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    タイトルは決まってない(21話目まで。続く)長谷部とへし切と日常と長谷部とへし切と短刀と長谷部と山姥切と、ロイヤルオーラ?長谷部とへし切とスマートフォン『へし切』、始めました。へし切と油揚げと、はぐー長谷部とへし切と左文字兄弟長谷部とへし切と三日月茶会長谷部とへし切と古備前と野菜へし切と主命と鶏の冷しゃぶ長谷部と燭台切と秋の空長谷部と日本号と、美味しいお酒コウラクエンデボクトアクシュ長谷部と掲示板と【三振り目】長谷部と鋼の見る夢長谷部と第一回本丸一武闘会長谷部と炬燵と寄り道風邪引き長谷部しわす つきなし うしのこくへし切長谷部長谷部とへし切と日常と
     まぁ、そういうこともあるだろう、と。顕現前にうっすらとは想定はしていたのだ。
     ……いたのだ、が。
     いざ自分がその立場に置かれてみると、案外堪えるものである。



     ――などと。
     残念なことにそんな感傷に浸ることができるほど、俺は繊細でもなければ状況も甘くはないのだった。

    「またお前らか」
     額に手を当て、少しでも怒気を逃がすべく大きく息を吐く。目の前には言わずと知れた、万年驚き欠乏鳥の白いのと、その横でキリリと藤紫の涼しげな目でこちらを見ている、
    「いい加減にしてくれ、お前は俺の同位体だろうが!
     鶴丸の思考のどこに共感して、どうしていつもそんな風に問題行動を起こすんだ!?」
     この本丸の一振り目として顕現されていた俺と同じ刀――へし切長谷部である。
    「それは違うぞ、長谷部。今回は俺が、へし切の案に乗っかったんだ!」
    「なお悪いわ! あああああ、もうっ」
     鶴丸のキラキラした目で言えば、一振り目がものすごいどや顔で胸を張る。
     ああ頭が痛い。脈拍に合わせてひずむコメカミに指を当て、また大きく息を吐けば、
    「どうした長谷部。体調が悪いなら早く床につけ。なに、心配するな。近侍の仕事なら陸奥守が代わってくれるし、燭台切に言っておけば、夕食も消化に良いものを作って世話をしてくれるだろう」
     などと。
     あろうことかその頭痛の原因を作った張本人たる一振り目から、本気で気を遣われる有り様である。

     何言ってんだ貴様むしろそこは貴様が代わって働くところじゃないのかというか貴様鶴丸や他の刀からへし切呼びされて平然としていられるとか正気か普通は逆に俺をへし切呼びにしろと主張しないかというかそもそも何故一振り目である貴様を差し置いて俺が近侍を務める状況になってるんだへし切長谷部ともあろう者がいいのか貴様は本当にそれでいいのか。


     ……といった突っこみが脳内を光速で走り去っていくのは日常茶飯事である。口にしないのは、もうなんか色々諦めたからだ。

    「っとにかく!
     お前ら二人とも、今晩一晩反省部屋で正座だ。次いで明日からの一週間は厠の掃除。いいな!」
    「お、長谷部にしては甘めの采配」
    「おい、本当に大丈夫か? 何か悪いものでも食べたのか?
     ……そういえば、戸棚の中の饅頭はずいぶん前に三日月が買ってきた物だから、賞味期限があやしかったな。
     よし、待ってろ。今すぐ薬研に」
    「あのなぁ、俺が軽めの罰で済ますということに、何の理由も無いと思うか?」
     喜色満面の鶴丸と、本気でこちらを気遣う一振り目に、本日何度目かのため息が漏れた。
     というか何気に一振り目は失礼な奴だ。俺ともあろう者が、不要な間食などはしないし、賞味期限の確認を怠ることなどありえないし、そもそもどこの戸棚の話をしているのか知らんが、パッと見て持ち主の分からない菓子になど手をつけるはずがない。
     さておき。
    「政府より通達がきた――二日後から、大阪城だ」
     腰に手を当てて言い放てば、二振りの顔色が分かりやすく変わった。元々が白い鶴丸の顔は、唇まで白くなっているし、一振り目は眉間に皺が寄っている。おそらく金刀装を積まれ連続出陣させられる未来でも予見したのだろう。

     事実、その通りになる。

    「で、でも今回は極短刀たちだけで一部隊組めるし、俺たちの出番なんて」
    「粟田口短刀ばかりに負担をかければ、保護者が黙ってはいないだろうな」
    「博多、後藤、信濃、包丁、それに毛利も揃っている。目の色を変えて掘り進めなければならない理由など」
    「主はこの間、景趣を一息に買い揃えられた。
     ……誰かさんたちが主の持ち込んだ現世の雑誌に触発されて、夏にかき氷、秋に焼き芋、冬に雪合戦をしたい、などと言うからなァ?」
     元々この本丸は、立ち上げからそれほど長くない。主は審神者としての責務を果たすべく戦力の拡充を最優先にし、景趣や娯楽に関わる物への出費はこれまで控えめにしておられたのだ。
     ようやく最近になり刀剣が揃ってきて資源や小判の備蓄も増え、今まで抑えていた娯楽を少しずつ本丸に取り入れようということになったのだが、その結果がこれである。

     今、小判箱の中身は、底が見える有り様なのだ。

     二振りが顔を見合わせて沈黙したのを見て、俺の溜飲もようやく少し下がった。
    「分かったらさっさと反省部屋へ行け。反省文の提出は原稿用紙400字詰に4枚。俺が校正した後に主に提出するから、決して手を抜かないように。
     ……って、ああもうこんな時間じゃないか!」
     本丸の廊下に赤々とした西日が射し込んでくる。厨からは夕餉の味噌汁の香りがする。まずい、急いで執務室へ戻らなければ。
     明日が提出期限の書類を前に奮闘しているであろう主の顔を想像して、俺は慌てて二振りに背を向けた。
    長谷部とへし切と短刀と
     某月某日。本丸は良い天気だ。
     畑仕事に出ていた来派のものぐさと、自称じじいが縁側でサボって仲良く猫に餌付けをしていた。あの猫は確か昨日、鶴丸の掘った落とし穴に落ちた大倶利伽羅のことをみゃーみゃー言いながら知らせに来たヤツだった。なるほど、ああして他の連中にも可愛がられていたのか。
     それはそれとして、明石と三日月を一緒に組ませたのは誰だ。俺だ。今日はプチトマトの収穫作業くらいだから、あの二人でもいいだろうと思ったが失敗だったな。やはり明石には目付役がいるし、三日月には介護――ならぬ上手くフォローをしてくれる刀を組ませる必要があるか。

     今日も今日とて、第一部隊は白金台へ。成果は芳しく無く、厨で夕餉の支度に立つ燭台切の背には哀愁が見えなくもない。
     しかしカッコよさを身上とするその男は、自身の感情に任せて夕餉のメニューを変更することもなければ、内番の手合せなどで当たり散らすこともない。アイツの細やかなストレス発散については、今は割愛する。
     ちなみに今日のメニューはハンバーグらしい。今日も雨の戦場で活躍した極短刀たちの好物だ。
     大きな掌でぱしん、ぱしんと肉から空気を抜く音が、先ほど通りすがった廊下に聞こえていた。あの打撃力を持ちながら肉を破裂させないあたり、器用なものだといつも思う。

     そんな燭台切に、今は厨の入り口に立つ秋田がしきりに頭を下げていた。極短刀を束ねる第一部隊の隊長として、太鼓鐘貞宗をみつけられなかったことを謝罪しているらしい。武装を解いたばかり、濡れた髪をタオルで拭いただけの状態で、いの一番にやって来たようだ。
     パッと見る限り、小さなケガはあるものの、長時間手入れの必要になるほどのものは無さそうである。
     燭台切と言えば、エプロン姿のまま眉を八の字に下げて笑っていた。そうだ、別に秋田や他の隊員たちが悪いのではない。こればかりは運なのだから仕方がない。
    「秋田、その辺にしておけ。燭台切が困っている」
      一瞬俺の口が勝手に動いたのかと思ったが、そうではなかった。俺と全く同じ声が、俺でない人物からかけられただけである。
     声をかけようかと迷ったのは事実だが(燭台切の作業が捗らないから)、俺はまだ声を発していなかった。少し離れた距離を通りすがっただけだし、何せ主に頼まれて、書庫から資料を届けるところだった。立ち話が長引くと主命に障る。
    「へし切さん! ただいま戻りました」
    「ああ、おかえり。薬研から聞いたぞ。今日の戦場には、例のやたらと固い敵が2度も現れたそうじゃないか」
     秋田の背後からゆっくりと歩いて来た一振り目が、手袋を外してピンク色の髪をわしゃりと撫でる。見るからに湿ったままなのだが、気にした様子も無い。
    「えっ、そうなのかい? それは大変だったね! みんなケガはなかった?」
    「ええと、前田と信濃が中傷で、小夜君が、その……」
    「――ああ、それで宗三が」
     傍からみていて、いつもより辛口だった。うん。元々愛想を振りまく方でも無いが、それにしても今日は特に。
     兄弟のこととなると、ここの宗三は織田で縁のあった刀に対して感情が表に出やすくなるらしい。当たり散らしているつもりも責めるつもりも無く、ただ心配なのだろうと一振り目も薬研も、もちろん燭台切も分かっている。
     俺はまだ、あまり宗三と話したことがない。避けてるわけでも避けられてるわけでもなく、ただ機会がなかっただけだ。一振り目とは古参同士それなりに仲がいいようで、よく互いの部屋を行き来している。
    「江雪さんは、まだ遠征? 帰るまでには手入れ部屋を出られるといいね」
    「そうだな。手伝い札は使わないのか」
    「今日はもう出陣もないみたいだから、主も手ずからゆっくり治したいんじゃないかな」
    「ごめんなさい、僕のせいで……僕に、力がないばかりに」
     すん、と鼻をすする秋田に、一振り目が屈みこんだ。目線の高さを合わせて顔を見据えれば、空色の目がぱちぱちと瞬く。
    「秋田。元々、白金台は軽々と踏破できる戦場ではない。お前たち極短刀の練度がもう少し上がれば、多少楽にはなるだろうが。そしてそれらを知りつつも最適だと判断して部隊を編成したのは、近侍の長谷部だ。あいつにも責任の一端はある。
     それに現場を見ていないから何とも言えないが、小夜左文字の立ち回りも良くなかったのかも知れない。それならそれで、自己責任だ。
     だがもしお前の指揮にお前自身反省点があったのなら、それはそれで経験を積んで勉強しろ。お前だけが背負い込み、必要以上に気に病む必要はない。
     ……ないんだ、が……宗三を元気づけたいか?」
    「はい! 僕にできることなら、何だってしますっ」
    「ほう……何だってすると言ったな?」
    「はい!」
     むん、と口の端を結んで頷く秋田に対して向けられた一振り目の表情は、こちらからは見えない。見えない、が、これ以上はまずい。絶対によくない。あれは、ろくでもないことを考えて秋田に吹き込み、巻きこもうとしている背中だ。きっと悪い顔をして笑っている。見えなくたって分かる――どうしてそんな思考回路に至るのかは全く分からないが。
    「え、っと。へし切君。その――あ」
     厨前で話しこんでいる三人に足を踏み出す。一番偵察値の低いはずの燭台切が何故か真っ先にこちらに気づき、わたわたしている。
     知ってか知らずか一振り目は、秋田の小さな肩をわしっと掴むと、
    「いいか、秋田。宗三にな、ごにょごにょごにょ――」
     耳元で何やら小声で拭き込んでいる。それにふんふん、と小刻みに頷くピンク色の頭。ああ、秋田。そんなに真面目にソイツの言うことを聞かないでくれ。頼む。厄介ごとを引き起こしかねない。
     むんずと一振り目のジャージの襟首を引き毟るように、ピンク色の頭から引き離す。秋田の顔がこちらを見て、少し引き攣った。
    「なんだ長谷部、いたのか」
    「いたのか、ではない。貴様……またろくでもないことを秋田に吹き込んでいただろう!?」
     何でも無いような顔をしてこちらを振り仰ぐ一振り目に、舌打ちの一つでもしたくなるが、こらえた。相変わらず困ってわたわたしている燭台切には目で合図を送って、厨での食事作りに戻ってもらう。その背を見送りつつ、
    「秋田。出陣ご苦労だった。報告書は、お前も手入れを受けてから提出するように」
    「は、はい!」
      声をかければ、しゅた、と敬礼して背を向ける。だが早足で歩き去ろうとして、
    「あ、はせ――へし切さん……その」
     脚を止め、勢いよくくるり、とこちらへ向き直ると、
    「ありがとうございます、僕、がんばりますっ!」
     ぺこり、と大きくおじぎをする。それに一振り目が親指を立てて、力強く頷いているが――待て。待つんだ秋田。何をがんばるんだ。部隊長としての研鑚ならいい、だがソイツの耳打ちした、おそらくは何か良からぬ感じの企てには乗るな。乗らないでくれ。
     だが俺が口を開く前に短刀の機動力を生かして秋田は姿を消しており、一振り目は俺の手からいつの間にか抜け出して立ち上がろうとしていた。
     ……こういうところでコイツとの練度差を実感するのは、妙に癪に障る。

    いや、そもそも、
    「貴様、俺が見ているのに気づいていただろう」
    「さて、どうだろうな?」
    長谷部と山姥切と、ロイヤルオーラ?
     そいつと出会ったのは、山姥切国広と万屋に出向いたときだった。確か、そう、ひどい雨の降った日の前日だ。
     あの雨は本当にひどかった。あとで誰かが言っていたが、本丸始まって以来の大雨だったらしい。だというのに、そんな前触れ一つ感じさせない見事な晴天だったので、ほんの些細な出来事なのによく覚えている。

     必要な買い出しを済ませ、それを本丸へ転送する手はずを整えた後、俺たちは町をぶらつていた。
     本来、俺ことへし切長谷部も山姥切国広も寄り道などする性格では無い――のだが、この本丸の山姥切は少しだけ違う。別に亜種ではない。普通に白い布は手放さない。が、古参だからなのか、慣れていることに対しては少し余裕があるらしかった。
     その日も、まっすぐ帰ろうとする俺に対して「少し時間を潰したい。付き合ってくれ」と申し出たのは、山姥切の方だ。書類仕事があったので断りたかったのだが、あいつの妙に澄んだ目に真っ直ぐと捉えられると何故か断りがたく。
     仕方なしに、特に目的もなく、道を歩いていたのだった。

    「長谷部、あれ」
     これといって会話も無く、黙々と二人して歩く中、ふと山姥切の手が何かを指し示す。その先にいたのは、一期一振だった。一人で買い物に来たのだろうか。だが少し様子がおかしい。いつもは気負いなく伸ばされた背に力が無い。視線もどこか頼りなく、しかしそれを察せられまいとして眉に力が入り顔全体が固い。
     ああこれは、
    「迷子か」
    「迷子だな」
    うん、と二人して頷き合う。
     しかし珍しいこともあるもんだ。粟田口長兄にして唯一の太刀である一期一振は、その立場に違わずしっかりとした個体が多いと聞く。
     うちのもそうだ。仮に万屋へ買い出しに行かせたとして、相方がたとえマイペースの極みである緑の鳥であったとしても、その緑の鳥とはぐれてしまったとしても、見事に探し出し、ロイヤルスマイルと言う名の圧をかけ丁重にエスコートして戻って来るだろう。
    「……いや、もしかしたら一緒に来た粟田口の弟が迷子になって探している、とか」
     首を傾げて口にしてみれば、
    「その可能性も無いとは言わないが……それならきっと名を呼びながら探してるだろう。それにあの一期一振の手には、本丸へ連絡用の端末が無い」
     なるほど、確かに。そう頷いて、さてそれならと考える。問題は、
    「どうする。声、かけてみるか?」
    「……写しの俺に、名刀へ声をかけろと?」
     いやお前、いつも本丸内では普通に会話してるだろう。なんなんだ、うちの本丸の刀剣以外に対する刀見知りか?
     というかそういう問題ではない。
    「写し云々は全く関係ないが、言葉の選び方次第では粟田口長兄のプライドを傷つけかねないよな……」
     一期一振ともあろうものが、迷子などと。自分で認めるのも癪だろうし、他者にそんなことで手助けされるのも嫌だろう。

     放っておけばいいのだ。自分たちには関係の無いことだ。そう思う部分もある。というか俺の心の大部分はそう思っている。
     山姥切のいうところの『時間潰し』だって、もう十分なはずだ。よその本丸の刀剣に世話を焼いたところで、時間の無駄にしかなるまい。
     しかし、なぜかあの一期一振をあのままにしておくことも躊躇われる。
    「これはしょせん写しの勘に過ぎないので、全くあてにはならないだろうが――」
    「あてにならないなら口にするな」
     ――って言えたらどれだけ楽か。そんなことしようものなら、本丸に帰ってじめじめ凹んだコイツの姿を目にした兄弟刀に、何をされるか分かったもんじゃない。
    「あの一期一振、亜種じゃないか?」
    「亜種……」
     個性や個体差では無く? と首を傾げれば、
    「あちらを見ろ」
     通りの向かい側、さらりと布を鳴らして指し示した方には、別の一期一振がいる。
    「どう思う?」
    「と、言われてもなぁ……」
     別に何も思わない。どこをどうみても、ただの一期一振だ。余裕たっぷり、かつ油断なく周囲に気を配りつつ、おそらくヤツの主であろう女性審神者のエスコートをスマートにこなしている。
    「あれは極めてスタンダードな一期一振だ」
    「スタンダード」
    「そうだ。
     ロイヤルなオーラを惜しむことなく駄々漏れにし、周囲に良い香りとキラキラとした粉のような効果を振り撒いている。あんな名刀の隣に立とうものなら、写しの俺など引き立て役すらおこがましい」
    「ロイヤルなオーラ」
     ハッシュタグで、「~~とは」と誰かに尋ねてみたいような用語だな。
     というか香りだの粉だの、この刀はまた独特な言葉を選ぶ。
     ブレスと同様に差し挟まれる卑屈には、反応しては負けだ。
    「長谷部。あんたは顕現してそれほど一期と関わったことが無いだろうから知らないかもしれんが、一期一振といえば、あのロイヤルなオーラは不可欠なんだ」
    「はぁ」
     何か妙にはっきりと断言されたので、そういうものなのか、と思わず頷きそうになる。が、
    「いや待て、山姥切。俺にはその、ロイヤルなオーラ、とやらはよく分からんし見えん。ちなみに、いい香りは柔軟剤だと思う」
    「なん……だと?」
    いや、そんな信じられない、というような目で見られてもな。お前の布だって、堀川が丁寧に洗ってくれてるからいい香りがしてるんだぞ。
     さらに何か言いたそうに口を開きかける山姥切を制して、俺は言葉を続ける。
    「分からん、が、お前のその繊細な感性からみると、あちらの一期一振には、それが無いということか?」
    「せ、繊細な感性など……俺は、そんな」
    「どうなんだ?」
     ここでその点について反論されても面倒くさい。さっさと答えろ、と山姥切に詰め寄る。
     じっと覗き込んだ目が瞠られて眼球が揺れている。布に縁取られた白い頬が見る間に赤くなっていくが、そのときの俺は構ってはいられなかった。
     だって早く答えてもらわないと、例の亜種めいた一期一振が動き出そうとしている。このままだとうっかり見失ってしまう。
    「あ……う……」
    「ええい、さっさと答えろ! あるのか無いのか! どっちだ、はっきりしろっ」
     へし切長谷部は別に短気な刀ではない、と俺自身は思っている。だが気が長い方だとも思わない。
     ええ、もちろん主になら、待てと言われればいつまでだって待ちます。が、主ではない相手に対しては、長閑な平安刀ほどは長く待てないんですよ。
     心の中で思い浮かべた主にそんなことを語りかけつつ、山姥切の肩を掴む。
     あわれな山姥切は目をぐるぐると回していて、しまったこいつには距離感が近すぎたと思った時には頭から湯気が上がりそうなほど茹だっていた。ほんの一言、「ある」か「無い」かの返事もできそうにない。
     ついには何か分からないゲージがオーバーヒートしたらしく、くたりと茹ですぎた青菜のように力が抜けてしまった。
    「あ、おい山姥切! くっ」
    「あの……」
     こちらにでろでろと寄りかかってくる布坊主の脇の下から手を差し入れ、支える。その俺の背に、ふと声がかけられた。
    「なんだ、今取り込み中、だ……」
     首だけで勢いよく振り返った先にいたのは、件の一期一振だった。こちらに一瞬気圧されるように目を開いたあと、にこやかな顔を作る。
    「大丈夫ですか? よろしければこちらをお使いください」
    「あ、ああ……」
     ありがとう、助かる、と礼を言いつつ、差し出された冷えピタを受け取る。山姥切の布と前髪を何とか掻き上げて、額の中央にそれをぺたりとしていると、
    「それでは、私はこれで」
    などと言いつつ背を向けようとするものだから、
    「待て、一期一振」
    つい腕を取って引き止めてしまった。
     冷静に考えれば、もともとは一期の方が困っているようだから声をかけるかべきか否かと、そういう話だったはずだ。だというのに、その一期の方から声をかけ助けられた上に、つい亜種か否かが気になり、反射的に相手を引き止めてしまったあたり、俺も少し状況に呑まれていた。
     不思議そうな顔をしてこちらを振り返る一期一振に、「お前は亜種なのか」などと直球で聞けるはずもない。
    「おい、漏れてるぞ」
     いつの間にか少し復活したらしい山姥切が、俺の背に隠れるようにしながら耳元に呟く。なんだ、こいつは自分から近づく分にはいいのか。いやそうではなくて、
    「何がだ」
    「心の声。『どうしよう……うっかり呼び止めてしまったが、お前は亜種なのか、なんて聞けるわけない……』と」
    「なんだと」
    「はは……あなたがたも、やはりそう思いますか」
    こちらのやり取りを困ったように眺めていた一期一振が、小さく笑んで眉をたらす。
     気まずい思いで頷きつつ、俺も言葉をなんとか連ねる。
    「いや違う、そうではないんだ。気を悪くしたならすまなかった。
     ただ俺たちには、どうもお前が困っているように見えて、それで――」
    「あ、そうだ。コイツにはないぞ、長谷部」
    「今度は何だ!?」
     フォローを兼ねて説明していれば、また山姥切が背後からカソックの裾を引きつつぼそりと言う。山姥切は頷いて、無駄にきりりと顔を引き締めた。
    「ロイヤルオーラ」
    「貴様、頼むから空気を読めっ!」
     ……やっぱりコイツの方が亜種なんじゃないか、という気がしてきた。
     だが一期一振は俺たちのやり取りに対して、苦く笑いをもらすだけだった。
    「ほら、謝れ山姥切」
    「……妙なこと言ってすまん」
    「いいえ、構いません。そちらのまんば殿は、ずいぶんと長谷部殿になつき心を開いてるようで、微笑ましい」
    「まんば呼び、だと……」
     というか、なついてたのか、こいつ。
     ちら、と視線を「まんば殿」に流せば、さっと顔を反らされた。解せぬ。
    「実は長谷部殿の言う通り、困っていたのは事実ですし、それに……慣れてますから」
    「慣れてる?」
    「ええ。どうも私は、一期一振らしくないみたいで」
     自分ではよく分からんのですが、と、どこかで聞いたような言葉を吐く一期一振の顔は、どこか頼りなく、また何かを諦めてるようにも見受けられる。

    「私は、二振り目に顕現された一期一振なんです」
    長谷部とへし切とスマートフォン
     真夜中にベルが鳴った。お爺さんの時計ではない、俺の個人用端末だ。
     こんな時間に、いったい誰が。そう思いつつ表示をみれば、別の本丸の鳴狐(極)からだ。
     「鳴かない狐は、ただの狐だ」などとのたまう、その打刀と出会ったのは演練場だ。
     たまたま通りすがりに、お供との会話中だったらしいときにその台詞を耳にした俺が、ついぼそりと、
    「いや鳴かない方が異常では。病気かケガで弱っている狐だろう」
    などと呟いてしまったのが縁である。
     ごく小さな呟きだった俺の言葉を拾い上げ、
    「鳴狐! こちらのへし切長谷部様もこのようにおっしゃってますぞ!」
    「でも鳴狐も、たまには話す」
    「ええ、ええ! もちろんですとも」
    「お供は大きな声で話しすぎ。普通の狐は話さない」
    「ですが、鳴かない狐もふつうではなく、まずいと思うのですよぅ! 」
    などと会話を続けていたのだが、正直、一体何を言ってるのかさっぱり分からない。
     分からないが、
    「長谷部は、どう思う?」
    「やはりわたくしめのように、鳴く狐の方が普通ですよね?」
     普段あまり口を利かないはずの本体と、相変わらずのテンションのお供と、両方から急に話を振られて、黙って通り過ぎることができなかった。
     仕方が無いので、
    「……いや、鳴くか鳴かないかが、ふつうの狐とやらの基準なのかは知らん。が、そもそも鳴狐の言うとおり、ただの狐は人語を話さんだろ」
     よって、お供はただの狐ではないし、鳴狐とてただの――というより元々が狐では無い、打刀の付喪神だ。
     ……確かそんなようなことを言い連ねた記憶がある。
    「というか鳴狐、最近お前の本丸でジブリ映画の鑑賞会でもあったのか?」
     ついでに、なんとなくそんなことまで尋ねてみれば、面頬の下、ふだんあまり動かない鳴狐の表情筋が動いた。
    「長谷部殿、なぜ分かったのです!?」
    「長谷部、すごい。えすぱー?」
     いやそのくらい、審神者の影響でジブリを見たことがあるような刀剣なら、誰だって分かると思う。

     うちの本丸でも、最近ではときどき主がジブリに限らずアニメのDVDなどを持ち込んだりもする。これが意外と短刀以外の者たちも楽しんでいるらしい。
     この間も何やら鑑賞会と称して、黒田連中と織田連中と新撰組連中の中でも翌日非番のヤツらが集まって、一杯ひっかけつつ夜通し視ていたとのこと。
     俺はいつものように、食事の後は近侍部屋で書類と戦っていたので知らんが、

    「まさかあの男の正体が、あのガキのなれの果てだったなんて……!」
    「兼さんしっかりして! ほら、目を離してる内に、因縁の対決に決着がつくよ!?」
    「この詠唱カッコイイな。あいあむぼーん、なんだっけ」
    「薬研の『柄まで通ったぞ!』も、何人もの審神者を『柄らー』にする魔法の言葉たい!」
    「この、言峰? とかいう男の服。長谷部に似てるな」
    「元はキリスト教の司祭が纏う、制服みたいなもんだ。宗三、もう一杯どうだ」
    「頂きます。お小夜、眠いのでしたらこちらへ」
    「大丈夫、兄様」

    などと、盛況だったらしい。

    と、うちの話はさておき。
    「というか貴様ら、演練はどうした。もう終わったのか?」
    「ええ、午前中の演練は。あとは午後から2戦、エントリーするつもりでございます」
    「お前たちだけか?」
    「長谷部と歌仙もいた。けど歌仙は先に帰った。午後からは代わりに大倶利伽羅が入る」
    「長谷部殿は今、知り合いの審神者とご歓談中の主殿の護衛をしております」
     鳴狐、そろそろわたくしたちも合流しないと。
     そう言われて、鳴狐も頷きつつ、
    「長谷部」
    す、と狐の形を作った手を差し出してくる。ああコイツ特有の挨拶かと思い、こちらも狐の形を作って差し出そうとして、その指先が狐耳の形のついたメモを摘まんでいることに気づく。
    「なんだ?」
     反射でぱくりと受け取って小首を傾げてみるも、鳴狐は説明しない。にこ、っと特徴のある目許を細めて、
    「またね」
    「演練で当たったときは、よろしくお願い致しますぅ!」
     と背を向けて歩き出してしまった。
     呼び止めようにも、鳴狐の歩く速さは思ったよりも速い。向こうのへし切長谷部(極)と既に合流して何かを話し始めてしまっていた。俺の方にも、背後からうちの陸奥守が迎えに来た気配を感じたので、ひとまず紙片をカマーバンドに挟んでその場を後にした。

    ……その紙片に書かれていたのが、あの鳴狐の連絡先だったわけで。
     一方的に個人情報を渡されるのもフェアでは無いなぁ、と思った俺は、とりあえず仕事の合間にこちらから連絡を取り。



    「で、なんやかんやで今のようにやり取りを交わすようになってしまった、というわけか」
     目の前でちまちまとタオルを畳んでいた日本号の言葉に、俺は頷いた。
     前置きがやたらと長くなってしまったが、実は今回の本題は、この鳴狐の話では無い。

     冒頭の、深夜に届いた鳴狐からのメールは、数日前の話である。翌日の演練には出て来るか、と尋ねてくるものだった。
     もし出て来るなら、昼食でも一緒にどうか、と。
     残念ながら、その日は近侍の仕事で出陣や演練どころではなかったため、行くことはできなかったのだが。

    「何だか知らんが、他の本丸の鳴狐から声をかけられたぞ。お前の知り合いか?」
     つい先ほど、洗濯当番だった日本号を手伝って乾いた洗濯物を取り入れてるところへ、一振り目がやって来た。
     ぱたぱたと風に煽られて暴れる山姥切の布を抑え込みつつ頷くと、
    「ああ、あん時の鳴狐。お前の知り合いじゃなくてコイツの知り合いだったのか」
     お前、よその刀剣たらしこんだのか。
    などと一振り目と共に演練に出ていた日本号が茶化してくるものだから、そうではないことを取り込んだ洗濯物を畳みながら一から説明する羽目になった。
     ちなみにその間一振り目は、黙って何かを考えこんでいた。というか暇なら手伝え。
    「なるほどなぁ。『紅の豚』は確かに名作だからな。
     影響されて言ってみたくなったのかね」
    「だが、鳴狐が好みそうな話ではない気もする」
    「おっまえ……そんなら、鳴狐なら何を好みそうなんだよ」
    「ぽんぽこ」
    「そりゃ狐じゃなくて狸の話だろ」
     そんなことを言いながら、日本号は畳み終えたタオルを重ね、続いて他の刀の内番服に手をかける。真っ先に手に取ったのは、恐らくは一振り目のジャージだろう。
     自分の服くらいは自分で畳んだらどうだ、と苦言を呈そうと振り返れば、さきほどまで居たはずの一振り目がいつの間にか姿を消している。
    「つーかジブリで思い出したけどよ、長谷部。お前、最近付き合い悪いだろ。
     DVDの鑑賞会は好みの問題もあるからさておき、酒の席にも顔を出さねぇし、ヘタしたら夕餉の席にもいねぇ」
     燭台切のにーちゃんが心配してたぞ、などと言いながら手慣れた手つきでジャージを畳んで、次に手を伸ばしたのは左文字長兄の作務衣である。ヤツの槍を握る武骨な手は、案外と小器用に動く。
    「ここのところ、少し仕事が溜まってただけだ。夕餉なら執務室できちんと頂いていたから心配するな、と伝えておいてくれ」
    「そういう問題じゃねぇだろ」
    「じゃあどういう問題だ」
    「そりゃお前、あれだ」
    「あれじゃ分からん」
     だって何も問題など、あるわけがない。はずた。
     俺は二振り目だから、きちんと『へし切長谷部』を予習して、一振り目がやらかしていそうなこと――例えば連日食事を抜き、徹夜で仕事をしたりして身体を壊したり、他の世話焼きな刀や主に心配をかけるなどといったことは、極力しないようにしている。日本号や他の刀との軋轢も生じないように、距離感や物言いにも気を配っているつもりだ。
     なのに日本号のヤツは、
    「だからよぉ、そういうことじゃなくて」
     とか言いつつ、あー、だの、うー、だの唸るばかりだ。建設的な意見なら耳を傾けてやろうと思ったのに、これでは埒があかない。
     ため息をつきつつ、俺は自分の畳んだ洗濯物を手に立ち上がった。持ち主の部屋に運んでやるためだ。
    「おい、長谷部」
     そこへ、席を外していた一振り目がパタパタ小走りに戻ってきた。廊下は走るなと、いつもあれほど。いつものように口を開きかけたところへ、
    「ほら」
    ずい、と差し出されたのは、俺の個人用端末。仕事中は使わないので、自室の文机の上に投げ出しておいたものだった。
    「な、お前、何を勝手に!」
    「登録しといたぞ」
    「何を?」
    「俺のアドレス。あとラインのアプリ入れといたから」
    「はぁ!?」
     しかもコイツ、電話帳から友だちを自動追加したなっ!? 端末の休止を解除した瞬間、羅列された『お友だち』通知にコメカミが引き攣る。
    「別にお前、大した人数電話帳に登録してなかったみたいだからいいかなと」
    「よくないわ、このばか! ああもうこれどうしたらいいんだ……」
     いつの間にかグループとやらにも所属させられているが、操作の仕方がさっぱりと分からない。
     しかもなんだこれ、『AWT48』って! あと『おだて組』、なぜ織田と伊達を混ぜた!?
     鶴丸はともかく、大倶利伽羅なんて馴れ合わないと公言してるくらいなのに、話すことなんて――
    「お、さっそく来たな」
    あたふたしてる間に、何やら通知音が響く。何とかそれらしい操作をして、ようやく表示されたのは、
    『いらっしゃい長谷部君! やっとLINE始めてくれたんだ、嬉しいな。待ってたよ、これからよろしくね! 何か分からないことがあったら僕に聞いてね(何か絵文字)』
    という燭台切の言葉に、
    『お、ついに長谷部も参加か! よろしく頼むぜ(何故か最後の1文字だけ字体が違う)』
    という鶴丸、極めつけに、
    『(何やらひどく可愛い猫のマスコットが、よろしくとお辞儀しているスタンプ)』
    ……送り主は大倶利伽羅だった。
     宗三と薬研からは何も送られてきていないが、そういえばあの二振りは遠征中だったか。
    「おいへし切、黒田組はどうした。何も反応して来ねぇぞ」
     横から勝手にそれを覗き込んできた日本号が、隣の一振り目に低く唸るように尋ねている。
    「厚と小夜は昼寝してたな。博多は多分、さっき俺が頼んだ帳簿をつけている」
    「なに? おい待て、その帳簿は俺が」
    「また自室に引きこもって、夕餉の後にでもやるつもりだったんだろうが、そうはいかないぞ」
     日本号に答えつつも自分の端末で何やらポチポチ操作していた一振り目が、俺の語尾に被せるように言ってくる。
    「大体お前、他の本丸の一期や鳴狐とは連絡先交換してるのに、何故本来なら真っ先に頼るべき俺や博多の連絡先を入れてないんだ」
    「それは……必要性を感じなかっただけで」
    「宗三や薬研も言っていたぞ。お前に、避けられてるんじゃないかって」
    「そんなことはない! 本当に、ただ機会が無いだけで――」
    「ええーほんとうにござるかぁ?」
     うっわムカつく! その言い方ムカつく!
     頭に血が上った俺は、そのとき、つい普段はあまり考えないようにしていたことをぶちまけてしまっていたのだった。



    「本当だ!
     大体、避けてるのはお前の方だろう!?
     俺との衝突を避けようと自ら近侍を辞し、呼び名の件にしたところでそれまで呼ばれていた『長谷部』を俺に譲って『へし切』呼びに甘んじて!
     余裕ぶって、へらへらとはぐらかして、主至上主義の『へし切長谷部』ともあろう者が、よりにもよって二振り目の『へし切長谷部』に何故譲った!
     何なんだお前は、亜種なのか!?
     それとも、俺か!? 俺の方が、普通でないとでも言うのか!」
    『へし切』、始めました。
     少し、思い出話でもしてみようという気になったのは、主が景趣を梅雨のものに替えられたからだろう。雨の音は案外、心を静かにさせる。

     長谷部を顕現した朝は快晴だった、と聞く。伝聞形式なのは、先にこの本丸にいた『へし切長谷部』である俺が、折れる寸前の重傷状態で手入れ部屋に横たわっていたからだ。

     俺は初鍛刀の秋田、そしてその次の今剣と鳴狐の次に顕現された、いわば古参刀だった。初期刀の陸奥守と鳴狐、そして俺しか打刀の居ない本丸黎明期、『主命依存症』を拗らせている暇などなかったということは分かって頂けるだろう。
     どこかの本丸の『主お世話係』に任命された長谷部のことが羨ましくないかというと、決してそんなことはない。ないのだが、俺を顕現した主にはお世話係なんて必要なかったのだから仕方ない。
     それに、主命を頂けずともやるべきことが山のようにあった。内番は少ない人数で回さなければならなかったため兼務も多かったし、厨当番についてはきっと察して頂けよう。陸奥守は料理が下手ではないのだが、鳴狐が当番だと油揚げのフルコースだった。
     ……美味しいけども。油揚げ。

     そんな俺は『へし切長谷部』としてはとても標準的な個体だった。過去形にしているのは、先日長谷部に『亜種』疑惑を持たれてしまったからなのだが。確かに、あの長谷部から見る俺は少し奇異に映るのだろうな、という自覚はある。
     だが、俺だって最初からこんな風だったわけではない。立場的に他の刀に世話を焼くことは多かったが競争心はあったし、今でも常に俺が主の一番でありたいとも思っている。
     思っている、が、そんな俺の個人的心情よりも大切にしたいことがあると、そう気付いただけのことだ。



     本丸開設から3ヶ月ほど経った頃の話だ。
     主は審神者としての才覚や霊力の量や質などは凡庸ではあったが、適材適所をもって集団をまとめあげ、本丸を運営することには長けた人だった。
     そんな主の頑張りもあり、その頃には本丸に三日月宗近といったレアと言われる太刀を筆頭に、続々と刀が揃い始めていた。
     江戸城などのイベントにも参加する余裕が生まれ、政府が新規実装した刀も増え、俺は少し焦っていた。

     そんな俺に主がお気付きになっていたのか、そうでないのかは分からない。が、検非違使が現れた戦場が増えてきたため、部隊の練度を揃えるために俺や古参の刀の出陣は減らされていて、唯一本体を握る機会があるのは演練か、手合わせの時くらいだった。
     そんなこんなで演練部隊に毎日のように組み込まれたあの頃の俺は、今の長谷部のように演練場で他の刀剣と交流を持つことはなかった。
     ……とある本丸の、宗三左文字を除いては。

     その宗三は少し変わったヤツだった。何というか、宗三左文字特有の、籠の鳥を嘆く感が無い。といって開放的なわけでもない。気だるさと皮肉な物言いは変わらず、しかしどこか、いつも何か楽しんでいる風情のあるヤツだった。
     俺が休憩中に一人で自販機の前で缶コーヒーを啜っているうちにいつの間にか隣に立っていて、第一声は確か、
    「お小夜がね、初めてだったんです」
    だった。正直、俺に話しかけられているとは気付かなかった。
    「……演練のことですよ」
     青江の真似か。と脳内で突っ込んで初めて、どうやら宗三が話しかけている相手が俺であるらしいことに気づいた。
    「その演練でね、どこぞの『へし切長谷部』が部隊長をやっているところと当たりまして。陣形も悪かったんですけど、真っ先に突っ込んできて斬られてしまったんですよ」
     そういえば今日あたった五戦、その全てに小夜左文字が居たことを思い出した俺は、そのうちの一戦にでもこの宗三の弟が居たのかも知れないと思い、
    「それはすまんことをしたな」
    「貴方ではないですね」
    とりあえず謝罪をしてみれば、この対応である。
    「何なんだ貴様」
    「ただの八つ当たりです。あのへし切勝利際に口角を上げたので、ちょっと腹が立っていたもので、つい」
    「というか『へし切長谷部』の見分けなど貴様につくのか」
    「つきますよ。あなたがたは結構わかりやすい刀ですから、一本一本全く表情が違います」
    「まじか」
     ああ僕も何か飲みたいです、おごってください。いやだ。けちですね、僕の弟を傷つけたくせに。俺ではないのだろう。『へし切長谷部』には違いありません。
     そんなやり取りをしているうちに、
    「兄様、加州が呼んでる」
    「おや、もうそんな時間ですか」
    弟が迎えに来たそいつは、特に俺との会話を名残惜しむでも無くあっさりと背を向けた。ぺこり、と兄の代わりに頭を下げる良くできた短刀にひらりと手を振って、俺も空になった缶をくずかごに入れた。何となくそのままもう一度自販機に向き合ってコインを入れて、ボタンを押して、買った缶コーヒーをうちの宗三にやれば、ものすごく奇異なモノを見る目を向けられてしまった……お前だって『宗三左文字』だろうに。

     その宗三はそれから、何故か俺が自販機前で休憩を取っているとよくやって来るようになった。
     初めて会ったとき同様に唐突に自分の好きなように話を始めて飲み物を奢れとせびり、他の演練メンバーが迎えに来ればあっけなく去っていく。
     そんな間柄だったから互いの連絡先交換なんてしていなかったが、そのうちに会話の流れから主同士が交流を持ち始めたことは知った。
    「結婚することになりました」
    「そうか、おめでとう」
    「僕ではありません。うちの主です」
    「そうか、おめでとう」
    「ちなみに、できちゃった婚です」
    「そうか、おめでとう?」
    「なんでそこは疑問符」
    「いや、お前たちからしたら相手の男、斬り殺したいくらいなんじゃないかと」
    「僕は別に、でも、そうですね。こちらの長谷部はそれなりに荒れてますよ」
     そうだろうなぁ、と自分の缶コーヒーを持つ手とは反対の手で、懐に入れていたコインを自販機にねじ込む。好きなの選んでボタン押せ、と宗三に促せば、いつもの涼しげな顔がほんの少しだけ驚きに動いた。
    「いいんですか」
    「は、何を今更。どうせそちらの長谷部が世話をかけてることを口実に、たかるつもりだったんだろう」
    「その通りですが、進んで奢ってもらうのは気持ち悪いですね」
     ですがありがたく頂きます。そう言って宗三が選んだのは、ストレートティだった。ペットボトルのふたを苦もなく華奢な手で回し空け、ぐいと煽る。
    「意外だな」
    「何がです」
    「傾国の刀が、自販機の飲み物なんか口にするのか」
    「僕だって、他刀からの厚意を無にするほど無粋な輩ではないつもりです」
     それからは互いに無言のままで、ごちそうさまでした、と宗三は飲みかけのペットボトルを手にしたまま、迎えに来た薬研と共に立ち去って行った。

     その数週間後にはうちの主が宗三の主の結婚式に呼ばれて、それ以降宗三たちはあまり演練に顔を出さなくなった。
     新婚生活と本丸の両立が大変らしい、という話を、主が執務室で漏らしていたことがある。おまけに子どもまで生まれれば、審神者などしている場合では無くなるかも知れない、と。

    「生まれました」
    「そうか、おめでとう」
    「僕ではありません、主の子です」
    「当たり前だ、分かっている」
     案の定、宗三の主はしばらく審神者行を産休していたらしい。その間本丸は、初期刀と近侍を中心になんとか回していたらしく、久々に演練に出てきた宗三の顔には疲れが滲んでいた。
    「赤疲労一歩手前の顔だな」
    「……子どもは本当に大変です」
     ただでさえ撫で肩なのに、さらに落ちた肩になっている宗三に、ストレートティを買って封を切ってから手渡してやる。
     礼を言いつつ受け取った宗三は、それから一息に中身を半分ほど減らし、
    「ねえ長谷部。僕は別に、子ども好きなわけじゃないんですよ」
    言う。
    「そうだろうな」
    「お小夜は兄弟だから特別です。他の短刀たちも、彼らは子どもの姿に引きずられがちですが、それでもやはり人じゃない、付喪神なんです」
    「知っている」
    「……長谷部」
    「なんだ」
     淡々と受け答えていると、宗三は天を仰いだ。大きなため息が、折れそうな首を通り抜けて声帯を掠める音がした。
    「僕たちも、人と交われば子を成すんでしょうか」
    「なんだ、欲しいのか?」
    「いいえまったく」
     そんな風に思える人間とも出会ってませんし、と即答される。
    「政府が研究してるとは思うが、どうだろうな。
     というか、本丸で子育てしてるのか? 大丈夫なのか、子どもは」
    「神気云々なら知りません。
     ですが『神気に長時間触れて充てられてしまうようなら、人が審神者になどなれるわけないでしょう』と主は言ってます」
    「言われてみれば」
    「そもそも僕たち付喪神は、人の信仰心より生まれしものですしね」
     言いながら宗三は首を戻し、ペットボトルの残りをゆっくり飲みきると、色の違う左右の目の焦点を俺に合わせた。戦時以外はいつも気だるそうな目は、今日も力が抜けていて、何を考えているのか分からない。
    「ごちそうさまでした」
    「おそまつさまでした」
    「またしばらく来れないと思いますけど、僕がいないからって泣かないでくださいよ」
    「誰が泣くか」
     それこそ、迷子の子どもでもあるまいし。遠ざかる背に呟けば、
    「そんな可愛くないこと言ってると、もうかまってあげませんからね」
    聞こえていたらしい。ヒラヒラ薄い手のひらを振りながらそんなことを言って、迎えが来る前に立ち去ってしまった。



     今あの時のアイツに会えたなら、「フラグを立てるのはよせ」と言ってやっただろう。それで何が変わるわけではない――いや、もしかしたらそんな些細なことでも、未来は変わったのだろうか。
     つまり、それから俺はアイツにかまってもらってない。もうかまってもらえない。

     宗三の本丸は、歴史修正主義者の襲撃を受けた。




    へし切と油揚げと、はぐー
    「なるほど、そんなことがあったんですね」
     はぐー、などと言いながら油揚げを食みつつ、こんのすけが相槌を打つ。
     夕餉の片付けも終わった厨の片隅、なう。この春新しく赴任してきたばかりのクダギツネ相手に、俺は思い出話をしていたわけである。
    「その宗三様の本丸は、結局解体されたのですか?」
    「そのようだ。俺も詳しいことは知らんが、どうやら宗三の主の夫が、元々あちら――歴史修正主義者側の人間だったらしくてな。
     それが、宗三の主に出会ってから心変わりして、あちらを抜けて匿われていたらしいんだが、裏切り者が許されるわけもないよな」
    「なんと」
    「救いのない話だろう?」
     ああ、本当に。
     呟きながら、自分も出汁(燭台切特製の作り置きを拝借した。後で礼をしておこう)で煮た油揚げを箸で割き、摘まみあげて口に運ぶ。ついでに手酌で、湯呑に日本号に貰った日本酒を足してあおり、
    「「うんまい!」」
    狐と声を揃えて遊んでみたりする。
    「意外です。長谷部様がお料理できたなんて」
    「……そういえばお前には言って無かったな。俺のことは『へし切』と呼べ。もう一振りの方を『長谷部』と呼んで区別している。
     言ったはずだ、俺は古参刀だから、そうならざるを得なかったんだ」
     ほれもう一枚、と狐に油揚げを差し出す。目を細めてぱくりと食む様子は、ちょっとクセになりそうだ。猫に餌付けする大倶利伽羅と長谷部の気持ちが、少し分かる気がする。
     湿っぽい思い出話だが、ただでさえ湿気の多い雨の夜、雰囲気までじとじとする必要などない。

     そもそも何故こんのすけにこんな話をしてるか。
     ちょっと雨のせいでしんとした胸の内を何かで補いたくて、酒瓶片手に厨に来てみたら油揚げしか冷蔵庫に無かった。それを適当に煮ているところへ、匂いを嗅ぎつけたこの狐が現れた、というわけである。
    「それで、長谷部様はそれを二振り目様にお話しするんですか?」
    「『へし切』と呼べ、と言ったはずだぞ。
     ……いや、こんな話進んで聞かせたいものじゃないだろう」
    「今二振り目様はいらっしゃいませんから。というか、こんのすけには聞かせてもいいんですか」
    「油揚げやったんだから、ちょっとした愚痴くらい聞いてけ」
     全然ちょっとしてないんですが、などと、こんのすけが耳を垂らす。なんだ、俺に同情でもしたのか。頭の毛並みに手を伸ばして、適当にもしゃりと掻き回してやれば、しゅんとした顔が上がる。
    「俺たちはもともと、戦をしているんだぞ。戦いの中にあれば、当然その中で死ぬこともある。別にな、俺は宗三が折れたことが悲しいわけじゃないんだ。
     なんていうかな、こう――」
    「寂しい?」
    「それも違う。いやすまん、語弊があるな。寂しくないわけでも、悲しくないわけでもない。
     ただそれと同時に、俺は主たちが何と戦っているのか、それがどういうことなのかを、何も知らなかったんだなと思ったんだ」
     今までに、あの男が没した本能寺に赴いたこともあった。甘酒ヤケ飲みする懐刀が落ち込んでいる姿も見た。正三位の槍ともそれなりに喧嘩した。それで少しは何か分かった気になっていたけど、まだまだだった。
     子ども好きではない、と言っていた宗三の目に何が浮かんでいたのか、とか。そのあと天を仰いで落とした言葉に、何が込められていたのか、とか。
     少し変わった傾国の刀の付喪神が、人の子に何を見たのか。俺には分からないながら、ただ演練場にある自販機の前でいつものように缶コーヒーを片手に、誰も来ないので暇だからつい思いに耽って、それでふとそう思った。
    「それから、俺は主のためになることなら何だってやろうと思った。いや、それまでだってそうは思ってたんだが、それよりももっと何だってやろうと思ったんだ。
     そのためには、俺や初期刀や古参連中が近侍をこなしたり練度を上げて上手く本丸が回ればいいというものじゃない。仲間の誰かが欠けるのは最も避けたいことだが、仮に誰かが欠けたとしても、すぐにそれを補えるようにしておかなければならない。
     戦以外のことだって、人の身を得た俺たちには大事なことだ。俺たちにも感情はある。感情は士気に影響する。この本丸や仲間を守りたい気持ちは主を守りたい気持ちに繋がり、それは主が守ろうとしている『人の子の未来を守ること』に繋がる」
    「それで、今のような立ち位置に」
     けれどそれでは、お辛いのでは。そういうこんのすけに、頭を振る。揺れる視界に脳がくらり、ときた。ちょっと酒が回って来ただろうか。
    「俺とて聖人君子ではないから、まぁ時々主命が一番に頂けなくてイライラすることが無いとは言わん。が、いいんだ」
    「……せめて修行には、出られないのですか」
    「俺には必要無い。過去なんて精算したくはないし、道具の数も揃ってない。
     この間、脇差あたりをそろそろ極めたらどうかと、主には進言しておいた……が、一振りくらい打刀の極も居た方がいいか。
     ……そういえば、長谷部はそろそろギリギリ出立できる練度になるな」
     あいつを極にして様子を見るのはありだな、などと思考を巡らせていたら、
    「あ、厨の電気がついてると思ったら! もう、だめだよへし切君、明日の味噌汁の油揚げだったのに」
    厨に棲むというオサフネ科ミツタダ目のヌシ――もとい燭台切が現れてしまった。
    「全部は使ってない。これだけ残ってれば間に合うだろ」
    「そうだけど。夜食は身体に良くないよ……あ、お酒まで飲んでる」
    「お前も一杯どうだ」
    「遠慮しとく。一声かけてくれたら、せめて体にいいものを作ったのに」
     言いながらも世話焼き上手の刀のこと、さっさと空の皿と湯呑を取り上げて流しへ運んでいる。
    「洗っておくから、もう君たちは部屋に戻りなさい」
    「ええー」
    「はぐー」
    「え、僕の聞き間違い? 今鳴いたの長谷部君?」
    「『へし切』」
    「あ、ごめんつい」
     本当は両方長谷部君って呼びたいんだけどなぁ、なんて呟きは俺には聴こえないことにしておく。燭台切の分厚い手のひらが薄い平皿を洗うのを、肩越しに覗き込む。
    「へし切君、じゃま」
    「はぐー」
    「酔ってるでしょ、君。酒臭いよ」
    「冷たいな。長谷部のことは気にかけてやってるくせに」
    「それは君が僕に、そう頼んできたからでしょ」
    「頼まれなくてもお前は気にかけてやっただろう」
    「……まあ、ね」
     ほっとけない部分はあるし、ともごもご言いながら、燭台切は洗い終わった皿を水きりに立てかける。それを見届けて俺は、こんのすけを抱き上げた。
    「はぐー」
    「はぐー」
    「いやへし切君、かわいくないからね」
    「つまらないな」
    「かわいいと思ってやってたなら、ちょっとむかつくかな」
    「カッコいいと思って言ってるなら、ちょっとむかつくぞ」
    「だってカッコイイでしょう、僕。夜中に酔っ払いの相手と、後片付けまでしてあげたんだから」
    「ああ、カッコいい。カッコいいから、明日の朝飯の卵焼き甘めにしてくれ」
    「はいはい、もう、仕方ないなぁ」
     そうやって味の注文までしてくれるようになったのは、嬉しいことだけどね。なんて小さな呟きとともに燭台切が厨の灯りを消して、揃って廊下に出る。消灯時間を過ぎた廊下は板も冷えて暗くて静かだが、ここへ来るときのようなしんとした感じはしなかった。
    「へし切君」
    「なんだ?」
     俺と燭台切の部屋は反対側だ。持って来ていた行燈に火を入れ向き直れば、同じように火を入れた行燈に照らされた燭台切の目が静かに緩んでいた。
    「お水きちんと飲むんだよ。おやすみ」
    「おやすみ」
     今夜はよく眠れそうだ。


     ――で。
    「……寝過ごした……」
     頭を抱えた。枕元にあったスマートフォンのアラームは無意識のうちに止めていたようだ。二日酔いでないのが幸いか。
     昨日一日淡々と降っていた雨は上がり、今日は梅雨の中休みなのだろう。暑くなりそうだ。
     寝過ごしたと言っても、30分程度だ。もともと早起きな方なので、朝餉の席には十分間に合う。
     何となく習慣でLINEのチェックをして、長谷部がグループメンバーから消えていなかったことに少しホッとした。多分、操作のしかたがまだよく分かっていないだけだろうが。
     布団を畳んで片付けて、内番服に着替えて洗面所へ向かえば、その長谷部がカッチリとカソックまで着込んで歌仙と何か話していた。
     ところどころ漏れ聞こえてくる内容からして、どうやら内番の話らしい。馬当番を受け持つはずの次郎太刀が二日酔いで動けないため、歌仙に代わりを頼んでいるようだ。
     雅を尊ぶ歌仙は、馬当番をことのほか厭う節がある。どうなることか、いざとなったら俺が――と思いながら見ていたが、案外あっさりと話はついたようだ。
     歌仙の、「君が雅の分かる男で良かった」だの「今度万屋へ一緒に行こう。君となら、きっといい買い物ができる」だのという上機嫌な言葉が聞こえてくるあたり、きっと歌仙兼定の性質をうまく利用して交渉したのだろう。
     長谷部は、ああいうところは本当に器用に立ち回る。まるで『へし切長谷部』のやらかしそうなことをあらかじめ知っておいた上で、避けているかのように。
     だがそのせいで、本来の『へし切長谷部』が成長の段階で経験して然るべき部分をすっ飛ばしている。いいことなのか悪いことなのか、俺には判断しかねるが、少なくとも日本号たちは気にかけている。

     アイツは『二振り目』であることを気にしているから、それだけ主の役に立とうと必死なのだろう。



     そもそも、何故あえて『二振り目』として顕現されたのかも分からないのだから無理もあるまい、か。



    長谷部とへし切と左文字兄弟
    「お兄さん! 小夜君を僕に下さいっ!」
    「僕はあなたの兄ではありません。だめです。どうしても欲しいのなら、僕を倒してからいきなさい」
     ……なんだこの状況。俺は呆気に取られていた。

     今日は全員非番と定められた日の、昼餉の後のことである。久々に大人数で揃って食事を摂って、さて午後からは何をするかと考えつつ廊下を歩いていたら、突然そんな声が聞こえてきた。
     見ればそこは宗三の部屋。開きかけた障子の向こうには、秋田籐四郎がこちらに尻を向けて土下座していた。
     その向かいには、相変わらずどこかしんなりとした姿勢の宗三が正座していて、その隣で驚いた猫が毛を逆立てたような小夜が立っている。
      見開かれた三白眼は、あれ驚きで瞳孔開いてるな。
     長兄の江雪は、そんな様子に目もくれずに文机に向かっていた。パッと見た感じ、和睦できるか微妙な場面だぞ。いいのか割って入らなくて。
    「そんな……! で、できません」
    「ではこの部屋からさっさと出て行ってください。これから小夜は僕たちとお昼寝の時間です」
    「で、でも……僕は小夜君でないと……」
     がばっと顔を上げた秋田の目はこちらからは見えないが、水気を含んでるに違いない。でも俺には見えている――後ろ手に秋田が、目薬を持っているのが。
    「あなたにはたくさん、他に兄弟がいるでしょう。僕たちには、お小夜しかいないんですよ」
    「それでも、僕はどうしても小夜君がいいんですっ」
    「……だ、そうです。お小夜。あなたはどうなんです?」
    「兄様」
    「あなたが選びなさい。僕たち兄弟を取るのか、それともこの、泥棒猫めにさらわれるのか。あなたの決めたことなら仕方ありません、僕も止めませんよ」
     リアルで泥棒猫なんて言葉を聞く羽目なるなんて、思わなかった。
    「僕は……」
     話を振られた小夜が、少し俯く。視線が左右に彷徨って、口が開いて、閉じて。ようやく焦点が定まった目が、すぐ隣で黙って見守っていた兄を見上げて、
    「ごめん兄様、僕、秋田についていく」
    そう答えた。秋田の喜色が、背中からでも伝わってくる。
     宗三は軽くため息を吐くと、細い眉を下げた。口元には小さな笑みが見える。
    「そうですか……わかりました。もう何も言いません」
    「あ、ありがとうございます……宗三さんっ!」
     ちなみに江雪は、何やら満足気に頷きながら筆を走らせていた。何を書いてるかなど言うまでもなく『和睦』の二文字だろう。
    「大切にして下さいね。泣かせたりしたら、僕たちが許しませんから」
    「……僕、泣かないよ……」
    「もちろんです! 行こう、小夜君」
     秋田の伸ばした手を小夜が取って、揃って二人廊下へ飛び出てくる。俺の姿を見て目を丸くして、ぺこりと一つ会釈だけしてそのまま走って行ってしまった。
     しまった。廊下を走るな、と言い損ねた。
    「覗き見とは感心しませんね」
     二人の背を見送っていると、室内から宗三に声をかけられた。先ほど弟に向けてかけられていたものよりもひんやりとしている。確かに褒められたことではなかったな、と思いつつ、障子の前にとりあえず正座する。
    「悪かったな。喧嘩しているようなら止めようかと」
    「そうですか」
     僕たちに用があったんではないのですね、という宗三は、座布団を一枚出してきた。ちょいちょい、と手招きされたので、そっと室内に踏み入る。
     ほんのり薫るのは、香でも炊いたのか。
    「兄様も一緒に、お茶しませんか」
    「淹れてきましょう」
     いつものゆったりした口調で江雪が言って、音も立てずに部屋を出て行った。宗三は宗三で、箪笥の引き出しから茶菓子を出して、懐紙の上に三人分取り分けている。
    「それにしても驚いたな。秋田と小夜はそういう仲だったのか」
     なんとなく何もせず沈黙の中をじっとしているのが居心地悪く、そういえばと先ほどから気になっていることを口にしてみれば、
    「……ああ、あれはね。オニゴッコのお誘いですよ」
    けろりとした様子で、宗三は答えたのだった。

    「『第5回オニゴッコ大会(へし切杯)』??」
    「ええ」
     江雪左文字の淹れた茶は、とてもうまかった。宗三の茶菓子もきっと良いところから取り寄せたものだろう。舌鼓を打ちつつ先ほどの事情を聞いていた俺は、宗三から差し出された妙なちらしを見て茶を噴きそうになった。
     へし切杯ということは、また一振り目のヤツか! しかも第5回!? もう5回も開催されていて、俺は気づかなかったのか!?
    「……連絡掲示板にも貼り出されてたでしょうに、見なかったんですか?」
    「見なかった。というかあの掲示板、内番の当番表や出陣・遠征表以外は妙なサークル勧誘ばかりじゃないか……」
    「妙なものばかりじゃありませんから、今度からときどき目を通すようにしなさいな。ちなみに僕の所属しているサークルも、サークル員募集中です」
    「一応聞いてみるが、何のサークルだ」
    「魔王研究会」
    「正気か貴様!?」
    「別に第六天魔王だけが対象じゃありませんよ。第一天~六天まで、すべての魔王の存在について考察してますし、外つ国の伝承にも魔王はいますから」
    「正気か貴様!!?」
    「二度繰り返すほど衝撃でしたか……冗談ですよ、ただの園芸部です」
     どうぞ、と江雪が湯呑に茶を注ぎ足してくれる。礼を言いながらそれを口に含んで、大きく息を吐いた。
    「サークルの活動はさておき、なんだ『へし切杯』というのは」
    「ハイではありません、カップです」
    「心底どうでもいい」
     とりあえず一振り目が絡んでいるなら、ろくなことではないだろう。
    「まずこの『オニゴッコ』はただの『オニゴッコ』ではありません。二人一組のチーム制なんです」
     江雪が宗三の湯呑にも茶を注ぎつつ、ゆったりと口を開いた。なるほど、それで秋田は小夜を誘いに来たということか。
    「ルールは単純に、へし切をつかまえることです」
    「え」
    「そんなの極短刀なら簡単だろうって今思ったでしょう? これがね、案外捕まらないんですよあの男」
     ありがとうございます、と兄に礼を言いながら茶で口を湿らせて、宗三が吐息を混ぜて言う。
    「あなた自身もそうですが、『へし切長谷部』という打刀は機動に特化してますよね」
    「それはそうだが、全力の極短刀相手に勝てるとは思えないぞ」
    「その通りです。が、相手はあのへし切です。あなたに説教を喰らう率が鶴丸に続いてNo.2の、あの、へし切です」
     ああ、何となく察したかも。
    「この本丸には僕たちが知らないだけで、抜け穴や隠し通路、隠し扉、隠し階段などがいっぱい作られてるんです。ついでに最近では、忍者屋敷のようなカラクリの罠にまで手を出そうとしてるらしいですよ」
    「ちょっと待て」
    「なんでも、『いつ歴史修正主義者が奇襲をかけてきてもいいように』と」
    「政府の技術によって本丸の座標は暗号化されているし、主の結界があるのに、そんなことあるわけないだろう」
     よくもまあそんな言い訳が思いついたものだ。というか改造経費はどうなってるんだ。帳簿に使途不明金は無かったはずだが……。
     もし計上項目を偽装して経費で落としてたら額をしっかり計算した上で、私費で返すよう請求してやる。そんなことを考えて拳を握る俺の横で、宗三は首をゆっくりと振った。
    「まったくありえないことではないんですけどね。ちなみに、参加資格は刀種に関わらず誰にでもありますよ」
    「俺は出ないぞ」
    「そうですか、残念です。褒章は主から出るそうですけど」
    「……まさか……そんな妙な催しに、主が許可を出したのか?」
    「ええ」
     主公認のイベントとなると、考え込んでしまう。
     つまり主は、一振り目が本丸に手を入れていることを知っていて、その理由も是としているのだろうか。であるなら、俺は近侍としてそれに参加して見極め、実情を報告する義務があるのでは……。
     しかしもう5回も開催されているイベントである。いきなり今回参加しても、本丸の構造を熟知しているであろう一振り目と、参加常連の極短刀に敵うわけもない。
    「どのみち、今回の参加申し込みは、つい2分前に締め切られたでしょうけどね」
    「それなら焚き付けるようなことを言うな」
    「知っておけば、次回には参加できるでしょう?」
     それはそうだ。というか、
    「……見学とか」
    「できるもなにも、本丸内を駆け回ってますからね。『へし切を追いながら、長谷部に見つからないようにするのは、かなり頭も使う』と薬研は言ってましたっけ」
    「アイツも参加してるのか……」
    「ちなみに、参加費などの会計は博多がやってます。
     ……と、兄様そろそろ開会の時間です」
    「カメラの準備はできてます」
     柱にかかっていた時計を見上げ、左文字の二人の兄が立ち上がる。江雪の手には一眼レフ。被写体は言うまでもないのだろう。
    「では、行きますよ」
    「俺もか」
    「ええ。こそこそされるより、いっそどんなものなのか見定めてしまった方がいいでしょう」
     それもそうか、とも思うが、
    「いや、やはり俺はやめておく。アイツらが俺の目から逃れるのも込みでやっているのなら、その方がいいだろう」
     それに俺としても、その方が都合がいい。どんな感じで大会が進行するのか、アイツらに気づかれることなく探ることができる。
     そうすればもし、次回以降の大会に参加した場合、かなりアドバンテージをとることができるというものだ。
     おそらく俺のそんな目論見を感じ取ったのだろう。宗三はあっさりと引き下がった。というより、
    「ほら兄様、急いでください。今日はお小夜が、開会宣言するんですよ」
    「分かっています」
    もはや末弟の勇姿をカメラに納めることしか頭になさそうだ。
    「……ん?」
     ちょっと待て。お小夜が開会宣言? あらかじめ宗三がそれを知っていたということは……。
    「兄弟仲良く昼寝するんじゃなかったのか」
    「ああ、だから先ほどのあれは一種の形式美ですよ。へし切が流行らせてるみたいですよ、ああいう小芝居」
    「……時間がありませんよ」
    「ええ、行きましょう」
     普段の3割増しの速度で先を歩く長兄を追って、宗三も背を向ける。しかし数歩進んだかと思えばこちらを振り返り、
    「次回もし長谷部が出るなら、お小夜を貸してあげてもいいですよ。あなた相方とか探せなさそうですし」
    しれっと、そんなことを言う。
    「……秋田が気の毒だろう」
    「可愛いお小夜を取り合う小芝居でも見せてください。
     というより、秋田は他の兄弟と組めるのをわざわざ小夜と組んでくれてるんですよ。
     第3回大会では、包丁と組んでましたし。小夜も、最初は同田貫とよく組んでました」
    「ほう……って、ちょっと待て!?」
    「あ、すみません、その茶道具片付けといてください」
    「あ、おい!」
     行ってしまった。慌ただしいことこの上ない。
     取り残された俺は、仕方なしに空になった急須と湯飲みを盆に乗せ、厨へ向かった。





    長谷部とへし切と三日月茶会
     三日月宗近といえば、誰しもが認める美しい刀だ。
     天下五剣の一振り。瞳に月を抱く太刀。平安刀らしく物腰も話し方も常に穏やかで、自身を『爺』などと称す余裕すらもある。
     そしてひとたび戦場に出れば、狩衣を模した装束を翻し、艶やかに舞うよう敵を屠る強さもある。

    「ほら長谷部や、団子だぞ」
    「……ああ」
    「どうした、団子は苦手か?
     ……ああ、戦で食べ飽きたのか。だがこの団子は戦の時に食べる疲労回復の団子とは違うぞ。峠にある茶屋から取り寄せたものだ。
     あの茶屋はいい。看板娘もたいそう美人だ。今度一緒に行こう」
    「機会があればな」
     その三日月宗近に茶に誘われた。というか三条部屋に拉致された、なう。そんな風に博多へラインに送れば、激励のスタンプだけ返って来た。助けてくれるつもりはないらしい。
     今剣と岩融は遠征中、石切丸は青江と祈祷。山姥切の言葉を借りるなら、黙っていてもキラキラとした粉でも撒き散らしていそうな刀と二人きりで、茶と菓子を振る舞われている。

     ……正直、少し息苦しい。苦手ではないが、そこまで付き合いの無かった刀と、戦場でもなく伝達することや用件もないのに、俺は何をしているんだ。

     以前から噂には聞いていたのだ。うちの本丸の三日月宗近は、新入りがあれば必ず自室へ招き、対面で茶を飲むのだと。
     数か月前にようやく大阪城から連れ帰ることができた毛利や包丁も、本丸に馴染んだ頃に天下五剣の茶を飲んだと言っていた。信濃と包丁に至っては、
    「あの人の懐、あったかくて気持ち良くて」
    「人妻みたいないい匂いがした……」
    と恍惚としていたらしい。
     そういえば信濃や包丁に限らず、粟田口の小さい連中は、割と三日月に懐いている気がする。
     ともあれ、俺は新入りというほど最近顕現されたわけでもないし、何よりも二振り目だ。一振り目の『へし切長谷部』とは既に茶を飲んでるはずで、だから俺はわざわざ呼ばれなかったと解釈していたんだが。
    「……やっと、お前と茶を飲めたな」
    などとしみじみ言われてしまうと、何か事情があって今になってしまった、だけなのだろうか。

     別に、三日月の茶に呼ばれなかったからといって、今まで気に病んだことは……それはまぁ、まったく何も感じなかったわけでもないが、そんなものだろうとも思っていた。ので、病んではいなかった。
     全ての銘の刀と一通りふれあい特色をつかみ、それを戦場で活かす。それだけなら、効率的だとむしろ評価できる。中身こそ少し変わってはいるが、一振り目の『へし切長谷部』は戦場では紛うことなく強い。らしい。同じ刀は共に戦場には出られないらしいので、聞き及ぶだけだが。
     そもそも練度的に、俺は三日月と戦場を駆けることはありえない。
     早々にカンストしたらしい天下五剣は今や隠居で、たまに他のカンスト組や極の連中と演練や、新しい戦場の視察に赴く程度。対して俺は、稀に演練に出ることもあるがカンスト連中とは組まないし、まだ中堅の連中と組んでレベリング出陣だ。
     同じくカンストしている一振り目と戦場に出るのだから、アイツのことだけ把握してれば十分なのだろうに。
    「別に、俺でなくとも一振り目と飲めばいいだろう」
    「へし切か。あやつは中々捕まらん」
     ぽつりと呟いた言葉に、不貞腐れたような言葉が返された。
    「一度、顕現直後に誘ってみたんだが、『俺はお前と茶を飲める立場にはない』とか、妙な理由で断られた」
    「は。さすが、古参の元近侍殿は天下五剣の誘いすらも袖にするか」
     俺の顕現前のアイツがどんなだったか、実は俺は全く知らなかった。だがこうして聞いてみれば、案外アイツも『へし切長谷部』として色々やらかしてるっぽいな。
     その点、俺は決して周囲にそういう不快さを与えるような真似はしていない。はずだ。
    「……あやつのあの言い方は、そういう感じの物言いではなく、むしろ逆の……いやそもそも共に茶を飲むのに、立場も何もあるまいよ」
     まぶたを少し伏せて三日月が言う。長いまつ毛の下に、微かに煙るような月が見え隠れしているのに、つい視線が吸い寄せられそうだ。
    「結局、へし切とは茶を飲めぬままでな。長谷部も多忙なようだし、中々声をかける隙がなくて、どうしたものかと思っていたのだが。やあ、こうして機会が持てて本当に良かった」
    「そ、そうか」
     にっこり笑いかけてくる三日月の表情は、純粋に喜んでいるようにしか見えない。
     それがどうにもこそばゆくて、つい手元の茶を飲むふりをして顔を隠す。
     あ、うまい。鶯丸の淹れる茶の次にうまい。菓子もさすが、わざわざ取り寄せただけのことはある。味わう余裕が出てきた途端、思わず肩から力が抜けた。ほう、と息を吐くと、『爺』を気取る刀は「よきかな」と満足そうに自身も茶を啜った。
    「そういえば、何か相談があると言っていたが」
    「おお、そうであった」
     まぁ半分は茶に誘うための口実だったのだろう。だが実際に相談事自体もあったらしい。湯呑みを置いた三日月は、おもむろに懐へと手を差し入れ、
    「これなのだがな」
    取り出されたものに、俺は思わず目を見開いてしまった。
    「手紙?」
    「うむ」
    「誰から」
    「それが分からんのだ」
     とりあえず差し出された手紙を受け取り、ひらりと裏返してみる。白い封筒には何も書かれていないし、特に妙な点も見受けられない。
    「中を見ても?」
    「かまわん」
     封は既に切られている。三日月はあらかじめ中身を改めているのだろう。封筒同様に、真っ白な紙が一枚。A4の普通紙である。
     恋文にしてはあまりに風情がない。ならば伝達文か。そう思って開いた俺の目に飛び込んできたのは、
    『シウトデユウ クラユコオクシウ トコシウククアウレウ』
    「……ふっかつのじゅもん?」
    「試したが違った」
    「試したのか」
     獅子王がDQ2のカセットを持っていてな、なんて、さらっと言ってるが、アレ本体ともにかなり希少価値のある骨董品じゃないか?
     紙に透かしもないあたり、やはりこの文字列に何らかの意味があるのだろう。暗号ならば、解読する必要があるだろう。が、
    「そもそも、この手紙はどうやって手に入れた?」
    「演練に出た日、気が付いたら懐にねじ込まれていた。多分、戦いの合間にすれ違った誰かだろう。俺ではない三日月宗近に渡すつもりで、 違えたのではないか」
    「お前自身に心当たりはないのだな。いつの演練だ」
    「……年寄りは忘れっぽくてなぁ」
     はっはっは、などと朗らかに笑っているが、忘れるくらいには前の出来事なのは分かった。後で演練の記録を当たってみることにする。
    「問題は、これが本来は誰に宛てられたもので、何が書かれているのかということだが」
     すぐには解読ができそうにない。預かってもいいか、と尋ねれば、あっさり了承された。
     紙を畳み直して封筒に戻し、カマーバンドに挟んでおく。残りの茶を啜っているうちに、独特の通知音が響いた。自分の端末かと思い取り出してみたが、
    「すまん、俺のだ」
    三日月のモノのようだ。って、
    「……スマホ?」
    「いかにも、すまほだ」
    「天下五剣の三日月宗近が?」
    「爺だからといって、新しいものに興味が無いわけではないぞ」
     遠回しな物言いをしてしまったが、言いたいことは伝わってしまったらしい。
     寛容に笑いつつ、手紙と同様に懐から取り出したのは、まさかのリンゴマーク付き最新機種。
    「おお、別本丸の俺からだ。ふむ……」
     ツラツラと文面を追うように、目の中の三日月が動く。意外と長文のようだ。やがて読み進めるにつれ、笑みを絶やしたことのない三日月の顔から表情が消えた。
    「三日月」
    「……すまぬ、長谷部。急用ができた」
     声をかけた瞬間に、三日月はスマートフォンを懐へしまった。向けられた顔には、また普段通りの笑みが戻っている。
    「今日は爺の茶に付き合ってくれて、ありがとう。楽しかったぞ。また手隙の際には呼ばれてやってくれ」
    「あ、ああ……」
    「手紙の件、くれぐれもよろしく頼む。
     ああ、残った茶菓子は、お前さえ良ければ持ち帰ってくれ。ではな」
     そうして三日月宗近は、足早に廊下を歩いて行ってしまった。残された俺は、お言葉に甘えて残った茶菓子を懐紙に包んで退室した。

    「手紙?」
    「そうだ」
    「演練のときに、懐に入れられたと?」
    「そうらしい。このひと月ほど、三日月の出ていた演練についての記録が欲しい」
    「それはかまわんけど……」
     三日月の部屋を退室した後、その足で向かった資料室には博多籐四郎が居た。鼻歌混じりに脚立に上り、棚の上の方にある帳簿を手にしている。主のパソコンへ入力する前に、中身を改めているのだろう。
     紙として保存されているこれらの資料をデジタル化しようと言い出したのは、一振り目だ。古参本丸ではないとはいえ、成立から溜まり始めた紙の束は、それなりの量になってこの部屋に押し込められていた。
     ……確かに、今日のように何か参照したい資料があるときに、この紙束の中から探し出すのはメンドクサイ。
     作業を手伝いがてら、三日月茶会で預かった手紙を見せれば、博多も首を傾げた。
    「あーこりゃすぐには解読できんね。
     差出人は……へし切ならもしかして何か知ってるんじゃなか?」
    「確かに、アイツもカンスト組としてよく演練に出向いてはいるな」
    「それに意外と付き合い広いけん、他の本丸の刀のことも、よう知っとうよ」
    「そうなのか」
     あった、これたい。助かる、礼は今度また改めてする。言いながら手渡された演練の資料を受け取り、ついでに、貰ってきた茶菓子を差し出せば、
    「今回はこれで十分たい」
    などと言いながら、にししと笑う。
    「……何がそんなにおかしい?」
     あの博多が、茶菓子程度で満足するなんて。熱でもあるのか。
    「長谷部は知らんと? 三日月しゃんの取り寄せる茶菓子は、ほんまに一級品なんよ。
     そこへあの三日月しゃんの茶会からのお下がりとなれば、本丸内オークションで高値で売れるばい。今回の労働に対しては、お釣りがくるほどの報酬たいね」
     ……なんだ。博多はやはり博多か。せっかく人が手土産にしたお下がり品ですら、金策に用いるなどと、呆れて言葉もない。
    「……冗談たい。流石に俺も、せっかく長谷部から貰った茶菓子を横流しなんてせん」
     俺の視線に気付いた博多が咳払いを一つした。いや、やったものだから、お前がどうしようが文句は言わんがな。




    長谷部とへし切と古備前と野菜
     問:朝起きて厠へ行こうと襖を開けた途端、一振り目の『へし切長谷部』がジャージ姿で廊下にうつぶせに転がり、赤い液体で『はせべ』とダイイングメッセージらしきものを残して死体ゴッコをしていたときの、二振り目の『へし切長谷部』である俺の気持ちを答えよ。
     答:「……洗濯は自分でしろよ」

     赤い液体はトマトである。どうやら朝イチで畑に出かけ収穫して、何らかの理由で転んだ拍子、いくつかのトマトが胸の下敷きになったらしい。燭台切が頑張って口説いて赤くなったトマトさん、うちの一振り目が粗忽でごめんなさい、合掌。
     弁解するまでもないと思うが、当然俺のせいではない。何せ今起床したばかりだ。というかどれだけ早起きなんだ、こいつは。まだ日も昇る前、本丸は寝静まっている。
     当然、一振り目に手は貸さない。むしろ踏んで行ってやろうか。いや、靴下に汚れが移ってはかなわん。それにかまってやると調子に乗りそうだからやめておこう。転がっていたトマトは拾い上げ、厨へ持って行く。トマトに罪はない。
     食事当番もまだ来ていない薄暗い厨、ひとまずザルを出して持って来たトマトを入れておく。ついでに水を一杯、グラスに入れて飲んでいると、
    「……うらめしや」
     トマトで汚れたままの一振り目だ。
    「……しみになるぞ」
    「うらめしや」
    「お前に恨まれるようなことをした覚えはない」
    「トマトの仇ぃ!」
    「勝手に転んだのはお前だろう」
     でやぁぁぁとか声を上げつつ、空の手で刀でも握るような格好をしながら懐に走り込んで来るのを躱す。冗談では無い、汚れが移ったらどうする!
     一振り目も本気だったわけではないだろう。これが本気になったら、今ごろ俺の寝間着がわりの着流しもトマトまみれだ。
    「だがこの本丸には出るらしいぞ」
    「何が」
    「幽霊」
     くるり、と振り向いて一振り目が言う。……頭が痛くなりそうだ。
    「本丸という建物は、別に中古物件の流用ではないはずだが」
    「そうだな」
    「なら幽霊など、住み着いてるはずがないだろう」
    「そうとは限らんぞ。要はヒトの想念の問題だからな」
    「この本丸に居るヒトなぞ、主しか――まさか貴様、主のせいだとでも!?」
    「俺たちも今はヒトの身だぞ」
     忘れたのか、と問われて、答えに窮した。だが論点はそこではない。
    「俺たちの想念が、幽霊を作り出すとでも?」
    「作り出すというより、呼び込む、というか。
     これは石切丸に聞いた話だが、波長の合いやすい場所にそういった存在は呼びこまれるらしいからな」
     そういうものなのか、と納得しかけたが、それではつまり、
    「ここに幽霊が出るのが本当なら、この本丸の波長は良くないということか」
    「そうとは限らん。単純に刺激が足りない者が、『そろそろそういう季節だし、そんなこともあれば少しは退屈が紛れるなぁ』なんて思っただけかも知れん」
    「つまり、貴様か」
    「俺は別に、退屈はしてないぞ」
    どこかの白いのではあるまいし、なんてどの口が言うのか。相手をするのもバカバカしくなって、俺は踵を返した。元々ただ厠へ行きたかっただけなのだ。なのに、
    「でも、そうだな。本当に幽霊なんてものが存在するのなら、俺たちが死んだ後も現世に留まることはできるんだろうか」
    一振り目のくせに珍しく笑みを含まない声で、俺の背にそんなことを言うものだから、
    「……本霊に還るだけだろう。というか貴様、俺の部屋の前の廊下はきちんと掃除しといたんだろうな?」
    なんて、餌を与えるようなことを言う羽目になってしまった。

     ……厨の裏口から、脱兎のごとく逃げ出す『へし切長谷部』の機動力ときたら。
     追い駆けてなどやらんからな。廊下を自分で拭いた方が、労力が少なくて済む。
     だがこの恨み。晴らさでおくべきか! 

     ちなみに、トマトは朝餉には出なかった。昼餉か夕餉に使われるんだろう。



     朝食後。
     演練や戦場に出る連中を見送り、長期遠征帰りの者たちを出迎えてから、俺は執務室へ向かった。昨晩の内に資料室から運び込んで置いた紙束の中身を、改めて見極め整理しながらパソコンに入力していると、
    「へし切長谷部ぇぇぇぇ!!!」
    特徴的なあのデカイ声で叫びながら、すたーんと襖が開け放たれた。大包平だ。桟が痛むのでやめてもらいたい。
    「みつけたぞ貴様ぁぁぁぁッ」
    「落ちつけ、大包平。それは二振り目の方だ。多分お前の大切に育てていたナスを根こそぎ勝手に収穫したのは、一振り目の方だと思う」
     隣で至極落ち着いた声で言う緑色も、もちろんセットだ。
    「鶯丸お前、面白がってるだろう……」
     ここに辿り着く前に止めるなりなんなり、できただろうに。
    「だが粗方の事情は何となく分かった。犯人は俺じゃないぞ。見ての通りの格好だ、畑に下りればドロドロになっているはずだろう」
    「五虎退が朝起き抜けに、部屋から見える畑の端で、翻る紫色のカソックを見たと言っている! どう考えても貴様だろうっ!」
    「ほう。一振り目との勘違いではなく、最初から俺に用があって来たのか」
     ふむ、と顎に手を当て考えてみる。粟田口の小さい連中の中には、えらく寝起きが悪いのも居て苦労すると一期一振は言っていたが、五虎退はどうだろう。朝餉の席には普通に着いていたので、その前の出来事か。
    「朝餉の前に誰かが畑に下りて、お前の育てたナスを根こそぎ収穫していった可能性がある、と」
    「だからそれは貴様だろう! 汚れた装束など、着替えてしまえば分からんからな」
    「一振り目である可能性をどうして排除した」
    「俺は顕現して以降、あいつが本丸内でその格好をしているのを見たことが無い」
     ……なるほど、確かに。
     しかし面倒なことになったな。俺は俺自身が潔白であることを誰よりも知っているが、それを証明できる第三者はいない。いわゆる、アリバイがないというやつだ。
     が、探偵ゴッコなどしているほど俺は暇では無い。目の前には書類が大量に積んである。少なくともこれだけは、今日中に片づけたい。無駄に過ごす時間など取れはしないのだ。
    「分かった。仮に俺がナス収穫の犯人だとして。大包平、お前は俺に何を望むんだ」
    「なに、って……」
    「謝罪か? 賠償か? 損害の程にもよるが、博多が算出したなら考えてやらんでもない。
     それとも、改めてナスを植え直す手伝いをすればいいのか」
    「貴様、己が認めてもいない罪に対して謝罪するというのか」
    「お前が望み、それで満足するなら、頭くらい下げてやるとも」
    「……」
     書類を捌く手を止めずに言えば、刀剣の横綱とも称えられる男が押し黙った。静かになっ
    て助かるな、と思っていたら、
    「貴様のそういうところは心底嫌いだ。が……すまん!」
    いきなり頭を下げられた。隣の鶯丸が笑いを堪えて震えている。
     ……ちょっとワケが分からない。
    「俺ともあろうものが、頭に血が上り、確たる証拠があるわけでもないのにお前を犯人だと決めつけた。悪かった」
    「証拠、というか、五虎退の目撃証言はあったんだろう」
    「お前自身が言っているように、その装束には汚れもない。それに、紫色の布が翻るのが見えたからといって、お前のカソックとは限らない。そんな態度を取るヤツが犯人だとも思えない」
    「はぁ。まあ、疑いが晴れたなら構わんが」
    「だがそれなら、一体誰が俺のナスを……」
     うーん? と首を傾げる大包平をよそに、いつの間にか鶯丸は勝手に茶道具を取り出していた。借りるぞ、と言い置いて、相方を残し廊下へ出て行った。茶を淹れに行ったのだろうが、用が済んだのならコイツ連れて立ち去って欲しかった。
    「というかお前のその、ナスへの執着心は何なんだ」
    「俺が畑の一角を取り仕切り、内番の日以外も、雨の日も風の日も手入れを欠かさず、丹精込めて育てたんだぞ。虫食いもなく、大きさも形も申し分ない、売りに出せるほどのナスだ。
     ……収穫の時を心待ちにしていたというのに……横から掻っ攫われたこの気持ち、お前には分かるまい」
    「ああ、それは」
     なんというか、気の毒にはなる。だがもし、本丸の厨当番の誰かが収穫したなら少なくとも、調理済みの姿にはお目にかかれるだろうか。
    「……トマトなら、早朝に一振り目が収穫してたのを見たんだがな……」
     五虎退の証言が嘘でなく、見間違えでもないのなら、アイツではないだろうな。普通に内番服だったし。
     パソコンのキーボードを打つ手を止めて、そんなことを思っていると、
    「茶を淹れて来たぞ」
     すらりと静かに襖が開いて、鶯丸が戻ってきた。急須と、三つの湯呑、それに羊羹が盆に乗っている。ちょっと待て、貴様ら長居するつもりか。
    「羊羹は、厨にいた燭台切からだ」
    「……あとで礼を言っておこう」
     仕方なしにパソコンの鎮座する文机から離れ、隅に寄せて置いた座卓を部屋の中央へ引っ張り出す。そこに三人分の茶と菓子を乗せて、立ったままだった二人に座布団を出して座らせる。
     礼を言って古備前二振りが座したので、その向かいに俺も座る。
    「……美味いな」
    「ふふ、そうだろう」
     部屋へ駈け込んで来たときの剣幕はどこへやら、大包平は機嫌よく鶯丸の茶を啜っている。まあ、確かに美味い。それに燭台切の作った羊羹も程よい甘さだ。じんわりと身体に染みわたるような心地よさを感じる。
     こうして休憩を取って見れば、それなりに疲れていたらしい。いや、そうして自覚してしまうのが嫌で、根を詰めるという部分もあるのだが。
    「そういえば、先ほどへし切を見かけた」
    「そうか」
    「後ろ姿だけだがな。珍しく正装していたぞ」
    「ほう」
     それは本当に珍しい。
    「……両腕に、何か入ったカゴを抱えているように見えた」
    「なるほど」
     縁側を通りすがったとき、畑当番にでも収穫物を預けられたのだろう。
     さて、この後の段取りはどうしようか。そんなことに考えを巡らせていて、ふと大包平が肩を震わせているのが視界に入った。
    「大包平?」
    「俺の……」
    「おい」
    「俺の……ナスか」
    「さあ。カゴの中までは見えなかったが。まだそう遠くには言ってないだろうし、本人に直接確認してみてもいいんじゃないか?」
    鶯丸が言い終えるのと、空になった湯呑を座卓へ叩きつけるように置いて大包平が立ち上がるのは、ほぼ同時だった。来た時同様に音を立てて襖を開き、どすどすと早足で廊下を歩いて行く。
     素早く後を追うために立ち上がった鶯丸は、俺が動かないのに小首を傾げて、
    「行くぞ」
    促してくる。いや、
    「行け。そして戻って来るな」
    何を言ってる。俺は仕事をするんだ。やっと作業が再開できる。遅れを取り戻したい。
     茶道具などの片づけは後でいいだろう。だが座卓を再び部屋の隅に寄せ、文机に戻ろうとする俺の背に、なおも鶯丸は声をかけてきた。
    「いいのか」
    「何がだ」
    「大包平を放っておいて。あのへし切が相手だ、大騒ぎにならないか」
    「……ああもう」
     面倒くさいヤツらだな! 手にした紙束を戻して、慌てて立ち上がった。廊下に躍り出れば、既に大包平の姿は見えない。後ろ手に襖を閉め、先ほど大包平の歩いて行った方へと俺と鶯丸も足を向けた。

     廊下は走らず、急いで歩く。

     突きあたりまで来て、左右を見る――居た。左の廊下。そちらは厨とは逆方向だ。
    「へし切長谷部ぇぇぇぇ!!」
    「だから大声を上げるなと……!」
     ずんずん歩いて行く大包平の背を慌てて追う。その向こうに見える紫色のカソックは、既に廊下の突き当たりだ。ちら、とこちらを見たような気がしたが、何も言わずまた左側へ消える。
    「くっ、速い!」
    「さすが、打刀最速」
     練度もカンストしているし、本気を出した俺でも中々追いつけそうにない。
    「ふむ。へし切杯と似たようなことになってるな」
    「なんだ、お前らもあれに参加してたのか? 太刀の機動力では、相手にならんだろうに」
    「だからこそ、訓練には最適なんだが……くそっ。
     ていうか長谷部、お前あの催しに気づいていたのか」
    「この間、宗三に教えてもらった。次回は俺も参加するからな」
     こちらも同じように角を曲がる頃にはあちらは既に突き当りにいる。足音ひとつさせない上あの速さとは。
     カソックの裾が、ひらりとこちらを煽るように翻る。今度は、右。

     そんなことを数回。いい加減大包平のイライラは頂点、俺と鶯丸の疲労は赤になろうかというほど競歩の追いかけっこが続いた頃。
    「なんだか知らんが、ずいぶんと楽しそうなことをしているな」
    「全然楽しくない!」
     少し後ろからした声に、相手も見ずに俺と大包平は反射で叫んでいた。カソックとの距離は中々縮まらない。振り向いていたら、さらに引き離される。
    「そうか? 楽しそうなオニゴッコのように見えるが」
    「大切なナスを取られた雪辱戦だ!」
    「仕事の時間を割かれてるのに、楽しいわけがあるかッ」
     同時に噛みつくように答えて、首だけ振り向けた先。さすがに苦笑いの鶯丸の隣を涼しい顔をして競歩しているのは、
    「……一振り目の『へし切長谷部』!?」
    「確保だ、鶯丸!」
    内番のジャージ姿で、洗濯カゴを抱えた『へし切長谷部』だった――

    「ほう。【三振り目の『へし切長谷部』】だな」
     角を曲がったその先は廊下の突き当たり、それこそ行き止まり。左右に部屋もなく、先には壁しかない、本当のどん詰まり。
     本丸内にこんな場所があったことすら、俺は知らなかった。そんな場所で、先ほど俺たちが追っていた『へし切長谷部』は、忽然と姿を消していた。
     途中から身柄を確保されつつも、共にやって来た一振り目の『へし切長谷部』は、古備前二振りに挟まれつつも平然としていた。
     いつも通りの内番ジャージに、朝のトマトの名残は無い。どうやらきちんと着替えたようだ。
     しかしそんなことよりも。
    「【三振り目の『へし切長谷部』】?」
     何だそれは。また主が『へし切長谷部』を顕現されたのか?
     ……俺というものがありながら?
    「ああ違う。主は基本的に、同じ刀の付喪神は複数顕現されない。これはな、いつ、誰が言い出したのか分からない、この本丸の怪談話の一つなんだ」
     ちらりとこちらに視線をよこした一振り目には、俺の思考が分からないはずもない――だって他ならぬ俺がこうして顕現した時には、同じような想いをしたはずだ。
     だが、一振り目が言う事が確かならば、あの『へし切長谷部』は何者なのか。
    「この季節になるとな、不思議とこういうことが起きるんだ」
     そう言いながら手にしていた洗濯カゴを置き、一足先に歩みを進めた一振り目が拾い上げたのは、おそらく先ほどから大包平が執心していた、
    「俺のナス!」
    「そうか。これはまた見事に育て上げたものだな」
    つやつやと光を弾く、ナス。カゴの中に入って、丁寧に置かれていた。
    「きっとあまりにも見事なナスだったから、収穫して主に見せて差し上げたかったのだろうな」
    「それは俺が育てたナスだぞ! アイツが育てたわけではない」
    「そうだな。さすが大包平だ」
     さりげなく一振り目が大包平の手柄を褒めると、ふん、当然だと大包平が胸を張った。
    「だが出てきた『へし切』も、もしかしたら過去にナスを大切に育てていて、こんな風な実が生ったら主に見せたかったのかも知れん」
     ああなるほど、そうだろうな。
     もし俺がナスを育てていて、あんなに見事な実をつけることができたなら、真っ先に主へと見せに行きたかっただろう。
     ふと、夜明け直前に厨で一振り目の言っていたことを思い出した。

     “――これは石切丸に聞いた話だが、波長の合いやすい場所にそういった存在は呼びこまれるらしいからな。”

     それならアイツは――【三振り目の『へし切長谷部』】なんて呼ばれているあの長谷部は、一体誰の波長に合って呼びこまれたんだ?


     そして、“基本的に、同じ刀の付喪神は複数顕現されない”という主は、何故。

     何故、俺を、二振り目の『へし切長谷部』を顕現させたんだ?




    へし切と主命と鶏の冷しゃぶ
     朝晩は少し涼しくなり、過ごしやすくなって参りました。主、現世ではいかがお過ごしですか。

     そんな風に書き出して、俺は筆を一旦置いて外を眺めた。あっという間に日は落ち、闇が広がっている。開いた障子から吹き込んでくる風と、鼓膜を震わせる虫の声が心地よい。
     今書いているのは、日誌である。主がまとまった日数本丸に不在の時つけるよう、言い渡されているものだ。
     近侍がつける日報とは別のこの日誌は、主が単純に俺の――この本丸に先に居る『へし切長谷部』の目から見た、刀剣たちの日常が知りたい、という意図によりつけることを命じられている。

     そう、『へし切長谷部』ならば誰しもが望んでやまない、主命だ。
     ずいぶんと、気を遣って頂いたものだと思う。

     さて今日あったことで、主に是非ご報告したいことは……と記憶を遡る。今日は確か、鶴丸と共に大倶梨伽羅の部屋に遊びに行ったら、会話の流れから手合せをすることになり、同田貫がそこへ乱入して、何やかんやで気づけば粟田口と新撰組の刀まで入り乱れ、何でもありのバトルロイヤルになっていたんだったか。
     遠征から帰り、その話を聞いた日本号が、自分も混じりたかったと本気で悔しがっていた。確かに中々楽しかったから、またああいう催しでも考えるか?

     あと――そうだ。長谷部が非番だった。それで山姥切を連れて、他の本丸に出かけて行ったのだった。
     なんでも、その本丸の一期一振(二振り目)と気が合うらしい。
     他の本丸の刀剣との交流は禁止されていないが、アイツがわざわざ呼ばれたからと言って足を向けたのは初めてだ。それで夕餉は赤飯こそ出ないものの、燭台切の計らいでいつもより豪華なものだった。
     事情を知らない他の連中は小首を傾げていたが、意図を察した長谷部は苦虫を噛み潰したような顔をしていた――寛容な燭台切には、それが反抗期の中学生が母親に抱くような感情からくるものだと分かっていたようで、苦笑していたが。
     帰城してから少し山姥切から話を聞いたが、楽しそうな時間を過ごしたようで何よりだ。二振り目同士、話も弾んでいたらしい。

     ……しかし山姥切。亜種一振と呼ぶのは、やめて差し上げろ。

     そういったことをつらつらと書き連ねて、さて結びの文言を入れて締めるかと思っていたところで、
    「へし切の旦那。少しいいか?」
     自室の襖の向こうから、抑えた声が聞こえてきた。薬研だ。筆を止め日誌を閉じ、かまわん、入れと答えれば、
    「失礼するぜ」
    音を立てずに襖を開き、するりと身を滑らせ入って来る。その姿は戦装束のままだ。
    「頼まれたことについて、調べて来たぜ」
    「早かったな。座ってろ、今茶を出す」
     座布団を敷いて促す。
    「それじゃお言葉に甘えて」
     薬研が胡坐を掻いたのを横目に、急須に茶葉と、電気ポットの湯を注いだ。一度湯呑に湯を注いで、冷ましてから急須に入れた方がいいんだろうが、面倒だ。歌仙が見ればうるさかろうが、薬研なら文句も言わんしな。
     茶葉を蒸らす短い間に、薬研から数枚の紙を受け取る。至って普通の、出陣報告書だ。内容にも特におかしな点は見受けられない。
     紙面を軽く視線でなぞっている間に、薬研は自分で湯呑に茶を淹れていた。ついでだ、とっておきの茶菓子を出してやろう。
    「今回も単騎出陣、すまなかったな。だが助かった」
    「何てことないさ、あそこは行き慣れてるし敵も弱い」
    「……編成も強さも、以前と変わりは無かったか?」
    「無い」
    「そうか……」
     必ずしも何か前兆があるとは思ってはいないが、こうして定点観測を続けているのに全く何の変化も見受けられないのもまた、鶴丸では無いが退屈なものだな。

     ――薬研に単騎で出向いてもらっている戦場には、かつて時空の歪みが生じたことがあった。ワームホール、というんだったか。別の次元、別の時代へと続く穴のようなものが開いた、と主は言っていた。
     オフレコらしいが、政府によれば、そういった戦場はいくつか確認されているらしい。それが何故、一体どんな条件で、いつ、どこに繋がって開くのか。それを調査するため、一部の刀剣以外には秘密裏に、極短刀の中でも一番練度が高い薬研に単騎出陣してもらっている。これでもう、10回を越える。
    「三日月宗近から聞いたが、数か月前に阿津賀志山にもワームホールが開いたらしい。別の本丸の今剣が落ちて行方不明になった、と、その本丸の三日月宗近からメールが届いたそうだ」
    「そん時には何か前兆があったのか?」
    「さてな。そこまでは聞いてないそうだ。検非違使の気配はあったらしいが」
     今剣のようにワームホールの中に落ちて行方不明になった刀剣は、おそらくホールの繋がった先の時代か、あるいは次元の狭間に飛ばされているだろうと推測されている。そう多くの事例があるわけではないが、戦中に気づかないうちに落ちてしまうこともある。深刻な問題だ。
    「その今剣、どこかの本丸で拾ってもらえてるといいな」
    「……運よく近い時代や、本丸のある時空に飛ばされるとは限らん」
    「そうだな」
     苦笑する薬研は、それ以上特に何も言わない。それに俺はいつものように安堵した――薬研のこういうところも、この任を依頼する理由の一つだ。
     礼も兼ね、数日前、主から賜った博多通りもんを出してやる。薬研は礼を言うなり豪快に頬張った。
    「腹が減ってるのか」
    「まぁな」
    「ちょっとした夜食で良ければ、作ってやるぞ」
    「まじか」
     太っ腹だな、旦那。という薬研を連れて、消灯後の廊下を歩く。二振り分の陰が、行灯の灯りにゆらゆら揺れた。
    「……なあ、旦那」
    「なんだ」
    「思ったんだけどよ」
     厨に着いて、冷蔵庫の中を覗いていると、椅子に座った薬研が背中に声をかけてきた。独特の色をした視線が肩甲骨の間辺りに刺さるのを感じる。
     ……お、鶏のササミがあるな。量的に半端だから、拝借してもいいか。それに野菜庫には、大根とキュウリの切れ端とタマネギが少し。
     なるほど、燭台切の計らいだ。夜食を作るなら使え、と。
    「ワームホールに落ちた奴らは、ただ偶然落ちただけか?」
     ササミを茹でるために鍋で湯を沸かしつつ、野菜を切って水に晒す。沸騰した湯の中に少しだけ酒を入れて、ササミをそっと入れた。ポン酢とすりごまで簡単なドレッシングもどきを用意しつつ、
    「偶然じゃないとしたら、何だと言うんだ」
    薬研に話を差し向ける。
    「きちんとここまでの情報を精査したわけじゃねぇから、ただの俺の勘だが――誰かしら、何かしらの意図が働いてるんじゃねぇかと」
    「たとえば?」
    「遡行軍」
     そろそろササミが茹で上がる頃合いに、別のボールを出して氷水を入れて置く。気の利く短刀は、皿の用意を始めていた。
    「……こりゃ本当にただの勘、むしろ妄想でしかねぇから、聞き流してくれよ。
     あらかじめワームホールの開く時間や座標を、遡行軍に堕ちそうな刀剣に知らせておく、とかな」
    「つまり、自分の意思で刀剣たちはワームホールに入った、と?」
     ゆで上がったササミをすぐに氷水へ入れた。こうすると身が締まる。そうして肉を冷やしている間に、薬研の出しておいてくれた皿に、水気を切った野菜を盛りつける。
     上に割いたササミを乗せて、ドレッシングもどきをかければ、簡単冷しゃぶサラダのできあがり。
    「できたぞ」
    「お、ありがとよ」
     箸を渡してやれば、薬研は音を立てて手を合わせた。いただきます、と良い声でひと声、豪快に箸をつけ、もりもりと口に運ぶ。イイ食べっぷりを見るのは、食事を作った者にとっては最高の報酬になるものだ。
    「なるほど。確かにあり得ない話ではないな。だが――」
    「もちろん、全部が全部、奴らのせいだとは言わねぇよ。巻き込まれただけの奴だっていただろう」
    「……ああ」
     そもそも作為的にワームホールを作ることは可能なのか。それに、ターゲットとなる刀剣への連絡手段はどうしているのか。
     そういった点が明らかでない以上、やはり薬研の話は『勘』でしかない。

     だが、その『勘』というものがどれほど戦場で命を救ってくれるか、俺たちは身を持って知っている。

    「お前の言い分は分かった。調べてみよう」
    「ああ――っと。そういえば、へし切の旦那。例の暗号文の出所は分かったのか?」
    「暗号文?」
     何だそれ。知らないぞ、と使った調理器具を洗いながら首を傾げれば、
    「長谷部が三日月から茶会で預かった謎のメモのことだろう。
     ……なんだ、アイツまだお前に言ってなかったのか」
     写しである俺にはさっさと打ち明けておきながら。
     そんなことを言いながらゆらりと厨に入って来たのは、山姥切だった。布が白いから幽霊かと思ったのはナイショだ。
     ……まずいな。
    「夜食なら、もう作れんぞ」
     余った食材は使い切ってしまったからな。
    「必要無い、ちょっと水を飲みに寄っただけだ」
     そう言いながらも、ちらりと薬研のほぼ空になった皿に視線を流していたのを、俺は決して見逃してはいない。すまん、山姥切。機会があったら何か作ってやるから許せ。
    「で、どうする。何なら俺から長谷部に、お前に見せて相談するように言っとくが」
    「いや――」
     山姥切の立場的を考えるなら、雑談の流れであってもそういうことを言ってしまえば、長谷部は従わざるを得ないような気持ちになるだろう。
     ……それはきっと、良くない。アイツが自分から俺を頼って来るのなら、いくらでも手を貸すつもりではいるが。
     とはいえ、『へし切長谷部』という刀の性質上、自分から先に顕現していた同位体に頼るなんて抵抗があるだろう。
    「……そんなことだろうと思って、写メってきた」
     これだ、と言って山姥切がスマートフォンを差し出してくる。布巾で手を拭いて、横からそれを覗き込んだ。表示されている写真は、謎の文字列の書かれた白い紙――ではなく、
    「なるほど。堀川国広は兄弟の前だと、こんなにもいい笑顔で笑うんだな」
    「……間違えた……こちらだ」
    満面の笑みをたたえた堀川の写真から一つ二つスライドさせて、表示を変える。ちら、とこちらを伺う目には気づかないフリをしてやる。大丈夫、誰にも言わないさ。
    「ほう」
     これはあれだな、
    「武田信玄式の暗号か」
    「分かるのか、旦那?」
    「まぁな。鶴丸と、色々仕込みの打ち合わせするときに使ったからな」
     今すぐには解読できないが、何とかなるだろう。
    「それで、この暗号文をどうして三日月が?」
    「演練のときに、袂に入れられてたらしい。多分、三日月違いだろう、と。いつの演練かまでは、まだ分からんと言っていた」
    「なるほどな」
     ひとまずこの件は、俺の方でもこっそり調べてみることにしよう。
    「ところで、その……兄弟から聞いたんだが」
     ごちそうさま、と手を合わせた薬研にお粗末様と返し、皿を受け取り洗う。その間に山姥切は、薬研の隣の椅子を引き腰掛けていた。自分の分も含めて三人分、冷蔵庫から冷えた麦茶を出してグラスに注いで出してやる。
    「今日は手合せがすごかったらしいな」
    「ああ。和泉守と堀川は、獅子奮迅の大活躍だったぞ」
    「そのあたりも気にはなるんだが、その……」
    「お前も参加、したかったか」
     黙って頷く山姥切の気持ちは、良く分かる。俺たちカンスト勢は、今はあまり戦場に出ることが無い。ヒトの身を得たとは言っても俺たちはやはり刀だから、存分に使われたい――戦いたい気持ちはなくならない。
    「間が悪くてすまなかったな。どうせ似たようなことは今後、再々あるだろうから期待していろ。
     あと今日は長谷部に付き合ってやってくれて、ありがとう」
     礼を言いながら軽く頭を下げれば、山姥切は傾けていた麦茶のグラスを一息に空にした。そのまま立ち上がって、顔の前の布を軽く引き上げると、
    「あんたに礼を言われる筋合いはない……俺はこの本丸の――として、俺のすべきことをしただけだ」
     後半は小声で、しかし俺の目を真っ直ぐに見て言い、厨を出て行った。





    長谷部と燭台切と秋の空
     天高く馬肥ゆる秋。空は快晴、ご飯は美味い。庭の紅葉も赤く色づいて歌仙はご機嫌だ。
     某本丸なら、体育祭的な行事の一つでも開きそうなものだが、我が本丸では無い。鶴丸が何か言いたそうな顔をしていたが、見ない、気づかないふりで通す。
     というかそんなことしてる暇がどこにあるのか。江戸城だの大阪城だの、ふらりと開催される政府主催のイベントノルマは、毎日コツコツこなさなければ達成できないように設定されている。効率的に部隊を組み、遠征を回し、かつ日課の演練までこなそうと思うなら、遊興にかまけている暇などありはしない。

     だというのに、
    「は、長谷部、くん。はや、い……」
    「お前が遅いだけだ」
    「打刀最速に僕がついて行けるわけ無いんだから、ちょっとくらい僕に合わせてよ!」
     何故俺は早朝から、燭台切と共に走っているのか。

     ……いや、俺自身が悪いのは分かってる。
    「お前、少し太ったんじゃないか」
     なんて、何も考えずに言ってしまったのが悪い。
     その日も執務室でパソコンのディスプレイと睨めっこしながら夕餉を取って、空になった食器を手隙の際に戻しに厨へ行ったときのことだ。
     既に他の者たちの食器を洗い終えた燭台切は、翌日の仕込みをしていた。
     鼻歌混じりに野菜や果物を吟味していたかと思えば、デザートに使うのだろうマスカットをひと粒、ぱくりと口に含んだ。
    「うん、美味しい!」
     加工するより、このまま食べた方が美味しいかもね、なんて言いながら、またひと粒。
     まぁ、厨当番としていつも美味しい食事を提供してくれているのだから、つまみ食いくらいでとやかく言うつもりは無かった。
     うん、つまみ食いに関してはな。
     ただ、ちょっと見逃せなかったのは、燭台切の腕だった。そう、あの捲られた袖からのぞく、前腕。
     今思えば見た角度が悪かったのと、一日の終わりだからちょっと浮腫んでいたとか、その程度のことかも知れないが、少しだけ、こう――袖が肉に食い込んでるように見えた、というか。
     それでつい、ぽろっと。
    「お前、少し太ったんじゃないか」

     あの瞬間、燭台切の驚愕から絶望へと移り変わる表情が目に焼き付いて離れない。

    「み、見てたの長谷部君……」
    「ああ」
    「僕……太った?」
    「いや」
     咄嗟に否定したのは、燭台切の暖色の瞳があまりにも悲しそうに見えたからだ。が、
    「……そっか。実はね、僕自身も気にしてはいたんだ……」
     えらくしゅんとして、本人自らが肯定してしまった。
    「俺たちはヒトの身を得たとはいえ、付喪神だぞ? 太るなどと、ありうるのか」
    「手入れをすれば顕現したばかりの状態に戻るし、必ずしも食事が必要な身体では無いけどね、やっぱりあるみたいだよ。
     ほら、僕、最近戦場に出てないでしょ。手入れ受けることもなかったから、少しずつ、こう――」
    「蓄積された、と?」
    「たぶん」
     なるほど、そういうこともあるのか。だが、
    「一振り目も最近戦場に出てないし手入れも受けてないが、アイツは特に変わりがないな」
    「……知ってる、長谷部君? 人間ってね、たくさん食べて脂肪のつきやすい人と、そうでない人がいるんだよ」
    恨めし気に燭台切が言う。
    「いっそ手合せか何かで思い切り負傷して、主に手入れしてもらおうかな」
    「おい、しょうもないことで主の手を煩わせるな」
    「しょうもないことじゃないよ、僕にとっては切実だよ!」
     そりゃまあ、普段からカッコイイことを旨とする伊達男にとって、スタイルの崩れは由々しき自体だろう。が、だからといって多忙な主に面倒をかけるなど、一振り目が許してもこの俺は絶対に許さないからな!
     そういったようなことを、確かキツメの口調で言い切った記憶がある。
     燭台切はそれに俯いて肩を震わせ始めた。そんなにか。そんなにカッコイくない自分は嫌か。いや確かに、もし仮にも俺がその、太ってしまったら居たたまれないが。
     ……速くない『へし切長谷部』など、存在価値はない。
     何かフォローか、代替案でも――と、俺が頭を悩ませ始めたとき。
    「……それなら長谷部君。付き合ってよ」
     ぬらっと。燭台切の顔が、少しだけ上がった。夜の厨だからだろうか、金色の目が、ゆらゆらと妙な光の反射の仕方をしている。
    「何にだ」
    「僕のダイエットに」
    「断る!」
     間髪入れずに答えてやる。俺にはこの体から落とせるほど脂肪に余裕がないし、時間にも余裕がない。近侍の仕事に出陣と、やることはたくさんある。
     だが燭台切も引かなかった。きらり、と今度は猫のように目を煌めかせて、
    「君やへし切君の身体に余剰な脂肪がないのはね、もちろん体質も大きいけど、それ以上に僕がきちんと栄養管理してあげてるからだよ」
    などと訴えてくる。
    「知ってる? 僕ね、給仕するときに、一人一人おかずやご飯の量をさりげなく調整してるんだ。もちろん、おかわりをする習慣の子もいるから、それも少し計算に入れてね。
     君やへし切君はあまりおかわりをしないから、最初からその身体と運動量にあったものになるよう、考えて盛りつけてあげてたんだよ。
     君たちは同じ刀同士でも運動量が違うし、へし切君に至っては日によっても全然違うから苦労してるんだ」
    「それはさすがに引く」
     どれだけおかん気質の刀剣なのか。というかだな、それなら自分の食事の量も同じように管理すればいいじゃないか。
    「……僕は料理をするのも、それを美味しそうに食べてもらうのも好きだけどね、自分で美味しいものを食べるのも好きなんだ……」
    「節制できてないだけじゃないか」
    「出陣が多かった頃は、それでもバランスが取れてたんだよ」
     はぁぁ~、と再び頭を垂れ、長く息を吐く燭台切の肩を叩いてやる。
     ……仕方ない。出陣を増やしてやることは今の状況では難しいが、このままでは燭台切の士気にも関わって来るかも知れない。
     まったく何故俺がこんなこと――とも思うが、そこまで食生活に気を遣われていたとあっては、無碍に扱うこともできない。
    「……朝の走り込みくらいなら、付き合ってやる」
    「ほんと!?」
     がばっと顔を上げたその時の、燭台切のキラキラ輝く表情もまた、目に焼き付いて離れない。イケメン、眩しい。
    「ありがとう、ありがとう長谷部君!」
     よかった、これで僕も元通りのカッコいいスタイルに戻れる! なんて俺の両手を握ってぶんぶんと振りながら礼を言って来るが、そんな保証はしてやれない。
     せいぜいできる範囲で付き合ってやるつもりではいるが――

    「手加減はしないからな」
    「望むところだよ!」

    「――なんて、あのときのお前は言ってたはずだがな?」
     膝に手を突き呼吸を整えている燭台切に、言ってやる。
    「こ、こんなにも手心を加えてもらえないなんて、思ってなかった……!」
    「何を言っている、これでもお前の走れるギリギリの速度まで加減して先導してやってるぞ」
    「鬼……ッ!」
     この早朝の走り込みも、始めてから一か月経とうとしている。始めたばかりの頃は俺も燭台切のペースがよく分からずに難儀した。うっかりと赤疲労にまで追い込んでしまった時は、流石に罪悪感めいたものを感じたものだ。今では後に疲労を残さない、ギリギリ負荷をかけられる速度を見極められるようになっている。
     それに、燭台切は賢い男だ。どれだけ走り込んだところで機動の数値としては上がりはしないが、ペースの配分などを体得すれば、それなりの速さを維持して長い距離を走れるようになる。これはきっと、戦場に出た時に役に立つに違いない。
     気づけば袖から覗く腕もすっきりとして見えるし、顔の輪郭も少しシャープになったような気がする。
     うむ。我ながら、良い仕事をしたものだ。
    「……なぁ燭台切」
    「ねぇ、長谷部君」
     そろそろもう、いいんじゃないか。そう言おうと思って声をかけたら、燭台切と被ってしまった。なんだこのベタな展開は、なんて思いつつ相手に先を促す。
    「君のおかげで、僕は元のスタイルに戻ることができた。ありがとう」
    「ああ」
     それなら走り込みは今日で終わりだな、と続けようとしたら、
    「それでね、実はもう一つお願いがあるんだ」
    奴の言葉にはまだ先があった。
    「言ってみろ。聞くだけ聞いてやる」
    「うん、あのね」
     顎から滴る汗を手袋で拭い、すぅっと燭台切が居住まいを正した。つられて、こちらも気を張る。何だこの、無駄に緊張感のある空気は。一体何をコイツは言いだそうとしている。
     整った唇が、僅かに開いた。息を吸う音がして、言葉が呼気に乗る。



    「――僕と一緒に、へし切杯に」
    「断る!」




    長谷部と日本号と、美味しいお酒
     だって、絶対勝てないの分かってるじゃないか。
     勝てない勝負に挑んで、何になる。その過程が大事? それによって得た成長が大事? ……は、キレイゴトを。

     俺はそんなものが欲しいんじゃない。勝負をするなら勝たなければ意味が無い。負ければそれで、終いだ。

     ただでさえ、俺は二振り目だから。一振り目にはどう足掻いたところで、立場的に追いつけはしない。
     だからもし、俺が最初から「お前は二振り目に顕現された『へし切長谷部』なのだ」と主から言い渡されていたなら、こんなに出しゃばらず、与えられた役目をこなすのみで在ろうと、覚悟を決めていただろう。

     ……などという感傷に、まさかこの俺が浸る日が来ようとはな。
     鶴丸では無いが驚きだ。それもこれも、全部あの一振り目の『へし切長谷部』が悪い。

     俺が顕現された当初、一振り目の『へし切長谷部』は重傷で手入れ部屋にいたらしい。
     らしい、というのは、俺がそれを知らされたのが少し後だったからだ。直接臥せっていた一振り目を目にしたわけじゃない。
     どうやら俺は、戦場でたまに敵が落とす刀の中の一本だったらしい。それを部隊長として、是が非でも主に持ち帰ろうとした一振り目は、帰城間際に折れる寸前の深手を負ったのだと聞く。
     戦場では無く奇襲をかけられて、俺を手に持っていたから、咄嗟に自分の本体が抜けなかったのだ、と。同じ隊にいたという蛍丸が、教えてくれた。

     なんて愚かな。『へし切長谷部』という刀は、そう入手が難しい類の刀では無い。無理をせずとも、そこで俺を手放して本体を抜き、迎撃すればよかったんだ。

     そんな状況で顕現した俺は、自分がこの本丸の一振り目の『へし切長谷部』だと信じていた。それまで一振り目がこなしていたとも知らないまま、近侍の任を与えられ、それをただ素直に俺自身が評価されたのだと喜んだ。だが、すぐに様子がおかしいことに気づいた。

     自慢では無いが、『へし切長谷部』という刀は、始めのうち刀ウケが悪い。
     頭が堅そうだの、地雷が鬱陶しいだの、主命拗らせてるだの、怖そうだの、ひどいものだ。そういった他者からの評価を気にしないのもまた、『へし切長谷部』だ。主さえ良ければそれでいい。

     ええ、主命とあらば俺とて何でもします。寺社の焼き討ちに家臣の手打ち、汚れ仕事も何のその。

     本来なら、俺も他の刀から遠巻きに扱われそうなものだ。だが、そうではなかった。何故だか皆、最初から『へし切長谷部』という刀に興味を持っていた。
     今ならそれが、少し規格外れの一振り目のせいだと分かる。あれが普通の『へし切長谷部』と少し違うことは、演練にでもいけば実感するだろう。
     なので俺が、下げ渡されたことで卑屈になったり、高圧的な態度で近侍として他者に接したりしても、「おお、これがあの『へし切長谷部』か」と妙な寛大さで受け止められたわけだが、さすがに俺だってそんなことが続けば何かがおかしいのに気づくというもの。
     それで、確かあれは顕現して一週間後くらいだったか。たまたま内番の手合せで一緒になった蛍丸に、事のあらましを聞いたということである。
     さすがにその頃には一振り目も完全復活していたはずだが、何故かその姿形も本丸内には無かった。そういえば、改まった初対面の記憶も無い。いつの間にか俺の前に現れて、当たり前のように視界の端をちょろちょろとしていた。

     自分が二振り目だと知った俺に、不思議と大きな落胆はなかった。むしろ皆の態度への納得の方が大きかったし、落ち込んでいたところで、何を考えてるのかさっぱり分からない一振り目が仕事をしないことに変わりは無く、俺が働くしかない。
     ……そうだ。どうせ二振り目として働くなら、『へし切長谷部』がやらかしていそうなことを、今から全力で回避してやる。
     一振り目だって『へし切長谷部』なのだから、今がどうであろうと、最初の頃は色々と地雷を踏んづけていたに違いない。

     主に賜ったパソコンや個人用の端末で、政府の公開データベースにアクセスして『へし切長谷部』について調べ上げた。第三者の目から見た『へし切長谷部』について知ったとき、一週間自分のしてきたことを振り返って溜め息の一つも出たものだ。
     


    「こうして、二振り目の『へし切長谷部』は今のようになったのでした」
     エンドクレジットでも出そうな結びを酒気の乗った呼気とともに吐き出せば、隣でお猪口を口に運んだ日本号が顔をしかめた。せっかく美味い酒を飲んでいるのに、そんな顔をすれば不味そうに見える。酒に失礼だ。
    「なんだ。何か不服か? お前がしつこく誘うから、こうして酒の席にも付き合ってやってるのに」
    「こんな面倒な酔い方すると知ってたら誘わなかった!」
    「ふん、だから言っただろう」
     俺なんかと飲んでも楽しくはないぞ、と。
     日本号はそれに舌打ちを一つ、俺に酌をして、自分には手酌で酒を足すと、
    「別に、楽しくねぇとは言ってねぇ」
     全然楽しそうな顔ではないままに、また煽る。
    「お前のその、妙な意地の張り方は何なんだ」
    「ふん」
     こんなことなら燭台切の兄ちゃんに、もっとたくさん美味いつまみでも作ってもらえば良かった、なんて言いながら箸を伸ばした先にあるのは、誰の作ったか良く分からない肴だ。
    「それ、燭台切が作ったんじゃないのか」
    「味が全然違うだろ。これはな――いや、秘密にしとけって言われてたなそういや」
     山芋のてんぷらを口に放りつつ、日本号は語尾を濁す。何だ、隠されれば余計に気になる。だがそれを追求する前に、
    「で、結局お前、燭台切の誘いは断ったのか」
    「断った。俺は勝てる相手としか組むつもりがないからな。だが『絶対あきらめないからね! 次回がだめでも、その次か、その次の次くらいには、君にふさわしい男に僕はなってるから!!』とか燭台切は言ってた」
    「お、おう」
     日本号が若干引いたように見えたのも分かる。燭台切は確かにイケメンだし気の利くおかんだし、戦場でもこの上なく頼りになる太刀なのだが、どう頑張っても機動力の面で俺に並ぶことなんてできないだろう。あいつの特筆すべき点は、その打撃力にある。
     戦場でなら、『へし切長谷部』と『燭台切光忠』はよいパートナーとして隣に並べるだろうに。
    「……だいたい、俺でなくとも一振り目と組めばいいだろう」
     ぽつりと漏らした一言に、隣から大きなため息が聴こえた。
    「呑ませたのは俺だけどな。お前、酔い過ぎだろ。へし切はオニだぞ」
    「ああそうだったな」
    「潰れるにはまだ早すぎるぞ。ほら、とりあえずつまみでも食っとけ」
    「もが」
     口に突っ込まれたのは、狐大好き油揚げ。好みの味加減に煮られている。黙ってもぐもぐとそれを咀嚼していると、
    「あーその、なんだ。燭台切の兄ちゃんがだめなら、俺はどうだ」
     自分はまた平気な顔して酒を煽りながら、日本号がそんなことを言ってくる。
     やだー俺、モテ期到来!?
     ……一振り目の言いそうなセリフが頭の中をぐるっと回ったあたり、確かにちょっと飲み過ぎた。
    「断る。さっきも言っただろう。俺は勝てる相手としか組むつもりは無い」
    「勝たせてやると言ったら? お前、オニゴッコだからって機動力のことしか頭にないみたいだから言っとくが、相手はあのへし切で、場所はこの本丸だぞ」
    「分かっている」
     宗三からこのへし切杯なるイベントのあらましを聞いた後、俺はすぐに本丸の抜け穴や隠し通路について調べ上げたからな。何も手を打っていないわけがないだろ。
    「逆に尋ねるが、勝たせてやると言ったところでお前、策はあるのか」
    「無いわけではねぇ。これを見ろ」
     猪口を置き、卓の下の方から日本号が取り出したのは、
    「おお」
    本丸見取り図@第5版。およそ細かく隠し通路や隠し扉、抜け穴などが記載されているのが見て取れる。
    「最新版で無いのが惜しい」
    「さすがにそれは出回らねぇよ。博多のヤツに金を積んだ」
    「なるほど」
     酔い覚ましに油揚げをもう一口入れてから、俺も見取り図を横から覗きこむ。
    「この図に、さらに追加で作られた通路や扉とかを実際に調べて書きこんでいけば、使えるだろ」
    「ふむ」
    「その上でだ、『へし切長谷部』。お前が、へし切の思考をなぞれ。そんで先回りして、俺がアイツの脚を止める」
     どうだ、とこちらを伺ってくる日本号の視線を頬に感じつつ、考える。なるほど、それなら確かに、勝ち目が見えなくもない。が、
    「この見取り図、お前だけが持っているのか?」
    「……さぁな」
    「博多のことだ、これで一儲けくらい考えるよな」
    「そうだな」
    「ならば、他にも持ってるヤツがいるかも知れん。お前だけが有利というわけではあるまい」
    「なんでお前酔ってんのにそういうとこ明晰なんだよ」
    「なんだ、酔い潰して俺のことを良いようにするつもりだったか?」
    「妙な言い方すんな」
     油揚げは美味かった。残り少なかったので、ついでに一皿ぺろりと食べ切ってしまう。次は、と日本号の前にある鶏のつくねに手を伸ばぜば、さっとその皿を目前で取り上げられた。……思わず恨みがましく見上げてしまった。
    「よこせ」
    「お前根こそぎ食べ尽くすからやだ」
    「一本だけでいい」
    「……ほらよ」
     ったく、正三位様に取り分けさせるたぁ、ホント良い身分だな。なんてぶつくさ言いながらも、日本号は俺の取り皿につくねを入れてくれる。
    「そもそもその正三位様が、なんで俺などと組んでへし切杯に出たいなどと言い出したんだ」
    「お前、黒田の話も織田の話もしないだろ」
     ついでに俺の猪口に酌までしてから、正三位殿は胡坐を掻き直した。じ、とこちらを品定めするような目の色は、穏やかだが底が見えない。
    「黒田のことは分かる。へし切に聞いた。だがな、織田の話もしないなんて『へし切長谷部』として妙だと思ってな。宗三も薬研も、心配してたんだ」
    「ひどい言われようだな。だがさっき話しただろう。最初の一週間で学んだんだ。俺は二振り目だから、主を煩わせるような真似は今後しない」
    「ああ。だからもう、お前が決めたのなら俺はとやかく言わねぇよ」
     けどな、と日本号は徳利を逆さに振った。ぽつり、と一滴だけ残っていた酒が、日本号の猪口に入った酒の表面に波紋を投げる。
    「お前が思う程、周囲も主も、お前が二振り目であることについて何も感じてないと思うぞ」
    「だが、そもそも主は二振り目以降の付喪神を顕現されることを良しとしておられない。何故、俺だけ顕現された。
     理由も分からないのに存在し続けるのは、正直つらい」
    「へし切なら何か知ってるんじゃねぇか」
    「……あいつには聞きたくない」
    「お前なぁ」
     むぅ、と唸りながら酒を煽ると、ぽん、と頭の上に大きな手が乗せられるのを感じた。頭蓋骨をわしっと一掴みにされる。無理矢理顔を近づけられ、目の玉を真っ直ぐ覗き込まれた。そんな真剣な顔はできれば戦場でしていて欲しい、酒なぞ呑まずに。
    「ガキみてぇなこと言ってんじゃねぇよ、『へし切長谷部』ともあろうものがよ。避けてたって仕方ねぇだろ、いつかは全力で衝突する日が来るのは目に見えてんじゃねぇか。
     大体な、勝てないだの追いつけないだの、なぁにを最初からあきらめたようなこと言ってやがんだ」
    「避けてるのはあちらの方だ……そもそもカンスト『へし切長谷部』に、カンストしてない俺の機動力で追いつけるわけないだろ、バカなのかお前」
    「バカはお前だ、そっちじゃねぇよ!」
     ああ誰だよ、コイツにこんなに酒呑ましたの、俺か、俺だよ。とか言いながら、日本号が俺の頭から手を放して自分の頭を掻きむしっている。

     いや、俺だって本当は分かってるぞ、お前の言いたいこと。
     分かってるけど、実際にあの『へし切長谷部』には今は勝てる気がしないし、追いつける気がしない。
     だけどまぁ、

    「お前の酒は美味いなァ」
     いい具合に酔いの回って、ふわふわした頭も体も気持ちが良いので、喉を鳴らしながらそんな風に言えば、
    「当然だろ、くそ」
    もっと普段から付き合えよな、と正三位殿は悪態吐いてそっぽ向きつつ、手ずから皿を片づけ始めた。
     ……うん、本当に美味かったので、また誘われたら付き合ってやらんでもない。




    コウラクエンデ
    「『しわす つきなし うしのこく』」
     例の、三日月から頼まれてた暗号文である。解読したのは俺では無く、博多だ。何でも、武田信玄式暗号というらしい。
     今回の暗号文の場合、横軸に「コウラクエンデ」縦軸に「ボクトアクシユ」と振って、升目を作り、そこにひらがな五十音を右から縦に並べて配置する。濁点や半濁点、小文字の「つ」「やゆよ」などは配置できない。
    「で、縦軸の方から『シ』横軸の方から『ウ』にある升目の文字は『し』たい。
     こんな感じで、文字を拾っていくと原文が分かるとよ」
    「なるほど。しかし『後楽園で僕と握手』など、ふざけてるな」
    「ネットで作成できる暗号ツールのデフォ設定がそうなってると。たぶん新たに縦軸と横軸で被らない文字列を考えるの、面倒だったとね」
    「暗号文の意味あるのか、それ。ちょっと調べれば誰でも解読できるだろう」
    「むしろそうでないと困ったんじゃない?」
     すらり、と背後で襖が開いた。顔を出したのは出陣帰りの加州清光だ。
    「おかえり、加州。ご苦労だった」
    「たっだいまー。負傷者なし、敵大将撃破。今浦島が主に報告に行ってるよ」
    「それは何よりだ。それで? 困る、とは?」
     加州には暗号文のことを話してある。コイツも古参の部類だし、口も固く頼りになると判断してのことだ。俺と同じで、主に対して拗らせると扱いにくいヤツではある。が、ここの加州は初期刀でこそないものの、落ち着いている。
    「うん、解読できないと困るでしょってこと」
    「だがこうして、間違って渡ったときに別の者にも知られるだろう」
    「けど、それが何を意味してるのかまでは分かんないじゃん。
    『しわす、つきなし、うしのこく』。一応『12月の新月の晩、午前2時くらい』ってことは分かるけど、その日その時間にどこで、何が起きるかは、メモを受け取るべきだった当事者しか知らないんじゃない?
     ちなみに、今年の12月の新月は10日だよ」
     なるほど。一理ある。
     しかしそれなら、最初から暗号文になどせずそのまま渡せばいいのではないか。そう言おうと口を開きかけたら、
    「といっても敢えて暗号文にしたのは、そのメモを渡す側の相手からしてみれば、その程度の暗号文も解けない・解き方を調べる術も持たないような輩は不要なのかもね。
     一種の通過儀礼というか、ふるいも兼ねてるんじゃないの」
    しれっと言う。
    「頭の悪いヤツは要らないと?」
    「ただの憶測だけどね」
     一理ある。が、
    「何のためにそんな試すような真似を――ま、まさか、秘密結社でも作るのか」
    「俺、長谷部のそういうとこ、結構好きよ。けど多分違うんじゃないかなー」
    ……何だかバカにされたような気がしないでもない。そして秘密結社じゃないなら何だと言うのか。問い質そうにも、
    「あーもうむり耐えらんない返り血くさい汗くさい! ちょっと風呂入って来るね」
    加州は手をひらひら振りながら部屋を出て行ってしまった。
     残された俺と博多は、何とはなしに顔を見合わせた。
    「……どう思う?」
    「どうも何も――」
     分からない点がまだ多すぎるたい、と博多は眼鏡を押し上げた。
    「そもそもこの暗号文を受け取るはずだった三日月宗近が、一体どこの本丸の者なのか?」
    「その三日月宗近は、この暗号文の受け取りを、あらかじめ承知していたと?」
    「承知していたのなら、この日付は何を意味してるのか?」
    「普通に考えっと、待ち合わせの日付じゃなかとか」
    「深夜に? 一体どこに」
    「さぁ?」
     ううーん、と二人そろい、似たような声を上げつつ首を同じ方向へ傾げてみる。
    「演練場で、こい受け取るはずだった三日月ば直接探すしかなか?」
    「といっても、この暗号文をうちの三日月が受け取ったのは、もう何カ月も前だぞ。本来受け取るはずだった三日月宗近にまた会えるとは限らんし」
    「これ以上、記録をあたって絞りこむのは無理たい」
    「ふむ……」
     とはいえ、俺も博多もしばらくは演練メンバーに組み込まれる予定はない。三日月本人に探させる、というのは、
    「ちょっと頼りなかね」
    「そうだな」
    いざ刀を握らせればあれほどのものなのに、どうも普段の三日月は『じじい』に徹する節がある。
    「……長谷部」
     ……分かっている。一番いいのは、一振り目に事情を話して頼むことだ。ああ見えてアイツは周りの者のことを本当によく見ている。演練ほぼ常連のアイツなら、文を受け取るはずだった三日月のことも、何となく覚えている可能性もある。
     そもそも最初にこの暗号文を受け取ったときに、相談していれば良かったんだ――が、
    「――アイツは別件で多忙だろう」

     俺は知っている。アイツが、薬研にこそこそと何かを探らせていることを。出陣の記録を見れば分かる。アイツは詰めが甘いんだ。
     ……おそらく主の密命だろう。だから知らないふりをしてやっている。

     結局、そういうことなんだ。
     俺は所詮、二振り目だから、本当に重要な主命は頂けない。
     ならばせめて、自分でできることは自分でやりきりたい。

     そもそもこの暗号文、どの程度重要なものなのか、切迫したものなのかがサッパリ想像できない。少なくとも師走の新月の晩までに、一ヶ月以上はあるが。
    「とりあえず、三日月には暗号が解読できたことを伝えておくか」
    「へし切には?」
    「……保留」
    「了解たい」
     博多はそれ以上追及することなく、解読した文字を連ねたメモを渡してくれた。礼を言い、それを手に早速三日月の部屋へ向かっていると、
    「無事に解読できたのか」
    日が落ちて薄暗くなった廊下で、白い布とすれ違った。内番で畑仕事だったらしく、手には芋の入ったザルがある。
    「ああ、博多がな。なんでも、武田信玄式の暗号文だったらしい」
    「そうか。それで? 何と書いてあったんだ」
    「『しわす つきなし うしのこく』」
     紙をわざわざ見て確認するまでも無く覚えた言葉を口にすれば、ふむ、と山姥切は首を傾げた。
    「12月、新月、深夜……なんだ、和歌か何かの季語かお題か?」
    「……そういう見方もあったか。いや、俺も博多も、ついでに加州も、てっきり12月の新月の晩、深夜に何かあるのかと」
    「――いや、あんたたちの方が的確な推測だろう。自分で言っておいて何だが、季語をわざわざ暗号にして託す理由が分からん」
     ふい、とそのまま、山姥切は横を通り過ぎて行く。気分を害した様子も特にない。視界の端をふわりとたなびく白い布の裾に、一瞬何かを思い出しかけたがさておいて。改めて、三日月の部屋へ向かう。
     今日、三日月は馬当番だったはずだ。いい加減には仕事を終えて湯浴みを済ませ、夕餉の時間までをゆったりと過ごしているだろう。
     歩いていれば、靴下越しにも少しずつ床板の冷えが伝わってくる。この季節、日が落ちるのはあっという間で、途端に空気が温度を失っていく。早く用件を済ませてしまおう、と早足になった。
    「三日月。居るか?」
     三日月の部屋に着いて、障子の前に膝を突き声をかける。だが障子の向こうから、いつもの穏やかな声はしない。
    「三日月? 開けるぞ」
     再び声をかけ、そっと障子を開く。そこに居たのは、口の前に人差し指を立ててこちらを見ている今剣と、その小さな膝を枕にして寝息を立てている天下五剣の姿だった。
    「眠っているのか」
     赤い視線に促されて、そっと部屋に入り障子を閉める。
    「だいぶおつかれみたいです。うまにすかれるのも、かんがえものですね」
     小声で笑いながら、今剣の手は三日月の髪の毛をゆっくりと梳いている。普通逆の絵面になるのでは、と思うが、違和感も無いのが不思議だ。
    「それで、どうしたんですか、長谷部。三日月になにかごようですか」
    「ああ、渡したいものがあって来たんだが起こすのも忍びない。出直そう」
    「ぼくがあずかっておきましょうか?」
    「……いや……」
     一応元は暗号文だし、三日月が俺以外の他の者に、この件に関して相談を持ちかけていた様子は無い。あまり大げさなことにしたくないのだとすれば、身内にこそあまり知られたがらないのではないか。
     そう思って躊躇っているうちに、
    「んん……かまわんよ長谷部。例の文のことだろう。今剣に託しておいてくれ……」
    もぞり、と、小さな膝の上で濃紺の頭が動いた。うっすらと開いた目の中、打ち除けと同じ月はまだ見えない。
    「すまん、起こしたか」
    「……いや、夕餉までには起きるつもりだったのだが……まだ、ねむい」
    「ねてていいですよ、三日月。このおてがみ、ぼくがたいせつにあずかっておきますから」
    「ふむ……たのんだ」
     ふあぁ、と小さな欠伸を噛み殺して、三日月の目がまた閉じる。すやすやと健やかな寝息を見る限り、このまま休ませておけばそのうち回復しそうだ。
     今剣と顔を見合わせて、ほっと息を吐く。
    「そういうことなので、これをよろしく頼む」
    「ええ、まかせてください」
     あんな風に言うのだから、別に中身を見られても三日月としてはかまわないのだろう。が、今剣は俺の渡した紙片を改めることなく、そのまま懐へ入れた。
     さて、これで俺の用件は済んだ。夕餉までもう少し時間もある。わずかでも書類を捌いておこう、と立ち上がろうとしたところで、
    「そういえば、長谷部。へし切杯のあいかたは、みつかったんですか?」
    にや、と赤い目が形を変えた。猫が遊ぶ対象をみつけたときみたいな目だ。ああもう、と額に手をつき大きく息を吐く。
    「どこからその話を」
    「でどころはしりません。けど、長谷部がじかいさんせんすることは、たんとうたちのあいだでわだいになってます」
    「まじか」
    「燭台切さんと日本号さんがさそって、ふられたけんも、わだいになってます」
    「まじか……」
     つみなおとこですね、と静かに笑う今剣に頭痛すらしてくる。この分だと、一振り目の耳にも入っているかも知れない。くそ、俺が参加することはギリギリまでアイツには知られたく無かった!
    「だってようやく、へし切と長谷部のちょくせつたいけつがみられるかもしれないんです。みんな、きょうみしんしんなんですよ」
    「そんな大げさな。ただのオニゴッコだろう」
    「でもほんきでいどむのでしょう?」
    「まぁな」
     負けるつもりはない。絶対にだ。
    「いわとおしも、たのしみにしてるんですよ。『長谷部もへし切も、お互い妙に避け合ってたからなぁ! 全力で当たるとどうなることやら』って」
    「……そんな風に見えていた、のか?」
    「ええ」
     うむ、などと今剣の膝の上の頭も何か頷いたような気がした――このたぬき寝入りじじいめ。
     だが、そうか……そうか。
     一振り目はともかくとして。そんなつもりは自分では無かった、が、周囲から見るなら俺の方もアイツを避けて見えたのか。
     ああいや、認めざるを得ない。先ほどの暗号文のことにしたって、俺は博多に進言されたというのに、あいつに相談するのを避けた。

     俺は主に迷惑をかけるような、無駄な衝突はしたくなかった。勝算無く勝てない戦いもしたくなかった。
     一振り目も俺との衝突を避けるために、近侍と、それまで自分の居た立場を丸ごと譲った。

     ……けど俺は、アイツに勝ちたくなってしまった。

     俺との衝突を避け、半分隠居こそしながら、それでいて、いつまでも日陰から周囲に力を尽くし続けるアイツ、あの変わり者を装う『へし切長谷部』に。
     ――いまだに主からの信用も厚く、密命すらも賜るアイツに。
     勝って、アイツの口から聞きたかった。
     何故命を賭してまで、俺を持ち帰る必要があったのか。二振り目である『へし切長谷部』を顕現する必要があったのか。俺が、この本丸に存在する意味は何なのか。お前はどうしてそうなのか――他にも色々、そう、俺の顕現する前の話とか。

    「長谷部がたのめば、きっとだれでもあいかたになってくれますよ。あ、ぼくはさんかしないのでむりですが」
    「なんだ、今剣は参加しないのか」
    「ええ。


     いちどへし切には勝ってますし」


    「なん――」
    ……だと。



    ボクトアクシュ
     演練場に来るのは久しぶりだ。といっても俺は演練に参加するのではなく、付き添いである。例の三日月探しの件があったので、主にお願いした。
     参戦しないのに付き添いを申し出た俺に主は驚いておられたが、特に理由を詮索することもなく許可を下さった。さすがは主、懐広く寛大だ。

     さて、本日の我が本丸の演練部隊。部隊長は薬研(極)、隊員は蛍丸、三日月宗近、へし切長谷部(一振り目だ)、骨喰藤四郎(極)、物吉貞宗(極)の六振りでお送りいたします。
     極の短刀・脇差以外は皆練度カンストなのは言うまでもない。演練は戦場に出られないアイツらにとっては、大切なガス抜きの場なのだ。
     他にも練度カンストしている刀剣は何振りかいるので、メンバーは固定では無い。なお演練部隊の配属は俺では無く、同じくカンスト刀剣である山姥切の仕事である。

     本日午前中、演練相手の候補は、中程度の練度の極短刀を中心にしたところが一つ。うちと同じ、練度カンスト連中のガス抜きを目的とした部隊が一つ。それに新刃育成部隊が二つと、高練度極短刀のゴリラ部隊が一つ。
    「あのゴリラ部隊と戦うの、やだなー」
    「何もする暇なく、気づいたら地面に伏しているのだろうな」
     大太刀と天下五剣が二人してため息を吐く。午後にも演練はある。五戦勝てばいいのだから、嫌ならそことは戦わなければいいと思うのだが、
    「薬研なら、一人くらいは討ち取れるんじゃないか?」
    「骨喰か物吉が、初手を引きつけ防いでくれればな」
    「……俺たちもまだ極めてから日が浅く、防ぐのは慣れてない。真っ先に沈められてしまうかも知れないが、何事も経験しなければ熟達しないだろう」
     などと打刀以下三名は妙にやる気になっている。物吉はにこにこと見守っていて、どちらに転んでも異存は無さそうだ。
     俺はと言えば、そんな風に談笑する部隊の傍らで三日月探しに勤しんでいた。先ほどから目の前を通り過ぎていく部隊の中で、三日月は片手に余る程度には見かけた。が、どの三日月にも個体差こそ感じたが、様子のおかしいところは無かった。
     一応過去の記録からどこの本丸の三日月なのか、いくつか目星をつけてはいた。午前中にこの演練場に訪れる予定の本丸についても、配布されたエントリーシートで確認はしている。その中で、候補は3つ――いずれもうちの対戦予定相手ではなかった。
    「ではそういうことで、最善を尽くそう」
     俺が刀剣ウォッチングしている間に、どうやら部隊の中で作戦はまとまったらしい。行くぞ、と相変わらず男前な短刀が一声かけると、揃って仕合場へと歩き出した。黙って背を見送る。
     ……途中振り返った一振り目がひらひらと軽薄に手を振って来たので、とりあえず他刃のふりをした。

     これから一戦目が始まる。終わるまでの間、俺は一人だ。本来なら自本丸の部隊を見守るべきだが、続けて三日月探しのために移動する。なるべく挙動不審にならないよう堂々と、かつ目立たぬようにひっそりと。
     各仕合場の観覧スペースには、控えの刀剣たちが揃って自分たちの本丸の演練を見守っている。俺はそこを渡り歩いてみたり、休憩スペースで寛いでいる刀剣たちの様子をさりげなく見守ってみたりした。が、
    「やはりいない、か」
    そもそもどこの本丸も、三日月はあまり単独行動をしていなかった。文を袂に入れられるような隙などありはしない。隣には三条の兄弟刀がいたり、祖父の面倒を見る孫のような役割の短刀がいたり、あるいは大包平に一方的に絡まれていたりする。絡まれて、といっても、そこはさすがに年の功というものか、案外上手くあしらっていたりする。じじいだからか。

     いい加減、一戦目が終わる。席を外していたところでとやかく言う連中では無いが、一旦戻るか。

     そう思い振り向いたところで、そいつは視界の端に入って来た。
     三日月宗近ではない。どこかの審神者だ。和装で顔の前に布を垂らし、隣におそらく初期刀らしい歌仙を連れている。が、
    (なんだ?)
    妙な違和感を感じ、つい足と視線を止めてしまった。違和感と言っても、どこがどう、と具体的に言葉にはできない。ただの気のせいかも知れない。でも無視できなかった自分の勘を、信じたくもある。
     どうするか。このままそっと様子を見るか、それとも自分の演練部隊の戦果を見に戻るか。
     頭で悩みつつも行動は正直なもので、俺の脚はその二人を静かに追い始めていた。雑踏に紛れ、それとなく距離を置いて。
     審神者と歌仙はひとことも話をすることなく、まっすぐと歩いていた。幸いなことに、俺の本丸が演練をしている仕合場の方だ。ちょうど演練が終わったらしく、カンスト部隊相手にやや傷を負ったうちの部隊の連中がぞろぞろと出てきたところだった。
     とっさに、アイツらから見えない位置に移動する。審神者と歌仙は意にも介さず、うちの連中を通り抜け――
    (……なに……?)
     一振り目の『へし切長谷部』そすれ違いざま、歌仙の口元が僅かに動いた。何を呟いたのか……読唇術を学んでおけば良かった。それに一振り目は何も応じない。だが二人が交錯したあと、一振り目が本丸内では決して着用しない正装のカマーバンドに、差し挟まれた紙――
    (あの歌仙が、どこかの本丸に三日月に文を託そうとしたヤツか? ということは、あれは一振り目に宛てた文……それとも、三日月のときのように、人違いか?)
     カソックが浮き上がり、カマーバンドに差し挟まれた紙が隠れる。一振り目は何も無かったかのように薬研と談笑しながら休憩所の方へと向かっている。審神者と歌仙もまた、訥々と歩いている。
    (……ええい、くそ!)
     一振り目を尋問しても、はぐらかされそうな気がする。うちの連中だって子どもの遣いではないんだ、付添の俺がいなくとも二戦目に勝手に向かうだろう。俺の脚は、無言で歩き続ける審神者と歌仙を追っていた。
     と、いつの間にか人通りが完全に途絶えていた。使う予定のない仕合場の前に来ていたらしい。通路の照明も落とされ、薄暗い。誘い込まれた、と気づいた時には、歌仙と審神者に前後から挟まれていた。背筋に冷たい汗が伝うのを感じる。
    「君、どこの本丸のへし切かな? どうして僕たちのことを尾行したんだい?」
     まったく、雅じゃないね。そう言って、歌仙は口元だけで笑って見せてくる。
     ……この歌仙、強い……俺より練度はかなり上だろう。仮に立ち合うことになれば、恐らく俺の勝ち目は薄い。
    「は、貴様ら自意識過剰か? 尾行などしていない、ただ考え事をしながら歩いていて、いつの間にかこんなところまで来てしまっていただけだ」
     だがこちらとて、気圧されるなどと無様な真似を晒すわけにはいかない。あえてへし切呼びには甘んじつつ、負けじと前歯を剥き口の端を頬の筋力で引っ張り上げる。ひくひくと痙攣などしてはいない。
    「へぇ。雅ではないけど、面白いことを言うへし切だね。
     別に君がこれ以上深入りしないのであれば、そういうことにしておいてあげてもいいんだけど……どうする、主?
     念のため、消しとく? さっきのやり取りも見られてたみたいだし」
     俺の背後で、歌仙の主である審神者が一歩こちらへ近寄る気配。目の前の歌仙は本体にはまだ手をかけていない。俺も下手に相手を刺激しないために、本体には触れていないが、どうする。歌仙から目を離したくないが、審神者にも何か攻撃の術式があるかも知れない。とりあえずこの主従双方が視界に入るよう、右半身を引く。

     どうする、どう立ち回れば、この状況を打開できる? 一歩、また一歩と審神者と歌仙はこちらへ距離を詰めてくる。歌仙の手が、鯉口を切った。まだだ、もう少し引き寄せたい――そう、あと一歩近づいたなら、刀を抜いてやる。
     そう思った時。
    「よせ。今そいつを斬ったら騒ぎになる」
     自分の声帯が勝手に振動したのかと思った。が、違った。俺の後方、数mのところからだ。
    「長谷部」
     ……聞き間違えるはずがない。俺と同じ『へし切長谷部』だ。しかもそいつは――
    「抜けてきて大丈夫だったのかい。君のところはすぐ二戦目があるだろう」
    「十分間に合う。そんなことより、仕合場外での刃傷沙汰はまずい。それに、その長谷部はうちのだ。ただでさえ薬研が何か勘付きかけているのに、斬られて俺が怪しまれては適わんからな」
    「ひと、ふりめ……」
     見たこともない顔だった。見たくも無かった、そんな顔。全ての表情を削ぎ落とした、『へし切長谷部』――一振り目の顔なんて。
     いやそんなことより、どういうことなのか。この不審な行動を取る歌仙と一振り目は、知り合いなのか。先ほどカマーバンドに挟まれていた紙片は、今は見受けられない。
    「ああ、なるほど。しかし斬らないならどうするんだい? 君も後々、彼に追及されたら困るだろう?
     僕たちと――歴史修正主義者と、接触を持っていたなんて」
     ……いま、なんて……?
     この歌仙、いや、歌仙の姿をした何者かは、今何て言った!?
     血液が一度に温度を上げた。爪先から頭頂部まで、体の中を一気に熱が昇る。カチカチ言うのは歯の根か。筋肉が震えて制御できない程、俺は今感情的になっている。
     ――そのせいだろう、すぐ背後まで近づいていた気配に全く気付くことができなかった。
    「忘却の術式を使いましょう。彼には、ここで私たちと出会ったことを忘れてもらいます」
     抵抗する暇も無かった。男とも女ともつかない声が、耳に直接吹き込まれた。振り向いた瞬間、目のあたりを鷲づかみにされる――冷たい。ヒトの子であるはずの審神者が、俺よりも体温が無い。こちらの熱がその冷たい手に奪われて、熱とともに力すら抜けていく。急速な眠気とともに、意識が遠のいて物が考えられなくない。
     膝が折れて崩れ落ちるのを、後ろから審神者よりも暖かい手が支えるのを感じた。解放され、閉ざされかかった視界に入った、白手袋に包まれた手――一振り目。
     先ほど審神者がしたように、耳元に吹き込まれた。暖かな吐息とともに、小さな呟き。

    「……すまん」

     ……よくわからん、が……謝るくらいなら、する、な……。



    「……べ、……せべ――はせべ」
     ええいうるさい、耳元で人の名前を連呼するな!
     そう言いながら、目を開く。顔の前に広がるのは、蛍丸の顔だった。ああそうか俺は、
    「寝てしまっていたか……」
    三日月探しの途中で、休憩所のテーブルでいつの間にか眠ってしまっていたらしい。目の奥が重い、痛い。
    「演練は?」
    「午前の部が終わったから呼びに来た。とりあえず四勝一敗。あのゴリラ部隊、やっぱむり」
     眉間を軽く揉み解して尋ねれば、ふくれっ面で蛍丸が答えてくれる。ずっと同じ姿勢で寝ていたせいで、背骨が痛い。軽く首を回して解していると、
    「ねえ、大丈夫? 顔色悪いよ」
     よっぽど普段の疲れが溜まってたんだね、と蛍丸が額に手を当ててくる。自分の額にも反対の手を当てて、
    「熱は無さそうだけど」
    などと首を傾げている。俺の方が首を傾げたい。ここ数日は特別に疲れるようなことなど、何一つ無かったはずだ。でもああ、そういえば、
    「夢見が悪かったんだろう」
    「夢?」
    「ああ」
     全く内容は覚えてはいない、が、何かひどく、嫌な夢を見ていた気がする。指先がちりちりしたり、背中に走る寒気や少し早くなった心拍は、多分その名残だろう。軽く頭を振って、息を吐いた。立ち上がり、蛍丸の頭の上に手を置く。
    「心配かけてすまなかったな。昼食を摂りに戻ろう」
     今日の昼食は、歌仙が作ってくれたとびきりの和食だ。昼時なのに少しも空腹感を覚えないが、きっと重箱の蓋を開ければ腹も鳴る。



     蛍丸と連れ立って歩く先、他の演練メンバーと談笑していた一振り目がこちらに気づき、相変わらず軽薄にひらひらと手を振ってくるのには答えない。
    長谷部と掲示板と【三振り目】
     ……避けられている。

     誰にって、一振り目に、だ。いや、以前から衝突を避けようと立ち回っている節はあったが、今はそんなものではない。明らかに、避けられている。

     たとえば、鶴丸とつるんだイタズラが減った。いいことだ、と思うが、釈然としない気持ちもある。一応説教ついでに捕まえた鶴丸に尋ねたが、あの白じじいは通常運転だった。急に付き合いの悪くなった一振り目に、特に思うところはないと言う。
     まあ、ああ見えて鶴丸は頭もいいし気も回る。口を閉ざすのならそれでいい。

     他にも、俺が出入りするようになった左文字部屋には寄り付かなくなったようだし、日本号も飲み会の付き合いが悪くなった、とぼやいていた。
     そういえば、秘密裏(のつもりだったらしい)に行っていた薬研の出陣も無くなったようだ。報告書に上がっていない。主の密命はもう終わったのだろうか。

     とはいえ、アイツの様子が大きく変わったのかといえばそんなことは全く無い。口を開けば相変わらずのマイペース、自分が動かなくなった分、短刀や新撰組の若い刀に何やら吹き込んで、本丸内に時折つむじ風程度は巻き起こしたりする。
     そう、たとえば、
    「……『第一回 本丸一武道会』!?」
     こんな掲示で妙な催しを告知したり、とか。

     へし切杯の相方がまだ決まっていない俺は、とりあえず次の開催告知が出ていないか掲示板をチェックしに来たのだった。
     宗三の言っていたとおり、この掲示板は妙なサークル勧誘ばかりではなかった。定期的に短刀たちが作成した瓦版や、歌仙の作った詩歌サークルの作品が展示されていたり、国広兄弟の修行日記なんてものまであったりする。
     そんなこの掲示板の密やかな目玉は、写真を趣味にし始めた大倶利伽羅の撮ってくる動物写真だと俺は思っている。庭先の猫や屋根の上のカラス、往来で行き当たった柴犬などが、大倶利伽羅の優しい目線から楽しめる最高の娯楽だ。
     で、今日もそんな風に瓦版や写真を楽しんでいたら、ふと見つけてしまったのが『本丸一武道会』なるものであった。いつから貼り出されていたのか、参加者登録の締め切りまであと一時間ほどしかない。
     主催は、当然のように一振り目になっていた。ちなみにポスターに使われた写真が明らかに某漫画の……いや、誰か来てはいけないので俺はこれ以上触れないぞ。
     要は希望者を募って行う、トーナメント形式の手合せとのことだが、
    「俺たち育成待機組には、ちょっと厳しい企画だなぁ」
    「……ですネ」
     隣で同じ掲示を見ていたソハヤと村正が首を傾げている。二振りとも、まだ特付になったばかりだから無理も無い。
    「でも、カンストしたヤツラや極たちの手合せは興味あるな! 兄弟は出るんだろうし、『技は見て盗め』ってな」
    「ええ。蜻蛉切の応援に、ひと肌脱ぎまショウ」
     カラカラと笑いながら、二振りが掲示板の前から立ち去って行く。出られない割にはそう悪くない反応に、俺は首を傾げた。確かに、見て学ぶものもあるだろう。が、
    「『見ていればそのうち身体が疼いて、いつの間にか相手も関係無く皆乱れてしまうんだろう』と考えていたんだろう」
    「うわっ!」
    耳元で青江の声がして、つい肩が跳ねてしまった。やめてくれ、背筋がぞわっとしたぞ。
    「……武道会のことだよ?」
    「分かってる! 耳元で囁くなッ」
    「ふふ、長谷部は耳が弱いんだね」
     くすくす笑っている青江は戦装束で、これから遠征に出向くところらしい。半日遠征なので、夕餉には戻っているだろう。
     それはともかく、青江の言ったことはまさしく俺の考えていたことだ。言い回しはアレだが。
    「それで、長谷部は参戦するのかい?」
    「……しない。そんなものに付き合っている暇があったら、仕事をする」
     ただでさえ、提出期限の迫った書類が溜まっているのだ。
    「そうか、残念だな。君と一度、シてみたかったんだけど。
     ……手合せの話だよ」
    「一振り目とすればいい」
     極めた脇差の相手など、今の中途半端な俺にできるわけないだろう。
    「へし切は今回出ないってさ。審判役に徹するって。和泉守が文句言いまくってる」
     通りすがりの大和守に言われて、青江が肩を竦めた。なるほど、それで俺に絡んできたわけか。だが一振り目の動向など関係なく出んぞ。絶対に出ん。
    「へし切長谷部ともあろう者が、負けるのが怖いのかい?」
    「ああ、怖いとも。ついでに、未提出の書類ができて政府に目をつけられるのはもっと怖い」
     安い挑発には乗らん。つれないねぇ、という青江の心底残念そうな声を背に聞きつつ、掲示板を後にする。途中で厨に立ち寄り茶を淹れて、執務室へ。

     パソコンを起ち上げつつ、ふと障子を開いて外に目をやる。
     晩秋の乾いて澄んだ風が、室内の滞っていた空気を掻き回していく。空は高いが色が淡い。先々週には確か、陸奥守が集めた落ち葉で焼き芋を焼いていた。
     今、庭木の葉はずいぶんと少なくなっている。もう数日もすれば、冬の足音すら聞こえてくるだろう。
     庭の片隅では、ちょうど大倶利伽羅が写真を撮っているところだった。今日の被写体は鳩だ。遠征出戻り用でも修行短縮用でもない。普通のキジバトである。
     近いうち、掲示板の写真がまた入れ替わるのだろうなと期待を寄せつつ、執務を始める。作業に集中しているうちにいつの間にか博多がやって来て、気がつけば隣でそろばんを弾いていた――手元にある書類は、『第一回 本丸一武道会 予算案および参加者一覧』。
    「……予算も何も、日頃の手合せの延長戦じゃないのか?」
    「んあ? ああ、まぁそうたいね。けど備品の木刀の数と種類が足らんのと、きっと破損してさらに足らんくなるけん、あらかじめ買っといた方がよかね。それから、参加者や観戦者に配布する飲み物や間食、打ち上げと称した宴、優勝者への商品――」
    「備品や優勝賞品はともかく、飲み物や間食は経費で落とさせる必要無いだろう!? 会費制にして集金しろ!」
    「それだと参加者が減るって、へし切が。主もそれに同意したばい」
    「あああああもう!」
     ただでさえ今月は手入れ資材などが嵩み、予算的に厳しいのに、アイツときたら!
    「いざとなったらアイツの私費から補填させてやる……」
    「へし切も金欠って言って、俺から借金してったばい」
    「ばかだなアイツ」
     よりにもよって、博多から借りるなど。せいぜい痛い目を見るがいい、愚か者め!
    「というか、一体何をそんなに浪費したんだアイツは」
    「本丸の改造費たい。次のへし切杯に備えて、今まで以上に色々増設しとった。何か焦ってるようにも見えたとね」
    「……博多」
    「へし切と約束しとるけん、最新版は売れんよ?」
    「その一つ前の版でいい。言い値で買おう」
    「乗った」
     そろばんを弾き終え、紙に何やら書き込んだ博多が顔を上げ、にっと笑う。続いて紙を捲ると、参加者名簿が現れる。俺も横から覗き込んで見る。
     和泉守を筆頭とした新撰組の打刀連中に陸奥守、同田貫、三名槍も漏れなく参加するようだ。宗三と江雪の名は無いが、小夜や秋田ら極短刀、極脇差、カンスト・高練度の太刀組が名を連ねている。大太刀は蛍丸しか出ないらしい。
     ちなみに、打刀は修行道具の都合上まだ極がいない。
    「……珍しいな、明石が出るのか」
    「愛染と蛍丸に強制参加させられたと」
    「なるほど」
     これは中々、見せ物としては面白いことになりそうだ。
    「当日はカメラを回して、大広間のテレビと執務室のテレビにライブ配信するけん。長谷部も仕事ばかりしとらんと、視るとよか」
    「要らんことをするな。書類が間に合わなくなる」
     ようやく何とか作成し終えた書類をプリンタで出力し、束ねてから主の部屋へ向かう。博多は資料室に用があるらしく、途中で別れた。

     最近、主は現世の用事がお忙しいらしく、不在がちだ。

     今日も空っぽの部屋の中に一声おかけして、お預かりしている鍵で開錠し入室して、書類を束ねて置いておく。どうしても提出前に、主の検閲とサインの必要な書類だ。お戻りになられたら、すぐに取りかかって頂かねば。
     ついでに、軽く机の周りを整頓してから退室する。元通りきちんと施錠して、執務室へ戻るべく歩いていると、
    「……あれは【三振り目】か」
     廊下の突き当たりの分かれ道で、微かに紫色の布地がたなびくのが見えた。ヤツは夏以来、時折こうして俺をどこかへ誘うかのように現れる。大概時間がない時なので、追わずに見なかったふりをしてやり過ごしていた。
     害が無いのだから、放置しておけばいい。悪いものなら石切丸と青江が何とかしていたはずだ。
     なので、今回もそうしようと思っていたのだが、
    「ん?」
    廊下を突きあたり、ヤツの居る方に背を向けて反対方向へ歩き始めたところで、俺の足は止まった。背中に視線を感じる。ヤツ以外の刀剣でも居たのか。
     振り返れば、そこに俺同様に戦支度のみを解除した『へし切長谷部』が佇んでいた。空手のまま、ただ淡々と表情も無くこちらを見てくる。
    「なんだ? 何か言いたいことがあるならハッキリ言ってみろ」
     同じ姿のまま、まどろっこしいことをするなイライラするだろう! そう促すが、【三振り目】が口を開く気配は無い。こちらに背を向けて、またゆっくりと歩き始める。
     ……これはもしや、ついて来いということか? 突き当りを左に曲がるのを確認して、俺も後を追う。
     いつかと同じように、【三振り目】は角を曲がる前にちらりとカソックの裾だけを見せてこちらを誘導する。多分敢えて俺が負わずに別の道を選ぼうとしたら、先ほどのようにまたじっと無言で訴えて来るのだろう。
     幽霊とは口がきけないものなのか? しかし「うらめしや~」なんて決め台詞があるくらいなのだから、皆が皆話せないとも考えにくい。
     ついでなので、頭の中に本丸の地図を展開する。この【三振り目】は隠し通路の類を把握していないらしい。歩いて行くのは、来客が来たときに案内する経路図とほぼ等しい通路のみだ。
    「なぁ、『へし切長谷部』」
     黙って歩くのに飽きた俺は、ふと目の前を横切るカソックの裾に声をかけた。それでも相手の足は止まらない。
    「お前は、どこの長谷部なんだ。どうしてこんなところに迷い込んだ」
     追い駆けつつ、突き当りを右に曲がる。と、少し距離を置いた先に、さっきと同様【三振り目】は立ち尽くしていた。変わらず表情は動かぬままに、口元だけが動く。だから俺は読唇術など――

     ……呼ばれた。

     できないと思っていたが、ほんのひとこと程度ならできたらしい。【三振り目】の言葉が空気を振動させることは無かったが、何を言ったのかはハッキリと分かった。
     だが、
    「呼ばれた? 誰に、どうして」
     続けて放った問いには答えが無かった。踵を返し、【三振り目】は先を行く。速くも無く遅くも無い歩調。
    「……俺か? それともアイツ――一振り目か?」
     懲りずに背へと問えば、律義にヤツは次の通路で足を止めていた。口だけがまた静かに動く。
     ――帰りたい、と。
    「……は?」

    「俺と同じで、自分の居場所へ帰りたいと願うヤツに呼ばれた」

     その一言だけが、ハッキリと空気を介して俺の鼓膜を振動させた。
    長谷部と鋼の見る夢「それで? 無防備にも君が【三振り目】とやらにホイホイとついて行ってみれば、辿り着いたのは資材置き場だった、と」
     含みのある青江の視線を受けつつ、俺は頷いた。ちなみに今、居るのは石切丸の祈祷部屋である。

     あの後、【三振り目】は一言も言葉を発しなかった。背中で「これ以上は答えない」オーラを垂れ流しつつ、俺を誘導した先は、青江に先ほど言った通り、資材置き場である。
     俺がそこへ一歩踏み込むなり、【三振り目】はちらりと俺の方を一瞥だけして、煙のように姿を消した。幽霊と言うのは本当に、あんな風に姿を消すんだなぁと感心したものだ。
    「というか、そもそも付喪神が幽霊になるなど」
    「ありえないことでも無いと思うよ。本来なら僕らは刀解されたり破壊されたりすれば、本霊に戻る。
     けど、どうしても現世に未練があれば、一時的に本霊への帰還を先延ばしに出来るんじゃないかな」
     なるほど、そんなものだろうか。ということは、あの【三振り目】の未練とは、
    「……自分の本丸に、帰りたかったのだろうね」
    日課の祈祷を終えた石切丸がやって来て、俺が手拭いに包んで持参した鉄の塊に目を伏せた。【三振り目】が姿を消したあたりに積んであった、玉鋼に紛れていたものだ。

     ……おそらく、刀剣の破片。遠征先で拾って来た玉鋼の中に紛れていたものと思われる。

     破片といっても小さな物で、気づかないうちに他の玉鋼と一緒に溶かしてしまっていたかも知れない。返り血が錆びついて、銘など推し量りようも無いが、きっとこれが【三振り目】の本体の一部なのだろう。
    「もし鍛刀するときに混入してたら、どうなったんだろうな……」
     やはりへし切長谷部が鍛刀されたのだろうか。その場合、記憶や経験は受け継がれたのだろうか。
     そんな疑問を口にすれば、
    「鍛刀前に妖精さんが気付いて避けただろうから、あり得ないことではあるけど、どうだろうね?
     そもそもその折れた刀剣の破片には、何も宿って居ないよ」
    石切丸に言われて、俺は首を傾げた。
     何も宿って居ない? しかし、
    「これは、【三振り目】の本体の一部ではないのか?」
    「彼の本体の一部だろうけど、それに魂が縛られてるから幽霊として現れたわけでは無いみたいだね。
     きっとその破片は、触媒の役割を果たしたんだ。彼は君に言ったんだろう? 『呼ばれた』って」
     そうだ、確かにあの時【三振り目】は言った。自分と同じ、帰りたいと願っているものに呼ばれた、と。
    「元は、その破片の落ちていた場所で彷徨っていたのだろうね。けれどうちの遠征部隊がその破片を持ち帰り、かつ、この本丸内の誰かの想いに共鳴して、引き寄せられてしまったんだ」
    「でも、一体誰が『帰りたい』なんて……ま、まさか主が?」
     最近主は不在がちなのは、ただ多忙なだけではなくホームシックから現世へ戻り、審神者を辞したいと思っているのでは!? そう思い至ってしまえば、顔から一気に血の気が引くのを感じた。俺はまた、捨てられるのか。そんな、置いていかないで下さい、主。主、主!
    「心配しなくとも、主は僕たちを捨てるような心変わりなんてしていないと思うよ。まだ若いから、多少移り気なのは仕方ないけどね」
     ……審神者業の話だよ、と。いつものように、飄々とした調子で青江が笑う。だがその後ろにいる石切丸の表情は決して明るいものでは無いのが心配だ。
    「石切丸?」
    「……ああ、うん。なにかな?」
    「いや」
     いつもの温和な笑みとはかけ離れた顔だったので、つい声をかけてしまったが、
    「まぁとにかく、【三振り目】は悪いものではないから祓う必要はないと思うよ。それより長谷部、その破片から元の本丸を割り出してあげることはできないかな。
     元の本丸に戻してあげれば、きっと彼も未練なく本霊の下に戻れるだろうから」
    いつもの表情に戻り、そんなことを言われてしまえば追求する気もおきなくなる。俺としても、同じ『へし切長谷部』としてコイツの気持ちが分からなくはないから、そうできるに越したことはない。
     が、
    「さすがにこれだけではな……そもそもいつ、どの時代の遠征で拾って来たものかも分からん」
    「けれど、遠征先で刀剣破壊が起こるケースなど限られてるだろう? 政府に問い合わせれば、何か分かるんじゃないかい」
    「いや、むしろ前例があるか怪しいだろう。
     基本的には安全の保障されてるはずの遠征先で破壊されるなど、どんな状況だ? よほどの手負いの状態で派遣されたか、意図せぬ遡行軍の襲撃でもあったか――」
     前者であれば、【三振り目】は元の本丸で、あまり良い扱いを受けてなかった疑いがある――考えたくはないことだが。
     後者であれば、遠征先が今後は戦場に変わるということにもなりかねない事態だ。どちらであっても、放置するべきではない。
    「まずはうちの連中が、どこからこの破片を拾ってきたかの洗い出しだな」
     また過去資料の洗い出しか。紙束からパソコンに移しておいて良かった。博多に感謝だ。
     青江と石切丸に礼を言い、改めて破片を包み直す。あまりに軽い鉄の塊を手に廊下へ出たところで、
    「なるほどね、あれが【三振り目】かい。直接見るのは初めてだ」
    障子からひょっこりと頭を出した青江が呟いた。視線の先で紫色のカソックの裾が閃いて、廊下の角を曲がって行く。
    「祓われるかも知れんというのに、こんな場所に来るなんて。幽霊のくせに、段々慎みが無くなって来たなアイツ……」
     いや、初対面からして白昼堂々と現れたのだから、端からおおよそ幽霊らしい慎みなど無かったか。まぁ『へし切長谷部』なのだから、そんなものか。俺でも必要があれば、そうしたかも知れん。
     思わず肩で息を吐いて、【三振り目】の向かうのとは反対方向へと歩き出す。少し離れて後ろから青江がついて来た。どうもそのまま自室へ戻るつもりらしい。ふと物問いたそうな気配を感じるが、あえて振り向かない。どうせ何を聞かれるかなんて分かってる。
    「そういえば長谷部、へし切杯の相方は決まったのかい?」
     ほら来た、これだ。
    「まだだ。が、お前と組むつもりは無いぞ」
    「おや、誘う前からフラれてしまった。ふふ、長谷部は本当につれないねぇ」
     少し歩調を緩めてやれば、追いついてきた青江は隣に並んだ。こちらを見上げる目は、俺の内心を見透かそうとするかのように笑んでいる。
    「誰か、一つになってもいい相手がみつかったのかい? へし切杯の相方として、だよ」
    「まだだ」
     うっかりと、ゴーヤを食べた時のような顔になった自覚はある。正直なところ、相方探しなど面倒で仕方が無かった。別に一人でも、俺はアイツに勝てるよう手を打つことはできるし、むしろ相方など足手まといになりかねない。いや、確実になる。戦場以外で相手に合わせられるほど、俺は器用な性質では無い。
     だがへし切杯は必ず二人一組でなければならないらしい。一振り目のヤツにどんな意図があってそうしたのかは分からないが。
     いっそ、誰でもいいから適当に相方を決めてしまおうか。その上で別行動を取ることを承知してもらえば――
    「それなら、彼と組んでみてはどうだい?」
     こちらの表情から俺の苦悩を読み取ったらしい青江が、くすくすと笑いながら指を差してくる。なんだ、俺の背後に誰かいるのかと振り返るが、誰も居ない。
    「その、長谷部がしっかりと握りしめている彼のことだよ」

     青江にあんなことを言われたからだろうか。
     ……夢を見た。

     ここではない本丸だった。
     ジワジワと蝉が鳴いていて、捲った腕が真上に昇った太陽にチリチリ焦がされるのを感じる。手の中には収穫したばかりの野菜が笊に入れられていて、胸の内を満たすのは誇らしさと期待――主がお喜びになられるであろうという期待、だ。
     隣で汗を拭う燭台切が、何か声をかけてくるが聞こえない。それに答えたはずの自分の声もまた、聞こえない

     野菜の入った笊を燭台切に預けて、俺は部屋へ戻った。軽く汗と汚れを拭き取って、いつものカソックを纏う。急いで燭台切のもとへ戻れば、隣に主が立っておられた。
     だが俺の知る主ではない。顔も背格好も全然別の人間だ。なのに俺は確かにその人間を主だと認識していて、そして落胆していた――燭台切が、野菜の入った笊を手渡していたからだ。
     もちろん燭台切は、それが俺の、その本丸の『へし切長谷部』の育て収穫したものだと説明はしていた。だが、俺はこの手で、主にその笊を手渡したかった。
     笊を受け取った主は微笑んで、こちらの姿をみつけ、手招いた。そうして呼ばれた俺が跪こうとすれば、手を取って立たせて、抱きしめて下さった。

     ああ、こんなことならきちんと湯を浴びるのだった、と。
     そんな風に思ったところで、

    「おい起きろ、夕餉の時間だ」
    肩を揺すられて、目を覚ました。どうやら執務室で仕事をしていて、気づいたら転寝をしていたらしい。
     慌てて身体を起こせば、こちらの顔を覗き込んでいた大倶利伽羅が、驚いたように仰け反っている。
    「あ、ああ、すまん。呼びに来てくれたのか」
    「……通りすがりに声をかけただけだ。少しだけ開いていた襖から、あんたが机にうつぶせて寝ているのが見えた」
     慣れ合うつもりはない、というスタンスは崩さないまま、しかし目元が穏やかなままに大倶利伽羅は立ち上がった。首にはいつも撮影に使っているらしいカメラがある。どうやら本当に自室に戻る前に、ただ通りすがっただけらしい。
    「先に行く。光忠が不機嫌になる前に、来い」
     言うだけ言って、さっさと廊下へ出て行く。その背を見送ってから、ふと思い出す。
     ……襖は確か、きちんと閉めたはずだ。なのに何故、隙間が空いていたのだろう。
     気づけば日はすっかり落ちていて、室内の空気もずいぶん冷えてきている。俺が転寝している間に誰かが立ち寄ったのだろうか。
     と、そこでようやく気づいた。肩に羽織が乗っている。なるほど、どうりでこれほど冷えた中で夏の夢など見られたわけだ。
     見覚えがないので、誰の物かは分からないが、
    「誰かが来て、お節介を焼いて行ったのか……」
     誰か、なんて言いつつ、何となくその持ち主には見当がついた。薄く残っている花の香りは柔軟剤のものではない、持ち主特有の匂いだ。
     舌打ちをしそうになるのを堪えて、羽織を畳んだ。突っ返すならきちんと洗って整えて、気づかれないように部屋へ返しておいてやる。

     執務室の照明を落とし、羽織と鉄塊を手に廊下に出た。冷えた床板を踏みながら自室へ向かう。歩きながらふと、そういえば先ほどの夢の『へし切長谷部』は、やはり【三振り目】だったのだろうか、などと考えた。

     ……鉄の塊は、手ぬぐい越しにも冷えていた。少しでも寒くないようにと、俺は握った手の上から羽織を乗せた。
    長谷部と第一回本丸一武闘会 先に仕掛けたのは、厚藤四郎だった。
     猫が後ろ足で跳躍するように力を溜めて、一息に相手――同田貫正国の懐へ飛び込む。
     だが同田貫がそのくらいのことを予見できぬはずもない。喉笛を狙い、抉り込むように放たれた突きを紙一重、最小限の動作で躱したかと思うと、
    「キエェェアァ!」
    体勢を崩した厚に向かい、力いっぱい木刀を振り下ろす。
    「うおわっっと」
     だが厚も極短刀の端くれ、倒れる身体を立て直すのではなく、その勢いを利用して前へと倒れ込むように前転して距離を取り、
    「あっぶねぇ……」
     素早く構え直す。



     ついに坊主が走る季節になった。本丸内ではぼちぼちと年越しや、大掃除に向けての段取りを、初期刀や古参連中が始めていた中。
     今日は楽しい、武闘会。
    「いや全然楽しくない……」
    「なら貴様も参加して来れば良かっただろう」
     いつも通り執務室のパソコン前に陣取る俺の横で、武闘会の様子をライブで映している液晶テレビを眺めているのは、白じじいこと鶴丸国永である。テレビを置いているちゃぶ台の上に広がるのは先だって行われたイベントの報告書の束。第一部隊の隊長に配属された刀剣が、出陣ごとに記入して提出することになっているものだ。
     そして右手に握るのは、貸してやっている俺愛用のボールペン(とても書きやすい)。くるり、くるりと白くて細い指がそれを弄んでいるが、それで文字を書かない限り書類は終わらんぞ。
    「俺だって、出られるものなら出たかったさ。だがなぁ……」
    「それを期日までに終わらせなかった貴様が悪い」
    「これだけの量が今日までに終わるわけが無いだろう。鬼か君は」
     鬼で結構。主の手を煩わせることは、この俺が断じて許さん。
    「そもそも、出陣が終わってすぐ書いていればこんなことにはならなかったんだ」
    「ぐう正論」
     頭を掻いて、ようやく鶴丸はちょこちょこと手を動かし始める。ええと、どうだったっけなー、とか言いながらも淀みなくボールペンは文字を綴る。
     コイツのすごいところは、これだけ溜めこんでいても、きちんと自分が隊長として出陣した日付や詳細な戦況を記憶しているところだ。だが褒めてやれば調子に乗るだろうし、そもそも溜めこんでる時点で褒められたことではない。
     少し目を離していた間に、どうやら先ほどの同田貫と厚の手合せが終わったようだ。画面から見物していた刀剣たちのざわめきが上がったので、そちらに目をやる。膝を突いて悔しがっていたのは厚の方だった。
    「ほー、同田貫のヤツが厚を制したのか!」
     驚きだぜ! と鶴丸が顔を上げた。ええい、配信を見るなとは言わんから手を休めるな。なんて思いつつも、
    「厚は極めてまだ間もないからな。戦闘経験の豊富な同田貫が一枚上手だったんだろう」
    俺もついつい、手を止めてしまいそうになる。
     時折、実況解説の一振り目の声が聞こえてくるのは敢えて聞き流す。微妙に手慣れた感じがするのが、同じ『へし切長谷部』として気持ち悪くて嫌なのだ。いや、やるからには全力。そんなのは当然だが、気持ち悪いものは気持ち悪い。
     だというのに、
    『さあ、続きましての対戦カードは――おおっと、ここで大物登場です。天下五剣が一振り、三日月宗近だ!』
    そんな俺の繊細な心境を無視するかのように、ノリノリの一振り目の声が耳に飛び込んできた。思わずげんなりと力が抜ける。
    『対するは……何と出来過ぎた巡り合せか! 池田輝政に見出されし刀剣の横綱、大包平!」
    『すごい、これは見逃せない一番だね、へし切君!』
    『うむ。ライブ配信で見ている者たちも、書類やパソコンを眺めてる場合では無いぞ!』
     カメラが実況席を映す。一振り目と、同じく実況解説を引き受けたという燭台切が正面からカメラに向かって言って来た。くそ、目を逸らすタイミングが遅かった。そんな風に煽っても無駄だ、鶴丸も目を輝かせるんじゃない。仕事が優先だからな!
    「まったく……」
     ああ駄目だ、コイツ。完全に手が止まり、食い入るようにテレビを見ている。だが、確かに気になる一戦ではある。それに、作業を始めてから一時間経った。何だかんだと言いながら、鶴丸の書類の半分は片付いている。
     ため息を一つ吐きつつ、俺は席を立った。画面の中では大包平が斬りかかったところで、それを三日月が苦も無く受け止め流している。それを見る鶴丸の目は、悪戯を仕掛けるときのように輝いている。俺が動いたことにも気づいた様子が無い。
     もう一度だけ小さく息を吐いて、俺は執務室を出た。厨のヌシである燭台切が実況解説に出向いている以上、待っていても茶も菓子も自動(?)で出て来はしない。
    「……そういえば、鶯丸は不参加だったな」
     湯を沸かし、茶葉の入った缶を手に取ったところで思い出した。鶯丸だけではない。他にも何振りかの刀剣は不参加だったはずだ。大広間でライブ配信を見てるのだろうか。
     通りすがりに、襖の隙間からひょいと覗いて見る――ああ、やはりいた。太郎太刀と次郎太刀、それに宗三と、手入れ明けの大倶利伽羅だ。
     大倶利伽羅は、本来なら武闘会にエントリーしていたらしい。が、昨日の出陣で運が悪く槍に狙い打ちにされ、あえなく手入れ部屋送りになったのだった。手伝い札は温存したいとの主の意向で、ようやく万全の状態に戻って部屋を出たのはつい今しがたであるらしい。
     さて、太郎と大倶利伽羅は飲み干して空になった湯呑みを前に、次郎は酒を手に、宗三は空の湯呑を弄びながら、液晶テレビを見ている。その液晶の中では、三日月の打ち込みを受け止めた大包平がニヤリと悪人っぽい笑みを浮かべたところだ。
     次の瞬間、力づくで大包平が三日月の木刀を弾き飛ばしていた。いや、三日月は木刀から手を放していなかったから、三日月ごと弾き飛ばしていたのが正しい――むしろ三日月は、大包平の力を利用して飛びのいたのだろう。大げさなほどに飛ばされたように見えて、着地に乱れはない。
     だが、その着地予定地点には大包平が走り込んでいた。息を整える暇を与えず、三日月に畳みかけていく。その連撃たるや、一撃ずつが重そうだ。それでいて、三日月の表情は特に変わらない。知らず、俺は息を詰めていた。
    「長谷部、おかわり」
     急に声をかけられて、俺は我に返った。短時間ながら、つい見入ってしまっていたらしい。宗三が空の湯呑をこちらに差し出している。
    「……これは俺と鶴丸の分だ。自分で汲んで来い」
    「今いいところなんです。少しくらい分けてくれたっていいでしょう? 代わりにほら、このお菓子を分けてあげます」
     言いながら差し出されたのは、恐らくネット通販で取り寄せたらしい上生菓子だ。ご丁寧に二つ……ふむ。それなら少しくらい分けてやっても、おつりがくる。
     渋々といった表情を作りつつ、宗三の湯呑に、盆に乗せていた急須から沸かしたばかりの緑茶を入れてやれば、
    「なんだい、長谷部と鶴丸は執務室で見てるのかい? こっちにおいでよー、次郎さんと一緒にお酒飲みながら見ようよー。仕事なんて後でいいじゃないさ」
    「ええいくっつくな酒臭い!」
    酒瓶片手に、次郎太刀が肩を組んで来た。ちら、と視線で助けを求めた先の太郎太刀は、真剣な顔でライブ映像に見入っていて、弟を止めてくれる気はないようだ。
    「提出期限が迫ってる書類がある、手が放せん。つまみが欲しければ、冷蔵庫にいくらか作り置きがあったぞ」
     多分、燭台切が不参加組の中でも観戦に来ない者たちのために作った物だろう。つまみだけではなく、菓子の類もいくらかあった。
    「あらそうなの? じゃあ休憩時間に入ったら、新しいお酒の補充も兼ねて兄貴と厨に行こ」
    「いいえ、私は要りません。あなた一人で行きなさい」
     なんだ、やはり聞こえてるじゃないか。というか、太郎太刀がこういった物を見るなどとは思わなかった。
    「……次郎に誘われまして」
    「なるほど」
     こちらの視線の意味を察した太郎太刀が、淡々と呟くのに頷く。このご神刀、普段は現世のよしなしごとから距離を置き達観しているように見えて、意外と他者からの誘いに対しては付き合いがいいと聞く。
    「この試合、どちらが勝つと思う?」
     次郎太刀に強引に引きずられ、しかたなく宗三の隣に座る。どのみち、鶴丸もこの試合が終わるまでは中継に釘付けになってるはずだ。茶が冷めてしまうのも勿体ないので、空になった太郎太刀と大倶利伽羅の湯呑に入れてやる。ついでに軽く話を振ってみれば、ふむ、と頷いた太郎太刀は、
    「三日月宗近でしょうね」
    と答え、大倶利伽羅は
    「大包平だろう」
    と茶を啜った。
    「ほう。理由は?」
     宗三が寄せて来たカステラの皿から一切れを貰い、尋ねてみる――なんだこれすごく美味い。生地はしっとり程よく甘いし、底のザラメがたまらない。薄型テレビの中では、相変わらず大包平が怒涛の連撃を三日月に浴びせていた。
    「一見すると、三日月が押し負けてますね」
     宗三が頬杖を突いて言うのに、大倶利伽羅が肯いている。が、
    「大包平の手癖を見極めてるんじゃない? それにほら、そろそろ大包平が焦れて来たみたいよ」
     酒が入った割に冷静に戦いを見ていたらしい、次郎が指を差す。なるほど、確かに大包平が奥歯をきつく噛みしめているのが見える。
    「三日月は大包平に比べると、力では劣ります。ですが」
     幾度となく三日月と肩を並べ出撃していた太郎太刀は、綺麗に背筋を伸ばしたまま湯呑に手を伸ばした。ふぅ、と吐息が茶柱を揺らす。
     次の瞬間、三日月が、僅かに――そう、本当に僅かに、大包平の剣戟を躱す歩幅を変えた。ぐにゃりと足首が砕け、重心の位置が変わる。傍目には体勢を崩したように見えたはずだ。が、
    「顕現し積み重ねてきた出陣回数による経験と、長く刀として世に在り続けたことによる経験では、大包平は一歩及びません」
     口元を緩め、大きく刀を振りかぶった大包平の胴に、トン、と。軽やかに弧を描いた三日月の木刀が、当たっていた。かと思えば、大包平の身体が数m飛ばされていた。しん、と画面の中が静まり返る。
    「なに?」
    「おや」
     大倶利伽羅と宗三が声を上げる中、やっぱり、と次郎は酒を傾け太郎は湯呑に口を着けていた。
    『俺の負けでも良かったんだがな』
     なんて嘯く天下五剣は、いつものように穏やかに笑んでいる。その笑みのまま喉首に木刀を突きつけられた大包平には、何が起こったのか分かっていないだろう。だって正直俺にもよく分からん。
    『それではここで、今の三日月さんたちの戦いをスローで振り返ってみるよ!』
     実況席の燭台切が言って、画面が切り替わる。ぐらり、と三日月の身体が右に傾く。うん、ここまでは俺も視認できた。好機だと見て取った大包平の口角が上がるのも見えた。問題はその先だ。
     そのまま三日月が、地面に尻もちを突く――ことはなかった。大きく左足を後方に踏み留め、むしろその左足を支えにぐっと踏み込んで、大きく振りかぶった大包平の胴へ向けて木刀を横薙ぎに振るう。
     斬撃は、綺麗な三日月型の弧を描いていた。
    『そうか。三日月は体勢を崩したのでは無く、わざと右足を僅かに引き重心を変えたんだな』
    『大包平さんは、そんな三日月さんの策にまんまとハマってしまったんだね』
    『流石だな、三日月。というわけで、さっきの大包平はどうだった?』
     いつの間にか、実況席から降りて来ていたらしい一振り目が三日月にマイクを向けている。はっはっは、といつものように笑った三日月は、打ち除けと同じ三日月の入った瞳を細めると、
    『うむ、強かった。流石は刀剣の横綱、といったところだな』
    などと答えて大包平を悔しがらせている。
    「……引き止めといて何ですが、仕事の続き、しなくていいんですか?」
    「そうだった」
     鶴丸が茶のおかわりを待っている。だがもうずいぶんと急須の中身は軽いし、厨から部屋に持ち帰るはずだった菓子も幾らか食べてしまった。しかたない、もう一度取りに戻るか。
     ごちそうさま、と宗三に言いつつ席を立てば、干菓子を懐にねじ込まれた。急須を盆に乗せて障子を開いたところで、薄型テレビから流れる音声に思わず足を止める。

    『ああ楽しかった。さて、部屋に戻るか。喉も乾いたし、長谷部に茶を淹れてもらうとしよう』

     ……。
     お前は一体何を言っているんだ。
    長谷部と炬燵と寄り道「いやぁ実は先ほど反撃の際に、筋を痛めてしまってな。やはり爺が無理をするものではないなぁ」
     はっはっは、と笑いながら茶を啜る三日月宗近に、おそらくその場に居合わせたものの心は一つだったはずだ。
     〝お前のような爺がいるか!〟と。
     というか、
    「なぜこんなことになっている……」
     思わず頭を抱えれば、宗三に背中を優しく撫でられた。

     近侍の執務室はそう広くは無い。物が少ないので手狭に感じることは無いが、そもそもが一人で仕事をするための部屋なのだ。書類が置けて、PCが置けるように大き目の文机があり、あとは少し休憩するために座卓と茶道具が置いてある。
     ちなみに座卓は、冬場には炬燵へと代わる。今もそうだ。先日出したばかりだ。
     その炬燵に、今は所狭しと刀剣が脚を伸ばしていた。
     俺に茶を淹れさせるだのと戯言をのたまい仕合を棄権し、早々に内番着へと着替えた天下五剣の自称爺。報告書の終わっていない鶴丸。それに広間でテレビを見ていた宗三と大倶利伽羅、どこからともなく湧いて出た鶯丸。そして、
    「長谷部殿、お茶のおかわりを頂けますか?」
    「長谷部どの、鳴狐も欲しいと言っています!」
     粟田口長兄と叔父にあたる刀剣、一期一振(ロイヤルオーラ有り)と鳴狐である。
     粟田口の保護者二振りは、ともにどうやら武闘会には不参加だったらしいが、
    「俺はお茶汲み当番ではない! というか鶯丸がいるだろうが」
    「あいにく、茶葉を切らしていてな。それに長谷部の淹れる茶は美味い。大包平も来れば良かったんだが」
     などと、どさくさに紛れて緑の鳥太刀まで空の湯呑を差し出してくる。
     ああもう、頭が痛い……。
     炬燵は一人用ではないが、流石に7人もの刀剣が脚を突っ込めば俺の入る場所はもう無い。というか仕事をしなければならないので、炬燵なんぞに入ってる暇も無い。
    「それはお前もだろうが、鶴丸」
    「まぁそう固いコト言うなよ長谷部。ほら、次は和泉守と堀川の戦いだぞ!」
    「ほほう。これはなかなか、面白い対戦かーど、であるな」
    「カンスト和泉守殿と極められた堀川殿、ですか。互いの手の内は知り尽くしているでしょうし、どちらが勝ってもおかしくはありませんな」
     わいわいと持ち込んだ茶菓子を摘まみつつ、ライブ配信映像に釘付けになる連中に、俺はもう諦めのため息を吐く事しかできない。ほぼ空になっている急須と皿を盆に乗せて立ち上がれば、後ろから無言で大倶利伽羅が着いてきた。
    「手伝ってくれるのか?」
    「……慣れ合うつもりは無い」
     ふい、と顔を背けてそんなことを言うが、否定はしてこない。漏れそうになる笑いを抑えつつ厨で急須を洗っていると、大倶利伽羅は茶菓子の方を準備し始めた。
    「そう言えば大倶利伽羅、この間の写真はどこで撮ったんだ?」
     薬缶で湯を沸かし、茶葉を量りつつ尋ねてみる。大倶利伽羅は冷蔵庫からずんだ餅の入った大皿を取り出したところだった。燭台切謹製。出来立てでないのは仕方ない。
    「どの写真のことだ」
    「ほら、あのトラネコ。頭の上に雀を乗せていた」
    「ああ」
     ふ、と大倶利伽羅の口元が僅かばかり緩むのが見えた。纏う気配も穏やかだ。口癖はあんなだし、口数も少なく、社交的でこそないが、コイツは決して他者が嫌いなわけではない。
     今だって、ずんだ餅をいくつか皿に取り出し、電子レンジで軽く温めてから盆の上に乗せながら答えてくれた。
    「あれは厩舎の裏だ。あのトラネコは、あそこに干してある藁の上でよく昼寝をしている」
    「なるほど。日当たりがいいしな」
    「……雀はトラネコの餌仲間だ。明石がこっそりと食べ物を持って行くと、一匹と一羽そろって食べている」
    「猫は鳥の捕食者じゃなかったか?」
    「さあな」
     話をしながら茶を淹れ終えて、待っていてくれた大倶利伽羅と並んで再び廊下を歩く。戻って見れば、
    「あ、どうもすまっせん。自分にも茶、頂けます?」
     噂をすればなんとやら、炬燵に入っている刀剣が一振り増えていた。

    「いやーあんなん普通に考えて無理ですわ。自分、レベルまだカンストには及ばんのに」
    「それでも中々奮闘していたのでは? 極めたお小夜を相手に、あれだけ踏みとどまれたんですから」
    「ていうかおたくの弟さんほんっと、強かったですわー。途中からほとんど太刀筋見えんくて、勘だけで避けてましたわ」
     どうぞどうぞ、いやいやおかまいなく、ではそちらさんも、などと。明石と宗三が注しつ注されつしてるのは、酒では無く茶だ。明石は小夜と当たり、途中で棄権したらしい。これまたさっさと内番着に着替え、当然のように炬燵に座って宗三と先の手合せについて語り合っているが、
    「……何故わざわざここに来た……」
    「長谷部さんが茶、淹れてくれはる聞きまして」
    「三日月の戯言を本気にするな! というか三日月、お前も茶を飲んだのなら帰れ!」
    「ん? なんだ、茶菓子が尽きたのか? よいよい、どれ、今爺がとっておきを出してやろう」
    「懐に食べ物を入れて持ち歩くな! って、そうじゃなくて!」
    「……ずんだ餅」
    「お前いつの間にかあれ一人で食べきったのか食べ過ぎだろ後で燭台切に叱られろ! って、そうじゃなくて!!」
    「あ、長谷部殿。茶菓子を万屋へ買い出しに行かれるのでしたら、少し塩気のあるものも買い足して下さればありがたいです」
    「お、何か驚くような味のするものもよろしく頼むぜ」
    「……油揚げ……」
    「じゃなくて!!!」
     何故俺が買い出しに出る流れになってるんだ、というか、
    「いい加減にお前ら全員出て行けーーーー! 仕事ができん!」

    「――なんて、あなたが言えるわけもないですよね」
    案外寂しがりなんですから、と。
     万屋の前である。何故かくっついて来た宗三に言われ、俺は口の端を気持ち引き結んだ。
    「……別に、寂しくなどない」
     大体、普段仕事をするときは、基本的には博多と二人で大量の書類を一気に裁かなくてはならない。他の刀剣の相手をする暇などない。
     ただ角を立てたくないのと、わざわざ足を運んでくれた者を何の相手もせずに追い返すほど、器の小さなヤツだと思われるのは心外なだけだ。
     ……いや、本当に余裕の無い時は追い返すが。
    「はいはい、そういうことにしといてあげます」
     それで、何を買うんです? 寒いんですから、とっとと用事を済ませて下さい。そんな風に言いつつ隣を歩く宗三は、羽織の上から腕をさすっている。まったく、寒いと分かっていて何故ついて来たんだ。
     ただでさえ、宗三は刀剣男士としては細身で、脂肪はおろか筋肉さえも薄い。寒さが堪えるはずだ。そうでなくとも、今日は特に寒い。カソックを着ていても寒い。背骨の周りがしんしんと冷える。宗三の言うとおり、さっさと用事を済ませて帰るに限る。
     リクエストのあった油揚げ、それに日持ちする煎餅やおかきなどを買い込み、ついでに近侍室の印刷用紙とPC用インクなども補充してから万屋を出る。
     店の暖簾をくぐって外へ出たところで、
    「ねぇ長谷部。少し寄り道しませんか?」
     宗三が袖を引いてくる。寒いから早く帰ろう、などと言っていたのは貴様だろうが。
    「少しだけ、暖かいものを食べて帰りませんか。ほら、あそこの甘味処。美味しいと評判のお汁粉があるんですよ」
     整った指先が示すのは、小さな茶屋だった。あんなところに店などあったのか。
    「知らなかったでしょう?」
    「……ああ」
     だが早く茶菓子を持って帰ってやらないと、と言いかける俺に、
    「平気ですよ、少しくらい放っておいても。いざとなれば三日月が秘蔵の菓子を出すでしょう」
    「……」
     それもそうか。というかよく考えてみれば、そもそも招いたわけでも無く勝手に訪れた連中の接待など、本来俺の仕事では無い。
    「……お前のおごりだろうな」
    「ええ、かまいませんよ。別のところで返して下さいね」
     こちらが面食らうほど穏やかに笑って、宗三は茶屋の戸を引く。店内はそう空いてもいないが、混雑してるというほどではない。カウンター席がいくつかと、4人かげのテーブル席がいくつか。ふわり、と暖気に乗って香る甘味の匂い。そして、
    「ん? アイツは……」
     真っ先に目に飛び込んできたのは、少し奥の席に薬研と二人して腰掛けている『へし切長谷部(極)』の姿。
     別に薬研と俺はそう珍しい組み合わせでもないし、俺の極姿も最近では演練でよく見かけると聞く。それでも俺の視線がそいつに引き寄せられたのは、
    「知り合いですか?」
    「いや、俺が一方的に見知ってるだけ、というか……」
     小声で尋ねてきた宗三に、俺も小声で返す。あの長谷部はジブリかぶれの鳴狐の本丸のヤツだ。
     何故見分けがつくかと言えば、
    「スマホに、ジ○の……」
     宗三の呟きに頷く。そう、ヤツはスマホのイヤホンジャックカバーが、黒猫の○ジなのである。鳴狐からメールで聞いていた。
     その長谷部(極)は、姿勢よく座り、時折スマホを触りながら薬研と話をしている。手元にあるのは、湯気の立つ汁粉の入った椀。話の合間に時折、口をつけている。
    「っと、ほら長谷部。何頼むか決めて下さい」
     あまり見ていては不審がられる、と暗に促す宗三と共に彼らと一つ、客のいないテーブルを空けて座り、メニューをのぞきこむ。燭台切の言うところのスイーツなるものが大半だが、軽食もあるにはある。
    「決まりましたか?」
    「いや、まだだ。お前は決めたのか?」
    「ええ。やはりここは評判のお汁粉を」
    「では俺もそれで」
     ちょうど通りかかったウェイターに汁粉を二つ注文し、ちらりと長谷部(極)へ視線を流し見る。薬研が何やら楽しげに話をするのを、ヤツは口の端に笑みを浮かべて聞いていた。鳴狐の話によれば、この長谷部(極)はかなり古参の部類らしい。主からの信頼も、仲間の刀剣たちからの信頼も厚いというが、
    「亜種かも知れないと言っていたな……」
    「そんな風には見えませんけどねぇ」
     届いた汁粉に手を合わせつつ、宗三が小首を傾げる。
    「俺たちの本丸の一振り目もアレだからなぁ」
    「おや、へし切は別に亜種ではありませんよ」
     汁椀に口をつけていると、ふぅふぅと餅に息を吹きかけつつ宗三が言う。
    「あそこまで徹底してる『へし切長谷部』は、珍しくはありますが」
    「珍しい時点で亜種だろう」
     大体何を徹底してると言うのか。鶴丸のように、全力で意外性とやらの模索でもしてるのか。椀の中を睨みつつ、ほどよい甘味の小豆の粒を噛んでいると、
    「主命、だ。あの『へし切長谷部』は、いつだって己の主のためにのみ動いている」
    返事をしたのは宗三ではなかった。顔を上げれば、例のジブリ本丸の『へし切長谷部』が緑茶を啜りながらこちらを見ていた。
    「聴こえていたのか」
    「まぁな。途中から全然声のボリューム落ちてなかったからな」
    「どこから」
    「俺の亜種疑惑のあたりから」
     ……まじか。
    「それはすまなかったな」
    「別にかまわん。俺の方からお前たちのことを気にかけてなければ、周りの雑音に聞き流していただろうしな」
    「なんだと?」
     あちらの長谷部と俺には、正式な面識はない。はずだ。だがそういえば、
    「『一振り目』の知り合い……ですか?」
    そうだ、コイツは今、俺と宗三の『一振り目』についての話に割り込んできた。ならば当然、そう考えるのが自然だろう。
     しかし即答するかと思ったその長谷部は、口を結び眉を寄せた。なんだあの『一振り目』、この長谷部に何かやらかしたのか?
     俺の表情からそんな疑問を読み取ったのだろう。その長谷部は首を横に振った。
    「知り合い、というか……知らんわけではないが、説明が少し難しくてなぁ」
    「恋人か? それとも愛人?」
    「なぜそうなる」
     それまで黙っていたあちらの薬研に混ぜ返されて、あちらの長谷部が心底嫌そうにため息を吐いた。
    「……そもそも、お前たちに関わるつもりは無かったんだが。俺が亜種だと言うのは聞き捨てならなくてな」
     まったく、鳴狐のヤツ。そう嘆く素振りの長谷部だが、口元の笑みが微妙に隠せていない。いやお前ちょっと面白がってるだろ。鳴狐に亜種って言われる理由が何となく分かるぞ。
    「で、どうなんです? 亜種なんですかあなた」
    「相変わらず容赦ないな、魔王の刀は。本人に直球で聞くことではないだろそれ。亜種ではない」
     ぴく、と宗三の片眉が上がるのが俺の位置からは見えた。文句か何かを言おうと開きかけた口が閉じる。それに椀に口をつけながら、ほんのわずかにジブリ長谷部が口の端を上げた――口元に小豆を一粒ついてるぞ、おい。やめろ長谷部、それ全然かっこよくないぞ、おい!
     と思っていたら、ぺろりとのぞいた舌がその小豆の粒を舐め去って、
    「いやこの汁粉本当に美味いな」
     などと言いながら改めて?椀に口をつけている。
    「話すか食うかどっちかにしろ!」
     なんだ、この究極なマイペースっぷりは。お前も早く食わんと冷めるぞ、じゃない! 『一振り目』を相手しているような気分になるからやめてくれ!
     一応俺だって、極になった俺には少しくらい憧れめいたものを抱いていたんだぞ! たまに行ける演練場で見かけるたび、「いつか俺だって」とか考えていたんだぞ!?

    「心配せずとも、すぐお前も俺のような『極』になるだろうさ」
    「うるさい、黙れ、俺は極になっても絶対にお前や『一振り目』のようにはならん!」

     叫ぶように答えて椀をかきこんでいた俺からは見えなかった。
     その長谷部が、心から楽しそうに笑って俺のことを見ていたのを。

     宗三がどこかぼんやりとした顔で、何か考えこんでいたのを。

     そして、このときの俺には知る由も無かった。
     ……執務室が、酒を持ち込んだ某御神刀のせいで、大変な騒ぎになっていたことを。
     そして鶴丸が懸命に書き上げた紙の報告書が、零れた茶や酒のせいでご破算になり、盛大に凹んだ鶴丸を見た伊達組が武闘大会のあと、刀片手に乗り込んでくる近い未来を。
    風邪引き長谷部 風邪ひいた。
     朝起きたら喉が痛い。鼻水が出る。頭も痛い。背筋が寒い。身体が重い。
     ……なんだこれ、しんどい。付喪神が風邪ひくとか、聞いてないぞ。

    「とりあえず、これ飲んどけ」
     朝餉を執務室で摂って軽く一仕事した後、薬を求めて薬研を訪ねた。そしたら、こちらの主訴を聞くなり素早く液薬の入った小瓶を差し出してきた。濃い褐色をしていて、妙な匂いもする。ううむ、見るからに怪しい。すぐには飲まず、黙って薬研の顔を見つめていると、
    「病人に試薬なんか渡しゃしねえよ。心配すんな、風邪によく利く漢方薬だ」
    さぁ、ぐいっといっちまいな! などと男前に笑っている。
     そこまで言うなら、信じるしかない。覚悟を決めて、腰に手を当てて一息に喉へ流し込む。咳込みそうになるのを堪えて、ごっくん。
    「……飲んだか?」
    「ああ」
    「そうか」
     途端、ふふふふふふ、と青江ばりの低い笑い声。きらりと光りを弾く眼鏡、翻る白衣。どう見てもマッドサイエンティストです、本当にありがとうございました……!
    「たばかったのか、貴様ぁ!」
    「人聞きが悪いなぁ、旦那。別に、俺は嘘なんか言っちゃいないぜ。ただちょっと、処方を強めにしたってだけさ」
    「な……!?」
     それはつまり、
    「いいから寝ちまいな、旦那」
    薬研が言って、こちらに手を伸ばしてきた。そこからは、何をどうされたのかさっぱりわからん。とにかく正座していたはずの俺は、ぐるん、と向きを変えられ、ころん、と敷かれていた布団の上に寝かされ、ふわっとお日様の匂いのする毛布の中に押し込まれていた。
     上から笑顔で覗き込んで来る短刀の男前な顔が、小憎らしい。
     しかも先ほど一息に飲み干した薬のためだろうか、身体が内側からぽかぽかとしてくる。
     ……いかん、まだ仕事が残っていると言うのに! 瞼が勝手に――
    「おやすみ、長谷部」
     ぽん、と毛布の上から薬研に優しく叩かれる感触を最後に、俺の意識は途切れた。

     ――というのが、師走に入って二週目早々のことだ。
     武闘会のごたごたと年末特有の大掃除および書類整理のせいですっかりと失念していたのだが、あと二日で、例の暗号文に書かれていた新月の日である。

    「お前は働き過ぎなんだ」
     さて。
     問:薬研の薬によって強制睡眠を摂らされた挙句、目を開けて早々に飛び込んできたのが一振り目の真顔で、開口一番そんなことを言われた俺の心境を20文字以内で述べよ。
     解:「貴様にだけは言われたくない!」(「」含め16文字)
     そこで「自己管理がなってないからだ、ばかめ」と鼻で笑うのが普通の『へし切長谷部』だ。立場が逆なら、絶対に俺はそう言う。だというのに、まったく。久々にそっちから声をかけてきたかと思えば。
    「お前のそういうところ、俺は心底嫌いだ」
     ふい、と顔を背けながらそう言うと、何故か大きくため息を吐かれた。ため息を吐きたいのはこっちだ。こんなとこに足を向ける暇があるなら仕事しろ、まったく!
    「悪態吐けるなら大丈夫そうだな。飯は食えそうか?」
     言われて、壁にかかっている時計に視線をやる。思ったよりも長く眠り込んでしまっていたらしく、昼餉の時間はとうに過ぎてしまっていた。
    「要らん」
     燭台切はもう後片付けを済ませて畑に出ているだろう。わざわざ俺のために何かを作らせるなど無駄だし、ずっと寝ていて動いていないのだから腹も減らん。
     そう思って答えたのだが、直後に猫がノドを鳴らすような低音が響いた。当然、猫などいない。俺の腹だ。
     反射的に、一振り目から目を反らす。ああもう、燭台切ではないが、よりによって一振り目の前で何たる無様な!
     しかも、どうも変に意識したのがまずかったらしい。一度で腹の音はおさまることはなく、立て続けにくるくると音をたて始めた。
    「……ああもう、さっさと出ていけ! 俺は寝るから邪魔だ!」
     いたたまれん。とりあえず布団を被る。空腹ではないはずの腹は尚いっそう音を立てていて、一振り目は何も言わない。どうせ俺のことを嘲笑っているんだろう! ええい、もう本当に寝込んでやる! 何を言われても、絶対に俺は顔を出さんからな!!

     ……。
     …………。
     ………………。

     カチコチカチコチと時計の秒針だけが、部屋に響く。一振り目は何も言わない。このまま放っておけば帰るだろう。そうすれば俺の勝ちだ。
    「ふむ」
     急に一振り目がため息を吐き、立ち上がった。布団の温もりが心地よくて、あと少しで本当に寝落ちる、と、いうところだった。
     こちらの浮上した意識をよそに、一振り目が障子を音を立てることなく開け、閉める。足音は呆気なくそのまま廊下へ。ふん、ようやく諦めたか、と安堵の息を吐いて、改めて目を閉じ直してみた。が――
    「……よく考えたらここ、薬研の部屋だったな……」
     その薬研は今は不在。確かアイツ、今日は馬当番じゃなかったか?
     しっかりと薬も効いて、睡眠もとった。朝よりずいぶん身体は楽だ。ならば、アイツが帰るまでに布団のシーツを洗濯当番に出して――
    「余計なことを考えているな、貴様」
     身体を起こしてブツブツ言っている間に、立ち去ったと思った一振り目が戻って来ていた。じろりと見下ろしてくる目つきが妙に鋭い。
     さっき出て行ったばかりじゃないか、何をしに戻って来たんだ、と時計を見て頭を抱えた――全然時間が経っていないと思っていたのに、長針が数字二つ分動いている。
     何と言う事だ、全く頭が働いてない……燭台切の機動力並みに、処理速度が落ちているだなんて……!
    「……燭台切には黙っといてやるから、これ食べとけ」
     思わず口から出ていたらしい。一振り目は息を吐くついでのようにそう言いながら膝を折り、手にした盆から小さなどんぶりを渡してくる。
    「……うどん……」
    「手打ちした」
     ドヤ顔をするな、イライラする。あれか、あれをやったのか? 燭台切と、歌って踊りながら打ったのか!?
    「いや。昨日俺が、夜食用に打っといたヤツの余りだ」
     伸びる前に食え、と促され、仕方なしに箸を取った。食材に罪は無い。無駄にするなど、もっての他だ。具はシンプルに卵、ネギ、それにカマボコが二枚。麺の固さも太さも、何か悔しいが程よい。出汁は馴染み深い味がする。燭台切の作りおきを使ったか。
     少しの間、無言でうどんを口にする俺を見ていた一振り目は、ふん、と小さく鼻から息を吐いた。それから、懐から液薬の入った小瓶を取り出すと盆の上に置いて、
    「これ、薬研から預かった薬だ。食べ終えたらすぐ飲め。ああ、丼は廊下に出しとけよ」
    さっさと寝て、さっさと治して、とっとと働け、と、そんな風に言うだけ言って、俺に背を向けた。

     すらりと開いた障子から差し込む、冬の昼下がりの日差しはどこか淡い。

     肩越しに振り返りこちらへ向けた瞳の色は、その淡い光に透けていても俺と同じもののはずだ。だというのに、それがどこか――


    「……じゃあな」


     思考をまとめる間もなく、前髪の下、わずかに目元が緩んだ。ように見えた。
     ほとりと障子が閉まる。
    「……」
     思わず止まっていた箸を改めて握り直す。礼を口にする暇も無かった。くそ、勝手なお節介を焼いてきたせいで、借りが一つできてしまったじゃないか!
     自棄になってズルズルと麺を啜った。湯気が頬に心地好くて、鼻水が出てきてしまう。カマボコと卵を頬張って、ネギの甘みを噛み締めて、つゆが舌先を旨みで満たし食道を通り、骨にまでじんわりと染み渡る熱を堪能して。
    「……ごちそうさま、でした」
     空の丼と箸を盆に戻し、手を合わせた。後味の余韻を楽しみたいが、忘れないうちに薬研のよこした液薬を一息に喉へ流し込む。朝と違わぬ、強めの処方らしい。すぐに瞼が重みを増した。
     盆を廊下に出して障子を閉めたら、後はさっさと布団の中に戻って抗うことなく瞼を落とした。今は何も考えたくない。ここが薬研の部屋だろうが今更どうでもよくなったし、一振り目の真顔なんて思い出したくもないし、さっき別れを告げる声音に感じた違和感も俺は知らん。知らんと言ったら知らん。
     今はとにかく寝る。寝て、早く回復して、役に立たない一振り目をキリキリと締め上げつつ溜まった仕事を片付ける!

     ところが、自覚していた以上に俺は体調を崩していたらしい。

     あっという間に真っ黒に意識が溶けて塗り潰されて、ゆっくりと瞬きするほどの時間を感じてから目を開く。
     なんだ、あれほど眠いと感じたのに、全然眠れてないのか。壁の時計は見えないが、室内に入ってくる光の感じからすれば、八ツ時ほどか。遠くから短刀たちのはしゃぐ声が聞こえてくる。
     いつの間にか室内には暖房が入れられていて、俺が寝込んでいる間にずいぶんと冷え込んだのか、とぼんやりと考えた。
    「よう旦那、目が覚めたか」
     遠慮がちにゆっくりと開いた障子から、部屋主の顔が覗いた。その後ろに広がるのは、一面の銀世界だ。いつの間にか雪が降ったのか。どおりで足元が冷たいと思った。
     などと寝ぼけたことを思っていたのはほんの数秒。その冷え切った空気の中にある、戦装束と血の匂い――返り血らしきものを頬につけたままの薬研の姿に、意識がハッキリと覚醒する。
    「お前、今日は内番だけじゃ――」
    「ん? ……ああ、そりゃ一昨日の話だ。あんた、あれから丸二日寝てたんだぜ」
    「なっ!?」
     何故起こさなかった、と薬研に掴みかかろうとしたら、すっと身を引かれた。勢い余り、畳に手を突いた俺を薬研は見下ろして、
    「今の俺っちに触ると汚れるぞ。ちなみに全部返り血だから心配しないでくれよ。
     ……いやー何度か様子は見に来たんだがなー。まるで死んだみたいに眠り込んでたもんだから」
    また後で様子見に来るから、もう少し大人しく寝ててくれよ、などと笑って、廊下を歩いて行く。
     その背を見送って、思わず大きくため息を吐いてしまった。痛くもない頭を抱えたい。
     内番着だったはずの服も、いつの間にか寝巻きに着替えさせられてる。
     ……アイツ、俺がここで無様に寝込んでいる間はどこで寝てたんだ……後できちんと、この借りを返さねば。
    「――気持ちを切り替えよう」
     パシン、と音を立てて自分の両頬を叩く。薬研はああ言っていたが、あれだけ寝ていたんだから眠くなどないし、身体の調子も見違えてよくなっている。溜まった仕事を片付けたいし、正直、もう寝過ぎて背中が痛い。
     枕カバーとシーツを剥いで、毛布と布団一式たたんで押し入れへ片付ける。暖房を切ってから、俺の汗をたっぷり吸った枕カバーとシーツを小脇に抱えて、気つけ代わりに敢えて音を立てて障子を開け放った。
    「さっむ!」
     ひゅうと吹き込んだ風の冷たさと、踏みしめた床板の冷たさに思わず縮み上がりつつ、早足で自室に立ち寄った。箪笥から出した羽織を肩に引っ掛けて、洗濯場に向かう。
    「お、長谷部じゃねぇか! なんだ、もう身体は大丈夫なのか?」
    「へし切から聞いたよ。なんかスゴイ熱出てたらしいね」
     今日の洗濯当番は、和泉守と大和守だったらしい。数台ある大型洗濯機の前で、洗濯物の仕分け(燭台切と歌仙に仕込まれたため、ほぼ全員ができるようになった)をしている。
     ……この分だと、どうやら俺が寝込んでいたことは本丸の刀剣中に知られていそうだ。
    「まあな。俺が寝込んでる間、何か変わったことはなかったか?」
     これも頼んでいいか、と寝具を差出しつつ尋ねる。
    「そっちのカゴに入れといて。そうだね、特に何もなかったと思うよ」
    「確か近侍は、昨日が大般若で今日は之定だったな。何かあったら報告があるんじゃねえか?」
    「そうか……」
     てっきり一振り目が張り切って俺の代わりを務めるかと思っていたが、大般若と歌仙か。ふむ。
     大般若は最近ずいぶん本丸に打ち解けてきていたし、何かあれば燭台切あたりが補佐しただろう。歌仙は……アイツは古参だが、書類仕事はそれほど得意では無かったような気もする。ま、いざとなれば小夜がいるから大丈夫だとは思うが。
    「あ。ちなみに、へし切なら今日は非番だよ。今は何か主に話があるらしくて、審神者部屋にいるんじゃないかな」
    「何?」
     聞いても無い一振り目のことなどどうでもいい、と思いかけたが……主だと?
    「主がお戻りになられてるのか?」
    「おお、今朝からな」
    「でもまた長居はせず現世に戻るんだって。そもそも今日だって本当はこっち来れない予定だったらしいんだけど、へし切がさ」
    「折り入って主に話があるって言うから、ちょっと無理して帰って来たんだと」
     和泉守の語尾を背中に聴きながら廊下を歩く。病み上がりが無理すんなよーと言う声が追い駆けて来たが、それどころではない。
     一振り目が、主に話……だと!? まさかアイツ、
    「ついに修行に出るつもりじゃ――」
    「いや、それは絶対に無い」
    早足でずんずんと進んでいたら、いつの間にか隣に白い布。ほつれた裾を棚引かせた山姥切は内番姿のまま、紙の束を抱えている。
    「何故そう言い切れる」
    「……俺は、アイツの主への用件を知ってるからだ」
    「それは何だ」
    「言えん。アイツと約束したからな。そんなことよりお前、もう体調はいいのか」
    「俺のことなどより主だ! くそ、一振り目め。ご多忙な主を、自分の大したことない用件で振り回すなどッ」
    「何てことを言うんだ。写しの俺とは違って、お前は……お前の身体は、お前だけのものではないんだぞ」
    「言い方! あと写し云々は関係無いし、お前の方こそ初期刀なのだから代わりは居ないんだからな!」
     どこかつかみどころのない苛立ちに任せて声を荒げ歩き、主の部屋の前で急停止する。うっかり勢い余り通り過ぎかけた山姥切を尻目に、襟を正そうとしてようやく気がついた。何と言う事だ、焦っていて気づかなかったが今の俺の恰好で主の御前に出ることなど、到底できない! 正装どころか、寝間着に羽織を引っ掛けただけだし、二日間寝込んでいたので髪はボサボサのベタベタだ。
     山姥切は行き過ぎた廊下を後ろ歩きで戻ってきて、慌てふためく俺の様子を黙って見ていた。かと思えば書類の束を抱えていた手を片方、こちらへ伸ばしてくる。
     乱れた前髪の下を通り、ぴたり、と額に触れてきた手は、冷ややかで心地よい。
    「……熱はきちんと下がったみたいだな。だがまだ本調子とはいってないようだ」
    「……そうらしい……」
     消沈して、思わず胸を潰して息を吐いた。知らず強張っていたらしい肩が落ちるのを自覚する。
     焦っていた。最低限の身支度に気が回らぬほどなどと、なんて様だ。久しぶりに主に直接お会いできる機会だからといって、舞い上がり過ぎだ。
     だが主はご多忙の身で、一振り目との話を終えれば現世へと戻られてしまうだろう……きっと今から身支度を整えて再度ここへ戻ったところで、主は去った後だ。

     そもそも一振り目の要望に応えるためだけにご無理をしてまで戻ってきた、などと。
     その事実こそが、俺は――

     山姥切はそんな俺の肩を一つ叩くと、
    「心配するな、主は明日の朝までは本丸に滞在するらしい。落ち着いてから挨拶しにくればいいだろう。
     主も長谷部が風邪を引いたと聞いて心配していたから、そうしてやれば喜ぶ。今はとりあえず大人しく部屋に戻って寝るか、風呂にでも入って来るといい。今日は寒いから、油断すると風邪がぶり返すぞ」
    そう言って、主の部屋へと一人で入って行ってしまった。
    しわす つきなし うしのこく「……どうしても、どうしても行くと言うのなら」
     頭から足の指先までが震える。握りしめた刀の鞘がカタカタと音を立てた。視界が狭く赤い。内臓がぐつぐつと揺れて引っくり返り、全身を血が勢いよく駆け巡る感覚。汗が噴き出して毛が逆立つ。
    「――俺を! 斬ってから行け!」
     本当はもっと腹の底から叫びたかった。が、力の入り過ぎた身体では、呼吸が一番深いところまで入らない。せめて、と声帯が裂けんばかりに叫んだ。
     だというのに、目の前にいる俺と同じ顔の男は己の本体に触れようとすらしなかった。スタンバイ中の転送機が放つ光が逆光になって、どんな表情なのかは見えない。
    「できないというなら、俺がお前を」
    「斬れないさ、お前には」
     こちらの震える声とは裏腹に、一振り目の声は凪いでいた。転送機にはもう、転送先の情報を入力してある様子だ。ボタンを一つ押せば、入力先の時代と場所へ繋がるだろう。
     師走、月無し、丑の刻。この月明かり一つ無い寒い雪の晩に、一人でどこへ行こうと言うのか。
     行かせてはダメだ、絶対に。それだけは確信していた。震えが止まらぬまま、鞘を改めて握り直した。俺は斬ってでも止めなければならないんだ。コイツを。
     だってきっと、逆の立場だったならお前はそうしたはずだろう。斬れないなどと、そんなこと、
    「斬れないさ。俺もお前を、斬れないからな」
    ……そうか。
     ああそうか、そうなのか! 頭に上って沸いていた血が、一息に冷めるのを感じた。身体は熱いままに頭の中だけが、手入れを受け研ぎ上げられたばかりのように、しんと蒼く鋭く冷えきる。
    「そうか、それは残念だ。お前は、へし切長谷部としての矜恃すらも失ったわけだ。いや、本丸を主の許可なく離れようとする刀に、そんなものハナからあるはずもないか。
     だが俺はお前を斬る。主に仇なすものは、たとえ誰であろうとも……!」
     手の震えは完全に治まっていた。躊躇いなく、刀を抜く。転送機の光を弾く刀身に、水気の少ない粉のような雪が当たり、さらりと脆く散りほどける。時折強めに吹く風が、一振り目と俺のカソックを揺らした。
    「……ふ」
     俺が抜刀するのを見た一振り目が、鼻から息を吐いた。
     ……わらった、のか。
     目を見張る俺に対して、何が可笑しかったのかいよいよ一振り目は、肩を揺らして笑い始めた。
    「何がおかしい!?」
    「ああ、すまんな、つい。そうか、そうだよな。俺もお前も、やはり紛うことなくへし切長谷部なのだと思ったら、こうして違う結論を導き出せることが嬉しくてなァ」
     そうだよな、主のためなら何だってする。それが俺たち、へし切長谷部だ。それがたとえ、仲間の手打ちであろうともな。
     ついに声を上げて笑い始めた一振り目は、ひとしきり笑うと、だかなァ、と低く静かな声でこう言ったのだった。

    「俺の主は、この本丸の審神者ではないんだ、長谷部」



     主が本丸にお戻りになられたので、その晩は本丸の刀剣全員が揃っての宴になった。
     いつもは食事は仕事をしながら済ませる俺だが、今晩ばかりは、近侍の執務室ではなく大広間に足を運んでいた。もちろん、今度はきちんと湯浴みを済ませ正装した上だ。
     ただ、あまりに急なご帰還だったのと、俺自身があんな体たらくだったために、全員が食卓に揃うまで少しゴタついてしてしまった。
     それでも遠征の連中に鳩を飛ばしたりして、何とか全員が席に着いた。風邪が治っていて良かった。俺一人だけこの場に居られなかったかも知れない、と思うと恐ろしい。
     基本的に主は上座、他の刀剣たちの席次は自由だ。一振り目は、主から少し離れた中ほどの位置に座っていた。俺は室内全体の見渡せる下座寄りの位置に陣取っていたが、
    「あ。だめだよ長谷部君。そこ、寒いでしょう?」
    風邪治ったばっかりなんだから、あっちの暖かい席に行こうよ、と燭台切に背を押され、何故か一振り目の隣に座ることになっていた。ちなみに、燭台切は向かいに、そして俺の反対側の隣には粟田口の叔父だ。
    「……長谷部どの、身体の方はもう良いのですか?」
     食事のときすら、鳴狐の肩から離れないお供の狐に声をかけられて頷いた。目覚めた直後は横になり過ぎて頭も体も全ッく思い通りにはならなかったが、身を清め主に挨拶し、雑務をいくらかこなしていたらスッカリいつも通り――むしろ調子がいいくらいである。
    「それは良かった! 長谷部どのが倒れられたと聞いて、私も鳴狐も心配していたのですよぅ」
    「別に倒れてはいないぞ。ちょっと熱を出して寝込んでただけで」
    「似たようなものだろう」
     ぼそり、と隣の一振り目が白飯を食みながら呟いたので、反射的に睨みつけた。倒れたと寝込んだでは、全然違うぞ。
     やはりお前のせいか……出会う刀剣がやたらと過剰に気を遣って来ると思ったら!
    「やっぱり相当疲れが溜まってたんだね。ゆっくり休んでくれて、良かったよ」
     はい、たくさん食べてね、と燭台切が大皿から唐揚とサラダを取り分けて寄せてくる。全然良くないし、自分のものは自分でとるから要らん、と言いたくなるのを、味噌汁と共に何とか飲み下した。
    「へし切君も、はい」
    「唐揚もう3個追加で」
    「だめだよ、お肉ばっかり食べてたら太っちゃうんだから」
     お前が言うな、という言葉は、咀嚼してサラダと共にごっくんだ。
    「そういえば長谷部君、明日の予定なんだけど。僕、確か鶴丸さんと遠征組だったよね?」
    「ああそうだが」
    「誰かに代わってもらえないかな。ほら、今日は突然の宴席だったから、食材の管理が狂っちゃって」
    「分かった、では代わりに――」
    「俺は無理だぞ」
     被せるようにして、一振り目が言う。口いっぱいに唐揚を頬張った顔は、あまりに腑抜けで見るに堪えない。
    「貴様、今日も明日も非番だろうが。時間が無いとは言わさんぞ」
     別に一振り目に任せようとは思っていなかったが、あまりに言い切るものだからじろりと睨みつけてみた。だがご飯粒を口の端につけたままの一振り目は、
    「だが、無理なものは無理だからな。万に一つでも他に代わりが見つからなくても、俺にだけは振るなよ」
     ごくん、と口の中を空にしてから、味噌汁に手を伸ばしつつ言う。
    「……怠慢は許さん。相応の理由があるなら言え」
    「プライベートな予定が既に入ってる。元々休みなのだから、俺がどう時間を使おうが勝手だろう? 内容まで言う必要は無いと思うが。
     というか、そんなに俺のことが気になるなどと……ま、まさかお前、俺のことが好――」
    「圧し斬ってやろうか貴様」
    「ま、まぁまぁ長谷部君。僕の代わりなら、僕が自分できちんとみつけて頼むからさ」
     茶化して曖昧にしようとする一振り目に青筋を立てていると、険悪な空気を何とかするべく燭台切が唐揚を多めに乗せた皿を差し出してきた。
     おい、一振り目が唐揚好きだからといって、俺も好きだと決めつけるな! いやまぁ好きだけど! 食べるけど!






     宴もたけなわ。いつの間にか酒好きの刀剣たちが飲み始めていた。主は明日の朝に障るからと退席されて、俺が部屋まで送り届けた。
     寝床を整えて差し上げて、就寝の挨拶を交わして、部屋を出て障子を閉めようとしたら、主に呼び止められた。話したいことがあるので明日の朝、審神者の執務室へ来て欲しい、とのことだった。
     何やら主命を頂けそうな気配に喜び勇みつつ、宴席に戻る。もはや席次は入り乱れ、粟田口の小さな短刀たちは身体年齢に引っ張られてうつらうつらとしている。一期一振と鳴狐が数人ずつ抱えて、部屋へ連れ戻っているようだ。
     燭台切は既に空になった皿などの片づけを始めていた。一振り目の姿はない。日本号が「付き合いが悪くなった」とボヤいていたが、なるほど。
    「長谷部。こちらに来て一緒に飲まぬか」
     その日本号に目をつけられないうちに、俺もさっさと自室へ退散しようと思っていたところに背中から声をかけられた。それがまた、よりにもよって、
    「だめですよ、三日月。長谷部は風邪で倒れて、病み上がりなのですから」
    三条一派だったりするのが性質悪い。
     たしなめるように三日月へ声をかけている小狐丸は、本気で三日月を止めてるのではない。どこか面白がるような目でこちらを見ている。
    「倒れたのではない、寝込んでいただけだ」
    「どちらにせよ病み上がりには違いなかろうが、顔色はいつも以上に良い。その分だと大丈夫そうだな!」
     そう言いながら、がはは、と笑う岩融の膝の上には今剣。ぽりぽりと小動物のように、柿の種を食べている。石切丸は、少し離れて御神刀兄弟と呑んでいた。
    「……一杯だけなら付き合おう」
     別に断っても良かったのだが、三日月の目を見て思いとどまった。細められた目にちらちらと見え隠れする月に、ふと今日が新月であることを思い出したのだ。
    「確か今日であったな」
     差し出された盃を受け取れば、そこに三日月が手ずから酌してくれた。それをぐい、と煽り、
    「そうだな」
    酌を返す。
    「結局、あれは誰に宛てたものだったのか……」
    「本来受け取るはずだった者は困っておるかも知れん」
     三日月は整った眉を少しだけ寄せ、
    「……いや、でもあながちそうとも言い切れん、か?」
    口にする前に盃へと視線を落とし、小さく呟いた。
    「どういう意味だ」
    「……長谷部は、わーむほーる、というのを知っているか?」
    「聞いたことはある」
     確か、ここと異なる時空を繋ぐ穴のようなものだ、とか。というか、
    「俺たちや遡行軍、検非違使が時空感を移動するのにも使ってる原理じゃないか」
    「うむ。そのわーむほーるだが、ある日突然、戦場に開くことがあるらしくてな」
     満月でも出ていれば、酒の水面にでも映し取れたかも知れない。だがこの新月の晩に、三日月が手にする盃に映っているのは、憂いを帯びた天下五剣の欠けた月だけだ。
    「別の本丸の今剣が、阿津樫山に開いたその穴に落ちて行方不明になった。いや、その今剣だけではない。他にも何振りかの別の本丸の刀剣男士が、別の戦場で同じように行方不明になっているらしい」
     こくり、と一息に酒を飲み干した三日月が、もう一杯どうだ、と目で尋ねてくる。答える代わりに盃を差し出した。
    「ほう、それは危険だな。俺たちも巻き込まれないとも限らない。政府はもう事態の打開に向けて対策を取っているのか?」
    「さて、どうだろうな。
     へし切が調べたところ、どうも件の今剣は失踪前に俺の袂に入れられていたのと同様の暗号文を、何者からか受け取っていたらしい。もしかしたら俺に間違って入れられた文も、そうして他の誰かをわーむほーるへと誘うものだったのかも知れん」
    「遡行軍か」
    「分からんが、その可能性が高いのでは、と。へし切は言っていた」
     ……なるほど。つまりあの文が指定した日時は、ワームホールの開く日時だったというわけか。
     その文を受け取るはずだった者は、初めにどうやって遡行軍と内通したのか、などといった疑問は残るが、仮にそうだとするなら、文がその者の手元に届かなくて良かったのは確かだ。
     しかし些細なことだが、引っ掛かるところがある。我ながら器の小さいことだとは思うのだが。
    「……一振り目にも、文の相談をしていたのか」
    「いいや。あのことを話したのはお前だけだ。ただ、失踪した今剣のことは相談した」
    「……そうか……」
     別件だと思っていたことに、思わぬ繋がりがあった、ということか。それなら、まぁ――
    「まあ、俺が暗号文を受け取ったことも既に知っていたようだが」
    「――すまん。俺が加州や山姥切、博多に相談したんだ。加州と山姥切には口止めをし忘れたから」
    「はっはっは、構わんさ。俺もお前には口止めしておらぬぞ。恋文ならともかく、わけの分からぬ暗号文をもらったなどと知れ渡ったところで、酒の肴にもならんからな」
     笑いながら、三日月はつまみの乗った皿に手を伸ばした。裂きイカを食べる天下五剣の姿など、歌仙が目にしたら雅でないと騒ぎそうだ。
     だがそんなことより、気になる事がある。注がれていた盃を一息で干して、とん、と畳の上に置いた俺は、まっすぐに三日月を見た。小首を傾げた三日月に、酔いの全く気配はない。
    「なぜ、よその本丸の今剣のことを一振り目に相談した」
     そうした事例があったことは、すでに当事者の本丸の審神者が把握し政府にも報告が上がっているはずだ。その上で何か通達あるなら、主を通して俺たち刀剣にも来るだろう。
     それを、敢えてわざわざ一振り目に相談した、ということは、
    「――長谷部はさすがにするどいですね」
    それまで黙っていた今剣が、柿の種を齧るのをやめて、こちらを見た。
    「今剣」
    「いいではないですか、三日月。べつに、だまっておくよういわれてはいないんですから」
     だが、と言い募る三日月を振り切るようにして、今剣はこちらをじっと見た。岩融と小狐丸は変わらず何も言わない。ただ黙って耳だけをこちらに傾けつつ、盃を煽っている。
     平安短刀の赤い目の底は見えない。大きな目が瞬き一つせず、こちらばかりを暴こうと覗き込んでくるように感じられた。我知らず、腹の底に力を入れる。
    「へし切は、もしこういうことがあったらおしえてほしい、と。あらかじめ、練度がカンストした男士にいってたんですよ」
    「なんだと」
     それはつまり、
    「よそのぼくのことがあるまえから、わーむほーるのことをずっと、しらべていたみたいです」
    へし切長谷部 さらさらと舞う雪を斬り散らしながら、鋼の刀身がぶつかり合う。
     最早何も問うまい。ただ黙って斬りかかって行った俺に、一振り目もまた何も言わずに刀を抜いた。
     一合、二合、打ち合うごとに互いの斬撃の速さも鋭さも増す。
     高い音は薄いながら積雪に消されるのか、これだけ打ち合ってるのに誰一人として様子を見に来ない。
     湿った手袋は冷え切っているのに、刀を握る手は熱い。手だけでは無い、全身が熱い。なのに互いのカソックにはうっすらと白い雪が積もっている。
     打ち合う、といっても、斬りかかっているのは主に俺の方だ。一振り目はそれを受け、弾き、あるいは流し、躱しているだけで、こちらに積極的に攻撃をしてきていない。
     息を切らしてるのもまた、俺の方ばかりだ。一振り目の吐く白い息は細く鋭いままに、俺ばかりが無様に大きく息を吐き散らしている。
     頭に血が上っていたのは確かだ。冷静に考えるなら、練度上限の一振り目の方が強いのは当然で、無策に斬りかかれば勝てるはずが無かったんだ。

     だから、今の俺にできることはただ一つ。
     刺し違えてでも、コイツを止める――その覚悟を決める、それだけだ。



     あれからすぐ、俺は三条派との酒盛りから席を外した。誰一人三条派の連中が俺を止めようとしなかったのは、どこか切迫した俺の様子に思うところがあったからだろうか。
     丑の刻と言われる時間帯に差し掛かるまで、あと一時間もない。途中、【三振り目】がちらりと姿を見せたような気がするが、構ってなどいられない。
     昼間降っていた雪は、あれから降ったり止んだりを繰り返している。廊下は大広間とは打って変わって、とても寒く暗い。行灯を灯し、靴下越しでも冷えきった廊下の床板を早足で踏んで、近侍執務室の障子を開く。
     部屋の明かりをつける間すらも惜しんでパソコンの電源を入れた。起動までの時間がこれほどまでに長く感じるなど、初めてだ。
     早くしろ、圧し斬るぞ、などと胸中で悪態を吐き、ようやく起動したパソコンから、一振り目に関連するあらゆるデータを検索した。
     薬研にさせていた単騎出陣は、多分ワームホールについて探る目的だったのだろう。今剣が行方不明になったという阿津賀志山を中心に、他の戦場にもデータを取るような規則正しい出陣が繰り返されている。
     出陣といっても、敵との交戦を極力避けた偵察任務のようだった。言ってみれば、遠征に近い。いくら薬研が強くても、単騎で一部隊と交戦するのは危険だ。
     その単騎出陣が、いつからか無くなっていることには以前から気付いてはいた。
     今、こうして改めて調べて気がついた。あの演練の日――本来あの文を受けとるはずだったであろう、三日月探しのために俺が演練に同行した日。
     その9日前が、薬研の最後の単騎出陣だった。
     そして記録を頼りに考察するなら、その演練の翌日には単騎出陣を予定していてもおかしくなかった、はずだ。
     最後の単騎出陣からあの演練の翌日までの10日間、出陣・遠征などには特に変わったことは無かった。あの演練だって、目的の三日月宗近こそ見つけることはできなかったものの、他に変わったことなんて無かった。
     ……はず、だ。
     なのに、何故。
    「何か……俺は何かを忘れている……?」
    確信があるのか――あの演練にこそ何かがあったのだ、と。
     ええい! こんなときこそ、漫画や小説などであるような頭痛か何かがキッカケになり、記憶を取り戻す時だろう、俺!
     イライラむしゃくしゃ頭を掻きむしってみるが、どれほど頭皮に刺激を与えたところで、流石にひと月以上も前のことなど、詳細には思い出せない。
     ふと時計を見上げる。くそ、刻限まで、もう時間が無い。いや落ち着け、そもそもあの暗号文が本当に遡行軍が寄越したものかも分からない上に、受けとるべき相手はウチの本丸の者では無いはずだ。
     正しい相手の手に渡らなかった時点で、あの暗号文はただの紙切れでしかない。
    「だが一振り目はワームホールについて調べていて、あの文のことも知ってしまった」
     パソコンの電源を落としつつ、考える。行灯の火が小さな音を立てて揺らいだ。
     もし、俺がアイツなら。理由はともあれ、ワームホールのことを調べていたとして。三日月に誤って届いた文のことを知ったとしたら――
    「差出人を突き止めて、それで」
     自分が間違って暗号文を受け取ったことにして、その差出人に交渉を持ちかけて。実際にそのワームホールを確認しに――
    「……いや。主命でも無い限り、それはやり過ぎだ」
     それこそ潜入捜査の主命でも下れば話は別だ。うちの主が、密命とは言えそんなに危険すぎる主命を与えるとは思えない。せいぜい差出人の身元を調べ上げ、主に報告を上げるまででいい筈だ。あとは主が政府に報告を上げれば、それで事足りる。

     ……だが、もしもワームホールの調査が主命では無く、奴の独断だとしたら?

     ありえない。主は俺たちの提出した報告書の全てに目を通されている。一振り目が勝手な単騎出陣をさせていたなら、すぐにその理由を問い詰めるだろう。
    「そうだ、ありえない。ありえないん、だ」
     なのにその先のことについて、俺は考え始めている。主命で無いのに、ワームホールについて積極的な調査をする理由。
    「ワームホールそのものに用がある、のか」
     だとすれば、一振り目が取る行動は――

     気づけば俺の脚は、転送機へと駆けだしていた。



     徒労に終わればいいと思っていた。だって今晩は主もお帰りになってるし、こんなにも寒い。一時やんでいた雪は先ほどからまた静かに振り始めたし、月の灯りもない。
     転送機は裏庭にある。願わくば、誰もいなければいい。そうすれば俺は悪態吐きながら近侍室に戻って、一振り目の書類に無理やり適当な難癖でもつけられるんだから。
     いや、そんな難癖すら見つけられず、さらにイライラと悪態を吐くはめになるかも知れんが。
     だが、そんな俺の楽観的な願いは叶わなかった。
     既に転送機は使用するためのエネルギーを溜め終え、輝いていた。そしてその光の中を、こちらに背を向け転送機を操作している、
    「へし切長谷部……!」
    正装した一振り目の姿。
     俺の呻くような声が聞こえたのかそうでないのかは分からない。ただ操作がひと段落しただけかも知れない。それでも一振り目は振り向いて、俺の姿を見止めて、
    「何だ、こんなに寒いのにわざわざ見送りに来るなど酔狂なヤツだな。また風邪がぶり返しても知らんぞ」
    動じる事すら無く、呆れたようにそう言ったのだった。

    「こんな時間に何をしている」
     詰問する俺に、一振り目は軽く目を見開いた。が、おちょくるかのように肩を竦める。
    「今日はいい月夜だから、ちょっと散歩に山へでも行こうかと?」
    「……今すぐ転送機を止めろ。見なかったことにしてやる」
    「それはできない相談だなァ。待ち合わせをしていてな」
     遅刻、ドタキャンなどするわけにはイカンからな。そんなことを言う割に、一振り目は焦る素振りを欠片も見せない。本来なら、俺と会話する時間すらも惜しいはずだろうに。
    「行くな」
     行燈を置いて、本体を鞘ごと握る――いつでも抜けるように。
     一振り目の腕は、力なく身体の横に垂れたまま動かない。緩やかに開いたままの手にも力が無い。首だけをゆっくりと横に振る。
    「行くな」
    「おや熱烈。そんなにお前が俺のことを好きだったなんて」
    「ふざけるのも大概にしろ! 俺の感情など今は関係無いッ!」
     考えるべきは、この本丸と主のことだ。
    「貴様を失った主が、どんな風にお感じになると思ってる」
     それに、『へし切杯』などと称して勝手に改造を重ねた本丸。全容を把握しているのはコイツだけのはずだ。
     コイツが何を考えているのかは全く分からんが、その気になれば、俺の代わりはコイツに務めることはできる。俺は何の変哲もない『へし切長谷部』だから。
     ……けど、俺には一振り目の代わりはできない。いや、代わりなんて誰にもできないんだ――絶対に!
    「お前……」
     思った以上に拗らせてたんだなぁ、と。こちらからは逆光でよく見えないが、声音で分かる。呆れが半分、憐れみが半分といった視線をよこす一振り目には、いつも通り緊張感の欠片も無い。
    「だがまぁ、何か安心したよ。お前は妙に背伸びしてるようなところがあったからな」
     日本号や宗三たちにあまり心配かけるなよ。そう言いながら笑う気配は、こんな時だというのにあまりにも穏やかで。
    「……行くな」
    「俺の内番着、新品のが一着タンスの肥やしになっている。着てやってくれ」
    「行くな」
    「ああ、戸棚の三番目に入ってる菓子は食っていいぞ、日持ちするからな。粟田口の短刀たちにも分けてやってくれ。だが一番上の菓子はやめとけよ。賞味期限が一年以上切れてる」
    「行くな!」
    「あとは、そうだな。そろそろ大広間の掃除機は買い換えた方がいいぞ。ル○バとか、三日月が喜ぶ。それから、押し入れにある高級羽毛布団は買ったばかりなんだ。使ってもいいぞ」
    「そんなもの要らん! 要らんから行くな、と言ってるんだ!
     ……どうしても、どうしても行くと言うのなら」
     ――俺を! 斬ってから行け!


     上段から袈裟がけに振り下ろした刀は、下から合わされて弾かれる。
     胴を狙って薙げば、刀を立ててしっかりと防がれた
     ならば、と、死角になるタイミングを狙って逆袈裟に斬り上げれば、ふわりと舞う雪のように躱した挙句、
    「隙だらけだなァ長谷部」
    その隙を突きもせずに嗤う。
    「どうした、それで終わりか?」
    「ぐっ……」
     まだまだ、と呻きつつ刀を構え直すが、ふと少しずつ冷静さを取り戻す脳で思った。一振り目は俺を斬れない、と言った。ならば、
    (時間を稼ぎさえすればいい、か?)
    ワームホールがどこでどのくらいの間、開いているのかは知らん。が、丑の刻の間だけ、俺がここで一振り目を足止めすればいい。
     俺がここに駆け付けたのは、主が普段用いる時刻でいうなら午前1時も45分は過ぎていた。今は恐らく、午前2時前後。ならばあと1時間! 1時間だけ、コイツの相手をし続ければ――
    「なら――こちらからいくぞ!」
     と、一振り目の表情が変わった。瞳孔を開き、犬歯を見せて笑う――そんな表情を見て取れるほどに、いつの間にか間合いを詰められている。
    「ははっ!」
     笑いながら振るってきた斬撃を防げたのは、慌てて持ち上げた刀がたまたま当たったからに過ぎない。速い。
     その上、先ほどの俺の斬撃の手順をなぞるように、打ち込んで来る。だが一振り目が余裕で防げていたものが、俺には全てギリギリだ。いや、
    「ぐっ……!」
    逆袈裟を躱し損ねて、衣服と薄皮一枚を裂かれる。圧すだけで切れるほど鋭い刀だ。斬られた瞬間は痛みよりも熱さよりも、むしろ絶対的な冷たさすら感じた。
    「は……」
     斬れないんじゃ、なかったのか。
     傷口に己の血の熱を、そして急激な失血により唐突に自覚させられた寒さを感じて震える。その震えに揺れる視界の中で、一振り目は少し眉を寄せて小首を傾げた。
    「ああ、斬るつもりはなかった。お前なら躱せたはずだが……やはり風邪がぶり返してるんじゃないか?」
     そんなことを言って、先ほど容赦なく俺を斬りつけた利き手を、額へ伸ばしてくる。
     俺はその手を狙った。刀を握れなくしてやればいい。ギリギリまで引きつける。指先一本、触れるか触れないか――今だ。
     下から上へ、掌を狙って。一振り目が目を見開いて身体ごと手を引く。手ごたえはあった。
    「……ッ」
     息を呑んで、己の手を胸に抱く一振り目には先ほどまでの余裕の気配がない。そんなアイツの様子を見られた、それだけでも俺の溜飲は下がった。手袋が裂けて、赤い血が雪の上に滴っている。うかつにも利き手側を伸ばしてきた己を呪うがいい。
    「……は、ははっ」
     そっちこそ隙だらけじゃないか。といっても、その隙を狙えるほどに俺も今は動けない。
     だが一振り目もこれでもう、両手で刀は握れないだろう。
     改めて刀をしっかりと握り直す。震える身体を脚でしっかりと支え、油断なく相手を見据える。
     だが一振り目は動かない。利き手とは反対側の手でぶらりと刀をぶら下げて、じっと負傷した右手を見るように俯いている。
     今だ。ここで中傷程度を負わせ一振り目を無力化して、手入れ部屋に突っ込んでおけばいい。いや待て、これは本当に隙なのか。俺の油断を誘っているだけではないのか。うっかりと斬りかかったら返り討ちにされるのでは。こちらも手負いだ、これ以上手傷を受ければ最悪折れる。しかし相手だって、片手――しかも利き手を使えないのだから先ほどのようには動けないだろう。それなら仮に油断を誘っているのだとしても、こちらに全くの不利というわけではない。
     そんなことを頭の中だけで数秒考えた。だがどちらにせよ、俺の方からいくしかない。このままどちらも動かないままなら、一振り目は隙を見て俺を振り切り、転送機に飛び込むだろう。俺は俺で手傷のせいで、そう長くは動けない。時間稼ぎという選択肢は、もう取れない。
     刀を八相に構える。一振り目は動かない。足の指でしっかりと、汚れた雪の積もった地面を噛んで、疾る。何か叫んだような気もするが、自分では分からない。
     刀を袈裟に振り下ろす瞬間、とった、と思った。だが、刀が一振り目の肩口に触れるか否かの刹那、一振り目の口元か笑んでいることに気づいた。前髪の下、俺と同じ薄い色の目がこちらにしっかりと焦点を結んでいる。
     片足を半歩引いて、俺の攻撃を躱す。だが俺だってそのくらいは予測していた。返す刀で下から斬り上げれば、それももちろん躱されて、大きく俺は胴を一振り目に晒すことになる。そこを、一振り目が左腕一本でぶら下げていた刀で狙ってくるのは分かり切っていた。だから斬り上げると見せかけて、刀を握る腕を狙った。肘から下を斬り落としてやれば、それで事足りる。あとは、さっさと手入れ部屋にぶち込んでやればいい――
    「お前は本当に甘い」
     声がした瞬間にはもう、俺は刀を振るってしまっていた。しまった、と思ったときには遅かった。一振り目の左手に、刀は無い。俺の刀は紛うことなく、一振り目の腕を飛ばしていた。が、
    「死ななきゃ安い」
    同時に、耳元でその声を聴いた。言葉で形容できないような音が直後に響いて、皮を裂き肉を破り、内側へと冷たい何かが無遠慮に圧し入って来るのを感じた。
    「……な」
     見下ろせば、一振り目の本体が。しっかりと、俺の胴を貫いていた。
    「あ、あ……っ」
     痛い。痛い、痛いイタイ、熱い、暑い、冷たい、寒い。力が入らなくて膝が崩れて、その拍子にずるりと一振り目の本体が抜けて、その感触に意味の分からない鳥肌が立つ。
     視界がガタガタと揺れる。息が苦しい。雪の冷たさが、心地いいのか寒いのかも分からない。
    「斬れないとは言ったが、刺せないとは言わなかったからな――なんて言い訳は流石にしないさ。
     すまんな。嘘を吐いたつもりは無かった……」
     そんなことはどうでも良かった。だって最初から分かってはいた――もしお前に少しも負い目がないのなら、俺を斬れないはずが無いんだ。
     それよりも、だ。
    「おま、え……右手」
    「ん? ……ああ、こりゃ血糊だ」
     鶴丸と悪戯するときに仕込んだのが余ってたんでな、などと嘯きつつ、一振り目は俺の血がついた刀を一振りしてから、鞘に納める。額に脂汗を浮かべ眉間に苦悶の皺を刻みながらも、斬られた左腕には見向きもせず、口で裂けた手袋を外してぽとりと落としてこちらへ右手をかざして見せる。
     ――失血に霞む視界の中、白く浮き上がって見える一振り目の右手は、無傷、だった。
    「……っと、さすがにもう時間がない……」
     ほぼ暗転する視界の中、辛うじて生きている聴覚が一振り目の焦燥滲んだ声音を拾い上げる。それから、脚を引きずるような足音。
     無理やり開いた目が像をわずかに結ぶ。一振り目の左腕から流れ落ちた血が、雪に大量の跡を残している。
     視線を上げれば、転送機の光の中に背を向けた一振り目が居た。行くな、と、そう言ったつもりだったが、俺の喉からは血の塊と、無様な音しか出ない。
     だがそれでも俺の言いたいことが分かったのか、一振り目がこちらを振り向いた。逆光で見えないはずなのに、俺には確かに、アイツが笑ったのが分かった。
    「――」
     唇が動いたのが微かに見えた。だから、俺は読唇術はできないと言っているのに。言いたいことがあるなら、
    「……直接……言いに、来い――」
     転送機の光の収束と同時に、俺の意識もまた、真っ黒になった。
    参号 Link Message Mute
    2018/06/14 9:28:33

    タイトルは決まってない(21話目まで。続く)

    pixivで連載している二次創作小説を試しに上げてみます。
    へし切長谷部が二振り居る本丸の話。長くなりそう。
    3月30日 21話目追加。
    作中の新月の日付けを修正。11日ではなく10日でした。
    うっかりと何とか納まりきってしまった……。
    残り文字数254字、続きこそは新規投稿する予定です。

    #刀剣乱舞
    #へし切長谷部

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