和歌のよめない秋の仁さん 顔の上に置いた書き損じの半紙がそっと取り上げられた。仁がゆっくり目を開くと、丶蔵が呆れたように首を傾げている。
「落とし物、ずいぶん向こうまで飛ばされてたぜ」
丶蔵が墨で汚れた紙をはらはらと仁の顔の上に落としてくる。また飛んでいきそうになる紙を掴んで、仁は生真面目に答える。
「手間を取らせて悪かったな。風にさらわれたのはわかっておったが、立ち上がるのがおっくうだった」
「悪びれた気持ちのひとつもあるなら、そのいかにも侍らしい仏頂面をやめてみちゃどうなんだい」
「あいにくと生まれた時からこの顔だ」
「そりゃ失礼したね」
「悪びれた気持ちが爪の先ほどでもあるなら、仕事の手を少し休めて座っていけ。俺に付き合え」
丶蔵は呆れて立ち去ろうとするが、結局首をひねりながらもため息をつき仁の横に座った。
「そんなふうに寝転がってたらこの秋風で冷えて体悪くするぜ」
「もうかなり悪い」
仏頂面の仁は続ける。
「歌が詠めぬまでに悪い」
丶蔵は面倒ごとに巻き込まれたとでもいうように天を仰いだ。
「丶蔵、横着せず付き合え。また一つ徳が積めるやもしれぬぞ」
「はいはい、仕方ないな。それゆえ書き損じの落とし物ってわけかい」
渋い顔の仁は首を振る。
「蒙古との戦いの中でも歌を詠むのをやめることはなかったというのに、壱岐に来てからしばらく、何も浮かばぬ」
仁は体を伸ばす。少し冷え込む他は空も青く良い日和だ。何も欠けたものはない日々に、歌の言葉だけが仁を見捨てたようにどこかへ行って見つからない。
「戦いながらも歌をやめないとは、仁はずいぶん歌が好きなんだなあ」
「……というより、歌を詠まずにいられなかった」
仁はがばと体を起こす。
「忘れないためでもあったのだ。血しぶきを浴び続ける戦いをくぐり抜けても、おのれは鬼でも亡霊でもなく、まだ人のままなのだということを」
「戦って殺すために歌が必要なのか。やっぱり仁はとんでもないやつだな」
丶蔵は空を見上げる。薄茶色の瞳が陽の光を浴びてひときわ柔らかく明るい。明るいものしか見ないようにしてきたからこの色になったのだろうかと、仁はふと思う。
「もう殺さなくてもよくなったから、歌を忘れちまったんじゃないか。お前のおかげでこのところ壱岐も平和だ。お前が言うように蒙古がまた来るとは、とても信じられないくらいにはさ」
「だから忘れるわけにはいかぬのだ。戦いも、歌も」
強情な仁を諭すように丶蔵は笑う。
「そのうち嫌でもまた思い出すさ。今は忘れてても誰も困らねえよ。お前自身も、何か困ってるか?」
「歌が詠めなくて困っておる」
「はは、振り出しにもどっちまったな」
仁は書き損じを集めて頭の下に敷き枕にする。しかし、じりじりと焦るような心は少し和らいでいる。もしかすると、丶蔵の言うことを聞いてもよいかもしれない。平穏な島でしばし心身はまどろみ、歌心も同じくつかの間の眠りについている。もしかすると、それで何も悪いことはないのかもしれない。
「丶蔵は歌が嫌いか。お前が歌が好きなら、どうにか一句詠んでやらなくもないぞ」
「別に好きでも嫌いでもねえよ。よくわかんねえだけだ」
「ならば声に出して歌うほうはどうだ。そういえば、お前が歌など歌っているところを見たことがないな。集落の村人は大船を曳く仕事の辛さをまぎらわすためなのか、よく歌っておるではないか。お前が何か歌ってくれれば、俺も戦わずとも何か思いつきそうだ」
「お前はいつも突拍子もないことを言い出すなあ」
「はぐらかすな」
食い下がる仁の肩を軽く叩いて、丶蔵は立ち上がる。
「悪いけど、歌なんて何も覚えてねえんだよ」
ずいぶん冷えるから早く帰ってこいよ、先に鍋炊いてるぜ、と言って呼び止める間もなく、丶蔵はすいと背を向け去っていった。
迷いもなく丶蔵の背中が遠ざかる。知らぬ間にその背中を見つめて息を潜めていたことに気づくと、深いため息が漏れる。丶蔵の助言にわざとそむくようにふたたび寝転がる。
丶蔵は息をするように隠し事をする。歌を忘れているはずがない。仕事の歌を歌いたくないだけなのだろう。しかし歌いたくないのは仁のせいなのかもしれなかった。十五年前境井が引き起こした災禍のせいで、歌で紛らわす必要があるほどの仕事の辛さを何も感じなくなってしまったのか。それとも、仁についてきてくれたのと引き換えにうまく動かなくなった体で満足に働けず生きるのが、他の村人のことを考えると申し訳ないのか。
――それとも、丶蔵は本当に歌を忘れただけなのか。丶蔵の心の動きの出処が俺にまつわるものなのだと思いこむことで、俺ひとりばかりが気にかけているというわけではないのだと、わびしい満足を得たいだけなのだろうか。
明日は海賊の歌を覚えて目の前で歌ってやろうか。そんな子供じみたことを仁は考える。それなら忘れたと言い訳はできまいとたくらんでみる。そんなにまで気を引きたいかとおのれに問いかけて、そこまで気にかけてやらねば丶蔵はきっと、誰にでも優しいままでおのれのことを顧みない道にしか進まないのだと答える。
仁は目を閉じる。ふいに歌の種が心の奥底で芽吹くのを感じる。そもそもよく考えてみれば、歌は戦うためだけに必要なのではなかった。おのれの心と眼の前に広がる現し世が、どうしようもなく食い違うままならない軋みを感じる時にもおのずと生まれてきたものだった。今は歌など必要ないと一度は思ったはずなのにと仁は苦笑し、静かな湖での釣り人のようにひとつの歌が水底からきらめく姿を現す時を、静かに息を潜めて待った。