真ちゃん、バスケ辞めんなよ風が吹くと、汗に濡れた髪が冷えた。部室の横にあるソメイヨシノは、こんなに白い桜だったろうか。
「わりー、お待たせ」
朝練が終わり、先に歩きだしていた俺の横に、部室の鍵を閉めた高尾が並ぶ。
「遅い」
「中々閉まらなかったんだよ。部室の鍵さぁ、またたてつけが悪くなってねえ?」
「古いからな。…こう、上に持ち上げる感じで閉めるのだよ」
「やってるけど閉まんなかったわ。大坪さん上手かったよなー。宮地さんもだけど」
「主将になると、鍵を閉める回数も多いから上手くなるんだろう」
「なるかな、俺も」
笑いながら話す高尾が、頭の後ろで腕を組む。
「毎回もたもた開けられても迷惑だ。嫌でもなるのだよ」
「その前に鍵をさ、新しくしてくれりゃーいいんだよ。ま、いいや。ところで真ちゃんのクラス、1時間目なに?」
「数Ⅲだ」
「うげえ。尊敬するわ」
「そっちはなんだ」
「確か…現代文だった気がする。あれ、もしかして今日ってガイダンスあるから7時間目無い?」
「7時間目がガイダンスなのだよ。寝ぼけてるのか」
「なんだ、一瞬喜んじゃったじゃん」
まじかーと喚いて、背中を丸めながら歩く姿に、不安がよぎる。
「お前、3年が練習に遅れることを1、2年に連絡してないんじゃないか?」
「え、やべえ、そうじゃん。あ!違う!してる!確か聞いた日にすぐ、木村に伝えた、はず」
「確認しておけ」
「してた!してた!してたことを、完璧に忘れてた!」
朝のホームルームの時間がぎりぎりなせいで、下駄箱には人が居ない。高尾のごまかすような笑い声は、よく響く。
3年生になると、教室は1階に降りてきた。
昇降口からおよそ1分。
中央階段を中心に、Y字路に分かれた居心地の悪い廊下を、左側へ曲がった中頃に高尾のクラスがあり、右へ曲がった廊下の行止りに俺のクラスがある。
「じゃーな真ちゃん! 俺がいなくて寂しがんなよ」
始業式の日から、別れる時には決まってこれを言う。
「いつまで言うのだよ…静かでちょうどいい」
「ああ?」
「受験生として過ごしやすい環境になったのだよ」
「いや、俺そこまでうるさくねえから」
呆れ顔で笑いながら、高尾は手を振って、左の廊下を歩いて行った。
新しい教室では、授業中に落書きを見せられることも、休み時間に読書が中断される事もない。今みたいに、教室に戻るまでの移動だって静かだ。
それが部活の時間になると、俺の横は途端に賑やかしくなるものだから、やはり高尾はうるさい。
*
7時間目の進路ガイダンスは、希望する大学レベル別の進学希望者、そして就職希望者にわかれて、各教室で1時間ほど行われる。
医学系大学のクラスに移動すると、去年バスケ部を辞めたセンターを見つけた。声をかけに行くほどの親しさではないので、そのまま一番後ろの席に座った。教壇には、まだチャイムもなっていないのに、白髪の男教師がガイダンスの準備をしている。深緑の黒板にひかれる、飛行機雲のような線。
かつかつという音にあわせて、動く背中を見ていると、彼の着ているえんじ色のベストが気になった。
俺が以前着ていたベストと、少し似ている。
そう気がついた瞬間に、眉間に皺がよった。高尾がもしもここにいたら…。目敏いあいつのことだ。にやにやと後ろを振り向いて「真ちゃんあれ同じの持ってね?」と騒ぐに決まっている。
そんな幻聴すら聞こえた気がするやり取りは、チャイムによってかき消された。
教師は、既に全員が着席していることを確認すると、いちばん後ろに座る俺を見据え、喜色を滲ませ喋りはじめる。
「今年の医学部志望者は、部活で活躍するみんなも多いね。今後、引退に差し掛かるわけだけど、引退することは大学受験への切り替えとして、大きな役割を果たします。辞める時期はそれぞれだと思うけど、区切りをつけて、次の目標に向かうという意味で、メリットが大きいです。将来を決める大事な1年になるので、部活に所属しているひとは顧問の先生や監督とよく話しあうように」
それじゃあ受験までのスケジュールだけど…、と俺から目をそらし、プリントを配り始めた。五月雨に続く有用な情報の一言一句に耳を傾け、周囲も、俺も、がりがりと、プリントにシャーペンをぶつける。
あっというまに新しい春を迎えたと思えば、またすぐ後ろに、次の春が迫っていた。
引退。大学受験への区切り。
無論、教師に言われたからと考えるものでもない。当たり前に、自分で考えている。
今の俺にとって、どうしたって優先されるのはバスケだ。トーナメントの頂点に立たせろと、腹の底に住む貪欲な化けものは、騒ぐことをやめない。体育館でうつむき、コートの中央で始まる胴上げを見て見ぬふりしながら、ベンチを去る経験は二度とごめんだ。
しかし、勝ちを手にした先にある、このバスケがたどり着くところ。
将来のことはしっかりと考えてきた筈なのに、手に持っていた地図の道は、ぐねぐねと曲がり、分岐し、数は増えている。
そういえば、高校に進学する際は、数多のスカウトから、自分の要望が通るのか、条件に合致しているかを加味し、吟味はしたが、特に悩んだ覚えはない。
その時と、今これからの進路選択で、やるべきことはなにも変わらない。大事なのは俺が何をしたいかだ。焦る必要はない。成績だって、模試の順位に満足ができるくらい、勉強と部活の両立はできている。選択の自由がある充分な実力は蓄えている。
わかってはいるのに、足は夢の中にいるような焦燥感をともなってまるで動かないのは何故だ。
父からの期待、親族からの期待、学校からの期待、チームメイトからの期待。
様々な願望を背中にぶつけられることには、とっくに慣れきっているのに。
なんの前触れもなく、いつも突然やってくるこの感情を、不安と呼ぶことを俺は知っている。
書く文字が、1行ごとにぼろぼろと擦り減っていく気がした。
*
チャイムが鳴っても、あれが大事だ、これも忘れてはいけないと話し続けた教師が、いい加減だれている教室の雰囲気を察知する。最後は、
「こんな事を言うと、去年の子が可哀想だけどね。今年のみんなは本当に優秀です。高いところを狙う実力をしっかり持っている。なにか悩みがあったらいつでも相談に来てください。それじゃあ、お疲れ様」
と、話を締め、号令もなく終わった。
少し早足になりながら、教室に戻り、荷物をとって、部室へ向かう。
6時間目で終わっている後輩は既に練習を始めているだろう。階段を降りる必要がないのは本当に楽で、あっという間に昇降口だ。きっとこんな僅かばかりの移動時間を無駄にしないために、3年生の教室は1階なのかもしれない。
ユニフォームと同じ色をした夕日が、俺の影を部室へ伸ばす。
部室では、終わるのが早かったらしい就職組が、既に着替え終わっていた。
「緑間お疲れ。お前どこのクラスいたの?」
「俺は2組だ。医療系大学の話を聞いた」
「へー、緑間そうなんだ。意外っちゃ意外だけど、納得っちゃ納得だわ。それならあいつ居たべ?去年辞めた川上」
「いたな。…そうか、田辺は仲が良かったか?」
「ポジション一緒だったしな。話した?」
「いや」
「えー!話してやってよ!でも、そうだよな。緑間だもんな…」
どういうことなのだよ、との疑問は、更に遅れて入ってきた数人の騒がしさに紛れた。田辺が入れ替わりで更衣室を出て、話はうやむやになる。騒ぎの中心にいた高尾が「お疲れー」と隣のロッカーを空けた。
「真ちゃんどこいた?俺ね、AOか推薦で行きたいから視聴覚室にいたよ」
高尾はさっき起きたばかりみたいな顔で、雑にシャツを脱ぎ始める。
「そうだったのか。俺は2組だ」
「あ、医療系?やっぱりなー。推薦来そうなところいっぱいあるのに。もったいね」
「もったいないからと行くものでも無いだろう」
「まあな」
推薦が来そう、というか実際にはもう、既に何校からか声はかかっている。
だらだらと着替えを進める高尾は、ため息まじりに続ける。
「オープンキャンパス行っとけば良かったよな」
「む?俺は行ったぞ」
「え!?うそ!聞いてない!」
「オープンキャンパスではないな。見学に行っただけだ」
「あの休みのない夏休みで!?どうやって?!」
「合宿の帰りだ。気になる大学が近かった」
「はー?マジかよ。確かに帰りいなかったな?!」
本気で驚いたらしい高尾は、やはりうるさい。
しかしうるさいその声に、どこか安心感を覚えるのだった。
2年生に進級したばかりの、去年のいまごろだったか。父の持って帰った論文が面白く、読みふけった。
夏が来て、配られた合宿のプリントを見た父が、
「前に見せた論文の教授がいるのは、ここから電車で1本だな」と教えてくれ行った大学だ。
半ば好奇心だけで見に行ったが、夏休みなだけあって構内は閑散としていた。
父の取り計らいで教授に挨拶をした後は、存分に構内をうろうろとした。その時に体育館も見学したはずなのに、そこだけがすっぽりと抜けたように思い出せない。大学に進学してバスケをする姿を想像しても、そこにいるのは、今まで訪れた体育館がつぎはぎのように混ざるコートで、ひらすらにシュートを打ち続ける自分ひとりだ。
「真ちゃんはさ、将来医者になんの?」
練習着のTシャツから、もごもごと頭を出した高尾がじっと見つめながら聞いてくる。瞳の奥に、窓から入った夕日が反射して、挑発の色がちらりと揺れた。
「……医大に行ったからといって、全員が医者になるわけではないのだよ」
「へー」
「お前の将来はどうするんだ」
そう聞くや否や、部室の扉が乱暴に明け放たれ、マネージャーが叫ぶ。
「失礼します!OBの方から伝言です!いまから5分以内に来なければ轢く。遅刻したら1分ごとに外周1周ぶんプラスとのことです!よろしくお願いします!」
マネージャーが出て行くと、途端に時間の流れが早くなった。急いでロッカーを閉め、外へ走り出す。
昼より少し冷えた風が頬を撫でた。
今日の名残を残した空に、桜の花びらがふわりと舞っていた。
*
3年生になって、分かったことがある。
毎朝登校して、階段の昇り降りが無いのは楽だ。しかし、教室から桜の木が幹しか見えないのは味気ない。
盛りをすぎて散った花びらは既に土へと還っているが、青々と茂る葉を見るのは好きだ。
そんな自然鑑賞がふさわしい、朗らかな昼休み。弁当を食べたあとの、暖かな陽気はまぶたを重くした。おしるこも飲み終わり、時間は余っているが本を読む気にもならない。何か甘い固形物を食べたい。しかし、眠気は椅子に根を生やし、売店に行くのさえ面倒くさい。かと言って、寝るにも中途半端な時間だ。
こういう時に、スマートフォンを使えばいいのだろうか。
進級祝いにと、二つ折りの携帯電話をスマートフォンに変えたのは半月前だ。
設定などはすべて店員がやってくれたが、慣れない操作は煩わしく、元々低かった携帯の使用頻度はさらに減った。
学校にいる間は、制服のポケットにもいれず鞄につっこむ事が多い。
クラスが離れたというのに、わざわざ一緒に昼食を食べに来ている目の前の男も、俺より先にスマートフォンへ変更していた。
すっかり慣れた手つきで指を横に滑らせ、せっせと文字を打っている。今日は弁当もそこそこにずっと液晶画面とにらめっこだ。
「高尾。行儀が悪いのだよ。食べながら携帯を触るな」
「んー?うんー」
高尾が何かに熱中することは珍しくはない。しかしその対象がスマートフォンというのは、初めてだ。
てっきり来週から始まるゴールデンウィーク合宿の話をしにきたのかと思っていたのだが、こいつは何をしにきたのだろう。
まあどうでもいいが、スマートフォンはいわゆるガラケーと違い、できる事が格段に多くなる端末だ。
そういえば以前、好きなカードゲームのアプリがあると喜んでいたな。
スマホ中毒、という言葉もよく聞く。
こいつは中毒者になってしまったのだろうか。バスケと勉強に支障が出る様なら止めるか。
とりあえず今はさっさと飯を食うのだよ。
「高尾」
窓からはいった日差しが、丸い黒髪の後頭部に陽だまりを作っていた。
「ちょっと、待ってー…よし!オッケー!わりーわりー!」
高尾の顔が勢いよくこちらを向いた。考えごとは、教室のゆるんだ空気と、先ほどから消えない眠気に溶けていく。
「あれ真ちゃん、もー食べ終わっちゃった?」
「とっくにな。何をしていたのだよ」
「えー?聞きたい?」
聞かれるのを待っていた顔だ、憎たらしい。
「聞いてやる」
「台湾でやるアジアキャンプの申し込み」
「アジアキャンプ?」
「そーそー。真ちゃんスマホは?鞄?」
聞くやいなや、高尾は歩き出し、後ろのロッカーへ向かう。
ロッカーの上に置いていた俺のスポーツバックを勝手に漁り、スマホを持って戻ってきた。
「漁るな」
「ごめんて!ほら、電源入れて!」
「バッグは勝手に漁って、スマホの電源は勝手に入れない線引きはなんなのだよ」
文句を言っても、高尾はまるで意に介さず、早く電源を入れろと急かしてくる。
しょうがない奴だ。言われるままに電源を入れると、メールやメッセージが数件来ていた。手の中で震えるバイブレーションと、画面に次々と表示されるお知らせに、いまだ慣れない。
「メール開いて」
開いてとお願いしたくせに、横から除きこむ高尾が、慣れた手つきですいすいとメールアプリを立ち上げてしまった。
通信中を意味するマークがくるくると2周回れば、高尾の見せたがったメールが開いた。
細かな文字の羅列をそっちのけにして、すぐにNBAという字を捉えた。一瞬で目が覚める。
「これ真ちゃんも行かね?このメーカーが主催で。ここのバッシュ好きでしょ」
アジアキャンプとは、NBAファイナルで優勝争いをした2チームの選手がレクチャーを行う、バスケクリニックのことだった。
主催はスポーツメーカー、
開催地は台北、
年齢制限あり、18歳以下。
日程はインターハイ本選が始まる1か月前、
パスポートは所持していることが条件、
参加資格は選考会を通過した2名のみ、
参加費は無料、
交通費・宿泊費は自費…
目を滑る文字の羅列は何度か往復すると文章だと分かって、さらにもう1往復して、やっと意味が、脳みそまで届いた。
「行こーぜ」
ぐっと、喉の真ん中で、言葉が詰まる。
インターハイの1ヶ月前だ。
高校最後の、インターハイ。
「練習を5日も抜けるのか」
「ちなみにマー坊はいいって言ってくれたぜ」
「…」
「行きたくねえの?すげー楽しそうじゃん。興味はあんでしょ」
「興味はな」
「らしくねえの。つか選考の場所、誠凛の近くじゃん。火神とかも参加するよー?多分」
眉を寄せた得意顔で、舐めるように俺を試し、こちらの言葉を待っている。
「黒子もいるかも」
「ええい!調子に乗るな」
「いっでででで!!」
最善手と言わんばかりに細められた目を、脳天を締めるついでに手のひらで隠す。俺の腕をばんばんと叩きながら、必死に謝るくらいなら、はじめから言わなければいいのだよ。
手を離してやると、高尾は目に薄い涙の膜をつくりながら、こめかみをさする。
「くそー…覚えてろよ緑間…。とりあえず選考だけでも受けろって。受かんなかったら、おしるこ買ってやるから!」
「ふん、受かるに決まっているだろう」
「うっわ、マジ好きそーゆーの」
「母さんに相談してからだな」
「ははっ!真ちゃん最高!当日はリアカー無しな。先に申し込んじゃおうぜー。真ちゃんの母ちゃんならいいって言うっしょ。ダメならキャンセルすればいいし」
手の中のスマホを渡し、申し込みを許可すると、高尾は液晶画面に顔を埋める勢いで真剣に見つめ、指を縦に横に、すごいスピードで動かしてる。
高尾の言う通り、恐らく選考会も、台湾行きも問題ない。およそ母さんに何かを反対された覚えはない。父さんも反対は、しない人ではあるが。
選考会は5月の終わり。
アジアキャンプは7月のはじめ。
夏休みに入ったら模試もある。
夏季講習も申し込まなければいけない。去年は短期のものだけを受け、父が心配していたが今年はどうしたものだろうか。
そしてインターハイ。
それが終わったら、その先は。
どんなに多忙だろうと、何も言い訳にはならない。いまできる限りの努力を全て行うだけだ。
しかし、時間が有限であることも同時にわかっている。
尽くす対象を選び取る期限は、当たり前のようにやってきている。
「ちなみにね。食べ物で釣ろう作戦もあったから」
「馬鹿め。釣られるはずがないのだよ」
スマホを俺に返した高尾は、弁当の入っていた袋から、いつものおしるこ缶と、和菓子の老舗店が印字された茶色い袋を机に出す。
「ちなみに大福は母ちゃんからね。どーせ俺食わねえし、やるよ。なんか貰い物らしいけど、イイ店のやつだって。でもうちみんな、あんこ好きじゃねえから貰って」
さっきまでは甘い物を食べたいと思っていたが、いざ目の前におしるこを出されると、迷うな。どちらかを今食べるか、飲むかして、どちらかは帰りにとっておきたい。
「…真ちゃんさ、おしること大福、どっちか片方しか一生食べてはいけませんーって言われたらどっち選ぶ?」
眩しそうにそう言う高尾の指は、愛おしげにおしるこの缶を触っていた。