ほしのサーカス(鶴さに♂) よくそんなものに乗れるな、と多くの人は言う。高さは十数メートル。命綱はない。梁から垂れ下がった心もとないブランコの上で、俺はゆらゆらと揺れている。
ここから落ちたら死んでしまうのよとヒステリックに母は叫んだ。俺は、ああそうだぜ、と答えた。滑り止めを叩いた白い掌。腕。筋肉。他人事みたいに言わないで頂戴と母は泣いたが、他人事のつもりなんて毛頭なかった。落ちれば死ぬ。当然、死にたくなんかない。だから俺は俺を、俺の命を預けるにたるまで鍛えているのだ。
逆に問うてやりたかった。地上十数メートル。ゆらゆらと不安定なブランコの上にいる俺を、赤ん坊のような目で見つめる大人たちに。
よくそんなところに座っていられるな。俺だったら退屈で、退屈で──
生きていることすら忘れちまうだろう。
悪趣味な芸だな、と顰蹙を買うのは、もはや日常茶飯事だった。いつ溺れ死ぬともしれない水中脱出。いつ食い殺されるともしれない猛獣芸。いつ焼け死ぬともしれない火の輪潜り。いつ墜落するともしれない空中ブランコ。人の生き死にを見世物にするなんて。まして、それで金をとるなんて。
支配人たる彼はその言葉をじっと聞きながらも、それを肯定することも、まして否定することもなかった。ひとつの嵐が過ぎ去って、ふう、とため息をつく彼に、頭上から拍手が降り注ぐ。
「いや、ご苦労さんだったな、主殿」
「別に、たいしたことじゃない。それよりも、そんな逆さ吊りで頭に血は上りやしないのかい」
「まだ大丈夫。だが、確かにちょいとまずくなってきたかな」
そう言うと、このサーカスの花形は腹筋だけを使って器用に細いバーの上に起き上がる。高低差にして十メートルほどの距離はあったが、がらんとしたテントに声はよく響いた。
「降りてくる気はなさそうだな」
「きみも、昇ってくる気はなさそうだ」
「俺の体力のなさは知ってるだろう」
「そうだな。昨夜も三度でへばった」
「……はあ」
そのあけすけな物言いは如何なものか、と思いつつも、彼は客席のベンチに腰を下ろす。ブランコ乗りの白い爪先が退屈そうにふらふらと揺れた。
「それにしてもクソ真面目な客だったな。きっと地球の裏側で死んだ見ず知らずの子供を思って泣けるタイプだ」
「人情味のある方なんだろう」
「人間味はないだろうがな」
確かに。万人を本気で悼める人なんて、人よりも神や聖人の類いだ。ブランコに乗った男を見上げる。普段は化粧をしているからかえってわかりやすい表情は、今は見えない。
「分からんな。同じ人の死に触れるなら、泣くよりも笑う方がよほどいいだろう。凄惨なものよりも、美しいもののほうがいいだろう」
「人の死を肯定的に捉えることを、毛嫌いする人もいるんだよ」
「息苦しい生き方をするんだな」
「むしろそちらが多数派だ」
「ますます地上に戻る気が失せた」
うんざりしたように言って、男はブランコの上で項垂れた。
「きみにはいつも苦労をかけてるんだなあ」
「なんだなんだ、殊勝なお前は気味が悪いぞ」
「改めて感謝をしておこうと思ったのに」
「いいんだよ。お前を飛ばし続けられるようにすることが俺の仕事なんだから」
いや、仕事、というよりも。彼は今一度ブランコの上を仰ぐ。決して届かないところに腰を掛けて、自分の命を簡単に宙に舞わせる、しなやかな体をした白い男。その煌めきに惚れ込んだ。
手を伸ばせど届かない、月や星のような美しさに。
きみも昇ってくればいいのにな。ブランコ乗りは再度呟いた。男は笑っただけで答えなかった。
気づけばずっと空を見上げていた。
たとえば、夜の深さに焦がれたり、届かない星に手を伸ばしたり。顔を上げると、視界は一面の空。余計なものなんて存在しない。
その傾向は、ブランコに足をかけてより増した。空はいつしか、見世物小屋のまあるい天井になったけれど。顔はずっと上だけを見ていた。宙を舞う間も、喝采を浴びるときも。
空ばかりを追い求めて生きてきた。より高いところを目指して力の限り漕いできた。退屈な全てから逃げるように。
決して届かない場所だと知っていた。そこに行ったところで、何にもならないと、心のどこかで諦めていた。
だから、初めて知ったのだ。
眼下に広がるのは暗い、暗い世界。この小屋での、初めてのフライトを終えて、スポットライトも消えてしまった。その中で、人の瞳だけが煌めいている。
まるで、星のようだ。
自分は、既にもう、空の中にいたのだと。
見るということは、その場にあるものを見るのではなく、そのものに反射した光を目が受容することによって生じる現 象なのだと、教わったのは中学の頃だった。今や遠い遠い、遥か昔のことに思えるし、実際既に遠い昔なのだろう。
俺にとっちゃ重大なパラダイムシフトだったんだ、と、ファンデーションを叩き込まれながら彼の麗人は笑った。
「モノがあるから俺が見られるんだと思っていたのが、俺がいるからモノが見られるんだ、なんて」
「『だから俺たち曲芸師は、観客を大事にしなきゃいけない』──でしょ?」
「よく分かってらっしゃる」
「もう耳タコだからね」
燭台切は笑いながら、ファンデーションなんて要らないくらいのその白い肌に刷毛を滑らせた。わずかに赤みのさした頬に、スワロフスキーのジュエリーを乗せる。印象的な瞳には、寒色のシャドウを差し出した。瞬きをするたびに星がこぼれそうだ。
まるで、蝶の羽化を見るように。飄々として陽気な、悪戯好きの鶴丸国永から、神秘的で、存在するだけで舞台を支配してしまうサーカスの花形に脱皮していく。真っ赤な紅を薬指でさしている間に、その髪に櫛を通しながら、燭台切はもう何百回と繰り返し見た光景に改めて舌を巻いた。
「……うん。綺麗だよ、鶴さん」
「美丈夫のきみのお墨付きとは心強いな」
「調子に乗って、怪我しないようにね」
「大丈夫さ」
言いつつ鶴丸はグロスの瓶を小さく振る。彼の最も気に入りのそれは、もう廃盤になっていてなかなか手に入らないものだ。
これを使うとき、観客席には必ず、鶴丸の『ひとりめ』の観客がいる。
「主に無様は晒せない?」
「まあ、それもあるが」
グロスの蓋を閉じて鶴丸は立ち上がった。白い衣装に、肩にかけた上着がふわりと浮く。
「きみも『ひとりめ』の観客なんだぜ、光坊」
「僕も?」
「ああ。毎日、一番最初に『俺』を見る他人。きみが綺麗だと評したんだ。最後まで綺麗に舞ってみせるさ」
そう言って、鶴丸はくるりと踵を返す。ブランコに乗りに行ったのだろう。残された燭台切は、数秒その言葉を噛み砕いたのちに、「かっこいいなあ、鶴さん」と苦笑した。
お前、意外と重いんだな。まだ夜も明けきらぬ早朝、ふかふかの羽毛枕に顔を埋めた彼は、そんな若干失礼な感想を呟いた。
「重たかったか? そりゃ失礼した」
「いや、別に悪い意味じゃなくて」
流石に失言だったと思ったのか、彼はすぐに首を振る。そして、まだ朧気な意識の中で、とつとつと紡いだ。
「あまりにも軽々と翔ぶものだから、つい羽のように軽いのかと」
吹けば翔んでしまうような。そしてそのままどこかへ行ってしまいそうな。
だから、ちゃんと重たくてびっくりしたんだ。彼らしからぬいとけない言葉遣いに、鶴丸は微笑む。
「翔ぶには筋肉を使う。そして筋肉は重いんだ」
「知ってるよ」
「俺はちゃあんとここにいるさ」
知ってるよ。おぼつかない口振りで彼は肯定した。ただ、ちょっとびっくりしただけなのだ、と。
どうやら彼は根っからのパフォーマー気質らしい。いやパフォーマーというかエンターテイナーか。休日の駅前広場で遭遇した迷子のこどもは、さっきまで大粒の瞳を不安に揺らしていたのに、今やぽけえっと彼の動きに見いっている。その辺に落ちていた、安いプラスチックのフープを使った基本的な曲芸だが、柔軟な身体をいかんなく発揮した不思議な浮遊感に、迷子だけでなく道行く人も足を止めている。
そんな鶴丸を、マネージャーたる彼は止めるべきか否か少し悩みつつ見守った。やがて、こどもの母親が現れて、無事に保護されたのを見てから鶴丸は芸をやめる。ありがとう、お兄ちゃん! の声にひらひらと手を振った彼は、恐る恐る支配人の表情を窺った。
「やっぱりまずかったかい」
「褒められることじゃないが……今回は大目に見よう」
「寛大なご対応、心から感謝する」
芝居がかった仕草で一礼をする彼は、この街で知らぬものはいない大サーカスのトップスターだ。普段は濃い化粧で素顔を隠し、顔の判別もろくにつかない高所で舞っているものだから、気付くものはいなかっただろうが、もしもバレていたら結構な騒ぎになっていただろう。本部からの叱責は免れなかったかもしれない。
それにしても、と、彼は改めて鶴丸をしげしげと見た。地上での芸を見たのは初めてだった。ある程度のものを教わっているだろうと思っていたし、動きも基礎的なものが中心で派手なアクションはなかった。まして、いつもの格好ではなくてただの普段着で、ここは街の広場なのだ。
それでも目が離せなかった。
「演出効果ももちろん重要だが、それに頼りきるのは二流の仕事だ。きみは、きみの飼っている曲芸子がその程度だと?」
「いや、そういうわけじゃなく……ちょっと勿体ないことをしていたのかなと」
「は?」
「お前はそのままで十分に美しいのにな」
ついぽろりと出た本音に、鶴丸は思い切り呆れた顔をして、次いでクスクス、しまいにはゲラゲラと膝を叩いて笑い始めた。「そんなに笑わなくていいだろう」と顔を赤くする初な支配人に、「いやいやすまない」と首を振る。
「お褒めにあずかり光栄だ、主殿。だが、ありのままの俺の美しさとやらは、ひとまずきみだけが知っていてくれ」
「馬鹿にしてるな?」
「していないさ。結構な口説き文句だったぜ、それ」
きみといると退屈しなくていいなあ! にんまり言った鶴丸に、支配人はむっすりと押し黙った。やっぱり馬鹿にされている気がする。
まだ夜の気配が色濃く残っている。暗い練習場には、わずかにともされた灯りが、冷えた空気の中で揺蕩っていた。
きい、と細い音がなる。細い二本のワイヤーと、そこに繋がれた心もとないバーに腰を掛けて、ゆらゆらと揺れる真白い男は光を纏っているようだった。
「よくこんなところに登れるな」
「きみ、高所恐怖症だったかい?」
「そんなことはないが、普通に怖い」
対岸の発着台に、膝を立てて座っている俺に、ブランコ乗りはからりと笑った。男はするするとブランコを漕ぎ出す。
「眠れなかったのかい?」
「早くに目が覚めたんだ。お前は?」
「俺もだ。早起きは三文の徳と言うのは本当らしいな。こうしてきみがここまで登ってくることなんて滅多にない」
「別に。気が向いただけだよ。っていうか、俺の価値は三文か」
「ものの例えさ」
ブランコはぐんぐんと速度を増す。目で乞われ、バーを投げる。その軌道に合わせて、ぴたりと振り子を揃えた鶴丸は、とても簡単に身を宙に踊らせた。
きゅ、とシューズのラバーソールを鳴らして鶴丸は此岸に足をつけた。いつのまにか昇り始めた朝日が、窓の隙間から薄く広がって、ヴェールのようにたなびいている。
とても信じがたい話かもしれないが、俺は先輩から突き落とされたことがある。そう、このサーカスに光輝く綺羅星こと、あの鶴丸国永さんに、だ。
そう言うと、イジメか何かをすぐに疑われてしまいそうだけど、別に鶴丸さんは悪意をもって俺を突き落とした訳じゃない。高さ十メートルと少しの発着台は、確かにそのまま落ちたら命に関わるが、下には転落死防止のネットも張ってあったし、なんならその下には柔らかいクッションもあった。死にっこない状態だったのだ。そこから、半人前のブランコ乗りだった俺は鶴丸さんにとても簡単に突き落とされた。
反転した視界、重力のものすごい感覚に、気持ち悪くなる浮遊感、そして、ぼすん、と、俺は背からネットに着地した。ライトを浴びて眩む俺の視界に、花のかんばせが遠く入り込む。発着台のキワにウンコ座りをした鶴丸さんは、意地悪く笑って「百点満点中三点の落下だな」と俺を見下ろした。
「どうだった?」
「し、死ぬかと……っつうか殺す気ですか!」
「安心しろ。殺す気ならもっと上手く殺るさ」
笑顔でとんでもなく物騒なことを言った鶴丸さんは、そのままブランコに腰を掛ける。そうして、網にかかった魚状態の俺を見て再度ケタケタ笑った。
「でも、死ななかったじゃないか」
「そりゃ、そうですけど」
「お前はビビりすぎなんだ。もっと伸び伸び飛べばいいのさ。あんな……ぷっ、くく……あ、アホみたいな落下でも、ここじゃ死ねないんだぜ?」
「う、うるさいなあ……」
どうせアホみたいな落下だった。だけどそれなりに怖かったのだ。もしここにマネージャーがいたら、鶴丸さんは大目玉を食らっていただろう。たとえ安全だったとしても、怪我をしない保証はないのだ。
それでも、鶴丸さんはケロリとしたまま言った。
「確かに危ないな。危ないさ。だけど危なくないものなんてつまらないだろう?」
「……」
「お前はどうして飛ぼうと思った? お前を魅了した芸の煌めきは何で構成されていた? 本当に、本当に怖い思いをしたくないのなら、お前はどうしてここに立っている?」
子どものような無邪気さで、このサーカスの気高きデネブはそう問いかけた。ぶらぶらと宙で脚を羽ばたかせて。「人はどうして生まれたの?」と尋ねるように。
黙り込んだ俺に、ああでも、と鶴丸さんは付け足した。
「そういう気持ちは大事だぜ。緊張感のない芸にゃ驚きもなにもあったもんじゃない。単に度胸をつけろと言いたかったんだ」
「……そういう鶴丸さんは、怯えてるようには見えないんですけど」
「まあ怯えてるわけじゃないしなあ」
そうして彼は、あっけらかんと言ってのけた。
「たかが死ぬだけだぜ」
ひゅ、と息を飲んだとき、鶴は既に身を宙へと投げ出していた。
危なげなくキャッチャーの手を掴み、再びブランコの上へと戻る。知らず知らずに速くなっていた鼓動に、心臓を手を当てていると、彼はくすりと喉を鳴らした。
命綱をつけずに翔んでみたいと言うと、大抵の人間は頭の心配をする。死にたいのか、とか、自殺志願者か、とか。だけど、今の鶴丸のご主人様はそう言わない。「そうか」と頷いてそれっきり。だから好きだ、と、鶴丸は思う。
ブランコに乗るのだって、命綱を嫌がるのだって、別に死にたいからじゃない。死ぬならもっと上手いやり方がたくさんあるし、もっとお手軽な方法もたくさんある。ただ翔びたいから翔ぶだけで、翔んだ結果死んでしまうのなら、まあそれは仕方ないなと思うだけ。
落ちるのは好きじゃない。命綱を外したいのは、地面に叩きつけられたいわけじゃなくて、どこまでも翔んでいきたいからだ。可能ならば、死ぬときだって、地面に墜落するんじゃなくてそのまま空の彼方に翔んで消えたい。地面には簡単に叩きつけられるのに、空に叩きつけられないのはどうしてなのだろうと憤れば、地面にへばりついたご主人様は「宇宙ならあり得るかもな」と答えた。
「宇宙空間だと、空気抵抗とか、そういうのが少ないからどこまでも行けるかもしれない。屁をこいただけで宇宙の果てまでぶっとぶんだって、大昔に小学校の理科の先生が言ってた」
「そりゃ本当か?」
「さあ。宇宙に行ったことがないから」
そりゃあそうか。鶴丸は小さく笑った。
「きみは俺が命綱を外すことについてどう思う?」
「マネージャーの観点から言うと却下だ。そして鶴丸国永の一ファンとして言うなら好きにしてくれと思う」
「その心は?」
「マネージャーの俺はお前という貴重な花形を万が一にでも失うわけにはいかない。鶴丸国永のファンとしての俺はお前がのびのびとしているのをなにより好む」
「ならきみ個人としては?」
そこで支配人は少し迷った。聡明さと純朴さを見事に両立させた黒い双眸が揺れている。ちか、ちか、と瞬く地上の星を、鶴丸はじっと見つめた。
「……やっぱりつけておいてほしいかな」
「どうして?」
「これは俺のエゴだけど、お前とできるだけ長く時を過ごしたいから」
困ったように苦笑したその人間に、鶴丸はそうだなと微笑んだ。
彼は鶴丸にブランコから降りるように命じないし、鶴丸もまた彼にブランコの上で暮らすように命じない。魚が空を飛ばないように。鳥が地面に潜らないように。それは別に悲劇ではない。だけど会えなくなるのはやっぱり寂しい。
好きだなあと鶴丸は心中呟いた。命綱を外すのは、やっぱりもう少し後にしようとも思った。
このサーカスのトップスターと、その支配人の関係を知るものは、大抵は「どうして?」と訊く。鶴丸国永の経験上だから、ひょっとしたら、支配人側はまた別の言葉をかけられているのかもしれないが──たとえば「お前は自分の立場を理解しているのか」とか──鶴丸の身の回りにいるものは、煩わしいことには頓着しない性格が多いのか、それとも鶴丸にそういうことを言っても無駄だと弁えているのか、尋ねられるのはほとんど「何故?」だった。
「だって、マネージャーには悪いけど、言っちゃ平凡な男でしょ? 顔も普通、学歴も普通。収入は、そりゃちょっとはいいかもしれないけど、特別高いってわけじゃないし。何より翔べないわ」
「そうだな。あいつの体で翔ぼうと思うと固すぎてダメだ。開脚させると高確率でバキッって鳴る」
「淑女の前で容赦なく下ネタ言わないでくれる?」
呆れたように目を細めたのは、同じエアリアルのパフォーマーだ。ただ、トラピーズ中心の鶴丸とは違い、彼女はシルクやフープを使う。蝶の羽のように鮮やかな睫を煌めかせながら、彼女は再度「最低」と詰った。
「最低なのはきみもだぜ。あいつの悪口をぽんぽん言って。紛いなりにも……えっと、俺はあいつのなんになるんだ?」
「あたしが知るわけないじゃないの」
「ともかく、好いた相手を悪く言われて少なからず俺はむっとした。悪いと断るならあいつに対してだけでなく俺にも断ってくれ」
「それは御免遊ばせ。で、どうしてなの?
うちのサーカスの花形さん。燦然と輝く綺羅星さん。この街であなたが微笑めば美男も美女も金持ちもインテリも選り取り見取りでしょ。どうしてあなたはマネージャーが欲しいの? マネージャーの何が欲しいの?」
「そりゃ全てさ」
ちら、と鶴丸はステージの端を見やった。インカムをつけて演出担当のスタッフと何やら真剣に話し込んでいる彼は、こちらの視線には気づかない。
彼女は、彼を平凡だと称した。特筆すべきものは何もないと。それ自体が鶴丸にとっては稀有だった。
彼は「何もないこと」を持っている。地面にへばりついて、空を仰ぐただの人だ。それはとりもなおさず、鶴丸が棄てたものだった。
何が欲しいかと言えば全てが欲しかった。心も体も欲しかった。そんなしょうもない世界にへばりついていないで一緒に翔べたらとも願っていた。だけどそれは叶わないのだ。十数メートルの距離に隔たれて、彼は鶴丸を仰ぐだけ、鶴丸は彼を見下ろすだけ。
だけど、恋ってそういうものだろう。届かないものに焦がれることが恋であるなら、鶴丸の抱えるこれは恋だ。
「マネージャーが少し、可哀想ね」
「厄介なヤツに目をつけられたからか?」
「鳥に惚れられたモグラが幸せになれると思う?」
彼女はため息をついて首を振った。ステージの端にいた支配人が顔をあげる。リハーサル直前の精悍な眼差しが、鶴丸を見つけてわずかに緩んだ。
鶴丸は心の中だけで彼女に反論する。それでも、想い合っている間は幸せなんじゃなかろうか、と。
まるで片想いでもしているみたいね、とからかえば、まだ年若い支配人はきょとんとして、それから「そうだな」と同意を示した。
「多分片想いなんだと思う」
「鶴丸も貴方を好いているのにね」
「たぶん好きの形が違うから」
でもそれで正解だ。スーツ姿が多くて、ぴんと張った背筋に実年齢よりも年嵩に見られやすい彼が、珍しく見せた年相応の表情に彼女は言葉を詰まらせる。
彼の抱く感情と俺の抱く感情。俺がしてほしいことと彼がすること。彼がしてほしいことと俺がすることは決して交わらないのだと彼は告げた。だから片想いに見えるだろうし、片想いで正解なのだと。
「それでいいんだ」
ぽつん、と呟いた彼の視線の先には、トラピーズに足をかけた星がいる。彼女は彼の言っていることがまるでわからなかった。愛されたいなら愛されたいって言えばいいのに。だけど、簡単に分かってもいけないような気がした。それは、長い時間をかけて磨かれた宝石の煌めきに、触れるのが躊躇われるかのようだった。
「恋と愛とはどう違うの?」
プラチナブロンドのお下げ髪をゆらゆらと揺らした少女に、いとけなく尋ねられて彼は言葉に詰まった。
「おかあさまがお話ししてくださったの。この国のロマンスは恋と愛って言うんだって。でも、どう違うのか聞いたら、おとうさまったらひどいのよ。わたくしにはまだ早いっておっしゃるの」
「それは失礼な話ですね」
「でしょう? わたくし、もう七つになるのよ。ディケンズだって読めるのよ」
うんと胸をそらせた少女に、彼はそうですね、と頷いた。でしょう? とぷりぷり怒った彼女は、黄金色の瞳をきらきらと輝かせ、「それでね、」と彼のスラックスの膝に掌をついた。
「おかあさまがこっそり教えてくださったの。あなたさまならきっとご存知だって。だから、後で聞いてみなさい、って」
彼は思わず空を仰いだ。目蓋の裏側に浮かぶのは、彼女によく似た少女だった。舞台の上で金糸雀のように歌い、貰われていった気の置けない仲間。
彼は少女には聞こえないように、小さく悪態をつく。それに構わず、彼女はぎゅっとスラックスを掴んだ。
「ねえ、教えてくださらない? わたくし、たっくさん考えたけど、どうしても違いが分からないの。だって、わたくしは二つとも、同じ言葉で呼ぶのよ」
「そうですね。こちらも、恋とか愛とか言いますけど、二つ合わせて『恋愛』という言葉もあるんです」
「じゃあやっぱり同じではなくって?」
「いいえ、違いますよ。違うから、別の名前で呼ぶんです」
眉間に皺を寄せて、「分からないわ」と呟く少女に、「いずれ分かるかもしれませんよ」と彼は笑った。
「でも、ひょっとしたら、分からない方が幸せかもしれませんね」
「あら、あなたさまはそれを知って不幸せだったの?」
素朴な問いに、彼は声を詰まらせた。そして、絞り出すように「いいえ」と答えた。
「そうなれれば良かったのですけれど、不幸なことに、幸せだと感じてしまったのですよ、レディ」
しっかりしがみついておいで、と、初めてかの場所に連れていってくれた祖母は俺にそう言った。暗くて暗くて深くて暗い、夜の底のようなテントの中で、蜘蛛の糸のようなライトに照らされたそこは、地獄のようであり天国のようでもあった。
しっかりしがみついておいで、と祖母はまた言った。IR誘致の波に乗って、いち早く商機を掴みエンターテイメント会社を設立した父と違い、祖母は所謂古い考えの人だった。祖母はまだ小さくてふっくらした俺の手を掴んで、夜の底をじっと見つめていた。
サーカスは子どもを連れ去ってしまう。魂を抜いてしまうんだ。あの子もそうだった。お前は連れていかれないように、私にしがみついておいで、と。
そんなの都市伝説だよ、ばあちゃん。俺はその時明るく言った。だけど、事実その通りだった。暗くて暗くて深くて暗い夜の底に俺はいる。だけどここを地獄のようだとも、天国のようだとももう思わなかった。ここは此岸だ。スポットライトも蜘蛛の糸なんかじゃない。彼らは差しのべられた救いなんて屁とも思っていないのだから。