雨が降っていた。
普段から腹が鳴ってから空腹感と一緒に目を覚ます槌田だったが、この日はその音で目覚めた。起きてしまったものは仕方がないとベッドを出る気でいたが、寄り添うものに気づいてやめた。
「…んん…、」
自分が身じろいだことで布団の中に冷気が入ったのかむずかるような声を上げて腕に擦り寄る。その瞼は閉ざされていて、まだ眠っていることは確かだった。
口付けをしても顔を赤らめ、能力まで暴発させて取り乱してしまう初々しい存在は、中々本音をださない。出せない性分なのだ。こうして無意識の淵にいる時か、どうしようもなく追い詰められた時でなければ。
槌田はその目元を逆の腕でそっと擦る。長い睫毛。白い肌。ほっそりとした体。シーツに広がる長い髪。けれど隣で眠りに囚われているのは、決して女と言えるような丸みを帯びた身体ではなく、骨ばった列記とした男の肉体であった。無論槌田とて男である。それでもその青年は確かに槌田の恋人だ。
眼鏡を取り去った青年の眉間には、僅かながら皺が刻まれている。眠っている間にもどこか苦悩を抱えているような青年。広西櫁。
自分に思いを告げた時も、酷く必死な形相をして、泣きそうにしていながら眉間のそれは寄ったままだった。日々を過ごしている間にも、ソレが外れることはあまりない。最早跡のようなソレを撫でて、返事は無いのを知りながらぽつりと呟く。
「…素直になれよ」
そうすればもっと生きやすくなるだろうに。
食べる、という人間の三大欲求の一つにひたすら“素直”に生きてきた槌田は、あれこれ頭の中で捻じり回してあーだこーだと判りにくくすることにエネルギーを費やして自分から苦しんでいるような櫁の思考が殆ど理解できなかった。
食いたい欲しい、そう思ったならそれが事実。他に何を言われても何の柵があっても気にすることは無い、自分の人生を決めるのは他ならない自分である。
それを信条に槌田はこれまで生きてきた。親類の家を出ると決めたのにも一番の欲求である食べることにさんざん文句をつけられて嫌気が差した為である。その中には自分に理解を示そうとする人間も居ないでもなかったが、その人間が差し出してきた道もあまり気に入らなかったために、結局誰にも行方を告げずにそこを出た。
それからというもの仕事に就いたり解雇されたり、行き倒れて拾われたり、事故に遭って死にかけたり、その事をきっかけに奇妙な組織にスカウトされたり、様々なことをこの20年ほどで経験してきたが、何にしてもその信条が変わったことは無い。
どこに寄り道したところで結局欲しいのには変わりないのだから、あれこれ悩まずに手中に入れてしまえばいいのだ。
槌田はその通りに、欲しいと思ったその時に口煩く眉間の皺の消えない料理がうまい青年を手中に入れることにした。同性だの同僚だのという事に悩まないでもなかったが、面倒くさくなったし考えたところで腹が減るだけで結果は変わらないので切り捨てた。欲しいものは欲しいんだから仕方が無い。
そうして始まった生活。共に起き櫁が食事を作り、共に食べる時には食べ、仕事に良き、働き、同じ家に帰り、同じベッドで眠る。
ただ居を共にしていただけの時と変わらないような生活でも、櫁の鞄には守り袋に入った金属の輪が入っているし、雑な自分は何かの拍子に抜けたりしてなくさないようにチェーンにかけて首に下げている。つまりそれはお互いがお互いの物であるという意味で、そうであろうということを決めた証であった。
櫁は自分のものである。つまり自分とて櫁のものであるに等しい。であるというのに、櫁は未だ億面無く槌田に触れられない。触れたがっているであろう事は最初の言い分やらから明らかであるというのにだ。
全くいつまでそうして足踏みをしている気なのか。
「…ふん、」
拗ねたように鼻を鳴らして、槌田は覆いかぶさるように櫁の身体を抱きこんだ。ぐいと引き寄せて目をつぶる。
どうせもう暫くすれば腹が鳴って、櫁もその音で目を覚ますだろう。
目を覚まして、抱き込まれている自分にギョッとして叫ぶかシーツを溶かすかはするだろう。
後者ならば謝った後にだが、どちらにせよ何をしてるんだと顔を赤くして怒るのだろう。
そうして怒りながらも自分の為に食事を作り、作りながら見えないところで、密かに幸せそうに笑むのだろう。
―――思いを告げ、垣根を越えて求めさせるようにしたのは自分の癖に。
そうして槌田が示してやらねば、臆病な青年は愛されているという実感を持つことすらできないのだ。
それは酷く面倒で、それでも何故か嫌ではない。
槌田は雨音にうつらうつらとしながら、そんなことを思ったのだった。