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    短編4編御供え物まだら許さない夢にもみない御供え物※現パロ 


    朝、竜三は欠伸まじりで洗面台の前に立つといつものように櫛を通す。
    髪が長いのは、母の趣味だ。幼少のころは見た目などに頓着しないから、言われるがまま伸ばしていて、一時短くしたりもしたけれど結局今の形に落ち着いている。
    こめかみから両手で髪を掬い、後ろでひとまとめにして留める。ゆうに結べるほど長い髪を、男のくせに軟派だと揶揄われることもあるが、彼自身それほど悪くないと思っていた。頭髪は伸びるのが早く量もあるため髭もそうだろうと思っていたのだが、こっちは思ったようには生えてこない。
    頬にてんてんとまばらに髭があるのもみすぼらしいので削ぎ落してしまう。夏休みとか、今度の長い休みが来たら、そのときは放置して育てるつもりでいた。
    「いて」
    頬にあてた剃刀が、古傷の凹凸したところに軽く引っかかる。鏡で確認すると、血は出ていない。
    左頬にあるかぎ状のひっかき傷は幼少期に負ったものだ。
    七五三で訪れた神社で、遊んでいて切ったらしい。らしいというのも、竜三は当時のことをまるで覚えていない。一緒だった母も、誰も自分が怪我を負うところを見ていなくて頬の血がいつの間にか晴れ着に付着しているのを目にして卒倒した、と言っていた。
    半端にしていた制服のボタンをとめたところで、母親がついにリビングから竜三を呼んだ。
    「あんた、いつまでやってんの。学校遅刻するよ」
    「いま行くって」
    出ていく前に仏壇に手を合わせなさいね、と声が飛ぶ。
    竜三は部屋の片隅にある仏壇の前に膝をつく。慣れた手つきで線香をたて、両手を合わせる。
    祖父は昨年の暮れに亡くなった。
    父親のいない竜三を、母の次にみてくれた人だった。怒ると怖いが大抵は寛容で、めったなことでは声を荒げない穏やかな人だった。
    そして、自分の頬の傷はその祖父が声を荒げた数少ない出来事の一つだ。
    怪我をしたときのことは覚えていなくとも、動揺のあまり叱るような物言いになった祖父が怖くて半べそかいたことは記憶に残っている。
    神社で怪我をするのはとても良くないことらしい。この子は絶対に一人で神社に行かせるなと、幼い竜三を隣に置いて母に強く言い聞かせていた。竜三が七五三で行ったのは家から一番近く、廃れてもいないが特別大きな社でもない狐の祀られている神社だ。
    初詣には行かないし、友だち付き合いがあるからと懇願して一度だけ夏祭りに行ったが、日が暮れる前に祖父が迎えに来た。
    不満に思うことがなくはなかったけれど、行き交う人でごった返し拡声器から音割れした祭囃子の響くなか不安そうに立っていた祖父を目にして、竜三は夏祭りなんかどうでも良くなってしまった。次の年からは祭りへも行かなくなった。
    立ち上がって仏壇の部屋から出たところで、大判のハンカチに包まれた弁当箱が差し出された。
    「竜三ほら、お弁当」
    「ん。…あれ、なんか今日重くねえ?」
    重さを確かめるように受け取った包みを軽く上下させると、母はにっこりと笑った。
    「あんた今日誕生日でしょ」
    昨夜までは覚えていたのに、朝になったら忘れていた。
    「ああ」
    「おめでとう、18歳」
    竜三が学校に行ったあとすぐに家を出る母は忙しなく、「今日ケーキあるからね。まっすぐ帰ってくんのよ」と言って奥へ引っ込んでしまう。
    「わかった。行ってきます」
    そう答えた自分の声が小学生みたいに、ばかに威勢がよくてちょっとはずかしかった。


    放課後、友人たちの遊びの誘いをどうにか断り竜三は無事帰路についていた。
    誕生日の当日には竜三が家族と過ごすのは毎年のことだったので、強くは引き留められない。家への道は自転車で十五分ほどだが、明日の朝は雨が降るらしいので自転車は学校に置いてきた。歩くとそれなりの距離になるが、普段は見向きもしない路肩の風景を眺めて歩くのが竜三は嫌いではなかった。
    稲刈りが終わり、ひび割れた地面が露わになっている。干された稲が並ぶ姿は、体のずんぐりした大男が藁をかぶっているようだった。野焼きをしているのだろう。彼方で、遥か高い秋空に届きそうなほど、もうもうと煙が上がっていた。
    火の見えない、煙のそばに誰かが屈んでいる。遠目でもがたいが良く、男だとわかる。膝に手をついて立ち上がり、ふとこちらに顔を向けた。
    ふいに左頬にびりっと裂けるような痛みが走って思わず手で触れた。
    後ずさった竜三のスニーカーが丸い砂利を踏む。道の左側の竹林が風でこすれ合って、かたかたと高い音をたてていた。竜三は、白い砂利の敷き詰められたまっすぐな一本道を呆然と見つめる。
    右側に広がる田園の光景は、見慣れたものだ。でも、この道を知らない。
    家へ続く道には竹の生えた雑木林などないし、角のない丸い石が敷き詰められた砂利道など通らない。振り返ると、歩いてきた道を覆うように芒や笹の葉が生い茂っている。高く伸びた茎の太い雑草の間から、竜三の通う校舎が見えた。

    どういうわけか、いつもと違う道に踏み入ってしまったのかもしれない。
    竜三は混乱していたが、一度見知った場所に戻ろうとした。
    ふいに、子どもの泣く声が聞こえた。
    それだけでは恐ろしいが、やたらにさみしい声を抑える泣き方だった。
    それで意を決して声のほうを見るとちゃんと生身の子どもがいて、砂利道の真ん中で泣きじゃくっていた。
    白く小さな手が力任せに顔を拭うので、頬も目元も磨き立てた林檎のように赤い。
    あまりに激しく泣いてひっひっと喉元が引き攣っている。竜三もかつて子どもだったので、きっと癇癪を起こしているのだと思った。
    そっと子どもの前へ膝をついて、しゃくり上げる声の隙間に差し込むように、
    「どうした? どこか、痛い?」
    と尋ねた。
    すると子どもは身悶えるように唸って、やわらかそうな指の隙間から怒りをむき出しにして竜三を睨んだ。幼い頃の喜怒哀楽は、単純だからこそ触れたらば切れるほどに激しい。大好きな人に叱られて、もしくは転んで膝を擦りむいて、または欲しいものを与えて貰えなくて、自分をこんなひどい目にあわせやがってと心の底から芯に憎むことが出来る。
    あんまりいっぺんに聞いても、子どもをさらに追い詰めるだけだろうと思って「おかあさんは?」とだけ聞いた。
    わっと子どもは、この近さでは不釣り合いの大きな声を出す。
    「わっ、わかんっ、ない……」
    そして怒りを抑え込んでいた小さな手を顔から離した。
    頬の赤みもすっかり引いて眉を下げ、涙で丸い頬を光らしている。
    右の目蓋と左目のふちに黒子がぽっちりとあって、肌が白いから目を引いた。
    晴れ着だろうか、竜三の手の平に乗るくらいの小さな足袋を履いて、淡い黄色の小袖を着ている。
    小学生くらいに見えるが、赤ん坊の形のまま大きくなったようなあどけなさがあって竜三がぽつりぽつりと質問をしても、ほとんどまともに答えられなかった。
    ただ、迷子か?という言葉には控えめに頷いた。
    未だに震える華奢な肩を、なだめようと穏やかに擦る。
    「どっちから来たか、わかる?」
    「あっち。……」
    小魚の鱗みたいな爪を張りつけた指は、砂利道の先を示した。
    「よし、よし。…じゃ、俺と行こう。大丈夫だからな。ちゃんと家に帰れるから」
    歩みを促そうと伸ばした竜三の手を、目を腫らしたままの子どもが握った。

    どこか、寄れそうな家があったら声をかけて、警察に連絡をしてもらおうと思った。
    見慣れない道だったが、夥しい草木に紛れて黄土色の漆喰が見えた。
    恐らく、竜三たちは大きな家の周りを歩いているのだろう。運が良ければ、子どもはこの漆喰が取り囲む家の子かもしれない。
    「……」
    先ほどまでの爆ぜるような怒りはすっかり為りを潜めて、いまは小さく鼻を啜っていた。竜三は、気持ち体を屈めて子どもに尋ねる。
    「なあ、名前はなんていうんだ。教えてくれ」
    「…じん」
    「じん? じんだな。わかった」
    じんは、先を促すように黙って竜三を見上げる。
    その目はまるで今取り上げられたばかりのように潤って、真昼の光のなかちらちらと輝いていた。
    「俺は竜三。りゅうぞう。言える?」
    りゅうぞう、とじんは拙く繰り返した。未だ使いこなせていない小さな舌が唇の隙間から覗く。
    たどたどしく、じんは続ける。
    「字は、かけるのか」
    「うん?」
    竜三がじんの言葉を正しく聞き取れなくて訊き返しても、繰り返さなかった。
    ただこの会話をきっかけに、このじんと言う子どもは竜三に人見知りをしなくなったらしい。手を握ったまま道の脇に生えた芒を触りたがるので、一本抜き取って与えてやる。鼻歌まじりで振り回して、今度は歩くのもおぼつかなくなった。
    丸い石の敷き詰められた道を歩くのは、案外体力を消耗する。
    歩幅も足も、小さな子どもなら尚更だ。時々砂利の上を滑ってよろめいた。いざとなったら転ぶのを阻止しようと思って、手の平に握り込めるほどの小ぶりな手をしっかりと握る。熱くやわい、子ども特有の水っぽい手だった。
    じんが口を開いた。
    「りゅうぞうには、姉弟はいる?」
    「いんや、一人っ子だ」
    「じゃあ、おれと一緒だ」
    何が可笑しかったのか、子どもは上機嫌だ。
    家族は母と祖父だけで、近所づきあいもなかった竜三は同級生ならともかく、小さな子どもと関わることなんてまるでなかった。だから泣いているじんを見かけたときは戸惑ったけれど、初めの印象と違ってなつっこい子どもで助かったと思った。
    「じんは、どこから来たんだ」
    先ほどは返答を得られなかった質問を繰り返してみる。
    今度はじんも反応した。ここ、と漆喰を指さした。
    やはりこの家の子どもだったか、と思って竜三が壁を見上げたところではたと既視感を覚えた。白みがかった黄土色の漆喰。家紋のような印が刻まれた瓦。外壁の向こうから覗く、仰け反って見上げなければならないほど大きな杉の群れ。
    祖父に退けられ、ずっと寄りつかなかった狐を奉る社だ。
    長年立ち寄らず、また普段、といってもかなり以前になるが、通常この神社へ来る道は今歩いている位置と真逆になるためわからなかった。だから知らない道だと思ったのだ。
    「神主の子ども、とか…?」
    疑問を投げかけたが、じんは言葉の意味を解してないかのように一心に竜三を見上げ、目蓋の開閉を繰り返していた。
    あの狐の社にはこんなに敷地があっただろうか。
    二人は大分歩いたが、外壁の終わりはまだ見えるところにはなかった。
    けれど子どもの歩幅に合わせてゆっくりと歩いていたから、道が長く感じるのかもしれない。
    それで、竜三は「疲れたか?」とじんに伺う。
    なんなら出会って間もない子どもを、背負って歩いても良いと思っていた。教科書は学校に置いてきて、空の弁当箱だけが入ってるリュックサックは、体の前で背負えばいいのだから。

    「いい、平気だ」
    じんの声が、やたら明瞭に耳に飛び込んできた。
    思わず顔を向けると、じんはまっすぐに竜三を見返した。
    目線の高さはほとんど変わらない。丸かった頬は削げ、首は女のようにほっそりしているがその中央には胡桃ほどのでっぱりがある。瞬きをしても、黒子の位置は変わらなかった。
    力なく開かれた竜三の手に、先の丸い節のはっきりした指が絡みつく。
    じんの見た目は、ちょうど竜三と同い年くらいだった。振り回して折れてしまった芒を道の端へ放った。
    「行こう」
    そう言って手を握ったまま歩きはじめるので、よろめきながら足を踏み出す。
    強い力ではないが有無をいわせない様子で、のろのろと前へ進まざるを得ない。
    白い砂利の上を歩いてもしっかりとした自重で踏むから、じんがよろめくことはなかった。
    なにかがおかしいのはわかっていた。
    けど何がおかしいのか竜三にははっきりと示せない。
    日陰を作っていたうす暗い竹林を抜け、外壁の反対側は田園が広がっている。
    田の間は木板で舗装された土の道で、アスファルトも排水溝も、電柱だってなかった。隔てるものない、押しつぶされそうなほど高く広い青空の下どんなに彼方を見渡したって、じんと竜三以外に人の姿はない。
    外へ出るのは久しぶりだ、と言うじんの声は低く、ところどころ掠れていた。
    金色の糸が編まれた着物の背中がちょっと丸まって、こんこんと煩わしそうに咳込んでいる。
    「大丈夫か?」
    「うん」
    何かを思うより先に口をついてでた言葉に、顔だけ傾けて答えた。
    竜三の背丈を追い越し、鼻の形がはっきりしたじんの顔立ちは成人した男のものだった。そして横目で竜三を見ると、ふふふと笑った。
    「懐かしい。今思えばその年の頃のお前が、一番すなおで苛烈だった。俺の言葉にいちいち目くじらをたてて。……」
    眩しいものを見る眼差しのじんという男の言うことが、竜三にはなんにもわからなかった。
    指先が白むような加減で握られ手の皮膚がよじれる。力を加えるから振りほどきたい気持ちがするのだ。そんなに掴んでいなくたって、逃げ出したりしない。
    けれどもまた、じんがふっと力を抜いたり隙を見せたなら、突き飛ばし一目散に駆け出していまいそうな気もするのだった。

    前を歩いていたじんが、「そうだ」と思い出したように立ち止まった。
    振り返って両手で竜三の顔を包むと、今まさに傷を受けたように腫れて脈打つ頬の傷を親指でぬぐった。膿が押し出されるように疼痛が薄れ、やがて完全に消える。
    小首をかしげ、じんはかつて竜三の頬に傷があったところをつぶさに観察した。顎を掴まれ左右に向かせられる。もう一度、今度は表面を滑るように指の腹で撫でられて、あの赤い切り傷が跡形もなくなったことがわかった。
    それから自身の左の頬、竜三の傷があったところと同じ箇所に塗るように指を押しつける。
    すると、そこに亀裂のような傷跡が現れた。今刻んだ傷ではない。それは確かに、ずっとそこにあったみたいに乾いて歳月を経た痕だった。
    よし、よし。先ほどの竜三の物言いを真似てそれからじんはくっくっと肩を揺らす。
    一人きりで笑うことに慣れた仕草だった。
    「傷ものにして悪かった。印をつけておく必要があってな」
    もう見失いたくなかったから、とじんは言った。
    ふいに竜三は自分たちが漆喰の外壁の終わり、門の前に立っていることに気が付いた。
    扉は開かれている。幼い日に目にした赤い鳥居。
    狐の石像があった場所は空だったが、毛並みの豊かな狐が台座のそばで丸くなっていた。染まりきった紅葉が夥しいほどに地面を満たし、真っ赤な絨毯が敷かれているようだった。
    神社の前は舗装された道路も家々もなくて、もうただ見渡す限りの芒の海原なのだった。例えば今ここで彼の手を振り払って逃げ出したなら、永久にどこへもたどり着けないような気がした。
    「帰るぞ、竜三」
    腕を引かれ、敷居を跨ぐ。自分の内側から鋼を弾くような音が鳴っている。

    迷子はお前のほうだったな、と仁は言った。



    --
    タイトルがオチ 
    境井の神隠し


    まだら
    ある時、おれはある郎党団の一人だった。
    どこぞの焼け野原で拾われたおれは当然物を知らないし、字も書けない。
    地図は読める。あれは絵みたいなもんだから。
    けれどもおれは頭がいい。そのことを教えてくれたのは、拾われた郎党の頭だった。
    俺より四まわりは上の爺で、目を患っていたけど結構強くておれのことをかわいがってくれた。おれは他の連中より少しばかり目と耳、それと勘が良かったのだ。地形さえわかればどこから崩せそうかなんとなくアテがつけれたし、こちらに優位に見える戦局でもどうにも鳩尾がざわめき、今は引くべきだと根拠もないがはっきりとわかることがあった。そして頭は三下のおれの直感をよく信じてくれた。
    けど、その頭も自分の右腕にしていた人間に殺されちまった。
    短気で、腕っぷしだけが取り柄の男だ。
    言うことだけが立派なくだらない奴で、頭が死んだ二日後くらいに戦力を見誤ったおれたち一団は、家財を奪おうと襲った相手に返り討ちにされ散り散りになった。火矢を持って後ろから守っていた奴がいたのだ。腕っぷしが取り柄の男はたくさんの矢に射られて生きたまま焼かれていた。

    おれは一人で行くことにした。その方が生き延びられる気がしたからだ。
    その後、流民の集う場所で本土へ渡ろうとしている一団と出会いそこに加えてもらうことになった。そいつらは多少人が良かったが仲間に入れて貰えたのは、おれの危機察知能力と出来の良さを買われたのだ。実際、本土へ渡すという話が、持ち出す家財目当てに持ち掛けられた与太話だということを、数回見抜いていた。
    その後も騙されそうになったり、死線をくぐり抜けてきて、ようやく本物にたどり着いた。すでに何度か本土へ人を渡しているという船乗りをみつけたのだ。
    一人が船頭と計画を詰めている間、それ以外の連中は卯麦谷で出発の日を待つことになった。聞けば、早くとも半月はかかるらしい。
    おれは、潮や風のことはわからない。船頭はかなり神経質そうな男だったが、本土へ渡したという話は信用に足るものだった。これで嘘だというなら、もう諦めるしかあるまい。互いが仲間だと知れるのは何かと面倒なので、必要がない限り最低限でしか接触しないと決め、卯麦谷に足を踏み入れた。


    住み着いて数日、卯麦の連中は基本的にはろくでもないことをおれは学んだ。
    息をするように嘘をつくし、手癖が悪い。
    何人か顔見知りも出来たが、どれにも深入りすべきではないと思った。
    案の定、大して日もたたないうちに一緒に卯麦に入った一人から物資を盗まれたと泣きつかれ尻ぬぐいをするはめになった。もちろんおれもろくでもないところの出なので、郎党として過ごしていた頃の懐かしさも感じた。そして早く出ていきたいとも思った。

    その日おれは暇を持て余して、上階の通路を探索していた。
    蜘蛛の巣のように入り組んだ地形をわかっておいて損はない。数か所、縄が切れかかっていて足場の危ういところを見つけたりもした。
    ふと、ひどく歩みののろい男が目にとまった。
    ほつれた髪に白髪はなく、不器用に上にまとめあげられている。着古された牢人風の袴を身に着けており上背があるが、かすかに体を傾いでいた。
    おれはその男を何度か見かけていた。他と動きが違うものは、目にとまりやすい。
    明らかに忌避される様子はないが男が歩を進めるたびじわじわと人が避けていく。病んだ鯉を遠巻きに伺う雑魚の群れのようだった。
    おれは何をするということもなかったので、なんとなく男の様子を眺めていた。
    男は時々辺りを見回すような仕草をした。かと思うと長屋の端に積み重ねられた、廃材の前に立ち尽くす。何かを探しているらしい。
    ふいに男と目があった。窪んでいるが鹿のような黒い色をした目で、当然知り合いでもなんでもないおれをなんの感慨もない透明な眼差しがすり抜けた。

    男が時間をかけて歩いた道のりを、おれは数秒で追いついた。
    「あんたが外にいるの、珍しいね。おれ、何かてつだおうか」
    魔が差したのだ。つい話しかけてしまった。
    男はというと、横目で「構うな」と言って背を向けまたゆっくりと歩きはじめる。
    返事が返ってくるとは思わなかったので、あとを追った。
    「することがねえんだ。暇なだけだよ、時間を潰させてくれよ」
    「駄賃なんか、持ってねえ。二度も言わん。構うな」
    駄賃だって。おれがこの男より目下なのは明らかだろうが嘲っているのか素なのか、区別がつかない。
    板を探してるんだろう、と当たりをつけて言ってみる。
    まさかおれみたいな人間が言い当てるとは思わなかったのか、男は立ち止まった。見た目以上に体が弱っているのかもしれない。歩くという動作を止めるのにも苦労があるらしく、重心の落ち着く場所を探して上体をわずかに揺らした。
    「何に使うんだ。おれが具合のいいやつを見つけてきてやる」
    胸を反らして立ち、聞き届けるまで離れないことを主張する。
    男が体を病んでいることは明らかだった。歩いておれを振り払うことは到底出来まい。
    案の定、髭で覆われた顎を掻いておれに向き直ると「あすこに渡る板を置きたいんだよ」と卯麦谷の出入りに通る道の上を指さした。
    男の示す箇所は一応向かいへ渡れるよう道は作ってあるが、大きな隙間があってどうしても飛び越える必要があるのだった。大股で十分に渡れる距離だが、この男にはそれだけの動作が堪えるのだろう。
    求めているものがわかればあとはお安い御用だ。
    おれが変に献身的だったのは、本当に暇を持て余していたこともあるし、何をするにも不自由そうな男に安い同情を寄せていたこともある。それから到底爺の年ではなかったがその男が死んだ頭にいくらか似たところがあったからかもしれない。
    適当な板を見繕ってくると、すきまにかぶせるように配置し、縄で固く括り付けた。
    何度かそこを行き来し、軽く跳ねたりして強度を確かめる。板同士の隙間が広いところには、雨風で傷んでやわくなった廃材を押し込んで安定させた。
    男は端でそんなおれの様子をじっと見ていた。

    「上等だ、ありがとうよ」
    男の声は幾分明るくなって、かんじが良かった。
    掌にささくれが出来て、意味のない手助けをしたことがちょっと馬鹿馬鹿しくなっていたけど、おれはまあいいかと思えた。この間物資を取り返してやった奴にさえ、まともに礼をいわれなかったもの。
    気をつけなよ、と言って背を向けたところを男が引き留める。
    「ほんとに物乞いじゃねえのか」
    「そうしたっていいが、なにもないんだろ。あんたが言ったんじゃねえか」
    そう返すと、ちょっと下唇を突き出した。ついてこいと男は言った。
    入り組んだ道の、さらに奥まった崖の真下にある長屋が彼の住処らしい。
    明かりの無い部屋は、昼間でも当然暗かった。男はのろのろと物入を漁る。
    「やる。それしかないから隠れて食え」
    戻ってきて、戸口に突っ立ったおれへ手渡されたのは干し柿だった。
    驚いた。一所に留まらない自分たちがめったに口に出来るものではない。おれは果物に心を奪われて、満足に歩けない男がなぜ干し柿を持っているか疑問にも思わなかった。
    「いいのか」
    「いい。俺は食わん」
    言葉を聞ききるまえに、おれは柿を口にした。
    内臓がはっきりと味のあるものに驚いてぶるぶると震えている。うまかった。おれなら誰にも譲らない。
    落ちくぼんだ男の目が、ふと細められた気がした。やはり頭に似ていると思った。


    男の名前は竜三と言った。彼の名前は卯麦の連中から聞いた。
    一年近く住み着いているらしい。ここに立ち寄る連中は多いが、長くはここへとどまらない。一年はそれなりの古株だ。
    上階の長屋に住む竜三は、滅多に下へは降りてこない。下の階層は、自分の部屋のない連中や、食事処、情報交換の場になっていることも多く、おれも出入りするといえばもっぱらその辺りなのであの男の存在に気がつかなかったのも不思議ではなかった。
    また卯麦の連中はみな耳聡く、誰が大酒飲み、盗人、賭博狂い、そういう話はすぐに広まる。おれのことだって、この地に足を踏み入れてすぐに周知されていた。
    しかしおれが上階に棲むあの男のことを尋ねると、皆一様に視線を逸らす。
    どの場所でもそうだが、弱いものはつけこまれる。自分の持ち物を漁られても、嗅ぎまわられても抵抗してこないからだ。おれたちは弱った獲物をつつきまわして生き延びてきた。まともに体を使えない竜三は間違いなく弱い側の人間のはずだった。
    だがあの男は孤立していた。家財の場所を全て把握している奴もいなければ、彼の話に飛びつくやつもいなかった。大抵は弱った人間の話をしていれば誰かしら首をつっこんでくるのだ。餌場の話をしているようなものなのだから。
    旧知の仲だろうが面倒事には一切関わろうとしない奴らだが、あまりにもあからさまなのでよほど訳ありなのかもしれない。
    ただ彼が疎遠にされるのはなんとなくわかる気がした。
    卯麦谷にしかいられない奴らと比べれば竜三は賢かった。どんなに気のないふうでもおれの話をちゃんと聞いていたし、覚えていた。言葉をよく選び、深入りはせず、理屈も無く嘲るような言い方はしなかった。大して難しいことじゃないが、たったそれだけのことがまともに出来ない奴の方がここは多い。彼をどこかの郎党の頭だったらしい、という者もいたがあながち嘘ではないのかもしれない。
    自分に全く持ち合わせがないもので秀でていると、目障りに思うものだ。おれも年端もゆかぬ若造のくせに小賢しいので、運が良ければ取り立てられるが、煙たがられることの方が多かった。力がなく、孤立していて、馬鹿ではない男をおれは扱いやすいと思った。見かければ声をかけ、めったに地へ降りることのない彼が必要そうなものを差し入れたりした。もし具合が悪い事態になったとて、大した騒ぎにならずどうとでも出来るからだ。

    竜三は大概鬱陶しそうだったがおれが「そんな態度には慣れている」と茶化すと、やがてはその態度も引っ込めた。
    「もう本当に干し柿はないぞ。どういうつもりか知らねえが、あんまりここへは来るな」
    暇つぶしに噛んでいるぐらいしか用途のない、粗末な蕪の葉を持ってきたおれにそう言った。彼はいくらか戸惑っているようだった。
    「そういうなよ。おれは便利だろ?」
    「お前、ここへ来たばかりじゃないだろう。卯麦に住み着いている連中なら、俺に話しかけない」
    ふん、とおれは鼻を鳴らした。一言漏らせば一瞬で周りに伝達される奴らとつるんだりするものか。
    「おれの様子を見ていればわかるだろう。よそ者だし、小賢しいから退けられる。あぶれているもの同士、うまくやろうよ。それにあんたおれの前の頭に似てるんだもの」
    その言葉に彼は顔を顰めたが、以前より明らかに態度は軟化した。
    竜三が出自の話をすることはほとんどなかったが、口を滑らせたこともある。
    「お前は、弟分に似ている」
    そう言った。生意気で、口が減らず、やはり頭は悪くなかったらしい。
    彼がときどきおれに易しいのはそのせいかもしれない。
    そして竜三の口ぶりから察するに、その弟分は存命ではないのだろう。おれが郎党にいたときの話をすると、霞のように遠い眼差しになる。
    取り立てて良いところではなかったが、格別苦しい記憶でもなかった。今思えばずっと目を掛けられていたのに薄情な部下だったと思う。おれは死んだ頭がどこに埋められたのかさえ知らないのだ。


    「おい」
    ふいに名前を呼ばれて振り返ると、竜三の住む長屋の入り口が細く開いていた。
    外へ出るのが億劫なのだろうが、犬みたいに呼ばれたのが癪だったのでおれは大儀そうに返事をして戸口に近づく。
    「旦那?」
    屋内はいつものようにほの暗い。卯麦の外れにあるせいか、長屋に足を一歩踏み入れるだけで外界から離されたようにしずかになる。
    「……水を汲んできてくれねえか」
    声はすれど、奥まったところにいるのか竜三の姿は見えない。
    ああ、いいよとおれは桶を手に水を取りに行くべく外へ出た。
    それからすぐ薬師を呼ぶかと聞くべきだったなと思った。それほど彼の声は弱弱しく覇気というものがまるでなかったのだ。
    竜三は、飯炊場のそばにいた。
    長らく使われていないであろう、竈に腰かけている。
    古傷の多い、使い込まれた背中だった。上半身だけ着物を脱いで、湿らせた布で首筋を拭っている。
    戻って来たおれに気づくと顔をあげ、助かったと言った。
    「わるいんだが、背中を拭ってくれ。どうにも、届かなくてな」
    背中を拭いている間、こんなことをさせて悪いというようなことを度々口にするのでおれはちょっと不機嫌になった。そんなふうに気を使われる筋合いはない。
    時々一人では起き上がれなくなる頭に手を貸した時にも、大抵は当然という顔でいるくせに稀に後ろめたそうな態度をとるから、今と似たような気持ちになった。だから、なんともないと言った。郎党にいたときも似たようなことやってたし、なんでもない、こんなこと。
    竜三の体は見た目よりは衰えてはいなかった。肉はあまりないが、骨がいいのだろう。細いが、まだやせぎすではない。基礎の身についている肉体だ。傷跡はみな、乾いて固くなっていた。
    ただ背中の左側なかほど、ちょうど心臓の裏側にあたる場所はまだ瘡蓋の名残があり、そこだけ皮膚が黒ずんで厚い層をつくっていた。布で触れると、周囲の皮膚がひくひくと引き攣る。前から穿たれ貫通したのかもしれない。
    それまで黙っていた竜三が、ぽつりとどこで拾われたのだと尋ねた。
    戦場で拾われたらしいが、あまり記憶にないとおれは答えた。
    「頭が言ってたんだ。おれが野犬を連れて歩いていたから、多少出来がいいはずだと思って連れてったって…」
    なるほどな、と竜三は独り言ちる。
    荒れた地を徘徊する野犬は、常に飢えていて獰猛だ。猪と寄り集まって死体を食っているところを時々目にしていた。
    「腹が減って弱ってりゃ野犬にだって敵いやしねえ。あの惨めさときたら…。…」
    水を換えてきていいか、と尋ねるともう十分だと彼は答えた。
    勝手に癒えていない怪我があるのだと思っていたが、外傷には血でぬかるむようなものはひとつもない。心臓の裏の傷が一番あたらしく、もっとも大きいが、血を集めて膨らんでいるものの傷自体は塞がっている。
    匂うか、と竜三は問うた。おれは鼻を鳴らす。
    「気になるほどじゃない」
    「虫は?」
    「いないよ」
    「膿んでいるだろ?」
    「いいや。胸の傷、よくつながったね。深手だったろう」
    「ああ。雨や寒いときは痛む。膿んでいないなら、よかった。…」
    覗き込むように竜三はじっと俯いている。
    体の前の傷はどうなっているのだろう、とおれは思った。はだけていた着物を羽織り、文机を指さして持っていけと彼は言った。
    机の上には広げられた文と、笹の葉の包みが置いてある。包みの中身は兵糧だった。この量であれば優に3日はもつ。もうすぐ長い旅路につくおれにはありがたかった。けれど、ただ体を拭いてやっただけでこんなものを貰っていては、あまりに吊り合いがとれない。
    「全部はいらない。足りてないわけじゃないから。それよりあんたがもっと食うべきだろ。おれ、おれはいいよ」
    そう言うと、竜三は腹に響く声で笑い飛ばした。
    目を逸らしたおれの視界に包みと一緒になっていた文がとまる。日に焼けた文書に、文字は書かれていなかった。薄墨でかかれたそれは記号か、恐らくは家紋だろうがおれにわかるはずもない。「無禄にするな」と窘める声には嘲笑が含まれていて、おれはなぜかひどく郷愁にかられた。
    「蓄えにすればいいだろう。俺の腑はてめえの食える量を、勝手に決めているらしくてね。それ以上食うと吐き戻すんだ。だから、持っていけ」
    何が可笑しいのか、しばらく肩を震わせている。
    しかし震えは突如ぴたりと止まり、しんとした眼差しでおれを見据えた。暗がりにいるというのに、漆を塗られたように竜三の眼は濡れて爛々と輝いている。
    そして「しばらくここに近寄るな。お前の死体はみたくない」と言った。

    竜三の言葉を着にはしたもののおれは、言われた通り長屋を訪れることはしなかった。
    人の気配があり、時々火も入れられていることから客人が来ているのだろう。女か、よほどのならず者か。ただ不思議なことに、卯麦谷にいれば外から人がやって来た時には何かしら耳に入るはずなのだが、竜三の客人の話はまだ一つも聞かないのだった。
    ある夜、卯麦の連中が酒盛りをしている場に遭遇した。
    食事処にしている広間はいつまでも火が焚かれて明るく、蛾のように人が群がっている。例に洩れず明かりに引き寄せられたおれは、酒盛りをしている一人に声を掛けられご相伴に預かった。
    「酒が手に入るなんて、めずらしい」
    思わずそう漏らすと、すでに出来上がっているらしい歯の欠けた男が
    「卯麦御前に謙譲されたもんの、おこぼれだよ。おこぼれ」と言った。
    粗末な酒しか口にしてこなかったおれでも、これが上等なものだということは一口でわかった。なんだかもったいなくて、ちびちびと舐めて嵩を減らす。
    「一体だれが?」
    尋ねたところで知っている奴はいなかった。
    誰だっていいだろ、となぜか喧嘩腰で男が言う。
    「礼なら、俺らの分もあいつ…竜三が手厚くやってんだろうよ」
    不意を突かれて、酒が気管へ入りかけた。喉が焼ける。「なんだと?」とつい語気荒く聞き返してしまった。
    「どういう意味だ」
    「なんだよ、おめえこの頃あいつとよくつるんでるじゃねえか。てっきり世話になってるもんだと」
    つられてしまいそうな、下卑た笑い声。自分を取り立てるのが大抵は目上の人間ため、この手の扱いには慣れていた。何にも思わないわけではないが。
    そばにいた紺の袴の男が、歯の欠けた男を窘めた。
    「おい頓珍漢なこと言うな。みっともねえぞ。悪いな、こいつ酔うと絡む性質でよ」
    まだ諫められるわけにはいかなかった。憮然とした顔で、相手を見つめる。まだ喋ってもらいたかったからだ。案の定、男は話すのをやめなかった。
    「ふん、俺がな、違ってるもんか。だって、あれが来る前より、御前への土産物が増えてるじゃねえか」
    「いつから長屋に住んでいたのかも、わからないのに? 当てずっぽうだ」
    おれはそう言った。思っていたような反応を得られなかった男はむきになる。
    次の言葉は大嘘か、もしくは秘密だ。
    「冥人様のイロだって話もある。だから、誰もあいつの客の顔をみれないのさ」
    どうやら大嘘の方を引いたらしい。冥人の噂は、元となった人物はいるかもしれないが、そこへいくつも尾鰭のついた、戦の一番ひどい時に生まれた化け物の伽話だ。巨漢だという話もあれば、子どもの背丈だったり、鈎爪を持ち、翼を持つから崖を瞬く間に超えてくると話す奴もいた。まだほんの幼いときには、黙って寝なければ冥人が来るぞとおれを脅して面白がっていたものだ。
    「……冥人だなんてまた、ずいぶん懐かしい伽話だな」
    歯の欠けた男は、種明かしに笑い飛ばしも、退屈そうな顔をすることもなかった。
    ふと酔いからさめたような、正気と見紛う真空の瞳でおれを見た。
    「伽? 伽話だと? お前、どこの出だ。この辺りじゃないだろ」
    ついに紺袴の男がのるな、とおれを小声で制した。
    そして「お前、えらい酔ってるな。声がでかいぞ」と言った。
    「なんだよ、怖気づくな」
    「わかった。わかったから黙れ。それよりほら、昨夜賭博に行ったんだろ。その時の話をしろよ」
    ああ、ああ、そうだなと歯の欠けた男は、今度は賭場の話をはじめてしまった。
    おれは食い下がらない。酔いの回ったうつろな目で男の話に頷く。
    神経が過敏になっているのかもしれないが、尖端でちりちりと引っ掻かれるような異様な気配を、隣の紺袴の男からも、周囲からも感じたからだ。明日には忘れる、酒の席の話だと振舞う。
    それで、結局したたかに酔ってその場で雑魚寝をした。
    朝の気配を感じるような、冷え冷えと夜が更け切ったころふいに目を覚ます。
    昨夜ひどく酔っていた歯の欠けた男が、のろのろとござの上を這う音がした。寝起きで男は、くちゃくちゃ口を鳴らしながら「小便…」と呟き体を起こす。
    おれは夢うつつに薄目を開けていた。瞬きが重く、長くなる。
    その時、ちりんと慎ましやかな鈴の音が広間の裏手側から聞こえた。
    聞いていたのは起きていた男と、たぶんおれだけだ。
    男はもごもご言いながら広間を横切り、背の高い枯草をかき分けながら鈴の音のした方へ歩いていった。足音が遠ざかる。眠気に抗えなかったおれは今度こそ目蓋を閉じた。

    本当に目を覚ました時には、もう夕方だった。
    まだほのかに頭痛がする。元々大して酒に強い性質じゃないのだ。半日も潰してしまった。寝すぎて変に体が痛む。
    昨夜のことは夢かと思うほど、広間はがらんとして昨日の名残はまるでなかった。
    あれからかなり時間が経過しているのだから、当たり前だけれど。腹を掻いて起立ち上がる。冷たい水が飲みたかった。
    おれが井戸で口を漱いでいると、昨夜の紺袴の男が近づいて来た。
    「お前、あいつを見ていないか」
    はじめはなんのことかわからなかったが、一緒に飲んだ歯欠けの男のことを言っているのだと気づいた。そいつは「みていない」と答えるおれの顔を、値踏みするように不躾に眺める。未だ淀んだ頭の、まともなところを懸命にかき集めた。
    「そう。そうか。……わかっていて煽ったんじゃあないよな」
    と男が言った。
    「……あんたたち本気で冥人がいると思ってるのか?」
    確かに卯麦谷は特殊な場所だ。ここでしか生きられなくなった者の行き着く場所であり、ここにあるものの大抵は他人のものだ。根づくものは埋められず、一時を満たすものしかないこの土地には、かつて蔓延っていた蒙古にさえ関心を示されなかった。
    確かに冥人は悪人であれば見境なく殲滅してまわるというが、その話が蒙古の立ち寄らない卯麦谷で強く信仰されているのは些か不可解だった。
    だが男は能面を張りつけたような笑みを浮かべ、おれを閉めだした。
    「話す義理があるか、坊主?」
    「いや」
    そうだよな、と男は言い背を向け立ち去った。

    人の姿が見える場所を避けるあまり、普段やらない道順で歩いていたせいかもしれない。おれはふいに、自分が竜三の住む長屋の近くにいることに気が付いた。
    まるで無人であるかのように周囲は、静まりかえっている。竜三以外にも、それぞれの長屋には人が棲んでいるはずだが、なぜか今は気配を感じなかった。
    すでに空は薄暗い。しかし落陽の濃い匂いがまだほのかに足元から立ち上っていた。
    突如、分厚い陶器が割れ飛散するような「音」を聞いた。
    それは一秒にも満たない一瞬で、本当にどこかで何かが落ちたのか、空耳かと思ったほどだ。おれは一歩も動かなかった。知らず息を潜め、全身を聳てる。
    しばらくすると障子の向こうで、空気が揺れた。
    隙間風にも及ばぬ小さな声を聞き取れたのはおれの耳がよかったからだ。
    音もなく空気をふるわせ、笑っているのだと思い至る。
    竜三。言葉尻が持ち上がっていた、きっと口元が笑みの形のままなのだ。蛇が喋るなら、きっとこの男のような声で話すに違いない。
    「……お前、声が大きいぞ」
    自分の心臓の音がいやに大きくて鼓膜が破れてしまうかと思った。なんの気配もないのなら、竜三はどこにいるのだ。丸呑みにされたのだろうか。
    爪の先まで、全神経を張りつめさせたおれは胸を突き破らんばかりの心臓を手の平で強く抑え静かに、静かにその場を離れた。
    太陽が昇りきった昼間になっても、その次の日も歯欠けの男は戻ってこなかった。


    空の高い、秋晴れの日だった。蜻蛉が夥しく跳ねまわっていた。
    酒盛りから数日が経ち、竜三の長屋の引き戸が開け放たれていたのでおれは呼びかけた。返答がなかったので、足を踏み入れる。
    竜三は以前と変わらぬ姿でそこにいた。
    火の気配もない囲炉裏のそばに胡坐をかき、目だけでおれを追った。持参した瓢箪を掲げる。
    「酒をもらったんだ。飲むだろ」
    「……いや、俺はいい」
    胸がいやな感じに波打った。おれがここへ来てから竜三は一度も瞬きをしていない。
    「なあ、安酒じゃないぜ」
    尚も言いつのろうとすると、竜三が遮った。
    「傷に障るんだよ。出て行ってくれ、おれは飲まない」
    「わかった、悪かったよ。なあ旦那立てるようなら、少し歩かないか。ここは籠っているし、気晴らしになるぜ」
    「…んん。…」
    おれはまだ渋っている竜三にすぐ戻ることを約束して、長屋の外へ連れ出した。
    とにかくここから離れてほしかった。まるで外気が質量を伴っているように、彼を引き留め、他の何ものの侵入も拒んでいた。文机の上に広げられたままの文書、冷え切った竈、奇妙なほどあかるい眼差し。幾日前、最後に竜三の顔を見たときのまま時間が経過していないかのように感じられた。
    日の下へ出た竜三は、一回りほど縮んで見えた。
    体を支えてやると、体のどこかで不自然に早く鳴っている場所があるのがわかった。
    ふと彼にもう逃れられないほどそばに死が迫ってきているのを感じた。馴染みのある直感だった。おれは老いた頭のそばで、忍び寄る死の気配に怯えていたことだってあったのだから。
    「…わるかったな」
    卯麦谷の入り口まで歩いてきたところで、竜三はそう言った。
    疲れているようだが、先ほどよりも顔色はよくなったような気がした。
    日が照り、冷たい風が穏やかに流れる。おれのいやな胸の高鳴りも落ち着いていた。
    「竜三、明日おれはここをたつ。本土へ行くんだ」
    おれは卯麦谷で誰にも明かさなかったことを口にした。
    彼は驚いたり困惑する様子もなく、ただ黙っておれの言葉に耳を傾けている。
    「寄せ集めの衆だけどよ、あの………あんたも来るか?」
    なぜこんなことを口走ったのか自分でもわからない。ただ竜三を前にすると、義理を果たさなければという思いにかられるのだ。老いた頭から施しだけを受けて、何一つ返さなかったおれのために。
    竜三は、生きている者がする疲れて淀んだ瞳をして瞬いた。
    「いかねえよ。俺はもう馬にもまともに乗れやしない」
    達者でな、と穏やかに呟いた。



    出立の朝は、濃い霧が出ていた。
    東の空が明るく白んでいる。きっと暑い一日になるだろう。
    大勢で歩くと目を引くため、時間をずらして卯麦を出ることになっている。辺りに人の気配はなく、誰かの能天気な鼾が遠くに聞こえた。
    世話になった連中には前日に声をかけてある。馬屋から共を連れ出し不満げに鼻先で抗議するのを宥めながら、おれは静かな仕草で跨り背筋を伸ばした。
    その男は、突然地面から生えてきたかのようにそこにいた。
    老いた馬に乗っていたが、近くまで来ていたことにまるで気が付けなかった。
    「はじめて会うな」
    男の声は落ち着き払っていた。
    ここいらでは目にしたことのない身軽そうな鎧を身に纏い、黒く染められた深笠をかぶっている。おれは緊迫せざるを得なかった。
    遠出をするのに必要なだけの物資を身に纏っている。他に誰もいない。まして男は、おれが身仕度を終え顔を上げるまで待っていたのだ。
    うすく髭が伸びており、はっきりと血の通った口元をしていた。
    「もう、行くのか。お前と話をしたかったのだが」
    「…あんた、何者だ?」
    男は答えず、聞いていないのかと穏やかに聞き返した。
    馬に乗っている間始終そうなのだろう。刀の柄に手を預けていたがおれにはそれで十分恐ろしかった。おれは。思っていたよりも声が出ず、唾を呑んだ。
    「おれはこれより本土へ渡るつもりだ。ここには二度と戻らない。煩うことなど何もないはず」
    ピンと張った弦を耳元で弾かれるような強烈な耳鳴りがする。
    指先に勝手に力が漲り、斬りかかってこの瞬間の重圧から逃れようとする己をどうにか押し留めている。本当にどうしてこれほどそばに来るまで気づきもしなかったのかと思うほど、血と硝煙、臓物の一番深いところから昇る匂いを男は纏っている。
    泥の撥ねた面に、瞳だけが奇妙なほど明るい。そこだけは竜三と似ていると思った。

    たった一瞬のことだった。しかしおれには、数十年も経過したように思われた。
    「そうか」
    一礼し、今すぐ馬の腹を蹴って駆け出したいのを抑え男の脇をゆっくりと通り過ぎる。
    腹にとんでもなく汗をかいている。
    「仁?」
    頭上から、竜三の声が降って来た。
    先日二人で歩いた、かつておれが探してきて渡した板の上へ立っているに違いなかった。

    「竜三」
    仁と呼ばれた男が明るい声で応えた。
    思いもしないところで友垣を見つけたような稚い二人の声を背に、馬を蹴って駆け出す。
    地獄で相まみえる時も、きっとああして呼び合うのだろう。おれは一度も振り返らなかった。

    ------
    最悪のイフ
    殺し合ったが生き伸びてしまった竜三 
    もう刀を握ることも、まともな歩行もできない
    仁に刺された傷は内側で膿み快復することはないため三年後くらいに竜三は死ぬ
    自分の行先が見えているので二人とも目つきだけ明るい
    許さない
    〇現パロっぽい再会

    その日竜三は、昼休憩の時間を職場の近くにあるコーヒーショップで過ごしていた。
    高校を出てすぐ生家を離れ地方の町工場に勤めだし、
    高給とは口が裂かれても言えないが一人で暮らしていくには何の問題もない。
    基本肉体労働であるため昼の時間は早々に飯を食い、
    あとは午後の始業まで仮眠をとるのが常だった。
    外に食べに出ていくのは時間が惜しいし、金も減る。
    だいたい、先ほど食べ終えた妙に固い歯ざわりのパンは全く竜三の好みではなかった。
    彼が座ったのは道に面したカウンター席で、スーツや制服姿の人々が行き交っていた。
    自身の職場のトタン屋根が遠くにだが見えている。

    ふいにすぐ隣の席に中身がたっぷり満たされたマグカップが無遠慮にどん、と置かれた。
    コートを背もたれにかけるとこちらを見もせず、
    「来てくれてよかった」
    と男は席についた。
    「別にお前に会いにきたんじゃないけどな」
    「だが、俺が大抵ここにいることは知っていただろう?なら同じだ」
    そう言うと、境井仁はにっこりとほほ笑んだ。
    頭を抱えたいような気持ちになったが、机に肘をつくことで堪える。
    彼は自分に構うことなく、コーヒーと一緒に持ってきたサンドウィッチにかぶつく。

    仁は二日前、竜三の職場にやってきた。
    名の知れた商社の人間で下請け先を探しているようだが、
    うちのような小さな工場はてんで見当違いだった。
    きっと左遷されて、右も左もわからないんだぜと竜三の同期などは言っていた。
    下世話ではあるがさもありなん、と思った。
    自分と同じように油に塗れつなぎの制服で働くものが大半を占める工場で、
    皺一つないスーツを着て工場内を見て歩くのは、なんだか慇懃無礼な振舞いにも見えた。
    真っすぐ伸びた背筋、墨のように黒黒とした髪は後ろへ撫でつけられ、工場内でも若い部類の竜三より年下かもしれなかった。
    目が合ってしまったのは本当にたまたまだった。
    どんな面か拝んでやろうと、さっと横目で見ようとした途端向こうも振り返ったのだから。
    バランスは良いが、取り立てて特徴のある顔立ちではなかった。
    だが目が合った途端、湿った藁を焼いた匂いが一瞬で立ち昇った。
    心臓を素手で掴まれたような乾いた痛みが胸に走る。男の、筆で一筋さっと引いたような涼しい目元がかすかに眇められた。
    しかし、次の瞬間には彼はもう竜三から目を逸らしていて工場を案内していた上司と共に作業場を出ていった。

    見つかったと思ったが、男は立ち去った。
    だからこの悪寒は、独りよがりで全く的外れなものだと己に言い聞かせる。
    吐き気をやり過ごそうとする時のように、鳩尾は痙攣しながら脈打っていた。
    「…おい、竜三どうした。顔が真っ青だぞ」
    「…ああ…」
    さすがに見かねて声をかけてくれた同僚にも、うまく返事をすることが出来なかった。
    その日は早引けし、家に帰った。
    そして夜も更けぬうちに床についた竜三は、一時期悩まされた悪夢に久々に相まみえることになった。
    いつの頃からか、決まってみる夢だ。
    自分の姿は子どもだったり大人だったり、季節は夏だったり秋だったりと定まらない。
    ただ、どんな状況でもずっと燻したような匂いがする。それがいつもの夢だという証だった。
    匂いは、遥か遠い場所から途切れ途切れに流れてくるものであったり、
    何の違和感もなく身に纏っている、着物の合わせからふいに起こったりした。
    湿ったものが高い熱で燃えるにおい、強いて例えるなら野火に似ていた。
    けれどそこに嗅いだことのない匂いが混じっている。
    知らないくせになぜかそれが血の燃える匂いだと確信していた。
    自分の家族を除いては、どの人間よりも竜三に長く連れ添う夢。
    夢の終わりはいつも同じだ。顔の見えない男に腹を穿たれて死ぬ。
    相手の顔は何にも遮られていないのに、水面のように揺れ、
    はっきりと輪郭を捉えることはできない。
    ただ、稀にだが揺れが収まりかけ、もしかするとうっすらと視認できそうになることがある。
    その夢をみたのを合図に、竜三は引っ越しを繰り返していた。
    なぜか強烈に、出て行かねばという気になるのだ。引っ越したあとしばらくは、あの藁の匂いのする夢をみなくなる。
    一度沈めたものが再び浮き上がるように、いずれはまたみる夢だと知っていた。
    夢見によって、住む土地を転々とする。
    強迫観念か、神経症の類だと竜三さえ思ったし、誰にも打ち明けたりしなかった。
    苦しくも悪夢に慣れていたから、目を伏せ顔のみえない男が終わらせてくれるのを
    じっと待ってばよかった。彼はそうした。いつものように。
    だが、俯いた竜三の肩を燃えるように熱い手が掴んだ。
    鎖骨の終わりと肩の狭間に、指の形がめり込むようで痛かった。男と目が合う。

    自分の予感を信じさっさと、どこへでも姿をくらませていればよかったのだ。
    いつだって判断が遅い。
    翌日ろくに眠ることが出来ずに出勤し、虚ろに煙草をふかしていた竜三の前に先日のスーツ姿の男は現れた。
    そして脇目もふらず歩み寄って「逃げ帰ることなかろう」とまるで十年来の友人でもあるかのように、むっつりとそう言った。
    二の句も告げなかった。表情の読みにくい眼差し、子供じみて下げられた口角。
    明け方の夢で、自分を斬り捨てた男とそいつは瓜二つだった。


    「……今も剣をやってんのか?」
    沈黙に耐えられなくなったのは竜三の方だった。
    彼が座っている側の二の腕がぴりぴりする。
    仁は口の中に詰めたものを咀嚼してから、
    「いいや。もうやってない。剣はからきし駄目なんだ。何をどうやってもうまくなれん」
    こともなげにそう言った。
    剣術こそ境井仁を彼の地へ至らしめたものだったはずだ。
    手についたパンくずを払い、コーヒーを口にする。
    「俺がやったことがよほどよくなかったようだ。とにかく動物に好かれん。
    おい、今度は牧場に行こう。どれほど馬に嫌がられるか見せてやるから」
    ふっと仁は笑った。嫌味のない仕草だった。
    昔の彼は表情に乏しいが、竜三の前では気兼ねなく笑うことがままあった。
    それでも何か押さえつけるような、控えめなものではあったが。
    しかし今の仁は素直に自分の感情を表に出し、ちっともぎこちないところがない。
    竜三は剣を習ってみたこともなかった。
    学校の授業で受けた時には、他より少しうまくやれていたがそのくらいだ。
    剣の腕を失ったかどうかさえ、よくわからない。
    目の前にいる男は、本当に自分と同じ悪夢の記憶を共有しているのか
    疑うほどいまに適応しているように見えた。
    「さすがだな」
    もうなんの負い目もない称賛のはずなのに、反射的に腹の内側がひきつる。
    仁が現れたことで、偏執的な夢だと思い聞かせてきたことが、
    自分の記憶だとついに証明されてしまった。
    「俺はしばらく立ち直れなかった。心療に通いつめたりもしたんだぜ。
    頭がおかしくなっちまったんだと思って」
    「ふん。それにしては、やたらと逃げ回ったな」
    竜三はかすかに瞠目したが、仁の眼差しは未だ正面を向いたままだ。
    何を言っても厭らしく聞こえないところが昔から癪に障った。
    「昔の馴染みには会ったか? 俺は院まで進んでな、いずれお前とも会えるだろうと思っていたのに。方々探しまわらなければならなかった。この土地には何の縁も所縁もない。骨が折れたぞ」
    「…そうかよ。今生もまた志村伯父御の御贔屓かい」
    思わず声が低くなるのを感じた。そこで仁はようやっと竜三の方へ顔を向ける。
    力いっぱい引いた弓のような目の形をして、これで笑っているつもりなのだと
    ふいに気がついた。
    ふふん、と彼は鼻を鳴らした。
    「先ほど、竜三は頭がおかしくなったのかと思ったと言ったが、俺は得心がいったぞ。
    いくらなんでも殺し過ぎた」
    「それはお前に非のある話じゃないだろ」
    この返答もまた、骨身に染みた反射だった。
    他の誰でもない自分自身が、なんの根拠もなく肯定している。
    仁はふいに竜三の知らない眼差しになる。
    「……志村殿には会っていない」
    まだぬかるんでいて乾かない地を踏むように、そっと呟いた。
    「見つかっていないのか?」
    所在はわかっている、と仁は言った。ただ、俺はもうあの人には近寄らない方がいい。
    「不幸にしてしまうのが、目に見えているからな」
    「俺は?」
    「お前は駄目だ」
    何も変わってないな、竜三。
    仁の言葉は、まるで呪いのように響いた。
    確かにこの男から逃げていたのだとようやく認める。受け入れてしまうことは、安堵によく似ているのだった。
    実は昼休憩の時間はとっくに過ぎていて、尻ポケットの携帯が震えながら懸命に自分を呼び戻そうとしている。
    仁は、瞳に輪郭がうつるほど竜三を見つめひどく懐かしいか弱さでほほ笑んだ。

    夢にもみない

    我ながら薄情だが竜三が存命だった頃よりも、
    死んでしまった今のほうが彼のことを思うようになった。

    さすがに聡い人間ではない自覚はある。
    相手の心情を推し量ることに関して、仁は常に後手だった。
    ゆなと話している時には高潔だと身に刻まれたことが何の役にも立たないと思い知るし、
    たかといる時には自分が本当には手段を選ばない姑息な人間だということをつきつけられる。
    思ったことをまま口にだすべきではない。
    考えたことをありのまま行動にうつすべきではない。
    思慮のある人物は、仁ほど戒めていなくともやれているのだろう。
    自戒は忍耐などではない。そこにどんな意図がなくとも相手を踏みにじらないように、
    互いの尊厳を守るために常に心にとめておかなければならないことだった。本来なら。

    さてそれらの自重を、仁は竜三を前にしてすべて放り投げていた。
    うち捨てていたという自覚さえなかった。
    彼は境井の家とも志村の家とも関係のない、数少ない別の世界だった。
    仁をけして見放さず常に心を砕いてくれた志村にさえ、いつか捨てられるかもしれないと怯えたのに、
    気安さから粗末にし甘えから蔑ろにしていた竜三には、けして自分は見捨てられまいと思っていた。
    臆面もなく信じ、言葉にさえしなかった。
    竜三は大人たちに見つかったら面倒になるような遊びを考えつくのがうまかった。
    思いつくのは竜三だが実行したがるのは仁だった。
    「ほんとにやるのかよ」と驚きつつも愉快げな友の声は「やれ」と鼓舞されているような気になるし、
    これが自分のものとしがみつけるものが何もなかった子どもの頃には
    竜三に一目置かれることが、すべてだった。
    自分が格別に勇気のある、価値のある人間になったような気がしたのだ。
    悪い遊びを見つかって、伯父御や城の人間に叱られ本当に反省したとしても、
    幼馴染の称賛の前では、どんな効力も失われた。

    いつまでもその延長のつもりだった。
    仁が竜三のあとをついてまわることがなくなっても、
    百合が声をあげるほど泥だらけになることがもうなくとも、
    周囲の人間が仁を跡目として認めはじめ、幼少の頃とはまるで見る目が変わっていても、
    そのことと、竜三は何の関係もないと思っていた。
    刀で競い合うことも、もう泥遊びをしなくなった代わりの遊びだと思っていたのだ。
    竜三以外であれば、それが尊厳を掛けた打ち合いだということがわかるのに。
    俺は本気でお前を驚かせるし、当然相手も同じ熱の高さで迎えうつことと信じていた。
    どんなに予測をしていても、竜三は自分の想像など覆す。
    ならばどこをどう打たれても、どう曲がっても返してやるつもりだった。
    彼が思いもしないことをして、ついつられて笑ってしまうような
    あのひりひりした眼差しで自分を称えてほしかった。
    強欲だった。子どもの頃ほど、仁はもう飢えてはいなかったのに。

    自分の竜三への無頓着さは他の誰も並べ立てないほど悪辣だった。
    竜三の選択や身に沁みついた卑屈さは、今日まで彼が受けてきた仕打ちや、
    彼のそばにいた人間たちが形作ってきたものだ。
    たった一つの選択で、決まってしまうものなどない。
    出会ってから死に別れるまで選択して来たことの結果が、仁に友の肉を穿たせた。
    斬りたくなかった。しかしあれ以外なかった。
    誰でもない仁がもう赦すことが出来なくなっていた。

    彼の他に友はいた。誓いを組み交わした者だっている。
    竜三とはなんの契りもなかったというのに、
    あの男に踏みしだかれた場所からは膿が噴きだしていた。
    我慢ならなかった。彼が他と同じようにより易い方へと流されていったことが、
    誰よりも竜三に侮辱を受けたことが、赦せなかった。
    幼く、身も心もか弱く、思慮も分別もない頃に、仁が勝手に明け渡しただけだったのに。
    言い募るだけ無様だとわかってはいるが彼だって受け入れていたのだ。
    今思い出してやっと、身を刻むような仕打ちだったと気づくようなふるまいを。
    窘めても、叱っても、時に抉るような喧嘩になっても、いつも終わりには竜三は自分を許していた。
    諦めていたのかもしれない。諦めることに慣れた男だった。
    そしてそれはけして謗られるようなことではない。
    村を焼け出された人々も、実を結んだそばから作物を毟りとられた農民たちも、
    搾取されることに慣れていた。
    そうして諦めていなければ今この時を生きていかれなかったのだ。
    立ち上がれなかった。冬を越せなかったのだ。理解しているつもりだった。

    ・・・

    仁は暗がりのなか目を開けた。
    土の匂いがする。葦のなかでそっと体を起こした。
    泥で出来ているみたいに重かった。血や腐臭が全身から匂い経つ。

    数刻前に蒙古の陣営を一つ潰した。
    周囲に人の気配がなかったとはいえ、寝落ちてしまうとは迂闊だった。
    風に撫でられた枯草が触れ合って、さらさらとこそばゆい音をたてる。
    鹿の鳴声は悲鳴によく似ていて、仁の神経をゆるやかに逆撫でる。
    正しく聞き取るためにじっと耳を澄ます。
    荒く、不規則な呼吸が整うまで自分の心臓の音を聞いていた。
    あの男の仕打ちに対する、吊り合いがとれるものとして竜三の前に立ったつもりだった。
    やってくれと竜三は言った。まるで一から十までわかり合っていたみたいに。
    一度たりとも瞬きをしなかったから痛むほど目が乾いていた。
    乾いたものを補うためだけに瞳は濡れ、瞬きをしてもこぼれ落ちることはなかった。
    泣くつもりはなかった。なぜ、涙もでないとも思っていた。

    厳めしくした顔に不釣り合いの響きだけは穏やかな幼馴染の声をもう思い出せない。
    呼吸はすでに落ち着いている。
    それだけはきちんと、寂しかった。
    戸島 Link Message Mute
    2025/01/05 22:59:46

    短編4編

    #仁竜  #竜仁  #竜仁竜  #ゴーストオブツシマ

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