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    同棲パロディログ 01 机の上に置かれている封の切られた箱、甘ったるいチョコレートとアルコールの匂い。散らばる包み紙が何を指し示しているかなど、考えなくても理解できた。
     自然と吐き出た溜め息は呆れとほんの少しの怒りが込められ、やや重い。あまり関わりたくもない、けれども触れないことには今日を無事に終えられないだろう。本当に、全く気が進まないが、王馬は再度溜め息を吐きながらソファへ近付いた。
    「んあっ、おーま!」
     気配に気付いたらしい夢野は振り返るなり、満面の笑顔を向けてくる。流石に口の端にチョコレートを付ける、なんて間抜けな顔ではなかったものの、予想通りほんのりと頬は上気していた。
     説明も読まず安易に手を出すな、とは何度か注意しているのだがこの有様である。とはいえこうなる気はしていたので、勝手に手を出されても問題ないものを持ち帰っていたのだが。よりにもよってこれに手を付けるかね、とぼやかずにいられない。
     にこにことこちらを見ている夢野を無視して、王馬はソファに腰掛ける。封を切られている箱はこれだけのようで、彼女が好みそうな可愛らしいものは雑に積まれたままだ。恐らく可愛いからゆっくり後で食べようと思っていたのだろう。
    「おーま、おかえりなのじゃ!」
    「あー、はいはい。ただいま」
     部下の一人がくれたチョコレートは、いわゆるウィスキーボンボンというものだ。総統が好きそうなアルコール度数の高いものを選びましたぁ、と間延びした声でにこにこと笑いながら言っていたが、こうなることを踏まえてのチョイスだったのだろう。
     部下からもらったものなら間違いなく家に持って帰るし、持ち帰るということは共に住んでいる夢野の目にも当然触れるのだ。王馬一人で大量のチョコレートを消費することはない。となると甘い物が好きな夢野が欲しがらないわけがないだろう。
     一体どこからどこまでを計算しているかはわからないが、頭の切れる優秀な部下たちである。まんまと思い通りになってしまった。
    「はー、ホントにやべぇやつじゃん。こんなのどこで見つけてくるんだよ」
     パッケージに書かれた度数はそれなりに高い。一般的によく見るウィスキーボンボンなど可愛いものだと思えるほどだ。最初こそ呆れていたがいつしかそれは感心に変わる。
     くん、と袖を引かれた。そちらの方を見れば膨れっ面で恨めしそうに見つめてくる夢野がいる。可愛い、よりも先に面倒くさいという感情が出てきたのは、相手が酔っ払いだからだろう。
     放っておくのも一つの手かもしれないが、前に酔っ払った夢野を放置して大変な目にあったことがある。いや、今考えれば役得というか、男としては満更でもない展開だったのだが。とにかく当時は振り回されまくり、とんでもなく疲れたことに間違いはない。
    「おうまぁ……」
     甘い声で名前を呼びながら擦り寄ってくる。ぴったりとくっついてきた肌はいつもより熱い。潤んだ瞳と震える声、朱に染まる頬。ある意味パーフェクトな状態であるにも関わらず全く心に響かない。
     それもそうだ、相手は酔っ払いである。吐露されるものは本音かもしれないが、理性というストッパーが壊れているからこそ漏れるものだ。そういうものは素面で言われるからこう、グッとくるものがあるわけで。
    (……アホくさ)
     一体誰に対する言い訳なのか。額を擦り付けてくる夢野の頭を撫でながら、王馬は点けっぱなしになっているテレビをぼんやり眺める。バレンタイン特集の番組ロゴが画面の端に掲げられ、紹介されるのは有名店のチョコレートや手作りのチョコレートレシピ。途中でかつての超高校級であったシェフが出てきたりしたが、全く興味は湧かなかった。
     ふ、と視線を下に落とす。撫でられていることですっかり甘えモードに入った夢野は、もっと撫でろと言わんばかりに王馬へ擦り寄っていた。嬉しそうに目を細めている姿からは、甘える小動物しか連想できない。
     幼い顔つきと体型のことを考えれば多少仕方がないところはあるが、普段からの仕草や言動が多少あるかもしれない色気を徹底的に潰していた。大人の女性に憧れているのであればもっと見習え、とは常々口にしているが今のところ変化の兆しはない。
    「夢野ちゃん」
    「んあ?」
     撫でる手を止めて呼びかければ、不服そうな顔が王馬を見上げる。全く呑気だなと呆れつつも、それが夢野はらしいといえばらしい。
    「オレ、チョコもらってないけど」
     毎度毎度、とことん詰めが甘い。
     そもそも深く考えていないのか、考えた上で粗が目立つのか。ステージ上ではミスもしなければ演出も行き届いているというのに、日常になるとこれである。もしかするとそこら辺のキャパシティを全て、己の才能を演出することに使っているのかもしれない。
    「ちょこ……」
    「もらってないけど」
    「んぁ…………」
     大事なことなので何度でも言ってやろう。うんざりするほど耳元で囁き続けてやってもいい。
     世がバレンタインで騒ぎ出してから当日の今日まで、王馬は夢野から何も貰っていないのだ。チョコレートはもちろんのこと、それらしい食べ物や小物なんかも用意している気配すらない。
     普段から何を考えているかわからない嘘つき、と周囲から認識されているが、中身は年相応の一般男子と同じだ。期待していなかったと言えば、もちろん嘘になる。まさかバレンタイン当日に彼氏の貰ってきたチョコレートを無断で食べておきながら忘れていたなどとのたまうことはないはずだ。
     多分、きっと、恐らくは。
    「……え、ちょっと、マジで何も用意してないの?正気を疑うんだけど、ねぇ」
     しかしその予想の斜め上をいくのが夢野である。あらぬ方向に目を向けたまま動かない彼女は、少しずつ王馬と距離をとり始めていた。これはもう先程の問いの答えと言ってもいいだろう。
     離れていく細身の肩を掴んで、ガクガクと揺すれば頼りない悲鳴が上がった。けれども現在進行形で受けている仕打ちを考えれば、可愛い仕返しのようなものだろう、と思う。
    「だ、だって、」
     梅干しか、と思うぐらいに顔をしかめた夢野が、上ずった声を漏らした。どうやら何か言い訳があるらしい。それを聞いて納得できる気はしないが、王馬はとりあえず釈明の場を設けてやるために肩を揺するのを止める。
    「こ、こんなにも、食べきれない量を貰っておる相手に、チョコレートを渡すのはアホのすることじゃろう!」
     先ほどとは別の意味合いで顔を真っ赤にして夢野は声を荒げる。指さされた先には、あらゆる種類のチョコレートが詰め込まれた紙袋が三つほど。部下や知り合い、高校生のときからのファンだのに貰ったものである。
     王馬は甘い物が特別好きというわけではない。あの量だって食べれなくもないが、全てを消費し切るにはそこそこの時間が掛かるだろう。そこに加えてまたチョコレートを渡すのは、確かに酷というものかもしれない、が。
    「いやいや、それとこれとは話が別でしょ。ド本命から貰えないとか笑えないんだってば」
    「んあ〜〜〜!ひゃめんか!」
     膨らむ頬を抓ってやれば怒りに染まる声が上がった。しかし怒りたいのはこちらであるし、悲しいとか切ないとかを通り越してひどく虚しい。
     何が楽しくてバレンタイン当日に彼女へチョコレートを強請らなければならないのだろう。
    「チョコは!用意しておらんが、別のものをちゃんと用意しておるぞ!」
     王馬の手から逃れた夢野は突然、ヤケクソ気味にそう言い放った。心の底から信じていない視線を気にすることもなく、無い胸をこれでもかと張る。
     大体こういった展開になるときは禄なことが起きない。脳裏を過ぎっていくこれまでの珍事件に頭を抱えたくなりながら、王馬はおもむろに膝の上へ乗ってきた夢野をジト目で観察する。
    「……別のものって何」
    「それはもちろん!……そのぉ、じゃな、うむ」
     ここまできて急に怖気づいたのか、夢野は眉尻を下げて小さくなる。ちらちらと躊躇いがちに見上げてくる瞳からは困った色が滲んでいた、が困っているのはこちらなので無視をした。
     やがて深呼吸を繰り返したかと思えば、首の後ろに腕を回される。そうしてぎこちない笑顔を浮かべた彼女は、明らかに無理をしていそうな甘えた声で言った。
    「う、ウチじゃ」
    「………………………」
     バレンタイン特集をしていたバラエティ番組は終わり、夜のニュース番組に切り替わっている。静かなキャスターの声が今日起きた事件を伝えており、よく通る声は室内に嫌というほど響いていた。
    「誰の入れ知恵か知らないけど手抜きにも程があるでしょ。自分がプレゼントだとか巫山戯たこと抜かすぐらいならもう少し着飾るなりすればいいしもっと雰囲気作りできなかったの」
    「んあぁ…………うぅ、じゃから嫌じゃったんじゃ」
     冷めた目もそのままに棘しかない言葉をぶつけてやれば、首まで赤くなった夢野がもたれかかってくる。先の発言よりもよっぽど大胆なことをしている自覚はないのだ。そういうところがこちらとしてはよくないのだが、いかんせん相手は無自覚である。
    「で?誰の入れ知恵なの」
    「…………色々じゃ」
    「色々じゃわかんないんだけど」
    「ぁ痛っ!んああ〜〜!言う!ちゃんと言う!!」
     膝の上に乗ったままの太ももを抓ってやれば、思いの外早くに音を上げた。そうして涙目になりながら恨めしげに挙げられた名前は、かつてのクラスメイトだった女子たちと、部下の女子数名で。
     ははぁ、なるほど全員グルか。王馬は封の開けられた箱へ視線を投げながら、事の真相を推理する。
     部下からのウィスキーボンボンは、どういうわけかバレンタインの前日に王馬へ手渡されていた。明日も会うのに何でこのタイミングなんだと思ったものだが、そもそも渡す相手が違うのだから当たり前である。あのウィスキーボンボンは、夢野へ渡されたチョコレートだったのだ。
     大方、今年のバレンタインに悩んでいた彼女に入れ知恵をし、素面が恥ずかしいならお酒の力を頼っちゃえと囁いたのだろう。
    (それで素直に従っちゃうのもどうなんだよ)
     曲がりなりにもエンターテイナー、舞台の上では見事な演出と演技で観客を楽しませるというのに。比べ物にならないほどお粗末すぎる演出と演技である。
     そもそも入れ知恵をした彼女らは、ほぼ100%王馬がどんな反応をするか面白がって助言をしたのだ。夢野の相談を心の底から親身になって受けたわけではないだろう。
     それはそれとして。
    「そもそもさぁ、夢野ちゃんはオレのものじゃん。なんで今更あげるあげないの話になる訳?」
    「……お、お主、なかなかとんでもない事を言うんじゃな」
    「事実を言っただけだけど」
    「んあ……」
     顔を赤らめて尚も縮こまる夢野の髪に触れれば、ひくりと顔を引き攣らせる。そこはときめく所じゃないのか、とは思うものの、ときめかないからこそこんなバレンタインを迎えているのだ。
    「…………じゃあ、その、貰ってはくれんのか」
     やがて指先を弄りながらぼそぼそとこぼす。再び首まで赤くなった夢野は、ちらりと伺うように王馬へ目を向けた。
     この期に及んでまだ言うかとも、泣きそうになるなら言わなければいいのにとも思う。しかし彼女はそれをわかった上で、再度話を蒸し返したのだ。それが受け入れられた時、自分がどうなるかもわからないほど彼女は鈍感ではない。
     でなければこんなにも真っ赤になって震えたりはしないだろう。
    「…………は〜〜〜〜〜〜〜〜」
     思っていたよりも長くて深いため息が出た。びくり、と怯える小動物のように震える夢野は、片手で顔を覆い顔を伏せる王馬を見つめる。おろおろと声をかけようかかけまいかと躊躇う姿は、やはり小動物のように見えた。
     のであれば、どれほどよかっただろう。
    「どうせ、それしか用意してないんでしょ……」
    「うむ……、んあっ」
     へっぴり腰になっている腰を勢いよく掴んで、向き合うように座り直させる。
    「自分で言ったんだからちゃんと責任とってよ」
     途端に逸らされた顔を真正面に向けるため、顎をがっちり掴んだ。そうして強引にこちらを向かせれば、恨めしい視線が向けられて全く反省していないことが窺える。
    「返事は?」
     膨れる頬の空気を抜くように力を入れて。今日一番のブサイクな顔をする彼女に詰め寄れば、不服な様を隠しもせずに渋々顔を縦に振る。
     けれど王馬がそれを返事と認めるわけもない。ちゃんと言葉で返事をするよう、やり直しを強要する。
    「……ウチ、明日は朝から仕事なんじゃが」
     お決まりの抜けた声を漏らしながら、でもだってと口ごもる。いつもは面倒くさいとすぐ放り出す癖に、こういうときだけ往生際が悪い。額に青筋が立ちそうになるのを何とか堪えて、王馬は無表情のまま言い放つ。
    「今すぐここでしてもいいけど」
    「ちゃんと責任は取るぞ!」
     わあ、と大声を上げてようやく夢野は観念する。言ってから後悔したのか、ぐったりとした様子でぶちぶちと文句を連ねていた。可愛らしさの欠片もない、けれどそれぐらいでちょうどいいのだと思う。
     まんまと夢野に入れ知恵をした彼女らの罠にかかっている気はするが、貰えるものは貰えわなければ損というものだ。残る問題はどれだけ夢野に口封じができるか、なのだけども。
    (まぁ、言えないぐらいのことすればいいか)
     これからどんな地獄が訪れるか、彼女は知りもしないだろう。けれども全く身構えていないぐらいが丁度いい。何しろ今から本命にチョコレートを貰えなかった憤りだとか、虚しさだとかを心の底から思い知ってもらわなければならないのだ。
    「にしし、覚悟してよね〜〜、夢野ちゃん!」
     夜のニュース番組はとっくの昔に終わり、深夜のバラエティが始まっている。騒がしいメロディと笑い声を遠くに聞きながら意地の悪い笑みを向けてやれば、夢野は青くなりながら顔を引きつらせた。
     耳元で規則的に何かが震えている。ぼんやりとした明るさの中、まどろみの淵に立っていた夢野はゆっくりと目蓋を押し上げた。焦点が合いきっていない視界は徐々に辺りの輪郭を捉え、やがて枕元に明滅するものを見つける。
    (……あさ、)
     だるくて動かしたくない手を無理矢理上げて、喧しいそれに触れる。手繰り寄せれば刺激の強い眩しさが目を焼いた。ついうめき声を上げながら顔をしかめてしまうが、いつまでもこれを放置しているわけにもいかない。
     慣れた手付きで画面を操作すれば、間もなくして振動とそれに伴う音はおさまった。すると室内には朝の静けさが舞い戻り、消えかけていた睡魔を呼び寄せる。
    「んぅ、うー……」
     じんわり下りてくる目蓋。それを自らの指でこじ開けて、夢野はなんとか睡魔を追い払おうと試みた。今日は昼前から仕事の大事な打ち合わせが入っている。遅れるわけにはいかない、けれども。
     ぴったりと背後にくっついて離れない熱がある。前へ回された腕に力は入っていないものの、組まれた指先からは話したくはないという意思が見える、気がした。
     このままベッドに捕らえられていては、いつ二度寝してしまうかわからない。名残惜しいが、心地よい熱から離れなければと組まれたままの指に触れた。ひとつ、またひとつと解く指先はやはり力が入っていない。これなら難なく抜け出せるだろうと思っていたが何となく、何となくそんな予感はしていた。
    「お主、起きとるじゃろ……」
     あとひとつ、といったところで力ない指がピクリと跳ねる。あ、と思ったときには既に遅く、解けたはずの指先は再び組まれてしまった。やがてそれは夢野を逃すまいとするためか、やや乱暴に手前へ引かれる。
     ぐえ、と可愛らしくもない悲鳴を上げつつ、彼女は過ぎった予感が的中したことについて複雑な心境だった。これが甘えからくる行動であればトキメキもするだろうが、十中八九ただの邪魔である。
     自身も昼から仕事がある、と言っていたくせに。恨めしい声を上げながら身をよじれば、まだまどろみの残る紫色がそこにあって。
    「おはよ」
     少しだけ掠れている声にドキリとした。珍しくまだ覚醒しきっていないのか、それだけ言うと王馬は黙ってしまう。
    「……おはよう」
     返事をしてやれば力の抜けた笑みを浮かべ、背中に額を押し付けられた。まるで恋人同士がするかのような甘え方ではないかと夢野はときめく、ことはない。まず真っ先に何を企んでいるのかと疑う。
     悲しいかな、互いの気質からドラマや映画のような恋愛をすることはできない。そこに思うところはあるものの、じゃあ二人でベタベタしてみるか、と考えてみるがゾッとするだけだ。
     なんてったってキャラではない。恋を説くより愛を囁くよりも、文句を言い合っている方が自分たちには合っている。
    「王馬……、おーま、こら離さんか」
     解こうとすればするほどガチガチに力を入れられる指先。力の差は歴然なので、天地がひっくり返らないとこの腕から逃れることはできないだろう。ならば説得して離してもらうしか夢野に与えられた選択肢はない。
     しかし離せと言われて素直に応じる男であれば、とっくの昔にベッドとはおさらばできている。
    「いい加減にせんか。お主も仕事じゃろうが」
    「んー……、オレ今日休みになったんだよー」
     間延びした声でそんな事を言い出す。昨夜あれだけ面倒くさい行きたくない、と喚いていたのは嘘だったのだろうか。
     王馬のことなのでそれもあり得るかもしれない。
    「まぁ、嘘なんだけどね」
     怪訝な顔で振り返った夢野の顔に影がかかる。ぎしりと耳元でベッドが軋み、少しだけ体が沈んで。
     いつの間にか解かれていた腕は、顔の真横に置かれている。それを支えにし上半身をお越し、夢野へ覆いかぶさるようにした王馬はにいと口角を上げてみせた。見下ろす瞳にはまどろみの姿はない。
    「……阿呆なこと言っておらんで、早く起きるぞ」
     溜め息をこぼしながら、夢野は王馬の下から転がり出た。のそりと上半身を起こせば、同じようにベッドへ腰掛けた王馬と目が合う。
    「え〜〜、いいじゃん。もうちょっと寝てようよ。ていうかサボっちゃおうよ〜」
    「そんなことできるわけがないじゃろ……。ほら、お主も早く起きて用意を、」
    「え?オレはまだ寝てても平気だからこのまま寝るよ?」
     きょとんとする王馬は、言うやいなやベッドへ寝転がった。夢野ちゃんは二度寝できないね可哀想、とわざとらしくニタニタ笑う。
     言い返してやりたくなった、が朝から無駄なエネルギーを使いたくはない。こういうのは無視をするに限る。ベッドから抜け出した夢野はペタペタとドアに向けて歩き出した。
     しかし言われっぱなしも何だか癪である。ちらりと視線だけを向ければ、携帯電話を弄る背中が見えた。無視をされたことで少し拗ねているのかもしれない。
     ただのポーズである可能性も高いが。
    「………………」
     ふむ、と思い立った夢野は気配を殺しながら無防備な背中に近寄る。間違いなく気付いているのだろうが、今のところ振り返る気配はない。ならばそれでいいと彼女はベッドの傍らに膝を付き、そして。
    「……、ちょ、っと何してんの?」
    「んあ゛っ」
     顔面に容赦なく手のひらが押し付けられる。そのままぐいぐい押されることで首が変な方向へ曲がりそうになった。
    「何って、おはようのキスでもしてやろうと思ってのう」
    「……は?まだ寝ぼけてんの?」
     これでもかと顔をしかめ、王馬は覆い被さってきている夢野を見上げる。けれども彼女はペースを崩すこともなく、顔に貼り付いたままの手を外そうとしていた。
    「天ぷらになって出直してきなよ」
    「……魚の話ではないんじゃが、まあよい」
     王馬へ覆い被さることをやめた夢野は、よっこいしょとじじくさい掛け声をこぼしながらベッドへ腰を下ろす。その顔にはにやにやとした笑みが消えない。
     また面倒くさいこと考えているんだろう。溜め息を隠しもせずに上体を起こした王馬は、ジト目のまま楽しそうな瞳を見つめ返した。
    「前から思っておったのじゃが……。王馬よ、お主実は相当な照れ屋じゃな?」
     ほら見ろ面倒くさい。喉まで出かかった言葉は寸での所で飲み込んだ。
    「ウチからキスしようとすると、お主はいつも何だかんだと言いながら避けるではないか。照れておるんじゃろぉ?」
     ふふんと鼻を鳴らしながら夢野は、お主も案外初心なんじゃのう、なんて続けた。まだ答えもわからないというのに、自信満々でよくもまあここまで調子に乗れるものである。王馬は楽しそうな横顔を眺めながら少しだけ感心し、心の底から呆れた。
    「違うよ。どこかの誰かさんがフォローできないぐらいキスがど下手くそだから嫌なだけなんだって」
    「へ、へたくそ……!?そんなにひどいのか!?」
     勢いよく王馬を振り返る夢野は、先程までの余裕はどこへやら。笑ってしまいそうになるほど狼狽えながら、その言葉は本当かと詰め寄ってくる。
     ここまで大袈裟な反応を見せてくれるとは。自覚はあったんだな、と王馬は毎回ガッチガチに固まって動かなくなる夢野の姿を思い浮かべる。
    「う、嘘、じゃろ?そんな、フォローできんほどでは、いやでも、」
    「夢野ちゃん」
     うんうん唸りながら首を捻る彼女の名前を呼ぶ。すると眉尻を下げながら、少しだけ涙目の顔が王馬の方へ向けられた。そっと頬に手を添えて、ぎょっとする夢野が何かを口走る前に、唇を塞いでやる。
     すると案の定、びくんと跳ねた後に中途半端な姿勢のまま固まった。
    「……なんてね、嘘」
     にやりと笑いながら囁いてやれば、彼女は生気の抜けた声を出しながらベッドに倒れ込む。間もなくすれば両手で顔を覆い、可愛げのかけらもないうめき声を上げだした。
    「ほら、早く起きないと遅刻するよ」
    「だ、誰のせいじゃ!誰の!!」
     投げつけられた枕を避ければ、壁にぶち当たって棚の上へ落下する。その衝撃で飾ってあった小物がいくつか落ちたが、それでも夢野は正気には戻らなかった。この調子では本当に遅刻してしまうかもしれない。
     それはそれでいいかも、なんて。
    「機嫌直してよ〜夢野ちゃん。朝ご飯はホットケーキ焼いてあげるからさぁ」
    「…………本当じゃろうな」
     未だベッドに突っ伏したままの夢野を宥めながら、王馬は自分も随分絆されてしまったものだとしみじみ感じた。
     ホテルの最上階にあるバーラウンジは、壁面が全面ガラス張りになっており、見渡す限り都会の夜景が広がっている。設置されたステージでの生演奏をBGMに、囁くような声音で言葉を交わす着飾った男女。微笑みでかたどられた唇に触れるのは、宝石のように色とりどりなカクテルだ。
     差し出されたグラスに口をつけて、王馬は視線だけを店内へ巡らせる。目に留まるのは誰もが互いに干渉し合わないこの空間で、ぽつりと浮いている男だ。にこにこと人のいい笑顔を浮かべながら、あちこちで女性に声をかけている。
    (噂以上だよねぇ、あの女好きっぷりは)
     対象となる男を調べ始めたとき、まず最初に出てきたのは無類の女好きといった情報だった。年齢に関係なく、一人でいる女性に手当たり次第声を掛ける。そうして引っかかった彼女らを好き勝手弄んで捨てる、というわかりやす過ぎる女の敵。
     これでよく今までのうのうと生きてこれたな、と感心するほど男は恨みつらみを背負っている。金持ちのお坊っちゃんでなければ、とっくに刺されて死んでいるはずだ。
    「あれが例のやつなのか?」
     すすす、と身を寄せてきた夢野の言葉に王馬は視線を前に戻す。そうだよ、と返せば彼女は目を細めながら、ふうんと答えた。
     あの男を懲らしめたい、と言い出したのはDICEの構成員である一人の女性だった。しかしクズ男に引っかかった、のは彼女ではなくその友人らしい。とにかく人のいい友人は、言われるがまま男の要望を呑んでしまったのだという。
     正直言えば、関わり合いたくなかった。恋だの愛だの恥情のもつれで活動するなんてとんでもない。そう誰しもが思っていた、のだが。
    「まさに脛かじりのお坊っちゃんじゃな」
    「うん、オレもそう思う」
     名のしれた政治家のお坊っちゃん、と聞いて話が変わった。これまで甘い蜜を啜っていい気になっていた男の転落する様は、きっと面白いに違いない。
     こうして男への報復を手伝うことになったのだが、まずは下調べをしなければ始まらない。幸いにも今回話を持ち込んだ彼女から行きつけの店があることを聞いていた。ならば早速、ご尊顔を拝みに行こうということになって。
    (……本当は連れてきたくなかったんだけどなぁ)
     たった一人でバーを訪れるでもよかったが、店の雰囲気などを考えると男女ペアの方がよいだろうという話になった。けれども件の彼女は、顔を見たら殴りそうだと言い出すし、もう一人の方は話しかけられたらビンタしそうだと言い出すし。
     じゃあ他に誰が連れていけるのか、となった際に白羽の矢が立ったのは、王馬の恋人であった。
    「ねぇ、今からでも遅くないよ?帰ったら?」
    「ここで女性を一人で帰すほうが不自然じゃろ」
     つん、と顔を背けられる。拗ねている、というよりは駄々をこねている方に近い。この店の話をした際、一度行ってみたかったとはしゃいでたことを思い出す。まだ帰りたくないのだろう、が。
     対象の男は、例え男連れの女性だろうが構わず声を掛けてくるのだと言う。できるだけ目につかない場所を選んだとはいえ、声を掛けてくる可能性はゼロではない。
    「まぁ、今日は顔を見に来ただけだからね。もうそろそろ帰るよ」
    「んあ、そうか。それは残念じゃのう」
     ちょっとだけ残念そうに夢野は言う。しかし彼女はここに来た目的を知っていて、また理解した上で付いてきてくれたのだ。口を尖らせてはいるもののグラスを空にしようと早いペースで飲み進める。
     こんな状況下でなければ好きなだけここで過ごさせてやるというのに。漏れそうになる溜め息は強いアルコールと一緒に飲み下す。
    「もう帰ってしまうんですか?」
     かたん、と夢野の隣に男が腰掛ける。人のよさそうな笑顔で話しかけてくる彼は、王馬のことなど目もくれずに夢野を見つめていた。
     声をかけられたらビンタしそう、と言っていた部下の言葉を思い出す。そっくりそのまま同意だな、と王馬はグラスの残りを一気に飲み干した。
    「うむ、帰るぞ。それがどうした?」
    「いえ、勿体無いなと思って。もしよろしければ、僕ともう少し飲みませんか?」
     伸ばされる指先が夢野の手へ触れそうになる。しかしあと少しのところで小さな手はひょいと引っ込められ、隣に座る王馬の服を摘んで。
    「ウチはこの男が相手でないと、楽しく飲めんのじゃ。すまんが他の男はお呼びではないぞ」
     ふふん、と鼻を鳴らして夢野は笑う。ぽかんとする男をそのままに、彼女は同じくぽかんとしたままの王馬の手を引いた。
    「帰るんじゃろう?」
    「え、あぁ……、そうだね」
     椅子から降りる夢野を支えると、彼女は微笑んで歩き出す。置いていかれないように続ければ、するりと腕を絡めてきた。
     どきり、と心臓が跳ねる。けれどそれを悟られないようポーカーフェイスを貼り付けて、隣を歩く夢野へ身を寄せて。
    「何、どうしたの?」
     耳打ちするように問いかければ、夢野は頬を膨らませてみせた。背後を振り返りはしないものの、ジトリとした視線を固まっている男へ向ける。
    「こんなにいい男が隣におるというのに、付いていくわけがなかろう!全く、失礼な男じゃ!」
    「は……、えぇーー……?」
     言いながらぎゅうぎゅうと腕を締め付けてくる夢野に、王馬はただただ困惑するしかない。相当酔っているのか、はたまた素面なのか。
     どちらにしても、貼り付けたはずのポーカーフェイスを保つことは難しそうである。
     両手に巻き付けた包帯これみよがしに見せつけられる。無視をしようか、とも思った。しかし読んでいた雑誌と視線の間に差し入れられ、挙げ句顔に押し付けられたら嫌でも認識しなければならない。
    「……まだ何かあるのか」
     とはいえ、怪我の理由は今しがた散々喚き散らした際に聞いている。仕事でちょっとしたヘマをやらかした際にうっかりびっくり、血だらけの大怪我を負ってしまったらしい。
     病院には行ったのか、ちゃんと処置をしたのか。気になることは聞いてみたものの、返ってくるのはへらへらとした笑顔で。大惨事だったと口にする割にはすこぶる元気であった。
     真偽の程は確かめていない、が恐らくは嘘なのだろう。そう判断して夢野は付録目当てで買った雑誌を読む作業に戻ったのだが。
    「お風呂。入りたいんだけど?」
     投げかけられた言葉に、どっと疲れが押し寄せる。ただ会話しているだけで人をここまで疲れさせることができるなんて大した才能だ、と感心している場合ではない。
     今、目の前でにこにこと笑っている男は、なんと言ったか。
    「入ればよかろう」
    「え〜〜〜!?この手で一人入れっていうの!?夢野ちゃんってば血も涙もないよね……、恋人がこんなにひどい目に合ってるのに、無視してるしさぁ」
     びええああん、と駄々を全力でこねる子どものような泣き方は、出会った当初から変わっていない。だからこそ夢野は、これがただの嘘泣きだと知っていた。騒ぐだけ騒いでスッキリすれば勝手に落ち着くだろう。それまでの辛抱だと自分に言い聞かせて、夢野は持っていた雑誌で顔を隠した。
     すると案の定、室内にはいつも通りの静寂が訪れる。先程まであった嵐のような泣き声はぴたりと止んでいた。ほっとする反面、どんな反撃がくるのかとハラハラする中。
     小さく、鼻をすする音がした。
    「…………まさか本当に怪我をしておるのか……?」
     あからさまに拗ねた様子で王馬は俯いている。自分の手を見下ろしながら眉値にシワを寄せる様は、先程の話に僅かな説得力を持たせていた。
     いやでもしかし。何度も何度も自問自答した末、夢野は意を決してしょぼくれる王馬へ話しかける。
    「……だからそう言ってるじゃん」
    「そ、そうか……」
     ぼそぼそとこぼされる言葉。演技なのかそうではないのか、イマイチ判断は難しい。
     それはそれとして、理由はどうあれ恋人が肩を落とす姿というのは、見ていてあまり気のいいものではなかった。騙されているという直感は消えていないものの、もし本当に怪我をしていたらという考えもふつふつ湧いて止まない。
     雑誌から半分だけ顔を出し、様子を観察すること約一分。夢野が出した答えは言わずもがな。
    「……今日だけじゃ、」
    「やったーー!さっすが夢野ちゃん、期待を裏切らないチョロさだよね〜〜〜!」
     言い終わる前に雑誌を取り上げられた。ひょいと宙を舞ったそれは間もなくしてべしゃりと床に叩きつけられる。買ってまだ半日も経っていないというのに可哀想だな、と夢野は心の底から雑誌に同情した。
    「ていうか騙されてるってわかってたよね?その上で引っかかるのも、いやオレが言うのもおかしいけど、どうかと思うよ」
     両手を取られ、強制的に立ち上がるよう力いっぱい引き上げられる。嫌でも立たなくてはならなくなった夢野は、呆れる王馬の言葉に言い返すことはできない。
     絶対に騙されている。そんなことはわかっていたのだが、そこは惚れた弱みというか何と言うか。とにかく悲しんだりしている姿なんて見たくないのである。だから罠だとわかっていても、自分が痛い目を見るとわかっていても、飛び込んでしまうのだ。
     あとはそう、それに。
    「……お主相手だから、騙されてるとわかってても引っかかりに行くんじゃろうが」
     滅多に甘えてこない、何かを強請らない王馬だ。一体全体何を考えてこんな行動を起こしたのかはわからないが、きっと彼なりに意味はあるのだろう。だから引っかかってほしいな、なんて僅かばかりの下心を瞳に滲ませていたのだ。
     付き合いも、そこそこ長い。全てを拾い切ることはまだできないものの、互いの癖からくるあらゆるサインは言葉にせずとも伝わっている。
    「夢野ちゃんさぁ、そういうのやめたほうがいいよ」
    「やかましい。元はといえばお主が下心を隠し切れとらんのが悪いんじゃろうが」
     手を引かれるまま向かうのは、共に生活し始めてから一人でしか利用したことのないバスルーム。そこまで狭くはないものの、やはり二人で入るとなると窮屈に感じるのだろうか。
    「というか夢野ちゃん、オレが下心あるって気付いててノッてきたんだ。ならこれからナニしたってオッケーってことだよね?」
    「んあ〜!何でそう、……いや、そうなるのか?」
    「うん、そうなるよ」
     声を弾ませながら返してくる王馬は笑顔を絶やさない。離さないと言わんばかりに強く、けれども痛みがない程度に握られた腕。ゆるく解けた包帯の下にはもちろん血も滲んでいなければ、傷跡などないきれいな肌が見えた。
    「……面倒くさい男じゃのう」
     器用なんだか不器用なんだか。嬉々として前を歩く男へ投げ掛けた言葉に、そこがちょっと可愛い、なんて感想をつけそうになり慌てて振り払うように頭を振る。
    「何、やらしい妄想でもした?」
    「しておらん。お主じゃあるまいし」
     にやにやと笑いながら掛けられた言葉に、棘をたっぷり込めた返事をすれば、王馬のひくりと口角が引きつる。けれどもそれはすぐに好戦的なものに塗り替えられて。
     売り言葉に買い言葉でひどい目に遭ってきたことをすぐに忘れてしまう自分の軽率さに嫌気がさす。
     いつもとは違う場所に見える脱衣所、背後で閉まる扉、そして目の前には何かを企んでいる意地の悪い恋人。果たして無事にここから出ることはできるのかと、夢野はひっそりと溜め息を吐いた。




     服も下着も脱ぎ捨てた、生身の体を晒すのは初めてではない。とは頭でわかっているものの、こんなに明るいところでは見せるのも見るのも照れるものだ。今さら隠せるものなどないというのに、つい自分の両手で体を庇うようにしてしまう。
    「隠すようなものもないでしょ」
    「んあっ、失礼な!ちゃんと出るとこは出ておるわ」
     誰よりもそれを知っているくせにと言いかけて、止める。これ以上無駄に照れる要素を増やすのはバカのすることだ。ぐう、と感情ごと言葉を飲み込んで、夢野はふと解かれていく包帯を見る。
    「……怪我は本当じゃったのか」
     つるりときれいな右手と、やや長めの赤い線が走る左手。既にかさぶたになっているようで、見た目のグロテスクさはない。まさか特殊メイクなわけもないので、王馬の言ったとおり怪我はその手にあったのだ。
     それにしては大袈裟すぎる包帯だし、右手は関係ないではないかとツッコミたくなる。
    「え、信じてなかったの?ひ、ひどいよ夢野ちゃん……オレのことそんなに信じられない……?」
    「自分の胸に聞いてみることじゃな」
     今にも泣きそうな王馬を置いて、夢野はさっさと浴室に入る。いつまでも素っ裸でくだらない言い争いをしていても仕方がない。こんな間抜けな理由で風邪を引くなんて真っ平ゴメンだ。
     間もなくして、拗ねた様子の王馬が追いかけてくる。そうして浴室に二人立ったところで、シャワーの蛇口を捻った。
    「それで、どうするんじゃ?」
    「ん〜?うーん、そうだなぁー……」
     ひんやりとした室内が仄かに温かくなっていく。立ち上がる湯気で視界がぼやけていくが、それも薄く儚いものでしかない。少しでも動けば跡形もなく消えていく。
    「一応傷口は塞がってるとはいえ、開いちゃったら嫌だな。あと染みるのなんて絶対に嫌だ」
    「……そこまで嫌なら、そもそも風呂に入ることを諦めたらよかったではないか?」
    「まぁね。でもさぁ、汗臭いまま寝る方が嫌だったんだよ。夢野ちゃんもそんな男が横に寝てるの嫌でしょ?」
    「んあ……、まぁ、うーん」
     今の状況を考えると、夢野としてはどっちもどっちのように思えて仕方ない。しかし余計なことを言って話をややこしくはしたくないので、適当に濁すことにする。
     いつの間にか取り上げられたシャワーヘッドからは絶えず湯が降り注いでいる。それは夢野の肩にぶつかり滝のように肌の上を流れて、伝って、やがて排水口に吸い込まれて。
    「仕方ないのう……。ウチが頭を洗ってやるから、そこに座るんじゃ」
     浴室の隅に置かれていた椅子を指させば、王馬はきょとりとした後に不服そうな目を向ける。
    「えー、ちゃんとできるの?オレ洗い残しとか嫌なんだけどー」
    「うむ、そうか。ならお主一人で、」
    「なんてね、嘘だよ!」
     言い終わる前にさっさと椅子へ腰掛ける。もっと早口で捲し立ててやればよかったか、と思わなくもない。
     差し出されたシャワーヘッドを受け取り、紫がかった黒髪へ湯をかけていく。いつも跳ね気味の毛先はあっという間に大人しくなり、頭の形に沿ってぺたりと張り付いた。
     棚に置いてあるシャンプーを手に取る。ある程度泡立ててから勢いよく髪へ手を差し入れれば、うお、と小さな悲鳴が上がった。
    「ちょっと、もう少し労ってよね!オレの毛根が死んだらどうすんのさ!」
    「心配せんでも、お主が禿げようとどうなろうとウチは貰ってやるつもりじゃぞ」
    「いやいや、何でオレが夢野ちゃんに貰われる前提なの?貰い手がないのはそっちでしょ?」
     けらけらと笑いながら言う王馬の表情は見ることができない。けれども声の様子から、本心から言っているわけではないことは窺い知れた。
     とはいえ、やはり言われて腹が立つことには変わりない。できるだけ髪が抜けないように注意しながら、指先に力を入れてがしがしと洗う。
    「ふっふっふ、東条直伝の頭皮マッサージじゃ。これで禿げることはないじゃろ〜」
     いつかに習ったマッサージを施してやれば、何とも言えない声が上がった。痛がっている様子がないので、上手く出来ているのだろう。ああだこうだと文句をつけていた声が次第に小さくなり始める。
    「やべぇ……、寝そう……」
     ぽつり、とこぼれた言葉に嘘はないようだ。されるがままになる頭は、夢野の力加減次第であちらこちらへ揺れる。
    「今寝たらウチにはどうにもできんぞ?」
     髪を洗うのを止め、シャワーで泡を流していく。汚れも何もかも残らないよう丁寧に流し、シャンプーとセットになっているコンディショナーを手にとった。
    「えぇ〜?そこは頑張ってよ〜」
    「いや無理じゃろ。ウチとお主でどれぐらいの体格差があると思っておるんじゃ」
     高校を卒業してから夢野はそこそこ成長をした。寸胴子供体型と言われていた体は女性らしく丸みを帯び、ぺたんこだった胸も凹凸がはっきりわかるほどになっている。もちろん背だって伸びた。
     しかしそれは王馬も同じである。華奢だった体躯は男性らしくしっかりとしたものになり、背だってもちろん伸びている。身長差は昔よりも大きく開いていた。
     そんな相手を運べるわけがない。
    「よし、終わりじゃ。体は自分で洗うんじゃぞ」
     コンディショナーも流し終われば、もう夢野がやれることはなくなる。さて次は自分の髪を洗おう、とすれば手にしていたシャワーヘッドを取り上げられた。驚いてそちらを向けば、目と鼻の先に王馬の顔があって。
    「洗ってくれないの?」
     にい、と笑う顔に手を伸ばした夢野は、にこりと笑顔を返しながら目の前の鼻を摘み上げる。
    「馬鹿なことを言っておらんで、さっさと洗わんか。風邪を引くじゃろうが」
    「いった!もー、そんなに怒んないでよ。ほら、今度はオレが夢野ちゃんの髪洗ってあげるからさぁ」
     半ば強引に椅子へ座らせられた夢野が抗議の声を上げるよりも早くに、髪へ湯がかけられる。
    「んあぁ……、ウチの髪を洗えるなら、自分の髪も洗ってほしかったぞ……」
     あっという間に泡立ってしまう自分の髪を視界の端で捉える。こういうときの手際のよさには感心するやら憎らしいやら。ため息もそのままにぼやけば、背後から降ってくる聞き慣れた笑い声。
    「偶にはいいでしょ、こんなのも」
     先程の夢野を倣うかのように、王馬は指先に力を入れながら髪を洗い続けた。絶妙に心地よい力加減は徐々に瞼から力を奪い、意識を遠ざからせていく。
     確かにこれは相当眠い。このまま全てを委ねて意識を手放したくなってしまう。
    「んあー……、寝そうじゃ……」
    「……うっわ、ひどい間抜け面。ちょっと気を抜きすぎだよ」
     言われていつの間にか下りていたまぶたを開ければ、真正面に備え付けられている鏡が目に入る。そこに映るのは確かにひどい間抜け面の夢野と、丁寧に指で髪を梳いている王馬の姿で。
    「……何で一緒に風呂なんか入っとるんじゃろうな、ウチらは」
     いつも通りの応酬だったのですっかり忘れかけていたが、ここは風呂場で自分たちは裸だ。二人の関係を考えれば、何かしら起きてもおかしくはない。
     けれどここまで、特に何か起きそうな気配すらなかった。もちろん夢野にその気はなかったので今の雰囲気は大歓迎なのだが、何も起こす気がないから何故王馬はこんな回りくどいことをしたのだろう。
     そうこうしている内にコンディショナーも流し終わったらしい。さっぱりとした夢野は上半身をひねって振り返り、体を洗おうとしている王馬を見上げる。
    「洗ってくれる気になった?」
    「いいや全くこれっぽっちも」
    「ちぇっ、夢野ちゃんのケチ」
     拗ねて口を尖らせる様はまるで子どもだ。けれど見た目も雰囲気も、お互いにずいぶんと大人になってしまった。いつまでも子どもがじゃれ合うような関係ではいられない。
     とはいえ、この色気も何もない応酬が最も自分たちらしいのだから仕方がないのだ。
    「……まぁ、背中ぐらいなら流してやってもよいぞ」
     いつかそんなやり取りもしなくなってしまうのだろうか、なんて想像したら少しだけ寂しくて。他愛もない返し欲しさに言葉をかければ、王馬は少しだけ満足そうに笑った。
     がちゃん、とやや荒々しく扉が閉じる音で目が覚める。どたどた、とたとた、ぺたぺた。どこか不安定な足取りは時折、壁にどたばたとぶつかることで何度か止まる。うう、と呻くような声が聞こえるのはきっと気のせいではない。
     これは面倒くさいことになった。扉がある方に背を向けて寝返りを打った夢野は、知らぬ存ぜぬを貫き通すことを強く心に誓う。何があっても反応してやるものか、とまぶたをきつく閉じた。
     間もなくして静かに開いていく寝室の扉。ふらふらとした気配が近寄ってくるのを感じながら、夢野は改めて決意を固くする。
    「ひーみこちゃぁん」
     これまで聞いたこともない、甘ったれた声にうっかりまぶたを開いてしまいそうになる。寸でのところで思い留まったものの、今横へ倒れ込んできた男が自分の知る者なのか確認したくて仕方ない。
    (いや、それこそヤツの思う壺じゃ……!)
     噎せ返るようなアルコールと、鼻につくタバコの臭いに頬が引きつった。擦り寄ってくる体温を引き剥がしたい衝動に駆られながらも、夢野は懸命に先程立てた誓いを脳内で反芻する。
     今日は久しぶりに、旧友の男子たちで集まるのだと聞いていた。百田が幹事をしたから庶民的な居酒屋になった、とぼやいていた割には楽しそうにしていたのは昨日のことである。
    (小吉がここまで酔うのは珍しいことじゃが……、大方百田辺りと売り言葉に買い言葉で無茶な飲み方をしたのじゃろうな)
     ふふふ、と背後から聞こえる笑い声は終始楽しそうであった。水と油である百田と王馬であるが、厄介なことに悪乗りするときは意外と息が合うのである。そのせいで何度苦労する羽目になったか。思い出せば苦々しい感情が胸に湧き上がる。
    「ねぇ〜、ひみこちゃん寝ちゃったの?お子ちゃまだなぁ〜!まだそんな時間じゃないでしょ〜?」
    (とっくに0時を過ぎとるわい!この馬鹿者が!)
     時刻は深夜0時半。王馬がいうお子様でなくとも寝入っている人間のほうが圧倒的に多いだろう。心の中でツッコミを入れながら、とっとと寝落ちてくれと願わずにいられない。
     しばらくすると喧しかった声が止んだ。唐突に訪れた静寂に幾ばくかの不安を覚えたものの、やっと寝てくれてのかと安堵に胸を撫で下ろす。
     のも束の間のことで。
    「……、ひっ、お、お主どこを触っておるんじゃ!」
     いつもより高い体温を宿した手が、パジャマの下に潜り込んでくる。それは迷うことなく、夜用の下着へ辿り着いて、浅い呼吸に上下する胸をまさぐり始めた。
     流石にここまで直接的な触り方をするとは思っていなかった。夢野は飛び起きる勢いで振り払おうと身を起こそうとして、失敗する。
    「……やっぱり起きてた」
     にたりと笑っている王馬が、全体重をかけて夢野の上に伸し掛かっているからだ。わざとなのか、それとも酔いすぎて体に力が入らないのか。どちらにしても彼女にとっては迷惑以外の何物でもない。
    「重いっ!とっととどかんかぁ!」
    「やだね〜〜」
     じたばたと暴れてみるものの、酔っ払って力加減ができてない男に通用するわけがない。何をしても楽しそうにけらけらと笑うだけなのだ。頬をビンタでもすれば目が覚めるかとも一瞬考えたが、それすらも笑われてしまったらどうしよう、なんて。
     あれこれ考えているうちに、王馬の手は下着の中から這い出ていった。おや、と夢野は驚きに動きを止める。
    「……何じゃお主、拗ねておるのか?」
     するすると肌の上を滑っていた手のひらは、やがてパジャマの中からも出ていった。けれど夢野の体から離れることはなく、間もなくして抱き込むように両手が回される。
     ぎゅうぎゅうと強いような弱いような、何とも言えない力加減はまるで縋るようなもののように思えて。まさかと声をかければ、返ってくるのは小さなうめき声。
    「……だって、先寝ちゃうんだもん」
     寂しいじゃん、などと続けられれば夢野は思わず間抜けな声を出してしまう。あの、自らを悪の総統と嘯くようなあの王馬小吉が、寂しいからとこんな絡み方をするだなんて誰が思うというのか。
     付き合いも長く恋人同士である夢野だって、ちょっと引いてしまうぐらいに想像すらできない展開なのである。
    「今日の飲み会で何かあったのか……?」
     締め付けてくる腕の中、強引に寝返りを打って正面から向き合うようになれば、顔をしかめている王馬と目があった。子どものように拗ねている様は何度か見たことがあるが、今のそれはこれまでのものとは明らかに違っている。
     誤魔化しもからかいもない、心の底から夢野が先に寝ていたことが気に入らなかったのだ。寂しい、だなんて口にするぐらい。駄々をこねるように縋り付いてくるぐらい。
    「……べつに、なんにもない」
    「何にもないわけないじゃろ……」
     夢野の胸へ顔を埋めて、王馬はうんうんと唸る。どうやら理由は教えてくれないようだ。
    (というより、自分でもよくわかってなさそうじゃなぁ、これは)
     なんだかわからないけれど甘えたくなる。その気持ちは誰よりも夢野自身がよく知っていた。もちろんそういうときにどうすればいいのか、どうして欲しいのかもよく知っている。
    「……全く、仕方のないやつじゃのう」
     呆れながら吐く溜め息が漏れる唇は、弓なりに上がっている。甘えられることが嬉しくて仕方ないと顔に出ているだろうことは明らかだ。しかし幸運なことに、一番バレたくない人物は夢野の胸に顔を埋めたまま動く気配がない。
     ならば隠すことなどする必要はなかった。上がったままの口角もそのままに、跳ね気味の髪を頭を撫でてやれば、くぐもった声が上がる。覇気もない生気も弱い吐息は、間もなくすれば寝息に変わるはずだ。
    「おやすみ、小吉」
     優しい声音でかけた言葉に返ってくる声はない。でもそれでいいのだと、夢野は這い寄ってくる心地のよい睡魔に身を委ねるのだった。
     いつもは何かしら物が散らかっている机には一枚の紙とペン、そして印鑑と朱肉だけが置かれている。今までドラマやら映画やらでしか見たことのない書類。それを目の前にして、二人は黙り込んだまま対面に座っていた。
     これまでの人生の中で一番緊張しているかもしれない。膝の上で握り拳を作ったまま、何となく動けない夢野はここに至るまでを振り返る。付き合い始めたとき、初めての夜、同棲一日目、プロポーズされた日。思い起こせば色々なことがあり、もちろん緊張したことだってあるが、ここまで互いに黙り込むことは初めてだ。
     ちら、と真正面の様子を窺う。すると相手も同じことを考えていたのか、ぱちりと視線が合った。
    「……書かんのか?」
    「……そっちこそ」
     ペンは一本しか用意していないので、先に一人が書くしかない。いや仮に二本用意していたとしても同時に書くことは不可能だろう。書類は一枚しかなく、また同時に書くにしては紙も記入欄も小さいのだ。
     どちらが先に書くのか。それを決めないままただ時だけがいたずらに過ぎること数分。先に手を動かしたのは夢野である。いよいよペンを手に取り書類へ臨むのか、と驚きに目を丸くする王馬だったが、次に彼女が起こした行動でまぶたを半分下ろす。
    「……ちょっと、何してんの」
     くるりと向きを変えられた書類は、王馬に向き合うように設置される。テーブルを置いたままだった一回り大きな手にぐいぐいとペンを押し付ける夢野へ掛けるのは、もちろん呆れ返った声だ。
    「こういうものは普通、左から書くもんじゃろう?だったら先に書くのはお主じゃろうが」
    「はぁ?オレがそんな普通に従うとでも?」
     あっさり上下が反転した書類が、夢野へぴたりと向き合う。未だ受け取られていないペンは押し返され続けてばかりだ。
     くるりくるりとあちらこちらへ移動して回転する書類。やがてそれは二人の指から滑り飛んで、ふわふわ宙を舞いながら机の下へ落下する。
     ペンを押し付け合いながらそれを見届けたところで、王馬と夢野は互いの顔を見合わせた。
    「……馬鹿なことしてないで書こうか」
    「……そうじゃな」
     名前を書きたくないわけではもちろんない。ただどうしても先に出てしまう照れと意地からじゃれていただけなのだ。
     けれどいつまでもそんなことをしていたところで時間を無駄にするだけである。王馬は夢野からペンを受け取り、両手の空いた夢野は落ちた書類を拾い上げて。
     見慣れない紙の上に印字された『婚姻届』の言葉に、捨てようとした羞恥心が顔を覗かせる。
    「ペンだけあっても書けないんだけど」
    「わ、わかっておるわ……」
     固まったまま動かない夢野へ、怪訝な顔を向けながら王馬が急かす。何とも言えない顔と声で返事をして席へ戻った彼女は、一拍置いてからおずおずと両手を添えながら書類を差し出した。
     ご丁寧に目の前へ置かれた、たった一枚の紙。遠のいていく、添えられていた細い指先の下から現れた言葉はどうにも馴染みのないものだ。恐らく夢野はこれを改めて読み返し、色々とあれやこれや考えたのだろう。
     せっかく忘れようと努めているのに、彼女の一挙一動が王馬へあらゆることを思い起こさせてならない。
    「……随分と丁寧に書くんじゃな」
    「……当たり前でしょ。どこに出す紙だと思ってんの」
     さらさらと滑るペン先がつづる言葉をまじまじと見つめながら、夢野が言う。それに対して顔を上げず声だけ返せば、んあ、と小さな声が上がった。
     言おうか言うまいか一瞬悩んだものの、先程の言動に対する意趣返しのつもりで告げた言葉。しかし客観的にその言葉を聞いてみると、羞恥心に拍車をかけるだけであった。馬鹿かオレは、と王馬はポーカーフェイスを崩さないよう徹しながらペンを走らせ続ける。
    「はい、できた。次は秘密子ちゃんだよ」
    「う、うむ……。ん?印鑑は押さんのか?」
     ペンを受け取りいざ書こう、としたところで夢野は動きを止めた。不思議そうな顔をそのままに王馬を見つめる。
    「どうせ緊張しすぎて書き損じるでしょ。その度に印鑑押すのタルイからね」
    「か、書き損じたりなど!……んあ、あ〜〜〜!そう言われたら不安しか湧かんではないかぁ!」
     すぐさま否定しようとして、けれども返された掛言葉が頭の中で自動反芻される。そんなことはない、書き損じることなどない。そう自分に言い聞かせれば言い聞かせるほど、緊張感からペン先が震えた。
     暫くは己と戦っていたらしい夢野だったが、やがてペンを机に置く。ふう、と吐いた溜め息には疲れが滲んでいた。
    「えっ、書いてくれないの……?マリッジブルーになるの早くない?」
    「違うわい!間違えんよう、呼吸整えようと思っただけじゃ!」
     プロポーズをあんなに喜んだ人間がマリッジブルーになんてなるわけなかろう、と鼻息荒く続ける夢野。そう言い切ってから自分の発した言葉の意味を理解したようで、先程よりもびしりと身を固くする。
    「……その自分で自分の首を絞めるところ、全く成長してないね。学習能力ないにも程があるよ」
    「………………うるさいわい」
     そんなことは自分が一番よくわかっているのだ。夢野は頬を膨らませたまま再度ペンを手に取る。こうなればヤケだと止まることなく一息で書ききってしまえば、間違えることもなくあっさり終わってしまった。
    「今度こそ、印鑑じゃのう」
     ずい、と王馬へ紙を差し出せば、彼は傍らに放置されていた印鑑ケースに手を伸ばす。
    「でもこれさぁ、オレたちが失敗しなくても証人欄とか間違えたら書き直しだよね」
    「んあ……」
     朱肉に印鑑を立てたままそんなことを言い出す。二人の視線が向けられるのは空欄の証人欄だ。ここには互いの親に書いてもらう予定である。
     そうしてまた訪れる、沈黙。
    「あ゛〜〜〜〜、なんっか、すっげーー調子狂うなぁ〜〜〜〜もぉ〜〜〜〜!」
     がしがしと頭を乱暴に掻きながらこぼされる言葉は、王馬らしくもないものだった。ほんのりと染まっている頬も、何とも言い難い表情も。いつも飄々としている男がここまでペースを崩されるものか、と思う。
     けれどもそれは夢野も同じことだ。この書類を提出したら、いよいよもって二人の関係はただの恋人ではなくなるのである。
     緊張しないわけがない。
    「……じゃあ、一旦止めるか?」
     このままでは埒が明かないだろう。一度落ち着くためにも、手を止めてもいいかもしれない。そう思って声をかけた夢野だったが、一瞬の間を置いて王馬は椅子に座り直す。
    「………………やだ。止めない」
     立てたままだった印鑑を手に取り、書類へ力強くぐっと押せば『王馬』と印章が残った。間もなくして無言で差し出された書類を前に、夢野は自分の印鑑を取り出して。
    「手、震えてる」
    「んあっ、言うでないっ」
     ブレないよう、滲まないように注意しながら押された『夢野』の印章。ようやく作業を終えたことでほっと胸を撫で下ろすものの、照れ臭さは変わらず消えない。
    「これで、ウチも王馬になるんじゃな……」
     ぽそりとこぼされた言葉に、室内は再び沈黙に襲われる。
    「……うん、そうだね。そうだけど……、何で今言うのそれ」
    「んぁ…………」
     顔に集中する熱をどうすることもできない。目の前に置かれた書類から出来るだけ目を逸らす二人から、羞恥心と緊張感が消えるのは一体いつになるのか。
     少なくとも今日一日は無理だろう。互いに首まで朱に染めながら、どちらともなく溜め息を一つ吐いた。
     おやつを買いに行く、とパーカーを羽織って財布とスマートフォンを手に宣言をする。たかだかコンビニに行くぐらいで、そう鼻息を荒くする必要はあるのだろうか。相変わらず変なところで気合を入れる子だなぁ、と王馬は雑誌から顔を上げる。
    「こんな深夜に食べるなんて勇者だよね。今度は水色の衣装を捨てる羽目になるんじゃない?」
    「んあっ、そ、それは……」
     高校を卒業してすぐに作ったのだという、青色を基調にしたステージ衣装はクローゼットの奥にしまい込まれている。背も伸びて体型も随分と変わったので、そもそも入り辛くなっているのだが本人曰くまだ入る、らしい。けれどもこれ以上、腹周りに肉が付いてしまえばファスナーが上がることはないだろう。
     それを一番よく知っているので、夢野は反論もできないまま押し黙った。とはいえ『おやつ』は諦められないようで、あちこちに視線を彷徨わせて何かを考えているようで。
     恐らく、王馬が発した先の言葉を覆せるような展開を探っているのだろう。
    「……仕方ないなぁ、夢野ちゃんは」
     雑誌を閉じながら溜め息を吐けば、夢野はぴくりと肩を震わせる。更に畳み掛けられるのか、それとも叱られるのか。王馬の動向を注意深く観察していた彼女は、彼が立ち上がったことで身構えを強くする。
    「オレも欲しいものあるし、付き合うよ」
    「んあ?本当か?」
     思わぬ申し出に夢野の顔がぱっと明るくなる。目に見えて胸を弾ませる彼女の足取りはとても軽く、あっという間に玄関へ辿り着いてしまった。さっさと靴を履いた彼女は、王馬へ早く来るように急かす。先程までの疑り深い様子が嘘のようだ。
     ここで付いていくのは嘘だ、と告げたら一体どんな顔をするだろう。きっと今の笑顔はあっさり消えてしまい、しょんぼりと肩を落として出ていくのかもしれない。容易に想像がついてしまう展開だが、夢野の反応はいつだってつまらなくはなかった。
     しかし今回ばかりは余計な茶々を入れるつもりはない。欲しい物があると言ったのは嘘ではないし、一人で夜道を歩かせる気などサラサラなかった。
    「頭の悪い犬でももっと待てるよ」
     出しっぱなしにしてあった財布をポケットに突っ込んで、今か今かと待ち受ける夢野の元へ向かう。もちろん投げかける言葉には、皮肉を忘れずに。


     軽快な店内BGMが流れる店内は、深夜だというのに目が眩むほど明るかった。近所でも一番大きなコンビニには所せましと商品が並べられている。
     入店すると同時に、夢野は真っ先にデザート売り場へ向かっていった。その後ろ姿を見送った王馬はとりあえずジュースの陳列棚へ向かう。冷蔵庫に常備しているプァンタを切らしていたからだ。
     数本をカゴに放り込めばあと欲しいものは一つ。日用品が並んでいる棚へ向かおうと踵を返せば、両手をカップデザートで塞いだ夢野がやってきて。
    「またそんな、カロリーが高いもの持ってきて……」
    「き、今日一日で食べ切るわけではないぞ!?だからセーフじゃっ」
     生クリームと白玉、そしてあんこがぎっしりと詰まったクリームぜんざい。そして苺のムースに苺のソース、苺のプリンと苺づくしのカップケーキ。夜中に食べるにはハイカロリーすぎるそれに、王馬の表情は自然と歪んでいく。
     それに対して夢野は口角を引きつらせながらも無茶苦茶な理論を振りかざす。問答無用で王馬の持つカゴへそれを入れると、すたすたとレジへ歩いていってしまった。けれどもすぐ、後ろからやってこない気配に足を止める。
    「……何をしておるんじゃ?」
     日用品の棚を眺める王馬へ並び立った夢野は、彼の視線の先を辿って。
    「んあっ、な、何を見ておるんじゃ……!」
     カラフルな入れ物に入っているのは避妊具だ。コンビニに売っていることは知っていたが、ここで買うものではないだろうといつも見ないふりをしていたものである。
     慌てて王馬の腕を引くが、びくともしない。それどころか引いているはずの腕を棚に伸ばし、商品の一つを手に取るのだから夢野は更に慌てる。
    「お、王馬っ!」
    「この前ので切れちゃったんだんだよね。っていうか今更そう照れるものじゃないでしょ?実際使ってるんだし」
    「そっ!それ、は……」
     何でもないように言ってのける王馬に、段々と慌てている自分が虚しくなってしまう。顔は赤いままではあるものの、夢野は肩を落としながらその場に立ち尽くした。
    「夢野ちゃんはどれがいい?」
    「……どれでもいいわい。お主の好きにせい」
    「ふぅん。じゃあ、こんなのは?」
     はい、と渡されたそれの商品説明画像には要らぬ装飾が付いていた。見た目のグロテスクさに夢野は、ゔ、とうめき声を上げてしまう。
     怖気づいて王馬の腕へ縋り付くようになる彼女を見下ろし。やがてニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべながらそっと、わざとらしく低い声で囁いてやる。
    「こんなの使ったら、どうなっちゃうと思う?」
    「………………」
    「……やだなぁ〜、そんなに睨まないでよ」
     嘘だよ、とケラケラ笑いながら、王馬は普通の商品をカゴへ放り込む。そんな彼を涙目のまま睨みつける夢野だったが、暫くすれば盛大な溜め息をわざとらしく吐いた。
    「さっさと帰るぞ。ウチは早くおやつを食べたいんじゃ」
     ぐいぐいと王馬の腕を引いてレジに向かう夢野。確かにさっさと帰りたくはあったが、もう一つ掛けたい言葉があった。
     けれどもこの言葉を投げてやれば確実に、夢野は顔を真っ赤にして怒るだろう。憤慨に憤慨して平手打ちでもしてくるかもしれない。こんなコンビニの片隅で痴話喧嘩なんてするのもダサい、というものだ。
    「じゃあさ、おやつ食べ終わったら運動でもする?ちょうど買うんだしさぁ」
     にぃ、と笑いながら掛けた声に夢野はぴたりと足を止める。ブリキのおもちゃのようにぎぎぎ、と振り返った彼女は予想通り首まで真っ赤である。
     けれども予想外だったことが、一つだけ。
    「…………じゃあ、二つとも食べるとしようかのう」
     やや震える声で返して、レジ前に向かう夢野。カゴを持たずに何を会計するつもりなのか、と王馬は込み上げる笑いを堪えきれずにいられない。
     しかしそれよりも何よりも、期待をさせるような答えをもらったのだ。笑みの大半がそこからくるものだとわかっていながら、王馬は彼女に声を掛けるのだ。
     商品を持たないでレジに立つのは迷惑だよ、と。
     明るい店内に流れているのは軽快なオリジナルBGM。特売日なのだという今日はいうもより賑やかで、夕方だというのにいつもより人が多く思えた。
     野菜売り場を抜けて鮮魚売り場、精肉売り場まで一通り巡ったところで、二人の足はピタリと止まる。互いに顔を見合わせたあと、視線は王馬の手にさがっている買い物かごへと落とされて。
    「あのさ、たまには和食以外も食べたいんだけど」
     ずしりと重いかごに積まれているのは魚や肉、切らしていた調味料である。ぱっと見ただけで、献立は和食なのだろうことが伺える代物ばかりだ。
    「んあー。そうは言うが、ウチは洋食よりも和食が得意なんじゃから仕方なかろう」
    「だからオレが作るって言ってるじゃん」
     夕食当番、なんてものは決まっていない。ただその日に休みだったり帰宅が早かったりした方が、自主的に作る流れになっている。
     今日はウチが作るぞ、と夢野が息巻いてたので素直に頼ろうと最初こそは思っていた。しかしかごへ放られる食材を見ている内に、そういえばここ最近夕食はずっと和食だなと気付いてしまったのである。
    「そんなに魚ばっかり食べてどうすんの。カルシウムが足りてないの?それとも手っ取り早く頭をよくしようとでもしてるの?」
    「何じゃ、魚が嫌だったのか?じゃあ今日は肉じゃがにでもしようかのう」
    「いや、そうじゃなくてさぁ……」
     決して夢野のつくる料理がまずいというわけではない。むしろ和食に関しては文句など出ないぐらいには美味しいのだ。
     職業と見た目からてっきり洋食が得意だと想像していたのだが、そういえば彼女の師匠はそこそこ高齢だったことを思い出す。
    「なら何が不満なんじゃ?味付けに飽きたのか?」
    「だから、たまにはパンとかでもいいじゃんって話」
     シチューのお供もステーキのお供も、毎日毎日白米ばかり。いくらおかずが美味しいとはいえやや飽きてきてしまっている。
     素直に告げれば、夢野はあからさまに嫌そうな顔をしてみせた。その反応にやっぱりな、と思いつつも今回ばかりは王馬も譲る気はない。
    「夕食にパンなど、食べた気がせんではないか」
    「あっそ。じゃあハンバーガーとかはどうなるの?あれもパンだけど」
    「あれは、確かにパンじゃが。ハンバーガーという料理じゃろう?ただのパンと並べてはハンバーガーが可哀想じゃ」
    「どんな屁理屈だよ」
     どうやらお互いに譲る気はないらしい。乳製品売り場の前でああでもないこうでもないと言い争う二人を、母親に手を引かれた子どもが不思議そうに眺めて通り過ぎていく。
    「……どうしても、譲る気はないないんだね」
    「……そっちこそ」
     睨み合いを続けること数十秒。同じタイミングで溜め息を吐いた二人は、今一度かごの中を見下ろす。
    「では、明日ならよいのか?」
    「まあ、明日ならいいよ」
     今更これら全てを棚へ戻しに行くことは憚られる。なので和食を作ることを前提とした食材たちを買って帰ることは確定していた。
     けれど夢野はパンを食べたくないという意思を曲げず、また王馬も白米は食べたくないと意思を曲げない。この平行線は恐らく今日、交わることはないのだろう。
    「…………」
    「…………」
     再度、互いの顔に顔を見合わせる。感情が窺い知れない表情のまま見つめ合った二人は、やがて同じタイミングで小さく息を吸い込む。
    「「ラーメン」」
     そうして声が重なると同時に、にやりと笑いあってどちらともなく歩き出す。
    「んあー、ウチはとんこつ醤油がいいのう」
    「えー?オレは味噌がいいんですけどー」
     向かう先は麺料理のチルド品が並べられた棚。スープの味で再び言い争いを始める二人だったが、そこには険悪さなど微塵もない。
     この後、彼らは譲り合うことで無事にスープの味を決めることに成功する。しかし乗せる具材で揉めることとなるのだが、それはまた別の話。
     何かが焼ける匂いがする。
     香ばしいそれにまどろみから浮上した夢野は、ぼやける世界をしばらく眺めていた。カーテンの向こうで昇る太陽の位置はいつもより高く、朝も遅い時間なのだろうことが窺えた。
     頭のてっぺんから爪先の隅々までがだるい。できることならことまま二度寝をしたかった、ものの。意識がはっきりしていくにつれ暴れ回る腹の虫には勝てなかった。ぐうぐうと鳴っている腹を抑えながら夢野はゆっくり、ゆっくりと体を起こす。
    「はぁ、止めろと言うておるのに……」
     ベッドの下へ落ちっぱなしになっていたシャツを取り上げようとして、ふと目に入った腕に残る曲線の痕。夢野の表情は段々と渋くなり、やがてなんとも言えないものへと変わっていった。
     さす、と腕に残る歯型をさすってみる。痛みはもちろん、ほとんど残っていない。けれどもそこにあった火傷しそうなほどの熱は嫌でも思い出すことができて。
    「、んあぁ……」
     内側からぐわっと湧き上がった熱は、あっという間に全身へ広がる。締め付けられるような胸の切なさ、じわりと滲むどうしようもない何か。寝起きで頭の回転が鈍いと思いきや、昨晩のことは鮮明に思い出せてしまう。吐き出した溜め息は悲しいぐらいに熱がこもっていた。
     ゆるく頭を振り、できるだけ腹の虫へ意識を集中させる。手にしていたシャツに袖を、しわくちゃの短パンに足を通し、夢野はようやくベッドから降りた。
     寝室を出て短い廊下を行けば、すぐにリビングへ辿り着く。開かれたカーテンの向こうには青空が広がっていて、実に洗濯日和な天気であった。
    「あ、起きたんだ」
     背後からかかった声に振り返れば、皿を手にした王馬が立っていた。おはよう、と互いに言葉を交わしたところでふといい香りが鼻をくすぐる。ふわ、と立ち上がる湯気の元を辿れば目に入る、黄色いふわふわとしたもの。
    「甘いのがいい?ああでも、目覚まし代わりにブラックのほうがいいか」
    「……甘いのがいい」
     スクランブルエッグと添えられたサラダ。見た目もよければ味もいいのだろうそれに、また腹の虫が暴れだした。静かな室内にこれでもかと響き渡った音に、口元に手を当てながら王馬は、ふは、と笑う。
     恥ずかしい気持ちはあった。しかしそれよりも食欲が勝っていたので、彼の手から皿を取り上げる。
    「トースト、ジャムいるでしょ?」
    「うむ」
     テーブルに皿を置いて、必要になるだろうカトラリーを取りにキッチンへ入った。そうして食器棚の前に立ったところでガラスに映る自分の顔が目に入る。やや重たそうなまぶたと少し膨れている頬。整えられていない髪の下、鎖骨辺りに点々とある鬱血した痕。
     食器棚の引き出しを中途半端に開いたまま、夢野は固まる。
    「身支度整えたいならここじゃなくて洗面所行きなよ」
     呆れたように言いながら近寄ってきた王馬は、動かない彼女の視線を追って、ようやく理由に気付いたらしい。あぁ、と低い声で小さく呟いて、徐々に口角を上げていく。
    「何、照れてんの?夢野ちゃんってばいつまでたっても初心だなぁ」
    「んあっ!や、やめんか……!」
     背後から伸びてきた指先が鎖骨をするりと撫でていく。途端に昨夜のあれやこれやを思い出してしまいそうで、夢野は慌てて意味有り気な触れ方をする手を振り払った。
     間違いなく顔は真っ赤になっているだろう。それでも噛み付かずにはいられなくて、勢いよく振り返ってみれば。
    「……早く食べないと冷めちゃうよ」
    「……わかっておるならそこをどかんか」
     唇へ触れた熱が離れていく。至近距離にある顔はからかうような笑みを浮かべており、その気はないのだと知れた。
     やがて遠ざかっていった王馬は、電気ケトルの側へと歩み寄る。予め準備してあった二つのマグカップ。一つはブラック、もう一つはカフェラテになるのだろうそれへ湯を注ぐ横顔を、しばらく眺める。
    (ああやって黙っていれば、……いや、考えるのは止めじゃ)
     また思い出してしまいそうな気がして、夢野は目線を反らす。適当なカトラリーを手にし、カウンターに置かれたままのトーストの皿も持ってリビングへ向かった。
     これで持ってくるものは全部だろう。そう判断した夢野は手にしていたすべてをテーブルに並べ、いつもの場所へ腰を下ろした。間もなくすれば、マグカップを両手に王馬がやってくる。湯気の立ち上がるそれらを机へ置き、夢野の対面へ腰を下ろして。
    「「いただきます」」
     律儀に両手を合わせて声を重ねれば、どちらともなく小さく笑った。
    「あ、マヨネーズ。夢野ちゃん持ってきてよ」
    「んあー、王馬の方が冷蔵庫に近いじゃろうが」
     BGM代わりに付けたテレビからは、アナウンサーが便利グッズを紹介する声が流れている。やや派手な効果音、観客の感嘆、ゲストが入れる茶々。それらのすべてに目も耳もくれず、二人はゆるい朝の時間に身を委ね続けた。
     時刻は午前10時半。朝食をとるにしては遅すぎ、昼食とするには早すぎる時間である。
     木目調で統一された店内は訪れる者へどこか柔らかな印象を与える。高さが均一にされた棚に敷き詰められたトレイの上、所々隙間のできているそこに並ぶのは形も香りも様々なパンだ。
     それらを説明するために添えられたポップに踊るのは可愛らしい文字とイラスト。恐らくはレジに立っている店員が描いたのだろう。人柄が出るものなんだなと夢野は、言葉を交わしたときの印象を脳裏に思い浮かべた。
    「ねぇ、まだ決まらないの?」
     カチカチとトング鳴らしながら背後で文句を連ねる声。不機嫌であることは確かだが、その理由は単純に空腹なのだろう。僅かに振り返れば、口を尖らせる王馬と目が合った。
    「王馬が早すぎるんじゃ。というかお主、そんなに食べられるのか?」
     トレイに乗せられている調理パンはどれもボリュームがある。夢野では二つも食べられるか、といったものが三つ、四つ、五つ。加えて菓子パンが一つという中々の量に思わずそんな言葉を投げていた。
     しかし言っておきながら、コイツのことだからぺろりと食べてしまうんだろうな、と思い直す。王馬は小柄な方であるが食べる量は一般男性のそれと同じなのだ。
    「人の心配するより自分の心配したら?そんなに甘いものばっかり選んで、また真冬のアザラシみたいになっても知らないからね」
    「……その、遠回しに貶すのはどうにかならんのか」
    「え、直接的な言葉で貶してほしいの?どこぞのドM発明家みたいだね!」
     視界の端で、店員の笑顔が引き攣るのが見える。こんな押し問答など夢野としては慣れたものだが、一般人が聞けば間違いなくドン引きものだ。
     まだのんびり悩んでいたい気もしたが、これ以上は店に失礼になるだろう。右往左往させていたトングでリンゴのデニッシュを挟んだ。
     トレイは二つ、会計は一回。レジで飲み物も合わせて頼んで、天気もいいからとテラス席へと移動する。平日の昼間ということもあり、店に面した通りに人気はほとんどなかった。
    「人目を気にせんでよいのは楽じゃのう」
     カップに並々注がれたカプチーノで喉を潤し、先程購入したリンゴのデニッシュに齧り付く。香ばしいバターの匂いと煮詰めたリンゴの甘さに自然と頬が緩んだ。
    「そうやって油断してると、間抜けな顔を撮られるよ」
     大きなひと口でカツサンドを食べ進めていた王馬が言いながら笑う。そうしてあっという間に平らげてしまったかと思えば、すぐに次の惣菜パンへ手を付け始めた。
     相変わらず食べるスピードが早いな、と感心しながらのんびりとデニッシュを頬張る。元よりひと口が小さい夢野だが、食べ終わることの惜しさからいつも以上に口が開かない。
    「……何じゃ?」
     あれほど遅く食べ進めたというのに気付けば残り二口といったところで、ふと視線に気付いた。首を傾げながら問いかけてみれば、こちらを見つめていた王馬は食べかけのカレーパンを大口で齧る。
    「いやー、夢野ちゃんってサバンナに放り出されたらすぐに野垂れ死にそうだなって思ってさぁ」
    「どう生きておったらそんな極限に放り出されるんじゃ」
    「人生どうなるかなんてわかんないじゃん。キミが脱出魔法を失敗する可能性もゼロじゃないでしょ?気付いたら南極のど真ん中、とかさ」
     にしし、と笑う王馬の手からカレーパンが消える。間もなくして手に取られたのは、氷が少し溶けてしまっているアイスコーヒーだ。シロップもミルクも入っていないそれは、夢野にはまだ苦い代物である。
     砂糖をたっぷり入れたカプチーノは、自分がまだ子どもであることを証明しているようで少し悔しい。しかし飲めないものは飲めないのだから仕方ない、と夢野は気持ちを切り替えて次のパンへ手を伸ばす。
    「ウチよりも王馬の方がそんな目に遭う可能性は高いじゃろ。何せ悪の総統なんじゃからな」
    「何言ってんの。トロい夢野ちゃんじゃあるまいし、オレそんなヘマするわけもないね」
    「んあー、ああ言えばこう言うのう」
     ふわふわの生地にたっぷりのホイップクリーム、そして刻んだいちごが添えられた菓子パンはとんでもなく甘い。その胸焼けしそうな甘さに反して王馬とのやり取りはやや苦く感じる。
     だからといって、どうということはなかった。彼との距離感はこれぐらいが丁度いいのだと知っているからである。
     あまり近すぎるたり甘すぎたりすると、どうにも心臓に悪い。
    「……ほら、そうやって気を抜くから駄目なんだって」
    「んあっ」
     ぐい、と伸びてきた指先が頬へ押し付けられる。驚いて声を上げている内に引っ込んでいったそれは、王馬の口元へと寄せられて。
    「……今の、絶対わざとじゃろ」
     わざとらしく舌を出して舐め取られたのは、先程まで夢野の頬へ付いていたクリームだ。こんなことならさっさと拭き取ればよかったと後悔しながら向ける恨みがましい目。
     それを真正面から受け止めながら、王馬はにやにやとした笑みを崩さない。
    「さて、どうだろうね?」
     彼の本心など、夢野がどれほど知恵を絞ったところで容易に窺い知れることではない。なのにこちらの心は見透かされてしまうのだから悔しくて仕方がなかった。
     とはいえ、王馬の好意や本心が容易に見えてしまったら色々と耐えられないだろうことはわかっている。だからわかりにくいぐらいがいいんだろうと、夢野はまだ残り半分もあるパンを齧った。
     そもそも、わかりにくい好意でここまで心を乱されていることも彼にはお見通しなのだろう。そこがまた悔しいところだ。
     お世辞にも大きいとはいえない机には宅配ピザのケースが並べられている。わざわざ店に出向いて持ち帰ってきたのだというそれは、蓋を開ければ出来立てであることを証明するかのように湯気が上がった。途端に部屋中へ漂い始める香ばしい匂い。予定よりも遅れている夕飯時の待ち望んだ到来に、夢野の腹の虫が鳴いたのは当然のことだろう。
     食器棚から取り出したグラスを二つ、ケースの隙間に置いた。すると王馬がビニール袋から缶チューハイがいくつか取り出す。どれがいい、と問われたので迷わず苺味を選べばすぐにプルタブは開かれた。間もなくして、二つのグラスはピンク色で満たされていく。
     ぱちぱちと弾ける炭酸の音に耳を傾けながら、それぞれグラスをその手に取る。相手の方へ寄せつつ傾けながら目を合わせ、やがてどちらともなく満面の笑みを浮かべれば口から滑り落ちる言葉は一つしかない。
    「「かんぱ〜い!」」
     かちん、とガラスのぶつかる音も気にならない。言葉よりも先に喉を通った甘い炭酸は、心地よい刺激を生みながら胃の底へと落ちていった。
    「くぅ〜〜〜!やっぱりひと仕事終わった後の酒は美味いな〜〜〜!」
     一気にグラスを空にしてしまった王馬は、深く長い溜め息の後にしみじみと語る。
    「その台詞も何度目なんじゃ?もう散々言ってきたんじゃろうに」
    「にしし、まぁね!いい加減、もう飽きるかな〜って自分でも思ってたんだけどさ。そうでもないみたい」
     楽しそうに笑い続ける王馬は次に開ける缶チューハイを吟味し始める。嘘偽りもなく感情をさらけ出す横顔。心の底から喜んでいるのだと確信できる様子に、夢野の頬も喜びで緩まった。
     しかしいつまでも王馬の顔を眺めていても仕方がない。放っておいたままのピザを一切れ手に取り、そのまま手元にある皿まで運ぶ。とろりと伸びるチーズにずるりと引っかかった具材。落ちてしまわないよう慎重に運んでいれば、ふと視線を感じた。
    「夢野ちゃんって本当、鈍くさいよね」
    「う、うるさいっ」
     にやにやと楽しそうに夢野を眺めている王馬は、そう言いながらまだ手のつけられていないピザを一切れ持ち上げる。チーズは伸びたものの具材が引っかかることはなく、彼はあっさりとお目当てのピザを手元へ置いて見せた。
     乗っている具材が違うとはいえ、ここまで違いが出るものなのだろうか。既に半分以上が齧られた王馬の持つピザと自分の手元にあるピザを見比べながら夢野は首を傾げる。
    「別にそう深く考えるようなことじゃないよ。ただオレが食べ慣れてて、キミが食べ慣れてないってだけの話」
    「んあー、そんなものかのう……?」
     そういえば彼がいつも仕事場で食べているのはピザやらハンバーガーなどのジャンクフードばかりだと聞いている。対して夢野が仕事場で食べるものは自作の弁当やらコンビニで買ったパンなどだ。ピザは特別な日にしか食べないので、王馬の言う通りただ夢野が慣れていないだけなのかもしれない。
     そう、彼女にとってピザとは今日のような特別な日にしか食べない代物なのだ。
    「それで、しばらくは休めそうなのか?」
     首を傾げながら問いかければ、二切れ目を手にした王馬はやや長い唸り声を上げる。
    「どうだろ。今回の仕事のことが大々的に世間へ知れ渡ったら、間違いなくこれまで以上に忙しくなるだろうからね。そうなったら人としての権利も無視されるぐらい働かされちゃうかも……!」
    「その人としての権利を守るのが社長の、王馬の仕事じゃろうが」
    「あは、そういえばそうだったね!」
     青褪めさせていた顔から一転、にこりと笑った彼はいつの間にやら三本目の缶チューハイを開けていた。いつもよりピッチが早い気もしたが、それだけ浮かれているということだろう。楽しい気分に水を差す気はなかったので夢野はグラスに注がれるレモン色を眺めるだけに留めた。
     かつて王馬が率いていたDICEはベンチャー企業へと姿を変え、その仕事っぷりを評価され徐々に業績を伸ばしているらしい。代表者の知名度があるからだ、なんて囁かれているそうだが、使えるものを使って何が悪いというのが王馬の主張である。文句があるなら結果を残してから言いに来いよな、と笑っていた姿は記憶に新しい。
    「ま、今回は結構みんなに無理させちゃったしさ。反対されても少し長い休みにするつもり」
    「そうか。ならよかったのう」
    「でも休みが明けたら忙しくはなるだろうね。……そうしたらこうして、夢野ちゃんと会える機会も減っちゃうかも」
     ピザを取るために伸ばされていた夢野の手がぴたりと止まる。間もなくして引っ込んでいった指先は机へ添えられ、それを見つめる視線はもちろん下向いたままだ。明るかったはずの空気は今や暗いだけでなく少しばかり重い。そんな中で引き結ばれていた唇が静かな言葉を紡ぐ。
    「よい、ことではないか。仕事が無いより忙しいほうが退屈しないで済むじゃろ?」
     声にした言葉は紛れもない本心であった。軌道に乗ってきたとはいえ安定しているというわけではない。今のうちにしっかりと足場を固めるに越したことはないだろう。
     とはいえ、その言葉は王馬の目を見ながら言えるものではなかった。あの何もかも見透かしてしまいそうな瞳に捕らえられたら最後、ひた隠しにしようとした本音を引きずり出されてしまうだろう。それだけは避けたかった、とは思うものの。自分が嘘を吐いても馬鹿正直な態度でバレてしまうのだと夢野は嫌というほど知っていた。
     恐らく、いや間違いなく見抜かれている。そんな絶対的な自信を胸に頭を上げれば、予想に反して複雑そうな顔があった。
    「……ほんとさぁ、キミって変なところで人の期待を裏切るよね」
    「んあ?何の事じゃ?」
     盛大なため息を吐いたかと思えば、開けたばかりの缶チューハイをそのまま煽る。何故だかヤケクソになっているらしいが夢野にはその理由がさっぱりわからなかった。
     この様子では仕舞い込んだ嘘を暴かれることはないだろう。安心する、と同時にほんのちょっとだけ指摘されることを期待する自分もいて。
    (暴かれて恥ずかしい思いをするより、自分から晒したほうがダメージは少ないじゃろうか?でも、重い女じゃとは思われたくないしのう……)
     夢野の脳裏を過るのは仕事と私のどっちが大事なのか、というよくある拗れのきっかけだった。仕事を取れば責められ、彼女を取っても責められる。どちらにしろ理不尽な未来しか生まない、ある意味魔法の言葉である。
     生きていく上で必要なのはもちろん社会的地位と金だ。そもそも比較すること自体が間違いではないのだろうか、なんて考えを持つ彼女はもちろんその言葉を口にする気などない。先ほど言った通り、王馬にとって今は大事な時期なのだ。自分勝手な理由で負担になどなりたくはない。
     とはいえ、理屈と感情が必ずしも和解するわけではなかった。現に夢野の胸の内では駄々をこねる感情がある。
    「でも、ちょっとは寂しい……、かも?」
     折り合いのつかない理屈と感情。そこに継ぎ足された『先程の返答では冷たい女だと思われかねないか』という根拠のない不安。あまり器用ではない彼女がそれらをまとめて処理できるわけもなく。
     長い沈黙を破ったのは、はっきりとしない小さな声であった。
    「いや、王馬の邪魔にはなりたいわけではないのじゃが、やはりその、恋人なんじゃし全く連絡もつかなくなると心配になるじゃろ?」
     一体誰に対する言い訳なのだろう。するすると勝手に口から飛び出していく言葉たちを他人事のように聞きながら、夢野は徐々に王馬から視線を反らした。
     しばらくはマシンガンのように繰り出される言い訳が室内へ放たれていたが、数分も経たない内に声は尻すぼみになる。自然な流れで再び沈黙が訪れてしまったことで加速する気まずさ。このまま席を立って帰ってしまおうか、なんて考えてしまう。
    「……夢野ちゃんの言い分はわかったよ」
     本日何度目かの沈黙を先に破ったのは王馬だ。静かな声でそう言った彼は、短い溜め息をこぼす。
    「それで一応確認なんだけど、いつオレが連絡一つも入れないなんて言った?」
     そうして呆れに呆れ返った声で続けられた言葉。反らしていた視線を真正面へ向ければ、責めるようなじとりとした目が夢野を捉えていた。
    「んあ……?そう言っておらんかったか?」
     言われて初めてこれまでの会話を思い返す。しかしアルコールの入った頭はうまく回らず、王馬の言葉をしっかりと思い出すことができない。
     うんうんと唸り声を上げて考え込む夢野を、頬杖をつきながら王馬はジト目のまま眺め続けた。このまま待っていても彼女が思い出すことはない。そんなことはわかりきっている、がけれどもすぐに答えを出してやるつもりはなかった。
     だってこれはちょっとした意趣返しなのである。
    「んあー……。すまん、ぼんやりとしか覚えておらん」
    「いいよ。最初から期待してないし」
     しょぼくれた声で肩を落とす夢野は、返された言葉により一層背を丸める。
     これまでの王馬の言動を見ていれば彼が連絡しないなどと言っていないことは明らかだ。となると勝手に話を拗れさせたのは夢野であり、この空気を作ったのも夢野である。
     もちろんそんなつもりはこれっぽっちもなかった。しかし慣れないアルコールが入ったこと、また動揺するような言葉をかけられたこと。聞き分けのいい彼女であろう、などと考えてしまったことが駄目だったのだろう。余計な考えが浮かんで絡んで、あらぬ方向に飛んだ結果がこれだ。
     どうして今ここに穴がないのだろうかと夢野は項垂れ続ける。
    「はぁ〜、全く。キミのそのトンチンカンな言動に振り回されるこっちの身にもなってよね!」
    「す、すまぬ……」
    「本当に悪いと思ってる?ただ謝っておけばいいって思ってない?」
    「そんなこと思っておらん!本当に悪かったと心の底から反省しておるし、今も己のアホさ加減に吐きそうになっておるところじゃ……!」
     言い終わったところで吐き気に拍車が掛かり始めた気がする。胃からせり上がってくるアルコールやら何やら。懸命に抑え込もうとするものの、後悔と緊張が最後の一線を越えようと後押しをして。
    「じゃあさ、一緒に住もうよ」
     青褪めた顔もそのままにトイレへ駆け込もうかと腰を浮かせたところで、夢野は固まった。
    「い、ま何て……?」
     中途半端な姿勢で止まったままの彼女から一瞬で吐き気を奪った言葉。大混乱する頭で必死に絞り出した問いを投げかければ、なんてことはない顔で王馬は続ける。
    「だからぁ、仕事が忙しくなってきたらこれまで以上に会えなくなるでしょ?今の時点でこんなに訳わかんないすれ違い方するんだから、会えなくなったらもっと酷いことになりかねないからね」
    「んあ、それは……、うむ……」
     否定しようと口を開いたが、全くもって王馬の言う通りだったので不発に終わった。
     彼が言うように一つ屋根の下で暮せば、嫌でも毎日顔を見るようになるだろう。相手の予定を考えて連絡を渋ることもなくなるし、変なすれ違いを起こして喧嘩をする機会も減るかもしれない。
     そして会えない期間、胸を締め付けるような寂しさに襲われることもないのだ。
    「んあー、随分と簡単な解決方法があったんじゃな」
    「それで返事は?」
     感心しながら呟けばすぐさま答えを急かされる。普段ならば珍しくも焦っている姿に違和感を覚えるかもしれないが、今の夢野には正常な判断能力がないに等しかった。
     緊張感からの解放と的確な打開案の提示、脳の動きを極端に鈍くするアルコール。そして期待するような王馬の瞳を前にして彼女が用意する答えはただ一つ。
    「うむ。もちろんよいぞ!」
     満面の笑顔でそう返した夢野はいつの間にか注がれていた二杯目の苺チューハイを喉へ流し込む。ぱちぱちと弾ける刺激の心地よさにうっとりとしていれば、ふとこちらを見つめる瞳が視界に入った。
    「何じゃ、どうした?」
     あまりにも真剣に見つめてくるものだから照れくさくなる。気を紛らわせるために声をかけてみれば、眉間に皺を寄せながら王馬は首を傾げてみせた。
    「んー……、いや。夢野ちゃんってチョロいんだか手強いんだかよくわかんないなーって思って」
    「んあ?どういうことじゃ?」
    「……わかんないならそれでいいよ」
     こぼされた溜め息は呆れからくるもののようで、どこか安堵しているかのようにも思えた。とはいえその違和感に気付けども理由までは知る由もない。
     夢野はただ不思議そうな顔で、複雑そうにこちらを見つめる恋人を見つめ返すことしかできなかった。
     長い長い打ち合わせを終え、ヘトヘトになりながらも懸命に足を動かして辿り着いた我が家。仕事でほとんど帰らないので玄関からリビング、寝室まで生活感はほとんどないに等しい。それでも他の誰にも侵されない自分だけの領域というものは落ち着くものだ。
     肩から提げていたカバンをソファへ乱暴に投げる。そのまま自身もどさりとソファへ飛び込めば、緊張感やら何やらがふつりと切れる。細胞という細胞が重くなったような気がした。
     そこでふと、いつもは何も乗っていないローテーブルにやたらと存在感があるモノがあったことに気付く。本音を言えば指先一つでも動かしたくはない。けれどもそれを放っておくことで転がり込むだろう面倒を考えると、多少の無理をしてでも確認しなくてはならないだろうとも思えた。
    「…………んあ?何じゃ、これは…………?」
     これで人を殴ったら大なり小なり傷を付けられそうな分厚さ。表紙を飾っているのは輝く笑顔で花束を抱えた、ウェデイングドレスを着たモデルである。そんなモデルに負けず劣らずのパンチがある雑誌名は某有名なブライダル雑誌のものと同じだ。
    「何でこんなものが……、ウチは買っておらんぞ?」
     もしかするとこれはいたずらで、表紙を捲れば全く関係ない雑誌なのかもしれない。そんな期待を胸に、重い体へ鞭を打って無理矢理起こしたのだが、伸ばした指先が開いたページの先には式場の特集が組まれていて。
     何が起こっているのかちんぷんかんぷんである。中途半端に上半身を起こした姿勢のまま、パラパラと憎らしいほどの量がある紙面を捲り続けた。
    「あれ、帰ってたんだ?」
     疲れ目には辛い鮮やかさの連続に嫌気が差し始めた頃、突如として人の気配が現れた。驚いて顔を上げれば頬をほんのりと上気させ、濡れた髪にタオルを乗せた男が視界に飛び込む。
    「んあ、風呂か」
    「秘密子ちゃんも入れば?その様子だとすぐ寝落ちするでしょ」
     がしがしと乱暴に髪を拭きながら言う王馬は、どかりと夢野の隣へ腰掛ける。その衝撃ではたはた落ちてきた水滴の冷たさに、彼女はようやく固まっていた筋肉の力を抜いた。はあ、と溜め息とも呟きとも取れる音をこぼし、開いていた雑誌を閉じる。
     暫くは表紙のモデルを眺めていたものの、やがてスマートフォンを見つめる横顔へ目を向けた。
    「これは小吉が買ってきた、のか?」
     買った覚えのない雑誌がここにある。誰かから送りつけられてきた、なんてことはないはずなので同居する王馬が買ってきたと考えるのが妥当だ。
     ところがその考えが合っている自信は全く微塵も湧いてこない。ブライダル雑誌の使い道なんてどう考えても一択しかないだろうが、そもそもその使い道がどうにも彼のイメージと合わないのだ。
     まさか本当に武器として使う気か、なんて笑えるようで笑えない冗談が脳裏を過る。
    「キミが買ってきてないんだったら、そうなんじゃないの」
     夢野の問いかけに顔を上げた王馬は、瞬きを二回ほどしてから素っ気ない言葉を返してきた。手元のスマートフォンへ目を落とす横顔からでは感情の色は上手く読めない。
     恋人同士になってから随分と経つものの、夢野は未だに彼の感情を読むのが下手くそであった。そのせいでよく怒らせたり呆れられてしまったりするので、改善しようと注意深く観察しているのだが。今のところいい方向へ進む兆しは見えていない。
     恐らく今も、何かしら王馬の神経を逆撫でするような言動を取ってしまったのだろう。ううとうめき声を上げながら、夢野は隠されているのだろう答えを探すために存在感がありすぎる雑誌を見つめた。
    (仕事で使う、ものをわざわざ家に持ち帰ることもないじゃろう。発刊日は先週じゃし、使い終わったから貰ってきたというわけでもなさそうじゃな……)
     職業柄、彼の仕事はイベントに関わることが多い。結婚式といえば人生の中でも一大イベントなので、式自体か出し物の企画を依頼された可能性は大いにあるだろう。
     けれども王馬はこれまでほとんど家に仕事を持ち帰ったことはない。夢野に意見を聞きたいのならば、からかい言葉混じりにさっさと話を切り出すはずだ。
     そのどちらでもないというのなら、夢野にはもうこの雑誌がリビングに置かれていた理由などわかる訳がない。一体全体何だというのだろう。疲弊しきったポンコツの脳みそを懸命に回転させてみても、閃きなんてするわけもなかった。
    「……わかんない?」
    「いやっ!まだ、もうちょっと待ってくれ……!」
     腕を組みながらうんうん唸り声を上げ続ける夢野。すっかり考え事に夢中な彼女は、隣から注がれる残念なものを見るかのような視線など気付きもしない。やがてこれみよがしに吐かれた盛大なため息も自身の呟きで掻き消してしまう。
    「秘密子ちゃんって本当に枯れてるよね。オレが貰わなかったらどうするつもりだったの?」
    「んあ?!な、何じゃ急にっ!というかウチは枯れてなどおらん!」
     ひょいと軽々と持ち上げられた雑誌。それを縦持ちしたかと思えば背表紙で額を小突かれ、間髪入れずに呆れ返った視線と言葉を投げつけられる。
     思わぬ攻撃と悪口に夢野はすぐさま噛み付いた。じんじんと痛みを訴える額の為にも、まずは無駄に攻撃力の高い雑誌を奪おうと手を伸ばす。
    「いいや、サハラ砂漠も裸足で逃げ出すレベルで枯れっ枯れだよ。オレが胸を張って保証する」
    「な、何じゃと!?具体的にどこか枯れておると言うのじゃ!」
     学生時代はそう変わりもしなかった体格は、成人した辺りからじわじわと差が開いている。なので高いところに取り上げられてしまってはどうすることもできない。
     それでも必死に食らいついていけば、目一杯伸ばされていた王馬の腕が僅かに降りてきた。ここがチャンスとばかりに声を張りながら飛びついた夢野の指先が念願の雑誌に触れる。
    「ブライダル雑誌を見ても浮かれないところ」
     しかし背表紙を掴もうとしたところで耳を打った言葉に動きが止まった。
    「疲れてるのはわかってるよ。今度のショーは結構大規模なんでしょ?気が張ってるのも、それで頭がいっぱいになるのも知ってる。でもさぁ、これ見たら少しはそんなの吹き飛ぶでしょ?」
     寄りかかっていた体を恐る恐る離せば、じとりとした視線が突き刺さる。これまで口数が少なかったのが嘘のように矢継ぎ早で繰り出される言葉たち。苛立ちと呆れと、ほんの少しの悲しみか寂しさが滲んだ声はいつもより棘が多いように思えた。
     多分、気のせいではない。
    「………んあっ、まさかこれはウチらが使うためのものなのか!?」
     本日何回目かの長考タイムを経てようやっと辿り着いた答え。それは夢野の脳裏に浮かびもしなかったものであり、しかしよく考えてみれば当たり前のものであった。
    「あー、はいはい。そうだよそうですよ。そのためにわざわざ、オレが、恥を忍んで買ってきたんです〜」
     声から態度から不機嫌ですと語る王馬。勢いよく振り下ろされた腕の先、掴まれていた雑誌は大きな音を立てながらローテーブルに叩きつけられる。
     やたらと重い雑誌のせいか、予想以上の音と衝撃に驚きから無意識に肩が跳ねた。そうして生まれるしばらくの沈黙。気まずさと気まずさと気まずさに、夢野は絞り出すような声を出すしかない。
    「す、すまん……、いやその、本当に悪かった……」
     およそ二ヶ月後、これまで行ってきたショーの中でも三本の指に入るほど大きな公演を予定している。今日も朝から夜まで打ち合わせに打ち合わせを重ねてきたのだ。そんな毎日を一週間も続けていればプライベートでの判断力というものは多少なりとも落ちるものである。
     しかしそれはそれ、これはこれだ。どこの世界に婚約をした直後だというのに、ブライダル雑誌を前にして「誰のだ?」と首を傾げる花嫁がいるのだろう。全ての答えがわかった今、夢野の胸中は王馬への申し訳なさと自分への恨み節で満たされていた。
    「……秘密子ちゃんはさ、もしかして式とか挙げたくなかった?」
     黙り込んでいた王馬の言葉で、沈黙に支配されていた部屋は緊張感を緩める。無意識に強張っていた顔を上げれば、ほんの少し寂しそうにも見える瞳が夢野を捉えていた。
    「いや、そういうわけではないぞ。式を挙げていいならしたいぐらいじゃ」
     いくら枯れた干物女子と揶揄される夢野でも、ウェデイングドレスへの憧れは一般の女子並みにある。また結婚式は人生でも屈指の一大イベントなのだ。いつも口にする面倒臭いという言葉に蓋をして、準備やら計画やらを立てたい願望も、もちろんある。
     けれども夢野は何か引っかかりを覚えていた。濁した言葉の先の向こう、浮かんできた疑問の答えを探すために腕を組みながら思い出を探る。
     いつからだったか、式は挙げられなさそうだなとぼんやり思い始めていた。それは準備が面倒だからとか予定が合わないからという理由ではない。もっと昔、まだ付き合う付き合わないなんて駆け引きしていた学生の頃。耳にタコができるほど聞かされた、嘘か本当か判別のつかない話の数々を一つ一つ拾い上げていくこと数分。
    『あのさぁ、オレは悪の総統なんだよ?今この瞬間も命を狙われているのに、そんな表舞台に立ったら格好の的になっちゃうじゃん!なのに夢野ちゃんは舞台に立てっていうんだね。オレが死んでもいいんだ……ひどいや……!』
    「んあっ」
     まだ希望ヶ峰学園に通っていた頃、やたらとマジカルショーの演出に口出しをしてきた王馬へ『そんなに文句を言うなら自分がステージに立ったらどうじゃ』と噛み付いたことがあった。すると泣き出しそうな顔もセットで返ってきたのが先の言葉である。
     そういえば。当時は何かしらの表舞台に立つという話になったとき、王馬は必ずそこには立てない、とまるで決め台詞かのように繰り返していた。その度にDICEの活動の方がよっぽど派手だろうと百田たちに指摘されていたことも今では懐かしい。
    (耳にタコができるぐらい聞いておったからのう。刷り込みというやつじゃろうか……?)
     いつだってその話のあとには必ず嘘だよ、と付け加えられていた。しかし彼の言うことは何が嘘で何が本当なのか夢野には判断が難しいのである。学生時代の頃なら尚更のことだ。
     何度も何度も繰り返される内、無意識へと刷り込まれていたらしい認識。それがただでさえ鈍い夢野の判断能力をより一層下げていたのだろう。
     結婚式なんてど派手な表舞台に王馬が立ちたがるはずがない。なんて本人に確認することもないまま、当たり前のようにそうだと受け入れていたのだ。
    「うーむ……、ウチ一人の責任ではないぞ?お主の言い方も悪かったじゃろ」
    「ちょっと、勝手に自己解決しないでよ」
    「……過去の自分の言動をよ〜く思い出してみるんじゃな。そこに答えがあるぞ」
     よく考えてみたものの、理由があったにしろピンともこなかった夢野に責任はあるだろう。だがその理由を考えれば王馬にだって責任があるはずだ。意趣返しの意味も込めてそう言ってやれば、彼は意味がわからないと言わんばかりに片眉を跳ねさせる。
     それでも腕を組みながら考え込み始める辺り、普段は分かりにくい王馬の小さな優しさを感じた。
    「え〜、本当にわかんないんだけど。オレ、式挙げたくないだなんて言ってなくない?」
    「式の話ではない。もっと前の、学生のときのことじゃ」
    「は……?そんな昔のことが何で今に繋がるわけ?」
     首を傾げながら不服そうな声を漏らした後、どこかへと視線を投げる。過去の記憶を掘り起こすためか、学生時代にあった大きな騒動やらお祭り騒ぎのについてぽつぽつこぼし始めて。
     五分もゆうに過ぎたところで視線がかち合う。向けられる藤色の瞳には疑いの色が強く、本当に自分が言っていたのか、と言葉にしない問いかけも滲んでいた。
    「……表舞台に立つと暗殺されるだの何だの言っておったではないか」
     きっとこのまま待っていても王馬が答えに辿り着ける気はしなかった。切れ者で良くも悪くも知恵が回る彼であるが、夢野がよく引きずる日常の些細なことにはやや反応が鈍い。今回もどちらかといえば日常の些細なことに分類される話である。
     あとはそう、呼吸するかのように繰り出していた他愛ない嘘を逐一覚えているかといえば、きっとそうでもないだろう。現に王馬はキョトンとしたあと、少しだけ考える素振りを見せて、端正な顔立ちをこれでもかと崩していた。
    「はぁ〜〜〜〜?なに、え?そんなことまだ覚えてたの?っていうかあんなの嘘だって散々言ったじゃん!!」
    「ああも何度も同じことを言われれば、そうかと思っても仕方ないじゃろ。それにウチだってそうだと気付いたのはついさっきなんじゃぞ!」
     王馬が珍しくも声を張り上げてくるものだから、夢野も負けじと声を張り上げていた。互いにこれでもかと顔をしかめながらだんまりを決めたまま睨み合う。
     ふと、学生のときはよくこうやって顔を突き合わせて喧嘩じみたことをしていたなと思い出した。どうして今のタイミングだったのかと思わなくもないが、懐かしいさについつい笑みが漏れそうになる。慌てて口角が緩まないように力を込める。
    「はー……。オレ、秘密子ちゃんのことまだよくわかってなかったみたい。想像してた以上にキミは鈍いし鈍感だし鈍くさかったんだね……」
    「んあ〜〜〜!言い方を変えておるだけで全部同じ悪口ではないかっ!」
     いつもはやたらと回りくどいくせに、こういうときだけハッキリと物を言うのだから堪らない。話を盛ってきているとわかっていても傷付くときはちょっぴり傷付くのだ。
     盛大な溜め息もそこそこに、両手で顔を覆っていた王馬は指の隙間から夢野の方へ目を向ける。手の甲が邪魔をして表情が全く読めないが、何となく探られているような気がしてならない。
    「なっ、なんじゃっ?」
     今度は何を言われるのか。体の位置はそのままに、心は距離を置こうと身構える。すると王馬は顔を覆っていた両手を下ろし、今度こそ真正面から夢野を見た。
    「……もう一回確認するけど。別に結婚式が面倒臭いからしたくないってわけじゃないんだよね?」
    「う、うむ。流石にそこまで枯れておらんぞ……?」
    「そう。……ならいいや」
     一体何に納得したのか。答えがわからないまま会話が終了してしまい、夢野は困惑の眼差しを王馬へ向ける。けれども首を傾げるばかりで求めていたものが帰ってくる様子はない。
     いつもなら気付いてほしくないことまで察するというのに、どうして今は知らないフリをするだろう。注意深く観察するように探ってみるものの、感情を汲み取るには難しすぎる相手だ。
     結果はお察しの通りである。
    「ああ、そうだ。こんな時間だし早くお風呂入っておいでよ。お腹空いてるなら軽いもの作っとくけど?」
     ちらりと移動した視線の先を辿れば、半刻もすれば日付が変わりそうな時計があった。もうそんな時間なのか、なんてぎょっとすると同時に腹の虫が控えめに鳴る。
     まだ納得できないところもあった。けれども王馬の様子から間違いなく明かしてくれる気もないのだろう。だったら無駄な抵抗をしないで素直に従ったほうが得策だ。
    「じゃあ、風呂に入ってくるぞ。あと作ってくれるなら本当に軽いものを頼むぞ?この前みたいな具沢山ラーメンは勘弁じゃ」
    「わかってるって。……背中流してあげようか?」
    「…………余計な世話じゃっ」
     にやにやと笑いだした彼に背を向け、まだふらつく足取りで浴室へと向かう。仕事で疲れていた上に、今のやり取りで余計に疲れが溜まってしまった。このままのんびりしていては本当に寝落ちてしまうかもしれない。
    「いかんいかん。風呂で寝るなんていかんぞ、秘密子!」
     重くなるまぶたを無理やり押し上げながら、力の入らない指先で扉を開けた。滑り込んですぐ一気に服を脱ぎ捨てた夢野は浴室へと飛び込んだ。




     ところで。
     リビングに一人残された王馬はといえば、浴室の扉が閉まると同時に笑顔を引っ込めた。す、とローテーブルへ叩きつけられたままの雑誌へ目を向け、ゆっくりと頭を抱える。
    「っぶねぇーー…………」
     肺の底から吐き出した溜め息が途切れると同時に襲ってくるのは安堵感だ。脳裏をよぎっていく、秘密裏に進めていたあれやこれやは、どうやら無駄にならずに済んだようである。
     それにしてもまさか夢野が学生の頃の話を引っ張ってくるとは思ってもいなかった。いつも思いもよらないところから足元を掬われているが、今回のそれはあまりにも予想外だったのである。
    (まぁ、あの頃はこんなになるなんて思ってもなかったしなぁ……)
     告白どころか片思いにすら気付いていない若かったあの頃の自分。将来のことなど知りもしなかったのだから当時の自分を責めることなどできやしない。
     とはいえ一発ぐらいは殴っときたいな、なんて出来もしないことを考えながら、王馬は軽くなった体でキッチンへと向かう。腹を空かせて出てくるだろう夢野の為、腕によりをかけて軽食を作らなければならないのだから。
     空を覆い尽くしていた見るからに重そうな雲は見る影もない。季節は梅雨。本格的な夏がやってくる前に必ず訪れる憂鬱な季節の合間、湿気との戦いの日々は昨日より一時休戦となっていた。
     部屋の隅から隅までを探し回ってかき集めた服やらタオルを洗濯機に突っ込むこと三回。たった二人しかいないはずなのに随分と溜め込んだものである。
     せっかくの休みだというのに余計な体力を使わされる羽目になるとは。溜め息もそこそこに、三回目のアラーム音が鳴り終わるのを二人並んでぼんやりと待つ。
    「は〜、こんなつまんねー休みになるなんて思わなかったな〜」
     シャツをハンガーにかけながらぼやく王馬は、ひどく面倒臭そうな態度を隠さずに溜め息を吐く。どうやら連日の雨で相当な鬱憤が溜まっているらしい。
     しかし不機嫌そうな様子の割には手際は早かった。さっさと終わらせたいからか、単純に手際がいいだけなのか。ややもたついている自分の手元を見ながら夢野は少しだけ悔しさに襲われる。
    「ねー、これ終わったら何する?」
    「んあー……、そうじゃのう……」
     買い物は昨日、大量買いをしたので暫くは行かなくてもいいだろう。では遊びに行くか、といっても昼近くから出掛けるのでは行動範囲が限られてしまう。
     久々の晴れ間だからとは思うものの、特にこれといってやりたいことも行きたいところもなかった。
    「……たまにはのんびりでもするか」
    「え〜〜?こんなに晴れてるのに?」
    「とか言いながらお主、DVDやらゲームやらを買い込んでおったではないか。この長雨を潰すために用意したんじゃろ?」
    「……にしし、バレてたか〜」
     洗濯かごを抱えてベランダから去っていく王馬。最後のタオルを手にしていた夢野は、慌ててそれを干し終えるとサンダルを脱ぎ捨てて部屋へと戻る。
     ローテーブルへ並んだいくつものプラスチックケース。あまりその方面に詳しくはない夢野であったが、王馬と過ごす時間が長くなるに連れ、ケースの大きさだけでどれがどのゲーム機のソフトなのかわかるようになっていた。
    「夢野ちゃんはどーする?何か見たいものはある?」
    「んあー、王馬の好きなものでよいぞ」
     冷蔵庫からジュースを、食器棚からグラスを取り出してソファに戻る。いつの間にか持ってきていたらしいポテトチップスの袋が開かれ、香ばしい匂いが辺りに漂っていた。
     さてどうしようか、なんて適当なプラスチックケースを手に取る王馬。そんな彼の手元を覗き込みながら一緒に悩んでいた夢野、であったがふと影が差したような気がして顔を上げた。同じように違和感を抱いたのだろう。プラスチックケースから目を外している隣の彼も、怪訝な顔でカーテンの向こうを見つめていた。
    「……ねぇ、なんか天気悪くない?」
    「天気予報では晴れと言っておったが……」
     嫌な予感が走る、よりも先にバケツをひっくり返したような雨が降り出す。いわゆるゲリラ豪雨というやつだ。
     ドタバタと窓へ駆け寄ってベランダに飛び出せば、滝に打たれているかのような雨粒に襲われる。一瞬で濡れ鼠になってしまい、今すぐに部屋へ戻りたくてたまらなくなった。けれどもようやく洗えた服やタオルがずぶ濡れになるのを見過ごす訳にはいかない。
    「も〜〜〜〜!何だよ‼降らないって言ってたんじゃないの⁉」
    「ウチのせいではなかろう!文句なら天気予報士か空に言わんか‼」
     ぎゃあぎゃあと騒ぎ立てながら洗濯物へ手を伸ばすが雨で滑ってしまい思ったよりも進まない。苛立ちが募るものの、ここで文句を言っても雨が止むわけもないのだ。
     両手に洗濯物を抱えて飛び込んだリビング。ぼたぼたと水滴が落ちていく様を呆然と見下ろし、どちらともなくお互いの顔を見つめる。べったりと張り付いた髪、疲れ切った顔。先程まであった笑顔などありはしなかった。
    「ふ、くく、あはは!何その顔ブッサイク〜!」
    「王馬こそ何じゃその顔は!ウチを笑い死にさせるつもりか!」
     けれども、だからこそ笑えてしまう。濡れた洗濯物もそのままに腹を抱えながら大声で笑った。幸いにも外はひどい豪雨なので、恥も外聞もなく笑い転げても迷惑にはならないだろう。
     背中をガラス戸に預けて、ずるずると二人その場に座り込む。濡れてしまった洗濯物の洗い直しと部屋の掃除、そしてずぶ濡れの自分たち。さてどれから手を付けようか。悲惨な室内を見回し、やがて行き着いた先にあるお互いの顔を見て、また笑った。
     相談したいことがある、と唐突に呼び出されたのは夢野の家。何かあったのだろうかと不安半分、原因が王馬にあるのならばシメてやろうという意気込み半分でやってきた春川は、玄関先で赤松とばったり出会った。聞けば彼女も夢野から呼び出された一人なのだという。
     インターホンのベルを押して十数秒後、開かれた扉の向こうから出てきたのは東条だった。二人の顔を見るなりにこりと微笑む姿に驚き固まっていると、どうぞと家に入ることを促される。
     我に返ってばたばたと靴を脱いだ赤松と春川は、そういえばと東条の方を振り返った。ここは夢野と、彼女の恋人である王馬が暮らす家である。どうして東条がここにいるのだろうか。まさか雇われているのか、なんて訝しげな視線に晒された彼女は、先程と変わらない穏やかな微笑みを浮かべながら、行けばわかるわと答えたのである。
    「んあ、赤松と春川も来てくれたのか。助かるぞ!」
    「げっ。赤松ちゃんはともかく、春川ちゃんまで呼んだの? そんなことしたらオレの意見なんて通らなくなるじゃん!」
    「人生の中でも二度とないイベント事じゃぞ? いろんな意見を聞きたいからのう」
     予定が合えば転子やアンジーにも来てほしかった、とぼやく夢野の手元には散らばる紙の群れ。真っ白であったり何かを書き込んであったりするそれらは、遠目で見ても企画書なのだと知れた。
    「えぇーっと、これは?」
    「赤松さん、春川さん。こっちが空いてるんでどうぞ座ってくださいっす」
     苦笑いを浮かべている天海に促されるまま腰を下ろせば、すっと目の前に企画書らしき紙を差し出す。
     かつてのクラスメイトたちを集めて王馬と夢野がやろうとしているのは、結婚式の企画についての相談会であった。できれば三年間青春を共にしたみんなに出席してほしい、ということでまずは日取りを決めようという話になったらしい。他にも式場だとか来賓についてなどなど、最初に相談を寄せられた東条や天海、最原のアドバイスによって準備は着々と進んでいたのだが。
    「だぁ〜からぁ〜、それじゃあ秘密子ちゃんが一人で駆け回る羽目になるでしょ? ただでさえ鈍臭くて上がり症のキミが、慣れないドレスとヒールでそんなことできると思ってんの?」
    「じゃからそこを東条にサポートしてもらおうと言っておるのではないか。お主も話がわからんやつじゃのう」
     この揉めようである。およそ自分たちの式について話し合っているとは思えない。
    「あのさ、そもそもの話なんだけど夢野さんは何をする予定なの?」
    「ちょっと最原ちゃん、秘密子ちゃんはもう夢野じゃないよ! そこ大事なんだから間違えないでよね!」
    「ご、ごめん……。いや、何で君が話を逸らしてるのさ」
     どうやら先に来ていた最原も、今揉めている案件に関して詳しい事情までは知らないようだ。解決させたい割りには横槍を入れてくる王馬に呆れながらも、頑なに何かを譲ろうとしない夢野へ声を掛ける。
     すると彼女は、よくぞ聞いてくれたと目で語りながら一枚の紙を差し出した。書き込まれた式の進行表。その中でとある一箇所を指さして、声高らかに事の真相が語られる。
    「みんな忙しい中、予定を合わせて来てくれるじゃろう? そこでウチからのお礼として、マジカルショーを行う予定なのじゃ!」
    「へぇ〜、そうなんだ! ……え?主役なのに?」
     一度は笑顔を見せた赤松だったが、すぐに驚いた様子で心の声を漏らす。
     花嫁といえば結婚式の文字通り花形であり、祝われる立場の人間である。一般的にこういったショーなどは友人等が新郎新婦を祝うために行うもので、主役が自らステージに立つという話はあまり聞かない。
     とはいえ夢野秘密子という女性がどういう人物か知る者であれば、そんな結論に至ったのも当然かと思わなくもないが。
    「ほら、赤松ちゃんだっておかしいって言ってるじゃん。キミは花嫁なんだから大人しく座ってなよ!」
    「ちょ、ちょっと! 私は別におかしいとは言ってないよ!?」
     王馬の責めるような言い方にまた驚いた赤松は、慌てて彼の言葉を否定する。しかしその言葉にフォローの効果はなく、先程まで胸を張っていた夢野はがっくりと肩を落としていた。
    「……やはりウチは間違っておるのじゃろうか? みんな否定するばかりで一人も賛成してくれん」
    「ゆ、夢野さん……」
     沈んだ声で呟く姿に、彼女を取り巻いている全員がどう声をかけたものかと口ごもる。また流石に空気を読んだのか、夢野のことを名字で呼んだというのに王馬からの横槍が飛んでくることはなかった。
     いやそもそもの話、彼がもう少しやんわりと言えばよかったのである。あんなにも責めるように畳み掛ければこうなることは予想できたはずだ。自然と非難の視線が王馬へと集中する。
    「……はぁ、アンタも大概頑固だよね」
     やがて沈黙を破ったのは、意外にも春川だった。呆れたように溜め息を吐いた彼女は、夢野が手にしていた企画書を取り上げる。隅から隅まで目を通した、かと思えばやはり溜め息を一つ吐いて。
    「マジカルショー、やればいいんじゃないの? 何言われたってやめる気はないんでしょ」
    「は、春川……!」
    「……ちょっと春川ちゃん、それ本気で言ってんの?」
     目を輝かせる夢野とは対象的にすこぶる不機嫌になる王馬。そんな相反する態度を向けられる春川だったが、全く動じることなどない。
    「は、春川さん……! 言いたいことはわかるけど、やっぱり結婚式でのマジカルショーはちょっと、」
    「別に式でやれなんて言ってないけど」
     場の空気を変えようと春川へ声をかける最原だったが、全てを言い終わる前に遮られてしまう。
    「……ん? どういうこと?」
     続けられた言葉に首を傾げたのは、隣に座っていた赤松だけではない。瞳をきらめかせていた夢野も、ジト目だった王馬も、静観していた天海や東条。そして言葉を遮られて固まっていた最原も怪訝な顔で春川を凝視する。
    「二次会、するんでしょ。やりたいならそっちでやればいいんじゃないの」
    「あっ、そうか!二次会は結婚式よりも自由がきくもんね!」
     言われて初めて気付いたのだろう。ぱっと顔を明るくした赤松は、名案だよねと瞳で語りながら夢野の姿を捉えた。
    「ねぇ、王馬くん。二次会だったらマジカルショーをしてもいいよね!」
     息つく間もなく、瞳を輝かせたままの赤松は次いで王馬の方へと目を向ける。いいよね、駄目かな、と繰り返す彼女からは有無を言わせないような圧を感じてならない。
     本人にその自覚がないので少々厄介なのだが、今の状況を打破するにはその強引さがちょうどよかった。ぐ、と眉間に皺を寄せながらも、王馬は降参と言わんばかりに両手を上げる。
    「わかった、わかったよ。二次会でならショーをやるのに反対はしない」
    「ほ、本当か? その言葉に嘘はないな?」
    「うん。約束するよ」
     恐る恐る聞いてくる夢野に、困ったように笑いながら王馬が答える。するとしょげきっていた彼女の顔に笑顔が舞い戻ってきた。すぐさまきっかけを与えてくれた春川と赤松の方へ向き直り、二人の手を取る。
     何とか話がまとまってよかった。ほ、と胸を撫で下ろす最原はふと、にこにこと夢野のことを眺めている王馬へ目を向ける。
     あんなにもショーをさせたくないと頑なだった割りに、あっさりと了承したことに引っかかりを覚えないこともない。しかしずっと行き詰まっていた問題が解決したのだ。とりあえずは喜ぶべきか、と疑いの心は横に置いておくことにする。
    「……あれ? 王馬君、この進行表って……、えっ」
     さあ片付けようと机の書類を纏め始めた王馬の手からするりと落ちてきた紙。彼を手伝おうとしていた最原は親切心でそれを拾い上げ、綴られていた言葉の羅列へ目を落とす。
     置いてきたはずの疑いが速攻で確信に変わる。さっと顔色を変えて王馬を見れば、にやりと笑った彼は最原の手から紙をひったくった。
    「やだね〜、これだから空気の読めない探偵は」
    「勝手に見たことは謝るよっ。でもこれ、黙ってたら確実に怒られるやつじゃないか……!」
     喜び合う女子たちに気付かれないよう、小声で責めるもののどこ吹く風で。楽しそうに笑う王馬はさっさと紙を纏めてしまう。
     止める間もなくしまい込まれてしまった紙の束。その中に入っている『秘密結社DICEによる特別演目』の参加メンバーに、リーダーである王馬が含まれていませんようにと最原は願わずにいられなかった。
     ふ、と意識が浮上した。まどろみに片足を突っ込んだまま、普段より何杯も遅い速度で瞬きを繰り返す。天井でぼんやりと灯るオレンジ色。真っ暗闇では眠れないと駄々をこねてから、毎晩点けっぱなしにされている常夜灯のものだ。
     半開きの瞼をゆっくり下ろす。そのまま頭を空っぽにして深呼吸を繰り返せば、後は意識を手放すだけだった、のだが。
    「……んぁ、ぅ」
     穏やかになるはずの寝顔がくしゃりと歪む。薄く開かれた唇から漏れるのは、健やかな寝息ではなく呻き声だった。
     間もなくして、閉じたばかりの瞼が開かれる。先程よりも早い速度で瞬きを繰り返せば、ぼやけていた世界がはっきりと輪郭を取り戻していった。
    (……目が冴えてしまったのう)
     元より寝付きが浅かったのかもしれない。こんなことなら寝酒でも煽ればよかったか、なんて考えも過ったが、今からでは流石に遅いだろう。
     さて、どうしたものか。横を向いたままの体を動かすことも億劫で、固まったまましばらく過ごす。
    「……ん、」
     すぐ背後でこぼれた低く掠れた声。布が擦れる音、背中から伝わる熱、脇腹のあたりにある軽いような重いような何か。不思議に思ってゆっくりと視線を下へ向ければ、自分のものより一回り以上太い腕が脇腹の上に横たわっていた。
     のそのそと体を反転させる。眠るときは背を向けていたはずの恋人が、いつの間にかこちらを向いていたらしい。想像していたよりも近い二人の距離。それでも閉じ込めるように抱き締めてこないところがらしいといえばらしくて、ふと笑みが漏れる。
    (変なところで遠慮するところは、昔と変わらんのう……)
     珍しく熟睡しているのか、顔にかかる前髪を払い除けても瞼はぴくりとも動かない。余程疲れているのだろう。すっかり暗闇に慣れてしまった目は、穏やかな寝息を立てている恋人を鮮明に映した。
     学生の頃に比べれば顔つきも幾分と大人びている。けれども寝顔というものはどんな人間でも幼く見せてしまうのだ。今目の前にある恋人もその例に漏れることはない。
    (可愛い、なんて言ったらお主はへそを曲げるんじゃろうなぁ……)
     ふふ、と笑いながら頭を撫でてやる。するとこれまで頑なだった瞼がぴくりと跳ねた、けれども。表情が歪んだのはほんの一瞬で、すぐに穏やかな寝息が耳を打った。
     少しだけ、起きてくれないことに不満を覚える。とはいえ疲れ切っている恋人を無理に起こす気はないので、そっと頭を撫でていた手を引っ込めた。
    「……、んぁ」
     起こさないように寝返りを打とうとした矢先のことだった。力のほとんど入っていない、脇腹の上で眠っていた腕がびくりと動いたのである。突然のことに驚いていれば、背に添えられた手のひらへ力がこもって。
     気付けばすっぽりと抱きすくめられる形に収まっていた。
    (……んぁ、ますます眠れんではないか)
     とくとくと伝わってくる規則的なリズム。ほとんど隙間なく密着した肌から移る熱は、決して高くはないはずだ。それなのに顔が火照ってしまうのは、無意識の甘えに照れるからに他ならない。
     はぁ、と吐き出した溜め息。まだまだ明ける気配のない夜の長さを憂いつつ、すっかり頼もしくなってしまった胸板に額を擦り付けた。


    *****


     寝付きがいいか悪いかでいえば、悪いほうなのだろう。ベッドに潜り込んでから完全に意識を手放すまでの時間は決して短くない。また眠りに落ちることができたとしても、数時間で目を覚ましてしまうのだから困りものだ。
     そういうわけで意識を取り戻してしまった深夜二時。天井で淡く灯っている常夜灯を見つめながら深呼吸を繰り返していたものの、眠気は一向にやってくる気配すらない。
    (参ったな〜。明日もそこそこ早いんだけど)
     寝不足で頭が回りませんでした、なんてダサい言い訳をしたくはなかった。とっとと意識を手放してしまいたいというのに、そう考えれば考えるほど目は冴えていくのだから困ったものである。
     何度目かわからない溜め息を吐いて、顔だけを横に向けた。視界に飛び込んでくるのは健やかな寝息を立てている恋人の寝顔。ゆるく開いた唇からは、言葉にならない何かがふにゃふにゃと漏れている。
    (……幸せそーな顔しちゃって)
     何かいい夢でも見ているのだろう。薄っすらと笑みを浮かべながら尚もふにゃふにゃと呟く姿に、こちはも自然と笑みがこぼれた。
     一体どんな夢を見ているのだろう。好きな食べ物に囲まれているのか、友人たちと遊び倒しているのか、それとも。なんて気にはなるのだが、他人の夢を覗き見られるわけもないので真相は闇の中である。
    「んぁ……、おー……まぁ……」
     ぼう、と何も考えずにしばらく寝顔を見ていると、ふいに恋人が名前を呼んできた。咄嗟にどうしたの、などと返事をしてしまったが、返ってきたのはむにゃむにゃと言葉にならない寝言だけ。少しだけ身じろぎした彼女は間もなくして穏やかな寝息を立て始める。
     どうやら言葉を交わしていたのは、夢の中にいる自分だったようだ。
    「……勘違いさせないでよね」
    「んあっ」
     少し考えればわかることすら気付けなかった自分に羞恥心が募る。腹いせに鼻を軽くつまんでやれば、幸せそうだった表情があからさまに曇った。
     少し可哀想だと思わなくもない。けれども目の前にいる恋人ではなく、夢の中にいる恋人にうつつを抜かしている彼女が少しだけ許せなかったのだ。
     なんて独りよがりで身勝手な理由だろう。自分で自分にやや引きながらも止められない感情は、全て愛らしい顔を歪めている恋人が与えてきたものなのだから仕方ない。きちんと受け取ってもらわないと困る。
    「ぅ……、やめ……か、おぉま……」
    「……ふふ、どんな夢見てんの」
     夢から覚める気配のない恋人は難しい顔のまま名前を呼んできた。違和感に襲われる鼻を解放するためか、投げ出されていた指先が緩やかに伸びてくる。
     つまんでいた指を離して、近付いてくる一回り小さな手のひらを捕まえた。そのまま指を絡ませてしまえばぴくりと細い指先が震え、やがてきゅうと握り返してくる。
    (……やわらけー)
     指先から手のひらから伝わってくる熱と柔らかさ。その心地よさかはか、軽かったはずの瞼が重みを増してくる。
     繋いだ手の甲に唇を落としても反応はない。いつの間にやら幸せな夢に戻っていった恋人の寝顔は、昨日見たそれよりも可愛らしくて、愛しさが胸に押し寄せる。
     なんてことない、今この瞬間。こうして並んで眠るだけで幸せだ、なんて思う日が来ようとは、数年前の自分は知る由もないだろう。
    『ひみこさんって今日、お家にいらっしゃいます?』
     撮り溜めていたドラマを消化しているときのことである。恋人の番号から掛かってきた電話の向こうから、柔らかい女性の声でそんな問いかけが飛んできたのだ。
     修羅場、などではない。電話の向こうにいるのは――本名こそ知らないが――王馬の部下で、何度か面識がある女性だろう。連絡先を交換しているのになあ、と不思議には思ったが、何の意味もなく彼の携帯を使うわけがないだろう、多分、恐らくは。
     そんな電話があって約一時間弱。室内に鳴り響いたインターホンに応じて玄関の扉を開けば、アフロヘアの長身の男性が立っていた。
    「すいませんねぇ〜。あっちで面倒見ようかともおもったんですけど」
     ちらり、と彼は自らの背後を見る。そこにはいつも鬱陶しいぐらいお喋りな口を閉じ、ぐったりとした様子で背負われている王馬がいた。
    「頭でも打ったのか……?」
    「ただの体調不良ですよ〜。熱が下がんなくって」
     ひょこ、と男性の後ろから顔を出したのは、いつもツインテールを揺らしている女性だ。今日は下ろされた長い髪を首元で一つに纏めており、大人しい印象を受ける。
    「一応、スポーツドリンクとか諸々買ってきたんで。使ってください」
    「んあー、ありがとう。……寝室はこっちじゃ」
    「はーい。お邪魔しま〜す」
     重たいコンビニの袋を受け取った夢野は、元気な二人と死んでいる一人を寝室へと案内する。そうして部屋には入らず踵を返し、キッチンへと向かった。
     ビニール袋の中にはスポーツドリンク、ヨーグルト、栄養剤と風邪を引いたとき買いに走る、一般的な商品が入っていた。あんなにもど派手なことをして回る集団だが、一般常識はあるんだなと変なところで感心した。
    「ひーみこちゃん」
    「んあ?」
     ひょこ、と今度はキッチンの壁から女性が顔を出す。冷蔵庫へ買ってきてもらったものを入れていた夢野は、一度手を止めて扉を閉めた。
    「あのね、総統のことなんだけど……。えっと、今日一日は一緒にいてあげてね?」
    「……? 言われずとも、看病しなければならんから一緒におるつもりじゃが?」
    「うーんと、そういう感じじゃなくって……、なんて言ったらいいのかな?」
     伝えたいことがあるようだが、ふわふわとした説明のせいで上手く伝わらない。二人して首を傾げながら突っ立ったまましばらくいると、不意に寝室の方から物音がした。キッチンと寝室はそう離れているわけではない。けれども扉を閉めた状態で物音が聞こえる、ということはそこそこの大きな音なのだろう。
     顔を見合わせ、足早に向かうのはもちろん寝室。急いでドアを開けた先では、先程まで王馬を背負っていた部下の彼が、掛け布団越しにその王馬を押さえつけていた。
    「だぁ〜から、これ以上は無理ですって! いくら総統からの命令でも聞きませんからね!?」
    「何でだよ! あとちょっとだったろ!?」
     どたばたじたばた。およそ病人とは思えない暴れっぷりに呆然としていた夢野に、呆れた溜め息を吐きながら部下の彼女が耳打ちする。
    「最近、ちょ〜ハードだったんですよ。それで総統も結構無理してたみたいで」
    「そう、みたいじゃな。家にもしばらく帰れんと言っていたし」
    「あ、やっぱり帰ってなかったんだ。も〜〜、総統!ちゃんと帰らなきゃダメって言ったじゃないですかぁ!」
     夢野の返答を聞くなり、彼女は眉を吊り上げて暴れる二人組に近寄る。危ないのではないかとは思ったものの、彼女もまたあの組織に身を置く者だ。四苦八苦する男性に加勢し、抜け出そうとするボスを押さえつける。
     王馬の体力が尽きるのは早かった。ぐう、と恨みがましいうめき声を上げたかと思えば、あれほど振り回していた手足を下げる。
    「はぁ、ほんっとこういうとこ強情なんだから……」
    「ちゃ〜んと治してから来てくださいよね? それじゃあひみこちゃん、あたしたち帰るね〜」
    「うむ、気を付けてな。あと、ありがとう」
     やや疲れた様子の二人を玄関先で見送り、閉じられたドアに鍵をかける。さてまずは熱冷ましだな、とリビングに置いている薬箱から熱冷まし用のシートを取り出した。次いでにキッチンへ寄り、スポーツドリンクの入ったペットボトルとグラスも手にする。
     半開きにしたままのドアを、行儀が悪いが足で開き、するりと滑り込む。ベッドサイドに近寄ればううだのああだの苦しそうなうめき声が聞こえてきた。
    「ほら、熱冷ましのシートを貼るぞ。こっちを向かんか」
     丸まるように横になっているため、今のままではシートを額に貼ることができない。半ば強引に肩を手前に引いてやれば、ごろりと熱に浮かされる身体は仰向けになった。
    「全く、部下に迷惑をかけてはボス失格ではないか。それに、あまり無理をしてはならんと言っておったじゃろう?」
    「…………、ぅ」
     いつもなら夢野が小言をこぼすたびに要らぬほど回る口。それが今ではうめき声しか落とさないのだから、相当に無理をしていたのだろう。自分の体調は二の次な男ではあるが、ここまで悪化したのを見たのは初めてかもしれない。
    「ほら、飲み物もあるぞ。飲めるか?」
    「…………めの、ちゃん?」
    「……うむ、そうじゃぞ。どうした、王馬」
     ぼんやりとした目が夢野の方を向いた。間もなくして呼ばれた名前は、ここのところ彼の口から久しく聞いていなかった自分の名前で。
     驚きながらも、彼に倣って久しく呼んでいない名字を口にしたのは、わざわざ訂正するのも気恥ずかしいと思ったからだ。
    「……なんでここにいんの」
    「な、何で……? え、ええっと、それはじゃな……」
     熱にうなされ過ぎて夢でも見ているのだろうか。共に暮らすようになって二年も経っている。王馬が今更そんなことを聞いてくるはずもない。ということは、記憶が混濁しているのだろうか。
     想像している以上に症状は重いのかもしれない。慌てて解熱剤を取りに行こうと立ち上がった夢野は、どうしてか前ではなく後ろへ倒れる。踏み出そうとした足は地面へ着くことなく、宙に浮いた。
    「な、何をするんじゃ……!」
     そのままベッドへ倒れ込んでしまった夢野は、素っ頓狂な声を上げながら立ち上がろうとする。しかしあと一歩のところで、手首を掴んでいた手が二の腕へと移動してしまった。嫌でも王馬との距離が近くなる。
    「どこいくの」
    「どこってそんなの、解熱剤を取りに行くんじゃ」
    「なんで」
    「……お主が熱を出しておるからじゃろうが」
    「ねつなんてない」
    「…………」
    「ない。ないったら、ないんだってば。うそじゃない。ほんとだよ」
     据わりきった目は夢野を捉えているようで、そうでもない。ぎゅうぎゅうと締め付けてくる指先は強まったり弱まったりを繰り返している。
    「……いかないでよ、ゆめのちゃん、ここにいて、ねぇ、」
    「ウチはここにおるぞ。じゃから、そんな顔をするでない」
     ベットに投げ出されたままの手を握ってやれば、ぴくりと僅かに震えた。のろのろと夢野の方へ向けられた瞳はやはり据わっていたが、先程よりかは柔らかな色を宿している。
     やがて弱々しく握り返される手。緩慢な瞬きを数度繰り返した彼は、掠れた声で問いかけてきた。
    「オレ、人のウソきらいだけど」
    「うむ、知っておる。ちゃんと側にいてやるぞ。約束する」
     ただトイレは行かせてくれと続ければ、王馬は据わっていた目を丸くする。しばらく何を言われたのか理解できなかったようだが、徐々に表情を和らげたかと思えば小さく笑った。
     そっと頭を撫でてやれば、汗でしっとりとした髪が指先に絡む。整えてやるように梳いていると、もっと撫でろと言わんばかりに擦り寄ってきた。
    「ゆめのちゃ〜ん……」
    「はぁ〜い。ちゃんとおるぞ〜」
     暴れまわったことで体力を使い切っていたこと、また心身共に落ち着いたこともあってか、王馬の声には覇気がなくなっていく。握られていた手の力も抜けていき、くったりとしたままベッドへ全てを預けていって。
    「……はぁ、仕方のない奴じゃのう」
     すうすうと寝息を立てている王馬。そっと握られていた手を離せば、抵抗することもなく自由になった。起こさないようにそっと立ち上がり、寝室を後にする。
     ぱたん、と閉めた扉。そこに寄りかかりながら夢野は握られていた手を見下ろす。いつも以上に熱っぽくて縋るような指先を体験したのは初めてだった。
    「……んあー」
     恋人が病で臥せっているというのに不謹慎ではあるが、どきりとした。滅多に見せることもない弱っている姿。頼られていると実感してつい胸を踊らせてしまう。
    「いやいや、こんなことをしておる場合ではないぞ」
     今は寝落ちている恋人。彼が次に目を冷ましたときにあのわがままな状態のままであったなら、その場にいないと面倒なことになるだろう。
     ぱたぱたと軽い足音を立てて向かうのはリビング。次いで足を向けるのはキッチンだ。目的は薬箱の解熱剤と、それを飲むためのミネラルウォーター。あとは王馬の隣で暇を潰せるよう、読みかけの雑誌も持っていこう。
     だって、まだまだ夜は長いのだから。
     シーツの下から出した足をパタパタと動かす。うつ伏せの姿勢のまま行うのは、昨晩のうちに届いていたメッセージへの返信だ。仕事のものから友人のものまで、様々なメッセージを返し終えたところで携帯電話を傍らに置く。
     じい、と真横にある寝顔を眺めた。目の下に薄っすらと隈を作っている恋人は、珍しくぐっすりと眠り込んでいるらしい。いたずらに鼻をつまんでみても、少し身じろぎをした程度で、すぐに穏やかな寝息を立て始める。
    (……また無茶をしおって)
     ここ一ヶ月、まともに顔を合わせることができなかった。立て込んでいる仕事、たまに帰ってきたかと思えばすぐに出掛け、会話をするのは専らメッセージアプリ。電話はお互いにタイミングが合わないからと控えていたからだ。
     恋人になってそこそこ経つ。共に暮らし始めてからも長くなりつつある中で、こうも離れ離れで生活していたのは初めてかもしれない。こうも声が聞きたいだとか触れたいだとか、とにかく会いたいと焦がれたのも初めてだろう。付き合う前は半年敢えなくても仕方ないと思えていたのに。
    「……ふふ、かぁ〜わいい〜」
     ぐしゃぐしゃに乱れている黒髪。カーテンから透けてやってくる太陽の光に晒され、艶めくそれは紫色にも見える。柔らかい毛先を撫でながらこぼす呟き。普段なら口にしようとすら思わない言葉を漏らしたのは、相手が嘘でも何でもなく爆睡していることがわかっているからだ。
     帰るのはもう少し先になるかも。そんなメッセージを読んで心が浮かぶわけなどない。少しだけ落ち込んで、それでも返事を返さなければと悩みに悩んで送ったメッセージ。すぐに既読が付いて、それに関する返信はなかった。
     忙しい片手間に送ってくれたのだろう。そう自分に言い聞かせて、無理矢理に気持ちを持ち上げようとしたその日の夜。疲れ切った顔で家に転がり込んできた恋人は、こちらの顔を見るなり力いっぱい抱き締めてきて、それで。
    「んあー……、ふふ……」
     今更そういった行為を恥ずかしがるような年でもなければ、初々しい関係ではない。しかしああも求められれば照れてしまうし、同時に嬉しさで心が躍ってしまう。
     眠りに落ちたことで熱はある程度引きはした。けれども囁かれる声を、触れられる手を、求めてくる体を思い出せば体温はじんわりと上がっていく。
    「…………、……」
     胸に絶えず湧き上がる愛しさを抑えきれず、頬に瞼に鼻先に口づけを落とす。流石にそこまでしてしまえば、彼も眠りから覚めるというものだ。小さな吐息を漏らしながら、緩慢にまぶたを押し上げる。
     とろりとした紫色の瞳はゆらゆらと揺れていた。今の状況をわかっていないのか、怪訝そうな視線があちこちを彷徨う。
    「おはよう。気分はどうじゃ?」
     ベッドへ頬杖をつきながら、乱れている黒い前髪を弄ぶ。摘んで、撫でて、他の髪に撫で付けて。好き勝手に遊んでいれば、放り出されていた手が伸びてきた。
    「……くすぐったい」
    「ふふ。それはすまんかったのう」
     鬱陶しそうな顔をしてはいるが、手を払いのける力は弱々しい。再びシーツに落ちそうな骨ばった手を取り口付けると、ぴくりと指先が跳ねた。
    「……どーしたの、珍しいじゃん」
    「んあー? ……たまにはいいじゃろ、こんなのも」
     へにゃ、と笑いながら彼が言う。それに応えるように先程したものと同じように、軽いキスを寝ぼけた顔に落としていく。
     抵抗はされなかった。むしろもっとしろ、と言わんばかりに繋いだままの手に絡む指が深くなる。やがてたどり着いた先、唇に軽く触れてから、徐々に角度を深くさせて。
    「ん……、ふ……」
    「ん、っ……、ん……」
     のろのろと絡ませる舌。昨晩のような激しさはないが、それでも互いの気持ちを合わせるには十分だ。静まり返った室内に響く、微かな水の音とシーツの擦れる音。何も纏っていない素肌を交わして熱を上げていけば、指先の絡んでいない方の手が背に添えられる。
    「……はぁ、んっ……、んぁ」
    「……オレ寝起きなんだけど?」
    「ん、その割には、乗り気ではないか……、ぁっ」
     スルスルと背骨に沿って下りてきた指が、晒されたままの尻を超えていく。先程の回想で高ぶった気持ちのせいか、数時間前に蕩けさせられたそこは既に熱を持っていた。
     ぎし、とベッドが軋む。転がされ、仰向けにされたと同時に覆い被ってくる影。間もなくして奪われた唇はさっさと明け渡して、握り込まれた指先に爪を立てる。
    「オレ、今日はのんびり過ごしたかったのになぁ〜……」
    「……なら止めるか?」
     面倒臭そうに呟かれた言葉。そんな気などないくせに、とは思いながらも答えてやれば、すぐさま熱を孕んだ瞳に射抜かれる。
    「……うそ、やめない」
    「ふふ、知っとる、んんっ、……ふ、ん……」
     言い終わる前に言葉を奪われた。肌の上を滑っていく手のひらは熱く、じとりと汗を滲ませている。
     触れ合う肌から絡んでいく互いの熱と汗。間もなくして薄い唇は、呼吸に喘いでいる唇から首筋に下りてきた。勢いよく吸われれば、嫌でもそこは赤く鬱血するだろう。軽いリップ音を立てながら、あちらもこちらも触れられて、心も体も昂ぶっていくばかりだ。
     まだ日は昇り始めて間もない。けれどもそんなことは二人にとってどうでもよかった。これまで離れていた時間を埋めるように触れ合い、求めあい、確かめ合うにはまだまだあらゆるものが足りないのだから。
    「エプロンなんて着けてる暇があったら、さっさと作り終わらせたほうがいいじゃろ」
     花柄の可愛らしい布をぞんざいに扱いながら、夢野は何を馬鹿なことを言っているのかと目で語る。母親から贈られたのだと言っていたエプロン。だったらもう少し扱い方を考えろ、とも思わなくもなかったが、それよりも今は聞き捨てならない返しの方が問題である。
    「いやいや、秘密子ちゃん鈍臭いんだからさぁ。それ着けてなきゃ服汚すじゃん」
    「汚れたら洗えばいいじゃろ」
    「……え、それこそ手間じゃん」
     ど正論をぶつけてやれば、夢野の眉根に少しだけ皺が寄る。けれどもすぐ何かを思い出したのか、ふんと鼻を鳴らしながら胸を張ってきた。
    「風呂が終わったら洗濯するじゃろ。そのときに合わせて洗濯機にぶち込めばいい」
    「干す手間が増えるじゃん」
    「……流石に一枚増えたところでは面倒臭がらん」
     それでも噛み付いてやれば、夢野は面倒臭そうにそう返してきた。ちらりと手元のエプロンへ目を向け、やはり面倒臭そうに眺める。
     間もなくしてぽいとソファに放られてしまった花柄。赤やピンクを基調とした可愛らしいそれを纏った姿は、まだ一度しか見ていない。
    「ね〜〜〜、いいじゃん! 減るもんじゃないんだしさぁ〜〜〜!」
    「んあー! しつこい! 時間が減るじゃろ!」
     どちらも引かぬまま時間だけが過ぎていく。それこそ手間を増やして時間を無駄にするだけなのだが、わかっていてもお互いに譲る気はなかった。
    「そんなに着けたいならお主がつければいいじゃろ!」
    「はあ? 何が楽しくて女物のエプロンなんて着けなきゃいけないのさ!ほら、 一回しか着てないなんて勿体無いじゃん!」
    「着けすぎてすぐ駄目にするよりマシじゃ! とにかくウチは! エプロンなぞ着けん!」
     言うやいなや夢野は足早にキッチンへと向かう。まだ支度をするには早い時間であったが、早くこの不毛な会話を終わらせたかったのだ。
     最初はただ、照れていただけだったと思う。けれどもお互いに頑固で意固地で屁理屈屋。ああ言えばこう言うし、こう言えばああ言ってしまう。
    「……似合ってたのに」
    「…………おだてても無駄じゃぞ」
     ぶつぶつと文句を連ねながら付いてくる王馬。その手には今しがた放ったばかりのエプロンが握られていた。
    「どーしてもだめ? ちょっとでもだめ?」
     冷蔵庫を開こうとするものの、すぐ後ろにぴったりとつかれていてはどうしようもない。珍しく甘えたような声で強請ってくるが、やはり嫌なものは嫌なのだし、張った意地をそう簡単に覆すわけにはいかないのだ。
    「……ケチ」
     唇を尖らせながら拗ねる王馬。やがてソファにどかりと腰掛けた背中は、怒っているようなしょげているような、何とも言えない空気を醸し出していた。
     もしかすると演技かもしれない。そんな疑念ももちろんあったのだが、ああも臍を曲げられると夢野も段々と小さな罪悪感に駆られる。
     たかだかエプロンを着けるだけの話だ。それがこんな冷え切った空気になるまで拗らせるとは、つくづく自分たちは不器用なのだと思い知らされる。
    「……ち、ちょっとだけなら、よいぞ」
     沈黙に耐えきれず最後に折れるのはいつも夢野だ。我ながら甘いなと思いはするものの、惚れた相手が自分のせいで期限を損ねるのは、どうにも居心地が悪い。
    「……ちょっとってどれぐらい?」
    「ど、どれぐらいって……、まぁ、今日の夕飯作るぐらいは……」
    「じゃあ、次は?」
    「……気が向いたら、着けんでも、ない」
     歯切れも悪く答えてやれば、再び文句が飛んでくる。しかし口汚い言葉を飛ばすにしては随分と笑みが深かった。
     わかりやすくなったなあ、なんて感慨深さはこの先何があっても言うつもりはない。
    「はい、どーぞ」
    「……んあ、めんどい」
    「ちょっと。自分の発言にはちゃんと責任持ってよ」
     花柄の可愛らしいエプロン。それを身に纏うことの面倒臭さにため息を吐けば、王馬は呆れながらも笑い声を漏らした。
    「いや、かき氷と言ったらやはりイチゴじゃ」
     ガラス製の器に盛られた真っ白な山。ひんやりと心地よい冷たさを運ぶそれに、あとはシロップをかけるだけといったところで、夢野は眉間に皺を寄せる。テーブルの上に並べられた色とりどりの容器。その中で彼女が選んだのは赤いシロップだった。
    「え〜、ありきたり過ぎでしょ。面白みもクソもないじゃん」
    「だからといって全部かけるのはナシじゃろ。見た目がまずダメじゃな」
     赤、青、緑、黄色、紫。あらゆる色が混ざった氷の山はお世辞にもきれいとは言えない。むしろ食欲がなくなりそうだと夢野は顔をしかめる。
    「わかってないな〜、夢野ちゃんは。ていうかシロップなんてみんな同じ味なんだし、何かけたって変わんないよ」
     言いながら王馬は、未だ真っ白なままの山へブルーハワイ味をかける。じわじわと真っ青に染まり、溶けていく氷。手にしていた赤い容器を握りしめ、夢野は大声を上げる。
    「んあ〜〜〜! ウチのイチゴ!!」
    「にしし……、ほ〜ら次はメロンだよ〜!」
    「やめっ、止めんか! こらぁ!」
     慌てて器を取り上げれば、王馬はにやにやと笑いながら追い掛けてくる。尚も別の味をかけてこようとするその手から逃れつつ、夢野は青と緑に染まった雪山へスプーンを突き立てた。
     わざわざこの為に買ってきた練乳を、今日中にイチゴ味のシロップへかけることはできるのだろうか。机に置かれたままのチューブの隣で、シロップ戦争は未だ終わる気配はない。
     ぼう、と撮り溜めていたドラマを消化していると、机に放り投げていたままの携帯電話が震えた。どうせ仕事の連絡だろう。そう思って放っておいたのだが、どうもバイブレーションが長い。怪訝な顔で手に取れば、光る液晶画面は着信があることを教えてくれた。
     表示されている名前と写真は見たことも聞いたこともない女性のもの。しかし番号までは変えることは流石にできなかったらしい。
    「……お主、またウチの携帯電話を勝手に弄りおったな?」
    『にしし……、今頃気付いたの?』
     相変わらず鈍いなあ、なんて呟いた後に電話の向こうから飛んでくる軽めの笑い声。どうやら相当な上機嫌らしい。
    「今日は帰ってくるのか?」
    『ん〜、それはまだわかんないかな? それよりさぁ、外見てよ、外』
    「んあ? 外?」
     言われて反射的に窓へ目を向けるものの、そこは分厚いカーテンに覆われている。
    「何じゃ、外に何があると言うんじゃ?」
    『いいから! 早く早く!』
     外見るぐらい簡単でしょ、と小馬鹿にするような言葉で急かしてくる。電話口なのだし無視してもよかったのだが、もしも後でバレてしまえば面倒になることは目に見えていた。
     流しっぱなしにしていたドラマもそのままに、夢野はのろのろとカーテンを開く。すると暗がりの中に浮かぶシルエットが、一つ。
    「……、……っ!」
     どうしてこんな高層階のベランダに、と悲鳴を上げかけたが、見覚えのある背中にすぐ窓を開いた。思っていたよりもけたたましい音を立てるそれに目もくれず、裸足のまま飛び出せばゆっくりと彼は振り返る。
    「『月が綺麗だからさ、見てよ』」
     似たような声が重なり、夢野の耳を揺らす。驚きに目を見開く彼女の顔を見つめていた彼は、間もなくしていつものように、にししと笑った。
     都会のネオンで明るめの夜空に浮かんでいるのは、カスタード色の丸い月。それを背景に佇む青年を前に、彼女は柔らかな笑みを浮かべてみせた。
     温泉に行きたい。
     テレビを見ていたときだったか、雑誌を見ていたときだったか。どんなシチュエーションでその話題が出たのかは覚えていないが、あれよあれよと予定を取り決めて飛び乗った急行列車。
     窓の外を流れていく緑あふれる景色を眺める、ことも飽きてトランプゲームに盛り上がること三時間。都会の喧騒から離れたはずなのに、騒がしさは変わらない観光地に降り立った王馬と夢野は、とりあえず街をぶらつくことにした。
    「んあ、王馬! ソフトクリームじゃぞ!」
    「え〜? わざわざ観光地に来てんのにどこにでも売ってるソフトクリームなんて食べてどうすんの? お金も時間も勿体なくない?」
    「ウチはバニラ&ストロベリーがいい」
    「聞いちゃいねぇ」
     引きずられるようにして立ち寄ったのは土産屋に併設された軽食店。わくわくと、見た目相応のはしゃぎっぷりを見せながら夢野は念願のソフトクリームを受け取る。
     後ろのお兄ちゃんは、と確実に兄妹扱いされていることに何も思わないこともない。けれども使えるものは最大限に使うものだと、王馬は見た目相応の子どものように目を輝かせながらとある看板を指さした。
    「お待たせ〜。夢野ちゃん、一口ちょうだい」
    「いくらなんでもせがむのが早すぎじゃろ」
     言いながらも夢野は苺とミルクが混ざりあったそれを差し出す。大きく一口食べてやれば、憤りと悲しさが混ざった嘆きが上がった。
    「ほら、オレのもあげるからさ。元気だしなよ」
    「んあ……、待て王馬。それは何味じゃ?」
    「え? 何って見ればわかるじゃん! 味噌味だよ!」
     ぐいぐいと食べるように口元へと近付ける。馴染みなどない味に顔をしかめていた夢野は、しかし食べられた分を取り返そうと意を決して食らいつく。
     数秒の間。じっとオレンジにしては黒く、チョコレートにしては黄色いソフトクリームを眺めていた彼女は、ふふと小さく笑った。
    「んあ〜、うまい!」
    「えっ」
     嫌がるだろうと思って買ってきたそれを、夢野は美味しいと褒める。にこにこと笑顔を浮かべ、やがて自分のソフトクリームを食べ始める彼女はとにかく上機嫌だった。
     やや溶けかけた、ほんのりと味噌の香りがする冷たいおやつ。恐る恐る口にしてみれば鼻から抜けていく独特の風味とミルクの濃さが相まって、中々に中々な味を舌先に広げた。
    「…………引くわー」
    「んあ? 何がじゃ」
     不味くはない、があれほど賞賛するほどのものでもない。新たに発見してしまった、夢野のずれた味覚感覚に戸惑いながら、王馬は口直しにとバニラ&ストロベリーを一口奪った。
    「あのさぁ〜〜〜。前から言ってるけど、オレの服勝手に着るのやめてくれない?」
     ソファに体育座りをしている夢野が着ているのは、つい先日洗濯したばかりの王馬のTシャツだった。特に気に入っているわけでも、明日着ていく予定もない。しかしこう何度も勝手に着られては、黙っているわけにはいかない。
    「いいじゃろ。減るものでもないし」
    「減るよ。めっちゃ減ってるんだって」
     クローゼットの手前、手に取りやすい位置に置かれているものを適当に夢野は着る。洗濯が終わり、件のクローゼットに放り込まれ、またすぐ引っ張り出されて。
     何度も繰り返し着ていれば、洗濯のし過ぎで服が伸びてしまう。痛む速度も圧倒的に早くなるのだ。
    「んあー、細かいのう。新しいものを買ってやるから我慢せい」
    「いやだからね、オレが言ってるのはそういうことじゃなくて」
     最初こそ、一回り以上の差がついてしまった体格差から、余裕があり過ぎる服に身を包む姿を可愛いと思った。少し大人びたとはいえ、未だ残る幼さが誇張される様は控えめに言っても悪くはない。
     しかし時間が経つにつれ、少し伸びてしまった襟元から肌が覗くようになった。また広がった裾は短いハーフパンツをそっと隠してしまう。
     そのTシャツはあれほど幼く可愛いと感じていた恋人を、やたらと色気のある姿に変えてしまうのだ。それが自分のものだということも含めて、胸にこないわけがない。
    「オレはさぁ、秘密子ちゃんのことを思って言ってるんだよなぁ〜〜。わかってほしいんだけどなぁ〜〜」
    「何じゃその言い方は……。どうせまたくだらないことでも企んでおるんじゃろ」
    「……まぁ、くだらないといえばそうなんだけどぉ」
     押し問答の間も変わらず、ソファに体育座りのままで動かない夢野。よれたTシャツの襟ぐりから見えそうで見えない肌が、伸びた裾からすらりと伸びている足が、甘く誘っているようにしか見えない。
    「面倒臭がりなのも大概にしてよ、ほんと……」
     無防備すぎる恋人は今日も無意識に王馬を誘う。それに抗うことがどれだけ大変なのか。開き直り、いっそ思い知らせてやれと腕を伸ばして。目を丸くする夢野へと荒々しく口付けた。
    smy1824 Link Message Mute
    2018/11/10 16:24:56

    同棲パロディログ 01

    人気作品アーカイブ入り (2018/12/03)

    育成計画時空列で卒業後、同棲している王夢の話です
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    • ネバーランドの果て仄かな恋と愛、そして幽かな呪いの話、前編。


      王馬と夢野が付き合うまでの話。転生ネタですのでご注意ください。
      育成計画の世界観をベースにしておりますが、一部異なる点があります。
      #王夢
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    • 特殊パロディログ 01本編及び紅鮭団他とは異なる特殊設定の王夢パロディログです
      世界観が異なる、またキャラクターの位置づけに異なる部分があります
      smy1824
    • 紅鮭団&育成計画ログ 02紅鮭団&育成計画時空列の王夢ログです
      卒業後等、年齢操作パロディを含みます
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    • 紅鮭団&育成計画ログ 01紅鮭団&育成計画時空列の王夢ログです。
      卒業後等、年齢操作パロディを含みます。
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    • 深夜の60分一本勝負 012018年2月〜10月までのワンドロのログです。
      #王夢
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    • さよなら、ウェンディ仄かな恋と愛、そして幽かな呪いの話、後編。


      王馬と夢野が付き合うまでの話。転生ネタですのでご注意ください。
      育成計画の世界観をベースにしておりますが、一部異なる点があります。
      #王夢
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