不香の花
不香の花が降りつもる日、俺は神様の手を取った。
【Ⅰ】
誰かがベレスの名を叫んだ。怒号や駆け抜ける兵士たちの足音、剣戟の音すらも飛び越えてベレスの元に矢の如く届けられる。
悲痛めいた声に応える間もなく、ベレスは意識を手放してしまった。
◆ ◆ ◆
ベレスが意識を取り戻すと、体中がひんやりとしたものの上に乗っているようだった。指先を動かすと土とは異なった感触がある。冷たい感触に雨でも降ったのかと思いながらゆっくりと目を開けた。
疲れた体に鞭打ちながら起き上がると、そこには一面の銀世界が広がっていた。雪がしんしんと降り積もり、周囲の木々に覆い被さっている。どさっと重みに耐えかねた雪の塊がどこからか落ちる音が聞こえていた。雪が降るほどの寒い地域となるとファーガス神聖王国の領地内だろう。どこかの森の中にいるようだが、それ以外の情報は何も分からない。かつて傭兵をして各地を回り歩いたけれど、当時のベレスは地名や風景を覚えようとはしなかった。ただ、父であるジェラルトについていくということしか考えていなかったのだ。
敵の幻覚か、夢かとも思ったが吹きすさぶ冷たい風は容赦なくベレスの体温を奪っていった。堪らずに息を吐くと瞬く間に白く染まっていく。
ベレスが見ている夢でも幻覚でもないらしい。
ならば、とベレスは一歩踏み出した。今、所持しているのは戦うための剣と傷薬だけだ。防寒対策などしていないし、このままじっとしていても事態は好転などしないだろう。
途方も無い道のりではあるが、このまま死ぬことは出来ない。気力を振り絞り、一歩、また一歩と進んでいく。
歩き続けてようやく森の中を抜けると斜面が続いていた。目を凝らすと下った先には明かりがいくつか灯されているの。麓に村があるのだろう。見える距離にあるということはそれほど遠い道のりでもないはずだ。希望を見出してベレスは再び歩こうとすると、ふと、何かの気配を感じて振り返った。
先程抜けてきた森の手前、大きな木の下で蹲っている少年を見つけた。赤い髪をもつ少年の格好はベレスと同じく、このような雪山で過ごす姿ではなかった。ベレスよりもずっと小さな体では凍傷になってしまい、最悪命を落としてしまう。
ベレスは蹲っている少年の元へと近づくと、彼もまた気配を感じたのか顔をゆっくりと上げた。
先程まで泣いていたのか、少年の目は赤く、腫れていた。ベレスを見ていた目が大きく見開かれる。
「立てる? 一緒に行こう」
少年に警戒されないよう、なるたけ柔らかな声を出して手を差し伸べた。逡巡するように少年はベレスの顔と手を何度も見比べている。
警戒する気持ちは十分に分かるのだが、ここにいては少年も命の灯があっという間に消えてしまうだろう。
「連れ戻しに来たのか?」
ようやく放たれた言葉にベレスは首を傾げた。何のことだと問いかけようとしたが、少年が頭を振って自らの問いかけを否定し始める。
「いいや、違うな。もしそうならば、そんな格好で来るはずねえしな」
薄手の上着しか羽織っていない状態のベレスを見て少年は薄く笑った。
「変なやつ」
小さな手がベレスの手と重なった。
誰かの面影を秘めた少年と共にベレスはこの雪山から下山することになった。
すっかりと冷え切った手をしっかりと握り、歩きにくい雪の中を少しずつ進んでいく。
「君の名前は?」
「……」
名前を聞いたのだが一向に答えようとしなかった。自分から名乗るべきかと改めて更に言葉を重ねた。
「私はベレスというんだ」
「ああ」
返事はあったものの、これ以上の会話はなく全く話が弾まない。雪を踏みしめる足音だけが聞こえている。
学園で教鞭をとっていた頃に出会ったばかりのツィリルをふと思い出す。彼にもこのような態度をとられていたなと懐かしくなってしまった。
ベレスがつい口元を緩ませると、じとりと睨むような視線が返ってくる。
不快にさせたのかと思い、訂正するべく言葉を重ねていった。
「ああ、すまない。君のことを笑ったのではなくて、知人のことを思い出したものだから」
「俺に似てる?」
「外見は似ていないよ。さっきのやり取りが何となく、その子を彷彿とさせたんだ」
正直に話すと少年は納得したのかそう、と言葉を零す。再び静寂が訪れるかと思いきや、今度は少年の方からベレスへと口を開いた。
「貴女はここで何をしていたんだ?」
至極最もである問いかけに、ここでもベレスは正直に話すことにした。
「倒れていたみたいだ。遭難、だろうか」
「……もっとマシな嘘があるでしょうよ」
少年の凍てつくような視線が突き刺さる。しかし、これは事実なのだ。先程まで戦っていたはずなのに、気がつけば雪山の山中に放り込まれていた状態である。聞きたいのはベレスも同じ気持ちだ。
敵の使った魔法にワープするといった効果が含まれていたのかもしれない。
「それじゃあ職業は何を?」
「以前は傭兵で、今は教師かな」
「……嘘をつくにも程があると思うんですがね」
「どれも本当なんだが……」
説明の仕方が悪いのだろうか、何を言っても嘘とみなされてしまう。困ったなと思っていると遠くから獣の唸り声が聞こえていた。
視線を巡らせ、咄嗟に少年を背に庇う。前方から軽やかな足音と共に現れた三匹の狼と対峙する。腹をすかせているのだろう、狼の口からは涎と、唸り声、血走ったような目が向けられていた。
その内の一匹が跳躍してベレスへと襲いかかる。興奮状態の獣は油断がならない。得物である剣を抜き、狼を一撃のもとで仕留める。長引けば共にいる少年も危うい上にこの寒さの中だ。ベレスの体力が尽きてしまう前に決着をつけねばならなかった。
真白い雪の上を、倒れた狼を中心として赤いものが流れていく。ひっ、と小さく声を上げた少年を庇いながら別の狼がベレスへと飛びかかる。
先ほどと同じように倒すと、残ったもう一匹の狼は仲間の死を知り尻尾を巻いて逃げていった。仲間を呼ばれでもしたら大変だ。ベレスはこの場から早く立ち去ろうと少年の手を引こうとする。
だが、少年は怯えたようにベレスの手を思いっきり振り払った。爪で引っかかってしまったのか、手の甲に薄っすらと赤い筋がついている。
少年はしまったとでも言うように目を丸くし、自分のしたことに対して唇を噛み締めていた。
「行こう、一緒に」
それでもベレスは同じように手を差し伸べた。
この場に置いていくつもりはないと示すためにも。
「何で」
「何で、とは」
「だって俺は、あんたと何も関係ない」
「そう、だね。君が正しい」
「じゃあ何で!」
「それは、助けない理由にはならないよ」
例え、相手がベレスと関わり合いのない人物だとしても。失われていく命に何も思わないわけではない。
差し出した手にはらはらと雪が降ってくる。警戒させてしまったかと手を引っ込めようとしたが、阻むように小さな手が掴んだ。
真っ直ぐに少年がベレスを見上げる。
「行こう」
力強く、はっきりと口にした言葉にベレスは目を細めて頷いた。
少年の手を引いて山を降りていく。子供の足に合わせて、歩幅は普段よりも狭めて歩いていた。
「寒くないか?」
「あんたに比べれば全然寒くない」
「そうか。寒くなったら言ってくれ。私がおぶっていこう」
「……嫌だ」
「これでも力はあるよ」
「それでも嫌だ……」
「そうか」
「何でちょっと残念そうなんだ?」
呆れたような眼差しが注がれているが見ないふりを貫いた。
密かな憧れがあった、と言ったら余計に呆れられそうなので言えなかったというのが正しいけれど。
「先生って、何の先生?」
「とある学級の担任をしていたんだ。戦いのことを教えるのがほとんどだったかな」
「傭兵をやってれば良かったのに。その方が自由だろ」
「色々あってね。でも、教師をやって後悔はないよ」
「楽しいから?」
「あの子たちと出会って、過ごして、人間らしくなった気がするんだ」
何を考えているのか分からないと傭兵の仲間から言われたことがあるし、巷では灰色の悪魔と称されていた。顔色一つ変えず、淡々と仕事をこなしていった結果がそれだった。
しかし、学園に来て教鞭をとることになってから過ごしていく日々がベレスの感情に彩りを与えていった。
嬉しいことも、苦いことも、楽しいことも、哀しいことも。全部がベレスを人にしてくれた。
だから後悔はないよと伝えると、少年は目を伏せて握っている手に力を込める。
「……かみさまじゃないのか」
「神様?」
ベレスが聞き返すと少年は咄嗟に俯いて慌てたように言葉を紡いだ。
「何でもない。なあ」
「どうした?」
「あんたが先生やってるのってどこ……」
ベレスは片手を上げて少年の言葉を制止させた。耳を澄ませると微かに人の声が聞こえてきたのだ。
徐々にゆらゆらと橙色の明かりが見えてくる。
「坊ちゃまー! 坊ちゃまー!」
明かりを持った人物たちが必死で誰かを捜しているようだ。
隣の少年を見下ろすと、彼の目が丸くなっている。どうやら彼のことらしい。これなら彼も一人で歩いていけるだろう。
ベレスも一緒についていこうとしたのだが、無理がたたったのかもしれない。気を抜けば今にも倒れてしまいそうで、これ以上は少年と共にいることは叶わないと察してしまった。
感じていたはずの寒さも、疲れも、今は何も感じなくなってきている。
「行っておいで」
ベレスは少年の手を離し、彼の背中をそっと押した。
振り返った少年は、どうしてと言いたげな目をしていたがそれきりベレスはまたもや意識を失ってしまったのだった。
【Ⅱ】
ぱちと目を開ける。
雪に囲まれていた土地にいたはずのベレスが、今度はどこかの室内にいた。周りを見渡せばいくつか槍や剣などの武器が置かれており、藁で作られたらしい人形も置かれている。どれも使われた跡があり、どこかの訓練場にいるようだと察した。
ここで誰かが倒れていることに今更になって気づく。慌てて駆け寄り声をかけると、その人物は勢いよく顔を上げた。
彼の顔は痣だらけであった。訓練であれば傷がつくのも納得が出来る。しかし、いくら何でもこの傷の付き方はおかしい。まるで顔ばかりを狙ってつけられたようだ。
ベレスが何かを言う前に、少年はきつく、予想よりも強い力で手を掴む。
もう二度と離さないように、強く。
「何で、手を離したんですか。あんた、勝手にいなくなっちまうし、俺は……っ!」
よくよく顔を見てみると、あの雪山にいた赤い髪の少年だとベレスは気づいた。しかし、先程別れたばかりだというのに少年は少し背が高くなっている気がする。
戸惑うベレスの手を、またも少年はきつく握りしめた。
「何か、言えよ」
「無事で良かった」
そう告げると少年は言葉を詰まらせたように黙り込んでしまった。そんな彼を手当てしようとベレスは治癒効果のあるライブをかけようとするのだが、手をかざして集中しても何故か上手くいかない。空気を入れようとしても、袋が破けているせいで上手く膨らまない。そんな手応えしか感じられなかった。ライブは諦めることにし、傷薬を持っていたことを思い出したのでこれで傷の手当てをしてしまおう。
切り傷も出来ているので水で洗い流しておきたい。
「ここの近くに水場はある?」
「急に喋ったかと思えばそれかよ……。まあ、飲みたいなら持ってくるけど」
「違う。君の手当てだ」
「俺の? これくらい、別に。仕方のないことだから」
「傷つけられることが?」
「これは鍛錬で」
「それは鍛錬とは言わない」
一方的に痛めつけられることをそう言わない。彼の言葉をベレスはきっぱりと否定した。
少年は力なく笑う。目を虚ろにさせて、すっかり肩を落としてしまった。
「あんたは分からないからそう言えるんだよ」
「そうかもしれないね。君の言葉はきっと正しい」
「もしかして俺のこと、おちょくってます?」
「違う。君は聡いから、自分のことを一番理解しているのだろう。だから……」
少しずつ、言葉を交わすにつれてベレスにはこの少年が誰であるのか気づき始めていた。この髪色も、瞳の色も。ベレスにはよく見覚えのある人物だ。
状況は未だに掴めない。けれど、ベレスのすることは変わらない。
ベレスはこれから先も、彼の先生なのだ。
「全部飲みこんで、受け入れて、自分から苦しみにいくのは困る。いや、駄目だ。それだけは、駄目だ」
「……先生みたいなこと言うなよ」
「先生なんだ。言わなかったかな?」
「知ってる、聞いてたよ。あんたの話は、全部」
ちゃんと覚えてるんだ。
静かに伝えられた言葉にベレスは小さな引っかき傷を作られた気分だった。我慢出来ない痛みではないのに、ずっとじくじくとした痛みだけが残されている。
その後、ベレスは手を引かれながら屋敷の中を歩いていた。貴族だと聞いてはいたが、こんなに大きな屋敷に住んでいるのは初めて知ったのだ。深みのある赤い色の絨毯が敷かれている廊下を歩いていく。いくつかの角を曲がり、彼が大きな扉を開けると外に通じる扉だったらしく冷たい風が頬を撫でていく。
屋敷の裏にあたるのか、あまり使われていなさそうな井戸だけがぽつんと置かれていた。
そこで水を汲み、ベレスは持っていた布で少年の顔をそっと拭っていく。持っていた傷薬で彼の傷に塗り込むとしみるのか、彼は顔を歪めながらもじっとしてくれていた。
ようやく終わり、少年の頭を撫でる。
「よく我慢したね」
ベレスの言葉に少年は何も答えなかった。けれど、ぽつりぽつりと彼の手に滴が落ちていく。ベレスは何も言わず、ただ、そっと寄り添うように傍にいた。
慰めの言葉も、励ましの言葉も、彼を傷つける気がした。
とうとう夜になってしまい、ベレスは彼が与えられている部屋にお邪魔していた。豪奢なベッドに少年に合わせて作られたテーブルと椅子。置かれている調度品も全てが庶民には手の届かないものとなっているだろう。また、部屋の隅にはいくつかの贈り物らしきものが置かれている。綺麗な包装紙に包まれているが開けられた様子はない。
彼にとって一つ、一つが柔らかい凶器のようだ。これらに囲まれている生活は、どれだけ彼を疲弊させてきたのだろうか。
幼い頃から肉親に死を望まれていた男の話を思い出す。
「このままでは、いけないな」
本来、ベレスはここにいてはいけない人間だ。どうにかして元にいたところに戻らなくてはならない。それだけはしっかりと分かっているのだが、戻る方法は未だに分からない。
暗くなってしまった窓の外を眺めていると、不意にベレスの姿が反射する。もともと藍色であったはずの髪色は変わってしまい、薄い緑色となっている。
この姿を見る度に、ベレスは少女を思い出す。ベレスの中で共存していた少女だ。ソティスならば分かったのかもしれない。彼女は女神であり、何度もベレスの危機に手を貸してくれていた。だが、融合してからというものソティスの声を久しく聞いていない。
どうしたものか、とため息をついていたところで扉が開く音がした。やってきたのは部屋の主である少年だ。手にはこっそりくすねてきたのか、パンや数々の肉と魚、野菜が乗った皿を持ってきていた。
「腹へっただろ。これ食えよ」
「ありがとう。君は食べたのか?」
「ああ」
その言葉にベレスはほっとした。ベレスにとっては小さめの椅子に座らせてもらう。同じように小さいテーブルにお皿が載せられた。
久しぶりの食事は非常に美味しかった。料理自体が美味しいこともあるのだろう。食べ物を口にしたことにより、ようやく人心地がついた気分だったのだ。
黙々とベレスが食べている姿を何故か彼はまじまじと見つめている。
「すまない……。行儀悪かっただろうか?」
「ん? いや、そんなことは」
「そうか。なら良かった。生徒たちからも教えられたんだ。身につけられているならば嬉しい」
それを聞いていた少年は首を傾げてベレスに問いかける。
「なあ、あんた先生なんだろ。先生なのに、生徒から教わるのか?」
「ああ。優秀なんだ、皆」
「それって先生としてどうなんだ? 何か得意なのはないのかよ」
「……釣り、とか」
「……学校で教わることか? それ」
「教えたことはないけれど」
だが得意なんだ、と力強く言ってみると少年は肩をぷるぷると震わせて俯いている。
「笑うなら、ちゃんと笑ってくれ」
ベレスが告げると少年は声を上げて笑っていた。腹を抱えて、笑いすぎて涙まで溢れている。
「これでも、生徒からは褒められたんだよ。集中力がすごいですねって」
「分かった、分かった、から……! はっ、はははは!」
「笑ってくれと言ったが、そこまで笑われるとは思わなかった」
「だってあんた、真顔で言うから!」
ここまで人に笑われたのは初めてだ。ベレスも少しだけ笑うと、少年は目を丸くしている。
「あんた、笑うんだな」
「私だって笑うこともある」
「俺は、あんたを神様みたいだって思ったよ」
ベレスと向かい合うように、少年はテーブルに肘をつきながら上目遣いで見やる。目を細め、とろんとした目つきになっていた。その表情はベレスの知っている彼とよく似ている。
神様と思われたのはこの髪のせいだろうか。髪色だけならばレアとよく似ている。ベレスの考えとは裏腹に、少年は熱に浮かされたようにぽつりぽつりと話し始めていった。
「あの日、雪の中で神様を見たと思った。女神様がいるのなら、きっとあんたみたいだと思ったんだよ。狼にも立ち竦むどころか挑んでいくし、あっさりと撃退するし、人間じゃないと思ったんだ」
「人間だが……」
「あんたみたいに強くて、綺麗で、感情も読めない奴がこの世にいるなんて思わなかったんだ」
「君はこの頃から変わらないな」
この年頃で率直に綺麗だと告げる子供はなかなかいない。女性ならば見境なく口説く。生徒であったイングリットからは女装した男性にも口説いたと聞いた。
思わず出てしまった言葉に、少年は眉根を寄せる。
「この頃って何だ? あんた、俺を知ってるのか?」
ふっと昏い瞳がベレスに向けられた。
「それは」
「俺のことを知って、あのとき来たのか?」
俺のこととは少年自身のことではなく、彼が宿している紋章のことを指しているのだろう。彼の瞳がどんどん鋭くなっていく。
ベレスは否定するように首を横に振った。
「今の君は知らない。知っているのは、ずっと先の君だ」
「……は?」
「私はずっと先の未来で君に会う。だから知っているよ。私は、君の先生になる」
「……頭打ったのか?」
本気で心配をされてしまった。そうじゃないと言うように眉根を寄せたが、少年からぽんぽんと肩を叩かれてしまった。
「ほら、もう休んだ方がいいぜ。あんたはベッド使えよ、俺はソファで休むから」
「それは駄目だ。君がちゃんと休まないと。傷だって治ってないんだ」
「でも」
「駄目だよ、そこは譲らない」
ベレスがきっぱりと言うと、少年は分かったよとため息と共に告げた。
見つかるとまずいということで、ベレスは部屋の外から出してもらうことは出来ず食器の片付けも彼にさせてしまった。至れり尽くせりとはこういうことかもしれない。
戻ってきた彼が先に休んだのを確認してから、ベレスもソファへと横になった。
暗い室内ですぐに眠りにつくかと思ったが、全く眠気が訪れない。不思議な体になってしまったものだと思いながら目だけは瞑ることにした。
それからどれくらい経ったのか。ふと、衣擦れの音が聞こえた。ゆっくりとベレスの元へと近づき、首へと手をかけようとした瞬間に捕らえる。
小さく息を呑む音が聞こえ、ベレスはゆっくりと瞳を開けた。
覗き込んだ瞳からは怯えの色が見て取れる。
彼の行動を仕方ないと思った。決して同情からくるものではない。紋章のことでずっと囚われていた彼ならば、それに近づいてくる人物は嫌悪する対象そのものだろう。ベレスは彼にそうみなされただけの話だ。
「ごめん。私はまだ、死ねないんだ。戻らないといけない場所がある。私が恐ろしいならこの場から消えよう」
上半身を起こし、ソファから降りる。そのまま驚いて動けない少年の横を通り過ぎようとした。
だが、それは出来なかった。
ベレスの上着を少年が握り締めているのだ、皺になるほど強く。
「あの」
「信じていいのか、あんたを」
「君はどうしたい?」
「分かるかよ」
ベレスの背中に体当たりするように少年は抱きしめた。幼い腕ではしがみつくと言った方が正しいかもしれない。
「分かんねえ」
「そっか」
ベレスはそれ以上は言わなかった。更に背中が濡れていくけれど、わざと気づいてやらぬことにした。
更に手の力が込められていく。
そうでもしなければ立てぬように、強く。
結局、ベレスは何故か少年と共にベッドで寝ることになった。ベッドがやけに広いのが幸いした。普通のサイズならばとっくにどちらかが落っこちていたところだろう。
少し距離を開けてベレスが寝ようとすると、距離を埋めるように少年が近づいてくる。最初は気のせいかと思い、再び距離を取ればまたも詰められた。このままでは壁際に追い込まれてしまうのでくるりと少年の方へと向き合う。
「こら」
「!」
「さっさと寝なさい。傷の治りも良くならないよ」
「寝る、けど」
「眠れない?」
ベレスが問いかけると少年はぽつりと呟いた。
「手、握って」
「こうかな」
言われた通りに手を握ると少年は笑った。
「ちょろいな、あんた」
「離すよ」
「嘘! 嘘です、お願いします」
手を握ったまま、ベレスは目を瞑る。
「なあ、先生」
囁くような、小さな声が聞こえる。
寝た振りを続けると、少年が微かに笑った気配がした。
「やっぱりあんた、神様だよ」
少年が近づく気配がする。指先に柔らかいものが掠めた気がしたけれど、ベレスはゆっくりと意識を手放していった。
【Ⅲ】
「先生、先生……!」
誰かの呼びかける声が聞こえる。泣いているのかもしれない。せんせい、と必死で呼ぶ声が震えている。
大丈夫だと伝えたかったのだが、口が動かない。
彼らは大人になって、ベレスの庇護がなくとも歩んでいける。それでも、生徒であったことに変わりはない。
生徒たちのためなら、ベレスは何度だって前を向いて歩いていく。大切なものを守るために、何度だって立ち上がってみせる。
大丈夫、大丈夫だよ。
言葉に出せないのがもどかしい、声に出せないのがもどかしい。
大丈夫だから、もう、泣かないでほしい。
◆ ◆ ◆
夢を、見ていた気がする。
ひどく懐かしくて、ひどく恋しくて、ひどく──哀しい夢だった。
ベッドの中で目が覚めるはずだったベレスだが、起きたのはまた別の場所だった。近くにはまるで城のような建物があり、植え込みの中に立っていた。
ここはどこだろうか、それに、これは不法侵入とみなされてしまうのでは。すぐに立ち去ろうとすると、いきなり駆け込んできた人物とベレスはぶつかってしまった。受け止めることも出来ずに一緒になって倒れ込む。
一体誰が、と確認しようとすると赤い髪の少年が見えた。先程出会ったときよりも更に成長した姿だ。
「いってててて……、すまねえ、急に……あ……」
「怪我は?」
ベレスが問いかけると返事の代わりに手をきつく握り締められた。成長した分、力もついたのだろう。昔とは異なり流石に痛い。
困ったように見つめると、少年はきつく睨みつけている。
「あんた、何処をほっつき歩いてたんだよ! 俺はずっと捜し回って」
「シルヴァン様ー、シルヴァン様ー?」
可愛らしい少女の声がベレスの耳に届いていた。その声から出された名前に、やはり、と確信する。
ハッとしたように後ろを振り返り、シルヴァンと呼ばれていた少年はベレスの手を掴んだまま走っていく。
多分、ベレスは一緒になって逃げなくても良かったのではないだろうか。そう思ったのだが、口を挟むすきもない。あちこちを走り回り、ようやく足を止めた場所は鮮やかな緑の生け垣に囲まれた場所だった。テーブルと椅子が置かれており、お茶会などで使用される場所かもしれない。
ベレスが辺りを見回そうとすると、頬を両手で掴まれ無理やりシルヴァンと視線が絡み合う。
「あんた、何処にいたんだ。そんで、どうして今、ここにいるんだ」
「起きたらここにいたんだ」
「は?」
随分と低い声がベレスに届けられる。背丈もベレスと変わらないほどであり、益々、知っているシルヴァンの姿に近づいていた。
生徒の成長を追いかけているようで、妙に感慨深いものがある。しみじみとそんなことを考えていたが、シルヴァンの機嫌は降下していくばかりだ。
「帰りますよ、一緒に」
「何故?」
そこまでする義理はないはずだ。ベレスの言葉に動揺することもなく、シルヴァンはすらすらと、まるで前もって用意していた答えを言うように話し始めた。
「あんたを放っておけないだけです。というか、何でこう見られたくないときにあんたはいっつも来るんですか」
「ああ、なるほど。女の子に追いかけられていたね」
「そうですよ、まあ、俺というよりも紋章目当てですけどね」
手を頭の後ろにやり、大きなため息をついていた。紋章の呪縛はまだ彼を解放してはくれないようだ。
「俺の名前はね、シルヴァン=ジョゼ=ゴーティエっていうんですよ」
「そうか。私の名前は……」
「覚えてますよ、それくらい。ベレス……さん」
言いづらそうにシルヴァンはベレスの名を呼んだ。ずっとあんたと呼ばれていたので、きっと覚えていないのだと思っていたがそんなことはなかったらしい。
「改めてよろしく、シルヴァン」
「あんた、俺の名前聞いてもあっさりしてますね」
「……? 格好いい名前だね」
「いや、そういう意味で言ったわけじゃ……。ああ、そういやあんたってそういうところありますね。どこか抜けてる」
「そんなことはないと思うんだが」
「そんなことあるんですよ。知らないようだから言っておきますが、ゴーティエ家の当主は紋章持ちの子供が産まれるまで子を作らねばならないんですよ。色んな女とね。寄ってくるのは玉の輿を狙う奴らばっかりなんですよ。何せ、運が良ければ当主の妻だ」
以前にもシルヴァンが言っていたことだ。ベレスは静かに耳を傾ける。何も言わないベレスに、シルヴァンは怪訝な表情を向けた。
「あんた、俺に何にも興味ないんですね」
「私は君が、君の思うままに生きられればいいと願っているよ」
「どうだか」
この言い方には流石にベレスもムッときた。一歩彼に近づき、真剣な眼差しを向けて彼に告げる。
「本当だ。嘘偽りなどない」
「それじゃあ」
一度口を開いたシルヴァンが、少し躊躇ってから一言一句、丁寧に告げる。
「あんたがいいって言ったら、どうします?」
真剣な眼差しが注がれる。冗談なのか本気なのか、どちらでも今のベレスでは困ってしまう。
ベレスはここにいてはいけない人間だ。ここで生きているシルヴァンと本来は交わっていけないはずだろう。
「私は」
自らの考えを伝えようとすると、シルヴァンの喉仏がこくりと動いた。続けて言葉を発しようとしたのだが、それを遮るように大きな声が耳朶を打つ。
「シルヴァン、貴様! 何処にいる! 貴様のせいで俺がとばっちりを食らってるんだぞ! 出てこい!」
遠くからでもよく届く声は、シルヴァンの幼馴染のものだ。彼らの関係性も変わっていないようだ。
シルヴァンは俯いてから、ベレスの両肩をしっかりと掴む。
「ちょっと行ってくるから、今度はもう、勝手にいなくなるな。いいか、ここで待ってて下さいよ」
駆け出そうとする前に、一度立ち止まってベレスへと振り返る。
「絶対ですからね!」
そう言い残してシルヴァンは声の主の元へ駆け出していった。ぽつんと取り残されたベレスはこれからどうしようかと困ってしまう。
釣り場があれば釣りでもしていたのだが、流石に勝手の分からぬ場所をあちこちうろつくことは出来ない。
立ち続けているのもおかしいかと思い、置かれている椅子に腰掛ける。生け垣をぼんやりと見続けていると、がさっと物音がしてすぐに視線を向けた。
すると、生け垣の足元の方が動かされている。そこから唐突に頭がひょこりと出た。日の光がきらきらと反射し、綺麗な金色の髪が風で揺れる。これはベレスでも予想が出来なかった。
小さな頭はゆっくりと上げられていき、まあるい青い瞳がベレスを映し出す。
「誰だ……?」
金色の髪と青い瞳、まだ高い声で問いかけられるもベレスは相手が誰なのか分かった。
君も、そこにいたのか。
懐かしさに目を細めると、少年は不可解だと言わんばかりの視線をベレスに向けた。それも当然か、とベレスは思っていると少年の方から声をかけられる。
「答えろ、お前は誰だ?」
瞳の色には憎悪が孕んでいる。荒んでいた頃の彼を彷彿とさせられ、ベレスは気づけば手を差し出していた。
前と同じように、彼を引っ張り上げるように。
「まずはそこから出ないか?」
「あ……」
まだ生け垣に突っ込んだままだというのを忘れていたらしい。白い頬が赤く染まり、差し出されたベレスの手をおずおずと握り返して体を起こした。
真四角に切り取られていた部分を再び元に戻し、一見すると動かせるようには見えない。まるで秘密の隠し通路だ。
振り返った少年は幼いながらもベレスに一礼をする。
「失礼した。……今のことは見なかったことにしてほしい」
「ああ、そうしよう。私はベレスという、シルヴァンの知人だ」
「知人? ということは恋人……」
「そうじゃないよ。ただの知人だ」
シルヴァンで女性の知人だと恋人とみなされるらしい。本当に変わらないなと思っていると、少年はベレスを、詳しくは髪の方をまじまじと見つめていた。
寝癖でもついていただろうか。ささっと手直しをすると、彼も気づいたのか違うんだと慌てて答え始める。
「大司教であるレア様とよく似た髪色だと思ったんだ。身内の方だろうか、と」
「ううん、当たらずといえども遠からず、といったところだ。君のことは殿下とお呼びしたらいいだろうか」
「やめてくれ、今は休憩中なんだ。ドゥドゥーから……従者と言ってはいるがほぼ見張りの者から逃げてきたところだ」
「では、ディミトリと」
「そうしてくれ、ベレス」
ようやく、強張っていたディミトリの表情が和らいだ。ベレスがホッとしたのも束の間、彼の言葉を思い出して口を開く。
「私がいると休憩の邪魔になるかな?」
「後から来たのは俺の方だ、こちらこそ邪魔を」
「ではシルヴァンが戻るまで話し相手になってくれないだろうか? 気が進まないのならば断ってもいいよ」
ベレスの誘いにディミトリは目をぱちくりとさせていた。
「俺はシルヴァンとは違い、気の利いたことなど言えないけれど……」
「気の利いたことを聞きたくて君と話がしたいんじゃないんだ。ただ、君と話がしてみたかっただけなんだよ、ディミトリ」
「お前は、不思議なことを言う。先生、のようだな」
「ふふ、それは嬉しいな。教師だったんだ、これでも」
ベレスが笑うとディミトリもつられたように笑う。そうして綺麗にまた、一礼をしてみせた。
「では喜んで」
ここにお茶とお茶菓子があればお茶会も出来ただろうに。ガルグ=マクで何度かしたお茶会を思い出していた。その頃にお茶の淹れ方も学んだものだ。
「すまないな、誘っておいてお茶の一つもない」
「気にしないでくれ、今は何を食べても一緒なんだ」
「そうか」
あっさりと言ったけれど、彼の味覚がないことをふっと思い出す。酷なことを言わせてしまった。だからこそ、ベレスは見て見ぬ振りをした。彼の柔いところに、ずかずかと踏み込んではいけない。
それは今のベレスがやってはいけないことだ。
「だが、先程は驚いたな。君が通ってきたところ。秘密の、隠し通路のようで」
「あれは、その、以前、鍛錬をしていたらぶつかってしまって。下の方に穴を開けてしまったんだ。謝らねばならないと思っていたときに、シルヴァンに見つかって。するとあいつが、それならこうしちゃいましょう、って」
親しくなった庭師に頼み、ちょうどディミトリが屈んで出入り出来るくらいの大きさに空いてしまった部分を切り揃えてもらったらしい。勿論、塞ぐための生け垣部分も用意して。簡単に出し入れ出来る上に、ぱっと見では分からない。秘密を知るのはディミトリとシルヴァン、庭師だけだそうだ。
ここに今日、ベレスも追加されたけれど。
「一人の時間も必要ですよ、ってシルヴァンに押し切られてしまったが、これで良かったと今は思っている」
「ここはあまり使われていないのだろうか?」
「ああ。ほら、このテーブルと椅子も古いだろう。新しく出来たのが別の場所にあるんだ。ここは城からも遠い上に日陰になって薄暗いだろう? 誰も足を運ばないと思っていたのだがそんなことはなかったようだな」
ディミトリはベレスを見て苦笑している。相当珍しい方に分類されてしまったようだ。
「そうだったのか。だが……ふふ、ディミトリもそのようなことをするのだな」
「た、たまたまだ。毎回、こんなことをするわけでは……いや、最近も訓練用の槍を折ってしまったが」
「守るための強さだろう。磨いていけばいい」
「お前は、否定をしないのだな。友、と呼んでもいいのか……フェリクスという者がいるんだ。散々咎められた上にまたか、猪と呆れられた」
「仲がいいんだな」
「いい、のだろうか?」
「良くなければ話もしないだろう?」
「そう、なのか?」
「私の個人的な意見だけどね」
「いいや、そうならば嬉しいと思ったところだ」
ディミトリとフェリクスがぎくしゃくし始めた頃なのだろう。見守るだけというのは、案外もどかしいものだ。ジェラルトも、教師になったベレスを見てこのような気持ちになったのだろうか。
懐かしんでいるとディミトリからの視線に気づいて顔を上げる。どうかしたのだろうかと首を傾げると、ディミトリはベレスを真っ直ぐに見つめながら口を開いた。
「お前の、その表情が好きだなと思ったんだ」
ずっと前にも言われた言葉だ。あの頃はそうか、という感想を抱いたけれど今のベレスには気恥ずかしくて仕方がない。
柄にもなく照れてしまう。ベレスはディミトリからの真っ直ぐな言葉に弱いことを少し前から自覚していた。
再び俯くベレスに、ディミトリは更に言葉を重ねていく。
「嘘ではない。本当だ。好きだと思ったんだ」
「ち、違う。疑っているわけじゃない。ありがとう、嬉しいよ」
「そうか、ならば良かった」
安心したようにディミトリが息を吐く。
ベレスも何とか口の端を上げて笑ってみせた。それからぽつぽつと話をしていく。傭兵時代でのこと、釣りが得意なこと、猫に懐かれていつの間にか部屋の前で丸まっていたことなど。全て他愛のない話ではあったが、それをディミトリは興味深そうに聞いていた。外の世界での話だから新鮮だったのかもしれない。
徐々に日が傾き、辺りが茜色に染まっていったのをきっかけに話を切り上げた。
「もう戻った方がいい、従者も心配しているだろう」
「そうだな。お前は? 一緒に来ないのか?」
「私はここで人を待っているんだ。さよなら、ディミトリ」
「またな、とは言ってくれないのか」
今度はどこに飛ばされるのかも分からない。ただ何となくではあるが、傍にはシルヴァンがいるのだろうとは考えていた。
ベレスは少し考えてから、当たり障りない言葉を口にする。
「縁があれば、また」
「それで妥協しよう。縁があれば、またな」
立ち去っていくディミトリの背中を見送ってから、待ち人はいつ来るのかとベレスは椅子の背もたれに体重をゆっくりとかけた。このまま待ちぼうけを食らうのならば悪いがここから立ち去ろうとさえ考えていた。
更に日が傾き、一番星が見えるようになった頃になると生け垣から音がした。
またディミトリだろうか。
なるべく足音を立てぬように忍び寄ると、生け垣を背にして座り込んでいる赤毛の青年を見つけた。一体、いつからそこにいたのか。いたとしても、どうして早く声をかけてくれなかったのか。
だがシルヴァンは俯いたまま動かない。もしや、体調でも悪いのだろうか。
ベレスが屈み込んで手を伸ばすと、その手は乾いた音と共に呆気なく振り払われた。
「触っちゃ駄目だろ。誤解されますよ」
「何のこと?」
「あんたが一番分かってるだろ。俺から言わせたいんです?」
彼が何に怒っているのかベレスには分からない。ベレスはシルヴァンに言われた通りここで待っていただけだ。
流石に、この対応にはベレスは困惑と同時に怒りも覚えていた。こんな時間まで放っておいた挙げ句に勝手に不機嫌になっているのだ。理由を聞こうとしても答えようとしない。そもそも会話をしようという気持ちがないのだろう。
ここで何か言っても不毛な言い争いになるだろう。
ベレスは静かに察し、立ち上がって踵を返そうとする。
だが、上着を引っ張られ立ち上がることは出来ずに前のめりになっただけだ。
振り返ればシルヴァンの手がベレスの上着を掴んでいる。まるで子供のやることだ。彼はもうとっくにベレスの背を追い越しているのに、子供のような癇癪を起こして突き放すくせに離れたがらない。ベレスは諦めたように距離をとってその場に座り込んだ。
日は更に傾いていく。夜の帳が下りてもシルヴァンは座り込んだまま動こうとしない。
「周囲の人たちが心配するよ、戻った方がいい」
ベレスがそう口にしても、シルヴァンは何も答えなかった。聞いてはいるのだろうが我関せずといったことだろう。
このままでは埒が明かないと、ベレスは無理やり彼の頬を両手で挟み込んでこちらを向かせた。
ぎょっとしたのか、目を丸くするシルヴァンに対してベレスは目を吊り上げる。
「闇に乗じて良からぬ輩が来る可能性だってあるんだ。早く戻りなさい」
「俺なんかよりあんたの方が危ないだろ! いつまでも俺をガキ扱いして」
「そうやって拗ねている人間が大人なわけがないだろう、送っていくから行こう」
「嫌だ」
「君を担いででも送ると決めた。傭兵のときに何度も担いだことはある、心配しなくていい」
「そんな心配をしているんじゃなくてですね! じゃあ、」
ベレスの両手首をシルヴァンが掴む。
がっちりと掴まれたのでどう抜け出そうと考えている間に、ぐっと端正な顔が寄せられた。
「キス、してくれたら言う通りにしますよ」
この言葉を聞いて、ベレスはゆっくりと顔を寄せていく。シルヴァンは最初驚いたものの、名残惜しそうにゆっくりと目を瞑っていく。完全に目を閉じたのを見計らって、ベレスは頭を後ろに倒した後、勢いよく彼に頭突きをかました。
鈍い音と呻き声が辺りに響き渡る。
ぱっとシルヴァンの手が離れたところで彼の胸ぐらを掴み寄せた。
「人を試すようなことをするんじゃない。ほら、行くよ」
ベレスが手を差し出すと、地面にのたうち回っていたシルヴァンが涙目になりながら見上げる。彼はベレスの手と顔を何度も見比べて、困ったような顔をしてからしっかりと握り返した。力を入れて起こしてやると、その反動をいいことにベレスの体をすっぽりと腕の中に閉じ込める。
肩に顔をうずめ、今にも風に攫われそうな声で話しかけられた。
「殿下のこと、好きだったんですか」
「どうしてそこでディミトリが出てくるんだ?」
「好きだと、言われていたじゃないですか」
「笑った表情が好ましいと」
「……ん?」
「私自身のことを指していたんじゃない」
「え」
ぱっと離れたシルヴァンがベレスを見下ろした。確かめるように窺っていたので、大きく頷くと暗がりでも分かるくらいはっきりと頬を赤らめていた。
「それで拗ねていたのかい?」
「悪いですか」
「まだまだ子供だね」
ベレスがからかうと、バツが悪そうな顔をしてシルヴァンは黙り込んだ。
「すみませんね、ガキで」
「いいじゃないか、まだ」
急激に大人にならずとも、ゆっくりで。
そう思っての言葉だったが、シルヴァンはぶすっとした表情で呟く。
「良くないんですよ、それじゃあ」
「どうして?」
「あんたに追いつきたいからですよ、どうしても」
彼の眼差しは、少年のときと変わらないものだった。真っ直ぐにベレスへと注がれる眼差しは、まるで崇拝するように、尊いものでも見るように。
「追いつけばあんたと一緒にいられる。俺は、あんたがいればそれでいい」
シルヴァンからの言葉を聞き、違和感を覚えて眉を顰める。先生であったときと比べて、彼はベレスに傾倒している。あのような冗談を言う人物でもなかったし、ましてや抱きしめるといった行為もしなかった。
関わりすぎてしまったのかもしれない。
ふと、そんな考えが頭をよぎっていた。今のベレスの状況はあまりにもおかしい。シルヴァンの過去に触れ、眠りにつく度に場面も変わっていく。
もしやベレスは、とっくに死んでいるのではないか。
そんな想像が拭えず、これ以上関わると彼が掴むはずの未来を捻じ曲げてしまうのではないかとさえ思っていた。
彼の幼い頃はこのような感じだったのか、と物珍しく思っていただけだったが、ベレスは無意識の内に踏み込みすぎたようだ。
「そんじゃ、行きますか」
シルヴァンから差し出された手を、ベレスは握り返すことをしなかった。首を左右に振って、行っておいでと彼に促す。
「なーに言ってるんですか。この暗い中、あんた一人を放っておけって? さっきまで俺を送ると言って聞かなかったあんたが?」
「大切なことを思い出したんだ。だから、これ以上は君といられない」
「それって何です?」
低い声で問いかけられるも、ベレスは怯むことなく毅然とした態度を貫いた。
「大事な人たちの元へ戻らなければならないこと。私のやるべきことをやること」
夢を見てばかりはいられない。ベレスは一刻も早く目覚めて、彼の前から消えるべきだ。
「置いていくんですか、また」
「シルヴァン」
「あの雪の日にしたように、俺の手を離して」
「私は今の君の手を取ってはいけないんだ」
「そんなの誰が決めたんです?」
「私だよ。私が自分の意志で決めた」
「俺があんたといたいと言っても?」
「うん。もう、さよならだ」
ベレスが別れを告げると、シルヴァンは途方に暮れた子供のような目をしていた。
あの日、雪山で手を離したときと同じ目を。
「行っておいで、振り返ってはいけないよ」
「頼まれたって振り返ってやりませんよ」
シルヴァンはベレスを睨んだ後、振り返ることなく闇の中を駆けていった。
それを見届けてから、ベレスは唐突な眠気に襲われる。抗う術はなく、その身をあっさりと委ねることにした。
きっと、ここから抜け出すために必要なことだと信じて。
【Ⅳ】
再び目を開ける。さて、今度は何処へ飛ばされたのだろうか。
辺りに視線を巡らせれば見覚えのある場所に立っていた。ようやく知った場所にいることに安堵したが、その場所もまた問題であった。
訓練場だ、それもゴーティエ家のところである。まだ少年であったシルヴァンが怪我をして倒れていたところだった。前回、足を踏み入れたときに比べて辺りは暗い。長方形に切り取られた、壁の隙間から差し込む月の光だけが頼りだった。
ここから出なければ。
一緒にいられないと言ったくせに、またここで会う可能性もある。ベレスは訓練場を後にし、出口を捜すべくゴーティエ家の屋敷の中を歩くことになった。
いつか、シルヴァンに手を引かれて歩いていた廊下を一人で歩く。真夜中のひんやりとした空気に包まれ、多少の肌寒さを感じながら進んでいく。
あれからどのくらい経ったのか。確かめようにも術はない。ため息をつきながらベレスが一歩踏み出そうとした瞬間、人の気配を感じてぴたりと足を止めた。すぐに壁に体を寄せ、曲がり角の先に視線を向ける。
月明かりに照らされた人物が外をじっと見つめていた。こんな肌寒さの中で薄着のまま立ち尽くしている。あの後ろ姿をベレスは知っていた。
このまま引き返すべきだろうと踵を返した瞬間、鋭い声が飛んでくる。
「誰だ」
このまま立ち去ればいいものを、ベレスは素直に足を止めてしまった。
「ベレスだろ」
確信に満ちた声だった。楽しげな声に不穏なものを感じ、相手に姿を見せることにした。ベレスに向かい、シルヴァンはゆっくりと距離を狭めていく。
表情は逆光になってしまったため分からない。手を伸ばせば触れられる距離にいるというのに随分と遠いように感じられた。
表情が見えない男が、夜には不釣り合いの明るい声で話しかける。
「関わるなって言ったくせにまた来たんです? わざわざこんな日に」
何か特別な日だったのだろうか。ベレスは目を伏せ、謝罪の言葉を述べる。
「すまなかった、君の言う通りだ。すぐに出ていこう」
「不審者をここで逃がすとでも?」
ベレスの腕を折りそうなほど強い力で掴まれる。ぐっと近づけられたシルヴァンの顔には貼り付けられた笑みが浮かんでいた。
これは憤怒の表情だ。ベレスに対し、憎しみにも似た怒りを抱えている。ここまで追い詰めてしまったことに愕然としていると、近くの部屋に追いやられてしまった。
これはまずいと直感する。振り返ろうとしたベレスをシルヴァンは許さなかった。後ろから口元を抑えられた上に勢いよく抱きかかえられた。抵抗を試みたのだが男女の力の差を実感させられた挙げ句にベッドの上にあっさりと放り投げられたのだ。
上半身を起こそうとしたところ、阻むようにシルヴァンがベレスへと覆いかぶさる。
「久しぶりですね、一年くらいですか」
「シルヴァン」
あの後ろ姿を見たとき、また、背が高くなったと思った。今では士官学校に通っていたときの彼とほとんど変わっていない。
ベレスを笑いながら見下ろしているが、その目は全く笑っていなかった。
警戒心を抱いたまま、相手の隙を窺っているとシルヴァンはベレスの様子を見てふっと鼻で笑った。
「本当にあんたは変わらないなあ。初めて会ったときから何も、変わらないままだ」
「離れてほしい、シルヴァン」
「いいですよ。俺と一晩、過ごしてくれたら」
はだけたシャツの隙間から赤い花が散りばめられている。この意味に気づかぬほどベレスは子供ではない。
彼の言う一晩が、かつて少年だったシルヴァンと過ごした方法ではないことを察してしまった。
眉を顰めるベレスに対し、シルヴァンはただ笑っている。
「女を初めて抱いたんですよ、さっきね。いやーすごいですね、俺とは違ってどこもかしこも柔らかくて、猫みたいな声をあげて」
「シルヴァン」
「そりゃ紋章を持っちまったための義務ですし? いつかはやらなくちゃいけなかったんですよ。終わって涼みに部屋を出たらあんたがいるじゃないですか」
どろりとした欲を肌で感じ、本能が警鐘を鳴らす。見知らぬ誰かならば遠慮なく剣を向けたが、相手はシルヴァンだ。生徒に剣を向けることが出来ず、どうにか抜け出そうとしても更に体重をかけられて身動きがとれない様にされてしまう。
ベレスの必死な抵抗も、シルヴァンにとっては児戯にも等しい。
両手をあっさりとベッドに縫い付けられ、首筋をざらりと生温いものでなぞられる。
「逃げないでくださいよ、これでも上手いって言われたばかりですから」
「や、め……」
「いいじゃないですか」
ベレスの上着を剥ぎ取ったシルヴァンの手がゆっくりと下腹部へと移動する。そこをぐっと押さえつけられ、ベレスが呻くと耳元に唇を寄せた。
「精々、紋章を持つ子供を孕んでくれよ。ベレス」
冷たく言い放たれた言葉に、ベレスはシルヴァンの目を覗き込んだ。昏い目をした彼は、ベレスの視線を煩わしそうに遮ろうとしたがその一瞬の隙を見逃すことはしなかった。自由になった両手で彼の頬を包み込み、ぐっとベレスの方へと近づける。
前と同じく頭突きをされると思ったのだろう。
咄嗟に目を瞑る彼を、ベレスは頬からぱっと手を離して頭ごと抱き寄せた。
「女が憎いくせに、嫌いなくせに、自分から傷つこうとしてどうするんだ」
「あんたには関係ないだろ!」
「関係ない女を抱こうとしたのは君だろう?」
「手を離したのはあんたが先だったじゃないか! 手を伸ばしておいて離すくらいなら、最初から見なかったことにしてくれれば良かった! 中途半端な優しさなんかいらなかった! 俺は、……おれ、は」
激情を閉じ込めたものが雫となってベレスの顔に落ちてくる。ぼたりぼたりと溢れていく涙を、目を傷つけぬように優しく拭う。だが逆効果だったのか、ベレスが拭う度に落ちていくものだからなかなか止まらない。
落ちていく涙は夜露のように綺麗だった。衝動的にベレスは体を起こして唇ですくうように触れた。
「え、……あ……?」
「しょっぱいね、シルヴァン」
「っ! なっ、なに、して」
「止まったね、涙。良かった。君の泣く顔は見たくないから」
よしよしと落ち着かせるように頬を撫でると、シルヴァンは閉じ込めるようにベレスの体を抱きしめる。身動きが取れなくなり、困ったなと思っていれば更に腕の力を込められてしまった。
「あんたはずるい」
「ごめん」
「そうやってすぐ謝るところも」
「傷つけたのだと思ったら謝るよ」
「あんたに謝られると、俺は何も言えなくなるんですよ。恨み言、全部」
「このまま聞くよ。今は、何処にも行けそうにない」
ベレスが答えるとシルヴァンは目を細め、乾いた笑い声を零しながら言葉を落としていく。
「そう言って朝にはいなくなるんでしょうよ。空っぽのベッドを見て、泣いちまった昔の俺のことなんて全然考えなかったでしょ」
不可抗力だったんだ、と言いたいのだがどう説明したらいいのかも分からない。彼と会うのはほぼ一日置きなのだ。シルヴァンにはそれなりの年月が流れているがベレスにとってはあっという間だ。再会する度に成長している彼に会う。
それまでの間、ベレスへ抱えていた想いを何も知らない。知ろうとするのは、わざとやめていた。これが過去だと気づいてしまったから、掴んだはずの未来を変えたくなくてベレスはいつも見て見ぬ振りをした。
これが招いてしまった結果ならば、もう、真っ直ぐに見つめるしかない。
「寂しかったのか、シルヴァン」
導き出した答えを口にする。否定するためだったのか、照れ隠しだったのか。ベレスは肩を思いっきりシルヴァンによって噛まれてしまった。
痛みに顔を歪めると彼の口から笑い声が溢れる。
「誰が言ってやりますか。もっと悩んでくれればいいんですよ、俺のことで」
「これでも大分悩んだんだが」
彼がベレスが受け持つことになったクラスの生徒であったときも、こうして向かい合っているときも。
ベレスの言葉にシルヴァンは目を丸くした後、泣きそうな顔で目を細めた。
「この一年、あんたを忘れるために必死だった。あの日、本当は一度振り返ったんだよ。気の迷いだったって言ってくれるんじゃないかと思って。戻ってみたらあんたの姿はどこにもなくて、愕然とした」
シルヴァンは抱きしめる腕の力を強めていく。このままいくと折れてしまいそうだったが、口を挟める状態ではないと判断してされるがままになっていた。
「女を抱くことになったのはいいきっかけだと思いましたよ。これで忘れられると思ったときに、たまたま出た先で、後ろ姿のあんたを見つけた。すぐにベレスだって気づいたことに吐き気がしたんですよ。俺はちっとも忘れてなかったって。それどころか、本当は、あんたが良かったって思った。見知らぬ女を抱くくらいなら、あんたを抱きたかった」
肩がしっとりと濡れていく。目の前にいるのはまるで大きな子供だ。ベレスは彼の赤い髪を優しく梳いてやる。落ち着かせるように、何度も。
ここまで告げられて、彼がベレスをどう思っているのか分からないほど朴念仁ではなかった。
だが、未来のシルヴァンはベレスをそうは思っていないだろう。殺してやりたいとさえベレスに告げた彼と今は和解をしているが、男女というよりもやはり先生と生徒という立場である。
だが、これまでのことを夢と切り捨てることはできそうにない。あまりにも現実味を帯びているのだ。
「シルヴァン」
「何です?」
「私はいつかの未来で君と会うよ。そのときの私はきっと君を忘れている」
「急に何の話を」
「私は君の心を踏みにじるよ。自覚もなく」
士官学校へやって来たばかりのベレスでは上手く理解は出来ないだろう。あの頃のベレスの世界には親であるジェラルトとそれ以外で作られていた。それだけで満たされていた。
しかし、ベレスは生徒たちから教わったのだ。教えられ、時間を重ねて少しずつ人間に近づいた。様々な感情も昔に比べれば分かっていると思う。まだベレスはシルヴァンを傷つけることしか出来ない。
シルヴァンは痛みを堪えるような声色でベレスへと告げる。
「未来じゃなくて、今じゃ駄目なのか。あんたがずっとここにいてくれれば」
「今は駄目」
「ひどい女だな。あんたのこと忘れてやりてえよ」
「本当に、そうだね」
でも、ベレスを見つめるシルヴァンの目はひどく優しかった。慈しみも悲しみも愛おしさも憎悪も全て詰め込まれて、ベレスへと注いでいる。ただ見つめられているだけなのに息が詰まりそうだった。こんな経験は初めてだと思う。
結局、シルヴァンはベレスを抱きしめたまま眠りについてしまった。
逃さぬためかがっちりと抱え込まれている。
「未来の君は、私のことを」
きっと愛してはいないんだ。すまない、シルヴァン。
ベレスも目を閉じて襲いかかる眠りに身を委ねる。徐々にベレスがいた時間へと近づいていく。
あと少しでこの夢の時間も終りを迎える予感があった。
【Ⅴ】
目が覚めると辺りは明るく、見覚えのある訓練場にベレスは立っていた。午頃になるのだろうか、隙間から覗く日はまだ高い。
ぼろぼろになった藁の人形には真新しい傷跡が増えている。誰かが先程まで使っていたように見受けられた。
「ベレス」
声をかけられて振り向いた。その声の主をベレスはもう分かっている。
「久しぶり、シルヴァン。まだ覚えてたね」
「生憎と記憶力はいいんでね。残念だよ、全く」
鍛錬をしていたのはシルヴァンだったようだ。水を取りに戻っていたらしい。未だに額からは汗が流れ落ち、乱雑に拭っていた。
「俺、ガルグ=マク大修道院に行くんですよ。士官学校に入学するんです、殿下の護衛も兼ねて」
「そう」
「逃げるチャンスは今しかない」
静かに、何でもないようにシルヴァンは口にした。もし、誰かが聞いていれば腰を抜かすであろう発言だ。それほどまでにシルヴァンにかけられた期待は大きい。逃げるのはゴーティエ家、紋章、待ち受けている運命からという意味だろう。
そうなればシルヴァンとベレスは再び出会うだろうか。
いや、きっとそうはならない。これが最後の会話になると思う。
シルヴァンは再びベレスの方へと視線を向けた。
「逃げたらあんたはがっかりするかな」
「しないよ」
「どうして?」
「君が選んだことだから。逃げても、学校に入るとしても私は君の選択を尊重する」
「逃げた先にあんたはいるのか、ベレス」
いない、と示すように首を左右に振った。シルヴァンは苦虫を噛み潰したような顔をしている。
「他人事だからって、あんたな」
「君が、君の意思で選んだんだろう? 選ばされるのではない、選べることは自由だ」
「……あーぁ、嫌だね。教師みたいなこと言って」
「私は教師だよ」
「覚えてますよ、それも。嫌味を言っただけです」
シルヴァンは子供の頃から得体のしれぬ存在であったベレスのことを一つも取りこぼさずにいてくれたらしい。彼は大きくため息をついてから、改めてベレスへと向かい合った。
「ならば俺はあんたに会いに行く」
「これから君と会う私は覚えていないよ。それでも?」
「いいですよ。初めましては得意なんでね」
「君にとって苦難の道だよ」
「どっちもそうでしょ。それなら俺はあんたを選びますよ」
目を細めて、少年のようにシルヴァンが笑った。そんな笑い方をする人だということを、ベレスは初めて知った。
言葉では伝えきれず、どうしたらいいのか戸惑ってしまう。口下手なのが今はとても悔やまれる状態だ。
あちこちと視線を彷徨わせて、ふと、シルヴァンの手に目が留まる。
「すまない、手を出してもらってもいいだろうか」
「まあ、いいですけど」
差し出された手をベレスは両手で掴んだ。彼はぎょっとした顔をして、思わず引っ込めようとしたけれど慌てて引き止めてしまった。
「知らない一面を知ることが出来て嬉しかったなと思ったんだ」
「それで手を握る必要ありますかね?」
「感情表現が下手だから、生徒たちからアドバイスをしてもらっているんだ」
「変なやつ、引っ掛けないでくださいよ。不安になってきた」
「そんなことはないよ」
手を離すとまだ誰かに手を握られている感覚がした。
「先生」
シルヴァンの声が聞こえる。シルヴァンは目の前にいるのに、どこか遠くから聞こえたような音だった。きょろきょろと辺りを見回しても誰もいない。
「先生」
悲痛な声だった。あれだけ長くいても、初めて聞くシルヴァンの声だ。
訓練場の外から聞こえている気がする。握られている力がどんどん強く、熱くなっていく。
行かなくては。
理由なんて分からない。でも、誰かが導いてくれている気分だ。小さな手に背中をそっと押されて、ベレスは慌てて振り返った。
懐かしい少女の姿を見た。
ソティス。言葉は声にならなかったけれど、彼女は分かっていると言うように頷いた。
「馬鹿者。教師が生徒を泣かせてどうする」
うん、そうだね。行かなくちゃ。
ベレスは堪らずに駆け出した。後ろからはシルヴァンの声がかけられる。
「待ってろよ、俺の神様!」
ベレスはひたすらに前に浮かんでいる光を目掛けて駆け抜けていた。もう手が届きそうなのに、未だに触れることも敵わない。だが、諦めるわけにはいかなかった。
千切れそうなほど足を動かす。それでも必死で手をのばすと、誰かがベレスの手を握り返してくれた。
「先生」
もうずっと聞いている、生徒の声だった。
【Ⅵ】
ベレスが目を覚ますと見覚えのある天井が視界に入った。ガルグ=マクで与えられていたベレスの私室である。指を動かそうとしたが、誰かが掴んでいるようで上手く動かせない。視線を辿っていくと見覚えのある赤い髪が見えた。
「シルヴァン」
声がひどく掠れている。まるでずっと使ってなかったような声色だった。
こんなところで寝ると風邪を引いてしまう。何とか体を起こそうとする前に、シルヴァンが眠りから覚めたのかゆっくりとベレスを見上げていた。
「せんせい……?」
「シルヴァン、風邪を引いてしまう。体も痛めてしまうよ」
「先生……!」
シルヴァンに体を抱き寄せられ、痛いくらいの抱擁を一方的にされる。起きたばかりで上手く記憶の整理がつかず、ここまで必死になっているシルヴァンを見るのは随分と久しぶりのような気がした。
「生きていてよかった、あんたが、戻ってきてよかった」
「シルヴァン」
「ほんとうに、生きていて、よかった」
何度も同じ言葉をシルヴァンは繰り返す。その度に抱きしめている力が強くなっていくのでベレスの体は痛みを訴えていた。様子を見に来たメルセデスが来なければずっとそうしていたであろう。
ベレスはシルヴァンから離された後は懐かしい顔ぶれに囲まれ、彼は別室にてすぐ報告をしなかったことと怪我人を抱擁したことでメルセデスから注意を受けている。
事の起こりは闇に蠢く者たちの残党らしきものを見つけたと報告が上がったことだろう。大司教として対抗できるベレス自らが向かうことにした。勿論一人で向かったわけではない。戦場で背中を預けた、かつての生徒たちを連れて目的地へ向かったのである。
報告に上がったものはガセではなく真実であった。目的地であった洞窟の中からはたくさんの遺体が見つかった。禁呪を発動するために集めていたのだろう。腐臭があちこちからしている。
見つかった残党はそれでもベレスたちに抗い、あともう少しで追い詰められるときに残党たちの命も捧げて禁呪は発動してしまった。黒い靄が次第に矢の形へと変わっていく。黒い矢をベレスは薙ぎ払ったが手応えがない。そのまま標的であったベレスを貫き倒れてしまった。
すぐにメルセデスが傷口を治してもベレスは目覚めることはなかった。呼吸は少なく、死人のようであったらしい。
事実、セテスがベレスを見て分かったことだが無理やり体と魂を分離させられた状態だったそうだ。呼び戻すための方法を生徒たちは必死で探し続けてくれていたらしい。様々な文献を読み漁り、生徒たちが何度呼びかけてもベレスはずっと眠り続けていたようだ。
一年間は眠り続けていたらしい。どうりで上手く話せないわけだと納得した。
「大変なときに迷惑をかけてしまったね。すまなかった」
「謝らないで下さい、先生。わたくしもどうしたらいいのか手立てがなくて、ですから本当に、良かったですわ。また会えて、本当に」
ぼろぼろと泣いてしまったフレンの背中を優しく撫でる。大司教として就任したばかりだというのに、各方面に早くも迷惑をかけてしまった。
まだ体力は戻っておらず、リハビリを経てから公務をすることになるそうだ。
ベレスの付添はメルセデスやフレンが担当するはずだったのだが、何故かシルヴァンが部屋にいる。
「君、城に戻らないとまずいのでは?」
「もう陛下には伝えてありますからご心配なく。今日から俺が先生の体力が戻るまで世話をするんですよ、男手が必要な場面だってあるでしょう」
確かにそれはそうかもしれない。力尽きた私を彼女たちに運ばせるわけにもいかないだろう。二人がベレスの重みで潰れる姿が想像できる。そうなると確かにシルヴァンの方が有り難い。
だが、問題はそれだけではないのだ。
「君の手が必要じゃないかな、ディミトリは」
「あの方はもうそのような子供ではありませんよ」
「そうではなく、執務の忙しさという意味で私は」
「さーて、先生。何か食べたいものはあります? 俺の料理、美味いって意外と評判なんですよ」
体の良いサボりの口実を与えてしまった気がする。
結局、シルヴァンに流されるまま彼は私の世話役としてガルグ=マクに滞在することとなった。シルヴァンは食事の世話だけでなく、移動やリハビリでもずっと付き添ってくれていた。様子を見に来たフェリクスが「あそこまで甲斐甲斐しい男だったか?」と聞いてくるくらいだ。幼馴染である彼にも分からないのならベレスにだって分かるはずがない。ディミトリの方はまだ忙しく、まだ顔を合わせてはいなかった。
しかし手紙だけは毎日のように届けられており、過保護になったものだなと苦笑しながら大切に読んでから文箱に仕舞う。
「陛下からの手紙、嬉しそうに読みますね」
殿下と呼んでいたシルヴァンも今やディミトリを陛下と呼ぶようになった。私室にてシルヴァンから持ってきてもらった紅茶を飲みながら、勿論と言葉を返す。
「大事な生徒からの手紙を喜ばない教師はいないよ」
「じゃあ、もし俺が先生に手紙を渡しても喜びます?」
「勿論。君のも大事に読むよ。当然だろう。けれど、やはり申し訳ないな。本当はシルヴァンをディミトリの元へ返さねばならないのに」
「俺は先生の隣にいられるので問題ありませんよ」
にこりと笑うシルヴァンは見慣れた表情だというのに、とくりと心臓が動いた感覚がする。これでは彼と遊んでいた女子生徒と同じだなとこっそり思った。
特別だと勘違いしそうになる。
「君を好きになってしまう女性の気持ちが分かるよ」
再び紅茶に口をつける。シルヴァンが淹れてくれたものはベレスが淹れるものよりも美味しい。お代わりを頼もうとして顔を上げると、強張ったシルヴァンの顔を見て失言だったことに今更気づいた。
自覚もなく、ベレスもまた柔らかな凶器を彼に向けていた。
「すまない。君にひどいことを言った」
「何がです? どこが、ひどいと? それとも俺の気持ちを知った上でわざと口にしたんですか?」
「シルヴァン?」
跪いたシルヴァンはベレスの手を取り口吻を落とした。物語の騎士のように、恭しく。
閉じられていた瞳が開かれる。真っ直ぐにベレスを映した瞳に、どうしたらいいのか途端に分からなくなって戸惑ってしまう。
そんなベレスの戸惑いなど見なかった振りをしてシルヴァンは口にした。
「俺はずっとあんたが好きなんですよ、ベレスさん」
息が詰まりそうだ。窮屈という意味ではなくて、呼吸が急に上手く出来ていない気がしてならない。シルヴァンに見つめられると、こうなってしまう。
突然の言葉に驚いたものの、その好きはかつての女子生徒に向けたものと一緒だろうか。
それとも、本気なのだと受け取っていいのだろうか。
「俺の神様、だから?」
あの日々を不意に思い出して告げてしまった。シルヴァンは何故か分からないけれどベレスを神様だと言っていた。別れるその日も、同じことを口にしている。
シルヴァンはくしゃっと顔を歪めて、ベレスの両手を取った。
祈りを捧げるように。
「いつから、……いつから、思い出したんだ?」
「目覚めたときに。でも私は神様と言ってもらえるような人間じゃない。君の先生だ」
「そんなもの、学校時代に嫌というほど思い知らされましたよ。あれは幼い俺が勝手に押し付けた幻想でしかない」
「がっかりした?」
「しましたよ。それどころかあんたはいつも自由で、妬ましくて、殺してやりたくて」
ずっと、愛おしかった。
じわりと胸の奥に沁み入るような声色だった。また、息が詰まる感覚がする。
「痛いな」
「先生、どこか怪我を」
「息が出来なくなりそうな気分になる。君に、そういうことを言われると」
ベレスを傷つける言葉ではないのに。落ち着かなくて、居たたまれなくて、逃げ出したくて。だというのに、まだ彼の声も言葉も聞いていたい。
「私はどこかおかしいのかな。メルセデスにやっぱり診てもらった方が」
「治せるのは俺だけですよ、先生」
握られた手の力が強くなる。
「他の奴らのとこに行かないで、いい加減、俺のところに来てくれませんか?」
また痛みがひどくなっていく。どうしたらいいのか分からない感情がぽろっと目から水滴となって零れ落ちていく。シルヴァンは驚いたのか両手を離し、ベレスの頬に手を伸ばそうとする。
だが、ベレスは両手を広げてシルヴァンに抱きついた。
「ふふ、やっぱり苦しいね。心臓も煩い気がする」
「先生」
「この疵は、君にしか治せないんだろう? でも治らなくてもいい。うん、それでもいい。この痛みも愛おしいから」
この疵を抱えて、いつか。
言い表せなかった言葉を彼に伝えたい。もし、この痛みが愛ならば、愛しているだけではきっと足りないんだ。
幼い頃のシルヴァンから向けられていた感情に、想いに対してあまりにもちっぽけだ。
シルヴァンは恐る恐るといったようにベレスのことを抱き返した。まるで壊れ物になった気分だ。
ベレスへ向けられる彼の声が震えている。
「もう返せませんよ。誰かのもとにやるつもりもない。あんたが嫌がっても、もう、誰にも渡せないんですよ」
「いいよ」
「先生」
「何?」
「俺と一緒に生きてくれますか? 今度こそ」
「勿論」
彼から伸ばされた手をベレスはようやく取った。シルヴァンは大きく息を吐き出し、ベレスの体を先程よりも強く抱きしめる。
「夢じゃないですよね」
「夢の方が良かった?」
「寝て覚めたらまたいなくなりそうなんで」
彼にとっての苦い経験を呼び起こしたようだ。そうだ、と妙案を思いついたようにベレスが口にする。
「じゃあ、一緒に寝る?」
「……はい?」
「起きて、今度こそ私がいれば夢ではないだろう? もう私は君を置いていかないよ」
「いや、そこじゃなくてですね、何言ってるか分かってます?」
「一緒に寝ようって言った」
「分かってましたね……。あのですね、先生、俺はもう十代のガキではないんですよ」
「知ってる。特別な人だよ」
シルヴァンはとうとう黙りこくってしまった。抱きしめていた体は離され、両肩を強く掴まれる。
「俺が襲うかもしれないんですよ、ベレスさん」
「襲うの?」
「俺が昔、色々と暴露したこと全部忘れてます? もしかして」
「抱きたいならあんたがいいって話?」
「ばっちり覚えてるじゃないですか……!」
「それでも、いいけれど」
ぽつりと呟いたベレスの言葉にシルヴァンは「え」と声を上げてまじまじと見つめている。何とか胸を張ってはいるものの、このままでは虚勢だと相手にバレてしまいそうだ。
彼は再びベレスの両手を取り、表情を和らげて口を開く。
「いつか、でいいです。万が一、これが夢だとしても俺は今日のことを思い出しながらあんたにつけられた疵を抱えて生きていける。それだけ俺は、焦がれていた」
目の前がぱちと弾けたような感覚に陥る。シルヴァンに触れられている手の部分が熱い。
不香の花も溶けるような熱だと感じながら、ベレスは小さく笑って彼の手を握り返すのだった。