And Just Like You That
1.
愛しているから一緒にならない。という選択肢を持っているのがグッドナイトという男だった。
別の道を歩むべきだと判断したとき、彼は一人で離れて行こうとする。彼は隣にいる事を諦める。諦められる。愛を全うするために。
今がそうだ。
自分の愛の在り方とは違うのか、自分が幼なすぎるだけなのか。
十一歳の冬、郊外の高級住宅地の外れで再び彼と出逢った。
両親は輸入業で成功し、大雪の日にこの街へ越して来た。以前の人生とは別の両親、家族、多くの親戚がいるというのは全てを思い出した今となっては妙な事だった。違う遺伝子を受け継ぎ形成されても自分になるものなのか。
グッドナイトと再会した時自分は何も憶えていなかった。
住宅街の中にある広い公園、その端のベンチに腰掛けて煙草を吸い、雪を踏みしめて歩く自分を見つめていた。彼は七十歳だった。
彼は小さな声でビリー、と呼び、その声は震えていて、そっと頬に添えられた手は冷たかった。
寒風吹きすさぶ中で瞳も揺れているように見えて、それは今にして思うと懐かしさと愛と恐れを湛えていた。
子供の自分には理解できず、ただ水のような色の目だと思った。
水色を見つめたその夜、百四十年前の全てを夢で思い出し、翌朝グッドナイトの家を訪れた。彼はこの辺りでは誰もが知る成功者だった。
彼は最初笑い、笑いながら涙を流して喜び、その掠れた声を知っていると思った。
自分の訪問を心から喜び、繋がりを確かめるように昔の事を沢山話した。二人で稼いだ金、くだらない話で笑い転げた酒場の席、ホテルに籠って過ごした嵐の晩。目の焼けるような陽射し。
死の間際の思い出。あれは楽しかった、人生最高の瞬間だった、今のと合わせてもな。あんな高揚は無いよ。と言い、ふと何かを思い出したような顔をして、お前学校は?と言った。
「グッディ、そんな事どうだっていい。せっかく会えたのに」
それもそうだと笑っていたが、次また学校の時間に来たら出入り禁止だと告げられた。
いたずらっぽく片頰を上げて頭を撫でられる。百四十年前にもされた仕草を違う目線の高さで見つめる。
たびたびロビショー邸を訪れる事を両親は喜んだ。何しろ彼はこの辺りでは誰もが知る成功者なのだ。一代で高級ホテルチェーンを築き上げ、アメリカの名だたる観光地に『グッドナイト』の看板は輝き、自身はとっとと手を引き隠居していた。
彼はすべてが穏便に済むよう、両親に挨拶までしてのけた。この子はとても利発だ、寂しい隠居者に構ってくれてる、勘が良いから俺の知ってる事は何でも教えてやりたいね。昔からそういうところのある男だった。口先だけで上手く行く事は自分が思っている以上に沢山ある。
「恋人だから一緒にいるんだって言えば良いのに」
彼は驚いて目を見開き、一瞬微笑んだのち笑い転げた。なんで笑う、と真顔で聞いたら笑うのを止めてまた少し微笑み「そのうちな」と言った。
「一生分の経験をしたからな、商売は簡単だったよ。俺はもう知ってる。人々が欲しがるものは一瞬の夢と興奮と日常の忘却だ。お前とやってた賭け試合と同じさ、時代が変わっても人の心はそうそう変わらない」
「 ”グッドナイト” だ…ホテルの名前としちゃ出来すぎで笑えるが、きっとお前が気付くと思ったんだ。俺の方が先に見つけたけどな」
縋るように名付けたのかもしれない。どこかにいるはずの相棒、最愛の人、アメリカではないのかもしれない。ホテルの名が売れれば海外にも届くだろう。もっと大きく。
「子供の頃から全部覚えてた?」
「俺は産まれた時からお前を知ってたよ、忘れられるわけない…会えるのも知ってた」
知っていたのなら随分長いこと待っただろう。自分が産まれる前の事はどうしようもないが、彼を知らずにのうのうと生きて来た十一年を思った。
「嘘だよ、そんな顔しないでくれ。本当の事を教えよう。俺が思い出したのは今のお前より五年も遅かったよ。十六歳、思春期真っ只中で大変だった」
どちらが本当か分からない。彼は昔からこうだった。あまりに変わらないので呆れた目を向けると、怒るなよ、相棒、と昔とは違う呼び方をされた。
彼の七十年に思いを馳せようとしたがあまりに遠い年月に実感が湧かない。記憶の中では四十六年の歳月があったが、実体としての自分はまだ幼なすぎた。
2.
「背が伸びてきたなビリー、もてるだろ。百四十年経ってようやく皆俺の相棒の魅力に気付くってわけだ。今にものすごい美女に捕まるな」
十五の夏だった。
現代の彼は楽しそうだ。いつも笑い、何を言う時も笑い、こんな事を言うときまで笑うので口の中を噛んで堪えていた。頬の内側で血が滲む。
学校に好い子とかいないのか?と初めて訊かれた時はまだこちらも笑っていた。彼は昔からその手の冗談をよく言ったからだ。どの娼婦が好みか、お前の国の女はどんななのか。その都度耳打ちして詳細に答えてやり、二人で笑っていた。周囲を置き去りにする笑い。世界に二人きりになるための軽口。口先では女達を讃え、その目は互いの瞳を見つめながら。だが今のこれは。
「あんたの恋人は昔からもててたよ、気付いてなかったのか」
「そうなのか?痩せっぽちだったのに。俺だけかと思ってた」
「今だってあんただけだよ」
彼は口元だけで薄く笑いこちらを見た。彼が言いたい事、というか言いたくなくてずっと触れずにいる事は分かっていた。
「恋人がいるのに皆が俺の魅力に気付いたってどうでも良いよ。そうだろモンシェリ」
そう呼んでやると一瞬笑い、額を押さえて俯いた。眉根を寄せる、昔よく見た表情。困り顔で笑う、彼にしかできない笑み。
彼が現代の自分をかつての相棒としてしか扱わない事にはとっくに気付いていた。百四十年前と同じく彼の持つものは全て注ぎ、知識も物も惜しみなく与えてくれたが、愛とはそれだけではない。
「ビリー、お前を愛してるよ。でも恋人にはなれない」
額に手を当てたまま呟く。彼は揺れていたが、はっきりと言葉にした。
「俺はいつでも…お前に会う前も、これから会えなくなっても、お前を愛してるよ。いいかビリー、俺は遠からずいなくなる。終わりに向かってるんだ。お前を置いて行く日が来るんだよ。自分の人生を生きるんだ、昔の事に捉われるなよ」
「俺が愛してたって事だけ知っててくれれば良いよ」
置いて行ってるのは今だ。あんたは自分の気持ちばっかりでこちらは置き去りで、それは昔から変わらない。俺の愛はどうなる。
自分に会う為に人生を捧げて来た筈なのだ。グッドナイトの名を広め、いつか恋人が気付いて会いに来てくれる事を願いながら。この記憶は本物で夢や妄想ではないと信じながら。銃の重みと奪った命の重みを抱え、悪夢を抱え、最愛の人間を想い、夢なのかそうじゃないのか、どちらが良いのか測りながら。七十年。
「前みたいに一緒に死ねるかも」
彼の表情が色を失うのが分かった。失敗した。これこそ彼が頑なになる理由だと知っていたのに。
「嘘だ、死んだりしないよグッディ、あんたがそうしたくないなら。俺は一緒でも構わないけど」
「ビリー」
「グッディ、俺が夢に見たのは掛け試合や酒場の事ばかりじゃない。あんたとの夜だって覚えてるのに」
また失敗した。四十六年分の記憶があっても思春期の起伏はやってくるものらしい。制御できない。
彼はあの日声を掛けたせいで幼い自分の記憶を引き起こしたのかもしれないと考える。子供の自分から人生の選択肢を無くさせてしまったと思って苦しむ。俺には未来があり、彼の事を忘れて幸せになって欲しいなどと願っている。馬鹿にしている。俺の愛をなんだと思ってるんだ。共に過ごした日々を、あのかけがえのない喜びを、俺にとってのあんたを何だと思ってる。
3.
百四十年前、彼の泣き顔を見る事は珍しくなかった。自分には聴こえない声に追われ憔悴しきった背中をさすってやった。涙こそ流していなかったかもしれないが、暗くてよく分からない。共感も、追い払いもしてやれない事がもどかしかった。
今の彼が涙を流したのを見たのは二度。再会の朝。そして初めてグッドナイトの家に泊まった日。彼は同じベッドに眠ってはくれなかったが、目を覚ますとベッドサイドに椅子を引いて来て自分の寝顔を眺めていた。
目が合った瞬間、歳をとって更に色の薄くなった瞳から水が零れる。慌てて身体を起こすと、朝日が彼の顔に射し込み流れる筋を照らした。彼の中の何かが一緒に溶け出してしまう気がして、そっと瞼に口唇をつけた。
あれは何歳の事だったろうか。
今は泣いてはいない彼を見る。
髪を後ろに撫でつけ、スーツの襟を正し、香水を一振りして鏡と向き合っている。歳の割に随分な洒落者だ。
こちらの視線に気付き、風呂上がりそのままの状態なのを見て少し呆れた目を向けられた。身支度しろ、と顎で促される。意に介さず水滴をぽたぽた落としながら彼に歩み寄り、水が彼のスーツに落ちるところまで近付く。十八歳になっていた。
「ビリー」
制止は聞かない。聞いてやらない。
一糸纏わず、まだ湯気の立つような身体を目前にして彼が息を呑むのが分かった。ふいに視線を外される。掌で両頬を支えてこちらを向かせ、目を覗き込む。揺れる水。飛び込んでしまいたい。彼の目の中で泳ぎたい。そうすれば少しは分かってくれるだろうか。
「ノー、ビリー」
彼は呑まれるのを恐れている。俺の欲望に、彼の本当の欲望に。ゆるく首を横に振るのを、頬に添えた手に力を込めて押さえ、触れるだけのキスをした。俺の腕を掴み振り切ろうとする。
彼の唇の結び目を舐め、何か言おうとして開いた隙間から舌を差し入れる。唇の内側と歯列をなぞるとスーツ越しの肩が一瞬震えた。もっと深く舌を入れ上顎に伝わせる。舌全体を絡ませ、彼の舌を甘噛みする。息が熱い。
間近にある瞳が潤む。悲しみではない水をたたえていくのが見える。
壁伝いにずるずると彼の身体が崩折れて行き、そのまま上に多い被さった。
ようやく同じベッドに横たわり、彼は信じられないような顔をして呆然としていた。
自身を責めるべきか考えているようだったが、暫くしてベッドサイドの引出しから包装された箱を出し、こちらへ投げて寄越した。昨日今日包まれたものではなさそうだ。
「お前のものだよ」
開いた箱には、果たして見覚えのある輝きが納まっていた。馴染み深い銀の装飾。同じものではないのだろうが、昔に似せて作らせたのは明らかだった。
「相変わらずとんでもないなビリー、お前はどうかしてる。歳の差ってものを考えろ」
「だがそうだな…俺がお前を諦めきれなかったせいなのかもな。こんなもの用意して、未練がましいのは俺の方だ」
今生で初めて手にした重みは旧知の仲のようにすぐに手に馴染んだ。
今自分はどんな顔をしてるだろうか。
嬉しかった。とても、とても嬉しかった。
彼を愛しても良いと言われた気がした。俺が違う人生を、過去に囚われない新しい一生を送る事を頑なに望み続けた彼に、ようやく許されたと思った。
彼のビリーとして生き、側に居てもかまわないと。
「嬉しい、グッディ。大事にするよ」
ナイフを光に当てて矯めつ眇めつする自分を見ながら、彼は自身に向かって 業が深いな、 と呟いた。
それからは毎晩一つのベッドで眠った。
4.
グッドナイトの周りに白い百合が敷き詰められている。閉じられた瞼も同じくらい白い。
二十四歳になったばかりの夜。また冬だ。
いつか必ず訪れる日。彼はこうして自分を一人置いて行き、残された俺が自棄になることを恐れていた。後を追うか、巻かれたネジが尽きるように生きる力を失って立ち止まってしまう事を。
だがそうはならない。
彼の残した甘やかな記憶。あたたかな体温や、彼の匂いまで感じられるような記憶。むせかえる百合の香りに沢山の彼を思い出す。
これがあれば生きて行ける、と思う。
彼の好きな花。彼の吸う煙草の味、キスの時の苦味。掠れた笑い声。
百四十年前よりも多くの時を共に過ごした。子供の頃に出会い、沢山話をして、彼を見つめながら大人になった。
二人で一つだった昔に比べて、彼は自分を手離して行けるほどには強くなり、俺は彼がいなくても想い続けられるほどには図太くなった。
二十四歳の自分がきっと死ぬまで彼の事を想う。
これは彼の恐れていた事態のひとつかもしれないが、知った事ではない。こんな事何てことないんだ。愛せないより余程良い。
愛するのを許して貰えないより、余程良いよ。
彼の肉体に別れのキスを落とす。だが俺が死ぬまでお別れじゃない。
温度の無い肌に触れ、触れたところから彼の体温を思い出せた。
0.
雪の中を歩く幼い子供。見かけない子だ。雪の感触を楽しむように踏みしめている。遊んでいるのか歩いているのか判然としない、子供らしい読めない動き。一人なのか、ここらに来たばかりなのだろうか。
目が離せない。
何が珍しいのか辺りの景色を見渡しながらふらふら歩いている。
彼の周囲から世界に色がついていく。広がってゆく。
この感覚を知っている。
百四十年前。
命を奪う重みに堪えきれず魂を失った。最期の最後で取り戻し、今生では幸いにも産まれた時から持ち合わせていたが、永遠に続くかと思うような捜し物と孤独に我が魂は疲れ、擦り切れ、くたびれ果てていた。世界はとっくに色を失っていた。
気が付くと耳の側で風の音が鳴っていて驚き我に返る。これまでも耳は聞いていたのだろうが、届いていなかった。今なら雪の降る音さえ聴こえる気がする。
ふいに寒いな、と思う。当然だ。大雪だというのに適当に羽織った薄い上着で出て来ていた。暑さも寒さも、いつしか同じことに感じていた。
彼は雪の上を歩いている。雪に光が反射して眩しい。もうずっと、どれだけの間、この目にはくすんだ世界しか見えていなかったのか。
「ビリー」
思った言葉が口をついて零れた。小さな呟きだったが、彼は跳ねるようにこちらを見た。
見知らぬ老人がなぜ自分の名を知っているのか不思議に思いながら近付いてくる。警戒心までは引き継がなかったか。
「ビリー」
声も手も震える。俺は怯えてるのか?歓喜に打ち震えている?触れた頬が暖かい。世界が温度を取り戻していく。
夜の色の瞳がこちらを見つめる。俺の魂の隠れ家。
お前を待っていたよ。