隣で笑う道
「ねえ、おじさん。おじさんは何故そこに倒れているの?」
ざわめく背景に気にも留めずに、少女はにこにこと笑いながら尋ねる。少女の問いに、おじさんと呼ばれた中年の男は澱んだ瞳で返した。
言葉を返さない男の態度に気分を害すことなく、少女はうんうんと頷く。
「伝えたくはないのね? それとも伝えたいのかしら?」
大きめ瞳を輝かせる。
「嬉しいかしら?」
かえることができて。
少女は子首をかしげ、
「それとも苦しいのかしら?」
彼女は手を合わせる。
「大変ね」
鈴の音のようにころころとわらう。身を屈め男の口元を指先で拭い、目を細め男の躰を眺める。眺めた拍子にマフラーが肩からずり落ち、少女は鬱陶しそうにマフラーを首に巻き直した。ヤレヤレと肩を竦めると、上を仰ぐ。
「どうして皆、靴を揃えるのかしら?」
視線を戻し、白い靴下を足でつつく。
「つまらないわ。つまらない」
「どうしたんだい?」
ぼんやりと男を眺めていると唐突に声が聞こえ、目蓋を瞬かせる。後ろを振り返れば知り合いの少年がいた。嬉しくなって挨拶をする。
「あら、こんにちは。昼に顔を合わせるのは久しぶりね」
「いつもは夜だものね」
くすくすと笑いあう。
ふと、少年の姿をマジマジと見つめてから、親切心をだして忠告をする。
「汚ない格好になっているわよ? ついでに顔も」
「君は胸を何とかした方がいいよ」
少年は苦笑しながら間髪なく言い返してくると、顔についたままの液体を剥き出しの腕で拭う。汚れた腕をTシャツの腹の部分で拭いた。
「あらひどい。私のせいじゃないわ」
少女は頬を膨らませてから、一部が白色のブラウスに包まれたこじんまりとした胸を叩き、コートの前を閉める。
「ごめんごめん。わかっているよ」
困ったような微笑みを浮かべ、少年は少女から地に倒れた男に視線を移した。
「彼は僕と同じかな」
「同じよ。勿体ない」
「勿体ない、と言える君が……羨ましいよ。それとも恨めしいのかな?」
ふふっと少年が笑う。
恨めしいのは自分の方だと少女は思いながら言葉を述べる。
「無理やり奪われてもいないのに、何故自分から手放すの? 贅沢よ」
少年をじっと見つめ、胸元を握りこむ。そんな少女の様子を虚ろな瞳で少年が眺めた。
「持っていなくちゃいけないことが、どうしようもなく苦しいこともあるし、空虚な入れ物を壊してしまいたい衝動もわく」
「私は自分を捨てるつもりなんかなかったわ。それに、私を奪った奴には、永遠に苦しんで貰おうと思うの。地獄すら生温く感じるほどに」
狂気に揺れる瞳である自覚など、少女にはなく。
「僕にだって消えて欲しい人はいるけど、それよりも、寂しいんだ」
哀しそうな少年の様子にも、少女は気付かない。
「だから君も……」
少年は手をさしだし、
「許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない」
「一緒に……は、いれないんだね」
血反吐を吐くような怨嗟に、諦めたように手を下ろした。もう会えないかも知れない知り合いに哀愁じみた眼差しを送り、少女の胸元の包丁が抜け、彼女本来の姿に成れる時がくればいいと願い、少年は目を伏せた。
「ああ、くるね、救急車」
ざわめく音に規則正しい音が混じったことに気がつき、思い出したように生気のない男に向かって笑いながら声をかける。
「もう意味がないのにね」
「そうだ、飛び降り自殺をしたんだよね? じゃあ、君も、これで僕の仲間になったんだね」
・・・