キュートアグレッション「お連れさま、大丈夫でしたか?」
カードの返却を受けながら予期していなかったふいの他者からのコミュニケーションに、一瞬固まって「はぁ」と「まぁ」の間みたいな声が出た。
何のことはない。来店時に一緒に来た男の様子を聞いているのだろう。頭からコートをかけてやっていたとは言え、どう見てもガッツリ泣いている成人男性を連れて個室を希望する男二人連れは相当奇異だったに違いない。何事かと探りを入れたくなるのも道理ではあった。
「あー、いや、すみません騒がしくして」
「いえいえ。平日のこんな時間他のゲストもほぼいませんから。まだ必要でしたらこちら使ってください」
そう言って店員はおしぼりと氷水の入ったグラスを渡してくる。訝し気なこちらの顔に気づいたのか、言葉を続ける。
「目元にあてるのに先ほど所望されて。返しに来られた際には随分良くなっておられたので、もう必要ないかもしれませんが」
泣き腫らした目元のことだと合点がいくのに一瞬考える必要があった。目が細いので分かりづらかったが、なるほどそのまま配信する訳にはいかんと途中で気づき、何とかするために「お花摘み」などと言って一度席を立ったのだろう。
グラスを遠慮しておしぼりだけもらい、部屋への道すがら、目が赤くなるほどわんわん泣いて、一人密かに跡を隠そうと冷たいグラスを当てていたあいつのことを思う。
今旬のプレイヤーで、数字も持っていて頭もいい。腹が立つほど羨ましいくらい、いろんなものを持っているはずなのに、何があれをそこまでさせるのか本気で意味がわからない。
しかも、自分にも何かないのかと聞いた直後に施すなと理不尽にキレ、施すなとキレたくせに俺には何もくれないと泣き、何もいらない、余ったら欲しい、全部になりたい……と来た。さすがにむちゃくちゃ過ぎる。
与えてやる義理なんてないはずなのに、ここまで来ると何が正解か知りたい、なんて、思ってしまうのも馬鹿馬鹿しいか。
個室に戻ればいつもむやみに行儀がいいのに、背もたれに全面的に寄りかかって力なく四肢を垂らしていた。俯き気味の表情をのぞき込む。
「えっ寝てる?」
「起きてる……薄目開けとるわこれでも……」
言いながら目を擦る様子は相当眠そうだった。無理もない。あんな勢いでギャン泣きして、その後もいろいろ話してる内になぜか謎感情を爆発させ、あげくその状態から配信までやったのだ。「ちゃんとやれる」の宣言通りきちんと切り替えてはいたが、さすがに相当疲れたと見える。常なら最大瞬間風速だけで言えば薫三人分か?というくらい喧しくなることもあるのに、弱って静かになっているところを見ると何だか別人のようで妙な感じがした。
「もう終電ないし俺はさっき店員にタクシー頼んだけど、お前も途中まで一緒に乗ってく?というかそんな状態で自力で帰れるんか?」
「………平気。さっきアプリで呼んだ。って待って店の人に声かけてきたの?まさかお会計……」
「済んでる」
「っ!?な、なんで!なんでそういうことすんの!?」
途端に大きい声を出して勢いよく顔を上げるのをのけ反って避けた。どうせまたギンガは奢らないとか言う気だろう。さすがにその文句はもう耳タコだ。少なくとももう今夜は聞いてやる気はない。
もらってきたおしぼりを顔面に無理矢理押し当てて黙らせると、「わぶっ」と「あうっ」の中間みたいな情けない声が温く湿った布の下から聞こえた。落ちないように片手で押し当て続けながら、もう片方の手で自分の鞄を漁る。……てか顔ちっさいなこいつ。
「ちょ、ぅ、んぐっ、ギ、ん、あにしてんの!?」
「その状態でまでしゃべろうとすんなや……お、あった」
鞄の普段使わないポケットから目当てのものを取り出すと、もがもがと文句を言い続けていた男の顔を解放してやる。おしぼりの温かさのためか、ほんのり色づいた頬を両手で挟んでぐいと引き寄せた。
「ど!?わ、エッ!?なに!?なになになに何!?!?」
「動くなやりづらい」
「アッハイ……じゃなくて!!いや何してんの!?」
「塗ってやる。大人しくしてないと目に入るぞ」
言いながら、小さいカプセルのような容器に入ったクリームを手の甲に出す。もう一度小さい頭を捕まえなおして目頭から目尻にかけて、指先につけては薄く塗り込むようにマッサージしてやるうちに、顔面に『大混乱』の字がみるみる浮かび上がってくるようで、思わず笑いそうになった。
「いや、あの、ギンガさん、本当に何してるんですか…?」
「目、腫れてたろお前」
「え、いやまあ、うん」
「これ浮腫みとか取ってくれるデトックス系の美容クリーム。前買った時に試供品つけてもらってさ。でも普通にボトルで買ってんのに要らね~って鞄に入れっぱなしだったのがまだあったんだわ」
「そ、そっか~……っていやだから何で!?結局何にも分からんのだけど!!」
「は?浮腫み出ると困るだろ」
「いや、ウン、うん?そうですね……?いや待っててかギンガが試供品もらうのも使うのも解釈違い過ぎ……いやそれ以前にこの状況が……イヤ……いや……?」
疲労のせいか相当頭の回転が鈍っているらしい。バグりすぎて完全に固まってしまった。大人しくなっているうちにと手早く残りを塗り込んでいく。やたら長いまつ毛につかないよう、注意を払いながら指を滑らす肌はなめらかで柔い。その柔さにもっと力を入れて指を埋めたい、いや、いっそこのまま頬骨ごと握り砕いてしまえ、た、ら……?
自分の思考に眉をひそめる。こいつの混乱がこっちにまで伝染ったか。あるいは自覚はないが思いのほか酔いが回っているのか。
なんとなく深く考えないようにして、相変わらず混乱で意識が飛びかけている男に「終わったぞ~」と声をかけ軽く肩を揺すってやると、ようやく我に返ったのか「ハッ!?」と息を飲みつつこちらの世界に戻ってきた。
ちょうどタイミング良く、店員が俺の頼んだ迎えが来たことを告げて去って行く。
「じゃあ俺先帰るわ。お前も気ぃつけてちゃんと帰れよ」
「ギ、ギンガがそんな気遣いを……あっ!待ってお金!」
文句が来る前にと、とっとと退散しようとする俺を追って、慌ててミツクリが立ち上がった瞬間だった。背後の体が不自然に傾いでグラリと揺れるのを気配で感じる。振り返ると同時に咄嗟に手を伸ばしていた。
伸ばした手に、思わず縋りついて来る体重を受け止めて抱き込む。持っていたジャケットが床に落ちて、体がぶつかったらしいローテーブルがガタンと音を立てた。
「お、おいっ!?どうした!?」
「ぅあ…………ごめ、立ち眩み……」
あえかな声でそう答えると、まだ気持ち悪いのか堪えるように目をぎゅっと瞑って眉根を寄せている。
座らせた方がいいのか、下手に動かさない方が楽なのか、迷いながらせめて体重をこちらにかけられるよう抱き寄せた。ヒクリと揺れた肩が薄い。確かに男の骨格なのに、手を回した腰も細いし指も華奢だ。少し力を入れれば関節なんて簡単に砕けてしまいそうな気がする。圧し掛かればそのまま息を止めさせてしまえるかもしれない。
「ぁ、あの……ギンガ……?もう大丈夫だから……」
はたと我に返るのは今度はこちらの番だった。今、変なことを考えていた気がする。いや気のせいだ。たぶん、きっと。
取り繕うように体を離すと、多少ふらつきながらソファーへと戻っていった。ハァと息をつく顔は先ほどより顔色も悪い。
「……ほんとうに大丈夫か?」
「大丈夫だってば。徹夜の時とかたまにあるから慣れてる。もういいからさっさと行きなよ」
追い払うような仕草に心配してやってんのにと勝手にムッとして、実際気がかりなのもあってミツクリの荷物とコートを持ち、行くぞと腕を引いた。「うぇ!?」とまた変な声が上がる。
「このまま万が一にもその辺で倒れられたら寝覚めが悪すぎるわ。せめてタクシー呼んだとこまでは付き添ってやる」
「い、いらない!もう一人でも歩けるし!!そこまでしてもらう義理ないし!?」
「これ以上喚くなや。てか配車依頼してからだいぶ経ったろ。もう下来てんじゃねーか?」
見せて見ろと強引にスマホを手からひったくると、確かに配車アプリは立ち上がっていたが、それはどう見ても確定ボタンを押す前の画面だった。慌てて取り返したミツクリがばつが悪そうに目を逸らすことで確信する。
「ハァ?なにお前、タクシー呼んでねぇの?なんで嘘ついたんだよ」
気まずさからか嘘を責められたことに少し動転したらしく、しどろもどろで「だ、だって……だって……!」と言い淀む。さすがにもう枯れたろうと思っていた涙が目の端にじわりと浮かんでいて、やっぱやたらきれいに泣くな、なんて関係ないことを考えてしまう。
「あんたがいるのに先帰るなんて、そんなもったいないこと、できない……」
震える声でそう言うと、所在なさげにきゅうと自分のコートを握りしめた。その手をはたいて叩き落せば、俺の方にまた縋ってくれるだろうかなんて、意味の分からない衝動に再び襲われる。
自分で自分が空恐ろしくて、ガラスに反射する自らの影から必死で目を逸らした。