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    真ちゃん、バスケ辞めんなよ風が吹くと、汗に濡れた髪が冷えた。部室の横にあるソメイヨシノは、こんなに白い桜だったろうか。
    「わりー、お待たせ」
     朝練が終わり、先に歩きだしていた俺の横に、部室の鍵を閉めた高尾が並ぶ。
    「遅い」
    「中々閉まらなかったんだよ。部室の鍵さぁ、またたてつけが悪くなってねえ?」
    「古いからな。…こう、上に持ち上げる感じで閉めるのだよ」
    「やってるけど閉まんなかったわ。大坪さん上手かったよなー。宮地さんもだけど」
    「主将になると、鍵を閉める回数も多いから上手くなるんだろう」
    「なるかな、俺も」
     笑いながら話す高尾が、頭の後ろで腕を組む。
    「毎回もたもた開けられても迷惑だ。嫌でもなるのだよ」
    「その前に鍵をさ、新しくしてくれりゃーいいんだよ。ま、いいや。ところで真ちゃんのクラス、1時間目なに?」
    「数Ⅲだ」
    「うげえ。尊敬するわ」
    「そっちはなんだ」
    「確か…現代文だった気がする。あれ、もしかして今日ってガイダンスあるから7時間目無い?」
    「7時間目がガイダンスなのだよ。寝ぼけてるのか」
    「なんだ、一瞬喜んじゃったじゃん」
     まじかーと喚いて、背中を丸めながら歩く姿に、不安がよぎる。
    「お前、3年が練習に遅れることを1、2年に連絡してないんじゃないか?」
    「え、やべえ、そうじゃん。あ!違う!してる!確か聞いた日にすぐ、木村に伝えた、はず」
    「確認しておけ」
    「してた!してた!してたことを、完璧に忘れてた!」
     朝のホームルームの時間がぎりぎりなせいで、下駄箱には人が居ない。高尾のごまかすような笑い声は、よく響く。

     3年生になると、教室は1階に降りてきた。
     昇降口からおよそ1分。
     中央階段を中心に、Y字路に分かれた居心地の悪い廊下を、左側へ曲がった中頃に高尾のクラスがあり、右へ曲がった廊下の行止りに俺のクラスがある。
    「じゃーな真ちゃん! 俺がいなくて寂しがんなよ」
     始業式の日から、別れる時には決まってこれを言う。
    「いつまで言うのだよ…静かでちょうどいい」
    「ああ?」
    「受験生として過ごしやすい環境になったのだよ」
    「いや、俺そこまでうるさくねえから」
     呆れ顔で笑いながら、高尾は手を振って、左の廊下を歩いて行った。
     新しい教室では、授業中に落書きを見せられることも、休み時間に読書が中断される事もない。今みたいに、教室に戻るまでの移動だって静かだ。
     それが部活の時間になると、俺の横は途端に賑やかしくなるものだから、やはり高尾はうるさい。



     7時間目の進路ガイダンスは、希望する大学レベル別の進学希望者、そして就職希望者にわかれて、各教室で1時間ほど行われる。

     医学系大学のクラスに移動すると、去年バスケ部を辞めたセンターを見つけた。声をかけに行くほどの親しさではないので、そのまま一番後ろの席に座った。教壇には、まだチャイムもなっていないのに、白髪の男教師がガイダンスの準備をしている。深緑の黒板にひかれる、飛行機雲のような線。
     かつかつという音にあわせて、動く背中を見ていると、彼の着ているえんじ色のベストが気になった。
     俺が以前着ていたベストと、少し似ている。
     そう気がついた瞬間に、眉間に皺がよった。高尾がもしもここにいたら…。目敏いあいつのことだ。にやにやと後ろを振り向いて「真ちゃんあれ同じの持ってね?」と騒ぐに決まっている。
     そんな幻聴すら聞こえた気がするやり取りは、チャイムによってかき消された。
     教師は、既に全員が着席していることを確認すると、いちばん後ろに座る俺を見据え、喜色を滲ませ喋りはじめる。
    「今年の医学部志望者は、部活で活躍するみんなも多いね。今後、引退に差し掛かるわけだけど、引退することは大学受験への切り替えとして、大きな役割を果たします。辞める時期はそれぞれだと思うけど、区切りをつけて、次の目標に向かうという意味で、メリットが大きいです。将来を決める大事な1年になるので、部活に所属しているひとは顧問の先生や監督とよく話しあうように」
     それじゃあ受験までのスケジュールだけど…、と俺から目をそらし、プリントを配り始めた。五月雨に続く有用な情報の一言一句に耳を傾け、周囲も、俺も、がりがりと、プリントにシャーペンをぶつける。
     あっというまに新しい春を迎えたと思えば、またすぐ後ろに、次の春が迫っていた。
     引退。大学受験への区切り。
     無論、教師に言われたからと考えるものでもない。当たり前に、自分で考えている。
     今の俺にとって、どうしたって優先されるのはバスケだ。トーナメントの頂点に立たせろと、腹の底に住む貪欲な化けものは、騒ぐことをやめない。体育館でうつむき、コートの中央で始まる胴上げを見て見ぬふりしながら、ベンチを去る経験は二度とごめんだ。
     しかし、勝ちを手にした先にある、このバスケがたどり着くところ。
     将来のことはしっかりと考えてきた筈なのに、手に持っていた地図の道は、ぐねぐねと曲がり、分岐し、数は増えている。
     そういえば、高校に進学する際は、数多のスカウトから、自分の要望が通るのか、条件に合致しているかを加味し、吟味はしたが、特に悩んだ覚えはない。
     その時と、今これからの進路選択で、やるべきことはなにも変わらない。大事なのは俺が何をしたいかだ。焦る必要はない。成績だって、模試の順位に満足ができるくらい、勉強と部活の両立はできている。選択の自由がある充分な実力は蓄えている。
     わかってはいるのに、足は夢の中にいるような焦燥感をともなってまるで動かないのは何故だ。
     父からの期待、親族からの期待、学校からの期待、チームメイトからの期待。
     様々な願望を背中にぶつけられることには、とっくに慣れきっているのに。

     なんの前触れもなく、いつも突然やってくるこの感情を、不安と呼ぶことを俺は知っている。
     書く文字が、1行ごとにぼろぼろと擦り減っていく気がした。



     チャイムが鳴っても、あれが大事だ、これも忘れてはいけないと話し続けた教師が、いい加減だれている教室の雰囲気を察知する。最後は、
    「こんな事を言うと、去年の子が可哀想だけどね。今年のみんなは本当に優秀です。高いところを狙う実力をしっかり持っている。なにか悩みがあったらいつでも相談に来てください。それじゃあ、お疲れ様」
    と、話を締め、号令もなく終わった。

     少し早足になりながら、教室に戻り、荷物をとって、部室へ向かう。
     6時間目で終わっている後輩は既に練習を始めているだろう。階段を降りる必要がないのは本当に楽で、あっという間に昇降口だ。きっとこんな僅かばかりの移動時間を無駄にしないために、3年生の教室は1階なのかもしれない。
     ユニフォームと同じ色をした夕日が、俺の影を部室へ伸ばす。

     部室では、終わるのが早かったらしい就職組が、既に着替え終わっていた。
    「緑間お疲れ。お前どこのクラスいたの?」
    「俺は2組だ。医療系大学の話を聞いた」
    「へー、緑間そうなんだ。意外っちゃ意外だけど、納得っちゃ納得だわ。それならあいつ居たべ?去年辞めた川上」
    「いたな。…そうか、田辺は仲が良かったか?」
    「ポジション一緒だったしな。話した?」
    「いや」
    「えー!話してやってよ!でも、そうだよな。緑間だもんな…」
     どういうことなのだよ、との疑問は、更に遅れて入ってきた数人の騒がしさに紛れた。田辺が入れ替わりで更衣室を出て、話はうやむやになる。騒ぎの中心にいた高尾が「お疲れー」と隣のロッカーを空けた。
    「真ちゃんどこいた?俺ね、AOか推薦で行きたいから視聴覚室にいたよ」
     高尾はさっき起きたばかりみたいな顔で、雑にシャツを脱ぎ始める。
    「そうだったのか。俺は2組だ」
    「あ、医療系?やっぱりなー。推薦来そうなところいっぱいあるのに。もったいね」
    「もったいないからと行くものでも無いだろう」
    「まあな」
     推薦が来そう、というか実際にはもう、既に何校からか声はかかっている。
     だらだらと着替えを進める高尾は、ため息まじりに続ける。
    「オープンキャンパス行っとけば良かったよな」
    「む?俺は行ったぞ」
    「え!?うそ!聞いてない!」
    「オープンキャンパスではないな。見学に行っただけだ」
    「あの休みのない夏休みで!?どうやって?!」
    「合宿の帰りだ。気になる大学が近かった」
    「はー?マジかよ。確かに帰りいなかったな?!」
     本気で驚いたらしい高尾は、やはりうるさい。
     しかしうるさいその声に、どこか安心感を覚えるのだった。

     2年生に進級したばかりの、去年のいまごろだったか。父の持って帰った論文が面白く、読みふけった。
     夏が来て、配られた合宿のプリントを見た父が、
    「前に見せた論文の教授がいるのは、ここから電車で1本だな」と教えてくれ行った大学だ。
     半ば好奇心だけで見に行ったが、夏休みなだけあって構内は閑散としていた。
     父の取り計らいで教授に挨拶をした後は、存分に構内をうろうろとした。その時に体育館も見学したはずなのに、そこだけがすっぽりと抜けたように思い出せない。大学に進学してバスケをする姿を想像しても、そこにいるのは、今まで訪れた体育館がつぎはぎのように混ざるコートで、ひらすらにシュートを打ち続ける自分ひとりだ。
    「真ちゃんはさ、将来医者になんの?」
     練習着のTシャツから、もごもごと頭を出した高尾がじっと見つめながら聞いてくる。瞳の奥に、窓から入った夕日が反射して、挑発の色がちらりと揺れた。
    「……医大に行ったからといって、全員が医者になるわけではないのだよ」
    「へー」
    「お前の将来はどうするんだ」
     そう聞くや否や、部室の扉が乱暴に明け放たれ、マネージャーが叫ぶ。
    「失礼します!OBの方から伝言です!いまから5分以内に来なければ轢く。遅刻したら1分ごとに外周1周ぶんプラスとのことです!よろしくお願いします!」
     マネージャーが出て行くと、途端に時間の流れが早くなった。急いでロッカーを閉め、外へ走り出す。
     昼より少し冷えた風が頬を撫でた。
     今日の名残を残した空に、桜の花びらがふわりと舞っていた。



     3年生になって、分かったことがある。
     毎朝登校して、階段の昇り降りが無いのは楽だ。しかし、教室から桜の木が幹しか見えないのは味気ない。
     盛りをすぎて散った花びらは既に土へと還っているが、青々と茂る葉を見るのは好きだ。
     そんな自然鑑賞がふさわしい、朗らかな昼休み。弁当を食べたあとの、暖かな陽気はまぶたを重くした。おしるこも飲み終わり、時間は余っているが本を読む気にもならない。何か甘い固形物を食べたい。しかし、眠気は椅子に根を生やし、売店に行くのさえ面倒くさい。かと言って、寝るにも中途半端な時間だ。
     こういう時に、スマートフォンを使えばいいのだろうか。
     進級祝いにと、二つ折りの携帯電話をスマートフォンに変えたのは半月前だ。
     設定などはすべて店員がやってくれたが、慣れない操作は煩わしく、元々低かった携帯の使用頻度はさらに減った。
     学校にいる間は、制服のポケットにもいれず鞄につっこむ事が多い。

     クラスが離れたというのに、わざわざ一緒に昼食を食べに来ている目の前の男も、俺より先にスマートフォンへ変更していた。
     すっかり慣れた手つきで指を横に滑らせ、せっせと文字を打っている。今日は弁当もそこそこにずっと液晶画面とにらめっこだ。
    「高尾。行儀が悪いのだよ。食べながら携帯を触るな」
    「んー?うんー」
     高尾が何かに熱中することは珍しくはない。しかしその対象がスマートフォンというのは、初めてだ。
     てっきり来週から始まるゴールデンウィーク合宿の話をしにきたのかと思っていたのだが、こいつは何をしにきたのだろう。
     まあどうでもいいが、スマートフォンはいわゆるガラケーと違い、できる事が格段に多くなる端末だ。
     そういえば以前、好きなカードゲームのアプリがあると喜んでいたな。
     スマホ中毒、という言葉もよく聞く。
     こいつは中毒者になってしまったのだろうか。バスケと勉強に支障が出る様なら止めるか。
     とりあえず今はさっさと飯を食うのだよ。
    「高尾」
     窓からはいった日差しが、丸い黒髪の後頭部に陽だまりを作っていた。
    「ちょっと、待ってー…よし!オッケー!わりーわりー!」
     高尾の顔が勢いよくこちらを向いた。考えごとは、教室のゆるんだ空気と、先ほどから消えない眠気に溶けていく。
    「あれ真ちゃん、もー食べ終わっちゃった?」
    「とっくにな。何をしていたのだよ」
    「えー?聞きたい?」
     聞かれるのを待っていた顔だ、憎たらしい。
    「聞いてやる」
    「台湾でやるアジアキャンプの申し込み」
    「アジアキャンプ?」
    「そーそー。真ちゃんスマホは?鞄?」
     聞くやいなや、高尾は歩き出し、後ろのロッカーへ向かう。
     ロッカーの上に置いていた俺のスポーツバックを勝手に漁り、スマホを持って戻ってきた。
    「漁るな」
    「ごめんて!ほら、電源入れて!」
    「バッグは勝手に漁って、スマホの電源は勝手に入れない線引きはなんなのだよ」
     文句を言っても、高尾はまるで意に介さず、早く電源を入れろと急かしてくる。
     しょうがない奴だ。言われるままに電源を入れると、メールやメッセージが数件来ていた。手の中で震えるバイブレーションと、画面に次々と表示されるお知らせに、いまだ慣れない。
    「メール開いて」
     開いてとお願いしたくせに、横から除きこむ高尾が、慣れた手つきですいすいとメールアプリを立ち上げてしまった。
     通信中を意味するマークがくるくると2周回れば、高尾の見せたがったメールが開いた。
     細かな文字の羅列をそっちのけにして、すぐにNBAという字を捉えた。一瞬で目が覚める。
    「これ真ちゃんも行かね?このメーカーが主催で。ここのバッシュ好きでしょ」
     アジアキャンプとは、NBAファイナルで優勝争いをした2チームの選手がレクチャーを行う、バスケクリニックのことだった。

     主催はスポーツメーカー、
     開催地は台北、
     年齢制限あり、18歳以下。
     日程はインターハイ本選が始まる1か月前、
     パスポートは所持していることが条件、
     参加資格は選考会を通過した2名のみ、
     参加費は無料、
     交通費・宿泊費は自費…

     目を滑る文字の羅列は何度か往復すると文章だと分かって、さらにもう1往復して、やっと意味が、脳みそまで届いた。
    「行こーぜ」
     ぐっと、喉の真ん中で、言葉が詰まる。
     インターハイの1ヶ月前だ。
     高校最後の、インターハイ。
    「練習を5日も抜けるのか」
    「ちなみにマー坊はいいって言ってくれたぜ」
    「…」
    「行きたくねえの?すげー楽しそうじゃん。興味はあんでしょ」
    「興味はな」
    「らしくねえの。つか選考の場所、誠凛の近くじゃん。火神とかも参加するよー?多分」
     眉を寄せた得意顔で、舐めるように俺を試し、こちらの言葉を待っている。
    「黒子もいるかも」
    「ええい!調子に乗るな」
    「いっでででで!!」
     最善手と言わんばかりに細められた目を、脳天を締めるついでに手のひらで隠す。俺の腕をばんばんと叩きながら、必死に謝るくらいなら、はじめから言わなければいいのだよ。
     手を離してやると、高尾は目に薄い涙の膜をつくりながら、こめかみをさする。
    「くそー…覚えてろよ緑間…。とりあえず選考だけでも受けろって。受かんなかったら、おしるこ買ってやるから!」
    「ふん、受かるに決まっているだろう」
    「うっわ、マジ好きそーゆーの」
    「母さんに相談してからだな」
    「ははっ!真ちゃん最高!当日はリアカー無しな。先に申し込んじゃおうぜー。真ちゃんの母ちゃんならいいって言うっしょ。ダメならキャンセルすればいいし」
     手の中のスマホを渡し、申し込みを許可すると、高尾は液晶画面に顔を埋める勢いで真剣に見つめ、指を縦に横に、すごいスピードで動かしてる。
     高尾の言う通り、恐らく選考会も、台湾行きも問題ない。およそ母さんに何かを反対された覚えはない。父さんも反対は、しない人ではあるが。

     選考会は5月の終わり。
     アジアキャンプは7月のはじめ。
     夏休みに入ったら模試もある。
     夏季講習も申し込まなければいけない。去年は短期のものだけを受け、父が心配していたが今年はどうしたものだろうか。
     そしてインターハイ。
     それが終わったら、その先は。
     どんなに多忙だろうと、何も言い訳にはならない。いまできる限りの努力を全て行うだけだ。
     しかし、時間が有限であることも同時にわかっている。
     尽くす対象を選び取る期限は、当たり前のようにやってきている。
    「ちなみにね。食べ物で釣ろう作戦もあったから」
    「馬鹿め。釣られるはずがないのだよ」
     スマホを俺に返した高尾は、弁当の入っていた袋から、いつものおしるこ缶と、和菓子の老舗店が印字された茶色い袋を机に出す。
    「ちなみに大福は母ちゃんからね。どーせ俺食わねえし、やるよ。なんか貰い物らしいけど、イイ店のやつだって。でもうちみんな、あんこ好きじゃねえから貰って」
     さっきまでは甘い物を食べたいと思っていたが、いざ目の前におしるこを出されると、迷うな。どちらかを今食べるか、飲むかして、どちらかは帰りにとっておきたい。
    「…真ちゃんさ、おしること大福、どっちか片方しか一生食べてはいけませんーって言われたらどっち選ぶ?」
     眩しそうにそう言う高尾の指は、愛おしげにおしるこの缶を触っていた。
    高度1万メートルから下降して、機体は雲に沈んだ。
     白いもやを抜けて、飛行機はまもなく台湾に到着する。
     

     さっき中を通り過ぎた分厚い雲は、大きな雨粒に姿を変え、飛行機からターミナルビルに繋がる通路を叩いた。
    「めっちゃ雨降ってる! 緑間っち! ゲリラ豪雨を英語で言うやつなんて言うんだっけ?!」
    「…スコールのことか」
    「それ! この雨、今でよかったっスよね。着陸の時にふってたら遅れたんじゃないスか?てか、雷と飛行機がぶつかったりしたら怖くない?」
     選考会を通過したのは、俺と黄瀬だった。
     誠凛は選考会の日に、桐皇との練習試合がぶつかったらしい。日取りが悪かった。赤司と紫原は、応募しなかったらしい。
     細長い通路を抜けて、大きな窓がある廊下に出た。
     黄瀬を無視する俺の代わりに、「黄瀬君テンション高いね。若さが違うなー」と笑うのは、アジアキャンプのスタッフをしながら、取材も行うという、バスケ雑誌の記者だ。
     中学で初めて会ったときに、
    「明石です。あかいし。赤司くんと一文字違いだね」と人の良さそうな笑顔で自己紹介をするものだから、普段は人の話を聞かない青峰も、一発で名前を覚えていた。
     何度も取材を受けているので、見知らぬ人よりは馴染みやすいのだが、出会ったときに比べてどんどん丸くなっているのが心配だ。
     昔は真田監督をふっくらさせたような風貌をしていたのに、その体型はいつのまにか、海常の監督のようになっていた。
    「そういえば緑間くん、今日はラッキーアイテム無いんだね?」
     しかし、俺のラッキーアイテム事情も全て把握しているのでやはり気楽だ。
    「いえ、今日のラッキーアイテムはスーツケースなので」
     これです、と手元でひいていた、機内に持ち込めるサイズのスーツケースを見る。
    「緑間っちさあ、これの他にボストンバッグもあるとか、普通に荷物多いっスよね」
    「お前だって、何泊するつもりかわからないスーツケースを持っていただろう」
    「しょうがないんすよ!俺のやつは鍵が壊れてて、父さんに借りるしかなかったの!」
     明石さんは、緑間君のラッキーアイテムがぴったりでよかったと笑った。

     俺と、黄瀬と、明石さんと3人で、入国審査を抜けて、ベルトコンベアの前で荷物を待つ。
     待っている間に、本日のスケジュールはホテルに直行であることや、明日の開始時間などを聞いていると、3人揃って自分の荷物を受け取り損ねた。
    「ごめんごめん。話に夢中になっちゃったね。もう1周回るの待とう」
    「明石さんは何座ですか?」
    「えっ俺?双子座だよ」
    「まじッスか!俺もふたご座なんですよー!え、誕生日いつなんですか?」
     黄瀬と明石さんは、誕生日談義に花を咲かす。
     確か、今日の双子座は6位、ラッキーアイテムは風景写真だったな。
     俺としたことが、ぬかったのだよ。飛行機が着陸できて、本当によかった。



     ようやく荷物をつかまえ、ロビーに出ると、奇特な色をした牛の像や、日本では見られないオブジェが目に入る。
     両替を終えると、明石さんは他に済ませたい用事があるとのことで、台北市内へ向かうシャトルバスの時間まで自由行動となった。
     俺は風景写真を手に入れるべく、両替したばかりの台湾元を持って土産屋に向かう。
     漢字の羅列するお菓子や、見た事のないキャラクターのストラップが並ぶ中で、棚一覧のポスカードが目についた。
     台北、高雄、旗津島、九份、台南、太魯閣峡谷…
     台湾の街並みや風景が綺麗に切り取られた写真だ。
     横から手が伸びてきたかと思えば、ついてきていた黄瀬は、夜景の中にランドマークタワーがそびえたつ写真を手に取った。
    「俺みんなにお土産買わなきゃ。帰りでいいんスけど」
     お土産。そうだ、土産を頼まれていた。
     意識が一瞬、1か月前の日本へと巻き戻る。

    ――バスケットボールアジアキャンプ、日本選考会の結果発表は、メールとSNSで行われた。
     携帯を鞄に入れっぱなしにしていた俺は、高尾から結果を教えられた。
     あいつは体育着を持ちながら教室に来ていたから、確か水曜日で、3時間目の休み時間。
     当たり前に教室へ入ってきて、自分の席であるかのように、俺の前の席に座っていた。携帯を取り出して言う。
    「見た?」
    「見てない」
    「だと思った。それでは俺から発表しまーす。緑間真太郎サン……見事通過!」
    「そうか」
    「おいおい、もっと喜ぼーぜ。高尾!めっちゃわくわくするのだよ!みたいな」
     ありもしない眼鏡を、くいっとあげる動作が鬱陶しい。
    「うるさい。真似をするな。お前はどうだった」
    「落ちたよ」
    「そうか」
    「そーだよ!つーか自分で結果確認しろよな」
    「勝手に教えに来たんだろうが」
    「いや、だって真ちゃん部活始まる前までさ、スマホ見ないじゃん」
    「部活が始まる前に見るだろう」
    「まあ…そうだけど」
     落ちた高尾はあっけらかんとしていて、腑に落ちない。
    「あまり悔しがってないな」
     悔しいことも、苦しいことも、泣くことも、全て茶化しながら隠すところは、散々見てきたが、今日は本当に悔しがっていないように見える。
    「いや、二次選考で俺いいとこなしだったじゃん」
     一次選考は主にフットワークや、ジャンプ到達点、ベンチプレスなど体力レベルの評価が行われ、
    二次選考はランダムに選出されたチームでの5on5により、総合力を見られた。
    「悪くはなかったのだよ。良くもなかったが」
    「ありがとな。うるせーよ」
    「課題が見えたな」
    「まあ、意義はあったし、俺の人事はいろいろあるのだよ」
    「どういうことだ?」
    「サインよろしく!つか、サイン以外も、いっぱい持って帰ってきて」
     にやりと笑い、土産を所望すると、チャイムが鳴る前に教室を出ていった。

    ―――そういえば、サインは何に貰えばいいのだろうか。
    「緑間っち買うの?」
     こういうの買ってどうするんスか?いらなくない?と続けながら、黄瀬は持っていたポストカードを元の場所に戻した。
    「サイン色紙…?」
    「は?」



     夏の台湾は、朝から暑い。
     明石さんのすすめで、ホテル裏の屋台街で朝食を取ってから、体育館に向かうことにした。台湾では、朝から外食する人も多いらしい。
     どれも舌に馴染んで美味しかったが、八寶粥が気に入った。小豆などの入ったほのかな甘さが、ぜんざいのようだった。もう少し甘くてもいいのだが。

     食べ終わったその足で、そのままバスに乗り、キャンプの行われる複合施設へ向かう。
     施設は降りたバス停の目の前だったが、建物が大きい。門から体育館までの道のりが長いとのことだ。
     体育館までの道脇に並ぶ木々は、熱帯に燃える鮮やかな緋色を咲かせている。花びらがひとひら、命の残り火のように、目の前を落ちていく。昨日の雨の影響か、花被は血液のごとく地面に広がり、おぞましさすら覚えた。
     ウォーキングコースになっているらしいその道の上を、おじさんやおばさんたちは、なんの気負いもなく歩く。
     俺達も時折ぐしゃりと踏みながら、時折避けながら、つわもの達の集まる体育館に着いた。

     中は、東京体育館より大きく、天井も少しだけ高い。
     案内されるままに、俺と黄瀬は更衣室に向かった。

     二次選考から、バッシュも、トレーニングウェアも支給されていた。
     必ずそれを着用して、バスケをするのがこのキャンプの決まりだ。
     高尾は好きな選手と、同じタンクトップを着れることを喜んでいたが、今はクーラーが効きすぎて肌寒い。
     ジャージを、ホテルに置き忘れたことを悔やんでいると、横では黄瀬が悠々と、長袖に手を通している。
    「準備がいいな…」
    「基本っスよ。俺寒いの嫌いっスもん。緑間っち持ってきてないの?」
    「ホテルに置いてきた」
    「鞄、パンパンに入ってるじゃないっスか?」
    「これは今日のラッキーアイテム、枕が入っているのだよ」
    「うわー…さすがっスねー…」
    「台湾でのラッキーアイテムを、どう入手すべきかと策は講じていたがな、見つけやすいものでよかったのだよ」
    「へー…てかどうやって今日のラッキーアイテム知ったんスか?」
    「Twitterで見た」
    「え!緑間っちTwitterやってんの!?てかそれ料金ヤバくなってるっスよ!絶対」
    「馬鹿め。明石さんが登録しているwifiを借りたに決まっているだろう」
    「いつのまに!?俺も借りたい!なんで教えてくんないんスかあ!ねえ。緑間っちいつからTwitterやってんの!?」
    「ラッキーアイテム対策とか言って、高尾がダウンロードしたのだよ」
     公式サイトを見ればいいと思っていたが、情報が更新されるとお知らせが出るので、これは使い勝手がいい。
    「え、高尾君が教えてくれてるんスか?ラッキーアイテムを?」
    「おは朝占いの結果を書いてくれる人がいるのだよ。公式サイトよりも更新が早いからその人を見ている」
    「公式じゃないんスか?」
    「高尾が言うには、どうやらファンがやっているらしい。人事を尽くしているな」
    「うわー…すげー……緑間っち後でアカウント教えてよ…」
    「教え方などわからん」
    「俺わかるから大丈夫っス」
     今さらこいつが、ラッキーアイテムや順位を気にするとも思えないが。この素晴らしいおは朝アカウントなら、教えてやらんこともない。ただこいつに携帯を触らせると、ろくでもない事をしそうだな。
      黄瀬のアプリ講義を聞き流しながら、更衣室を出て、体育館に行くと、まもなくオリエンテーションが始まるところだった。

     オリエンテーションは、英語と中国語と、たまに日本語と。
     スタッフやコーチは、それぞれの母国語で挨拶や自己紹介を行い、スケジュールの説明を始める。
     行程は全部で4日間。今日は非公開だが、明日以降の午後は全て試合形式となるので、見学者やメディアも入っての公開練習だ。
     NBA選手の指導も明日から、と言われると、がっかりしたような、安堵したような空気が蔓延した。
     話が終わってすぐに、体力トレーニングから開始されるらしく「ストレッチをするから、円を作って」といった号令が飛ぶ。
     50人くらいの男たちはどたどたと駆け足で移動して、地面を蹴るたびにその振動が伝わる。お互いを探り合うような、緊張感のある大きな円ができた。

     アジアキャンプが始まる。



    「緑間君、黄瀬君。お昼食べながら、話聞いていいかな?」
     午前の練習か終わると、明石さんが俺と黄瀬のもとに来た。
     昼食はバイキング形式で、牛肉麺、バナナ、おにぎり、八寶粥、サラダや鶏肉やヨーグルトをトレーの上にぎゅうぎゅうと載せ終わったところだった。
     麺をすすりながら受け応えをするのは難しい。中華丼にすればよかった。
     しかし断る理由にはならないので、既に明石さんがとっておいてくれた食堂の丸テーブルに、3人で座った。
     ピっと、ボイスレコーダーを起動させてから、明石さんが喋りだす。
    「では、改めて2人ともお疲れ様です。どうでしたか午前中は?」
    「あの途中から来たコーチって、コービー育てた人なんスよね?テンションあがりました!ただ、ずっと英語だから… あんまり何言ってるかわかんなかったです」
     黄瀬は食べすすめながら、器用に答えていく。明石さんはインタビューだと敬語が混ざるなと思いながら、食べる順番を考える。食べやすいものから…おにぎり…いやバナナか。黄瀬が答えているうちに、少し急いでバナナをむく。
    「そうだよ。沢山のスタープレイヤーを育ててるコーチだからね。それだけでも来た甲斐があったんじゃない?」
    「本当にそうッスね。でも俺はやっぱ英語が…ずっと緑間っちの真似してよーと思ったのに、途中から別のグループになりましたし」
    「ははは。黄瀬君はそこかぁ。緑間君はわかりました?コーチの言ってること」
    「はい...7割か、8割くらいは」
     ちょうどよくバナナを飲み込んだタイミングで答えると、横から驚いた声があがった。
    「嘘でしょ?俺ライトとレフトって言ってるのを、途中から分かったくらいっスわ」
    「ありえないのだよ」
    「あと名前とかじゃなくて、番号で呼ばれるじゃないッスか。あれ本当にわかんなかった」
    「ああ…それは確かに分かりにくかったな」
     50人いる参加者を名前で呼ぶはずもなく、何か注意点や指示があると、付けてるゼッケンの番号で呼ばれる。よりによって俺は30番をつけていたせいで、13番が呼ばれた時は返事をしてしまった。
    「あのコーチは少し訛りが強いからね。聞き取れる緑間君がすごいよ。それはアメリカ行きを目指して、勉強してたりするから?」
    「いえ、普通に勉強していたので」
    「そうなんだね、流石だなぁ…ちなみに2人とも日本以外でのプレイに興味は?」
    「…俺は、まだ、なんとも」
    「俺は結構ありますね。というか行く気マンマンだったんですけど、今日はこのままじゃ英語やばいなって思いました。はは」
    「英語で苦労するとつらいからね。黄瀬君は高校を出たらすぐに行きたい感じ?」
     お前、笑っている場合じゃないだろう。また黄瀬が長く喋りそうなので、バナナを片付け、おにぎりに手を伸ばす。おにぎりは日本と違い棒状で、太巻きのような感じだ。珍しくて手に取ったが、中身も日本と違うのだろうか。
    「んー…正直迷ってます。俺、勉強があんまり好きじゃないんで大学もそんなに行きたくないんスけど、アメリカに行ったほうが勉強が必要だぞって言われてたのを、さっき早速実感しましたね」
    「いい経験だね。それは武内監督から言われてたの?」
    「監督もっスけど、卒業した先輩とかにも言われてます」
    「周囲から愛されてるのを感じますね。でも今まで国際試合もあったでしょ?」
    「そういう時は大抵英語できる人がいたじゃないですか。教えてくれますもん」
    「ああ、赤司君とか頼りになりそうだね。もちろん、緑間君もだけど。それにしても、緑間君は意外だな。高尾君はアメリカに興味ありそうだったから」
     噛んでいた米を、中身に具が数種類入っていた驚きと、突然高尾の名前が出てきた驚きを一緒にして、飲み込む。
    「高尾がですか?」
    「そうそう。二次選抜のときに少し会って。話したんだけどね」
    「アメリカに行きたいと?」
    「あっちの大学リーグ、NCAAってどんな感じですか?って聞いてきたんだよ。色々説明したら楽しそうだったから、興味があるのかなって」
    「そうなんですね」
    「この選考も高尾君の勧めで応募したんだよね?」
    「まあ…そうですね。あいつはすぐに余計な事を言いますね」
    「あはは、なんか色々聞いちゃった。ちなみに緑間君、バスケは続ける?」
    「そうですね。バスケは続けます」
     木村さんは八百屋のある商店街で、3on3のバスケチームを作っている。宮地さんも大学の垣根を越えたチームで活動したり、バスケの続け方は様々だろう。
    「そう!話それちゃったけど、午後のチームは2人ともバラバラだね」
    「願ったり叶ったりです」
    「ひどいなーもー。まあでも、ここまで来て緑間っちといても意味ないし、願ったり叶ったりっスね」
    「はは、中国の5番とか、台湾系アメリカ人の38番、あとオーストラリアの22番とかはね、来年からNCAAに行くの決まってるよ。未来のNBAプレイヤー候補から色々と盗んでおいで。そしたら、黄瀬君、緑間君、色々教えてくれてありがとうございました。また夜にもお話を聞かせてください。俺行くからゆっくり食べてね。ありがとう!」
    「はーい、ありがとうございました!」
    「ありがとうございました」
     そのまま明石さんは時計をちらりと見ると、小走りで食堂を出て行った。
     午後からは1本15分の試合を3回行う。
     ポジションもチームも、既にコーチが決めて、割り振られている。意図的にポジションをシャッフルするようだ。
     俺はCチーム、ポイントガードで出るらしい。

     ポイントガードか。
     頭の中で、高尾を皮切りに、今まで目にしたポイントガードたちのプレイを再生させながら、残りのごはんをゆっくり食べた。
     朝も食べた、小豆入りの八寶粥は美味しかったがおしるこが飲みたい。麺はすっかり冷めてしまった。



     午後が始まってから、すぐに試合の出番を終えると、あとは他のチームを見る時間のほうが長かった。
     次の試合までは時間があるので、テーピングを巻きなおしながら観戦する。
     アジアの精鋭たちは、でかいし、飛ぶし、よく走る。ただ、所々雑だ。なんであんなドリブルで、そんなにダンクが入るのだよ。
     台湾系アメリカ人の38番は、去年の国際交流戦で、MVPを獲得したポイントガードだった。今はポジションがシャッフルされているから、シューティングガードとして出ているが。
     目の前の試合から得るものは多いと分かっているが、いくらコートを見つめていても、さっきの自分が視界の端にちらちらと映る。

     なんだ、さっきの試合の、俺のボール運びは。
     練習のようなスピードでドリブルが出来ていないことは、自分が一番よくわかった。慣れないチームメイトへ出すパスも、とことん噛みあわず、手一つ分の距離を間違えていた。
     もっと早く走れという苛立ちと、チームに不穏なリズムをもたらす自分への焦りは、身体を置き去りにして、迷いはプレイに現われる。しかも、パスをうまく出したとして、リターンを期待してもボールは返って来ないのだ。
     試合が終わってから、パスのリターンをしなかったチームメイトに、「あそこは俺に返す場面だろう」と、伝えるも、お互いの母国語と、おぼつかない英語との入り混じるコミュニケーションでは、意思の疎通がうまくとれない。
     ただ「パスを戻せ」と主張する俺に、「返さない」と突きつけられていることは、しっかりと伝わった。

     ここにいる全員が、同じトレーニングウェアに身を包み、同じバッシュを履いているのに、誰も同じ方向に走っていない。勝つことは目的だが、そこに横たわるのは昔の俺達のような、個人主義。思うまま存分にプレイができない経験は、ひどく久しぶりだ。
     シュートもまるで撃てず、自分から切り込もうにも、ウエイトとドリブルスキルが足りないことは嫌というほど自覚した。
     指先が冷たい。
     巻き終わったテーピングはいつもよりきつかった。そのまま解いて、粘着力が残っている白い布きれをぐしゃぐしゃに丸める。

     世界を相手にすることは、Jabberwockとの対戦、U18選抜、国際交流戦、今までに何度も、何度もあった。しかし、そこで俺にパスを出すのは大抵赤司か、高尾からのものだ。
     待ち構えた先に届くどんぴしゃのボール、シュートモーションの手に綺麗な流線を描き収まるパス。当たり前でないことは知っていたが、理解できていなかった。恐らくいま、はじめて実感した。
     長い笛の音が、試合終了を告げる。
     まったく見ていなかったが、いつの間にか試合に出ていた黄瀬が、苛立ちを隠しながらチームメイトとおざなりにハイタッチをしてコートから出て行く。
     ハイタッチとパスは似ている。
     手の平がしびれるような、鋭い心地を求めて、手にじわりと汗が滲んだ。

     コートから誰もいなくなっても、次の試合の指示は飛ばず、苛立つ気持ちは膨らんでいく。
     そこから待つこと数分、スタッフも、コーチも、大人たち全員が動きを止めて拍手をし出した。目線の先を見ると、入口からは昨年のNBAファイナルを見ていれば、誰もが知っている、テレビの中のスターが入ってきていた。
     男達の低い歓声がわっと上がり、高い天井にぶつかって響く。
     驚きと喜びが混ざり、混乱する高校生達を見て、彼はにこにこと笑いながら、褐色の肌にタトゥーが彩られた手を振った。
     笑顔を向けられたこちら側は、おそらく同じことを、それぞれ自国の言葉で言っている。
     汗だくの黄瀬が走り寄っててきて、それを日本語で俺に言った。
    「やばくね!?来んの明日じゃなかったの!?」
     浮ついた俺達に、コーチはぴしゃりと指示を出した。
    「なんて言ってるんスか?」
     黄瀬が、教えてもらって当然という顔で聞いてくる。
    「早く飛行機が到着したから、そのままこちらに来てくれたそうだ。それで、急だがこれからBチームに彼が入ってゲームを続行、対戦相手をAチームとしてピックアップで入れ替えていく。Bチームも入れ替えていくのか…?ああ、Bチームもコーチの指名で入れ替えていく」
     教える口調は、思いのほか早口になった。苛立ちは興奮に姿を変えて、指先にじわじわと熱が戻る。



     コーチは、入れ替わりの選手を次々に選ぶ。
     そしてコートへ投入して、また下げてを繰り返すと、順番はすぐに回ってきた。

     タイムアウト明けの出場、Aチーム、シューティングガード。
     ゲームを組み立てるのは、アジア選手権MVPの38番。大坪さんを少し小さくして、優しい顔にした感じだ。先ほどまではポジションシャッフルで、シューティングガードをしていたので、本当のポジションで見たかった。一緒のチームでプレイできて、なおかつ対戦相手がNBAプレイヤーとは。心地のいい強さに囲まれ、腹の底から悦楽が湧き出る。
     38番は、攻め方を伝えようと、ボードも使って活き活きと話しかけてくる。簡単な英語の羅列と図の駆使で、言いたいことは伝わった。
     お互いに元のポジションに戻ったな、と心のなかで呟くと、それが聞こえるはずもないのに、彼は「もうシューティングガードは疲れた」とおぼつかない英語で話しかけてくる。
     英語を使ってまで、よっぽど俺に伝えたかったのか。
     だが、気持ちはわかる。
    「俺もだ」

     笛が鳴って、コートに入ると、対戦相手はNBAチャンピオンリーグの覇者がチームメイトであることに浮き足立っていた。マッチアップをした相手のガードも、当たりの強いディフェンスをしてくるわけでもないから、楽にシュートを撃てる。
     38番の小さな大坪さんも、アジア選手権MVPの冠どおりだ。トップスピードに入るまでが早く、流暢なプレイを生み出している。
     味方からパスを貰って、シュートを打つ。
     そんな、なんともない一連の流れは、心臓のポンプを正常にまわし、停滞したよどみを、どくどくと洗い流す。
     
     交代もなく、順調に進んだゲームは終盤に差し掛かり、このままAチームの勝利で終わるような雰囲気だった。
     しかし、そんな緩みを、身長176cmのNBAプレイヤーは見逃さない。
     力の入っていない、軽めの動き。
     俺の目の前で、ぴょんと跳ねてスピード緩めた。
     地面に着地すると同時に、低く変則的なドリブルで俺の横を過ぎ去る。華麗なロッカーモーション。そのままセンターのオーストラリア人と、2mの中国人も易々と避け、休日に公園で遊ぶような気楽さでシュートを決めた。コートの外は、彼がボールを持つたびに沸き上がり、また2点、今度は3点とシュートを積み重ねて、あとひとつのゴールで同点に並ぶまで、追い上げられた。
     
     残り時間は、あと1分。こっちのチームの攻撃で終了だ。
     ただし、ボールを奪われなければ。
     
     38番はそんな慎重さで、じっくりと自陣にボールを運び、センターライン付近で一度俺にパスをよこした。
     数歩先には、テレビでも、高尾の部屋のポスターでもよく見る、逞しい男がいる。腕のタトゥーの文字や星マークまでがはっきりと見える距離。隙のない重量感。だがプレッシャーはそんなに感じなかった。
     38番からパスを返すのを、期待されているのは分かる。しかし、手のひらに吸い付くボールの皮が、名残惜しそうに俺の指から離れていく感覚は、ゴールに放つ時がいい。
     身体のなかで、血管がやわらかく拡張して、バスケに浮かされた熱が全身をめぐる。スリーポイントを撃ちたい欲求が、破裂した。
     俺の武器はシュートだ。
     深く体制を沈めて溜めた力は、足から背骨へ、ぞくぞくとする快感で駆け上がり、そのまま全てをボールに込める。ゴムの感触がする網目に指をかけ、ゴールまで辿る一直線の軌道の上へ、丁寧に乗せる。
     俺の人事は、いつもどおりのループで弧を描いた。
     試合終了のブザーに紛れて聞こえる、ボールが床にはねる音が好きだ。
     
     ボールがリングをくぐり、床に落ちる音と同時に、周囲からの歓声も耳に入り、ここに来てからハーフコートでシュートをうっていないことを思い出した。
     先ほどまで、役割ばかりを気にしていた身体は嘘みたいに軽い。
     ブザーが鳴り終わるのを聞き届けると、目の前のスターは勢いよく振り返り、ハンズアップをしながらにやりと笑う。
    「Hey!!what`s your name?」
    「あっ、…I am Shintaro Midorima」
     笑顔で握手を求められ、力強い指の熱い熱が、手を包み込む。
    「OK,Shintaro!」
     肌がぞわりと粟立つ。次にシュートを打つときは、きっと今の様には簡単に打てない。彼の視線に、日本の対戦相手が俺に向ける闘争心と同じ色を見た。目の奥に揺らめく炎には、いつだか「医者になるのか?」と聞いてきた高尾がいる。高尾、聞け。
     この強者と全力で対峙する道こそが、俺の天命だ。父のプレッシャーや、教師からの期待、日本の大学でのバスケ。その全てが、いま崩壊した。この崩壊こそが、俺の待っていたものだ。
     台湾に来てよかった。
     早く次の試合をさせろ。この足はもう止まらない。
    日本の夏も、台湾に負けず劣らず暑い。

     まだ朝の8時を過ぎたばかりなのに、太陽はさんさんと高いところにある。
     蝉が大声で鳴くのは、メスを引き寄せる為のアピールらしい、と言ったのは青峰だったか。部室横のソメイヨシノは、蝉たちの集う、恰好の求愛場所になっていた。
    「はいよ、お待たせっ」
     高尾は、たてつけの悪い部室の鍵を一発で閉めると、特にそれを自慢するでもなく当たり前に横に並んだ。教室までの道を二人で歩きながら、話の続きを再開する。
    「んで?一緒に写真撮って、サインをスマホに貰ってきたって?」
    「そうだ」
    「うっらやましいわー。そのスマホ俺にちょーだいよ」
    「やらん。お前の土産はこっちだ」
     鞄からサイン入りのタオルと、
    「マジかよ!!本当に貰ってきてくれたんだ!?真ちゃん最高、大好き!」
    「それとこれだ」
     缶を渡す。
    「えー!何々!まだあんの!…何?これ?」
    「八寶粥といってな、旨かったのだよ」
    「え!?かゆ?お粥?!へーえ。ありがと」
    「ああ」
    「あーやべー。マジ嬉しいわ。本当にサンキューな!今日はマジ、じゃんけんなしで漕いでやるよ!」
    「ふん、それはいつもだろう」
    「はあー?週2では勝ててるって」
    「週1だ」
     高尾はタオルを大事そうに見た後に、八寶粥も缶を裏表とひっくり返しまじまじと見終わると、ふたつとも大事そうな手つきで、鞄にしまった。八寶粥、缶でも売ってることに感動はしたが、味は現地のものに劣ったのが残念だ。
    「なあ」
    「なんだ」
    「真ちゃんはさ、インターハイ終わったらどうすんの?」
     高尾が頭の後ろで腕を組みながら、明日の天気を聞くみたいな気軽さで問いかける。
    「ウインターカップの優勝を目指すに決まっているだろう」
    「そーだな。その後は?」
    「アメリカに行く」
    「にはっ。医大は?!」
    「そうだな…。職にはしなくとも、医学というか生物学への興味はあるのだよ。あっちで学べばいいだろう」
    「ぶはっ!あははは!!いや、はは!いいね。マジ緑間!」
    「なにがマジ緑間だ」
     おしるこも、大福も、一生どちらかしか食べられないなんて状況はない。どちらも食えばいい。
     しかしこいつは、こんなにひいひいと笑い、弾んだ声を出して、さっきのさりげなさを捨てるのが早くないか。お前がそうなら、俺だってあけすけに聞くぞ。
    「高尾、お前はいつアメリカに行くんだ」
    「へっ!?」
     自分が聞かれるとは思ってなかったのだろうか。
    「明石さんにNCAAのことを聞いていただろう」
    「えっ、あの人、口かるっ」
    「アジアキャンプだって、本場の選手に直接触れたかったんじゃないのか」
    「まあ、それもあるけど…」
    「他になにがあるんだ。お前の色々な人事とはなんだ」
    「あー、言ってたっけ。そんな事」
    「言っていたな。俺のことをやたらと台湾に行かせようとするのが、お前の人事なのか?」
    「あれっ。なに、真ちゃん行かせるって。気づいちゃってたー?」
    「しるこや大福まで用意しておいて…。見くびるな。言え」
     さしかかった昇降口で、高尾の下駄箱を防ぐ。
    「いや、どけって」
    「言え」
     朝のホームルームぎりぎりの時間で、昇降口には誰もいない。
     退く気がないことは正確に伝わったようで、めんどくさそうに頭をがしがしと掻いて、高尾は観念した。
    「なにから?時間ないから早く」
    「まずは、お前もアメリカに行くかどうかだな」
    「行くかはまだわかんねー。選択肢のいっこって感じ。オーケー?ほら、どいて。真ちゃん」
    「ならば余計にわからんな。自分が成長する機会を逃して、俺の背中を押すのがお前の人事か?」
     そんな柄でもないだろう。
    「はっ。うけんね、それ」
     一瞬で空気が張り詰める。この緊張の糸に、火をつけたら、俺の知りたい事がわかるかもしれない。
    「二次選考は、わざと手を抜いていたのではないだろうな」
    俺と高尾の間に、予鈴のベルの音が通り過ぎた。
    「はああ?!うっわ!うわー!なんだよその、下手くそな挑発は!あー、もう!いいよ分かった!教えてやるよ!」
    「な…へたっ…!」
    「俺さ、主将だからメニュー決めれるわけじゃん。だから、今日のメニューは寝不足だから、ちょっと楽なやつにしちゃおっかなとか、家帰って課題サボろうかなって時に、俺の中でお前が言うんだよね。人事を尽くしたのか?って。そんで、今頃真ちゃんも課題やってんだろうなって思って、課題始めたりすんだよ」
    「いい心がけなのだよ」
     相槌をすると、じっと見つめていた無彩色はきゅっと収縮し、色がついたような錯覚を覚える。高尾の声は、どんどん大きくなっていく。
    「あー!つまりな?!お前の人事マインドが、俺にもうつっちゃってるところが、あんだよ!!だから今後、俺がバスケ続けるうえで!?お前がバスケ辞めちゃって?!どこのコートにもお前が立ってねえとか!?張り合いがねえなって思ったの!ほらっ!どけっ!おらっ!」
     高尾はぐいっと俺を引きはがし、力強く下駄箱の扉を開ける。乱暴に靴を取り出し、バンっと壊れそうな勢いで閉めた。耳たぶがまるで、台湾で見た花のように赤い。
     そんなに恥ずかしい事を言わせたのか、俺は。
     さっさと教室に向かおうとした高尾が、足を止めて、くるりと振り返った。
    「俺がアメリカに行くかは…わかんねえけど!少なくとも、オリンピックではお前にパス出すからな!」
     肌がびりびりする刺激に、脳がふやける。大声で、やかましく馬鹿みたいに叫ぶ、それはまるで求愛行動みたいじゃないか。
     俺も自分の下駄箱まで急ぎ、靴を履き替え、高尾を追いかけた。体は馬鹿みたいに軽く、飛んでいきそうなほどに足が回る。すべての圧力を置き去りにして、走りだす。
     3年の教室は1階で、教室までは昇降口からすぐだ。Y字路に分かれた廊下を、左に曲がれば、あっという間にその肩を捕まえた。後ろから伸びた手に、特に驚いたふうでもない高尾はゆっくり振り返る。
    「…真ちゃんのガチ走り危ねえって」
    「高尾」
     言いたい事は沢山あるのに、思考の波はぐるぐると洪水のように言葉を飲み込み、口からは何もでてこない。
    「ん?」
    「高尾」
    「うん。なんだよ真ちゃん」
     高尾は全部わかってるみたいな顔で眉を下げる。
    「俺がいなくて寂しいのは、お前もじゃないか」
     ぱちぱちと2回瞬きをすると、試合中によく見る、物騒な笑顔でにんまり笑った。
    「今さら気づいたのかよ?」
     天井のスピーカーからベルが響くと、高尾は逃げるように、するりと俺の手を抜けて、教室へ引っ込む。
     とんだブザービーターだ。いや、今のは本鈴だ。本鈴。ホームルームに遅れてしまう。
     働かない頭を放っておいて、教室へと走る。
     見つめる廊下の先に、バスケをしている俺達が見えた。
    ――――[月刊バスケダイジェスト 世界予選特集第7弾  高尾和成選手 <初稿>]
    文:明石陽二

     高校バスケ史上、最も群湯割拠の時代であった”キセキの世代”。
     進路を別った秀徳高校の名物相棒コンビは、同じ舞台での対決を心待ちにしていたという。
     卒業から4年目、日本から遠く離れたアメリカの地にて、ようやくの実現となった 。
    「後半からリズムを掴んで、いいゲームができましたね。ホームっていうのは、やっぱり心強かったです。1番心配だったのは、選手紹介で名前を呼ばれる時に、アナウンスを聞き落さないか。聞き落したり、間違えて出ていっちゃったら、めちゃくちゃ恥ずかしいんですよ!一回やっちゃったのが、未だにトラウマです。個人的には、ファウルアウトっていう微妙な感じでしたけど、決勝リーグの初戦、チームが勝てて嬉しいです」
     緑間へ通るはずのパスを、高尾が気持ちで止めに行くとチームの流れが変わった。しかし攻めのスティールはファウルを呼び、第4クォーター序盤で退場となったが、応援席からの拍手に恥じないプレイだった。
    「俺らがあれを作ったのは、高校1年生のウインターカップの時でした。『とっておき』とか呼んでましたね。パスのうまい奴なら誰でも出来るし、当時はパスコースが弱点だったけどその後克服したし、別に今の緑間には、とっておきじゃないだろうけど。ただ、敵同士になって、あいつがあれをやるタイミングはわかるんです」
     高尾の退場後には、Wエースをつとめる新入生ツインズが躍動。試合終了のブザーが鳴ると、ホームアリーナは盛大な歓声で埋まった。
    「正直、うちが勝つのは番狂わせでしたよね。終わった後のロッカーは凄く盛り上がってました。ただ本音を言うと、いま少しだけムカついていて。退場になった俺自身にはもちろんなんですけど、緑間真太郎がなに負けてるんだよって(笑)」
     高尾が笑顔の下に秘めているのは熱情だった。
    「俺のバスケの原点って緑間なんじゃねーかなって思うんです。いつも不機嫌そうで、しかもいっつも変な物持ってて、コートを出ればろくでもない奴でしたが(笑)1を投げれば100を返してくるので俺もまた200返したくて頑張るっていう。その経験が今の俺を作ってます。俺、高校卒業しても、緑間も当然バスケ続けるもんだと思ってたんですよ。なのに3年生になった途端、あいつバスケは高校までみたいな雰囲気出し始めたんで焦りましたね。ヘタすればウインターカップにも出ないんじゃねえかこいつ、みたいな。でも恥ずかしいし、言っていいのかわかんないし、ダサいから真正面から辞めないでよとか言えなくて(笑)でも辞めてほしくないから、どうしたら辞めないか本気で考えました。結果、緑間は辞めなかったし、こうやって戦えてよかったです」
     最後にこれからについて、質問をぶつけた。
    「まだまだ決勝リーグはこれからなので、当然勝ちに行きます。ただ、こっちでのシーズンが終われば代表合宿に呼んでもらってるので、一度帰国します。緑間とは、また少しだけ相棒に戻るので、たぶん調子にのるなって怒られますけど、俺の手であいつを勝たせたいですね。緑間とやるバスケはめちゃくちゃ好きですし、代表として戦えるのは光栄です。どのチームでも全力で頑張ります」
     秋から始まる世界予選では4年ぶりに名物コンビが復活する。その連携はかなり期待できるものになりそうだ。
    はせ Link Message Mute
    2019/02/25 19:52:50

    真ちゃん、バスケ辞めんなよ

    進路に迷う緑間真太郎
    横で見てる?高尾和成
    高校3年生の二人

    *エクゲ世界線
    *他SNSから移植しました

    #高緑

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    • 秀徳のバスケインターハイ予選の翌々日。
      部員の多くはわかりやすく不機嫌で、全体的に覇気がない。
      いつも通りに淡々と過ごす緑間がかえって目立ち、高尾が入部してから一番最悪な雰囲気だった。
      「集合!」
      練習前の号令をかける大坪も、いつもより表情が硬い。
      体育館にいる全員を集めた監督は、部員たちを座らせ、一人一人の顔をじっくり眺めた。マネージャーにホワイトボードを持ってこさせ、ペンを握った。
      授業では絶対に書かない大きさで、力強く濃い線を白い板に引いていく。
      「よし、木村。これはなんて読む」
      「はい。不撓不屈です」
      「そうだな。ウチのスローガンだ。宮地、意味はなんだ」
      「はい。困難にあっても、くじけない。ひるまずに立ち上がることです」
      「ん、まあそうだ」
      監督は空いたスペースに、撓という字が、屈という字が、それぞれ持つ意味を連ねて、『撓まない(たわまない)』と書いた部分に丸をした。そして「いいのがあるな」と給食をのせるような金属のトレーを自ら取りに行き、部員達の前へ戻った。
      「撓むというのは、固く、真っ直ぐな状態のものが、力を加えられて曲がることだ」
      そう言うと、胸の高さに金属トレーを持ち上げ、折り曲げるようにぐっと力をいれた。
      「こんな風に……、外から力をかけられても曲がらない。これが撓まないということだ」 
      トレーを下ろして続ける。
      「一昨日、王者のプライドは折られ、明日からも折られ続けるだろう。それでも挫けない。挫けることがあっても立ち上がる。お前達は決して折れ曲がらない意志と、固い信念を鍛え、バスケをしなければいけない」
      監督と目が合って、高尾はぎくりと体を強張らせた。目線はすぐにそらされ、主将をとらえる。
      「大坪、これからどうすればいい」
      「練習が必要です。個々のスキルをあげる……、そしてチームワークを高める練習が。折れずに、練習をして、強くなって、冬に繋げます」
      監督はいつものひょうひょうとした顔でじっくり頷く。
      「そうだ。決勝リーグに進めず、いまここにいる全員が悔しい思いをしている。この悔しさを糧に、また今日から強くなっていこう。誠凛に負けたことは何も恥ではない。だが、ここで立ち止まることはないように気を引き締めろ。以上、今日は外周から」
      秀徳高校バスケ部の全員が、声を張り上げ返事をした。高尾も腹の底から声を出した。
      敗北の苦さををすぐに飲み込めるわけではなく、不撓不屈の精神とやらはすぐに体現できそうもない。でも少なくともここで腐ってるのはダサい、そう思った。
      「監督」
      話も終わり、みんなが立ち上がろうとした時、テーピングの巻かれた左手があがる。全員がそちらを見た。
      「なんだ、緑間」
      「トレーを折り曲げようとしないでもらえますか?」
      なに言ってんだこいつ?! 確かにそれは、今日の緑間のラッキーアイテムだけど! 監督がわざわざ緑間のところに借りに来た時はぶっちゃけ何かと思ったけど!
      堪えきれずに吹き出す。
      「ぶわぁっはっ!!!」
      こいつは今の話がなんにも響いてないのかなと、笑うしかない。宮地の怒号が響いた。
      「お前ふざけるのも大概にしろ!トレーでぶん殴んぞ! 高尾も笑ってるんじゃねえ!」
      「ラッキーアイテムを乱暴に扱われるのは困るのだよ」
      「タメ口か、お前!」
      木村も加勢したところで、大坪が号令をかける。
      「緑間と高尾は黙んねえと外周増やすぞ! 集合!!円陣!!」
      監督は悪かったなと、緑間にトレーを返した。
      「へーい! 外周増えんのはカンベンっす! 行こうぜ、真ちゃん。トレーも大丈夫っしょ。頑丈そうじゃん」
      「俺は撓まないが、トレーは外圧でたわむのだよ」
      いつまで言ってんだ、と高尾は呆れる。なんつーか、よくも悪くもいつも通りになった。緑間がチームワークに目覚めるとも思えないが、立ち上がって進むしかない。冬まで時間がない。迷ってる暇だってない。とりあえずは前へ、前へ、進むしかない。
      込み上げてくる悔しさを心の奥で燃やしながら、円陣の大きな輪に加わった。
      くじけるもんか。絶対に負けねえ、誠凛にも、全国の強豪にも、緑間にも。
      大坪の先導にしたがって、
      「秀徳!!」
      と叫べば、古びた体育館に、闘志の響きがこだました。
      インターハイ予選の翌々日。
      部員の多くはわかりやすく不機嫌で、全体的に覇気がない。
      いつも通りに淡々と過ごす緑間がかえって目立ち、高尾が入部してから一番最悪な雰囲気だった。
      「集合!」
      練習前の号令をかける大坪も、いつもより表情が硬い。
      体育館にいる全員を集めた監督は、部員たちを座らせ、一人一人の顔をじっくり眺めた。マネージャーにホワイトボードを持ってこさせ、ペンを握った。
      授業では絶対に書かない大きさで、力強く濃い線を白い板に引いていく。
      「よし、木村。これはなんて読む」
      「はい。不撓不屈です」
      「そうだな。ウチのスローガンだ。宮地、意味はなんだ」
      「はい。困難にあっても、くじけない。ひるまずに立ち上がることです」
      「ん、まあそうだ」
      監督は空いたスペースに、撓という字が、屈という字が、それぞれ持つ意味を連ねて、『撓まない(たわまない)』と書いた部分に丸をした。そして「いいのがあるな」と給食をのせるような金属のトレーを自ら取りに行き、部員達の前へ戻った。
      「撓むというのは、固く、真っ直ぐな状態のものが、力を加えられて曲がることだ」
      そう言うと、胸の高さに金属トレーを持ち上げ、折り曲げるようにぐっと力をいれた。
      「こんな風に……、外から力をかけられても曲がらない。これが撓まないということだ」 
      トレーを下ろして続ける。
      「一昨日、王者のプライドは折られ、明日からも折られ続けるだろう。それでも挫けない。挫けることがあっても立ち上がる。お前達は決して折れ曲がらない意志と、固い信念を鍛え、バスケをしなければいけない」
      監督と目が合って、高尾はぎくりと体を強張らせた。目線はすぐにそらされ、主将をとらえる。
      「大坪、これからどうすればいい」
      「練習が必要です。個々のスキルをあげる……、そしてチームワークを高める練習が。折れずに、練習をして、強くなって、冬に繋げます」
      監督はいつものひょうひょうとした顔でじっくり頷く。
      「そうだ。決勝リーグに進めず、いまここにいる全員が悔しい思いをしている。この悔しさを糧に、また今日から強くなっていこう。誠凛に負けたことは何も恥ではない。だが、ここで立ち止まることはないように気を引き締めろ。以上、今日は外周から」
      秀徳高校バスケ部の全員が、声を張り上げ返事をした。高尾も腹の底から声を出した。
      敗北の苦さををすぐに飲み込めるわけではなく、不撓不屈の精神とやらはすぐに体現できそうもない。でも少なくともここで腐ってるのはダサい、そう思った。
      「監督」
      話も終わり、みんなが立ち上がろうとした時、テーピングの巻かれた左手があがる。全員がそちらを見た。
      「なんだ、緑間」
      「トレーを折り曲げようとしないでもらえますか?」
      なに言ってんだこいつ?! 確かにそれは、今日の緑間のラッキーアイテムだけど! 監督がわざわざ緑間のところに借りに来た時はぶっちゃけ何かと思ったけど!
      堪えきれずに吹き出す。
      「ぶわぁっはっ!!!」
      こいつは今の話がなんにも響いてないのかなと、笑うしかない。宮地の怒号が響いた。
      「お前ふざけるのも大概にしろ!トレーでぶん殴んぞ! 高尾も笑ってるんじゃねえ!」
      「ラッキーアイテムを乱暴に扱われるのは困るのだよ」
      「タメ口か、お前!」
      木村も加勢したところで、大坪が号令をかける。
      「緑間と高尾は黙んねえと外周増やすぞ! 集合!!円陣!!」
      監督は悪かったなと、緑間にトレーを返した。
      「へーい! 外周増えんのはカンベンっす! 行こうぜ、真ちゃん。トレーも大丈夫っしょ。頑丈そうじゃん」
      「俺は撓まないが、トレーは外圧でたわむのだよ」
      いつまで言ってんだ、と高尾は呆れる。なんつーか、よくも悪くもいつも通りになった。緑間がチームワークに目覚めるとも思えないが、立ち上がって進むしかない。冬まで時間がない。迷ってる暇だってない。とりあえずは前へ、前へ、進むしかない。
      込み上げてくる悔しさを心の奥で燃やしながら、円陣の大きな輪に加わった。
      くじけるもんか。絶対に負けねえ、誠凛にも、全国の強豪にも、緑間にも。
      大坪の先導にしたがって、
      「秀徳!!」
      と叫べば、古びた体育館に、闘志の響きがこだました。
      はせ
    • ss 少女漫画みたいなチャリアを読みたい付き合いたてで、探り探りモダモダする
      卒業したら進路が離れてしまう
      そんなふたり
      はせ
    • cafune jam/高緑書きたいところだけ。ホーンデットマンションパロ。ピアノが好きな緑間くんと歌うのが好きな高尾くん。

      *cafune(ポルトガル語) 意味:愛する人の髪にそっと髪を落とすしぐさ

      #高緑
      はせ
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