ワンライまとめ51-60(51)堂嶌先生は本日も通常営業〜先輩は後輩の手本であるべし〜 お題:主張「だから最初の方がいいっつってんだろ! 大事なとこはドカンと鳴らしてバシッとシメる! シンプルイズベスト!」
ドスン! と床を踏み抜く勢いで行田先輩が立ち上がった。少し離れて立っていた自分の体にまでビリビリッとした震えが走る。行田先輩はドラムスティックをきちっと揃えて置くと、大股で神条先輩に詰め寄った。一歩進むたびにバスドラムとは違った地鳴りが響き渡る。一秒聞いただけで胃が痛くなりそうな音だ。けれど神条先輩はピクリともしない。ただひたすらに気に食わないという顔つきでウッドベースから手を離し、腕を組み仁王立ちで待ち構えている。
「それが短絡的で安直だって言ってるんだよ。ただ鳴らせばいいってもんじゃない。音を出すだけなら誰にでもできる。俺たちがやってるのは合奏だ」
神条先輩はまばたき一つせず、真っ向から力強く言い放った。行田先輩は両腕を大きく振りながら大声で言い返す。
「んな細かいこといちいち考えながらやってっから頭でっかちでつまんねえ音楽になるんだろうが!」
「誰が頭でっかちだって?」
「お前だよお前。そこで偉そうにしてるお前だよ!」
「はあ!? 偉そうなのはどっちだよ! そうやってお前が事あるごとに突っかかってくるから無駄な時間と体力を食うんだ」
「それはてめえが体力ねえからだろうが! 温室でぬくぬくしてる暇があったら外ガンガン走ってジャンジャン食え!」
行田先輩は握りしめた拳から親指を立て廊下を示す。しかし神条先輩は廊下へ一切視線をやらず、両手を腰に当てて鋭く切り返した。
「お前と一緒にするなよこの脳筋!」
「んだと……!?」
行田先輩がついに拳を震わせ始めた。俺の隣にいた依吹は耐え切れず震え始め、その奥にいた星乃も泣きそうな顔をしながら小声で何かを口走っている。何を言っているのかはサッパリわからない。きっと英語だ。こんな時には自分がどうにかしなきゃいけないのに、何か言わなきゃと思えば思うほど口の中がパサパサに渇いていく。喉の奥が詰まったみたいに全く言葉が出てこない。話すのが苦手ならせめて態度でと思っても、激しいやり取りを続けるあの先輩方の間に割って入る勇気がどうしても湧かないのだ。
堂嶌先輩はなぜ動こうとしないのだろう。さっきから腕を組んで立ったまま一言も口にしない。真剣な表情でただじっと二人を見ているだけだ。武宮先輩も同じ調子だ。神妙な顔つきで堂嶌先輩を時々ちらりと見てはいるけれど、やっぱり何も言わない。頼みの綱の智川先輩は部長会議。いつもならもう帰ってくる時間なのに、どうしてこんな日に限って。
「ふん、ハーモニーのハの字も分からないならそこで大人しく吠えてろ」
「てんめえ……!!」
「そこまでだ」
堂嶌先輩が冷ややかに口を開き、二人に歩み寄った。行田先輩が体ごと勢いよく向き直り堂嶌先輩を睨みつける。
「まだ話は終わってねえぞ燎!」
「俺は終わったけど」
神条先輩は短く息を吐いてそっぽを向いてしまう。火に油を注ぐ行為に行田先輩の怒りが燃え上がった。
「こっちが終わってねえっつってんだよ! 勝手に終わらせんな!」
「光牙、お前の意見はもっともだ。ただこれ以上は水掛け論になる。ユウもその言い方は失礼だろう。論点もずれ始めている。らしくもない」
「それはコウが!」
「ユウ、一旦落ち着け」
堂嶌先輩は神条先輩の肩に手を置いて静かに言った。あまり感情を感じない言い方だった。けれどその意図は伝わったらしい。神条先輩は最初は床を睨んでぶつぶつと何かこぼしていたものの、そのあと深く息をすると少し落ち着いたようだ。頭を冷やしてくると言い残して部室を出て行った。
「光牙」
「わーったよ」
行田先輩も斜め下を向きながら頭をガシガシとかき、その手をポケットに突っ込んだ。それから、ちょっと走ってくると言い去っていった。
廊下に響いていた二人分の足音が完全に消えた。堂嶌先輩は部室の扉から顔を出して外の様子を見ると、戻ってくるなり壁に背中を預け深いため息をついた。
「難儀ですねえ」
武宮先輩も肩で息をひとつして苦笑いを浮かべる。
「全くだ。こちらの身にもなって欲しいというか、正確に言えば一年生の気持ちを考えろ、だな」
いつもすまない、と謝る堂嶌先輩に俺たち一年三人は慌てて首を振る。
「堂嶌くん、ひとつ聞いておきたいのですが。お二人の喧嘩をすぐに仲裁しないのには何か理由があるんでしょうか。君なら止めようと思えばすぐできますよね?」
武宮先輩はこちらを振り返った。気を遣ってくれているのだとすぐわかった。今度は慌ててお辞儀をする。本当に器用な先輩だ。
「確かに大和の言う通りだ。迷惑をかけないように、という理由なら俺もすぐに止めに行く。ただ一応静観しているのにも理由はあるんだ。よく考えれば皆にはそれを早く言っておくべきだった。悪かった」
「いえ。君のことだから何かわけあってのことだろうとは思っていましたよ」
重ねて謝る堂嶌先輩に、武宮先輩は片手を上げて制した。堂嶌先輩はそこでやっと表情を崩した。
「助かるよ。というのも、皆には自分の意見を言葉にして欲しいと俺は思っているからなんだ。何もあんな風にやれとは言わないが」
堂嶌先輩は廊下を見やってから少し笑った。その顔つきを見て、自分もずっと緊張していたことに気が付いた。肩が重い。手を当てて揉むと硬くこわばってうまく指が入らないくらいだ。武宮先輩が席を勧めて全員ふらつきながら腰を下ろす。ペットボトルのお茶に口をつけると、すっかりぬるくなっていたのに妙に甘くておいしく、一気に飲み干しそうになる。
「今はただ音を出して人と合わせるだけで精一杯かもしれない。だが、思い通りに出来るようになってくると欲が出てくる。もっとこんな風に演奏したいという気持ちだな。そしてそれは相手も同じだ。だからいつか必ず衝突する。ある意味で本当のセッションの始まりはそこかもしれない、と俺は思っている」
堂嶌先輩は全員を見回した。衝突する。簡単な一言だけど、それはすごく難しい。思っていることや、やりたいことを言葉にして伝える。相手は賛成してくれないかもしれない。そうなったらまた新しい言葉で伝え直さなければならない。誰の意見を採用すべきなのかわからないまま延々それを繰り返し、どうにかして終わりを見つける。途方もないことだ。自分にできるのだろうか。
「長々と悪かった。そういうことだから皆も何か感じたことがあれば恐れず言って欲しい。大和もな」
「僕もですか。なかなかに難しそうですが、善処しましょう」
「よろしく頼む。じゃあそろそろ始めようか。さすがにトモも戻ってくる頃だろう」
そう言って堂嶌先輩は席を立ち、もう一度廊下から顔を出した。それからこちらを向いて、噂をすればだとまた少し笑った。
(52)喉元過ぎれば お題:梅雨「だから力任せにやるなって言ってるだろ。いい加減学習しろよ」
優貴はウッドベースをスタンドに預けるなり、あからさまなため息をついた。この日何度目かの音合わせを終えた部室には、肌にまとわりつくような湿気が充満し、白い照明の光では冷やしきれないほど不快な熱がこもっていた。閉め切った窓の外では、朝から続く雨がざあざあと音を立てている。優貴は重苦しい外の景色を睨みつけると首を左右に振った。膨らんだ癖毛が揺れる。優貴はいらいらした様子で何度か手櫛を通し、そのまま光牙に一瞥もせず立ったまま壁にもたれた。
当然、光牙はそんな優貴の態度に黙ってなどいられない。すかさず大声を上げて詰め寄る。
「んだと!? パワーとインパクトがねえとここは締まんねえだろうが。翔琉もそう言ってたじゃねえか」
「確かに音圧は大事だ。でもそれ以上に重視しなきゃいけないのはボリュームより質」
「はいはいお坊ちゃんは上から目線で簡単に言いやがりますねえ! 俺のドラムの質が低いって言ってんのかよ」
「ああ低いよ、単細胞のくせによく気が付いたな。褒めてやる」
「そういうのも上から目線で腹立つっつってんだよ!!」
「ドラムも力任せなら声も力任せだな」
「はあ!? てんめえ調子に乗りやがって……」
光牙がいよいよ腹の底から唸り、優貴の胸倉を掴まんと一歩踏み出す。しかしそこで、
「ストーップ!! ストップ、ストーップ!!」
と、両手を広げた翔琉が割って入った。完全に不意を突かれた光牙は、怒りに任せ鉾先を翔琉に向ける。
「止めんじゃねえよ翔琉! 今日こそこいつを黙らせないと俺の気が済まねえ!」
「黙るべきなのはそっちだろ。吠えるしか能がないんだから」
「はいはいわかった、よーくわかったから!」
翔琉は右手で光牙の肩を、左手で優貴の肩を叩く。しかし感情のたっぷり込もったその言い草は、わざとらしく芝居がかったように聞こえたらしい。光牙と優貴は二人揃って翔琉にしかめっ面を向けた。
「わかってねえだろ」
「分かってない」
「なんだよお前らほんとは仲いいんじゃん!」
ぽんぽんと二人の肩を叩く翔琉に、光牙と優貴は同時に怒号を投げつけた。
「よくねえよ!!」
「良くない!」
「あっはっはっは!」
しかし翔琉はどこ吹く風。そのまま二人の背中をぐいぐいと押して廊下へ送り出してしまう。感情のやり場をなくした二人は抗えずにされるがまま。最後には廊下を別々の方向へ歩いて行った。
「ふー、いっちょあがりーってとこかな!」
翔琉は初夏のようなサッパリとした笑顔で戻ってきた。
「智川くん、流石の手際ですね。僕には真似できそうもない」
大和が感嘆し、燎がやれやれと小声を漏らす。
「真似していいものじゃないだろう。全く……結果的にまとまったからよかったものの、見ていて冷や冷やしたぞ」
「リョウは心配しすぎなんだって! こういうのはまとまればオッケーオッケー! にしても梅雨はなあ……毎日雨ばっかだと色々心配になるよな。楽器もだけど……」
翔琉は椅子に浅く腰かけて脚を投げ出し、優貴が消えていった廊下をチラリと見た。それからトランペットを手にサッと立ち上がり、大和と燎に快活な笑顔を見せた。
「ま、どうにかなるだろ! うだうだ言ってる間にすぐ夏だ!」
(53)ようこそリックのスペシャルバースデーステージへ! お題:安藝月玲玖の誕生日「ハローーーーッエブリワン!! ようこそリックのスペシャルバースデーステージへ! 今日という輝かしい記念日に、忙しいキミたちがこうしてボクのために集まってくれたことをボクは……ボクは……うっ、ううっ」
玲玖は部室の天井を突き破らんばかりに高い声を上げたかと思うと、突然肩を震わせた。廊下側の端の席で輝之進が小さなため息をつき、反対側の端の席で奏斗が露骨に体の向きを変え窓の外を眺め始める。
「あのー、リックさん。嬉しい気持ちはよーくわかりますけど、そろそろ次進めてもらえます?」
「そーそー、尺足りないですよー。ケーキが待ってるんですから」
拓夢が困った笑顔で声をかけ、煌真と蒼弥が続く。
「そうだぞ! 男なら晴れ舞台は堂々と! って言ってたのはお前だろ? 頑張れよリック」
「ソーヤ! 今ボクをリックと! ああ、リックと呼んでくれたね!? ソーヤ! ああ! 今日は何ていい日なんだ! ボクはこの世に生を受け、そしてこの星屑旅団の輝く星となり皆を導く使命を授かったことを本当に誇りに思うよ!! ソーヤ!!」
玲玖は着火したロケット花火のように一瞬で全身に生命エネルギーをたぎらせ、軽やかにステージ――正確には傷まみれの古びた教壇――から踊り出た。背筋をピンと伸ばし――正確には、輝之進が眉をひそめるほどに反らしすぎではある――ミュージカル俳優のように手の指先から足の爪先まで神経を行き渡らせた、実にしなやかかつ優雅で華麗なる動きで蒼弥に歩み寄った。そして一度目を閉じ、両手を広げ天を仰ぎ、この世の万物に感謝を捧げた。それからやっと蒼弥と向かい合い、熱い友情の握手を求めた。蒼弥は突然の感謝の祈りに一瞬戸惑いこそしたが、玲玖の求めに一切ためらわず、笑顔で右手を差し出してがっちりと握手を交わす。
「俺もお前と一緒に音楽やれて嬉しいよ」
「ソーヤ! ボクもさ!! ありがとう、本当にありがとう!!」
玲玖は握った手を上下にブンブンと振ってから離し、また同じような歩調でステージに舞い戻っていった。ロランはにこやかに微笑み、のんびりと脚を組み替える。その隣で新は壁の時計をチラリと見上げ、そわそわと座り直した。
「みんな! 改めてお礼を言わせてくれ! ボクはキミたちと共にこの星屑旅団で夢を形にできることを心から幸せだと思っているよ! これからも旅団で燦然と輝くトップスターとしてキミたちを率いてみせようじゃあないか! ボクらのゆく先には時に険しい道もあるだろう。でも! 大丈夫! ボクがいる限りキミたちは安心さ! どうか大船に乗った気持ちで……そう、ロイヤル・セレブリティ・リック号とでも呼んでくれたまえ!!」
突然の船出に、それまで舟を漕いでいた奏斗がげっほげほと咳き込んだ。煌真と拓夢が隠しもせず笑いだし、
「ほなリックさん、出航しましょ出航!」
「んでケーキ食べましょ!」
と声を上げる。
「ありがとう! ありがとうみんな! じゃあ記念すべき船出にボクの音楽を捧げよう! 聴いてくれ!」
玲玖は今日一番のハイトーンボイスを披露し、ピックをつまんだ手を高らかに掲げた。玲玖は七つの客席を見回し、全員の視線が自分に集まったことを確認すると、幸福に満ちた笑顔を浮かべた。
そして孤高のギタリストリックに姿を変えた。
(54)タイトル未定 お題:ゲリラ豪雨「うん! 良くなってきてる!」
翔琉は頷いた。その言葉と笑顔に、他の部員たちもホッとして表情を緩める。
今日三度目の通し練習。一体感の上がってきた演奏は、ふわんふわんとした残響も心地よく、消えてしまうのがもったいないと感じるほどだ。一年生たちも力と自信がつき始め、生き生きと吹けるようになってきている。いい調子だ。技術的にも感情的にも好感触。翔琉はもう一度頷いた。
が。
「……ん? 降ってる?」
せっかくの余韻を打ち消すように、窓の方からパラパラと小さな音が聞こえ始めた。見てみると、外はいつの間にか重く暗い灰色の雲に覆われていた。ほんの少し前までは薄曇りだったのに。
「水を差すとはまさにこのことだな」
燎が窓を閉めながら呟く。その表面は雨粒で点々と濡れている。
「うまいこと言ったつもり?」
優貴は毒づきながら別の窓を閉める。雨音が遮られ静かになった部室で、鍵をはめる音がガシャンと大きく鳴った。
しかし、その静けさも一瞬のこと。
「そんなつもりはなかったんだが……すまな」
燎の言葉は突然さえぎられた。
窓ガラスが激しい音を立て始めたのだ。叩きつけるような、とはよく言うが、この勢いと音量は叩きつけるを通り越してマシンガンで撃たれているようなものだ。窓に激突した雨は丸い粒になる暇すらない。いつもなら窓の向こうには他の校舎と校庭が見えているのに、今やほんのすぐ先の渡り廊下すら見えなくなっている。この部室だけ丸ごと嵐の中に投げ込まれたような景色だ。
あまりにも急な天気の変化に、しばらくの間みな呆然と窓の方を眺めるばかり。今朝の予報は、ところによって午後一時雨。こんな大雨とは聞いていない。通り雨かとも思ったが、一向に止む気配もない。
「……はあ」
優貴のため息すらほとんどかき消される始末だった。
「まあ、さっきのコウのドラムよりマシだな」
「あ!? 優貴てめえ今何つった! もっかい言ってみろ!」
優貴の最後の捨て台詞は豪雨にも負けなかったらしい。光牙が嵐を吹き飛ばす勢いで食ってかかる。
「聞かない方が身のためだと思うけど」
「なら言うなよ!!」
どっちも正論だな~、と翔琉の声が雨脚の前をのんびり通り過ぎる。優貴は光牙を無視して荷物置き場に向かうと、バッグからスマートフォンを取り出した。
「連絡来てた。うちはこのあと親が迎えに来る。ベースは……今から吹奏楽部に行ってくる」
「僕も行きましょう。この雨だと、ビニールを掛けても持ち運びは不安です」
音楽室はこの部屋と真逆の方向にある。優貴は一度眉間にシワを寄せ、黙々と、かつ手早くウッドベースを片付け始めた。大和もそれに続く。
優貴を始め、自前の楽器で練習しているメンバーは毎日楽器を持って登下校している。それは自宅での自主練習のためでもあり、セキュリティのためでもある。部室には窓も扉も鍵がついており、職員室で管理されている。しかし鍵そのものは簡単なもの。万が一がないとは言い切れない。
けれど吹奏楽部は違う。音楽室を通り抜けた奥にある音楽準備室に、学校の備品としての楽器が保管されている。総額はかなりのものだ。当然、SwingCATSの部室よりも遥かに立派な鍵で施錠されている。万が一の時はここにお世話になる取り決めとなっていた。
「だな。よし! じゃあ楽器預けるやつは吹奏楽部! 俺は今からじいちゃんに電話するから、みんなも各自連絡。帰れないやつはみんなじいちゃんのワゴンな! じゃ、リョウ。俺ちょっと教室行ってくるから後よろしく! いや~、今日が定休日で助かったー!」
翔琉はぽんぽん指示を飛ばしてトランペットケースの留め金をパチンと閉めた。そしてリュックをひょいっと肩に引っかけ、スマートフォンを耳に当てながら廊下へ走り出す。
「おいトモ! 教室に用事なんてないだろう!」
声を上げる燎に、廊下から翔琉の大声が届いてきた。
「教科書とノート置いてくるんだよ! 荷物は減らしておかないと!」
「翔琉! そういうのは早く言え! 俺も行く!」
光牙が叫びながら自分のリュックを引っ掴み、腕を通しながら猛追する。
「……教科書、持って帰ろうとはしてたのか。……じゃ、行ってくる。荷物見といて」
「分かった」
優貴はウッドベースケースを担ぎ、ただ一人荷物のないピアニストに向かって小さく鼻を鳴らしてから部室を出て行った。
(55)三番目のゴリラ お題:喜び――お送りしたのはユピテルの新曲『ソーダ色の夏』でした!
パーソナリティが楽しげにコンビニの店名をコールし、店内放送はヒットチャートから夏の新商品へと移っていく。リニューアルした冷やし中華、話題のアジアスイーツ、揚げ物を二個買うとドリンクがもらえるフェア。普段なら聞く気にもならない陽気な放送が、今日はやけにハッキリと耳に入ってくる。
何やってんだろ、俺。
真夏の午後。ガラッガラのコンビニ。アイス売り場。ゴリラと見つめ合っている氷室奏斗。こんな状況、誰かに知られたら絶対にいじられるに決まっている。自分でもそう思う。
第六感。目に見えない力。そういったものの存在を信じているかと言われたら、口では「知らね」と答えながら、心の中では「多分ある」と答える。音楽をやっていると、信じていなくても現実を見せつけられてしまうのだ。練習で大苦戦していたフレーズが本番で驚くほど楽に吹けてしまったり、逆にありえない初歩的なミスをしてしまったり。吹いているのは自分なのに、ステージに立つと別の人間が自分の手を操っているような感覚に陥ってしまったり。
だから、こうしてアイスの袋に印刷された満面の笑みのゴリラから目が離せないのも、そういう第六感的なやつとしか思えない。しかも、同じ絵柄のアイスがいくつも並んでいるのに、こんなに目力を感じるのは手前から三番目のこいつだけ。
買うか。
いや、別にソーダ味は好きじゃないし。そもそも棒のアイスはすぐに溶けるし食べにくいし持ちにくいし汚れるし。冬に食べるものだろ、あれは。
でも何かある気がする。
夢に出てこられたら困るしな、と自分に言い聞かせて手前から三番目のゴリラを手に取る。
レジ袋を断って商品にテープを貼ってもらい、店を出る。
「ありがとうございましたー」
やる気のない大学生バイトの声と同時に自動ドアが開く。
ぶわっと押し寄せる熱気。目を開けられないレベルの眩しさ。バッキバキに青い空。秒でにじみ始める汗。惰性で歩道に出ようとしていたのをやめ、かろうじて安全地帯になっている狭い軒先に引っ込む。アイスの袋を開けて中を確認。よし、袋の中は綺麗だ。棒を片手で持ったまま袋を丁寧に折り畳んでリュックのポケットに入れ、歩き出す。
全方位から熱風を吹き付けられているみたいだった。最初は大粒の氷がシャリシャリしていたソーダシャーベットも、すぐにただのツルツルしたアイスキャンディーになってしまう。手が汚れないように急いで食べ進めると、あっという間に完食だ。家まではまだだいぶ距離があるのに。何か飲み物でも買っておくべきだったかもしれない。ぎらつく陽射し。90%閉じた目でザラついた棒を見下ろす。
『あたり! お店の人に見せたらもう一本!』
マジかよ。このアイス、当たりの確率3%だったよな。三番目のゴリラやべえ。
流れる汗を拭くのも忘れてぼんやりしているうちに、目の前の青信号が点滅し始めた。あっ、と一歩踏み出した瞬間に赤に変わる。
三番目のゴリラ、お前ほんと何なんだよ。
こめかみから汗が流れ落ちていく。がっくりと肩が下がった拍子に、リュックまでずるずると落ちてきた。ついでに棒を袋に入れておく。引き換えは一旦棒を洗って乾かしてからだ。家に帰ったら先に棒を洗って、それから飲み物を取って周回だ。
ふらふらしそうな頭の中で予定を立てていると、スマホの通知が鳴った。
『日替わり復刻ピックアップ開催中! 本日はSSR深淵の守護女神!』
あれ? それって明日じゃなかったっけ。まあどっちでもいい。来月は周年記念ガチャ。必ず高性能のキャラが実装される。今回のキャンペーンは見送って石を貯めることにしたのだ。正直言えば、深淵の守護女神は今すぐにでも欲しい。正月に実装された時に、すり抜けからの爆死を決めてしまったとこは今でも忘れられない。
大きな交差点。赤信号が変わる気配はまだ、ない。
……十連だけ、回そうかな。
通知ダイアログからゲームを起動。95%閉じた目でもガチャは回せることを初めて知る。
『十回召喚を開始します。よろしいですか?』
はい。
あ、確定演出。
(56)秘伝のレシピが知りたい! お題:好きなもの「なあ、じいちゃん。いいだろー? 俺もう高校生なんだし」
「ダメなものはダメだ。お前にはまだ早い」
「何でだよー! じいちゃんのケチ!」
「おーおー、ケチで結構。俺からしたらお前はまだまだガキンチョだ。ゴネてる暇があったら練習してこい」
「くっそー!」
翔琉はカウンターに突っ伏し、脚をじたばたさせた。翔琉の祖父は拭き上げたコーヒーカップを全て棚に並べ、スプーン磨きに取り掛かった。いつものスムーズな手さばきだ。
「これで何回目だよ。いい加減聞き飽きたんだけど」
優貴は氷たっぷりのアイスコーヒーより冷たい視線を翔琉に浴びせてから、弦のチェックに戻った。燎も、ピアノの椅子の高さを調節しながら翔琉を見やる。
「そろそろ諦めたほうがいいんじゃないのか。おじいさんにもお考えがあるんだろう。あまり困らせるのは良くない」
「翔琉ー、こっち終わったぞ」
早々とセッティングを終えた光牙は既にドラムスティックを手にしていた。スティックをくるくると回し、手に馴染む感触に頷く。
店内に軽やかなハイハットとスネアが流れ始めた。翔琉は半分溶けたアイスのようにずるりと椅子から下りる。
「はあ……今日もダメだった……」
「ダメでもクソでもいいから、練習はシャキッとしろよ」
翔琉はだらりとぶら下げた手で相棒を拾い上げた。その背中を、光牙が音出しをしながら励ます。
「トモのことだから、どうしてカレーのレシピを教えてもらえないのか大方予想はついてるんだろう?」
「そりゃあね? 分かってるよ。俺にだって。カレーは命みたいなもんだし」
「確かに、カケルの血管にはカレーが流れてそうだな」
俯いてトランペットに愚痴をこぼす翔琉に、優貴が辛口な冗談をよこす。
「カレーが血液か。血管が詰まりやすそうだな」
「辛そうだな」
「お前らなあ! 言いたい放題言いやがって……はあ、愚痴る時間もないのかよ~」
翔琉は勢いよく三人を振り返る。全員が平気な顔だと知ると、早くも電池切れとばかりにがっくりと肩を落とした。
「ない」
「時間は有限だからな」
「食い足りねんだろ。これ終わったらカレー食えカレー」
「わかったよ! あーもう! その代わり、今日は気が済むまでやるからな! んでカレー食べる! じいちゃん、大盛りで予約よろしく!」
翔琉はステージからキッチンに向かって声を張り上げた。翔琉の祖父は、布巾の中のピカピカのカレースプーンから顔を上げ笑顔で応じた。
(57)謁見しているのはどちらなのか お題:鳴海ロラン「で? 用って何なのかしら。あまり楽しくなさそうなら帰らせて頂きたいんだけど」
輝は閉め切った窓の外をしばらく睨みつけてから振り返った。長い巻き髪が揺れ、パサリとブラウスを打つ。
輝は両手を腰に当てた。背にした窓の向こうは八月の真昼。突き抜けるような彩度の高いブルーの空と、なぞれるほどハッキリした輪郭の入道雲。CGで描いたような景色だ。強めに効かせたエアコンの音の奥に、自主練に励む吹奏楽部の無秩序な音色が微かに聞き取れる。
歴史あるこの高校だが、部活は決して歴戦の強豪ではない。そんな人気の部活を抱えていれば、今ごろこんな風に廃校寸前まで追い込まれたりしないだろう。事実、新の希望は見事通り校舎端に部室を押さえることができた。昇降口から遠いのはネックだが、放課後になれば人通りはぐっと減る。教師の目を盗んで好き放題したい年頃の高校生なら取り合いになるはずなのに。
輝はまぶたをわずかに下ろして僕を見据える。この部室の窓ガラスは古くて薄い。けれど、灼熱の四角い空を背負っているとは感じさせないほどに輝の表情は冷ややかだった。僕は輝をスカウトした時の返事を思い返した。
――暑いのは苦手。暑苦しいのもダメ。むさくるしいのはもっと嫌。古臭いスポ根みたいなのはやめてちょうだい。
そんな輝が、どうして突然入部届を手にここを訪ねてきたのだろう。今日は夏休み中の登校日。午前中で終わるのだから、体感気温が天気予報を追い越す前に早く帰るべきだ。それに僕は、てっきりあの会話で断られたものだとばかり思っていたのだ。もっとも、断られたところで次の一手を考えてはいたのだけど。
さっき受理した輝の入部届は目の前のテーブルに置いたままだ。さっさと片付ければよかった、と僕は少しだけ後悔した。思ったよりも手ごわい相手だ。もしも僕の話がお気に召さなければ、輝は僕が手を伸ばすよりも早く入部届を奪い取り、ビリビリに破いて立ち去ってしまうかもしれない。僕は垂れ下がった前髪をかき上げた。
「確かに、楽しいかどうか決めるのは君だ。でもここは曲がりなりにも一つのバンドで、僕はそのリーダー。いま君は僕が指揮を執る部に届を持ってきた。そしてそれは受理された。少なくとも初日くらいは僕の話を聞いていってもいいんじゃないかな。もちろん独裁者を気取るつもりはさらさらない。僕は単純に、初日から君に帰られると困ってしまうだけだ。君が入部して五分で退部という伝説を作りたいのなら、あらかじめそう言ってもらえるかな」
「回りくどいのね。あいにくだけど、私はそういう武勇伝に興味はないの」
「それは助かるよ。じゃあ何に興味があってここに来たのか、聞いてもいいかい? それが今日の用件の一つでもあるんだ」
「それならそうと最初からそう言いなさいよ。私が興味あるのはね、」
そう言って、輝は僕から視線を逸らさぬまま一度言葉を切った。腰から剣を抜くときのようだった。もっとも、そのたとえをそのまま口にしたが最後、輝は本当に入部届を八つ裂きにしてしまうだろう。僕はただ黙って次の言葉を待った。
(58)回想 お題:夏休み 夏休みには、新しい楽譜を買ってもらっていた。
その習慣の始まりは小学校一年生の夏だった。今思えば、初めて我が家にやってくる「宿題の山」というものに、両親と祖母も内心戦々恐々だったのだろう。日ごろの宿題は家族の見守りのもとできちんとこなせてはいたが、夏休みは種類も物量も全く違う。いかに息子のモチベーションを保ちながら期限に間に合わせるか。実は自分の知らないところで、いつの間にか家族の夏の戦いが始まっていたらしい。
終業式から帰宅した直後は、家に祖母しかいなかったため静かなものだった。けれど問題はその夜。仕事を終えた父は嬉しそうに通知表を手にすると、隅から隅までしげしげと読み始めた。隣に座っていた母は横から覗きこみ、担任からの褒め言葉を音読し(やめるよう頼んでも全く聞く耳を持ってもらえなかった。そもそもその文言は昼に祖母が音読済みだ)、りょうくんすごいじゃないとニッコリ。当時は褒められたことを純粋に誇らしく感じていたが、高校生の今思い返してみると、いささか手放しで喜び過ぎやしていないかと言いたくなる。けれど、無関心よりよほどいい。
「最近のドリルってこんな感じなの? かわいい!」
「今どきなのねえ」
「父さんが子どもの頃はモノクロだったぞ」
と本人そっちのけで白紙のドリルをめくる家族の表情は、今年の夏休みの課題リストを眺めていた時とさほど変わらないように思う。自力で全ての宿題を片付けられるようになっても、家族は折を見て必ず声をかけてきては、息子の好調な様子に喜んでいた。頼んでもいないのに蕎麦屋に連れて行ってくれたこともあった。新しい楽譜もその一つだった。
高校に入ってからも、今どきの教科書がどんなものか見たいとせがんでくるような家族なのだ。下手したら、自分がもっと幼い頃からそういう性分だったのかもしれない。
グリーグ 抒情小曲集 第6集 作品57-6「郷愁」
タイトルの脇に小さく書き添えた日付は、中学生の夏休みを示している。ざっと見渡した譜面は、中間部に密集した高音を除けば余白が広く、タイトル通りいかにもゆったりとした曲調なのが見て取れた。しっかりと練習すれば、技術的にはさほど苦戦しないだろう。というのが初見の印象だった。
しかし、一度通して弾いてみて愕然とした。
分からない。
景色が見えない。
弾いていて景色が見えないということは、表現できていないということだ。外国の作曲家が描いたものなのだから、日本に住む自分が要領を得ないのは当然と言えば当然。しかしそれを出来ませんの一言で放棄するのは許されない。
改めて音を辿りながら想像力を働かせてみるも、空白の目立つ譜面のようにどこか荒涼としており、かつ中間部できらめく高音のように美しい遠景が見える。そのくらいが精々。そうなれば当然調べるほかない。
ノルウェーの山あい。
その結果を知った時の感覚は、今でも覚えている。
「そうね。全く知らないことを、体験者として表現できるようになれるかどうか。それって一つの壁かもしれない」
ノルウェーの山あいがどんな所か分からない、見たことも行ったこともなければ想像すらつかない場所をどう表現したらいいか分からない、と相談した時、母はそう答えた。
――ひゅう、
鍵盤から指を離すと、入れ違いに高い音が鳴った。椅子から下り、カーテンに指を掛ける。垣間見た窓の外は、いつの間にか季節外れの雪が吹き付けていた。もう春は、出国の日は近いのに。
ベルリンの音を出せるようにならなければ。
踵を返し、黒い椅子に戻る。
(59)原風景 お題:花火「みんなお疲れ様。職場の一室で申し訳ないけど、今夜は仕事を忘れて楽しんでいって欲しい。もうすぐ始まるだろうから、長い挨拶は控えさせてもらうよ。それじゃあ、乾杯」
ロランの父は、ずらりと並んだ大きな窓ガラスを背にワイングラスを掲げた。その瞬間、遠くの方でドンッと鈍い音が上がり、父の背後の夜景に花火がパッと咲いた。金色の大輪がパラパラと音を立てながら散っていく。
「社長、すごいタイミングですね」
「時間計ってらしたんですか?」
部下たちが続けざまに歓声を上げる。
「さすがにそんな細かい芸当はできないよ」
にこやかに応じる父の表情からは社長の肩書きがほとんど消え去っていて、ロランたち家族に見せる穏やかな笑みと混ざりあっていた。持ち上がったスパークリングワインにLEDの白い照明が降り注いで、細かな泡がきらきらと光る。ロランは父のそんな笑顔を久しぶりに見たように思う。
ロランがドイツに住んでいた頃から、父はヨーロッパとこの横浜を拠点にあちこちを飛び回りながら仕事をしていた。母と自分が住むドイツの家は、家というより休憩所のようなもの。家族仲は決して悪くはなかったが、それは父が自分と深く関わることがなかったからかもしれない。寂しくないと言えば嘘になる。けれど、いい意味で上辺だけの付き合いだから波風は立たない。しかも幸いなことに、父はロランが事業の後継者として必要なものをきちんと身に付け、将来を見据えたライフプランを立てさえすれば、後は割と好きにさせてくれた。
やっぱり僕の父はどこまで行っても上司なのかもしれない。ロランはアイスティーのグラスに口を付け、父から少し離れた場所から一人窓の外を眺める。
「せっかく横浜に来たんだから、花火を見にきたらどうだ。息抜きも必要だろう。毎年会議室を開放してるんだ。社員と家族なら誰でも来ていいことにしてる。打ち上げ地点からは遠いけど、混雑とは無縁だし、涼しくていい」
親の事業。社長の一人息子。用意された進路。期待。打算に満ちた人付き合い。そういうものから逃れたくて横浜に来たのに、ロランはどうしてか父の誘いを断れなかった。やりたいことはあの数万発の花火のように尽きない。星屑旅団はやっと創部にこぎつけたばかり。今欲しいものは息抜きではない。もっと今を充実させるための何かだ。
自分が作ろうとしているものは、花火に似ている。
誰もが思わず振り返る強烈な響き。見とれるほどの美しい光。はじける音の粒。それらは一瞬で消えてしまう。次々に音を鳴らし鮮やかな光を放っても、決して長くは生きていられない。けれど、必ず人の心に残り、生き続ける。思い出という形で。あるいは歴史という記録で。
そして命の限り続けていれば、やがて原風景になれるかもしれない。夏が来れば花火を連想するように。星屑旅団も、いつか。
(60)タイトル未定 お題:ゲリラ豪雨 滝の中にいる。
優貴はそう思った。
渡り廊下への扉を数センチだけ開き、すぐに閉める。鳴りっぱなしの雷と大雨で、外で鳴り響く音はもはや轟音だった。扉が閉まると辺りは少しだけ静かになったが、突風で霧になった雨が扉の隙間に押し寄せ、優貴の顔を冷たく濡らす。
「これはなかなか……思ったよりも厳しいですね」
優貴の背後にいた大和も深刻そうだった。
吹奏楽部への道中には、渡り廊下がふたつ。どちらも大した距離ではない。しかし、何のためかはわからないが窓が設けられておらず、人の顔の高さの部分が完全にガラ空きになっている。春の花粉に夏の直射日光、秋の台風から冬の大雪まで入りたい放題だ。
金をかける場所を間違ってるだろ。
無駄に凝ったカフェテラスその他もろもろ気に食わない校内設備を思い返しながら、怨念全てをため息にこめて吐き出す。きっと今ごろ大和からは「神条くんは楽器が大きいですから人一倍苦労するでしょうね」と思われているだろう。それでいい。
「ちょっと手間ですが、一旦部室に戻りましょうか。このまま通り抜けたら神条くんのベースが濡れてしまいます」
大和の申し出に黙って頷く。
大和と二人で部室に戻り、棚の隅から巨大なビニール袋と養生テープを取りだす。隣に置いていた一回り小さい袋は大和へ。
「手早く済ませましょう。僕も手伝います。神条くんはご家族がお迎えにくるんでしょう?」
「ああ。ただ、こっちが楽器に手間取るのは親も知ってるから」
「なるほど」
大和は頷きながらトロンボーンケースにビニール袋をかぶせ、養生テープで合わせ目をふさぐ。それが終わると優貴のウッドベースに取り掛かった。広げるのも一苦労なサイズの袋を二人でウッドベースケースにかぶせ、同じように養生テープでふさぐ。棚からバスタオルを二枚出し、それぞれ頭にかぶる。これで準備完了だ。
あとは黙々としたものだ。
二人して押し黙り、ごうごうと激しい唸りを上げる濁流の中を進む。いっそ水の綺麗な滝に打たれた方がマシかもしれない。渡り廊下をふたつ越えたら、頭に乗せていたバスタオルでビニールの水気をしっかりと拭き取り、袋をはがして一番奥の音楽室に向かう。その場にいた顧問と部長に事情を説明し、準備室へ入らせてもらう。決して広くはないスペースに所狭しと並ぶ備品楽器を慎重によけながら進み、邪魔にならないよう――といっても優貴のウッドベースがどう見ても最大なのでどこにどう置いても邪魔にはなるのだが――置く。
「大変だとは思うけど、早めに引き取りに来るように」
面倒だな、と露骨に顔に書かれた顧問と部長に頭を下げ、湿ったバスタオルと養生テープがべたつく袋を抱え、くしゃくしゃと音を立てながら自分たちの部室へ引き返す。たったそれだけのこと。しかし、どっと疲れることでもある。
「まだ我々への風当たりは当分強そうですね」
「本当にな。そういうのは天気だけで十分」
「おっしゃる通りです」
うまいこと言いますね神条くん、などと付け加えないあたりが大和の優しさなのだろう。心の中で大人しく感謝しておくことにする。沈黙は金なり。人にああだこうだ言っている暇があったら技術とセンスを磨くべきなのだ。今にあの吹奏楽部は痛い目を見る。大会で審査員からの講評を食らって沈めばいい。時間があったら直々に聴きに行きたい気もしたが、それこそそんな暇があったら練習すべきだ。あいつらの実力なんて、練習の音を聴けば一秒で分かる。自分は、自分たちは、逆になるべきだ。一秒聴いただけですごいと圧倒できるチームに。