そこになければないですね「拙僧の全てを曝け出したというのに何がご不満です?」
「いきなり大男の全裸を見せられた人間の反応としては正しいと思うよ」
再臨素材を全て捧げた挙句、話があると呼び出されてのこのこと立香は赴いた。行ってみれば梁の上にて全裸の蘆屋道満が待ち構えていることなど誰が考えるだろうか。
逃げ出すことなく、彼の話を最後まで聞いただけでも百点満点の対応だったと自負する。その後、マスターも一緒に、などとねっとりとした声色で告げられた。そこで逃げ出したところも生存本能として正しかったと信じている。
この日の夜に、蘆屋道満は再びマスターでもある藤丸立香のご機嫌を窺いに来ていた。
あの行動に対してやり過ぎなどとはつゆとも考えていないらしい。
平安時代、恐るべし。
「マスターがここまで育て上げたのですよ? なればこそ、拙僧もその御心に沿うべく……」
「全裸見たくてやってんじゃないんだよ」
「見たくないのですか?」
「見てどうするんだ」
「ンンンンン、てっきりそういう意味合いかと」
どういうことかと目で尋ねる。道満は意を得たりと目を細め口を開いた。
「ここには英雄、神、魔性、様々な者たちで溢れ返っている中で、何故、拙僧を?」
何故、ここまで付き合ったのだ。
その問いかけに気づいた立香はため息をつきたくなるのを堪えてから、道満を見上げて言葉を紡ぐ。
「お前がしたことは許せない。許せないけど、お前は縁を手繰ってカルデアに来た。そこにどんな理由があるのかは私にも分からない。だってダ・ヴィンチちゃんにも分からないんだもん。大天才でも分からないなら、私に分かるはずもない。でも現にこうして来たのだから面倒を見る。それだけだよ」
「なんとつまらぬ」
興醒めだと言わんばかりの視線を寄越しておきながら、立香の方に手を伸ばしたので軽く叩く。
「お触り禁止だって言われてるでしょ、また怒られるよ」
「過保護な者たちばかりなことで」
わざとらしく手をさすりながら道満は告げた。
かけられる言の葉も、不用意に触れられるのも気をつけたほうが良い。優秀な陰陽師であれば呪をかけるのはいともたやすく、名を掴まれているのならばより警戒しなければならない。
そう言われたのはアルターエゴ、蘆屋道満がカルデアに召喚されてからのことだった。
あの蘆屋道満が異星の使徒の一人、リンボであるのかと話し合いが設けられた。このまま座に戻した方がいいのではという話も出てきたのを立香は聞いていた。
本音はそうしたい。だが、異聞帯を攻略せねばならない立場である。戦力は多いほうがいい。
だから蘆屋道満をこのままカルデアに招き入れることにした。それに、召喚にはマシュの盾を介してやってくる。マシュが持つのは守護の盾だ。
だからこそ、その英霊がカルデアに悪しきを働くとは思えなかった。
「身を蝕むかもしれない存在だよ、いいのかい?」
ダ・ヴィンチちゃんからの言葉に立香は頷いた。
「共に歩むよ。相手が嫌がっても」
一部のサーヴァントからはまだ警戒されてはいるものの、蘆屋道満は少しずつカルデアに馴染み始めた。敵対していたときとは異なり、友好的な態度をとる彼に子供の姿をとるサーヴァントたちから徐々に懐いていったのだ。
道満と言葉を交わす度にふとした瞬間、感じていた違和感が徐々に形を得ていく。繕う表情も、言の葉も、意識すればするほど気づいてしまう。
違和感が確信へと変わった頃、とうとう、道満から全幅の信頼を寄せる言葉を紡がれて立香は言ってしまった。
「嘘はもういいよ」
道満の表情が固まった。それからゆるゆると口角が上がっていく。愉しげに笑ってから全てをぶちまけていた。
キャスター、アルターエゴ・リンボとしての記録を有しているのだと道満は言った。白目が黒に染まり、赤い光が瞳に宿る。禍々しい表情とは裏腹に、声は艷やかなものであった。甘い蜜のようだとさえ思えたくらいだ。
なるほど、たしかにこれは厄介なサーヴァントである。座に還すべきだったかもしれないと後悔してももう遅い。
地獄まで共にさせてもらいたいと告げた道満に対し、立香は本音だと気づいてしまったのだから。
偽る必要がないと判断した道満はより一層、立香の元へと通うようになった。気が楽なのだろう。たまにベッドの中に潜り込むこともあるので、そこは容赦なく叩き出している。
「我が主、よろしければこちらをどうぞ」
ある日、唐突に渡されたのは道満がいつも使役している式神だった。ちょうど休もうとしていた頃、急に部屋へと道満が訪れたのだった。
式神は立香の手元にひらりと舞い落ち、一つしかない目を瞬きさせていた。
「どうしたの、急に」
「それが拙僧にも上手く言えぬのですが、渡しておいた方がいいと思うたのです。名前をつけても構いませぬ、そうですね……拙僧とマスターの名をとって道香とは如何でしょうか?」
「子供みたいな名付け方してくる……」
「いい子に育つと良いですね」
「わざとだ!?」
しみじみと告げる道満に噛み付いてから素直に式神は受け取った。それでは、と言い残して道満は立ち去っていく。扉が閉まるのを見届けてからベッドの方へと寝転がった。
サーヴァントたちの勘を立香は大事にしている。近い内に、きっと何かがあるのだろう。
手の中にいる式神はもじもじと照れくさそうにしている。目が合う度に両手部分らしき紙の部分を丸めていた。
微笑ましい姿に指先でそうっと頭を撫でる。
「これくらい、道満にも可愛げがあるといいのにね」
『拙僧はいつでも可愛らしいですが』
「ぎゃああ!?」
思わず手を離すと式神はひとりでに浮かび上がり、怒りを体現するかの如くぶんぶんと左右に動いていた。こちらはいきなり道満の声が発せられて怯えている最中だ。心臓に悪い。
『ンンンンン、マスター。我が主よ、拙僧の式神ですから感覚を有しているのは当然のこと。そのように怯えずとも』
「聞いてないから! おしゃべり機能をオフとかできない?」
『失礼ですぞ、我が主。拙僧の声の何が不満ですか』
「不満はないけれども!」
『そうでしょうとも、そうでしょうとも。さ、そろそろ休んだ方がよろしいかと。差し出がましくなければ子守唄など一つ』
「あ、結構です」
『悪夢を見そうだと評判ですぞ』
「不評じゃん」
誰に聞かせたんだ、誰に。
色々と言いたいことを飲み込み、明かりを消してぎゅうと瞼を閉じる。ぺたりと式神が立香の頭に張り付いた感覚がしたが、気にしてたまるかと半ばヤケクソになりながら目を開けぬようにした。
それから程なくして眠気が訪れる。
立香はゆっくり、ゆっくりと微睡みに意識を預けていった。
◆ ◆ ◆
都ほどではないけれど、ここにも物の怪は現れる。舗装されていない夜道を一歩、また一歩と歩いていた。明かりには羽蟲がたかり、自ら火の中へと飛び込んでいく。じゅっと燃えて落ちていく音を聞いていた。
相対していた物の怪がくわんくわんと叫ぶ。耳障りだと空いている片方の手で式神を放ってやればすぐに物の怪たちは事切れ、土に還ることなく空気に溶ける。これでようやっと静かになった。
この地へ追いやられてから、今のようなことばかりしている。人との関わりも避け、この地にて物の怪を祓う。流刑と同時に課せられた仕事だ。なにせ、それ以外することもない。
嫌悪とも憎悪とも、はたまた別の感情を注いでいた男の姿を見ることももう叶わぬ。それでいいと思えた。自分ができることは全てした、その結果は今の状況なのだから。全てを都に置いてきたのだ。全て。
心穏やかな日々を送ると思っていた。この感情は凪いだと呼ぶべきなのか、それとも虚が出来たと言うべきなのか。
一歩。
また一歩。
近づく度にあてがわれた屋敷が見えている。都で住んでいたところより小さいものだが、それでもこの辺りでは大きい屋敷になるだろう。手配された人間はほんの一握りのもので、門番などいるはずもない。
だが、今日に限っては違っていた。
門に誰かがいる。ここでどこぞの誰かが事切れたのかと思いながら一歩、更に歩みを進めた。
明かりを近づける。黒い人影が確かな輪郭を象っていく。そこに女が横たわっていた。不可思議な格好をした女が、すやすやと寝息を立てている。
鬼だろうか。否、鬼ではない。しかし、この地の人間でもないだろう。
これはなんだろうか。
久方ぶりに、人の形をしたものへと興味を抱いた。くたりとした体を抱えあげる。
起きる様子は未だに見られない。
「誰かの式神でもなさそうだ」
異なことが起きたものだ。
ほくそ笑んで屋敷の中に入っていく。明かりを消し、月の光だけを頼りに進んでいた。
◆ ◆ ◆
眩しい光を感じていた。まるで太陽の光を浴びているような眩しさだ。室内にいるはずの身で、このようなことはあり得ない。
眠気を追い払うようにして瞼を開けた。何度か瞬きを繰り返し、ようやく辺りの状況を把握する。窓のように開けられている壁の間から太陽の光が射し込んでいる。床の上に畳が敷かれ、薄い敷物の上に立香は寝ていたようだ。この寝具は平安京で見たことがある。まだ記憶にも新しい。寝ているときにレイシフトでもしてしまったのかと考え込んでいると足音が聞こえてくる。音は徐々に大きくなっていき、誰かが近づいてくるようだった。
令呪のある手をそっと押さえる。通信は繋がらず、他のサーヴァントがいる気配もない。
緊張で徐々に鼓動が早くなっていく。
足音がぴたりと止まった。蔀の外から聞き覚えのある声がかけられる。
「失礼、お目覚めですか?」
「はい、起きてます」
蔀が開かれ、姿を現したのは蘆屋道満だった。見知った顔ではあったが、普段、見ている姿より歳を重ねたものとなっている。初老に差し掛かりそうな風貌であり、笑うと皺が刻まれていた。
「道満……?」
「儂の名をご存知で。ふむ、つまり、お主はわざと門の前で寝ておったということかな?」
「門の前で!? 流石にそこまで寝相は悪くないと……」
レイシフト先、まさかの門の前だったのか。
道満を改めて見上げる。笑う顔に覇気がなく、諦念を滲ませる雰囲気が漂っている。立香の知る蘆屋道満とは大違いだ。渦巻く狂気をその身に宿すことなく、落ち着き払っているように見える。
齢を経ているためかもしれないが、これはもしかしてキャスターとなり得たはずの蘆屋道満なのだろうか。
まじまじと見つめていると、道満はふっと小さく笑った。
「これ以上見つめられますと穴が空いてしまいそうですな」
「不躾でした、ごめんなさい。確かにお名前は知っているんですけど、よく似た別人と言いますか、なんというか……」
どう説明したらいいものか。言い淀む立香を道満は片手で制した。
「いえいえ、あなたがどこの誰かなどとは聞きませぬ。その身なりからしてこの地の者でないのは確か。異邦から来た客人よ、それでも儂はお主に興味を抱いた」
目を細めて立香を見下ろしていた道満が膝を折った。目線を合わせ、心地よい低音が耳朶を打つ。
「お主の話を聞かせてはくれまいか、ここにいる間だけでも」
まるで別人だ。立香の知る蘆屋道満は、決して藤丸立香に興味など抱かなかった。あの男の胸中を占めるのはたった一人、安倍晴明だけである。マスターであるからこそ、蘆屋道満は藤丸立香を気にしていただけに過ぎない。
ここがどういう異常を抱えた場所なのかはまだはっきりしていない。いつものように解決するのならば探索も必要になるだろう。更にこの場所を拠点として動けるのならこれ以上の魅力には抗えない。
「私が話せることなら」
立香の言葉を聞いて道満は手を差し伸べた。それを取るべきか迷った挙げ句、恐る恐る手を重ねると道満は軽々と立香を立たせてしまった。
「まずは朝餉を。それくらいの蓄えは儂にもありますよ」
「ありがとうございます、道満……さん」
「道満で結構。お主はそう、呼んでいたのでしょう?」
「確かにそうなんですが、でも」
「ならば儂のこともそう呼んでくだされ。そのように気安く呼ぶ者は、もう周りにいない故」
どういうことかと詳しく聞こうとしたが、先に道満の方から話の続きを紡がれる。
「都に全て置いてきたのです、ここにいる儂は残滓と呼ぶにふさわしい」
「では、ここは」
「ここは播磨国、儂が最期を過ごす場所となりました」
蘆屋道満が都を追われた後にレイシフトされたのか。
立香の手を引きながら道満は歩いていく。先程の言葉に悲しみはない。淡々と、ただ事実のみを語っている。悔しさも悲しみもどこかに置き忘れてしまったような人間になっていた。
立香の話を聞くのは日が出ている頃に、夜になれば物の怪が出るということで道満は退治するため毎夜出かけていた。
日の出ている内に情報収集をしたかったのだが、何故か現地の人に立香のことは見えないらしい。話しかけても返事すらしてくれず、おかしいと思っていたがそもそも見えていないとは当初、気づきもしなかった。普段のレイシフトならばあり得ない。立香の立てた足音は聞こえる、物音も聞こえるようだが姿は見えず声も聞こえぬらしい。
道満はそういうこともあろうと自然と受け入れていた。周囲に説明する手間が省けたと思っているのかもしれない。
そのため、立香は早々にやれることをなくしてしまった。令呪は相変わらず刻みこまれているのでパスは繋がっているのだろう。だが、一週間過ぎてもカルデアと連絡が取れることはなかった。
今日も日課である道満の元へ訪れる。立香の話を道満は楽しげに耳を傾けていた。源氏物語とはまた違った魅力があるらしい。自分がこれまでしてきた旅がそう評されるのはくすぐったい気分にさせられる。
こんこんと二回、蔀を叩く。失礼しますと声をかけて入ろうとしたところ、「待て」と告げられた。
「どうかしましたか?」
「日が悪い、明日にしてくだされ」
珍しく、陰陽師らしいことを言うものだ。方忌みだろうか。そのまま踵を返そうとしたが、今朝から一度も道満の顔を見ていないことに気がついた。なんとなく、嫌な予感がして無理やり蔀を開けて中へ押し入る。
道満は怪我をしたらしい。彼の周りには水が入った桶と布、薬のようなものが床にあちこち散らばっている。包帯のように腕に巻いていた布はぐちゃぐちゃとなっていた。
どうやら誰にも言わず、一人でやろうとしていたようだ。
「そういうのは、駄目です」
「……そういうものだろうか」
「そうですよ」
傷が痛むのか脂汗が滲んでいる。呼吸も普段に比べれば荒い。頬も上気しているので、傷のせいで熱も出ているようようだ。
乱雑に巻かれた包帯をゆっくりと剥がしていくと腕には酷い傷が出来ていた。鋭い刃物で切り裂かれたような傷跡だ。幸いにも血は止まっていることに安堵の息をつく。立香は薬を塗り直し、包帯で巻き直していった。
しっかりと巻かれた包帯に道満がぽつりと言葉を漏らす。
「うまいものですな」
「そんな旅をしてきたので」
立香の言葉に道満は初めてなんとも言えぬ顔をした。憐れむような、悲しむような、そんな表情を見て立香は笑う。
なんだ、まだ、そんな顔ができるんじゃないか。
愛想笑いばかりだったから、楽しいと告げられても世辞だとばかり思っていた。しかしまだ、人間らしい部分が道満には残っている。
何が残滓なものか。残滓になど、させてやるものか。
「きちんと体を休めて下さい。今日は戻ります」
散らばった薬を元に戻し、立ち去ろうとしたところで道満は立香の指を掴んだ。反射的に掴んでしまったようで、当の本人も目を丸くしている。何故、このようなことをしたのか自分でも理解していないようだ。
立香は再び座り込み、道満の手を握り返す。
「眠れるまでこうしてますよ、弱っているときは人恋しくなりますし」
「何故」
カルデアにいる道満も同じことを口にした。
何故。
理由もない、誰かから手を差し伸べられることに対して恐れているのだろうか。
それは道満にしか分からない。だが、立香は同じ言葉を口にした。
「面倒を見ると約束したんです、いつかのあなたに」
「儂が……?」
「そう。だから深く考えなくていいですよ、そういうものだと思ってくれれば」
「それは出来ぬ相談というもの。与えられたことに理由を見いだせねば、何故、拙僧めにそのような、こと」
何かを言いかけて、道満はそれきり口にすることはしなかった。代わりに寝息が聞こえてくる。疲労が随分と溜まっていたのだろう。傷を早く治すためにもしっかりと休んでもらった方がいい。
自分の部屋に戻ろうと手を離そうとしたのだが、道満がしっかりと握り込んでいるために離すことも出来なかった。無理やり開かせれば目を開けてしまうことも考えられる。起こしてしまうのは立香の本意ではない。
仕方無しにそのままでいることにした。安らかな寝顔を見ながら、頬にかかってしまった髪をそうっとはらう。
ビーストに至ることのなかった蘆屋道満のことが頭によぎる。あれの中には愛がなかった。他者への愛がないだけでなく、自らへの愛もなかった。だからビーストにはなれぬまま、アルターエゴ・リンボとして朽ちていった。この蘆屋道満も自己愛すらないのだろう。
寂しいいきものだと、ふと、思ってしまうのは傲慢でしかない。
それでも、そう思わずにはいられなかったのだ。
立香が気づいたときには床に寝そべった状態であった。まさか一緒に寝てしまうとは。起きようとすると、やけにいい匂いがしていた。香のような匂いなのだが、どこかで嗅いだことのある匂いだ。
どこだったかなあと考えている間に、頭上から声がかけられる。
「もう少し休んでいてもよろしいかと。夕餉にはまだ時間がありますので」
「ゆうげ」
「ええ、すっかり寝てしまいまして。もう少し寝ておられますか? でしたら、何か持ってきますので」
「どうまん……?」
「こちらに」
不思議なところから声が聞こえてくる。一体どこから、と視線を巡らせてぽかんと口を開けた。
気づけば道満が立香の頭を自らの膝に乗せていた。所謂、膝枕と呼ばれるものである。
「えええええ」
「おや、拙僧の膝枕はお気に召しませんでしたかな?」
「お気に召すも何も寝てなきゃ駄目でしょ!」
相手は怪我人、休んだとはいえ数時間で治るものでもない。慌てて起き上がろうとする立香を制したのは道満その人。
目を細め、指で立香の髪を梳き始める。
「拙僧は今、気分がいいのですよ」
「いや、だからって」
「嫌ですか?」
「調子はいいの? 傷は痛くない? 熱は?」
立て続けに道満の調子を聞くと、虚をつかれたように目を丸くする。それからゆるゆると目を細め、ええ、と短く答えた。多分、先程よりは良いという意味だろう。
道満は再び、楽しげに立香の髪を梳いていく。何がそんなに面白いのかは分からないけれど、結局、立香の方が折れてされるがままになっていた。
翌日も立香は道満の元へと訪れた。旅の話を聞かせるためではない、傷が治るまで手当てをするためだ。部屋に訪れると道満は何かの書物を読んでいたようだが、すぐに視線を立香の方へと移した。
「お待ちしておりました」
ふっと柔らかく笑う道満に立香は目を瞠る。失礼しますと一声かけて中へと足を踏み入れた。
「包帯、替えに来たよ。お水は……あるね、それじゃあ腕、出して」
「脱がせてもらっても構いませんが」
お好きなように、と続けられた道満の言葉に呆れた視線を向ける。それに耐えかねたのか、道満は一つ咳払いをして口を開いた。
「冗談ですよ、その目はおやめくだされ。些か傷つきます」
素直に腕を出し、巻いた包帯を外していく。傷跡は相変わらず酷いもので、水で濡らした布で出来るだけ痛まないように優しく拭っていく。予め用意してもらっておいた清潔な布で拭き、軟膏を塗っていった。それを終えてから新しい包帯で傷口を覆っていく。その間、道満は口を挟むことなく立香の指先を目で追っている。
終わったよ、と声をかければ道満の視線は立香のものと絡まった。
「ありがとうございます、まさかこのようなことになるとは」
「その傷って物の怪?」
「ええ、不覚を取りました。お恥ずかしい」
「今日も行くの?」
「拙僧に残された仕事なれば」
サーヴァントを使役出来たのならば立香も同行したのだが、今のままでは足手まといだ。気遣う視線しか送れない。
道満は衣をなおし、立香の視線を受けて口火を切った。
「では拙僧の帰りでも待っていてくだされ」
「分かった、そうする」
「……冗談ですぞ?」
「本気に取ったから聞かないよ。ゆっくり体、休めてね。それじゃ部屋に戻るよ」
背中にいくつか声がかかったものの、素知らぬ振りをして部屋を出た。道満は普段、立香が寝ている時間に帰ってくる。他に屋敷に住まわせている人間にも悟られぬようひっそりと帰ってくるのだ。
夜中、もう明け方近くになった頃、道満の部屋にて立香が待っていると閉めていた蔀が開いた。信じられないと言いたげな道満の顔を見て、立香は小さく笑う。
「おかえり。怪我、しなかった?」
「戻りました。怪我はしておりませぬ。本当に、待っていたのですか。何故」
「何故って言うの好きだね。昨日も……ううん、一昨日になっちゃうか。面倒を見るっていう約束したから」
それじゃあ戻るね、と告げて道満の脇をすり抜けようとしたが彼によって阻まれた。彼の腕は立香の体を引き寄せ、温もりを求めるように閉じ込める。道満からは血と土の匂いがした。
労うようにぽんぽんと背中を軽く叩く。
「一人で寝るには寒いのですよ」
「分かった」
「……! では」
「私の部屋から何枚か毛布とってくるね、待ってて!」
「何も分かっておりませんね」
道満は渋々といったかたちで手を離した。立香は部屋から出て蔀を閉める前に声をかける。
「おやすみ、道満」
「おやすみなさいませ」
とん、と音を立てて蔀を閉める。立香はまっすぐにあてがわれた部屋へと戻っていった。
屋敷はもう、鮮やかな陽の光が辺りを照らし始めていたところだった。
何日も道満の部屋へと通い続け、ようやく傷口も目立たなくなってきた頃。珍しく、道満の方から外へ出ないかと誘われた。夜中ではなく、まだ日も出ている時間帯である。
道満は外へ出ることを滅多にしなかった。家の者が家事をこなしてくれているからだろうが、立香の話を聞き、部屋に閉じこもるばかりの生活だったのでこれには驚いた。
「そこまで驚かずとも」
「驚くよ! 行こう、色々と見てみたかったんだ」
「では、こちらに」
手を差し出されたが、立香は首を左右に振った。
「ちゃんと一人で歩けるよ。ねえ道満、早速行こうよ」
「ええ、参りましょうか」
道満の案内のもと、屋敷の外を見て回る。周りは山で囲まれており少し歩けば村人たちの住まいがいくつか見えてきた。その頃には田園風景が広がっていき、流れる小川は透き通るほど綺麗だ。時折魚が泳いでいるのかパシャンと水音を立てていた。
小高い丘のような場所まで案内される。そこでは村の様子が一望できた。京の都に比べれば長閑な風景ではあるが、これも魅力の一つであると立香は思っていた。
屋敷から随分と歩いたため、息があがっている立香とは異なり道満はけろりとした顔をしていた。もう歩き慣れた道なのだろう。
へたりと座り込む立香に竹筒を道満は渡した。
「水が入っております、これで喉を潤してくだされ」
「ありがとう、道満」
有り難く中のものを飲んでいく。ただの水であるはずなのに、甘露のようにずっと甘く感じる。長い間、屋敷にいたせいで運動不足が祟っていたのは明らかだった。
カルデアと連絡がとれなくなり、一月は経過していると思う。もっと焦らなくてはならないはずなのに、何故か、焦燥感は鳴りを潜めていた。
「気に入りましたかな?」
「うん、道満も慕われているんだね」
たまに村の人ともすれ違ったのだが、彼を見るなり深々と頭を下げていた。中には拝む人までいたので、物の怪を退治している道満の存在は村の人たちにとってみれば有り難い存在なのだろう。
「ならば、ここに残りませぬか?」
「ここに?」
「旅をここで終えてはどうですか? 拙僧と共にこのまま暮らしてはみませぬか? あなたを傷つけるものなど、ここには──!」
距離を詰める道満に、立香はすっくと立ち上がった。
座ったままではいられなかった。
「道満」
「……っ! はい」
「嘘はもういいよ」
一際、強い風が吹いた。
立香の髪をさらい、一瞬だけ視界を奪われる。
目の前にいた道満は笑っていた。口角を上げて愉しげに。
「いつから気づいておられましたか? 拙僧、あれと同じ振る舞いをしていたはずですが」
「初めて傷の手当を終えた後。私が眠っている間に、何かあったんだね。リンボ」
「ンンンンン、流石、我が主。拙僧のことをようくご存知で」
ハハハハハハと道満の笑う声が辺りに響き渡る。初老の男が若返っていく。目元の皺が薄くなっていく。色素が薄くなっていた髪の色が、ぬばたまのものへと変わっていく。
いつしか見慣れたアルターエゴ、蘆屋道満の姿へと変わっていた。
「拙僧が見ていた懐かしき夢にマスターが迷い込んだのですよ。目覚めようと思えば目覚めることも出来たのですが、蘆屋道満としての意識が強く表に出ることが出来なかったのです」
「そう、中にいたの」
「ええ。だが、この男はマスターが拙僧と何かしらの繋がりがあるのは気づいていた。マスターに渡した式神にはいざとなれば持っている者に隠形の術を施します。見破れるのは術者である拙僧のみ、つまりこの男も理解はしていたのですよ。理屈は分からなかったでしょうがね」
なるほど。このため立香が他の者から姿が見えないことを訴えたとき、驚きもしていなかったのか。説明の手間が省けるという理由からではなかった。
蘆屋道満は理解していながら立香と過ごしていたことになる。
「最初は様子見をしていたのですがね? 興味を抱いていた道満は徐々にあなたを気に入り始め、このまま愛を知るのではと思ったのですよ。ええ、ですが──やめました」
にたりとリンボが笑う。
立香が手当を終えて眠ってしまった後に、道満の意識を塗りつぶしたということだろう。
「今のあなたは拙僧のマスター、自分自身とはいえ誰が渡してやるものか。ンンンンン、面白きことではないと判断したのですよ」
「……愛を知ったらビーストになれたかもよ?」
今度こそ、かつてのリンボとして悲願が叶ったのかもしれないのに。
立香の言葉に対して道満は首をゆるく左右に振った。
「それも愉しいですねえ。しかし、今の儂はあなたと地獄の底に往く方が心躍るのですよ」
「道満は、」
「もう奴の話はよいではありませんか。さっさと目覚めますぞ、ここは居心地が悪くて仕方がありませんから」
「道満は、私と過ごした日々が楽しかったんだね」
楽しかったのなら、いいや。
独り言のように呟いてから立香は改めてリンボへと向き合った。
「帰ろうか、みんなが心配してる」
「ええ、そうですとも。そしてさっさと忘れて下さい、あの男にとってあなたは毒にしかなれませぬ」
手厳しい言葉だなあ。
残滓になどしてやるかと思ったのに、立香のせいで夢の中でもひどいことになってしまった。ごめんね、と言葉を残す。
どうか、あの蘆屋道満に届けばいいと願いながら夢の中で瞼を閉じた。
◆ ◆ ◆
道満は、──あの全てを失った蘆屋道満は藤丸立香との日々を心から楽しんでいた。
だが、楽しむことなど許されぬ。都を騒がせた罪はそれだけ重い。流刑となった身で何も欲してはならぬ。
幸せを享受してはならぬ。無辜の民が死んだのを忘れぬために。
それでも、楽しかったのだ。女が辿ってきた旅の話を聞き胸を躍らせた。知らぬ単語も出たが、それもまた夢物語のようで心を惹かれた。
まるで遠くに輝く星が己の手元へと落ちてきたような錯覚をしたのだ。儂の元へ、やってきたのだと。星のような娘に、ふと、手を伸ばしたくなったほど。手を伸ばして、掻き抱いて、自らの死を見届けてもらえぬかと願うほど。
その夜、普段と同じく物の怪と対峙していた。最期の悪足掻きにゆらりと姿が変わっていく。安倍晴明の姿であろう。相手にとって触れられたくないものの姿へと変生することがある。此度も同じと高をくくっていた。
覚悟していた姿からは程遠いものが目の前に現れた。
暁色の髪をもった女の姿が、そこにはあった。
屋敷にいるはずの、あの女の姿がここに。
判断が遅れ、道満は久々に傷を負った。式神ですぐにとどめを刺したものの、崩れ落ちる女の姿を真っ直ぐに見ることが出来なかった。
ぽつり、ぽつりと言葉が溢れていく。渦巻いた感情がこれ以上堰き止めることがままならずに落ちていく。
こんなはずではなかったのだ、と言の葉として落ちていく。
屋敷に戻り、一人で手当をした。眠ろうにも痛みが酷くて眠れやしない。いつしか夜が明け、客人が訪れた。
優しさに、温かさに、真っ直ぐな言葉に触れた。今の自分にはひどく眩しいものを見た。
離れがたくて別れ際、咄嗟に指を掴んでしまった。嫌がられなかっただろうかと冷や冷やしたのに、女は笑って受け入れてくれた。
眠るのが惜しい。だが、疲れた体は起きるのを許さない。握られた手の温もりが心地よく、久方ぶりに深く眠ってしまった。
聞きたいことがあるのです。
──貴女の名を、お聞きしたいのです。
蘆屋道満の望みを知り、だからこそリンボは壊した。夢の中で自らと同じ姿をした者に胸を突き刺された道満はなぜ、と嘆いたが嘲笑ってやった。
「烏滸がましいと思いませぬか。今更、人になりたいなどとは」
そう囁いてやれば呆気なく落ちた。唇だけを動かして、何かを呟こうとしていた。だが、分からなかったのだろう。
呟きたかった女の名を、この蘆屋道満は知らずに消えていく。
美しき獣として生きたかったのだろう? 安倍晴明より勝っているのだと認めてほしかったのだろう?
その果てが、一人の男に成り下がるなど愚かにも程があろうよ。
ましてや! その相手が我が主など!!
かつての自分に激昂し、主を望んだ慧眼に腸が煮えくり返る。あれは拙僧の獲物である。美しき獣がいつか喰らう贄である。地獄の底まで伴をし、このリンボめが寄り添う人間である。
愉しみを奪うな、お前如きが。
◆ ◆ ◆
目を開けると視界いっぱいに広がったのは一枚の紙であった。
『おはようございます、我が主。目覚めは如何ですかな?』
「よくないかなあ……」
なにせ、目を開けて真っ先に見たのが一つ目の式神である。心臓に悪い。
何とか体を起こし、式神へと視線を向ける。
「私、どのくらい寝てた?」
『こちらで八時間と呼ぶくらいでしょうか』
「でも、私、何日も」
『夢とはそういうものでしょう。目を開けてしまえばどれだけの月日を重ねたとしても醒めてしまうもの。現実には敵いませぬ』
道満からそう言われて、そういうものかなと納得する。サーヴァントたちの見る夢に引っ張られることが多いのだ。未だに理由も分かってはいないので、無理やり納得するしかない。
着替えをするから出ていって、と式神を追い出そうとしてすぐに待ったをかける。
ふわふわと浮いていた人型の紙がくるりとこちらを向いた。
「あのときの蘆屋道満は結局、愛を知ったの?」
式神は何か考え込む素振りを見せる。暫くしてから考えが纏まったのだろう。
再び、式神は立香の方へと振り向いた。
『さあ、どうでしょうね。ですが、……そこになければないでしょう』
立香は笑った、少し寂しげに。その顔を式神を通して見た道満は勢いよく立ち上がり、急いで部屋から飛び出していた。珍しきものを見るサーヴァントたちの視線が煩わしい。そう遠くない距離にあるはずの、立香の部屋までが矢鱈と長く感じてしまう。
あの表情を見て居ても立っても居られなかった。
ただ、どうしても今、立香に会わねばなるまいという意識に突き動かされていた。
その感情の名付け方を、やはり道満は知らない。