diazepam 少年は、というほど彼は幼くなかったが、十分に青年足るというにはまだいくらか若い。
だからその子は、そこが相手の仕事場だろうとアポイントメントも取らずに押しかけて、悪気なくインターホンのカメラに満面の笑みを向けることもできるし、訪問される側も、「ああまたか」とつられて笑い、ごく自然に受け入れてしまう。
「おじゃましま~す!」
大変元気なおりこうさんのあいさつ。最早スタッフはミカドに許可を取るより前にドアを開け、応接室を通過して事務所の奥へと通す。外から入ってきた存在に自然とその場の人間の視線や意識が集まったタイミングで、大きな白いビニール袋をガサガサさせながら、大きく開いて中が見えるように示した。鮮烈な赤とみずみずしく甘い香りが広がる。
「ジャーン!差し入れで~す!!イチゴ!!」
数名の女性スタッフがわぁと歓声をあげて中をのぞき込んだ。彼の手から袋を受け取って給湯室に行くのを、着いて来ようとして制され、座らせるまで軽い押し問答。結局置いて行かれた少年に、年長のスタッフが笑って言う。
「ネモもとうとう手土産を持参するくらいにはなったわけだ」
「ハ~?田中さん、これが初めてじゃないんですけど!あと今日のは単におすそ分け」
っていうかミカドくんは?と問う声に、パーテーションの陰で書類に目を通していた男は手元の紙を伏せて、やっと立ち上がった。
「ネモ」
短く名を呼んで顔を出せば、ちぎれんばかりに揺れる尾っぽが見えるようだった。
駆け寄る図体に体当たりされないよう片手をあげて迎える。大きく振りかぶり渾身の力でハイタッチされ、ミカドの手のひらはじんと痺れた。
「痛いって!はしゃぎすぎ!」
「なんだよー。なんで隠れてたの?」
「隠れてたわけじゃないよ。仕事してたの」
ウソだぁ絶対隠れてた!と言い募られるのをいなしながら、ほんとほんと、と言って先ほどまで手にしていた書類を机で軽くトンと鳴らす。若干皺の寄ってよれたそれは、簡単に端が揃わない。不揃いのまま、ミカドは軽いため息とともに紙束を伏せた。
「んんー……忙しい?」
「いや、一区切りついたとこではあるから。むしろ都合よかったよ」
ちょうど苺を洗い終わったスタッフが、いくつかの小さなボウルとともに持ってくる。食べる分だけ取って、ということで適当につかみ取るミカドの横から盛れるだけのせて!とネモが口を挟む。
「あれ、ネモまだ食べてなかったの?」
「そ。一緒に食ったほうが楽しいし、楽しい方がいっぱい食えるっしょ」
「いっぱい食べる必要ないでしょ。果物だからまだいいけど、ネモはもっと普段からちゃんとしたもの食べなきゃ」
「今日お説教早くない?まだ一滴も飲んでないのに」
「ネモが言いたくなるようなこと言うから」
歳の差兄弟のような二人のやり取りに、ほほえましげな視線が注がれる。気がついたミカドが面映ゆそうにネモの背を押し、部屋の奥へと誘導した。
「ネモが来ると年長のスタッフに俺まで子ども扱いされるから恥ずいんだよなぁ」
後ろ手に休憩室のドアを閉めながらミカドがボヤくのを気にも留めず、ネモがその手の内から苺を奪い去り、口にほおばりながらも足だけでスニーカーを脱ぎ捨てる。小上がりになっているスペースのビーズクッションに勢いよく沈み込んで、満足そうに膨らんだ頬をもごもごさせながら咀嚼した。
可愛いの代表みたいな果実も、豪快な食べ方の前には形無しだな、と苦笑しながら彼の斜め前、ローソファーにミカドも腰掛ける。靴を脱ぐスペースとは言え床に直接皿を置くのがなんとなくためらわれて、ミカドはネモに近い側にボウルを抱えなおした。そこからまた当然のようにネモがひとつ取って、再び自分の口に放る。
「んまー」
「あっ、本当だおいしい。でも急にどうしたの?人にもらった?」
「正解!昨日友達と行ったクラブオーナーのおっちゃんがなんかくれた」
「こないだ言ってたよく行くとこ?」
「うんにゃ。初めて行ったとこ」
「はは……相変わらず年上キラーだねぇ」
ミカドがため息をつきつつひとつ頬張る。甘さがくどくなくさっぱりしていて、一口で食べやすいサイズ感がつい次の一粒へと手を伸ばさせる。あまり食べると夕飯が入らなくなりそうだな……と考えながら、そんな心配は露ほどもしていなさそうな手がひょいひょい自分の所から持っていくのをいつ諫めようかと思案する。
「フッフッフ、ミカドくんも俺にコロされてくれたん?」
ニヤリと笑った唇が果汁でいつもより赤っぽく見えた。なぜか抱えているボウルより甘い芳香が、人を食ったような笑みからただよう。
なに言ってんのと一笑に付し、またひとつ口に放る。
「っていうか、なんでずっと怒ってんの?」
「え?怒ってないけど?」
「うそ。珍しくずっとイライラしてんじゃん。俺が来る前からさ」
「……参ったな。他の人の誰にも、何にも言われてないのに」
なんでバレちゃったんだろ、と困ったように笑いながらミカドは頬を掻く。
「なんがあったん」
「いや、べつに……大したことじゃないよ。もう事後処理の段階だし。でもまあ……ちょっとヘマしちゃったかな」
「ミカドくんが?」
苦笑とともに首肯するミカドの顔をじっとネモが見つめる。切れ長の大きな瞳から注がれる無表情な視線はそれなりの迫力があったが、ミカドはたじろがなかった。
「案件企業社員とうちの事務所の人間とのトラブル。うちのスタッフを守ってあげたかったんだけど……まあ、結果的に余計なことしちゃったみたいで」
「フーン……それで引き摺ってんの」
「あはは、ごめんね。でももう切り替えるよ。ありがと気にしてくれ、て?」
ネモは出し抜けにミカドの腕をつかみ引き上げた。戸惑いつつも転ばずに立ちあがったミカドの口に、有無を言わさず小ぶりな果実が無理やり数個押し込められる。
慌てながらも喉に詰まらせないよう、口から取りこぼさぬように噛みしめられる。果汁が喉になだれ込んで少しむせかける。
そんな様子を気にもかけず、ネモはぐいぐいミカドの腕を引き、音を立てて扉を開けた。ネモが来た時のように、その騒がしさに何事かとオフィスの人間が振り向く。
「ちょーっとミカドくん借りていきまぁす!いいでしょ?」
「んぇっ、え、ちょ、ネモっ!」
「今日このあとミカドくんいなきゃダメな仕事ある?ない?あるなら取り返しに来て!それまで俺が攫わせてもらうんで!!」
ガハハハハー!!とヴィランのように豪快に笑いながらネモはそのままミカドの腕を引き、デスクの合間を飛ぶように駆け抜けていく。慌ててなんとか振り返ったミカドの視界に、仕方なさそうに肩をすくめて笑う上司や、あきれ顔のスタッフがギリギリで映って、壁の向こうに消えた。どこに向かうのかと思えば、そのままエレベーターを素通りして、非常階段へと出る。一向に手を離さぬまま落ちるような勢いで下るネモに、ともすれば踏み外して彼ごと突き飛ばすことを恐れ、ミカドは言葉を挟む余裕すらなかった。
やっと彼らが落ちついたのは、近くのパーキングに着いて、ネモが自分の車のドアを開け、助手席にミカドを押し込んでからだった。
「はぁ、はっ、はー……普通本気で攫うやつある!?」
運転席に入ってくるなりネモに文句を言うと、あはは!と楽し気に笑いながら汗で額に張り付いた髪を豪快にかきあげた。
「んー、でも良かったじゃん。だれも追いかけてきてねぇし?」
「そうだけど、いやそうじゃなくって」
「まだ日も高いし遊び行こ。どこがいい?何する?俺体動かしたいな~」
最早ウキウキと車のエンジンをかけたネモに、ミカドは何か言うのをやめた。代わりにシートベルトをしながらスマホを取り出し、今から予約取れるかなぁとボヤく。
「お、なんかおすすめあるん?」
「つい最近の行きつけがね、ネモも好きそうなやつだよ」
やったあ!と内容も聞かぬうちに隣で破顔するネモにつられて笑いながらつっこもうとすると、あ、という声にさえぎられる。
「でも今食ってすぐ走ったせいで横腹痛いから、激しめなのはパスね!」
「完全に自分のせいだろ!?」