第一話一節『契約』「──燦花?」
名前を呼ばれて、燦花ははっと顔をあげた。目の前にはいぶかるような表情を浮かべた瑞希の顔がある。瑞希は頬杖をついて口を開く。
「どうしたの、ぼうっとしちゃって」
「あ、えっと」
あわあわと燦花は視線を彷徨かせた。
脳裏にひらめく光景がある。見知らぬ服を纏い、見慣れない道具を手に持った、瑞希によく似た少女。彼女は本当に瑞希だったのではないだろうか。それとも、暮れかけた日が見せた幻だったのか。
直接、瑞希本人に聞いてみたいと思いながら、けれど、訊ねることがどうにも恐ろしかった。
聞いてしまえば、何もかもが変わってしまうような気がしていた。
うぅ、とちいさく唸って再びうつ向いてしまった燦花のセミロングの髪を、瑞希が梳くように撫でていく。
「言えないことなら、無理に聞かないけど。何かあったら教えてね。わたし、燦花を守るから。絶対、守るから」
「瑞希……」
幼馴染みの真摯な声に、燦花は言葉を失った。そんな燦花を尻目に、さて、と瑞希は鞄を担ぎ上げた。
「そろそろ、燦花は部活でしょう? わたしは帰るから。帰り、遅くなるなら気を付けてね」
「う、うん!」
それじゃあ、と手を振りあって、燦花も鞄を持つ。廊下で待ってくれていたらしい同じ家庭科部のメンバーと合流して、家庭科室へと向かった。
今日はカップケーキを作るらしい。
黙々とメレンゲを立てながら、燦花は瑞希の言葉を何度も脳裏に反響させていた。
カップケーキは良い出来だったが、いかんせん生地を作りすぎた。手を変え品を変え焼いていくうちに、辺りはすっかり暗くなり、家庭科部のメンバーは手早く片付けを済ませると蜘蛛の子を散らすように帰っていった。
家庭科室の鍵を職員室に返しに行った燦花はそれよりさらに遅くなってしまい、頼りない街灯の光になんとなく泣きたくなってしまった。
(こんな日に鍵当番だなんて、ついてないなあ……)
はぁ、と肩を落としながら自転車に乗る。校門前の長い坂を勢いに任せて下っていた、その時。
風が、吹いた。
思わず息を飲む。力一杯ブレーキをかけて、自転車を止め、そっとサドルから腰を下ろして、風が吹いてきた方へと足を向ける。興味と恐怖が拮抗していたが、わずかに興味が恐怖を上回ったのだ。
そろり、そろりと足を進める。風が吹いてきた辻の曲がり角から、そっと顔を覗かせる。
そうして、目が合った、気がした。
白い、粉末の集合体のような、ソレと。
見てはいけないと、逃げろと、本能が警鐘を鳴らす。けれど、強張った身体はちっとも言うことを聞いてはくれない。
「な、なに……なにあれ……」
蚊の鳴くような声が喉を震わせた。ガチガチと奥歯が鳴る。足に力が入らなくなってその場にへたりこんだ燦花の手に、ふわり、とやわらかなものが触れた。
「え……?」
今度はなんだと視線を下げれば、そこには灰白色の猫とも何とも言えないような生き物がいた。その生き物は、銀灰色の目で燦花を見上げ、にっこりと笑った。
そう、笑ったのだ。
「キミ、アレが見えてるね? ついでに僕の声も聞こえてるでしょう?」
理解が追い付かないままに燦花は首を縦に振る。灰白色の生き物はさらに笑みを深め、続けた。
「怖いよね? たぶんアレ、放っといたらキミを殺しちゃうから。怖いでしょ? だから、さ。どうせだったら、ちょっと僕に付き合ってよ」
そう言って、その生き物はすいと手を出してきた。燦花はおずおずとその手をとる。
「僕の名前はプル。キミの名前は?」
「え、あ……。やつしろ……八代、燦花」
「サンカか。へぇ、いい名前だね。じゃあサンカ。ちょっと目を閉じて」
「う、うん」
目を閉じた燦花の額に、プルの手が置かれる。プルの子供のような高い声が、ひっそりと夜を揺らした。
「『サンカ。ヒトならざるを見、聞き、触れる力ありて、其を祓う力を求むモノ。旧き契約に則り、我、この者に力を与えんとす。故に、選べ。ここで散るか、旧き契約に従うか』」
カタカタと大気が揺れる。白い粉末の集合体めいた怪物が近付いてくるのがわかる。燦花に選択肢など、なかった。燦花はかっと目を見開いて、震える声を押し出す。
「契約する! するからプル、わたしを助けて!」
「わかったよぉ」
間延びした、可愛らしいプルの声のあとに、ごうっと風が燦花とプルを包んだ。
「でもね、手助けはするけど……戦うのはキミだ。サンカ」
プルの声が遠い。わんわんと何もかもが反響して捻れていくような奇妙な感覚。そのなかで、ふっと、何かに捕らえられたような、そんな気がした。
「ああ、選ばれたね」
プルの声がいっそう笑みを含む。選ばれたとはなんだと問いただしたくても声が出ない。どうしてしまったのだろうと思ううちに、ひときわ大きく唸りをあげて風が去っていった。
「魔法少女オキシの完成、ってところかな」
「へ……?」
プルの声に、燦花は我が身を見下ろす。
フリルとリボン、レースがふんだんにあしらわれた可愛らしいピンクの衣装。いつの間にか手に持っていた杖。
どこからどう見ても、マンガやアニメでよく見る『魔法少女』の姿だった。
「えっえっ、待って、ちょっと、プル、これどういう……!」
「細かいことはあとでね、サンカ。まずはあの白っぽいのどうにかしよ?」
「えっわっきゃあああああ来ないでえええええ!」
ぶんぶんと杖を振り回すが、何も起こらない。燦花が涙目でプルを睨むと、プルは呆れたように声をあげた。
「それじゃあだめだよ、サンカ。落ち着いて、杖を構えて。『オキシジェニ』って唱えるんだ」
「それ先に言ってよお!」
もはや半泣きの燦花は、それでも杖をしっかりと正面に構え、声を張り上げた。
「お……『オキシジェニ』!」
瞬間、杖の先端から気体が一気に噴き出した。その気体が触れたところから、白い化け物はボロボロと崩れ去っていく。最後のひとかけらが崩れ去り、その場に平穏が戻ったところで、今度こそ本当に燦花はへたりこんだ。
「ほんとうに、ほんとうに、なんなの、これぇ!」
いまにも泣き出しそうな燦花を横目に、プルはひっそりと満足そうに笑っていた。
to be continue