短編(7/15追加)ありきたりの禁忌
八人ほどが座につける大きなテーブルが宙を舞う。
アラスターが多腕の触手で鷲掴んで放ったそれを、ハチドリのように飛びまわるルシファーが空中で受けて投げ返した。よそ見をした隙に壁を伝って伸びていた触手に足絡めとられるも、指を鳴らしテレポートする。口論では旗色が悪かった地獄の王様だがすでに攻守が反転しているため「惜しい、惜しい!」とすこぶる上機嫌に笑った。
ちなみにさっきまでビーチフラッグのごとく取り合いになっていたチャーリーはすっかり目をまわしてパートナーに支えられている。
「なんなの、あいつら。…」
プロレスのセコンドのようにバーのカウンターまで引き上げてきたヴァギーが唸った。
畏怖と共に名が知られている悪魔二人の舌戦と施設の備品のキャッチボールは目下継続中だ。金属脚のためかなり重量のある椅子が一脚飛んできたがルシファーによってこちらを一瞥することなく弾かれる。彼らはホテルのロビーに配置された家具を互いの間でジャグリングよろしく回し続けていたが、驚くべきことにまだそれらの一つも破壊に至っていない。
「加減わかってんだからいいじゃねえか。放っとけ」
どちらかが我を忘れて危険な振舞いをしようものなら大喜びで揚げ足をとりだすため、殴り合っているのがあの二人なら大層な被害は出ない、というのがハスクの見立てだった。
そもそもスポーツの一環であることには違いない。純粋な力だけなら差は歴然で、絡め手でも使わないかぎりアラスターがチャーリーの父親に勝てる見込みはほぼ無いに等しかった。すなわち彼らの間で遊び方とルールは共用されているのだ。なら黙って観戦に徹した方がいい。
それよりも舞い上がる埃のほうが気になって、ハスクは酒瓶からろくに口を離すこともできなかった。心配屋の元天使兵が睨む。
「あんたに仲裁させるよ」
ご冗談をと言わんばかりにバーテンは肩を竦めた。
ほんの少し前、ホテルのロビーにいつもの面子が集められチャーリーが発案した所謂絆を深めるアクティビティが開催されていた。
娘の勇姿を参観しにきた父親と、めずらしくその場に居合わせたアラスターが、ちょっとした口論から小競り合いに発展するのに大層な理屈は必要なかった。何かと張り合い、かつ売られた喧嘩はすべからく受けて立つものだから、最早彼らが揃えばそうなるものだという認識になりつつある。
「……二人ならだいじょうぶよ、ヴァギー」
ようやっと立ち直ったチャーリーがカウンターに肘をつく。
そしてハスクが出したコップ一杯の水をごくごくとおいしそうに飲み干した。何かと物事をポジティブに捉える彼女曰く、あれも父親たちなりのコミュニケーションだと言う。
件の彼らはというと、今度は片隅に追いやられていたキャビネットを持ち上げていた。ホテル建設初期にあっていつの間にか見失われていた家具だ。どこから引っ張り出されたのだろう。このまま模様替えでもして貰ったほうがまだ有用に違いなかった。一刻も早く掃除をはじめたくて、じたばたしているニフティをエンジェルがあやしてやっている。
チャーリーは続けた。
「人との関わり方は画一じゃない。例えば目を見て話をしなさいと言っても人の目を見るのが苦痛な人もいるし、初めて顔を合わせたときは笑顔で挨拶するのが友好のしるしだって私たちは思っているけれど、それこそむしろ失礼にあたるとする文化もあるでしょう。二人にとっては、あの……。ちょっとハードだけど、ああするのが、きっと向いているのよ。だってパパを見て。ここに招いたばかりの時とぜんぜん違うでしょ」
恋人の言葉であっても飲み込むには大層難儀したが最後の言葉なら素直に頷けた。
「……たしかに、顔色はずいぶん良くなったね」
たったそれだけの賛辞でチャーリーは子犬のようにぴかぴか笑う。
今だからわかるが初めてハズビン・ホテルに姿をみせたルシファーは極度の緊張状態に置かれていた。
身振り手振りが大きくユーモラスで、目だけが手負いの生き物のようにせわしない。チャーリーやそのほかの刺激に対して、異様なほど反応がはやかったのは娘への愛着だけではないだろう。
常に周囲を警戒していて隙が無く、その精神はピアノ線のように張りつめていた。天界から突如、これまで自身が惨殺してきた連中が蔓延る地獄へ置き去りにされたヴァギーは当てもなく緊迫するその苦しさを十分なほど心得ている。
実際ホテルの面々が手も足も出なかったアダムを難なく手の上で転がした地獄の王であっても、天界のことが話題にのぼった途端、喉を引き攣らせ息苦しさに咽ぶ。力の有無は魂の深層に負った傷に対して何もできない。
「パパに部屋から出てきてほしかった。パパ以外の人たちと会って、話をしてほしいと思ってた。私じゃ、無理を押しても元気でいなくちゃって意識させてしまうだけだったから」
互いに心を砕いていたからこそ苦しい季節をやり過ごしたパートナーの手をヴァギーはそうっと包む。
皆でホテルを再建したことを境に娘の他にはどこか他人行儀だったルシファーの態度はかなり軟化した。守りたいという名目でチャーリーを退けていた彼女の父は自分自身からも目を背け、蓋をしていたように思う。いまだにヴァギーやホテルの面々の名前を間違えることはしょっちゅうで、何もかもすぐに変わっていくことはないが付け焼刃でなく前向きになろうとしているのは確かなことだった。
「それにね、アラスターみたいにパパに気さくに出来る人ってそういないわ。みんなとても丁寧で礼儀正しくはあったかもしれないけれど、なんていうかあんまり楽しそうではなくて、距離があって……パパもいつも退屈そうだったし。あんなふうに言い合えて良い刺激になっているとおもう!」
「そ、そうかもね……」
尽く信用ならない悪魔の態度は、慇懃無礼と呼ぶのが相応しく親しさとは異なる気がするが心底から無垢な彼女の喜びに水を差したくなくて片頬を引き攣らせる。
あの二人の間で取り合いになって、尚もけろっとしているチャーリーもまた相当の器に違いなかった。
ただ恋人の考えていることが全くの的外れともヴァギーは思っていない。どんな形であれ、目を盗まれ熱中してしまう存在がいることは救いだった。他でもない彼女によって延々と噴きこぼれる後悔や鬱屈から引き離され、パートナーに尽くし守るという役目と結びつけられている。自責で溺れかけていた己の導き手がチャーリーであったことは数少ない幸運だった。
しかしそれはそれとしてだ。
ロビーに設置されている木製のアンティークな棚には彼女たちが好んで使っている陶器製のカップがしまわれている。色違いの揃いのマグカップだ。食器棚は明らかに難易度が高いため幸いにもまだ持ち上げられていないが、徐々に残弾が減りつつあるため、いつ彼らの手が伸びてもおかしくない。
ヴァギーは警告する。
「いくらあなたのパパでも、食器棚に触ったら横槍をいれさせてもらう。悪いけど」
「え、ええ。そうね」とチャーリーは重々しく頷く。それはそうしたほうがいいわね。
ハスクは彼女たちのいじらしく鼻白むような会話を小耳にはさんでいたが、ふと今日はずいぶんエンジェルが大人しくしていることに気づいた。
いつもはあの二人がやりあっているのを見る度に、セックスだのなんだのくだらなく揶揄しているというのに。
もちろん彼が慎ましくしていてもちっとも不都合はない。視線には気づいていたが、素知らぬふりを続けようとしたハスクの腕にしびれを切らしたエンジェルがなめらかに縋りついた。
「俺ね、見ちゃったんだよね」
こちらに絡めた手とはべつの手を口元に添えてひそひそと言う。
「いいぞ、言いにくいことを無理に話さなくても」
秀でた勘がピンピン反応して、この話は降りろと訴えている。
しかし無意味なるかな、男はカウンターに身を寄せ芝居がかった流し目を寄越した。
「そんなことない。俺、ぜひ、あんたには聞いてほしくってさ」
ひどく寝苦しい夜だった。
何度か寝返りをうってみても部屋じゅうの空気が一塊になって自分の上にのしかかってくるような感覚が拭えない。エンジェルはベッドの上に起き上がった。時刻は日付を跨いだばかりで、朝にはまだほど遠い。鼾をかいて寝ているファットナゲットを起こさないように彼はそっと寝室を抜け出した。
水を飲むために階段を降りてキッチンに向かう。
自室にも小さな冷蔵庫は設置してあって、飲み物だって冷えているのだが一度ベッドから離れたかった。これまでの経験上、こんなふうにふと目が覚めてしまった時はヘンに執着せずいったん眠ることなんか興味がないみたいに振舞ったほうが後々良いのだ。
部屋を出ると長く続く廊下は真っ暗で、端が見えなかった。足元を照らす最低限の常灯と窓から差し込む月明かりを頼りに歩く。
静まりかえった館内に恐怖心を煽られないわけではなかったが、それぞれの部屋ではよく知った連中が眠っていて、何がなくとも明日にはまたぞろぞろと集まってくる。そのなんの助けにもならない事実がなぜかエンジェルの心を健やかにした。
キッチンで目的を果たすともっと気分はましになった。それで少しよけいに歩きたい気持ちになって、来た道をただ戻るのではなくロビーの脇を通る遠回りの経路で部屋に帰ることにした。
床に敷き詰められた毛足の短い絨毯が足音を吸い込む。エンジェルは壁伝いに歩き、角を曲がったところで、ふいに通路が明るくなった。片側の扉が大きく開け放たれ、奥に続くロビーを照らす月の光が、廊下にまで漏れでているためだった。
館内に足を踏み入れて一番に目に入るのは受付のあるこのロビーで、つまりホテルの顔である。だからニフティもせっせと掃除をするし、晴れ渡るということのない地獄であっても出来る限りの開放感を演出しようと、天井は吹き抜けになり窓の数も多かった。そのため照明が落とされた真夜中であっても、いくつもの窓から降り注ぐ月明かりのおかげで広間は比較的明るい。
扉の形に差し込んだ明かりの向こう側に階段があり、エンジェルの部屋がある居室スペースに続いている。
彼が何気なく一歩を踏み出したとき、足元まで伸びた影がゆらりと波打った。
思わず立ち止まり大元に視線を走らせる。影はこちらに背を向けて配置された二人掛けのカウチから伸びていた。背もたれの装飾が欠損したカウチは当然ながら無人である。静寂が思い出したようにエンジェルを昂らせ萎縮させた。気のせいかと思った瞬間、視界の端で再び影が揺れて反射的に目で追ってしまう。
カウチの背もたれから突き出した真っ黒な頭部を自身のつま先が踏んでいた。
「どうした?」
ふいに声をかけられ、エンジェルは文字通りぎゃあっと飛び上がった。体を揺らすほどの心音で喉がふさがってすぐに声がでない。
無人だと思ったカウチにはルシファーが座っていた。背もたれに腕を引っかけ上体で振り向いた彼は、月明かりが逆光になっているせいで表情が読みにくい。
「ちょっ、ちょっと目が覚めちゃって」
もつれる舌でどうにかそう言った。
ふ、と吐息がこぼれる。大きな瞳が弧を描いていて彼が笑っているのだと気づいた。
床に下ろされた片脚がゆらゆらと小刻みに揺れている。遠目なせいか、つま先と影の境目を判別することができない。まるでカウチの真下にある影が、そのか細い足首に絡みついているようだった。
「なにか、私にして欲しいことはあるかな?」
さほど声を張り上げてはいないはずなのに滴るような猫撫で声は耳のすぐそばで反響した。知らず口元に媚びるような笑みを浮かべてしまう。
「いいんだ、用は済んだから。おれ、俺はもう部屋に戻るよ」
「そう? …」
まだ何か言いかけていたがエンジェルはすでに駆け出していた。そのまま一目散に扉の前を通り過ぎた。く、く、と耳のふちを爪先で引っ掻くようなひそやかな偲び笑いが流れ込んでくる。
階段に足をかけたがついに好奇心を抑えきれず、後ろを振り返った。
月明かりに照らされたカウチの影があとかたもないほど蠢いていた。輪郭はぬるぬるとのたくり、まるで長椅子ごと融解し飲み込もうとするかのようにその触手を波打たせている。子供がくすぐったさに悶えるような声が聞こえた。アル、やめとけよ。
ロビーの光景を見る余裕なんてほとんどなかったよ、とエンジェルはご丁寧にも前置きした。
「陛下は息一つ乱してなかったし襟元もきちっとしたまんまだった。でもさあ、わかるでしょ」
ハスクは彼の話を、悪夢でもみたんだろと茶化さなかった。すでにニフティが塵取り片手に右へ左へ駆け回り、思う存分ロビーをかき混ぜたルシファーは、娘のパートナーの小言をなぜかえらく神妙そうに聞いている。
そしてその横に並び立たされたボスと彼はすでに目があっていた。
「……あのなあ、お前、俺を道連れにすんなよ……」
蜘蛛の悪魔は恐怖と好奇心で全身を毛羽立たせながら、げんなりと肩を落とす男を引き寄せ「心中すんならあんたとって決めてたんだよね」と嘯いた。
有難迷惑
何者かの呼び声で男は覚醒する。
寝台から見える窓からは雲一つない澄みきった青空が広がっていた。なぜか男は空が青いわけがないだろう、と思った。自分の住む世界はいつもどんよりと重たい雲に蓋をされて、暗幕を下ろされたみたいにほの暗く四六時中赤く光っているのだ。
けれどもすぐに思い直す。朝一番から表がうす暗いはずがない。ましてや強烈に空が赤く染まることなど、せいぜい雨季を間近にした日暮れの寸前くらいだ。
彼はベッドの上に起き上がって、長毛種の猫みたいな頭髪をひと撫でする。
違和感をぬぐえず狭い室内を見渡すが、そこは確かに自身が長く暮らしているニューオーリンズの自宅だ。人の目に似ている壁の木目も、風の強い日に割れて修繕した窓枠の形も寸分違わない。ここから見える痩せた楓のそばには数年前に逝去した母が埋まっている。
再び呼び掛けられ、扉が叩かれる。
「アル、大丈夫か? 起きてるんだよな?」
アル、アル、アル。男は思わず口ずさむ。
一時的なものであろうが、驚くことに己の名前を思い出せないでいる。アルは自分の愛称だ。そのことははっきりとわかる。アルフレドか、アルバート? アレック、もしくはアラン。…。
脳の片隅が踏まれた芋虫みたいにのたうつ。ずっとラジオ局の司会者として勤めており、日々場の空気を読み取り臨機応変にこなしていた男は、頭の出来についてそれなりの自負があった。瘧のような目元の痙攣さえ癇にさわる。
そのとき、ついに扉が開かれ色素のうすい金髪の男が寝室に入ってきた。
男は小柄で目が覚めるほど美しい容姿をしていた。
透けんばかりの肌の白さだが不健康さよりも、誰かのために細心の注意を払って培われたような神経質な輝きを放っている。細くやや硬質な髪を後ろに撫でつけ、丸い額を露わにしていた。目が大きく、細く小づくりな体躯のせいで男はいくらか幼げにみえたが、紅玉のような瞳に熾烈なほど老練な色を宿している。
顔の小さな男は、アルと呼んだ男が寝台に起き上がっているのを見てほっとしたようだった。起きていたな、と目を細める。やわらかそうな白のカッターシャツを着て、ぎょっとするほど細い腰の後ろ手で指を組んだ。
「君、そろそろ仕度しなくちゃあ間に合わないぞ。さあ週末前の最後の仕事なんだから、がんばんなさい」
「……いま、行く」
針金で吊り上げられたみたいに舌が持ち上がる。自分はこんな声だったかしら、とアルは思った。
四人掛けのテーブルには自分ともう一人の男のほかは誰もいない。
薄切りの林檎に粗末な麦パン。アルの正面に座った男はシャツの袖をきちんと折って捲り、美しい所作で粗末な食事を口に運んでいる。自身は頭の動きを鈍らせたくないので朝食は常にとらなかった。
男は小さな口元に似つかわしくない、錐のようなするどい歯を持っていた。よい形だと思った。
「まだ君、寝ぼけているだろ。果物だけでも食べていったらどうだ。きっと頭がまともになる」
「いりません。いつも言っているでしょう」
手元の白いカップに口を近づけて、すでに中身を干していたことに気づく。
頭のてっぺんから足の先まで自分のものでないような気がする。肉体の統率がとれていない、などと感じたことはこれまでのアルの生涯で一度たりともなかった。
「……」
ふと顔をあげると男と目が合う。
ぴっちりと口を閉じているとまるで蝋人形のようで二度と言葉を発さないのではないかと思われた。だが予想に反して彼はぱっと蕾をこじ開けるような歪に明るい微笑みをこちらへ向ける。
思いがけず立ち上がる。
職場へ向かうにはまだいくらか早かったがもう家を出たって構わなかった。ここを一刻でも早く立ち去りたい。ジャケットを手に玄関へ足を向けると後ろから男がとことことついてくる。
「今日は金曜日だ。帰りに君はミムジーのクラブへ寄るだろ?」
彼の言葉で、元からそのつもりでいたことを思い出した。
「……ええ。先に休んでいてください」
舌が妙にもつれる。家をでようとしたら、男がぎゅっと抱きしめてきた。内心飛び上がる。掌で掴んでたっぷり余裕を持って指がまわるほど心許ない手首だが、その腕は鉄棒のように強固だった。鳩尾に鶏ガラみたいにやせぎすの骨があたる。
締め上げたのはごく一瞬で、ぱっと離れた。項の鳥肌もすぐ引いた。
「気をつけていきなさい、アル」と赤い瞳の男は言った。
頭の芯が寒い。昼間同様雲ひとつなく、月明かりが煌辺りを煌々と照らしている。
あんたはいつも完璧よ、と厚ぼったい唇が嘯いた。
「ええ、ええ。貴方もです、ミムジー嬢」
寒さは冷気を保った地下室にいるためだった。
この一室は、柱に寄りかかって煙草をふかす彼女のパトロンが所有する土地にある。まわり一帯が私有地のため人は滅多にやってこない。水はけのいいタイルが敷き詰められ、最低限の道具は一揃い、電気とガスも通っているこの地下倉は我々の食事を解体するのにもってこいだった。同種はその大層な体躯に反して可食域が少ない。ミムジーもアルも健啖家ではなくむしろ食には関心が低い方だった。しかし「彼ら」を食べることにだけはなぜか強烈な感度と、食い気に目覚める。下品で無礼で、せめて食物になることだけが唯一救いになる連中を我々は飽き足らず食べ続けた。覚醒していると感じられるのはつくづくその瞬間だけだったというのに、なぜかその感覚も今日はいつもより霞がかっている気がする。これにもやはり慣れたのだろうか?
アルはごく一瞬全身のうぶ毛が逆立つような怖気を感じる。退屈を心の底から恐れていた。数時間前にとろけるような血潮で満たされていたシンクは、すでにその名残もわからないほど磨き抜かれ、蜘蛛の巣がかった天井をうつしている。
しびれをきらしたミムジーがケープを羽織った肩をそびやかした。
「お片付けはもう十分よ。行きましょうよ」
「私に構うことはありません」とさりげなく退出を促す。
面識のある人間は相応のタイミングを見計らう必要があり、解体場所の提供といい、彼女の人脈にはずいぶん助けられていた。
だがそれはかつてのことでありもはや些かわずらわしいことも確かだ。
全盛期の彼女は美しく、傲慢で、すさまじいほどの気分屋だった。思いつきで食事の内容が変わったことも一度や二度ではない。それでもしくじらなかった。ミムジー嬢は食材を誘引する役目を担い、その後の処置はほとんどこちらで行う。
こんなにうまく続いたことはないと褒め煽てたがさもありなん。最近、彼女に目に見えて肉がついてきたのも「失敗しない」せいかもしれなかった。もう何度この女の尻ぬぐいをやったか知れない。すでに我々の対価は吊りあって余るほどだった。
「まだ飲み足りないわ。ここは寒いし、一人はいや。さっさと出て付き合いなさいよ」
「それは貴方が饗する相手をみんな食べてしまったせいでしょう。酒は不得手です。私じゃ、貴方のお相手なんてとてもとても」
「つまんない男ね。いいわ」
そう言い捨てるとヒールを踏み鳴らして出ていった。
足場が良いとは言い難いこの場所に、盛り場そのままの格好で来るのだから彼女の美意識も大したものである。しかしミムジーと組んでいていつボロが出てもおかしくなかった。また一人でやるのも悪くないと考えている。大体、クラブに来るような連中の肺はつくづく食べるに値しなかった。
表へ出た途端、ぬるい外気がにじり寄り体の形にみっしりと纏わりついた。
遥か高いところで月が輝き、地上の影を長く伸ばしている。痛いほど過敏になった神経でぐるりと首を巡らす。人影一つ見えない。しかし今朝からずっと視線に追われている感覚をぬぐえないでいる。しかもそれは背後や同じ目の高さからではなく、遥か頭上や地面、自分自身の体の表面から感じるのだ。己を強迫症などとは無縁と思っていたのだが、改めるべきかもしれない。
自室から見える楓の木の下に金髪の男が立っているのが見えた。
時刻は午前二時になろうかという頃合いだ。男のシルエットは遠目にも小さく細く、白銀に輝いている。徐々に距離を縮めながらアルはどうすべきか悩んでいた。
埋まっている母の足元に佇んだ男は、小鳥の尻尾のような後頭部を持ち上げふいにこちらを振り返る。
口元に笑みを浮かべていた。ガーネットの瞳が、あの浅ましい脂に似た光を帯びている。
「おかえりなさい、アル……」
突如噎せ返るほどの憤りで喉がふさがった。
屈辱。何もかも見透かしているかのような瞳を前にしてこの上ない侮辱を感じた。何も纏わぬ乾いた指で直に脳を触れられているような、内臓のすべてが裏返るほどの吐き気。生きたまま神経を爪弾くやり方を知る男は、それがどんな感覚かを心得ていた。
平たい手の甲に大樹の根のような血管が瞬時に浮かぶ。今この瞬間に四肢の隅々に正しく神経が通され、本来の持ち主として戻された感覚があった。小柄な男に大股で歩み寄る。蹄を得たかのように足が軽い。
突き出ているべき喉の軟骨もまともに見えないほっそりした首に指をかけ、平らかな胸を覆う鏡面のような皮膚にまだ外気に触れていない鮮やかな肉の色を透かし見たい。余分な肉が一切ない、つくりものめいた男の体は締め上げてようやっと指の間でなだらかに盛り上がった。
魚の腹のように白く透けた瞳が自身の首に食い込む手の平を瞬きもなく見つめている。冷たく水のようにゆるんだ皮膚だった。その脚で歩く必要のない、躍動し酷使されることなど決してないお飾りの肉体で、生きているかもよくわからないような男。使い込まれていない脆く糸が解れるように繊細な肉であるはずだ。腐りおちる寸前のような緩さと誰にも開かれなかった故の寒気がするほど清廉な粘膜を持つはずだ。情動へ引き摺られ背中に添えられた手に衝き動かされた、あのときとはまるで違う。アラスターが望んでいた。いつまでも男の気道が塞がることはない。そのこともわかっていた。ただ今この瞬間の幕を下ろすために男の形を失わせることに徹する。わかっていても腹立たしい。実物であれば、万が一実物であれば、あの男の体はどんな音が鳴ったのか。勝手に舌に唾がわく。どんな味が。
小柄な男の秀でた額にあるべき角が萌え、滴るように赤い水晶体の中心で黄金色の瞳が輝いている。
あてがわれたホテルの一部屋、大きなベッドの隅っこからとろとろと這い出たルシファーは寝ぼけ眼のままガウンを羽織りカウチに座って膝を引き上げた。着崩した合わせ目から覗いた鎖骨は磨き上げた皿のように光っている。
「……私が離れている間、君はそれなりに娘に良くしてくれただろう。やり方はちっとも最善じゃないが何も感じないほど私は恩知らずじゃない」
かるく指を軽く振ってサイドテーブルの蝋燭に火を灯す。
「こう見えて私はなんでも得意だし、なんでもできるから……君の望みを叶えることも難しくないと思った」
ぐいぐいと目蓋を擦り、ほとんど壁にへばりついて影と同化しているアラスターを見つめた。
こちらを糾弾するかの如く、赤い瞳が爛々と輝いている。被害者ぶった格好をしているが拒絶もされなかった。できる限りペースを合わしてやろうと、乗っかったり強行したりはしなかったんだから、こちらだけ一方的に加害者扱いされる謂れは無い。続けて言う。
「で、比較的私が得意で、安全牌の、一番手っ取り早い奴をやってみたんだけども、君の反応を見るにたぶん違うんだろうなと思ったわけだ。なんでお前の頭のなかをちょっとだけ覗かせてもらった。悪気はなかった。君の嗜好を知りたかったんだ。うんと口は回るようだけど、自分の話をするのは好きじゃないようだったからこうするのがいいと思った。怒ってる? そうだよな、悪い」
ルシファーはほつれた前髪をかきあげ後ろへ向かって梳いた。
まだ朝も相当早いし、今から我々がドンパチやりはじめたらぐっすり眠り込んでいる娘たちを起こすことは必須だ。
今はまだ片手間に押さえつけられているが、アラスターだって自分が何をされたか聞きだすために本気を出していないだけだろう。実際、視界の端で得意の触手がじわじわと周囲を浸食し範囲を広げているのを捉えている。
他者の記憶を改竄し閲覧することはルシファーにとって特別難しいことではない。しかし元が人間にしては相応の力の持ち主らしく、ちょっぴり手こずった。ちょっぴりだけだ。
まだ己は目覚めたばかりでガウン一枚を羽織っているだけだが、正装に着替えるにしても踵を一度ぶつけ合わせればそれで済む。ルシファーはカウチから裸の脚を床に下ろし、指を組んで頭上いっぱい伸びあがる。ふうっと肩の力を抜いてひとこと「どおりで君、へたっぴなはずだ」と言った。
無名時代
「パパは人間に呼び出されたことがある?」
一体、何の話から脱線したのか。相も変わらず閑散とした談話室で交わされた他愛ない会話だった。チャーリーはヴァギー嬢と一つのカウチに仲睦まじく腰かけ、スペースの向かい側にあるバーではカウンターに立つハスクとアラスターがこちらに背を向けて座っていた。
当のルシファーは娘二人の斜め前で膝に乗ったキーキーの耳の後ろを掻いてやっている。
「チャーリー、私を誰だと思ってる? 地獄の王だぞ。私はありもあらゆる書物に載っているし、その存在は広く知られている。呼びだそうと試みる者は少なくなかった。しかし私は強大で途方もない力を持つ存在だから、地上へ呼びだすにはたくさんの手続きがいるんだ。夥しい制約と厳格な手順に則した儀式、それに供物が必要だ。簡単なことじゃなかったんだよ」
王の小さな娘はパートナーと顔を見合わせると小さく唇を尖らせた。
「つまり、地上に降りたことは無いってこと?」
ルシファーは眉を寄せ、ぎゅっと目をつむりながら「ええと、せいぜい一、二世紀に一回が良いところかな。一塊の災害や、伝染病が蔓延ったときだから……」と記憶の頁を捲ったが、はたといや違うなと自ら打ち消した。
惰性で繰っていた本から思いがけず栞を見つけだしたような明るい瞳になる。
「一頃、頻繁に下界へ呼びだされた時があったぞ。ろくでもない人殺しのアメリカ人だが、とても変わっていた。傲慢で皮肉っぽいが洒落っ気があってね。私に予知も災いも求めなかった」
「ではその人間は何のために陛下を呼びだしたんですか?」とヴァギーが質問する。
「とんでもないことだが、そいつは単に出来そうだったという理由でこの私を召喚したんだ」
現界したルシファーを前に男は呆然としている様子だった。
しかしそこに畏怖や焦燥というものはまるで見出すことが出来ずただ稚気さえ感じる瑞々しい驚愕をその瞳に湛えていた。
あまり頑丈でない木造の一部屋はこれまで呼び出された場所のなかで特にみすぼらしい。だが部屋にある道具の一つ一つにすでに役割が振り分けられ、整頓されている空間だった。使われる刃物、解体台、臓器を仕分けるためのバケツ、それらすべてが人の血と脂を吸って日が浅くないことを示している。男はルシファーという悪魔を呼び出すためでなく、もっとそれ以前かられっきとした人殺しだったのだ。
生まれて初めて偉大な悪魔を前にしたであろう人間は「あんがい、小柄なんですね」と呟いた。
「一度目はやったら出来ちゃったのかもしれないけれど、その後もパパは地上に呼ばれたんでしょう? なぜなの?」
その人殺しはルシファーの熱狂的な信奉者でもなければ驚くことに偉大な父にも無関心だった。
「わからない。いったい何が目的だったんだろう」
ガラス玉のように透けた目で地獄の王は心底から不思議そうにつぶやいた。
他に関心を攫われもはやこれ以上の愛撫は望めないと見限ったキーキーは、ひょいと彼の膝から下りる。
父はいつも極端だ。絶賛か失望か、大抵はそのどちらかの反応を示す彼が自我のない赤ん坊に似た表情で言い淀んだこと自体チャーリーには思いがけなかった。質問を変える。
「じゃあ地上に下ろされたとき、その人と何をしていたの」
彼は小さな顔の前で脱力した手を振った。お喋りだ。ベラ、ベラ、ベラ、意味のないお喋り。
「言っただろう、そいつは変わった奴だったんだ。私を呼びだすためには、蹄の白い山羊、脳を抜いた子牛に、火によって夫を失った寡婦、右目が劣った子ども、左利きで肺を病んだ男が必要だった。それらを……まあ割愛するが、とにかくうんと手間がいる。そうしてようやく呼びだした大悪魔とただただ話をするだけなんだ。そのくせこちらが返事をすれば黙りこくった。だからって何も答えないほうがいいのかと思えば、耳が無いのかと詰られるし」
「孤独だったのかもしれないわ」と愛娘は意見を述べた「ものすごおく」。
人間はお前が思うより常に孤立しているよ、とルシファーは親切心から諭す。
人々の努めて怠惰な遍歴も男の悪舌のおかげで退屈せずに聞いていられた。かつてより遥かに発達した政や、文化、嗜好など、話題は脈絡がなくて事欠かない。忘れかけていたがともすると己はその人間に娯楽のきっかけを受けたのかもしれなかった。そして罪の告白、賛美、そのどちらも男はしなかった。幸いにも機会は部屋じゅうにあったはずだが。
「不思議なことにその男を信奉している者は多かった。なんていうか、獲物が自分の脚で狩場に飛び込んでくる感じなんだ。私でさえこいつを人間にした方に問題があるかもしれない、なんて思ったりもしたよ」
殺人者との逢瀬が異常なものとして記憶に焼きつかなかったのは、案外、その時間を悪く思っていなかったからかもしれない。などと美しく結論づけてみたもののルシファーにとってやはり人の存在自体は大差がなく、いまだその顔も思い出せずにいる。
男の家には大層古めかしいラジオが置いてあった。
だがしかし、ルシファーが現れると決まって電源を切ってしまった。なぜ消してしまうんだ、といつか己は尋ねたと思う。音楽は人類が発明したもののなかで手放しに褒められる数少ないものだった。
余韻まで味わうようなお得意の長い沈黙の末に、あなたの声を聞き逃しますと言い捨てた。
その男の最後を尋ねられて「死んだよ。人間なんだから当然じゃないか」とルシファーは答えた。
チャーリーがぎっと一睨みし「パパ」と窘める。それで仕方なく記憶を手繰り寄せた。
自分たちにしてみればごく一時の逢瀬だったが、男は多くの死体を積み上げた。
「頭が良かったし手際も悪くなかったが、私を呼び出す為にうんと殺したからな。ついに他の人間たちに露見して最後はかなり悲惨な死に方をしたはずだ。その頃にはさすがに連中もそいつの厄介な恐ろしさを学んでいたから、狩人たちは獣を狩るみたいに寄ってたかって彼を幾日も追いかけまわした。それで……たしか銃で形も残らないほど吹き飛んだはず」
「散弾銃じゃありません、犬です」と背を向けて座っているアラスターが口を挟んだ。
カウンターのハスクは言葉どおり息を殺し近年で最も自身の存在を消すことに徹した。
指摘によって正しい記憶と接続されたらしく、あっそうだったとルシファーは能天気に相槌を打つ。
「あいつは狩人がけしかけた犬に生きたまま食い殺されたんだった」
鹿の悪魔はその言葉にはとくに反応することなく、姿を消した。間もなくカウンターに設置されたラジオがハウリングする。ちょうど彼がパーソナリティを担う番組の開始時刻だった。
心なしかいつもより音質が粗いオープニングが流れるロビーで、硬直した周囲の空気を察することなく王は懐古する。とっくに地獄にいるんだろうが今は何をやっているのかなあ。