【五七/女体化/GL】戦うサマリアの娘たち わたしと違うあなた。あなたと違うわたし。
これはわたしがあなたと、世界を壊していく話。
◆ ◆ ◆
白銀の後れ毛が、無造作にくくった髪からひと筋、五条の汗ばむ白いうなじにはらりと、落ちる。
きれいだな、と七海はちいさく唇でつぶやいた。そんなこと、微塵も聞かれたいとは思わないのに。
十七歳の五条は、ひとつ下の七海よりも背が高いくせに、とても華奢な手足をしていた。
まっしろな肌とまっしろな髪、折れそうな細い首をして、その首に乗る顔もとびきり愛らしかった。
けれどそんな愛らしさに似つかわしくないぎらりとした凶暴さを彼女が隠そうともしないのを、七海は知っている。
「いてえ」
呪術高等専門学校の医務室に、五条の高い声が響いた。戸口に立つ七海は思わず身をすくめる。
「もっとやさしくしてくれよ、硝子」
「黙れ、毎度毎度顔ばかり傷をつけてきて」
乱れ髪をくくって椅子に座るふてくされた五条に、治療中の家入が咥え煙草で吐き捨てる。
「だいたいなんだ。今日は鼻まで折ってくるとか。あれだろ、逆に自分の顔の良さにうぬぼれてるだろ」
「いで、いででえっ!」
赤黒く腫れ上がって歪んだ鼻筋をつままれて、五条が飛び上がった。あまりの痛そうな光景に、七海は唇を噛んで目を落とす。
「硝子ならすぐ治せるだろぉ」
「馬鹿。そんなこといってんじゃない」
家入は後方に立つ七海にちらと目をやった。
「後輩を指導するための任務で、ムキになるとか」
「身をもって実践してやっただけだって」
「後輩を怖がらせても?」
「ハァ、怖がらせる?」
家入の指摘に、はっと七海が顔を上げるのと、五条が振り返るのが同時だった。
彼女は宝石眼を隠すサングラスをしていなかった。だから、悲惨な顔がはっきりと見えた。
赤と青と黄色のだんだら模様になった肌、赤黒く腫れた鼻。元の顔が目をみはるほどに愛らしいから、よけいに痛ましくてむごい。
七海だってこの世界に入ろうと考えたくらいだ、べつにか弱い心は持っていない。
けれどとてもそんな顔、正視なんてできない。
「……これぐらいで怖がってたら」
顔をそむける七海に、血のにじむ唇で五条は吐き捨てた。
「呪術師なんかやってけないっつの」
◆ ◆ ◆
おいち、にー。
昼下がりの校庭に、灰原の元気な準備体操の掛け声が響く。
ジャージに着替えて屈伸する七海の手足は、まっすぐでしっかりした骨格をしていた。
外国の血が混じる彼女の体は、五条の華奢さとは正反対。小学校から中学時代は頭ひとつ抜きんでて男子よりも背が高く、小柄で華奢な同級生たちのあいだで悪目立ちしていた。
だから愛らしい五条や綺麗な家入を見ると、ときおり胸を痛みがかすめる。
可愛くない、でかくて怖い。そんな異物に向ける視線。なまじ整った目を惹く容貌だから、いっそうみなから遠巻きにされてきた。呪術高専が楽なのは、そんな目線が少ないこと。ないとはいわない、けれど。
隣で屈伸する灰原を盗み見る。少年のやわらかさを残す体、その下にあるたしかな骨。性別の違いにかろうじて骨の太さは向こうが上だけれど、それだってわずかな差だ。
七海は大きく伸びをする。やめよう、コンプレックスに縁どられた過去の痛みを思い出して自傷みたいなことをしたって、傷が癒えるわけじゃない。
「髪伸ばせよ、七海」
「ひゃ」
いきなり短い髪の下のうなじを撫で上げられた。
びくりとして振り返ると、背後に立っていたのは、五条。黒いスカートの制服姿だ。
今日も彼女は両頬に絆創膏を貼っている。絆創膏の下には花が咲くように赤い血がにじんでいて、痛ましいのにうつくしい。
「やめてください、セクハラです」
目をそらしてそっけなくいい返せば、不機嫌な声が耳朶を叩く。
「せっかく綺麗でまっすぐな髪なのに」
といって五条は自分のもしゃもしゃした髪を、くるんと指に絡める。
「おれなんかこんな髪。伸ばすと爆発する」
「……関係ありません。このほうが動きやすいし、楽です」
「でも髪の長い七海もいいよ、きっと」
同じくジャージ姿の灰原がくったくなくいった。
彼の言葉は五条の揶揄する口ぶりと違って、するりと七海の胸に落ちる。
「そうでしょうか。似合わないですよ、たぶん」
「なんで灰原には素直でおれには偉そうなんだよ。先輩だぞ」
両のこぶしを振って、ぷんすか、というオノマトペが見えるように五条は怒って見せる。無駄に可愛さを振りまいて、と七海の胸にもやつく雲が生まれた。
「そんなことより、近接戦闘訓練ですが。着替えなくていいんですか」
いっそうそっけなさを極めて七海が指摘すると、五条は高々と可愛い鼻を上げて得意げに返す。
「後輩に負けるおれだと思う? ほら、今日の訓練の得物」
といって五条は、背後のベンチに立てかけてあった格闘技用の長棒を、ひょいひょいと七海と灰原に投げて渡す。
「夏油先輩はどこに」
「呪霊退治。あいつの呪霊操術でないと厄介な相手だから」
正直、後輩には物腰やわらかい夏油のほうが指導相手にはずっといいと思いながら、七海は長棒を握る。
そんな彼女に、五条は素手で片手を差し出すと、くいくいと指先を動かした。
「ほら、かかってこいよ」
「いいんですか、ぶちのめしても」
「いっただろ。一年なんかに土をつけられるおれじゃないから、制服なんだ」
サングラスをずらし、きらめく宝石眼を見せつけて、五条はべえ、と赤い舌を出す。
「この制服の黒にひと筋でも白い埃をつけられたら、おまえの勝ち」
「いちいち煽りたがりですね」
いうやいなや、いきなり七海は一気に踏み込み長棒を下から跳ね上げた。
ただでさえ死角になりやすい足元、予備動作のない踏み込みからのふいうちの打撃、達人でも避けにくい攻撃だ。
だが五条はそこにいない。
「遅」
背中から響く嘲笑う声、七海は振り返りもせず水平に長棒を振り回す。背後の空を切った、と感じて直後に前方へ跳ぶ。
「遅い、遅い」
はっと息を呑む間もなく今度は真横に声が聞こえた。とっさに飛び退りながら得物を振り回すがいきなり動きが止められる。
見れば五条が長棒の端を握っている。
「長棒のリーチの利点がぜんぜん活かせてねぇじゃん」
煽りに返さず、七海は渾身の力で五条の手を振り払って飛び退く。
腹が立った。
五条はいま無下限を使っていない。いや、七海との手合わせのときだけでなく、七海を訓練するための任務でも、一切。
彼女の頬に開く紅い花を見る。呪霊の攻撃をわざと顔で喰らう彼女の姿も、医務室で手当てされる酷い顔も思い返す。
どうして、と七海は歯噛みしたくなる。なぜ、わたしといるときいつも力を抑えるような真似をする。しかもそれで、自分を傷つけるような真似を。
「なんで手加減してんの?」
五条がこれ見よがしに短いスカートの端をつかんで広げて、ぱっと放した。ひだスカートはふわりと浮いて落ちる。埃のひとつもついていない黒だ。
「七海さあ、体ばっか狙おうとしてね? そりゃ的が広いから正しいけど、なんかさ、ことさら顔に当てないようにってしてるよな。そういうの」
にぃ、と唇の片方を大きく吊り上げ、五条は愛らしい顔に似合わない凶暴な笑みを見せる。
「つまんねぇんだけど」
「……好きにいってかまいませんよ」
戸惑う顔でふたりを見比べる灰原を放って、七海は長棒をかまえる。
手加減なんかしていない、しているのはそっちでしょう。たしかにあなたのほうが身体能力は上で、五条家の六眼持ちで……いくら数え上げても敵うはずがない。
けれど、と七海は構える長棒の陰で唇を引き結ぶ。
顔を合わせるたびにからかわれ、侮られるばかりなんて癪に障る。いつも塩対応で冷ややかな態度ながら、七海は確実に負けず嫌いだ。
こちらを侮るなら好都合。
その余裕の一片でも剥がしてやる。
七海は鋭い光を瞳にたたえると、す、と息を吸って上段に構える。次の瞬間、凄まじい勢いの踏み込みで五条の顔面目掛けて打ち込む。
むろんフェイント、相手の挑発に乗ったと見せてその実、長棒の機動を寸前で変える荒業だ。
……けれど。
は、と息を呑む七海の目の前に、戦意にきらめく五条の顔が飛び込む。
その横っ面にいま振り回した得物が――。
◆ ◆ ◆
「……まったく。いい加減、直してやらないぞ」
嘆息気味の家入の声が教室に響く。
その前で椅子に腰かける五条のふくれっ面は大きく腫れ上がっていた。
あのとき、彼女は七海が繰り出した長棒をしたたかに頬に受けたのに、足を踏みしめて倒れなかった。
鼻血を流し、けれど瞳は爛々と輝かせ、長棒をつかんで思い切り振り回して七海を地に倒した。
宣言通り、制服の黒に土埃の白をひと筋もつけることなく。
「すみませんでした」
七海は屈辱のような想いで頭を下げる。
「顔に当てるつもりじゃなかった。わたしの未熟さのせいです」
「七海のせいじゃないぞ。この馬鹿が馬鹿なせいだ」
「ちょっとひどくね、硝子……いでで!」
腫れた顔を家入に思い切りつかまれて向きを変えさせられ、五条は悲鳴を上げる。
「ほら、治したぞ」
反転術式の発動、ふわりと呪力の流れがかすかに見えたかと思うと、五条の顔の怪我がゆっくりと治癒していく。
「次からわざと顔を怪我してきたら、治すごとに治療費ふんだくる。一回百万だ」
「いいよ。どうせ五条家の金だ」
といって五条は腰を上げる。かと思うと鋭く七海を振り返った。傷はもうひとつもなく、元の愛らしい面立ちに戻っている。なのに紅い血の欠片が頬にこびりついていて、それが七海の胸を痛みに疼かせた。
「いちいち傷ついた顔すんな」
ふいに五条が吐き捨てて、七海は思わず目を開く。
「なっ……べつに、傷ついてなんか」
「よけいなお世話なんだっつうの」
七海の言葉をさえぎり、五条は強くいい返す。
「おれはちっとも傷ついてない。これっぽっちだって傷ついてない。なのにおまえが、いつもいつもそうして傷ついた顔するから、おれは……」
中途で五条は口を閉ざす。ふんと細い肩をそびやかし、短いスカートをひるがえして足音荒く出ていった。
「気にするな」
呆然と見送る七海の背に家入の声が当たる。
「あいつが荒れてるのは、七海のせいじゃない」
「無理です」
七海はうつむき、奥歯を強く噛みしめる。胸のうちを吹き荒れる、炎なのか嵐なのかわからない感情。懸命に抑えつけなければ、七海は走り出して五条のあとを追いかけ、形にならない言葉をわめき散らしていたはずだ。
「どうしてあのひとは、自分を痛めつけるんです? しかも、わたしの……前でだけ」
「七海の前だけじゃない。最近は収まってたと思ったんだがな、一年のころはもっと荒れてた」
声に目を上げれば、家入は煙草の箱の端を、とん、と叩いて細い一本を取り出すと、色の薄い口に咥える。
「五条の家のせいだよ」
かち、とライターの火を灯す音が、ふたりだけの教室に響く。
「六眼持ちでも無下限呪術があっても、〝女〟としか見ない馬鹿どものせいだよ。あいつは……」
ふう、と頼りない紫煙を吐き出す家入の言葉が、煙とともに宙に消える。
「そのせいで、一族の人間を殺したことがある」
あまりの言葉に凍り付く七海に、家入は淡々と言葉を継ぐ。
「呪詛師落ちしなかっただけでもまだマシだ。だけどそれでも、古臭い体質は変わらなかった。要するに、あいつはさ」
しばし、間があった。家入が指に挟む煙草は吸われるまでもなく、ゆっくりと自分を焼いていく。
紫煙のなかに、家入の息が吐かれた。
……世界を壊せないから、自分を壊してる。
◆ ◆ ◆
初対面は、いまにも崩れそうな廃ビルの前だった。
〝おれが二年の五条。今日の引率〟
入学直後のオリエンテーション……という名目のもと、早速の実戦訓練で引き合わされたのが、五条。
黒い短いスカートから伸びる白い足、適当にくくった真っ白な髪にうさんくさいサングラス。けれどはずすと、まばゆいほどの宝石眼が現れる。
それを見たとたん、七海は息を呑んだ。
輝くような美貌の少女。研磨されていない天然石だけが持つ、目を奪われるきらめきだ。
〝で、呪術師になろうって新入りの馬鹿はオマエ?〟
唇は笑みの形に歪んでいるのに、まなざしは射抜くようにまっすぐで鋭い。覚えず七海は目をそらす。
〝スカウトされたので〟
〝術式持ちで呪霊が見えるって聞いたけど〟
七海を揶揄するように軽い調子の、けれど剣呑な声が響く。
〝生半可な気持ちで入ってくるなよ。護身術を学ぶ程度に考えてるなら、ここで帰っていいぜ〟
〝説明はきちんと受けました〟
初対面から相性が悪い、と感じ取って七海は警戒心を強めながら、やはり目を合わさずに答える。
〝その上で選んだんです〟
〝だったら、おれを見ろよ〟
耳朶を叩く声が、強引に七海の視線を惹きつける。
〝オマエが目をそらす現実が、ここにいるんだ〟
その初訓練で、七海は五条がわざとのように自分の顔を傷つけるのを、目の当たりにした。
◆ ◆ ◆
車両が大きく揺れて、はっと七海は頬杖から頭を上げる。
窓の外を流れるのは、深い緑の木々の景色。幾度かのスイッチバックを行って、電車は山の奥深くへと登っているさなかだ。
夏の色が、まだ木々には色濃く残っている。もう十月になるのに。
ごがあ、という大きないびきが響いて旅情を破る。
向かいでは、サングラスをかけた五条が口を開けて寝入っていた。黙っていれば……といって五条が黙っていることなんてないけれど、まあ仮に口をつぐんでいられるなら息を呑むほどの美少女なのに、涎を垂らして熟睡する様はなかなかに見たくない光景である。
七海は窓枠に肘をついて嘆息した。
地方のローカル線、向かう先は山奥の廃村。
五条ひとりで行けば済む任務を、訓練として一年を同行させられている。忙しい身なのにどうしてわざわざ、そんなこと。
〝……五条の家のせいだよ〟
家入の声がふと、七海の耳の奥によみがえる。
〝世界を壊せないから、自分を壊してる〟
馬鹿げたことを。
でも、壊せない世界に息が詰まる気持ちは……七海にもわかる。
黒髪と黒い瞳の子どもたちのなか、ひとり異物で、奇異の目にさらされて育ってきた。
排除しながら注目するまなざし。そのあいだから感じる呪霊の視線。なにもかもうんざりだ。ぜんぶ、ぜんぶ。呪術高専に入ったのは、そんなまなざしから逃げ出すよりむしろ――。
追憶のさなかに車内アナウンスが響いた。開いた窓から顔を少しのぞかせると、行く手の木々が途切れて小さな駅のホームが見えてくる。
「五条さん、終点です」
「……んぁ、もうついた?」
七海の呼びかけに、五条は寝ぼけた声で答えると、うーんと伸びをする。かと思うといままでのだらしない熟睡ぶりがうそのように軽快に飛び起きた。
「行くぞ、七海。登山だ登山」
停車の揺れをまったく気にせず、五条はさっさと出口へ向かう。つくづく身勝手な、と七海は吐息を落としてあとを追う。
山奥まで登れば秋はだいぶ深まっていた。
頭上の木々は炎をまとうよう。うつくしい紅葉の眺めが七海の歩みに次々開けていく。
「今回、オマエがやるのは露払いってやつ」
短いスカートをひるがえし、五条は枯れた下映えの生い茂る山道を登っていく。冷たい秋風にさらされる生足が痛々しい。けれど一向に気にしていない様子だからきっと、無下限呪術で冷気をさえぎっているのかもしれない。
都合がいい使い方。だったらそうして最初からずっと発動していればいいのに。
「露払いなんて要りますか。五条さんひとりでやれるでしょう」
「オマエを鍛えるいい機会だろ」
こともなげに返して五条は「ほら、もうすぐ」といって足を早めた。
七海は片手に提げた黒いバッグを意識する。なかには大ぶりの鉈、最近手にした呪具だ。これを、初めて使う。
「あそこが目的地、ダム建設予定の廃村」
やがて開ける木々のあいだを、五条が指さす。
山間を流れる川沿いの集落が見えた。さほど家々が朽ちてないのを見れば、放棄されてからさほど日が経ってないらしい。すでに工事車両が入っている。
「もう無人だけど、厄介な呪霊が居座っててさ。昔の呪術師がかけた神社の封印が、工事車両が入ったせいで解けちまって、何人か犠牲が出た」
白い髪をかき回し、五条は呆れ気味にいう。
「一帯まとめてふっ飛ばしてもいいんだけどさあ、さすがに工事予定があると勝手に地形変えるわけにもいかないし。つうわけで」
軽い口調でいうと、五条は振り返る。
「オマエ、適当に二級と三級を片付けてきて。無理はすんな、あくまで適当、適当な」
「〝帳〟を」
「こんな山奥、誰もきやしねえよ……はいはい、お堅いねオマエ」
七海がにらむので、五条は軽く印を結び、帳の呪文を唱える。たちまち、黒い幕状の結界が集落の周囲を覆っていく。
「では、行ってきます」
「くれぐれも無茶すんなよぉ」
軽薄な声で片手を挙げてひらひら振る五条をあとに、七海は歩き出す。
放棄された道は枯れ草がまとわりついて歩きにくい。制服がスラックスで良かった、と思いながら七海は進み、バッグから鉈を取り出す。ひと気がないなら隠す必要もない。
まだ〝縛り〟を決める前のこと、鉈はよく研いだ刃を昼間の光に輝かせている。
放棄された家々のあいだに足を踏み入れる。舗装された道はアスファルトが割れて、隙間から雑草がはびこっていた。田んぼのあぜ道も荒れ放題、風雨にさらされた家々は外壁の塗装が剥げたり、庭が伸び放題の草に覆われたりと、自然のはびこるままになっている。
けれど、怪しい気配は……と思った瞬間、七海はぞわりとうなじが逆立った。
家々の陰から、こちらを見る無数の目。
生きた人間を見つけて群がるおぞましい気配だ。七海は慎重に鉈の柄を握りしめる。
「……ニンゲン……」
背筋が冷たくなった。耳朶に触れるその声はただ、悪意にのみ満ちている。
「ニンゲン」「ニンゲン……」「ニンゲン! ニンゲン!」
家々の陰から、ずるりと二足歩行する牛ほどの大きさの巨大カエルが現れてて、べろりと長い舌を出す。
その舌先に乗るのは、片方だけの黒い作業靴。
「……ニン、ゲン……」
ケヒヒ、という醜い笑いが響く。七海の胸のうちに、紅い怒りが着火した。
次の瞬間、呪霊の長い舌先が切り落とされる。
ぼたり、と地面に作業靴が落ちる鈍い音。それが開始の合図。
宙にひらめく鉈の一閃、次々に呪霊の体が斬り飛ばされる。呪力を込めた斬撃は、少女が振るうものとは思えないくらい容赦なく呪霊の肉を断ち切っていく。
たちまち辺りは肉塊の転がる惨状になる。二級、三級のやつらを適当に倒せと五条はいった。七海の身体能力は高く、術師としても素質は充分、それでも一年にやられるくらいなら大した等級じゃない。これならあらかた自分ひとりで片付けられる、と思ったときだ。
頭上に黒い影が差した。
見上げる前に七海は飛び退く。そのあとを長大な舌が激しい風とともに舐めて空を切る。
鉈を握って建物の陰から見上げれば、二足歩行の巨大なサンショウウオにも似たおぞましい姿の呪霊が歩んでくる。
鋭く舌が飛び、近くの建物を貫いた。降りかかる瓦礫を避けて七海は走り出す。
あれの等級はいくつだ。見かけはぶざまだが、呪霊の恐ろしさは見かけではない。しかも、ほかの弱い呪霊たちもまだまだ集まってくる。
くそ、七海は吐き捨てた。
助けを呼ぶのはたやすい。五条と別れた場所は距離があるが、大声で叫べは声は届くはず。
……呼ぶもんか。
自分を侮り、馬鹿にする相手になぜ助けを求めなくてはならない? それこそ敗北の味だ。
ふいに横合いから巨大呪霊の舌が飛んだ。とっさに七海は鉈で打ち払って飛び退く。次いで地面を激しく蹴りつけ、跳躍し鉈を振りかぶる。
「ッ!」
いきなり横腹を打たれ、七海は宙から落下。したたかに地面で顔面を打った。
すさまじい痛み、がぎ、という気の遠くなる恐ろしい音とともに意識が吹っ飛ぶ。
鮮血がアスファルトに散った。どろりと熱が鼻筋を伝う感触が皮肉にも意識を引き留める。必死に戦意をかき集め、七海は身を起こして鉈をつかんだ。
やみくもに鉈を振り回し、群がる呪霊たちを追い散らして七海は足を踏みしめ向き直る。
満身創痍の少女の眼前に立ちふさがる、呪霊の群れ。黒い雲霞のごとくに。
七海の端整な顔に、だらりと鼻血が垂れる。鼻筋も頬も腫れ上がっているのはわかった。しかし戦意のアドレナリンが痛みを鈍くさせる。
「……ナメやがって」
ぺっ、と血の固まりを吐くと、七海は大きく舌を出して鼻血を舐めとる。舌を刺す鉄の味を覚えながら、目の前の呪霊たちへ不敵に目を光らせる。
舐めやがって。圧倒的だと思っているだろう、数で圧し潰せると思ってるだろう、こちらがひとりだと思いやがって、このやろう。
自分を見るまなざし。異物に浴びせる視線。遠巻きにしながらも好奇の目を決してやめようとしないものたち。
もう、もうたくさんだ。
傷つくのも。黙り込んで無視するふりも。
呪霊たちの目に浮かぶのは歪んだ悦びのようで、七海が浴びてきた好奇と忌避の視線とは違う。それでも、誇り高い彼女を憤らせるに充分だった。
「七海!」
ふいに声が響いた。
はっと振り返れば目の前の呪霊の群れが爆散し、そのあいだを五条が走ってくる。
「ご、五条さん!?」
「なんで助けを呼ばないんだよ!」
七海の前で短いスカートをふわりと浮かばせ、五条が急停止して怒鳴る。
そんな焦る顔は初めて見た。驚くより先に七海は憤りがこみ上げる。呼んでない。呼んでないのに、なぜきたの。
「助けなんて呼んでいません。どうしていつもそう、自分勝手なことばかり」
「黙れ、っていうかなんだよ、その顔!」
七海の言葉などひとつも聞かず、五条はいいつのる。
「オマエ、おれが怪我するとすぐつらそうな顔するくせになんで自分は傷ついてもいいと思うんだよ。せっかくのいい顔なのに!」
「はあ!? 本当にどこまでも勝手なことを」
痛みからのアドレナリンがさらに憤りをかき立てる。
ずっと腹が立っていた。気に入らなかった。初めて顔を合わせた最初から、ずっとだ。
わたしの前で勝手に自分を痛めつけて、勝手に傷ついて。なのにわたしには怪我をするな? こんな馬鹿げた話があるか。
「この顔はわたしの顔です、わたしが自分の顔をどうしようとわたしの自由です!」
「ふざけろ、だったらなんでおれが怪我するたびに傷ついてんだよ!」
「あなたが自分を大事にしないからでしょう」
「そっくりそのままオマエに返してやる」
いい合うふたりの真上に呪霊の大きな影が黒々とのしかかる。
「邪魔すんな、うるせえ!」
怒鳴りながら、ぱちんと五条が細い指を鳴らす。
ぼがん、というすさまじい爆発とともに呪霊たちが吹っ飛んだ。思わず七海はぼう然と見やる。呪霊たちどころか、立ち並ぶ家々、地面も川べりまで大きくえぐれていた。……工事車両なんか入れなくても、五条ひとりで一帯を一掃できそうだ。
「おれだって、この顔はおれのものだ。だったらおれがどう扱おうがおれの勝手だろ」
「わたしは! わたしはあなたみたいにわざと自分で自分を傷つけたりしていません!」
収まらない怒りが七海から言葉をほとばしらせる。
〝……世界を壊せないから、自分を壊してる〟
家入の言葉が怒りに染まる脳内によみがえる。
その指摘が真実かはわからない。五条だって、そんな自分の弱さを認めはしないだろう。それでも傍から見て、我慢がならない哀しさなのは、間違いない。
七海は大きくえぐれた地面と呪霊どもの肉塊を指し示し、激しく言葉を叩きつける。
「貴方は、貴方はこんな……こんなふうに地形まで変えるくらいのふざけた力があるのに、それなのに、わたしの前でわざと顔を傷つけるしかできないなんて。あなたなら簡単じゃないんですか、世界を壊して変えることなんて。自分を壊すよりも先に!」
「……なっ」
「あなたが壊せないなら」
どうしてこんなに腹が立つのだろう。
初めて彼女に会ったときのことを、七海は思い返す。
研磨されていない原石だけが持つうつくしさ。ほとばしるエネルギーと光。こんなにうつくしくて、あらゆる目線を惹きつけるようでいながら、彼女は決して目をそむけようとしなかった。
一目見たときから、たぶん、そのうつくしさと強さに敗北していたのだ。ひとの目から目をそむけ、顔もそむけて逃げるように生きてきた自分と違って、あらゆるまなざしの暴力から逃げずに堂々と歩んできたのだ。……そう思っていた。
だから、腹が立ったのだ。
自分を傷つけずにはいられない、貴方の内の衝動に。目をそむけるだけでなにもできない無力な自分に。
「わたしが壊してあげますよ、あなたの世界を」
五条は呆気に取られた顔で七海を見返した。
しばしふたりは、呪霊の肉塊と半壊の街並みのただなかでにらむように見つめ合う。
「オマエ、さあ」
ようやく、かろうじて五条は声を絞り出す。
「なんで、なんで……オマエ、そんなこと、いってくれんの」
「知りませんよ。ところで……どうします」
らしくないことをいった、と七海は急に羞恥がこみ上げて、ぶっきらぼうにいった。
「結局、地形を変えてますけど」
五条は川べりまで崩れた地面を見やると、あーあ、と吐息して頭をかいた。
「まあ、報告書は……やだけど、おれが書くし」
「お願いします。夜蛾先生のお叱りは、一緒に受けますから」
「なんで。いいよ、おれの引率責任だろ」
「……素直に、助けを呼ばなかったわたしのせいでもあるので」
川の方角を眺めやって七海がいうと、五条が肩をすくめる気配がした。
「オマエ、ほんとそういうとこ可愛くない。……けど」
「けど、なんです」
むっとして七海が問い返すと、五条は珍しくうつむいて、ぽん、と困惑の声を投げる。
「そういうとこ、なんだよな。おれを……ムキにさせるのは」
◆ ◆ ◆
「……六歳のとき」
揺れる車両に五条の声が響く。
帰りの電車はまたしてもほぼ貸し切りだった。
窓の外を遠ざかる紅葉は、ゆっくりと、夏の名残りの緑へ戻っていく。けれどそれもあと数日で秋の色に変わるはず。
「六歳のとき、おれは一族のやつを殺した。……って話は、聞いた?」
七海はぎこちなくうなずく。
めちゃくちゃに絆創膏を貼られた顔で、七海は五条の向かいに座っていた。
用意していた鎮痛剤は飲んだが、鈍くなる痛みと闘争心の代わりに、重くだるい眠りに引きずりこまれそうになっていた。
だが五条の話だけは聞き逃したくないと、七海はスラックスの膝をきつく握りしめる。
「六歳とは、知りませんでしたけれど」
「ふぅん」
誰に聞いたかとも問わず、五条は窓枠に肘を置いてサングラスをかけた顔を外へ向けている。
「胸くそ悪い話だけど、まあ御三家内や呪術師界隈では公然の秘密的な話だしな」
「なぜ……」
「なぜ殺したかって? そんなの」
ふいに五条は牙を剥くようにぎらりと白い歯を見せて嗤った。
「六歳の寝室に入ってくるクソが悪いだろ。おれに近づく前に術式でぶち殺したけどな」
あまりの話に七海の背筋が凍る。
〝……女としか見ない馬鹿どものせいだよ〟
家入の言葉は、こんなにも惨く酷い現実を示していたのだ。
「おれは傷ついてない。相手を殺す強さだって充分以上にある。だから、やめろ。オマエにそんな顔されたくない」
「元からこんな顔です」
うそだね、と五条は笑った。その笑い声は軽くて、七海の胸を痛み以上にきしませる。貴方だってうそでしょう、傷ついていないなんて。
「初めてオマエに会ったときにさぁ」
手の甲にうつくしいおとがいを乗せる五条の声が窓枠に落ちる。
「こんな……綺麗な、繊細で傷つきやすそうな顔して、だけど選んで呪術師の世界に入ってくるってさ。なにか……腹が立って」
窓の外を見るサングラスをかけた横顔こそ、繊細美の輝きだった。未熟で、だけど誰にも研磨をゆるさない傲慢な天然石。
「おれはもう逃れられない家に生まれたから仕方ねえじゃん? けど、オマエは非術師の家の出じゃん」
「だから、わたしの前でわざと自分を傷つけたんですか。わたしを呪術師の世界から追い出すために」
五条は答えなかった。
ふいにずるりとその頭が滑り、肘のなかに落ちる。
「……こんなクソな世界だからさ」
少女のくぐもる声が、七海の耳朶を怯えるようにそっと叩く。
「オマエの善性と引き換えにできるような場所じゃ、ないかもよ」
「個人と引き換えにできる世界でも、ないです」
七海の、決して強くはないのに確信に満ちた声に、五条は肘のなかからサングラスに隠した目を上げる。
薬による眠気はもうピークだった。起きたらきっと痛みは倍に増しているだろう。そう思いながらも七海は抗えず、登山鉄道のゆるやかな振動に合わせてことりと窓枠に頭を寄せる。
「自分を変えるよりも、はるかに、クソみたいな世界を壊すほうがいい。だから、わたしは……選んだんです、ここを」
そうつぶやいて、落下するように七海は眠りへと吸い込まれていった。
「……ばぁか」
五条の愛らしい唇から悪態が落ちる。もっとも悪態のわりには、痛ましいまでの優しい響きがあるが。
「ばかだな、七海。おまえほんと、使い古された〝善きサマリア人〟じゃん」
ユダヤ人と敵対していた隣国のサマリア人。宗教的違いからの対立とも、純血を重んじるユダヤ人に混血を厭わない慣習を憎まれていたともいわれつつ、隣人に寄り添う愛の喩えとして使われた民族。
七海は語りたがらないけれど、この整った容姿に呪霊が見える体質なら、どうせろくでもない目にしか遭ってこなかったはず。
それでも彼女は、こうして寄り添ってくれる。
目の前の傷ついた人間を見逃さず、たとえその相手が自分より強くても、自分のほうがずっと疲弊して傷ついていたとしても、手を差し伸べようとしてくれる。
まばゆいばかりの善性が、誰よりも強いあまりに目をそらしてきた五条の痛みに触れてくる。
だから気付いた。自分の傷に。だから抗って虚勢を張った。勝手に触れるな、おれの痛みに――と。けれど七海は憤りながらもそばにいてくれる。
「ほんと、ばかだよなあ、オマエ」
五条は眠る七海の顔に手を伸ばしかけて、やめた。セクハラだって怒られたんだっけ。
じゃあ、彼女が目覚めてから触れてもいいか尋ねよう。そうして初めて、ちゃんと応えて、申し込もう。
「……おれと一緒に」
こんなクソみたいな世界、ぶっ壊そう、って。
善性の塊みたいなオマエとならおれは、救うべき隣人たちを殺さずに、壊すべき世界だけを変えていけるかも……って。
オマエと違うおれ。おれと違うオマエ。違うからこそ、ふたりで、痛みに満ちた世界を壊していける。
そんな若く青く淡い希望を、十七歳は生まれて初めて抱く。
戦うサマリアの娘たち。
人々には愛を、世界には憎しみを抱きながら、無垢なる隣人たちのために、傷ついても報われなくても戦っていく。