名もなき僕らの救世主 私は、空が好きだ。
どこまでも広大で、果てしなくて。様々な表情を見せながら、私たちの住む世界を見下ろすように存在している、空。
宇宙の暗闇と空気の層、そして恒星の眩い光が生み出す、美しい青。とてもそばにあるようなのに、どれだけ近づいても触れることのない不思議なもの。
そんな空が、私はとても大好きなのだ。
くだらないことで落ち込んでしまった日も、こうして空を飛んでいると、いつの間にか何でもないように思えてくるのだ。あまりにも浩々たる空の下では、私一人の悩みなんて、ほんの些細なことなのだから。
夕陽が沈む地平線を眺めながら、私はうっとりと瞼を閉じた。頬を撫でる風が、とても心地いい。
空が好きな私にとって、この村に生を受けたことは何よりも喜ばしいことだった。そうでなければ、きっとこんな風に自由に空を飛び回ることはできなかっただろうから。
歴史に残る偉大な魔法使いを多く輩出している村――それが、私の生まれた場所だった。この村で生まれたほとんどの住民が魔法を扱う資質を持ち合わせているとはいえ、そのすべてが魔法使いになれるわけではなく、稀に現れる天性の才能を持つ者だけが、魔法使いと名乗ることを許されるのだ。
魔法を扱えることと、魔法使いになることとは全く別で、それを一緒くたにしてしまうといろんな人からお叱りを受けてしまう。正直私はそれらを綯い交ぜにしてしまいがちで、よく親友からも小言を言われているのだった。
しばらく目を閉じたまま静かに空を漂っていると、誰かが後方から近づいてきていることに気づいた。速度を落として少しの間を置くと、一人の少女が姿を現す。
「こ、こんばんはシャロン、ご機嫌いかが……!?」
「テッシェ」
必死の様相で私に声をかけたのは、村長の孫であり私の親友でもあるテッシェだった。私が遠くで飛んでいるのが見えたのだろう、飛行があまり得意ではないにも関わらず、こうしてここまで来てくれたのだ。
しっかりと杖を握りしめるその姿は、お世辞にも〝天性の才能を持つ魔法使い〟には見えないが、そんな彼女の様子に私は思わず笑顔になってしまった。
「も、もう! 私が飛ぶのが下手だからって笑わないでよ!」
「ご、ごめんごめん。ちょっと面白くなっちゃった」
「まったく……」
失礼しちゃうわ、といいながらも、テッシェもくすくすと笑ってくれた。
テッシェは私の一番の親友だ。友達と呼べる人はたくさんいるけれど、テッシェ以上に何でも話せる相手はほかにはいない。楽しいときも、悲しいときも、必ずそばにいてくれた。空の次に好きなものは何だと聞かれたならば、私はほんの少しも譲らずに彼女の名前を挙げるだろう。大好きな空と、大好きな友人。最高のロケーションだ。
そんな人知れず上機嫌な私に、テッシェは羨んだ声を上げる。
「シャロンは相変わらず飛ぶのが上手ね」
「そうかな?」
「そうよ。私、シャロンがいなかったらこんな高いところまで飛ぼうだなんて思わないもの。落ちたら危ないし」
「それは高いところが怖いだけでしょ? テッシェだって馴れればどうってことなくなるよ」
私がしれっと言ってのけると、テッシェは頬をリスのように膨らませる。
「そんな簡単に言わないでよ。バランスをとるのだって一苦労なのよ」
「まあテッシェは運動も苦手だもんね」
「な、何を~!!」
ぷんぷんと怒るテッシェが面白くて、私はまた笑い声を上げる。
ひとしきり私が笑い終えたところで、テッシェは諦めたように首を振った。
「シャロンはみんなが難しいことをなんでも簡単にやってしまうんだもの。さすがは〝天性の才能を持つ魔法使い〟よね」
テッシェの言葉に、私は慌てて首を振る。
「そんなことないよ。ていうかそれを言うならテッシェもそうじゃない」
「違う違う、全然違うわ。私は頭を使って魔法を使うけれど、シャロンは感覚で全部できちゃうでしょう」
そう言ってテッシェは大きなため息をついた。
〝天性の才能を持つ魔法使い〟――私とテッシェは、奇遇にも同じ年に、同じ才を持つ者としてこの村に生まれたのだった。拮抗する能力、村では私たちのどちらが次期村長に相応しいか日々問答が繰り返されているようだったが、私は生憎そんなことには興味がなかった。私には魔法が使えるというだけで、十分に名誉なことなのだから。
しかしテッシェは村長の孫だと言うこともあり、私との違いを少しばかり気にしているようだった。
私としては、テッシェと私の違いなんて、ほんの些細な個性でしかないと思うのだけど。
「うーん……でも私は勉強ができるテッシェが羨ましいよ」
「シャロンは勉強しないだけでしょう! ――まあその方が助かるけれどね。感覚持ちのシャロンが頭を使い始めたら、それこそ私に勝ち目がなくなっちゃうもの」
「んー……だけど私がバカじゃなかったら――」
いたずらっぽい笑顔で笑うテッシェに、私は少し考えた後、動きを交えてこう答えた。
「こんなことはできなかったかもだよ!」
「きゃあ!」
私は横座りから勢いよく後ろに倒れ込み、膝裏で杖を挟んだ状態で逆さ吊りになってみせた。これは案外高等な技術で、しかし頭がよければこんなことは決してしようとは思わないだろう。さして何かの役に立つ訳でもない上に、自分で言うのも何だが、少しはしたない。私はテッシェを少し驚かせることができれば十分だったのだが――杖にしがみつき飛行するのがやっとのテッシェにとっては、幾分刺激が強すぎたようだ。
「わ、わっ……わああ――!!」
「て、テッシェ――!?」
驚いた拍子に両手を杖から離してしまったテッシェは、バランスを崩し、真っ逆さまに海へと落ちて行ってしまったのだった。
「――ごめんなさい」
私がとっさに放った風に包まれ、幸い大事には至らなかったが――もとよりテッシェは飛行の際、いつも自身にまじないをかけているためそれすらも必要なかったかもしれない――着水を免れなかった私たちは、頭のてっぺんから足のつま先まで、余すことなくずぶ濡れになってしまった。このまま帰るわけにもいかず、とりあえず私たちは炎を作り、それを囲むように座っている。風を使う手もあったが、さすがに海水で冷えたところにさらに気化熱で体温を奪われるのはよろしくない。少々原始的ではあるが、こうして炎で体を暖める方が理にかなっているのだ。
私が鼻水を垂らしながら頭を下げると、テッシェは一度ため息をつくも、すぐに〝いいの〟と首を振った。
「手を離したくらいで落ちちゃう私が悪いんだもの。私もシャロンみたいに、あんな体勢になっても安定した飛行ができるようになりたいな」
「あんな姿で飛行するテッシェはちょっと見たくないなぁ……」
「た、例え話よ! せめて両手を離しても落ちないくらいには、ね」
テッシェは自身の手のひらを睨め付けながら、ぽつりと呟く。
「空に近づくことも、風と触れ合うことも、炎と戯れることも――なにもかも、私はシャロンには及ばないから。きっと村の名前を背負うのは、シャロン――あなたなのね」
テッシェにとって、村の名前を背負うということは、ある種使命のようなものなのだろう。静かに言ってのけた彼女の言葉には、どこか諦めたような気配が入り交じっていた。
――嫌だなぁ。
私とテッシェは友達なのに。唯一無二の親友なのに。この村に生まれたことは誇りだけれど、この村に生まれてしまったせいで、才能を持ってしまったせいで。私とテッシェは、どうあがいても一緒には前に進めないのだ。
それならば、私がとるべき行動は、たった一つしかなかった。私には、彼女ほどの欲も責もないのだから。
「大丈夫だよテッシェ。私、テッシェを推薦するから」
「え……?」
私の言葉を聞いたテッシェは、驚いたように顔を上げた。私は、そのまま続ける。
「考えてもみてよ。もし魔法使いとしての力は私の方が勝っていたとしても、私がその模範になれると思う? テッシェは頭もいいし、それに気品も常識もある。どう考えたって、村の代表に相応しいのはテッシェだよ」
「シャロン……」
「だからねテッシェ、もし私が選ばれたとしても、私は辞退するよ。私には、魔法があればそれでいいから」
そう言って笑うと、テッシェは一度ぽかんとしたものの、すぐに笑顔を返してくれた。
「シャロンってば優しいのね。だけどだめよ、選ばれたのならちゃんと役目を果たさないと。私たちが決められることじゃない。この村が私たちを選ぶんだから」
「でも……」
「でもじゃないでしょ! そこは頷いてくれなきゃ」
「……わかった。でも私、本当にテッシェの方が相応しいと思ってるんだよ?」
「もう……。ふふ、ありがとう」
一度にこりと微笑むと、テッシェはゆっくりと立ち上がる。気づくとすでに服は完全に乾いており、体も十分に温まっていた。
「さて、そろそろ帰りましょう! 火の始末は私がしておくから、シャロンは先に行ってて」
「え、そんな。私が作った炎なんだから私が消すよ」
「いいのいいの! たまには私も無効化の魔法の練習くらいしなきゃいけないんだから」
「そ、そう……? じゃあ、わかった。お願いするね」
私がそう言うと、テッシェはできもしない力こぶに手を当てて、任せてと笑った。
「じゃあ、また明日ね!」
「ええ! また明日!」
私はテッシェに手を振り、一足先に自宅へと飛び立った。すぐにテッシェの姿は見えなくなり、小さな薄明かりだけがぼんやりと浮かんでいた。
去り際、彼女が呟いた言葉が、私の耳に届くことはなかった。
「選ぶ権利があるなんて。……本当に贅沢」
✦ ✦ ✦
翌日の早朝、私を呼び起こしたのは、いつもとは違う村の喧噪だった。
――何かあったのかな。
普段の平和な静けさとは打って変わって、不穏な騒がしさに溢れている。眠い目をこすりながら、窓から顔を覗かせて辺りを見渡すも、その原因となるようなものはすぐには見当たらない。
急いで身支度を調えて、私は外へ駆け出した。
少し外を走っていると、どこからか段々と焦げ臭いにおいが漂ってきた。火事だろうか。しかし魔法で火など簡単に打ち消すことができるこの村の人間たちが、火事ごときで騒ぎ立てるというのは現実的ではない。何が起こっているかわからず、私は夢中でにおいの方向に走り続ける。この先にあるのは――村長の家だ。
何かとてつもなく嫌な予感がする。そしてそれは、すぐに現実として私に襲いかかったのだった。
私が村長の家にたどり着くやいなや、周りにいた人間たちが途端に声を荒げ、私の名を強く呼んだ。
「シャロンだ!」
「シャロンが来たぞ!」
「貴女って人は……!」
みな、なぜか私のことを責め立てている。何が何だかわからず突っ立っていると、何人かの男が私の身体を力尽くで押さえつける。
「痛ッ……なに!? やめてよ!」
「黙れ反逆者め!」
「い、一体何のこと!?」
「白を切るつもりか! お前がやったんだろう!」
そう言って、男の一人が私の髪を引っ張って前を向かせる。痛みに呻きながらも、私はもう一度そこに広がる光景をよく観察した。
村長の家は――焼け焦げていた。全焼には至らなかったようだが、ところどころが焼け落ちており、修復には時間がかかりそうだった。
だけれど、その惨状を見せつけられて、私はさらに混乱した。どうしてこれが私のせいだと言うのだろう。私がやったというのだろう。どうしてみんな――犯人がわからないの?
「まって、これは私がやったんじゃない! なんでみんなわからないの!?」
私は声を荒げて必死に抵抗した。しかし、村人たちはみな聞く耳を持っていなかった。
「何を言う、どう考えてもお前の仕業だろう! こんなにもお前の魔力の痕跡が残っている!」
「た、確かにこの炎は私が起こしたものだけれど……! これは……!」
「何だ! この期に及んで言い訳とは、とんだ恥知らずだな!」
「そ、そんな……っ!」
――だめだ、みんな冷静じゃない。こんな簡単なことにも気づかないなんて。
そう一瞬考えるも、私はすぐに違うのだと理解した。これはとても――嫌な、理解だった。
――違う。誰も、わからないんだ。
――気づけるはずもないんだ。
――この村には今〝天性の才能を持つ魔法使い〟は、二人しかいないんだから。
――この隠蔽工作に気づくことができるのは、私だけなんだ――。
私は黒い煤に塗れた村長の家を眺めながら硬直していた。どうして、どうして。そんな言葉ばかりがずっと同じところをぐるぐると駆け巡っている。
そんな私の前に、とうとう、この火災を起こした犯人が姿を現したのだった。
「――テッシェ……」
高齢の村長を支えるようにして現れた彼女は、至極冷たい表情を浮かべていた。当然、私の声に応えるはずもない。
「……シャロンよ」
村長の厳かな声音が、静まりかえった辺りに響き渡る。私は、ただその声を聞いていることしかできなかった。
「私は、お前が新たな村長となることを楽しみにしていたのだ。お前の能力はそれこそ我が最愛の孫、テッシェも及ばぬほどのもの――……」
「……」
「だがお前は、自身の欲に負けたのだ。頂点を望むばかりに、その障害となるテッシェが邪魔になったか? ……この痴れ者めが!!」
村長の咆哮を皮切りに、静かに話を聞いていた村人たちが待ってましたと言わんばかりに、次々と怒号を発し始める。私はそれらに耳を貸す余裕すらなく、ただひたすらテッシェの顔を見つめ続けた。
しかし彼女は、こちらを一瞥すらしなかった。
「お前はこの村の恥だ! 大人しく出て行くというのなら命だけは助けてやろう。しかし、もう二度とこの地の土を踏むことは許さん!! 失せろ!」
「出て行け!」
「出て行け!!」
飛び交う罵声で耳が痛い。村全体が私を拒絶している。頭を抱えたくなる事実に、私は静かに俯くことしかできなかった。
大きな声は、やがて止んだ。飽きたのか、それとも散々怒鳴り散らしてすっきりしたのか、村長が姿を消してから少しすると、村人たちの姿も疎らになった。みなが去った後、そこに残ったのは、私とテッシェの二人だけだった。
「テッシェ……」
その時初めてテッシェが私の方を見た。何の感情もない、冷え切った表情を顔に張り付かせたまま。
村長の家を焼いたのは、何を隠そう彼女――テッシェだった。火種は、私が昨晩身体を温める為に作った炎。彼女はそれを消すふりをして一部を持ち帰り、増幅させ、自らの家を焼いたのだ。私の炎にはもともと無害にするためのまじない――触れても焼けず、燃え広がることもない――をかけているが、彼女がそれを解いたのだろう。
まじないを解くことにも、威力を増幅させることにも、通常、自身の魔力を使うため、その炎で家を焼けば誰にでもそれがテッシェの仕業だということがわかる。しかし彼女は、自身の魔力のみを隠蔽する魔法を使ったのだ。隠蔽魔法は、使用者と同等、もしくはそれ以上の力のある者にしか破ることは出来ない。
最初から、私は彼女に嵌められていたのだ。彼女が海に落ちたあの時から、ずっと。
――親友だと思っていたのは、私だけだった?
――テッシェにとって、私はそんなにも邪魔な存在だったの?
「どうして……こんなことをしたの」
私は震える声で叫んだ。
「こんなことしなくなったって、私はテッシェの邪魔にならないようにするのに……! 昨日だって言ったじゃない、私は――」
「……まだ私を馬鹿にするつもり?」
「え……」
「うんざりなのよ。競うことにも、比べられることにも。あなたさえ消えれば、私が長になることに文句をいう人間はいなくなる」
彼女の言葉は、心からのものだった。だからこそ、それは容易に私の心に突き刺さる。
「あなただって、魔法が使えればそれでいいんでしょう? 魔法を使うだけなら――この村は必要ない」
そう私の耳元で呟き、テッシェは笑った。今まで見たことのない、悪魔のような笑顔だった。
彼女は、ずっとこんな本心を隠していたのだろうか。それとも私という存在が、彼女の中の悪魔を育ててしまったのだろうか。今となっては、もう――何もかもが手遅れだった。
テッシェは私から身を離すと、先程までの冷たい表情を再度張り付かせる。
「去りなさい。もうこの村にあなたの居場所はない」
そう言い、彼女は立ち去った。
「――せいぜい、大好きな空に溺れればいいわ」
去り際の言葉は、今度はきちんと、耳に届いた。