無作法ども天使襲来後、新装開店したホテルのバーでルシファーは林檎果実100%のジュースを飲んでいた。
地獄の住人はまんべんなく罪人だ。罪人はただ罪人であるだけで彼の心を滅入らせる。
必要な接触以外は極力他者を遠ざけていたルシファーだがそれでも持てる気力をかき集め、娘の運営するホテルの住人たちとは関わりを持とうと目下心掛けている。
彼らは、ルシファーが自分自身の陰鬱に耽りきって愛娘から目を離している間、何らかの形でそばにいてくれた。そして娘の素晴らしい人柄に由来するものだろうが、各々本当にあの子を慕ってくれていることも彼らと関わる上でようやく理解したのだ。
ルシファーは長いこと部屋に籠って、自分自身とばかりやり合ってきた。
地獄の連中との交流で時々会話を止めてしまったり、うろたえさせるのは、これまで交流を放棄してきたブランクのせいもあると思う。傲岸で素直な地獄の王はちょっぴり反省した。あんまり深堀すると本格的な鬱を引き込みかねないので浅めに自省した。
それでこの頃、リハビリも兼ねて罪人が集まるところに顔をだし、遠くからちょっとずつ関わろうと試みている。変わろうとしている父親を無論娘は大喜びで歓迎した。どんなことにも手を貸すわ! と文字通り飛び上がった。
地獄の王がメンタルリハビリのために降りてくるホテルのロビーなど、世界中を探してもきっとここだけだろう。
そんなわけで比較的気持ちが上向いている日は姿を見せるようになったルシファーだが、アルコールしか置いていまいと思ったバーで林檎のジュースが出てきたことに驚いた。
そのことを口にするとバーテンダーのふわふわした大きな耳がかすかに左右に倒れる。
「腐ってもバーだからな。アルコールをあんまり推奨しない連中もいるし」
そう言って一つ目の小柄な少女を指さす。ナイフを手に独楽鼠のように害虫を追いかけ回している彼女は恐らく見た目ほど幼くないはずだが、心身のコントロールが不得手なのかもしれない。
なるほど、とルシファーは頷く。しかしこの地底で一端に上等な果実飲料が飲めるとは思わなかった。バーの店主はそれなりに会話が成立するし、一般的な地獄の住民と比べるとある程度の秩序を持っている。力も寄る辺もない罪人は常に切羽詰まっているため目に見えて破滅主義だ。最も彼とは知り合って日も浅いし、壊滅的な一面を己が知らないだけだろう。
しかし羽根を持っているということはいくらか地位を確立した存在のはず。
彼は爪先立ちして棚の上部に手を伸ばしている。トランプのデザインが浮き上がった羽根はかなりくすんで汚らわしく、せっかく素敵なんだからちゃんと手を入れればいいのにと思った。指先をくるりと振って底の分厚い緑色のガラス瓶をカウンターへ下ろしてやる。
渋面で礼を言われてはたと思い当たった。
「そうか。お前がハスクか」
「今更なんだ」とつまらなそうに瓶の口を切る。
すまない、とルシファーはあっけらかんと言った。
「ここ数年の私の記憶なんだが、けっこう当てにならなくってね。穴ぼこだらけで。おまえ……。君の名前は聞いたことがある。だが、きっと見かけたことはないはずだ。そうだよな?」
「ああ。そうなんだろうな」
「でも君のような悪魔が一所に留まるなんてめずらしい。私の娘の思想に共感したのかい」
「ンー……。俺のボスが、あんたの娘に入れこんでいるんだ。それで連れてこられたのさ」
「ふむ。自由になりたいか?」
どうやらこのハスクという男はあの鹿の悪魔に飼い殺しにされているらしい。
支配から解放することは不可能じゃない。だがかなり面倒だし、正直言ってそこまでする義理もなかった。だが奴を煩わせたいという気持ちを無視できずつい鎌をかける。
ハスクは肩を竦め魅力的な提案をあっさりと退けた。
「素晴らしい提案だが止しとく。あんたらの手を借りるのはもう懲りた。それにボスはこの頃妙に精力的でな。俺があんたに粉かけられたと知ったら八つ裂きにされる」
「あっ、パパ!」
後ろめたいことなど一切ないが、愛娘の呼び掛けにルシファーは飛び上がった。
「やあ、チャーリー。今日も愉快だね」
「ええ。パパが元気そうで嬉しい」とチャーリーはにっこり笑う。
天使長だろうと傷ひとつつけられなかった胸がつきつきと痛む。
こんなに心優しくけなげな子を自分は長いこと地獄に置き去りにしたのだ。償いになるのならなんだってしたい。どんな些細なことにも喜び、憂い、ピンピンと反応を示す彼女にもう二度と痛ましい思いをしてほしくなかった。
「それに、ねえ今日のアラスターのラジオを聴いた?」
後ろでハスクが仰け反って目をまわし、ルシファーもあからさまに眉をひそめたが彼女はものともしない。
「あ、いや……。幸いなことに聴いてないかな……」
ほとんど遮るような調子で娘は続ける。
「彼の放送はいつも、その、大抵刺激的だけれど、この頃はとっても楽しそうだしすごく調子が良さそうなの。なんだかテキメンに違うのよ。これって何かすばらしい変化があったんじゃないかしら」
楽しくて調子が良さそう、という言い方は彼女特有のかなり耳馴染みが良い表現だ。
彼女以外の大半はこう言い表すだろう。フル充填されて力の漲った悪魔が自身の力を誇示している。実際に耳にする話だと下位に位置する地獄の住人などは彼の力にあてられ元々の破滅願望にさらに拍車がかかっているらしい。
もちろんルシファーの愛娘はその影響下に無い。
その上アラスターは近頃調子が良いで済ますのだから、父にとって素晴らしい娘であるというだけでなく、実際に才能まで持ち合わせているのである。嬉しくもあり内情は複雑だった。
「最近パパはアラスターとも仲良くしているわよね?」「してないよ」
つい間髪入れず言い返してチャーリーを戸惑わせてしまう。だが彼女は持前の明るさで立て直した。
「ええと、だけど以前とは関わり方を変えたでしょう? それがすごくうまくいってるってことだと思うの。もしよかったら、コツというか、そのやり方を教えてほしいなって、今後のホテルの運営にも活かせる気がするの」
ルシファーは今度こそ閉口した。娘のためにどんなことにでも殉ずると決意したばかりだが、だけど、だからって話したくない。振り返ってみればおそらく自分は反則行為をやったのだ。うかつだった。そう、時々、ルシファーは致命的にうかつになる。取り返しのつかない施しというものをやってしまったのだ。
彼は人形のような指を組み、ひとまずは愛娘を煙に巻くことに決めた。
「チャーリー、残念だけど君の助けになるような特別なことはなんにもしてないよ。あいつ……あの男も、私の力が少しはわかったみたいだから、まともに関わることにしたんじゃないかな? 私は盾突かれなければどうだって良いわけだし……。あっ、いや。まあ態度をあらためたよ、パパも」
ちょっとふくれっ面になったチャーリーに気づいて、ルシファーは慌てて言い換える。
まだ納得はしていないようだったが今日のところは追及を止してくれるらしく、遅れてロビーに現れたパートナーに気づいて駆け寄っていった。
娘と罪人たちとでホテルの修繕を終えた後に、アラスターが姿を見せた為初めはうまく逃げやがったなと思った。
だが隙の無い嫌味な奴と思っていた男から常の覇気が失われていた。それを隠し切れないほどに疲弊していたのだ。ルシファーでさえふと勘が働いて注視していなければ察することは難しかっただろう。
さて、どうしようかと悩んだ。大変腹立たしいが今の娘にアラスターは必要不可欠だ。
ホテルが再建されてまだ間もないし、あの男には馬車馬のように働いてもらわねばなるまい。腐っても天使のアダムから直に受けた傷はそう簡単に回復しない。並みの悪魔は生涯傷が塞がらず時間をかけて斃れたはずである。アラスターであっても致命傷にこそならなかったが、回復に徹しなければならないくらいに彼を削っている。すなわち自己回復だけでは完治が難しいということだ。
アラスターが同じ言葉と文化を持つ生物を食う種族であることをルシファーはすでに察していた。同種食いの連中と懇意のようだったし、あれらの罪人には特徴がある。どれほど細心の注意を払おうとも隠しきれない獣の匂いと、瞳孔の開き、特徴的な顎のつくりだ。
あの男もまたその特徴全てを揃えていた。今回の強襲で天使の血肉が出回った。人食いたちの褒美でもあっただろうし、彼が口をつけていないはずがない。だがそれでも足りなかったようだ。
一度は神の寵愛を受けたルシファーの血は恐らくアラスターを完璧に回復させるだろう。
施してやるのは構わなかった。鬱屈を引き剥がすのに苦心したルシファーの十分な時間稼ぎをしたのは結果的にあの男だ。娘を失わずに済んだという事実は何ものにも代えられない。
問題はどうやって与えるかだ。アラスターが傲慢を冠する己に引け劣らない、相応のプライドの持ち主であることは明らかだった。矜持を踏みつけられれば、万が一に勝ち目がないとしても飛び掛からずにはいられぬ生き物だ。自分の血とわかっていたら彼は素直に口にしないかもしれない。
ルシファーは考えに考え、そしてちょっと飽きて、出来うる限り下手に出ることにした。
ある夜、寝静まったホテルの階上でアラスターの存在を捉えた。
「君に報酬を与えたい」
「結構です」
突如現れたルシファーに対してにべもなく言い捨てる。早くも心が折れそうだった。だがへりくだるのも嫌で、わずかな誠意を引き寄せて言い方を変えてみた。
「……ほんの少し、礼がしたいだけだ。君が愛娘にしてくれたことについて。…」
悪魔は目を眇める。話は聞くつもりになったことに励まされ、ルシファーは続けた。ちょっと特別なものを用意したんだよ。
すでに消灯しているバーに一振りで明かりを灯しアラスターごと転移する。
有無を言わせない振舞いがすでに癇に障っていたが、彼に背を向けた地獄の王がそんな細部に気を配る由もない。カウンターに立ったルシファーは手の内に自身の血液を引き上げた。匂いや色、とにかくルシファーと結びつくものを消し去る。味については弄らなかった。効果が変化する可能性があったし、そもそも自分の血の味を知る機会が滅多にないため、下手にやらないほうがいいと判断した。それを薄張りのワイングラスに注いでアラスターの前に差し出す。
彼は眼下のグラスにじっと見入った。顎に沿えた指を唇にあて知らん素振りを決めているが瞬きのない瞳からもひとまず関心を引いていることは明らかである。
変化させた血は、体液特有のとろみもなく一目には白の葡萄酒に似ている。天使の血液特有の発光要素は金粉に置き換えた。わかるまいと思いつつ内心どきどきする。
「……林檎酒ですか?」
やはり鼻が良い。彼はまだグラスを手にもしていなかった。
同種食いには感覚鋭敏になる者が多いがアラスターも例に漏れないようだ。もちろんルシファーの血に果実の匂いなどない。別の食物の匂いがしたほうが自然で、いかにも自分が見繕ってきたものらしくなる気がしたのだ。
「そのようなものだ。でも、アルコールは入ってない。この私がわざわざ君のために誂えたんだ。そう言えば何が含まれているかは粗方予想がつくかな。特に今の君には特別効果があると思うよ。毒見をしたっていいが、正直目方を減らしたくないね」
「……」
もっと反論が来ると思ったが意外なことに彼は素直にグラスの軸を持った。
液体を揺すると金粉を模したものが舞う。そのまま飲め、とルシファーが内心けしかけるより早くアラスターは液体を傾けた。あまりにあっけない結果に驚き、カウンターの下でぎゅっと手を組む。
その瞬間バーの心許ない明かりの下に伸びた影が濃度を増して蔓延り、天井が吹き抜けになったロビーいっぱいに満たすのがわかった。うす暗く傍目にはわかりにくいが、真夜中の大海に放り出されたかのようにバーを覗く周囲が暗闇に包まれ、階段の手すりまで埋め尽くした明らかな変化をルシファーは見逃さなかった。反応は瞬きの間に収まり、部屋じゅうをうめつくした影はすでにアラスターの形に収まっている。ごく一瞬の変化だ。気づかなかった、と言い逃れも出来よう。
ルシファーはそっと相手の反応を窺った。窺うもなにも二人しかいないのでそれ以外どうしようもなかったがそうした。血であることには気づいたかもしれないがきっと自分とは結びつけまい。アラスターはあの何を考えているかさっぱり読めない動物的な瞳で一度まばたきした。この男のまばたきを見るのは初めてだった。
「失礼」
それだけ言うと彼は消えた。
空のグラスと共に取り残されたルシファーは、ふといまの声はエフェクトがかかっていなかったぞと気づいた。それからである。アラスターの奇行がはじまったのは。
ルシファーが血を与えた後間もなく、ラジオデーモンが力を取り戻したという話が流れてきた。普段の様子や度々耳にする凶行からもすこぶる調子が良いのは明らかだ。自分の思惑はすんなりと達成されたようだ。良かった。
だがあれ以降、アラスターの振舞いが変化した。気に食わないと思ったことには即座に反応して噛みついてくるし、相変わらず多少の小競り合いはやっている。
しかし何かと些細なことでルシファーを贔屓するようになったのだ。前日にやり合ってさえなければ気さくに挨拶をしてくるし、すでにホテルに属する面子それぞれのスペースがあるなか、バーにルシファーの居場所を設けてくれたのも彼だ。そして今日の天気予報みたいな具合で、娘の様子を知らせてくれる。おかげでルシファーが彼女の地雷を踏む機会は激減した。
素直に感謝すべきだろうが、ここは地獄。見返りなしの親切など奇跡のなかのそのまた奇跡の事象であるし、そもそもはじめに「報酬」だと提示したのだからアラスターが顧みる必要など元からない。彼がたびたび黙りこくって、ルシファーの顔色を窺っていることからも結論は明らかだった。すなわちアラスターは「二度めの報酬」を得る機会を手をこまねいて待っているのだ。
それほど自分の血に価値があるとは知らなかった、と言うと些か白々しいだろう。
しかしほとんど敵対状態にあったあの悪魔を懐柔させるほどの効果とは思わなかった。
またアラスターのことで水を向けられてはたまらないと思ったルシファーは、ホテルの外を歩いていた。
視察がてら飛びだしたが夜に表へでたのは失敗だったかもしれない。ホテルに在中する罪人がここではかなりマシな連中であることをつくづく思い知る。方々であがる悲鳴、道端に飛び散った腸を飛び越える。高い場所に据えられたスピーカーから漏れ聞こえるアラスターの声が惨状に拍車をかけていた。放送もまもなく終盤だろう。
連中は混沌を愛している。好きで臓物をぶちまけているんだ。そうとしか思えない。
何か娘に適当な土産を買っていきたかったが、ろくなものを見つけられなかった。
ルシファーは心細かった。よくない方向へ気持ちに傾きつつあるのを自覚していたがどうすることもできない。お茶とか、花とか、ぬいぐるみとか。そんなものでいいのに、ここには求めるものが何もない。ろくすっぽ表を歩かないせいで入り組んだ小道に入ってしまい、気鬱の悪循環からも抜け出せない。
壁に飛び散る汚物や、側溝に落ちた腐乱する太腿の断面にまで自分の非を責められているように感じる。飛びついてきた浮浪者を触れることなく跳ねのけた。道端に散々に踏み拉かれた子ども靴の片割れを見つける。たまらなかった。
そのとき、ルシファーの耳がこつこつと地面を小突くような音を聞き取った。
幻聴かなと思ったが音は断続的に続いている。いつまでも止まないので音を頼って壁伝いに歩いて行くと表の通りに戻る道に出た。大通りの外灯が長く灯りを伸ばしている。
灯りの下に立っているのはいつもなら会いたくない人物だったが今は構わなかった。
「小柄なのも考えものですね。こんな小路に入りこんでしまうなんて。暗くて臭くて悲惨でこの辺の連中でもそう通りませんよ。こんな狭い通路じゃポータルだってろくに開けやしないでしょう」
真っ赤なボロのジャケットを羽織ったアラスターは、よれよれと裏道から出てきた地獄の王様に対しても全くいつもの調子だった。がぴがぴした彼の肉声を今ほどありがたく思ったことはない。
「迷ったんだよ」
自分がもうずっと長いこと、そして今も、元通りにはなれないことをルシファーは度々思い知る。彼の言う通りポータルで戻ろうとしたところで「何を探していたんですか?」と尋ねられた。
「……なんでもいいから、チャーリーに買ってかえりたかった。でも彼女がほしいものが地獄にあるわけがないな……」
「まあ、悲劇的だこと」
アラスターはそう吐き捨てると背を向けて歩きだした。
狼狽えているとなぜついてこないのだと言わんばかりにこちらを振り返る。仕方なく開いたポータルを閉じて彼に続いた。一分も歩かないうちに小洒落た露店に辿り着く。売り手はボロ布を幾重に纏って丸くなった子どもで品数はすくないが玩具のような愛らしい小箱に詰められた茶葉を売っていた。
「チャーリーはこういう店のちいちゃくて可愛いものを好む傾向があります。喜ぶかもしれません」
こんな店があるのか、とルシファーはぽつりと呟く。
「あなたの娘はここに住んで罪人を家族だと豪語しているんですよ。彼女の好きなものが無いわけないでしょう」
「そうか。…」
少し前まで自分の呼吸より動悸と頭痛のほうが大きくて参っていたが今はかなりましだった。
これ以上情けない言葉が上るのを恐れて次の句を次げないでいる。結局、茶葉入りの小箱をあるだけ買うと、今度こそポータルを開き彼と共に一足でホテルへ戻った。
ほだされてはいけない。
でも認識が誤りならば正さなければならない。バーの片隅に置かれたラジオは今夜も調子よく囀っている。
「パパ、腕がどうかしたの?」
チャーリーの指摘で、ルシファーは血管が走る腕の内側を無意識に掻いていたことに気づいた。傷を塞ぐ魔術のかかりがあまかったらしい。すぐさま捲っていたシャツの裾を下ろし釦をとめる。品の無いところを娘に見とめられて恥ずかしかった。
「いいや、気になっただけ。なんともないよ。それより、お二方準備は出来たかな? そろそろ出ようと思うのだけれど」
「いいわ。ヴァギー! あなたもいいわよね?」
「ええ。あの、陛下、親子水入らずのところを邪魔してしまいますが」
しおらしく傍らに立ったヴァギーの手をチャーリーは迷いなく取る。二人はまるで姉妹のように似た形をしているが彼女たちの間にあるものは極めて献身的で強固な愛だ。ルシファーはうっとりして言う。
「構わないよ。娘とそのパートナーと一緒にお茶することは私の夢のひとつだった」
前回、茶葉を土産にしたのをきっかけに娘たちとお茶に行けることになった。
楽しみすぎて実は昨日の夜から今まで一睡もしてない。でもまるで眠気を感じないほど浮足立っていた。メニューにパンケーキがあって、いつか行きたいと言い合っていたらしいが僻地にあるため叶わないでいたという。自分なら魔術で一発だし、正確な着地点も昨日アラスターから聞きだした。
仕度が出来たならとポータルを開く。
「ちょっと、ラジオ最後まで聴いてかないの? もうサビだけど」
同じくバーの椅子に座っていたエンジェルに呼び掛けられルシファーはきょとんとする。
娘たち二人はきゃあきゃあと歓声を上げてすでにポータルをくぐっていた。彼の関心はすでにほとんどそちらにある。
「別にいいよ。だって何時だって聞けるだろ?」
ルシファーがポータルを閉じて間もなくアラスターの放送が終局を迎えた。
「いやー……。今日すごかったね。あんまし長いから俺途中でオペラかと思ったもん」
まだ耳がキンキンする、と言ってエンジェルが頭を振った。
ハスクはまだ終わりの口上を述べているラジオのチャンネルを適当に切り替える。ガチャガチャしたギターをかき鳴らす音が聞こえて手をとめた。今は人の歌声を聞く気にならない。
「なんか飲むだろ?」
「もちろん。なんか喉がすっきりするやつ」
エンジェルの注文に彼は迷い無く氷を砕き始める。無駄のない手際を横目に彼は続けた。
「最近はすっかり王様向けだよねえ。天使の死体が下々の者にまで出まわったから注目度があがっちゃったのかな。俺もそれなりに怖いもの知らずだけど、それでも地獄の王様をどうこうしようなんて、畏れ多くて口にもできないね」
この頃のアラスターの恐怖放送は、もっぱら地獄の王ルシファーに食い気を見出したものたちだ。それも血肉だろうが欲情だろうが極度の信奉だろうが彼の目(もしくは耳、それ以外)に留まれば垣根がない。拷問にかけられた見せしめの悲鳴はそれこそ息の続く限り響いた。常のように口角を引き上げたアラスターが「人の皿に手をつけるなと躾られていないのか?」と口走るのをルシファーは聞いていない。
「ああ、そう言っとけよ。いまのボスは冗談じゃなく見境無いからな」
そう言ってハスクはワインと林檎ジュースと炭酸を合わせた、シードル風の飲み物をつくった。ぎゃあ、洒落てる! とエンジェルは子どもみたいにけたけた笑う。
「あんたこういうのも出来るんだ」
「まあな。舌が馬鹿になってないときだけ出してやる。それに飲みかけの林檎ジュースを使い切りたいんだ。陛下だって四六時中バーに入り浸るわけじゃなし、足だって早いっつーのに」
「ニフティも飲むんじゃない? ナイフは置いておいでおチビちゃん!」
駆け寄ってきた彼女を下部の腕で抱えて、椅子に座らせてやる。
「あのさあ、賭けない? 食欲か、それ以外か」
「賭けになんねえだろ」とハスクは答えた。
実際のところどうかということに無論二人は関心が無い。所詮、とくべつ気が合う相手との話の種でしかないのだから。
そうとうはしゃいで来たらしい。
ルシファーたちが戻ってきたのは夜も相応に更けたころだった。やがてアラスターが自室に侵入した時も、ガウンに身を包んだままベッドに伏せてぴくりとも動かなかった。昨晩散々明日に障るから寝ろと促したのに聞かないからだ。ルシファーにはある程度多動症の気もあるのではないかと思う。
「陛下、よろしいですか」
傍らに腰を下ろしたアラスターが腕で薄い体を跨ぐ。まだルシファーに意識があるとわかっていた。
「ずいぶん楽しんできましたね。予定以外のところも行ったでしょう?」
案の定、彼はもぞもぞと体を横臥させた。うん、と夢うつつ相槌が返ってくる。
店の位置を把握しておいただけでなくその周囲の施設や娯楽を吹き込んでおいたのは他ならぬ自分だった。まだ当人には指一本触れていない。ただ広々としたベッドの中心に横たわり霧の如き瑞々しい気配を発しているだけだ。それだけでこれ以上ないほど食指を掻き立てている。
アラスターは傍目には淡々と報酬を強請った。
「今回も私はあなたのために尽力しました。お礼を頂戴してもいいんじゃあないでしょうか?」
ルシファーは薄目を開ける。
爬虫類に似た瞳孔でこちらを観察したのち剃刀めいた鋭利な指先で自身の皮膚に線を引いた。真っ白な細腕に黄金色の玉が浮かび上がり次の瞬間、一筋にぱっくりと裂ける。その腕をアラスターの前に放ると彼は再びベッドに顔を埋める。
見てはいけない、と無意識に知っているのかもしれない。矜持からかもしれないし案外アラスターのためかもしれない。
捕食者はたちまち視界が狭窄し、金色の血に目が釘づけになる。ベッドのそばに膝を落として腕を伝うものを一滴も寝具へ吸わせまいと舌を這わせた。
夜に沈んだホテルの一室で血液を啜る音が慎ましく、止むことなく反響する。アラスターはすでに天使の肉を、その血を、十分知っている。土台が違い過ぎるのだ。いくら小手先を使ったところで、あの日ルシファー手ずから差し出したあの黄金色の液体が、そこらへんに打ち捨てられたどの天使の血とも違うことは舌で触れた瞬間にわかった。
下劣な熱を一切持たず、水銀のように重く、野蛮に、臓腑を焼く体液。脳を千々に収縮させ別の細胞へつくりかえられていくような錯覚を覚える。味蕾を刺激され溢れる唾液さえもわずらわしかった。呼吸も嚥下も一緒にやろうとして喉が鳴る。
じゅるる、と血液を啜られる音をルシファーははじめの頃ぞっとしない心で聞いていた。慣れるはずがないと思っていたのに今は傍らで微睡むことさえする。もう何度目かの行為で、彼の加減を信用していた。第三者がいれば、なんと迂闊なと地獄の王を諫められただろうがその誰かは未だ不在だ。尖っていない歯が、時折思い出したように皮膚に食い込むのを感じながらルシファーは徐々に眠りの世界に埋没していく。おぞましいとまで感じていた食い気だが、アラスターのものであるならまだましだった。
「……」
呼吸に揃えてうすい背中が上下している。
ほとんど塞がりつつある傷を卑しく舐り続けていたアラスターだが、不意にその腕に強く歯をたてた。
ぴくっとルシファーの小指が跳ね上がる。そっぽを向いていた顔が即座に振り返る。寸前までくうくうと寝息を立てていたはずの男は真っ赤な瞳を見開き、その中心に悪魔を捉えていた。食い千切る様まで思い描いていたアラスターだが白い肉からそっと牙を外す。赤い瞳の焦点が朧になり、やがてふらふらと目蓋が降ろされた。この全自動的な反応を翌朝のルシファーは一切覚えていなかった。
ぴっちりと閉ざされた瞳を睨めつけて「随分都合がいい」とアラスターは歯噛みする。
負った傷は瞬く間に塞がって次の日にはほとんど魔術をかける必要もないほど回復する。天使は神の祝福を受けている故に快復の早さが際立つがそれでもルシファーの比ではなかった。神に追放されこの地に落ちてきたと言われているが、あわよくば引き戻す算段なのではないかと邪推する。自分たちのルールに押し込んで思い通りにならなかったから彼を散々に蹂躙した分際で。高慢で何もかも鼻につく連中だ。地獄の王はそこからやって来た。
天界の都合も、ルシファーの鬱屈にも、アラスターは興味がなかった。
だが惨くもこの舌に地獄の王の味を覚えさせたからには二度と天国には帰さない。
躊躇いなく座っていた床の上から立ち上がると、麻袋を持ち上げるみたいに横たわる王をひょいと抱え上げた。軽すぎてふっ飛ばしそうになる。この吹けば飛ぶような体に細胞を焼く蜜が詰まっているのだった。上掛けを捲ったベッドに今度は手足を揃えて寝かせ、頭を枕の上に乗せてやる。薬にも魔術にも頼らず、元天使現地獄当主はすやすやと眠っている。金色に輝く睫毛が目蓋の上に淡く透けている。この先の出来事はまだ誰にも定かではない。
慈悲深く寛大な父など生まれてこの方望んだこともなかった。唾を吐く義理もない。例え御身が無限だろうが一滴たりとも分け与えない。そうするだけの振舞いをすでにアラスターは許されている。やがて悪魔は観察にも飽きた。音もなく灯りを落とし、扉も開けずに部屋を出ていく。
なぜならルシファーは自ら皿に乗ったのだ。