蛍る心臓海賊船を堂々と大きな港に停泊させることはない。海賊旗がある以上、人の少ない入江に船を置いておく。自然豊かで人が通るとは言えない場所に潜水艦を停めておいた。そのすぐ側にずぶ濡れで如何にも「打ち上げられた」人間が一人。
「キャ、キャプテンを呼べ!」
第一発見者となったシャチはそれを見て叫んだ。つい数分前、荷を積んでいる時にはなかった人間。もしかしたら死んでいるかもしれない、とはまだ思っていなかった。
大声で叫んだシャチになんだと反応するハートの海賊団のクルーたち。ペンギンがローを連れてくる時には、何人かの船員がその人間を囲んでいた。誰一人その人間に触ることなく眺めている。
「……なんだこれは」
「キャプテン、今までなかったのに。人間が……急に現れて」
「湯を沸かせ! タオルもだ!」
キャプテンがクルーに指示する。慌ててお湯を沸かしに行ったり、タオルを持ってきたり、その場は大変な騒ぎになった。
ローがその人間に触れる。ごろり、と転がされて仰向けになる。人間は女のようだった。腰まである長い髪が全身に張り付いている。顔にかかった長い髪を掻き分けて、ローが人工呼吸を施す。しばらくすると、女は咳き込んで息を荒くする。ガタガタ震えながら温かいココアを受け取った女は「よくわかんないけどありがとう」と言った。
女の足には拘束具が嵌っていた。
腰まである長い髪は藻やゴミが絡まって汚い緑色をしていたが、風呂に入ることでキラキラと光る白色だと分かった。それだけじゃなく、女、
名前の両足首は鎖で繋がれており走れないようにされていた。両手の甲には焼印が押されていて、逃げ出した奴隷と言う他言葉は見つからない。キラキラと輝く髪と瞳、美しい造形のかんばせ、女優のように美しい所作。攫って売りつけようとする輩がいるのも奴隷になったというのも、悲しいかな納得させる容姿。
名前に聞こうにも「どうしてこうなっているのかわからない」「名前以外思い出せない」と言う。
厄介ごとはごめんなんだ、と呟いたローは謝ったシャチに謝るなと声をかけた。
「
名前は患者だからな」
大きなため息を隠そうともせず、ローは
名前を観察する。手の甲の焼印は形からして最近つけられたものではなく、幼い頃につけられたものだろう。掻き毟った跡は最近のものだ。焼印が嫌で掻き毟ったのだろう。背中にも同じ焼印があった。これも昔のもの。
焼印は天竜人の奴隷の印だった。奴隷、しかも天竜人の奴隷となると面倒なことこの上ない。
海の中で足枷とぶつかったのか、足首は痣になっている。
名前はやることがないのかローを眺めたり、ポーラータング号の部屋の中をキョロキョロと見回している。
「それ、やめろ」
「それって?」
名前はぱちぱちと瞬きをして首を傾けた。
「瞬き」
「多分無理よ」
名前が瞬きをする度にキラキラと光が瞳から溢れる。まるで星が瞬くように。
「昔からなのか?」
「何が?」
「その、キラキラしたやつ」
ローが
名前の目を覗き込む。瞳孔が大きくなってローにピントを合わせようとしている。
「普通の人間と違う?」
名前はふふ、と笑う。
「多分私は普通の人間だと思うよ。だって、普通と違うなんて記憶ないもの。今は名前以外の記憶はないけれど」
名前は出されたコーヒーを飲み終わると小さなあくびをして、そのまま眠った。
「おい、そこで寝るな」
ローの部屋の小さな椅子で眠った
名前をローはベッドに移動させる。その間に
名前が起きることはなかった。
名前が眠って一日経って、そろそろ起きた方がいいんじゃないかという声が疲れているから眠らせてあげようという声を上回った。二日経って、大丈夫なのかという声に変わった。三日経って、
名前の腕に点滴が繋がれた。
「キャプテン、
名前死んじゃうのかな?」
「……さぁ」
ローの目には、衰弱している
名前が映っていた。第一発見者となったシャチは
名前の様子を一番見に来ている。ベポは
名前の目を見ようとしたものの、
名前が眠ってしまった為、
名前が起きるのを待っている。
出航予定は昨日のはず。だけど出航しよう、とは言えなかった。いくら船長が医者だろうと海の上と陸の上じゃ物資が違うし、出来ることも異なる。
名前が何らかの手段でハートの海賊団を利用しようとする悪人という線も否定しきれない。
ローは
名前に再び枷を嵌めるべきか迷った。しかし、
名前は見るからに衰弱しているし、点滴が繋がれている。それでいいじゃないか、とローは自分を納得させる。
「
名前が起きたら呼べ」
ベポに声をかけて、ローは部屋を出ていった。
目が覚めると点滴に繋がれていた。ゴウンゴウンと機械の音がする部屋で、ベッドに寝かされている。
「あ、起きた!」
「……白クマ……?」
「キャプテン呼んでくるね!」
白クマは私に説明することなく、部屋を出ていった。左腕から延びた点滴のパッケージは糖分やらの栄養が記載されている。毒を入れられてはいないらしい。オレンジ色のシャツとズボンを着せられて、両手には綿の白い手袋。部屋の本棚には医学書が詰められている。
「ここは……?」
「ポーラータング号の中だ。逃げようにも海の中だ。無駄なことをしないのをおすすめする」
「あなたは?」
「船長のロー。もう忘れたか」
「ロー、ローさん」
あざらし柄の帽子を被った男性。多分初対面なのではないかと思う。怪我をしたのか、この人の世話になったのだろう。
「記憶は戻ったか? 名前以外のことは?」
「分からないのは、どうしてここにいるのかだけ。海に落ちたのは覚えてる」
「そうか。おれたちはお前を保護した」
「ありがとう」
「礼ならシャチに言え。拾ったのはシャチだ」
シャチ、さん。口の中で呟いてそれが名前だと確認する。口の中が乾いているし、背中は痒いし、足首は痛い。着けられた手袋のせいで指先の感覚はおかしい。手袋の先を引っ張って脱ごうとしたその時、ローが私の手を握る。
「先に言う。不可抗力だ」
「何について?」
「ビブルカードを手にお前を追ってきた天竜人から逃げるためだ」
そう。私は奴隷だった。天竜人の。もしかしたら今も奴隷。フィッシャー・タイガーという人が暴れた結果、騒動に紛れてマリージョアから逃げた。その後、ハンコックたちと一緒に保護されていた。ハンコックと一緒にいたはずだった。けれど、私は海に落ちた。
「……だから、何」
「手の甲」
ローが私の手を指差す。慌てて白い手袋を外す。手の甲がうっすら痒い。両手の甲には天竜人の持ち物である証、焼印が入れられていたはず。なのに、両手には刺青。ペイズリー柄のようなハートが傷を覆うように描かれていた。
「
名前はハートの海賊団の一員、ということだ」
手の甲を擦っても消える気配はない。黒いインクの周りは薄いピンク色をしていて、簡単に消えるものじゃないと思い知らされる。
「……だからって、タトゥーまで入れなくてもいいじゃない」
奴隷の次は海賊。どこに行こうと私は誰かの所有物。私の身体が、私が許可しないところで勝手に変えられる。
「欲しいものは奪う。海賊だからな」
「さいあく」
「一時的な措置だ。それとも何だ? 天竜人に引き渡せばよかったのか? 治療に逃げるための一時的な名義貸し。感謝してほしいくらいだ」
「治療は、感謝してる。でも勝手に刺青とか、やめて」
「仕方がなかった」
「島に着いたら、降りるから。回復したし、刺青消すために医者を探す」
「医者は俺だ。背中のデザインも考えとけ」
「はぁ!?」
「星の一族。俺から離れたらどうせ捕まって売られるのがオチだ」
「言ってない」
「調べた」
私は大きなため息を吐いた。疲れたとか、怒りとか、色んな感情が身体の中を巡った。ローを睨むものの、ローは飄々としている。
「私は弱くない」
普通の女の子と比べたら強いし、頭だって悪くない。ローは立ち上がって部屋を後にする。
「元気なようでよかったよ。後で食事を届けさせる」
ゴウンゴウンと船の音が鳴り響いていた。
「船長、一目惚れって言えばいいのに」