雨はまだ止まない コーヒーの香りがした。
目を開けると、首筋が痛む。どうやら寝違えてしまったらしい。
身じろぐと、音を立てて落下した書類の束。あぁ……、と無意味な声が一緒に落ちていく。どうにも憂鬱な心地が肌に触れていけない。背中に、じっとりとした汗の感触があった。
テーブルの上で、スマートフォンが震えて光っている。今日は土曜で、特に予定もなかったから、アラームはかけていなかったはずである。バイブレーションはひっきりなしだが、その間隔は単発だった。着信ではないらしい。なんとなく、察しがつく。
確認するため、身を起こすと、ソファで眠っていたせいで、肩も、背中も一枚の板のよう。思わず、しかめ面。
いつまでもやかましいスマートフォンを手に取り、顔認証に手こずる。そういえば昨日から眼帯をしていたことを思い出したのは、パスコードの手入力を求められたときだった。心なしか痛んでくる左目をやんわりと撫ぜ、苦笑い。
やかましい液晶には午前十一時と表示されていた。
「コーヒー……」
部屋中、豊かに香るそれを求めるように喉が鳴る。けれど、立ち上がる気にはまだならない。
6桁の数字を入力して、鳴り止まないメッセージアプリを開いてみれば、同じ人物から、すでに一〇〇を超えるメッセージが送られてきていた。冗談だろう? 何度見ても嘘ではないどころか、未だに次々通知が来ている。
観念するか。ため息はまるで鉛のようだった。
その人の名前をタップすると、ぴたりと通知が止む。とんでもない量の内容を遡る気にもなれなかったので、とりあえず一言送り返す。
「う・る・さ・い。っと」
シンプルでいい。緩慢にあくびをし、書類を拾い上げてテーブルに。内容は大体頭に入っているから、後で全部処分しよう。再び、スマートフォンが震えた。
——どこにいる?
実にシンプルな一言が通知欄に載っていた。素直に自宅と答えるのは少々癪な気がしたが、正直に返してやる。瞬きで返信。どうやらこちらにやってくるつもりらしい。それも、かなり近くまですでに来ているのだ、と。
仕方なし、通り道にあるはずのコンビニで朝食を調達してきてくれるようにねだる。了解の返信は簡潔で、実に小気味よかった。
あっちこっちに喧嘩して散らばるスリッパに足を入れ、ようやくといった心地で立ち上がる。大きく伸びるとパキパキゴキ、なんて嫌な音が鼓膜を揺すってくれた。
キッチンからは微かな物音がしていた。コーヒーもそこから香っている。のろのろと歩いていくと、大きな体を小さく折りたたんで、真剣に冷蔵庫とにらみ合う男が一人。何やらシュールで思わず笑ってしまうと、男の視線がこちらに向けられた。
「お目覚めか」
男の低い声は、存外に優しい。
「赤井さん、コーヒーもらっていい?」
「ああ」
「ありがと。これからうるさい人が来るけど大丈夫?」
「なんだ、さっきから鳴っていたのはそれか」
赤井にグラスを渡すと、心得たとばかりに氷を入れてくれた。言葉がいらないというのは、心地いいものだ。とはいえ、予告もなしに突然やってくるのは、やめてほしいとは思うのだけれど。そのあたりの話は昨夜散々したので、いまはもういい。およそ淹れたばかりと思われるコーヒーに、罪はないのだし。
たっぷり注ぎ終えたところで、玄関チャイムが鳴らされる。それも、五回。近所迷惑甚だしいことこの上なかった。
「俺が行こう」
冷蔵庫はいいのか。玄関に向かう赤井の背を見送って、一口。寝起きの冴えない頭に冷えた苦味が沁みていく。
「なんでお前がここにいるんだ」
静かな、しかし確かな怒りをはらんだ声がした。
「昨日から少しな」
それに対する言葉の、なんと味気のないことか。無意識にせよ、故意にせよ、火に油を注いでいる。玄関扉が殴られたような音がして、眉が寄った。ひしゃげたらどうしてくれる。あの馬鹿力ではありえないとは言い切れなかった。
二口、三口と進むコーヒーに合わせて、缶入りのクッキーが恋しくなった。このあいだ、いままさに玄関で怒っているほうの人が買ってきてくれたやつ。予約しないと入手困難なのだとか、なんとか言っていた。また買ってきてくれたらいいのに。言ってみよう。言うだけタダだ。
「二人とも近所迷惑だから、とりあえず中入れよ」
未だに玄関前でにらみ合う——片方が一方的に睨んでいるのだが——二人に向けて声をかける。数秒沈黙があって、彼らは並んでこちらに来た。
片方は、面白いくらいずぶ濡れだった。この部屋、雨音が聞こえないんだよな、とのんきに構えて赤井にタオルを頼んだ。
「何の用? どこかの誰かさん」
濡れ鼠に問いかける。返答はなく、代わりとばかりにぐっしょりとした袋が差し出された。頼んでおいた朝食らしい。受け取ると、甘い菓子パンが四つ。おそらく、二人で分けようと買ってきたのだということは瞬きで理解できた。でもここには三人いるから、さて、どうするか? 赤井に渡すことを、彼はおそらく是としない。
「これでいいか?」
「ああうん、どれでも——」
赤井が戻ってきた。同時に男は、ジャケットを脱ぎ、パンツを下げ、ネクタイを引く。遠慮なしにシャツも剥いでしまった彼は、ひったくるようにタオルを受け取り、ぐしゃぐしゃと髪を拭った。本当は、とっとと風呂場に押し込んでしまうべきだったと、気づくのが遅かったかもしれない。
長いため息が、タオルの向こう側から聞かれた。
「工藤君、なんでこの男がここにいるんだ」
目の下の濃いくまが疲労を物語る男が、ようやく発した言葉は欲しかったものではなかった。
「観光でこっちに来たから一晩泊めてくれって」
「下手くそな嘘を吐くないいかげんにしろ、いくら君でも張り倒すぞ」
苦笑で肩をすくめると、男の眉間のシワが一層深くなった。ああ、端正な顔が台無しだ。ここで満面の笑みを作られても薄気味悪いものだが、もう少し取り繕ってくれたって良さそうなものなのに。猫をかぶられないことは、居心地が悪いのに、どうにも別の情まで湧いていけない。
「あんたのほうこそ、朝っぱらからひっきりなしに通知鳴らして、人の迷惑考えてくれました?」
いつの間にか、赤井が冷蔵庫の前に戻っているのを横目にする。牛乳とエナジードリンク以外を入れていた覚えなどないのだが、何がそんなに興味深いのか。後で訊いてみよう。
沈黙は割合に重い。手にしたコーヒーの氷が、かすれあって甲高く鳴る。ポリ袋から一滴、また一滴と落ちる雨水がそろそろ気になってきた。
「……君に逢いたかっただけなんだ」
「嫌がらせかと思うでしょうが」
あるいはストーカー。言わずにおいたが、彼は心外だとでも言わんばかりの顔をした。
「怪我をしたと、聞いた。だから——、いや、非常識だったのは認める。……その目、ひどいのか?」
「……せっかく黙ってたのに。大丈夫ですよ。昨夜のうちにちゃんと医者に診てもらって、痕も残らないとのことなので。あんたが心配するようなことはなにもない」
「なくはないだろう……」
激高するかと思ったが、彼は以外にも穏やかだった。憔悴と言ったほうがいいか。やたらに小さく見える。
「ないよ。ないほうが、いいんですよ」
わかるでしょう? 冷たく聞こえる問いかけは、静寂のうちにのみ込まれる。
目線がかち合っていた。冷たく濁る瞳はいまにも泣き出してしまうのではないかと思わされた。実際、泣いてくれたほうがわかりやすい。けれど、この男は泣きはしない。まばたきの内側に押し込められた感情の名前に気づかないふりをして、紡がれる二の句を待つ。
「シャワー、貸してくれ」
「どうぞ」
落ちた衣類を拾い上げる背中は、やっぱり小さい。そのまま見送り、息を吐く。薄まったコーヒーを一息にあおってしまって、キッチンに声をかけた。
「冷蔵庫、そんなにおもしろいですか?」
「いや……、よっぽどボウヤと彼のほうが興味深い」
「そこに興味持たれてもなー……。別に何もないですよ。たまにああやってあの人がうちに来て、やりたい放題したかと思ったらいつの間にか帰ってるだけなんで」
これは、ごまかしではなかった。嘘でもなかった。だが、真実でもないかもしれなかった。
「ふむ、まあいいさ。次の機会に聞かせてもらおう」
果たして聞かせるような話があるとも、思えなかった。
「もう行くんですか?」
「ああ。そろそろ約束の時間だしな。それに、彼も俺がいないほうがいいだろう」
掛けておいたジャケットを手渡す。そういえば、ここにいる間、彼が煙草をのんでいる姿を見なかった。
「次来るときはちゃんと予告してくださいよ」
「善処しよう」
「……。宮野によろしく」
「ああ」
去っていく背中には、特段の感慨は含まれない。次もまた、突然チャイムを鳴らされるのだろうという予感だけがそこにはあった。別に構わないといえば構わないのだけれど、こちらの家は空けていることも多いから、気をつけてほしいものだ。
リビングに戻ると、ソファを占拠する不届き者が、遠慮なしにテーブルの上の書類に目を通していた。カラスの行水にしても早すぎやしないだろうか。髪の毛が濡れている。滴るほどではないものの、ドライヤーの場所を知らなかったわけでもあるまいし。
「ああもう、髪!」
「これ、この間の女子高生連続傷害事件の資料じゃないか。犯人逮捕されただろう」
少々大きな声を出してみたのに、綺麗に無視される。ああ、腹立たしい。
「んなことはいまどうでもいいんですよ。いいから髪、乾かせ」
「どうでもよくないよ。誰だい君にこんなもの横流ししたの。その左目の怪我はこれ絡みというわけじゃないだろうけど、いい加減君も事件に首突っ込むのやめたらどうなんだ」
「あんたにとやかく言われる筋合いないです」
「勘違いするなよ、別に僕の立場から物を言ってるわけじゃない。単純に心配してるだけだ」
よく言う。喉まで出かかったが言葉にはしなかった。奥歯で噛んで飲み込んだ。
脱衣所にドライヤーを取りに行き、戻ってきてそのまま遠慮なしに乾かしてやる。無駄に指通りのいい髪は、それだというのに枝毛が目立った。あまり頓着していないことは明らかだった。いつもそうだ。いつも、彼は自分のことに関心がない。まったく、だった頃よりはマシにはなったとはいえ、いまだに優先度で言えば下層も下層だろう。
「下手くそ」
「人にやらせといて文句言うな」
「君が勝手にやってるんだろう。僕が頼んだわけじゃない」
「あーはいはいそうですか、そうですね」
わざとらしく、引っ張ってやる。そうして彼が顔を上げたところに、容赦のない温風。
「ガキ」
何やら聞こえた気がするが、聞かなかったふりは得意だった。
十円ハゲでも見つけてやりたくて躍起になってはみたものの、あったのは古傷がいくつか。小さいものから、そこそこ命に関わりそうなものまで、なるほど人生の色合いが見える。
「その目……」
しっかり冷風も当てておき、スイッチを切ったところで、彼の唇が開かれた。
「痴情のもつれだって話題になってるけど、実際のところどうなんだ」
「なんですかそれ。違いますよ。いやある意味そうかもしれないですけど」
守秘義務に関わるので言えません。こちらの返答が気に入らないのか、男の手の中で書類の束が見事にひしゃげる。
「もう少し自分を大事にしろ」
「そっくりそのままお返しします」
「うるさい。俺と——」
「立場が違うって? 結局立場のことを持ち出すなら、もう話聞かねえからな」
立ち去ろうとすると、手首を掴まれる。睨めつける視線を気にも留めない様子に苛立ちはさらに逆撫でられた。
「他にどう言えばいい。どう言えば納得する」
「知るか、自分で考えろ」
振り払うことは簡単だった。洗面所にドライヤーを片付けて、コーヒーのおかわりを求めてキッチンへ。冷めてはいたが、どうせ氷を入れてしまうので構いはしない。自分の分だけ持って、ダイニングテーブルにつく。
レジ袋の中から適当にメロンパンを取り出して封を切ったところで、男が立ち上がるのが視界の端で確認された。斜向いに腰を下ろしたその人も、袋に手を伸ばす。
「ジャムコッペはオレの」
「——、はいはい」
男が取り出したのはクリームパンだった。いただきますなんて丁寧だなと眺めていると、二口で消える。
「コーヒーいらねえの?」
「君が淹れたんじゃないんだろう」
「……よくご存知で」
「じゃあいらない。あとで、君が淹れてくれ」
続いて出てきたのはたまご蒸しパンで、これもやはり二口でなくなった。よくもまあ喉に詰めないものだといっそ感心してしまう。ちびちび口に運んでいるメロンパンを、真似して押し込んでみる気にはなれず、コーヒーで唇を湿らせた。
「痛むのか?」
言葉とともに、甲高い音がした。またか、と音のほうへ目を向ける。
彼が人差し指でテーブルを叩くのは、言葉を迷っているときの癖だった。
「多少は。明日には痒くなってると思いますけど」
「薬は? その眼帯いつ取れるんだ?」
質問攻めにするのも、彼の逡巡。
「念の為の痛み止めと、抗生剤があったと思うけど……。眼帯は今日一日様子見て、明日以降取っていいって」
コツン、コツン——。無意識ではないはずだ。音に合わせて一つずつ、ピースをはめ込んでいく感じ。意図的に、形作られた、ある種の演出。ぴたりと止んで、数秒間を置き、息を吐くのも正しく積み上げられたルーティンだ。
「立場を持ち出さずに、君を心配して、君に過保護になっていい理由ってなんだろうね」
ぼろり、と。メロンパンの端っこが、テーブルに落ちていく。
「理由があったとして、オレが従うと思います?」
「聞く耳くらいは持ってくれるだろう」
「いまだって持ってますよ。じゃなきゃこうやって家に招かない」
「……それもそうか」
心にもない、薄っぺらい納得。コーヒーとは違った苦味を、喉の奥に感じた。
「降谷さん」
そういえば今日、はじめて彼の名前を呼んだ。
「なんだい、工藤君」
わざとらしく、彼もこちらの名前を音にした。
「またあのクッキー買ってきてください。缶のやつ」
けれど、かつて、協力者——嘘つきと嘘つき——だった彼らの関係に、現時点で名前はなかった。