月下楼臺 日ごとに葉色深まり実り増す夏の暮れ、雨空がようやく晴れ上がった昼にふと、騰は竹簡を繰る手を止めた。飾り格子を射抜く陽射しが磨かれた床へ複雑な影を描く。追うともなく陰影文様を追った碧い瞳が瞬くと、数日手元に据えていた灯し火がかえって堂内を暗く感じさせた。早朝雨垂れと共に始めた沈思黙考の模擬戦に区切りをつけ立ち上がる。
奥に座す主の筆も長く置かれたままだった。中原に並ぶ者なく雄邁で広やかな背の凭れる椅子の彫金が、折しも差し込んだ光を眩しく反射した。黙す王騎の眼差しは老成された冷徹さと生来の華やぎを備えて鬱金を帯びる。武威を誇る節くれた指が顎を支え薄暗がりにも鮮やかな紅唇は常の笑みを形作っていた。
主の思惟に触らぬ程度に音を殺し、騰は一つ一つの窓を全開にして回る。
「充分ですよォ」
長身巨躯の指先をどう掲げても届かぬ高所に残った小窓を見上げて思案げな副官へ、独特の艶めいた低音が掛かった。
「ハ。良い風です」
季節外れの長雨に澱んだ湿気を陽光と爽やかな風が払う。書庫に連なる小堂内には主従各々が積んだ書簡の山が其処此処築かれていた。
窓辺に歩を止めた副官が耳を傾けるまでもなく、数日絶えていた夏虫の音が轟く。
あれはまるで傀儡よ、人の心を持たないなどど陰口を囀る輩が生涯見ることのない光を湛えて、騰は淡い笑みをこぼした。ひたむきと云える視線が樹幹を行き来する。強く吹き込む東風に、銀糸の袖が、陽に溶ける亜麻色の惣髪がたなびいた。
清澄な大気よりもあかるく青天を映す瞳にこそ、澱みの晴れる心持ちで王騎は腹心を眺める。
いくらかの沈黙を経て虫追う眼差しはそのまま、真直ぐに主を向き直った。瞬く間、視線が交差しすり抜けては絡み合う。無音の対話に等しく満たされた主従は互いにだけ伝わる程度に表情を改めた。
「では、ゆきましょう。準備を」
「ハ」
端的な下命に拱手をもって短く応え、踵を返した騰の足取りはごく軽かった。
立ちのぼる陽炎が黄土の果てを歪ませる。干された雨水を取り返そうとばかりに、白日が大地を照らし付けていた。
城門を駆け出た二騎は湿った土塊を撒きつつ遠矢のように進む。茫漠の砂塵に取り巻かれはしない代わり、立ちのぼる熱気が人馬を圧した。物理的な重ささえ感じさせる大気を軽々割き疾駆する、二頭の駿馬は生気に満ちて、久しく主を負う喜びに鬣を躍らせる。
泰然と背を立てる王騎の指が、今日は形ばかり手綱を絡めている。愛刀こそ佩けどほかに一切の武具を纏わず居城を発つ主の姿は、長年の腹心にとっても新鮮だった。考えられなかったとも云える、ほんの少し前までは。身軽く馬を引き出した騰と鷹揚な主の佇まいに、城門までの道行きを送る近侍のうちにもひそかに眉を顰める者はいた。それらの主君に対する忠節に疑いはない。むしろ傾倒ゆえの消沈が眼を曇らせたのだろう。
王騎が生きるのは戦場である。戦国の将として数多の戦いに身を投じ無数の敵を討ちたいらげ、我が身の傷を喪失を糧と成した。遂にはその武威を畏れるあまり、なまなかの争乱は大将軍の気配一つで散じるまでとなる。ひたすらに血の沸き立つ戦場を、唯一の望みを掲げて駆ける主はその求めるまま戦装束を常とした。手挟む大矛、翻る真朱の上衣、目を射る鎧鋼の光輝は、従う全軍の意気を最大限にかき立てる道具でもあった。
さりとて、と騰は思う。
目に映る姿形にどれほどの意義があろうか。道具は使い熟す技倆、ひいては器があってはじめて能を果たす。唯一の主を斯くたらしめている基こそ、騰がすべてを捧げる由縁であった。
なだらかに傾斜した黄土の底へ突然と水面が現れた。一瞬の躊躇もなく駆け入る馬体が飛沫を上げ、蹄鉄が水底を刳る。留まれば時を置かず泥濘みに飲まれる迷い水を蹴立てて、神馬とも称えられる青鹿毛、凰がどっと熱い息を吐いた。
折良く岩陰の草場を認めた主従は揃って馬首を巡らせた。
黄土に突き立った巨岩を中心に、小花の混じる叢が揺れる。低地の溜り水を吹き渡る冷風が人馬に纏わり付いた熱を削ぎ落とした。
日の出の勢いで疾駆を続けた愛馬がしきりと鼻先を水面に向ける。甘えた素振りを微笑ましく見やり、王騎は軽々と地に降りた。
「少し休みましょう。そう急ぐこともなし」
「ハ。こやつら張り切り過ぎです」
主の軽口を聞き咎めるように、双馬の耳がくるりと回った。
喉を潤し草を食む、二頭はつかず離れずの距離で寛いでいた。誇り高さ賢さは比類なく、また体躯のみならず気性の強さで今や悍馬の代名詞となっているのが凰である。その横で平然と草刈りに勤しむ葦毛は一見おとなしやかだが、侮り礼を欠いた雑兵を見覚えあっさりと蹴り殺すような質だった。騰の愛馬となって長い。
好きに走らせた結果が思わぬ息抜きになったようで、風に光る毛並みを撫でる。振り返ると草地に胡座の副官が、次々と荷を解いていた。
「……それは手土産ではないのですか」
「そちらは別に包んでおります」
しゃらりと返す騰が差し出したのは見事な栗の実、蜜を纏って蓮葉に光る。
「餅もございます」
甘煮の果実をひとつ摘み、王騎は残りごと緑葉を隣へ戻した。冷えた香茶を含む。
「秋ですねェ」
行軍を伴わない季節の移ろいを感じるのはどこか面映ゆい。
「ハ。今年はとりわけ実り豊かかと」
開けた蒼穹へ上弦の月が昇り始めていた。ひっそりと白い。完全に満ちる宵には収穫を祝う宴が盛大に催される習いだった。城を降る際に献上物のしるしを掲げた荷馬車が列を成していたのを思い出す。
「こら。お前の食い物ではないぞ」
いつの間にか回り込み肩越しに覗く葦毛の巨躯を片手でいなし、騰は素早く葉皿を巻き取る。書簡のように結んだ束を一瞬咥え、聡明な獣は高い放物線を描いて放り出した。興味を失ったか満足したか、草葉を踏みしめ離れていく。
「相変わらず面白い子ですねぇ」
「時々おかしなことを。誰に似たのか困りものです」
一本調子な言い様とは裏腹に、副官の目線は柔らかく愛馬を追った。
由緒正しい号を持つ駿馬に対し、騰は単に私の葦毛、あるいはあれなどと呼ばわる。およそ所有欲に縁のない副官が己のもの、と明言する対象はひどく珍しかった。
それらは馬、剣、鎧と、すべて戦に絡む。唯一の主君の傍らを征くに必須の事柄に限られるのだと、王騎はとうに承知していた。
無花果の羹。猪肉の梨煮。選り抜きの黒葡萄。一つ一つの包みを広げて見せる腹心の真顔と健啖ぶりを憩い。
半月が南天へ移る頃合いに、二騎はゆったりと歩みを再開した。
五百年に渡る争乱の世、諸国の境界はとどまることのない波のように移ろう。幾多の細波を飲み下し侵食を止まない、荒ぶり潮満ちる秦国には廃れた国の痕跡が無数に取り残されていた。懸崖にそびえ立つ無名の楼臺もその一つである。
黒ずむ岩盤に半ば埋まるように石塀と軒瓦が巡る。中天へ突き立つ楼を中心とし、四方をぐるり取り囲む回廊と房室には小隊が起居していた。主に代わり領内外を余さず見張る“目”を務める楼臺の、ここは西端の一棟であった。
燃え立つ夕映えが鋭利な岩肌を朱と黒に彩る。昼日中でも目の眩むほどの傾斜をのぼる四つ脚の歩は軽く惑いない。麻の裂めいて蒼天を漂っていた半月が、今やくっきりと円く輝きを発していた。
息も乱さず並んだ黒白の騎馬に、重々しく門扉が開け放たれる。居並ぶ兵の浮かべる喜色は残照にまして明るかった。さらにそれを上回る、一等の破顔を見せつつ隻腕の鎧姿が進み出る。
「お待ちしておりましたぞッ!殿ォ!!」
轟く大音声に野鳥の群影が舞い上がった。王騎はわずかに喉を震わせ笑みを深めると、雄々しい掌をゆるりと挙げた。
「変わりなく」
「御意。一同忠心にて務めを励んでおります。ささ!!お進みくだされィ!」
小隊を束ねる楼臺長が胸前に握った右拳は半ば欠け、片腕片膝も戦火に落として久しい。かつて百騎を率いた弓の名手は残る全身に喜びを滾らせ、敬慕の主君を招じ入れた。
断崖を吹き上げる寒風が篝火を揺らす。北棟の一室を上座に、ささやかな宴席は中庭へと広がり盛り上がる。はるか人里より隔絶した独楼に詰める兵卒は糧食を彩る雅な菜に目を驚かせ、澄んだ酒精の芳しさには飲まずとも酔った。大将軍の臨席を仰ぐ高揚に、残らず浮き立ち笑い転げる。
「騰様、召し上がっとりますかな」
室内の板敷きをいざった隻腕が胴間声をかける。
「うむ。良い塩梅だった」
手土産をすべて配下に渡した結果変わり映えのない糧食に汁を並べただけの膳を平らげ、手ずから茶を注ぐ副官が頷いた。往時には抜きん出た弓の腕と戦局眼、目端の確かさで遊撃隊の任を負う機会が多かった老武人にとっては、無表情でならす騰も馴染みの指揮官である。信頼は厚い。淡々とした返しに目を細めるのは、年若い頃から知る数少ない生き残りを懐かしむ感慨であった。
「飲まないのですか」
副官の整えた茶器を取り上げ、王騎が楼臺長を見遣った。過去、麃公将軍の振る舞い酒をあおって揺るぎもしなかった男に問いかける。
「なァに、今日は若い者に譲ったまで。殿の本陣を待ちますわい」
あれなら明日には着きましょう、と。さらりと告げる。
「コココ……そうですか」
追って城門を発つ手配の荷馬車には、新鮮な食糧はもとより新酒の瓶が多く積まれる。あえて報せに載せなかった動きを怠りなく把握している証左に、王騎は声を上げて笑った。
「さて、そろそろ」
四方山話の潮に、壊れた膝をずいと進める。楼臺長の気迫に庭の喧騒が遠ざかった。
「御無礼仕ります。今宵は当番ゆえ、上がる前に殿、お越しの訳を伺えましょうか」
太い声をひときわ低め、問うた痩身を星宿る黒瞳が見おろした。底知れない光を湛える主の視線を受ける老人の、あちこち欠けた体は腹を括った人間特有の気概を発する。しんと張り詰める室内で、副官だけが一人のどかに茶を傾けていた。
「来た理由?──散歩ですよぉ」
「さ?」
「しばらく書き付けの整理などしていたら案の定、凰が腐ってしまって。おまけに長雨でしたからねぇ。たまには足馴らしに付き合おうと」
領内きっての悍馬が主以外を寄せ付けないのは周知である。呆けた口元が震え、やがて灰色の髭を揺らす大笑に何事かと庭先の一同が振り仰ぐ。
「ハ、ハ、ハ!御馬の、左様で!左様でございますか、ハッ、ハァッ!!」
ぴたりと声を納めた隻腕が平伏し、また異なる色合いの言を紡いだ。
「……愚かな老骨の詮索をお許しくだされ。私ひとりの杞憂にございます」
言外の悔恨を確かに受け止め、天下の大将軍は静かに命をくだす。
「ええ。これからも頼みます」
夜番のため楼へと向かう古兵に、杯やら皿やらが次々と突き出され手招きは引きも切らない。
「いっぱい!もう一杯だけ飲んでくださいよおぉ」
「美味いですよ、これ食べてくだっさぁい」
「隊長、隊長!こっちー」
「散れやかましい!交代の刻限だろうが、おい。あやつらの分はあるのか」
今この時も見張りの任に着く者がいる。上階を指す欠けた指先に、
「もっちろんです!」
一斉に答えが返った。
燃え落ちた篝火の跡を傾き始めた半月が照らす。宴の果てた中庭を渡るものは瓦を越えた冷風のみ、かたや酔漢が押し詰めとなった居室からは、いまだ喧騒が沸いては溢れていた。黒くそびえる楼の頂きに唯一常夜の燈火が瞬く。
塀の内側はなべて実用本位の簡素な造りである。前代の基礎を継ぎ足し流用を重ねてきた南向きの一棟は、夜半変わらぬ静けさといつになく濃い気配を内包していた。
少ないながら隅々まで拭き上げられた調度が月明かりにしっとりと濡れ光る。ひとり回廊を進んだ騰は手燭を式台へ残し、片手の荷を揺らしつつ踏み入った。
「殿」
「こちらです」
主は一段高く造られた露台へ直に腰掛けていた。低い塀の上部へと、半ば張り出す露台は遮るものがなく遥か崖下を岩に砕ける急流まで臨む。対岸はもう国境である。距離以上に吹き上げる暴風が強弓も阻む断崖だった。
無冠の洗い髪を流し、夜着の裾から素足を覗かせた王騎が向き直る。逞しい双肩を覆った濃紫の絹衣が夜気になめらかな艶を吐いた。ますます冴える月光に包まれ、偉丈夫はことさらに大きく神懸って映る。
「おやおや。まだ隠していたのですかぁ」
呆れを装う声音に、主に遅れて湯を使ったばかりの副官は水気の残る頬を緩めた。手近な床机に荷を解くと、綿入りの袱紗から朱塗りの耳杯を取り出す。
「殿の観月の伴に。他に月見をする者はおりませんから」
太い竹筒を傾ければ甘やかな香気が広がった。捧げる桂花酒にとろりと黄金色の半月が揺蕩う。
形ばかり朱唇の触れた大盃はそのまま、跪く副官へ戻された。
「あなたの分」
「ハ……」
楼臺の燈火も直下の軒先までは照らさず、西の方へ大きく傾く月、霞む満点の星空が光明のすべてであった。
夜啼虫の音を乱す歓声が風に流れる。いくらか静まったと見えた兵の居室から、新たに手を打つ拍子が響いた。
「寝ないつもりですかな」
戦勝の宴のような勢いに、副官は無表情に首を傾げた。
「不安だったのでしょう」
深みのある声を落とす王騎が視線を巡らす。浮かれ騒ぐのは皆、傷病や他に馴染めぬ気性から一線を離れ、かつ別の行き先も持てなかった兵である。地の果てとも云える任地に倦まず務める現在は、手脚を欠いてなお慧眼と気概を保つ老武人の訓戒に培われた姿であった。楼臺長が杞憂と称した推察も結束の堅い小団には伝わっていたのだろう。
「まあ。その考えは分かりますがねェ」
「ハ。休むに似たりです」
主と同じ深度まで察しはすれど、それにまったく感ずるところのない副官が短く切り捨てる。
祖国の武威をあまねく知らしめす、稀有なる大将軍。いまだ名声は燦然と、しかし戦線にその雄姿が消えて数年を経た。
王騎の名を冠する領内は戦への備えを最優先に整えられてきた。その最大の目標を手放すことは営みのすべてが覆る混乱を予感させ、城内を預かる文官や飛び地末端の兵が気を揉むのも当然の道理であった。変わらず苛烈な鍛錬に昼夜を費やす軍内からは感じ取れない澱が、確実に溜まり込んでいる。
「進んで盲る気はありませんし、たまには皆で出掛けましょうか」
長年に渡り築いた情報網、監視の手先は平時にこそ重要な任を負う。楼薹を廃する意向など更々持たない主はいささか物騒な吐息をついた。
「冬までに砦の二つ三つ落として回れば気も紛れるでしょう。なにか使いが来ていましたか」
「今年は勅使が二度、丞相の私令が四度、有象無象は数え切れぬほど」
沈黙を保つ大将軍へ、宮殿は元より国の内外から招きは尽きない。重ねて使いを寄越すのは余程の有力者に限られてはいたが。手を変え品を変え、絡む相手のいずれも卒なく煙に巻く王騎の声音が、珍しくもぞんざいな調子を響かせる。
「当たり障りないところで、さあて。どこが良いですかぁ?」
ハ、と小気味良い発声に続く言葉には、一瞬の間が空いた。
「──騰は殿の征かれるところへ参ります。いずれの道であろうと」
他者が聞けばおもねるだけかと鼻白む返答を、捧げられた主はひたりと手を止め静かに受けた。
鋼の鋭さで底光る黒瞳が朱杯に落ちる。こうした時ふと言霊に寄せられる、相手の磨かれた水晶のように曇りなき心情を、秘されて常に揺るがぬ美しい芯を、王騎は胸のうちで親しく愛でていた。
やがて手中の杯を揺らし大将軍が笑い始める。ふいに、絶え間なく吹き上げる風の音が止み華やかな酒精の香気が影をひそめた。絹と夜着に包まれた巨躯の放つ気配が濃く室内を満たしていく。
「あの人の言いぶんも分かりますよォ。世事を総じて商えると信じている。たとえ政であっても」
口調はそのままに、唐突な話題の飛躍に腹心は頷き一つで応じた。これまで主があえて語ることのなかった宮殿の中枢、事実上の首魁を思い描く。異国の商家から一代で成り上がり今まさに国家そのものを掴みかけるまでに身を立てた、異能の大商人。
「フフゥ、確かにこのまま凪が続くなら」
火の興ることなく。ただ内側で足を掬い合う小賢しく、陰惨で、そしてすぐれて明快な。
「商人の国になるのでしょうねェ」
息詰まるほど濃密な、立ち会いの切っ先にも似た荒ぶる気配に相槌はやはり短かい。
「まっぴらですな」
透徹の碧眼は確りと見開かれ、主の移ろう笑みを映していた。
「ええ。興醒めです」
生粋の商人なれば。いまや地の果ての貧村にまで行き渡り脈々と機能する貨幣の本質を、深く深く弁える大人物であればこそ、決して解しはしないだろう。
至上の聖訓も人智の粋たる律法も意義を失う、戦の唯一の理を。
貴石も金も石塊と同じ、折れた鏃の一本が、血錆びた剣の一握りのほうが、まだしも生を贖うに足る世界。みなびとへ等しくはたらく純然たる暴力の論理。
あるいは才覚ゆえに興を知覚し得ずか。血肉を骨を怨嗟を遺志を、ひとくたに擦り混ぜて。堆く積み上げた死線の頂きに、競り合う勝機を手中におさむる、その刹那の快絶。千万の兵を命を礎に、まったき死力を絞り尽くして初めてたちあがる興を──狂、を。
「コココ……まったく」
低く低く、逃れようもなく地を這うように。
戦場の理を体現し一切の生殺与奪を握って怯むことなく。なお、己の愉しみを希求しては狩り場を飛び渡るまでに業深き、強欲の。人ならざる怪しの大鳥が嗤う。
「あわれですねェえ、騰ォ?」
「ハ。うつけ者です」
暗がりから間髪入れず応じる、その声音もまた。平素は剽軽さを隠れ蓑として、主を扶翼する心胆の凄まじさを余人にうかがわせない。なにも鎧わぬ素の声色を聞くのはただ主のみ、今は碧い瞳だけが燐のように燃える
つう、と。中空に杯がかざされた。
小さくさざめく黄金の水面と臈長けた笑みが向く先に、楼の頂きより乗り出す隻腕の決死の面持ちがあった。色を失った強面がびっしょりと汗に濡れている。転げ落ちそうな痩身を留め、ゆるりと典雅な所作を崩さぬまま、王騎は浮かぶ半月もろとも酒盃を干した。
突如として吹き上げた戦場の烈気に、また月下を寛ぐ主の眩いばかりの艷麗さにも、老武人の慄きは抑え難かった。首筋を撫でる秋風に死刀の冷気を覚え、振り上げたつもりの弓手はとうに亡い。すべて瞬く間に霧散する幻の感覚であった。
眼下の夜闇から、煌々と白い手指が現れ再び主の杯を満たす。舞うように動き流れ消えたかの随臣の気配も影をひそめると、下手の北棟からかすかに調子外れの唱和が漏れ聞こえた。古い相聞歌を唸る酔漢は皆、一瞬の戦慄を免れたようだった。
主が発つまで決して階下を覗くべからず、明朝にそう引き継ぐと決意する。老練の元射手は月光を逃れるように、じりじりと後退った。
立ち位置が異なれば見える世界もまた。
王の眼差しを持つ将は足りず戦場の理を識る商人は現れず、戦場において大炎を見極め得る者は減った。火を興す芽はさらに育ち難い。
それであっても、だからといって、道を変える理由には成り得ない。時の流れに沈まず進むからこそ、新しき潮に出逢う。引き継がれる先を見る。何より傍らを共に往く者がある、その幸甚を糧として、大将軍の負う光輝の一切は翳ることがない。
酔い醒めやらぬ兵卒とそれを大喝して回る隻腕に見送られ、曙光さす楼臺を後にする。趙国三大天・廉頗大将軍離反、亡命──全土を揺るがす急使が主従の元へ達するのはこれより数ヶ月先のこととなる。
了