ぬかるみ
おれは毎日死にたくないと願いながら生きている。ごはんをあんまり食べないのだって、夏に冷房をつけないのだって、全て死にたくないと願っているからだ。なにせおれはお金がないと生きていられない。
本当は高くて魔法がよく織り込んである服なんかより、ピアノが欲しかった。キーボードでもよかった。せめて楽譜を手元に置いておきたかった。でも楽譜をいくつも家に置いておくと、どうしても鍵盤が叩きたくなってふらふらと楽器屋に足を向けてしまう。おれはそんなことをしている暇なんてないのだ。だから楽譜は全部売って、値段がつかなかったものはコンビニのごみ箱に捨てた。
死んだらピアノなんて弾けない、笑えないし泣くこともできない、楽譜だって絶対に読めないし音楽なんて聞こえない。そう考えてここまで走ってきたけれど、おれはずいぶん遠くまで来てしまっていたようで、いつのまにか、ピアノの弾き方を忘れてしまった。
到底
だってあなた、こういうこと、絶対にしないようなひとだと思っていたのに。
ここで戦うモデル達とはあまり会話をしないようにしていた。いつこちらが殺されるか、いつ相手を殺さなければならなくなるかわからないような相手と親しくなったっていいことなんて絶対にないからだ。楽屋では精々たまにやってくるスポンサーやらマネージャーやらと話すくらいで、その間ですら無口な人間としてやってきていた筈だった。
だのに、この状況はなんだろう。
「きくちさん、」
幾度か息を吸って吐いてようやく搾り出した一言に、それでもたった今おれが弾き飛ばしたフードの下、そこからあらわれた馴染みの顔は表情ひとつ変えない。ただこちらをぎらりと睨んで、おれの槍が掠めた鼻先を擦っただけだった。
ブラックレパードというバトルモデルを初めて見たとき、ああこういうタイプは苦手なのだとげんなりしたのを覚えている。火属性の魔法を使い、武器ではなく自分の体ひとつで戦うタイプ。手数が多いから槍じゃあとても捌き切れなくて、ひたすらに攻勢になるしかない。隙ををつこうだとか怪我をしないようにだとか考えているとあっという間にやられる。できれば戦いたくないものだなあと溜息をついて、その目深に被ったフードから目を逸らした。
なにせこんな仕事なものだから、ショーと言えども顔を隠しているモデルは多かった。だからそのフードを見てもおれは何も深いことは考えず、どこかあの人に似ている背格好だとか時折覗くこどもっぽい黒髪だとか、そういったことはすっかり頭の隅のほうに追いやっていた。
そしてそれはやっぱりあの人がこんな場所にいるはずがないという、あの人はもっとずっと綺麗な場所にいるはずだという偏見と慢心がいつだっておれにあったせいだった。
嗚呼。
観客席から怒号が飛ぶ。早く戦え。どうした。ひっこめ。殺せ。殺せ。うるさい黙れ、俺はかぶりを振る。ひっこめるものならひっこんでしまいたい。しまいたいけれど。
だん、と床を蹴る音に視線を奪われる。彼がすぐそこに迫っていた。反射的に後ろへ跳んで間合いを取り、まるい電気の壁を展開させる。弾けるような音と共に彼の拳から白煙が昇った。はっとして何か言おうと口を開いたが、次の瞬間炎に包まれた拳が襲ってくる。当たるか当たらないかのギリギリのライン、掠めた頬がじいんと熱を持つ。咄嗟に炎で拳を包んで雷の熱を打ち消したのだろうか、横目で見た拳には傷一つなかった。くそったれ、こんな時は頭が回りやがる!
続いて蹴り。重い、そして一撃がとてつもなく速い。槍で全てを防ぐのは困難だと判断して一か八か、三度目の蹴りを受け止めたそのときにありったけの力を込めて槍を薙ぐ。体格差もあってかおそろしく重い、
とてもかないそうにないと思ったけれどもとにかく全体重をかけて槍を薙ぐ。頑張れバーゲンで買ったピンクの靴下、お前ならやれる。攻撃力×2の魔法は伊達じゃない。不意をつかれたように彼の体が揺らいだのを見計らって今度はすばやさ×2のリボンに頑張ってもらいつつ背後へ回る、が、やはりそう簡単にはいかない。おそろしい速さで彼はこちらへ間合いを詰める。ごう、と炎が渦をまいた。展開する電気の壁、二つの熱がぶつかって炸裂する。視界が一瞬真っ白になるが構わずにしゃがんで槍を低く振る。手応え。転んでくれているかもしれないと楽天的に考えてそのまま間合いを詰め攻撃力二乗の蹴りをお見舞いする、
つもりだった。
視界が反転して、背中に衝撃。何が起こったのか一瞬理解できなくて、視界を巡らせようとした瞬間に嘔吐した。腹部に痺れるような痛み。自分の意識とは無関係にぼたぼたと吐瀉物がステージに落ちる。そこでようやく、殴られた
のだと理解した。
菊池さんは本気なのだ。
「往路、ちょっと出掛けるぞ」
「はい、いってらっしゃい」
「ちげーよお前も行くんだよ」
車の鍵をじゃらじゃら鳴らしながら居間にいる子供に声を掛けると当然のように送り出されそうになったので慌ててそう付け加えると、奴は僅かに肩を震わせてこちらを見た。