【五七】これはみんなカレーのせい
淡い緑のカレーを満たした銀のスプーンに、がぶり、と七海は喰らい付く。スプーンごと呑み込むみたいに、ぐわりと口を大きく開けて。
とたん、薄い唇と舌をぴりっとスパイスが突き刺す。端整な顔をしかめつつ、七海はまたカレーをすくって口に運ぶ。ぴり、を通り越してびりっという痛みに変わり、次第にずきずきと口のなかが疼きだす。
十代の旺盛な食欲でも、とびきり辛口のグリーンカレーは手に余った。自暴自棄に喰らい続ければ、次第に高い鼻先も白い肌もしっとり汗ばみ紅く染まっていく。
馬鹿らしい。苦痛をともなう食事なんて。不味くはない、むしろ美味しい。粘膜を刺すスパイスの奥には豊かなハーブの味わいがあり、さらりとカレーに馴染むタイ米とともに食べれば、香り高さがいっそう際立つ。
けれど美味を愉しむより先に、ずきずきした強い痛みが勝る。なぜって口直しの水もなしに食べているからだ。それでもしゃにむにスプーンを運ぶうち、汗だけでなく涙もにじんでくる。
ぐい、と七海は鼻先に浮かぶ汗の玉ごと乱暴に涙をぬぐった。
これはカレーのせい。嫌というほど辛い、青い唐辛子のせい。涙も痛みもぜんぶカレーのせい。
……絶対に、あのひととの喧嘩のせいじゃない。
「なにしてんの、おまえ」
いきなりテーブルをバン、と叩いて五条がのぞき込む。
たったひとり高専の食堂の片隅で、真っ赤な顔と充血した目で涙と鼻水を流しながらカレーと格闘する恋人の後輩を目にしてスルーできるほど、五条はひとでなしではなかったらしい。
「見てわかるでしょう。グリーンカレーを食べてます」
しかし可愛くない恋人の紅い唇からは、可愛くない答えが返ってくる。
「そうじゃなくて。そうじゃなくってな、なんでそんな必死の顔で食べてんのって話だよ」
「いけませんか」
「やめてくれ。おまえの取柄のひとつはその綺麗な顔なんだから、涙と鼻水流してカレー食うとか台無しだろ」
「あなたの数ある欠点のひとつは失礼が極まってるところですね」
「失礼が俺の取柄だっつーの。ていうか水もなしでグリーンカレー? 馬鹿なの?」
「馬鹿で結構、放っておいてください」
「もうやめろって」
五条が皿を取り上げる。
「飯は楽しんで食うものだろ。そんな死にそうな顔で食うもんじゃない」
「私がカレーで死のうが苦しもうが貴方には関係ないはずです」
「カレーで死ぬな。ああ、もう」
そっぽを向く可愛くない後輩の美しいおとがいを、五条がつかんで無理やりにこちらを向かせる。必死に目をそらす七海を、五条のまなざしが追いかける。
「拗ねてんの、怒ってんの。昨夜の喧嘩のせいか」
「関係ないといったはずです」
「はいはい、俺が悪かった。悪かったですよ」
「悪いと思ってもいないのに謝られたらよけい腹が立ちますね」
「怒ってんじゃん、おまえ」
ふたりはにらみ合った。
サングラスの奥のきらめく瞳で、緑がかった深い青の瞳で。
「……なんで、俺たち喧嘩したの」
ふと五条が途方に暮れた声でいう。七海のおとがいをつかむ手がぱたんと落ちる。七海はすいと目をそむけてぽつんといった。
「知りませんね。相性が悪いんじゃないですか」
「おまえ、ほんと可愛くないね」
「もう、嫌になったので」
「え……」
呆然となる五条をよそに、七海は手の甲で高い鼻筋の汗をぬぐう。
「貴方の身勝手に付き合うのも、貴方の無礼をいちいち咎めるのも、年上のくせに悪ガキみたいな言動に翻弄されるのも、顔の良さと誰も敵わない強さを鼻にかけた傲慢さも」
「そ、そこまでいう?」
「理由もきっかけも忘れるくらい些細なことで、いちいち喧嘩してしまうのも。私たちがこんなに相性が悪いと、貴方と向き合うたびにそれを思い知らされるのも、喧嘩するたび、心が粉々になるのも……心底うんざりなんです。なのに」
汗を拭う手が止まる。
目元で止まるこぶしの陰で、七海はくぐもる声でささやく。喉の奥に詰まる苦さを伴う声が、ふたりきりの食堂に、ことりと落ちる。
「それなのに、あなたへの想いをあきらめきれないのが、もう……もう、うんざりだ」
「七海……」
五条は額に手を当てて天井を仰ぐと、ふいに七海の腕をぐいと握って顔から引き剥がす。真っ赤に染まる濡れた目が、驚きに見開かれる。それへと五条が息せき切って告げる。
「ごめん、七海」
「な……、なんで謝るんです」
「ごめん。泣かせてごめん」
「やめてください、泣いてなんていません。これはカレーのせいです」
「いいよ。いまはカレーのせいでもいい。だから頼む、カレーで自死とか馬鹿な真似はやめてくれ」
「カレーで死ぬわけないでしょう」
「だって俺、七海が好きだから」
唐突な言葉に七海は息を呑み、やっと目を上げてまじまじと相手を見つめる。
五条は怒涛のようにあふれる想いを音と言葉で七海へ注ぎ込む。
「相性が悪くたって、喧嘩ばかりだって、俺は七海が好きだよ。頑固で生意気で、綺麗な顔に似合わない口の悪さも、とことん素直じゃなくて可愛げがこれっぽっちもないくせに、そんなふうに俺を一言で殺すところも、好きだから。おまえが腹が立つくらい可愛くないのも、だけどベッドのなかでは……可愛いのも、大好きだから」
「や……めてください。卑怯でしょう、そんないい方」
「おまえが俺の本心を聞いてくれるなら卑怯でいいよ。なあ、七海」
汗と涙に濡れた七海の手の甲を自分の額を押し当てて、五条が祈るようにいう。
「喧嘩するたびおまえに嫌われたかもって、心が微塵になるのも俺も同じなんだ。それくらい、おまえが好きなんだ。それをわかってもらうまで、俺はいい続けるから」
「……あなたってひとは」
「カレーのせいにしなくても、俺の前で泣きたいから泣くってできるくらい、おまえが素直になるまで大好きだっていうから。何度でも、わかってくれるまで好きっていうから」
なあ、七海。
そういって、五条が顔を上げる。丸いサングラスがズレて、五条の宝石のような瞳がのぞく。悔いと不安に、最強のはずの男の瞳は揺れている。
あと何度、喧嘩と仲直りを繰り返すだろう。傍から見たらこんな馬鹿げて児戯じみたやり取りを。
未熟なふたり、未熟な十代。
歩み寄るにはどちらもまだまだ子どもで、ぶつかるばかりの関係で、傷つき傷つけそれでも離れられない。傷つくたびに粉々に砕ける心を拾い集め、そうしてまた求め合う。
ままならない、子ども同士の初心な恋。
でも仕方がない。おまえが、あなたが、好きなので。……大好きなので。
テーブルに身を乗り出し、五条が七海の紅く染まった薄い唇に口付ける。七海も仰向き黙ってそれを受け止める。
からい、と顔を歪めて五条がつぶやく。甘党の俺には拷問なんだけどといいながら、また口付ける。テーブルに乗って七海の肩を抱き寄せ、七海も五条の首筋に腕を回す。
涙を吸った七海の唇の奥で、辛いカレーがやっと、甘くなる。