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GALLERIA[ギャレリア]は創作活動を支援する豊富な機能を揃えた創作SNSです。

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    しおり
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    しおり
    causality「今日も失礼します、あっ、痛いいたい、やめてください」
     白くふわふわの羽毛の下に手を入れた男はすかさず情けない悲鳴を上げた。ぱっちりとした目を見開いた梟が手袋越しに男の手を啄むも、なお男は梟の腹の下をまさぐる。猛禽と男の仁義なき戦いは男が手のひらに虹色の宝玉を手にした事で決着した。
    「痛え……、子どもの頃に鶏の卵取ったことを思い出すなぁ……」
     手袋越しに若干の出血を認める手を摩りながら懐に宝玉を納め、男――エクラは頭を振る。
    「あっ、エクラ。丁度いいところに」
    「ア"ッ、やめてください! 俺には持病の腰痛が!」
     背後から轟く特務の隊長の声色に板を入れられたがごとく背筋をぴんと伸ばし、男はまたしても情けない声を上げる。大方の場合、特務の隊長アンナが男に声をかけるのは割のいいという幻想的な餌を吊るした過酷な労働を「お願い」してくるが為である。
    「まだ何も言ってないわよ」
     ぷりぷりと口を尖らせるアンナに、男はフードの下で目を逸らす。
    「バイトはもうしないですよ。また体壊したくないんで」
     いとこのアンナの店舗の手伝いを軽率に承諾したところ全身が激痛に苛まれるほどに肉体を酷使する羽目になった事を思い出し、エクラは身震いする。男のけんもほろろな態度にアンナは違うわよと切り捨てた。
    「人探しよ人探し。グルヴェイグ見ていないかしら」
    「ええ?」
     隊長の口から飛び出した名にエクラは声を裏返らせる。

     グルヴェイグ。今より遠い未来にて世界に破滅をもたらす黄金の魔女。そして、男と特務の敵でもある。
     その「敵」の名がかく牧歌的な会話に飛び出すには訳がある。幾重にも繰り返される戦いの合間、時の捩れより吐き出される数多の呪われた影の奇襲により男らが所属する国、アスクは危機に瀕していた。相手は時を自在に操る者、例え会心の一手を講じたとしても、それは「無かったこと」にされてしまう。そして、その「無かったこと」を認識する事すら多くの者には困難であった。徐々に劣勢に追い込まれていくアスクにてこの危機的事態を打開するべく打ち出された一手が、敵――グルヴェイグ本人を呼び出す事であった。
     男……エクラが呼び出した相手と交わす契約にて呼び出した魔女を縛り、敵たる魔女と同じ力を以ってして相殺せんという計らいであった。薄氷を踏むが如き、危険との隣り合わせの手段である。契約には呼び出したアスク、正確には召喚の権限を持つエクラを害する事を禁じる拘束力があるが、その力もどこまで保証されるかは分からない。いくら「呼ばれた事に応じた」からといっても、呼び出された魔女が契約に応じるかも不明である。最悪、契約以前にこちらの請願を振り払って敵対する可能性すらあった。
     呼び出すにあたっては細心の注意が払われた。魔女が敵対する最悪の事態に備えてアスクにあるあらゆる勇士が召喚の場に同席し、召喚士の側についたアスクの王子が一言合図しさえすれば躊躇なく魔女を刺殺するよう通達が行われた。相手が己の死をなかったことにする力を持つ魔女であるならば、彼女が自己の死を認識するまでに即死させることが出来るならば、理論上「殺す」ことは可能であると踏んだためである。
     儀式はぴんと張り詰めた厳粛なる様態で行われた。アスクの王子の側にて肝心の召喚士の男は情けなくも膝が笑っていたが、最悪の事態だけは回避された。今にも剣を抜かんばかりの厳しい顔つきの王子の横で男は俺と契約してくれませんかと半泣きであったが、対する魔女は能面のごとき無表情のまま己を取り囲む無数の刃をその黄金の瞳で一瞥すると、あっさりそれを承諾したのである。
     安堵で腰が抜けた召喚士は情けないの一言であったが、最悪の事態は回避された。魔女は何か思うところがあるのか、何を語る事もなく、そしてその表情を変える事もなく姿を消した。多くの者は首を傾げた。魔女は多くの者が想像するような「戦い」のそぶりを見せなかったのである。ただ、そこにあるだけであった。武器を手にするわけでもなく、それどころか姿を現す事もなかった。
     だが、契約者たる男を始めとした僅かな者は違和感、あるいは直感として何かを感じ取った。それは確たるものではなかったが、つい先ほど目耳にした「はず」のものがたった今目にしているものと異なっているというあり得ない経験を覚えたのである。そして、そうしたあり得ない経験をほとんどの場合に周りの者は覚えていなかった。男は口には出さなかったが、魔女が己の、皆の見えぬ、預かり知らぬところで「起こるはずであった何か」を操作したのではないかと推測した。
     皆が魔女同士の「戦い」が起きぬ事に首を傾げて暫くした頃。先の通りアンナの突拍子のない言葉に男は声を裏返らせた次第であった。
    「また突然ですね」
    「物事は万事善は急げよ。それで、知らない? 全然姿を見ないから困ってるのよね」
     まるで忍ね、と呟く女を前に、エクラはやや困惑したように答えた。
    「探さなくても呼べばいつでも来るじゃん……」
    「何言ってるの。そんな訳ないでしょ」
    「ええ? いつもすぐ来てくれるじゃんか……」
     不服げな隊長の横で、男は口に手を当て虚空に向けて声を張る。
    「おーい、グルヴェイグ。聞こえてるなら来てよ」
    「あのねえ、それくらいで見つかるなら苦労しない――」
    「……何か用」
     あたかも最初からその場にいたかのように突如降って湧いた声に、アンナは目を丸くした。血の気を感じられぬ灰白色の肌、黄金に輝く髪と瞳、表情といったものが見受けられぬ端正な顔立ち、そして髪の合間で蠢く数多の金色の蛇。
     黄金の魔女その人がアンナの側に佇んでいた。
    「嘘でしょ。あんなに探しても見つからなかったのに」
     色を失うアンナを無機質な金色の瞳が一瞥する。
    「そりゃ過去も現在も未来も知ってて好きに移動できるような相手だったらいつでもどこにでもいるようなものだし……、呼んだら来てくれるでしょ」
     プライバシーも無いようなものだけどと付け加え男は肩をすくめた。
    「それで隊長は何の用事で」
    「あ、そう。それよ」
     にわかに活気を取り戻した女は懐から紙の束を取り出す。
    「はい、これ。未記入のくじ券」
     男が覗き込めば、空欄がいくつか並んだ紙切れである。デカデカと「第192回アスク王国福くじ券」と書かれた紙片は艶やかな金文字のインクと神竜アスクを模した透かし彫りを煌めかせる。
    「何ですかこれ」
    「簡単よ。彼女に未来へ移動してもらって、このくじの当たりの数字を調べてもらって、それをここに書くのよっ」
     乾いた沈黙の帷が降りる。アンナの力強い覇気に満ちた声とは裏腹に、空欄のくじ券を見下ろす魔女の目は冷ややかであった。
    「……」
    「待ってよっ。ちょっとエクラ、あなたも引き止めなさいよ」
     黄金の砂粒を残してかき消えようとする魔女に慌てた声を上げる特務の隊長を生ぬるい目で見やり、男は渋々声を出す。
    「あー、えと、まあ……、いつもこんな感じだから勘弁して欲しいっていうか……、グルヴェイグもこうなるって予見した上で呼んだらきてくれた訳だろうし……」
    「……」
    「ハイすみませんでした。せっかく来てくれたのに蔑ろにしたエクラが悪かったです。ナマイキ言ってすみませんでした。お願いです魔女様女神様ワンチャンお慈悲お願いしますっお願いしますよおおおあなたにとっては別の世界かもしれないけど一回は俺と契り交わした間柄じゃないですかあああ」
     目にも止まらぬ速さで由緒正しき白夜式謝罪――即ち土下座――を披露するエクラの姿は夫(こう表現することが正確かは些か怪しいところではあるが)としては情けない事この上無かったが、砂時計の砂が器を昇るように黄金の砂粒は再び魔女を形取った。
    「……こんな事をしても無意味なこと」
     しげしげと空欄のくじ券を見下ろしながら呟く魔女に反し、アンナは浮き足立って答える。
    「やってみなきゃわからないでしょ」
    「そう」
     単調な声色を残しかき消えた魔女であるが、アンナが瞬きをする僅かな合間に再び姿を表す。黙ってくじ券を差し出す魔女からそれを受け取れば、爪で引っ掻いたような細い金色の数字の列が空欄に並んでいた。
    「わあ、すごい。本当にこんな事出来るのねっ」
     家宝のようにくじ券を捧げ持つ女に、グルヴェイグは抑揚の無い単調な声で告げる。
    「すべては無意味なこと。あなたが思うようにはならない」
    「またまた、そんな事言っちゃって」
    「……忠告はしたわ」
     再び姿を消した魔女を尻目に、アンナはウキウキとくじ券を片手に小躍りした。



    「はあ!? なんで、どうして?!」
     数日後。アンナは大広場の中心、大きく掲げられた掲示の前で周囲の喧騒に負けないほどの声を上げる。握りしめられたくじ券に羅列された数字とは異なる文字列が、女の前に掲げられた張り紙には並べられていた。どうやら今回は当選者がいなかったらしく、あちこちから落胆の声が響く。
    「ちょっと、エクラ。どういう事よっ」
     群衆をかき分け、広場の端でぼんやりと鳥を眺めていた男にアンナは鼻から火炎を噴き出さん程に鼻息も荒く詰め寄った。
    「外れたじゃないっ」
    「知らないよ!」
    「まさか適当な数字を書いてはぐらかされたのかしら」
    「そんなしょうもない事する相手じゃないでしょうに」
    「じゃあ何だっていうのよ」
    「……忠告はしたわ」
     ぎゃあぎゃあと見苦しく揉み合う男と女の側に忽然と無機質な声が降る。
    「あっ、噂をすれば。一体どういうことなの、教えて頂戴」
     未だ鼻息荒く捲し立てるアンナに、魔女はガラス玉のような金色の瞳を向けた。
    「あなたがあなたの望む形に未来を作らなかっただけよ」
    「なによ、それ。いつも未来は決まってる〜って言うじゃない。詐欺よ詐欺」
     口を尖らせるアンナに足蹴にされながら、男はああと曖昧な音を出した。
    「グルヴェイグが未来を見てきてくれた時にはこれで間違い無かったんだよな」
     男が握りしめる空くじ券の数字を指し示すと、魔女は短く首肯した。
    「じゃあおかしいじゃない」
    「あー……、えーと。当たりをこの数字にするためには何したらよかったんだ」
     はあ?と素っ頓狂な声を上げるアンナに、男は続ける。
    「こっちの世界のグルヴェイグがやってた事と同じだよ。未来がどうなるか知っているだけじゃそうなると決まった訳じゃない。前提が崩れれば結果は変わるから。つまり『そうなる』ように過去に干渉しないと望んだ未来にはならないし、未来でそれを知って過去を変えるってことを……前にアンナ隊長が言っていたように『卵が先か鶏が先か』を繰り返すようにしないと望んだ形にはできない。こっちのグルヴェイグが未来から過去に飛んで、過去から未来に進む道順を先に作っていたのと同じだよ」
    「なによ、それ。そんな事聞いてないわ。なんで教えてくれなかったのよ」
    「聞かれなかったから」
     がっくりと項垂れるアンナに足蹴にされたまま男は続ける。
    「えーと、アンナさんに何をしたらこの数字になったか教えてくれない?」
     男を一瞥し、魔女は短く答えた。
    「何も。何をしても変わらないわ」
    「はあ? もう少し分かりやすく言って」
    「……あそこの数字を書く人間があなたではないから」
     金色の瞳の先には当選の数字を発表するアスクの役人らしき女性。その傍らにはスイッチを押す事で数字の書かれた球を吐き出す小ぶりな機械が置かれている。
    「過去を作るのがあなたではない以上、あなたが何をしてもあなたが望む形の未来にはならない」
    「もう。ぬか喜びだったわ」
     ぷりぷりと口を尖らせ、アンナはそんな美味しい話は無いって事ね、と付け足した。

    「まあ。そんな事があったんですね」
     白銀の冠を戴く娘は紅の瞳を細めくすくすと笑う。白と黒、白銀と水の色の入り混じる装束はたっぷりとしたそれで、娘の白磁の髪も併せどこか浮世離れした様相を醸し出している。
     アスクの暖かな陽光が降り注ぐ王宮のテラスにて、透魔の女王にして神祖竜の血を色濃く継ぐ竜の御子はアスクの王女と談笑していた。テーブルに半ば突っ伏す召喚士の他愛のない失敗談にくすくすと笑い、カムイはふと思い出す。
    「くじといえば私も過去に南の海への旅行券を当てたことがありましたが……、その時はきょうだいにあげてしまいましたね」
     その旅行券をめぐりきょうだい間で大人気ない争奪戦が繰り広げられたさまをしみじみと反芻し、娘――透魔の女王カムイは暖かな思い出ににこにこと微笑んだ。
    「えーっ、羨ましいです」
     エクラの隣でペリドットを思わせる萌黄色の瞳を煌めかせ、アスクの王女は興奮気味に立ち上がった。
    「南の海ってとっても素敵ですねっ、わたしもご一緒したかったです」
    「うふふ、機会があれば皆さんで一緒に行きたいものですね」
     柔和に微笑む神祖の神子はしかし、その尖った耳をぴくりと跳ねさせた。柔和な笑みが消えその裸の足の裏が床につくより早く、けたたましい法螺貝の音が平穏を裂く。伝令の兵が敵襲の知らせを叫びながら傍らを走り抜ける。西の空を見上げれば、王宮よりやや離れた草原の上空に暗雲が広がり、碧緑の雷電が腹の底に響くような音を時折立てて光の柱を撃ち下ろしている。
    「またトールか……、あのお姉さん根っこは悪い神様じゃないんだろうけど、傍迷惑なんだよな……」
     うめくような低い声を漏らし、召喚士は重い体を持ち上げる。先程の柔和な笑みを引っ込めた神祖の神子の外縁が水面のように揺らぎ、眩い光と共に白銀の竜を形取った。
    “お二人とも、乗ってください。人の足で走るよりはこの方が速いはずです”
    「ありがとうございます、失礼しますっ」
     前足を折り背に跨ることを促す白竜に短く礼を告げ、アスクの王女は上手く跨がれずに足をばたつかせるエクラを介助する。尻が落ち着かない男を後ろに座らせ、おっかなびっくりな様子の男の腕を自らの腰にしっかりと回させる。お願いしますと告げれば、白竜はその細い四肢からは想像もつかぬ脚力で飛び上がった。神の血がもたらす力が溢れ落ちた幻影の水を跳ね上げ、右往左往すふ兵たちの頭上を飛び越え、城門を矢のごとく潜り抜ける。慌てふためく民の合間を縫う頭上で、いくつかの天馬と飛竜が風を切って飛び過ぎる。アスクの都の端から草原へ飛び出せば、暗雲の下では既に交戦が始まっているのか怒号が遠くに聞こえて来た。
    「皆さんが無事だといいのですけどっ」
     剣を振りかぶった敵兵の肩へすれ違い様に槍の穂先を突き立て、シャロンは声を強張らせる。もんどり打って倒れた兵が碧色の雷光へ解れて消えた。
     かの天上の神は事あるごとに試練と称してこうしてアスクへ自らの尖兵を送り込む。戦いの刹那における人間の可能性に美しさを見出すかの戦神は、人の可能性を追求するかのように幾度となく忽然と現れては戦いを挑み、その際に繰り広げられる死闘と感情のうねりを品定めし、満足しては天へと還っていく。戦いの折に戦死したものは「戦神を感嘆させる人間の可能性に払うべき対価」として息を吹き返すが、それもまた神の気まぐれ。死んだ者が余さず生き返る保証もなければ、死んだ、という事実とそれに伴う苦痛は確たる「過去」として残される。まさしく天災としか表現のしようのない仕打ちである。しかし、相手は天上の神。矮小な人間の剣が喉笛を裂くより速く、その姿はかき消えてしまう。
     まばらな木立を駆け抜け、幾人かの幻影の兵を薙ぎ倒して草原を横切る。白竜が跳躍しノイバラの灌木を飛び越える刹那、白竜のその顔のない耳はばしんと何かの弾ける音を聞く。眼球の無い目が行く先の小高い丘陵に弩弓を捉える。弩弓の放つ杭の如き大矢が空を裂く。間に合わない。鎧をも貫く鏃が背に跨るアスクの王女に向けられている。白竜は大きく体を捻り、背に跨る娘と男を振り落とした。白銀の脇腹にどんと衝撃が走り、鈍痛と痺れが広がる。
    「……が無事だと良いのですけどっ」
     剣を振りかぶった敵兵の肩へすれ違い様に槍の穂先を突き立て、シャロンは声を強張らせる。もんどり打って倒れた兵が碧色の雷光へ解れて消えた。
     白竜がまばらな木立を駆け抜け、ノイバラの灌木を飛び越える。顔のない耳がどんという低い音を捉える。眼球の無い目が行く先の小高い丘陵に据えられた弩弓と、その隣で倒れ雷光へ解れて消える兵を見た。同時に強い違和感を覚え、白竜は痛むはずの脇腹に意識を向ける。つるりとして滑らかな白銀の竜の腹は傷ひとつなく、時折走り抜ける稲光に白く輝いていた。背に跨る男がしきりに脇腹を摩る手袋の感触を覚える。
     こういった違和感を覚えたのは一度や二度ではない。そして、その違和感を白竜だけでなく召喚士もまた共有していた。
     たった今しがた「なにか」が書き換えられたのだ。そして書き換えられたという履歴すらほとんどの者は認識すら出来ない。白竜は歯噛みした。その変化を漠然と感じとる事は出来るのに、その理由を推論として身のうちに確信しているのに、水の壁を介したように己自身はその内側に触れる事は出来ないのだ。カムイが、あるいはエクラが、そして大多数のものが知らない裏で、数えきれない程の「書き換え」が行われているのは間違いがない。直近における不自然な程に続く平穏がその証左であった。召喚という超常の力の干渉によって、この世界においては何かが変わったのであろう。本来辿るはずの道筋を改ざんしあう魔女同士の水面下の行い――否、戦いと言って良いかもしれぬ――は認識出来ぬだけで、間違いなく今も続いている。それは片手の指で足りるとは到底思えない。否、数百数千ですら足りないのだろう。時と因果の絶対的な法則すら捻じ曲げる力の下では「書き換えた」事そのものすら履歴には残らない。書き換えという行為が要した時も、前後も、因果も存在しない。結果の果てに原因が生まれている因果の崩壊した世界では過去も未来もその概念を考えるだけ無駄である。
     暗雲の中心、稲光が絶えず轟くそこでは数多の勇士が剣を槍を手に幻影の兵と交戦していた。時折地を揺るがすような重い落雷と共に幻影の兵達が這い出し、整然と列を為してアスクへ向かい歩を進めている。
    “透魔の女王カムイ、参ります”
     甲高い咆哮を上げ、白竜が踊りかかる。水球が爆ぜ、水滴が雨粒となり降り注ぐ。その背から飛び降りたアスクの王女の耳に、既にいくつもの太刀傷を鎧に刻んだ兄王子の声が届く。
    「シャロン、逃げ遅れた商隊がいる。アスクまで誘導して欲しい」
    「分かりました」
     兄の背を狙う矢を愛槍で払い落とし、妹姫は短く答えた。
    「ここから南西だ。急いで」
    「はい。お兄様、ご武運を。エクラさん、行きましょうっ」
     近寄る幻影の竜人をしっしと必死に追い払う男を半ば掴むようにシャロンは駆け出す。二人の追っ手を妨害するかのように水の壁が幻影の兵の行く手を塞ぎ、長く滑らかな白銀の尾が薙ぎ払った。

     暗雲より少し離れた小高い丘の上。眼下に広がる戦いを見下ろし、女は艶然と微笑む。
    「んもう、トールったら。また接待しているのねえ」
     本気を出せば簡単に勝ててしまうのに。女は紅を引いた唇を吊り上げる。女、そして女の旧知の友であるトール達が本来の力を振るえば、人間など紙の兵に等しいであろう。二柱の神は創造主に側仕える上位の天上神でもある。かつて光の神らと幾度となく戦いを繰り広げた想像を絶する力を持つ天上の神々から見れば、眼下の戦いなど児戯にも等しい。
    「そのような戦いは不粋というものだ」
    「あらん。またいつものポリシーかしら? 本当に、頑張ってる人間が好きなのねえ」
    「分かっているなら余計な事を言うな。我々がその気になれば人間が取るに足りぬものである事など自明。だがそのような振る舞いは大人気ないだろう」
    「んふ、大人が子どもに本気で手を上げるなんて、みっともないものねえ?」
    「皆まで言うな。とはいえ……」
     二柱の神はちらりと草原へ目を向ける。アスクの王女に伴われ、男が息を切らせて走っている。はかなき商隊の列の殿を走る二人の前では、必死に馬に拍車をかける商人達が馬車から次々に荷を投げ捨てている。そして、それらからやや離れて神々がけしかけた幻影の兵達が迫っていた。
     だが、神々が見ているのははかなき人間でも、己らの尖兵でもなく。男のやや後ろあたりの虚空を眺めていた。何ものも存しないそこには「何もない」と同時に「在る」が存在している。かつて遠い昔に剣を交えた光の神々の一族、その神々しき光も色褪せど神々の欲を駆り立てる金色が形而上にあった。
     んふ、と戦神の友、ロキと名乗る女が笑う。己をじっと見上げる金色の瞳に手をふりふり、楽しげに呟いた。
    「やっぱりあれくらいの存在には気づかれちゃうわねえ。私達、一応は見えないことになっているんだけれど」
    「腐り落ちその光が色褪せた魔女に堕したとしても、光の神の一族には変わりないという事だろう。気になるとすれば、なぜあれがあそこにいるのかという事だが。アスクとは敵対しているのではなかったか?」
    「それはこっちの世界の彼女ねえ。あっちはそっくりさんの別人よ。まあ、どの時間にも自由に移動できる彼女にそっくりさんっていうのはちょっとおかしいかしら? 二人とも私達には興味がないみたいだけれど……でもちょっと、力を持ち過ぎよねえ。彼女同士で喧嘩するのはいいけれど……、色々いじりまわす応酬の音が少し大きくないかしら?」
     言うが早いがロキが嫋やかな腕を伸ばした。爪塗りを施した手が虚空を掴む。頸を掴まれた金色の大蛇がシュー、と高い音を立てて威嚇し、塵と化す。
    「未来からか?」
    「どの時間からでも同じ事だし、どっちの彼女からでも変わらないわ。大方、私達が高みの見物をしているのが邪魔、といったところかしら? あるいは召喚士に手を出すのを妨害しようとしているのかもね。前々から彼の持っているおもちゃには目をつけていたし……。でも、まだ私達の方がちょっとだけ上なのよねえ」
     崩れ落ちる黄金の砂粒を見下ろして笑い、ロキは再び虚空に向けて手を振る。金色の瞳がすっと細められたが、二柱の神に手を下すよりもほうほうの体で逃げる商隊の列を追う事を優先したようであった。
    「あら、仕掛けて来なかったわね。残念」
    「氷の神といい、開神と憑神といい、人間に心を移した神は折々よく分からぬな。あれがかつて光の神の王すらも求め、数多の神を狂わせた黄金の力とは。三度私が頭を砕いても死ななかったのはいつだったか?」
     崩れ落ちた黄金の砂粒を一瞥し、トールは腕を組む。
    「さあ? ずっと昔かもしれないし、ずっと未来だったかも。剣で刺しても槍で突いても首を刎ねても八つ裂きにしても死なないし、生きたまま炉に閉じ込めて火で百年焼き続けても死なないから皆大分困らされていたわねえ。あなたなんて脳筋だから、どうにかして戦鎚で殺せないかちょっとムキになっていたじゃない」
    「知らんな。そんないつだか定かではない事など忘れた。あれとは戦っても何の楽しみも無い」
    「んふ。本当は悔しいくせにとぼけちゃって、かわいいひとねえ。いいじゃない。私達の邪魔をしないなら好きにさせておきましょう? それより、ほら。あなたの大好きな人間達が頑張ってるわよ。ちゃんと見ておかないと見逃しちゃうわ……。それにしても、ニョルズも馬鹿よねえ。どうして自分よりも力の強い神を服従させられると思ったのかしら? あるいは……、あの人間達のように縁によって縛ることが出来ると思っていたのかしらねえ」

     血の味がする口の中を気持ち悪く思いながら、エクラはやや運動不足気味の足を動かす。前を行く商人達は必死に馬を走らせ、馬車の積荷を次々に投げ捨てている。
    「大丈夫ですかエクラさんっ」
    「だ、いじょ、うぶ、しんぱ、い、いらないっ」
    「大丈夫じゃなさそうですね!」
     右隣を疾走していたシャロンが後ろに周り、男の背を押す。少し後ろでは既に追っ手が鼻息を背に吹きかけんと迫っていた。
    「もうちょっと急ぎましょうっ、もう少し距離を詰められると弓の有効射程に入ってしまいますっ」
    「いい"ぃぃっ。しぬ、しぬっ」
    「まだ死んでないから大丈夫です!」
     スケールメイルをちりちりと鳴らし、シャロンは結った髪を揺らす。追っ手は少しずつ距離を詰めている。商隊の列は荷を捨てているが、アスクの都に入るまでにあとしばらくはある。それまでに追いつかれる訳にはいかない。万一があれば、自分はアスクの王女として民を守らなければならない。足止めとなるには些かの力不足は否定出来ないが、それはしない理由にはならない。
    「エクラさん、私、ここで足止めします。エクラさんは皆さんを連れて速く行ってください」
     シャロンの提案に、男は悲鳴を上げる肺から声を絞り出した。
    「だめっ、絶対ダメ。一人じゃ無理だよ」
    「私だってアスクの王女です。お兄様ほどではありませんが、少しなら力になれます」
    「そのお兄様に俺が顔向け出来ないって言ってるのっ」
     揉み合う二人を放たれた矢が掠める。既に追っ手が追いつくのは時間の問題であった。
    「シャロンが戦うって言うなら俺も戦うからな」
    「じゃあ私がエクラさんも守りますね」
     頑として聞かぬ男に言い返し、シャロンは振り返りざまに追っ手の先陣を切る騎馬兵に槍を突き出す。軽装の革鎧を貫き脇腹に刃を立てられた幻影の兵が馬から転がり落ち、稲光となって消える。残り五人。シャロンは焦りを滲ませた。数では圧倒的に不利である上、後ろには民間人を庇っている。幸いにも荷を捨てた為か少しずつ商隊の列は追っ手から離れているが、彼らがアスクの都に入るまで何としてでも追っ手を足止めせねばならない。
     生唾を飲み下し、シャロンは自らを奮い立たせる。兄ほどの力があるわけでも、頭が回るわけでもない。アンナのように経験を積んでいる訳でもない。だが、ここで引く訳にはいかないのだ。震える手で槍を握りしめ、振り下ろされる剣先を払う。体勢を崩した敵の腹に思いきり盾を叩きつけ、倒れた兵の首に槍を突き立てる。いくら幻影といえど、生々しく重い肉を突く感覚にシャロンは嫌悪感を覚える。
    「シャロン、危ない」
     男が突き飛ばすより早く、左の腿に焼けるような痛みが走った。短弓の短い矢が左足の外側に突き立てられている。
    「い……っ、」
     刃を食いしばり、追撃を狙う兵の矢を弾く。思いきり踏み込み、後ろから槍をもたげた兵の胸を狙うが激痛に逸れた穂先は腕を貫くに止まった。足に上手く力が入らない。槍を引き抜く拍子に体勢を崩し、腰を強かに打ち付けた。
    「シャロンっ」
     剣を槍を振り上げる兵が見える。凶刃から守るように男が覆い被さった。ここで終わってしまうという悲憤にシャロンは萌黄色の瞳から悔し涙を一筋流した。
     どん、という鈍く重い肉を貫く衝撃と音を感じるも、しかし痛みは二人を襲わなかった。シャロンは目を見開く。突き出された敵兵の槍と剣はシャロンでもエクラでもなく、二人と敵兵の間に佇む女の胸と腹を貫いていた。灰白色の血の気のない肌と凶刃の間から溶けた黄金のごとき金色の液体が滲み、滴り落ちる。心の臓とはらわたを貫かれているにも関わらず、魔女はほんの僅かたりとも顔を歪める事もなく、ただ無感動に黄金の瞳で自らの肉を貫く刃を眺めている。
     シャロンは目を見開く。突き出された敵兵の槍と剣は誰にも届く事なく地に落ちた。指先が黄金へと変質した魔女の腕が敵兵の胸を抉り、背に飛び出していた。
    「……あの神々が作り出した兵には時が存在しないのが面倒ね」
     兵の胸を貫く腕を引き抜き、端正でのっぺりとした顔で魔女は呟いた。
    「あ……、グル、ヴェイグ、さん」
     がんがんと痛む混乱した頭で、シャロンは声を絞り出す。覆い被さった男が吐き気に微かにえずいた。何かが「書き換え」られた強烈な違和感が頭痛と吐き気となって男を襲っていた。
     背後に迫る兵を横目に魔女は二人に向き直る。金色の髪の合間から伸びる蛇が甲高い威嚇音を立て、その首を伸ばし無防備な背に刃を突き立てんとする敵の喉笛に喰らい付く。ばき、ばきと骨を噛み砕く音がシャロンの耳を不快に刺激した。形勢不利と判断した弓兵が踵を返すより早く、八つの蛇の頭が次々に喰らい付き、人形を壊すかのようにいとも簡単に八つ裂きにしてしまった。
    「終わったわ」
     絶命した幻影兵の残骸を蛇が放り捨てる。弧を描いて力無く転がる兵の向こうで、暗雲がゆっくりと消えていくのが見えた。
    「ありがとう、助かった……、そうだ、シャロン、怪我は」
    「……その傷では死ぬことはない」
     慌てて覆い被さっているアスクの王女を見下ろす男は胸を撫で下ろす。とはいえ、負傷している事実は変わりなかった。
    「本当に助かったよ。今度お礼を……」
     男が言い終わるより早く、魔女の姿はかき消えていた。行き場のない言葉を飲み下し、男はアスクの王女を助け起こす。
    「なあ、シャロン」
    「はい?」
     肩を借りながらアスクの王女は首を傾げる。
    「今さっき見た事と今見た事が同じじゃない気持ち悪さ……って分かるかな」
     少し考えた後、娘は小さく頷いた。
    「……変な人って思わないでくださいね。グルヴェイグさん……、一度……、死に、ましたよ、ね。そんな事、ないですよね」
     娘の搾り出された言葉に男は首肯した。未だに「なにか」が書き換えられた違和感が頭蓋の裏に染み付いている。自分たちが預かり知らぬところで、かの魔女は絶えずこの「書き換え」を行っているのだろうか。誰に知られる事もなく、覚えられる事も思い出される事もなく。数多過ぎる時の中に色褪せ擦り切れきった心は何を感じる事もない。そのことに男とアスクの王女はえも言われぬ反感を共有していた。

     ゆっくりと晴れていく暗雲を見送り、女はあらと小さく呟いた。
    「やられちゃった。残念」
     言葉とは裏腹に、その声に残念そうな色は無い。
    「ふむ。最近手慣れてきたようだな。次は不意打ちから始めよう」
     結果を満足げに見下ろし、トールは楽しげに語る。眼下では暗雲が晴れた様に喜び合う人間達の姿があった。
    「飽きもせずによく遊ぶわねえ。付き合わされる人間達がちょっとかわいそうになっちゃう」
    「お前の『遊び』よりは高潔な遊びだという自負があるのだがな。そうだな、この――」
     刹那、トールは虚空を切り裂き現れた大蛇の頭に戦鎚を叩きつける。グシュ、という生々しく重い感触とは裏腹に蛇は金色の砂粒と化し崩れ落ちた。次の瞬間砂粒が再び蛇を形取り、神の右腕に喰らいつく。瞬く間に蛇が次々と現れ牙を剥いた。
    「あらん。今度は本気のようね」
     楽しげな微笑を浮かべ、小ぶりな短刀を手にしたロキが手のひらで空を搔く。右、左、右。手を返して左。書き換えられた事象を修正して再度右。傍目には何もない空間であるが、形而上の何かが絶えず爆ぜ、再構築され、再び砂粒と化す。
    「トール。右上」
     右腕に噛み付く大蛇を握り潰した女が言われるがまま戦鎚を振り上げれば、再度書き換えられた何かが蛇のようにするりと抜け出した。
    「これだからこいつとの戦いは好かぬ」
     再再度書き換えられた事象の合間を抜い槌を振るうトールの顔には不機嫌がありありと浮かんでいる。対して、ロキは未だに艶然とした微笑みを絶やさぬままであった。
    「そおう? 私はそんなに嫌いじゃないわよ。パズルみたいでワクワクしない? んふ、ここ弱いわねえ」
     何度も修正された事象の痕跡に短刀を滑らせる。ピッと紙を裂くような音を立てて虚空から金色の液体が噴き出した。
    「真後ろ」
     不機嫌を隠そうともせぬ戦神が槌を叩きつける。確かに魔女の頭を叩き潰したはずなのに、それを無かったことにされた違和感がトールを苛立たせた。
    「正々堂々と戦わないか、女々しい」
     切れ長の目を吊り上げ怒りをあらわにする戦神が吠えれば、無感動な声が返った。
    「……では、望み通りに」
     瞬間、トールの正面に姿を現した魔女が凄まじい速さで手を伸ばした。黄金に変質した硬く滑らかな金の爪が咄嗟に身を捩った戦神の肩を掠め、肉を抉った。血を滲ませるトールの後ろで、女が楽し気に笑う。
    「うふふ。ニョルズを始末した時みたいに時間を操作しないのね」
    「お前達には過去も未来も存在しない」
    「さすが。お見通しねえ。ずっと前、それとも未来だったかしら――に何度も戦ったのを思い出すわ」
     右、右、左。幾度となく行われる事象の書き換えと修正はそれを認識しうる者には奇怪な踊りか、はたまた流麗な剣の舞のように見えるだろう。紅紫色の刃を煌めかせ、ロキはそれを握る手を振るう。切り落とされた黄金の指先が瞬く間に砂と化し、同時にそれが書き換えられ存在しなかった過去となる。
    「私達は同時に何処にでも存在できるけれど、あなたのようにそこまで自由に時間と事象を操作出来る訳ではないのよねえ。ね、その力、私に譲っていただけないかしら。悪いようにはしないわよ?」
     返答は蛇の威嚇であった。紅紫の刃を潜り抜け、蛇の頭がロキの左手を噛み砕く。痛みなど感じていないかのように、ロキはわざとらしく大げさに高い声を出してみせた。
    「ならばいつだかのように百年の間火で焼き尽くし、千度八つ裂きにする他ないな」
     蛇の頭を引きちぎり、トールは短刀を拾い魔女へ投げ付ける。紅紫色の刃が心臓を貫くが、同時にその事象は書き換えられ刃は虚空を切り裂くに止まった。
    「全く。光の王もとんでもない怪物を生み出してくれたものだ」
     返す手で刎ねた首の断面から溶けた黄金が流れ出すよりも早く、金色の爪が戦神の左腕に突き立てられる。幾度とない事象の書き換えに苛立った戦神が己の腕ごと魔女の手を掴み、力任せに握り潰す。ぐしゃりという肉と骨の砕ける音。血液と共に吹き上がる砂金。だがそれもまた、起こりえなかった事として事象の果てに露と消える。
    「あらら、いったぁい。そんなに怒るほどの事かしら。それとも、あの人間の事がそんなにお気に入り?」
     蛇の顎に砕かれた手をふりふりロキは大袈裟な声を上げる。すかさず女を飲み込まんとする蛇の口先に女の嫋やかなる指が触れると、蛇の顎が真っ二つに裂けて砂粒に変わった。
    「図星かしら。魔女さん。あなた、あの人間に恋をしているのね」
    「そのような感覚など忘れてしまった」
    「ひどいわねえ。百年もの間満ち足りた時間を一緒に過ごして、子供まで作った愛しの旦那様だっていうのに」
     端正な顔が歪み、黄金の双眸がすっと細められた。刹那、黄金の蛇が咢を開き女を取り囲む。鋭い牙が喉笛を噛みちぎらんとしたその時。
    「おかしいな、いつもだったら呼んだらすぐ来てくれるんだけどな。頭が痛くなるから多分このあたりにいるのかな」
    「エクラさん、ちゃんと前を向いて歩かないと危ないですよ」
     頭を振りふり場違いに間の抜けた声が緊迫を裂いた。先ほどまで眼下で逃げまどっていた召喚士とアスクの王女が緊迫感のない会話を交わしながらこちらへ近づいている。二神と魔女の瞳が同時に男に注がれた。にっと笑みを浮かべた女が赤紫の刃を投げるのと同時に、女を取り囲んでいた蛇が一斉に離れた。
    「なに、なに、なに!?」
     突如現れた金色の大蛇に絡みつかれ、男とアスクの王女は声を上げた。虚空から現れた大蛇は二人を取り込み、固くとぐろを巻き丸くなる。固く巻かれた蛇体の合間から、二人の視界に黄金の魔女が映ると同時に、戦神と戯れの神の姿が見え隠れした。
    「何が起きてるんです!? そこにロキとトールがいるんですかっ」
    「グルヴェイグ、何しているんだ。この蛇をどかして」
     わめく二人をさらに固く蛇が抑え込む。
    「あら。蛇を体から離しちゃって勝てるの?」
     にたりとした笑みを貼り付けるロキに、魔女は手のひらから刃を引き抜き、投げ捨てて答えた。
    「無意味な問いを」
    「随分見くびられたものだな。なかったことにしないのは、そうすればより不利になる結果しか存在しないからだろう?」
     魔女は戦神の問いに答えなかった。振り下ろされる戦槌が魔女の残像を掠め、トールは小さく舌を打つ。確かに頭蓋を砕く感触はあったが、それもまた「書き換え」られてなかったこととなってしまう。かつてロキと共に主命に従い数多の神々と共に幾千度にわたり八つ裂きにしようと火で焼き尽くそうと、この黄金の魔女を完全に滅することは叶わなかった。己もまたこの器は仮初に過ぎぬ身。いくら破壊されようと完全な意味での死はあり得ないが、負けることはなくとも勝利を掴むことも叶わぬ膠着した戦いはトールにとって苛立たしいことこの上なかった。
    「トール、後ろ」
     ロキの声に振り向きざまに槌の側面を打ち付ける。背後から心の臓を抉り出そうとした魔女の右腕がぐしゃりと音を立ててひしゃげるも、やはりそれは書き換えられ失われる。すかさず振るわれたロキの短刀が魔女の喉を掻き切る。しかし眉一つ動かさぬ魔女は傷を一瞥することすらない。傷などその灰白色の肌に無かったためである。
    「き、きもちわるい」
    「わ、わたしも、はきそうです」
     激しく痛む頭を抱え、男は絶え間なくこみ上げる吐き気に口を押さえた。蛇の体から垣間見える外の景色は何の変哲もない平和な草原であるが、先ほどから異常な頻度で違和感が押し寄せてくる。男は「書き換え」が非常な高頻度で行われているが故であろうと推測したが、果たしてその推測は的中していた。仮に二人が蛇の守りの外で行われている神々の形而上の応酬を五感で認識し理解できていたとすれば、物理法則の崩壊したその有様に発狂していたであろうことは想像に難くなかった。
    「やはり埒が明かんな。ロキ、何とかしてくれ」
     三度目の斬首を水の泡にされたトールが苛立ちを隠そうともせずに唸る。
    「そうねえ。魔女さんは殺せそうにないから――殺せそうな相手を選ぶしかないわよねえ」
     左、右。幾度かの形而上の演算と書き換えが行われ、紅紫色の刃が灰白色の上腕を貫く。金色の液体が血の気のない肌を滴り落ちた。
    「なかったことにしないのね」
    「答える理由はないわ」
     短く答え、グルヴェイグは試行の結果に僅かに歯噛みする。事象の操作は自らの手の届く範囲でしか適わない。他者の行為、すなわち自らの干渉で操作できる限界がある事象が結果との間に介在すれば、その分「書き換え」は困難となる。自ら一人で完結する事象であれば、過去、あるいは未来の自身に干渉すれば容易に操作できる。事実、そうして永遠に繰り返す円環は形作られたのだから。
     だが、他者が介在する場合は別である。己一人で完結する事象でない以上、魔女が操作できる範囲には限界がある。かつて遠い未来にして過去に行った干渉においては光の王に己の名を告げるのみで事足りた。だが、今度ばかりはそうはいかない。召喚士とアスクの王女二人のみでは、到底手加減をしていない天上の神々を相手取ることは不可能である。そして、目の前の神々はかつて己を危険視した天上神の命に従い、数多の神々と共に己を捕らえ数千度にわたって剣で切り裂き、槍で突き、斧で首を刎ね、絶えることのない炎で焼いた者であり、己の手の内は知られてしまっている。魔女ではなく召喚士とアスクの王女を狙うことで、グルヴェイグが操作できる事象を制限し「書き換え」を妨害している。いくら時を操作し事象を取捨選択できるとはいえど、もとより力そのものでは勝てぬ身である。
     召喚士とアスクの王女を見捨て、己の利のみを考えるならば勝てはせずとも負けることはないであろう。だが、その事象を選択することは憚られた。この世界に呼び出され、膝の笑っている情けない召喚士と契約したその時から「この世界」の自分自身とは事象の操作と書き換えの応酬を繰り返している。呼び出されて三日後に起きるはずであったアスク王国への大規模な襲撃と王国の崩壊は送られてきた尖兵の転送先を先立って操作し、この世界の自分自身が操作を認識する前に悉く殺滅したことで「なかったこと」にした。遠い未来に召喚士がこの世界の自分に直接触れられ「召喚される前」に戻されることで消滅させられる事象は、自身ごとこの世界の自分の時を遡ることで「起きなかったこと」にした。
     なぜそこまでして召喚士に協力するのか、魔女自身理解できているとはいいがたい。繰り返される円環の果てに擦り切れ、褪せ果てた己の心が、ほんの僅かばかりでも「この世界」に期待しているからかもしれぬ。だが、円環を維持することという本能と言ってもいいほどに焼き付けられた責務と義務感に並ぶほどの「なにか」がこの世界の召喚士らに協力するよう働きかけるのであった。
     左腕を伝う黄金の体液を一瞥し、魔女は二柱の神を見据える。頭に血が上っている戦神はともかく、傍らでにたにたとした笑みを浮かべている猜疑の神はおそらく次も召喚士を狙うだろう。召喚士とアスクの王女を狙い、己に庇わせることで致命傷を負わせる結果を目論んでいる。試行を繰り返したところで、相手もまた書き換えを認識できる以上「グルヴェイグが死ぬ」結果をはじき出すまで同じことを繰り返すのみである。ならば事象を操作しても無駄なことであった。
    「かわいそうだけど、仕掛けてきた以上は簡単に見逃すわけにはいかないのよね」
     最後に言いたいことがあるなら聞いてあげるわと付け足し、ロキはにっと唇の端を持ち上げた。トールの手にした戦槌がばちばちと碧緑の閃光を放つ。
    「……そうね」
     黄金の瞳を虚空に向け、魔女は小さく呟いた。
    「ここで召喚士が死ねば円環は崩壊する。言っている意味が分かるでしょう? 『この世界の』私」
     笑みをひっこめたロキが咄嗟に短刀を振るった。紅紫色の刃が魔女の喉を掻き切るより早く、激烈な違和感が草原を包んだ。

    「ふむ。最近手慣れてきたようだな。次は不意打ちから始めよう」
     結果を満足げに見下ろし、トールは楽しげに語る。眼下では暗雲が晴れた様に喜び合う人間達の姿があった。
    「飽きもせずによく遊ぶわねえ。付き合わされる人間達がちょっとかわいそうになっちゃう」
    「お前の『遊び』よりは高潔な遊びだという自負があるのだがな。そうだな、この違和感――どうやら我々は過去か未来のどこかであの魔女と接触してしまったようだが」
     こめかみを軽く揉み、トールは僅かに眉間にしわを寄せた。遠い過去、あるいは未来にて戦いを経てなお、かの黄金の魔女の迂遠で回りくどい手法は理解しがたかった。
    「先ほどの蛇もか?」
    「どうかしらねえ。彼女が絡むことには因果関係を考えるだけ無駄だし、ねえ? 大方、あなたがいらないちょっかいをかけたのではなくて?」
    「その言葉はそっくりそのままお前に返したいところだな。だが、珍しいことだ。奴が『書き換え』を行った場合にはその内容まで認識できるはずだが」
    「私たちが分からないほど大規模な時間の操作を行ったのかしら。いずれにせよ、もう書き換えられちゃった以上は詮索しても仕方ないわ。私たちは彼女ほど自由に時間と事象を操作出来る訳ではないのだから」
    「全くだ。せっかくの興が削がれた。あの女の考えることは理解できん」
     むっつりと腕を組むと、戦神はまばゆい光を残しかき消える。未だ続く歓声を遠くに聴き、ロキはゆっくりと唇を撫で虚空を眺めると、友に引き続きその姿をかき消した。

     普段能面のごとく動くことのない端正な顔立ちに僅かな苛立ちを滲ませ、魔女は虚空にぽっかりと空いた穴から蛇を呼び戻した。猜疑の神に握り潰され塵と化した蛇の頭はしかし、瞬く間に元の形に再構築される。
    「なぜあのような無意味なことを」
     魔女は目の前に佇む、己の姿をそのまま引き写したが如き女に問うた。「この世界」の自身の問いに、魔女は短く答える。
    「天上の神々を放置すれば、いずれは召喚士の命を奪う」
    「先ほどの接触は円環に綻びを生じうる軽率なものだった。それだけではない。私の起こした事象の書き換えまで行って……、何がお前を動かしている。円環の維持が私たちの目的では」
    「それはあなた自身もよく理解しているのではないかしら」
     二人の魔女の間に沈黙が下りた。互いの腹を――否、自らが望む結果を――探り合う、蛇の如く滑らかで執拗な応酬の後、魔女は唸るように低く呟いた。
    「……全ては過ぎ去り、色褪せて崩れ落ちてしまったこと。時は残酷……」
    「あなたがそう思いたいならばそれで構わないわ。私は私の為すべき事をするだけ。ただ……」
     じっと見つめる金色の瞳を見据え、魔女は小さく続けた。
    「礼は言うわ。あなたの干渉がなければあの場でアスクの王女と召喚士は死んでいた」
    「……円環の維持と完遂が私の目的。あなたと動機を共有するつもりはない」
     そう、と呟き、魔女はその場からかき消える。残された「この世界」の魔女は深く息を吐き、小さく頭を振った。

    「やばい、マジで吐きそう」
     真っ青な顔で呟くエクラは、喉奥からこみ上げる吐き気と頭の奥から響く猛烈な頭痛に呻いた。商隊の列をアスクの都へ見送り、シャロンの手当てを済ませた後にいくら呼べども姿を見せない魔女を案じて草原に出たのもつかの間。
    「わ”たじもでず……」
     小高い丘の上までシャロンを伴って登ったはずが、気付いたときには草原のど真ん中でお互いに恥も外聞もなくえずいている始末であった。
    「でもさ、これではっきりしたと思うんだ。グルヴェイグがなんかした時に、う……吐きそう……、なんかした時に気持ち悪くなるってさ」
    「それは……うう……、そうですけどもぉ。さっきよりずっと吐き気がひどいんですが……」
     ペリドットの萌黄色の瞳に涙をにじませながら呻くアスクの王女の背をさすり、男は答える。
    「ここまで吐き気がひどいってことは、それだけの規模のやり直しをしたのかも。呼んでも来なかったし……」
    「うーー……、お礼を言いたいのにお礼どころか汚いものが口から出てしまいそうです」
    「ダメ元でもう一回呼んでみるかぁ……。おーい、グルヴェイグ……。聞こえてるなら来てください……お願いします……」
     蚊の鳴く様なか弱く情けない男の声が草原にむなしく響く。
    「やっぱダメかあ……。そうだよな、これくらい気持ち悪くなるなら俺たちの見えないところで大分頑張ってるはず――」
    「……何か用」
     突如真横に降って湧いた抑揚のない声に、男は肝をつぶして飛び上がった。自分から呼びつけておいて大分失礼な振る舞いであるが、まさかこの期に及んで呼びかけに応えるとは思っていなかったのである。
    「お、驚いてごめん。気を悪くしたかな」
    「……」
    「すいませんでしたあああっ散々助けてもらったうえに忙しい中呼び出して応答したらビビるなんて真似したエクラが悪かったですっ」
     美しい白夜式謝罪スタイルの姿勢を取る男を見下ろす金色の目は変わらず無感動である。
    「エクラさん大丈夫ですよっ、このお顔は怒っていないです! たぶん!」
     あわあわと男の背をさすって宥めるアスクの王女もまた慌てふためきながら言葉を続ける。
    「えっとですね! 先ほどは助けて頂いてありがとうございます! あ、本当はグルヴェイグさんが何をしたのかよくはわかってないんですけど……、でも、私たちを助けてくれたんですよね? だからエクラさんと一緒にお礼を言いに来たんです」
    「……」
     変わらぬ無表情の魔女に、男とアスクの王女は徐々に不安を滲ませる。
    「あ……、嫌、でしたか? 嫌だったらごめんなさい。でも、ちゃんとお礼は言わなきゃ、って……」
    「俺達はグルヴェイグが何をしたのかはっきりとは分からないんだけどさ、でも、全然知らないところで俺達を守ってくれてるんなら、誰にも知られないのは嫌だよなって、シャロンと話してて思ってさ……」
     だんだんと声が尻すぼみになる男を、黄金の双眸がじっと眺める。永遠に等しい繰り返す時の中で色褪せ、擦り切れ果てたと思われていた何かが僅かに息を吹き返したかのような心地を覚えた。
    「その、嫌だったらごめん」
    「……そうね。嫌ではないわ」
     ゆっくりと瞬きを繰り返す黄金の瞳に、パッと顔を明るくしたアスクの王女と召喚士が映る。数多の「書き換え」の裏で行われた応酬を欠片も知らず、神々と比してあまりにも脆弱ではかない人間の、取るに足りぬ笑顔。だが、とうの昔にして遠い未来にかつてあり、そして風化と喪失、再構築を繰り返す記憶と、おぼろげな心の動きの憧憬。それらを感じ取り、なお「心地よい」とすら覚えるだけの情緒というものが残っていることに、黄金の魔女は驚いた。
    「あっ、ちょっとだけ嬉しそうな顔してない? アッ、すいませんナマイキ言いました許してくださいっ」
     すぐさま再び見事な白夜式謝罪の姿勢を取る男はいかにも情けない有様である。どこをどう見ても取るに足りぬ凡人のそれにかつての、そして未来の自分は何を見出したのか。数え切れぬほどの繰り返しを経た今となっては思い出せないが、ただ色褪せ朽ち果てた「かつてであり未来」と比してこれを選ぶべきであろうという何らかの思惑と確信が、今の黄金の魔女の内にはあった。
    cerizawa Link Message Mute
    2023/08/31 4:14:35

    causality

    総選挙グルヴェイグさんがなかなか趣深い着地の仕方をなさったので好き勝手に書きました
    エクラとシャロン、ロキとトール、カム子とアンナさんもちょっと出ます

    #ファイアーエムブレムヒーローズ #FEH

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