を押さえるように吸わせていると、かせんくんは自分のタオルで頭を拭きながら窓際へと歩き外を眺めていた。彼は外の何を見ているのだろう、と私も窓際に寄ってみる。ちらりとかせんくんを盗み見てから視線の先を追うと、私が今日学校に来た理由のひとつである花壇があった。
    「空はこんなに暗いのに、夏の花々はかえって色鮮やかだね。花壇だけが明るいように錯覚してしまいそうだ」
    「そう言われてみるとそうだね。なんだか不思議。こうしてかせんくんとここで花を見てるのも」
    「ん?」
    視界の端でかせんくんがこちらを見ている。窓に向けていた目をゆっくりと横に向けると、かせんくんはなにやら物問いたげな顔をしていた。
    「いやほら、男子ってこのくらいの年になると花がきれいとかあまり言わないじゃない。私の勝手な偏見なんだけど、特に運動部の人って花が咲いててもふーん咲いてるねって感じで興味ないんだと思ってた」
    「……竹刀を握る同じ手で花を愛でるのは、おかしなことかい?」
    かせんくんの眉間に皺が寄る。
    「ううん、ちょっと安心した。覚えてる? 小学校の頃一緒に美化委員やったの。真面目に草むしりした後の花壇にいっぱい花が咲いて、『きみの雅が花を咲かせたんだ』ってかせんくんが言ってくれたんだ。かせんくんのおかげで私、庭いじりとか花の世話とか好きになれたんだよ」
    「ああ、よく覚えているよ」
    眉間の皺を消したかせんくんは懐かしむように目を細めた。
    「ならば君も覚えているかい? 僕が僕であることが雅だ、と言ったのを。まるごとの僕を受け入れられた喜びを、一日たりとも忘れたことなどなかったよ」
    ゆっくりとかせんくんが近づいてくる。そう広くもない教室の中で彼との距離はあっという間に縮まった。どくりと胸が跳ねて顔が熱くなる。
    「君といると、僕はあの頃の人見知りで頑固だった子供に戻ってしまうようだ。入学式の日にここで君に再会できて、どれほど胸が高鳴ったことか」
    気恥ずかしさに頭からかぶっていたバスタオルで顔を隠そうとしたけれど、両手首に回る温かさと共にそれは阻まれた。かせんくんが手首ごと私を捉えながら覗き込むように視線を合わせてきて、彼しか見えなくなる。
    「いつだって君を目で追わずにいられない。……あの日からずっと君が好きだ」
    君は、と少しかすれた声の問いに上擦った声で私も、と紡いだ唇は途中で塞がれた。未だ湿る制服越しにかせんくんの体温が伝わる。もう終わるとはいえ夏で冷房も入っていない教室の中、雨に冷やされたことを感じさせないほどの熱を心地いいと思えるのは彼からもたらされたからなのか。
    「やっとこうして君に触れられた。どれだけこの日を待っていたか」
    唇を離したかせんくんの言葉に、ふと小学校卒業前にもらった色紙を思い出す。
    「今までが今日のための長い旅だったのかなあ」
    唐突な私の言葉にもかせんくんは一瞬目を丸くしただけですぐに微笑みを向けた。
    「ふふ、もしそうなのだとしたら、僕にとってはこれはこれで楽しい旅だったよ。でも願わくば、これからの旅路では同じ景色を一緒に見たいものだね」
    激しい雷雨の中も色鮮やかな花のように、薄暗い教室の中で彼だけが輝いて見える。かせんくんのとろけるほど甘い甘い笑顔が再び近づいてくる。彼の瞳に私は今どう映っているのだろうか、確認するよりも先に彼の唇がまた、私に触れた。

    君に降る雨が驟雨であるものか
     高校の入学式前、これから一年間多くの時間を過ごす教室で顔見知りを見かけ、談笑していた僕に視線の矢がぶつかる。刺さる、というほどの敵意はなくむしろ何かを確かめるような。視線の先にいたのは見覚えのある、けれど僕の知らない月日を過ごしただろう女子だった。
    「君」
     他の女子と座る席に近づき呼びかけると彼女はひっと小さい声を上げて身を縮めた。
    「ごっごめんなさいじろじろ見ちゃって、あの、知ってる人に似てるなあって思ってその」
     なんだ初日から逆ナンか、なんてからかってきた顔見知りへ一瞥をくれる。やつの顔が引きつっていたがそんなことはどうでもいい。僕は彼女へと視線を戻した。
    「知ってる人に似てるも何も、君は僕の知ってる人だろう」
     名前を呼ぶと彼女が目を瞠った。
    「歌川、之定くん?」
    「かせん、でいいよ。もうこの呼び名に慣れてしまっていてね、初対面ならまだしも知らない仲でもない相手ならそう呼ばれる方が楽だ」
     そうだろう、僕の初恋の君。

     小学三年生の春、僕はそれまで住んでいた都市を離れて祖父母の住む鄙びた街へやってきた。年明けに母が早逝し、激務と子育てを両立するのは不可能だと悟った父により祖父母へ預けられたのだ。僕が手元に来ることを祖父母は大いに喜んだし、僕も彼等を嫌いではなかったけれど、環境の変化はまだ幼かった僕を混乱させるに足るものだった。
    「うたがわ、ゆきさだ、です。よろしくおねがいします」
     祖母が用意してくれた一張羅ともいうべき服はパリッとアイロンのかかった白いカッターシャツと布帛のベスト、そしてわたりと腿周りがやや太めに出来ているハーフ丈のスクールズボンだった。後から同級生に聞くと、最初は男女どちらなのか区別がつかなかったそうで、当時男女数が同じだった教室の中で僕の名乗りを聞いて男子が喜びに沸いた理由がわからなかった僕はさぞかし不得要領な顔をしていたことだろう。喜びに沸いた理由というのが男女で意見が分かれた時に多数決で有利になりやすいと思ったからだという。意見に男女の違いがあるものか、自分でいいと思った方に賛同すればいいじゃないかと思っていた僕は、程なくしてその悶着に巻き込まれた。球技大会のスローガンを決めるのに男女で意見が分かれ、僕が女子の意見に賛同したことで男子側を仕切っていたガキ大将から喧嘩を売られたのだった。

    「あの時も言ってたよね、ほら球技大会の前に」
     彼女の存在を意識したのはそれから三年の時を経てからだ。

     小学六年生に進級した僕は委員の割り振りを決める日にたまたま体調を崩し、残っていた美化委員へと不本意ながら就任した。一緒になったのはたまたまずっと同じクラスだった目立たない女子で、今まではずっと同じ委員になった男子から仕事を押し付けられていたのだと花壇の草をむしりながら言った。
    「だからまた仕事押し付けられたらやだなあって思ってたけど、かせんくんはそんなことなくてよかったよ」
     かせん、というのは僕についたあだ名だ。一時期それぞれの名字や名前の音読み訓読みを逆転させることが学年の中で流行り、僕の歌川という名字からかせんという呼び名が流行を過ぎてからも残ったのだ。
    「確かにぼくが好きでこの委員会を選んだわけではないからね。みんながあまりやりたくない仕事をその日休んでいたぼくに割り振ったことくらいわかっているさ。だとしてもきみだけに仕事を押し付けて高みの見物というのは雅ではない」
    「雅ねえ。よくわかんないけどあの時も言ってたよね、ほら球技大会の前に」
     僕も自分の手元の草をむしっていたら彼女から突然三年前の喧嘩のことを言われて面食らった。ガキ大将からなぜ自分たちの意見に賛成しなかったのかと喧嘩を売られ、お互いボロボロになるまで取っ組み合いを繰り広げて保護者を呼び出される事態になったのだった。職人だった彼の父は現場からすっ飛んできて担任とうちの祖母とに頭を下げたのち彼の頭をひっぱたき、僕達に握手をさせて嵐のように去っていった。
    「よく覚えていたね」
    「今思い出したの。あんまり聞いたことない言葉だったから」
    「雅や風流がどういうものか、口で説明するのはなかなか難しいものだね」
     雅とか風流とか、祖父が口癖のように言う言葉の受け売りのようなものだ。
    「うちの祖父が言うには日々くらしていく中での時のうつろいや季節のうつりかわりの中に見つけるものだそうだけれど、そうだね、自分の誇りを大切にしながら毎日ていねいに生きていくことも僕の中では雅であることだと思う」
     今にして思えば祖父にしてやられていたところはあったのだろう。家で書道教室を開いたり剣道教室に指導者側で招かれたりと、「先生」と呼ばれる人ではあったものの子育てにはあまり向いていない人だ、とは祖母の弁だ。反抗期に差し掛かる年頃で親元を離れ環境が変わった幼い僕をなんとかしつけようとして、自分の物差しにぐっと引き寄せた言葉を使っていたのだ。
     しかし彼女はそんな僕の話を感心したように聞いてくれた。
    「ふうん、かせんくんは頭いいんだねえ。じゃあかせんくんがかせんくんでいること自体がきっと雅なんだよ」    
     雷に打たれたような衝撃だった。喧嘩をしたガキ大将とはあれから互いの家庭環境の共通点を見出して仲良くなったし、他の男子ともそれなりにうまく付き合えるようになったと思っていた。とはいえ小学生男子に雅とか風流とか言っても響くことはなく、またかせんがなんか言ってらぁ、くらいにしか受け止められてこなかった。
     同級生で初めて、彼女が僕の雅を正面から受け入れてくれた。
    「私の雅ってなんだろう。なーんて、私じゃいつまでもみつからないかな」
     爪の先に黒い土が入り込むのも構わずに草をむしる彼女が急に輝いて見えた。こんなにまぶしい彼女の雅が見つからないなんて、そんな話があるものか。
    「そんなことはないさ。ぼくにはぼくの、きみにはきみの雅があるはずだ。今は見えなくても、見つけようとすることが大事なんだ」
     そこの二人そろそろおしゃべりやめろよ、と担当の先生から注意をされた後は二人で黙々と時間が終わるまで草をむしった。むしった草を校庭の片隅に掘られた草捨て専用の穴に猫車で運んだ後、外の水道で手を洗いながら彼女がぽつりと言った。
    「私に見つかるかなあ、雅」
    「見つかるさ、きっと」
    「そうかなあ」
     えへへ、とはにかむ彼女はそれだけで雅だと思ったのだけれど、なぜだかそれを口にするのはその時の僕には憚られた。
     梅雨が明け、僕達が世話をした花壇は夏の花でいっぱいになった。
     サルビア、ベゴニア、ホウセンカ、マリーゴールドにオシロイバナ。鮮やかな色彩が空に向かい誇らしげに背筋を伸ばしていた。
    「風流だねえ、とてもきれいに咲いた」
    「これが風流、なるほど勉強になる」
     その日の、いやその時の僕は妙に饒舌だった。正確には先生方や他の美化委員の手もかかってはいたのだけれど、僕と彼女が手掛けたものが文字通り花開いたことが嬉しくて仕方がなかったのだ。
    「どうだい、ぼくたちが世話をしてきた花壇がこんなにきれいな花を咲かせたよ。きみの雅が花を咲かせたんだ」
     花を背にした僕は誇らしい気持ちでいっぱいだった。彼女の表情は夏の暑さのせいか上気していたけれど、もし僕と同じ喜びを分かち合えていたのだったらと考えただけで十二歳の夏、僕は幸せだった。

    「お前さあ、あいつのこと好きなんじゃん?」
     かつて取っ組み合いをした彼とはそんな話もするようになった。彼が好きな相手は知っている、というより向こうが打ち明けてきた。僕達が喧嘩をする原因となった球技大会のスローガンで対立意見を出していた女子側の代表に立った元クラス委員だった。
    「ああ、まあ、そうとも言えるんだろうね。クラスの中では美化委員の仕事でよく話すわけだし」
    「またそうやってごまかしてさあ、オレそういうの嫌いだなあ。もっと素直になれよ」
    「素直になれと言われても」
     当時の僕はそう思っていた。彼の言っている好きは、恋とか付き合うとかいうもので、僕が彼女に向けているのは雅な存在に対する気持ちだから違うのだと。
    「まああいつとつきあいてえとか言ってるやつ聞いたことないけどさあ」
     僕が軽く睨んだら彼は口ごもった。なんか周囲がみんなつきあってるから自分も告白してみよう、なんて軽い気持ちで彼女に手を出そうとするやつがいたなら許せない。それでも胸に宿した熱が恋だなんて、と。
    「何があるかわかんねえんだし、好きならさっさと言っちゃえば」
     彼の言葉を素直に受け入れていればよかった、と後悔したのは中学に入学
    してからだった。そこに彼女の姿はなかった。家庭の都合で引っ越していったからだった。
     そのことを知ったのは卒業式を控えた三月。教室で担任に手招きされ、教卓の隣で彼女はうつむいていた。家の事情で県庁所在地にある彼女の祖父母宅から通える中学に行くのだと担任から説明された。
    「明日色紙持ってくるから、みんなで寄せ書きしてあげてね」
     その日どうやって家に帰ったか覚えがない。食事もそこそこにぼんやりしていたら祖父がぽつりと言った。
    「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」
     時間というのは永遠の旅人のようなもの、時間が流れるのも人が旅をするようなものだ、と昔の俳人が筆に残したらしい。祖父に彼女への気持ちなど言ったことはなかったけれど、なぜだかひとつ、答えをもらったような気がした。
     翌日担任が買ってきた色紙にクラスメイトが思い思いの言葉を彼女に贈る。回ってきた色紙に僕はこう書き記した。
    『どうぞ、楽しい旅を。歌川之定』
    「よかったのかよ、あれ」
     友人に訊かれたけれど僕は頷いた。僕の雅を受け入れてくれた彼女へ、十二歳の僕が贈れるありったけの雅をあの言葉に込めたのだ。彼女がこれから過ごす時間が楽しいものになるといい、ただそれだけを願った。

     中学では剣道部に入った。顧問は祖父の教え子で、地区の中でも力のある人だった。
    「お前の力なら県大会、いや全国まで行けるぞ」
     顧問の言う通り僕は負け知らずだった。元々祖父から教えを受けていたのもあって未経験者の多かった同級生からは我ながら頭一つ抜き出ていた自覚はあったし、先輩であっても負ける気は全くしなかった。中学生までは突きが禁止されているとはいえ、多くの相手は僕から見たら隙だらけだったし力任せに打ち込んだとしても勝てる相手の方が多かった。
    「次は絶対勝つ!」
     隣の地区の選手で何度も僕にそう言ってきたのがいたけれど、結局彼は僕に黒星を一つもつけることができなかった。彼が弱い選手だったわけでは決してない。彼は他の選手に比べたら比較的隙の少ない相手だった。それでも僕は彼にも勝ち続けた。
     だからと言って驕る気にはならなかった。祖父が教える剣道教室には警察関係者も多く、いわば本職の気迫は中学生の比ではない。痺れるような小手、内臓が揺らされるような胴、一瞬の間隙を縫って打たれた面。まだまだ僕は強くなりたかった。

    「お、来たな三十六歌仙」
     推薦入学の面接の場で、県大会の役員席や剣道教室に時々訪れていた顔が僕を見てニヤリと笑った。県の剣道連盟の偉い人だと顧問からは聞いていた。
    「県大会個人戦では三連覇の君に言うのもなんだけど、うちの剣道部は強いんだ。部内で勝ち続けるのは難しいかもしれないけど、それでもうちでやってくか?」
    「よろしくお願いします」
    「まあ成績もいいしここまでの受け答えも俺としては花丸付けたいけど俺だけが決めることじゃないからなあ」
     平机で書類を揃えながら、連盟の偉い人である面接担当の先生が言った。
    「どういう結果になったとしても、君の人生はまだ始まったばかりだ。もし雨が降っても地面は固まるしそこから芽吹き花咲くこともある。一日一日、大切に生きてください」
    「ありがとうございます」
     深く深く頭を下げた。しばらく経ってもたらされた合格通知により、春からの学舎は県庁所在地にある高校に決まった。
     あの子に逢えるだろうか。僕の雅を受け止めて認めてくれた、あの日同じ花を育てたあの子に。
     たかが三年、大人はそう言うかもしれない。けれど僕がこの街に来てから三年、彼女を意識することはなかった。中学に通う三年、彼女のいない時間を過ごした。同じ三年間でも、全く意味が異なる三年間だ。あの日咲かせた夏の花のように、僕は君の輝く笑顔をもう一度見たいと願い続けた。そして君にまた出会えた。

     僕は予定通り剣道部に入部し、毎日練習に汗を流していた。彼女が園芸部に入ったと聞いて驚いた。
    「あんな肉体労働だったなんて聞いてないよ……」
     入部したての彼女がクラスメイトに愚痴をこぼしているのを小耳にはさんだ。
    「えー園芸部って花壇に水やって草むしり以外にあんの?」
    「年中行事に植え替えってのがあってね、いやあこれがきつかった。しかもこれから人数減ってくんだって」
    「やめちゃうから?」
    「いや、掛け持ちしてる体育会系が大会に専念するからうちに来なくなるんだって」
     それでも週二回だからいいんだけどさ、と笑う彼女はあの頃のようだ。確かにあの日からは少し背が伸びたようだけれど僕の肩くらいまでだし、多少目鼻立ちがすっきりはしたけれど面影はまだまだ残っている。
     夏が近づくと彼女は部活の水やり当番があると昼休みに教室から時々出ていくことがあった。
    「この暑いのにがんばるよねえ」
     彼女と仲良くしている女子が既に消えた背中の方角へ労わりの視線を向けた。
    「そういやなんであいつ園芸部なの? 中学ん時バレー部じゃなかったっけ」
    「あんまり身長伸びなかったからもういいやって言ってた。あと家でおばあちゃんの介護があるから交替でやってんだって」
    「へー。かせん知ってた?」
     彼女のあずかり知らぬところで飛び交う個人情報に眉をひそめていると突然自分に水を向けられ面食らった。
    「いや、よその家庭の事情まで深入りするほどでは」
    「えーマジで? 『知らない仲ではない』んじゃないの?」
    「そこは文字通りだよ。転校して丸四年間同じクラスだった、それ以上でも以下でもないよ」
     少なくとも彼女にとっては、という言葉は胸のうちに呑み込んだ。僕の育てた想いを開陳する相手は彼等ではない。
    「へえ、そういやかせん知ってる?」
     かつての対戦相手の名前に頷くと、彼女と仲のいいグループの一人が元彼女だという。
    「もう別れてんだからあいつのことはいいじゃん。ところで『かせん』って昔の刀の名前からついたあだ名って本当?」
    「半分本当、といったところかな」
     元は子供の頃の他愛無い遊びで、刀の方は剣道部顧問が呼んだ後付けだと真実を告げるとクラスメイトはなあんだとつまらなさそうな顔で別の話題へ移っていった。
     彼女が戻ってくるまであと十五分。たったそれだけの時間が恋しい。
     ある日僕は剣道部の先輩に呼び出され教室を離れた。夏大会前の練習時間はめいっぱい使いたいとミーティングが昼休みに行われることになったのだ。夏の剣道場は昼休みだというのに珍しく冷房がついていた。おそらく次に別の学年が体育の授業で使うのだろう。これ幸いと快適な環境で順調に話は進んだが、外へ出れば校舎までの渡り廊下はさながら灼熱の趣きだ。
    「くそ、もうスポドリ飲んじまったよ……少し残しとけばよかった」
    「残ってても歩きながら飲んでたら生活指導で呼び出しだぞ」
     先輩方がげんなりする様子から目を逸らすと校庭の花壇で水を撒いている彼女がいた。ちょうど水当番の日だったのだろう。
    「お、何見てんだ」
    「同じクラスの女子が園芸部で水撒いてて」
    「へーえ、そうなんだ……おーい園芸部ー、こっちにも雨降らしてー!」
     ぎょっとして先輩を見たら他の先輩も便乗しておーいと彼女に手を振っている。彼女はぺこりと頭を下げると手にしていたホースをこちらに向けた。散水ノズルを先に付けたホースが彼女の方から渡り廊下の手前までににわか雨を降らせた。最初は熱気が、やや遅れて気化熱効果で外気より涼しくなった空気が渡り廊下にも進入してくる。微笑む彼女と僕の間に虹ができる。
    「おーすげー、虹だー!」
     先輩達の快哉よりも小さな虹越しに見える彼女のことばかりが頭を占める。
    「風流だねえ」
     ふと呟いた声はきっと彼女に届かない。それでもいいと思った。彼女が降らせたにわか雨は僕を濡らすことなく再び花壇へと注がれる。先輩の後へ続いて校舎に入る頃には昼休みが終わるまであと十分になっていた。教室に戻ってもまだ彼女はいない。五限の準備に手を動かしながら頭では彼女のことを考えて
    いた。
     いつか止むにわか雨と消えない彼女への想い、夏の空、鮮やかな花、彼女の笑顔。
     バタバタと教室に入ってきた彼女の姿に思考が途切れた。自席に戻る前に彼女が僕の目の前で立ち止まる。
    「ねえ、さっき渡り廊下でなんて言ってたの」
     見上げた彼女は走ってきたせいか息が上がり顔が紅潮している。なんて顔をしているんだ。瞬時に駆け巡った衝動を押し殺して返事をしようと口を開いたが、直後に予鈴が鳴り担当教師の足音が聞こえてきた。
    「早く早く!」
     クラスメイトに促されて席に着く彼女を見送ることもできなかった。教室も空調が効いていて渡り廊下よりよほど涼しいのに、駆け巡った熱を押し殺しながらいっそ雨に打たれてしまいたいと思った。

     夏休み。
     夏の大会は個人戦ではいい成績を残せたが団体戦では涙を飲んだ。個人戦で全国大会に出た後は県の強化選手に選出され、他県で合宿に参加した。全国大会で当たった選手もそうでない選手もなかなかに手強く、つい力任せになってしまいがちな欠点も指摘されて有意義な空間だった。

     日々は巡り、僕は強くなれたのだろうか。君を知らずにいた九歳には戻れない。君を意識し始めた十二歳の夏にも、ただ君の幸せだけを願った旅立ちの日にも戻れない。
     彼女に会いたい。残り一か月もない夏休みを越えれば会えるのはわかっているのに、無性に彼女に会いたかった。会ってどうするなんて決めてもいないしわからないけれど、十六歳の夏、ただ君に会いたい。

     夏休みも終わりに近づいたその日の練習は午後からだったけれど、課題に必要な本を図書館で借りようと思って朝から学校へ向かう電車に揺られて、車窓から真夏の抜けるような青空を眺めた。三十五分限定のオアシスを離れて改札を出たところで呼ぶ声がする。
    「かせんくん!」
     こんな僥倖があるのか。電車から降りた彼女が改札へと走ってくる。
    「おはよう。今から部活?」
    「いや、午後からなんだ。図書館で本を借りがてら少々調べ物をしたくてね。君は?」
    「水当番だよ。ついでだから終わったらプール入ってくるんだ」
     肩にかけたクリアブルーのビニールバッグの中にバスタオルと別の巾着袋が入っている。おそらく中身は水着なのだろう、と思い至った瞬間いつか授業で見たプールサイドの彼女が思い出されて脳から振り払うため必死で他愛無い世間話を続けた。彼女が昨日見たテレビの話や宿題の進捗、元ガキ大将がついに夏祭りで元クラス委員の女子に告白して付き合うことになった話などとりとめもなく話して校門まであと十数メートルといった間合いでぽつぽつと顔に雨粒が当たった。
    「うっそ、雨?」
     走ろう、と駆け出したものの一歩ごとに雨粒は大きくなり一気に翳った空から落ちる雨は本降りとなった。「どうにか濡れ鼠とまではいかずに済んだね」
     まあほとんど同じようなものだ。癖が強い僕の髪が雨に濡れて目の下までかかってくる。
    「いやあプールの用意してきてよかったよ、バスタオルで水気取れるから。とりあえず私、教室行くね?」
    「いや、僕も行こう。濡れたままで図書館に行くのは本に良くないからね」
     上履きを履いて手を振る彼女と別れがたくて、そんな方便をでっち上げた。誰もいない教室で彼女はバスタオルを取り出して頭と肩を覆うように被った。僕も自分のバッグから部活用のスポーツタオルを取り出して髪の湿気を取りながら窓際に向かった。通り雨で終わる様子もなく、未だ勢い良く降り続ける視界の中にひときわ色鮮やかなものが見えた。彼女が今日水をやるはずだった花壇だ。サルビア、ベゴニア、ホウセンカ。マリーゴールドにオシロイバナ。学校の花壇なんて大体似通ったものが多いけれど、彼女と二人きりの今はどうしても母校の花壇を思い出してしまう。
     いつの間にか彼女も窓際に来て、僕と同じ景色を見ていた。
    「空はこんなに暗いのに、夏の花々はかえって色鮮やかだね。花壇だけが明るいように錯覚してしまいそうだ」
    「そう言われてみるとそうだね。なんだか不思議。こうしてかせんくんとここで花を見てるのも」
    「ん?」
     不思議と言う彼女の意図を汲みかねて彼女を見ると、横顔がゆっくりとこちらに向いた。
    「いやほら、男子ってこのくらいの年になると花がきれいとかあまり言わないじゃない。私の勝手な偏見なんだけど、特に運動部の人って花が咲いててもふーん咲いてるねって感じで興味ないんだと思ってた」
     確かに常日頃から花を美しいと公言することはないかもしれない。だけど彼女が咲かせた花も、今視界の端に遠く揺れる花も、同じように美しいのに。
    「……竹刀を握る同じ手で花を愛でるのは、おかしなことかい?」
    「ううん、ちょっと安心した」
     眉を下げて笑う彼女に僕こそ安堵した。
    「覚えてる? 小学校の頃一緒に美化委員やったの。真面目に草むしりした後の花壇にいっぱい花が咲いて、『きみの雅が花を咲かせたんだ』ってかせんくんが言ってくれたんだ。かせんくんのおかげで私、庭いじりとか花の世話とか好きになれたんだよ」
     この瞬間の僕の心を何に喩えよう。花を愛でる彼女の今が、僕の言葉から
    始まっていただなんて。
    「ああ、よく覚えているよ。ならば君も覚えているかい? 僕が僕であることが雅だ、と言ったのを。まるごとの僕を受け入れられた喜びを、一日たりとも忘れたことなどなかったよ」
     もう止まることなどできない。一歩一歩、彼女との距離を縮めていく。ほらすぐに君は目の前に。
    「君といると、僕はあの頃の人見知りで頑固だった子供に戻ってしまうようだ。入学式の日にここで君に再会できて、どれほど胸が高鳴ったことか」
     彼女が頭からかぶっているバスタオルを握った瞬間にその両手首を捕まえる。顔を隠さないでくれ。面影を追うことしかできなかった日々はもうたくさんだ。今ここにいる君に言う言葉など他にあるものか。
    「いつだって君を目で追わずにいられない。あの日からずっと君が好きだ。……君は?」
     どうか受け入れてくれ、という一心からかすれた声に彼女の唇が、わたしも、と動いたらもうたまらなくなった。彼女の唇を途中で塞ぐ。やわらかな感触を確かめる間にも雨で湿る制服越しに彼女の体温を身体に伝えるように抱きしめる。温度も湿度もすべて分かち合いたい。
    「やっとこうして君に触れられた。どれだけこの日を待っていたか」
     君を知らなかった三年間、君を意識した一年弱、君に会えなかった三年間、そして今。
    「今までが今日のための長い旅だったのかなあ」
     彼女の言葉を一瞬受け止めかねたけれど、あの日の彼女へ贈った色紙に自分が書いたことだと思い出し、覚えてくれていた彼女に対する愛おしさが更に増した。
    「ふふ、もしそうなのだとしたら、僕にとってはこれはこれで楽しい旅だったよ。でも願わくば、これからの旅路では同じ景色を一緒に見たいものだね」
     君を知らなかった三年間、君を意識した一年弱、君に会えなかった三年間、そしてこれからの月日を共に歩めるのなら雨の日だって悪くはない。この想いをにわか雨で終わらせてなるものか。
     窓の外は未だ雷雨。それでもきっと夏の花は色鮮やかに咲きほこっているはずだ。薄暗い教室で、僕の瞳に映る君が輝いて見えるように。
     彼女の瞳に僕しか映らなくなるように近づけた唇が再び、彼女に触れた。
    EstKakouToe Link Message Mute
    2022/07/01 20:16:46

    同級生かせんくん

    #刀剣乱夢 #現パロ #歌さに

    過去発行した同人誌の再録です。Pixivからの移行お試し。

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