紅鮭団&育成計画ログ 01【育成計画】
綺羅びやかなシャンデリアが吊るされた、だだっ広いホール。あちらを見てもこちらを見ても飛び交うのはお世辞とゴマすりばかり。いい大人がよくもまあ飽きないものだと辟易するが、いい大人だからこそ腰を低くして媚びへつらうのだろう。
(あんな大人にはなりたくないよね〜〜)
君たちは未成年なんだから、と愛想のいいボーイがグラスへ注いだ炭酸飲料はあまり馴染みのない味で。いつも自動販売機でお手軽に買えるプァンタが恋しいよ、と王馬は嘆くばかりだ。
不意に背後から弱々しい声が上がる。振り返れば中身の減っていないグラスを片手に、とんでもないしかめっ面をする少女がいた。
「……夢野ちゃんさぁ、ただでさえひっっどい顔なのに、これ以上の醜態を世間に晒してどうするつもりなの?迷惑だと思わないの?」
「う、うるさいわい!ウチとて好きでこんな顔になっとるわけではないぞ……」
しかめっ面もそのままに、すっかり肩を落とした夢野は手にするグラスを睨みつける。どうやら顔のいいボーイに言われるがまま手渡されたそれがお気に召さなかったらしい。
普段の食生活を見るに、夢野はあまり高級品に慣れていないようだった。クラスメイトの中でも圧倒的なお子様舌であるし、この場に用意された食事の大半は口に合わないだろうことは明らかである。しかし当の本人はその自覚が薄いらしく、つい数分前までは『高級ホテルのビュッフェなんて楽しみじゃのう!』と大はしゃぎしていたのだ。
しかし結果はご覧の通り、飲み物から躓くという始末だ。この様子では口に合うのはデザートぐらいなものだろう。
それはそれで喜びそうだが。
「こんなときに東条がいてくれたらのう。ウチが欲しいものを、何も言わずとも出してくれるというのに……」
小さくため息を吐いた夢野は、言いながら恨めしそうな目線を人混みへ向ける。いつも以上に半開きの視線を追いかけた先には、このパーティーの主催者なのだという男がおり、上機嫌に酒を煽る彼の傍らには控えめではありながら決して質素ではないパーティードレスを身に纏ったクラスメイトが静かに佇んでいた。
微笑みながら給仕に徹するクラスメイトの名前は東条斬美。超高校級のメイドである彼女は、才能ある若者とその才能へ投資するスポンサーとを結ぶパーティーであるにも関わらず、自らのスポンサーである投資者へ仕えることに徹している。
けれどそれも彼女の才能故、また彼女の信条故からくるものだ。むしろここでの仕事ぶりを評価されてスポンサー及び顧客が増えるのだから、東条からすればこの場で仕事に徹すればするほど、パーティーの趣旨に沿っていることになる。
「ところで王馬よ。お主はあれ等に挨拶しなくてもよいのか?」
「たはー!夢野ちゃんってホント馬鹿だよねー!オレは悪の総統なんだよ?スポンサーがいたとしても、こんな表舞台に出てこれるような人間がいるわけないじゃん!」
ケラケラと笑いながら返してやれば、夢野はじとりとした目を王馬へ向ける。暫くは黙り込んでいた彼女は、やがて溜め息とともに言葉を吐いた。
「どうせ嘘じゃろ」
グラスを揺らす夢野のテンションは決して高くない。食事が美味しくなかったこともあるだろうが、友人たちが一向に戻ってこないことが一番の原因だろう。特に仲の良い茶柱はスポーツ用品の有名メーカーに、夜長は画材メーカーや買い手なのだろう大企業の重役らしい人間に捕まっていた。遠目で見ていても、彼女らが解放されるのは当分先なのだろうことは窺える。
では夢野のスポンサーは誰なのか、といえば専らテレビなどのエンタメ方面が多い。様々な人間が集まるこの場でも、そちらの業界は中々の曲者が揃っている。やたらと威圧的であったり下世話な者であったりと、およそ夢野が上手くかわせそうな相手ではない。また彼女自身がとんでもない面倒くさがりであることも、クラスメイトたちの不安感に拍車をかけている。
「オレと一緒なのが不満なのはわかるけどさぁ〜、そんなにテンションだだ下がりでいられるとこっちの気も滅入るんだけど!オレだって夢野ちゃんみたいなちんちくりんと一緒にいるのは不本意、」
「ならとっとと最原たちのところへいけばよいじゃろう。なんだかんだ言いながらお主、全くここから動かんではないか……」
面倒くさい、という感情を隠しもしないで吐き捨てるように言う。向けられる視線は冷たいもので、間違いなく責めるような色をにじませていた。
パーティーが始まる前、着替えを済ませた辺りから王馬はああだこうだと理由をつけて夢野の横を陣取っている。あまりのまとわりつきっぷりに我慢しきれなくなった茶柱が投げ飛ばしかけた程だ。
最初こそ、そんなに自分と一緒にいたいのかと思ったものだが、口を開けば容姿や言動を馬鹿にされるばかりである。いくらからかうにしても限度がないか、と既に言い返す気も起きなくなっていた。
「え?オレここから離れちゃっていいの?夢野ちゃんこんなところでもぼっちになりたいの?」
ふと、それまでニヤニヤとしていた王馬は、すうと表情をなくし真顔で夢野へ問いかける。突然の切り替えと放たれた言葉に一瞬言葉を詰まらせかけたが、夢野はそっぽを向いて何とか言葉を絞り出した。
「う、ウチは一人でも平気じゃ」
「ふ〜ん」
ざわざわとした喧騒が近いようで遠い。目の前で通り過ぎていく人影は、夢野の前で止まることはなく、通り過ぎていくばかりだ。
いつの間にか傍らにあった気配は消えている。
(……早く帰りたいのぅ)
全く減りもしていないグラスを傾けて、夢野は溜め息をつく。たった一人、だだっ広いホールの片隅から見る綺羅びやかなパーティー会場は、自分とは縁も所縁もない世界のようにしか思えない。できることなら今からでも帰りたいぐらいである。
「君、ちょっといいかな?」
「んあ?」
自分の足よりも二回りほど大きな靴が視界に入る。いつの間にか下がっていた顔を上げれば、人の良さそうな笑顔で夢野を見下ろす男がいた。身に纏っているスーツを見るに、男は学園関係者やスタッフではなく、出資者側であることはわかる。
「確か『超高校級のマジシャン』の子だよね?」
にこにこと笑顔を崩さない男にすかさず噛み付こうとした夢野は、けれどもすぐに出掛かった言葉を飲み込む。このようなタイプの人間には噛み付いても意味を成さないことを、経験上よく知っていたからだ。
へらりと愛想笑いを浮かべながら、できるだけ猫を被って返事をする。いくら面倒くさがりな夢野とはいえ、自分をサポートしてくれる人間へそっけない態度を取るほど薄情でも浅慮でもない。
しかし声を掛けるぐらいなら名前ぐらい覚えておけ、と胸中で毒づかずにはいられなかったが。
「いやぁ、まさかこんなにも小さな女の子だとは思わなかったな。そんなに小さい体で大掛かりなマジックをするのは大変だろう?」
「んあ、いや、そんなことは……」
じろじろと頭の先からつま先まで、まるで品定めをするかのような目に、貼り付けた愛想笑いがひくつく。今すぐにでもこの場から抜け出したい気持ちに駆られるが、例えこの男が失礼な相手ではあったとしても、こちらが失礼な態度を取るわけにはいかない。もしかすると友人の誰かを支援している人間なのかもしれないのだ。その可能性が消えない限り逃げ出すわけにはいかない。
「よければあちらでお話しないかい?君の話を聞かせてほしいんだ」
いかない、のだが、どうにもこれは、よくない。
実年齢に合わない見た目のせいで、損をすることはままある。例えば身長が低いため手が届かないだとか、まるで小学生を相手にするかのように接しられたりとか、そういう性癖の人間に言い寄られたりとか。
(コイツは恐らく後者じゃのう。んあ〜〜〜困ったぞ!こういう奴は振り払うのがめんどくてたまらんのじゃ!)
手を繋ごうと差し出される手から逃げようとあれこれ試してみるものの、どれも相手に響かない。むしろ照れているのかな、なんて言い出す始末だ。眉間に皺を寄せてしどろもどろになっている人間が、どうみれば照れているように見えるのだろう。
目がおかしいのではないか、と喉まで迫り上がる言葉を押さえ込むにも限界があるというのに。
「ほら、こんなところで立ち止まっていても仕方ないだろう?さあこっちに、」
「あれ?まだこんなところで飽きもせずに突っ立ってたの?」
もういっそついていった方が面倒くさくないのではないか。上手く立ち回れない自分への失望感からヤケになりかけていた夢野の耳に、つい先程まで耳障りだとさえ思っていた声が届く。
「お、王馬ぁ……」
にしし、といつもの笑顔を浮かべる王馬の姿を確認して、安堵の声が自然と漏れた。自分でも驚くほど震えていたが、今はそんなことよりもこの場から逃れられる可能性に飛びつく他ない。何とか適当な理由をつけて王馬に協力してもらおう、と口を開こうとした夢野は、いつの間にか王馬の背後へと回っていた。
一瞬、何が起きているのか理解が出来ず、呆然としたまま王馬の背中を見つめる。ややあって、自分が移動したのではなく、王馬が夢野と男の間に割って入ったのだと気づく。
「この子に何か用?」
表情を窺うことはできないが、やけに落ち着いた声から僅かに感情を知ることはできた。怒っている、のだと思う。まさか王馬が自分のことでこうも感情を揺らすことなどないとはわかっているが、夢野はどうしてかそう思った。
「……用?ああ、私はただ彼女とお喋りをしたいだけだよ。ただそれだけさ」
突然の乱入者に男の片眉が跳ねる。しかし割り入ってきた相手が夢野とそう背丈も変わらない少年だったからか、すぐに余裕の面持ちに戻った。
けれどもその余裕さは、王馬が口角を上げながら告げた言葉であっという間に崩れる。
「お喋りしたいだけぇ?ふ〜ん、あっそ。ならもう十分したんだから要らないだろ?じゃあね〜〜」
「は?あっ、おい!」
言うやいなや夢野の手を引いて王馬は人混みへと駆け出す。小柄な二人はすぐさま大人たちに埋もれてしまい、ぐんぐんと男から離れていった。
荒げた声が飛んだのは不意をつかれた瞬間だけで、追いかけてくることはない。あの男もそこそこに地位のある人間だ。己の評価を落とすような下手な行動は避けるだろう。とはいえこの会場にいる内は警戒するに越したことはない。
ある程度駆け抜けたところで王馬は立ち止まる。振り返ればぐったりとしながらも、王馬の手をしっかりと握る夢野がいた。
「ま、ここまで来たら大丈夫でしょ。……夢野ちゃーん?大丈夫?もしかして死んじゃった?」
「し、しんでは、おらん……!えん、ぎでも、ない……!」
ぜえはあと大袈裟に肩を上下させる夢野は、今日一番のしかめっ面で王馬を見上げる。
「そんなに走ってないじゃん。何でそんなに疲れてんの?あ、足が短いから?」
「んあ〜〜〜!お主もそんなに変わらんじゃろう!ってそうではなくて!」
ずい、と勢いよく差し出される、飲み物が残ったグラス。どうやら中身がこぼれないようにしていたらしい。
「……いや、そんなこと気にしてる場合じゃなかっただろ」
あのまま、あの場に落としたって誰も文句は言わなかっただろう。夢野の男のやり取りを見た人間は王馬だけではない。そわそわちらちらと、二人の問答を気にかけていた人影はいくつかあった。ただ決定的な場面が訪れなかったため、誰もあの場に割り込むことができなかったのである。
決定的な場面が訪れた時点で手遅れなのだが。
「はぁ、とんでもなく疲れたのう……」
ようやく息が整ってきたらしい夢野がぼやく。そんな彼女へ更に疲れさせるような発言を繰り返しながら、王馬は目の前で百面相をする少女を見下ろした。
想像していた以上の落ち込みぶりに思うところがなかったわけではない。せめて夢野が飲めるものでも持ってきてやろうと少し席を外した途端、通りすがりから一番聞きたくない話が耳へ転がり込んできた。
あっちの方で小さな女の子を捕まえている男がいる。嫌ね、そういう趣味なのかしら。あの目は間違いなくそういう輩だよ、怖いなぁ。
すぐさま踵を返して戻ってくれば、何もかもを諦めたかのような目で男と対峙する夢野がいて。王馬の姿を捉えるなり泣きそうな声で名前を呼ぶものだから、カッと頭に血が昇ってしまった。
(とんでもなく疲れたのはこっちだっつーの……)
自分でもらしくないことはよくわかっている。しかしあんな場面を見せられてしまっては、感情的になるのも無理はない。そう無理はなかったはずだ。恐らく、多分。
「……しかし、王馬よ」
「ん?」
ふと、眉を吊り上げていた夢野が落ち着いた声音で王馬を呼ぶ。突然の変わりようにやや驚いたが、いつもの笑顔を崩すことはない。はてどんな言葉を投げつけられるのかと期待して、彼女の言葉を待つ。
「お主が戻ってきてくれて、本当に助かったぞ。……ありがとう」
「……は、」
「あと先程のお主はその、中々に格好よかったというか、頼りになるというか……」
後半になるにつれごにょごにょと濁されていったが、何か褒めるような言葉を言ったのだろう。頬を赤らめながらもじもじと恥じらいつつ、はにかむ夢野の姿はいつもの気だるげな印象とはとてもかけ離れていて。
「夢野ちゃんさ、なんでこんな時に帽子被ってないの?肝心なときにブスな顔を隠せないじゃん」
「んなっ、人がお礼を言っとるというのにその返しは何じゃ!」
再び眉を吊り上げて怒る夢野の姿に、王馬はこっそりと胸を撫で下ろした。この様子なら彼女が気づくことはないだろう。王馬の笑顔が引きつりかけていることも、声が僅かに震えかけていたことも、仄かに赤らんだ頬のことも。
【育成計画 / 卒業後】
毎月届く、宛名も差出名もない手紙がある。軽い封がされたそれを開けば、出てくるのは決まって数枚のポラロイド写真。撮影された光景は日本のどこかか、はたまた海外のどこかか。どちらにしろ小さな枠に収まっている景色は、何気ない町並みであるはずなのにどこか鮮やかに見える。
その手紙が届くようになったのは、学校を卒業してからちょうどぴったり一年後。最初は誰かのイタズラかと思ったのだが、風景の中に紛れ込む影には見覚えがあった。まさか、と自らの目を疑った夢野であったが、胸のうちに湧いた思いは消えない。
そうして気付けば一年、また一年と過ぎていき、気付けば四年の月日が流れていた。
「……ここまでくると律儀じゃのう」
変わらず、同じ封筒で手紙はやってくる。開けばやはり入っているのはポラロイド写真。小さな枠の中に収められた世界はやはりどこと知れぬ場所のようで、知っている場所のようで。
「……んあ?」
はらりと落ちた一枚の写真を拾い上げる。そこに写っていたのは何でもない、ただの町並み。しかし行き交う人々の隙間から覗く人影に目を奪われる。
そこに写っていたのは他の誰でもない、夢野であった。
「ど、どういうことじゃ……?」
驚いて目を凝らしてみれば、いつも写り込んでいる見知った人影は変わらずあった。同じポラロイド写真の中、行き交う人々の隙間にある人影は自分と彼のもの。
それはつまり同じ時間、同じ場所に二人はいたということだ。
まさか、と慌てて自室へ転がり込む。お気に入りばかりを詰め込んだ宝箱を引っ張り出して、束にしていた写真を一枚一枚確認をした。新しいものから少し古ぼけたものまで、舐めるように見ていけば予感は確信に変わる。
「あ、あやつ……、なんて回りくどい……」
どれがいつ送られてきた写真か、記憶は朧げになっているものの、何枚かに一枚は必ず二つの影が写っていた。それはちょうど、今回送られてきたものを含めて四十八枚。一ヶ月に一回、必ず送られてきていた計算になる。
手にした写真を呆然と眺めていた夢野は、ふと気配を感じて振り返った。風でなびくカーテン。開け放たれた窓の枠に腰をかけているのはニヒルな笑みを浮かべる、写り込んでいたシルエット。
「やっほー、夢野ちゃん!相変わらず朝食の場にお似合いな顔してるよね〜!」
けらけらと笑いながら手を振るのは、王馬だ。靴のまま部屋へ上がり込んできた彼は、座り込んだままの夢野の手から写真をはたき落とす。
「ぜーんぜん気付かないからさぁ、このまま爺さんになっちゃうかと思ったよ。夢野ちゃんの脳みそってちゃんと仕事してる?」
「んあ〜〜!お主のやり方が回りくどすぎるんじゃ!」
無理やり立たされた夢野の腰に添えられた手は、ぐいぐいと窓の方へ歩くように誘導する。逃げようにも力の差は歴然で、あっという間に窓枠へと辿り着いてしまった。
「い、いきなり来たかと思えば何なんじゃ!王馬、一体何を、」
「まぁまぁ、細かいことはいいじゃん。それよりもさ、オレとデートしてよ」
「んあ?お主本当に何を、」
けたたましい音を立てながら降りてくる、大きな影が一つ。閑静な住宅街には似つかわしくないそれは、大きなプロペラを回しながら徐々に降りてきて。
「ほら!行くよ夢野ちゃん!」
「んあ〜〜〜〜〜〜!」
抱き上げられたかと思った瞬間には、既に夢野の体は宙へ浮いていた。刹那の浮遊感があったかと思えば、予想に反して二人の身は上へ上へと連れて行かれる。
あっという間に遠くなる地上。顔を青ざめさせながら王馬を見つめる夢野は、落ちないようにと必死にその背へしがみついた。
「にしし、夢野ちゃん!久しぶりだね!」
「も、もうちょっと普通の再会ができんのかお主は〜〜〜〜!」
夢野の悲痛な叫びと王馬の明るい笑い声は、回り続けるプロペラの音で掻き消えた。
【育成計画】
「はい、これ」
目の前に突如として現れた紙袋を凝視したまま夢野は固まった。いかにも女子が好みそうな、可愛らしい花柄のデザイン。これを赤松や東条が持っていたならば違和感もなかっただろう。
しかしこの女子力全開である紙袋を持っているのは、トラブルメーカーの化身でもある王馬だった。
「な、何じゃ、これは」
プレゼント、ともとれる渡し方に警戒しないわけがなかった。半歩ほど後退した夢野は、怪訝な態度を隠しもせずに王馬をジト目で見つめる。
すると彼は驚いた顔をした後、眉尻をこれでもかと下げながら唇を震わせた。こういった表情をするときは、大袈裟に泣きわめくのが常である。夢野はうっかり踏み抜いてしまった地雷の直撃を防ぐため、咄嗟に両耳を塞いだ。
「流石にそんなことされたら泣かないよ」
しかし予想に反して王馬は子供が駄々をこねるような泣き声を上げることはない。白んだ目を夢野に向けながら、溜め息混じりにそう吐き捨てて。今一度、持っていた紙袋を夢野へ突きつける。
「いや、そもそもこれは何なんじゃ?入ってるものによっては受け取れんぞ……?」
これまで渡されてきたプレゼントの殆どはビックリ箱だ。稀に何ともない、ただのプレゼントもあったことにはあったが、そういった類のものにラッピングが施されていたことはない。だから夢野はプレゼントを素直に受け取れずにいた。
またこれでビックリ箱が渡されたなら、少しの間立ち直れそうにない。
「え〜、やましい物は入ってないよ!」
「……お主のその言葉に何度騙されたと思うておる」
「今度こそホントなんだってー!信じてよ夢野ちゃん!」
ほら、と言いながら紙袋から取り出された箱。いつも渡される物よりはやや小さいそれは、無理矢理に夢野の手へ乗せられる。
驚いて振り払おうかとした彼女であったが、想定していたよりも軽いそれに目を丸くした。ビックリ箱てあるならば、多少の仕掛けがかかっていることからそこそこ重さがある。けれども夢野の手に乗っている箱はとんでもなく軽い。
「こ、これは、何じゃ?」
中身がさっぱり予想できず、首を傾げながら問い掛ける。すると王馬はほんの一瞬頬を引き攣らせ、けれどもすぐにいつもの無邪気な笑顔を貼り付けて笑った。
「そんなの、開けてからのお楽しみでしょ。ていうか夢野ちゃんさぁ、普通そんなこと聞く?デリカシーが無さすぎだよねぇ〜〜!女子として、」
「んあ〜〜〜!わかったわい!あとで一人で確認すればよいのじゃろ!」
矢継ぎ早に飛んでくるディスを遮って、夢野は箱を大事そうに抱える。頬を膨らませながら機嫌を損ねている彼女であるが、どこか嬉しそうに見えるのは気のせいだろうか。それとも。
さてやることは終わったと王馬は踵を返す。じゃあね、なんて手を振りながら声を掛ければ、立ち止まっていた気配が僅かに動いた。
「王馬よ、そもそもこれは何に対するプレゼント何じゃ?」
「…………は?……え、夢野ちゃんそれ本気で言ってる?」
想定外の問いかけに王馬はゆっくりと振り返り、怪訝な顔つきもそのままに夢野を見た。
「いや、だってウチは、その、何も渡しておらんではないか」
もじもじとしながら夢野は呟いた。そうしてだんまりになったかと思えば、ほんのり頬を染めながらやや上目遣いの答えを待っている。
今度こそ、王馬は自身の頬の筋肉が引きつったのを感じた。あらゆる考えを巡らせに巡らせ、今出すべき最適な答えを探す。
沈黙が続くこと、数十秒。
「……もしかして夢野ちゃん、見られてないとでも思ってた?」
絞り出すようにした声は、極力震えないように抑えて発した。意外に洞察力が優れている彼女だから、思わぬところでバレてしまうかもという懸念があったからである。
けれども夢野はそれどころではないようで。顔を真っ赤にしてしどろもどろになりながら、誰に対してかわからない言い訳を始める。
「だ、誰もおらんことをウチはきちんと確認したんじゃ……。それなのに見つかるなんて、そんな、入れる机を確認しすぎたせいか……?」
笑ってしまうぐらい狼狽える夢野。そんな彼女のことを見つめる王馬は、常ならば笑い飛ばしていただろう。
しかしこちらもそれどころではない。
「へぇ〜……、そう。じゃあ夢野ちゃんはしっかり確認した上で、俺の机にチョコ入れたんだ?」
「んあぁあぁ〜〜〜!それは、それはぁ……!」
帽子のつばを握ろうとして、しかし両手は箱を抱えているのでそれもできず。その場で立ち尽くすことしかできない夢野は、やがてしゃがみ込んでしまう。
「……それじゃあ、行くから。ちゃんと、オレに、感謝して、味わって食べてよね〜!」
ぱたぱたと軽い足音を立てながら走り去っていく王馬。その背中に掛ける言葉も見付からず、夢野ははくはくと口を動かしながら見送るしかない。顔を真っ赤に染め上げ、抱えたままの箱を握り締めたまま。一ヶ月前、起こしてしまった己のミスを悔いることしかできなかった。
しかし夢野は知らない。あの場には彼女以外誰もいなかったということを、先程投げかけられた言葉がただのブラフだったということを。
走り去っていった王馬が人気のない場所で一人、蹲って頭を抱えていたなんて、想像だにもしていないだろう。
【紅鮭団】
ポケットから出てきた真新しい箱には、赤いインクで幾何学模様が印刷されている。つん、と鼻をつく糊の臭い。間もなくして取り出されたのは、箱と同じ模様が印刷されたトランプの束だ。
それは夢野の知る、使い込んだものではない。となるとあんな広くて無駄に高い棚が並ぶ倉庫からわざわざ探し当ててきたのだろう。
「それじゃあ、夢野ちゃんにはこれからオレの選んだカードを当ててもらうからね」
慣れた手付きでシャッフルをしながら挑発的に笑うのは王馬だ。二人きりの教室。静寂に支配された空間にパラパラと紙のめくれる音はよく響いた。
やがて扇を広げるかのように机へ広げられたトランプを前に、夢野はようやく閉ざしていた口を開く。
「こういった魔法は普通、当てる側がシャッフルをするもんじゃろう」
不服そうな様を隠しもせず、唇を尖らせながら文句をこぼす。しかしその文句も今朝、王馬に誘われたその瞬間から何度も繰り返されていたものだ。今更この文句を聞き入れてもらえるわけもないとはわかっている。
だからといって引き下がるわけにもいかない。どう考えても自分が不利な状況なのだ。
「え〜〜?そんな『普通』にやったってつまんないじゃん!ここはお得意の魔法でさぁ、ピタッとズバッと当てて見せてよ!」
「んぁー、そうは言ってもウチは今MP不足なんじゃ……」
自らの手で魔法をかけられないのなら、相手の仕草から感情を読み取ればいい。けれどもそれは普通の人間が相手であればとれる手段だ。何を考えているのかわからない、自他共に認める嘘つきな男相手には通用しないだろう。
現に夢野は、王馬の考えが一切わからなかった。どのカードを選ぼうとしているかも、そもそも自由時間の相手に自分を選んだ理由も。
「確率は五十二分の一なんだし、適当に言っても当たるでしょ」
「いや、そんなもの当たるわけがないじゃろ」
「ていうかそもそも夢野ちゃんは魔法使いなんだから、適当で当てるわけないよね?」
並べられたカードの中から、王馬はど真ん中を一枚選ぶ。もちろんマークは夢野へ見せないよう、机の上を滑らせるようにして手元へ引き寄せた。
「さて、オレが選んだのはどのカードだと思う?」
「んあ……、それは当てなければならんのか?」
渋い顔で答える彼女に、王馬は心底がっかりしたと言わんばかりに大きな声を上げる。あまりの声量に驚いて耳を塞いだ夢野だが、すぐさま強制的に両手を外された。
「ゲームなんだから当たり前でしょ!そんなこともわからないなんて夢野ちゃんの頭には何が詰まってんのさ!」
「んああ!当てればいいんじゃろ当てればぁ!」
これ以上好き勝手喋らせれば、どんな言葉が飛んてくるかわかったものではない。大変不本意ではあるが、余計な傷を負う前に遮ってしまう他手はなかった。
夢野のヤケクソな返しに満足したのか、王馬は拘束していたままの腕を解放する。にこにこと楽しそうにしながら伏せていたままのカードを手に取り、夢野の言葉を待った。
「……はぁ、めんどい」
可愛らしさのかけらもない無邪気さに辟易しながらも、彼女はじっと手の前に座る男を観察する。けれどもやはり何を考えているのかなんてわかるはずもない。ということはつまり、何のカードを引いたかも予測がつかなくて。
「…………スペードのキング」
五十二分の一、なんて当たりそうにもない確率に掛けるしかなかった。
「ど、どうじゃ?当たっておるのか?」
恐らく当たっていないだろう。そうわかっていながらも夢野はほんの一握りの可能性に期待せずにはいられない。カードを見たままうんともすんとも言わない王馬へ、恐る恐る問いかける。
すると返ってきたのは何を考えているのかわからない笑みと。
「さてね?……内緒だよ」
たったそれだけの言葉であった。
【紅鮭団】
恋愛観察『バラエティ』というのだから当然、視聴者がいるのだろう。昔からこういった他人の恋愛にスポットを置いた番組は多々あるのだ。その対象がいい大人から高校生に移っただけで、内容にも狙いにも何ら新しいことはない。
他の似たような番組と違うところといえば、出演者の意思を完全無視していることと、やたらと金がかかった施設に閉じ込めるという群を抜いた悪趣味さだろうか。
それにしても出演者を無理矢理拐い、閉鎖空間で恋愛させるという暴挙が許されるような制作会社とは、一体どんな会社なのだろう。今後関わり合いを持たないよう、是非とも企業名を教えて欲しいものだ。
(……あ、)
中庭へ設置された藤棚の花は、毎日はらはらと散っているはずなのに満開のままだ。一日目、二日目は気のせいかと無視もできたが、三日目にもなると流石に疑問を抱かざるを得ない。
昨日の昼、確認のため手にとってみた花びらは本物だった。なのであれ等は頭上から降り注いでいるということで間違いないだろう。けれども藤棚の花は全く減りもしていない。ということはつまり、どういうことなのか。
今日はそれを調べてみるか、とやってきた王馬はベンチに腰掛ける人影に足を止める。
「もう三日目なのに、まだ一人なの?」
うつらうつらと赤い髪を揺らしていた少女が顔を上げる。いつも被っている三角帽子は彼女の横に置かれ、一人分の席を潰していた。
「……お主も一人ではないか」
ほんの少しだけ眉間へ皺を寄せた夢野はそう言うと、上向いていた顔を下げる。不服そうに、面倒臭そうにしている姿は、彼女が決まって王馬へ向ける態度のそれだ。
極度の面倒臭がり。それが夢野秘密子という少女の言動を決定させる基本的な性格である。みんなで仲良くなろうという赤松の言葉も、親友ですもんねと詰め寄る茶柱の言葉も。否定こそしないが肯定もせず、関わり合いにも積極的ではない。
否定しても肯定しても面倒臭い、と判断してのことだろう。
「オレは夢野ちゃんと違って、みんなとコミュニケーション取ってるよ。一緒にしないでほしいな」
言いながら、帽子の隣へ腰掛ける。下げられたままの顔をひょいと覗き込めば、不服そうな顔はそのままにじとりとした視線だけが向けられた。
感情を表立てない夢野のことなので、ほぼ間違いなく反論することはないだろう。またこれまでの経験から、面倒臭がって会話を放棄するかもしれないという予感があった。
けれども無視をできるほどの潔さを彼女は持ち合わせていないのだ。なのでただじとりと、無言で抗議を向けてくるに違いない。
なんて予測は寸分違わずに当たったわけだが、王馬としては面白くはなかった。慌てふためいたり怒ったりする様ならばともかく、薄すぎる反応が予想通りであるのは味気ないにも程がある。
(まぁ、最初から期待してないけど)
ベンチへ両手を置いて、体重を後ろへかける。見上げた藤棚からは相変わらずはらはらと花弁が舞い落ちているのに、空を埋め尽くす花の群れに隙間はできない。このペースで散っているのなら、藤棚の半分は空いているはずなのだが。
気味が悪い、と脳裏で謎を突きながら、王馬は出かかった感想を飲み込む。
「みんなと、コミュニケーションをとっておるのではないのか?」
ふと静かな声が落ちた。まさか話しかけられるとは思っていなかった王馬は、目を丸くしたまま隣へ目を向ける。
ぱちりと、赤茶色の瞳と目が合った。
「そうだけど……、それがどうかしたの?」
「こんなところで油を売っておらんで、他の者のところへ行けばよいではないか」
時間がもったいないじゃろうと続ける夢野の声からは、心底不思議だといった感情が窺い知れる。それに気付いた王馬はますます目を丸くしてしまった。
「夢野ちゃんってさ、もしかしなくても相当なバカなの?」
ついつい指を向けながら指摘してしまう。それでも夢野は大して怒りもせず、眉間へ皺を寄せるだけだ。
ここで感情を爆発させてくれれば少しはからかい甲斐も出るだろう。しかしどれだけ打ってもほとんど響かないのだ。労力を割けば割くほど無駄になるだけである。
「……あのさ、オレはさっき『みんな』って言ったよね?」
「うむ。じゃから、ここで油を売っておらんと、」
「その『みんな』には当然、夢野ちゃんも含まれてるんだけど」
ちゃんとわかってるの、と問い質せば半開きだった夢野のまぶたが徐々に持ち上がる。驚きに支配される顔は、今まで見たどんな表情よりも感情が色濃く出ていた。どうやら彼女は、王馬の言う『みんな』の中に自分が含まれているなど、全く微塵も思っていなかったらしい。
「いや、そんなはずはないじゃろ」
「他の誰でもない、言い出したオレがそう言ってるんだよ?キミに否定される謂れはないよ」
「んあ……」
強めに否定をしてやれば、夢野は難しい顔をしながら足元へ目を落としてしまう。感情の色こそ変わったものの、王馬の瞳に映る横顔からはぐらぐらと揺れる心が窺い知れた。
まさかこんなタイミングで、頑なに感情を表立てなかった彼女の動揺する様を見ることができるとは。理由が理由なので素直に喜ぶことはできないものの、それでも一歩前進できたと言っても過言ではないだろう。
「いや、やはり嘘じゃな」
さて次はどんな感情を引きずり出してやろうか。口角を僅かに上げながら横顔を観察していた王馬だったが、飛び出してきた言葉に固まる。強い確信に満ちた声、いつの間にか半開きに戻ったまぶた、その下から向けられるじとりとした視線。
全てが振り出しに戻っていた。
「……へぇ、何でそう思うの?」
マイペースでどこかズレている夢野のことだ。頓珍漢な考えから王馬の発言を嘘だと決めつけたのかもしれない。それともこの三日間、彼の嘯くばかりの言動を見た上でそう判断したのか。
わからないならばいっそ聞いてしまえばいいと、好奇心もそのままに問いかけてみる。すると夢野は溜め息交じりに、淡々とした口調でこう答えた。
「そもそもお主、ウチにさほど興味がないじゃろ」
ここへ来たのだってウチに用事があったからではないのじゃろ、と続けられてしまえばぐうの音も出ない。何しろ全くその通りだったからだ。
夢野は案外、人を見ている。的はずれな見解を持つことが圧倒的に多いが、たまに確信めいたことを指摘することがあった。その観察眼はマジシャンという、観客の反応すらとエンターテインメントの一部へ変えてしまう職業柄なのかもしれない。
「え〜、そんなことないよ!オレは夢野ちゃんのこと大好きなのに……、興味ないわけがないじゃん!」
けれどもそれを悟られたままにするわけにはいかない。意味有り気な沈黙を生んでしまったが、そんなことなど忘れてしまうようなインパクトで打ち消すように声を上げる。すると案の定、大好き、という言葉で夢野はほんのりと頬を染めた。
全てを嘘に包んで真実をはぐらかす、それが王馬のやり方なのである。悪戯の真意や嘘の真偽も然ることながら、己の本心など以ての外だ。
「なんてね、もちろん嘘だよ!それにしてもすごいよ夢野ちゃん!俺の心を読めるだなんて、まさかエスパーなの!?」
「んあ、ウチはエスパーではない。魔法使いじゃ」
「ま、どっちでもいいけどね。人の心を読むだなんて碌でもない能力のことなんてさ」
「ろ、碌でもないとはなんじゃ……」
お主が振ってきた話じゃろ、と夢野は再び眉間へ皺を寄せる。浅い溜め息を吐きつつ王馬から視線を外す横顔は、相変わらず感情が薄かった。
途切れてしまった会話が再開されることはない。二人の間には沈黙が横たわったまま、何をするでもなくただただ時間だけが過ぎていく。
ベンチに置かれたままの帽子へ降り注ぐ藤の花弁は増えるばかりなのに、やはり頭上へ隙間はできない。
(よくわかんないなー、ほんと)
枯れない藤棚も、逃げない夢野も、立ち去らない自分も。疑問は積み上がるばかりなのに、答えは一向に見つからない。果たして残り七日間という短いようで長い期間の中、全てを解き明かすことができるのかだろうか。
今の王馬には皆目、検討がつかなかった。
【育成計画】
希望ヶ峰学園の食堂には、いつ誰が食事にきてもいいようにと深夜時間以外は職員が常駐している。ここで提供されるメニューは季節物を除いて変わることがほとんどない。そのため日によって厨房を任される人材は変わるのだが、マニュアル通りに作られる料理は大して味が変わることはなかった。
しかし量は別である。やたら小盛りな人間もいれば、やたら大盛りにする人間もいた。今日はどうやら後者だったらしい。どう見ても食べ切れない量を前にして、夢野は眉間へ皺を寄せたまま沈黙する。
茶柱や終里など体を動かす才能を持つ者、あるいは獄原など大柄な者がいれば、おかずを分けるなどして皿を空にできたかもしれない。しかし今日はその誰もがいない、という絶望的な状況だった。
「……他は普通なんじゃな」
他の席で食事をする同級生たちの皿には、多くもなく少なくもない適度な量が盛られている。人によってはやや大盛りかもしれないが、それでも食べきれない量ではなさそうだ。羨ましいことこの上ない。
そもそもこの量は、本日の厨房担当が「食べなきゃ大きくなれないぞ」と無理矢理に多く盛った結果である。言わんとしていることはわからなくもないが、夢野の大きさから胃の大きさを少しは察することができなかったのだろうか。
察することができなかった、もしくは考えていなかったのでこうなっているのだが。
「んあー、どうしたものかのう……」
料理を無駄にしたくはないが、一度口をつけてしまえば誰かに分けることも難しくなる。食べられるところまで食べて、残してしまう他ない。
席について数分。ようやく手を合わせて『いただきます』と口にした夢野は、箸と茶碗へ手を伸ばした。そうして皿に積まれた唐揚げの山へ手を付ける。
「うわっ、何その唐揚げの山。夢野ちゃんってばデブ活でも始めたの?」
あふれる肉汁と香ばしさに舌鼓が打てなくなる頃、何とも失礼な言葉が飛んできた。すぐさま反論してやりたかったものの、夢野の口は唐揚げと白米に占拠されている。今は早く反論できるようもごもご口を動かしながら、ギロリと睨みつけてやることしかでかない。
まるでハムスターのように頬を膨らませる夢野を見てひとしきり笑った王馬は、当たり前のように真正面へ腰掛けた。他にも席は空いているし、彼と仲の良い友人たちの姿もちらほら見えるというのに。
「デブ活などするわけなかろう!これは食堂のおばちゃんが勝手に盛ったんじゃ!」
「そんなの断れば済む話じゃん。何でも人のせいにするなんて、幻滅しちゃうな〜」
「断って!この!量じゃ!」
噛み付くように反論する夢野だが、もちろん王馬には微塵も響かない。憤慨する声も右から左へ聞か流す彼は意外にもいただきます、と口にしてから箸を取る。間もなくして普通盛りの唐揚げへ手を付け始め、にこにこと笑いながら不味いと口にした。
「……お主は、普通なんじゃな」
何を言っても無駄だと、ようやく諦めた夢野は恨みがましく呟いた。未だ半分も攻略できていない山から一つ唐揚げをつまみ、小さなひと口で囓る。
「普通って、何が?特別なことなんてあるの?」
「あのおばちゃん、小さい者には大盛りにする癖があるんじゃぞ。お主もそうじゃと思っておったんじゃが」
西園寺や星も、同じように大盛り攻撃を食らったことがあると聞いている。だから当然、王馬もそうなのだと夢野は思っていた。
しかし王馬が持ってきた定食は、他の生徒と同じ通常サイズである。一体何が違うというのか、不思議でならない。
「小さい者って……、まさかオレのことチビだって言いたいの?ミジンコサイズのくせに生意気だね」
「だっ、誰がミジンコじゃ!!そう大して変わらんじゃろうが!」
やんややんやと盛り上がる二人に自然と注目が集まる。けれども騒ぎの中心に王馬がいると気付いた者から、そっと視線を外していった。
誰しもが、絡まれたら面倒なので放っておこう、と思っているに違いない。
「それで?この山、全部食べ切れるの?」
行儀悪く箸で指すのは、先程から減っていない唐揚げの山。これから先、減る目処の立っていないそれを見る夢野の表情は暗い。
茶碗に残る白米へ乗せた、囓りかけの唐揚げと格闘する彼女を眺めて数分。自分の分をほとんど食べ終えた王馬は、箸先をすいっと夢野の方へ向ける。
「んあっ、王馬!何をしとるんじゃ!」
ひょいと取り上げられた唐揚げは止まることなく王馬の口へ消えていく。呆気にとられていた夢野だったが、二つ目のそれが取り上げられたところでようやく非難の声を上げた。
けれども王馬の箸が止まることはない。あっという間に二つ目を飲み込み、三つ目に手を付けようとする。
「王馬っ」
「何でそんなに怒ってんの?オレは夢野ちゃんのために食べてあげてるのにさ〜」
「う、ウチのためじゃと……?」
「そうだよ。どうせこの量食べきれないんでしょ?残して捨てるなんて勿体無いじゃん」
そんなこともわかんないの、と王馬は溜め息交じりに夢野へ責めるような目を向ける。反論しようと開きかけた口は、思わぬ正論にぐうの音も出すこともできなかった。
いつの間にやら逆転してしまった立場に不満を感じないわけがない、ものの。残すことに罪悪感を抱いていた夢野としては、王馬の助けは有り難いことこの上ない。出来ることなら残り全部食べてくれてもいい、なんて思ってしまう。
とはいえ流石にそこまでやってもらう訳にはいかない。食べかけの唐揚げを頬張り、もぐもぐと一生懸命口を動かす夢野は手付かずだった味噌汁に口を付ける。当たり前だが冷めきったそれは少しだけ塩辛く感じた。
「夢野ちゃん、オレにちゃんと感謝してよね。キミのせいで何十羽の鶏が無駄に命を散らすところだったんだからさ!」
「んあー、流石に何十羽は言いすぎじゃろ」
ニヤニヤとしながら言葉を掛けてくる王馬に渋い顔を向ける夢野。いつもと変わらない、他愛のない掛け合いは止まるところを知らない。
二人の間にそびえ立っていた唐揚げの山は今や見る影もなく、添え物の野菜を残すのみである。
【育成計画】
「ねぇ、オレと別れてよ」
陽射しも柔らかく麗らかな、まだ桜の花も散り終わらない春の日のこと。オープンテラスのカフェに行こう、と誘われるがまま訪れた川沿いの店。爽やかな風が頬を撫でていく中、目の前に座る少年がそんなことを言い出す。
「……うむ、よいぞ」
「あれ、理由は聞かないんだ?」
「理由を聞いたところで、今更どうすることもできんのじゃろ?だったら聞くだけ無駄じゃからな」
春限定なのだという、苺をふんだんに使ったクリームソーダは甘くて酸っぱい。暖かくなってきたとはいえ、ソフトクリームはまだ冷たかったな、とちびちびストローで飲み進めながらそんなことを考える。
あっさりとしすぎた反応はもちろん、面白くはない。もっと慌てたり、はせずとも呆れたりはするかと思っていたのだが。
「ふーん。随分あっさりなんだね?」
温くなってしまったコーヒーに口を付けながら言えば、目の前に座る少女は眉間へ皺を寄せる。
「何じゃ、もっと慌てふためけばよかったのか?それとも泣いて喚いて捨てないでと懇願でもすれば満足か?」
「流石にそこまでされたら引くよ」
その様を想像したのだろう。うげー、と少年は顔をしかめながらそう言った。
ほれ見ろ、と半開きの目を向ける少女は、スプーンで溶けかけたソフトクリームをひと口分すくう。
「まぁ、そんな取り乱し方は頼まれてもしたくはないがのう」
舌に乗せればあっという間に溶けていく。甘くてクリーミーなそれは体を容赦なく冷やすが、肩に掛けられたジャケットのおかげで震えることはない。
残り半分もないクリームソーダは、飲み終わるまで大した時間を必要としないだろう。ソフトクリームをつつく少女から目線を逸して、眺めるのは穏やかに流れていく川の水面。桜のアーチがかかっていることで桃色に染まるここを、周囲の客たちは綺麗だと目を輝かせて写真を撮り続けている。
けれども自分の連れが桜に目を奪われたのは一瞬のことであった。すぐにテーブルへ置かれたメニューへ釘付けになり、目を輝かせながらどれにしようと相談してきたのである。
「……デザートは?食べられる余裕ある?」
「んあ?んー……、ちょっとならイケるぞ」
「キミの『ちょっと』は信用ならないんだよねぇ」
溜め息混じりにメニューを手に取り、デザート名が並んでいるページへ目を落とす。パンケーキが人気なのだと聞いてはいた。確かにその通りのようで、並んだ文字の半分はパンケーキを指すものばかりである。
少女が言っていた『ちょっと』からは大幅にオーバーする量だ。
「残ったら食べてくれるんじゃろ?」
「え〜〜、オレが甘いもの好きじゃないの知ってるでしょ?」
「んあー、そうだったのー」
白々しい返答をすると同時に、ひょいと少年からメニューを取り上げる。顎に手をあてながら考え込む仕草を見せる少女の目は真剣だ。
「別にここじゃなくてもいいじゃん」
パンケーキの量を確認した彼女は、早々に別の場所へ目を向ける。そこには確かパフェやら何やらの名前が載っていたはずだ。
「んー……、いまいちパッとせんのう……」
「じゃあ次のところ行こうよ」
難しい顔をする少女からメニューを取り返して、所定の置き場へ戻す。不満げな顔をしていた彼女だったが、少年が伝票を持って立ち上がったことで、慌てて帰る支度を始めた。
「ま、待て、今日は割り勘にすると、」
「そうだったっけ?覚えてないなー」
ひらひらと伝票を振りながら、さっさと歩いていってしまう背中を慌てて追いかける。けれどもうっかりスマートフォンを机に置き忘れてしまったことを思い出した。
駆け足で取りに戻り、レジカウンターへ辿り着いたときには既に何もかもが終わっていて。
「んあぁ〜〜〜、またやられた……」
「そのどん臭さじゃ無理だよ。……ほら、ジャケット返して」
「んあー……」
肩に掛けていたままだった男物のジャケットを少年へ返す。受け取るなりさっさと羽織る彼の横に並び立って、少女はじいと横顔を観察した。
「……何?」
怪訝な顔で見つめ返す少年の手を取ってみる。すると少しだけ驚いたような顔をしながらも、指先へは力が込められた。
どちらともなく歩き出せば、やがて少女はふふふと小さく笑う。
「お主にしては、ベッタベタのベタじゃったのう」
四月一日、午後二時半。エイプリルフールに賑わうこの日に吐くにはとても稚拙すぎる嘘だ。
「何したって嘘だって言われる日だからね。そんな日に力入れたって無駄でしょ?……まぁ、でも」
つまらなかったかな、と続けた少年は握られたままの手へ力を込める。少し見上げた先にある表情からはあまり感情が読めなかった、けれども。
「こんなに至れり尽くせりで、ウチを楽しませてくれるデートを用意する男が、あんなこと言うとは思えんかったからのう。……それでもまぁ、少し肝は冷えたものじゃが」
握り返した手は温かくて、少しだけ汗ばんでいる気がした。けれども離されることはないまま、二人は迷いのない足取りで町中へと姿を消していった。
【本編軸 / 修了式後】
目を覚ますと暗闇の中にいた。前も後ろも、右も左もよくわからない。はてここは何処なのだろう。ぼんやりと霞がかった頭で出した答えは、地に足がついている感覚がするので、地面はあるのだろうということだけだった。
しばらくして暗闇にも慣れた頃。よくよく目を凝らしてみれば、壁も床も濃紺で揃えられていることに気付いた。光源のない世界でこの内装はよろしくない。これでは自分の居場所さえもわからなくなるではないか、なんて文句を口にしたところで、館内メロディが鼓膜を揺らした。
(アクアリウム……、水族館……?)
いつの間にか手にしていた紙切れには、英字で水族館と記されていた。しかし肝心の、どこの水族館を示す名称は黒く塗りつぶされている。
異様だ、とは思った。けれども考えたところで答えは出ないことを知っている。
ゆっくりと歩き出せば目の前に現れるゲート。顔なしの、どこかで見たことのあるようなないような制服を着た女性は、チケットから半券を千切る。そうしてないはずの顔で笑顔を作り、軽やかな声で告げる。
「再入場はできません。ご注意ください」
いつの間にやら通り過ぎていたゲートから足を遠ざける。薄暗い通路を抜けていけばやがてたどり着く大きなホール。巨大なガラスの向こう側では、青い世界が広がっていた。
悠々と泳いでいる魚の群れは、自由のようでいてあの水槽からは出られない。それを彼らは知っているのか知らないのか。疑問に思ったところで知ることはないだろう。
何しろ自分は魚ではないのだ。意思疎通なんてこの先も出来やしないから、一生をかけてもわかることはない。
「あれ、水槽を出ても大丈夫なの?」
巨大水槽を眺めていた背中がくるりと回り、顔を見せた少年が不思議そうに眺めてくる。頭の後ろで組まれていた手は解かれ、水槽とこちらを交互に指さして見せた。
さされた指の先にいるのは見慣れた青魚。よくもまあ、あの群れからそれをわざわざ見分けるものだ、と感心するやら呆れるやら。溜め息を吐きながら歩み寄れば、少しだけひんやりとした空気が肌を撫でる。
「……人の容姿を貶すレパートリーがアジしかないのか、お主は」
「別に他の魚がいいならそっちにするけど。例えば……そう、アレとか」
青い閉じられた世界の中から探し当てられたのは、なんとも不細工な顔をした魚であった。あれは何なのだろう。きょろきょろと辺りを見回してみたが、幸か不幸か名称を表すプレートは見当たらなかった。
「……アレは何じゃ?」
「さぁね、知らない」
ダメ元で聞けば、返ってくるのは想像どおりの言葉だ。それもそうかと、何となく納得ができてしまったので追求は避ける。
二人並んで、ゆったりとした時間の流れる青を眺める。縦横無尽に泳いでいる魚たちの名前などほとんど知らない。そもそも名前のついた魚ばかりがここに閉じ込められている確証がなかった。
何しろ鮫も鯨もクラゲも同じ世界で過ごしている水槽など、見たことも聞いたこともなかったからである。
「ここはどこなんじゃろうな」
問い掛ければ、いつの間にかこちらを見つめていた瞳が逸らされる。頑なにその場から動かなかった足が床から離れ、白い背中はゆっくりと遠のいていく。
付いてこい、とは言われていない。けれども置いていかれてしまうのは嫌で、嫌で、仕方なくて。やや小走りで曲がり角の先に消えていった彼を追い掛ける。
「ここからは個別展示だってさ」
ぼんやりとした青の中で振り返った彼が言う。促されるまま目線を走らせれば、先程とは比べ物にならない小さな水槽が等間隔に並んでいた。狭すぎる世界を共にする魚は一種、もしくは二種。共存ができるよう意図的に組まされたことを彼らは知らない。
「キミはどんな魚が好き?」
二つ先の展示水槽の前で投げ掛けられる声。赤い熱帯魚をぼんやりと眺めていた顔を、応えるように真正面へ向ける。薄暗い館内では表情は読めない。
「そうじゃのう……、やはりイルカじゃな」
「キミって魚と哺乳類の区別もつかないくらいの馬鹿だったっけ?」
「区別はついとるわい。……好きな魚なんて、そうパッと浮かばんかっただけじゃ」
食べ物としての魚ならいくつか候補が上がる。けれどもこの施設の中で、食べ物としての好きな魚の名を挙げれば、別の罵倒が飛んでくるような気がしてならなかった。何を言ったところで馬鹿にされるのなら、マシな方を選ぶのが道理だろう。
果たしてこちらの答えが本当にマシだったのかは、彼のみぞ知ることだ。
「でも意外だったなぁ。デリカシーの欠片もない子が気を遣うなんてさ」
にしし、と笑いながら言う。こちらを映し込むからかいの瞳は暗闇に染まり、濃い夜の色をしていた。
わかっているのならわざわざ指摘してくることもないだろうとか、そもそも答えの予想が出来ているなら問い掛ける必要はあったのかとか。聞きたいことは多々あったけれど、尋ねたところではぐらかされるのは目に見えている。
「……お主はよくわからん奴じゃのう」
結局言葉にできたのはありきたりな感想だった。もう少しマシな言い方ができただろうに。語彙力のなさに自分で自分が嫌になる、けれど意外にも言及されることはなかった。
薄っすらと笑みを浮かべた彼は、ゆったりとした足取りで先に進んでいく。そうしてまた曲がり角の向こうへ消えていくので、慌てて白い背中を追い掛けた。
(白い、制服……)
特徴的な市松模様のストールと、改造されたのだろう真っ白な制服。そういえばそんな服を着ていたのだった、と思い出すと同時に視界が低くなった。
パタパタと音を立てる足元には、つま先が丸まったブーツがある。跳ねるように揺らめくのは真っ赤なバルーンスカートで、頭の上に僅かな重みを感じた。
ああそうだ、自分はこんな姿をしていたんだっけ。小さな水槽へ映る少女を横目にしながら、足を止めずに通り過ぎる。
「……ここ、は、」
「熱帯雨林コーナーだよ」
道なりに続いている水槽の水面は目線と同じだ。流木や植物で飾り立てられた岩場から、絶えず水が流れ落ちている。足元のすぐ横をゆったりと泳いでいる長い魚は確かに、アロワナだっただろうか。
すうと小型の鰐が泳いでいくのを目で追えば、その延長線上で彼が笑っている。一体何を考えてそんな笑顔を向けているのか、やはりよくわからない。
「不思議だよね。一緒に入れられているのに、食べないなんてさ」
「……そうじゃな」
指さしている先にあるのはただの水だ。淡水魚も鰐も何もいない。
けれど彼には確かに見えているのだろう。でなければ意味ありげに言葉にすることも、わざとらしく指差すこともないはずだ。
「……ここ、つまんないね。次のところへ行こうよ」
浮かべていた笑顔を消して、少年はすたすたと歩き出してしまう。けれど視線は水槽から外すことができなかった。置いていかれるかもしれないという不安は未だ胸にある。それでも立ち止まったまま、見えない影を探すしかない。
だってもう、置いていかれるかもなんて心配は無駄なのだと、知っているから。
「早くおいでよ」
隣に立っていた彼が言う。その横顔は水槽から届く照明に晒されているのに、ぼやけてよくわからない。
そうしてまた思い知らされる現実が悲しいのか辛いのかわからなくなって、逃げるようにその場を去った。しかし彼が追いかけてくることはない。じっと、水槽の住人を紹介するプレートを眺めたままだ。
真っ黒なプラスチックのプレートに記されたピラニアの文字。学術的な説明文の横にあるはずの写真に、その姿はない。
「どこ行ってたの」
先ほどとは一転、真っ白な部屋へ立っていた。どことなくひんやりするのは、ここが北極付近の海を紹介するブースだからだろう。
休憩用のベンチに座っていた影が立ち上がる。へらりと笑っている彼は確かに、後ろの熱帯雨林コーナーへ置いてきたはずだ。どうして先回りができたのだろうとしばらく考えて、恐らく彼だからだろうと結論付ける。
段々と、考えることが億劫になってきていた。頭もぼんやりとしていて、ずしりと重い気がする。足取りだって決して軽いものではなくなっていて。
「ほら、もう少しだから頑張りなよ」
何をと聞こうとするより早く、遠のいていく背中。伸ばした手が触れることはないそれに近付きたくて、懸命に足を動かした。
ペンギンたちの戯れも、深海生物たちの静けさも。全てを通り過ぎていくのに会いたい背中が見つからない。苦しくて堪らなくなる、のにどうしてこんなにも辛いのかがわからなくて。
いや、わかっているはずだった。けれど靄がかかったように答えが掴めない。そうじゃない、見えないフリをしているだけじゃないか。
本当は全てを知っているのに。
「はぁ……、はぁ、……っ、」
駆け抜けて駆け抜けて、ようやく見つけた彼はゲートの向こうで笑っていた。ひらひらと手を振りながら、遅かったねと言う姿が憎たらしく見えて、死にたくなるほど苦しくなった。
「残念だったね。再入場はできないんだ」
最初に言われたでしょ、と続けた彼の手には半券の千切られたチケットが一枚。はっと思い出して両手を見下ろすが、先ほどまであったはずのチケットは見当たらない。ポケットの中も帽子の中も探してみるが、見つかることはなかった。
「……なん、で、」
けれど、心のどこかではきっと見つからないだろうと思っていた。けれども諦めきれない気持ちが心のフチに居残り続けている。まだ一緒に居られるのではないかと期待を持ってしまう。
そんな心情を知ってか知らずか、彼は慌てふためく姿を指差しながら笑った。けれど特徴的であるはずの声は朧げで遠い。
「……キミはまだ、こっちに来ちゃだめだよ」
ふと耳元で声が聞こえた気がした。振り返るもののあるのは闇だけで、驚いて前を向けばそこも闇しか広がっていない。
ああ終わりなんだと、ゆっくりとまぶたを下ろす。途端に地についていたはずの足が揺れて、全身を浮遊感が襲った。
「卒業したからには藻掻いて足掻いて生き延びてくれなきゃ困るな。その姿が例え無様でも、オレは笑わないからさぁ」
にしし、と明るい笑い声が鼓膜を僅かに揺らした、気がした。
マジカルショーと銘打った公演で、水中脱出に失敗したらしい。原因は会場スタッフの器材調整ミスだったという。あわや溺死寸前といったところで救出された夢野は、三日ほどこんこんと眠り続けたそうだ。
代わる代わるやってくる医者と看護師に検査され、ようやく落ち着いた頃。最原と春川に事の顛末を聞かされた。
「本当に、死んでしまうかもって、思ったんだ……」
涙声で言う最原は、仕事を全て蹴って付き添ってくれていたらしい。その隣で難しい顔をする春川だって言葉にすることはないが、目の腫れがどういう心境であったかを教えてくれた。
「……心配をかけてすまなかった。ありがとう」
うまく笑えなかったが、できるだけ優しい声を掛けてやればどちらともなく涙が溢れた。ぼろぼろと落ちていくそれを拭いたくて手を上げるものの、点滴やら何やらのコードに阻まれて上手くできない。
(そういえば、触れてこなかったのう……)
夢と現、あの世とこの世の間だったのかもしれないあの場所で、触れなかった肌。もしも触れてしまったら二人の元へは戻れなかったのだろうか。
今となっては分からず仕舞いである。でもきっと、それでいいのだと思った。
「……まだ、死なせてもらえんみたいじゃからな」
あれはただただ、夢野にとって都合のいい夢でしかない。だってあの、何を考えているかさっぱりわからない捻くれ者が助けてくれるわけがないのだ。
それなのに耳元で軽やかな笑い声が聞こえるような気がして。いつまで困らせるつもりなのだろう、と夢野は苦い笑みを浮かべながら目を伏せた。
【紅鮭団】
どさり、と耳元で布に何かを叩きつけたかのような音が上がる。それと同時に背中へ走った衝撃から、音の正体が自分なのだと遅れて知った。いつの間にか視線の真正面には常日頃あまり見ることのない天井が広がっている。
「……何じゃ、急に」
間もなくして視界へ滑り込んできた男の顔は、いつもより影が掛かっていてわかり辛い。ただ薄っすらと笑んでいるのだろうことはわかっていた、というより知っていた。
それというのもつい先程までと雰囲気が変わっていないからである。つまり推測でしかない。
「何って、まだわかんない?」
起き上がろうとシーツへ立てた腕を取られる。重心を失い再びベッドへ沈んだ頭の横へ、押し付けられる奪われた腕。力の限りとは言わないが、そこそこ体重の乗った押さえつける力に、痛みを感じないわけもない。
少しだけ顔が歪むと同時に、笑みの差していた顔から柔らかな雰囲気が消える。
「夢野ちゃんさぁ、危機感なさすぎだよね。男の部屋に遊びに来て、何もないとでも思ってんの?」
ぎち、と手首を拘束する指先に力が込められる。逃さない、と言葉にせずとも分かる意思表示であった。
どうしてこんなことをするんだろうとか、何でそうも怒っているのだろうとか。次から次へと湧いてくる疑問はあったが、それについて考えるほどの余力は脳にない。
「こうして抑え込まれたらさ、何もできないでしょ?キミみたいな小さい子なら尚更、抵抗したって無駄なんだ」
馬乗りになるように覆い被さってくる王馬の表情は相変わらず暗くてよくわからない。けれど降り注ぐ声から、握り込んでくる指先から怒っていることだけはよく思い知らされる。
とはいえ夢野としては、ここまで怒られる理由がよくわからなかった。確かに王馬の言うことは正しい。思春期の男女が個室に二人きりなど、何か間違いが起きてもおかしくはないだろう。
けれどそもそもの話、だ。
「……ウチは王馬の部屋にしか入らんぞ?あと誰か訪ねてきても、お主しか入れん」
女子は別じゃが、と付け加えればひくりと口角が震える気配がした。もしや火に油だっただろうか、と心配になったものの、声にしてしまった言葉を撤回することはできない。
どんな罵声が投げつけられても耐えられるように、腹へ力を込める。
「……訪ねてきた、相手が押し入ってきたらどうすんだよ」
「んあ。それは……、どうしようかのう……?」
言われて初めて、夢野はその可能性に気付いた。寄宿舎の扉にはチェーンなんてものは付いていない。仮に付いていたとしても、それを破れるものなど倉庫に行けばごまんとあるだろう。
この場へ集められたメンバーの中でトップの鈍臭さである夢野だ。きっと抵抗する間もなく押し入られてしまうかもしれない、とそこまで想像して全身から血の気が引く。
「ほら、何の抵抗もできないでしょ。何か反論ある?」
「んあー……」
反論などできるわけもなかった。すっかり困りきった顔で縮こまる彼女は、やっとのことで自分の考えが甘かったのだと思い知ったらしい。
これで少しは身の振り方を考え直してくれればいいのだが、と思う一方で解決していない問題が一つ。
「…………ねぇ、オレの話ちゃんと聞いてた?」
ここまできても尚、夢野は抵抗する素振りすら見せない。押さえつけている腕だけでなく、全身に力すら入れてないように思えた。
もっと警戒心を持て、と言ったのは何も他の男相手だけではない。当然、彼女へ覆い被さっている王馬もその中に含まれている。
「んあ?ちゃんと聞いておったぞ?」
「なら抵抗して逃げるなりしなよ。オレが今何してるのか、わからないほど初心でもないんだから」
「……そ、れは」
ようやく夢野を解放し、身を起こした王馬は何かを言い淀んでいる彼女を見下ろす。やがてのそのそと起き上がって視線だけをよこしたかと思えば、ほんのりと目元を赤く染めて。
「お、王馬相手じゃから、じゃろう……そんなの……」
消え入りそうな声で言い、ふいと顔を反らす。少しだけ乱れた髪の隙間から見える山なりは、膨れっ面をしている証だ。
夢野の、こういう予想外に不意をつくところは一種の才能かもしれない。口を吐いて出そうになった言葉を喉の奥に押し留めて、王馬は乱暴に頭を掻いた。
振り回すのはいつだってこちらで、彼女の一挙一動に振り回されてなどいない。そう念押しする為、膨れたままの頬へと手を伸ばす。
「それっぽいこと言って誤魔化そうとしてもオレは騙されないからね」
「んあっ!いひゃ、いひゃいじょ、おーみゃ!」
涙目になってこちらを睨みつけてくる夢野は怖くもなんともない。むしろもっとイジり倒してやりたくなる衝動に駆り立てられるだけだ。
(あー……、でも、)
どうせならじゃれ合いのようなからかい方ではなく、そっちの方面でからかってやればよかったかな、なんて考えがふと脳裏に過る。しかしそんなことをすれば本当に、取り返しがつかない間違いが起きていたかもしれない。
そうだとわかっていても、勿体なかったなと思ってしまう自分がいて。やはり思春期の男女が個室に二人きりなど、その気がなくてもなるもんじゃない。にやにやと意地の悪い笑みを浮かべながら王馬は、改めて夢野の危機感の甘さを少しだけ呪った。
【育成計画】
ど派手な彩色でデコレーションされたワゴンの周りには、これまたど派手な彩色をされた登りが一つ二つ三つ。ごちゃごちゃとした若者向けのストリートの中でも、馬鹿みたいに目立つそれは人気のクレープ屋である。
きゃあきゃあと色めき立つ、同い年ぐらいの少女たち。彼女らの目的はキャンペーン中である特盛クレープなのだろう。そんなものを食べて夕飯は入るのかと思うのだが、甘いものは別腹という謎理論で解決してしまうのだから女子という生き物はよくわからない。
ところで、このキャンペーンの恩恵を受けるためにはある条件を満たさなければならなかった。容易なようで、一部の人間にはハードルの高い要求。それを知っているものだと思っていたのだが、どうやら隣で固まっている少女は知らなかったらしい。
「ちゃんと下調べしなよって、毎回言ってる気がするんだけど」
「んあ……」
週末限定カップル割、なんて今どきあるのかと感心する。そしてキャンペーンという言葉だけ拾い上げ、ほぼ無理矢理ここへ連れてきた夢野にも感心した。
「ま、まさかそんな条件があったとは知らなかったのじゃ……。だって今どきこんなキャンペーンなぞ流行らんじゃろ」
「流行ってるからキャンペーンなんでしょ。自分の失敗を棚上げするどころか責任転嫁までするなんて、夢野ちゃんには幻滅しちゃうな〜」
「うぅ……」
困り果てて苦し紛れにこぼした言葉を拾い上げてやれば黙り込んでしまう。赤いのだか青いのだかよくわからない顔色からは、嫌というほど彼女の混乱が見て取れた。
沈黙を保つこと数分。いい加減どうにかするか、と隣へ視線を向ければ、ぱちりと目が合う。そこにはまだ躊躇いを残すものの、何か覚悟を決めたような眼差しがあった。
「ここまで来たのじゃ。条件が何かは知らんが、食べないで帰るという選択肢はないぞ……!」
胸の前で両手を握り締める夢野。強い眼差しは人だかりに向けられており、その先にあるだろう店を見据えているのだろう。
決意表明をする夢野を眺めていた王馬は、遥か先にある店へと目を向けた。すると彼女よりほんの少しだけ高い視線から、とあるものがばっちり見える。
よくもまあ人目も憚らずにするものだ。
「夢野ちゃん、ちょっとこっちおいで」
「んあ?何じゃ、そっちに行くと列から逸れるではないか」
「いいから。こっちにくれば、キミの気になってる条件がわかるよ」
人だかりから抜けて手招きをする。不満そうな顔のまま、しかし条件が気になって堪らない夢野は、促されるまま王馬の元へと歩み寄った。そうして隣立ったところで指をさされた方へ目を向けて、ぎょっとする。
「カップルである証明だってさ」
「は、ば、馬鹿じゃろあんな、き、ききすなど……!」
「あはは、オレもそう思う」
きゃあきゃあとやたら色めきだっている理由を初めて知った夢野は、顔を真っ赤にしながらいちゃつく男女を指をさす。大変失礼な行動だが、二人の世界に入っている彼らに届くことはない。
何であんなこと、と混乱のあまり王馬に詰め寄る夢野。珍しく彼には何の非もないことはわかっているのだが、どうにもうまく回らない頭では状況を受け入れ難かった。
「はー……。あのね、そんなに滅茶苦茶に言うけど、ついさっきまでオレたちもあっち側だったんだよ?」
「そ!それは!知らなかった、から……、うぅ……すまん……」
感情が振り切れて、ようやく我に返ったのだろう。ぐす、と鼻をすすりながら夢野はしょぼくれた。まるで捨てられた子犬のような、憐憫を誘う姿である。
恐らくは今頃、彼女の胸中は後悔と申し訳なさで満たされているに違いない。どうやって詫びようか、どつやって挽回しようか。そんなことばかり考えているのだろう、と顔を見れば手に取るようにわかる。
こういうとき、やたらめったらわかりやすいのは便利だと思った。
「別にクレープ食べるだけなら、ここじゃなくてもいいでしょ?別のとこ行けばいいじゃん」
「……んぁ、まだ付き合ってくれるのか?」
きょとん、とした顔が王馬を見上げる。夢野からするとまさかの提案だったようだ。
「オレだって食べる気でここに来たんだよ。何もせずに帰る訳がないじゃん」
これまた珍しく嘘偽りない、心からの本音である。折角の休みにわざわざ人でごった返す中をくぐり抜けてきたのだ。無駄に労力を使うだけで終わるなど、冗談ではない。
ほら、と差し出しされた手と見下ろす王馬の顔を見比べる。少し悩んだ素振りを見せていた夢野だが、やがておずおずとその手を伸ばしてきた。
「……王馬、すまんな。ありがとう」
「お礼なら言葉じゃなくて現物がいいな〜」
「ふふ、わかっておるわい。今日はウチの奢りじゃ」
重なった手を取ってにいと笑ってやれば、ようやくしょぼくれていた夢野の顔に笑みが戻ってくる。それに少しだけ安心するものの、もちろん顔に出すことはない。
背後では未だ色めき立つ声が止まない。わっと上がった歓声に興味を引かれたのか、ちらりと目だけで夢野が振り返る。彼女が何を考えているのか、横顔からは上手く読み取れなかった。
「夢野ちゃん?」
声を掛ければ、はっとした様子で王馬の方を向く。わたわたと目に見えて慌てる夢野は、握られた手もそのままにさっさと歩き出した。
引きずられるように歩く形となった王馬は、やがて早足で先を行く彼女の隣へ並び立つ。覗き込んだ顔はほんのりと赤く、下げられた眉は困っているような悩んでいるように見えて。
「……ねぇ、夢野ちゃん。そっちには店なんてないよ」
おーい、と語りかけても反応らしい反応はなかった。ずんずんとただ進むだけの彼女に、今は何を言っても何をしても無駄だろう。意図して無視をしているわけではないのだが、反応がないのは少しばかり寂しい。
それでもいいか、なんて思えてしまうのは、数分後には夢野の狼狽える姿が見られるからだろう。一体どれほど慌てて困ってくれるのか、想像するだけでも頬がついつい緩んでしまうものだ。
とはいえ変なところに突き進まれては困る。彼女が我に返るまでは行く先を誘導することにしよう、と王馬は握られたままの手を柔らかく引いた。
【育成計画】
そこまで高いヒールではなかったはずなのに思いっきり足首を捻ったのは、慣れていないからか鈍臭いからか。派手にすっ転ばなかったからよかったものの、あのまま顔から突っ込んでいれば間違いなくスカートの中身を披露することになっていただろう。近くにいてよかったと心の底から思う。
「今日はもう、歩き回らないほうがいいわね」
細い足首を丁寧に支えていた指が離れる。困ったような顔でそう忠告するのは、同じくたまたま近くにいた東条だ。ウェイターから冷えたおしぼりを受け取った彼女は赤く腫れる足にテキパキと処置を施していく。
「折角のパーティーだからと気合を入れすぎてしまったわね。ごめんなさい、夢野さん」
「んあ、東条が謝ることではないぞ。ウチが何もないところで転んだのが悪いんじゃ」
謝る東条をフォローする夢野の顔はもちろんしょぼくれている。痛みなのか情けなさなのか、眉間に寄った皺はそこそこ深い。
「代わりの靴を探してくるわ。王馬君、私が来るまで夢野さんのことをお願いね」
す、と立ち上がった東条はそれだけを言うと、こちらの答えを聞かずに人混みへ消えてしまった。どうやら拒否権はないらしい。
とはいえやろうと思えばさっさとこの場から退散することはできる。適当な言葉を並べて夢野へ背を向けても、恐らく彼女はこちらを責めない。むしろ申し訳なさそうな顔をより悲壮なものに変えて謝ってくるのだろう。
「……それ、自分で選んだんじゃないんだ」
ここで追い打ちをかけるほど自分も鬼ではない。だからといって元気付けるのもキャラではないので、少し引っかかった会話を蒸し返してみる。
「うむ。今日は東条たちに全身コーディネートをしてもらったのじゃ」
「へぇ。何で?」
「それは……、まぁ…………」
そこまで言って夢野は黙り込む。あんまり言いたくないといった態度がありありと見て取れた。
いつもならばここでちくちくと口を割るように弄るのだが、今の状態では突いたところでより落ち込むだけだろう。東条が戻ってきたときに夢野の様子がおかしければ、責められるのは明らかだ。
そうして東条から赤松へ、赤松から茶柱に話が伝わってしまえば、見せられる地獄は常よりも苛烈に違いない。
「……大したことでは、ないんじゃが」
想像しただけで背筋が凍るな、なんて思ってもないことを考えていれば横から声が飛んできた。まさかそちらから口を開くとは思っていなかったので、僅かに驚きながら斜め下を見やる。
「ウチはほら、その、どう背伸びしてもちんちくりんじゃろう?でもたまには大人っぽいものを着てみたいと言ったのを、アンジーが聞いとったらしくてのう」
「確かに大したことじゃないね」
「んあ」
出し惜しみされていた真実はありきたりなもので、意味ありげに告白されたところで驚きなどなかった。むしろ呆れてしまってつい口を滑らせてしまえば、しょんぼりとしていた肩がより丸まってしまう。
ああしまったな、と今度は本心から言葉が湧き上がった。落ち込ませるつもりも泣かせるつもりも最初からない。しかしながら素直に優しくするなど到底できない性分なので、どうにもこうにも拗れてしまう。
「……下手に背伸びをするものではないな。王馬よ、すまなかったのう。お主にも迷惑をかけてしまった」
へにゃりと笑いながら夢野が言う。力もなければ覇気もないそれを見せられて、何も思わないというわけもない。
けれどやはり素直になることも優しくすることもしっくりこないのだ。
だからといって落とされた肩と丸まる背中を放っておくこともできず。込み上げる溜め息を何とか押し止めながら口を開いた。
「別にいいんじゃないの。たまには」
似合ってるなんて言えず、いつもの方でも可愛いとも言えず。何とも中途半端な慰め方になってしまい、舌打ちが出てしまった。
しかし下へ向けられていた視線が刺さる気配がし、そうかと少し明るい声が微かに聞こえたので、効果がなかったわけではないらしい。
よかったのか悪かったのか。今はまだ結果などわからないが、少なくとも今夜の思い出が最悪にならずに済んだのならそれでよしとしよう。
【紅鮭団】
味の好み、というものは千差万別である。甘いもの、辛いもの、苦いもの、酸っぱいもの。単純な味の違いだけでも何種類もあるというのに、その中でも更に細分化されるのだ。同じ味覚を持つ相手なんて、そうそう見つかるわけがない。
学園としては広く、世界から比べるとちっぽけな世界に閉じ込められて数日。集められた十六人の高校生たちはもちろん、味の好みが完全に合う人間などいるわけがない。
それでも誰に不満を抱かせることなく、快適な食事を提供できる東条の腕は流石『超高校級のメイド』といったところだ。
「それにしても、カレーの味を個人に合わせて調整できるなんて大したもんだな」
いくつものスパイスが溶け合い生まれる複雑な旨み。煮込まれた素材の甘みと舌が痺れすぎない辛さがこれまた絶妙だった。柄にもなくがっついて食べてしまったことに多少照れを感じながらも、星は素直な感想を東条へ伝える。
「ありがとう。そう言ってもらえるとメイド冥利に尽きるわ」
ふふふと嬉しそうに微笑む彼女は、空になっているグラスに水を注ぐ。しかしそれは星のものではない。はふはふと小動物のようにカレーを頬張っている夢野のものだ。
昼時を少し過ぎた食堂には東条と星、夢野と王馬がいた。他の面々は既に昼食を終え、今頃は自由時間を好きに過ごしているだろう。
「星ちゃんのカレーってどんな塩梅なの?やっぱり激辛とか?」
「お前さんが期待するようなほどではねぇぞ。まぁ、多少は辛めだろうがな」
目をキラキラと輝かせながら身を乗り出してくる王馬の手にはスプーンが握られている。一口貰おうという下心を隠しもしない行動につい苦笑いがこぼれた。「王馬君、新しい味が欲しいのならおかわりをオススメするわ」
「え〜?この時間にニ杯も食べたら、夕飯が入らなくなっくなっちゃうでしょ!そうしたら東条ちゃんの作る夕飯が食べられなくなっちゃうじゃないか……!」
先ほどとは打って変わって瞳を潤ませながら王馬が言う。強請るような媚びるような態度には、同じ男として思うところはあった。しかしこれが、自分の容姿をよくわかっている彼の武器でもある。
しかしそれも東条の前では通用しない。ぺちん、とスプーンを持つ手に教育的指導を入れる。
「ちぇっ、東条ちゃんのケチー」
唇を尖らせながら王馬は乗り出していた身を引っ込めた。そうして食べ始めた自らの皿にはもう半分も残っていない。
そうして三人でああだこうだと話している最中も、夢野は一心不乱にカレーを食べ続けていた。頬を少し膨らませながら、もくもくと口を動かしている様はやはり小動物を思わせる。
「夢野さん、どう?辛くはないかしら」
「うむ、ちょうどよいぞ!流石は東条じゃ!」
これまでの食事から夢野は辛いものがやや苦手だと気付いていた。なので彼女へ提供する食事はできるだけ辛味を抑えたものにしている。
満面の笑みでそう返してくるところをみると、お世辞でもないようだ。返事を終えると同時にすぐ食事を再開した横顔を見つめる東条の表情は優しい。
「よかったね、夢野ちゃん。赤ちゃん用のカレーを用意してもらえてさ」
けれども穏やかな空間はあっさりと破られる。にまにまと笑いながら夢野を茶化すのはもちろん、王馬以外にいない。
投げつけられた言葉に顔をしかめた少女は、頬を膨らませて不服の意を示す。
「誰が赤ちゃん用じゃ。ウチのは普通のカレーじゃ」
「えぇ〜〜、本当かなぁ?だって見るからに色が違うじゃん」
「お主のものが辛すぎるだけじゃ!」
確かに夢野の前にある皿には、星と王馬に出されたものより明らかに色が薄いカレーが乗っている。けれどそもそも、その二人のカレーは普通とされるものより辛さが強めなのだ。色が違っているのも当たり前のことである。
それをわからないほどでもないだろうにと星が王馬へ目を向ければ、待ってましたと瞳が語っていることに気付いた。どうやら今の発言は、夢野の発言を引き出すためのものだったらしい。
「何言ってんの?オレと星ちゃんのは普通だよ」
「そんなわけなかろう。匂いだけでわかる程度には辛いじゃろうが」
「にしし、バレたか。それにしても夢野ちゃんって辛いものに人一倍敏感だよね。もしかして……、辛いの苦手なの?」
に、と今まで以上に王馬の笑みが深くなる。その瞬間に東条の視線が牽制するように鋭さを増した。けれども彼がその程度で怯むわけもなく、また挑発された夢野も彼の意図に気付けない。
面倒臭いことになるな、と星は喉まで出かかった溜め息をカレーで胃へ流し込む。
「んあっ、そ、そんなことはないぞ?辛いものなど、ウチの魔法で無力化できるからのう」
「へぇ〜、そっか!やっぱり辛いものは食べられないんだね!」
人の話を聞いていなかったのかと突っ込みたくなるが、今の言葉を聞く限りでは王馬の解釈は間違っていないだろう。その証拠に夢野の表情は一気に引きつったものに変わった。
「じ、じゃからウチの魔法で無力化できると……」
「じゃあこれ、食べてみなよ」
無力化できるんでしょ、と意地の悪い笑みを浮かべながら言う。差し出されるのは先程まで王馬の皿に乗っていたカレーで、スプーンはもちろん彼が使用していたものだ。
これには三人が三人ともにぎょっと目を剥く。ややあって視線がかち合った東条と星の心境は恐らく同じものだったに違いない。王馬のクラスメイト弄りは多種多様であるが、わざわざ茶柱に投げ飛ばされる危険性が高いイタズラを仕掛けるだなんて思いもよらなかったのだ。
けれどもそれより心配なのは、目の前に差し出されたスプーンを睨み付ける夢野のことである。
「おい、夢野。ソイツの言うことなんて気にしたら負けだぞ」
「そうよ。夢野さんは自分の食事のことだけ気にしてればいいんだから」
「ちょっとー、二人がかりでオレのこと否定しないでくれる?」
不服そうに言う王馬へ向けられるの非難の目。今すぐ止めろ、と言葉にはされないものの二人の態度を見れば言わんとすることは明らかだ。
しかし王馬とてこれ以上の危険を侵すつもりはない。夢野が食堂から戻ってこない、といつ茶柱がやってきてもおかしくはないのだ。彼女の前では男子と女子の間で交わされるささやかなやり取りすら、とんでもない被害妄想で過激な内容にすり替えられてしまうだろう。
「ま、いいけど。どうせ夢野ちゃんが辛いものなんて食べられるわけがないもんね」
「馬鹿にするでない!ウチだってやるときはやるんじゃぞ!」
「えー?無理でしょそんな、の……」
からかい混じりの笑い声がしぼんでいく。目を丸くした王馬の指先、銀色のスプーンに乗せられていたカレーの姿はない。
え、と漏れた小さな呟きは果たして誰のものだったのか。王馬も星も東条も、固まったまま苦悶の表情でもぐもぐと口を動かす夢野を凝視する。
「ど、どうじゃ!辛いものなどへっちゃ、へ、うえぇ……」
「……、待ってて夢野さん。すぐに飲み物を持ってくるわ」
涙目の強がりは最後まで言い切ることができなかった。顔色すら心なしか悪くなった夢野を見て、最初に動いたのは東条である。彼女にしては慌ただしくキッチンへ飛び込んでいった。
そこでようやく我に返った星は、まだ固まったままの王馬へ目を向ける。
「……なんて顔してんだ、アンタ」
困ったような怒ったような、予想外の展開に喜んでいるような。震える夢野を見下ろしている横顔は何とも複雑なものだった。
ついつい感情をそのまま言葉にしてしまえば、珍しく動揺したような瞳が星を捉える。
「オレ、まだカレー残ってるんだよね」
「あぁ、そうだな」
「……このスプーン使わなきゃダメ?」
「あぁ……、そうだな……」
スプーンを見つめながら、バレたら茶柱ちゃんに殺されるとぼやいた王馬の声には悲壮感すら感じられた。
しかし元はといえば自分で蒔いた種である。鼻で笑いつつ自業自得だなと返してやれば、突如として席を立った王馬はキッチンへと歩いていった。間違いなく、スプーンを取り替えに行ったのだろう。
「アイツも案外、まだまだだな……」
くくくと低く笑う星に突き刺さる、夢野の不思議そうな視線。この騒動が自分の引き起こしたものだと微塵もわかっていないその態度に、込み上げるのはやはり笑みだった。
【育成計画】
「観覧車の頂上でキスをすると、永遠に別れないそうじゃぞ」
窓に張り付きながら眼下の遊園地を眺めていた夢野が突然そんなことを言い出す。しかしその言葉に特別な意味はない。ただ今のタイミングで、どこかで聞きかじった話を思い出したのだろう。
何故なら既に、二人の乗った観覧車は頂上を過ぎていた。下心があるならもっと早くに切り出すはずだ。
「夢野ちゃんってそんな根拠もない話を信じるんだ」
「別に信じておらん。ただそんな話があったなと思い出しただけじゃ」
心の底からこの話題に興味がない、と語る瞳は王馬の姿を捉えない。映り込むのは目にも耳にも賑やかなテーマパークばかりだ。
ほとんど動かない横顔を眺めて数十秒。あと少しで降り口に到達するといったところで、王馬は人差し指を口元に当てながらにやりと笑う。
「試してみる?」
「……何をじゃ」
わかっているくせに、と呆れたように溜め息を吐いてやる。するとようやく渋々といった様子で、半開きにされた瞳がこちらを向いた。
「お主と永遠を共にするなど、考えただけでもゾッとする」
「たはー、手厳しいね。じゃあ今日からは夢野ちゃんから一緒にいたい、って泣いて喚いて懇願されるぐらいのいい男になれるよう頑張るよ!」
「んあー、そうかそうか。全く期待せずに待っておるから、精々頑張るんじゃなー」
ヤル気のない声で鼓舞をする夢野に、王馬はわざとらしい声で頑張るよと返事をする。そうすれば彼女は呆れた溜め息を吐きながらも、少し笑うのだ。
にしし、と笑い返しながら王馬は目を細める。話題なんてどうでもよくて、笑った理由もどうでもいい。夢野の意識がこちらを向いたのなら、それでよかった。
【紅鮭団】
「眠れないのじゃ」
枕を小脇に抱えて目をこすりながらやってきた少女は、呆気にとられる少年の横をすり抜けて室内へと滑り込んでくる。何を考えているのか、誰かに見られたらどうするのか。そんな疑問と驚きに戸惑ってしまっている間に、丸まった背中はベッドへと潜り込んでいく。
ぎょっとして、すぐさま駆け寄って掛け布団を引き剥がした。
「ねぇ、ちょっと何考えてるの?バカなの?」
珍しくも動揺を表立たせてしまったのは、突拍子もなく予想だにしない展開が続いたからだろう。
とはいえ昼ならばいつも通りの平静を保てたかもしれない。だが現在の時刻は日付も変わった午前0時過ぎだ。眠気によって判断能力やら何やらが鈍るのも仕方のないことだろう。
そんな王馬の顔を見上げながら、夢野は頬を膨らませながら恨めしさを隠しもせずに言った。
「お、お主がホラーものなど見せるからじゃぞっ。責任をとらんかっ」
「は……、」
およそ半日前、チケットが余っているからと気まぐれを装って誘った映画鑑賞デート。アクションものだと嘘を吐いて見せたホラー映画で、随分といい思いをさせてもらったことを思い出す。
しかし怖いのならば茶柱や夜長の部屋に行けばいいだろう。意趣返しのつもりならば確かに効果はてきめんなのだがこれはちょっと、どころか本気で笑い事ではない。早く追い出さなければと考えを巡らせるものの混乱と焦りと眠気が邪魔をする。
そうこうしている内に王馬の手から掛け布団が奪われた。すぐさまその中へと潜り込んでしまった夢野の姿は布団を掴む指先と隠しきれなかった赤い毛先しか見えない。
「……ねぇ、ほんと、冗談じゃ済まなくなるって」
「…………」
軽率に触れて悲鳴でも上げられたらたまったものではないので、とりあえず声を掛けてみる。しかし返ってくる反応はといえば布団の山がもぞもぞと僅かに動くことのみだ。
いつものなんてことないイタズラのはずが、どう捻れてこうなってしまったのだろう。痛み出すこめかみの辺りを抑えながら王馬は溜め息を吐いた。
呆れたものでなく、怒りからくるものでもない。半日前にしでかした己の浅はかさを呪う、少しばかり情けないものだ。
「……キミがそこで寝たいなら好きにすればいいよ。オレは適当なところで寝るか、ら……、」
翌日の朝、できるだけ体に負担がかからない場所を探そうとしていた矢先のことである。布団の中央にあった小さな山がもぞもぞと動き、ベッドの端へと寄っていった。
そうしてぺろりと掛け布団が捲られるとちょうど一人分が寝転べるスペースが生まれて。
「………………本気?」
返事はない。反応もない。求められていることが変わることもない。
加速する頭痛と処理しきれない問題点の山を前にして生まれるめまい。果たして何が正解なのかもわからず、もちろん何が間違いになるかも見当すらつかなかった。
それでもこれ以上の浅薄な過ちを重ねられないと考えに考えて考え抜いて、導き出した答えは一つ。
「はぁ……、疲れた……」
重い足取りで進んだ王馬はどかりとベッドの空いたスペースに腰を下ろす。傍らの山がびくりと震えた、気がしたがそれを気に掛けてやれるほどの気力はとうにない。
こちらに背を向けているのだろう夢野に倣い、王馬も彼女へ背を向けて寝転がった。中途半端に捲られたままの掛け布団でその身を包んでまぶたを下ろす。じわじわと伝わってくる熱には気付かないフリのまま。襲い来る睡魔にすべてを委ねようと試みる。
「…………、」
背後にある気配から伝わる緊張。怖いものを思い出して眠れないからとやってきたのに、これでは意味がないではないか。なんて喉まで出かかった言葉はなんとか飲み込み、王馬は明日の我が身が無事であるように願った。
*****
ホラー映画の内容を思い出してしまって眠れない、という言い訳に一片の嘘もなかった。まぶたを閉じれば思い出す凶悪の権化のような殺人鬼、人工だとわかっていても気分が悪くなる血飛沫。特殊メイクとCG技術の向上により跳ね上がったリアル感は早々忘れられるものではない。
部屋に一人でいることすら恐怖であった夢野は枕を抱き締めながら恐る恐る自室を出た。目指すのは友人である茶柱の部屋である。彼女ならばきっと、日付も変わるような深夜でも快く迎え入れてくれるに違いない。そんな期待が胸にあったからだ。
しかしふと、対面にあるドアが目に入ってしまう。この眠れない夜を作り出した張本人であり、ひっそりとぼんやりと想いを寄せ始めている少年の部屋。
「……うむ、仕返しじゃ、そう仕返しなんじゃ」
ちょっとだけ困らせてやろう。そんな悪戯心とこんな夜を過ごさせる彼への意趣返しで鳴らしたインターホン。もう寝ているだろう、このインターホンで中途半端に目覚めてしまえばいい。
してやったり顔のままふふふと笑う夢野。もちろん彼女は、まさかすぐにドアが開かれるだなんて思いもしていなかった。
「眠れないのじゃ」
呆気にとられている王馬の横をすり抜けてしまったのはその場の勢いだ。ただの仕返しにインターホンを鳴らしただけ、なんて理由が理由なだけに言い出せなかったのもある。
しかし入ったところでどうするのか。そう自問自答するものの混乱しきった頭ではまともな結論など弾き出せるわけもなく。穴があったら入りたい、そんなノリで目の前にある丁度いい隠れ場所に潜り込んだ。
「ねぇ、ちょっと何考えてるの?バカなの?」
すぐさま引き剥がされる掛け布団。全くの言うとおりで反論の余地などない行動だと自分でもわかる。
しかしここまできてしまったら簡単に引き返すわけにもいかなかった。またいつもならば熟睡している時間に起きていることによる眠気が正常な判断力を殺している。
「お、お主がホラーものなど見せるからじゃぞっ。責任をとらんかっ」
「は……、」
固まる王馬から掛け布団を引ったくるように奪ってその中に包まる。呆れているだろうか、怒っているかもしれない。あらゆる考えがぐるぐると頭に浮かんでは巡って霧散していった。
「……ねぇ、ほんと、冗談じゃ済まなくなるって」
「…………」
掛けられる声に返す言葉は見つからない。王馬が言っているのは間違いなく茶柱のことだろう。いや彼女だけではない。自分たち以外の誰かにこの現場を見られてしまったら大騒ぎになるに違いないのだ。
わかっている。わかっているのだが、今このタイミングで合わせる顔はない。つくづく自分の浅はかさに嫌気が差す。
「……キミがそこで寝たいなら好きにすればいいよ。オレは適当なところでーー」
やがて溜め息と共に吐き出された言葉。そこまで聞いてようやく自分がベッドの中央を占拠していたことに気付く。慌てて布団に包まったまま端へ移動し、眠る場所が空いていることを示して。
そこそこ長い間、時間が止まっているかのような沈黙と静寂が室内へ居座った。
「………………本気?」
静かで低い声が掛けられる。それに返事をせず待っていれば気配が近付き、そして。
「はぁ……、疲れた……」
言葉通り疲れ切った声が近くで聞こえる。座ったのだろう勢いで跳ねたベッドのスプリングがぎしぎしと鳴った。
間もなくして隣に寝転がる気配。少しだけ布団を引っ張られたので握る力を緩めてやる。するとすぐ側にいる王馬のいる方へと温もりが寄った。
(んあ……、いや、いやいや!何をしとるんじゃウチは⁉)
ここでようやく夢野は、自分がやらかしたことにとんでもなさに気が付く。これまで頭に靄をかけていた眠気は吹っ飛び、緊張でがちがちに体は固まった。今すぐにでも部屋を飛び出すべきだと本能が理性が告げている。
「…………、」
しかしまぶたを閉じればやはり一人では耐えられないショッキングな映像が思い出される。またこの動揺を抱えたまま茶柱の部屋を訪れるのは絶対に確実に誤解を生む未来しかない。最初の原因は王馬であるが、今この状況を生み出した夢野よりもやらかした罪は軽いだろう。
あとはそう、目も当てられない大失態が生み出した結果ではあるが、想いを寄せる相手の側に居られることは素直に嬉しい。彼が側にいるのならば怖い夜も超えられそうな気がした。
とはいえ夜を無事越えられたとして、翌日の朝を無事に迎えられる確証はない。胸に広がる勝手なときめきに気付かないふりをして、夢野はまぶたを下ろす。
できるならば男子に圧倒的な敵意を向ける友人よりも早くに目覚められますようにと願いながら。
【紅鮭団】
卒業とされるタイムリミットまで残り二日。
ここまできてようやく集められた十六人は、ここを出る条件である仲の良い相手と親密度を最大値まで上げることができた。同性の友人だったり異性だったり。そのどちらもであったりと様々であったが、兎にも角にもこれで心配事はなくなったのだと皆で安堵から胸を撫で下ろしたのが今朝のことである。
超高校級のマジシャン、ではなく魔法使いである夢野は初日から自分を慕ってくれていた超高校級の合気道家である茶柱との親愛度を上げた。男子を毛嫌いしすぎたり愛情表現が強かったりする所が玉に瑕であるが、素直で気遣いのできるいい女子である。それを本人に言うとつけ上がるので言いはしないものの、夢野にとって茶柱は自慢の友人、そう親友となっていた。
(どうせ暇な時間を過ごすなら転子と、それか他の女子がよかったのう……)
朝食も摂り終え、これまで通りにいつもの相手と時間を共にしようとした矢先のことだった。折角こうして集まったのに、特定の相手だけ仲良くなるのはもったいない。そう赤松だか誰だかが言い出したのである。
確かに彼女の言う通りこれまで面識もなかった才能ある十六人が、理由はどうあれ一箇所に集まっているのだ。友人になることはもちろん、交流が深まることでお互いの才能にいい影響をもたらす可能性だってある。
もったいない。それは密かに全員が抱いていた感情だったのかもしれない。
「……何か喋らんか」
いつもは無駄に回る口は閉じたっきり。男子にしては大きな瞳は、真っ直ぐに学園の入り口前で騒いでいる入間と百田を見つめている。
意を決して夢野が話しかけても反応はない。更に勇気を振り絞って袖を摘んでみたものの、やはり反応はなかった。
(やはり入間のような、スタイルのいい女子とがよかったんじゃろうか)
誰が言い出したかくじ引きで決まることとなったペア。残り物には福があるしと最後の方に引けば、最凶である王馬との組み合わせを引いてしまった。げ、とついこぼしてしまったのは仕方のないことだろう。
もしやその態度が気に食わなかったのだろうか。いやでもくじを引いた夢野に対して、彼はにやにやと笑いながら運がいいねなどと言っていたではないか。まさかあれは口だけの嘘で内心傷付いていた、とか。
もやもやとする胸中で何度も繰り返す自問自答。それでも最後の考えはないなと確信はあって、ちらりと王馬の横顔を盗み見る。目線は変わらず騒ぎ立てている入間と百田へ向けられたままだ。
「今からでもペアを交換してもらったらどうじゃ?」
モノクマに詰め寄る二人の内、どちらが対象なのか夢野には想像もつかない。しかしどちらであったとしても夢野と過ごすよりかは、彼の好むつまらない時間を過ごせるだろうとは思った。
「……夢野ちゃんってオレのこと嫌い?」
だからペアの交換を提案したのは善意であるし、夢野が王馬を嫌っているからという理由ではない。けれども流れからしてそう捉われてしまっても仕方がないか、と今更ながら気付いた。
「別に嫌いではないぞ。ただお主があんまりにも二人を見つめておるから、そっちがよかったのかと思っただけじゃ」
「馬鹿言わないでよ。誰があんな騒がしいだけの奴らと一緒に過ごしたがるのさ」
呆れたように王馬は言う。ならばどうして夢野のことを無視してまで熱心に見つめていたのか。疑問には思ったものの、わざわざ問い掛ける気にはならない。
「それにしても……、キミがペアを交換するって言わなかったの意外なんだけど」
ようやく夢野の方を向いた王馬だったが、問いかけてくる割りには大して興味がなさそうだった。ならば問い掛けなくてもいいのでは、と思いはした、けれども折角会話が続きそうなのに水を差したくはない。
「最初は、そうじゃな、ペアを変えてもらえんかと思っておったぞ。しかし転子があまりにも喧しかったじゃろう?あの状態のあやつと時間を過ごすのは、ちと面倒じゃからな……」
「ふぅん。つまりオレで妥協したってこと?」
「まぁ……、そうなるのう」
しばらくはつまらなさそうに夢野のことを見つめていた王馬であったが、やがて小さな笑みを浮かべて見せる。失礼なことを言った自覚はあるが、笑わせるようなことを言ったつもりはない。何なんだ、と夢野は訝しげな顔をそのままに王馬から少し距離を置く。
「悪の総統で妥協するとか、キミっていい根性してるよね。それとも何も考えてない馬鹿なのかな?」
「……やかましいわい」
恨めしげな目を向けられても、にししと笑われるだけ。間もなくして再び投げられた視線の先では、まだモノクマと何かしらの押し問答をしている入間と百田がいた。顔を赤くしたり青くしたりと忙しい二人に対して馬鹿だなと呟きながら笑っている。
その横顔を眺めていた夢野は、ポケットに入れっぱなしになっているくじに思いを馳せた。大きな箱に入れられた十六枚、八組のペアができる紙切れ。どこからともなくそれを取り出したのは確か王馬である。
(何を考えておるんじゃコイツは)
職業柄、人の手元をよく注視してしまう夢野は気づいてしまった。王馬が自らのくじを引いたときに二枚の紙を手にしていたこと。その内一枚が、夢野のくじを引く番で箱へ戻されたこと。そしてそれに夢野が気付いているのだと知っていながら、戻した紙を引くように誘導したことも。
誘導されていただけで強制されたわけではない。けれど気付けば素直に促されるままくじを引いていた。彼のことなので何かしらのイタズラかもしれない。もしかすると誰ともペアにならないようなクジを引かされる可能性だって捨てきれない。
そう思っていたのに、まさか誘導された先のくじが王馬とペアになっているだなんて考えてもみなかった。何しろここまでの期間、二人は大した絡みもなく過ごしてきたのである。
「ウチの何が気に入ったんじゃ」
「え、どうしたの急に。自意識過剰になるタイミングおかしくない?」
信じられないものを見るかのような目で夢野を見つめる王馬の口角は薄っすらと笑みを形どっている、ような気がした。
「大体、あのくじをウチが引かなかったらお主はどうするつもりだったんじゃ」
「さっきから夢野ちゃんってば何の話をしてるの?」
「……あくまでとぼける気か」
だから何の話、としらばっくれて首を傾げる王馬。言ってる意味がわからない、と言った顔をしている癖に瞳は楽しそうに輝いているのだからまるで説得力がない。
やはりどうにも彼の考えていることはわからない。どうしてペアになるよう仕組んできたのか、夢野が気付いていることを知っていても尚とぼけてくるのか。朝からずっと考えているものの答えは未だ見つからない。
「はぁ……考えるのもメンドイ……」
項垂れ溜め息を吐きながら隣の王馬へ目を向ける。満面の笑みを浮かべる彼はおもむろに夢野の被っている帽子を取り上げた。いつもは鍔の影に隠している顔がより見えるようになってしまい、自ずと不機嫌な顔が晒される。
「こら、返さんか」
「いいじゃん。ただでさえジメジメとした顔なんだから、たまには太陽の下に出さないとカビが生えちゃうよ」
「んあー、とことん失礼な奴じゃなっ」
取り返そうと伸ばした手は空気しか掴めない。悔しいと思いはするが全力を出してまで取り返す気はなかった。わざわざ体力を無駄に使いたくはないし、何よりも面倒で仕方がないからである。
「ねぇ、夢野ちゃん。これから何しようか?」
「知らん。お主一人で勝手に遊んでおれ」
「えぇ〜〜〜?やだよそんなのつまんないじゃん!」
「み、耳元で叫ぶでない……!」
自由時間が始まってまだ半日も経っていない。さて残りの時間をどうやって過ごせば面倒くさくないのだろう。肩を掴んでがくがくと揺すってくる王馬の、駄々をこねるような言葉を聞き流しながら夢野は目を閉じた。
【紅鮭団】
朝食も終え、自由時間が始まり間もない頃。今日は誰で遊ぼうかと校内をぶらついていた王馬は、やたらと騒々しい一団と遭遇した。最原、赤松、茶柱、春川といった珍しい集まりはキョロキョロと辺りを見回しては、とある女子の名前を呼んでいる。
最原と赤松だけならば喜んでからかいに行くが、今日は猪突猛進の体育会系女子が二人おまけでついていた。一度は無視するか、と思いはしたものの、廊下に響く彼女を呼ぶ声が気にならないわけでもない。最善の身の振り方を少しだけ考え、胸の内から湧く好奇心と協議した結果。王馬は形容し難い表情で辺りを見回す最原へと近寄った。
「やっほ〜、最原ちゃん!こんなところで何してるの?」
「げっ、王馬くん……!」
顔を見るなりその態度はないだろう、が対王馬である場合はある意味正しい反応かもしれない。一段と顔を青くした最原は一歩後退したかと思うと、一瞬だけ背後へと目を向けた。そこには面倒臭い奴がきた、厄介な奴がきたと歓迎ムードなど微塵も感じさせない女子がいる。
「え〜、何その反応〜。流石のオレでも傷付くんですけど!」
頬を膨らませながら子どものように怒って見せるがものの見事に反応はない。お互いに顔を見合わせ、ここをどう切り抜けるかの相談を視線で交わしている。どうやらこの騒ぎに王馬を引き入れる気は微塵もないようだ。
それならそれで構いはしない。この数分で彼らがある女子を探していることはわかっている。どうしてこんな騒ぎを起こしているのかは彼女の方に聞けばいいのだ。
「……ちょっと、アンタどこに行く気?」
そうと決まればこんなところで立ち止まっている場合ではない。さてあの子は何処にいるんだろうな、と踵を返したところで殺気が突き刺さってきた。顔だけ振り返ってみれば、保育士とは思えない顔でこちらを睨み付ける春川と目が合う。
「どこって、そんなの決まってるじゃん!今日の遊び相手を探しに行くんだよ。まさか春川ちゃん、このゲームの基本的なルールすら忘れちゃったの?」
「…………」
ぶわ、と殺気の圧が強くなる。おろおろはらはらとあからさまに狼狽える最原と赤松のことは目に入っていないようだ。そういう猪突猛進すぎる感情は想い人にでもぶつけてろ、とは思うものの口には出さない。
集められた高校生の中でも王馬は破天荒ともいえる部類に入るが、命知らずというわけではない。掘らなくていい墓穴で死にかけるなど笑い話にもならないのだ。
それはそれとして、茶柱はこちらのことなど全く無視してある女子の名前を呼んでいるのだが、少しはこちらに興味を持ってもいいのではないか。相変わらずブレない奴だなと呆れを通り越して感心する。
「それじゃ、オレは行くから。人探し頑張ってね〜」
ひらひらと手を振りながらその場を立ち去る。物言いたげな視線がざくざくと背中に刺さったものの、もちろん全てを無視だ。
さてどこへ行けば出会えるだろう。やがて廊下へ再び響き渡る声たちが探している彼女、夢野の行方を辿るために王馬はまず寄宿舎へと足を向けた。
寄宿舎へ寄りつつ中庭をぐるりと巡り、いないとはわかりつつもカジノを覗いて。一時間ほど歩き回ったところで王馬はふと立ち止まる。一体自分は何をしているのか、時間を無駄にしているだけではないか。そんな考えばかりが頭を巡り、あれほど胸を躍らせていた好奇心も今では見る影がない。
それでもまた一歩を踏み出したのは恐らく意地だ。どうせお前に見つけられるわけがないと冷めた目を向けてきた春川を見返すため、夢野を探すことに費やした時間のツケを払ってもらうため。そしてまだ性懲りもなく、面白いことが起こるのではないかという期待を抱いているからだ。
どうしてこうも言い訳がましく自分に言い聞かせているのだろう。憮然とした表情もそのままに校内へと足を踏み入れた王馬は、薄々勘付いている答えを振り払いながら大股で進み続けた。
「んあ、王馬ではないか。珍しいのう、一人で何をしておるんじゃ?」
地下から一階まで巡り、それでも見つからない赤色に苛立ちを募りに募らせていた矢先だった。二階へ上がりきった王馬の視界に飛び込んできたのは鮮やかな赤と黒のコントラスト。のんびりとこちらへ歩いてくるのは探して求めて止まなかった少女である。
「……何してるの、はこっちの台詞だよ」
こっちの苦労など知りもしない、いつも通りのマイペースさを目の当たりにすれば間違いなく憤るだろう。そう思っていたのだが、実際に顔を見てみれば頭に上っていたはずの血はすんなり引いた。
心のどこかで可能性を疑っていた最悪の事態が避けられ安堵したからなのだろう。多分、恐らくは。
「質問を質問で返すものではないが……、まぁよい。ウチは今忙しいからのう」
まさか正直にキミを探してました、なんて言えるはずもない。どうやって質問を躱してやろうかと考えを巡らせてみたのだが、あっさりと徒労に終わってしまった。助かることには助かるが、こうも予想と反することを続けられると消えたはずの苛立ちが戻ってきそうになる。
このまま夢野へイライラをぶつけてしまってもよいのだが、せっかく最原たちよりも早くに見つけることができたのだ。当初の目的を果たすために王馬はそわそわと落ち着かない様子の彼女へ歩み寄る。
「忙しいって、茶柱ちゃんたちから逃げることが?」
「んあ?何じゃ、知っておったのか」
「あんな大声で夢野ちゃんの名前をずっと無駄に連呼してるからね。嫌でもわかるでしょ」
にししと笑いながら指摘してやれば納得したのか、それもそうじゃのうと呟いたきりそれ以上の追求はされなかった。
「いつの間にか転子たち以外にも人手が増えてしまっておるからな。あんなもので何故そうも騒げるのか、ウチにはさっぱりじゃ」
眉値に皺を寄せながら腕を組む夢野。口でも態度でも心底意味がわからないと示している。
それにしてもあの面倒くさがりな彼女がここまで逃げ回っているのは意外だった。茶柱や赤松ならともかく、最原や春川の追跡をここまで躱しきれているのである。もしや東条に依頼でもしたのだろうか。
「ところで、お主はいつまでここにおるのじゃ?」
「…………」
言葉に悪意はない。単純に気になったから問いかけてきたのだろうが、もう少し気の利いた言葉を掛けてほしいものである。
そう夢野へ言ったところで改善されることはないため口にすることはないのだが。
「さて、ウチはそろそろ行くぞ。ここで立ち止まっていては転子たちに見つかってしまうからのう」
「ねぇ、まさかとは思うけどその鬼ごっこは今日一日続けるつもり?」
意気揚々とした足取りで通り過ぎようとする夢野の腕を掴む。嫌でも立ち止まらなくてはならなくなった彼女は不機嫌さを顕わにしたまま王馬を見た。
「別にお主へ迷惑をかけてはおらんじゃろ」
「いやいや、迷惑極まりないって。キミが捕まらなかったらあの喧しい声をずっと聞かされなきゃいけないんだよ?」
「んあっ、それもそうか」
言われて初めて気付いたらしい。驚いた顔のまま固まる夢野は瞳だけをあちこちへ泳がせた。大方この場を上手く切り抜けられないか考えているのだろう。相変わらず笑ってしまいそうになるほど嘘や隠し事が下手くそだ。
「――ぁー……、……めの……ーん……!」
廊下で立ち往生する二人の耳へ微かな呼び声が飛び込んできたのは、会話が途切れてから数十秒後のことである。
はっとした様子で顔を上げた夢野は、声の主が友人のものであると気付くとあからさまに面倒臭そうな表情を見せた。すぐさま掴まれたままの腕を振り払うように力を込めて回しだす。
けれどそれを許す王馬ではない。苦労して捕まえたのだからもっと楽しませてもらわないと困るのだ。
「ねぇ、夢野ちゃん。提案があるんだけどさ」
「な、何じゃ?今はお主の戯言に付き合っておる場合では、」
「走り回るより楽して逃げ回れる方法があるって言ったら、どうする?」
「…………そんな方法があるのか?」
口角をこれでもかと上げながら囁いてやれば簡単に食い付いてきた。想像通りのチョロさに笑ってしまいそうになるのを堪えて掴んでいた腕を解放する。そうして自由になった指先は、するりと無防備な手のひらに絡めて。
「どう?オレの提案、乗る気になった?」
びく、と大袈裟に驚いてみせる夢野。ほんのりと頬を染めてはいるものの、王馬の姿を捉える瞳には疑いの色が強い。
提示された案に乗るかどうか決め兼ねているのだろう。迷うような視線はゆらゆらと揺れ、何度も言葉を詰まらせるような素振りを見せた。こうしている間にも呼び声と気配は徐々に近付いてきている。このままでは見つかるのも時間の問題だ。
それでも王馬が答えを急かさなかったのは、夢野自身に決めさせるためである。
「…………お、王馬よ」
「んー?どうかした?」
騒がしい足音すら聞こえてきた頃、ようやく腹を括ったらしい夢野が声を絞り出す。未だに迷いの色を見せてはいるものの、握り返された手が何を示しているかなど、考えずともわかった。
「……にしし、そうこなくっちゃね」
本当は言葉を引きずり出したかったのだが、今はそうも言っていられない。すぐそこまで迫ってきている気配から逃げるため、握った手を引いて近場の教室へと飛び込んだ。もちろん誰かが入った痕跡を残さないように扉はぴっちり閉めておく。
「ま、待て王馬っ、ここでは袋小路ではないかっ」
「一見ね。でも隠れるには最適の場所があるんだよ」
顔を青褪めさせる夢野の手を引いたまま王馬が向かったのは教室の端。スチールで出来たその扉を開いたところで、されるがままだった手が初めて抵抗の意を示す。
「ま、まさか、王馬、お主……」
「そう。そのまさかだよ」
「いやそんなむりっ、」
「はいはい、文句はいいから入って」
大声で騒ぎ出しそうな夢野の口を抑えつつ、ぐいぐいと奥へ押し込む。この世の終わりだと訴えかけてくる視線は気付かないフリのまま。二人も入ってしまえばほとんど隙間がなくなる鉄の箱。細い扉を閉じてしまえば、学園で一番小さな密室の出来上がりである。
「ちょーっと静かにしててね?」
「んんっ」
近付いてくる気配に息を潜める。扉の向こうを見つめる王馬の緊張感が伝わったのか、もぞもぞと動いていた夢野もぴたりと動きを止めた。
「夢野さぁーーん!どこにいるんですかぁーー!!」
「ちゃ、茶柱さん……!ちょっと待って……!」
ばたばたと騒々しい足音を立てながらやってきたのは茶柱と赤松だ。扉を二つ挟んでいるはずなのに、呼び声は耳が痛いと思うほど大きい。
「うぅ……。こんなに探しているのに、夢野さんはどこへ行ってしまったんでしょうか……!」
悲痛な茶柱の叫び声ではあるが夢野の反応はない。ただただ見つからないようじっと耐えながら、嵐が過ぎ去るのを待っている。
「うーん。ここまで見つからないとなると、いつも夢野さんが言っているように、魔法を使って隠れたりでもしてるとか?」
けれども赤松の何気ない発言には、あからさまにそわそわとし出した。それを諌めるように口を抑える手のひらへ力を込める。
「……ん?」
「茶柱さん?どうしたの?」
物音を立てたわけではなかった。けれども流石、超高校級の合気道家なだけあり僅かな気配のブレに気付いたらしい。ぴたりと止まった足音が近寄り、次いで教室の扉が開く音がした。
「夢野さん、いた?」
「いえ、いません。いませんが……、」
「じゃあここにはいないかもね。残念だけど、次を探しに行こう!」
意気込む赤松の声。まだ後ろ髪を引かれるような茶柱の声が聞こえたものの、やがて遠のいていく足音は一つから二つに増えた。
そうして気配が完全になくなったことを確認して、抑えつけたままであった夢野の口を解放する。すると彼女は安堵の息を漏らすのもそこそこに、間もなくして至近距離にある王馬を睨みつけた。
「何でこんなことになっておるんじゃ」
「そんなの、夢野ちゃんがオレの案に乗ったからじゃん」
「……こんな躱し方なら乗っ取らんかったわい」
ふい、と顔を反らして頬を膨れさせる。不服だと全身で訴えかけてくる夢野からは、密室で男子と二人きりという状況への焦りは感じられない。
まだ理解をしていないのか、それとも意識をされていないのか。果たしてどちらなのか王馬にはわからないところであるが、先ほど手を取ったときの反応を見るに後者ではない。と、思いたい。
「ところでさ、そもそも何で追われてたの?」
「んあ?あー……、それはじゃな、確かここに……」
ごそごそとポケットをまさぐり始める夢野。なかなか見つからないのか、難しい顔のまま四苦八苦しながら動いていた彼女はやがて何かを取り出す。
「これじゃ。これを転子たちに見せたら、突然血相を変えたんじゃ」
ずい、と目の前に差し出されたのはハートのモチーフが用いられた鍵である。おもちゃのようにも見えるそれは確かカジノでのみ交換ができる、相当に高額なアイテムだったはずだ。
これまでカジノに近寄る気配もなかった夢野がどうしてそんな代物を持っているのだろう。まさかプレゼントで誰かから貰ったとでもいうのか。
「朝も早くから押しかけてきたモノクマーズに無理やり持たされたんじゃ。番組の盛り上がりに欠けるからとか訳のわからんことを言っておったぞ」
夢野の手元にある鍵の入手ルートが全く想像もつかず問い質してみれば、返ってきたのは考えうる可能性のどれにも当てはまらなかった。
なるほど、モノクマーズ。あのポンコツ集団のことなので、モノクマに何かを言われ考えなしにこの鍵を渡してきたのだ。夢野に白羽の矢を立てたのも恐らく理由はない。
「ふぅん、なるほどね。それはそうと夢野ちゃんはこの鍵が何なのか知ってる?」
「知らん」
きっぱりばっさり。不満そうな顔のまま言い捨てた夢野の手に握られている鍵はそう、愛の鍵。学園という場所には不適切なカジノの景品でしか手に入れられない、これまた学園という場所には不適切なホテルで使用できるものである。
けれどもそのどちらともに興味がないため縁のない夢野がそれの使い道を知らないのは当然だ。まさか人の妄想を『夢』という形で具現化するものだとは思うまい。
王馬とて初めてそれに直面した時、相当に混乱をしたし狼狽してただただ格好悪い姿を晒してしまった、ような気がする。何しろ起きてすぐに記憶は朧気になってしまったので、ぼんやりとした感覚しか覚えていないのだ。
「使い方も知らない干物女子にこの鍵を渡すなんて、モノクマーズもポンコツが過ぎるよね。自分たちで番組を盛り下げるなんて運営としては致命的でしょ」
「誰が干物顔じゃっ」
「顔のことは言ってないけど」
唇を尖らせながら抗議してくる夢野は、鍵を目の前に掲げながらぐいぐいと前のめりに寄ってくる。相手が最原や天海などであれば特に問題はなかっただろうが、今彼女と行動を共にしているのはそう背丈の変わらない王馬であった。ただでさえ狭い密室の中、必然的に互いの顔がとんでもなく近くなる。
ぐ、王馬の眉間に皺が寄った。ぴたりとくっついた体からじんわり伝わってくる熱。このまま夢野が身を寄せ続ければ事故が起こってもおかしくはない。そろそろ気付いてほしいものだが、彼女の脳内は謎の鍵でいっぱいなのだろう。
指摘してやるべきか、自然に気付くまで待つか。考えようとするものの密着する柔らかさに意識が散ってしまう。
「あー、えっと。夢野ちゃんが茶柱ちゃんたちに追いかけられてたことなんだけど。それって鍵を見せたときから?」
「んあ?……ああ、そうじゃぞ。どこで使うものか分からんかったから転子たちに聞いたのじゃ。しかしあ奴ら、これを見るなり血相を変えて鍵を渡せと言ってきたのじゃ」
「ふんふん。と、いうことはキミを探していた人たちはコレを使ったことがあるってことだね」
彼らの夢の相手が誰だったのか正直興味はあった。とはいえそれを覚えている可能性は低いだろうし、仮に覚えていたとしても絶対に口を割らないだろう。
しかし使ったという事実は確かであり覆らない。そこをつつくだけでもつまらなくない時間を過ごすことができるだろう。ただ春川へのちょっかいは少し慎重に行わなければならないだろうが。
「……のう、王馬よ」
「うん?」
「その口ぶりだとお主もこれを使ったことがあるように思えるのじゃが、どうなんじゃ?」
ひくりと僅かに口角が揺れる。いつもは鈍くてこちらの意図にほとんど気づかないというのに、こういうときだけは無駄に鋭い。
けれども核心までには至っていないのか、夢野は素直に王馬の返事を待っている。じっと見上げてくる真っ直ぐな瞳からは薄い期待が透けて見えた。
その期待を裏切ろうとは思えず、だからといって真実を語るわけにもいかない。さてどうするかと少し悩んだ末、王馬はにやりと笑みを浮かべて夢野へと詰め寄る。
「うん、使ったことはあるよ」
「そ、そうか。……ちょっと近くないか?」
「え〜、さっきまでこれぐらいの距離だったよ?」
にこにこ笑ったまま、鍵を握る夢野の手を包み込むように握る。びく、と大袈裟に驚きで身を跳ねさせる彼女の体がガタンとロッカーの壁を揺らした。
「これはね、夢を見るための道具なんだよ」
「……んあ?扉を開けるための鍵ではないのか?」
「まぁ、ある意味で扉を開けるためのものかな」
そう語る王馬であるが、彼の持ちうる記憶はやはり朧気でしかない。今語っているのもモノクマたちから聞いた知識をただ語っているだけだ。
とはいえ夢野はそんなことなど知りもしないので、神妙な面持ちで話す王馬の言葉を真剣に聞いている。
「この鍵を使うとランダムで夢に誰かが出てくる。夢の中では出てくる誰かの理想の相手として振る舞わなきゃいけないんだよ」
「んあ〜、それはめんどいのう。しかし、夢を見るだけなら大して危ないものでもないではないか?転子たちが血相を変える理由がわからん」
「そう?オレはわかるよ」
不思議そうに首を傾げる夢野の耳元へ顔を寄せる。すると突然のことに驚いたのか、ひっくり返った声が鼓膜を揺らした。
「な、なん、何じゃ!?」
「例えば憧れの人とこうありたい、好きな人とこんなことをしたいっていう願望。それに付き合わされるってことなんだけど、意味わかる?」
「意味じゃと?そんなのわかっておるに決まって……、んあっ」
何かに気づいたらしい夢野は俯きながら考え込む仕草を見せた。ようやく答えに辿り着けそうなのだろう。いつもならば茶化して邪魔してやるのだが、ここで大騒ぎしてしまえば見つかってしまうに違いないので、王馬はのんびりと待つ選択を取った。
そうしてしばらくは互いに言葉を発することなく黙り込んで数分。ようやく顔を上げた夢野はどこかスッキリとしたような表情で王馬を見上げた。
「そうか、転子たちはこの鍵で、誰かの理想とする異性像を夢に見てしまったんじゃな。あやつのことじゃ、『夢野さんが男死の毒牙に掛かるだなんてあってはなりません!』等と考え、これを奪おうとしたに違いない」
「大正解!夢野ちゃんってば冴えてるじゃん」
「うむ。これぐらいなら朝飯前じゃな」
褒められて鼻高々にする夢野の頭をわざとらしく撫でてやった。それは彼女を子ども扱いするためのものであり、他意など全くないものである。きっとすぐにでも抗議の声が飛んでくるだろうと踏んでいた。
さて、これで全ての真相を暴いたわけだが。ロッカーの隙間から外の様子を伺いながら、王馬は今後のことについて考え始める。いつまでもこんなところで閉じこもっている訳にもいかない。とはいえ出ていくタイミングを間違えてしまえば、下手をすると命を落としかねないだろう。
幸いにも今、教室の辺りには人の気配は感じられなかった。出ていくタイミングをそれぞれずらせば最悪の事態は避けられる。そう結論付けてロッカーの扉へ手を掛けた王馬は、ふと斜め下からの視線に気付いた。
「……も、もう行くのか?」
「こんな暗くてホコリだらけのところにいつまでもいたらカビ生えるからね。オレは夢野ちゃんと違って太陽の光を浴びないと生きていけないからさ〜」
まぁ嘘だけどね、なんていつもの調子で笑ってやれば、いつものように反論をしてくるはずだった。しかしいつまで経っても苛立ちに塗れた声は飛んでこない。
不思議に思って顔を覗き込もうとしたものの、狭すぎるロッカーの中ではそれも難しくて。顔色も暗がりではわかりにくく、王馬からはやや伏せがちの顔で口ごもっている夢野の顔しか見えなかった。
「もしかしてトイレ?やだな〜この年から頻尿とか老後どうす、」
「トイレではないっ。そのぅ、あれじゃ、あれ」
「あれ?」
おちょくるための言葉は早々に遮られてしまった。ようやく抗議してきたと飛んでくる言葉に期待したのも束の間、すぐに勢いはなくなり夢野はもごもごと何かしらを呟き始める。
一体何が言いたいのか。待ってみても返ってこない言葉にしびれを切らして耳を傾ければ、ちらちらと上目遣いで王馬へ視線を向けていた彼女がようやく口を開く。
「も、もう、撫でてくれんのか……?」
甘えるような、いや完全に甘えている声がダイレクトに耳へ滑り込んでくる。何を言われたのか全く理解ができず王馬は固まったまま夢野を凝視し続けた。
自分で言っておきながら恥ずかしくなってきたのだろう。暗がりでもわかるほどに顔を赤くした彼女は刺さり続ける視線から逃げるように顔を伏せた。
「……撫でてほしいの?何で?」
「な、何でって、そんなの、心地良いからに決まっておるじゃろっ」
半ばやけくそのような声がロッカー内に響く。次いで上がる小さな呻きは尻すぼみになり間もなくして消えた。完全に下がりきった頭はぐいぐいと王馬の肩に押し付けられているが、狭すぎるため他に行き場がないだけだろう。
ふ、と何かが思い出せそうな気がした。
「んあっ。うー、んあぁ…………」
それが何なのか、そもそも思い出すとは何なのか。いまいち掴みきれない感覚を追いかけようと考えるものの、すぐ側で心地よさそうな声を上げる声に驚く。
そして自分の手が夢野の頭に添えられていることに気付いて、もっと驚いてしまった。
「わ、ごめん」
「んあ?何故謝るのじゃ。ウチは気にしておらんぞ」
むしろもっと撫でろと言わんばかりに身を寄せてくる。まるで動物が、あるいは幼い子どもが甘えてくるかのように。鍵を手にしたまま背に回された手は遠慮がちに服をつまんだ。
そうだ、幼い子どもを相手しているのだと思えばいい。甘えたいだけでそこに他意などないのだから意識するようなことでもないのだ。
「んあー……、ふふ、んぁっ、うぅん……」
ないのだ、と頭ではわかっているはずなのだが、どうにもうまく頭が回らない。外の様子がわかるような隙間があるとはいえ小さなものだ。きっとロッカー内の酸素濃度が落ち、判断能力が落ちているのだろう。ああそうだ、そうに違いない。
だから心地よさそうにする夢野の頭を撫でる手も、いつの間にか宥めるように彼女の背へ回し撫でていた手も王馬の意識外に行われていたことなのだ。
「んあぁ……、おーまぁ」
「…………」
ぐらぐらと足元が揺れているような感覚。その正体にあと少しで気付けそうな気がして、気付いてはいけない気もして。一体自分はどうしてしまったのだろうかと、どこか他人事のように己の手の動きをぼんやり眺め続けるしかなかった。
すり、と肩へ擦り寄る額。さらさらこぼれていく髪がくすぐったくて堪らなくて、掬い上げるために伸ばした指先は。
「夢野さぁ〜〜〜〜〜ん!どこにいるの〜〜〜〜!」
フロア全体に響き渡ったのだろう獄原の声に、寄り添っていた二つの影は大きく跳ねた。がたん、とこれまでで一番の揺れと音を鳴らしたロッカーはやがて静寂を取り戻す。
「うーん、どこに行っちゃったんだろう?このあたりにいる気はするんだけど……」
「ゴン太、お前目がいいんだから鼻もきくんじゃないか?臭いで辿るとかできねぇか?」
「お前さんは獄原のことを何だと思ってるんだ」
ぞろぞろと連なる三つの足音。しょんぼりとする獄原に声をかけるのは無理難題を言い出す百田だ。そして最後に呆れたように言葉をかけるのは星だろう。
ああでもないこうでもないと言葉を交わしている彼らはしばらく廊下に立ち止まっていたようだが、間もなくして別のフロアへ向かったようだった。
静寂を取り戻した廊下と教室、そしてロッカー。けれども己の心臓があまりにもうるさくて堪らない。
「…………オレ、先に行くから。夢野ちゃんは時間置いて出てきなよ」
「…………うむ」
人の気配がないことを確認してロッカーを出た王馬は振り返ることなく教室を飛び出た。立ち止まってしまえば思い出してしまいそうで、いつだって貼り付けたままの笑顔が崩れてしまいそうで。脇目もふらずひたすらに歩き続けた。
(……見られたら困るのはこっちだっつーの)
大股開きで突き進む王馬の手には鍵が一つ。丁寧に巧妙に隠してきた本心がこれでバレるとも思えないものの、きっかけの一つにはなるかもしれない。それに畳み掛けてこんな鍵など使われ、運悪く自分が出てしまったら、いくら夢野がとんでもない干物女子だとしても気付いてしまうだろう。
そんな事態は必ず避けなければならない。
「余計なこと言わなけりゃいいけど」
間もなくして夢野の大捜索は終わりを告げるだろう。その際に集まった面々の誰かが下手なことを言わなければいいと願わずにはいられない。
とはいえ、そこで下手な誤解が生まれたとしても得意の嘘で切り抜ければいいだけの話なのだが。
【育成計画】
寄宿舎を出る前から引きずり続けていた眠気は、下駄箱の蓋を開いた瞬間に吹き飛んだ。ややくたびれた上履きに乗せられた、通常ここには入っていないはずのそれ。可愛らしいキャラクターの描かれた封筒に貼られたシールはハート柄。
誰がどう見ても『アレ』なのだとわかる手紙は、夢野秘密子とネームプレートが貼られた箱の中に静かに収まっていた。
「お主、今更こんな古典的なイタズラにウチが騙されると思っておるのか?」
ぺしんと手紙を叩き付けた先は王馬の机だった。教室に入ってくるなり、目の前に立ちはだかるだけでも目を丸くしていた彼は、叩きつけられたものを見るやいなや大きな目を更に丸くする。
「何それ。知らないけど」
「嘘を吐くでない。こんなことをするのは、同じ学年の中でもお主ぐらいしかおらんではないかっ」
他者が聞けば、いくら何でもそれは偏見ではないかと思うかもしれない。しかし発言主が夢野であり、責められているのが王馬である限りは偏見とならないのだ。何せ覆りようが無い前科があれもこれもそれもある。今回のことも彼が主犯だと思うのも無理はない。
けれども叩きつけられた手紙を手に取る王馬の顔は、依然として怪訝な色を残したままである。表と裏を何度か見返して、眉間に深い皺を刻んだまま。やがて、こちらも怪訝な顔を崩さない夢野を見上げる。
「これ、どこに入ってたの?」
「まだとぼける気か……、まぁよい」
溜め息に疑いの声を添えて、彼女はそれが下駄箱に入っていたのだと告げる。流石にここまで言えば観念するだろうと思っていたのだが、王馬は怪訝な色もそのままに手紙を眺めるばかりだ。
ビリッ、と高い音がする。何が起こったのかわからずぽかんとしていた夢野だったが、目の前で広げられる便箋が封筒から取り出されたものだと気付き、慌てて取り返そうと手を伸ばした。
しかし当たり前のように躱されてしまい、がたんと大きな音を立てながら机へ飛び込んでしまう。
「んあっ!」
「ちょ、っと危ないじゃん。夢野ちゃんって変なところでアクティブだよね」
そのまま倒れてしまいそうだったが、すぐさま王馬に支えられ最悪の事態は避けられた。しかし叩きつけた胸部の痛みがなくなるわけではない。けほ、とむせかけながら呆れた顔でこちらを見つめる彼を涙目で睨みつける。
「な、何をするんじゃ!それはウチがもらったものじゃぞ!」
「ん〜?夢野ちゃん、さっきこれはオレが書いたものだって言ってたじゃん。だったら書いた本人が中身を見るのはおかしなことじゃないでしょ?」
「そ!それはっ……、んあ?そうなのか?」
貰った夢野が見るより前に他人が勝手に見るなど常識外れにも程がある。けれども書いた本人が見るのであれば、少なくとも他人ではないのだしおかしくはないのかもしれない。
「んあー……、うーん……?」
そう一度は納得仕掛けたもののやはりどこか引っかかりを覚える。うんうんと唸り声を上げながら考え直してみること数十秒。やはり理屈が通っていないこと、そして先の言葉から露発した矛盾にようやく気付いた。
勢いのままに反論しようと夢野はギロリと王馬へ鋭い視線を突きつける。もう言い逃れも嘘を織り交ぜた反論にも屈しはしない、何としてでも追及してやるのだ。
なんて、心に強く決めていたはずだったのだが。
「……お、王馬?どうかしたのか?」
便箋を見つめたまま微動だにせず、また感情が全く乗っていない横顔に怯んでしまう。こういう時の彼は大抵興味を無くしているか怒っているかのどちらかなのだ。
未だに便箋から目を離していないので、興味をなくしたわけではないのだろう。ならば怒っているということになるのだが、この何の変哲もない手紙に彼の怒りを買うような内容があったというのだろうか。
いや、そういえば、そもそもの話。
「そ、それはお主が書いたもの、ではないのか?」
書いた本人だから中身を見てもいいだろう、と言い出したのは他ならない王馬である。その本人が書いた手紙に怒るポイントがあるのもおかしい話だ。
けれどいつもの飄々とした雰囲気が嘘のように刺々しい雰囲気に、とても一方的に責める気にはなれず。とはいえ事の真相を放って見過ごすわけにもいかないので、恐る恐る問いかけるだけに留めた。
「……え、何?」
「いや、じゃから……、それを書いたのはお主ではないのか?」
「…………たはー!やだな〜夢野ちゃん、そんな見え透いた嘘を律儀に信じてたの?」
「んあ!?」
突如としてケラケラ笑いだした王馬はそう言うなり、勢いよく席を立った。雰囲気がガラリと変わったこと、予想外の行動に驚いたこと、そして僅かに信じていた心を裏切られたこと。あらゆる感情が一気に襲ってきたため、夢野はひっくり返った声を上げることしかできない。
「やはり嘘じゃったのか!んあーーー!お主というやつは!!」
「にしし!そんなに怒んないでよ〜。可愛い顔が台無しだよ?」
「やかましい!!!」
ついさっき腹打ちしたことなど忘れ、夢野は再び手紙を取り返そうと勢いよく手を伸ばした。けれどもやはり当たり前のように躱されてしまう。わかっていたことであるが悔しくて悔しくて、感情のままに握りしめた拳を奮った。
「うわっ!危ないなー!当たったらどーすんのさ!」
「当てるつもりなんじゃから問題ないわい!」
「おはようございまー……、えっ夢野さん?どうしたんですか!?」
「にゃはは〜、小吉も秘密子も朝から元気だねぇ〜」
教室から飛び出そうとする王馬の前に現れたのは、朝練を終えてやってきた茶柱である。その後ろには朝のお祈りを済ませてやってきた夜長が、一見するとじゃれ合っているかのような二人に笑顔を向けた。
「ちょっと聞いてよ!夢野ちゃんが理由もなくオレに暴力を振るうんだ!」
「いえ、夢野さんが理由もなくそんなことをするはずありません!ぜぇ〜ったいに王馬さんが何かしたに決まってます!」
可愛らしい顔立ちをこれでもかと歪めながら茶柱が吐き捨てる。話の全容を聞くまでもなくこれなので、彼女の男子嫌いと夢野への盲信ぶりは流石としか言いようがない。
とはいえ今回の場合、非の十割は王馬にあるので事の真相など明かす気はないのだが。
「ねぇ、小吉〜。アンジーちょっと気になることがあるんだけど〜?」
「ん?」
夢野と茶柱に挟まれても怯まない、むしろ楽しそうに言葉を交わしていた王馬であったが、すすすと近寄ってきた夜長の問い掛けに顔を向ける。
「それ、どうしたの?」
これまで見せていた笑顔を引っ込め、目を細めながら夜長が意味ありげに問かけた。指を突きつけられた先にあるのは、夢野とのじゃれ合いで少し寄れてしまった何の変哲もない便箋である。
怪訝な顔で首を傾げる夢野と茶柱。しかし王馬には問いかけの意味が通じたようで、すっと人懐っこい笑顔を消した。やがてにんまりと笑った彼は、三人の顔を順に見つめる。
「流石だね、夜長ちゃん。まあキミなら気付くと思ってたけどさ」
「まぁね〜。神様にわからないことはないからね〜」
「じゃあオレの言いたいことはわかるよね?」
「もっちもち〜。アンジーにお任せだよ〜」
「あの、お二人はさっきからなんの話をしてるんですか?」
勝手に話を進めていく王馬と夜長。一体全体何の話をしているのかさっぱりわからない茶柱が声をかけるのは仕方のないことだ。
「転子と秘密子は今日の放課後は暇?」
「えっ、何ですか急に。……まぁ、予定がないといえばないですけど。夢野さんはどうですか?」
「んあ?まぁ、ウチも予定などないが……」
きょとんとしたまま答える二人。そんな友人たちの反応に満面の笑顔を浮かべた夜長は、両手を上げた先で手のひらを合わせる。
「にゃはは〜、それはよかった。今日からしばらくは二人共アンジーと一緒に過ごさなきゃいけないからね〜」
「んあっ?な、何故じゃ?」
「んーと、アンジーにもよくわからないけどー……、神様がそう言ってるからね〜」
夜長の言う『神様』についてはよくわからない部分が多い。とはいえいつも必ず何かしらの理由がくっついてくるため二人も敢えて深くは追求しないのだが、今日はどうやら理由らしい理由がないようだ。
「……んあ?そういえば王馬はどこへ行ったんじゃ?」
どうしても放課後共に過ごすことを譲らない夜長に気を取られている内に、騒動の発端となった人物が姿を消していることに気付く。教室の中にはもちろんおらず、飛び出した先の廊下にも気配すらない。
逃げられたのだ、と夢野が理解したときには既に何もかもが遅かった。
「んあーー!あやつ、結局手紙を持ち逃げしおったな!」
「手紙?ああ……、あの王馬さんが持っていた見るからに怪しいやつですか。……あれ、夢野さんのものだったんです?」
「そうじゃぞ!あれはウチの……、んあ?怪しい?」
ただ一人、必ず味方をしてくれる茶柱の不穏な発言に夢野は驚くと共に首を傾げる。
どこにでも売っている、誰でも手に入れることのできる便箋セット。それがどうして茶柱には怪しく思えるのだろう。
「夢野さん、これは確認なんですが」
「な、何じゃ?アレはウチが仕込んだイタズラではないぞ……?」
「あ、それはわかってます。聞きたいのはあの手紙をどこで受け取ったのか、なんですが」
念押しをさらりと流されてしまったことには多少の不服はあったものの、夢野は茶柱からの問いに嘘偽りなく答えた。朝学校に来たら手紙が下駄箱に入っていたこと、国内随一のセキュリティを誇る学園でこんなことができるのは学園内の関係者だけだと考えたこと、そしてこんなイタズラを仕込むのは王馬ぐらいしか考え付かず問い詰めたこと。
王馬を責める場面については多少話を盛ってしまったが、そこへ辿り着く前に茶柱は腕を組んで考え込むような素振りを見せてしまった。いつもの女子にだけ人懐っこく明るい笑顔はそこにない。
「て、転子?お主までどうしたんじゃ……?」
いつもは騒がしすぎるぐらいの彼女が黙り込むなんて珍しい。男子絡みの話でもなく、ネオ合気道に関わる話でもないというのに、真剣な顔つきは崩れる気配もなかった。
何だか急に怖くなってきて、夢野は恐る恐る声をかけていた。そこでようやく目があった茶柱は、今までの雰囲気が嘘のように明るく笑って見せる。
その姿は先程、王馬がしたそれと全く同じであったのは、何か意味があるのだろうか。混乱するばかりの夢野には思い当たる節もない。
「夢野さん!イタズラでしかない手紙のことなんて綺麗さっぱり忘れちゃいましょう!あんなものは王馬さんにまかせておけばいいんですよ!」
「ん、んあぁ?どういうことじゃ……?」
「小吉に手紙を渡した秘密子の判断は間違ってなかったって神様も言ってるよ〜」
「な、何なんじゃ?あれは王馬への手紙じゃったのか……?」
ぐいぐいと背を押してくる友人二人の雰囲気にどこか恐怖を感じながら、逆らえるほどの力もなければ元気もなく。大人しく従うしかない夢野は、まだ腑に落ちないものを抱えながら教室へと戻った。
間もなくして始まった授業はいつも通り退屈なもので、朝の騒動で使ってしまった体力を回復させるためか夢野は強烈な眠気に襲われる。念仏にしか聞こえない教師の言葉と睡魔。
それに必至に抗っている彼女は気付きもしなかった。いつも斜め後ろで真面目に授業を受けているはずの探偵がいないことに。
余談だが。数日後、学園内に侵入していた不審者が捕まったのだというニュースが夢野の耳に届いたものの、たった数日で忘れ去られてしまったとのことだ。
もちろん影で何があったかなど、彼女は知る由もない。
【紅鮭団】
「夢野ちゃんと会うのはこれで二度目だね」
にこりと人懐っこい笑顔を浮かべながら手を差し出してくる少年を、夢野は全く知らなかった。もしやこれまで仕事を共にした関係者の血縁だろうか、とも思い記憶を掘り起こしてみたものの、近しい外見の少年など欠片も出てこない。
まさか初対面で嘘を吐いてくるわけでもないだろう。なんて思いつつも、そういえば自己紹介で口にしていた才能の名称は随分と巫山戯たものであった。
総統、など聞き慣れなさ過ぎる単語。一体何のことを差しているのか一瞬わからなかったものだ。
「……いや、初対面じゃろ。お主みたいな奇天烈な男と言葉を交わした記憶はないぞ」
「たはー、初対面の人間に対してひどい言い様だね!でもまあ、そういうところがキミらしいんだけど」
にししと笑い声を上げながら、差し出していた手を引っ込める。間もなくして頭の後ろで手が組まれてしまったので、握手をするタイミングをすっかり逃してしまったことに気付いた。
とはいえ夢野は、彼と握手をする気など最初からなかったので、これといって残念がることもない。むしろ面倒が一つ減ってよかったと安堵したぐらいだ。
「やはり初対面ではないか。お主こそ会って間もない人間に平然と嘘を吐くなど、何を考えておるんじゃ」
「別に何も?何度も言ってるけどオレは悪の総統だからさ。息するように嘘を吐くに決まってるじゃん」
「んあー、はた迷惑なやつじゃのう……」
何の因果か集められた十六人の中で、夢野はトップクラスの面倒臭がりである。できることなら人と関わり合うのもご遠慮したいぐらいなのだ。
そう考えて一人うろうろと校舎内を彷徨っていたというのに、よりにもよって十六人の中でトップクラスの面倒臭い奴に絡まれている。さっさと興味を無くしているかどこかへ行けばいいのに。じとりとした視線でチクチク刺してやるものの、今のところ王馬の顔から笑顔が消える気配はなかった。
「ところで話は戻るんだけど。夢野ちゃん、本当にオレのこと知らない?一度も見たことない?」
「……さっき初対面だと言ったのはそっちじゃろう」
「それはこうして顔を合わせたのがって話でしょ。オレぐらいの有名人、まさか本当に知らないわけないよね?」
きょとんとした顔でこちらを覗き込んでくる顔は、女子である夢野から見ても可愛らしくあざとさが光っている。これは間違いなく自分の容姿をよくわかっており、効果的に見えるよう計算されたポーズだ。
末恐ろしい男だなとゾッとするやら感心するやら、夢野は中途半端に口を開けたまま目の前の少年を凝視する。
「……よくそんなアジの開きみたいな顔できるよね。一種の才能なんじゃない?」
「誰が我が家の定番メニューじゃ!」
やたら大きな音を立てながら送られる拍手。褒めているような行動ではあるが投げつけられる言葉は悪口だ。それも形容の仕方が直接的なものでなく、遠回しで回りくどいものだから余計に腹が立った。
「悪の総統だかなんだか知らんが、ウチはお主のような性悪な男など興味もないわ」
「ひっでぇ〜!そこまで言うことないじゃん!」
これまでの声量を遥かに上回る音量が鼓膜を激しく揺さぶる。まさかそんな反撃をしてくるとは思わず、直撃を喰らってしまった夢野は情けない悲鳴を上げ縮こまる。そうして既に遅いとはわかっていながら、頭に乗っている三角帽子の鍔を掴んだ。しっかりがっちり、皺が寄るほど握り締めた鍔を両手で下へ引っ張れば、多少ではあるものの耳の保護ができる。
完成した防御体勢を保ちつつ、恐る恐る王馬のいる方へ目を向ければ、残念なことにまだ彼はそこに立ったままだった。
今のでへそを曲げてどこかへ行けばよかったのに。何度目かわからない心からの願いが叶うときはくるのだろうか。考えただけでも頭痛がしそうだったので、何も考えないように努める。
「ま、オレも夢野ちゃんのことなんて知らないんだけどね〜。キミみたいな素っ頓狂な子、一度見たらそうそう忘れられないだろうし」
ね、と首を傾げながら言う。それが褒め言葉なのか乏し言葉なのかなど夢野には判断はつかない。仮についたとしても、当たったことが嬉しいと素直に喜べないだろう。
目を逸らしながら小さく、そうじゃな、なんて投げるのは適当な返事。正直なところ、王馬に自分のことが知られていようがいまいがどうでもよかった。夢野にとって大事なのは魔法で笑顔になってくれる人々だけである。わざわざ重箱の隅をつつくような男に名が知られていなくても構いはしないのだ。
まあ最初こそほんのちょっとだけ、自分の知名度があまり高くなかったことにショックを受けなかったわけではないが。
「でもさ、おかしいと思わない?」
「んあ?」
声のトーンが落ちるのと同時に距離を詰められる。驚いて一歩下がるものの、それ以上に迫られていたため思ったよりも逃げることはできなかった。
「な、何がじゃ?おかしなことなど何も、」
「オレさ、知らなかったのは夢野ちゃんだけじゃないんだよね。赤松ちゃんに百田ちゃん、ゴン太のことも知らなかったんだ」
ぐいぐいと迫ってくる顔は、大して身長差がないため悲鳴が出そうなほど近い。つい先程、人の顔を干物に例えてきたひどい男ではあるが、悔しいことに顔は相当整っているのだ。これまで女子校に通っていた夢野にとってこの距離は体験したことのないものなのである。
じりじり逃げること数秒。背中になにか固いものがあたった。驚いて振り返ればそこにそびえ立っていたのは真新しくない日々の入った壁。
「……聞いてる?」
「きっ、きい、聞いておる!」
耳元で囁かれた言葉は何の変哲もないものだ。しかし鼓膜を揺らす声が驚くほど柔らかかったものだから心臓が勢いよく飛び跳ねた。
「オレは悪の総統だし、知られてなくてもおかしくないかな〜とは思うよ。でもさ、夢野ちゃんや赤松ちゃんみたいに表舞台に立つような子を知らないっていうのはおかしくないかな?……それも集められた十六人の殆どが、お互いのことを知らないなんてさ」
「いやそんなことは……、んあ?言われてみればそうなのか……?」
誰かに仕えることで才能を発揮する東条や、研究者であり表舞台へ滅多に出てこない神宮寺の名を知らないのは仕方のないことかもしれない。しかし王馬の言うとおり、発表会やショーなどで舞台に立つ夢野や赤松の知名度がほとんどないのはおかしいだろう。
才能を持つ高校生の中でも規格外の才能を発揮する、超高校級と呼ばれる彼らの知名度はとんでもなく高い。国外ならまだしも、国内の人間ならばその名を聞いたことはあるはずだ。
けれども王馬は各地でショーを開催する夢野のことを知らないのだという。また夢野も、王馬のことはともかくコンクールを総ナメしているのだという赤松のことを知らなかった。
「オレもキミも、才能の種類はともかく超高校級なんだよ?知らないなんておかしいとオレは思うな」
「そ、れは……」
人差し指を唇に当てながらにんまりと王馬が笑う。夢野の姿を捉えて放さない大きな瞳は、心の奥まで覗いてきそうな気がしてならない。
「ねぇ、夢野ちゃん。オレたちの才能って本当に本物なのかな?ここへ連れてこられたときに違う記憶を埋め込まれたんじゃない?」
「……何を言い出すんじゃ、お主は。そんなことあるわけなかろう」
「本当にそう言い切れる?だってオレたち、ここへ連れてこられたときのこと誰一人覚えてないんだよ」
王馬の声は男子の中では高かっただったはずだ。けれども今、夢野の胸を騒がせる言葉は骨へ響くかと思うほどに低い。あれほど全身を襲っていた熱も消え去り、残ったのは冷水でも被ったのかと思うほど冷え切った血液だけだ。
からからに乾いた喉を潤すために動かした喉は空回る。痛みすら訴えかけ始める舌では上手く言葉が繋がらなく、ひどくもどかしい。
「キミは、自分の才能が本物だって、心の底から言い切れる?」
喉元にナイフを当てられているような緊張感と恐怖に指先から震えが上がってくる。かちかちと鳴り出しそうな歯を抑えるために必至で口を引き結ぶが、鼻息の荒さは隠せなかった。
弓形になっていた口角が目に見えて上がる。これまで見せていた人懐っこいような無邪気な子供のようなものではない。その笑みは悪の総統と言うに相応しいものだ。
「う、ウチ、はっ」
想定していたよりかは声は出ていたが、震えは大きかった。呂律が回るのか少し不安は残ったものの、それでも夢野は目の前でにたにたと笑い続ける王馬を睨みつける。
「例え、この才能がニセモノ、だったとしても。ウチがこの、魔法で皆を笑顔にしたいと思う気持ちは、本物じゃっ」
もしも本当に偽物の記憶を植え付けられたとして。実際は才能など何も持ち得なかったとしても、夢野は胸に宿る強い想いまでが嘘だと思いたくはなかった。今この瞬間の自分を作り上げているもの全てを否定しているような気がしてならないからである。
「言いたいことはわかるけど、そんなの綺麗事だと思うけどね。笑顔にしたくたって才能が使えなかったらどうにもできないでしょ」
「そんなもの、今から練習をすればよい。最初は小さな魔法しか使えんかもしれんが、それでもウチは人を笑顔にしてみせるぞ」
鼻で笑う王馬へ噛み付くように告げれば、細められていた目が開かれる。ほんの一瞬だけ見えた驚いたような表情は、すぐに先ほどと同じ笑顔へ戻った。
「へぇ、そう」
まるで品定めをするかのように頭の先からつま先まで夢野を眺めた王馬は、短くそう呟いて少しだけ身を離す。凶悪な笑顔はそのままだったのでまだ油断はできない。ぐ、と唇を噛みながら夢野は飛んでくるかもしれない反論を待った。
しかし予想していた反論はいつまで経っても飛んでくる気配もない。ここにきてようやく呆れてものが言えなくなったのだろうか。これ以上絡まれないのなら有り難いことだが、今のタイミングでは消化不良にしかならない。
強張っていた夢野の顔が怪訝なものに移り変わっていく。眉間に寄った皺は今までで一番深く、可愛らしい顔立ちが台無しになるほどだ。
「な、何故黙り込んでおるのじゃ。何か言わんか」
沈黙に耐えきれず声をかければ、王馬は笑みを深くする。やはり何か反論があるのかもしれない。そう身構える夢野の耳元へ唇を寄せた彼は、そっと優しく囁くのだ。
「なんてね、嘘だよ」
「んあ…………うそ…………?」
どきりと跳ねた心臓が本来のペースを取り戻す頃。ぽかんとしたまま王馬の顔を見つめていた夢野は、ゆっくりゆっくり囁かれた言葉を咀嚼し始めた。
嘘、ウソ、うそ。それは事実ではない、誰かを騙すために使われるものだ。王馬が言う『嘘』というものも例に漏れず、事実ではない誰かを騙すために使われるそれと同じである。
では何が事実で誰が騙されたのかといえば。
「……お、おうま、お主まさか、」
少し前までとは違う意味合いで震える指。突き付けた先にいるのはもちろん王馬で、深い笑みを見せていた彼は突如として大きく口を開けた。
「だ〜いせ〜いか〜い!でも気付くのがとんでもなく遅すぎるよ。ドジな魔女っ子とかテンプレ過ぎるからキャラ替えしたほうがいいんじゃない?」
「魔女っ子などではない!ウチは魔法使いじゃ!!ってそうではない!!!」
自分でも驚くほど大きな声が出ていた。けれども腹の底から湧き上がってくる、マグマのような感情を止めることができない。普段から感情に蓋をしがちな夢野である。コントロールなどできるわけもないのだ。
「どこじゃ!どこからが嘘なんじゃ!?」
「え〜〜、それ聞いちゃう?全部ネタバラシしたらつまんないじゃん」
眉をこれでもかと吊り上げ迫ってくる夢野のことなど意にも介さず、王馬はけらけらと笑いながら答えた。それがまた彼女の怒りを買うことになるのだが、言葉の調子や笑い方から恐らくわかってやっているのだろう。
本当に、どうしようもなく、凶悪な男だ。
「まぁ、つまらなくない時間を過ごさせてくれたからね。夢野ちゃんには特別に教えてあげるよ!」
「……それも嘘ではないのか」
「おっ、この短時間で少しはオレのことわかってくれた感じ?嬉しいな〜」
言いながら頭の後ろで手を組んだ彼は、夢野へ背を向けて数歩離れる。やがてくるりと振り返ったかと思えば、にししと笑いながら首を傾けた。
「単純な話だよ。オレがキミのことを知らなかったのはそっちの分野にただ興味がなかったから。もしかすると名前ぐらいは聞いてたかもしれないけど、興味のない話なんてすぐ忘れるでしょ?」
夢野ちゃんがオレや赤松ちゃんたちを知らなかったのは自分の分野外に興味がなかったからだよ、と息継ぎもなく続けられる言葉はどちらかといえば正論であった。基本的に面倒臭がりな夢野は、自分の分野外へ毛ほどの興味も向けたことはない。王馬の言うとおり興味のないことを長く覚えていられるわけもなかった。
理屈はわかる。それに対する反論も特にない。しかしあんなに仰々しく吐いた嘘のせいで振り回された夢野の心労は別問題だ。
「いや〜、まさかここまで夢野ちゃんが引っかかってくれるとは思わなかったよ。ここでの生活も、なかなかつまらなくないかもね!」
「……ウチは今すぐにでも帰りたいわい」
もう金輪際お主の顔など見たくない。そう続けて吐き出したため息は、これまでの人生でも三本の指に入るほど深く重いものだった。
結局のところ、王馬を責めてやろうにもただでさえ貧弱な夢野には、体力も気力も残っていなかったのである。すぐにでも寄宿舎の個室に戻って眠りたい。この迷惑極まりない男から解放されるのならば他には何も望むことなどなかった。
「そんなひどいこと言わないでよ……流石にオレだって傷付くんだよ……?」
ぐしゃりと顔を歪めたかと思えば、けたたましい声量で泣き喚き始める。再び帽子の鍔で耳を防御したものの、それを突き抜けて夢野の鼓膜へダメージを与えるのだからもはやこれは騒音だ。
「はぁ、泣いたらスッキリした。よ〜し、次はキー坊をからかいに行くかな!」
じゃあね、と手を振るや否や駆け出して行ってしまう王馬。ひらひらとストールや拘束具のようなベルトを揺らす彼はぐんぐんと離れていき、やがて曲がり角の向こうへ消えていった。
やがて一人、ぽつんと取り残された夢野はごつんと壁に頭をぶつける。そのまま体重を全て寄せながら、げんなりとした顔のまま目を伏せた。
「何なんじゃ、アイツは……。災害みたいな男ではないか……」
悪の総統と自負するだけあるが、それにしたって凶悪さが過ぎる。次からはできるだけ顔を合わさないようにしないといけない。いつもならば面倒臭い、で問題の対処をすることはないのだが、そうも言っていられないようだ。
取り敢えずはこの後、待ち受けている自由時間を王馬と過ごすことにならないよう、誰かを捕まえなければならない。さてどうしたものかと疲れ切った頭で考えながら、夢野は重い足を引きずりながらとぼとぼと歩き出すことにした。
【紅鮭団】
朝食の時間帯に周りを巻き込んで騒ぎ立てていた男とは思えないほど、静かで穏やかな寝息であった。ぴくりとも微動だにしないので最初の頃は死んでいるのかと驚いたものだが、どうやら彼はあまり寝返りを打たないだけらしい。とはいえ、そう頭ではわかっていてもベッドへ四肢を投げ出して動かない姿には、いつだって一瞬ひやりとする。
乱雑に脱ぎ捨てられた靴と脱ぎ捨てられたストール。それらをキレイに揃えたり畳んだりしている間も、王馬のまぶたが開くことはない。すっかり寝入ってしまっているのだろうか。じいと様子を伺ってみるが狸寝入りなのかそうでないのかの判別はつかない。
鼻でもつまめば流石にわかるだろうか、なんて考えが脳裏を過る。けれども本当に寝入っているのであればその仕打ちは酷というものだ。伸ばしかけた手を引っ込めて、他に座る場所もないため夢野は横たわる王馬の横へ腰を下ろす。
「おかえり」
図書室で適当な本でも持ってくるべきだった。手持ち無沙汰にぼんやりとつま先を眺めていると、不意に袖口をつままれる。耳を打つ掠れた声。振り返ればとろりと瞳を潤ませた王馬が顔だけを夢野の方へ向けていた。
「……起きておるなら、ウチが戻ってきたときに言わぬか」
小さなため息を吐きながら覗き込んだ顔。演技とは思えないほど眠そうな瞳は、ゆらゆらと夢野を捉えているようでそうでもないような。未だ袖口をつまんでくる指先の力はひどく弱い。手首を少し返せばすぐにでも振り解けてしまうだろう。
もしかするとこれまで本当に深く寝入っていたのかもしれない。
「まだ眠いのなら寝ておっても構わんぞ。今日はウチもやることがないからのう」
額にかかる前髪をよけてやれば、さらりとした感触が指先に走る。ハネがひどい髪質なので硬いかと思いきや意外にも柔らかい。ずっと触っていても飽きないかもしれないとは常々思っていることだ。
しかしそれを口に出す気はない。言えばきっとああでもないこうでもないとからかわれるだろう。そんなわかりきった未来を自ら引き寄せようとは思わなかった。
「……夢野ちゃんは?寝ないの?」
「お主と違って夜はぐっすりじゃからな。マナもみなぎっておるし、睡魔など小指でちょちょいのちょいじゃ」
「ふーん……」
袖をつまんでいた指先が解かれると同時に、ベッドへ乗せていた夢野の手へ重なった。肌の白さからは想像できないほどの熱を持ったそれはゆるゆるとした速度で絡まってくる。
ふとまぶたに重みが増した、ような気がした。眠気が襲ってきているのならばそのまま身を委ねたほうがいいだろう。そっと空いている方の手で頭を撫でてやれば、心地よさそうにすり寄ってきた。
「ふふ、子守唄でも歌ってやろうか?」
幼すぎる反応が可愛らしくてつい笑ってしまう。そのままからかうような言葉を掛けてやると、まどろみに溶けかけた瞳が夢野の方へ向けられた。そこには僅かに期待が滲んでいる、ような。
いやまさかそんなはずはない。ドキリと跳ねた心臓を落ち着かせるために頭を撫でていた手をどける。
「……歌ってくれるんじゃないの?」
「んあっ、えっと、うむ……」
けれども逃げ切る前に指先が捕らえられてしまった。そのまま絡め取られてしまっては逃げることができない。次いで甘えたような声で追い打ちをかけられてしまったら断り辛くなってしまう。何しろ自分から言い出したことだ。今更嘘でしたと言ってしまえばどう責められたかわかったものではない。
とはいえ嘘に関することで王馬から一方的に責められるのも納得がいかないのだが。
「へ、変だなんだと文句を言うでないぞ……?」
「言わない言わない」
だから早く、と急かされてしまったので、夢野はこわごわ口を開く。恥ずかしさから声はずいぶんと震えていたが、文句が飛んでくることはなかった。
絡められたままの指先が握られては緩まりを繰り返している。肌から伝わる熱は変わらずに高い。眠そうにしているのは演技でなかったのだな、と今更になって確信できた。
「……夕方、近くなったらさ……、」
掠れた声が何かを伝えようとする。けれどそれは最後まで音になることなく、やがて穏やかな寝息へと変わった。
完全に眠りへ落ちたことを確認して、夢野はか細い子守唄を終わらせる。覗き込んだ先にあるのは無防備な寝顔。ただ意識されていないだけなのかと最初は思っていたのだが、そもそも彼はこうも無防備な姿を他人へ晒すような人間ではない。またいつだったか、他人が近くにいると眠れないのだとキーボをイジる傍ら話していた。
もしかするとそれも嘘なのかもしれないが、少なくとも寝顔を晒してもいいと思われている程度には気を許されているのだろう。そんな考えに至るたび、夢野はむず痒くなんとも言えない気持ちを抱えさせられていた。
「……間違えて入ってきた、なんて言い訳はもう通用せんぞ」
動いたことで中途半端に額へかかっていた前髪を退ける。うめき声すら上げることなく、微動だにしない王馬はもちろん答えてくれるわけもない。
何の目的があって閉じ込められているのか、そもそもここはどこなのか。昼夜を問わずして謎を探っている彼はいつだって寝不足だったらしい。あの日、初めて王馬が夢野の部屋で寝こけていたのも、寝不足のピークから間違えてしまったのだという。
二人の部屋は左右対称で二階の突き当りだ。上がる階段を逆に行き、また部屋に鍵が掛かっていなければ、判断能力が著しく低下している状態で間違えてしまうのも無理もない。だから最初は夢野も驚き呆れはしたものの、咎めることはなかった。
「わざわざピッキングまでして、お主はウチをどうしたいんじゃ……?」
次からはこんな間違いがないように。そうお互いのためを思って鍵を掛けるようにしたが、その鍵を無理やりこじ開けて彼はいつもやってくる。
ここにいれば自分を訪ねてくる人間は来ないからね、なんて言い訳を聞いたのは一度や二度ではない。ここは王馬の部屋ではなく夢野の部屋なのだから当たり前だろう、と責めて追い出したことも一度や二度ではなかった。
それでもこうしてやってくるものだから、遂には夢野が折れて迎え入れる形に落ち着いている。もちろん不本意だ。そう、不本意であったのだ、これまでは確かに、不本意で。
「…………おーま」
名前を呼んでみる。絡めた指に力を入れてみる。そっと頭を撫でてみる。それら全てに反応があるわけではなかったが、それだけしても起きる気配すらない。
穏やかな寝息を聞くことも、無防備な寝顔を眺めることも。今この学園で許されているのは自分だけのような気がして、少しだけ胸が騒いだ。
【育成計画】
「私と勝負していただけませんか?」
にこりと微笑みかけながら取り出した真新しいトランプを見るなり、面倒臭そうにしていた少女の雰囲気が変わった。まぶたは依然として半開きのままであったが、瞳はこちらを探るように鋭さを増している。
彼女、夢野はどちらかといえば抜けている方に数えられ、また面倒臭がりの性格も手伝ってかあらゆることへの反応が鈍い。加えて自ら行動を起こすことも多くないので、よく友人である茶柱や夜長たちに引っ張られて連れ回されているのを見かけた。
しかしそんな彼女でも、自分の得意とする領分へ土足で入られては気分がよくないのだろう。少しばかり不機嫌そうな顔は作られた微笑みとトランプを交互に見ていた。
「ウチは博打なぞやらん。賭けるものもないし、勝ったとしても何の利益もないじゃろ」
「あら、やる前からもう勝つ気でいるなんて。傲慢な方ですわね」
うふふ、と口元に手を添えながら用意された笑顔を貼り付ける。すると夢野は明らかに面倒臭そうな顔をしてみせ、向けていた視線を横へとずらした。そこには太った方の十神が素知らぬ顔で優雅なティータイムに勤しんでいる。
一瞬だけ、二人の視線がかち合った。けれども面倒ごとはゴメンだとばかりに十神は放り出されていた文庫本を手に取る。ほぼ無視に近い反応に、すぐさま夢野が言葉もなく視線で責めたものの、状況が変わることはない。
「そんなに身構えることはありませんわ。勝負といっても、ちょっとしたゲームですから」
「……お主の言うゲームでは意味が違ってくるじゃろ」
頼みの綱である十神にフラレてしまったため、夢野は掛けられる言葉に返す他ない。けれども話すことすら心底嫌なのだろう。警戒心も丸出しで逃げ腰のまま目の前にある微笑みを睨みつけ続けた。
つくづく嘘を吐けない少女である。その割には自分の才能をマジックではなく魔法だと言い張って譲らず、しかし粗をつつかればしどろもどろになるのだから面白い。学年一の嘘つきがつついて遊ぶのも頷けるというものだ。
「そうですわね。私がいうゲームは主にギャンブルを指しますから、誤解されてしまうのも仕方ありませんわね……」
「誤解もなにもその通りじゃろう。さっきも言ったがウチは博打など、」
「では言葉を変えましょう。私と貴女で技比べをいたしませんか?」
「んあ?技比べじゃと?」
訝しげに歪められていた眉がぴくりと跳ねる。何の誘いも乗らないぞ、と強い意志を示していた態度に僅かな隙ができたことを見逃すほど、間抜けではない。
それにしても、笑ってしまいそうなほど簡単に乗ってきてくれた。こんなにも御し易いのでは色々と不都合にならないのだろうか、なんて柄にもなく心を傾けてしまう。
「私も貴女も、このカードたちとは切っても切れない縁があるでしょう。もちろん扱いにも長けている。違いますか?」
「……まぁ、否定はせんが。それで何を比べると言うんじゃ?」
「私はギャンブラーとしてのテクニックで、貴女は魔法使いとして。そうですわね、カード当てなんていかがでしょう?」
相手のプライドを傷付けて、せっかくのチャンスを棒に振ることは避けなければならない。夢野の才能が魔法だなどと微塵も思ってはいないが、敢えてマジックだと訂正することなく彼女の自称を持ち出す。
ぴくり、と視界の端で指先が跳ねた。どうやら完全に釣り針に掛かってくれたらしい。自然と笑みが深くなってしまうが、勝負のことで頭がいっぱいなのだろう夢野に気付かれることはなかった。
「……賭け事、ではないんじゃな?」
「えぇ。私としては是非ともギャンブルで貴女と勝負をしたいのですが、それでは応じてもらえないのでしょう?」
「お主と勝負してもウチに旨味がないじゃろ」
「そんなことはないと思いますけれど。ふふ、今日のところはそれで構いませんわ」
カードに細工がなされていないことを確認させ、慣れた手付きでシャッフルを行う。公平さを保つために同じ数だけ夢野にもカードを切らせ、満遍なく混ざり合うようにすれば、準備は整った。
コイントスの結果、夢野が先行でカードを当てることとなる。緊張の面持ちでカードを手に取る彼女だが、意外にも指先は落ち着いていた。やがてテーブルの上へ丁寧に並べられたカードたち。その中から一枚を抜き取れば、これまでで一番鋭い視線が向けられる。
「お手並み、拝見いたしますわね?」
笑みを深くしながらわざとらしく声をかければ、夢野はゴクリの喉を鳴らした。相当に緊張しているのか視線があちこちに泳いでいる。
夢野は間違いなく超高校級のマジシャンであり、その実力はもちろんプロに引けを取らない。しかしその技術は高くとも精神面ではまだまだ未成熟だろう。その証拠に、先程の揺さぶりが相当効いたのか、丁寧な指先に僅かな震えが見えた。
この調子であれば夢野の手の内を明かすことができるかもしれない。これは勝負ではないと彼女には伝えたが、そんなものは真っ赤な嘘である。この勝負の成功報酬は『超高校級のマジシャンのスキルを暴く』こと。敗北した際のペナルティは『夢野の才能を暴く機会を失う』ことなのだ。
「どうしました?あまり顔色がよろしくないようですが」
「んあっ……」
笑顔を引っ込めてからの追い打ちで、夢野は困りきったように指先を彷徨わせる。カードの柄がわからないのか、それとも本能的にこちらの意図を感じ取っているからなのか。迷いの色を濃くしながら彼女の視線は再度、十神に向けられる。
もちろん反応などない。何故なら彼はこちらの仲間なのである。助け舟など出されるわけがないのだ。
段々と白くなる顔色。俯く幼い顔に少しばかりの憐憫を抱いたが、あと少しで手に入る勝利を前にして、そんな感情に何の意味があるだろうか。
深くなる笑みもそのままに彷徨う指先が向かう先を注視していれば、ふと視界の端に白いものがチラつく。
「あーーー!夢野ちゃん、こんなところにいたの!?めっちゃくちゃ探したんだから!」
「んあ!?な、何じゃ!?」
悲鳴に近い声を上げながら大げさに肩を跳ねさせた夢野の指先がカードから離れていく。思わぬ乱入者に目前だった勝利が駆け足で遠ざかっていくのがわかった。
「もー、何してんの?今日の放課後はオレと一緒に遊びに行くって約束してたじゃん!」
「んあ……?そんな約束しておったか?」
夢野が振り返るよりも早くにテーブル脇へとやってきた王馬は、中途半端な位置で止まっていた彼女の手を取る。
「え、してないよ?嘘だからね」
突然のことに頭が追いついておらず固まるばかりの夢野は、ぽかんとした顔のまま笑う少年を見つめる。数十秒後、ようやく状況と投げつけられた嘘に気付いて眉を吊り上げるが、声を荒げるよりも前に握ったままの手を引かれたことで言葉を詰まらせた。
「さっきの話は嘘だけど、最原ちゃんが探してたのは本当だよ!夢野ちゃんの魔法的な力でパパーっと解決してほしいんだってさ」
「……いや、最原がそんなこと言うわけないじゃろ」
「えぇー?疑り深いなぁ〜」
そのままぐいぐいと手を引かれながら、夢野は食堂の出入り口へと誘導される。けれども途中で立ち止まり、ハッとした様子で振り返った。
「いや、待つんじゃ王馬。ウチは今、セレスと勝負をしておったんじゃぞ。このままではあちらの不戦勝になってしまう」
引き返そうとする夢野が今度は王馬の手を引いた。しかし彼が今の位置から動くことはない。何も言わず、微笑みを浮かべたままのこちらをちらりと視線だけで確認し、すうと目を細めて。
「どうせ続けても夢野ちゃんがボロ負けして終わりなんだから、やるだけ無駄でしょ。ほら行くよ!早く行かないと最原ちゃんが闇の組織に攫われて太平洋に沈められちゃう!」
「な、何じゃと!?ウチがボロ負けなど、いやそれはそれとして最原は何に巻き込まれておるのじゃ!?王馬っ、ちょっと、待たんかぁ〜〜〜!」
ばたばたと激しい足音と騒ぎ立てる声が二人分、食堂からどんどん遠ざかっていく。そうして残されたのは列の乱れたカードと冷めきったロイヤルミルクティーだけ。
「……逃げられてしまったな」
くく、と低い笑い声が耳へ滑り込む。とうの昔に読み終わった文庫本をテーブルへ置いた十神は、食堂の入り口へ目を向けてながら、こちらも冷めきったコーヒーに口を付けた。
「そうですわね。でも、逃げられたというよりは」
「守られてしまった、のほうが正しかったか?」
かたんと小さな音を立てながら立ち上がった十神はそう言って、ティーカップを片手に厨房の方へ歩いていってしまった。片付けるためか、はたまたおかわりを淹れるためか。もしも後者であるなら、ロイヤルミルクティーのおかわりもお願いしたかったものだが。
「勝負は決着が付きませんでしたけれど、代わりに面白いものを見させて頂きましたし。今日のところはこれでよしとしてあげますわ」
嵐のように去って行ってしまった少年への言葉は届くわけもない。けれども敏い彼のことなので、こちらが何を考えているかもわかっているだろう。それによって自らが被るだろう不利益だって気付いていないはずもない。
それでも彼はこの場に飛び込んできて、戸惑う少女を連れ出していったのだ。
「うふふ。このツケはいつか必ず、彼に払っていただかないと」
彼が守りたかったのは彼女の才能か、それとも。
自然と深くなる笑みもそのままに口を付けたロイヤルミルクティー。驚くほど美味しくないそれも許せる気がしたのは、新しい娯楽を見つけることができたからなのかもしれない。
【紅鮭団】
ジェリービーズ、ハトのエサ、ガジュマルの鉢。そして人をダメにする作業椅子とフレイムサンダー。モノモノマシーンなるものから出てくる、実用性があるのたか無いのだかわからない品々は、部屋の足場を日に日に奪っている。辛うじて足の踏み場が残っているものの、いつまでもつかはわからない。
ハトのエサやフレイムサンダーなど持ち運びができるものは、いくつかを研究教室へ移動させている。しかしいくら運んでも運んでも、毎日毎日渡されてしまうのだからさっぱり追いつかない。
最初こそ安眠のためにと面倒臭い作業を行っていたが、余りにも埒が明かないため手を付けなくなって早三日。圧迫感を与えるばかりのプレゼントの山に囲まれて目覚めるのも慣れ始めてきていた。
ちゃりん、と金属音を立てながら吸い込まれていくメダル。軽いハンドルを回せば小さなカプセルが飛び出してくる。小さいものから、明らかに入らない大きなものまで。一体どういう構造で収まっているのか謎ばかりが深まる。
「……同じものがそう連続で出るわけではないんじゃな」
特に必要ないとこれまで近寄ることもなかった購買部。たまたま拾っていたメダルを全て使い切ってみたが、どうやら同じものが連続で手に入る確率は低いらしい。もしやダブった余り物を押し付けられているのではないか、なんて思い至ったのだがそういうわけでもないようだ。
ならばどうやって、ああも同じものを手に入れられたのだろう。相当なメダルを注ぎ込んだのか、はたまた本当に運悪く同じものが出てきてしまったのか。手に入れた経緯はわかりそうでわからなかった。
それだけではない。毎日毎日飽きもせず、プレゼントを渡してくる理由も分からず仕舞いだ。それもこちらの好みに合わせたものばかりを。
「こんなところにいたんだ」
探したよ、嘘だけど。笑顔でそう言葉を続けながらやってくるのは、飽きもせずにプレゼントを渡してくる張本人だ。両手を背の後ろに隠している彼は、間もなくして真正面に立ちはだかる。
「……ウチはお主に用などないぞ」
「え〜? そんなに釣れないこと言わないでよ」
にやにやと笑いながらこちらの様子を伺う瞳からは感情が読み取れない。観察眼にはそこそこ自信があったのだが、彼を前にするとその自信がすっかり無くなってしまう。
「キミにも悪い話じゃないと思うんだけど」
「そう言っていい話だった試しはないじゃろ」
呆れを隠さずに言えば、そうだっけととぼけた顔で首を傾げられる。
「じゃあ聞くの止めとく?」
「……お主がそう簡単に引くのも気色が悪いのう」
「もー、我儘だなぁ。聞くのか聞かないのか早く決めてよ!」
素直に話を聞いて騙された回数は両手で足りない。ならば話を聞かなければいいだろう、と思うかもしれないが、それはそれで何をされるかわかったものではない。さて今回はどんな企みがあるのかと疑えば疑うほど判断が鈍ってしまう。
そんなこちらの心を知ってから知らずか。いや、まさか知らないわけがないので確信犯なのだろう。笑顔を引っ込めながらも責めてくる彼の瞳からは、隠しきれない輝きが伺えた。
「んあー! 聞く! 聞くから大声で叫ぶでない!」
「へぇ、あんなに勿体ぶっといて結局聞くんだ? だったら最初から素直に聞いておけばいいのに。時間の無駄だと思わないの?」
呆れた溜め息をこれみよがしに吐かれ、何も思わないわけではない。けれどもここで下手に反論をしようものならどんな罵詈雑言が飛んでくるか。いつだってこちらが考えつかないような、傷付くようなそうでもないような言葉をぶつけられるのである。軽率に口を開くべきではないと唇をへの字に引き結んだ。
それでもやはり煮えきらない気持ちというものはある。そんな、言葉にはしない不満を視線でぶつけてやれば、不服そうな表情へじわりじわりと滲む笑み。
「にしし。いつまでその顔が続くかな〜?」
首を傾けながらゆっくりと大股で歩き出す。両手は未だ背に隠されたまま。しかめっ面のまま近寄ってくる彼の瞳を睨み付け続ければ、特徴的な影が目の前に躍り出る。
「んあっ、何じゃ……? …… そ、それは!」
何がきても驚かない、何をされても動じない。そんな心持ちで待ち構えていたのだが、差し出された見たことのあるそれに半開きだった目蓋が無意識に持ち上がる。わなわなと震えてしまう声と、同じように震えている差し出す指先。
モノモノマシーンから出るのだと噂だけは聞いていた、喉から手が出るほど欲しかった代物。その名をマボロシロッド。
「ほらね? 悪い話じゃなかったでしょ」
「そ、そうじゃな! 悪い話では……、いや待て。お主はウチに何をさせるつもりなんじゃ?」
マシーンから出てくる確率がどれほどのものなのかはわからない。しかしマボロシというのだから高くはないのだろう、のだと思う。そんなレアなものを何の代償もなしに渡すような男ではない。絶対に無理難題を突きつけてくるに決まっている。
一度は舞い上がった心を抑えつけ、晴れやかになりつつあった顔へ疑いの色を戻した。
「何をさせる、かぁ。そうだな、強いて言うなら」
問いかけに悩むような素振りを見せた彼は、唐突にこちらの手を掴んできた。突然のことに驚き固まっていれば、マボロシと呼ばれる杖を握らされてしまう。
このままでは、受け取ったんだから協力しないわけないよね、などと言われかねない。慌てて押し返そうとするものの、判断するよりも先に距離を置かれてしまう。
「考えてよね。それを渡した意味をさ」
「か、考える⁉ ウチに何を考えろと言うんじゃ!」
「だから、それを考えるんだってば」
ロッドを返そうと追いかけるがさっぱり捕まらない。それどころかどんどん距離を置かれてしまうのだから、状況は益々悪化するばかりだ。翻弄されっぱなしな自分への悔しさに両手へ力が籠もっていく。
「じゃあオレは行くから。ちゃんと大事にしてね?」
「んあっ、待て! まだ話は終わって……!」
曲がり角の向こうから上半身だけを見せ、笑みを浮かべながら手を振られた。このままでは本当に逃げられてしまう。残り僅かな体力を振り絞り、消えてしまった背中へと駆け寄って。
「はぁ、はぁ……、はぁ……」
視線の先に人の姿はない。切れた息もそのままに、一人取り残された廊下で握ったままのマボロシロッドを見つめる。あれだけ欲しかったはずの輝きが今ではとてつもなく重くてたまらない。
「考えるって、何を考えろと言うのじゃ……」
彼が言っているのはおそらく、このロッドだけを指しているのではない。これまで山のように渡されたプレゼントの全てを言っているのだろう。
それらを渡された意味。何の見返りも求められず、ただ与えられるだけの意味。そんなもの考えればすぐにでもわかることだ。
けれどもその導き出した答えが正解かどうかはわからない。問いかけてみたところではぐらかされそうで、それどころか馬鹿にされてしまいそうで。
あと一歩を、未だ踏み出せないでいる。
【育成計画】
およそ六月とは思えない熱気である。
天気予報士は梅雨明けを宣言していただろうか。太陽の真下に少し立っているだけで、頭の先から足の先までじわりと汗が滲む。それだけではない。頬へぶつかる風に、梅雨特有の湿気が多く含まれていることも、この不快極まりない暑さに拍車をかけている要因だろう。
額を手の甲で雑に拭ったのも今日何度目かわからない。その度に肌はしっとりと濡れるのだから、水分補給を怠るわけにはいかないなとペットボトルの蓋を開ける。勢いのまま煽るように飲めば、生ぬるいスポーツドリンクが喉を滑り落ちていった。
「んあ〜〜〜〜〜、暑いのう〜〜〜〜〜……」
短くも重い溜め息を吐いた夢野が、同じ様にすっかり温くなってしまったアイスティーを飲む。ぱたぱたと手のひらを団扇代わりにしているが、汗が引く気配は全くない。この暑さである。公園内にある木陰のベンチは子連れのママ友グループや、散歩途中なのだろうご老人たちに占拠されていた。
とはいえ、そもそもここへ長居する気はない。あと数分もすれば途中である買い物に戻らなければならないのだ。
「夢野ちゃ〜ん、もう足の疲れは取れたぁ〜?」
「んあー、そうじゃのう……。もうちょっと待ってくれんか?」
項垂れながら問いかければ、返ってくるのは呑気な声。できれば今すぐにでもここを移動したいのだが、夢野がまだというならば動くわけにはいかない。とは頭でわかっているものの、すぐに気持ちが追いついてくるわけでもなく。
まだなのかよ、という文句にも似た呟きはペットボトルへ僅かに残っていたスポーツドリンクで飲み下した。
「……王馬よ、ウチのことは気にせず先に行ってもよいのだぞ? 後からのんびり付いていくからのう」
項垂れ続ける姿に思うところがあったのだろう。遠慮がちに声を掛けてきた夢野は、そう言って公園の出入り口を指さした。
動いた指先につられて目を向けた先。この暑さで出歩く人間はいないのか、大通りだというのに人の姿はまばらである。ぼんやりと景色が滲んでいるように見えるのはきっと気のせいではない。
「先に行くのはいいけどさぁ、どうやって付いてくんの? キミ、この後でどこ行くか知らないでしょ」
「どこって……、この道の先にある雑貨屋ではないのか?」
「そこに目当てのものがなかったら別の店だね。オレはさっさと帰りたいから、キミのことは置いていくけど、それでも付いてこれるの?」
「んあ……、そうか……」
この暑さの中をいつまでも歩き回りたくはない。できればさっさと買い物を済ませて、家路につきたいものである。そのためならば多少の余計な労働も我慢をしようと思えた。
その気持ちにちょっとばかりの棘を含ませて伝えてやれば、夢野の眉間に皺が寄る。やがて視線を足元へと落とし、手にしていたペットボトルへ力を入れたり入れなかったりを繰り返した。子どもたちのはしゃぎ回る声にぽこぽこと軽い音が混ざる。
「…………」
項垂れた姿勢のまま視線だけを隣へ向けた。残り少ない紅茶をぼんやりと見つめる、少しだけしょげた横顔。いつもは纏まっている切りそろえられた赤い髪がぴたりと頬に首に張り付いている。
無防備に晒された、なだらかな項を伝って落ちる汗が一筋。間を置いて、もう一筋。
「……、はぁーー……」
「……のう、王馬よ。ウチのことは構わず、置いていってもよいのだぞ? いつまでもこんなところで止まっているのも、お主の性に合わんじゃろう」
気遣うような声が掛けられると同時に覗き込んでくる顔は、眉尻が下がり眉間にも皺が寄っていた。あんなに棘のある言葉を掛けたというのに、どうやら本気で心配してくれているらしい。
ぐ、と喉まで出かかった言葉を無理矢理に飲み込む。次いで頭を大きく横へ振ったのは彼女の問いかけを否定するためでもあったが、どちらかといえば脳裏に過っていた考えを振り払うためだったのかもしれない。
「このまま夢野ちゃんを置いていったら、今度こそ干物になっちゃうでしょ? 夢見が悪くなるから嫌だよ」
「……もうちょっと他に言い方があるじゃろ」
にししと笑いながら言ってやれば、しょげていた顔をしかめて夢野はそっぽを向いてしまう。
けれども待つつもりだという意思を汲んではくれたようで、ちらりと視線だけを一度向けた後にありがとうと礼を告げてきた。
(……置いてなんかいけるかよ)
先程よりも距離が縮まったことにより汗の滲んだ項がよく見える。先程振り払ったはずの雑念が舞い戻ってきそうでキツくまぶたを閉じた。しかしそんなことをしても焼き付いた景色を忘れられるわけではない。
むしろより鮮明になっている、ような気がして。
「……夢野ちゃ〜ん、まだぁ〜〜〜?」
ありとあらゆるものを誤魔化すように大声で問いかければ、驚きのあまり夢野が飛び上がった。小さな悲鳴を上げた彼女の影がちらちらと視界の端で踊る。
茹だるような暑さは変わらず弱まることがない。ということはもちろん、肌に滲んで伝う汗だって絶えることなどなくて。
それもこれもどれも全部この熱のせいだ、なんて言い訳は一体誰に向けたものだったのだろう。もう大丈夫だと胸を張る夢野を見上げながら、無駄に動いている心臓の音は聞こえないふりをした。
【育成計画】
世の中での知名度が上がれば自然とファンは生まれるものである。それはこちらが望んでも望んでいなくても起きる現象であり、嬉しいことを運んでくれることもあれば、もちろん悪いことを運んでくるものだ。
都会のど真ん中。人の往来も少なくはない道で突然立ち塞がった少女たちは、背こそこちらより高いものの雰囲気から見て年下だろう。大きな瞳をこれでもかと細めて鋭い視線を向けてきていた。
(……あぁ、こっちのファンか)
ちらちらときらめく瞳を向けられているのは、先程まで見せていた笑顔を引っ込めたままの王馬だ。表情こそ無なので一見すれば驚いて固まっているかのように思える。が、纏う雰囲気の刺々しさを肌で感じるため、間違いなく彼の機嫌は坂道を下り始めているに違いない。
これは困った。夢野は眉を八の字に歪めながら、迷惑そうに避けていく通行人の視線に胃を痛める。できることなら無視して通り過ぎたいが、今後のことを考えれば軽率な行動は取れないのだ。彼のためにも、また何よりも自分のためにも。
「……付き合ってたって、本当だったんですね」
どちらかと言えば気の強そうな方の少女が呻くように呟く。鋭さを増す視線。そこには明らかな敵意が含まれていた。
しかしそんな視線に射抜かれながらも夢野は、ああこの子は敬語が使えるんじゃなあ、なんて呑気なことを考える。これまで対峙してきた中には、突然襲いかかってくる者もいたからだ。
「何で、何でよりにもよってその人なんですか? 赤松さんとか東条さんなら、まだわかるのに……!」
「王馬様にはもっともっと相応しい人がいるはずです! 学園じゃなくても、組織の人とか沢山いるじゃないですか!」
言葉は王馬を責めるようなものだが、鋭い視線は変わらず夢野に突き刺さっている。見る相手が違うのではないかと思わなくもないが、投げつけられる言葉は遠回しに夢野へ『お前は釣り合ってない』と言っているものなので、すべてが間違いというわけではない。
それよりも何よりも、だ。目の前にいる少女は今、夢野の隣にいる男を王馬『様』と呼んでみせたのである。このトラブルしか呼んでこない至極面倒な男のことを、まるで神か何かを崇拝するかのように呼んでいたのだ。
(まぁ、この年頃にはそういうものに傾倒しやすいからのう)
中学生、思春期。大人に反抗しながら生きていく世代の子どもが、面白おかしく大人を翻弄する秘密結社に憧れを抱かないこともない。そしてその憧れが行き過ぎてしまい、模倣したりだとか崇拝し始めたりするのも、ある意味仕方のないことだ。
けれども現実とは残酷なもので、彼女らが崇拝してやまない超カリスマを輝かせる秘密結社の総統はその実、やんちゃな小学生のような男なのである。
これが笑わずにいられるだろうか。少なくとも夢野には難しい話だった。
「んあっ、痛っ……!」
ぎちぎちと、そういえば繋いだままであった手を思い切り握られる。小さな悲鳴を上げながら隣を見れば、夢野の胸中などお見通しなのだろう王馬からの鋭い視線が刺さった。何を考えてるんだ、空気を読め。そんな音にされない言葉が投げつけられたような気がする。
確かにこの状況で笑い出すなど、場の空気を悪くする一方だ。ぐ、と腹に力を入れて無表情をたもつことに努める。
まさかこんな時に、感情を表出すのが面倒だからと表情筋に仕事をさせなかったことが活きるだなんて。人生何が起こるかわからないものだ。
「こんなチビでスタイルもよくない人のどこがいいんですか!? 才能だって、魔法使いとか意味わかんないこと言って……、本当にこの人って超高校級なんですか!?」
何も言葉を返さないことに業を煮やしたのだろう。気の強そうな少女が、夢野を指さしながら声を荒げた。よくもまあ本人を目の前にしてそんなことが言えるな、と思いはしたものの、これも若さなのだろうとうっかり感心をしてしまう。
夢野とて、この男と自分が釣り合っているかどうかについて、悩んでいないわけではない。方法はどうであれ世の中を動かすことのできる、やること成すことのスケールがでかすぎる男だ。それこそ彼女らが言うように彼をサポートできるような東条が相応しいのではないかと考えなかったことはない。
だが頭ごなしに否定をされ、はいそうですかと引き下がれるわけがなかった。人格や容姿を否定されるなら、まだ百歩譲ってそういう意見もあるかで済ませることはできるだろう。しかし尊敬する師匠から受け継いだものまで否定されては黙っていられない。彼女にも譲れない意地とプライドがあるのだ。
「……さっきから黙って聞いてればさぁ、随分と好き勝手なことを言うよね」
こうも攻撃的とはいえ、一応恋人のファンである。せめて抱いている夢ぐらいは綺麗なまま持って帰ってもらおう、と口を開きかけた夢野よりも先に王馬が口を開いた。ぎょっとして隣を見れば、相変わらず無表情でありながらも、不機嫌な気配を消しもしていない。
いや、これは不機嫌どころではなく、間違いなく怒っている気配だ。
「……え、」
「まぁ、知らない他人なんだからこそ好き勝手言えるよね〜。わかるよ! オレも同意見だからさ!」
にしし、と笑いながら少女たちへの距離を詰める。最初こそ嬉しそうに頬を染めていた彼女たちだった、が放たれた言葉や声の割りには笑っていない瞳を前にして、徐々に眉尻を下げていった。
このままでは相手への印象が悪くなる一方だろう。どうしてか未だ繋がれたままの手を引いて、少女たちから王馬を離そうとした。しかし力いっぱい引いても呼びかけてみても彼の背中はびくともしない。
きっと夢野のために怒ってくれているのだろう。それはわかっているし、嬉しいといえば嬉しい。とはいえ恋人が見知らぬ女子に詰め寄っている姿は見ていて気持ちのいいものではないのだ。
「国が認めた超高校級をこんなやつ扱いするなんて、若いってホント怖いもの知らずだよね! その何も考えもせずに思ったこと何でも言っちゃう軽い頭も尊敬しちゃう!」
「こ、こらっ! 言いすぎじゃぞ!」
少女たちの表情がみるみる内に怯えたものに変わっていく。じりじりと王馬がにじり寄った分だけ、じりじりと後退する彼女たち。通り過ぎるだけだった見知らぬ人たちが一人、また一人と止まって。
これ以上はいけない。夢野はそう判断すると同時に握られたままの先、腕に抱きついて王馬の体を自分の方へと引き寄せる。
「え〜? オレはボロカスに言われた夢野ちゃんの為を思ってこうして心を鬼にしてるのにさぁ……、そんなこと言うなんてひどいや……!」
うゔええああん、と涙も鼻水も涎も垂らしながら大声で泣き始める。突然の変貌ぶりに少女たちからは悲鳴が上がり、通行人たちの足もより一層多く止まり始めた。それは夢野にとっては見慣れた嘘泣きをする恋人の姿だが、一般人にとっては異様でしかない。
すっかり怯えきって、もうファンなどではなくなっただろう少女たち。面白がってスマートフォンを向けてくる通行人。そして周囲のことなどお構いなくギャン泣きする恋人。
「んああぁ〜〜〜! いい加減にせんか! どうせそれも嘘泣きなんじゃろ!」
「あは、バレた? っていうか早く止めてよ。こんなに人が集まっちゃったじゃん!」
「んあ!? な、何故ウチが責められなければならんのじゃ!?」
けろりとしたかと思えば、眉を吊り上げて夢野に詰め寄ってくる王馬。声の調子から本気で責めているわけではないことは伺えた、ものの形だけでも責められていい気がするわけなどない。じわじわと頭に血が登っていく。
気付けば夢野も、先程泣き喚いていた王馬と変わらぬ声量になっていた。
「そもそも夢野ちゃんが言い返せばいい話だったでしょ? キミがだんまりしてるから、彼氏としてオレが面子を保ってあげようとしてあげたのにさぁ」
「や、それはその通りなんじゃが、言うこともわからんではないと思うこともその、なくはなくてじゃな……」
「それって夢野ちゃんが実は魔法使いじゃなくて魔法少女だから宗派違いで皆を騙してたって話?」
「違う! そっちではなくて、いやそもそもそんな話はしておらんじゃろ!」
今度は夢野の方から詰め寄れば、きょとんとした王馬はふうんと呟いて首を傾ける。それまで大きく開いていた目を細めて、不意にちらりと逃げ出そうとする少女たちを一瞥した。騒ぎに乗じてこっそり消えようとしていたのだろう。怯えきった彼女たちは王馬から向けられた視線を受け、更に怯えた様子でびくりと肩を震わせた。
次いで隣へと視線を戻した彼は、眉を吊り上げたままの夢野をじっと見つめる。
「な、何じゃ、急に黙り込みおって……」
王馬が黙り込むとき、それは必ず何かをよからぬことを考えているときだ。今までの付き合いで嫌というほど思い知らされている夢野は、眉尻をゆっくりと下げながら彼と距離を取る。
そこでまた思い出すのだ。出掛けると学園の寮を連れ出されたときからずっと握られたままの手が、離される気配すらないことを。
「オレのファンだっていうならさ、オレの幸せだけを願ってればよくない?」
「んあ?……それはまぁ、そうじゃのう。しかしファンだからこそ、その幸せに自分が噛んでいたいのではないのか?」
「えぇ〜〜? ただただ迷惑なだけじゃん! オレの幸せに他人なんてお呼びじゃないんだけど!」
「言いたいことはわからんでもないが……、お主は結局何が言いたいんじゃ?」
同意を求められても、そこに込められた真意がうまく掴み取れないままでは素直に頷けるものではない。ただでさえ本音を隠すのがうまいというのに、考え方が突飛な男なのだ。夢野が必死に知恵を絞ったところで答えに辿り着ける可能性は低い。ならばと真正面から意図を問えば、王馬はにんまりと笑みを浮かべる。
その笑顔には、嫌というほど見覚えがあった。
「王馬、ちょっと待つんじゃ、それは、」
これまでこの笑みを前にして、いいことがあった試しなどない。握られていない方の手を顔の前に翳し、距離を置くために後ずさる。拒絶にも似た態度と言葉を少しは申し訳なく思ったが、それよりも襲い来るかもしれない未知の未来が恐ろしかったのだ。
そんな夢野の言動を前に王馬はと言えば、先程よりも笑みを深くして見せたのである。
これは駄目だ、ヤバいかもしれない、いやかもではなくヤバいやつだ。そう判断して握られた手を振り払おうとした夢野であったが、今日一番で強く握り込まれてはそれも叶わず。
「んあっ、王馬何を………、んあ…………?」
鈍い痛みに顔をしかめている内に、王馬の顔との距離はなくなっていた。引きつった頬の筋肉に押し付けられる、薄い肉の感触。熱いような冷たいようなそれは弓なりの形を保ったまま、ゆっくりと離れていく。
その場にいた、王馬を除く全員がぴたりと固まっていた。時間が止まっているのかと錯覚するほど、その場の空気はしばらく動くことはなく。
「オレの幸せにキミがいないなんて、考えられなくない? 誰がなんと言おうと、夢野秘密子は間違いなく王馬小吉の恋人なんだよ」
釣り合う釣り合わないを他人が判断しないでほしいよねー、と大声で言ってのける王馬。にしし、と満足そうに笑っている恋人を前にして、夢野はぽかんとしたまま固まり続けた。
翌日。王馬の頬には小さな紅葉が浮かび上がっていたのだが、それでも彼は楽しそうに笑っていたので、周囲からどうしてか夢野が質問攻めに遭ったのは余談である。
【育成計画】
眩しい太陽、目にも鮮やかな青空、火傷しそうなほどの熱い砂。そして絶え間なく寄せては返す波が運んでくるのは穏やかな潮風だ。独特な匂いを放つそれは嫌でも肌に纏わりつき、べったりと付いたまま離れてはくれない。
ひしめき合う人の群れ、ガンガンと鳴り響く渚のサウンド。開放的な季節に誰しもが笑顔ではしゃぎまわり、本来なら自分もその中にいたはずだった。
(まぁ、海が嫌いって言うなら仕方ないけどさぁ)
描かれた青い海と白い雲、ワイヤーで吊られたカモメのオブジェ。太陽の代わりを務めるには何一つ足りない照明が等間隔に天井へ設置されている。ゆらゆらと押しては返す人工的な波。その中で浮き輪に身を任せたままの王馬は、隣で同じように浮き輪へ身を委ねる夢野を見る。
可愛らしいワンピースタイプの水着は、赤松や春川たちと一緒に買いに行ったそうだ。幼い容姿をより幼く印象付ける愛らしいデザインのそれは、恐ろしいほど彼女によく似合っている。
「……んぁ、なんじゃ? もう飽きたのか?」
心地よいリズムにまったりとしていた夢野は、ようやく視線に気付いたらしい。首を傾げながら怪訝な表情と声で問いかけてくる。
「夢野ちゃんはさぁ、もうちょっと女としての努力をしようとか思わないわけ?」
とんでもなく似合っているので文句のつけ所はさほどない。しかし王馬も、超高校級とはいえ年頃の高校生男子である。付き合っている女子の水着に多少の期待を抱かないわけがない。
珍しくも言いたいことを汲んでくれたらしい夢野の顔がじわじわと歪む。一度だけ自分の胸元を見下ろして、わざとらしく溜め息を吐いてみせた。
「無いものは無いんじゃから、仕方なかろう」
「そういうときに魔法って使うんじゃないの? またいつものマナ不足ってやつ?」
「ウチの魔法はみんなを笑顔にさせるために使うんじゃ。自分だけのためには使わん」
ふい、とそっぽを向きながら夢野は唇を尖らせる。けれどもこの場から立ち去らないということは、見せる態度ほど本心は怒っていないということだ。
頬に張り付いた髪を手に取る。そのまま撫でるように梳いてやれば、濡れた髪は頭のラインに沿ってぴたりと固まった。露わになった耳から首筋のラインは普段、切りそろえられた髪と制服に阻まれてあまり見ることがない。
「オレは笑顔になる、かもよ?」
「……盛ったら盛ったであれこれ言うじゃろうが」
膨れっ面がほんのりと赤く色づく。ぺちんと髪を梳いていた手を叩かれたのは照れからなのか、それとも嘘をつくなと責められたからか。
まあどっちでもいいか、なんて考えながら王馬はうんうん唸り続ける夢野を眺める。
「次はさぁ、期待してるから。とびっきりセクシーなやつ着てきてね?」
「んあぁ……、せくしー……」
困りきった様子で唸り声を大きくする横顔。きっと水着を共に買いに行った友人たちのことを思い出しているのだろう。顔を赤くしたり青くしたりを繰り返しては、ちらちらと王馬の方へ窺うような視線を向けた。
そんな彼女の百面相を眺めていれば、館内に休憩時間を告げるアナウンスが響き渡る。途端にざばざばと大きな水音と波しぶきを上げながら移動する人の群れ。律儀だな、と感心しながらも王馬もそれに倣うのは、まだ悩みに悩んでいる恋人の体調を気遣ってのことだ。
「……仮に、仮にじゃぞ?」
「ん?」
ペタペタと足音を立てながら浮き輪を手に歩いていた夢野がふと立ち止まる。眉を八の字にしたまま、渋い声で問いかけてくる彼女は、やがて意を決したように王馬を見つめて。
「ウチがビキニなんぞを着てきても、王馬は紐を解いたりせんよな……?」
夢野へ要らぬことを吹き込むのは入間か茶柱がほとんどだ。今回のこれもきっとどちらかが、男は紐があると解きたくなるだの何だのと言い出したのだろう。でなければ、そういった方面に疎い彼女は考えもつかないはずなのだ。
「そんなことするわけないじゃん! 誰が夢野ちゃんの新品みたいなツルペタのまな板を見て喜ぶと思ってんの? 逆セクハラで訴えられるだけだよ!」
「んあ〜〜〜! そこまでツルペタではない! ちゃんとあるじゃろうが!」
そう言って胸を張り出す夢野。確かに全くないというわけではないのだが、何もこんなところで見せつけなくてもいいだろう。そんな憤りを覚えるが、元を辿れば自分の失言が原因なので頭ごなしに怒ることはできない。
「も〜、嘘に決まってるじゃん! キミはあらゆる男を惑わせるほどのナイスバディだもんね!」
「……お主は本当に人を苛立たせる天才じゃな」
今日一番のジト目からは怒りと呆れがひしひしと伝わってくる。間もなくして、これみよがしに吐かれたため息は深くて重いものだった。
けれども彼女の足がこの場から去ることはない。それに少しだけ安堵しつつ、王馬は少し冷たい小さな手を取って歩き出す。いくら夏だからとはいえ水に長く浸かるのはよろしくない。温かいものでも飲ませてやろうと考えてのことだった。
あとはそう、纏わりつく視線から逃げるためでもある。
(……だぁ〜れがそんなことするかっつーの!)
何が楽しくて彼女のあられもない姿を他人の目に晒さなければならないのだろうか。どこか期待している視線の鬱陶しさに苛立ちながら、王馬の足は止まることなく休憩スペースへ向かう。
「王馬、少し早いぞ。ウチが転んだらどうするんじゃ」
「え〜、夢野ちゃんが遅すぎるだけでしょ? 何でも人のせいにする癖、直したほうがいいよ」
不服そうな彼女の手はしっかりがっちり掴んで離さない。不機嫌であることも周囲へ放っている威嚇の意も気取られないように注意しつつ、できるだけ優しい彼氏であることに努めようと王馬は夢野へ笑顔を向けた。
【育成計画】
「もっと俗物的なことを書いてるのかと思った」
つまらない、と口に出さずとも表情が語っている。残念そうな溜め息、失望したと言わんばかりの視線。突き返された赤い色の短冊は、そこそこに皺が寄っていてお世辞にも綺麗とは言えない。
人の手から勝手に奪っておいてその態度は失礼ではないか。そう反論しようかと口を開きかけたが、下手に突っかかって面倒事を増やしたくはない。だからといって素直に短冊を受け取る気にはなれず、夢野は渋い顔でじっと王馬の手元を見つめる。
「いらないの? なら捨てちゃうけど」
「……いらんわけではない」
受け取らないまましばらく経てば、ゴミ箱を指さして首を傾げられる。放っておけば彼は本当に皺の寄った短冊を丸めて捨ててしまうかもしれない。
渋々、といった態度を全面に押し出しながら差し出されるそれを受け取る。ようやく手元に戻ってきた真っ赤な短冊には、丸い文字で『師匠が元気でいますように』と書かれていた。
「師匠に会えますように、じゃないんだね」
普段からあれだけ言ってるのに、と尚も王馬は首を傾げ続ける。
「……師匠のことは自分で見つけるつもりじゃからな。星に願わずとも、自分の力でどうにかするぞ」
星に願って満足していてはいつまで経っても師匠に会えるはずもない。だから自分の足で歩いて、情報を集めて、地道に探すしかないのだ。最後に信じられるものは自分の力だということを教えてくれたのも、また師匠である。
しかし自分の手の及ばないところについては、どうにもこうにもできるはずがない。となれば頼る先は神か仏か、そして空に輝くお星様だ。
「ふぅん」
「そういうお主は何を願ったんじゃ。ウチだけ見られるなんて不公平じゃぞ」
膨れ面で責めてやれば、王馬は少しだけ考える素振りを見せたあとに紫色の短冊を差し出してくる。
素直に応じたことに疑いを抱かなかったこともない。けれどそれよりも好奇心が勝ってしまった。やや躊躇いながら受け取った紙切れの表を見て裏を見て、夢野はばっと顔を上げる。
「んあっ、何も書いておらんではないか」
渡されたときと何ら変わらないまっさらな短冊。驚きと憤りもそのままに睨みつければ、頭の後ろで手を組んだ王馬はにししと笑う。
「オレも自分の願いは自分で叶える主義だからね。星に願うなんてバカなことはしないよ」
「……それは遠回しにウチをバカにしておるのか?」
「あらら、そう取っちゃうんだ? まぁ、夢野ちゃんがそう思うんならそうなんじゃない?」
それ捨てといてねと言い残して王馬は去っていく。取り残された夢野は膨れた頬をそのままに、何も書かれていない短冊を見つめた。
「……んん?」
そこでふと気付いた違和感。もう片方の手に持っていた自分の短冊と渡された方の短冊を見比べて、夢野は首を傾げる。どうしてか紙の質感、触り心地が全く違うのだ。
もしや配られた紙が違ったのだろうか。いやしかし用意された材料の中に、短冊を作る用の紙は一種類しかなかったはずである。それは準備をした夢野自身がよく知っていた。
「……まぁ、いいか」
どうせ捨てるものなのだ。深く考えたところで正しい答えに辿り着けるわけでもないので、夢野はあっさりと考えることを放棄する。彼女は超高校級の魔法使いであって、超高校級の探偵ではないのだ。
くしゃりと丸めた短冊だったものをゴミ箱へ放り投げる。その軌跡を確認することなく踵を返した夢野は、自分の短冊を飾るために笹の方へと歩き出した。
その後ろ姿を諦めたような恨めしいような瞳が捉えているとも知らないまま。
【育成計画】
露骨に避けられていると気付いたのは、挨拶をわざとらしい話の振り方でぶち切られた時だった。
つまりは朝一番。顔を合わせたときから強い違和感を感じていた訳だが、原因を探ろうにも午前中は近づくことすら許されなかった。それというのもいつにも増して、彼女の親友である合気道家が気合十分だったからである。
何をどう吹聴されたのかは知らない。けれども少し近寄っただけで投げ飛ばしてきそうな勢いだったので、余程のことを言ったのだろう。
(ま、心当たりはありすぎるんだけどね〜)
仕掛けたイタズラは数知れず。例え何も吹聴されていなくとも、茶柱が投げてこようとしてもおかしくはないのだ。
しかしそれを考えた上でも、今朝からの鉄壁ぶりは異常である。だからといって茶柱に訳を聞いても答えてくれるはずもない。ならば当人に聞けばいいか、と探し始めておよそ五分。鮮やかな赤い髪がさらさらと揺れているのを遠目に見つけた。
念の為、辺りを警戒する。もしかすると物陰から茶柱が飛び出してくるかもしれないからだ。けれどもそんな気配がやってくることはなく、今この場にいるのは二人だけと知れる。
(さ〜て、どうしてやろうかなぁ〜!)
にしし、と堪えきれない笑みもそのまま。そろりそろりと気配を消しながら近寄れば、うんうんと小さな唸り声が聞こえてくる。どうやらこちらには全く気付いていないらしい。あと十歩も進めば真後ろに立てるほどの位置まできても、丸まった背中がこちらを向く気配すらなかった。
これは都合がいい。うっかり笑い声を上げてしまわないように口を抑えつつ、足音を消しながらゆっくりと歩み寄る。未だうんうんと唸り声を上げている、丸まった背中へ伸ばした手は。
「ゆーーーめのちゃーーーん‼ なーーにしてんのーー‼」
「んああぁぁあああ⁉」
どん、と背中へ押し付ける。大声で名前を呼べば、想像していた以上の悲鳴が上がった。そうして息衝く間もなく飛び上がった小さな体は、勢い余ってころりと転がる。
まさかそこまで驚かれるとは思っていなかった。驚きについ目を丸くしてしまうが、すぐにいつもの笑顔を貼り付ける。
「驚きすぎて転ぶなんて、夢野ちゃんって本当に鈍くさいよね〜! ところでこんなところで何してたの?」
転がったまま動かない彼女、夢野へ首を傾げながら手を差し伸べてやる。しかしその手を取られることは一向になく、驚きに溢れているだろう顔は髪に隠れたままだ。
腰を抜かしでもしたのか、と貼り付けた笑顔を取っ払い、怪訝な顔で覗き込んだ赤色の向こう側。茹でたタコのよりも赤いのではないか、と思えるほど真っ赤な肌がそこにはあった。
「……夢野ちゃん? おーい、どうしたの?」
「んあっ、ぅぅ」
今にも涙が溢れて落ちそうな瞳にこちらの姿は映らない。声にならない、嗚咽のような音を漏らしながら、夢野はじっと地面につけた指先を見つめている。
様子がおかしい、では片付けられないほど、彼女の言動は異常だった。予想外過ぎる展開に、からかってやろうという気持ちもいつしか吹っ飛んでいて。
「いやいや、ホント大丈夫? 何か変なものでも食べた? いくらひもじいからって拾い食いはよくないんじゃない?」
「……ぁぅ、うぅ、」
面倒臭がりの夢野であるが、失礼な物言いには必ず何かしらの反応をしてくれるのだ。だから今度はどんな癖のある返しをくれるのだろう、なんてからかう度に期待を抱いているのである。
ところが今このときまで、夢野からの返しは一切ない。それどころかこちらの存在すら正しく認識しているか定かではなかった。半分閉じられた瞳はあちこちに泳ぎ、繰り返される呼吸は浅く短い。
「……ねぇ、本当にどうしたの? 具合でも悪いの?」
熱でもあるのではないか。流石に心配が勝り、真っ赤な額へと手を伸ばす。
「んあっ、ダメじゃ……!」
「え?」
あと少しで触れる、といったところでようやく待ちに待った反応があった。しかしそれが望んでいたような形であったかといえば、答えはもちろん否である。
弱々しく払いのけられた手。こちらの姿を捉えた潤んだ瞳は、とろりと溶けてしまいそうだった。浅い呼吸、僅かに震えている指先、真っ赤なままの肌。
どきり、と心臓が跳ねる。伸ばしたはずの手は中途半端に浮いたまま、たどり着く先を見失ってしまった。
「う、うぅ……、やはりダメじゃ……、無理じゃぁ……」
しばらくはそうして見つめ合っていたが、やがて弱々しい声で呟いた夢野は、帽子のつばをぎゅうと握りしめて俯いた。
一体何が駄目だというのか。そう問いかけようとした矢先、潤んだ声が耳を打つ。
「んあぁ、やっぱりか、か……、」
「か?」
「かっこいい……」
「…………は?」
悩ましげな溜め息と同時に漏れた言葉。突拍子もない言葉に聞き返してしまえば、隠されていた瞳がちらりとこちらを見る。
「うぅ、お主なんでそんなに格好いいんじゃ……」
「……えっと、夢野ちゃん? 本当に熱でもあるんじゃないの?」
「はぁ……、声も格好いいなんて反則じゃろ……」
「おーい、夢野ちゃーん? オレの声聞こえてるー……?」
声は聞こえているが、言葉は聞こえていない。溶けそうな瞳に映っているのは本当に自分なのだろうか。確かめたいようなそうでもないような、複雑な胸中は混乱と動揺で渦巻いている。
はてどう声を掛けたものか。ちらちらと寄せられる眼差しが意味するものがわからないほど、生憎こちらは鈍くなどない。また先程から零される言葉も好意的なものばかりだ。
つまりは、そういうこと、なのだろう。
「いや、いやいや、そんなまさか、ははっ」
なんてったって情報量が多すぎる。自慢のポーカーフェイスなどとうの昔に投げ捨ててしまって、引きつった笑顔のまま誰に向けたわけでもない否定を呟いていた。
「……おーま? どうしたんじゃ?」
どうかしたのはお前だろう、と言えればよかったのかもしれない。そうすればこの場をある程度茶化して去ることだって出来ただろう。
けれどもそれができなかったのは、これまでに積み上げてきた努力が報われていたのだと知ったから。自惚れに溺れた上、漂う雰囲気に呑まれていたからだ。
「…………ねぇ、夢野ちゃん」
「んあ……」
握り込まれた帽子のつばに触れる。ぴくりと動いた指先は、間もなくすればゆっくりと力が抜けていって。今度こそ真正面から捉えた瞳。泣き出してしまいそうなほど潤んだそれを目の前に、固く閉じたままの蓋が開いて。
気付けば天地がひっくり返っていた。
「……? ……っ⁉」
何が起きたのか、本当にわからなかった。突然あべこべになった重力と背中へ走る強烈な痛み。どたん、と骨に響いた衝撃が何からくるものなのか。目を白黒させたまま、いつしか地面に転がっていた体を起こす。
「な、何を! しているんですか‼」
ぜえはあと肩で息をする少女が叫んでいる。その聞き覚えのある声にようやく我に返ったが、この場から逃げられる術はない。
「少し目を離したらすぐこれなんですから! 夢野さん、大丈夫ですか? 変なことをされてはいませんか?」
全身を襲う痛みに息が詰まる。鈍っていた頭をフル回転させながら探すのは、怒りに震える茶柱を言い包めるための言葉だ。幸いなことに今、彼女の意識はぽやぽやしている夢野へ向いている。
ほぼ一方的に言葉を交わしている内に対策は練れるだろう、と思っていたのだが。
「な、何もされておらんぞ。……ウチは、何かされてもよかったんというのに」
「え?」
「は?」
潤んだ瞳がこちらを見る。同時に、地獄の鬼より悪魔よりも恐ろしい瞳も、こちらを見た。
「王馬さん、どういうことですか? 貴方、夢野さん一体何をしたと言うんですか?」
「そんなのオレが聞きたいよ……!」
痛みを無視して跳ね起きたら、あとはがむしゃらに足を動かすだけだ。すぐさま迫ってくる殺気はどうすれば避けることができるのだろう。考えたところでいい案はすぐに浮きそうになかった。
聞けば、愛しの松田くんに振り向いて欲しくて江ノ島が作った謎の薬品が原因だったのだという。ぶっかけられたら最後、意識している異性の魅力がとんでもなく高く見えてしまうらしい。
まず第一に、そんな手段を用いている癖に自分が意識されていると考えている江ノ島に驚くし、それをクラスメイトでもない夢野にぶっかけたことも驚きである。やっぱりアイツ何しでかすか全然わかんねぇな、と自分のことは棚に上げ、溜め息を吐くのはベッドの上。
「……まぁ、収穫はでかかったしな」
結局、怒れる茶柱から逃げることは叶わず、極めに極められた翌日。何も覚えていないがどうやら自分が原因らしい、と複雑な表情でお見舞いにきた夢野から差し入れられたプリンを食べつつ。
代償は大きかったものの、ようやく実を結びそうな想いを告げられる日は、きっと遠くないだろう。
【育成計画】
「こんな所にホクロあるの、知ってた?」
突然距離を詰められたかと思えば、骨ばった指先がつつつと脇腹を撫でる。くすぐったさに自然と上がる小さな悲鳴。びくりと大袈裟に跳ねてしまった自分に羞恥から顔に熱が集中する。
「なんっ、何じゃっ、急に⁉ というかお主、何でそのことを知っておるんじゃ⁉」
身をよじってなんとか指先から逃げ、ひっくり返った声で抗議した。すると薄っすらと笑っていた王馬は笑みを深くして、先程脇腹を撫でてきたその指先を自らの唇に添える。
「にしし……、本当にそこにあるんだ?」
「んあ⁉ し、知ってて言ったのではないのか⁉」
ハメられた、と気付いたところで取り返しはつかない。鏡で見なくとも真っ赤になっているだろう顔。尚もひっくり返り続ける声で弁明しても、効果はないはずだ。
相手は夢野の嘘など赤子の腕をひねるかのように見破る、嘘を吐くことに長けた男である。彼に真っ向から対抗できるのは超高校級の詐欺師か、超高校級のギャンブラーぐらいだ。
「なんてね! 本当は最初から知ってたよ!」
「……またそんな嘘など吐きおって。いや、違う、そうではなくてじゃな」
けらけらと笑いながら王馬は言う。どうやら先程の言葉は単に夢野をからかう為に吐かれたものらしい。今に始まったことではないが、性質が悪いにもほどがあると溜め息が自然と漏れ出た。
しかし一度落ち着いたことで、そんなことよりももっと重大な指摘事項に気付く。夜長のように普段から腹を出していない夢野の、服の下に隠されたホクロをどうしてこの男は知っているのだろうか。
自分の体を抱き締めながらじりじりと後退る。じとりとした責める視線を向けつつ、地を這うような低い声で理由を問うた。
「何でって……、そうだなぁ。夢野ちゃん、ヨダレを垂らしながら机で寝てたときがあったでしょ?そのときにちらっと見えたんだよね〜」
「んあ? 机で寝ていたときじゃと? ……身じろぎしたときに捲れでもしたんじゃろうか」
「っていうのは嘘なんだけど。実は体育の時間に見えちゃったんだよね〜! ほら、この前女子はバレーやってたでしょ? そのときに陸に上がった魚みたいにびちびち跳ねてる奴がいるな〜って見てたらこう、ちらっとね?」
「だ、誰が水揚げしたての鮮魚じゃ! というかウチは体操着の裾をきちんとハーフパンツに入れておるぞ! 見えるわけがないじゃろ!」
「うん、そうだよね! 見てたから知ってるよ!」
「んあぁぁあぁぁあ‼ それも嘘なのか⁉ 一体何が嘘で何が本当なんじゃ!」
振り回されたくなければ無視をすればいい。頭ではそう理屈でわかっていても、実際に心が納得するわけでもないのだ。先ほどとは違う理由で顔に集中する熱。眉を吊り上げながら、自分から離れた距離を詰めた夢野は珍しく大声を張り上げる。
するとにやにや笑っていた王馬はきょとんとした後、じわりじわりと笑みを深くしていった。それはからかうときに見せる無邪気なものではなく、どこか怪しげなもので。
「……オレがどうして夢野ちゃんのホクロの位置を知ってるのか、本当に知りたいの?」
「なんっ、何じゃその言い方は! そんなの知りたいに、決まって……」
勢いに任せて言葉を続けたが、やけに静かな王馬の様子に言葉は尻すぼみになっていく。やがて耳へ届くのは、くすくすと含みのある小さな笑い声。
ゆっくりと近寄ってくる笑顔。逃げてしまいたくて堪らなかったが、情けない気持ちをぐっと堪えて睨みつける。
間もなくして耳へ添えられた手。優しい声音で囁かれる言葉に、夢野はみるみる内に目を見開いた。
「実はね、さっきのは……ただの当てずっぽうなんだよ」
ぎぎぎ、と王馬の方を見る夢野。信じられないものを見る目で真正面の男を凝視していた彼女は、やがて戦慄いていた唇をがばっと開く。
「王馬ぁ! お主と、お主というやつはぁ!」
「にっしっし! な〜んて、それも嘘なんだけど!」
「んあぁぁあ⁉」
顔を真っ赤にしながら両手を振り上げる夢野。その拳が降りてくるよりも早く、王馬は彼女からぴょいと跳ねるようにして距離を置く。
「待たんか! まだ話は終わっておらんぞ‼」
「そんなに知りたかったら追いかけておいでよ! ま、エラ呼吸してる夢野ちゃんには、地上での追いかけっこは辛いかもしれないけどね〜!」
「魚イジりも大概にせんか! 王馬っ、こらぁ‼」
もつれそうになる足を無理に動かして立ち上がる。しかしようやく本気で駆け出す頃には、王馬の背中は遥か遠くにあった。
それでも諦めきれずに地面を蹴れば、聞こえてくる軽やかな笑い声。果たしてひらひらと手を振っている嘘つきを捕まえることはできるのだろうか。
望みは薄いとわかっていながらも、夢野は拳を振り上げたまま走り続けた。
【紅鮭団】
背丈が六センチほどしか変わらず、またどちらも細身であった。肌が露出している箇所が手と顔ぐらいしかなく、服の上では手足も同じような細さにしか見えず。遺伝的なものもあるかもしれないが、年齢の割りには発育不十分な二人に大して差があるようには思えなかった。
(んあ〜、全然振りほどけん……)
背中に回された、大して細さの変わらないと思っていた腕。触れてみればしっかりと筋肉がついていたし、自分のものと比べれば骨ばっていて固い。男なので力はあるだろうと思ってはいたが、身を捩っても暴れても、まさかビクともしないとは。男女の差を見せつけられているようで少し悔しい。
肩口に顔が埋まっているせいで王馬の表情を見ることはできない。しかしくぐもった声が呻いているそれだったので、からかわれたりしているわけではないのだろう。多分。
「……王馬、少し苦しいぞ。少し力を緩めてくれんか」
ぎゅうぎゅうと締め付けてくる腕。嫌でも密着する体に照れていたのも遠い昔の話である。だらりと下げていた腕を上げて、ぽんぽんと背を叩けば、ほんの少しだけ力が緩まった気がした。
このとんでもない嘘つきが、こうして夢野に抱きつくようなことになったのは、およそ三ヶ月前に遡る。いつもに増して悪い顔色で、ぶつぶつと何事かを呟きながら歩いている姿を見かけた直後からだ。
いくら相手が王馬とはいえ、今にも死にそうな顔で歩いている姿を放ってはおけず。面倒臭いとちょっぴり思いながらも声を掛ければ、たった今人を殺してきたのかと思えるほど凶悪な顔が夢野へ向けられた。うっかりちびってしまいそうになるのを堪え、具合が悪いなら保健室に行けばどうかと勧める。歩くのが辛いなら介添ぐらいしてやるぞ、とも付け加えて。
しばらく、ぼうっとこちらを王馬は見つめていた。常日頃から何を考えているかわからない男であるが、今日は輪にかけてひどいなと呆れていた矢先。そんなのいらない、なんて呟きがこぼされたかと思いきや、近付いてきた彼に抱きすくめられたのである。
(抱きまくらとでも思っておるんじゃろうか。……まぁ、悪口を言われたりするわけでもないしのう)
まるで甘えてくるかのように押し付けられる額。こういうときは頭を撫でてやればよいのだと気付いたのは一ヶ月前。思いの外、柔らかい髪を撫でてやれば、痛いほどに押し付けられていた頭が少し浮いた。
満足したのだろうか。そう思って頭を撫でる手を止めれば、先程浮かんだばかりの頭がぽすりと肩口に戻ってくる。どうやらまだ足りないらしい。今日はやけに長いなぁ、なんてぼんやり思いながら、頭から外した手を背中に添えてやる。
「……よ〜しよし、いい子じゃのう〜」
子どもや動物をあやすように軽く背を叩く。そろそろ離してほしくもあったので、からかい半分にそんな言葉を掛けてやった。すると頑なに離れなかった頭が勢いよく上がる。
「……何、その言い方」
「何じゃ、気に食わんかったか?」
「オレがいくつなのか知ってるよね?」
唇を尖らせて文句を連ねるだけ連ね、溜め息もそこそこに戻ってくる頭。まだ物足りないというのだろうか。眉間に皺を寄せつつ、夢野は遂に実力行使へと移る。
緩みかけていた、背に回された腕の下に自分の腕を滑り込ませた。そのまま体を下の方へとずらせば、脱出魔法さながらにするりと抜けられるはずである。
「まだダメだってば」
「んあっ」
けれども魔法はあっさり不発に終わった。緩んでいた腕は締められ、夢野は両手の自由を奪われる。ばたばたと暴れてみても、力が緩む気配すらない。
一体いつまで続くのだろう。傾いてきた陽の光をぼんやり見つめて、寄るところもないので夢野は目の前の肩へ頭を乗せた。意外と硬くて心地よさなどなかったけれど、少しだけ安心感を感じなくもない。
「……夢野ちゃん」
「んあー……、何じゃ?」
「……呼んだだけ」
背に回っている手がごそごそと動く。やがていい位置を見つけたのか、腰へ添えられた手はぐいと寄せられて。ますます縋るような姿勢に変わっていくことを彼は自覚しているのだろうか。
(……猫みたいな奴じゃと思っておったが、これでは犬のようじゃのう)
甘えるようにすり寄ってくる、自分よりも一回り大きな少年。どうして自分が選ばれたのかはさっぱりわからないが、頼られて嫌な気はしない。
ただこの姿を茶柱には見られたくないなぁ、とぼんやり思ってしまうのは、騒ぎに巻き込まれるのが面倒だからか。それとも今、夢野へあらゆるものを預けている王馬の姿を見られたくないからか。
(いや別に、そこはウチが気にするところではないじゃろ……)
誰に対してかわからない否定を胸中でこぼしながら、唯一動かせる肘から下をそろりと上げる。遠慮がちに触れる背中。
どうしてこんなことをしているのか、夢野自身もよくわからないまま。ぴたりと手のひらを添えれてみれば、背に回されていた王馬の腕の力が少し強くなった。
【育成計画】
日中は三十度を越すほどの猛暑である。とはいえ学園内は屋内であればごく一部を除けば冷房が完備されていた。余程のことがない限りは、暑さで参ることはないだろう。
それなのにどうしてこうも汗だくになっているのか。首筋から何度も汗が滴り落ちるのを感じながら、重いんだか軽いんだかわからないダンボールを積み上げる。
「ねぇ〜〜〜、これで終わりぃ〜〜〜?」
「んあー、あとちょっとじゃ」
「え゛〜〜〜〜〜? まだなの〜〜〜〜〜?」
教師から倉庫整理を頼まれたから今日は一緒に帰れない。帰り支度を終え、さあ寄り道でもして帰ろうと誘ってみればそんな言葉が返ってきた。一瞬にして崩れ落ちた予定と期待、こんな小さな女子に倉庫整理をさせる教師への憤り。胸に湧いてくる感情は明らかに負の占有率が高かった。
しかし話を聞いてみれば、整理する品は彼女の魔法道具なのだという。新たに購入する備品を入れたいので少しだけ移動させてほしいとのことだ。下手に触るよりも持ち主が触ったほうがいい、というのはド正論中のド正論で。
だからといって一人、このクソ暑い中で作業をさせられるわけがない。ぶっ倒れでもしたらどうすんだ、干からびて死んだら本当にアジの開きになっちゃうね、などとチクチク刺してやった後。フグのように頬を膨らませる夢野へ手伝ってると言葉を続けたのである。
「……うむ! これで終わりじゃ!」
「うへぇ……、やっとかよ……」
小さなダンボール箱が、彼女の手によって移動指せた山の上に置かれた。元より荷物は多くなかったので想定より早くは終わったが、それでも滝のように流れてくる汗は想定していたよりも多い。換気のためにと窓を開けていたが、無慈悲なことに今日は無風であった。
「すまんかったのう、付き合わせてしまって。お礼にアイスでも奢ってやるぞ」
「えぇ〜、アイス? どーせ百円もしないやつなんでしょ? オレ、もっとパフェとか豪華なものがいいんだけど」
「んあー、そうしてやりたいのは山々じゃが、今は手持ちがないのじゃ」
ぱたぱたと手のひらで仰ぎながら、困ったように夢野は言う。だらだらと額から首からと汗を流し、やや浅めの呼吸を繰り返しているのを見るに、そこそこ限界が近いのかもしれない。向けられる視線は出入り口のドアへ固定されたままだ。
とっととこんなところはオサラバするに限る。そう考えているのは間違いなく夢野だけではない。けれどもどうにも王馬の目線は、ぴたりと肌に張り付いたシャツへ向けられてしまった。汗でつやつやと光っている腕が、太ももが、うなじが気にならないわけがない。
「夢野ちゃん。ちょっといい?」
「んあ? 何じゃ、まだ片付け損ねていたものでも、」
倉庫の奥へと一歩進み、こちらへ寄るように手招きをすれば、首を傾げながらも素直に従う。きょろきょろとあるはずもないダンボール箱を探していた視線。やがて不思議そうな顔で見上げてくる小さめの顔、その一番下部である顎に手を添えてやる。
汗のせいで引き寄せたときに少しだけ滑った。けれどまあ許容範囲かな、なんて考えながら重ねていた唇から離れる。そうしてぺろりと薄く開いたまま固まるそこを舐めてやれば、横から何かが飛んできて。
ばちん、とそこそこ大きな音がした。
「……ってぇ」
「なっ、なにっ、何をしておるんじゃ!!」
引くほど顔を赤くした夢野は、ひっくり返った声を上げながら後退る。片手は平手打ちをしたときのまま、反対の手は身を守るように自身の体を抱き締めていた。
「そんなに怒ることじゃないじゃん。オレたち、付き合ってるんでしょ?」
「そ、それはそうじゃが!ばば、場所というものを考えんか!!」
震える声で吠える夢野。じりじりと逃げ腰で後退っていた彼女はやがて、部屋の壁に背をぶつける。ぎょっとした顔で勢いよく振り返ったかと思えば、同じスピードで真正面に立つ王馬を見た。ばちりと合う視線。やがて夢野は顔を赤くしたり青くしたりを繰り返し、困りきった表情で視線を静かにずらしていった。
そんな反応をされたら、期待に応えなければならないではないか。自分でも驚くほど禍々しい笑みを浮かべつつ、縮こまってしまった恋人の傍らに立つ。
「水揚げしたての深海魚みたいな顔だね」
「んあ!? 何じゃその例え、は……ぁ、」
絶対に顔をあげない。そんな決意が伝わってくる夢野の心を折る方法など簡単だ。耳元へ手を添えて、くすくすと笑いながら囁いてやれば、彼女にしてはとんでもない速さで反論が飛ぶ。
今日一番、近い場所で視線がかち合う。徐々に下がっていく眉尻。期待か恐怖か、感情に押し上げられて瞳へにじむ涙。か細い呼吸を繰り返しながら、けれども視線が外されることはない。
ぽたりぽたりと頬を伝って滑り落ちる汗。じっとりと濡れている肌は変わらず、息を吸うのも吐くのも熱くて仕方ない。そっと触れる真っ赤な頬はこれでもかと湿っていて、力を抜けば指先がするりと落ちた。
「お、王馬、待て、待つんじゃ……」
「いいけど……このまま、ずっと?」
ひたりと撫でていた頬へ添える手のひら。じっとりと汗ばんだ肌と肌が重なり、とんでもない熱を伝えてくる。ただの錯覚だとはわかっているが、火傷しそうだ、なんて。
「嫌ならさっきみたいに叩いていいよ」
言い終えて、少し間を置いてみたものの、手のひらが振り上げられることはなかった。それはつまりどういうことかといえば。
頬へ添えていた指先を、頭と首の付け根へ移動させる。触れた肌は髪はしっとりと濡れていて、どれほどここが暑いのかを教えてくれた。
どうりでうまく頭が回らない。目眩を起こしているかのような不安定な感覚と、ぶっ壊れてしまった理性が混ざり合って、溶けていく。
「……、ん、」
重ねた唇は先程よりも熱く感じた。強く押し付ければ逃げようとする頭を、先程首元へ添えた手でがっちりと捕える。苦しそうな、けれどどこか艶めいた吐息が漏れて、やたらと強く脈打つ心臓が大きく跳ねた。
僅かな布擦れ、静かな水音、遠い喧騒。舌に残る塩辛さは自分のものなのか、夢野のものなのか。きっと両方のものに違いない、と解放した唇へ舌を這わせながら王馬は艶めくそこを見つめる。
「……夢野ちゃん、」
「んぁ……、う……、」
足りない、と思ったときには再度かぶり付くように口付けていた。今度は頭だけではなく、腰へも手を回してしっかり捕まえる。
びくりと跳ねた小柄な体は、恐らく抵抗しようと両手を前へ突き出してきた。けれども緩んだ唇の隙間に舌をねじ込んでやれば、すぐに王馬の背へ縋り付くものに変わる。
「んんっ、ん、ぁ」
「ん、ふ、っ」
唇の比ではない、今度こそ火傷をしてしまいそうな熱を交わす。これ以上はいけないと頭の片隅ではわかっているものの、止めるための理性はこの暑さで壊れているのだ。
唾液だけではない、汗すらも混じらせながら、飛び越えてはいけないラインのすぐ側まできている。まさかこんなムードもへったくれもない場所で、夢野の初めてを奪おうとしているのか。自分の馬鹿さ加減に呆れ返ってしまう、反面、それもいいかと思ってしまって。
「……ゆめのちゃん、」
「は、んぁ、……おーま、」
暑さのせいなのか、熱さのせいなのか。とろけきってしまった夢野は、これまたとろけきった声で王馬を呼ぶ。
その甘ったるさと熱っぽさに何も感じないわけがない。捕らえていた腰から背骨を伝い、首までのラインを指で撫でる。びくびくと震えている体が崩れ落ちないよう、閉じかけの足の間に自分の足をねじ込み、壁て突き立てた。
「……おーま、ね、まって」
「うん……、ごめんね……」
責めるような視線を無視して、暑いからといつもより一つ多めに開けられたボタンの先、露わになった首筋に顔を埋める。汗臭さの中にも仄かに香る甘さは、昼間に使っていた制汗剤のものだ。
べろり、と鎖骨に沿って舌を這わせる。ひ、と喉が引きつるような声がすぐ上で漏れた。
「やっ、やだ、おーまっ」
わざとらしく音を立てながらキスを落として、強く吸ったりして。腕の中で大袈裟に跳ねる夢野は、拒否する言葉に反して、王馬の背に回した手をぎゅうぎゅうと強く掴む。
鼻先をくすぐる匂いに頭がくらくらと揺れていた。塩辛さは決して好きなものではないが、何度でも味わいたくて堪らない。今ではもう、世間体やらなにやらを気にする余裕などなくて。
「……はぁ、」
視線を向ければ、ぎゅうとまぶたを固く閉じながら、必死に唇を噛み締めている夢野の顔が見えた。真っ赤になる肌、じわりと滲み続ける汗。名前を囁いてやれば、先程よりもとろけきった瞳が王馬を捉える。
駄目だ、と思った。何がどう駄目なのかは口ではうまく説明できないが、とにかく駄目だと思った。
先ほどとは反対側の肩口へ唇を添え、やがて舌を這わせる。耳を打つのはくぐもった悲鳴と微かな水音。どうしようもないぐらい、どうしようもなく愛しくて堪らなくて。
腹の中で煮詰まる感情。それの発散方法などよく知らないし、そもそも考えられるほど脳も機能していなかった。
「んあっ、あう……、んあっいたっ!!」
引きつった悲鳴、は蕩けたものではない。鋭い痛みに驚いたものだ。
「いたっ、痛い!王馬っ、いたい!!」
ばしんべちんと背中を叩かれ、歯を立てていた柔肌から唇を離す。ゆっくりと視界に飛び込んでくるきれいな楕円。やや赤黒くなっているそこは見ているだけで痛々しさを感じる。
「うわ〜、綺麗に付いたね〜」
「なっ、何をしておるんじゃ!!人のことを噛むなど、いつからお主は獣になったのじゃ!?」
ひっくり返った声で手を振り上げてくる夢野。その腕を捕まえて、まじまじと歯型を見つめてやれば、彼女はより顔を真っ赤にする。
「獣、ねぇ……」
「何じゃ!人のことを噛む奴など、獣以外の何物でもないじゃろうが!!」
じたばたと暴れる夢野を壁に抑えつけたまま首を傾げる。すると眉を吊り上げながら激高した彼女が吠えたものだから、その物言いについつい笑ってしまう。
掴んだ腕を壁へと縫い付け、睨みつけてくる夢野の耳元へ唇を寄せた。
「今止めてもあのまま進めても、どっちにしろキミに獣って呼ばれてたかな?」
「んあっ……、んぁ……」
びく、と肩を跳ねさせたかと思えば、すっかり大人しくなってしまった。先程までのあれそれを思い出したのだろう。夢野は耳まで真っ赤にして俯き、言葉にならない情けない声を出した。
「……ほら、ちゃんと立って。こんな暑いとこ、さっさと出ちゃおうよ」
「んあぁ……」
へなへなとへたりこんでしまいそうな彼女を支えながら、ようやく入り口へと足を向ける。
額から垂れ落ちる汗。ぽたりと落ちた滴は足元へ落ちシミを作り、けれどすぐに乾いて消えた。
【紅鮭団】
小さな背中をより小さく丸めながら咳き込んでいる。ひゅうひゅうと喉から抜けている音。うえ、と迫り上がってくるものを躊躇いなく吐き続けながら、しがみついているのは便器だ。
震え、不規則に大きく波打つ背中を擦る。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった横顔はひどいもので、しかしこの状況ではからかうこともできない。ひ、ひ、と呼吸すらままならなくなりそうな声。大丈夫、と問いかけても言葉は返ってこなかった。
モノクマーズ、なんてふざけた名前のロボットが操る、エグイサルなんてこれまたふざけた名前のロボット。それらが格納されている倉庫へやって来たのは、意図がよくわからない恋愛観察バラエティも残り二日となった頃だった。
デートチケットを使える程度には親密になった、超高校級の魔法使いこと夢野秘密子。めんどいと繰り返す口癖の割りに付き合いのいい彼女は、誘えば大体どこにでも応じてくれていた。お互いの研究教室からプール、体育館に食堂とある程度の施設も巡り終わり、残すところはロボットの格納庫のみ。学園内を全てを見ないで終わるのなんてつまんないし勿体無いじゃん、なんてデートチケットを渡したのは今日の午前のことである。
白い肌が真っ青になったのはこのタイミングだ。半開きの瞳があからさまに泳いで、ううともああとも聞こえるうめき声を漏らす。じり、と小さな足が僅かに後退した理由は一体何だったのか。
どこからどう見ても彼女の反応は異常だった。あの場所にトラウマでもあるのか、なんて問わずにはいられないほどの顔面蒼白と震え。怯えるような瞳など、今まで学園内で起こったどんな事件に晒されたときでも見せることなどなかったのに。
結果として、すぐにでもぶっ倒れてしまいそうな彼女に手を引かれながらやってきた格納庫。名前こそふざけているが、操縦型ロボットというロマンに溢れた乗り物はとても魅力的に映った。
すげー、やべー、なんて語彙力の低い感想を繰り返しながら、ロボットに触れること数分。立ち尽くしていた夢野が不意に小さなうめき声を上げる。何かあったのだろうか。不思議に思って振り返れば、プレス機を凝視しながら口を抑える少女がいた。
電源も入っていない、何も潰されていない大型のプレス機。まさかここで何かが潰れる妄想でもしただろうのか、と怪訝な目を向ければ、真正面からばちりと目が合った。
苦しそうに喘いで、ぐしゃりと顔を歪めて、目に涙を浮かべながら走り去る背中。どこへ行くのかと慌てて追いかければ、格納庫の奥にある小部屋へと辿り着いた。やや広めの部屋には何本ものパイプと一つの便器が設置されている。
あまり綺麗とは言えないだろう便器にもたれかけながら、夢野は吐いて泣いてを繰り返し続けた。感情を表出すことが苦手だった人間とは思えないな、なんてぼんやり考えつつ、背中を擦ってやること以外できない。
何故彼女が泣いているのか、吐いているのか。この場所に理由があることはわかれど、その先には進めない。そもそも進む方向の見当すらつかない。
不意に、背後で揺らめく気配に気付く。驚いて振り返れば、いつも以上に能面のような顔をした春川が立っていた。冷ややかで鋭利なナイフのような視線。じいと見下ろしてきていた彼女は、やがて未だ落ち着かない夢野へと近寄る。
一言、二言。何か言葉を交わした二人は、ゆっくりと立ち上がった。ふらつく夢野を支えるようにして、優しい言葉をかける春川の横顔は、先程見た人間と同じものだとは思えない。
ふらふらと出ていく二つの背中。どうしてか呼び止めることはできなくて、ぽつんと格納庫に取り残されてしまう。静まり返った無機質の部屋。一体ここで何があったというのだろうか。
考えてみたところでやはり、答えなど見つからない。
【紅鮭団】
差し出されたのは真っ白な制服。改造に改造を重ねたのだろうそれは、一体どうやって着用しているのか予測もつかない。受け取ったはいいがどうすればいいのかわからず、夢野は僅かに首を傾げた。
「ね〜、夢野ちゃんの服は? ずっと上半身裸のままだと風邪引くんだけど」
「んあー! わかっておるわい! す、少し待たんか!」
怪訝な顔で覗き込んでくるものだから、驚いて二歩ほど後退ってしまう。見ないように、とは考えているものの、視線はどうしても下へ向かってしまって。
「……夢野ちゃんのエッチ〜」
「んあーーー! うるさい! 今着替えるから後ろを向いておれ‼」
何も纏っていない上半身。薄いひょろいと思っていた少年の体は意外と肉付きがよく、しっかりとしていた。発育が明らかに足りていない自分と大体同じような体型だろうと思っていた夢野は、悔しいやら恥ずかしいやらでつい声を荒げてしまう。
ぐるり、と後ろを向いてしまう少女。ボタンを外し始めたのか、もたもたと腕が動き始めた。このまま眺めていても彼女はきっと気付かないだろう。見ていてもよかったのだが、それが他の人間にバレてしまっては困るので、言われたとおり素直に背を向けた。
「……んあっ、どうなっとるんじゃ?」
ぱさりばさりと布が翻る音が続く。その最中に聞こえてきた困惑に満ちた声は、やがて慌てたものへと変わっていった。ああだのううだの、上がっているうめき声は徐々に大きさを増していく。
「ま〜だ〜?」
「んあ! ま、待て、もう少ししたら、したら……、んあーーー!」
「…………はぁ」
流石にもういい頃だろう。そう判断して振り返れば、眉を吊り上げながらボタンと格闘している夢野がいた。想像以上にもたついてはいたが、肌がほとんど見えない程度に前は閉じられている。
「何だ、ほとんど着れてるんじゃん」
ほんの少しだけ期待をしていたこともない。とはいえ見てしまったら最後、自分の命は失われていたので期待は裏切られてよかったのだろう。
器用な指先を不器用に動かしている夢野。そんな彼女へ歩み寄り、未だボタンを掛けられない細い指をそっと外して。慣れた手付きで残りのボタンをかけてやれば、おお、と小さな声が上がる。
「はい、できた。も〜、キミがあまりにも下手くそだから、オレが手伝ってあげなきゃいけなくなっちゃったじゃん!」
「こんな面倒臭い改造をしてるお主が悪いじゃろ。ウチに非はないぞ」
ぷく、と頬を膨らませながら彼女は言う。その姿はさながら威嚇しているフグ、餌を欲張りすぎたハムスターのようだった。
ところで。
「夢野ちゃんさぁ、……縮んだ?」
明らかに合っていない肩の位置。袖口も手の甲を覆うまで伸びており、開いた襟ぐりも自分が着たときのものより大きく感じる。
目の錯覚かと思いもしたが、これはきっと気のせいなどではない。現に夢野は、どこか悔しそうな顔でぶかぶかの白い制服の裾を摘んでいた。
「むう、こんなにも差が出るものなのか……? もっと小さいと思っておったのじゃが」
身長差が六センチしかないのだから、体格もそう変わらないはず。チビだなんだとイジっていた最中、そう言い出した夢野のヤケに付き合ってやることになったのは予想外の展開であった。
「もう満足した? だったら制服、早く返してよ」
「んあ? お主は着ないのか?」
ずい、と差し出される夢野の制服。それをじいと見つめていた王馬は、へらりと笑う。
「破ったり伸びたりしてもいいなら着るけど?」
「そ、それは困るぞ……」
「でしょ〜? だったらほら、脱ぐ脱ぐ!」
「んあ〜〜! わかったから急かすでない!自分でできる!」
わきわきと指先を動かしながら近付けば、夢野は顔を青くしたり赤くしたりを繰り返し背を向けてしまった。そうして再びもたもたと指を動かし始めたので、王馬は聞こえないほど小さな溜め息を吐く。
想定外にいいものを見せてもらえた。しかしどうにも見ていられず、からかいの言葉も上手く出てこず。それもこれも考えていた以上に彼女との差を思い知らされたからだ。
女の子なんだなぁ、なんてありきたりでつまらない言葉を吐かずに済んだことに安堵しつつ。咄嗟の言葉が出てこない自分の未熟さに嫌気を感じて、王馬はがしがしと頭を掻いた。