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GALLERIA[ギャレリア]は創作活動を支援する豊富な機能を揃えた創作SNSです。

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    ワンライまとめ61-70(61)真夏の激辛カレー一本勝負 お題:汗を拭う(62)真夏のメルティースノウ お題:セミの声(63)あたたかな耳 お題:夏の終わり(64)旅行帰りのお楽しみ お題:旅行(遠出)(65)空 お題:夕暮れ(66)堂嶌先生は本日も通常営業〜ゆるい服装も一考の余地あり〜 お題:カーディガン(67)鳴海くん信者格付けチェック お題:秋のスイーツ (68)星乃君はコーヒーを淹れたい お題:星乃レイ(69)ライブが終わっても、ライブは終わらない お題:夜空(70)早く気づけばよかった お題:くしゃみ(61)真夏の激辛カレー一本勝負 お題:汗を拭う いってえ……!!
     口から出そうになった言葉を氷水で流し込む。半分ほど残っていた水を一気に飲み干しても、吐いた息は燃えているようだった。噴き出した汗が止まらない。拭くのも面倒になってきたが、放っておくと目にしみて痛い。首から下げたタオルの端でゴシゴシと顔を拭く。今度は首の後ろが蒸し暑くなってきた。たまらずタオルをはぎとる。べったり貼りついていたTシャツの背中を掴んで剥がし、バサバサと風を送る。
    「……見てるこっちが暑苦しい」
    「んだと」
     冷たい罵りに睨み返す。いつもなら一発お見舞いしたくなるところだが、今は店のカウンター席。唸るだけで勘弁してやる。
     チラッと目に入った優貴の皿はゴールが近い。対する自分は残り半分を過ぎたところ。この激辛カレーは、運ばれてきたタイミングも量も全く同じ。光牙が知る限り、優貴は昔から飲むのも食べるのも悠長だ。がっついているのを見たことがない。なのにこの差は何なのか。考えようとしただけで、胃がむかむかして体中が熱くなりそうだ。黙って食らうしかない。

     ゴトン。
     光牙の前にあったピッチャーが下げられ、新しいものが置かれる。ほとんどなくなりそうだったから助かった。新しいピッチャーには四角い氷がぎっしり。水もほぼ満タン。
     よし。
     空のグラスにおかわりを注ぎ、スプーンをカレーに突っ込む。
    「そのくらいないと足りないだろうからな、初心者には」
    「……あ?」
     てっきり店員がピッチャーを取り換えたとばかり思っていた。優貴のしわざだったらしい。言い方までとことん腹の立つ野郎だ。なぜ素直にどうぞと言えないのか。それができないなら黙って置くだけでいいのに。
     体の中で唐辛子が爆発しそうになる。俺は黙って食う、と頷く。カレーがたっぷり絡んだ白飯を大きくすくい取り、口に放り込む。ルバートのカレーより黄色くてサラッとしているのに、辛さが尋常じゃない。スプーンが舌に当たった途端にビリビリッと痛みが走る。しかし、うまいのも確か。舌が痛くてよくわからないが、辛さ以外の色々な味が何となく感じ取れる。ゴロッとした肉も食べ応えがある。また食べに来てもいいな。こいつがいない時なら。

     カタン。
     優貴はゆっくりと水を飲みきり、空のグラスをテーブルに戻した。そして、どこからかハンカチを取り出し顔と首にあてる。けれど、きっちりとボタンの閉まった長袖シャツには汗のシミ一つ浮かんでいない。
    「ごちそうさまでした」
     俺の勝ち、と言い残し優貴は伝票を抜き取る。シュルッと紙が引き抜かれる音もお高くとまっている気がしてつくづく頭にくる。
    「今のは引き分けだろうが! ごちそーさんでした!」
     伝票とタオルを引っ掴み、大股で後を追う。ジーンズのポケットから財布を抜いて開く。
     二度と賭けに乗るかよ。いや違う。次は絶対に勝つ、だ。
    (62)真夏のメルティースノウ お題:セミの声 一人で来て良かった。
     ハンカチを下まぶたに押し当てる。何度そうしただろう。そろそろ乾いたところがなくなるかもしれない。広げるのが恐ろしい。念のため濃い色のものにしたけれど、涙にファンデやマスカラの繊維が混じってひどいことになっていそうだ。こんなところを誰かに見られたらと思うと、考えただけで震えてしまう。

     映画が終わり場内が明るくなってからしばらく経った、と思う。満員に近かった席はがらんとしている。残っているのは、感想を熱っぽく語るオタクのグループと、自分と同じように目元を拭いている人くらいだ。この顔で外に出たくはない。けれど、ここで鏡を出して化粧を直すつもりもない。今ならパウダールームも空いていると信じて重い腰を上げる。
     腰を上げて、ヒールにうまく体重が乗らなかったことに驚いた。足首からぐらりと体が崩れる。あっ、と咄嗟に手を出し前の椅子の背もたれを掴む。せっかく落ち着いた息がまた荒れてしまった。今日はとことんダメかもしれない。忘れ物がないか念入りにチェックしてから、座席の列の間をそろりそろりと抜けてエントランスに向かった。

     シアターの扉を出て通路を進む。ヒールがカーペットを引きずる音がする。さっきよりもショッパーが重く感じる。右腕から外し、左腕の肘にかけ直す。と、ちょうどさっき見た映画のポスターがあった。
    『見習い魔女のメルとハル』
     ふわふわの魔女の服に身を包むメルが、杖を片手に空を仰いでいる。視線の先には、ぎっしりと星が敷き詰められた夜空にちらちらと舞う雪。メルの隣には、日本の学生服に魔女の外套を羽織ったハル。二人とも、ころんとした丸い顔にくりっとした目。小柄で短めの手足。主題歌がユピテルじゃなかったら絶対見に来なかっただろう。
     ダメだ。あのストーリーを見終わったあとにこのポスターはダメ。ユピテルのメルティースノウが流れてきてまた泣いてしまう。
     取り急ぎ写真を撮らなくては。幸い今なら誰もいない。バッグから通常盤と限定盤のCDを出して、ポスターの前に掲げシャッターボタンを押す。

     無人のパウダールームで顔を立て直し、映画館を後にする。時間の感覚がよくわからない。エスカレーターから見えた時計塔は夕方六時を指していた。けれど、ショッピングモールは自分がお昼に着いた時からずっと混んでいて、窓がないせいで時間がちゃんと流れているのか実感が湧かない。

     自動ドアがすーっと開くと、蒸し暑い空気に乗ってセミの声が耳を突く。そろそろ八月も終わりだというのに。
    『ねえ、雪が降ったら また思い出してくれる? 出会ったときのことを
     そう言えたらどんなによかったかな
     君の町はあたたかいから雪が降らないなんて 知りたくなかった』
     ユピテルのメルティースノウがセミの声とマッシュアップを起こして気持ちが落ち着かない。クーラーで冷たくなった腕はそれっきり全然温かくならない。暑苦しい風が肌を上滑りしていくだけだ。

     何も喉を通らない。飲み物が精一杯。アイスティーのストローから口を離し、深いため息をつく。
     本当は限定スイーツを食べて帰るつもりだったのに、計画が丸つぶれだ。あんな内容だなんて聞いてない。ユピテルのインタビュー記事以外何も読まずに行ったのがいけなかったのかもしれないけれど。
     窓際のカウンター席からぼんやりと外を眺める。ここではセミの声は聞こえない。空は少しずつ夜に向かっている。歩道を歩く人たちはみな、それぞれに忙しそうで、楽しそう。
     ああ、この人たちもみんなメルとハルを見ればいいのに。
    『君が忘れても 僕が思い出させる
     君がくれた魔法でいつか 雪を降らせてみせるから
     どうかその時は 思い出して』
     親に、帰りが少し遅くなるかもと連絡を入れてスマホをロックする。
     まだ帰りたくない。せめて、暗くなるまで。外でセミの声がしなくなるまで。
    (63)あたたかな耳 お題:夏の終わり ヘッドホンを外すと、両耳を覆っていた熱と湿気がふわっと逃げていく。彼らもきっと窮屈だっただろう。イヤーパッドと耳の間、という超狭小空間で同じフレーズを何十回も聞かされ続けたとあっては。
     ヘッドホンを外したのは僕だけど、本当の意味で解放されたのは彼らかもしれない。いつまで同じところをいじってるんだ、そろそろ他のパートも手を入れたらどうだ。もしくは通しで聴かせろ。
     彼らは心を持たない機械。道具でしかない。曲を聞き飽きたり、ましてや苦情を言い出したりするなんてありえない。なのになぜだろう。頭の片隅は僕の意思と無関係に起き出し、たまには彼らにオペラでも聴かせてあげようかと考え始めている。

     とりあえずオペラは後でゆっくり選ぶとして、片手を耳の後ろに当てる。まだ熱い。作業を始めてからそんなに時間は経っていないのに。
     集中しすぎたのかもしれない。もしくは焦っているのかも。あまり認めたくはないけれど。八月三十一日、という今日の日付を頭から追い払う。大丈夫、猶予はある。そのために立てたスケジュールじゃないか。

     ディスプレイをつけっぱなしのままデスクを離れる。それにしても静かだ。静かすぎると言ってもいい。元々このマンションに騒がしい住人はいないけど、いつもならもう少し……と、ベランダの窓を開けて気がついた。行きかう車の音に混じって、澄んだ音色が耳に届く。
     ――――リーン、リーン、
     小さな音だが、確かにこれは日本の秋の虫の声だ。そうか、もう夜にセミは鳴かないのか。
     一度キッチンに戻り、ミネラルウォーターのペットボトルをグラスに注いで飲み、ベランダに戻る。柵にもたれると、ひんやりして気持ちいい。夜景から目を落としてエントランス前を見下ろす。マンションの高層階に虫がいるはずもない。音の方向と小ささからして、あの植え込みの中にいるのだろう。
     自分の音楽も、世界からしたらちっぽけな虫の声と同じかもしれない。動画サイトでいかに神と崇められようが、絶対に上には上がいる。生きる道は二つ。世界が認める最強の神になり君臨するか、一握りの人の心に永久に残り続ける作り手になるか。
     答えは決まっている。あのアカウントを削除した時、僕は神の名を捨てたのだ。

    「もしもし、父さん。今いいかな」
    『いいよ、もう今日の仕事は終わってる。ロランが通話してくるなんて珍しいな。困ったことがあったのか? まさかとは思うけど、宿題が終わってないとか? それはそれで興味深いけど』
    「宿題はとっくに終わってるから安心してほしいな。でも、困ってるのは本当なんだ。よくわかったね」
    『わかるさ。こういう時くらい父親面させてもらいたいね』
    「じゃあ僕も息子面させてもらうよ」
    『それは楽しみだ。で、その困ったことは。父さんに力になれることなら何でも言ってくれ』
    「ありがとう。ただ、実を言うと父さんの得意分野ではないかもしれない」
    『へえ。異業種の話でもいいってことか』
    「まあ、そうだね。というか……うん、本当のところを言うと、仕事を抜きにして父さんに話を聞いてもらいたいのかもしれない。感慨にふけってるのかと言われたら、それまでだけど」
    『いいじゃないか。父さんも今まさに感慨にふけってるよ。大事な息子にそんなことを言われたんだ。父親冥利に尽きる。何か欲しいものがあるならハッキリ言っていいんだぞ?』
    「欲しいものは特にないよ。しいて言うなら母さんの作ったコンフィだけど」
    『本当に異業種じゃないか』
     ははは、とスマホの向こうで父が笑った。夜風で冷えた耳が温かくなっていく。

    「父さん」
    『ん?』
    「音楽って本当に難しいね」
    『身に染みてわかったか』
    「うん、勉強の方がずっと簡単だ。音楽は正解がわからない。やればやるほど、何がいいのか見えなくなっていく。マニュアルがないから採点もできない。結果がわかるのは世に出してからだ」
    『そうだな。でも、楽しいだろう』
    「……そうだね。楽しいよ、とても。日本にきて本当に良かったと思ってる」
    『そうか。なら思う存分やるといい。父さんも協力した甲斐があるよ』
     スマホを手に頷く。
    『正解や先行きがわからないのは商品作りも同じだ。ビジネスは、過去のデータや流行、経済をよく分析すれば勝算は上げられるけどね。どんなに綿密にプランを練っても、外れる時は外れてしまう。発売日、広告の打ち方、他社の動き、雑に言うと運も。そういう、売り手の思いもしない理由が予想外の売り上げを作ってしまう。良くも悪くもね。ただ幸いなことに、ビジネスとロランには決定的な違いが一つだけある』
     そこで父さんは言葉を切った。自分で考えてみろ、という合図かもしれない。ぱっと思い浮かんだのは、自分が学生であり大きな資金を動かしていないことだ。

    『ロランは失敗が許される。ビジネスと違ってね』
     そう、か。
     スマホを持ちかえる。再び耳から熱が逃げていく。
     星屑旅団は高校生の部活。僕のアレンジが世間に受けなくても、誰かの人生――ましてや社会に影響を及ぼすことはない。大成しなかったらしなかったで、僕には父の会社が待っている。
     だから、普通ならもっと気楽に取り組んだっていい。

     ぎゅっと握り込んだスマホは、ケース越しでもわかるほど熱くなっていた。
    「……父さん、僕は本気だよ」
    『どうやらそうみたいだな』
     返ってきたのは真面目な声だった。父さんは怒ってもいないし、呆れてもいなかった。

     通話を切って夜風で涼んだ。柵に両腕をのせて小さな虫の声に耳を傾けていると、すぐに耳も体もすっきりしてきた。
     作業部屋に戻る。結局父さんは仕事の話をしていた。でもそれでいい。それでこそ父さんだ。
     もうエアコンはいらないかもしれない。電源を落とし、デスクに戻る。そしてオペラの動画を再生する。イヤーパッドと僕の耳の間はもうすっかり涼しくなっていて、彼らとオペラを楽しむのにうってつけだった。
    (64)旅行帰りのお楽しみ お題:旅行(遠出)「よし、これで全部ね」
    「僕のもこれで終わりだよ」
    「すごい量だね! しかも見たことないのばっかりだ! 美味しそうだなあ……!」
     新は色とりどりのパッケージを前に目を輝かせる。ダイニングテーブルは端から端まで海外土産で埋め尽くされており、ティーカップを置く場所すら確保できない有様だ。
    「久しぶりのパリだったからテンション上がっちゃったわね」
    「僕もイタリアに行ったのは小学生以来だね。父の仕事に感謝しないと」
    「本当に鳴海くんのお父さんはすごいね。でも、こんなにいいのかな。どれも俺には身に余りそうで……だってこれとか! 岩塩だよね? いかにも高級レストランのシェフが使ってますって雰囲気だよ……」
     新は手前にあったビンを手に取る。大ぶりのビンには岩塩がぎっしり詰まっている。シンプルな赤いラベルには古めかしい文字でフランス語が書かれている。言葉の意味は全くわからなくても、雰囲気が訴えている。これは高級品だ。
    「さすが新、料理ができる人ってこういうのわかっちゃうのね。新のお土産それにして正解だったわ。日本で買うとすごい値段なのよ。確か前デパートで見たときは……」
     輝之進が値段を口にした瞬間、新は甲高い悲鳴を上げてビンをテーブルに戻した。
    「あ、天城くん、気持ちはすっごく嬉しいんだけど、桁が1個おかしいんじゃないかな……」
    「大丈夫よ、向こうで買ったときはもっと安かったわ。だから持って帰ってちょうだい」
    「その塩、美味しいよ。歴史のあるレストランでも使われてるくらいだからね。僕もおすすめする」
     輝之進から現地価格を聞くと、新は別の意味で目を白黒させた。それから改めて両手でしっかりとビンを持ち、何度もお礼を言いながらリュックに仕舞った。

    「で、これがロランに頼まれてた分ね。本当にこんなので良かったの? そこら辺のスーパーで買ったやつなんだけど」
     輝之進はテーブルの隅から缶詰をいくつか取ってロランに手渡す。
    「ありがとう。これがいいんだよ。向こうに住んでいた時によく食べてたんだ。日本にはどこにも売ってないから困ってたんだよ。懐かしいな」
     ロランは地味なクリーム色のラベルに目を細める。
    「輝、早速開けてもいいかな」
     ロランは缶詰から顔を上げ、輝之進にたずねた。早く食べたくてたまらない、と言いたげな子どものような目つきに輝之進は思わず笑いをこぼす。
    「いいけど……今から飲むの、カモミールティーよね? 鴨のコンフィって合うの?」
    「それは……どうだろう。ちょっと自信がないな。開けるのは一つだけにしよう」
     ロランは缶詰をまとめて抱え、いそいそとキッチンに向かった。
    「食べるのは決まりなのね」
    「鳴海くん、そんなに好きなんだね。てことは相当おいしいんだろうなあ。だって鳴海くんのお気に入りだよ? それこそさっきの岩塩みたいに、一流シェフも認めた味なんじゃないかな」
    「そこら辺のスーパーに売ってるのに?」
    「それは……ほら、天城くんが買ってきてくれたのが嬉しかったんだよ!」
    「あら、いいこと言ってくれるじゃない。これも持って帰って。美味しいわよ! パンでもクラッカーでもヨーグルトでも、何でも合うの!」
     輝之進はテーブルの奥からチューブを二つ取った。パッケージの形は日本の歯磨き粉に近い。表には、コロンとした茶色い丸い実と緑色の葉が描かれている。輝之進は一つを新に握らせ、もう一つをロランのいるキッチンに持っていく。
    「ありがとう。ああ、これも美味しいよね。ラ・クレーム・ドゥ・マロン」
    「マロン……ってことは栗?」
    「そうなの! 日本で言うと、栗のペースト」
    「すごい! こんなの見たことないよ。ありがとう、天城くん!」
    「喜んでもらえて私も嬉しいわ。どんどん開けていきましょ。ロラン、もうお湯沸いたんでしょう?」
     キッチンから聞こえたアラーム音に、輝之進は顔を向ける。
    「うん、今沸いたところだよ。もう紅茶をいれてもいいかな」
    「ええ」
    「あ、ありがとう鳴海くん! 本当なら神にお茶をいれさせるなんて信者の俺からしたら万死に値するのにそんな俺にも鳴海くんはこんなに優しくしてくれてどうしていいかわかんないよ何てお礼をしたらいいんだろう!」
     新は早口でまくし立てながら、背筋を伸ばしてダイニングの天井を仰いでは、体を丸めて小さくなってを繰り返す。
    「どうするも何も、持ってきてるんでしょう? お土産」
    「も、もちろん! もらいっぱなしじゃいけないからね。俺なりに調べて注文したんだ。二人には遠く及ばないけど……」
    「そう卑屈にならないの! 新のお取り寄せスイーツは毎回すごいんだから自信持ちなさいよ」
     輝之進はテーブルのお土産を種類別にまとめ、両脇に寄せてカップの置き場所を作る。

    「ありがとう、天城くん。お口に合うかわからないけど……これ、どうかな。前ユピテルがSNSでおいしかったって言ってた都内の……」
    「ちょっと嘘でしょ!? あそこのケーキ缶買えたの!? 店舗もオンラインも激戦なのに!?」
    「ど、どうにか3個……だけどね? ユピテルが推してたイチ、」
    「イチゴ!? 買えたの!? 本当に!?」
    「かかか買えたよ!? ほら、俺年末年始はずっと家にいたからオンラインショップに張り付いて……」
     新は保冷バッグの口を開き、中から缶を取り上げる。透明な素材でできた表面には、スポンジと生クリーム、真っ赤なイチゴ。三百六十度、どこを見渡しても美しいショートケーキの断面だ。輝之進の悲鳴が3LDKに響き渡る。
    「新、本っ当に天才だわ! 顔面も天才なら中身も天才。まさかこれを新年早々拝めるとは思ってなかったもの。はあ……何よこの断面! どうなってるの……語彙力なくすわ……これをユピテルが……ああ、もう無理ね、言葉にならないわ……最高通り過ぎて至高ね。間違いないわ。ロラン! ちょっと時間もらっていい? 緊急事態なの!」
     輝之進はロランの返事も待たずにリビングのソファに飛んでいった。大急ぎでバッグを漁り、一枚のブロマイドを手に戻る。
    「新。早速で申し訳ないけど、一枚撮らせてもらってもいいかしら。本当は五億枚撮りたいところだけど急いで済ませるから」
    「う、うん、十億枚撮ればいいんじゃないかな……」
    「ありがとう新! やっぱり天才よあなた!」
     輝之進はショートケーキの詰まった缶をうやうやしく受け取り、テーブルの真ん中に置く。そして先ほどのブロマイドを添えた。赤いワンピースに身を包んだユピテルが笑顔でポーズを決めている。輝之進はうっとりとため息をつき、様々な角度から写真を撮り始めた。
    「な、鳴海くん。何か手伝うことはあるかな……」
    「そうだね、じゃあお皿を出してもらってもいいかな」
     すっかり集中しきっている輝之進を残し、新はそろそろと椅子から立ち上がった。
    (65)空 お題:夕暮れ「じゃあ始めてください」
     教師の話が終わった瞬間、教室は大量の紙がこすれる音で埋め尽くされた。教科書やノート、テスト用紙とは違う、画用紙の音。各自一枚ずつしかないその音の主はすぐに押し黙り、絵になるのを待ち始めた。もっとも、ちゃんとした「絵」にしてもらえるかは別として。
     明らかに美術が苦手なクラスメイトたちから呻き声が上がる。画用紙を見習え、と優貴は小さく鼻を鳴らし、コバルトブルーのチューブに手を伸ばした。

     窓の外はすっきりとした秋晴れ。教室でクーラーをつけなくなってからどのくらい経っただろう。登校中に、額の汗を拭き前髪の乱れを直すことも減っていた。ウッドベースを背負う背中も、そのうち汗をかかなくなるのだろう。
     いいことだ。やっといい季節になった。やっぱりこの国の季節は春と秋だけでいい。いや、春は花粉症があるからなくなってほしい。一年じゅう秋でいい。そうしたらどんなに弾きやすいだろう。
     思えば、夏は翔琉が暑い暑いとうるさいし、冬は翔琉が寒い寒いとうるさい。春は春で、やっと暖かくなったから吹き放題だと騒がしい。秋が一番静かなのだ。比較的。
     だから、こんなに静かな年は初めてだった。

     頭を振り、コバルトブルーのチューブを置く。代わりに鮮やかなイエローを取りキャップをひねった。
     パレットに出したイエローに、水をたっぷり含ませた平筆をなじませる。画用紙の上から順に、筆を左右に往復させながら全体へ広げていく。上は濃く、下は淡くなるように。次はレッドを少し加え、同じく上から塗り広げ、濃い赤と明るいオレンジのグラデーションを作る。
     オレンジ色の雲をいくつか浮かべたら、今度は深いブルーも混ぜ、空の上の方を暗い紫色に。雲に陰影もつけ、メリハリのある夕焼けにする。

     手を動かしながら片目で周りを見ると、やはり大半のクラスメイトが窓をチラチラ見ながら青空を描いていた。よし、とは思わない。自分はそこまで個性というものに執着はない。そんなものはどこぞの孤高のギタリストだけで腹いっぱいだ。これ以上は胸焼けする。
     ただ「自分のやりたいことを堂々とやる意識」は昔よりさらに強くなったと思う。音楽も、他のことも。周りの顔色を見て萎縮するくらいなら、言いたいことを言って戦ったほうがマシだ。相手からしたらたまったもんじゃないだろうが、こちらは承知の上。一時期は自分を抑えるべきだと我慢もしたが、結局自分にも他人にも腹が立って仕方がなかった。
     両親相手にはそうも言ってられないが、きっと自分はこういう人間なのだろう。だからジャズが合っているのかもしれない。

     暗闇に包まれていく町並みを描いて筆を置いた。無言で手を挙げる。教師はすぐにやってきた。
    「神条くん、今日も早かったですね。うん、よく描けています。題材の選び方もいいですね。先生はこういうのが見たかった」
     神条すげえ、夕日かよ、天才じゃん、と小さくどよめく周囲を無視し、道具をまとめて廊下に出る。課題はあくまで「空」。青空なんて誰も言っていない。自分がしたことは特別でも何でもない。ましてや天才だなんて。
     教師の言葉を掘り起こし、怒りに傾いた感情をまっすぐに立て直す。自分に必要なのは、適当なやつらの適当な言葉ではない。真剣な人間による率直な評価だ。
     蛇口を回して絵筆を水に当てる。暗い色はすぐに溶け出し、水の流れにのってすぐに消えた。
     早く弾きたい。
    (66)堂嶌先生は本日も通常営業〜ゆるい服装も一考の余地あり〜 お題:カーディガン「そういや、ユーキってよくベスト着てるよな。何か理由でもあんのか?」
     翔琉はツナマヨおにぎりをかじりながら尋ねた。部活の休憩時間。部室には、練習中と打って変わってのんびりした空気が漂っている。優貴は顔をしかめ、翔琉の口元にくっついている米粒から顔を背けた。
    「理由があったら何なんだ」
    「いや、特に何もないけど。やっぱベースと関係あんのかなーと思って」
    「ああ、そういうこと」
     てっきり、おしゃれや個性がどうこうと突っ込まれるのかと思いきや、そうではなかった。面倒なことにはならなさそうだ。優貴は顔の緊張を解き、プラスチックカップのアルミ蓋にストローを刺した。
    「弾くと結構暑くなるから薄着のほうがいい。あと、腕が動かしにくいと困る」
     優貴は答え、カフェオレを一口飲んだ。カップの冷たさが、ウッドベースの指板をずっと押さえていた左手に心地いい。弾いている間はずっと左腕を上げっぱなしだ。腕全体を激しく動かすことはない。けれど、硬い生地のジャケットを着ていると、肩から肘がどうしてもこわばってしまう。かといって、あの直情単細胞ドラマーのようにTシャツを着る気は一ミリもない。結果、この格好に落ち着いた。

    「神条くんもそうだったんですね」
     大和が緑茶のペットボトルを手に調子を合わせる。
    「確かに、大和もちょいちょい腕まくりしてるもんなあ!」
    「はい。僕も神条くんと同じでずっと腕を上げますから、動きやすい方がいいんです。そういう智川くんも、パーカーなのはトランペットを吹きやすくするためなんでしょう?」
     突然話を振られた翔琉は、ギクッと肩を震わせる。
    「え? あー……まあ、そういう理由もあるっちゃある、かな? うん、今日からトランペットのためってことにしよう!」
     翔琉は目をたっぷり泳がせたあと、空になったおにぎりのフィルムをくしゃくしゃに丸めてゴミ箱に放り投げ、オレンジジュースのストローに口をつける。

     同時に、ピシッとアルミ缶が変形する音が走った。
    「トモ、取ってつけたような言い方は良くないな。魂胆が見え見えだぞ。まあ、俺としてはその方が指摘しやすくて助かるんだが」
    「げっ、リョウ!」
    「何だその反応は」
     燎は缶コーヒーのボトルの蓋を回して閉めると、翔琉の前で両腕を組んだ。
    「それもこれも、お前が浅慮なのが原因だろう」
    「うぐっ……けどさ、私服着てくんのは校則でもOKってなってるだろ? なら別にいいよな?」
    「――っ、まあ、確かにその通りだ。パフォーマンスが上がるなら服装も検討の余地あり……ということか」
     言い淀んだ燎に、翔琉は目の色を変えた。今がチャンスとばかりに詰め寄る。
    「そうなんだよ! それに、パーカーって袖がこうなってるから、暑いとき腕まくりしやすいんだよ。Yシャツだと落ちてくるだろ?」
     翔琉が自分の袖口をずらして実演してみせると、燎は真面目な顔で唸った。「合理的な理由ですね」と呟く大和を「黙ってろカケルが調子に乗る」と優貴の小声が封じる。

     しかし、そんな二人の戦略的密談は翔琉の一言で破綻した。
    「リョウも着てみろよ、パーカー」
    「はあ!?」
    「パ、パーカー……ですか」
     二人が呆気にとられているのを気にも留めず、翔琉は振り返る。
    「なあ光牙、腕が楽な方がやりやすいよな」
    「たりめーだろ。ガチでやってんだから」
     光牙は大口でイチゴジャムパンをぱくついた。半袖の腕で紙パックの牛乳を取り、一気に飲み干す。

    「……一利あるな」
     頷いた燎の面持ちが真剣そのもので、優貴と大和は思わず声を上げてしまう。
    「リョウ!?」
    「堂嶌くん!?」
    「腕の可動域は大事だろう。服装という切り口は今まであまり考えたことがなかったが、いい案だと思う。実際にみんなが取り入れている、という実績があるしな。実を言うと俺自身もジャケットには窮屈さを感じていたんだ。軽くて暖かく、動きやすい服は試して損はないだろう」
    「ですが堂嶌くん、いきなりパーカーというのは……」
    「ああ、それは俺も難しいと思っている。何しろ持ってないからな」
    「えーっ!? いやいや……そりゃあリョウが着てるの見たことないから、それもそうかって感じだけど……」
    「ああ、だから練習中はカーディガンを着てみるつもりだ」
     燎は一人スッキリとした顔で缶コーヒーを片付け、ピアノの前に腰を下ろして楽譜をめくり始めた。
     三人分の飲み物が、だらんと垂れ下がった。
    (67)鳴海くん信者格付けチェック お題:秋のスイーツ ごくり。
     つばを飲む音が頭の中で大きく響いた。ヘッドホンをしている時みたいだ。つけているのはアイマスクだけなのに。
    「DJ先輩、大丈夫ですか? 緊張してはります?」
     栢橋くんに言われるまま頷く。心臓がバクバクして息がまともにできない。真っ暗な視界の中で目が回る。背中を丸めて机に手をついていないと倒れてしまいそうだった。自分が今どんなメンタルかなんて、もう全然わからない。
    「……やっぱり栢橋くんが食べた方がいいんじゃないかな。リアクション上手なんだし」
    「いや〜、オレからしたらDJ先輩の方が相当やと思いますけど」
    「そんな! 俺のリアクションなんて面白くもなんともないよ……」
    「まあまあ。今日は練習なんですから、ラク〜にしましょうよ。プリンをペロッと食べたら終了ですよ?」
    「そそそ、それはそうかもしれないけど! 鳴海くんの大好きなお店のプリンだよ!? そんなの絶対当てなきゃ今ここで死ぬしかないよ信者失格以前に人としてダメだから!!」
    「だいぶスケールでかいですね……まあとりあえずロランさん事情は一旦置いといて、一口お願いしますー」
     一旦置いとけるならこんなに苦労はしてないよ!! と心の中で絶叫する。栢橋くんは何ともないらしく、ほな出しますよ〜と軽いノリで準備を始めた。

     栢橋くんは何でもテキパキしていて、飲み込みが早く、要領も良かった。動画の編集を教えているときもそうだ。俺が次に何を言おうとしてるのか分かっているみたいで、教えるそばから「次はこうですか?」と聞いてくる。鳴海くんもびっくりするほどのスピードだった。
     こんなにできるなら他にも得意なことがあるかもしれない。そう考えた鳴海くんが「もし星屑チャンネルでやってみたいことがあったら教えてほしい」と持ちかけたところ、栢橋くんは何と翌日にアイデアを提案。その三日後にロケハンが決まってしまった。
     それが、これだ。

     ――ほら、年末年始とかにやるじゃないですか。芸能人がたっかい料理とやっすい料理を目隠しで食べるやつ。あれどないです?
     ――動画でやるとなると……そうだな、僕らは顔出ししないから難しいかもしれないね……でも面白そうだ。僕は賛成だよ。旅団のゲーム大会でやってみるのはどうだろう。文化祭にも応用できるかもしれない。一度試してみようか。
     ――あ〜、確かに動画はそれが難点でしたね。すいません。
     ――気にしなくていいよ。急に声をかけた僕にも非がある。それに、個人的にすごく興味があるんだ。
     ――ほんまですか? ロランさんアイマスクつけて食べるやつやります?
     ――うん。やってみたいね。
     ――え!? 鳴海くんだめだよそんな!! 自分から処刑台に立つなんてどうかしてるよ!!
     ――そうかな。日本のテレビショーにはあまり詳しくないけど、僕は楽しいと思うな。ルールはとてもシンプルなのにあんなに盛り上がるんだからすごいよ。それに、クイズに答えるだけなら僕にもできそうだし。
     ――うっ……! 一回で当てにいく鳴海くんマジで神すぎるよでもそうじゃない!! 俺は信者として神である鳴海くんを危険にさらすわけにはいかないんだ! こういうのはまず俺みたいな凡人が実験台になってからじゃないと!!

     何であんなこと言っちゃったんだろう……。あの言葉に嘘はない。後悔もしていない。けど。
     俺のぐだぐだモヤモヤをよそに、ベリベリと音がする。栢橋くんがプリンのフタを開け、使い捨てスプーンの準備をしているのだろう。実物はさっき俺も見せてもらった。片方は鳴海くん御用達のパティスリーで買ってきた、一つ六百円の期間限定かぼちゃプリン。もう片方は栢橋くん御用達の激安スーパーで買ってきた、一つ六十円のかぼちゃプリン。
     値段の差は十倍。でも一ミリも自信がない。どちらも一回しか食べたことがないのだ。
     パティスリーのかぼちゃプリンは最近発売されたばかり。栢橋くんのよく行くスーパーは俺の家とは逆方向。俺の近所にあのプリンはほとんど置いていない。たまたま一度だけ運良く買えただけだ。
     ああ、やっぱり俺は信者失格だ! プロ信者なら、鳴海くんのお気に入りは一から億まで全部覚えておくのが当たり前なのに! 俺ときたら鳴海くんが初めてかぼちゃプリンを買ってきてくれたとき、崇高な話を聞くのに夢中で、味の感想を三行しか書いてなかった! 次からスイーツ同好会食レポはもっともっと細かく書かないと。読み返したら全部思い出せるくらいに。うん、そうしよう。いま食べる分からしっかりきっちり頑張ろう。

     よし。
     決意をしたところで、栢橋くんもちょうど準備ができたみたいだった。
    「なんやDJ先輩、急にテンション上がってはりますね。その調子で頼んますよ! Aのプリンいきますからね。はい、どうぞ〜」
     頷いて口を開ける。舌の上に小さなスプーンが乗っかった。
     アイマスクの内側で目を閉じ、全部の神経を口の中に集める。冷たいプリンはすぐにとろんと溶けて広がった。舌触りはすごく滑らかで、繊維の感じはほとんどない。かぼちゃの味もしっかりしている。でも生クリームのまろやかさもある。バランスのいい味だ。口の中からゆっくりと甘さが消えていく感じもいい。しつこくなくて、いくらでも食べられそうだ。ああ、作業の休憩時間にこういうのを食べたらものすごく捗っちゃうだろうなあ……。

    「栢橋くん、次お願いするよ」
    「はい。じゃあBのプリンいきますね」
     さっきと同じようにスプーンがやってくる。スプーンが引き抜かれて舌の上にかぼちゃプリンが落ちた瞬間、俺はアイマスクの中で目を見開いた。
     ……全然違う!!
     何だろうこの違い。こっちはかぼちゃの味がいきなり主張してくる。ぶわっと香りがはじけて、首から上が全部かぼちゃになったみたいだ。そういえばそんなマンガがあったなあ。あのリアクション、賛否は分かれてたけど俺は好きだった。……いやいやそうじゃなくて!
     目をぎゅっとつぶり直す。こんなにかぼちゃが強くて大丈夫なのかな。自分に聞きながらじっくりと味を確かめる。鳴海くんと食べたときのメモは、ヒントになるからと見直し禁止になっている。俺にあるのは、あやふやな記憶と一ミクロンの信者力だけだ。

    「栢橋くん、決まったよ」
    「わかりました。じゃあDJ先輩、答えをお願いします」
    「うん、鳴海くん御用達のパティスリーのかぼちゃプリンは……Bだと思う」
    「Bですね? ほな正解出しますよ。正解は〜?」
     ジャカジャカジャカ〜、と栢橋くんは口でドラムロールをしだした。そういえばアイマスクっていつ外すんだろう。聞けばよかっ……

    「正解は、Bです!!」
    「やったあああああ!! 鳴海くん!! 俺はやったよーーーー!! 鳴海くん鳴海くん鳴海くううううん!! あーーーー!!」
     足が勝手に椅子を蹴り飛ばし、手が勝手にアイマスクをはぎ取っていた。鳴海くん、俺はやったよ鳴海くん!!
    「いやもうほんますごいの一言ですわ……あんな緊張してたのにパクッといっただけでほぼ即答ですもん……もうロランさんの出番いらんのとちゃいます?」
    「それはだめだよ!! 神の出番は全人類待望なんだから!!」
    「え? ロランさんは出たらあかんって最初言うてはりましたよね?」
    「そうかもしれないけどそうじゃないんだ!! ああどうしようどうしよう! ええとええと、そうだ! とにかく鳴海くんに報告しないと!」
     転がっていた椅子に足を取られながらリュックに飛びつく。ファスナーを開けるのももどかしい。できる限りの全速力でスマホを取り出してチャットアプリを起動し、一番上に固定している鳴海くんの連絡先を開いた。
    (68)星乃君はコーヒーを淹れたい お題:星乃レイ「オーナー、お願いがあるんです」
     星野君はそう言って、まっすぐにこちらを見つめた。いつもの人好きのする笑顔はすっかり消え、真剣そのものという表情だけがそこにあった。
     閉店作業を終えた店内には、星野君と私の二人しかいない。栢橋くんも翔琉もいない状況で切り出したとなれば、よほどのことかと身構えてしまう。となるとやはり、翔琉のスカウトについてだろうか。
     しかし、そんな私の想像を裏切り、星乃君は意外なことを口にした。
    「ワタシにコーヒーのいれかたを教えてくれませんか」

     ぱち……ぱち。
     自分のまばたきの音が聞こえてきそうだった。それくらい、この静かな店内で私は長く言葉を失った。
    「……黙ってしまってすまなかったね。星乃君の熱意に驚いてしまったんだ。君が仕事熱心なのはわかっていたけどね」
    「驚かせてしまってごめんなさい。ワタシ、カケルにコーヒーをいれてあげたくて」

    「翔琉に?」
     なぜそこで翔琉の名前が出てくるのだろう。
     席を勧めると、星乃君はカウンターの椅子に腰をおろし、テーブルに両手を置いた。
    「ワタシ、カケルに心配してほしくないんです。SwingCATSも、レイも、大丈夫だって伝えたい。ワタシはカケルにベルリンに行ってもらいたい。でも、ただ行くだけじゃダメなの。楽しんでほしい。だから」
     星乃君はテーブルの上で拳をぎゅっと握りこむ。たどたどしい日本語は、初出勤の日を思い起こさせた。
     あれからまだ一年も経っていないのが信じられないほど、星乃君は頼れる存在だ。お客様のオーダーをほぼ正確に聞き取れるようになったし、伝票に書き込む日本語もきれいな字になってきた。もっとも、読めさえすれば英語でも構わないと伝えてはいるのだが、テカゲンはゴムヨウと言い張り常に日本語を貫いている。
     星乃君は、もうすっかり「ルバートの人間」だ。

     コーヒーフィルターに手を伸ばしかけたが思い直し、手を引っ込めてココアの準備に切り替えた。片手鍋にココアと砂糖を入れ、冷蔵庫から牛乳を取り出す。
     星乃君はコーヒーも飲むがココアも気に入っている。案の定、星乃君の張り詰めた顔つきがゆるんだ。アメリカ出身だからか、甘みのしっかりしたものが舌に合うのかもしれない。
    「ワタシ、ルバートのココア好きです。なつかしくて」
     立ち上るココアの香りに星乃君は目を細める。
    「アメリカの味もこんな感じだったのかい?」
    「ンー、ちょっと違います。でも不思議。ずっと前から飲んでるような味がするんです」
     カウンター越しにこちらを伺う姿に、幼い翔琉の姿が重なる。コーヒーを飲みたい飲みたいとせがんでは、毎回ひと舐めしかできずに悔しがっていたあの頃。翔琉にはこれで十分だ、と私が差し出したココアを不満そうに(その割には実に美味しそうに)飲んでいたものだ。
     翔琉が晴れてコーヒーを飲めるようになった中学生時代から、ココアの出番はすっかり減り、今やメニューには載ってこそいるがあまりオーダーが入ることはない。
     私が見送る側に回り始めたのはいつからなのだろう。妻も、翔琉も、ココアも。星乃君もいずれはここを離れる日が来るだろう。

     私は星乃君のように心の底から人の笑顔を望めるだろうか。妻の検査入院ですらあんなに気を揉み、臨時休業しようかと本気で悩んだというのに。
     沸騰寸前で火を止める。片手鍋を下ろし、マグカップに茶こしを当てて熱々のココアを注ぐ。冷蔵庫に残っていたホイップクリームを浮かべると、星乃君は子どものように笑顔を輝かせた。ずっと昔から見ているような顔つきだった。
    「今日は特別におまけしてあげよう」
     もう一さじクリームを追加すると、星乃君は英語で歓声を上げた。
     さすがに赤の他人のお子さんにこれは世話を焼きすぎかもしれないが、孫にここまでしてくれると言ってくれたのだ。心が動かない方がおかしい。

     とりあえず今日は見学だけしていくように、と伝えて自分用のコーヒーを準備する。星乃君はカップを手にしたまま姿勢を正した。
     スマホやら何やらと娯楽の多いこの現代に、唯一の孫が自分と同じジャズを好んでくれた。それだけでも奇跡のようなものなのに、孫は世界を目がけて旅立とうとしている。そしてそんな孫を本気で応援してくれる子がいるのだ。孫と同じココアを飲み、同じ音楽を聴き、演奏している子が。
     ジャズは落ち目? とんでもない。そんなことを言う奴がいたら、今すぐこの子たちの演奏を聴かせてやりたい。
     まだくたばるわけにはいかなそうだ。この子たちの音楽が、世界に知れ渡るその日まで。
    (69)ライブが終わっても、ライブは終わらない お題:夜空「はあ……やっば……ほんとやばい……」
     煌真はふらふらと歩きながら、首から下げたマフラータオルに顔を埋める。タオルの端を握りしめる手には力が入っておらず、小さく震えている。ピンクと水色のハートが舞う生地から漏れる声は、三時間のライブで喉を酷使したせいで聞き取るのがやっとだった。
    「……煌真ちゃん、さっきからやばいしか言ってないわよ」
     ため息まじりに輝之進が指摘する。けれど、その声は煌真と同じようにかさついていた。ふらつく足元を彩るサテンリボンの靴紐も、開場前にはふんわりと花のようなカーブを描いていたが今はすっかりしおれている。
    「いやまあ……そうですけど……だって言うことなくないですか!? もう何か…………あっ、やばい泣きそう」
     煌真はタオルから顔を上げ、輝之進に訴えた。そして、汗で貼りついた前髪をタオルごとかき上げて押さえながら夜空に目を向ける。けれどそれも長くは続かない。余韻に浸ってぐるりと見渡した視界に先ほどまでいたライブ会場が入った瞬間、再びタオルのお世話になってしまった。
    「煌真ちゃん……でも、そうね……気持ちはよくわかるわ……」
     落ち着かない様子の煌真に、輝之進は静かに声をかけた。くしゃくしゃになった髪に何とか手櫛を入れ、煌真と色違いのタオルで顔と首の汗を押さえる。時計は見ていない――正確には見たくない気分――ので分からないけれど、もう夜十時を回ったころだろう。少しだけスッキリした頬に冷たい秋の夜風が吹きつける。予報の気温を何度もチェックして厚手のカーディガンとストールをチョイスしてきたものの、一度も出番のないまま、うちわやペンライトと一緒にトートバッグの中だ。

    「天城先輩、メルティースノウのとき泣きませんでした?」
    「えっ? 嘘、何でわかったのよ」
    「いやいや、わかってはないですよ! オレ実はちょっと泣いちゃったから……バレてたらはずいなーって……」
    「そういうこと。なら全然気にしなくていいのに」
    「よかったー……いやほんと、一緒に来てくれたのが天城先輩でよかった……」
    「私もよ。ていうか、メルティースノウは全人類泣くから」
    「ですよね!?」
    「当然よ! 曲聴いてだけで泣くのにあの演出! 何なの……映画のスタッフ入ってるんじゃないでしょうね」
    「映画のあれ再現してくるとは思わなかったですね……やられた、マジで」
    「やられたわね。完全に」
     はあ、と輝之進は大きなため息をついた。ずるい、悔しい、驚いた、嬉しい、感動した、その全てであり、しかしどれとも違う感情を全部吐き出す。けれど少しずつひんやりしていく頬とは反対に、胸の中はずっと熱いまま。からっぽかと思っていたら、ふいにさまざまなものが込み上げてきて消えていく。その繰り返しだった。
     まばゆいライト、天まで届きそうな光線、ペンライトの海、流れ星のような銀テープ、真っ白なスモーク、会場をまるごと揺らす音響、歓声、大きなステージに立つ小さなユピテルの二人、その姿は小さかったけれど存在感はあまりにも大きく、いつもスマートフォンで聴いているのとは比べものにならないほど高らかに響き渡る歌声が
    「……煌真ちゃんごめんなさい、私泣くわ」
    「え!? 今ですか!?」
    「色々と思い出しちゃって……」
     輝之進はタオルを目元に押し当てた。喉が痛み、熱いものがみるみるうちにまぶたの裏を濡らしていく。もうすぐ駅なのにどうしよう、という不安が、青白い照明に包まれたホームの映像と共に一瞬頭をよぎる。鏡を見るのが怖い。けれど、そう言っていられるほどの余裕もなかった。全人類が泣いているのだから、自分一人ではないと信じてタオルを離す。
    「……大丈夫。行きましょ」
     輝之進は震える息で深呼吸をし、青白い駅へ踏み込んだ。
     ライブが終わっても、ライブは終わらない。
    (70)早く気づけばよかった お題:くしゃみ「そういえば、ドイツではシャーペンの芯って買えるんでしょうか」
     大和は燎の手元を見て何気なく口を開いた。その場にいた部員全員が一斉に顔を上げ、不思議そうな視線を向ける。
    「ありふれたものだろう。どこででも買えるんじゃないのか?」
     燎は替芯の蓋を閉め、シャープペンシルのノックをカチカチと空押ししながら答える。光牙と優貴も続けて口を開いた。
    「ド田舎じゃあるまいし」
    「首都だしな」
    「へえ、よく知ってるな」
    「たりめえだろ!」
     二人は早くも火花を散らし始めてしまった。怯えた青が手をばたつかせ、言葉にならない声を上げる。そこで待ったをかけたのはレイだった。光牙と優貴の間に堂々と割って入り、体ごと無理やり仲裁する。
    「二人とも、ケンカはダメ! カケルがベルリンに行く前、約束したでしょう?」
    「……こんなのケンカのうちに入らない」
    「翔琉から止められてんのは『大ゲンカ』だろ。これは『小ゲンカ』だ」
     優貴はそっぽを向いたが、光牙は正面から言い切った。聞き慣れない言葉にレイは首をかしげる。
    「『小ゲンカ』……小さいケンカ、ですか? ワタシわかりました! リョウから習った、大は小を兼ねる! ですね?」
    「そういう意味の言葉ではないんだが……ただ、小さな火種も思わぬ火事を招く。言いえて妙かもしれないな。実際、その『小ゲンカ』とやらのせいでまるで話が進まなくなったわけだし」
     芯の補充を終えた燎は、荷物を片付けると光牙と優貴を交互に見やる。これにはたまらず二人とも目を逸らしてしまった。

    「大和。シャーペンがあるのに芯が売っていない、というのはおかしな話じゃないのか」
    「いえ、前提が違うんですよ堂嶌くん。ドイツではシャーペンそのものが普及していないのでは、と思ったんです。星乃くん、アメリカに住んでいたときはどうでしたか?」
     そんな、と一同がどよめくなか、レイだけがそういえばと納得顔で答える。
    「ワタシ、シャーペン使ったことありませんでした。mechanical pencil という言葉はあります。でも使ってるのはお母さんだけね。あとはみんな鉛筆かボールペンです。だから日本にきて初めて自分のmechanical pencil を買ったとき、とってもワクワクしました。消しゴムを使うのも楽しくて」
     懐かしそうに目を細めるレイ。けれどその口から語られる思い出話は、生まれも育ちも日本のSwingCATSの面々には全てが衝撃発言だった。
    「星乃、消しゴムは……楽しいのか?」
     皆が一番突っ込みたい、でも突っ込んでいいのかためらってしまった点を暁が言葉にしてしまう。幸いレイは純粋な質問と受け取ったようで、ニコニコと子どものような笑顔を返した。
    「ハイ、アメリカの消しゴム。全然消えないんです。黒くなっちゃうの」
    「は……? おかしいだろ」
    「消したいのに黒くしてどーすんだよ」
    「理解が追い付かないな……」
     カルチャーショックとはこういうものなのか。信じられない現実にレイ以外の全員が言葉少なになり顔を曇らせる。
    「外国では、不正防止のために学生もボールペンで勉強する国がある……という話を思い出したんです。本で少しかじった程度でしたが、まさか本当だとは。智川くん、大丈夫でしょうか……」

    「――ッ、くしゅ!」
     ガツッ!
    「あ、シャー芯折れた……もう入ってなかったか~、予備予備ーっと……」
    h: Link Message Mute
    2022/10/31 16:40:48

    ワンライまとめ61-70

    今回も両チーム2年生中心。
    表紙を作るたびに、あの話を書いてからもうこんなに経ってたのか!と仰天します。もうすぐ年末だなんて信じない。来年もモチベの限り書いていきたいですね。
    #jazzon #ジャズオン

    more...
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    • ワンライまとめ51-60こちらでは初投稿です!よろしくお願いします。

      一時休止が決まっても、じゃずおんはやっぱりいいぞ!の気持ちで小説を書いています。
      今回は短い話を10本詰めました。燎中心。
      #jazzon #ジャズオン #堂嶌燎


      過去作はじゃずおん個人サイトから読めます。
      https://smaltshobo.themedia.jp/

      最新作は上記サイト+くるっぷで更新予定です。
      https://crepu.net/user/hsn2dj

      ※この垢は雑多ジャンル+腐向けも投稿予定です。苦手な方は適宜タグミュート頂くか、上記健全サイトをご利用ください。
      h:
    • 瞳から水彩/夕焼けは晴れ今日もジャ腐オンが好きすぎてつらい。一時休止?知らない子ですね。全然推し足りないので書きます。
      今回は最推し翔燎翔。アオハル度高めの2本立てです。

      「瞳から水彩」
      中学生。泣きたくなるようなピュアエモを書きたかったので、限界までピュアを目指しました。

      「夕焼けは晴れ」
      高校生。りょうは何かと一人で考え込むし、過去を振り返りがちだと思ってます。

      #ジャ腐オン #翔燎翔

      こちらにはジャンル雑多でSSまとめや長めの作品を載せます。じゃ腐おん投稿は下記くるっぷか個人サイトが最速です。

      くるっぷBL垢 https://crepu.net/user/rHY1qpM2pjZUcdL
      個人BLサイト https://smltsb.localinfo.jp/
      h:
    • 河べりにスターライト鋭い眼光と暗い水面。幸福と孤独。好きか嫌いか。現実は非情な二者択一の連続で、選べないものばかり。そんな拓夢の話。

      過去作と繋がってますが単品でも読めます。
      https://smltsb.localinfo.jp/posts/26543110

      ほしかやちゃんはいつも可愛くてきらきらしてて、でも推してると突然突き落とされるような苦しみに襲われるのが最高にいいです。なかよしんどい。

      #ジャ腐オン #星栢
      h:
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