cafune jam/高緑 太陽の出てる時間は絵画にもぐり、寝て過ごす。俺の部屋はピアノの間だ。夜明けも近いが、眠る前に一曲弾くのが日課だった。
椅子を調整して、ポーンポーンと鍵盤に触れば、臓器の営みがない空っぽの空間に水滴が落ちる。血はめぐらず、吸った空気は肺から漏れ出る体だ。だというのに、ピアノを前にすれば失ったはずの心臓を感じる。鍵盤を高音から低音へ。合わさった音はシャボン玉のように弾け、また生み出される。胸の内が少しずつ満たされていく。そのまま乱雑に弾いていくとピアノの裏から気配を感じた。いつものあいつだ。
俺がばらまいた音をかき集めながら、ピアノ裏の男は軽やかに歌いはじめる。甘い高音がピアノと混ざり、新しいハーモーニーになった。こちらがメロディを崩せば、歌声はおどけたように跳ねる。楽しげに音のかけらを掴み、額縁に入れて飾る丁寧さで響きを返してくる。かと思えば、次の瞬間には飾ったものをぐちゃぐちゃに壊し、ピアノを置き去り走り出す。乱暴に歌うテンポに俺も合わせてやる。
別の道にそれていったものは放っておけばいいのに、追いかけたくなるのは何故だ。静かな興奮をエンジンに、鍵盤を叩くスピードはどんどん上がっていく。音色だけを乗せた声は楽器となり必死に横に並ぶ。息継ぎを挟むごと、苦しそうに、しかし笑みを含んだやけくそな音。もはやスキャットの形もない歌声。俺は気持ちのまま鍵盤の左端から隙間なく指を滑らせた。低音から高音に駆け上る音の頂点、歌声は明確な笑い声に変わった。
「ぶはっ!!あははは!はぁ、も、もう無理!!ははは!!まじ無理!!」
通る声帯は同じだろうに音が一気に軽薄になる。何を笑っているんだ。不可解さは苛立ちになり、その面を拝み文句を言わないと気が済まない。演奏を途中でやめて椅子を立つ。ピアノの裏に回れば、同じ形のスーツを来た黒髪の男が腹を抱え絨毯に転がり笑い転げている。ラッキーアイテムの塩を巻くと、足元では盛大な叫び声が上がった。
「うああああ!ふざけんな!」
避けやがったのだよ。舌打ちとともに、転がる男へ視線を送る。
「高尾。何がおかしいのだよ」
「ったく、ひでーな!成仏するっての!」
「すればいいんじゃないか、毎回毎回うるさいのだよ」
「んなこと言って。楽しんじゃってるくせに」
「楽しい楽しくないで演奏をしているわけではないのだよ」
「あんなロマンティックな音を出しておいて!?」
塩をもうひと摑みして腹を目がけて撒いた。グエッと息が詰まったような声が漏れて気が晴れる。腹は一瞬消え去り、瞬きの間に元に戻った。
「もう寝る」
絵画の淵に足をかけ、振り返らず中へ入り込む。
「おやすみ!また明日な」
眠る前に一曲弾き、高尾に歌わせるのが俺の日課。聞き慣れた声は、甘い香りを伴って空っぽの空間を満たす最後の一音だ。ベッドに潜ると、絵の外では高尾がまだ鼻歌を歌っている。明日は何を弾こう。そんなことを考えながら眠りに落ちた。