水曜日の愛人(モブしげ)水曜日の愛人
午後4時半。都内某所の会社事務所では十数人の事務員が、終業時間の差し迫る中、慌ただしく算盤を弾き、帳簿にペンを走らせ、ひっきりなしに鳴り響く電話のベルの応対に追われている。その一人に南郷も居た。
そんな社員達を尻目に、事務室の最奥の重厚な机にどっかりと腰を下ろして数枚の書類をまるで夕刊でも読むように悠々と眼を通している男がいる。
ここの主である上田社長である。
彼は還暦を迎えて数年。経営はほとんど自分の育てた部下任せ、自分は書類に判を押すのみという一見悠々自適な生活を送っている。しかし、書類を見る目は厳しく、一寸の狂いも見逃さない。なかなかしたたかな男であった。
午後5時、終業のベルが鳴る。
ペンや算盤を弾く音が止み、社員達が一斉に帰宅の準備をしている中、南郷は椅子に寄りかかり大きく伸びをして、欠伸をしながら窓を見る。
外は夕暮れ。昼間と夜の中間の濃紺に包まれる外を見ていると一年ほど前の、あの伝説の夜を思い出す。
心がざわつく様な、身体がひり付く様な夜。
あの勝負で南郷はかなりの大金を得た。
今でもふと思う事がある。
もしアカギと別れずに一緒にいたら、一体どんな生活を送っているのだろうと。
だが、薄暗がりの窓に映っているのは背広を着た普通のサラリーマンのおっさんだ。
そう、オレは一般人なのだ。
アカギの様な、瞬間の熱を追う様な毎日オレには無理だ。
それに一般人には一般人なりの苦労というか、まぁそれなりの大変な事もある。
南郷は未だ独身。だんだん周りの仲間も身を固め出し、こう、時間の空いている時に飲む仲間が少なくなっていく。南郷も結婚を…できたらしたいが行動を起こしてないので当分はできないだろうなぁと思っていた。
「南郷くん」
そんな事を漠然と考えていると後ろから声を掛けられ南郷は振り向いた。
立っていたのは上田社長である。
「は、はい。なんでしょう」
「南郷君、キミは今夜予定はあるかね?」
「ありませんが」
南郷の返事に上田は、年相応の浮腫んだ顔でにやりと笑った。
「じゃあチョット、今夜付き合ってほしいのだが」
中途採用なれど真面目に仕事をこなす南郷は上田から一目置かれている存在だった。独り身では時間を持て余しているであろうと、上田はたびたび南郷を呑みに誘うのであった。
「喜んでお供いたします」
頭を下げた心の中で、またか、と南郷は内心溜息を吐いた。
上田社長は家庭を持っていて孫も三人いる。経営も順風満帆だ。
その一見何の汚点もない様に見える年寄りの唯一の悪癖。
女に相当だらしないのだ。
上田は、何も予定の無い夜は南郷を連れて自分の囲っている愛人のもとへ赴くのである。金を持っている男なのだから、愛人の一人二人なんら珍しい事でもない。
しかし、その数なんと六人。
月火水木金土と、それぞれに曜日ごとに尋ねる日を決めているという悪趣味っぷりである。ちなみに日曜日は家族サービスの日ということだ。
そんなに大きな会社ではないのに一体どこにそんな女を侍らす金があるのか、南郷ははなはだ疑問だが、聴けば代々続く資産家だか名家だかの出であり、この会社は副業感覚で経営しているらしい。
上田社長の愛車トヨタ・クラウン。艶々光るモスグリーンの車体。
一般人の月賦では到底買えない高級車に乗り込む。
上田は南郷が自動車免許を持っていると知るや、『運転してみたまえ南郷君、練習だ』と運転手を頼んだ。免許を持っているといっても南郷は所謂ペーパードライバー。教習所を出て初めて運転する車が、他人の物だとはいえこんな高級車とは。正直身が縮む思いだった。
信号で停車するたびに、南郷は今まであった上田の愛人を思い返してみた。
会った事のあるのは二人。
月曜日と金曜日の女だ。
月曜日の女は小料理屋を営んでいる30代中ごろの女。上田曰く、こんな年の頃が一番抱き具合が良いらしい。
金曜日の女は某大学に通う女学生だった。眼鏡をかけ俯きがちの美少女。彼女は大学進学前に父親が他界し、以来学費、生活費もろもろの面倒を上田が見てやっているとの事である。こんな娘が生活の為に無き父親よりも歳が上であろう男性に身体を開いているとは、南郷はすこし興奮した記憶がある。
どの女も上田が月曜の、とか火曜の、とか通う曜日で呼ぶものだから名前は知らない。
今夜尋ねる水曜日の愛人はどんな女なのだろう。
しかし、やけに子供の通行が多い所だ。近くに小学校や中学校があるのかもしれない。
物陰から子供が飛び出してこないかひやひやしながら、南郷はハンドルを握った。
次の信号を右。
あそこの××商店の細い路地に入ってポストを右。
助手席に座る上田が南郷に指示をだす。
「ここに停めてくれ」
そんな道案内でやってきたのは、サザンカの垣根に囲まれた平屋の家。
南郷は指示通り玄関近くに車を停めた。
古くもなく新しくもなく、これといって特に目立つ事の無いごくごく普通の一軒家だ。
上田は助手席から降りて、玄関の硝子戸を開けた。
「おぅい」
薄暗い畳敷きの廊下の奥へ上田が声を掛ける。
「はい、ただいま」
女の返事とこちらへ向かってくる足音。
声からするにそんなに若い女ではない。近くに学校がある立地だからコブつきの女だろうか。
南郷はそんな下衆な推測を立ててみた。
だが。
うっ…!
南郷は驚愕した。
奥から出て来たのは、割烹着を着た老婆であったからだ。
こざっぱりとした印象だが、それでも社長より一回りは上であろう。
「旦那様、お帰りなさいませ」
そう言いながら老婆は曲がった腰を更に深く曲げる。
「……まだ帰ってきてないのかい?」
「はい。今日は道草をしないようにとお伝えしたのですが」
「まぁ待つさ。こちらは南郷くん、私の部下だ」
「初めまして…南郷と申します」
紹介されてあたふたと南郷は頭をさげる。
そうこうしている内に上田はすでに靴を脱いでいる。南郷も慌ててそれに倣った。
廊下の奥、突き当たりの引き戸が開いていたので、ちらと覗いてみると、壁を白いペンキで塗られた明るい印象の台所。コンロの上には、鍋がコトコト音を立てている。
隅には冷蔵庫が置いてあった。
ぼんやりとしていると、上田が「こっちだよ」と言って突きあたり左手の襖を開ける。
八畳ほどの茶の間だった。
「ソファはあまり好かんのでね、まぁ掛けたまえ」
「失礼いたします」
座布団に座ると、さっきの婆さんが茶と菓子を盆に乗せて持ってきた。南郷は出された茶を啜りながら視線だけで茶の間を物色する。見た目は普通の家だが、中に入ればなるほど、金持ちの妾の家である。台所の冷蔵庫といい、茶の間にも当たり前のようにテレビが置いてあるし、そこに置いてあるサイドボードも一見しただけで高級そうなものだ。
ふと壁掛け時計を見ると、下の方にカレンダーがかけてあった。水曜日の所に赤まるがある。
それも毎週。
「忘れっぽい子でね。私が来る日に丸をつけてあるんだ」
南郷の視線の先に気付いた上田が言った。
「なるほど」
「南郷君、きみ、あの婆さんが水曜日の愛人だと思ったろう」
南郷は図星を突かれて茶を吹きそうになった。
「……違うんですか?」
「いくら私でも、婆相手には勃たんナァ。」
上田は笑った。
「あれは手伝いに雇ってる婆さんさ、六時になったら帰る」
「はぁ」
妾の為に家政婦まで雇うとは、相当可愛がっているのだろう。
そういえば、と南郷はさっきの老婆の台詞を思い出した。
「さっき、お手伝いさんが言っていた坊ちゃんっていうのは……その、愛人の子供ですか?」
上田はその言葉に、しかめ面をした。
「……察しが悪いなぁ、キミ」
「へ?」
「だから」
上田が口を開いた瞬間、玄関の硝子戸がガラリと大きな音を立てた。
『ただいま』
誰かが帰宅を告げる声。南郷はその声にドキリとした。
初めて聞く声では無い。
自分はこの声を知っている。
「おお来た、来た」
上田はニコニコ顔で立ち上がった。
いい年寄りが小走りで、まるで母親の帰りを待っていた子供の様に玄関へ向かう。南郷も後に続く。
心臓がドキドキとしていた。
玄関に立っていたのはズック鞄を肩にかけ、黒い学生服を身に纏った少年だった。
「上田さん来てたんだ」
そういいながら少年は水曜日だものね、と呟く。
「脚はもういいのかい?」
上田は少年の肩に手を載せ尋ねる。
「もう痛まないよ。普通に歩ける」
「そうか!よかった」
南郷は二人のやり取りを見ながらただ呆然と突っ立っていた。
上田が振り返る。
「南郷君、紹介するよ」
愛おしげに少年の肩に手を回し笑いながら名を言った。
「赤木しげるくんだ」
「さ、しげるくん。挨拶を」
「初めまして、南郷さん」
可愛らしく頭を下げる、白々しい態度。
あまりの出来事である。
あの熱い夜から一年と少し。ぷっつりといなくなったアカギが眼の前に現れた。
それも社長の妾の家で。
「あ、アカ」
驚愕する南郷を見て、アカギはニヤリと笑いながら上田からは見えないよう、こっそりと唇の前に人さし指を立てる。
まるで、黙ってなよとでもいうように。
南郷はどうしたらよいのやら分からなかった。
「よろしく…しげる…くん…」
取りあえず、普通の中学生に接するように、やっとの思いでそう返した。
ご飯はおひつに入っておりますし、おみおつけは温めて食べてください。そう伝えて老婆は帰って行った。
「上田さん、お風呂沸かしますか?」
「ああ、頼むよしげるくん」
茶の間を出ていく少年の背を見ながら上田が呟いた。
「稚児趣味だとおもうかね」
「・・・」
南郷は答えず、かわりに上田の顔を見た。
侮蔑の様な羨望の様な、そんな部下の眼差しを受けて老社長はポツリポツリと話し始めた。
「先の会合の帰りに倒れていたのを拾ったのだ。左脚が折れていて、包帯も先日取れたばかりでね。聞けばどこにも行くあても無いっていうし……ああいう髪の白い、白子っていうのは初めてみたからちょっと驚いたが……よくよくみればなかなか可愛い顔をしている」
だからって手ぇだすかよ普通……!と南郷は心のなかで呟く。
そうこうしている内に、襖が開く。
アカギが顔を覗かせた。
「お風呂沸きました」
「そ、そうか……南郷くん、先に入りたまえ」
「いや社長より先には」
南郷は躊躇する。
「君は客人だよ」
「……じゃあお言葉に甘えて」
茶の間を出て右。ドアを開けると板張りの脱衣所。隅に置いてある籐の籠には浴衣が畳まれている。浴室へと続く擦り硝子戸を開けると、床も壁も色とりどりのタイルがしきつめられ西洋風の風呂釜が鎮座していた。最新のガス式で備え付けの蛇口を捻ると薪で沸かさずともお湯がでるらしい。これもあの老社長が少年の為に設えたのだろう。
妙な事になっちまったな……。
南郷はひとりごちてシャツを脱ぎ、ベルトに手をかけた。
「南郷さん」
いきなり呼びかけられて南郷は飛び上がった。
ふり向くとアカギがドアから顔を覗かせている。
「これ、タオル」
「あ、ありがとう」
南郷はおどおどと差し出されたタオルを受け取る。
その様子にアカギはフフ…と笑った。
「逆だね、あの時と」
「?」
南郷は最初、アカギが何をいっているのか分からなかった。
だが、そう言えばアカギと初めて出会った時にずぶ濡れの彼にタオルを差し出した事があったっけ、と思いだした。
「じゃあ、ごゆっくり」
「お、おい……」
パタンと閉じられたドア。
色々聞きたい事があったのにちっとも聞けなかったので南郷はため息を吐いた。
風呂から出た後、婆さんが作っておいてくれた夕飯を温めて食べた。
「学校はどうだい?」
食事の最中、上田はしきりにアカギに学校生活の様子を聞いた。
「すっかり慣れました」
焼き魚の骨を取りながらアカギが言う。
英語の授業で外国人の先生が来たとか、体育で100m走をしたとか、抜き打ちテストがあったとか。
アカギの口から「授業」とか「体育」とか単語が出てくるのが可笑しかった。
なんていうか、似合わない。
挙句の果てに教室に飾られている花の水替えをしたなんて言うものだから南郷は思わず笑い出しそうになった。
夕食後。
「しげるくん宿題があるんだろう。早めに終わらせておいで。それと、南郷くんに布団を敷いてやってくれ。」
アカギは老人の頼みに「はい」と返した。
「南郷さん、こちらです」
「あ、ああ」
どうやら客間に案内してくれるようだ。上田に挨拶をして、南郷とアカギは客間へと向かった。
薄暗い廊下。
自分の前を歩くアカギの背中に南郷はどう声を掛けたらよいものか思案していた。
「南郷さんは車持ってないの?」
「え」
突飛な質問。
アカギは玄関先に停めた車の事を言っているのだ。
「いや…社長のものだ」
「買っちゃえばいいのに。あれくらい買えるでしょ」
そりゃあ、あの時に得た大金で買える事は買える。だが、南郷の様な一般のサラリーマンが高級車を所有していたら確実に周囲から目立つ。
そもそも南郷のアパートには駐車場がない。
「あのなぁ……人には分相応な暮らしってもんがあるの!」
「ふーん」
納得したのかしないのか、アカギはよくわからない返事をする。
「ここが客間です」
アカギが襖をあけた。
真っ暗な部屋。アカギがランプシェードの紐スイッチを引っ張る。
蛍光灯が二、三回点滅し、青白い光が室内を満たす。
茶の間とそう変わらない広さの和室。
床の間の、枯山水の掛け軸の前には菖蒲が生けてある。
「ちょっとまっててね」
そう言ってアカギ押し入れから布団を引っ張りだす。
どうやら寝床の仕度をしてくれている様なのだが、随分と雑だ。
ドサドサと埃が立つ勢いで敷布団を広げ、敷布はしわくちゃ。最後に、ぽいっと掛け布団と枕を布団に投げつけた。
「どうぞ」
整ったらしい。
「どうも……」
言いたい事はあったが南郷は取りあえず、布団の上に胡坐をかいて座った。
アカギは床柱に寄りかかっている。
南郷はそんな彼に意を決して聴いてみた。
「それより……アカギ、お前」
「なんで男妾みたいな事してるのかって?」
「……ああ」
「心配?」
「心配だよ!」
南郷が大声を出す。
アカギはまた、フフと笑った。
「……脚をケガしたって聞いたぞ」
「ああ」
これのこと?そう言って赤木はズボンの裾を捲る。そこにはだいぶ薄くなってはいるものの、ふくらはぎ全体に痣の痕跡があった。
「ケンカで骨折してね……動けなくなってた時に上田さんが拾ってくれたんだ」
「じゃあ……治ったらここから出てくのか?」
「うん。」
じきにね。
そう言ってアカギは襖を開けて振り返りざまに「おやすみ、南郷さん」と言った
南郷は眠れなかった。コチコチと壁掛け時計が時間の経過を告げる。
とうとう我慢できずに起き上がる。
電気を付けると床に着いてからまだ20分も経ってなかった。
このまま、はいお休みなさいなんてしていられるか!
思い立ち南郷は暗い廊下に出た。
行くあても無くウロウロとしていると、灯りが漏れているドアがある。
南郷はゆっくりノックをした。
「ハイ…?」
アカギの声だ。
南郷は胸を撫で下ろす。アカギの部屋じゃなかったらどうしようかと思っていた。
南郷は客人で、アカギは上田の妾である。あまりうろつくのは好ましくないだろう。
「オレだ」
少しの間。がちゃりとドアが開く。
「どうしたの南郷さん」
少し驚いた顔だ。
「いや、眠れなくて…入ってもいいか」
「構いませんよ」
そう言われ、踏み入れた青白い蛍光灯の光の下、見えた光景。
南郷は息を飲んだ。
「ここは…お前の部屋か?」
「そうですよ」
六畳ほどの洋間にはラジオ、レコードプレーヤーや飛行機の模型に外車のラジコンといったおもちゃが所狭しと置かれていて、ガラス戸付きの本棚には革張りの百科事典や流行りの小説や雑誌が並んでいる。
少年の夢の様な部屋。
アカギはその中をすたすた歩いていき、窓際の大きな学習机に座った。
ギチリと回転式の椅子が軋む。珍しい光景だ。あのアカギが机に向かっている。
「お前、ほんとに宿題してるんだな」
覗きこむとどうやら数学の様だ。
アカギは面倒くさいんだけどねとボヤキながら鉛筆を走らせる。
「勉強は学生の本分だからな」
そんな当たり障りの無い事を言いながら南郷は部屋を見渡した。上田が買い与えたのだろう宝の山は手垢すら付いておらず、ただそこに置いてあるだけらしい。良く見ればうっすら埃さえかぶっている。
今よりも物資のない中で少年期を過ごした南郷は、純粋にこの部屋の主を心底羨んだ。
「アカギ」
「なに?」
「ここにいてもいいか」
「いいよ」
南郷はガラス戸に手を掛け、百科事典を一冊取ってみた。
捲ると、目に飛び込んでくる繊細な植物の挿絵。ぷんと真新しいインクの匂いが鼻を掠める。
「お前は…こういうのは読まないのか」
「ああ、」
興味無いから。
眼はノートを見たまま素気なく答える。
南郷も、そうか。と呟く。
宝の部屋には鉛筆が滑る音と百科事典のページを捲る音がしばらく響いていた。
南郷は何時の間にやら本棚を背に眠っていた。腹の上には学生服の上着が掛けられている。
部屋の真ん中には布団が敷いてあるが、もぬけの殻。
アカギは何処に行ったのだろう。南郷は襖を開け、暗い廊下をフラフラと歩く。
廊下を右に曲がると見覚えのある襖。
そう言えばここは、茶の間の……。
『しげるくん、…を…ないか』
上田の声。
南郷はこっそりと襖に近づき、ほんの少しの隙間から中の様子を覗いた。
部屋の灯りは蝋燭の灯りひとつ。
だいだい色の揺らめく光と黒い影が入り混じる室内で、上田とアカギが向い合せに座っている。
二人の足元には小さい盆に乗せられた銚子がひとつ。
アカギに酌でもさせているのだろうか。
それにしては、猪口が見当たらない。
『手をお出し』
上田の指示にアカギは、まるで駄賃をねだるように両手をさしだす。
その白い手に上田は酒を注ぐ。
水が跳ねる音。
アカギの指の隙間から酒が垂れ、ぽたりぽたりと畳が音を立てる。
上田はまるでアカギの重なった両手を、まるで椀の様に口を付けた。
次いで上田はアカギの細腕を掴み自分の方へひきよせ、後ろから抱きしめるような格好で少年のシャツのボタンをぷつりと外していく。
そして胸元を肌蹴させると、上田は銚子を手に取りアカギの首元――鎖骨の窪んだ部分に酒を注いだ。
『あっ』
聴こえてくる鼻にかかった甘ったるい、アカギの声。
冷たいのか温かいのか。酒の感触にアカギが身じろぐ。
構いやしないという様子で、上田は少年の首元に顔を寄せ、じゅるりと言う下品な音を立てて酒を啜った。
アカギの首元の浅い椀から一筋零れ落ち、胸の乳首を伝いへその方へ流れていく。
少年の身体の窪みを盃に見立てる、老人の狂趣。
そして、上田の手がアカギのズボンのベルトに伸びた時。
南郷はいてもたっても居られず、足音を立てない様に部屋に戻った。
南郷はまたしてもアカギの部屋にいた。
イライラとした気分で、一旦客間に取りに戻った煙草に火を付ける。
あの、上田と言う男はおかしい。
こんなに多くの玩具を与えて、子供扱いしているアカギを女の様に扱うとは。
アカギもアカギだ。いくら助けて貰った恩があるとはいえ、他人に身体を開く神経。
溜息と同時に煙を吐きだす。
そして、はたと灰皿が無い事に気付いた。
また客間に戻らなければならない。二度手間だ。
アカギは煙草吸ってたっけ。南郷はアカギの座っていた学習机に視線を走らせた。
机上にはには鉛筆削りにノート、教科書が並び、鍵付きの引き出しが付いていた。
ここか?
南郷は机の引き出しを開けてみた。
「え……?」
息を飲む。
そこに入っていたのは拳銃とその銃弾。
持ってみるとずしりと重い。
縁日で売っている様なちゃちなものではなかった。
まさか……。
「南郷さん」
呼ばれてぎくりと振り返る。
そこには浴衣を着たアカギが立っていた。
ほのかに漂う酒の香りと首筋に鬱血した跡があるのが生々しくて南郷は視線を反らす。
「おれ、今夜は上田さんの部屋に呼ばれているんだ」
「そ、そうか」
「だから、この部屋好きに使っていいですよ」
南郷はドギマギした。
勝手に引き出しを開けてしまった事を謝らなければ。
そう思って口を開こうとした時。
「南郷さん、灰皿そこにあります」
アカギが指を差した先、ラジコンの陰にポツンとアルミ製の灰皿が置かれていた。
数日後。アカギは、南郷に言った通りぷっつりと上田の元から居なくなった。
気にしないよ。野良猫にえさをやってたようなもんさ。
そう上田は寂しそうにいった。
水曜日の愛人には、どこかの飲み屋の『女』が新しく入ったらしい。24,5歳の可愛らしい娘で、また紹介してあげるよと上田は笑っていた。
その日の仕事終わり。
南郷は、アカギが『囲われて』いた下町の平屋にいた。
上田は、いつアカギがここに戻ってきてもよいようにと、引き払わずそのままにしてあるとのことだ。
「すみません」
南郷は玄関の戸を開ける。
前来た時と同じように、お手伝いの婆さんが出て来た。
「あら、あなたはたしか……」
「南郷と申します。あの、先日お邪魔した時に忘れ物を……」
そんな分かりやすい嘘をつく。
だが、気のいい婆さんは、はいはいと南郷を家にあげてくれた。
「しげるくんとお話している最中、どうやらライターをポケットから落っことしてしまった様なのです」
「まぁ、あのお部屋は玩具が沢山置いてあるから探すのに骨がおれますよ」
そう言って通されたアカギの部屋。
学生服の上着はハンガーに掛かったままだし机の上には通学用のズック鞄が置いてある。
あの夜、アカギが宿題をしていた机の上には数学の教科書が出しっぱなしだ。
本当にそのままになっていた。
だが埃っぽいとかいう印象は無く、恐らく婆さんが上手く掃除しているのだろう。
お茶を持ってきます、と婆さんが席を立つのを見計らい、南郷は学習机に歩み寄り、引き出しを引っ張った。
乾いた音を立てて引き出されたそこは。
空っぽだった。
アカギは教科書も制服も、この宝物の部屋もみんな置き去りにして。
あの鈍重な拳銃だけ持って行ってしまったのだ。
「アカギ…」
少年の名を呟いて、南郷はそっと引き出しを閉めた。
了