注文の多い下士官「湯治に行きませんか。」
旅の誘いにしては随分と沈んだ目をして月島軍曹はそう言った。
鯉登少尉は執務室の椅子に腰掛けたまま少し呆気にとられ男の顔を見上げた後「いいぞ。」と端的に承諾の意を示した。
汽車での戦闘の後、海に沈んだ先頭車両での目撃情報を最後に鶴見中尉は忽然と姿を消した。負った傷が存外深かったこと、その後の諸々の処理が苛烈の極みだったことも相まって、元々そこまでにこやかな方ではなかった月島軍曹はあれ以来すっかり笑わなくなった。鯉登はあの鶴見中尉が命を落としたとはどうしても思えず、行方不明ということはご遺体が見つかっていない、つまりどこかにいらっしゃるという証ではないかと考えていたが、如何せん確たる証拠もないこと、気落ちする部下達に持論を展開する気にはとてもなれなかった。
これまで中尉と追っていた金塊の夢も潰え、中尉が軍資金の為密かに展開していた阿片のルートは中央に押さえられ、すっかり小隊ごと上に目をつけられている懸念はあるが火急迫った国家転覆の危機もなく、少尉の手元に届く文はインカラマッから届く谷垣達の娘がすくすく育っている旨の葉書一枚のみである。
間違ったことをしたとは微塵も思ってはいないし後悔もないが、中尉に付いていくのだと言った月島に縋って引き止めたのだ、あれ以来そのことについて言及されたことはなかったが、内心ぶつけたい恨み節のひとつやふたつあるのかもしれない。
そう考えた鯉登少尉はお互いの怪我も癒えたある日、月島軍曹にこう提案した。
「私に言いたいことや私としたいことはあるか。何でも受けてやる。」
月島は手元の書類に目を通すため伏せていた目を訝しげに上げた。
「また唐突ですね。」
「今は暇だからな。今後もしかすると部隊の再編で私も月島と引き剥がされるかもしれんし、いずれ違う戦場に投入される可能性もある。」
言いたいことがあるなら今のうちだぞ、という思いを込めて鯉登が月島を見つめると、月島は一言「戦場。」と口にした。
そして冒頭の一言である。
鯉登は拍子抜けした。ここは二人しかいない執務室、あの時言えなかった憤りを胸倉を掴まれて捲し立てられるかもとも思ったしそれこそ樺太での在りし日の杉元のようにやるせない思いの丈を拳と共にぶつけてくるかとも思っていた。そこで、湯治。
「月島は本当に風呂が好きだな」
ぽつりと呟くと、月島は「…ええ。」と答えて軍帽を目深に被った。
「だが湯治、よいな! 傷の多さは月島と比較にもならないが私でも時折刀傷がじくりと痛む。兄が健在だった子供の頃に一度行ったっきりだが薩摩のとても良い湯を知っている。月島も気にいると思うが。場所は」
「いいえ。」
月島軍曹は弾んだ様子で馴染みの温泉宿を口にしようとする少尉の言葉を遮った。
「道内がいいです。秘境の、ほとんど客がいないような湯治場がいいですね。少なくとも一週間は滞在したい。」
「…賑やかな場所でもいいのではないか?」
鯉登が首を傾げると月島は生気のない目で首を横に振った。
「他の客に真新しい身体の傷の所以など聞かれても面倒です。」
「ああ…」
少尉は吐息混じりの声を零した。
確かに「先の戦争で負った傷か」などと喜々として尋ねられても返答に困る。
そうして二人は、人気のない山奥の湯治場に向かった。途中まで中央の誰かが尾行してくる気配を感じていたが、途中に立ち寄った宿場町の土産物屋でこれが買いたい、これから山奥に行くのに荷物を増やしてどうするのです、とやり取りしている二人を見ていて拍子抜けしたのかもしれない、湯治場へと続く山道を歩くうちにすっかり気配は消え失せていた。
まだ明るいうちに到着した宿はしんと静まり返り、本当に客は鯉登と月島の二人しかいなかった。
複数ある部屋のうち突き当たりの一番奥に通されながら、「こんなに客はいないものなのか」と鯉登は呟いた。
「秘境中の秘境ですからね。」
月島は呟くと、部屋の隅に荷物を置き手早く旅装を解いた。
「行きますよ。」
「おお、早速入るのか?」
「いいえ、腹ごしらえです。」
宿と隣接した木立の中にある想定よりも随分と熱い湯に浸かりながら、すっかり膨れた腹とここにたどり着くまでに数多の山を超えてきた疲労が相まって、鯉登は今にも閉じそうになる瞼を抑えるべく湯ですっかり熱くなった両手を外気で冷えた顔に当てた。最初はこんな灼熱の湯に入れる者などいるものかと息巻いてしまったが、慣れてしまえば塞がった傷口をじりじりと灼くようなこの熱さが心地良く思えてくるから不思議だった。
それにしても旅の疲れで箸の進みが鈍かった鯉登に月島が言った「今のうちに精を付けておいた方がいいです」とは何だろう。任務もなければ他に娯楽もなく、あとは数日湯に浸かっては寝るばかりの予定なのに。
「つきしま、わたしはそろそろ出るぞ。少し早いがもう休ませてもらう。明日もまた朝から入るのだろう?」
「出るんですか?」
最初鯉登が恐る恐る差し込んだ手を慌てて引き抜いた程度には熱い湯に、呻くでもなく火傷してしまうのではとも口にせず、青年の隣で静かに湯に浸かっていた月島はその時初めて声を上げた。
「待ってください。一人にする気ですか? もう少し一緒に入りましょう。」
「一人って貴様はいつも長風呂だから大方最後は一人だろうが。」
眉を顰める鯉登の火照った頬に月島は自身の手のひらを当てる。
「もう少しだけ。」
鯉登は目を瞬かせた。月島に宥められることはそれこそ数え切れないほどあったが、こうして純粋な我を通してきたことはこれまでなかったように思えた。自身の手と変わらぬ熱さに鯉登は目を瞑ったまま無意識に頬を押し付けて眉を寄せたまま「少しだけだぞ。」と口にする。
従来であればそのように気安く触れてくる部下でなかったことは頭から抜け落ちていた。
自分たちの部屋に戻りふたつ並んだ布団を目にした時、鯉登は純粋に嬉しかった。秘境の宿なのだ、煎餅布団だって構いはしない。あとはゆっくり身体を休め惰眠を貪るばかりだ。残りの数日間、やるべきことなど何もないのだから。
自身に一番近かった布団に勢いをつけて背中から飛び込んだ鯉登は、それを何も言わず見つめていた月島がその足元に膝をつきゆっくりと自身の上に乗り上げて来る間、湯にあたってぼんやりとした目で黙って月島の顔を見上げるばかりだった。勝手に場所を決めてしまったが、月島もこちら側がよかったのだろうか。
「最初に『私に言いたいことや私としたいことはあるか。』と仰いましたね?」
「ああ。」
何を今更、と目を瞬かせて鯉登が首肯すると月島はその時初めて微笑んで鯉登の柔らかな唇に親指を当てた。
「では最後に。『抱かせてください』。」
目を見開いた鯉登の浴衣の合わせに手をすべらせながら月島は口角を上げたまま低い声で囁く。
「今後旗手などになってわたしの手の届かないところに駆けて行かれないように。」
鯉登は思い返していた。
艦砲射撃が止んだ後、倒れ伏した自分の前を通り過ぎていった月島の後ろ姿。いつも後ろから引き止められる側だったから、初めて見る小さくなっていく月島の背中に感じたことのない焦燥を感じていた。
死地へと駆けていく背中を見送るのがあんなに恐ろしいものだとはこれまで知らなかった。口にすることは叶わない願いだが、可能であればもうあんな思いを味わいたくはない。
お前もそうだったんだな、月島。私が気付くずっと前から。
目を瞬かせるばかりで是とも否とも口にしない鯉登の眼前に顔を近づけたまま月島は動きを止めた。薄暗い部屋の中で以前と変わらず言葉少なな同胞の目に宿った迸る激情を覗き込んで、鯉登はふと瞼を下ろし薄く唇を開いた。
侵入されたって構わない。
退路はとうに絶たれている。