雪夜行(モブしげ)正月を過ぎれば、冬はひたすら春を待つだけの日々である。
横町の雀荘では部屋の真ん中に小さな石油ストーブが置かれていたが、室内を暖めるのには足りず、全員上着を着たまま打っていた。黒いコートを着た男達の中で、しげるの明るい駱駝色のダッフルコートは良くも悪くも目立つ。
「坊主、洒落たモン着てるなぁ」
対面に座る男が、欠けた前歯を覗かせて笑う。
しげるはそれに軽く会釈をした。
人間が寒さに身を縮こまらせながらコートの前を閉めるように、財布の紐もすっかり固くなるようで、この場末の雀荘も行き交う札の額が何時もよりも少ない。
今日はこれで仕舞いか。
しげるはそう思いながら卓の上に投げられた千円札数枚をポケットにねじ込んだ。
出入り口を見ると寒さをしのごうとやってきた男達が、欠けた席はないかたむろしている。それを掻き分けるように雀荘から一歩外に踏み出すと、飲み屋と宿場が建ち並ぶ通り。アルコールと笑い声が充満している。
自分と同じその日暮らしの男達が、背を丸めて行き交うその中をしげるは「ねぐら」に帰えるべく、人を避けながら大通りに向かって歩きだした。水はけが悪く、沼の様にぬかるんでいる道は、地面に敷いたベニヤ板でやっと人並みに歩ける。それはしげるが進む度にベコベコと音を立てるのであった。
大通りを抜けてしばらく歩くと、高い生け垣に覆われるような巨大な洋館が建っている。
戦後、徐々に増えてきた外国人客をもてなすためのホテル。
ガラスの扉の両側に立つ男二人が、そろった動作で押し開けると、そこは風吹き荒ぶ外とは別世界の様な大理石が敷き詰められた広いロビー。見上げると二階まで吹き抜けの高い天井。二階は宝飾店やバーが並んでいる。
客はほとんど外人ばかりだ。
金だの茶の髪色の中では、しげるの白髪は目立たない。
「おかえりなさいませ」
フロントの初老の男はしげるを見て、真後ろの鍵棚からルームキーを取り出した。
小さなベルの音と共にエレベーターの扉が開く。
ロビーの固い床と違って、絨毯が敷かれている廊下。その一番奥のドア。
この部屋が、しげるの「ねぐら」だ。
鍵を開けて中に入る。
リビングを横切って、ベッドルーム。
馬鹿みたいにでかいベッドにダッフルコートを脱ぎ捨てて、脇のバスルームのドアを開けると、白い陶器で出来た浴槽。
金色の猫足がその丸みを帯びた体を支えている。
しげるは備え付けの真鍮の蛇口を捻った。
勢いよく湯があふれ出る。溜まるまで特にすることが無く、しげるはベッドルームに戻って学生服から下着全部脱ぎ捨ててベッドに放り投げると、自分もその上に寝転がった。
ドア越しに聴こえる水音を聞きながらしげるは目を閉じる。
素肌にシーツの感触が心地よい。
ホテル暮らしは快適だった。
フロントに電話を掛ければ何時でも食べ物を持ってきてくれたし、ふかふかのベッド、真鍮の蛇口を捻ればお湯が出る。ベッドルーム、トイレ、脱衣所、バスルーム。どの部屋に入っても寒くは無い。
冬は根無し草にとって辛い時期だ。
そんなある日、一週間ほど前に男に声を掛けられた。
眼鏡を掛けた痩せた男。しげるは覚えて無かったが、向こうは知っていた様で。
誘われるまま、しげるはその男に付いていった。
連れ込み宿に行くのかと思えば、高級ホテル。
立派なコートをしげるにプレゼントしたり、かなり裕福な様だった。
実際金には困らないようで、男は自慢げにしげるに語った。
細々と繊維工場を営んでいた男の両親は、軍にシーツ等を献上していた戦争成金だったとか。機を見て東京に本社を構える事になり、会社経営は姉の婿がしていて、自分は経理事務をしているのだとか。
しげるから見れば、空っぽな人間だった。
「いっけねぇ」
激しくなった水音にしげるは慌てて起き上がった。
バスルームのドアを開ける。
猫足のバスタブに並々溜まっていた湯が溢れて、隅の排水溝に流れていった。
風呂から上がり、しげるはバスローブを羽織ると部屋に備えられている小さな机の引き出しを開けて、メニュー表を取り出した。
濡れた髪のままベッドに横になると、ベッドヘッドに備え付けられたプッシュ式電話機の01番を押す。
しばらく待つと、ドアベルと同時にノック音。
ドアを開けると、ルームサービスの食事を乗せた台車を押したボーイが、柔やかな表情で立っていた。
「お待たせいたしました」
ボーイはリビングのテーブルに食事を準備すると、しげるに「他に御用はございますか」と尋ねた。しげるはベッドの上の、ぐしゃぐしゃになった学生服とシャツと下着を抱えて、ボーイに渡す。
「これ、洗っといて」
「承りました」
ボーイは服の山を抱え、一礼してドアを閉めようとした。
「あ・・・ちょっと、まって」
しげるが呼び止める。
そしてボーイが抱える自分のズボンのポケットを探り、突っ込んだままの数枚の札を引っ張り出す。
今日博打で稼いだ分だ。
そのままボーイに渡す。
「これ」
「・・・ありがとうございます」
ボーイは少年が払うには不相応な額のチップに怪訝な表情を浮かべたが、しげるは気がつかなかった。
ボーイがドアを閉めると、しげるはリビングのソファに腰掛けた。目の前のテーブルに乗った皿には、注文したフライドポテトが山盛りになっている。
しげるは一本手に取って、別添えの小皿のケチャップに浸した。
指に付いた塩を舐めていると、しげるを囲っている眼鏡の男がドアを開けた。
「おかえり」
ソファに座ったまましげるは声を掛けるが、男は応えない。
いつも青白い顔をしている男だが、なんだか一段と悪く見える。男の分厚い眼鏡の奥の目が、穴が開いているように真っ暗だった。
「・・・なんだかいつもと違うね」
しげるは言う。
ドアベルを二回鳴らして、しげるにドアを開けさせるのが男の趣味なのに。
男はソファに近づくと「出かけよう」としげるの腕を引っ張る。
「え?」
「早く、着替えて」
急かす男。
「・・・あのさ」
しげるは男に言う。
「オレ、全部洗濯出しちゃった」
粉雪が舞う、大通り。
行き交う人々が、ダッフルコートから素足を覗かせているしげるをちらちらと横目に見ている。
しげるは服も下着も着けず、素肌の上にダッフルコートを着て男の後ろに付いていく。
駅までの道のり。
男がぽつりぽつりと話す。
男の両親が隠居し、跡を継いだ姉夫婦から出て行けと言われたこと。
二度と敷居を跨ぐなと僅かばかりの手切れ金を渡されたこと。
どうやら経費の使い込みがバレたらしい。
それから列車を乗り継いで、丸一日かけて、どこぞと知らぬ雪国へ来たのであった。
逃避行なら南の方に行きたかったぜ。と、しげるは弁当を頬張りながら思う。
細かい、小さな粒が車窓に当たる。
それを見て雪国の雪は、風と一緒に舞うのだな、としげるは思う。
山の斜面に植わっている竹林が、雪を乗せて重たそうに腰を曲げていた。
午後九時三十分。
○ヶ崎駅着の終電が発車した。
夕方まで降っていた雪はすっかり止んで、分厚い夜雲の切れ間から白い月光が漏れている。
降りる客は無く、雪かきをしながら客待ちをしていたタクシーの運転手は、詰め所に帰るためエンジンを掛けた。
濡れた軍手を助手席に置き、一服しようと煙草に火を付けた時、こんこん。とドアを叩く音。
見ると眼鏡を掛けた男が身を屈めてこちらをのぞき込んでいる。
息が荒く、男の口の辺りで窓ガラスが曇っていた。
運転手は慌てて降りると、後部座席のドアを開ける。
よく見れば、客は男一人だけで無く小柄な人間がもう一人。
その姿に運転者は、おや?と思った。
ダッフルコートのフードを目深に被り、白いスニーカーで恐らく少年だと察したが、膝丈のコートから覗く足はズボンもスカートも履いて無い素足。男の方は革靴だ。きっと五分も持たずビチャビチャになる。
それに旅行客にしては荷物が少ない。男は鞄が一つ。それもサラリーマンが仕事に持って行くような薄いもの。少年に至っては手ぶらだった。
「さあさ、どうぞ」
運転手は不思議に思いながらも、ドアを開けて二人を促した。
先に乗り込んだ男は少年に向かって手を差し出す。その手に少年の細い指が乗せられたのを見て、なんだか運転手は奇妙な気分になった。
「どちらまで」
「善川」
間髪入れずに男が行き先を言う。
運転手は訝しげに「・・・善川は雪深い場所ですから、途中までになりますよ」と言った。
タクシーがひっくり返りそうなほどガタガタさせながら、禄に除雪もしていない道を押し進んでいく。
しげるは舌を噛まないように必死だった。
「お客さん、東京からですか」
運転手はハンドルを轍に取られまいと、強く握りながら、それでもよくしゃべる。
「東京じゃ雪が積もらないでしょう。これでも何時もより少ないくらいなんですよ」
その時ガタンと車体が跳ねた。
しげるが横目で隣の男を見る。暗くてよく分からないが常に悪い顔色がよりいっそう悪い気がした。
こいつ吐かないかな。
しげるはヒヤリとする。
運転手のおしゃべりは止まらない。
「5,6年前に飯山って所でも温泉が出ましてね。町長が一念発起してそこそこ立派な温泉街にしたんです。・・・善川も温泉の質はいいんですが、なにぶん交通の便が悪いもんで。それでも雪が溶ければ湯治のお客さんで賑わうんですけどねぇ」
随分長いこと坂道を登っていたタクシーが止まった。
道が行き止まり、その先に鬱蒼とした林が広がっている。右側に車がなんとかUターンするスペース。そして左側には、杉が両側に並ぶ小道がある。
勿論除雪などしていない。
「あそこに、電灯が見えるでしょう」
運転手が、男から受け取った料金を袋に納めながら小道の奥の先を指さす。
奥、少し上の方に丸いオレンジ色の光が見えた。
「ここを少し歩くと、階段があるので・・・そこを登ればすぐです。」
そんな運転手の声を背に、不思議な二人組は足をずぼずぼ雪に埋もらせながら、不格好に山道を進んで行くのであった。
蒼い夜だ。
空を見上げると、木々の枝の間から見える星。月明かりが眩しい。
地面を見ると雪の上に自分たちの影が見える。
同じく月明かりを受けた雪は、内側から青く発光している様だった。
雪は光るのか。としげるは思い、立ち止まる。
どうしたのかと振り返る男にしげるは「小便」と応えた。
男に背だけ向けてコートの前を開くと外気を一気に感じる。
ほとんど全裸の状態になると、このコートの保温性に感心した。
股間がすっかり縮んでしまって、尿を出すのにすこし時間がかかる。
下っ腹に力を入れてやっと押し出すと、放尿の快感にしげるは目を細める。
尿は湯気を立てながら周りの雪を溶かしていく。
おそらく自分の体温よりは暖かいのだろう。しげるは自分の先端から放出されるうす黄色の液体に手を当てたくなる衝動に駆られた。
本来ならば石造りの階段がある場所が、段差が雪に埋もれて急な坂になっている。
この先に今日の宿があるらしい。
坂の先、街灯のオレンジ色のランプがぼやけるのを見て、しげるは初めて自分が涙目になっているのを知った。
履いてるスニーカーはとっくにぐしょぐしょで、一刻も早く脱ぎ捨てたい気分。歩く度に膝まで雪に埋もれ、脚は自分でも驚くくらいまっ赤。
そりゃ涙もでる。
しげるは思った。
雪の坂を登り切ったその先に、板を貼り合わせただけのような掘っ立て小屋が建っていた。男が引き戸を開けて、パチンと壁のスイッチを入れる。
室内には湯気がもうもうと籠もっている。
しげるは入り口に立ってぼんやりと中を見て、その原因を見つけた。
土間の隅に浴槽が置かれているのだ。
仕切りも何も無いタイル張りのそれは、足を伸ばして入るにはいささか頼りない。
そこへ外から伸びたパイプから、どばどばと湯があふれ出している。
「ここは、他にも湯治場があるんだけど、電気を引いてあるのはここだけなんだ」
そう言って、いそいそと中に入っていく男。
しげるは聞く。
「前にも来たことあるの」
「・・・」
男は答えなかった。
男が押し入れから布団を出すのをしげるは湯船の中から観察していた。
かじかんだ脚の痺れがやっと取れ、しげるは湯から上がる。
突っかけを履いて土間を横切ると、ぽたぽたと滴が地面を濡らした。
「タオルある?」
しげるの問いに男は首を振った。
「そう」
しげるはつぶやくと男が敷いた布団に横になる。
少しカビ臭い敷き布団と掛け布団が、濡れたままのしげるの身体を挟み込んで、じっとりと重みを増していった。
朝、水道の蛇口は空回るばかりで一向に水が出てこない。
仕方なく男は、コートを着て外に出る。積もった雪を手ですくってアルミ鍋に入れると、小屋に戻り、鍋をストーブの上に乗せる。
すると外から何かを引きずるような音が聞こえた。
そして続く、「おーい」という人の声。
不思議に思い、男は再び外に出る。
夕べ登ってきた坂の下を見ると、大きなそりを引いた老人が「あんたぁ、そこに湯治にきてるんだろ」なれなれしく話しかけてきた。
聞けば老人は麓で雑貨屋を営んでおり、湯治に来る客がいればそりに日用品を詰め込んでこうやって売りに来るらしかった。
男は老人から握り飯と茶葉。そして下着二枚とタオル五枚、煙草二箱を買った。
「新聞はあるか」と聞くと老人は「一日遅れでもよいのなら明日持ってくる」と行ってまたそりを引いて帰って行った。
得体のしれない轟音に、しげるは目を覚ます。
まだ小屋が揺れているような余韻。雪が屋根から落ちた音なのだが、しげるは知らない。
濡れたまま入った布団はまだ湿っていて、気持ち悪さにしげるは抜け出した。
ストーブの熱で小屋は暖かかったが、裸では心許ない。
しげるは床に放り投げられていたコートを羽織って雨戸を開けてみると、窓近くまで積もった雪が室内にほろほろ入ってきた。窓から見える木々には雪がもったりと付いていて、重みでたわんだ枝が柔らかそうだ。
ふと、男の姿がないのに気づく。
男の寝ていた布団の枕元に鞄は置いてあるけども、土間の革靴が無い。
アイツ、どこに行ったんだろ。
ずいぶん追い詰められていたようだし、もしかしたらどっかの木にネクタイでも引っかけて・・・。としげるは木にぶら下がり風に揺れる男を想像する。
それにしても腹が減った。夕方近くに列車で食べた弁当が最後だ。
なにか食い物でも入ってないかと男の鞄のバックルを開けると、何枚かの書類に挟まれるように、封筒が入っていた。
開くと、中身は万札が三十枚ほど。
そういえば、手切れ金がどうとかいってたな。
しげるはそれをつまらなそうに戻し、他になにかないかと探ると鞄の底に新聞紙に包まれた塊を見つけた。
手に持つとずっしりと重い。
しかし、残念ながら食べ物の気配では無さそうだ。
がっかりしながらもしげるは新聞紙を広げる。
すると中身がごろんと落ちて、ストンとささくれ立った畳の上に突き刺さった。
出刃包丁だった。
新品らしく刃が紙のように薄く、冴えている。
しげるは少しだけそれを見つめて、持ち手を握って畳から引き抜く。
アイツ、オレと心中するつもりか。
あの男が、いったいどんな気分でこれを手に入れたのかと思うと、なんだか微笑ましい気分になる。
でもまぁ・・・これを準備するくらいなら、一人で死ぬことはない。ここに帰ってくるだろう。
そう思ううちにざくざくと雪を踏みつける足音。
がらりと戸口を開く眼鏡の男にしげるは言う。
「おかえり」
(了)