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    Les enfants déchue 永久に続く夜の下では太陽も月も意味を為さない。重だるく垂れ込めた暗い空には黒い日が浮かび、赤い光を荒々しく乾いた不毛の大地に投げかける。およそ生命らしい生命の見当たらぬ地は冥界の如く不気味に静まり、時折吹き抜ける風だけが時の経過を知る頼りであった。
     グラドロン。竜の言葉で王を意味する太古の地。そこは邪竜と呼ばれ忌まれし竜の一族の聖域。邪竜の気に満ちたそこはその種以外の全てを拒絶し、その種には福音と豊穣を与える。
     邪竜の聖域、その至高の領域たる神殿に赤い光が差し込む。がらんと静まり返った聖堂には大神たる竜を讃える幾つもの彫刻が施され、不気味な威圧感と厳粛なる聖性を湛えている。
     聖堂の奥、神を祀る祭壇に、一人の娘が座り込んでいる。祭壇に据えられた鏡を覗き込むその髪はグラドロンの黒き太陽のもたらす光の如き真紅。髪と同じ紅の双眸は、ただじっと鏡面を見つめている。暗く落ちた鏡面にはかつてエレオスと呼ばれた大地が映されている。
     だが、そこにあるのはかつて娘が見知った世界ではない。かつて娘の目を楽しませた色とりどりの花畑と風車は荒涼とした荒地に、峻険なる大地を彩る紅色の木々は灰色の砂漠に、雪と氷に閉ざされた叡智の地は虚無の塩の平原に、荒々しく厳しくも輝いていた砂漠は極寒の氷河に変貌し、その全てで黒き太陽が赤々とした光を降らせていた。寒々とした光景の中を生気の失せた表情の人間が点々と、ただ無意に生きている。否、死んでいないだけと言うべきかもしれぬ。
     かつて神竜と呼ばれた娘が眠りから覚めてどれほどの時間が過ぎただろうか。今やエレオスと呼ばれた地はなく、ただ「グラドロン」という名の地が広がる世界に残された一握りの人間と、それらを支配する邪竜の王とその娘達だけがあった。神竜がかつて見知った友は既に無い。目が覚めた時には、何もかもが終わってしまっていた。かつて神竜の子の内の半分を占めていた神たる竜の力はとうに失せてしまっていた。今、娘に残っているのは忌まわしい邪竜の血と、父とすら呼ぶ気も失せる恐ろしい支配者と、かつて妹だった存在、そしてうつろな無力感のみである。
     無感動に見下ろした鏡の中で、のろのろと当て所もなく歩いていた人間が化け物に追われ逃げ惑っている。少しの間怯えて走った人間は、やがて諦めたように動かなくなり化け物の餌食となる。グラドロンに残った人間に出来る事といえば、ただ今日を生き延びる事と、絶対の支配者たる邪竜の一族に供物を捧げる事のみであった。
     化け物に貪られる哀れな人間をぼんやりと見つめ、神竜の子は鏡面に触れる。指先が触れた箇所から波紋が広がり、別の光景が映し出された。グラドロンの神域に人間どもがのろのろと供物を運んでいる。今や奇跡のごとき存在となった野の菜に獣の肉、そして生きた人間。聖堂の祭壇に集められたそれらの前に巨大な竜が現れ、怯える贄を一飲みにする。黒々とした鱗は溶岩の如く不気味な光沢を持ち、喉と腹、翼の皮膜は毒々しい暗赤色。四肢ある蛇の如き、邪竜の王。そして、娘の父親。
     父親が怯え絶望する人間を生きたまま食らう様から目を背け、娘は座り込んだ膝に顔を埋めた。全てに目を背け、どれほどの時が過ぎただろうか。神竜の耳にちりちりという冷たい金属の音が届く。邪竜の鱗の如く深い黒に染められた衣を纏う娘がゆっくりと座り込んだ神たる竜のもとへ歩み寄っていた。どれほどの時が流れたのか、純白と黒銀が入り混じる髪は長く伸び、小さな裸の足はおろか聖域の床にまで垂れている。深紅の瞳には何かしらの情緒といったものが宿っておらず、乳色の整った顔立ちも合わせて精巧に作られた人形のよう。否、人形そのものと呼ぶべきかもしれぬ。その娘――神竜の実妹にして邪竜の御子――は神竜がかつて知った無垢にして金剛石の如く輝く意思を持った竜の姫君ではなく、グラドロンの王たる邪竜の忠実な僕であるのだから。
     俯く神竜の娘の背後で冷たい金属の音は止まった。娘の背に生温かい、生きた存在の重みがもたれ掛かる。お姉様、と呼ぶ声は無感動なそれであった。声に応えず、娘は駄々をこねるように首を振り、顔を膝に埋める。
    「あなたなど私のきょうだいではありません」
    「酷いですね。ここにいるわたしだけがわたしだというのに」
     妹を名乗る存在に、娘は弾かれたように振り返り、真紅の瞳に憤怒の色を浮かべて吠えた。
    「黙りなさい。私の妹はヴェイルただ一人です。あなたじゃないっ」
     真紅の瞳に怒りを湛える神竜の子に対し、邪竜の娘は同じ色の瞳に何ら感情らしき色を持たないまま緩く首を傾げた。
    「いいえ、わたしはわたし。あなたの妹ですよ、お姉様」
    「違うっ」
     神竜は激しく首を振った。瞳と同じ真紅の髪が聖域の墓所の如き重く垂れ込めた大気に舞う。
    「あなたはソンブルに作られた存在。私の妹ではありません。私の妹は優しくて、暖かくて、あなたのような残酷な存在などではありません。あなたなんて私の妹じゃ、ヴェイルじゃありません。妹を、あの子を返してっ」
     血を吐くような神竜の叫びに、邪竜はゆっくりと瞬きを繰り返した。
    「お姉様、あなたは何か勘違いをしていませんか」
    「そうやって、私を騙そうというのですね」
     眦を吊り上げる神竜に、邪竜は黒い手袋で覆われた細い指で薄い唇をなぞった。薬指に嵌められた指輪が赤い光にちらりと光る。
    「……お姉様、お姉様はわたしの中に『わたし』と『私』がいると思い込んではいませんか」
     応えない神竜に娘は続ける。
    「否定はしません。確かに、かつてわたしの中には『わたし』と『私』がいました。お姉様がそう思うのも無理はないでしょう。ですが……」
     娘の血の如き紅い瞳がきろりと神竜を見据えた。
    「今ここにいる『わたし』は間違いなく『わたし』です」
    「いいえ、いいえ。あなたは嘘をついている。あなたはあの子じゃない……」
    「……姿が変わったから信じられないのですか? 悲しいです。では、これでも信じられませんか」
     邪竜の手が長く伸びた髪を飾るティアラ、その側面から伸びる角を模した飾りを握る。息を呑む神竜の前で、娘の手が飾りを根本から折った。再び開いた娘の瞳は、変わらぬ血の色のままであった。
    「分かりましたか? わたしは紛れもなくあなたの妹
    、『ヴェイル』なのですよ。お姉様」
    「嘘、嘘です」
     神竜は信じられなかった。目の前の存在が、無垢で優しい、幼き邪竜の姫君にして大切な妹であるなどと信じたくなかった。かつて妹の中にあった「邪竜の娘」として作られた残忍な存在であると思いたかった。目の前の無感動でグロテスクな生き物が、自己の記憶にある、自分をお姉ちゃんと呼び慕った存在と同一であると認めたくなかった。
    「お姉様。お姉様が……お父様の前に膝をついて、どれ程の時間が過ぎたと思いますか」
     応えない娘に邪竜は続ける。
    「一千年です。あなたが倒れた後、お父様はわたしに取引を持ちかけました。あなたの命と引き換えに、絶対の服従を誓えと」
    「……そしてあなたはそれを呑んだのですか」
    「いいえ」
    「では、なぜ……」
    「わたしは抵抗しました。お姉様も、皆も、わたしが守ってみせる……などという浅はかな考えを持っていたのです。わたしだけでも父を止められる力があると思い上がっていたのかもしれません。ですが、そうはならなかった。元より指輪の力を引き出す事も叶わない出来損ないで、邪竜という醜く哀れな種に生まれたわたしでは当然の結果だったのかもしれません。後悔したときには全てが遅かった。残ったのはお姉様とわたしだけでした。お父様は皆を……、わたしが友達だと思っていた人間達を殺滅し、あなたとわたしだけを残した。そして、異界よりエレオスに戻り、人間達を支配するようになりました。あれ程までに異界への侵攻に拘泥し、娘に興味を持たなかったお父様が、なぜ今になって翻意したのかはわたしにも分かりません。お姉様の言葉に何か思うところがあったのかもしれません」
    「お父様はエレオスの人間という人間を殺戮しました。エレオスに蔓延る人間を一掃し、邪竜の一族でこの地を満たそうと言うのです。お姉様の中から神竜の力を消す為に、お父様は一千年の間、自身の力を注ぎ続けました。そして、わたしには牙を剥いた罰として痛苦と絶望を与えました」
     絶句する神竜を前に、邪竜の娘はゆるゆると頭を振った。
    「……お姉様とわたしだけが残った後、何百年もの間、わたしは縛られたまま苦痛を味わう事になりました。今度こそ、二度とお父様に牙を剥く事がないように。痛みになら耐えられます。これまでずっと、与えられてきたものですから。お父様はわたしの中の衝動をわたし自身で制御出来ないようにしました。かつてわたしに施した術はわたしの中に『私』を作り出しましたが、二度は通用しないと考えたのでしょう。わたしはわたしのまま自分で自分を抑えられなくなった。わたしは遠い昔に自分の力を石に込めて捨てました。しかし、力を得たお父様はそれを見つけ出し、わたしの中に戻してしまった。もうわたしは自分で施した首輪と足枷を以ってしても衝動を制御出来なくなってしまった。お父様は生き残った人間達を集め、縛られていたわたしを外へ連れ出してそこへ放しました」
    「……その時のことはよく覚えています。今から……二百年と五十年ほど前の事。わたしは地下深くに鎖で縛られ、絶え間ない痛みと、父が人間を殺戮する様を見せつけられる苦しみに苛まれていました。眠る事も、食べる事も出来ないまま。お父様は縛られて悶え苦しむわたしを地上へ引きずって行き、やせ細って怯え、絶望で無気力となった人々の前で鎖を解きました。自由になったわたしの中で恐ろしい心が芽生えました。この人間に牙を突き立てたらどうなるだろうって。かつてのわたしであればそのような衝動を理性で抑えられたでしょう。しかし、わたしの中は既に残酷な好奇心でいっぱいでした。ええ、お姉様のご想像の通りです。あの時の……苦くて、ツンと酸い、血と肉の味は……よく覚えています」
     邪竜の娘の端正な顔立ちに、初めて色らしきものが宿った。神竜によく似たつくりのかんばせが目を閉じ、眉を寄せる。
    「……それで、あなたは絶望して、ソンブルに服従してしまったのですか」
     神竜の言葉に、邪竜は困惑するように顔を背けた。
    「いいえ……。いえ、そうだと言っても良いのかもしれません。わたしは鎖を解かれた後も何度もお父様に抵抗しました。お父様は人間達を邪竜に使役されるべきものとして、完全には滅ぼさなかった。人間が生き残っているのならば、希望を失わなければ、何百年、一千年と時を要したとしても、いつかはお父様を下すことが出来ると思っていました。でも……、わたしがお父様の下を抜け出して、人間達に接しても、どれほど彼らを勇気づけようとしても、もう人間達には邪竜に牙を剥く力は残っていなかった。ただわたしを邪竜の御子と畏れ崇め、自分達の子供を生贄として差し出すだけ。そして、わたし自身もわたしの中に渦巻く邪な好奇心を抑えられない。人間達に希望を持たせてから、目の前で彼らの子どもを食べてしまったら、どんな顔をするだろう? 人間の体を噛んで振り回したらどのくらいで千切れてしまうのかな? そんな考えがふと浮かんできて止まらないのです。今こうして話せているのも、お姉様が私と同じ竜だから……。人間の前に出れば、わたしは自分の好奇心を止められなくなる。この形を維持する事も難しくなる。今わたしがこの形でいられるのも、お父様が私に首輪をかけているからに過ぎません。わたしがわたしを制御出来なくなれば、ヒトの形ではいられない。二百と五十年前のように、本来のわたしの姿に戻って快楽のままに振る舞うでしょう。だんだんヒトを襲って食べる快楽が強くなっているのです」
     深紅の瞳からぱたぱたと雫が落ちる。
    「もう疲れてしまった。邪竜は邪竜、人を救う神竜には、お姉ちゃんのような優しい竜にはなれなかった。もう諦めて楽になりましょう? 逆らわなければ、お父様に痛めつけられる事もない。黙っていれば人間達が食べ物を持ってきてくれます。どうせこの世界はもう終わってしまったのです。わたしはもうお姉様がいて、お父様が時々わたしを見てくれればそれでいい……」
     神竜は口を引き結んだ。神竜は目の前の邪竜と同じ時を生きてはいない。神竜が現実に見聞きし、何かを考え、行動した時は刹那の如く短く、閃光の如く一瞬の合間に過ぎなかった。
    「いいえ、いいえ。私は諦めません。人が救いを求める限り、諦めない限り、何度敗れてもそれは負けではない筈です。あなたがもし私の妹であるのなら、それを知っているのではありませんか」
    「ふふふ……」
     引き攣るような笑いに、神竜は眉を吊り上げた。
    「何がおかしいのです」
    「お姉様は多くの人に愛されていたのですね」
     邪竜は息を吐き、ゆっくりと背を向けた。長く伸びた髪が床を引きずる。神竜がかつてよく見知った色であった。
    「お姉様。希望の最期は何だと思いますか」
     神竜の返答を待つ間もなく邪竜が言葉を続けた。
    「希望の最期は死ではありません。絶望です。では、絶望は何から生まれると思いますか? 孤独と分断です。わたしはずっと一人でした。わたしがわたしとしてはっきりとした自我を持つ最初の記憶は、母と共に人間から隠れて生きていた頃のものです。人にわたしの正体が知れれば殺される。母はわたしに人を憎んではならないと教えましたが、邪竜と交わった罪でわたしの身代わりに火刑に処されました。父はわたしを父の子として、邪竜の娘として認めませんでした。わたしにとっては生き別れたお姉様の存在だけがこの世界に縋る縁だった」
    「お姉様。あなたもわたしのことを名前で呼ばないのですね。わたしの形が変わったからですか? それとも……、わたしがお姉様の妹として相応しくない性格だから、ですか?」
    「……その、どちらもですよ」
     目を閉じ、神竜は苦々しげに言葉を吐いた。そうですか、と邪竜は呟き、深紅の瞳だけを神竜へ向ける。
    「お姉様もやはりお父様の子ですね。自分が認めたわたししか認めない……」
    「そうかもしれません。ですが、やはりあなたを私の妹として認める訳にはいきません。私はあなたほど人間に、世界に、自分自身に絶望していません。今はできなくても、何千年かかっても、必ず私は私の願いを叶えます。母さんは私に何を思い出したとしても、神竜として胸を張って生きろと言ってくれました。私は世界を救う竜として生きます」
     神竜の答えに、邪竜は乾いた笑いを返した。
    「以前のわたしであればその言葉に救われたのでしょうね」
    「……人間は愚かですよ。邪竜のわたしから見ても救いようがない程。力ある存在が救ってくれるのを待ちわびているのに、どれほどわたしたちが救おうと努力しても、百年もすれば忘れてしまいます。たとえお姉様が人を救い、神竜と讃えられても、やがて竜としての衝動を抑えられなくなれば邪竜と貶め、獣と同じように狩るでしょう。わたしの母を火刑にかけた時のように」
    「わたしはお姉様を案じているのですよ。竜はいつか、必ず狂う時が来ます。竜の衝動は宿痾。それを知っていたから、わたしは自分自身を戒めていました。でも、もう無理なのです。わたしの理性はもう、あと千年も持たないでしょう。早ければ数百年の内には獣になり、快楽に身を委ねてしまう。あるいは、もっと早いかもしれません。そうなれば言葉を忘れ、人の形を取ることも出来なくなる。お姉様もそれは同じです。わたしと同じ血が流れているのですから」
    「わたしが狂ってしまうのはもういいのです。元より邪竜の身、人間に忌み嫌われる存在、神竜にはなれないのですから。ですが、お姉様がわたしと同じ存在に堕ちるのは……、人間達に貶められるのは、耐えられない。それくらいならば、人間達なんてずっとお父様に隷属するだけの種でいい」
    「ねえ、お姉様。もう、いいじゃないですか……。わたしはお姉様が側にいてくれれば、もうそれでいいのです。それ以上何も望みません。何度も足掻いて、それ以上の苦痛を味わうくらいなら、足掻いて、必死に掴んだ希望の先に待ち受けるのが狂気と堕落なら、もう……お父様の支配の下で鎖に繋がれていた方がいい。お父様が支配する限り、お姉様とわたしの命だけは保証されます。人間に邪竜と貶められる事もありません。逆らわなければ痛い思いをする事もありません。宿痾に囚われ理性を失っても、処分される事はありません。お姉様がわたしと一緒にお父様に服従すると誓えば、お父様にお願いすれば無意味な殺戮も控えてくれるかもしれません。お父様はあれ以来、少しだけわたし達を見てくれるようになったんですよ。もしかしたら、家族としてやり直せるかもしれない。お姉様と、わたしと、お父様でもう一度やり直しましょう?」
     立ち尽くす神竜に、邪竜は身を寄せる。あれ程小さかった体は長い眠りの間に変わってしまったのか、神竜と目の高さが変わらない程に育っていた。未だ困惑と拒絶の色を滲ませる神竜に、邪竜は左手を開いてみせる。薬指に指輪を嵌めた手のひらに、擦り切れてぼろぼろになった黒い布があった。
    「お姉様、これが何か分かりますか」
     神竜は答えなかった。邪竜の紋章が刺繍された黒い布は、かつてエレオスがあった頃の信仰において用いられた聖布である。そして、かつて神竜が妹に贈った、かけがえの無い存在である事の証明を包んだ御守りであった。
     一千年もの時が経てども大切にされていたであろうそれはぼろぼろに擦り切れてなお形を留めていたが、そこに包まれていた指輪は無くなっていた。
    「お姉様から頂いた指輪は、お父様に砕かれてしまいました。わたしを地下に繋いでいた際に、わたしを苦しめる為に壊してしまったのです。その時の事もよく覚えています。それだけはやめて、ってあの時のわたしは泣き叫んで懇願しましたが、お父様は何の力も宿らない指輪などわたしの心を砕く用にしか役立たぬと言って砕いてしまいました。鎖に繋がれていたわたしには何も出来なかった」
     空になった聖布をじっと見下ろし、邪竜は続ける。
    「ですが、指輪が無くとも、お姉様がいます。お姉様とわたしの中に流れる同じ血が、わたしたちは家族だと証明してくれます。あの時から、わたしのお姉様への心は変わっていません。妹として、ただ一人のパートナーとして、あなたを守りたいと思っています。そして――」
     邪竜の言葉はけたたましい足音で遮られた。神竜が顔を上げれば、聖堂に人間の集団が現れていた。二、三十人ほどの人間達はなけなしの武器を手にここへやって来たのだろう。襤褸の隙間から覗く体つきは皆痩せこけ、髑髏のような顔にぼさぼさの髪がざんばらにかかっている。落ち窪んだ眼孔には血走った目がぎょろぎょろと蠢き、手に手に取った武器は武器とは言えないほど粗雑だ。裸の足は小石や固い岩盤で傷つき、豆が潰れて血が滲んでいる。
    「お、おそろしい、じゃ、邪竜の娘め……」
     掠れた人間の声は荒野を吹き抜ける乾いた風のようにうつろで、明確な恐怖を孕んでいた。
    「おまえら、おまえらさえ、いなければ」
    「息子を、息子を返して」
    「人喰いの化け物め、地獄に落ちてしまえ」
     口々に罵る人間達に神竜は苦々しく口を引き結んだが、邪竜は無感動な瞳であわれな群れを見下ろしていた。乳色の端正な顔立ちと、滑らかな素足が人間達のいでたちにあまりに不釣り合いだった。
    「……お姉様、行きましょう」
     感情の色のないままの瞳で邪竜の娘は囁き、神竜の手を掴んで引いた。手袋越しにその手が震えている事に神竜は気付いた。何かを言おうと口を開いたが、神竜の言葉は人間達の罵声にかき消された。空を切る高い音。神竜の頬に何かが掠め、掠めた箇所が赤熱し血が滴った。聖堂の床に血の付いた粗末な矢が落ちた。姉の顔を凝視する邪竜の目に明確な嫌悪と侮蔑、嘆きと悲しみの色が映るのが見えた。人間達が有らん限りの罵倒句を並べているのが聞こえる。
     だが、遠くに聞こえる人間の声よりも、神竜の目は娘に釘付けになっていた。聖堂に注ぐ赤い光に染まった白いかんばせの、神竜と同じ深紅の瞳が赤みを増している。分厚い首輪を嵌めた細く白い首に鱗らしきものが生じるのが見え、神竜は目を見開いた。邪竜と目が合う。
    「お、ねえ、ちゃ、ん……、み、ない、で」
     血を吐くような声は既に正気のそれではない。手を掴む黒の手袋の、華奢な指先を突き破り鉤爪が生えた。裸の足のつま先が見る見る内にねじ曲がる。床に流れる長い髪を裂いて翼が隆起した。
     呆然と立ち尽くす神竜の目の前に、邪竜の御子が顕現していた。四つ這いの前腕とつま先は黒い鱗に覆われ、胴と頭は羽毛が生えている。白と黒が入り混じる羽毛は所々が赤褐色に汚れ、蛇に似た顔立ちには血のように赤い瞳が光っている。娘の変じた竜に人間達はたじろいだが、勇敢にもひとりの青年が錆びついた斧を手に奇声を上げて打ち掛かった。斧の刃が竜の肩に食い込む。だが、竜は何事も無かったかのようにぴくりともしない。色を失った青年を竜の鉤爪が掴み、床に押し倒した。竜が口を開き、青年の頭を噛む。そのまま犬が玩具で戯れるが如く力任せにぶんぶんと振り回すと、紙でできているかのように人間の体が宙を舞い、やがて肉が裂ける音と共に胴体が頭から離れ、血飛沫を上げて床を転がった。絶叫を上げた女の声に邪な好奇心を掻き立てられたのか、残忍な悪意に満ちた紅い一対の目が女を捉えた。女が蛇に睨まれた蛙のように固まる。血染めの羽毛に覆われた口から甲高い鳴き声を発し、竜が飛びかかる。
    「やめてっ、やめなさいっっ」
     我に返った神竜が叫んだ時には女は上体を食いちぎられていた。ぶちぶちと肉を食いちぎる音、骨を噛み砕く鈍く湿った音を立て、邪竜は人を喰らう。悲鳴を上げ我先に逃げる人間に凶暴な衝動を駆り立てられた竜が、それらを追い立てる。足をもつらせ転んだ年嵩の女を猫が虫を嬲るように爪で引き裂き、柱に登って難を逃れようとした男の足を噛んで引きずり下ろし、床をひき回して生きながら挽肉に変える。正視に耐えない一方的な殺戮に神竜は喉が裂けんばかりに声を上げる。若い女の腹を生きたまま喰らっている竜の血塗れの腕にしがみつくと、竜は絶命した女に興味が失せたのか神竜の涙で濡れた顔をじっと眺めた。
    「どう、して……、どうして、こんな惨い事が出来るのですかっ、これがあなたの本性なのですかっ、あなたはこんなに残忍な竜ではなかったのではないですかっ、私と共に世界を救う竜になると約束したのは嘘だったのですかっ、わ、私は、私は……、うう、うあああぁ……」
     赤黒く血生臭い羽毛に崩れ落ち、神竜の子は慟哭した。信じたくなかった。目の前の邪竜が妹である事を。妹の本質がこのような残忍な竜である事を。何より、愛する唯一のきょうだいが変わってしまった事を。
     いっそこのまま覚めない眠りに落ちてしまえばどれほど楽だろうか。しかし、神竜の子のうちにある母との約束がそれを許さない。何を思い出しても、何を知っても、神竜として、人を守り世界を救う竜として生きる事を選んだのは自分自身なのだから。
     どれほど涙を流しただろうか。声が掠れ、目がひりひりと痛む。顔も服も、人間の血液でぐっしょりと濡れている。
    「う……」
     鱗だらけの竜の手が神竜の子の体を掴んだ。先程まで人間を引き裂いていた獰猛なそれではない。壊れ物の人形を扱うような優しい手つきであった。血塗れの竜の顔が神竜の子を覗き込む。目の下まで裂けた口が開き、血の滴る柔らかなそこから舌が伸び、血で汚れた顔にとめどなく流れる涙をそっと拭った。
    「どうして……その優しさを……人間に向けてあげられないのですか……」
     何度も何度も流れる涙を拭う血生臭く温かい舌にぐったりと身を預け、神竜は小さく呟く。最早神竜の子の正気を保つ縁は母との間で交わした約束のみであった。血液で濡れた羽毛に神竜の子は竜の宿痾を呪った。正気を失った竜は人間を害する邪竜に堕ちる。邪竜は人を喰らう。だからこそ邪竜は忌み嫌われる。あれほど純真で無垢で、優しかった、愛する妹が獣に堕ちてしまった事を嘆いた。
    「……もう、あなたはあの子ではないのですね」
    「ぐる、ぐあああああうう」
     神竜の子の言葉に、竜は高い鳴き声を上げた。かつて自分を背に乗せた母の白い姿を思い出し、神竜は再びぼろぼろと涙を溢した。
    「ううう……、ああぁ……」
     泣きじゃくる神竜の子をあやすように、獣は涙を舐め取り続ける。だが、神竜は決して目の前の邪竜を名で呼ばなかった。目の前の獣はもう妹ではないのに、涙が止まらなかった。このまま正気を失った方が楽なのかもしれない。だが、母との約束が未だに自分を理性と現実に縛り付けていた。胸が苦しい。どうしようもない孤独感と無力感が冷たい氷となってじくじくと広がっていく。
     怒りと悲しみと嘆きに己の感情が荒れ、その一方で無感動な自分がいる。目の前の獣も、自分が眠っている間に同じ感情を味わっていたのだろうか。頬を拭う温かい感触をどこか人ごとのようにぼんやりと感じながら、神竜はゆっくりと瞼を閉じた。
    「う……? うぐるるる、お……ちゃ、ん?」
     ぐったりと目を閉じたまま動かない真紅の神竜を抱えたまま、竜は口を動かした。閉じられた瞼からすうと雫が落ちる。それが竜にはどうしようもなく辛く、苦しかった。雫がもう溢れぬよう舐め取り、意識を手放したその生き物を口に咥える。あちこちに散らばる死体に目もくれず、祭壇の奥へ娘を咥えたまま歩く。聖堂の床に点々と血糊の足跡が残った。
     祭壇に捧げられた供物の布を集め、ぐしゃぐしゃと踏み整えると、竜はゆっくりと娘をそこへ横たえた。目を開く事のない娘の傍らに疼くまり、娘の汚れた顔や髪を舐めて整える。竜にとって人間は遊び道具であり、食べ物であったが、傍らの娘は間違いなく自分の家族であるという確信があった。自らの姉であり、最愛の存在であり、何に替えても守らなければならない相手であった。そして、叶うならばつがいとして生涯を添い遂げたいと思っていた。自らの思考は段々と単純化し、記憶は曖昧になり、衝動的な感情を抑える事が出来なくなっていく。次に姉と同じ形になるのは自力では難しいだろう。父に頼れば人の形にしてくれるだろうか。
    「お、……ゃ、ん、わた、……が、ま……る、から、ね」
     言葉らしい言葉を紡ぐ事が難しい口を動かし、竜は愛する家族へ血塗れの羽毛に覆われた額を擦り付けた。聖堂に光が差し込み、邪竜の娘達を赤く照らす。愛する家族を抱く生乾きの血に汚れた羽毛は、千年前と変わらぬ白銀と黒銀であった。
    cerizawa Link Message Mute
    2023/02/05 21:05:43

    Les enfants déchue

    エンゲージ リュール♀とヴェイル
    ネタバレと独自の解釈が多分に含まれます

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