森のそばに佇む
また雪が降っている。
存外硬い地面にもう歩けない身体を横たえる。積もった雪はもっと優しいものかと思っていたが、そうとも限らないらしい。
痛みはとうに感じなくなっていた。体勢を変えて空を仰ぐと、曇った空から絶えず白いものが降りかかってくる。なんだか吸い込まれそうだ。視界いっぱいに広がる白とグレーは彼の事を思わせて好感が持てる。
あらゆる感覚が遠ざかっていきつつあったが、目を瞑って深く息を吸い込めばいつでもすぐに百合の香りを思い出せた。百合の芳香に苦味の混じった彼の香りを、次いで彼の体温を。
失いかけていた自分の体温が少しだけ灯る。
グッドナイトが去ってから二十二年。気付けば前世と同じ歳まで生きていた。結局俺は昔と似たようにしか生きられなかった。陽の当たる道へ先導してくれた彼がいないのだから致し方ない。生来そういうことが得意なのだ、後悔はない。
彼の肉体を失っても俺はいつでも自分の中の彼に逢えた。そして、彼の死は喪失ではなく 別れでもなく、俺自身の死こそがそれだと感じていた。彼の記憶が永遠に失われる。彼の美しさを知る自分の脳が息絶える。自分の生命などよりその事を余程惜しく思った。
世界から彼が消えてしまう。
古い唄を口ずさむ彼の後ろ姿を思い出す。甘く掠れた声、左手を首に当て本棚を見上げている。彼の背より遥か高く天井まで伸びるそこに、これまでに彼を泣かせ、あるいは笑わせ、なにがしかの感情を昂ぶらせたものが詰まっているのか。片脚だけを梯子に掛けて登り何冊か選んでしている。あぁ、これは子供の頃の記憶だ。俺の背が伸び始めてからは老人ぶって全て自分に取らせていた。
本を抱えて降りながら、俺ばっかり眺めてないで宿題をしなさいと笑われる。
俺の座るソファの肘掛けに浅く腰かけてハミングしながら頁を捲る。ほらこれ、お前に似てるだろ、と何かの図鑑を開いてみせる。宿題をしろと言うくせにいつもそうやって茶々を入れるので、結局自分でしっかりしなければいけないのだった。
彼が冗談めかして笑いながら俺を叱る声が好きだ。
グッドナイトの家には広い庭があり、休日の午後をよくそこで過ごした。何をするでもなくただ、迫害も、追われることもない平和を陽の下で享受していた。
彼は絵を描いたり詩を諳んじたり、時には庭師達の手でピアノを運ばせ外で弾く事もあった。
「あの兵士達のセレナーデがこんなに優しい愛の唄に変わるとはな」と嬉しそうにラブミーテンダーを弾き歌う。
時折彼の愛する本の数々から掻い摘んで読み聞かせてくれる事もあったが、さほど本気で俺が読むことを勧めているわけでもなさそうだった。
「こういうのは俺には役に立ったよ。俺達には百四十年前の記憶があるが、今の人生とは別物だな。それと同じで誰かの人生や価値観を垣間見るんだ…物語の中にな。疑似体験する中で新たな見地を得る事ができる。だがまぁ、お前には必要ないかな」
「なぜ」
「お前には迷いがないからだ。昔も今も変わらず真っ直ぐな美しさがある…見識を広げるための価値観なんて入る余地もない強い光だ。邪魔したくないな」
眩しいものでも見るように目を細める。
俺は百四十年前の人生が今のそれと別物だとは思わない。それは果てしなく遠いが地続きで繋がっている。覚えているのだし、彼が隣にいるのだから。
「あんたは本を読む声も歌ってるみたいだ」
「おい、肝心なのは歌の中身だぞ。ちゃんと理解してるか?まぁいいけどな」
くくくといつまでも笑っているので脛を軽く蹴って続きを促す。
「まるで犬にでも読み聞かせてやってるみたいだ、ビリー」
「グッドボーイだろ」
「読書を音色で楽しむというのは斬新だな。俺のグッドボーイは天才犬かもな」
老眼鏡を掛け直す横顔、皮膚が薄くなり血管の浮き出る白い手。
陽が高く眩しい。庭のあちこちに日差しが反射して、きらきらと光が散りばめられたかのようだ。この庭はとても美しいのだろうが、俺には目の前の老人の姿しか見えない。
他に見つめるべきものはない。
「ビリー…」
息を詰める声。彼の肌に手を滑らせる。柔らかな場所、骨の当たる手首や肘、薄く心許なく弛む皮膚。皺の入った首筋。彼の身体を学び、すべてを記憶させるようにこの手でなぞる。
もう綺麗なもんじゃないと彼は嫌がったが、そんな事どうだって良かった。歳を重ねても彼は彼だ。
「あんたは昔、俺が自分の美しさを知らないってよく言ってたな」
緩やかに腰を動かし息を吐きながら言う。彼の腕を撫で、鎖骨の窪みに唇を寄せる。
「は……、言ったな。いまは分かるか」
深い呼吸とともに浮き出る肋骨に指を這わせる。
「わからなくていい。グッディの美しさなら分かる」
鎖骨を甘噛みする。彼の中に深く入り込み、負担にならない程度に律動を速める。奥底で彼と自分の熱が混ざり合う。
「んん……ぁ、っあ、ビリー」
彼の中で溺れているようだと思った。初めてこうした時、その目の中で泳ぎたいと思った俺の願いは叶ったのかもしれない。このまま彼の一番深いところに沈んで浮き上がれずに、一緒に溶けてしまえたら良いのに。
だがそれは彼の望む事ではない。本当は少しだけ望んでいる事も知っているが、少なくとも彼なりの理性を貫こうとしているので尊重してやる。
彼は顔を逸らして視線だけをこちらに送る。昔のように瞳に色が灯る。抽送によってその目が潤み、目尻から水が溢れる。
夜明けの薄青い空気は彼に妙に馴染み、自分ではなくそちらと溶け合ってしまいそうだ。空気に溶け合い霧散する彼。そうなってはもう俺の手では掴めないだろう。霧を掻くようにがむしゃらに彼を捜す自分を夢想する。そんな遠いところへ行かないで欲しい。
指を絡ませて彼の身体を確かめる。
彼の瞳の色に最果ての地を見る。
睫毛に雪が降りかかり視界が白く覆われていく。微かに残る体温でじわりと溶け、一瞬の透明の上からまた白いものが降り重なり、何も見えずただ眩しい。血を流す穴だらけの身体も覆ってくれれば良い。その方がいくらか綺麗だろう。
あの百合。重厚な黒檀の棺に敷き詰められた、むせ返るような白。棺はロイヤルブルーのベルベットで内張りされ、花も彼も白く映えて美しかった。
彼を弔う聖歌が聴こえる。参列者の持つ蝋燭の火が列をなして揺らめく。
棺の淵を撫でながら彼の目へと歩み寄っていく。閉じられた瞼を見つめて、その膜の中にあった水色がどんな風に輝くのか本当に知っているのは俺だけだと思った。
焦茶のヘリンボーン張りの床、広い部屋の中心にバスタブが置かれ、周囲に椅子やチェストが配されている。風呂が部屋を占拠している様はある意味で西部時代を思い出させた。重厚なこの部屋とは違いバスタブは簡易的に運び込まれたものだったし、何もかもが土埃にまみれ使い古され、擦り切れていたが。
彼は湯に浸かる俺の傍らで椅子に座り、バスタブの淵に両脚を載せている。隣でラムを嘗め葉巻を燻らせる。
「グッディ、一緒に入ろう」
「嫌だね」
いつもそう言って断られるので、いつしか折衷案でこうするのが習慣になっていた。何を今更、と思うが明るすぎる場所で老体を見られるのは嫌なのだろう。ばしゃりと湯をかけて抗議するが、葉巻が濡れないようすんなりと腕をそらされる。彼の手が中空に弧を描く。
「俺にも」
「だぁめだ、二十歳そこらのガキが葉巻なんて可愛気がない。こっちにしろ」
サイドテーブルに盛られたフルーツ籠からオレンジを取り、ナイフで器用に剥いていく。彼の手がその実を口元まで運ぶので素直に口に含むと じゅわ、とぬるい酸味がひろがった。彼は手指についた果汁を舐めながら酒には合わないなと独りごちた。
「何だってお前はいつもそんな彫刻みたいな身体になっちまうんだビリー」
「見てて楽しいだろ、好きなだけ眺めていい」
「言ってろ。お前は確かに美しいよ。くそ、あんなに可愛かったのに」
子供の俺をあんまり可愛がるので、俺は早くかつての自分に近付きたかった。
「鍛えるのは俺には普通のことだ」
「ああそうかよ。痩せっぽちめ」
「褒めてくれて嬉しいよ、おじいちゃん」
濡れた手で彼の足首を掴み、湯を掛けてさする。服ごと濡れたが構わずバスタブへ引き入れ、膝まで浸かったその脚を抱いてもたれかかった。
彼はくっくと喉を鳴らして笑っている。
「また俺の服を濡らしたな」
「一緒に入ろうよ、グッディ」
彼の膝に顔を埋める。世界には俺達しかいないのになにを嫌がってるんだ。
「お前は馬鹿だね」
乾いた手が俺の濡れた髪をくしゃりと撫でる。
「でもお互い様だな」
この記憶も俺と一緒に消えてしまう。共に笑い、歌い、じゃれ合うばかりの日々。あの懐かしく眩しい日々が、また地続きの先のどこかにあるのだろうか。
意識を自分の肉体へと引き戻せば身体が冷気に灼かれている。もはや指先さえ動かせず、じんと痺れる感覚が身体全体に広がり、次いで冷たささえ感じなくなる。
シーツにくるまり微睡みの中へ落ちていく。目は半ば閉じ、意識だけがかろうじて暖炉の薪が爆ぜる音を聞いていた。炎が揺らめくのを目蓋越しに感じる。
窓の外の木々が少しだけ風に騒めく。かちり、と煙草に火をつける音が聞こえる。
「森は美しく 暗く 深い」
かすかな声で彼が呟く。
「だが私には守るべき約束がある」
上体だけ起こし、髪を柔らかく梳くように頭を撫でられる。さっきまで熱を分け合っていた手がふたたび俺に触れる。
「眠りにつく前に 行くべき道がある…」
「昔のあんたのことみたいだ」
眠気を纏ったまま答えると 驚きで撫でる手が一瞬止まった。
「起こしたか?悪かったな、ただの詩だよ」
また髪に指を通し、そのまま頬へと優しく手を滑らせた。
「それに俺の美しい森はお前の中にある… 俺の魂を隠し、行くべき道へ着いて来てくれる」
何か言いたかったが意識が眠りに引き込まれる。
彼の掌がそっと瞼を覆い、俺の目を閉じさせる。
遠くの方で おやすみ、と額にキスを落とされるのを感じた。
おやすみ、おやすみ、グッディ。
もうさよならだ。
あなたは俺のすべてだった。