第一話 第一節 白霞の村 ― 静けさの予兆
陽の気配は感じられるのに、空はまだどこか眠たげだった。
淡く立ちこめる霧が、山間の村をやわらかく包み込んでいる。
白霞の村――その名の通り、霧の帳に守られるようにひっそりと佇む小さな集落だ。
瓦屋根の家々が谷あいに寄り添い、段畑には露が光っていた。懐かしさを湛えたその風景に、時の流れも足を止めるようだった。
剣之介は、古びた木造の屋根裏部屋で、夢の余韻を引きずるように目を覚ました。
天井の梁に走る亀裂、風に揺れるすだれの音、そして遠くで囀る鳥の声。
それらが、静かに朝の到来を告げていた。
身を起こし、寝巻のまま縁側へと出る。
外はまだひんやりとしていて、肌を撫でる空気が心地よい。
白い靄がゆっくりと流れ、遠くの山稜をやさしくなぞっていた。
「……今日も、変わらず霧の村か」
誰に語りかけるでもなく、剣之介は呟いた。
この村に身を寄せてから、どれほどの月日が流れたか。
母の実家でもあるこの地は、彼にとって唯一の「帰る場所」だった。
ふと、縁側に置かれた竹筒の水に指を浸す。冷たい。
その感触に、遠い日の記憶がかすかに揺らいだ。
――父が剣を振るう姿。
――母が静かにそれを見つめていた背中。
――幼い自分が、その両者を見上げていた場所。
かすかな風が庭の風鈴を鳴らした。
その音が、なぜか胸の奥にひびく。
不意に、微かなざわめきが心の奥底を波立たせた。
(……何かが、近づいている)
理由のない直感だった。だが、剣之介の直感は、生き延びてきた日々の中で磨かれていた。
彼は静かに立ち上がると、奥の間に掛けてある黒革の剣帯に手を伸ばした。
まだ「何か」は姿を見せていない。
それでも、この静けさは――嵐の前の静けさだった。
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