ハレーション 大耳練が、初めてその男の姿を視認したのは、高校一年生。春高バレーの会場だった。オーラなんて目に見えないものを頭から信じるような性格ではなかったが、不思議と彼の周りだけは他よりも明るく見えたことを良く覚えている。
「すいません!トイレの場所教えてください!」
よく通る声で呼びかけたその男、年の頃は大耳と変わらないぐらいだろうに、妙にかしこまった口調でそう言った。
「ごめんなさい。自分もここ初めて来るんで、ちょっと分かりません」
釣られて大耳も丁寧に答えた。会場に足を踏み入れるのは本当に初めてのことだったし、大耳自身も、用を足そうとトイレを探していたところだった。
「あっちに、案内板あったと思うんで、よかったら、一緒に」
「え!ほんとに?あ。ですか?ありがとうございます!」
思わず出てしまった砕けた口調にしどろもどろと言葉を付け足す。平常は敬語をあまり喋らずに生活しているのだろう。それでもなんとか丁寧な言葉を心がけている姿を、奇妙に思いながらもなんだか微笑ましくなった。
「敬語やなくてええですよ。俺一年やし」
見たところ、その男も選手として参加している様子だ。参加高校の選手である以上、大耳よりも年下なはずはなかった。
だが、男は大耳の言葉にきょとんと目を丸める。その理由を大耳が推察するよりも先に、男は大耳が何度となく聞いてきた台詞を口にした。
「一年?うっそ!え、高校生!?」
真横で通る声が大きく響く。軽い残響に眉をしかめたが、言葉の内容にはそこまで感慨はなかった。
大耳は、この手の誤解を受けることに慣れていた。年齢の割に大人びた容姿と、既に変声期を過ぎた低い声のせいだろう。小学校の頃に電車に乗ろうとして大人料金を払わされそうになったことを初めとして、大耳にとっては年嵩に見られるのは日常茶飯事だった。
「同い年じゃん!てっきり審判かコーチの人かと思った!ゴメン!!」
高校一年生の段階で、二十歳以上に見られることも経験はあったが、ここまで言い切ったのはこの男が初めてだった。失礼な物言いに腹を立ててもいいところだったが、不思議なことにそこまで腹は立たなかった。
「いやジャージ着とるし」
大耳の言葉を受けて、初めて服装に着目したらしく、男はなるほど、と手を打った。
「てか稲高じゃん!え、試合出んの?」
「いや、俺は応援
「俺さ!春高予選のちょっと前にレギュラー入れて!オレンジコートめちゃくちゃ憧れてたから試合始まんの楽しみで楽しみで!てか稲高当たるかもじゃん!負けねえから!」
返答の隙も与えずまくし立てる男に完全に気圧されて、大耳は閉口してしまう。猛禽類のような丸い目を輝かせて、よく舌が回る。
一瞬だけ男の言葉が途切れたのを見逃さず、ここしかないと大耳は言葉を挟み込んだ。
「トイレ!探しとったんやろ?ええの?」
「お?おお!よくない!漏れる!」
大耳はこのよく喋る男の頭越しに、トイレと書かれた案内板を見つけて、すかさず指さした。
「あっち」
指の動きを目で追いかけて、男はぐりんと後ろを振り返った。動作もどことなく猛禽類を思わせるが、喧しさだけは小鳥か小型犬のそれだった。
「ほんとだ!ありがと!」
漏れるという言葉に偽りはないらしく、男は案内板の示す矢印の方へと駆けていった。大耳もトイレを探していたのだが、嵐でも過ぎ去ったような後味に、催していたものもどこかへ引っ込んでしまった。
「…てか、誰やねん」
名乗ることもなく去っていった男。着ていた白いベンチコートは東京の強豪校、梟谷学園のものだった。
ピーーーッ
順当に勝ちを進めていく稲荷崎高校、その応援席で、大耳は喉を枯らしてもまだ叫んでいた。
大耳はまだ一年生。オレンジコートに選手として立つ権利はまだ与えられていない。同学年で選手登録されている者も殆どいないし、自分の実力を冷静に見ても、当たり前のことだと受け止めていた。ピンチサーバーとして登録されてる尾白アランが一番の出世株だ。日々の練習は欠かしていないし、入学当初より確実に巧くなっている自負はあるので、焦る必要もないと思っていた。
だが、同時に進行されている隣のコート、一際大きく歓声が上がる瞬間がある。歓声を集めているのは、ついさっき見たばかりの、猛禽類の目をした男だった。
「っはー。すご。あいつ一年やろ。えげつないスパイク打つわあ」
「一発では止められん自身あるわ」
大耳の横で共に声を張り上げていた二年生が漏らす。大耳も彼らとまったく同じ意見だった。
あそこに立っている時点で、自分とは次元の違うプレイヤーなのだろうなと隣コートであがるトスを見上げて思った。
ボールを追っていた視線に、ふっと天井のライトを遮って男の姿が飛び込んでくる。美しい体のしなり。腕もだ。ボールに手が触れるより先に相手のコートに落ちると確信するほど、見事としか言いようのないフォーム。
そして、その姿に見惚れている間に、大耳が思った通り、男の打ち下ろしたボールは誰も手を触れることなくコートに落ちる。落ちるというにはあまりにも豪快な音を立てていた。
「ッシャアアアア!!」
先ほど廊下で喋ったときとは比べものにならない雄叫びは、歓声も巻き込んで会場を沸かせた。
「すご…」
感嘆の言葉が、思わず口から漏れる。
だが、副審が赤い旗を揚げたことで、ボールがラインを割っていたことが分かった。
「んえええ…っ」
「ドンマイドンマイ」
背番号一番に背中を叩かれた男は、豪快にあげてしまった雄叫びに恥じ入って身を縮こまらせている。それも入っていれば、あれがマッチポイントだった。恥じ入る気持ちも共感できたが、大耳は一連の男の行動に思わずこみ上げてくる笑いを我慢できなかった。
「っふは」
幸いにして、男と大耳が座っている場所は距離があったし、大勢の人で沸き立つ会場に、かみ殺した笑いが加わったところで、気付かない。年嵩に見られた恨みも多少あり、罪悪感はあまりなかった。
稲荷崎は、もう試合を決していて撤収作業に移っている。レギュラーメンバーの使っていたタオルをかき集める片手間で、男の背中を見る。
ぼくと。そう書いてある。珍しい名字だ。大耳も人の名字を珍しがるには凡庸な名字とは言えないが、ぼくとという名字の人物には今まで会ったことがない。地域柄聞いたことがないだけだろうか。漢字すら想像がつかない。
ピッ、ピーーーッ
試合終了の笛が鳴る。梟谷は無事にリードを守りきって勝利したようだ。
先程のミスですっかりしょぼくれてしまったぼくとの背中に、声を掛けるか迷ったが、相手は東京の人間。機会を失えば二度と会わない可能性すらある。
「なあ」
「…?あ、さっきの」
意気消沈するぼくとは、今までからひと周りもふた周りも小さな声で呼びかけに応えた。大耳はその態度も面白くなってくるが、こみ上げた笑いを咳で誤魔化した。
「試合、勝ったんやんな。おめでとう」
「ありがと…」
「うちも勝ったから、次の次で当たるな」
「うん…」
「俺は選手登録してへんからあれやけど、対戦楽しみにしとるわ」
「…おう」
大耳の言葉にも反応が鈍い。そっとしておいてやるべきだったかと後悔するが、どうせ話しかけてしまったのだからささやかな疑問を解いておくことにする。
「名前、それ漢字どう書くん?」
背番号の上を示して言う。変わらずぼくとは沈んだ表情のまま応えた。
「きって書いて」
「き?」
また想像がつかなくて、思わず聞き返す。
「あの、そのへんに生えてる、木」
「ああ」
「んで、えーと…あの、あれ」
ぼくとは言い淀む。うまい例えが思いつかないのだろう、眉間に深く皺を寄せて、うんうんと唸り始めた。
これには大耳も困ってしまうが、実際に書いてもらおうと思いつき手元を探る。だが、応援に筆記具が必要なはずもなく、ポケットを探っても何も出ては来なかった。
「なにしてんの?」
「いや、実際書いてもらったら早いかなって、思ってんけど…書くもんないな…」
大耳は仕方なく諦めようとしたが、ポケットから出した手を、ぼくとが突然鷲掴みにした。
「おわっなんやねん!」
「書く!」
そう言うと、ぼくとは半ば無理矢理に大耳の手を開かせて手の平の上で指を動かし始めた。
上部に払い、その次はごく短い縦線、次に横、直角に曲がる。
「…兎?」
「え、うさぎって漢字あんの?」
確かに、兎という文字なら、木と合わせてぼくとと読める。納得したところで、必死に自らの名を教えようとした木兎の目を見た。うまく伝わったことが嬉しかったのか、先程まで伏せがちだった目を細めて笑った。
「…ふふ。ありがとお」
「どういたしまして!」
満足げに鼻を鳴らした木兎の瞳は、大耳の目線よりもいくらか低いところにあり、小柄とは言わないが高身長と言うには少し物足りない。そんな彼が、試合中誰よりも高く飛んでいたと思うと、改めて感心してしまった。
「あ、そうだ!名前!」
すっかり元気を取り戻した木兎が、何かを思い立ったようで、大きな音声がびりりと大耳の耳を貫いた。
「名前聞いてない!」
「俺?」
「そう!俺は木兎光太郎、梟谷のエースになる男です!」
一年坊が何を大それたことを、と笑う者もいるかもしれないが、先程の試合を見ていると、それが荒唐無稽な目標とは思えなかった。近い将来実現してしまいそうな気迫もあったし、本人は心の底から自分の言葉を信じているのだろう。言葉にも目にも、一切の淀みがなかった。
「大耳、練」
木兎の勢いに、大耳は気圧されるばかりだった。言葉の勢いではない。木兎という人物そのものに気圧される。彼の人物像が断片的にも見えてくるにつれ、自分とは見えている世界が違うという気持ちが強くなっていく。
木兎は高校一年生らしい荒削りなプレイが目立った。ミスも多いし、見ている限り彼のプレイのクオリティは本人の精神状態に大きく左右されていた。新しいことに挑戦し続ける稲荷崎の選手たちも在る程度の触れ幅はあるが、木兎のそれは他の比ではない。
そして、その触れ幅を置いても、彼はオレンジコートに立っていた。次の試合も同じように出場するのかは梟谷の監督が決めることだが、大耳はまたあそこに木兎が立っている予感がしていた。
「大耳。大耳な!」
「字はそのまんまや。大きい、耳」
耳のところで、自分の耳を指さす。何を基準にしているのか分からないが、木兎はその説明に分かりやすいと喜んでいた。
「じゃあ、大耳!またな!」
「お、おん。また」
すっかり元気を取り戻した木兎は、数十メートル先まで離れてから、振り返って大きく手を振った。まるで無邪気にはしゃぐ幼児にするように、大耳は小さく手を振り返した。
出会いから別れまで、本当に自由な男だ。少しばかりの呆れに大耳は息をついて、東京体育館を後にした。
木兎と次に会ったのは、翌年度のインターハイだった。春高は、結局稲荷崎が次の試合に敗れて、梟谷との対戦は叶わなかった。
木兎光太郎は、外からも梟谷の次期エースは木兎だと囁かれていた。大耳はというと、その長身と冷静な判断力を買われて、一軍入りを果たしていた。変わらず大きな差はあるが、まがりなりにも同じ土俵には立っている。
そして奇しくも、大耳が初めてオレンジコートに足を踏み入れた試合は、梟谷学園が相手だった。
コートに入る重圧は、重々覚悟していた。覚悟が足りなかったとは思わない。ただ、ネットを通して見る木兎の眼光は、以前対峙したものとはまるで別物だった。コートの外から木兎を見るのとも違う。獲物を捕らえる捕食者の目が、自分に見せられるのがこうも背筋を冷やすものだとは思いもしなかった。
「おお!大耳だ!そういやポジション知らなかったけど、ミドルブロッカーなのな!」
ネット越しに握手を求める木兎は無邪気に笑う。だが、大耳にかかる圧は、とても笑顔を返せるような軽いものではなかった。
やはり立つ舞台が違う。
コート内で足手纏いにならないよう努めるしかないと諦めにも似た心情で相手コートからのボールを待って構える。
実際に試合が始まると、やはり大耳は試合について行くのがやっとだった。ボールはあり得ないスピードで、あり得ない角度から飛んでくるし、咄嗟に構えたレシーブがうまくボールを捉えないこともしばしばだった。
それでも、体が暖まっていくうちに、大耳の頭の中も同じように熱を帯び始めていた。
木兎は格上。それに間違いはないだろう。何年努力しても埋められない差が、きっとある。
だが、それが何だというのだろうか。同じコートに立った瞬間から、学年も実力も関係ない。木兎を止めなければ稲荷崎はここで敗退。自分のインターハイが終わる。諦観して何もしないまま、何も残さないまま終わるのは、納得出来なかった。
ボールではなく、相手コートの選手の動き、出来れば目線も。目と頭を極限まで稼働させて、反撃の糸口を探る。
このまま終わってたまるか。
その一心でコートを駆け回った大耳は、ある瞬間にたどり着く。
周囲の音が遠くなった。聞こえないわけではないが、一枚壁を隔てているような、こもった音。視界がひどく明瞭に開けて、中心に木兎を捉えた。
クロスは三年が二枚で塞いでいる。ストレートしか選択肢がない。リベロがストレートを待って構えている。木兎に攻めの手はない。
いや、違う。
大耳は走り出していた。他に大耳に続く者はいない。自分一人。木兎と、視線がカチリと合う。
二枚ブロックの更に内側、当時既に木兎の十八番であった超インナークロス。落ちたのは、稲荷崎のコートだった。
「はあっはあっ」
大耳の手に、ジンジンと痺れが残っている。大耳が弾いたボールは、ネットを越えられず、相手の得点となった。
だが、今のは。
「くっっっそ!今の!絶対誰にも触らせない自信あったのに!」
悔しそうに、だが嬉しそうに木兎が叫んだ。
大耳は、痺れる自分の手のひらと、木兎の顔、コートに転がるボールを見比べた。
「大耳!今の!読んだんか!?」
キャプテンも叫んでいる。それもまだ遠くの音のように感じた。
ただ、木兎の声だけはクリアに聞こえる。大耳を見る捕食者の目も。
捕食者。数十分前まで恐怖すら抱いた瞳。今は、怖くなかった。自信を持って放った渾身のスパイクを、あわや止められそうになったことで、木兎の闘争心に火がついたようで、一層眼光も鋭く、大耳を見ている。
その眼光に、大耳も負けじと睨むように視線を返す。
「次もクロス打つからな!」
「予告ホームランとはまたご大層やな」
木兎の大耳への認識が、トイレの場所を教えてくれた親切な他校の生徒ではなくなっている実感が、大耳にはあった。少なくとも、木兎は自分を大耳より格上だとは思っていない、そういう目だった。
「自分だけが捕食者やと思うなよ」
何かひとつ残す。そんなものではもう満足が出来そうになかった。
「今年の春高はどうする?」
部長の北信介から投げかけられた質問の意味は、考えるまでもなかった。
大耳の進路は、国家公務員。生半可な勉強で易々と就ける職業ではない。同じく公務員を目指す同級生たちは、夏で部活を引退して勉学に集中するものも少なくなかった。
「無理に続ける必要はないと、俺は思うけど」
北が付け加える。大耳に気を遣っているのだろう。北も高校を卒業すればバレーボールから離れる身だ。大耳の進路への理解は深い。
「やるよ。当たり前やろ」
この青春を少しでも長く。その思いがあるのは確かだ。出来るだけ長く、今のチームメイトとバレーをしていたい。
だが、それと同時に、とてつもなく大きく育ってしまった感情の行き場を、失うわけにはいかなかった。
「いっぺん木兎叩きのめさんとやめられんわ」
珍しく口角をにいとつり上げて笑う大耳につられて、これも珍しく北が笑った。