第一話 第二節「風が運ぶもの」森を抜けた風が、白霞の村に柔らかく吹き込んできた。
朝露を含んだ草葉が微かに揺れ、軒先の風鈴が、かすかに鳴る。
それは、過ぎゆく季節の狭間でしか聴こえないような、ほのかな音だった。
剣之介は、神社の石段を登りきった先に立っていた。
昨日の霧が嘘のように晴れ、空は高く、青く澄み渡っている。
だがその光景は、心にしみるほど静かだった。
「風が……変わったな」
彼はぽつりと呟く。
霧と風――白霞の村にとって、それらはただの気象現象ではない。
何かが動き出す前触れとして、長くこの地で語られてきた兆し。
境内の片隅に、ナギサの姿があった。
白霞の神社を預かる巫女であり、剣之介の過去を知る数少ない人物――。
彼女は小さな竹箒を片手に、古びた灯籠の苔を払っていた。
その仕草には、祈りに似た静けさが漂っていた。
「剣之介さん。少しだけ、時間をもらえますか?」
その声に剣之介が振り向くと、ナギサは微笑んで頷いた。
二人は社の裏手にある、木立の中の小道へと足を向ける。
「……このあたりは、あなたのお父さんがよく通っていた場所です。
あの人は、風の音をよく聞いていました。“剣を振る前に、風の流れを読むのが肝心だ”と」
ナギサは、どこか懐かしそうに目を細める。
剣之介は、その言葉のひとつひとつを胸に刻むように、黙って耳を傾けていた。
「風は、見えない。でも、確かにそこにある。
そして、変化の前触れを運んでくるのもまた、風です。
今朝からずっと、風が落ち着かないの。まるで、何かが近づいているみたいに」
小道の先、一本の欅が揺れた。
枝葉がざわめくその音は、まるで声なき声のようだった。
「……戦になるのか?」
静かに、剣之介が問う。
ナギサは答えなかった。ただ、立ち止まり、空を仰いだ。
「まだ分からない。でも、もう時間はあまり残されていないと思う。
……だからこそ、あなたには、自分の心に向き合っていてほしいの」
その言葉には、深い覚悟と、哀しみに似た優しさが込められていた。
剣之介は小さく頷いた。
彼の胸の内にもまた、吹き抜ける風があった。
過去と現在、そして未来。
その全てを繋ぐものが、風の中にある気がした。
彼は、再び歩き出す。
霧の夜を越えたその足で、風を感じながら――。
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