政府のひぜさに SSまとめ休日の朝
瞼の裏が明るくて、私はゆっくりと目を開けた。カーテンの隙間からは柔らかな日差しが射し込んでいる。寝ぼけ眼で確かめた時刻はもうすぐ十時半になるところ。昨夜は目覚ましをかけずに寝てしまったのだ。今日が休日でよかった……と、ほっとしたところで、私の隣でもぞもぞと布団が動く。寝返りを打って横を向くと、こちらに背を向けた肥前忠広が丸くなって眠っていた。どうりで一人用のこのベッドが狭かったわけだ。いつからかうちに置いていったパジャマ用の黒のトレーナーは、彼の呼吸に合わせて微かに上下している。働かない頭で今日の予定が何もなかったことを思い出し、私は肩まで布団をかぶり直した。
こうして眠っている姿を見ていると、彼はまるで猫のようだと思う。警戒心が強くて、気まぐれで、自由で、俊敏な野良猫。私に懐いているのも気まぐれかしら、と彼に聞かれれば怒られそうなことを考えながら、私は彼の髪に手を伸ばした。普段なら気恥ずかしくて躊躇ってしまうことも、彼が寝ている今なら、私の頭が寝ぼけている今なら。無造作に乱れる黒と赤の髪は、実は見た目ほどふわふわとはしていない。彼を起こしてしまわないようにそっと触れると、芯のある髪が指の間をくすぐった。梳くように撫でればまるで幼子でもあやしているかのようだ。自分の何十倍も生きてきたものに対して見当はずれも甚だしい感想だが、この年若い青年のような姿に慈しみの念を抱かないと言えば嘘になる。特に目を閉じ口をつぐんで眠っている時などは。今は寝顔が見えないのが残念だったが、私はその代わり彼の背中に擦り寄った。掛け布団の中をもぞもぞと動けば、大陸がぶつかるように布団の山は一つに重なる。細く見える体躯ながらやはり男の人の背中だ。彼の体に添うようにくっつくと、私と同じシャンプーの匂いがほんのりと鼻をかすめた。背中に寄り添うのも抱きしめられるのとはまた違った安心感で心が満たされる。私は少しの間目を閉じて、去りきらない眠気に身を任せながら幸福な夢うつつに浸っていた。
そのうちに彼が微かに身じろぎをする。二度寝しそうになっていた意識が呼び戻され、私は顔を上げた。聞こえてきたのは布が擦れる音で、ゆっくりと動いた彼の腕はどうやら目元をこすっているようだった。
「……肥前?」
小さな声で呼びかけると、んん……とまだ半分寝ているような声が返ってくる。彼に触れたことで起こしてしまったのだろうか。いや、もしかして最初から起きていたのか? そんなことを考えながらも未だ彼の背中に寄り添ったままの私にようやく気づいたのか、彼は首から上だけ私の方を振り返った。そこにいつもの鋭い目つきはなく、半分閉じられた瞳は寝起きの気怠さをまといながら私に焦点を合わせようとしている。
「起きてた?」
「……おきた」
会話になっているようないないようなやり取りをしながら肥前は緩慢な動作で寝返りを打つ。やがて私の方を向いた頃には彼の瞼は瞬きというには少々長すぎる時間閉じられていて、私もまだ目覚めきっていないながらどうしても笑いがこぼれてしまった。
「ふふ、」
「ん……はよ」
「おはよう」
彼の手が私の体に回される。大きなあくびを一つして、彼の重たい瞼はようやく開かれた。
「起こしちゃった?」
「いいや」
「じゃあ頭撫でてたのは知らない?」
「んなことしてたのかよ」
頷く代わりに目を逸らしてはにかむように微笑むと、勿体ねえことした、と彼が珍しく口元を緩ませるから、私は再び手を伸ばして彼の頭を撫でたのだった。目を閉じておとなしく撫でられている姿はやはり猫のようだ。今にもゴロゴロと喉を鳴らしそうな様子で、彼は私の手に頭を擦り寄せる。
「……かわいい」
「かわいかねえだろ」
薄らと目を開いた彼は抗議する。しかし私がもう一度念を押すように「かわいいよ」と呟くと、もう反論も面倒になったのか、またあくびを一つして彼は私に同調した。
「はいはい、かわいい」
投げやりな声色が可笑しくて笑ってしまう。きっと、肥前も私もまだ寝ぼけているのだ。
「かわいい肥前くんはお腹空いた?」
「空いた」
私も、と言いかけて大きなあくびが出てしまう。彼のあくびがうつったのだろうか。滲んだ涙と共に目を開けると、先程までより幾分はっきりと目を開いた彼と視線がぶつかった。
「あんま油断してると食っちまうぞ」
「まあ怖い」
「思ってねえくせに」
微笑みのような息を漏らして、彼はいつも通り私を揶揄う。起き抜けから食べられるのはごめんだ。それにもうこんな時間なのだ。そろそろ二人とも空腹で腹の虫が鳴き出してしまうだろう。私は寝床の空気を肺に満たし、それから名残を惜しみつつ彼の腕の中から抜け出した。
肥前忠広の刀本体を見つけた話
デスクに戻ってきた私の目に入ったのは、机上に置かれた黒い何かだった。
「……刀?」
近づいてみると私の予感は的中する。しかも無造作に置かれた黒い鞘の刀には見覚えがあった。肥前忠広の刀だ。しかし、どうしてここに刀だけが? 私に用事があって待っていたところを急に誰かに呼ばれたのだろうか。そうだとしても刀を置いていくなど珍しい。頭の中でいろいろと推測しながら、私は湧き上がる好奇心を抑えることはできなかった。彼の刀を自由に見ることができる機会など今までほとんどなかったのだ。私は周りを見回して近くに肥前がいないことを確かめる。それから椅子に座って、そっと刀に手を伸ばした。
指先で触れた漆黒の鞘はひんやりと冷たい。すっと指を添わすと、鞘で刀身を迎えるように納刀する彼の手つきが思い出された。本物の刀を自由に触れる機会など政府職員をしていてもそうそうあるものではない。私は興味津々に拵を観察した。今度は両手で持ち上げてみる。見た目以上の重さだ。彼はいつもこの重さを操って戦っているんだ……そう実感しつつ、私は片方の手を柄へとやった。肥前の刀を構えた姿を思い出しながら控えめに柄を握ってみる。柄巻には使用感が現れていて、なぜかはわからないけれど心拍数が少しだけ上がるのを感じた。
しばらく柄を握ったまま柄巻や鍔を観察する。そして今度は刀の向きを変えようとした、その時だった。
「おい」
不機嫌な低い声がほんのすぐ後ろから響いた。私は思わず身を固くする。いつの間に戻ってきていたのだろうか。全く気がつかなかった。盛大なため息をついた肥前は、私が振り向くより先に刀を取り戻そうと手を伸ばしてくる。私はそれを拒むように反射的に刀を抱え込んだ。予想していなかったのだろう。彼の動きが止まる。
「……何のつもりだ」
「め、珍しいからもうちょっと見たいな〜、なんて……」
「斬れるぞ」
「鞘からは出さないよ」
肥前は数秒考えた後、舌打ちをして私の隣の席に投げやりに腰を下ろした。許された、と思っていいのだろうか。とはいえ私も本人が見ている前で刀をじろじろ眺め回すのもなんとなく気が引けて、刀を抱えたまま意味もなく時計で時間を確認したりするばかりだった。一方で肥前は眉をひそめたままで私と腕の中の刀をじっと見つめている。よく切れる刃物を手にしている緊張感はあるが、今はそれより彼の視線が痛い。
「そんなに心配?」
私の問いかけに、彼はため息混じりで答えた。
「あんた、おれが人斬りの刀だってこと、忘れたわけじゃあねえよな」
「なんだ、てっきり私が刀の扱いで何かしでかすんじゃないかって心配されてるのかと」
「は……、おまえなあ……」
彼は呆れたような表情を浮かべ、そのまま背もたれにもたれかかった。椅子が軋んだ音を立てる。
「度胸があるんだか馬鹿なんだか」
広げた足に片足を乗せて、彼は揶揄うようにそう呟いた。私は腕の中の刀を見る。たとえ人を斬ったことがあるとしても、道具に罪はない。この刀を、肥前を、私は心の底から信用しているのだ。
「そこは信頼されてるって思ってほしいなぁ」
「人斬りの刀を信頼するもくそもねえだろ」
「人斬り、人斬り、って……だって肥前は私を斬らないでしょう?」
彼の切れ長の目が驚いたように二、三度瞬く。私は今一度彼自身である刀をぎゅっと胸に抱えた。真正面から視線がしばらく交わって、やがて先に逸らしたのは肥前の方だった。
「……おまえ」
「なに?」
「刀本体の感覚は刀剣男士にもある程度伝わるって知ってるか?」
今度は目を丸くしたのは私の方だった。彼の言葉に私は慌てて刀を体から離す。ということは、もしかして彼が戻ってくるまでの間も私が触っていたことは彼にバレてたってこと……? 彼は鼻で笑って立ち上がると私の手から刀を奪う。軽々と肩に担いで歩き出す様は手慣れていて、やっぱり物は持つべき者が持つべきだと妙に感心を覚えた。
「あ、そういえば私に用事があったんじゃなかったの?」
「忘れた」
呼びかけにそう言い残して去っていく肥前。視界の端に見覚えのない色が映って横を見ると、彼が先ほどまで座っていた場所には桜の花びらが一枚残されていた。
キスするだけ
噛みつくようなキスとはこういうことを言うんだろうな……と、瞼の裏の暗闇を見つめながら、私は他人事のような感想を抱いた。荒々しく、というよりも獲物に狙いを定めるように押しつけられた唇は、私の呼吸まで食い尽くそうとするかのようだ。頬を両手で包み込まれてしまえばもう逃げ道などどこにもない。手錠をかけられるために手を差し出す罪人のように、獰猛な光を帯びた赤い瞳の前に動きを封じられれば、射抜かれてしまった私にはなす術は残されていなかった。
「……、っは。ひぜ、……」
ようやく離れたかと思えば、名前を呼ぶ隙も与えられず、彼は再び私の口を塞ぐ。目はまだ閉じたまま。頬に添えられた手の先は戯れに私の耳をひっかいた。この男は楽しんでいる。それをわかっていても私の手は彼の服をぎゅっと掴んだままで、主として、だとか、そんな理由を見つける余裕もなく、押し返す努力もせずに私は彼の口づけを受け入れていた。
離れそうになってはまた擦り合わせ、やがて最後に下唇を啄むように食んで彼はようやく私を解放した。吐息が鼻先をくすぐる。私は息を整えながらゆっくりと目を開いた。しかし、これがいけなかった。離れていったと思った彼の顔はまだほんの近くにあって、間近でその瞳とばっちり目が合ってしまったのだ。どくん、と心臓が跳ねたのを感じる。彼はくく、と喉の奥から笑いを漏らすと、私の鼻先に一つキスを落とし、それから今度こそ離れていった。
雨降りのお迎え(まだ付き合う前、両片思いの頃の話)
生きていると、何もかもついてない日というのがときどきある。たとえば今日だとか。私は閉店中の喫茶店の軒下で大粒の雨を降らす暗い雲を見上げため息をついた。出先で予想外の雨に降られ、運悪くカバンの中に折りたたみ傘もなく、傘を買えそうな店も近くになく、かと言って雨が止むまで待とうにもなかなか晴れる気配はなく……すがるような思いで連絡した肥前も私と同じく外出中で、職場の置き傘を持ってきてもらう望みは潰えてしまった。ここから職場まで歩いて約十五分。覚悟を決めて濡れて帰ろうか、それとももう少しだけ諦め悪く待ってみようか。見上げた空の機嫌は私にはわからない。
結局それから十分ほど待ってみたが雨は一向に弱まる気配すら見せなかった。仕方がない、強行突破だ。びしょ濡れで帰るとしよう。そう決意して雨の中に一歩目を踏み出そうとした矢先、私の前に立ち止まった人影があった。
「おい」
一瞬耳を疑ったが、幻でも何でもない。目の前に立っていたのは傘をさした肥前忠広だった。無愛想な表情のまま私を見る彼に、何を言えばいいのか言葉を探す。
「肥前も出先だからって、さっき……」
「置き傘を持ってくのは無理っつっただけだ。なんだよ、迎えに来て悪かったな」
「悪くない! 本当に助かった、ありがとう」
慌ててそう言うと、彼はほら、とばかりに傘をこちらに傾ける。彼の持つ傘はさしている一本だけだ。ということは、これは彼と相合傘をすることになる。曲がりなりにも彼に叶うことのない片思いをしている私にとって、こんなに緊張することもなかなかない。
「帰るぞ」
急かすような一言に、私は躊躇いがちに傘に入った。
互いに無言で歩く中、雨が傘を打つ音が響く。近づくと肥前の服は少し濡れていて、きっと彼も用意周到に傘を持っていたのではなく出先で降られどこかで買ったのだろうと予想した。正直に言うとこの状況は嬉しい。好きな人と相合傘で帰るなんて、恋愛漫画のワンシーンかと思うようなシチュエーションだ。ただ一つ恋愛漫画と違うのは、この恋はおそらく実らないだろうということ。私は胸の奥が焼き切れそうな思いを抱え続けていた。別に彼の気持ちを聞いたわけではない。でも彼が私なんかのことを好きになるなんて、そんなことあるはずがない。彼がこうして私の隣に嫌がらずにいてくれるのは、私が政府権限で彼を政府所属刀として顕現させた、彼にとっては主であるという関係があるからであり、また私たちが職務上の相棒のような関係であるからでもある。それだけのはずだ。嫌がられていないというだけでもありがたいのに、それ以上の関係なんて望むべきではない。頭では理解しているのだが、脇差の性分か、こうして世話を焼いてくれる姿に心が揺れる。叶わないなら彼に恋心を抱くなというのは無理な話だった。
「あんま離れんなよ」
彼の言葉に、考え込んでいた意識が現実に戻される。こちらを横目で見る彼は、濡れるぞ、と付け足した。私は少しだけ彼に体を寄せる。触れてしまいそうな距離に心臓の鼓動がうるさい。彼に聞こえてしまうのではないかと心配になるほどだ。私はなんとか自分の動揺を誤魔化したくて、意味もなく衝動的に彼に話しかけた。
「今日雨降るなんて天気予報言ってたっけ?」
「言ってなかったんじゃねえの」
「そうだよね」
ああ、もう。もっと会話の続くようなことを言えばいいのに、私の頭は上手く回らない。しかし一瞬で終わってしまったやり取りを彼が繋げてくれる。
「とんだ災難だったな」
「そう、だね。うん」
「なんだよ、煮え切らねえ返事」
災難だった、確かに。雨に濡れ、傘もなく、途方に暮れていたのは事実だ。でも肥前が来てくれたおかげで私の気持ちはもう晴れていた。こんな状況になるのならそれまでの不運があってよかったと思ってしまうくらいに。なんて単純な女なのだろうか。でも恋をしたらきっと誰もがそうなってしまうだろうと、何となくそう思う。私は思わず彼に正直に告げていた。
「肥前が迎えに来てくれたのが嬉しかったから」
彼からの返事が途絶える。言わなきゃよかったと、そう後悔し始めるのに時間はかからなかった。再び雨音ばかりが響き始めた傘の中、私は言い訳の言葉を探す。
「えっと……」
「別に」
見かねたように私を遮った肥前。隣の様子をうかがうと、予想に反して彼はあまり不機嫌そうな顔をしていなかった。
「あんたに風邪引かれると困るからな」
「そうだよね、私が風邪引いて仕事休んじゃったら肥前の仕事が増えるもんね」
「……そういうんじゃねえよ」
そう言って彼は少し早歩きになったから、私は置いていかれないように歩幅を広げた。
職場に着く頃にもまだ雨は降り続けていて、つくづく肥前が来てくれて助かったと思う。軒下に入り少しだけ名残を惜しみながら傘を出た私は後ろを振り返った。
「ありがとう、肥前」
彼は何も答えずに傘の水を切る。そんな彼の私が並んでいたのと反対側の肩は、黒い服の色が変わってしまうほど濡れていたのだった。