舟守満月が煌々と照る夜、監獄へ渡ることができる唯一の舟の船着場でひとりの囚人を待っていたのは若い看守だった。このあたりの人間ではないのだろう、弱々しい日差ししか地表に届かないこの地でたっぷりと日に焼かれたような肌を純白の看守服に包み、外套を羽織っている。囚人はその姿を目に捉えた瞬間剣呑な光をその目に宿したが、顔を衆人に晒されないようにとの配慮で被らされている首まで隠れる網み笠のせいで看守はその視線に気づかなかった。看守の青年は冷淡な目でその男を見下ろした。
「ここからは私が移送を引き継ぐ。」
「珍しいですね、監獄に着く迄は警察の仕事だと聞いたことがありましたが」
凶悪犯ばかりが入獄すると言われるこの監獄に今から入る者とは思えない丁寧な口調で囚人が静かにそう訊ねると、そこまで囚人を移送してきた警察から男を繋いだ腰縄を引き継ぎつつ、看守はいとわしげに目を眇めた。
「そうもいかなくなってきたのだ。同船している者の目を盗んで川に落ちる囚人が最近多発してな。奴らに任せてなどおけん。」
ここまで囚人を連れてきた警察はそれを聞き不服そうに鼻を鳴らして立ち去っていった。
「どうせ川に落ちたってこの気温では脱走などできないのでは?」
「ああ。落ちた奴らはすぐに引き上げた者も含めて皆凍えて死んだ。」
感情の乗らない声で淡々と答えながら、看守は囚人が逃げ出さないよう男の腰に巻かれた腰縄の端を自身の腰へと巻きつける。縄が緩んで逃げられることを懸念しているのか、強く締め付けられた縄がぎちりと音を立てて青年の腰に食い込んだ。
「それでは困るのだ。此方としては重要な労働者だからな。収監前に死んでしまうなど」
「此方・・・」
囚人はぽつりと繰り返したが、強い風が吹き看守の耳には届かなかった。
看守は軽やかな足取りで先に小さな小舟の上へと降り立ち、腰縄を片手で引っ張り後ろ手に囚人の前進を促しながら、櫂を手に取った。囚人は自身の両手首を拘束する手錠に一瞬視線を落とした後、舟へと飛び乗った。
「小舟を操れるんですね」
「仕事で使うからな。覚えた。」
看守は振り向かないまま、淡々と舟の上に立ち小舟を目的地へと進める。囚人はその背中をほの暗い瞳でじっと見つめていた。
古ぼけた橋の袂に来た際に看守はようやく振り返った。
「今生の別れになるかもしれんが、誰か親族などこの橋で見送りに来る予定の者はいるか? 何かの加減で到着が遅れているようなら多少は待ってやれるが。」
「誰もいませんよ。私の罪は唯一の肉親だった父親殺しですから。島で唯一味方になってくれた私の恋人の自死を誘発した。」
「尊属殺人か。」
看守はぽつりと呟いて、改めて前に向き直ると手に持った櫂に力を込めた。
アーチ状の橋の下をくぐりながら舟は進む。
「となると死刑は免れて無期懲役、か。」
「ええ。そうなりますかね。」
「長い付き合いになりそうだな。」
「・・・そうですね。」
囚人は淡々とした声で告げた。
「私の名前は、×××と言うのです。」
「×××?」
看守は訝しげに振り返る。
「事前に聞いていた名前と違うな。もしや貴様、偽名を使ったか? それとも××の方が偽名・・・」
思案した後、ふと興味を失ったように青年は前に向き直った。
「どちらでも構わないか。私は囚人番号でしか貴様を呼ばないだろう。」
それを聞いた囚人は瞳に落胆の色を浮かべた。
「ところで、あとどれくらいで監獄に着きますか?」
「そうだな。ちょうど今半分くらいだ。ほら、どちらの川岸からも同じくらい遠いだろう?」
看守はそう言いながらふと川面に視線を落とし、月明かりで水面に写った囚人の影に違和感を覚え後ろを振り返った。
小舟の後ろに座らせていた囚人は、いつの間にか立ち上がっていた。手錠で拘束されていたはずの両手がいつの間にか自由になっている。
「では急がねばなりませんね。」
編み笠を後ろ手に川面に放り投げながら囚人はそう呟くと、素早く前へと踏み込み手刀で看守の手から櫂を叩き落とした。粗末な小舟を損傷させそうな勢いで櫂は船べりに当たり鈍い音を立て、その拍子で船体がひどく揺れた。若い看守がよろめいて尻餅を着いたのを囚人は顔を歪めて見下ろした後、こちらもいつの間にか解いていた自身の腰縄を投擲して看守の首に巻きつけ、そのまま看守に覆いかぶさると青年が舟べりに頭をぶつけないようにと後頭部をぶ厚い手のひらで支えながら器用に縄の端を船首へと絡め引いた。
「う」
気道を緩く締め付けられて青年は呻きながら両手で首にまとわりついた縄を掴む。その両手首にかしゃりと間髪入れずさっきまで男がしていた手錠をかけられて、看守は呆然とした面持ちで激しく揺れる舟の上で片膝を着き正面から青年を見つめている坊主頭の囚人を見つめ返した。
「手馴れているな」
「ええ。昔から小舟の扱いには慣れているので。」
「・・・逃げる気か?」
舟べりに後頭部を預け、悔しげに囚人を睨みつけながら問いかける看守に淡々と囚人は答える。
「そうですよ、流石にこのまま私まで監獄入りしてしまったら、あの方も大勢の部下を連れて監獄を襲撃するしかなくなってしまう。状況が状況だけに貴方の父上も動いてくださるでしょうが、大事にならないならそれに越したことはない。・・・できればまだ目立ちたくはない時期ですし、使える武器の数も限られています。」
「私の父? あの方? さっきから貴様は何を言っているのだ。」
眉を寄せてそう問いかけるまっさらな瞳に囚人は重くため息を吐いた。そのままおもむろに看守の襟元に手をかけ左右に力を込める。ボタンが飛び月明かりにぼんやりと光る白い上衣の生地が裂け、看守は呆然と囚人を見つめる。
「すみません。先刻会った時からずっとこうしたかった。我慢ならなかったのです。何ですか、ずっと前からこの制服を着ていたような顔をして。」
苛立ちの乗った声音に反して柔らかな手つきで顎を持ち上げられ看守は怯んだ。
「だからさっきから何を。・・・何をする気だ?」
「確かめさせてください、最後に肌を合わせた時から何か変わった点はないか」
そう言いながら滑らかな腹筋に指を這わされて看守の足先が跳ねる。
「ッ、人違いだろう、私は貴様など」
囚人は冷ややかな目をして捕らえた看守を見つめる。
「そんなわけないじゃないですか。こんな場所でと貴方は嫌がるでしょうが、恨み言なら後で幾らでも聞いて差し上げますから。」
先程からどこか会話が噛み合わない囚人に看守の瞳が揺れる。
「なぁ、こんな所でぼやぼやしていていいのか? いつまで経っても私が帰ってこないのでは訝しがった誰かが探しに来るぞ。」
どこに忍ばせていたのか取り出した小刀で袖を切り裂かれ、現れたまっさらな右腕を肌に残った針跡のひとつも逃すまいとばかりに両手で包まれてなぞられ看守は息を詰める。
「こんな真っ暗な中ですか? 明るくなってからでしょう。あと数時間はあります。それまでは誰もここには来ませんよ。」
そう囁くと男は懺悔するように声を落とした。
「私がいけなかったのです。早く中尉のお役に立ちたいから宇佐美の代わりに監獄に潜入したいなどという貴方の言葉を、まだ経験も浅く危険だからともっと真摯に止めねばならなかった。」
月明かりに緑色がかった目が輝いた。
「薬ですか。洗脳ですか。意識はしっかりされているようで少しは安心致しましたが。・・・一体何をされたらあれほど敬愛されていた鶴見中尉殿から託された任務のことも、あんなに呼んでくださっていた補佐役の私の名前も・・・あれほど酷かった船酔いがなくなっている所をみると大好きだったお兄様のことすら・・・何もかも忘れて一向に監獄から戻ってこないようなことになるのです。」
呆然と見開かれた瞳に囚人服に身を包んだ男は祈るように囁いた。
「鯉登少尉殿。」