ネバーランドの果て 爪先から、指の先から冷えていくような感覚は、あっという間に全身へ広がる。浅くなる呼吸、遠くなる喧騒、破裂しそうな心臓。何度も何度も脳裏を過る、ここではない何処かであった陰惨な光景は、知るはずもないものだった。
けれどそれらは確かに質量をもって、感情を伴って記憶の中で息衝いている。あんなもの、体験などするはずもない、そもそもありえるはずもない世界なのに。そう理解していてもなお、愛しい思い出と胸を締め付ける怒りと悲しみは嘘ではないと言い切れる。
「……あの、どうかされましたか? 顔色が悪いようですが」
不意に横からかかる声は、こちらの様子を窺うものだった。相当ひどい顔をしていたのだろう。初対面で、まだ出会って数分も経っていないにも関わらず、思わず話しかけてしまうほどの心配をかけているのだから。
「具合が悪いのなら、お休みされてはどうでしょう? 折角の入学式ではありますが、無理をして悪化させてしまうのはよくありません」
諭すような柔らかい言葉。心の底から労ってくれているのだろうことが伝わり、様々なものが胸に込み上げてくる。嬉しくて、悲しくて、切なくて、堪らない。今すぐにでも大声を上げながら泣いてしまいたくなる。
けれどそんなことができるはずもない。
何故なら二人はつい数分前に出会ったばかりの他人であり、言葉を交わしたのも今が初めてなのだ。きっとあちらは胸を潰されるような痛みも、あたたかな思い出も持ち得ないのだろう。だからこうして優しく、この場にあった適切な言葉をかけてきているのだ。
「…………いや、大丈夫じゃ」
熱量がありすぎる愛もなければ、盲信にも似た直情さもない。あんなにも煩わしいと思っていた距離感が、今になって恋しくて堪らなかった。
「本当ですか? ならいいのですが……、もしどうしようもなかったら言ってくださいね?」
「うむ、ありがとう……、助かるぞ」
向けられる言葉と笑顔を礼を返し、こちらも出来る限りの笑顔を向ける。
程なくして体育館内へ式の開会を告げるアナウンスが響き渡った。ざわざわと止みそうな気配すらなかった声が一つ、また一つと消えていき、しばらくすれば壇上を身なりを整えた男性が歩き出す。いよいよ始まる、新しい場所での新しい生活。ここにいる誰もが期待に胸を膨らませ、目を輝かせていた。
そんなクラスメイトになる少年少女たちを横目に眺めながら、そっと目を伏せる。思い返すのは、飲み込んで言葉にしなかった感情と彼女の名前。
(ああ、今回は本当に入学式なのじゃな)
膝の上に置いたままの手を握り締め、溢れ出てしまいそうな感情と涙を必死に堪えた。少しでも気を紛らわせようと、壇上へと意識を集中させる。
粛々と進行する希望ヶ峰学園の入学式は、間もなく学園長の挨拶が始まろうとしていた。
才能ある高校生の育成と支援を行っている私立学校、希望ヶ峰学園。広大な敷地にはありとあらゆる最先端の設備が整えられており、生徒たちは『超高校級』と称される己の才能を伸ばすべく、日々練習や研究に没頭している。
超高校級のマジシャン、としてスカウトされた夢野秘密子も――与えられた称号に不満を持ちながらではあるが――日夜研究に励んでいた。新しい演出に舞台構成を練り、手に馴染んだ道具の手入れや入念な練習の繰り返し。
才能の派手さに比べると地味だな、とはよく言われるものだが、こうした日々の地味な積み重ねこそが、華やかな舞台で笑顔を届けるエンターテイメントへと繋がるのだ。
「うむ、今日もみんな元気じゃな」
学園に設けられた飼育小屋に、夢野はショーの盛り上げ役である鳩たちを飼っている。元々は寄宿舎へ連れ込むつもりだったが、夢野よりも先に入学した生徒の中に超高校級の飼育委員がおり、彼のために用意された動物専門の小屋があるからと薦められたのだ。少し躊躇はしたものの、専門設備があるのならそちらで過ごしたほうが鳩たちにもいいだろう、と夢野は超高校級の飼育委員へ彼らのことを任せたのである。
しかし全てを彼に頼んだわけではない。あくまで鳩たちは夢野が飼っているのであり、世話の殆どは彼女が行っている。飼育委員である彼の手を借りるのは、病気や怪我などの特別な事情があったときだけだ。
「元気なのはいいことじゃ! ……しかし、今はその元気がウチには羨ましい限りじゃぞ」
吐き出したため息に返される言葉はない。だからこそ夢野は鳩の世話をしに行く、ように見せかけて飼育小屋へ逃げ込んでいた。その回数が多くはないかと疑われないこともある。だがその度に、ハトは意外と繊細な生き物だから、なんて理由をでっちあげているので、今のところ追求はされていなかった。
餌をついばむ鳩たちを金網越しに眺めながら、夢野はその場へしゃがみ込む。既に用事は済ませているのでここへ留まる理由はない。しかし校舎へも寄宿舎へも戻る気にはなれなかった。
希望ヶ峰学園での生活が始まり、早くも一ヶ月が経とうとしている。クラスメイトとして同日に入学した高校生たちは皆、一つの才能を突き詰めた者なだけあってひと癖もふた癖もある者たちばかりだ。そんな彼らとの付き合いは中々に骨が折れるのである。
(と、いうのは建前なんじゃが……)
ふとした時に瞼の裏へ映り込む光景は、静かに密やかに夢野の心を軋ませていた。
目の前で楽しそうに言葉を交わしているクラスメイトたちが、閉鎖された空間でコロシアイをする。そんな有り得るはずがない世界の、生々しい現実味を伴う記憶は薄れるどころか、日に日に色濃くなっていた。
事切れた少年少女、毒々しい赤色、疑いに塗れた毎日。円形状の裁判場で行われる糾弾と繰り返される嘘。そして暴かれる残酷な真実、待ち受けるオシオキという名の処刑。
あたたかく優しい記憶もある。しかしそれら全てを掻き消すほどの強烈な光景が頭から離れない。どれだけアレが有り得るはずもないと頭ではわかっていても、心が上手く受け入れてくれなかった。
「いつまでも、逃げているわけにはいかんのじゃがな……」
今はまだ入学して一ヶ月という期間の短さから、付き合いが浅いため強く疑われることはない。だがこの先、三年ほど生活を共にすることを考えると、早くに克服した方がいいだろうことはわかっていた。わかっていたのだが、上手くいかないからこんなところで一人しゃがみ込んでいるのである。
小さなため息をついて、夢野はゆっくりと立ち上がった。動いた気配に反応した鳩たちが動きを止めるが、それも一瞬のことですぐに餌を啄み始める。薄情な奴らじゃのう、という文句を残し、夢野は飼育小屋の出入り口へ向かった。
「あれ、夢野ちゃんじゃん? こんなところで何してんの?」
誰にも会わないようにと早足で寄宿舎へ戻ろうとした夢野の背後から飛んでくる、顔を合わせ辛いクラスメイトの中でも群を抜いて苦手な声。できることなら聞こえなかったフリをして逃げてしまいたかった、がそんなことをすれば事態がややこしくなるのを知っている。夢野は深呼吸もほどほどにぎこちない動きで振り返った。
「……王馬こそ、こんなところで一体何をしておるのじゃ」
「え〜〜、質問してるのはオレでしょ? 質問を質問で返すなんて失礼だよ! ほら夢野ちゃん俺にちゃんと謝ってよ!」
やはり無視をすればよかったかと夢野はすぐに振り返ってしまったことを後悔する。今からでも適当にあしらうことはできないかと考えるが、目の前でにこにこと笑っている男をかわせるイメージが全く微塵もこれっぽちも湧いてこない。
悲しい話だが、振り返ってしまった時点で夢野の負けなのである。
「なーんてね! キミがここにいる理由なんて聞かなくてもわかるよ!」
「では何故聞いたのじゃ……」
怒っていたかと思えば無邪気な笑顔を浮かべる。くるくると表情を変えながらこちらのペースを崩してくる王馬のことが、夢野はとんでもなく苦手であった。
元より極度の面倒臭がりである彼女は、人と関わること自体が面倒だと思っている節がある。挨拶や日常会話は特に気にならないが、友人だの恋人だの深い付き合いが必要になる関係性が絡むと途端に億劫になるのだ。それもこれもトラブルに巻き込まれないための、夢野なりの自衛策である。
そんな彼女にとってトラブルの化身とも言える王馬小吉は天敵以外の何者でもない。
「でもさ、夢野ちゃんもマメだよね。こんなに甲斐甲斐しく世話しに来るなんてさ」
「んあ? ……まあ、ウチの大切な眷属じゃからのう。いくらここが超高校級の飼育委員が管理する小屋とはいえ、万が一があっては堪らんしな」
「そっかー。ただでさえ少ないお友達に何かあったら悲しいもんね! もういっそのこと夢野ちゃんもここに住んだらいいよ。ちんちくりんだしきっと仲間としてみんなに受け入れてもらえるんじゃない? ああでも魚と間違えられて食べられちゃうかな?」
「んあああ〜〜〜〜!! 誰が魚顔じゃ!! あとそもそもあ奴らは友達ではなく眷属なんじゃ!!」
眉を釣り上げて怒りを顕わにする夢野だが、王馬には微塵も響いていなかった。むしろ夢野が感情を爆発させればさせるほど、楽しそうに笑っているのだから性質が悪い。
だから関わるのは嫌いなんじゃ、と胸の内で毒づいて夢野は王馬へ背を向ける。これ以上この場所へ留まる理由もなければ、彼の相手をする理由もないのだ。
「そんなに怒んないでよ〜。オレはただ、あんなに面倒臭がりの夢野ちゃんが、どうして鳩の世話だけはマメにしてるのかな〜って思っただけなんだって」
「……じゃから、それは眷属であるあ奴らの、」
「まるで鳩の世話をしてると見せかけて、逃げてるみたいだな〜って思ったから、さ」
飛んできた言葉に思わず振り返れば、いつも通りの笑顔を浮かべている王馬が立っている。ばちりと視線がかち合ったときに漸く、夢野は振り返ってしまったことにより示される答えが何かに気づいた。
「に、に、逃げる、とは、だ、誰からじゃ……?」
けれどもまだ、逃げ道はある。血の気が引きすぎ冷えてしまった頭で懸命に考え、導き出した答え。震える声ではあるが絞り出せたことに安堵しそうになるのをぐっと堪え、夢野は王馬の言葉を待つ。
すると彼は大きな瞳を丸くして、小さく首を傾げた。
「あれ、逃げてることは否定しないんだ?」
「……、……!!」
言われて初めて、夢野は特大の大失敗をしでかしたことに気付いた。頭の先から指先爪先まで血の気が引きすぎて寒気すら感じる。心臓が痛いほどに大きく速い脈を打っているにも関わらず、だ。
(取り繕う、のは無理じゃ。ウチでは王馬の追求をかわしきれん。無視をする、にしても余計に拗れてしまうのは目に見えておる)
ほとんど回らない頭で考えに考えても、見える未来に光はない。どう足掻いてもいい方向へ転じないのなら開き直る他ない、がそれをしたところで状況が悪化するだけだ。
本当に、どうしようもなく、どうにもならない。
「う、ウチ、は……、」
沈黙に耐えきれず絞り出した言葉に続くものはなかった。その場しのぎの言い訳ぐらい出てくるかと思ったのだが、どうやら夢野の脳は完全に考えることを放棄してしまったらしい。
そうしてまた、沈黙が訪れる。
「…………ま、言いたくなかったら、無理して言わなくてもいいよ」
永遠とも思える時間が壊されたのは、王馬の一言だった。思いもよらない一言に驚きもそのまま顔を上げれば、何を考えているかわからない瞳と目が合う。
「そんなに怯えられたら流石に気が引けちゃうしね。オレは弱いものイジメなんてしないからさ!ホントだよ!」
にしし、と笑った王馬は踵を返すと歩き出してしまう。あっという間に見えなくなってしまった後ろ姿を見送って、夢野はその場にへたり込んだ。
「……一体何だったんじゃ」
意図がさっぱり読めず困惑するやら、追求されなかったことに安堵するやら。あらゆる感情が混ざり合いすぎて、到底脳内での処理が間に合いそうにない。
ただ一つ、そんな中でも理解できたことがあった。
「やはりあやつは何を考えておるのかわからん。今も……、あのときも……」
瞼の裏で鮮烈に蘇る、嘘つきな少年。理不尽で埋め尽くされた世界を引っ掻き回して暴れまわった彼の最期は殊更、夢野の胸に重くのしかかり続けている。
二回目の学級裁判が、終わった。
どうやって寄宿舎まで戻ったのかは覚えていない。しかし目を覚ますと少し見慣れ始めてしまった天井があったので、きちんと自分の部屋に戻ってこれたのだろう。ゆっくりと体を起こした夢野は、しばらくベッドに座ったままぼんやりと壁を見つめていた。
皆を笑顔にするために、と開いたマジカルショーで起こった悲劇。水中脱出の魔法に全神経を使っていたので、あのとき何が起こっていたのか夢野は全てを見ていない。けれども水槽の向こう側に広がっていたもの、そして皆の話を聞くうちにどれほど陰惨な光景だったのかは窺い知れた。
(東条は、ウチを犯人に仕立て上げようとしたんじゃったな……)
誰よりも必死に生きようとしていた東条は、既にこの世にはいない。オシオキという名の処刑を受けた彼女の最期はあまりに壮絶で、思い出しそうになるだけで吐き気がこみ上げた。
笑顔を届けるためのショーを利用されたことに思うところがないわけではない。ないのだが、東条の抱えていたものと覚悟を考えると、どうにも怒りきれなかったし、憎むことなんてできもしなかった。
「……食堂に、行くかの」
考えれば考えるほど悲しくて苦しくて、面倒臭くて堪らなくなる。夢野はゆるく頭を振って、浮かんだ記憶も感情も全て忘れることにした。そうすれば少なくとも、自分の心を守ることはできる。
朝を告げるアナウンスはまだ鳴らない。それでも夢野は食堂へ向かうため、ベッドから降りてクローゼットの前に立つ。開いた扉の向こうにずらりと並んだ制服は、昨日一着出したというのに補充されていた。
「……はぁ」
ただただ気が滅入る。もう何もかもが面倒臭くて堪らなくて、縋れるものがあるなら縋って楽になりたかった。
重たい足を引きずるようにして、夢野は自室を出る。誰に遠慮するわけでもないが扉をゆっくりと静かに締めたところで、真正面にある扉が開いた。
「え、夢野ちゃんじゃん。珍しいね! 君がこんなに朝早いなんてさ」
「んあ……王馬……」
目を瞬かせてそう言った王馬は、後ろ手にすばやく扉を締める。まるで室内を見られたくないかのような動きだった。しかしそれでもほんの一瞬、夢野からは室内の様子が見えてしまったのだが、そもそも他人の部屋にこれっぽっちも興味がないので気に留めることはない。
態度が顔に出ていたのだろう。夢野が王馬に対して微塵も興味がないことを察して、彼は満足そうに笑った。
かと思えば眉尻を下げてしょぼくれた声を出す。
「夢野ちゃんさぁ、オレに対して興味がなさすぎじゃない? そんなに塩対応されると凹むんだけど」
「嘘を吐くでない。そんなこと全く思っとらんくせに」
「にしし、バレた?」
にやにやと意地の悪そうな笑顔もそのままに、王馬は階段へと足を向けた。その背中を、自室の前から動かずに夢野は眺める。
「……何そんなとこで突っ立ってんの。もしかしてまだ寝てる? 夢遊病の気があるだなんて、その名に恥じない特技だね!」
「んあー、そんなわけないじゃろっ」
このままでは二人並んで食堂へ行くことにならないか。そう察して立ち止まったままの夢野に掛けられる声は、明らかに来るのを待っている言葉で。それでも無視をしようかと考えたが、じっと見つめられる居心地の悪さに勝つことはできなかった。
せめてもの反抗心で文句を返し、渋々階段へと向かう。間もなくして隣に立ち並んだ二人は、どちらからともなく相手の顔を見つめた。
「ウチは許しとらんぞ」
王馬が口を開くよりも早く、夢野は低い声で言い放つ。突然の言葉にきょとんとする彼をそのままにさっさと寄宿舎を後にした。
「それって昨日の裁判でのこと? オレ何かしたっけ?」
すぐさま追い掛けてきた王馬は、大股で歩き続ける夢野に並ぶ。頭の後ろで手を組んだ彼は、なぜ自分が責められているのか心底わかっていないようだった。思い当たる節がないのか、思い当たる節がありすぎるのか。どちらにしろ夢野の神経を逆なでするには十分である。
忘れたはずだった感情がむくむくと湧いてきた。真正面からぶつかってどうにかなる相手ではない、適当にあしらわれるだけだとわかっている。けれどこれだけはぶつけないわけにはいかないと、夢野は足を止めて王馬を睨み付けた。
「忘れたとは言わせんぞ。ウチを槍玉に挙げたことじゃ」
昨日に行われた裁判で、まず最初に疑われたのは夢野だった。星の死体を発見したのがマジカルショーの最中であったので、疑われても仕方がないことはわかっている。だがしかし何事も態度が重要である。最原のように可能性の一つとして議題に上げるならまだしも、王馬はお前が犯人だと決めつけた上でやり玉に挙げたのだ。
実のところ、その名を挙げて責めたのは夜長なのであるが、きっかけを作ったのは確かにこの男なのである。全くの濡れ衣である夢野にとっては腹立たしいことこの上ない。
「えぇ〜〜? でも俺が早々に疑ったから、夢野ちゃんの容疑は早くに晴れたんじゃん。怒られるなんて心外だよ! むしろ感謝してほしいぐらいなんだからね!」
そんな彼女の怒りに対して、これである。最初から反省することはないだろうと思ってはいたが、実際に態度を見ると腹立たしさは増すばかりだ。
とはいえこの男には何を言っても何をしても暖簾に腕押しなので、馬鹿正直に怒りをぶつけても無駄にエネルギーを使うだけだろう。朝から無意味に疲れるのは避けたい。
喉まで出かかった言葉を何とか飲み込んで、夢野は食堂へ向かうために一歩を踏み出した。
「え、もしかして無視? 自分から話を振っておいてそれはないんじゃない?」
おーい、と呼ばれるのも無視して大股で歩き続ける。後で何を言われるかわかったものではないが、今はもう王馬の相手をする気力がない。無反応でいれば、退屈が嫌いな彼のことだからいつか飽きるだろう。
しばらくすれば背後から飛んできていた呼び掛けは止む。
(朝からどっと疲れたわい……)
やっと諦めてくれたか、と安堵に胸を撫で下ろす。あれだけ無視をしたのだから食堂で集まったときの報復が怖くはあったが、そのときには茶柱がいつものように夢野の横へ立っているに違いない。いざとなったら守ってもらおう。そう他力本願な気持ちもそのままに、王馬がいなくなったことを確認するため一応、念のため、背後を振り返った。
「いくらなんでもチョロすぎでしょ。危機管理能力が死んでるんじゃない?」
「んああ!?」
半歩ほど離れた背後に、いなくなったはずの男が付いて歩いてきている。呆れ返った顔でため息混じりに馬鹿にされたが、反論などできないほどに夢野は驚いて焦っていた。
あまりにも、とんでもなく近い。二人の背丈にそう変わりがないので、目と鼻の先に顔がある。今まで異性とこんなにも近い距離で接したことがない夢野は、動揺に動揺を重ねた末にそのまま足をもつれさせて。
「け、気配を消すとは卑怯じゃぞ!?」
「いやいや、そこまで消してなかったって。夢野ちゃんが鈍臭すぎるだけだから」
どたんと尻もちをつく夢野を見て、けらけらと王馬が笑う。ズキズキと痛む尻を押さえながら涙目で睨み付けても、やはり効果などない。
「ほら、いつまでもそんなとこで座ってないで。さっさと食堂に行くよ!」
「…………誰のせいじゃ」
差し出された手をつかめば、勢いよく引っ張り上げられる。あっという間に立たざるをえなくなった夢野だったが、ふらつく足元が落ち着くまで王馬がその手を離すことはなかった。
同じような背丈であるというのに、引っ張り上げた力と意外にも固い手のひらに、こいつも男なんだなとぼんやり思う。
(って、何を考えとるんじゃウチは……)
つい先程まで何をされていたのか忘れたわけではない。そもそも転んだのは王馬のせいなのだから、助けるのは当然のことだ。
と、そこまで考えて夢野は離れる気配がない手元を見つめる。
「王馬?もうウチは一人で立てる……、」
まだ何かあるのか、と問いかけようとして、ようやく目の前の男が底意地の悪い笑みを浮かべていることに気づいた。
まだ何かあるのか、ではない。この男が素直に助けるわけもないし、手を離すわけがなかったのだ。
さあ、と血の気が全身から抜ける。慌てて手を振りほどこうとするものの、磁石でも付いているのかと疑うほどに離れてくれない。否、離してくれないのだ。
「あっはっは! ほんっとに夢野ちゃんってばチョロいよねーー! オレが意味もなく優しいことするとでも思った?」
「んあ〜〜〜〜!! 離せ! 離さんかぁ!!」
数分前にほんのちょっと頼もしいなと思った力強さが憎くて堪らない。せめて誰か通りかかってくれればいいのにと願わずにはいられないが、悲しいことにまだ早朝である。ほとんどのクラスメイトたちはの中か、身支度を整えている最中だ。
無駄な抵抗とわかっていても腕を振り回し続けた夢野だったが、程なくしてぐったりとした様子で立ち尽くす。
「ウチが何をしたというのじゃ……」
弱々しく呟けば、返ってくるのは不満そうな声。
「何って、オレのこと無視したじゃん」
「それは……、そもそもお主がウチのことを、」
「だーかーらー! オレがああ言い出さなきゃ、いつまでも犯人扱いされてたんだってば!」
「んあぁ……!」
ああ言えばこう言われ、こう言えばああ言われる。それでもめげずに押し問答を続けていたが、段々と面倒臭くなってしまった。投げつけられる言葉に反論することはおろか、反応すら示すことすら億劫に思えてきてしまって。
「……どうして、お主はこうもウチに構うんじゃ」
握られたままの手を見下ろしながら吐露した言葉に深い意味はなかった。ただこの状態から一刻も早く開放されたくて、意味があるのなら教えてほしかっただけなのだ。
だから不意に手を強く握られるだなんて思いもしなかったし、驚いて顔を上げた夢野の目と鼻の先で微笑んでいる彼の真意など知る由もない。
「お、うま……?」
先程までとは打って変わって静かになった王馬がまるで知らない人のように感じた。こんなにも近いのにとても遠いようで、不安が胸を騒がせる。
と、思っていたのも束の間だった。
「んぎゃ!」
握られていた手が突如として放り上げられる。そのまま手を離されたものだから、ぐわんと振り上げられた手の反動が夢野の体を襲った。完全に油断していたこともあり、せっかく立ち上がったというのにまた尻餅をつく羽目になる。
本日二度目の衝撃と痛みに、今度こそ怒りが爆発しそうになった、のだが。
「夢野さん!! 大丈夫ですか!?」
ばたばたと駆け寄る足音と素っ頓狂な声。朝から声量がありすぎるその人が誰なのか、顔を見ずとも知ることができる。
「ああ、もっと早くに転子がきていればこんなことには……! すみません夢野さん!」
「あーあ、もっと夢野ちゃんで遊んでたかったけど、オレも命は惜しいからね!」
いつの間にか王馬との距離は遠くなっていた。にしし、といつものように笑っている彼の言葉に、隣で茶柱が奇声にも似た声を上げる。
そして始まる鬼ごっこを呆然と見送った夢野は、ゆっくり立ち上がって土埃の付いたスカートを叩いた。まだ打ち付けた尻は痛むが、歩けないほどではない。このまま食堂へ向かってしまおうと、彼女はとぼとぼ歩き出す。
指先に残る温もりも、まぶたの裏で蘇る意図の読めない笑顔も。きっと深い意味などないに決まっている。ただからかわれただけなのだとわかっている、はずなのに。
それは脳裏に焼き付いて、忘れることができなかった。
ざあざあと降り注ぐ雨を見上げている小さな背中を昇降口で見つけたのは、午後六時を回ろうかとしていたときだった。傘を忘れたのだろうか、と思ったがよく見てみれば片手には傘が握られている。校舎から寄宿舎はそこそこの距離があるものの、傘があれば必要以上に濡れることはない。
なのにどうしてこんなところで立ち尽くしているのだろう。
「夢野さん、今帰り?」
考えたところで答えはわからない。ならば聞いてしまえと、赤松は傘立てから自分のそれを手に取りながら声を掛ける。ややあって振り返ったその人は、どこかぼんやりとしながらも赤松の名前を呼び返した。
「どうかしたの? 何か考え事?」
「んあ……ちょっとな……」
返される言葉もぼんやりとしているので、少し心配になる。もしかするとあまり踏み込まれたくないのかもしれない。
だからといって置いて帰るわけにもいかないので、赤松は夢野の隣に立って空を見上げた。
「最近、雨ばっかりで嫌になっちゃうよね。梅雨なんだから仕方ないにしても、もう少し晴れてもいいと思うな」
学園での生活も二ヶ月が経ち、クラスメイトの中でも仲のいいグループができつつある。赤松は最原や百田、春川たちとよく行動を共にしており、夢野は茶柱や夜長と一緒にいるのをよく見かけた。二人は他愛もない会話をすることはするが、そこまで深い仲ではない。
もしかしなくてもいきなり距離を詰めすぎちゃったかな、と赤松は恐る恐る夢野の様子を窺う。けれども当の本人は、相変わらずぼうっとしてはいたが、暗い空を見上げながら肯定を返してくれた。
「こんなにも雨ばかりではマナの溜まり方に偏りが出てしまうからのう。早く梅雨など終わればよいというのに」
マナ、というものが何なのか赤松はまだいまいち理解ができていない。ただ前後の言葉から元気だとかエネルギーだとかそういうものなんだろう、と思っている。
そうだね、と相槌を打って再び空を仰いだ。厚い雲は見渡す限り広がっており、雨が止む気配は全くない。気晴らしにピアノを弾きたいところだが、演奏に没頭しすぎてしまう可能性が高いので、今は我慢をするしかなかった。
(家とか前に通ってた学校と違って、止めてくれる人もいないしね。ここは才能第一だからか、私がいつまでもピアノを弾いていても気に留めないし)
入学してから一ヶ月ほど経った頃、演奏会も近いということで練習に没頭しすぎてしまったことがある。これまでは自宅や学校での練習だったため、必ず止めてくれる人がいたのだが、この学園には演奏を止める者などいない。才能が伸びるのであれば多少無茶をしていても黙認されるのである。
そのときは結局、夜になっても寄宿舎で赤松の姿を見ていないと東条が気付いたことで、大事には至らなかった。
「……ピアノを弾きたくて仕方がない、という顔をしておるな」
「……えっ?」
声に驚いて目線を下げれば夢野と目が合う。
「ど、どうしてわかったの?」
口には出していなかったはずだ。それなのにバレてしまうだなんて、まさか心を読んだとでも言うのだろうか。赤松は声を上ずらせながら問いかける。
すると夢野は胸を張り、得意げな笑みを浮かべてみせた。
「フッフッフ、これぞウチの魔法じゃ!……と、言いたいところじゃが、そんなことをせんでも心の声がだだ漏れておるからのう」
そもそもお主がぼんやりしているときはピアノかピアノかピアノことしか考えておらんじゃろ、と夢野は呆れた様子で続ける。
流石にそこまでのピアノ馬鹿ではないよ、と反論しようとしたが、今の今まさにピアノのことを考えていたことに間違いはない。赤松には返す言葉がなかった。
「よ、よし!そろそろ寄宿舎に帰ろう! 夢野さんはどうするの?」
気持ちを切り替えるために赤松は閉じたままの傘を開いた。学園の入学を機に新調したそれは、ピンク色で音符の柄が特徴的である。先程反論しようとしていたが、自分はそれほどのピアノ馬鹿なのかもしれない、と赤松は苦い笑みを浮かべた。
「そうじゃな。いつまでもここに突っ立っておっても仕方があるまい。ウチも帰るとするかの」
先に一歩、雨の中へ進んだ赤松の背を夢野が追いかける。程なくして並んだ二つの傘は、女子の寄宿舎がある方向へゆっくりと進み始めた。
傘に降り注ぐ雨粒が不規則なようで規則的な音を鳴らす。他の生徒たちはさっさと寄宿舎へ戻っているのか、それともまだ校舎に残っているのか、誰一人ともすれ違うことはなかった。雨が降っている影響もあるのだろう。
いつの間にやら寄宿舎までの道のりも半分を超えていた。
「……でも、何か意外だったかも」
「んあ? 何がじゃ?」
取り留めのない話を繰り返す中で、赤松はつい言葉を漏らしてしまう。あ、と口に手を当てたところで、一度こぼしてしまったものは取り返しがつかない。不思議そうに見上げてくる夢野の視線が突き刺さる。適当な言い訳をしようかと考えて、けれどもいい機会かもしれないとも思えて。
ぐるぐると考えを巡らせた末、赤松は意を決して口を開いた。
「……私ね、夢野さんはあんまり人と関わるのが得意じゃないのかな〜って思ってたんだ。入学してから確か……一ヶ月ぐらいかな?ほとんど一人でいたみたいだったし」
超高校級としてスカウトされたクラスメイトたちはそれぞれの面識がない。テレビや雑誌で顔と名前を知っている者はいたが、言葉を交わすのはもちろん初めてである。全国各地に散らばって過ごしていた彼らと出会えただけでも奇跡的だというのに、クラスメイトとして同じ教室で過ごすだなんてとんでもない確率だ。
こんな機会は二度とない。そう感動に震えた赤松は、入学早々にクラスメイト全員との交流を積極的に始めた。
だがしかし、早々に打ち解けることができたのはほんの一握りである。相手の性格やこれまでの人生など諸々の理由から、そもそも人と接することを好まない者がいたからだ。星や春川はまさにそれで、今でこそ仲良くなってきてはいるが、入学当初はかなりの距離を感じたものだ。
「んあー……そういえば、そうじゃったかの……」
超高校級のマジシャンとして学園にスカウトされた夢野は、いわゆるエンターテイナーである。人に笑顔を与えるための様々な仕掛けは、もちろん人がいないと成り立たないものだ。赤松が誰かにピアノを聞いてもらって笑顔にすることができたら、と考えるように。夢野もきっとそうなのだろう、人を笑顔にすることが好きなのだろうと思っていた。
けれども共に過ごしてみれば、休み時間になると彼女はふらりと消え、授業開始ギリギリに戻ってくる。放課後も魔法の研究があるからと誘いを断り、寄宿舎に帰ってしまうのだ。会話をするにも事務的なものばかりで、世間話をすることも少ない。
いくら夢野が超のつく面倒臭がりだとしても、ここまでくると別の理由があるのではないかと疑ってしまうのは仕方のないことだろう。
「でも、そうじゃなかったんだよね。だからこうして一緒に帰ることができるんだもん」
仲良くなりたいから、と一方的に関わっても相手が同じ気持ちでなければただの迷惑だ。嫌われてしまっては元も子もない。なので赤松は必要以上に関わらず、あくまでただのクラスメイトの距離感を保つように努めた。
そんな日々が続いて、五月も半ばに差し掛かった頃。暇さえあればピアノに向き合っている赤松のもとに夢野がやってきた。何の前触れも無く、本当に突然のことだったので、驚きに驚いたことを今でもはっきりと覚えている。
色々と話したいことが沢山あった。けれど仲良くなれるかもしれない期待、たまたま通りかかっただけかもしれないという不安が混ざり合い、上手く言葉にできない。
何でもいいから何か言わなきゃ、と焦りばかりを募らせる赤松を見かねたのか、はたまた何も考えていなかったのか。突っ立ったまま動きも喋りもしない彼女へ向けて夢野は声をかける。
そういえばお主の演奏を聞いたことがなかったと思ってのう、と。
「私、夢野さんと仲良くなれてすっごく嬉しいよ! よーし、この調子でクラスのみんなと友達になるぞー!」
満面の笑顔を浮かべながら言う赤松に、夢野は目を見張る。そして足を止めたかと思えば、視線を下へ落としてしまった。
「あ、あれ? 夢野さん?」
おかしなことは言っていないはずだ。けれども彼女は足を止めてしまったし、俯いてしまったままである。慌ててきた道を戻り、夢野の元へと駆け寄った。
「……ああ、そうじゃったな」
雨粒の降り注ぐ音に紛れて届いた言葉は、何かに納得したようなものだった。しかし彼女が一体何に納得したのかまではわからず、赤松は首を傾げる。
「夢野さん? えっと、何かあった?」
「……いや、何でもないぞ」
顔を上げた夢野はそう言うと、へにゃりと笑って歩き出す。その笑顔はとても嬉しそうで、けれどどこか泣き出してしまいそうで。
(……夢野さん、たまにああいう顔するんだよね)
少し離れてしまった距離を詰めるため、小走りで夢野を追いかけながら赤松はここ二ヶ月の記憶を呼び起こす。
それはいつでも、何てことのないときに限ってやってきた。女子で集まって話しているとき、放課後に遊びに出かけたとき。嬉しそうでいて泣き出しそうな顔をするのだ。どうしてそんな顔をするのか気にならないわけではない。けれどもどうしてか、踏み込んではいけないような気がして。
未だに、理由を聞けずにいる。
(いつか、話してくれるかな……?)
ざあざあと降り注ぐ雨は、依然として止む気配がない。梅雨の長雨も問えない疑問も、早く全てが明けてしまえばいいのにと赤松は強く願った。
「夢野さん、最近ちゃんと寝てる?」
頭上から降ってきた声に顔を上げれば、心配そうな顔で見下ろしてくる最原と目が合った。その隣には腕を組み、いつもより少し眉をつり上げた春川がいる。
はていつの間に二人がここへやってきたのだろうか。ぼんやりとする頭で考えてみるものの、脳が上手く機能していないためか考えることもままならない。夢野は小さく声を漏らして俯く。
「やっぱりね。最近のアンタ、輪にかけてぼーっとしてるから、そうじゃないかと思ったんだ」
ため息混じりに呆れたように春川が言う。次いで近づいてきたかと思えば、夢野の頬を両手で包んで強制的に顔を上げた。
小さい悲鳴に気も留めず、訝しげな表情のままじろじろと顰められた顔を観察する。そうして先程よりも大きなため息を吐き、一拍の間を置いたあとに目を細めて。
「慣れない化粧で隠せると思った? アンタが思ってるより、その目の下ひどいことになってるよ」
つり上げていた眉を下げながら言う春川の声は、少しだけ弱々しかった。心配をしてくれているのだろう。いつもは凛としている瞳が、僅かに揺れている。
「……もうすぐ、大きなショーを控えておる。その準備や緊張のせいじゃ」
頬に添えられた両手をそっと外す。その言葉に嘘はなく、やましいことだってない。だから相手の目を見ながら何も取り繕うことなく答えた。浮かべた笑顔は少し引きつっていたかもしれないが、疲れのせいなのだから仕方ない。
もうすぐやってくる夏休みを前に、とあるイベント会社から夢野へショー開催の依頼があった。会場となる施設はこれまで彼女が行ってきたどの場所よりも大きく、演出の仕方などを大幅に変えなければならない。相手方との打ち合わせは既に二桁に達しており、中々に難航しているのが現状である。
授業と仕事の両立ができないわけではない。ただスケジュールの都合上、無理でもしなければショーの開催に漕ぎ着けないのだ。
「……そうだね。確かに最近の夢野さんは、今度のショーの準備で走り回ってる」
実のところ、ショーを開催するだけならばそう難しい話ではない。ある程度は相手方にも責任が生じるが、ショーで起こりうるトラブルのほとんどは自己責任であるからだ。これまでは一般の学生という身分であったため、多少、いやかなりの無茶もできたのである。
ところが希望ヶ峰学園へ入学してからは、未来ある学生に何かあっては大変だという理屈のもと、トラブルができるだけ起こり得ないようにしなければならなくなった。夢野がここ数日、学園を走り回っているのは準備が滞っているのではない。ショーの演目について学園の許可を得るためなのだ。
それを最原も春川も、他のクラスメイトたちも知っている。なので夢野がぐったりと疲れた様子を見せていても、顔色が悪くなっていても心配はするものの、頑張ってねと声をかける程度であった。
こうして詰め寄られることだって一度もない。
「でも、やっぱりそれだけじゃないよね。だって夢野さんが寝不足気味だったのは、梅雨に入る前からでしょ」
だのに今、こうして二人に詰め寄られている。責められているわけではない。ただ心配をされているのだということは重々に承知していた。
けれど認められないものは、認めるわけにはいかない。
「そんなコンディションの悪さでショーを開催するつもり? 絶対に失敗するよ」
ばっさりと春川に切り捨てられても、夢野は頑なに『他の理由』を認めない。意固地になっているんだろうことはわかっていたので、最原は少し考えを巡らせて別の切り口を探す。
「僕らは同じ秘密を共有してるから、夢野さんがどうして寝不足なのかは知ることができた。でも他のみんなはアレを知らないから、どうして夢野さんがここまで疲れているのか分からないよね」
夢野を心配する声は、いつも彼女と行動を共にしている茶柱や夜長以外からも上がっている。入間でさえ、このままだとあのまな板女ぶっ倒れるぞ、と気に掛けているほどだ。赤松や百田あたりは、できることなら力になりたい、手伝いたいと毎日漏らしている。
しかし夢野が疲れ果てている理由を彼らは『ショーの開催に伴う準備』だと思っていた。誰しもが下手に手を出せば邪魔になるかもしれない、と一歩引いて見守っている状態である。いつか頼られたときは十分に力になろうと心に決めて。
けれども彼女の中に誰かを頼るという選択肢はない。そもそも、クラスメイトの誰もが自分の才能に関する研究や仕事で忙しいのだ。そんな中で自分の手伝いをしてほしいと頼むのも気が引ける。
それに、何よりも。
「夢野さんは、怖いんだよね?」
「…………」
ぴくり、と揺れた肩が彼女の答えだった。俯いてしまったので表情は見えないが、膝の上で握り締められた拳から感情は窺い知れる。
「……わかるよ。僕も、怖いんだ」
殺し合いを強要された、理不尽と嘘に塗れた世界の記憶。勝つでもなく、負けるわけでもない。ゲームから降りることで生還を果たしたのが、最原と春川と夢野だった。
彼ら三人には、殺し合いの生活を強いられていた記憶がある。それを思い出したのは希望ヶ峰学園の入学式当日のことだ。自己紹介をするクラスメイトたちに重なる、いつか見た変わり果てた姿。生きていてくれて嬉しいのに、それを伝えることは許されない。爆発しそうな感情を押し殺し、初めて足を踏み入れた寄宿舎の自室で泣いたことを、まだ昨日のことのように覚えている。
当たり前のことではあるが、最原たちは全員が初対面であった。才能の突飛さから名や顔を知っていることはあれど、生い立ちや些細な癖など互いに知り得るはずがない。しかし三人は、その本人しか知らないことを知っていた。例えば夜長は作品を作るとき密室で作業をすることだとか、キーボに搭載された性能の程度だとか、白銀がコスプレをできるのは二次元のキャラクターに限るということだとか。
「うっかり口を滑らせて、どうして知ってるんだと疑われるのが怖いんだ。そこからあの学園のことが知られるとは思わないけれど……、でも万が一っていう可能性があるからね」
「……ゴン太とか入間なら言いくるめられるかもしれないけど、他は微妙なところだしね。赤松とか天海は結構鋭いし、それに……、アイツもいるし」
苦々しく続ける春川が誰のことを言っているのか、二人には伝わっていた。
ぐ、と夢野の小さな拳に力が入る。それに気付いた最原は、口を開きかけた春川を目で制した。
「……わからなく、なるのじゃ」
ぽつりと漏らされた言葉は、とても小さく震えている。今すぐにでも泣き出すのではないかと思えるほどに弱々しくて。
けれどようやく、夢野が己の胸の内を話そうとしているのだ。心配になる気持ちを抑え込んで、二人は言葉の続きを待つしかない。
「記憶の中のあ奴らと目の前にいるあ奴らは、同じ人間ではあるが全く別の人間じゃ。それをわかっておるつもりじゃが、でも、元は同じ人間であることに違いはないから……」
距離感を、間違えそうになる。そう呟いたきり、夢野は黙り込んでしまった。
同じ人間ではあるが、必ずしも同じではない。何故ならあの世界には幾つもの嘘が散りばめられているからだ。生い立ちや才能に関すること、その他にも大なり小なり『この世界』とズレが生じている。だから記憶の中で息衝いている彼らと、今目の前に立つ彼らは同じ姿をしていても違う。
そう頭で理解はしていても、すんなりと受け入れられるのかといえば、答えは否だ。理性と感情の相反する結論に板挟みとなり、毎日心が軋んでいるのに気付きながらも耐えるしかない。
「……だからって、一人で抱え込むことはないよ。あたしも、最原だっている。アンタはもっと頼っていい」
しゃがみ込んだ春川は、言いながら夢野の頬へ手を伸ばす。さらさらとこぼれている涙を優しく指で拭い笑いかける姿を見て、彼女の本職が暗殺者だとは誰も思わないはずだ。
春川に倣ってしゃがみ込んで、最原も柔らかく微笑みかける。
「春川さんの言う通りだよ。こうして三人だけで集まれる機会はあまりないかもしれないけど……、呼んでくれたらすぐに行くから」
「まぁ、集まったからって何も解決しないけどね」
「は、春川さん……」
折角いい話の流れになっていたというのに、いきなり春川が話の腰をブチ折るものだから、つい最原は責めるような声を出してしまう。
「……ふふ、春川の言うとおりじゃな」
しかし夢野が笑って言うものだから、二人は顔を見合わせた。やがて互いに顔を見合わせた彼らは、小さく笑いながら他愛のない話に花を咲かせる。
日も落ちて暗くなりつつある教室に伸びる、三つの影。まだ全てを受け止められるわけではない。でも今はそれでいいのだと、最原はそっと目を伏せた。
いくつもの羽音を立てながら飛び立つ真っ白な鳩の群れ。軽快な音楽に合わせて次々と繰り出される驚きと笑顔は、あっという間に大きな会場へ広がった。大人から子どもまで、性別も関係なく目を輝かせる観客達は次に何が飛び出すか期待に胸を膨らませている。
関係者席で華やかな舞台を鑑賞していた天海は、大きなステージで休む間もなくマジックを披露する少女に見惚れていた。いつも教室で見る、口を開けば面倒臭いとぼやいている姿とは重ならない。小さな手から繰り出される奇跡の連続はまるで本物の魔法のようで、彼女が常々言っていることも嘘ではないのだと心の底から思えた。
「すごい、すごいです夢野さん!」
「にゃはは〜! 秘密子、本当の魔法使いみたいだよ〜!」
隣からは本日の主役、夢野と特に仲のいい茶柱と夜長の声援が聞こえる。他にもこの公演を心底楽しみにしていた入間やゴン太、興奮した様子の赤松たちの声が天海の耳に届いていた。けれどもどの声へも一切意識が及ばない。ただただ無邪気に、夢野が作り上げるショーへ没頭していた。
『今宵のショーはここまでじゃ。楽しんでもらえたかの?』
仰々しく礼をしながら不敵な笑みを浮かべる夢野の言葉に、会場は今日一番の盛り上がりを見せる。今一度、深い礼をしてみせた彼女への拍手喝采は、幕が下りても暫くは止むことがなかった。
観客たちの凄まじい熱気が治まったのは、退場を促すアナウンスが流れ始めた頃。まだ興奮冷めやまぬ者もいたが、ほとんどの人々は夢のような舞台に背を向け日常へ戻ろうとしてた。
「さて、と。オレたちも夢野のところへ行こうぜ!」
いの一番に立ち上がった百田へ続いて、茶柱たちも勢いよく席を立った。早く感動を伝えたい、大規模なショーを無事成功させたことを労いたい。そんな気持ちを隠すことなく、皆一様に笑顔を浮かべながら夢野がいるであろう控室へと足を向けていた。
しかしふと、いつもならば率先して彼女へ絡みに行く影が一つ足りないことに気付く。
「……王馬君、何してるんっすか?」
席に座ったまま、片付けの始まりつつある舞台を眺めている。薄明かりの中で見る横顔からは感情を窺い知ることはできない。元より何を考えているのかわかりにくい彼であるが、今は輪にかけて考えが読めなかった。
「オレさぁ、マジックって結構好きなんだよね」
ようやく立ち上がったかと思えば、視線を舞台に向けたまま王馬は言う。しかしそれは天海に話しかけている、というより独り言に近いように思えた。
「マジックには必ずタネがある。それを視覚的なトリックや技量で補って不思議な、それこそ魔法のように見せるんだよ」
クラスメイトたちの声が遠くなっていく。夢野に早く会いたいと気が急いているためか、天海と王馬が遅れていることに気付いていない。
とはいえ声が完全に聞こえなくなる直前、僅かばかりの視線を感じたので、恐らく東条辺りは途中で気付いたのだろう。
「と、言えば聞こえはいいけどさ。マジックっていうのは嘘の塊なんだよね。本当はある種もトリックも無いように見せかける、技量が必要な高度な嘘」
「でも、その嘘は誰かを傷付けることはないっすよね」
す、と王馬の瞳が天海を捉える。
「確かに王馬君の言う通り、マジシャンっていうのは嘘をついてるようなもんっす。でもそれは夢のある、皆を笑顔にさせるためのものっすよね?」
探るような視線に怯むことなく続ければ、やがて王馬は口角をこれでもかと上げた。
「さっすが天海ちゃん。オレの言いたいことをよくわかってくれてるよね〜」
にしし、とお決まりの笑い声をこぼしながら彼は天海の横を通り過ぎていく。頭の後ろで手を組み、すっかり離れてしまったクラスメイトたちを追いかけるために連絡通路へと消えていった。
「……、ふむ」
そうして一人残された天海は、顎に指を当てて少しだけ考え込む。いくつか頭に浮かんだ疑問やその解をある程度処理し、何となく纏ったところで止めていた足を連絡通路へ向けた。
用意されていた控室はそこそこ狭く、16人もの人間が入るには少し無理がある。主役である夢野は小柄だが、ゴン太はその何倍も大柄なのだ。それでなくても男女問わず平均的、もしくはそれ以上の高身長者が揃っているのだから、尚更狭く感じる。
「ほんっとーーに! 凄かったです夢野さん!」
「次は何が起きるんだろうってワクワクしっぱなしだったよ!」
最後に控室へ入った天海の耳に飛び込むのは、茶柱と赤松の興奮混じりの賛辞。疲れているのか、少しくったりとしている夢野が、それをうんうんと満足そうに聞いている。
「あれだけの観客を全員虜にできるんだから、大したものだよ。流石は超高校級と言われるだけあるネ」
「俺みたいな奴でも夢中になっちまうんだ。アンタの実力は本物だぜ」
彼女を褒め称える声は止まない。誰もが先程のショーに心を奪われ、感動を伝えたいと思っているからだろう。もちろん天海も、皆より遅れてではあるが心からの賛辞を送った。
「みんな、気持ちはわかるけれど、そろそろ夢野さんを休ませてあげましょう?」
皆に聞こえるよう、少しだけ大きな声で東条が言う。あれほどの大きな舞台を終えたあとだ。疲れていないわけがない。ついつい熱が入りすぎて詰め寄りすぎてしまっていた。
すぐさま一歩引くクラスメイトたちだったが、心配された当の本人はへらりと笑う。
「確かに疲れてはおるが、気にすることはないぞ。むしろもっと褒めてくれてもいいぐらいじゃ!」
「あれま、秘密子ってば調子乗っちゃってるね〜」
「いやいや! もっと調子に乗ってもいいぐらいですよ! 夢野さんはあんなに凄いショーを大成功させたんですから!」
夜長と茶柱、そして夢野がお互いに笑い合う。微笑ましい光景にその場にいる誰しもが笑顔になっていた、というわけではない。
ちらり、と天海は目線だけを小柄な彼へ向ける。そこには先程舞台を眺めていたときと同じ、何を考えているのかわからない横顔があった。
(うーん、これは……)
真実を見極めることはできそうにないが、どうやら何かが拗れ始めているのだろうことは窺える。さてどうしたものか、と天海が顎に指を当てて考えを巡らせていると、不意に背後の扉が開いた。人一人が入るほどしか開かれなかったそこから顔を出したのは、夢野へショー開催を依頼したクライアントである。
「あっ、お取り込み中でしたかね?」
「いいえ、そろそろ失礼いたしますので。こちらこそ長々と申し訳ありません」
天海の声にようやく他の面々もクライアントの姿に気付いたようで、慌てたように退出しようと準備始める。しかしクライアントの男性は、にこりと人のいい笑顔を見せるとひらひら手を振って見せた。
「いえ、お気になさらず。私たちもこれから色々と纏めがありますので、もう少しお時間頂きたいところですから」
失礼します、と言い残して彼はそそくさと出ていってしまった。終始上機嫌だったところを見るに、ショーが予想以上の盛り上がりを見せたことにご満悦なのだろう。よかった、と安堵の息を吐いたのはさて誰からだったか。
素直に好意を受け取ろう、とも思ったが流石にこれ以上は夢野にも主催者にも迷惑をかけることになる。最初に席を立ったのは東条で、それに続いてぞろぞろと皆が立ち上がり始めた。
「それじゃあ夢野さん、また後でね」
「終わったら連絡して。適当に時間潰してるから」
ショーが成功しても失敗してもみんなで打ち上げをしよう、という赤松と百田の提案で、夢野の仕事が終わったら集合することになっている。忘れないようにと最終確認をする最原と春川の言葉に頷いて、夢野は部屋を出ていこうとする皆に対して手を振った。
「それにしてもクラスメイト全員を招待するだなんて、夢野さんも太っ腹だよね! 関係者席だから地味に遠くはあったけど、そもそもチケット自体を取るのも大変なんだもん」
希望ヶ峰学園にスカウトされるほどの約束された実力を見ることができるのだ。超高校級の生徒が絡んでいる舞台やショーのチケットは、基本的に即完売となる。もちろん今回行われた夢野のショーも例に漏れない。
できれば皆で観に行きたい、と意気込んだ一部の者がチケット戦争に果敢に挑んだものの、結果は惨敗である。まず間違いなくチケットは取れないだろうとは踏んでいたが、まさかここまで手応えがないとは思いもしなかった。その場にいた全員で涙を飲んだことは記憶に新しい。
とはいえチャンスはまた巡ってくるはずだ。その時には絶対にみんなで行こうね、と赤松や茶柱たちが意気込んだ翌日に夢野からチケットを渡されたのである。
「しかし、よく15人分もの席を用意できましたね? ボクらとしてはとても有り難い話なのですが」
「ま、まさかその貧相なカラダを売ったのか!?」
「バカを言うでない。普通に主催者側へ頼んだだけじゃ」
キーボの疑問に入間がよくないノリ方をするものの、呆れかえった夢野にばっさり切り捨てられる。
「そうは言うけど、ただ頼んだだけですんなり受け入れてくれるものかな?僕らを入れるより、お客を入れたほうが向こうも儲かるだろうしネ」
「確かにそうっすけど……、うん。さっきの人の態度を見た感じ、オレたちと顔見知りになるのも悪くないって考えてる節もありそうっすね」
ショーが大成功した、にしては上機嫌すぎるような気はしていた。また自分たちへ対する寛大な態度もどこか引っかかる。それが何なのかを考えていた天海だったが、これまでの話でそう結論付けた。
滅多に出会うことのできない超高校級が15人もやってくる。こんなチャンスは二度と訪れないかもしれない、と相手方が考えるのは想像に容易い。やってくる超高校級の中にはピアニストである赤松や美術家である夜長など、催事に向いている人材も何人かいるのだ。
「天海の言う通りじゃ。ウチがダメ元で頼んでみたら、むしろ大歓迎だと喜ばれたからのう」
「でも、どうして?」
いつもの彼からは想像できないほど、静かな声だった。いつの間にか前方へと移動していたらしい王馬が、きょとんとする夢野の真正面に立っている。
「どうしてって、何がだよ」
訝しげな顔で王馬に問いかけるのは百田だ。けれども話し掛けられた本人はそちらへ目もくれず、じいと夢野を見下ろすばかりである。
「どうしてオレたち全員を誘ったの? 仲のいい茶柱ちゃんたちならわかるよ。でもさ、そう仲良くもない星ちゃんとか、……オレまで誘ったのは何で?」
これまでの賑わいが一転、室内は静寂に支配される。ほとんどが王馬の真意を察せずに狼狽しており、互いにアイコンタクトでどうするかを相談していた。けれどもアイコンタクトで意思疎通ができる器用なものは多くないので、ほとんどが不発に終わっているようだが。
そうして沈黙がどれほど続いたのかはわからない。ただ体感した時間はかなり長いもので、一体誰が口を開くのかと探り合いが続いていた。
「何故、か……」
ふと夢野の表情に影が差す。その瞬間、どうしてか最原と春川が何かを言い出そうとしているのを、天海は視界の端で捉えた。普段から仲のいい茶柱や夜長ならともかく、何故あの二人なのだろう。
そんな疑問に襲われている内に、突如として状況は一変する。
「そんなもの、お主らにウチの魔法を認めさせるために決まっておる!」
眉をつり上げながら言う夢野は、びしっと王馬に向けて指を指す。
「いつもいつもウチの魔法をマジックだのタネがあるだの、何度言うてもだーれも魔法じゃと認めんではないか! ならば本物の魔法を見せて、認めさせるほかない。そう考えて、多少無理をしてでもお主ら全員をこのショーへ招くよう手配したのじゃ!」
「……はっ! て、転子は夢野さんのマジックは魔法だって信じてましたよ!!」
「茶柱さん、それ地味にフォローになってないよ」
いつもより声を張って主張する夢野の言葉には説得力があった。夢野のマジックを誰もが魔法と認めない、のは仕方がないといえば仕方がないのだが、本人としてはやはり納得ができないのだろう。現にフォローした、基本的に夢野の発言を肯定している茶柱ですら、うっかりマジックだと口を吐いて出てしまうぐらいだ。
自分の才能がどれほどのものか、魔法というに足りるものかを示すには、今回のようなショーを見せることが一番手っ取り早い。なるほど、筋は通っていると天海は彼女の言い分に納得をした。
それはそれとして、何故このタイミングで最原と春川が動こうとしたのだろうか。気になりはする、が今この疑問をぶつけると話がややこしくなる一方なので、別の機会に尋ねることにする。
「仲のよくない奴を誘うのは何故、と言うたな? そんなもの、仲のよくない奴ほどウチの魔法を信じとらんからじゃ!」
どーん、という効果音が付きそうな言い切りっぷりに、その場にいた全員が呆気にとられていた。普段はあまり声を張らない夢野の、全身全霊の主張。ここまで大騒ぎするほどということは、相当根に持っていたのかもしれない。
「……それ、本当?」
それでも尚、王馬は何かを疑っているようだった。元より疑り深い性格であるのは知っているが、ここまで引き下がらないというのも珍しい。疑問と興味、観察の目が自然と彼へ集まっていく。
「うむ。本当じゃ」
胸を張って言い切る夢野と疑いの目を向け続ける王馬。睨み合いにも似た対峙はいつまでも続くように思えた、のだが幕引きは意外にもあっさりと訪れた。
「……は〜〜〜、夢野ちゃんってマジ無駄なところに労力使うよね? 魔法を披露するなら別に学園でもよかったじゃん。そうすればわざわざオレたちが出向かなくてもよかったんだしさぁ」
呆れている様を隠しもせず、深いため息をおまけに付けながら王馬が言う。
「そ、それは……、確かにそうじゃな……?」
「えっ、指摘されるまでこんな簡単なことにも気付かなかったの? 夢野ちゃんの頭ってちゃんと詰まってる?」
「んあ〜〜〜〜! 詰まっておるに決まっとるじゃろ!」
ぎゃあぎゃあと騒がしくなる室内を飛び出していく小さな影。悪戯っ子の顔もそのままに廊下へ躍り出た王馬は、一度だけ振り返る。
「じゃあ今日は夢野ちゃんの奢りだね! キミのエゴでオレたちをここまで呼び出したんだし、それぐらいしてくれたっていいでしょ?」
「んあ!? 何故そうなるんじゃ!?」
その発言にぎょっとした夢野は、今にも駆け出そうとしている王馬を止めるために駆け出す。けれどもクラスメイトの内でも一番鈍くさい彼女に捕まえられるわけもなく。
「なーんてね、嘘だよ〜!」
「あっ、こら王馬ぁ!」
そうしてどたばたと音を立てながら出ていってしまった二人を見送り、室内に残された14人は互いの顔を見合わせる。
「夢野のやつ、出ていって大丈夫なのか?」
「大丈夫じゃないだろうね……」
まだこれから打ち合わせがあるということを、すっかり忘れてしまっているらしい。百田の呟きに苦笑いを浮かべる最原たちは、間もなくして本日の主役を探しに部屋を出ていく。
果たして打ち上げが開始するのは何時になるのか、そもそも打ち上げ自体することができるのか。ぼんやりとした不安に駆られながら、彼らはやたらと騒がしい方へ足を進めた。
頭も体も心も、全部が重かった。
前に進むのだという決意は、変わらず胸にある。しかしぽっかりと空いてしまった心の穴から、やる気というやる気がこぼれてしまっていた。あれもこれもどれもがちぐはぐで、ただただ空回る決意を他人事のように見るしかない。
(……起き、なくては)
ゆっくりと起き上がった夢野は、のろのろとした動きで洗面台へ向かう。鏡に写った顔はお世辞にもきれいとは言えない。腫れた目蓋と涙の跡がくっきり残る頬、ぼんやりと虚ろな瞳。この世の終わりが訪れたかのような顔である。
否、夢野の世界は一度確かに終わったのだ。心を許した友人を二人も亡くし、この世の全てが信じられなくて、受け入れられなくて。このまま心を殺し生きる気力すら捨ててしまおうとすら思っていた。
「そう、じゃ……、礼を、言わねば……」
まるで責めるような言い方ではあったが、無遠慮に言葉を叩きつけられたからこそ、感情を爆発させることができたのだろう。昨夜はあのまま泣き疲れて眠ってしまったので、まだ礼を言えていない。
一体どういう風の吹き回しで背中を押してくれたのか、夢野にはてんでわからなかった。けれどもあの言葉があったからこそ、彼女は生きるために前を向こうと思い立てたのである。
(いやしかし、この顔であやつの前に出るのは……)
常日頃からブスだのなんだの、何かと顔について一言も二言も多い男だ。泣き腫らしてむくんだ顔のまま出会ってしまったら、折角立ち直りかけている心がぽっきり折れるだろう言葉で刺されるに違いない。
まずはこの顔をどうにかしなくては、と夢野は顔を洗うために水道の蛇口を捻った。
どう見てもガラクタでしかない謎の道具で開放された新しい施設。新たに発見した思い出しライト。多すぎる情報はただ混乱を生むばかりであったが、それでも何も知らないよりかはマシだろう。
ある程度の情報交換を終えたところで、その場は解散となった。先程開放された施設を詳しく探索しようとする者、何かしらの目的をもってどこかへ赴く者。それぞれが散り散りになっていく中で、夢野は小走りにとある背中を追いかけた。
朝からずっと、礼を言いそびれている。今日初めて顔を合わせたのは食堂で、朝食を食べ終えたらと思っている内にそのまま探索する流れになってしまった。その探索も終わったかと思えば、どうにも話しかけ辛い流れになってしまったのである。
(そ、それにしても、いつもは要らぬ勘まで鋭いというのに。まさかウチに気付いておらんのか……?)
あっちにふらふらこっちにふらふらと、立ち止まらずに歩き続ける背中を追いかけて随分経つ。超高校級の暗殺者であり、気配を消すことに長けた春川ならまだしも、気配の消し方すらわからない夢野の存在に気付かないわけがない。だのに前を歩いている背中は振り返ることがなかった。
やがて曲がり角に差し掛かったかと思えば、それはするりと物陰に消えてしまう。ただでさえ離されていたというのに、これ以上の距離が空いてしまえば今度こそチャンスを失うに違いない。夢野は息切れを起こしながらも懸命に足を動かし、勢いよく曲がり角へと飛び込んだ。
「うわっ、危なっ!」
「んぁあ!?」
あるはずのない人影がそこにある、と気付いたときには既に夢野の全身を衝撃が襲っていた。勢いあまり過ぎて反動もそのままに後ろへ倒れかれた、が思い切り腕を引っ張られたことで尻餅をつくことは免れる。
代わりに全体重を支えるための衝撃が腕を襲うことになったが。
「いやー、まさかそのままの勢いで突っ込んでくるだなんて思いもしなかったよ。あ、もしかして前向きになるために猪でも見習ってるの?」
けらけらと笑っているのは、つい今しがた見失いかけた王馬だった。口ぶりからするに、夢野が後ろから付いてきていることに気付いていたらしい。
「き、気付いて、おるでは、ないか……!」
ぜえぜえと乱れた呼吸の隙間で何とか心境を訴えれば、返ってくるのは意地の悪い笑み。
「そりゃあ気付いてはいたよ?でも呼び止められなかったし。たまたま行き先が同じなのかな〜って思ってたからね」
用があるなら呼び止めればいいでしょ、と続けられて、夢野はぐうの音も出ず黙り込む。
食堂で繰り広げられた平行線のやり取りに、思うところがないこともない。本当に彼が心の底からゲームを楽しんでいるのだというのなら、極力関わらないようにするのが得策である。
とはいえ、そんな相手でも礼を欠くわけにはいかない。夢野が諦めずに王馬を追っていたのは理由はそれだったのだが、先のやり取りがどうしても彼女のあと一歩を躊躇わせた。
「それは、そのう、お主の言う通りじゃな……」
「っていうのは嘘なんだけど」
「んぁ……」
王馬の言う通り、謝りたいのなら早くに声をかければよかったのだ。そうすればこんなに体力を使うこともなかったし、無駄に腕を痛めることもなかっただろう。夢野は素直に反省をした、もののすぐさま返ってきた言葉に閉口するしかない。
やっぱり謝るのはやめようか、なんて気持ちになってしまう。
「それより夢野ちゃん、オレになんか用事でもあったの? 随分しつこく追いかけてきてたけど」
俯いてしまった夢野の顔を覗き込みながら、王馬は首を傾げた。どうして追いかけてきたのかわからない、と表情ではあるが、恐らく予想はついているのだろう。瞳の奥から薄っすらと悪戯心が透けて見えた。
それに気づかないフリをして、ようやく巡ってきたチャンスを手にするため顔を上げる。何を言われてもいい、一方的でもいいので礼を言わなければ。心を奮い立たせながら口を開こう、として。
「はっ! もしかして、オレを殺すために追いかけてきたの?! だからこんなにしつこかったんだね……こんなところで殺されちゃうだなんて、オレはやだよ! ヴェアアァァアアアアン!」
「んあ〜〜!! そんなわけなかろう!!!」
「だよねー。学級裁判で二回も連続で罪を擦り付けられそうになるぐらいにはチョロくて鈍くさい夢野ちゃんに、殺人なんて無理だろうからね」
号泣したかと思えばけろりと笑う。相も変わらず感情の起伏が激しすぎる王馬と対峙するのは、やはりとんでもなく疲れる。柄にもなく走ったことや大声を上げたことで体力を消耗しきりそうだというのに。
はあ、と漏れ出た吐息は呼吸を整えるものだったのか、はたまたため息だったのか。
「で、ホントのとこどうなの? まさか用もないのに追い掛けてきてたわけじゃないでしょ」
「んぁ……そうじゃの……、ちゃんと理由はあるぞ」
やっと呼吸を整えられたところで、夢野は目の前に立つ男へ向き合う。小さな笑みを浮かべながら掛けられるであろう言葉を待っている彼は、頭の後ろで手を組んで首を傾げてみせた。
「昨晩はそのまま泣き疲れてしまったからのう。まだ直接言っておらんかったじゃろ」
「昨晩? ……ああ、夢野ちゃんがブサイクな顔でギャン泣きしてたときのことか。何かあったっけ?」
「ブサイクは余計じゃ!って、そうではなくてじゃな」
一つ深呼吸を起いて頭を下げれば、随分と間抜けな声が降ってきた。一体どんな顔をしているのか気になって仕方がなかったが、今はそれよりも感謝を告げなければならない。
「ありがとう。あのときお主がああ言ってくれなければ、今頃ウチは死んだように生きておったに違いない」
もしくはすべてに絶望して、自ら命を絶っていたかもしれない、なんて。
言えた、言い切った。やっと吐き出すことができた満足感に自然と笑みが溢れる。
さて、一体王馬はどんな顔をしているだろうか。呆れているかもしれない、バカにしてくるかもしれない。それとも素直に感謝の意を受け取ってくれるかも、なんて考えながら夢野はゆっくりと顔を上げる。
「……ふふ、間抜け面じゃのう」
ぽかん、としたまま夢野を凝視している王馬と目が合った。今まで見たことのない、心の底から驚いているかのような様だったから、ついつい笑ってしまう。
彼のことなのでそれも嘘、演技である可能性も多分にあったが、何故だがそうではないと思えた。
「何、そんなこと言うためにオレのことあんなにしつこく追いかけてたの? 馬鹿じゃない?」
「ば、馬鹿とはなんじゃ! 人が礼を言っておるのだから素直に受け取らんか!」
訝しげに歪められた顔が吐くのは、いつも通りの憎たらしい言葉だ。やはり馬鹿にされた、しかも直接的にと怒りで声を荒げるが、ある意味予想通りの展開に少しだけほっとする。
「わかったわかった、ちゃんと受け取るからそんなに怒んないでよ。可愛い顔が台無しだよ〜」
「んあ!? かわ……っ、いや嘘を吐くでない! さっきまでブサイクだの何だのウチの顔をこき下ろしておったではないか!」
「たはー、バレたか! 夢野ちゃんにしては鋭いね!」
「んあ〜〜〜! お主というやつは!!」
駆け出す王馬を追い掛け、夢野はもつれそうになる足を懸命に動かした。しかし追いかけっこを開始して数分も経たないうちに、あっという間に引き離されてしまった。わかってはいたのだが、ここまであっさりかわされると腹立たしい。
そこでふと、夢野はあることに気付く。
「ウチのことなど、簡単にまけるではないか……?」
鬱陶しいと思っていたのなら、追いかけてくる夢野などさっさとかわせばよかったはずだ。しかし先程の王馬はそれをせず、むしろ彼女が追いつくのを待っていたかのように待ち構えていたのである。
「……まぁ、たまたまじゃろうな」
考えたところで答えに辿り着けるわけでもない。あの気まぐれな男のことだから、深い意味などないのだ。一人残された夢野は、今日何度目かわからない溜め息を吐く。
これからの予定は特に決まっていない。適当にぶらぶらして出会った誰かと暇を潰せばいいか、と当てもなく学園内を歩き始めた。
思えば既にあのとき、全てが手遅れだったのだ。
巨大なスクリーンに映し出される、学生を中心に流行しているのだという恋愛映画。少女漫画が原作であること、期待の若手俳優が主演という話題性からか、客席のほとんどが女性客で埋まっている。
ぐす、と隣から鼻をすする音がした。恐る恐る視線をそちらへ向けてみれば、ハンカチを片手に涙ぐむ白銀がいる。まさか泣くとは思っていなかった夢野は、ぎょっとした顔もそのままに友人を見つめた。
(これはストーリーに感動しておるのか……? いや、今はそんなシーンでもないぞ……?)
推している若手俳優が初主演で映画に出るの、と前売り券を片手に興奮した様子で白銀が言い出したのは、夏休みも半分が終わった頃の登校日のことである。明日公開初日を迎えるのだというそれは、本来彼女とその友人とで行く予定であったらしい。ところが急用で友人が来れなくなってしまい、チケットが余ってしまっているのだという。
一人で行くのは寂しいし、誰か付き合ってくれると嬉しいな。そうはにかみながら言った白銀であったが、同行を申し出てくれた女子はいなかった。彼女と一緒に行きたくない、というわけではない。出掛けるのが明日という急な話であったためだろう。しょんぼりとする白銀ではあったが、急な話だという自覚はあったようで、やけにあっさりと引き下がった。
とはいえやっぱり一人じゃ寂しいなぁ、なんて顔をしていたものだから。ほんの少しだけ付き合ってみるのもいいか、なんて思ってしまったわけで。
(喉が乾いたのう……)
物語も中盤に差し掛かっている。開場前に買ったジュースは飲みきってしまったので、喉が渇いても我慢するしかない。ペース配分をすっかり間違えてしまったことを悔いながら、夢野はぼんやりとスクリーンを眺める。
大きく広い画面の中で走り回る、主人公であるヒロインの女子高生。ちょっとしたすれ違いからクラスメイトである男子生徒と喧嘩をしてしまった彼女は今、そのクラスメイトが事故に遭ったと聞き病院へ急いでいる最中だ。内容としてはよく見る話である。
(走るよりも自転車を使ったほうが早いのではないか? ……いや、そういう演出か)
生きるか死ぬかを彷徨うクラスメイトを心配するのなら、利便性のいい自転車やタクシーを使えばいい。しかしそれをしないのは、ヒロインの心境を伝えるためなのだろう。
あんなことを言わなければよかった、今すぐにでも謝りたい、どうか間に合って。モノローグで語られるヒロインの叫びは悲痛なもので、その必死さに引きずられたのか鼻をすすっている音が一つ、また一つと増えていく。
(……みんな、素直じゃな)
ヒロインのモノローグ、観客のすすり泣く声。映画の主題歌にもなっている挿入歌を聞きながら、夢野はそっと目を伏せた。
この話は所詮、物語である。学生を中心に爆発的なヒットをしているということは、少なくとも極端なバッドエンドを迎えることはない。もしかするとクラスメイトの彼は死んでしまうかもしれないが、お互いの気持ちを伝えることはできるはずだ。
例え別れることになってしまうとしても、ヒロインは前を向いて歩いていけるだろう。
(……あぁ、)
病室の扉が勢いよく開かれる。ベッドの上では包帯を、全身のあらゆるところへ巻かれた青年が座っていた。息を切らして転がり込んでくるヒロインを見て、彼は驚きながらも小さく笑う。
『ひどい顔だな』
その瞬間、ヒロインは大粒の涙を流しながら青年に抱きつく。物語が最高潮に盛り上がるシーンへ差し掛かったことで、劇場内に大音量のBGMが流れ込んだ。その壮大で感動を誘うメロディーは、観客たちの感動に涙する嗚咽を掻き消していく。
「羨ましいのう……」
自然とこぼれた夢野の独り言すらも攫い、映画はスクリーンの中で続いていく。
思えば既にあのとき、全てが手遅れだったのだ。わかりにくい優しさに気付いても、たった一人で戦っていたことを知っても。伝えたい言葉をかける相手は、物言わぬ鉄塊と共に逝ってしまった。
もう二度と、あの小憎たらしい声が聞けないと気付いたときに湧き出た感情。長くかかっていた靄が晴れるかのように、明確な形を持って現れたそれの名前を、夢野は知っている。
知っているからこそ、知らなければよかったと思った。
(ウチは、王馬のことが……)
地獄のような世界で生まれた手遅れの恋心を抱えたまま、夢野は平穏な世界を今日も生きている。あのときの真意を確かめることも、いっそすべてを忘れようとすることもできないまま。
「こんなところで何をしているの?」
無造作に積まれているダンボールに四苦八苦していると、不意に背後から声をかけられた。驚いて振り返れば、視界に飛び込む薄紫の長い髪。凛とした顔立ちのその人は、中途半端な姿勢で固まる夢野を見つめている。
「に、荷物を、整理しとるのじゃ」
「そう。……その量を、一人で?」
探るような視線を向けられ、ついその場で硬直してしまった。本人にそんなつもりはないとわかっていても、探偵という職につく者から鋭い視線を投げかけられたら身構えてしまうのも無理はない。
しん、と静まり返る薄暗い倉庫。一体どうして声をかけられたのかわからない夢野は、固まった体はそのままに視線だけを彷徨わせる。
「……あぁ、ごめんなさい。怖がらせるつもりはなかったのだけれど」
「んあっ、怖がっておるわけでは……」
うんともすんとも言わない夢野に対し、彼女は一度目を伏せたあとに声をかけてくる。その声色はずいぶんと優しく、まるで子どもか小動物に話しかけるようなものだった。
反射的に否定をしたものの、観察力と洞察力がずば抜けて高い相手である。虚勢を張ったところで無意味なようで、現に彼女こと霧切は優しい眼差しを向け続けていた。
「それで、こんなところで一人作業をしているのは何故かしら?」
一旦終わったかと思えた会話は、まだ続行していたらしい。小さく首を傾げながら問いかけてくる霧切は、その瞳に知的探究心を僅かばかりに宿らせていた。
まるで知りたがり期の最原のようだ、と思いはしたが、そういえば二人は同じ才能を持っていたのだから当たり前なのかもしれない。
「んぁ……これはじゃな、魔法の道具なのじゃ」
「魔法? ……あぁ、『魔法』ね」
夢野の言い方に一度は引っかかりを見せたものの、霧切はすぐに何かを納得したかのように言葉を繰り返す。超高校級の才能は学園内でそれぞれ知れ渡っているし、夢野がマジックを魔法と言うのも生徒から教師まで周知のことだ。驚いたり呆れはするものの、今更訂正することはない。
そう考えると、頑なに訂正をしたがる自分のクラスメイトたちは何なんだと思わなくはないのだが。
「繊細な道具もあるからのう。あまり人に触らせたくはないのじゃ」
「それは友達相手でも?」
「……ウチの友人は、その、癖が強くてのう」
超高校級の合気道家と超高校級の美術部員。どちらもいい友人ではあるのだが、いかんせん実力行使が過ぎるところがある。体育会系の茶柱がそうであるのはわかるが、文化系の夜長がそうあるのは一体何故なのだろうか。
そういうわけで荷物の取扱にやや不安を覚えたため、夢野は一人で整理を行っていたのである。決して頼める友人がいないわけではない。
すべてを語ることはなかったが、話し方や態度で大方悟ったのだろう。霧切は詳しく追求してくることはなく、そう、と短く呟いた。ややあって考え込むような仕草を見せた彼女は、改めて夢野を観察するように見やる。
「よかったら手伝うわ」
突然の申し出に目を丸くした夢野だったが、すぐさま我に返り両手を顔に前で大げさに振った。
「んあっ、それは有り難い申し出じゃが……!」
「あら、私が乱暴そうに見える?」
「そ、そうではないぞ! 荷物の中には重いものもあるのじゃ。お主のような細くてか弱い女子に手伝わせるのは……」
「そう? 私からすればあなたの方がよっぽど細くてか弱い女子に見えるけれど。それに、あんなにも高いところにあなたの手が届くとは思えないわ」
霧切の視線が上に向けられる。そこには積み重なった小さな箱があり、側面には丸い文字で中身についての記述がされていた。あれは、間違いなく夢野の字である。
んあ、といつもの抜けた声がこぼれた。それが何を示しているのか、霧切は問わずとも理解をしているのだろう。小さく首を傾げながら、先程見せた探偵としての顔ではなく、後輩を手伝おうとする先輩の顔を見せていることが何よりの証拠だ。
さてどうすればいいだろうかと一度は考えた夢野であったが、折角だから素直に甘えようと決める。改めて霧切へ向き合い、小さく頭を下げた。
「そんなに畏まらなくていいわ。ここへはたまたま通りかかっただけだし。それに、一度あなたと話してみたいとも思っていたから」
端の方に置かれていたダンボールを持ち上げて、霧切はきょとんとする少女へ微笑みかける。
「ウチと? 最原ではなくてか?」
「その最原くんから、あなたの話を聞いたのよ」
先輩にばかり頼るわけにはいかない。慌ててダンボールを抱え上げながら、しかし掛けられた言葉の謎を無視することもできず。問いかけてみれば返ってくるのは、またもや意外な言葉だった。
一体何の話をしているのだろうか、あの男は。内容に不安を覚えるものの、霧切の言動を見る限りでは変なことを言っていないようである。
ただ彼女が徹底したポーカーフェイスを保っており、伝聞で聞いた人物像を鵜呑みにしていないだけであるならば話は別だが。
「夏休みの最初に、大きなショーをやったのでしょう? その時の話を、ずいぶんと興奮した様子で教えてくれたわ」
「んぁ……そうなのか……」
同じ才能を持つ超高校級が同じ年に在籍しているのはとても珍しい。また探偵という職業柄、潰し合いをすることもなく、互いに携わった依頼での情報交換をするなどしていい影響を与えあっていた。そのような経緯から、ここのところ霧切と最原は行動を共にすることが多い。
夢野の話をしたのは、恐らく二人で依頼者の元へ向かう途中か帰り道でのことだろう。大成功をおさめたショーの話は、夏休みの間に行われたというのにすぐさま学園中に広がっていた。何故こんなにも話が広がったのかと不思議に思っていたのだが、どうやらクラスメイトたちがあちこちで言い回っていたらしい。あの冷静沈着なイメージが強い最原が、霧切へ興奮気味に話したのだ。相当に印象強く映ったことだろう。
褒められるのは悪くないのだが、そこまで褒めちぎられることには慣れていない。夢野は嬉しいやら照れるやらで少しだけ顔を俯かせる。
「あんなにも多くの、老若男女を問わない観客たちをみんな笑顔にできるのは素晴らしいことだと。捻くれ者が多く集まるクラスメイトたちも、みんな夢中になっていたって」
「んあぁ……そんな褒めるでない……!」
褒め殺しに耐えきれずついにその場へしゃがみ込む夢野に、霧切は小さく笑みを向ける。
「あとは、そう……やっと『みんな』であなたのショーを見ることができたと。そう言っていたわ」
勢いよく振り返れば、そこには優しい眼差しを向ける先輩はいなかった。真実を探究する超高校級の探偵が静かに佇んでいる。鋭利な眼差しは夢野へ容赦なく向けられていた。
けれども出会ったときと違い、そこから恐怖感が生まれることはない。普段は接点などない超高校級の探偵にどうして話しかけられたのか、興味を持たれたのかを理解したからだ。
夢野は少しだけ考え込む仕草を見せてから、静かに立ち上がる。スカートについた埃をぱたぱたと叩いて顔を上げた彼女は、真正面から霧切の視線を受け止めた。
「と、いうことは、お主もそうなんじゃな」
問いかけ、というよりも確認に近かった。探りを入れるような視線を向けても、霧切は動じることはない。恐らくは最初からこの話をするつもりだったのだろう。
閉鎖された学園で行われる殺し合いの日々。どこまでが真実でどこまでが嘘か。腹の中を探り合う学級裁判で繰り返される糾弾を乗り越えて、ようやく手にした終わりは多くの犠牲を必要とした。物言わぬクラスメイトたちの姿は、未だに瞼の裏で鮮烈に浮かび上がることがある。
夢野は、霧切がどのような地獄を味わったのかを知っている。江ノ島盾子。超高校級の絶望と呼ばれた彼女が生み出した、ダンガンロンパの最終幕こそが夢野の放り込まれた地獄であるからだ。
「しかし、どのタイミングで知ったのじゃ? ウチもそうじゃが……誰にも言っておらぬはずじゃ」
思い出すことはないだろう、とは思っている。しかし何がどう作用して、どう転ぶか全くわからなかった。だから夢野は誰にも才囚学園のことを話していないし、もちろんそれは最原も春川も同じだろう。
けれども霧切は知っている。探偵という職業柄、勘がよかったのもあるだろうが、それにしても真相に気付くのが早いように思えた。同じ学年ならまだしも彼女は先輩である。接する機会も少ないというのに、どうして。
そんな夢野の疑問を見抜いている霧切は、ふっと笑う。
「えぇ。あなた達は誰もが何も言っていないわ。でも接点なんてない下級生が、4月も半ばになる頃に先輩の教室に何の用があるのかしら? お目当てが同業者の私ではないとしたら、疑われるのも無理はないわ」
「…………最原よ」
ここにはいないクラスメイトを責めたくなるが、彼の起こした行動も無理はないだろう。すべての元凶である超高校級が先輩としているのだ。探りに行かないわけがない。
「確かに最原くんの行動は少し軽率だったかもしれない。とはいえ、私も同じようなことをしたのだから、あまり彼のことを責められないのよね」
「ほぅ……?何をしたのじゃ?」
「直接聞いたわ」
「んあ!? 直接じゃと!?」
探偵としての性はなかなかに難儀のようだ。大変なんじゃのう、と他人事のように聞いていた夢野だったが、次に飛び出してきた言葉に素っ頓狂な声を上げてしまう。
「一応言い訳はあるのよ。あなたも知っての通り、江ノ島さんは私のクラスメイトなの。目の前に全ての元凶がいたのなら、それを抑止しようと考えるのはおかしくないことでしょう?」
「そ、それはそうじゃが……! いやしかし……」
あの、あの超高校級の絶望である江ノ島盾子に対し、真正面から喧嘩を売ったのだろうか。そんな彼女から勝利をもぎ取った人なので、有り得なくもない話ではある。
それにしたってあまりに無謀なのではないだろうか。
「まぁ、聞いたところで彼女の考えなんて微塵もわからなかったけれどね。今のところは現状を楽しんでるみたいだし、放っておいてもいいでしょう」
「そ、そんな適当でいいのか?」
「いいのよ。どんな策を練ったところで、江ノ島さんに通用するかどうかなんてわからないわ」
今の江ノ島盾子の対処法を考えたところで、彼女が今のキャラに飽きてしまったら意味がないのである。そこに合わせて一から策を練り直しても、またキャラが変われば水の泡。
不毛ないたちごっこの末、霧切たちが導き出した結論は『今考えてもできることはない』だった。
とはいえ何もすべてを放棄したわけではない。一つ上の学年には、同じように殺し合いを勝ち抜いた先輩たちがいるのだ。彼らと協力し、何かがあったときに対処できるよう準備は怠っていない。
「結局、なるようにしかならないわ。最初がそうだったようにね」
「……そんなものかのう?」
「そんなものよ」
ふふ、と笑う霧切はどこか楽しそうにも見えた。何故今の会話で楽しそうに笑えるのか、夢野にはさっぱりわからない。ただ、先輩たちもなかなかに癖のある強者揃いなのだろうな、とは窺い知れる。
長々と話をしているうちに、荷物整理も予定していた半分の作業を終えることができた。一人で作業をしていたら、ここまで早く終えることができていなかっただろう。成り行きとはいえ、手伝ってもらえてよかったと改めて思わぬ縁に感謝をした。
さあ残り半分もやっつけてしまおう、と意気込んで腕をまくる。そんな夢野を一瞥した霧切は、次いで入り口の方へと目を向けた。何かを探るような、確認するような素振りを見せたかと思えば眉をひそめる。
「はぁ……、まぁいいわ」
何かを諦めたかのように呟くものだから、夢野は首を傾げながら顔を上げる。未だ霧切の視線は入り口の方へ向けられており、一体何があるのかと同じ方向へ目を向けた。
しかしあるのは閉じられたままのドアである。
「最原くんにも言ったのだけれど、あまり気負いしすぎないほうがいいわよ」
「んあ? 何をじゃ?」
きょとんとする夢野に対し、霧切は眉根に皺を寄せたまま振り返った。
「……あの学園でのことよ。彼もそうだったけど、あのときのことを深く考えすぎてもいいことなんてないわ」
再度諦めたように溜め息を吐いて、霧切は言う。どうしてそんな顔をするのだろう、と不思議には思ったものの、意識はすぐさま掛けられた言葉へ向けられた。
「…………そうは、言うが、」
肩を落としながら小さく呟く夢野の声は暗い。目線は足元へ落とされ、うろうろと宛てもなく彷徨っている。
「そうね、忘れろと言われて忘れられるものではないわ。むしろ考えないようにしようとするほど、考えてしまうものよ」
耳に髪をかけながら言う霧切の視線は、夢野とは別の方向へ向けられた。しかしすぐさま真正面でしょぼくれる少女を捉える。
「でもあなたが思ってるより、周りは深刻に考えていないわよ」
「……え?」
「私たちも随分悩んだわ。何しろクラスメイト同士で殺し合いだもの。そんな話、冗談にしては悪趣味がすぎるから。そう思っていたのだけれど、どこかの占い師がうっかり口を滑らせたのよね」
当時のことを思い出しているのだろう。呆れきった顔で言う霧切は、ややあって眉尻を下げながら笑ってみせた。
柔らかいその雰囲気に、恐る恐るといった様子で夢野は顔を上げる。不安げな表情は、その後どうなったのだと問い掛けてきていた。
「結論から言うと、何も変わらなかったわ。微妙な空気になった人たちもいたけど、そこは入学当初から何とも言えない関係であったし」
「ほ、本当か? 何も変わらないなんて、そんなことがあるのか……?!」
両手を組みながら、まるで何かに縋るかのように霧切に詰め寄る。期待と不安に揺れる瞳。震える声は思いの外大きく、常より最原から聞いていた人物像とはズレを感じた。
けれどもそのズレが、夢野にとってこの問題がどれほど大きいかを物語っている。
やはり話しかけてよかったのだ。思いもよらないタイミングではあったし、思わぬ労働をすることとなってしまったが、それにも恐らく意味はあるのだろう。
「えぇ、本当に何もなかったわ。これまで考えていたことが馬鹿らしく思えるほどにね」
「……そう、か」
ほ、と安堵の息を漏らす夢野は、緊張で強張っていた体から力を抜く。そのままへたり込んでしまうのではないかと思えるほどの抜きようであった。
とはいえまだ不安要素は残っているのだろう。まだ視線は少しばかり揺れている。
「……大切なのは、今生きてる自分たち。そう言われたわ」
これはあくまで、霧切たちのクラスで起きた結果だ。同じようなことが夢野のクラスで起こるという確証はない。いい結果どころか悪い結果を生んでしまう可能性だってある。
しかしこれでいいのだ、と霧切は思っている。いつまでも解決しない問題を抱え込んでいても仕方がない。どこかでガス抜きをしなければ、彼女はいつか潰れてしまっていたのだから。
「……今日は、話ができて良かったぞ。ありがとう」
「いいえ。私の方こそ、あなたと話ができてよかった」
ぺこりと頭を下げる夢野へ霧切は微笑みかけた、と思えば視線を背後へ飛ばす。つられて向けられた視線の先を追いかけるが、やはりあるのは閉じられたままのドアだけで。
「素直になれるといいわね。あなたも、彼も」
「んあ? 誰のことじゃ?」
唐突にそんなことをいうので、夢野はますます訳がわからないといった顔で首を傾げる。彼、とは一体誰のことを指しているのだろうか。霧切がわざわざ口にするぐらいの相手といえば、彼女のクラスメイトか最原ぐらいだろう。
それでも何に対して素直になれるといいのか、まではさっぱり考えが及ばず首を傾げ続けるしかなかった。
「ふふ、直にわかるわ」
「んあ……?」
含んだ笑いを見せた霧切は、残っていた荷物を抱え上げる。そこで夢野はまだ荷物の整理が終わっていなかったことを思い出した。
ばたばたと埃を立てながら慌ただしく動き出す少女。その背中を微笑ましい目で眺め、霧切は今一度扉の向こうへ意識を向ける。
そこには既に、あったはずの気配はなかった。
文化祭。それは数あるイベントの中でも大きく、また一際盛り上がる催しである。
この希望ケ峰学園もその例外ではなく、秋も深くなるにつれ校内ではそわそわとした様子の生徒が多く見られた。ただでさえ特別感の強いイベントであることに加え、この学園での文化祭とは超高校級の才能を発表する場でもある。
いくら特別な才能を持つ超高校級、とはいえ調達できる資源も資金も無限にあるわけではない。ある程度は己の才能で稼ぐことも可能だろうが、どこかで限界が訪れてしまうのだ。そうなると強力な支援、所謂スポンサーの援助が必要になってくる。
しかし普段は学園で生活している彼らに、援助者との縁は簡単に結ばれない。という事情もあり、希望ケ峰学園の文化祭は生徒たちとスポンサー企業を結ぶ場としても活用されているのだ。
「と、言うわけなので!今日はみんな好き勝手しちゃ駄目だからね!」
わいわいがやがやと教室の内外から騒がしさが溢れ出ている。その中でも聞こえるよう声を張り上げたのは、学級委員を任されている赤松だ。
「軽率な行動は控えたほうがいいわね。誰が誰の支援者かわからないし、これから支援者になる可能性もあるもの」
「そうそう。だからどこぞの肉便器ちゃんは特に発言と行動に気をつけてよね! 君のせいで俺たちの品格まで下げられたらたまったもんじゃないからさぁ!!」
「ひぐぅ……! な、なんでオレ様にだけ言うんだよぉ……!」
突然の暴言にビクつく入間だが、誰もが彼女のフォローをすることはない。と、同時に誰もが暴言を投げつけた王馬へ非難の目を向けていた。どちらも日頃の行いがとんでもなく悪いのである。
ややあって、赤松が咳払いをしたことでその場にいる全員の注意が彼女へと集中した。
「まぁ、いろいろ注意しなくちゃいけないこととかはあるけど! 楽しまなくちゃ損だと、私は思うんだよね」
にっこりと満面の笑顔を浮かべ、赤松は告げる。
「折角の文化祭なんだもん。こんな機会は滅多にないんだし、みんな楽しもうね!」
教室の外から雪崩込む喧騒が激しさを増す。期待と不安、欲望の渦巻く学園最大のイベントが開幕するまで、残り五分を切っていた。
楽しい楽しい文化祭が、地獄の鬼ごっこと化したのはおよそ三十分前のこと。
よく考えてみればこうなることは分かっていたはずだ。けれども一大イベントであることばかりに気が向いて、すっかりさっぱり忘れていて、このザマである。どくどくと煩い心臓を落ち着かせようと何度も深呼吸をするものの、全く言うことを聞かない。むしろ緊張感からか余計に悪化している気がしてならなかった。
あんなにも楽しみにしていた文化祭を、今は一刻も早く終わってくれと願っている。
(あやつ、人当たりだけはいいからのう。他の誰かと一緒だと丸め込まれてしまいそうじゃし……)
茶柱と夜長は己の才能を活かした特技を披露する、ということで夢野の側にはいない。他の女子に引っ付いて行動しようかとも思ったが、この文化祭の趣旨を考えると邪魔になってしまう恐れがある。
かといって男子について回る、という選択肢は元よりない。この文化祭には一部マスコミも招待されている。変に勘違いされることだけは避けたかった。
(しかし、いつまでもここに居るわけには……)
運がいいのか悪いのか、何の催しもされていない空き教室に行き着いてしばらく経つ。勢いのまま転がり込んだはいいものの、よく観察してみれば逃げ場がとてつもなく少ない。運動神経のいい者なら隙をついて逃げられるかもしれないが、鈍くさい夢野からすればここはただの袋小路である。
流石にこのままではまずい、とは思いつつ。人気のないこの場所で見つかればどうなるかわかったものではない。いくつも考えられる未来のない結末ばかりが脳裏に浮かび、夢野の足をこの場へ縛り付けていた。
「んあぁー……どうすればよいのじゃ……」
「何が?」
廊下から見えないような死角を探し、そっと外の様子を窺う。今のところ人の気配は感じられない、けれども油断はできない。緊張感でいっぱいいっぱいになる夢野の独り言、に返される言葉。首を痛めそうになるほど勢いよく振り返れば、しゃがみ込みながら顎を手に乗せる王馬がいた。
悲鳴を上げそう、になったが寸での所で口を両手で抑える。跳ね上がった心臓が先程より大きな音を体中に響かせていて、とんでもなくうるさい。
「一人で隠れんぼでもしてんの? このお祭り騒ぎの中でよくそんなことできるよね〜! 本当、夢野ちゃんってば一人遊びが上手だ、」
「んああ! 黙らんか!」
ばちん、と音が立つほどの勢いで王馬の口を両手で塞ぐ。突然のことに流石の彼も驚いたようで、大きな目を丸くしながら固まった。けれどそれも僅かな間の後、口を抑えていてもわかるほど意地の悪い笑みを浮かべる。
「んぐぐ、んーむうー」
「ひっ! そのまま喋るでっ、……!」
抑えた手の下でもごもごと唇が動く。そのむず痒さから小さな悲鳴を上げてしまった。思わず離しそうになってしまうが、不意に感じた人の気配に忘れかけていた緊張感を思い出す。
硬直する夢野に訝しげな顔で見つめる王馬は、抑えられたままの口を解放しようと手を伸ばした。けれども次の瞬間、口どころか全身を使って壁に抑えつけてきたものだから、ぐえと小さな悲鳴を上げてしまう。
一体何なんだと責めるような視線を、全身をぴったりとくっつけて来る夢野へ向ける、ものの。伏せられた顔の色味が悪かったこと、触れる肌から伝わる尋常ではない緊張感に気付いた。恐らくこれは、廊下を悠々と歩いている人物が原因なのだろう。
(…………まぁ、いっか)
何かを探すようにしている人物は、一度空き教室の前で止まった。びくり、と夢野の体がより一層の緊張に震える。あまりに見ていられない様子だったので、気まぐれに背を優しく叩いてやれば再度びくりと震えたものの、少しだけ緊張がほぐれたらしい。抑えつけてくる力が少しばかり弱くなった。
暫くして、ようやく気配が去っていったことで夢野はほうと安堵の息を漏らす。可哀想なほどに震えていたことが嘘のように、安心感からかくったりとそれにもたれかかった。
「夢野ちゃんってばだいたーん」
「んあ!? あっ、あぅ、んあ〜〜〜〜!!!」
頭上から降ってきた声でようやく我に返ったのだろう。がばりと顔を上げ、状況を把握し、顔を真っ赤にして王馬の上から転がり落ちた。その際にスカートが捲れ上がってしまっていたが、指摘すれば彼女はますます気を動転させるだろう。
そんなことをすれば話が進まなくなるので、喉まで出かかった言葉は飲み込んでおいた。
「自分でやっておいてすごい驚きようだね?」
「こっ、そっ、そんな! つもりではなかったのじゃ! ただウチはあそこで騒いでしまってはバレてしまうと!」
涙目になりながら必死に訴えかけてくる夢野。先ほどとは別の意味で可哀想に思えてくる姿に、王馬の悪戯心が揺さぶられる。もっとからかってやれば更に面白い展開になるに違いない。いつだって彼女は100%の力で返してくれるのだ。
と、思いはするものの今は抑えておく。へたり込んで誰に責められてもいないのに語るに落ちている夢野の側へ歩み寄り、目線を合わせるためにしゃがみ込んだ。
「で? 夢野ちゃんはあそこまでして、何から隠れてたの?」
「そ、それは……、その……」
しどろもどろになる夢野は視線を泳がせ続けている。言いたくない、という気持ちが全面に押し出された態度であった、がそれを許す王馬ではない。定まらない視線をすべて追いかけ、事の顛末を話すのを待っていた。
やがて逃げられないことを悟ったのだろう。夢野は顔を赤くしたり青くしたりを繰り返しながら、ぽつぽつと語りだした。
「さ、さっきの、廊下を歩いていた男じゃが、前からウチのスポンサーになりたいと申し出ておったのじゃ。最初こそは喜んで、と思ったのじゃが……」
ぎゅ、と夢野は膝の上で拳を作る。
「あやつは、ウチの技術を盗んで売ろうとしておる。その筋では有名なやつでの……」
「で、逃げるためにこんなところで一人隠れんぼしてたわけ? そんなのハッキリと断ればいいじゃん」
「……いくら断っても、しつこいのじゃ」
今にも泣き出しそうな顔で、夢野は俯ききってしまった。そこからは怖い、というよりも悔しいという気持ちが伝わってくる。
様々な事情から頼っていた師匠と離れてしまい、夢野は希望ケ峰学園へ入学するまで一人活動を続けていた。その最中にスポンサー契約の話を持ちかけられ、今の状態に至ったのだろう。
傍から見れば、スポンサーとして援助させてほしいという申し出に、何の不満があるのかと思うはずだ。彼女がここまで現状を拗らせてしまった理由も、誰に頼ることもできなかったことが大きな要因なのかもしれない。
「ふぅん……」
顎に手を当てながら王馬は目を細める。何かを考えているようだが、その内容には皆目見当が付かなかった。もしかするとまた、くだらない事でも考えているのかもしれない。
けれども今は、彼が得意とするいつものくだらない嘘で、気を紛らわしてほしかった。文化祭はまだ半日も残っている。流石に人の集まるところで強引な手段には出ないだろうが、今のように一人で行動しなければならないときは逃げ続けなければいけないのだから。
「ねぇ、夢野ちゃん」
「……何じゃ」
王馬がにこりと笑って話し掛けてくるときは、大抵よくないことが起きる。それを嫌というほど身を持って知っている夢野は、目の前の少年へジト目を向けた。
思っていた通りそんな視線に怯む男ではない。にこにこと人の良さそうな笑顔をそのままに、夢野へ向けて手を差し出す。
「オレ、今日は君のボディーガードになってあげるよ」
「…………んあ?」
怪訝さを隠しもしていなかった夢野は、次に飛び出してきた言葉で呆気にとられた。豆鉄砲を食らった鳩のように目を丸くし、口を開いたまま固まる。
「赤松ちゃんも言ってたでしょ? 折角の文化祭なんだから楽しめってさ! ま、夢野ちゃんがこんなところでダンゴムシみたいに縮こまって、がたがた震えていたいっていう稀有な趣味を持ってるなら好きにすればいいと思うけど」
「そんな趣味をもつ奴がおるわけなかろう……」
「さぁ、どうだろう。世界は広いんだし、世の中に一人ぐらいはいるんじゃない? ……それで、夢野ちゃんはどうする?」
あいかわらず、夢野の前には差し出されている手があった。背丈はそう変わらないというのに、夢野の手とは明らかに違う、男の子の手である。
(……そういえば、前にもこんなことがあったのう)
思い出すのはここではない、閉鎖された学園でのやり取り。あの時とはやや違うシチュエーションであるが、この手を取ればまたからかわれるのだろうと思えた。
しかし一人であの男から逃げ回るより、王馬にからかわれながらでも共に行動したほうがいいのかもしれない。少なくとも夢野の心は、今よりも安心感を得られるはずだ。
意を決して、恐る恐る差し出された手を取る。少しばかり骨ばったその手は、夢野のそれが重ねられたと同時に握り込んで。
「にしし! そうこなくっちゃね〜」
言うやいなや立ち上がった王馬は、繋いだままの手を持ち上げる。んあ、と小さな悲鳴を上げながらも夢野は抵抗することなく立ち上がった。勢いがありすぎてふらりと足元が覚束ない彼女は、手を引かれた方へと倒れ込む。
とん、ともたれかかるのは王馬の胸の中。先ほどと同じように近すぎる距離に心臓が跳ねる。
「お、お主、何を企んでおるのじゃ……?!」
咄嗟に逃げようとするものの、握られたままの手は離されていない。脳裏にフラッシュバックするのは、二度目の裁判を終えたあの時のことで。
違うはずなのに全く同じような展開に、夢野は素っ頓狂な声を上げる。
「え〜、何も企んでないよ〜? オレはただ夢野ちゃんのことが心配なんだって! ホントだよ?」
「う、うそ、嘘を吐くでない! お主の今の目の色、とても人を心配するときのものとは思えんぞ!?」
「ありゃりゃ、バレちゃった?」
首を傾げながら眉尻を下げる王馬の顔がとんでもなく近い。このままではうっかり勘違いをしてしまいそうになる。そんな予感に襲われて逃げようと試みる夢野だが力で敵うはずもなく、その場から動くことすらできなかった。
せめて顔を見ないようにしよう。そう決意してこれでもかと顔を反らせば、すぐ近くで楽しそうに笑う声がした。
(ブサイクだと笑いたいなら、好きなだけ笑えばよい!変に思われるより、からかわれたほうがよっほどマシじゃ!)
女子として変な顔を笑われるというのは屈辱的なのだが、今はそんなことよりも守らなければならないものがある。できることならこのまま王馬が飽きてくれれば、と願わずにはいられないが。
「オレとしてはこのままここで、夢野ちゃんで遊んでるのもいいんだけどさぁ」
ぐい、とこれまで以上に王馬が距離を詰めてくる。ひっくり返った悲鳴を上げる夢野などお構いなしで、にやにやと笑みを浮かべたまま、囁くように話し出した。
「ボディーガードなんてこと、オレが無償で請け負うと思った? もちろん対価はもらうよ」
「た、対価じゃと……?」
「そう、対価。ほら、魔法を使うにもマナだとかを対価にして力を得るでしょ? オレも危険な目に遭うかもしれないんだし、それなりのモノを返してもらわないとね!」
怯えた様子で反らしていた顔を王馬へ向ける。今この状況で夢野に拒否権などはない。それをわかっていてこんなことをするのだから、本当に底意地の悪い男だと腹立たしくなる。
いつか絶対に魔法の力で報復してやるのだと、恨みがましい視線を向けた。
「……何が欲しいんじゃ。ウチがお主にしてやれることなど、そうないぞ」
「いやいや、あるんだな〜こ・れ・が!」
にしし、とお決まりの笑い声を上げたと同時に寄せられる顔。ぎょっとした顔を見せた夢野は一瞬固まった後、これでもかと目を瞑って顔を反らした。
そんな彼女の、大袈裟すぎる反応をからかいたい衝動を抑えて。王馬は無防備に晒されている小さな耳へ唇を寄せる。
「ねぇ、『才囚学園』ってさ、……何?」
差し出した小指とこちらの顔を見比べながら、夢野はいつも半開きである目を丸くして瞬かせた。驚きと困惑、疑いが混じり合った視線が不躾に突きつけられるが、これは日頃の行いのせいだろう。
誰でもない自分が撒いた種なので仕方がないといえば仕方がない。
「ほら、約束しようよ」
ずいずいと差し出した小指を柔らかそうな頬へと押し付ける。すると夢野はとてつもなく嫌そうな顔をしながら、とてつもなく嫌そうな声を出した。
「お主と約束など、破られるに決まっておるではないか!」
「そ、そんな……! オレだって、自分からした約束ぐらい守るのに……決めつけるなんてひどいよ……!」
大声を上げて泣き喚けば、彼女はほとほと困りきった様子で宥めようとしてきた。本当に、心の底から泣いているのだと思っているのだろう。
観客を様々なトリックで騙し、夢を与えるマジシャンがこんなにも騙されやすくていいのだろうか。やや不安を覚えるものの、そこが彼女のいいところなのかもしれない。
何度騙されてもその度に引っかかるピュアさは、真似しようとしてできることではないのだ。
「た、確かに決めつけたのはその、すまんかった。……しかし元を言えばお主の、」
「じゃあ、はい! 約束、してくれるよね?」
「ん、んあぁ……」
ずい、と再度押し付けるように小指を突きつければ、夢野はあからさまに顔を青褪めさせる。そんなに自分と約束をするのは嫌なのだろうか。少しばかりショックではある。
まあそうなる原因を作り出したのは紛れもなく自分なのだが。
「するからには、きちんと守るのじゃぞ! もしも約束を破ったりしたら、その時はウチの魔法でドカンじゃからな!」
「うわっ、恐ろしいことを言うな! でもそれぐらいのスリルがあった方が、つまらなくはないよね!」
おずおずと差し出された小指へ己のそれを絡ませる。驚きで逃げ出そうとするのを、力任せに抑えつけることで許さない。
「それじゃあ、約束。ここを出たらオレだけのマジカルショーを開いてくれるって」
「うむぅ……何故こんな事になったんじゃ……」
肩を落として、心外だと言わんばかりに夢野はぶつぶつと呟く。しかし何だかんだと文句を言いつつも、彼女は毎度律儀に約束をしてくれるのだ。
今回のことも、元気付けてあげたお礼がほしいと王馬が一方的に強請ったことから始まったのである。既に礼の言葉は受け取ってはいた、けれどもそれではとても足りない。もっと感謝してよね、と畳み掛けるように言えば、夢野は嫌そうな顔をしながらも渋々頷いたのだ。
「ゆーびきーりげ、」
「んあ?! 歌うのか!?」
「当ったり前じゃん。あれ、もしかして夢野ちゃん歌えないの? それともド音痴?」
「違うわい!!」
にたぁ、と笑ってやれば夢野は鼻息も荒く言い返してくる。そうやって反論してくるから、からかわれるというのに。いつまで経っても学習しないのだから面白くて仕方ない。
興奮する彼女をなんとか宥め、改めて小指を強く絡ませる。不服そうな顔は相変わらず変わることはない。けれども王馬を見つめる瞳には、確かな信頼が宿っていた。
(……馬鹿だなぁ、本当に馬鹿だよ)
微笑みかければ驚いて、照れた顔も隠さずに目を逸らす。分かり易すぎる反応はやはりつまらなくなくない。
「「ゆーびきーりげーんまん、うーそつーいたら針千本のーますっ」」
緩やかに上下へ振られる指。それに一瞥もくれず互いの顔を見やって、幼さの残る声で辿るのは契りの歌。
「「指切った!」」
解けた指が宙へ放られた。未だ残るぬくもりは重く、約束をしたのだという実感を突き付けてくる。
「……一応、約束じゃからな。ここを出たらショーは必ず開いてやろう。じゃから……その……」
千切ったままの指を眺めていると、もごもごと夢野が話し出す。あまりに声が小さかったので耳に手を当て近寄ってやれば、ジト目が向けられて。
「お主も、一緒に生き残るんじゃぞ」
言うやいなや踵を返し、夢野は逃げるように駆けて行く。あっという間に小さくなる背中を、転んだら面白いのになあと見送った王馬は、再度己の小指を見つめた。
柔らかな肌の感触も、移された温かな体温もまだ覚えている。それもすぐに忘れてしまうし、そもそもこんな約束に意味などないことだってわかっていた。
きっと自分はこの学園を生きて出ることはできない。もう、取り返しのつかない場所まできてしまっているのだ。彼女との約束は間違いなく、守ることはできない。
「でも、それでいいんだよ」
何だかんだと文句を言いつつも、夢野は約束を守ってくれるだろう。例え王馬が死んでしまったとしても、亡くなった友人たちの想いと共に、この約束を連れ出してくれればいい。
それで、十分だ。
(でも、もしも、もしもこの学園を出ることができたらさ)
目を伏せながら思い描く未来に形はない。二人の交わした約束は永遠に、果たされることなどないのだ。
ねえ、夢野ちゃん。オレのこと、忘れないでよね。せっかく約束したんだからさ。
超高校級と呼ばれる才能を持つ高校生たちが集められた、特例だからのとんでも学園。ここでは癖のありすぎる生徒たちが日夜研究や特訓に励み、己の才能を伸ばしているだという。この国で知らない者はいないだろう、超ド級の有名校の名を希望ケ峰学園。そこの教師から王馬がスカウトされたのは、半年ほど前のことであった。
超高校級と呼ばれる才能をもつ生徒が集められた学園など、つまらなくないわけがない。迷うことなく二つ返事でスカウトを受けた彼は、今日この日を心待ちにしていた。
第☓☓回、希望ケ峰学園入学式。桜も散り始めているこの日に王馬小吉は、超高校級の総統として学園の門をくぐったのである。
「……あの、どうかされましたか? 顔色が悪いようですが」
式典、というつまらない行事に参加しなければならないのは、どんな学校でも同じらしい。長過ぎる待機時間の退屈さに、今日何度目かわからない欠伸をこぼしたときにその声は聞こえてきた。振り返れば見るからに溌剌そうな少女が、小柄な少女に話し掛けている。
声をかけている方は超高校級の合気道家である茶柱転子、声をかけられた方は超高校級のマジシャンである夢野秘密子だ。
入学前にクラスメイトがわかってしまってはつまらない。そう考えて本格的な探りは入れていなかったものの、同時期に入学しそうな超高校級たちの情報はある程度目を通していた。才能によっては顔がわからない者もいるが、彼女たちは表舞台に立つ人間である。名前を検索するだけで顔写真がずらりと並ぶぐらいには有名人だ。
(何あれ、今にも死にそうじゃん)
茶柱が優しい声をかけている。それに辿々しくも返事をする夢野の顔色は、青いを通り越して真っ白だった。かたかたと小さく震えながら、それでも笑顔を取り繕おうとしている。
これからクラスメイトになる誰かにイジメでも受けていたのか、とも思ったが彼女と接点のありそうな生徒に心当たりはない。全国各地から集められたメンバーはそれぞれ出身地や出身校もバラバラで面識などないはずだ。現に茶柱と夢野は初対面同士なのだろう距離感で話をしている、
と、思っていたのだが。
(……なーんか、引っ掛かるんだよなぁ)
手探りの距離感、であることに間違いはない。しかしその手探り感は、初対面の人間とどう接するか悩んでいるものではない、ように思えた。どちらかといえば知っている人間と距離を取ろうとしているようなものに近い。
いつまでもじろじろと見ているわけにはいかないので、意識はそちらへ向けたまま正面を向く。二人は囁きに近い声で言葉を交わしているようで、注意をしなければ聞こえない。もうちょっと席が近ければ盗み聞きも楽なのになぁ、と唇を尖らせる。
『大変長らくお待たせいたしました。これより――』
スピーカーを通して、体育館内に響き渡る開会宣言。緩んでいた空気が緊張感からピンと張りつめたものになり、隣に座っていた少年の背筋を自然と伸ばした。随分と真面目な奴もいるんだな、と王馬は態度を変えることなく隣の少年を盗み見て、目を丸くする。
青いを通り越して、真っ白な顔色。膝の上に置かれた拳は僅かに震えており、真正面を見据える瞳からは激しい感情の揺れが窺える。
まさかと瞳だけで周囲の人間を観察すれば、隣に座る少年と同じく真っ白な顔色の人間が、二人。一人は先ほど心配そうに声をかけられていた夢野秘密子で、もう一人は長い黒髪が印象的な少女だ。
(…………へぇ)
入学式という華々しい日を迎えたとは思えない顔色をする人間が、三人もいる。一体どんな理由でああなっているのかは皆目見当はつかなかったが、あの三人はきっとつまらなくない何かを抱えているに違いない。
それをいつまで隠し通そうとするのか、それともいっそ自分の手で暴いてしまおうか。ふつふつと湧き上がる好奇心と悪戯心。それにつられて込み上げてくる笑みを最小限に抑えて、王馬は壇上へと目を向ける。
これから先に控えているだろうイベントやトラブルや事件を考えれば、学園長の退屈な話を聞くことなど造作もないことだった。
ドッキドキでワックワクの入学式を終えて、早一ヶ月が経とうとしている。クラスメイトとなった超高校級の高校生たちは皆想像以上に癖が強く、毎日飽きることなく新しい刺激を与えてくれていた。
また教室から飛び出せば、先輩である超高校級の生徒たちと出くわすことができる。こちらも中々の曲者揃いで、中には王馬のことをあっさりかわしてしまうような輩もいた。
普通の学生として過ごしていれば、永遠に体験することがなかっただろう日々。これならば三年なんてあっという間に終わってしまうだろう。
(ま、楽しいは楽しいんだけどさぁ)
教室で頬杖をつきながら、王馬は楽しいともつまらないとも取れる複雑な面持ちでいた。視線だけで周囲を見渡せば、あっちにこっちにと少人数のグループがあり、話に花を咲かせている。
一ヶ月も経てば自然と相性のいい、仲のいい集団に分かれるものだ。休み時間や学校終わりには同じメンバーと談笑しているのをよく見かける。中には一人でいたいと集団から外れる者もいるが、誰かに声を掛けられれば素直に応じているようだ。
(あの二人は赤松ちゃんと百田ちゃんにとられちゃったからな〜〜)
入学式に顔を白くしていた三人の内、二人はクラスでも中心人物となっている者たちと行動をよく共にしていた。ちょっかいを掛けに行ってもいいのだが、赤松はともかく百田の相手がやや面倒くさい。すぐにカッとなるところはからかい甲斐があるが、手を出すのも早いのである。当たることなど万が一にもないが避けるにもエネルギーを使うのだ。
じゃあ残りの一人はといえば、教室に姿はない。
恐らく、いや間違いなく超高校級の飼育委員が管理する飼育小屋にいるのだろう。そこには彼女がマジカルショー、もといマジックショーをするときに使用される鳩たちが飼育されているからだ。休み時間は大抵そこか、図書館など人気のないところに出入りしている。
何故そんなことを知っているのかと言えば、毎度毎度休み時間になると姿を消すことが気になったので、何回か後をつけたことがあるからだ。単純に好奇心から起こした行動であり、そこに他意など微塵もない。
「あれ、珍しいですね。王馬クンが一人でいるだなんて」
ちらと人影が視界に入ると同時に降ってくる声。顔を上げるのは面倒だったので視線だけ向ければ、不思議そうな顔をしているキーボがそこにいた。
「オレだって一人で考え事したいときだってあるんだよ。……って人間の情緒なんてロボットに理解できるはずもないか」
「事あるごとにロボット差別するの止めてくれませんか!?」
可哀想なものを見る目を向けてやれば、キーボは眉をつり上げて声を荒げた。いちいち真正面から受け止めなければいいのに、彼はこうした悪意のあるなしに限らず、ロボットを差別するような発言を拾い上げている。役に立つのかわからない微妙な機能を搭載してもらうより、スルーするという機能を追加してもらったほうがいいだろうに。
なんて、思っていても言うつもりはないが。
「王馬君、悩みがあるの? ゴン太でよければ相談に乗るよ!」
騒ぎを聞きつけて寄ってきた獄原は、人の良さそうな笑顔で話しかけてきた。
こちらはこちらで、キーボとは別方向に素直で真正面から受け止めるタイプの人間である。疑う、という人間としてあるべき本能が欠落しており、何度も同じ手口の悪戯に引っかかっていた。いい加減学習しろよ、と思わなくはないが反応が面白いので止めようとは思っていない。
とはいえ。最近では他のクラスメイトたちが忠告などをしているようで、入学初期に比べれば警戒されるようになっている。
「は? 悩みなんてないけど」
「え? でも一人で考えてるって……」
「バッカだな〜ゴン太は! そんなの言葉のあやってやつに決まってんだろ」
心底バカにしたように言ってやれば、獄原は眉尻を下げながら素直に謝る。それに対して反応をするのは、先程までへそを曲げていたキーボだ。
「ゴン太くんは悪くありませんよ。心配してくれた人にあんなことを言う王馬クンが悪いんですから。全く、血が通っていないのはどちらなんだか」
「え? キー坊って血が通ってるの……? 原動力が人間の血だなんて、とんだ殺戮兵器だな!!」
「えぇ!? キーボくんって人間の血で動いてるの!?」
「違います!! そんなわけないじゃなですか!!!」
ぎゃあぎゃあ、わあわあ。たった三人での会話だというのに、それぞれ無駄に声量があるためとにかくやかましい。もう少し静かにしろ、と言わんばかりの視線が痛いが、主に騒いでいるのはキーボと獄原なのだ。もしも責められるようなことがあれば、二人に責任転嫁をさせてしまえばいい。
ただそういう指摘をしてくるのは主に東条や百田なので、連帯責任だと言われる可能性は高いだろう。言われたところで素直に従う気はさらさらないが。
「あ、夢野さん! おかえりなさい」
そろそろ誰かが止めに入ろうか、としていたところで教室の扉が控えめに開いた。そっと静かに入ってきた小さな影は、快活な声に呼び止められてびくりと跳ねる。
「んぁ……た、ただいま……?」
まさか話しかけられるとは思っていなかったのだろう。驚きと戸惑いを隠せないまま、声を掛けてきた茶柱に返事をしていた。
「今日も鳩のお世話ですか? 毎日精が出ますね!」
「んあー……、まぁ、人には任せられんからのう」
にこにこと話し掛けている茶柱、であるが彼女なりに色々と探りを入れようとしているようだ。夢野が教室に戻ってくると、必ず声を掛けて何をしてきたか聞いている。毎回毎回聞かれて面倒くさくはないのか、と思うのだがそうでもないらしい。聞かれれば律儀に何をしていたか答えている。
夢野秘密子は、誰からか話しかけられれば必ず応じるし付き合いが悪いというわけでもない。入間の下ネタにも渋々ではあるが付き合うし、茶柱の多少行き過ぎた言動にもさして気にすることなく対応していた。
(そこが引っかかるんだよな、一番)
入学式を終えたその日に最原と春川、夢野の身辺については調べ上げている。もちろん才能についてではなく、彼ら自身についてだ。良くも悪くも超高校級の高校生は有名人なので、インターネットを使えばあっさりと出身地や家族構成などの情報を手に入れることができる。
そうして手に入れた情報と、共に学園生活を過ごした一ヶ月。小さなことから大まかなことまで、一つ一つを照らし合わせて気付いたのは、説明のつかないズレであった。
(最原終一は、過去に遭遇した事件がきっかけで他人の目を異様に気にするようになり、帽子を欠かさなくなった……ねぇ……)
最原終一という超高校級の探偵を語る際、必ずと言っていいほど出るエピソードがある。それを語る際に欠かせないトレードマークといえる帽子は今、彼の頭にはなかった。
学校内だから被っていない、のではない。あれは入学式の翌日から既に姿を消していたのだ。
(春川魔姫は超高校級の保育士ではなく、超高校級の暗殺者。人と関わろうとせず、いつも一人で行動しているっていうのもあったけど)
有能すぎる部下の一人がどこからか拾ってきた、嘘なのか本当なのか判別の難しい情報。あまりに突飛な内容にまさかガセネタか、と一瞬疑いはしたものの彼らがそんな仕事をするわけもない。
少しばかり悩んだ結果、いっそのこと直接本人に聞いてしまうほうが面白いかもしれないと思い至った。あの澄ました少女は一体どのように慌てふためいて否定するのだろう。それとも真実を知る者として始末しようとするだろうか。
例えどんな未来が待っているにしても、つまらなくない展開になることは間違いないだろう。
翌日。期待を胸にいっぱい詰め、春川へ真正面から例の質問をぶつけた。ざわめく教室のど真ん中、青褪めるクラスメイトたちに囲まれた彼女は、冷ややかな目で王馬を見つめる。さあ否定するのか激昂するのか、はたまた誤魔化すのか。どうするのかと注意深く観察する王馬の前でこぼれたのは、深い深い溜め息。
(あっさり認めちゃうんだもんなぁ。つまんないよねぇ〜そんなのさぁ〜)
だから何、と素っ気なく返された言葉。まさかそんな答えを突き付けられるとは思いもしなかったので、他のクラスメイトたちと共に呆気にとられ反論ができなかった。
そうしてあっという間に広まった真実だったが、赤松と百田の超理論によって最悪の結末を招くことはなく。春川は彼らと共に学園生活を楽しんでいる、ようだった。
孤独を愛する暗殺者、なんてこのクラスのどこにもいないのである。
「ほらほら、皆席に着こう! 先生来ちゃうよ!」
時計を一瞥した赤松の言葉に、立っていたクラスメイトたちはぞろぞろと己の席へ移動する。やがて学園中に響き渡るチャイムを合図に、教室の飛びらが開かれた。入ってくるのは現代文の顧問教師で、気だるそうに教壇へと向かっている。
頬杖をついたまま、視線だけを斜め後ろへ投げる。いそいそと授業の準備を始めている夢野は、自分が見られていることに気付いていない。
(めちゃくちゃチョロそうに見えて、意外と口割らないんだよね、あの子)
とんでもない面倒くさがりで、日常生活で必要な行動すらやりたがらないこともある。友人という友人も、人と関わるのは面倒くさいという理由からほとんどおらず、初対面の人間に対しては塩を通り越して無反応に等しい。彼女が人間らしい活動をするのは専ら魔法、もといマジックに関わることのみだという。
それが世間一般に知られている超高校級のマジシャン、夢野秘密子だ。
ところが実際接してみれば、初対面である王馬にも人並みの挨拶ではあるが言葉を交わしたし、毎休み時間に鳩の世話をしに行っている。本当に極度の面倒くさがりなのかと疑いしか生まれない。
しかし一つだけ、それらの違和感を解決できる可能性がある。これまで彼ら三人から受けた印象、初対面時の予感、いくつもの仮説。まだ検証段階ではあるが、恐らくこの可能性は答えといっても過言ではない。
「……絶対に、暴いてやるからな」
ぽつりと呟いた言葉は誰に拾われるわけでもない。教室に響き渡る教師のけだる気な声は右から左へ受け流し、王馬は広げたノートに自分だけがわかるような要点のメモを書き記す。
一ヶ月前のあの日、桜が散り始めた頃に行われた入学式。全てはあの日から変わったのだ。
人通りの少ない階段に腰を下ろし、七海は常に持ち歩いているポーチから携帯ゲーム機を取り出す。電源ボタンを押せば、真っ暗だった液晶は鮮やかな色を取り戻し、軽快な音楽を踊り場に響かせた。
「おっと、危ない」
傍らに置いていたポーチから取り出すのは愛用のイヤホン。音が漏れないようにぴったりと耳にはめて、携帯ゲーム機へ差し込めばこれで準備万端だ。放課後、ということもあり休み時間よりも色々と余裕がある。今日は誰とも約束を取り付けていないので、邪魔される心配もない。
ディスプレイに表示されたアイコンを選択し、ソフトを起動する。メインテーマなのだろう音楽が流れ出し、制作会社のロゴがいくつか表示されたあとに始まる壮大なオープニング。それらすべてが終わるとようやく、ゲームタイトルが表示された。
某有名企業のビッグタイトルを冠されたそのゲームは、来春発売予定の最新作である。
(まずは何をしようかなぁ。やっぱり名前入力は一通り試してみたいよね)
超高校級のゲーマーとして名高い七海へ依頼される仕事は、もちろんゲームに関することばかりだ。例えばゲーム雑誌にコラムを寄せたり、新作のプロモーションに呼ばれたり。プレイ専門であるため制作に関わるものはほとんどないが、一プレイヤーとしての仕事は間を空けることなく舞い込むのだ。
そして今回、彼女へ依頼があったのは某有名企業のビッグタイトル最新作、のデバッグである。超高校級と呼ばれるほどの才能を持つ七海は、プレイの腕はもちろんのことバグを発見するのも上手い。その手腕を買われた結果の仕事だった。
しかし七海は好きでバグを見つけているわけではない。ゲーマーたるもの、裏技を探すのは当たり前の話であり、奇想天外なプレイから見つけた抜け道がつまるところバグというだけの話なのだ。
(バグが全くないっていうのはいいことだとは思うけど、あんまり遊びがなさすぎるのも考えものだよね)
流石にプレイが止まってしまうだとか、セーブデータが飛んでしまうようなバグは発見次第報告はしている。けれどもちょっとした抜け道だとかは、見つけてもこっそり内緒にしているものがちらほらあった。
遊びがなさすぎるのも考えものだ、という心は制作チームも同じなのだと聞いている。ただ制作会社の上層部はバグなど一つ残すものではない、という考え方らしい。当たり前といえば当たり前のことなのだが、何でもルールで縛り付けてしまっては単調になってしまうだろう。なので七海は、あえて気付きませんでしたといった体で、制作チームと密約を交わしているのだ。
仮にバグが見つかったとしても、そのほとんどが一体誰がそんなところで何の目的でそんなことをするんだ、と予想もつかないものばかりなので今のところ気付かれてはいない。
(うーん、やっぱり前作の主人公名は登録できないんだ。でもこの表記なら……、うん、登録できるね)
かちかちとボタンを押す音が踊り場に響く。生徒どころか教師も通らないほど静かなこの場所で、誰にも邪魔されずに新しいゲームをプレイできるのはこの上なく嬉しい。
しかし本音を言えば、本当は誰かとこの新しいゲームの感動を共有したかった。けれどもいかんせん発売前なので、情報を漏らすことはタブーである。この三年間で誰かとゲームをすることの楽しさを覚えた七海は、少しばかり物足りなさを感じていた。
(……お?)
ふと、ゲーム機の向こう側で立ち止まる人影が見えた。イヤホンをしているので声は聞こえなかったが、気配から驚いているのだろうことは窺える。困ったように、悩むようにふわふわした足取りは、間もなくして躊躇いを見せながらも視界から消えていった。
挨拶をしようとしてくれたのだろう。上履きの真新しさ、そして足首から膝までが顕になっていることから新入生の女子に違いない。ゲーム内での戦闘がアクションを交えたものだったので、中断するわけにもいかなかったため顔までは確認できなかったが。
(気を、遣ってくれたのかな?)
普通の高校ならともかく、超高校級しか集まらない学校で一人ゲームをしているとなれば、それは才能からくる行動でしかない。後輩の女子生徒はそれを理解し、けれど挨拶はしないといけないのでは、と悩みに悩んで通り過ぎていったのだろう。こんなところで一人、ゲームに勤しむことに意味があるのだと気付いてくれたのかもしれない。
遠のく気配をぼんやり感じながら、七海はゲームへと意識を集中させる。まだまだ始めたばかりなのでチュートリアルにも等しいが、そこは流石ビッグタイトルの最新作である。どのような展開に転ぶのか、進めるわくわくが止まらなかった。
主人公を操作し、やや長い道のりの末たどり着いた初めてのダンジョン。おどろおどろしい音楽と暗い画面に少しの不安が湧き上がるものの、すぐにダンジョン攻略への期待に塗りつぶされた。
と、そんなとき。
(……おや?)
先ほどとは違い、足首までをズボンで隠した細身の足が視界の端に映る。真新しい上履きを履いた彼は、暗がりでゲームをする七海に驚いたのかぎくりと一瞬足を止めた。けれどもすぐに早足で通り過ぎていき、あっという間に気配は遠のいていく。
ある程度進めたところでポーズ画面を押し、七海は顔を上げた。すっかり暗くなってしまった廊下には誰もおらず、校舎の外から聞こえる声もずいぶんと小さい。どうやら思いの外没頭してしまっていたようだ。
これはいけない、とセーブを完了させて携帯ゲーム機をスリープモードへと切り替える。イヤホンと共にポーチへ諸々しまい込んで、七海は立ち上がりながらスカートについた埃を払った。
カバンに入れっぱなしにしていた携帯電話にはメールや着信がいくつか入っている。また心配かけちゃったな、と反省しながら返事を打つ彼女はふと気配がすぐ近くにあることに気付いた。
「狛枝くん、いつからそこにいたの?」
ニコニコと人のいい笑顔を浮かべながら、狛枝は七海を見下ろしていた。
「ついさっきだよ」
「声、掛けてくれればよかったのに」
彼の言う『ついさっき』は信用できない。恐らくかなり前からここで七海がゲームを終えるのを待っていたのだろう。
それを裏付けるように、狛枝は両手を使いながら否定する。
「そんな! ボクみたいなゴミクズが七海さんの邪魔をするだなんて、許されることじゃないよ」
ニ年と少しの間、そんなことはないと言い続けているのだが、こればっかりはどうにも治らないらしい。できるなら自分を卑下するなんてことやめさせたいのだが、言って聞くようなタイプでもないのでどうしようもなかった。
とは言うものの、七海は諦めているというわけではない。狛枝には狛枝なりの美徳や価値観もある。それら全てをわかった上で、自分のことを認めてもらいたいのだ。
「ところで狛枝くん、ここに来る途中で誰かに会わなかった?」
届いていたメッセージに返事をし終えたところで、そういえばと七海は首を傾げる。そんな彼女の問いに、狛枝は少しだけ考え込む素振りを見せる。その様子は思い出している、というより言おうかどうしようか悩んでいるように思えた。
「狛枝くん?」
「ああ、ごめんね。こんなボクのために時間を割かせちゃって……、うん。会ってはないけど、見かけはしたよ」
申し訳なさそうにした後、彼はにこやかに告げてきた。その言葉に、どうして悩んでいた素振りを見せていたのかを理解する。ただ見かけただけならば人と会ったとは言い難い。
「彼、音楽室の前に立ってたんだ。ボクがいたことにも気付いてたみたいだけど、それよりも教室の様子の方が気になってたみたいでね」
「そっか。教えてくれてありがとう、狛枝くん」
やはり前を通り過ぎていったのは彼だったのだ、と七海はうんうんと頷いた。ということは、先を歩いていったのは彼女なのだろう。
目的地が音楽室の理由はわからないが、その行動には意味があるに違いない。彼らがこの学園へ入学してからおよそ二ヶ月。まだまだ上手く立ち回れずあらゆることに四苦八苦している時期だ。
上手くいってるといいなぁ、とついつい言葉が漏れてしまう。
「七海さんは優しいね。話したこともない後輩をこんなにも気に掛けて……、流石だよ!」
大袈裟に身振り手振りを交え、狛枝は嬉々として語った。相変わらずのオーバーリアクションに、七海は今でも少し驚く。せめてもうちょっと声のボリュームを抑えてくれないかとお願いしているのに、一向に聞いてくれる気配はない。
ぷく、と七海は頬を膨らませて不機嫌さを顕にする。
「……彼を見てると思い出すんだよね。ちょうど二年ぐらい前の狛枝くんのこと」
きょとん、と七海を見ていた狛枝だったが、投げかけられた言葉に表情をなくす。
「……それは、忘れてほしいかな」
所在なく視線を彷徨わせた後、彼は気不味そうな表情を隠さずに足元へ目を向けた。当時のことは彼の中で相当な黒歴史になっているらしい。先程までの勢いはどこへやら、すっかり静かになってしまった。
しゅん、としょげる狛枝にやや罪悪感を覚える、けれども。彼は希望ケ峰学園でも指折りの大事件を起こし、普段は卑下する己の才能を使いクラスメイトだけでなく学園全体をも巻き込んだのだ。
これぐらい責めても許される、どころかもっと責めてもいいぐらいだと言われるだろう。
(去年はそんなに大変じゃなかったみたいだけど、今年はどうかな? 私はあの子たちのこと全然知らないし、何か助けてあげられるかな?)
すっかり暗くなってしまった廊下を、七海は一度だけ振り返る。微かに聞こえてくるピアノの旋律は優しく弾んでいて、演奏者の気持ちが伝わってくるようで。
きっと彼らなら大丈夫だろう。なんて不思議とそう思えた。
たらればの話をしてもどうしようもないのだ。
そんなことは頭ではわかっている。しかし考えずにはいられないのだから仕方がない。がしがしと頭を掻きながらホワイトボードへ走らせるペンは、要領を得ず憶測を抜けきれなかった。
止まらない苛立ちと、足掻けば足掻くほど首を絞められる現状。誰かの手のひらの上で転がされるなど真っ平ごめんだというのに、その誰かを特定できないまま。拾い上げてきた、この世界の謎を解明するための欠片もまだ繋がらない。
あと一歩、必要となる最後のひと押しは何だ。あらゆる可能性を考慮して組み立てたこのパズルに足りないものがわかった瞬間、このゲームをひっくり返すことができるはずである。
「…………くそっ」
もどかしさに悔しさに爪を噛む。きっとこの瞬間もどこかで誰かが理不尽なデスゲームを楽しんでいるのだ。そして奔走する自分たちを見て笑っているに違いない。
こんなゲームなど全て台無しにしてやる。世界ごとひっくり返して、ぶち壊してやるのだ。そのためなら何だってやってやろう、例えこの命が尽きることになっても、絶対に。
「今に見てろよ……」
止まない叛逆心に駆られるまま、何度も何度も組み立てては潰した仮説が世界の真実に辿り着くその日まで。
止まることなど、許されないのだ。
窓もない寄宿舎の部屋は息苦しく、時間感覚が失われそうになる。むくりと体を起こした王馬は、ぼんやりとしたまま辺りを見渡した。
散らばった設計図に極細色の電子パッド、殴り書きが残るホワイトボードとやたら遠い天井。何が起きているのかすぐに判断はつかなかったが、とりあえず自分がベッドで眠っていなかったことは理解できた。
「……いってぇ」
硬い床に転がっていたのだから体があちこち痛いのは当たり前である。今更後悔したところで遅いのだが、できることなら数時間前の自分をせめてベッドへ倒れ込んでおけと責めたかった。
ただでさえ寝不足気味なのに、これ以上自分を追い詰めてどうするのだろう。王馬は解消されない苛立ちを、眠っているときも握ったままだったペンに向け叩きつけた。勢いよく床に叩きつけられたそれは、硬い床の上で何度か跳ねて転がる。
やがて静かになった部屋へ漂うのは、虚無感。
(……喉、乾いたな)
この時間ならまだ誰も起きてこないだろう。のろのろと身支度を整えて、王馬は気だるさもそのままに部屋を出た。しかし対面にある扉が開いたことで、すぐさま笑顔を貼り付ける。
恐らく、いや間違いなく部屋から出てきたその人は、王馬の微妙な変化など興味も示さない。それでも彼は自身へ向けられるイメージを損ねないよう取り繕うのだ。少しでも身動きが取れやすいようにするための印象操作である。
「え、夢野ちゃんじゃん。珍しいね! 君がこんなに朝早いなんてさ」
「んあ……王馬……」
手早く扉を閉めた、つもりだがタイミングからするに部屋の中は夢野に見られてしまっただろう。しかし彼女は心底どうでもいい、といった態度を隠しもしない。王馬の部屋、どころか王馬自身にすら興味を示していないようだ。
それはそれで腹が立つのだが、夢野の性格を考えれば仕方のないことかもしれない。そう納得しかけて、いやでもやっぱり腹が立つなと思い直す。
「夢野ちゃんさぁ、オレに対して興味がなさすぎじゃない? そんなに塩対応されると凹むんだけど」
「嘘を吐くでない。そんなこと全く思っとらんくせに」
「にしし、バレた?」
これまでにばら撒いた印象操作は上手く活かされているようだ。意地の悪い笑みを浮かべてやれば、夢野は顔をしかめながら王馬を見る。
ただ向けられる視線にあるのは嘘つきを見定めようとするものでも、反応を警戒するものではない。単純に相手をするのが面倒臭いといった、彼女らしいといえばらしいものだった。
(こんな状況でもオレのことを警戒しないんだもんな〜。バカなのかな?)
直接的な悪意を向けてはいないが、それでも昨夜までの言動を見ていれば多少なりとも警戒をするはずである。現に他のクラスメイトたちは王馬を警戒し、次に何をするのかと目を光らせているのだ。
そんな状況の中でも夢野は変わらない。もしかしなくても変わるということが面倒臭いのだろうが、自らに危機が及んでいるのに何もしないのはどうなのだろう。肝が座っていると褒めるべきか、ただの馬鹿だと貶すべきか。
部屋の前で立ち止まっている夢野は、相変わらず面倒臭そうな顔で態度で階段を降りた王馬を見下ろしている。そこにはやはり警戒の色はほとんどなく、やろうと思えば彼女をこの手にかけることも容易なのだろうと思えた。
(ま、そんなことはしないけどね)
夢野という少女は、残るクラスメイトたちの中でもあまりに弱い。非力だし騙されやすいし嘘をつくのも苦手である。けれどもここまで、危ない橋を渡らされたりもしたが、彼女は生き残っているのだ。きっとそこには何か意味がある、のかもしれない。
なんて、買い被り過ぎかもしれないが。
「……何そんなとこで突っ立ってんの。もしかしてまだ寝てる? 夢遊病の気があるだなんて、その名に恥じない特技だね!」
「んあー、そんなわけないじゃろっ」
ぶちぶちと文句を言いながら階段を降りてくる夢野は、やがて王馬と立ち並ぶ。恨めしさを宿した瞳だがそこからは警戒心も悪意も感じられない。
それもそうだろう、とふと思う。そもそも王馬自身が夢野に対し、全く警戒をしていないのだ。悪意を向けることは多少なりともあるが、どれも些細ないたずらレベルである。反応、というのは与えたそれ相応のもので返されるものだ。
夢野の警戒心が薄いのは、彼女がひどい面倒臭がりで鈍感なのが要因の一つだろう。また王馬自身が彼女に対し懐疑的でもなければ攻撃的ではないことも関係しているのかもしれない。
(…………いやだって、この子が裏で糸引いてるわけないじゃん。仮にそうだとしても演技が稚拙すぎでしょ。それも全部計算だっていうならスゲーなって思うけどさぁ……、うん、やっぱないわ)
文句をつらつら言い続ける夢野から受ける印象はどれも、このデスゲームを企画した人物とは思えないものばかりだ。それら全てが彼女の行う印象操作ならば大したものだと思うが、どうにもそう思えない。
もしも彼女がすべての黒幕であるのなら、いの一番に警戒するのは王馬だろう。昨晩の裁判で彼は夢野が犯人だと槍玉にあげ、裁判を散々引っ掻き回したのだ。何をするか予測しにくい人間を警戒し、距離を置くのは当たり前だ、けれども。
(……呑気だな、ほんと)
全く警戒もしなければ、姿が見えなくなっても気にしない。今ここで殺されるかもしれないという懸念さえ浮かんでいないのだろう。膨れっ面でずんずん進む夢野のすぐ背後を至近距離で付いていきながら、王馬は顔をしかめた。
流石にここまでくると心配になってくる。明日にでも死ぬんじゃないかと思わずにはいられない。
「いくらなんでもチョロすぎでしょ。危機管理能力が死んでるんじゃない?」
「んああ!?」
振り返って素っ頓狂な声を上げ、すっ転ぶ少女。あまりにも見事な驚きぶりについつい声を上げて笑ってしまった。そんなことをされても尚、彼女は心底警戒することもなく差し出された手を取る。
なんて騙されやすく、からかい甲斐のある人間なんだろうか。こんな反応をされてしまったら、次にどんな嘘を吐いてやろうかと考えてしまう。
(そう簡単に殺されないでね、夢野ちゃん)
微笑んでやればびくりと驚いて固まる。ほんのりと染まった頬は、彼女が今何を考えているのかを教えてくれているような気がして。
王馬は握りしめていた一回り小さな手を放り投げた。すぐさまひっくり返る彼女を置いて、背後から猛スピードで迫り来る怒気に背を向ける。他愛ないやり取りのあと、覇気の凄まじい茶柱から一目散に逃げ出した王馬の脳裏には、先程掠めていった『何か』など残っていない。
そうして吐き捨てられた嘘は果たして誰に向けたものだったのかなぞ、誰も知る由がないのだ。
夢野秘密子は嘘を吐いている、ことはすぐに気付いていた。彼女が嘘を貫き通せるのは己の才能を発揮するときだけであって、それ以外の場面では騙す気があるのかと疑うほどに脆いしわかりやすい。その場しのぎの嘘を吐くにも、もう少し考えられなかったのかと呆れるほど粗が目立った。
ただ彼女が何の嘘を吐いているかは、未だ判別できていない。というのも想定以上に判断材料が少ないためで、もう夏休みへ突入したというのに全く前進できていないのである。
最原と春川が口を割らないだろうことは初めからわかっていたし、ボロが出るまで揺さぶろうかとも考えたがそれもできていない。それもこれも二人の脇を固める赤松と百田が、あれこれと邪魔をするからだ。
それを掻い潜って絡めたところで、待っているのは東条や星、天海など良心から二人に助け舟を出すメンバーである。切れ者揃いの彼らを全て相手するのは中々に骨が折れるのだ。そんな無駄に体力を要するようなことをするぐらいなら、本人も周囲もチョロそうな夢野のことを揺さぶる方が遥かに楽である。
(夢野ちゃんのこと、甘く見てたなぁ)
まさか才能にのみ発揮される嘘を貫き通す力を、こちらにまで適用させるとは思ってもみなかった。
超高校級の魔法使い、と本人が自称している肩書きも本当なのではないかと思えてしまう。疑り深い王馬にさえ、そう思わせてしまうほどのトリックを明かさない手腕。また舞台を構成する力、観客を楽しませるための演技も、普段の姿からは考えられないほどだ。エンターテイナーとしては申し分ない才能ではある、が今はその才能が恨めしい。
夏休みも序盤、夢野が構成から演出まで全てを手がけたマジカルショーを、クラスメイト全員で観に行った。そこでぶつけた質問に返された言葉に、恐らく嘘はないだろう。事あるごとに誰かしらから魔法ではなくマジックだろう、と訂正され続けていれば鬱憤も溜まるというものだ。
そう、あの言葉自体に嘘はない。けれどもそれが真実を隠すための嘘である可能性は捨てきれないのだ。どうしても、ただ『魔法を認めさせるため』だけにクラスメイト全員を招待したようには思えないのである。
「は〜〜〜〜……、あっつ…………」
夏休みも残り半分も過ぎてしまった。何をするわけでもなく、寄宿舎の自室で寝転がる王馬に生気はない。というのも現在彼は、とある問題にぶち当たっているのだ。
そう、深刻な資金不足である。
前半は学生らしく遊びに、超高校級らしく活動にと忙しなく飛び回っていた。そこまで派手なことはしていないはず、だったのだが自分は想定していたよりも浮かれていたらしい。王馬がそれに気付いたときには既に手遅れで。
「……学校のほうが涼しいよなぁ」
流石に資金がないとどうとも、と困ったように呟く部下たちの言葉は最もである。まだやりたいことは山のようにあったのだが、泣く泣くDICEは活動休止を余儀なくされたのだった。
そういうわけで、自宅に帰省する気も起きず寄宿舎へ戻った王馬は、ほとんど働かないクーラーと共に残りの夏休みを過ごしている。出された宿題なぞとっくの昔に終わっているし、テレビを見ようにもサウナのような部屋で楽しめるわけもない。むくりと起き上がった彼は、時計をしばらく眺める。
のそのそと起き上がり、クローゼットから適当な服を取り出す。本来ならば制服で行くのが正しいのだろうが、あんな暑苦しいものを着ていく気は起きない。
やがて着替えを終えた王馬は、寄宿舎を後にする。目指すのは希望ヶ峰学園。最新式の設備が揃う学園の、最も空調管理が徹底されている食堂だ。
「あっ、天海ちゃんじゃん。帰ってきてたんだ」
アイスとジュースの入ったコンビニ袋を手に食堂へやってきた王馬は、思わぬ人物との遭遇に少しばかり驚いた。超高校級の冒険家として学園へスカウトされた彼は、学園生活の殆どを海外で過ごしている。
夏休みのような長期休暇は、学校への公休申請に通常よりも煩雑な手続きが必要ない。なので何も心配することなく旅に出られる、と夏休み前に呟いていたほどだ。
そんな、夏休み中は帰ってこなさそうな言動をしていた人物と、まさかの場所で再会したのである。驚かないほうが無理な話だ。
「あぁ、王馬君じゃないっすか。珍しいっすね、休みなのに学校へ来るなんて」
テーブルに広げられている写真やお土産なのだろうあれこれを整理しながら、天海は人が良さそうな笑顔で振り返る。
それから軽い挨拶を済ませた後、王馬は天海の真正面となる席へ着いた。空いたスペースにコンビニ袋を置いて、買ってきたアイスキャンディーを取り出す。
「思ったよりはしゃぎ過ぎちゃってさぁ。資金不足っていうの?やれること無くなっちゃったんだよね〜〜! あ、天海ちゃんも食べる?」
「お、ありがたく頂くっす。はは、何かこういうの懐かしいっすね」
夏休みともなれば友人と集まって、公民館やショッピングモールで適当な時間を潰していた。少ない小遣いでおやつを買ったり、ゲームセンターを意味もなくうろついてみたり。特に何をするわけでもなかったが、たったそれだけのことが楽しかった。
とはいえそれも、彼らが超高校級と呼ばれるよりも前の話である。才能を発揮しだす頃には同年代の友だちは少なくなり、代わりに大人が取り囲むようになった。それによっていい思いもしたものだが、二度とあの友人と何でもない日を過ごすことはできないのかもしれない。なんて思っていたのだが。
二人で安いソーダ味のアイスキャンディーを食べながら、他愛もない話をする。王馬の組織が起こした騒動や天海の旅先のこと。たまたま出くわしたクラスメイトとのあれこれと、意外にも話は尽きなかった。
「……そういえば、王馬君は何かわかりましたか?」
アイスも食べ終わり、ジュースも飲み終わり。厨房から頂戴したミネラルウォーターをグラスに注いでいたときのことだ。声をワントーン落とした天海が意味深にそんなことを言い出す。
ぴたりと動きを止めた王馬は、真剣な面持ちを崩さないクラスメイトを見つめ返す。互いに探るような視線を交わした後、溜め息を吐いたのは王馬のほうだった。
「わっかんないから、こんなとこでこんな暇の潰し方してるんでしょ〜〜? わかってるくせに、天海ちゃんって意外と性格悪いよね」
「あはは、性格悪いっていうのは初めて言われたっすね」
じとりと視線を向けてやれば、天海は困ったように頭を掻いた。悪気はもちろんなかったのだろう。すみませんと素直に頭を下げられてしまえば、王馬もそれ以上は追求をしなかった。
これがもしキーボや百田相手であれば、鬼の首をとったように挙げ足取りをするだろう。けれども天海はそれをしたところで反応がとんでもなく薄い。からかい甲斐もなければ騙し甲斐もないので、最近では王馬が天海に余計なちょっかいをかけることは少なくなっている。
それに加えて夏休みに入って少し経った頃、二人の関係はただのクラスメイトから変化したのだ。
「そんなこと言うってことは、天海ちゃんは何か手に入れたの? な〜んにも進んでないのに、こんなところで油売ってたわけ?」
頬杖をつきながら怪訝な目を向けてくる王馬。端正な顔立ちをしているにも関わらず、それを全く気にしていないのか表情を崩れに崩れさせている。
そんな不貞腐れる友人を宥めながら、天海は足元に置いていたリュックから何かを取り出す。
「何それ」
整理された机に置かれたのは、一冊のノートである。有名メーカーのシンプルなデザインであるそれをペラペラと捲り、あるページに辿り着いたとき天海は漸く口を開いた。
「王馬君は才囚学園って知ってますか?」
「知らないけど……、それ誰から聞いたの」
殴り書きされたメモの羅列は、一見すると何を示しているのかわからない。けれども目的を同じとする二人には、重要なものであると気づくことができる。
「最原くんっすよ」
「え?! あの最原ちゃんが口割ったの? 何それ天海ちゃん拷問でもした?」
「……王馬君の中でオレはどんなキャラなんすか」
呆れたように言った天海は空気を変えるためか、こほんと咳払いをひとつ落とした。常ならばもう少し戯れに下らない話をしたいところだが、続きが気になるので王馬は口をつぐみ続ける。
話の腰を折るつもりがないことを悟ったのだろう。天海はにこりと笑顔を浮かべながら真相を語りだした。
「聞き出したわけじゃないんすよ。たまたま聞いちゃったってだけで」
「ふぅん」
「オレ、昨日の夜に帰ってきたんすよね。んで実家よりもこっちの方が近いんで、そのまま寄宿舎に行ったんすけど」
荷物がとんでもなく多い、わけではないがそれなりに重いものはある。それを抱えて電車やらバスやらで実家へ戻る気にはなれず、天海は重い体を引きずりながら寄宿舎へ帰ったのだ。
洗濯や荷物の整理は明日にして、今日はこのまま寝てしまおう。そう心に決めていた天海だったが、共同スペースのソファで眠りこけている最原を発見した。かなり疲れているのか揺さぶっても起きることはなく、眉間に皺を寄せながら魘されるばかり。
放っておけなかった、ものの抱えて部屋まで連れて行ってやる元気はなかった。せめてもの気遣いとして最原へブランケットを掛けようとした天海は、聞いてしまったのである。
耳馴染みのない言葉と物騒な単語の羅列を。
「と、いうわけっすね。決して拷問したとか自白剤使ったとかそういうもんじゃないっすよ」
「いやいや、オレそこまで言ってなくない? 天海ちゃんって意外と根に持つね」
そんなことないっすよ、とおどけて言う天海であるが目の奥は笑っていないような気がする。だからといって謝る気はサラサラないので、王馬は気付かないフリをして話の続きをするよう促した。
「最原くんが言ってたのはさっきも話した才囚学園って学校の名前と殺し合いっていう単語、あとはオレたちクラスメイトの名前をちらほらと」
「……それがただの夢だと思わなかった根拠は?」
夢、というのはいつだって突拍子がない。鑑賞した映画やテレビの影響を受けたり、実際にあった出来事に引きずられて奇想天外な展開になることが常である。最原が寝言としてこぼしたそれらも、たまたま記憶の中にあるフィクションが混ざりあった結果の可能性が高い。
けれども天海は確固たる自信をもって、これぞ探し求めていた真実の一端だと言い切る。彼のことなので根拠のない自信からくるものではないはずだ。
「今朝になっても、最原君はソファで寝てたんすよ。流石にこれ以上はと思って起こしたんすけど」
「……え、もしかして直接聞いた?」
「もちろん、不審がられないように最新の注意を払ったっすよ? 昨日は随分魘されてましたけど、怖い夢でも見たんすかって」
悪夢に魘されていた友人を労っただけだ。そこに不自然さはさほど感じられなかったはずである。けれども最原は、唯でさえ悪かった顔色を更に悪くして呟いたのだ。
自分は一体、何を言っていたのだと。
「今にも死んじゃいそうで、ちょっと見てられなかったんすけどね。でも変に引き下がるのも疑われるし、かといって踏み込みすぎても駄目。さてどうしたものかと思ったっス」
「で? 天海ちゃんはどうしたの?」
首を傾げながら問いかければ、彼はにこりと笑ってみせた。一瞬いい報せがあるのかと期待に胸を膨らませたが、この笑い方は何かを誤魔化すときのそれに似ていることに気付く。
王馬はあからさまに不機嫌そうな声を上げながら口を尖らせる。
「何だよ〜〜! そこまでいって収穫なしかよぉ〜〜!!」
「いやいや、オレも頑張ったんすよ? でもこれまで頑なに口を割らなかった、あの最原くんが相手なんですから。これでだいぶ警戒されちゃったっぽいっすし、今まで以上に難しくなるっすね」
「えぇーー……、めんどくさっ」
ばたん、と机に突っ伏す王馬。連日の暑さと暇すぎる時間に相当参っているのだろう。唸り声を上げながらぐったりとしたままだ。
ところがふと顔を上げたかと思えば、名案を思いついたと言わんばかりにぱっと笑顔を見せる。
「重要なキーワードがでたんなら、揺さぶりも効果出るよね」
これまでは何もわからず、攻めようにも切り札が一枚もなかったのだ。そのため彼らは暖簾に腕押し状態から抜け出せずにいたのである。
しかし天海が偶然聞いてしまった学園の名前は、間違いなく重要な情報だ。恐らくあの三人は、王馬たちがこのキーワードを知る由もないと思っているだろう。そこを突いてやれば、これまで鉄壁だった嘘を暴けるのかもしれない。
「揺さぶりって、誰にするんすか?」
「えー、そんなの決まってるじゃん!」
にたにたと笑い出す王馬を、じっと観察するように眺める天海。今このタイミングで何故そんな目を向けられなければならないのか。片眉をつり上げながら見返せば、彼は眉尻を下げながら笑う。
「まぁ、程々にしないとダメっすよ? 相手は女の子なんスし」
整理された荷物を丁寧にしまいながら、天海は立ち上がる。間もなくしてひらひらと手を振りながら食堂を出ていった友人の背を見送った王馬は、だだっ広い部屋にポツリと残された。
「……食えねぇヤツ」
誰を問い詰めるかなど言っていないはずだ。それなのに天海は、王馬が狙いを定めている相手にあっさり気づいたらしい。はて、どこかでボロを出すようなことをしただろうか。
ごうんごうんと空調設備の稼働する音を聞きながら、王馬は目蓋を下ろした。勝負は夏休みが明けてから、秋になるまでの短い期間。今度こそ真実を掴み取るために、嘘のヴェールを剥ぎ取るために。
王馬は誰もいない食堂でただ一人、決意を新たにするのだった。
「はい!今日はここまで!」
手を叩く音と朝日奈の元気な声が響き渡る。それを合図に水の中でもがいていた茶柱は、ぜぇはぁと洗い呼吸を繰り返しながら床に足をつけた。
夏休みも終盤に差し掛かり、朝日奈をコーチとした水泳教室も回数を残すことあと僅か。みっちりしごいてもらい、極度のカナヅチであった茶柱もようやく10メートル泳げるほどに成長している。ただしフォームはお世辞にも綺麗と言えず、まだ溺れているように見える瞬間もあるが。
兎にも角にも、全く泳げなかった彼女が一ヶ月足らずでここまで成長したのである。教え方はざっくりすぎであったものの、そこはお互いに体育会系の超高校級。頭で理解するより慣れろの精神で様々な問題を共に乗り越えてきた。
「はぁ、まだまだ向こう側の壁は遠いですね……」
プールサイドに上がり、キャップとゴーグルを外す。すると解放された濡れた黒髪がまとまって落ちていくので、朝日奈は少し羨ましそうにそれを眺めた。
「朝日奈先輩? どうしました?」
「え? あー、いやぁ……長い髪っていいなぁ〜って」
自分の才能を伸ばそうと思うと、どうしても髪は短めになってしまう。それでも朝日奈は長い方ではあるが、茶柱や霧切ほどの長さまでは伸ばせない。
やはり女子としては長い髪は憧れる。なので毎度特訓が終わるたび、茶柱がキャップを外す姿に密かな憧れを向けていたのだ。
「私も舞園ちゃんとか江ノ島ちゃんとかに聞いて手入れしてるけど、ずっとプールにいるからやっぱり他と勝手が違ってさぁ〜。なかなか上手くいかないもんだね」
「ま、舞園先輩と江ノ島先輩ですか……。それは何というか、すごい先生ですね」
「そうそう! 雑誌とか見るよりぜーんぜん説得力が違うの! やっぱりその道のプロなんだよね〜」
プールサイドをペタペタと歩きながら、他愛もない話をする。話題は専ら、同じ学年にいる他の超高校級のことで、こんな事件があったあんな珍事があったと話題は尽きない。
シャワーも浴びて着替えを済まし、身支度を整えて。あとは帰るだけだというタイミングで、ふと朝日奈が立ち止まる。この後は今話題のカフェへ行こうと約束しているのだが、もしかすると別の予定が入ってしまったのだろうか。不思議そうに首を傾げる茶柱、何かを考え込んでいる朝日奈の言葉を待つ。
「あのさ、変なこと聞いていい?」
短い唸り声を上げたあと、朝日奈は真面目な顔で問いかけてくる。あまりに真剣な面持ちだったので、つられて茶柱の顔を引き締まった。
「はい、何でしょう?」
「えっとさ、茶柱ちゃんのクラスにその、隠し事してるっぽい子って、いる?」
突拍子もない質問だった。内容もふわふわしていて何を問いたいのかうまく伝わらない。それをわかっているのだろう、朝日奈は未だうんうんと唸っている。
けれども茶柱には、その質問が真に問いたいものの心当たりがあった。そしてこの問いによって、長らく悩んでいたことが解決するかもしれないと、心に期待を宿す。
「いますよ。転子がわかっているだけで、二人は」
「あれ? 三人じゃなくって?」
「…………男死も含めると三人ですが」
きょとんとする朝日奈の言葉に、茶柱は渋々自らの発言を訂正する。
訂正して、何故三人だと知っているのかを疑問に思った。訝しげな顔が出てしまっていたのだろう。朝日奈は茶柱の顔を見るなり、大げさに否定しながら事の真相を語り始めた。
「あ、私が気付いたんじゃないよ! 霧切ちゃんってほら、超高校級の探偵でしょ? 茶柱ちゃんのクラスにいる、えーっと、最原だっけ?」
「はい。超高校級の探偵、最原終一さんです」
「そうそう。彼と仕事を何回かやったことがあって、そのときに様子が変だったって言っててさ〜」
共に仕事をする分なら特に問題はなかった。けれども話題がクラスメイトの彼らに及ぶと、あからさまに動揺したのである。他愛もない話であるはずなのに、話し難そうというか話したがらないというか。
とにかく、ただクラスメイトの話をするにしては言動が深刻すぎたのだという。
「それで、他に同じような子がいないかって調べたら、三人いたんだって」
「そうだったんですね。……あの、ところで霧切先輩はどうしてそれを調べたりしたんですか?」
一つ納得をすれば、新たに一つ疑問が生まれる。茶柱が眉尻を下げながら遠慮がちに問えば、朝日奈は困ったように笑いながらこう答える。
「少しでも気になったら徹底的に調べたくなるのが探偵の性、なんだって」
「あぁ……、言われてみれば最原さんも、そういうところがありますね」
茶柱の脳裏を過るのは、夏休みに入る前の珍事。男子がわいわいと騒いでいたことなので興味がなかったのだが、そういえばあの騒動の中心に最原がいた気がする。後にこの話をしたとき、赤松たちが相当呆れていたので、きっとくだらないことだったに違いない。
男子の中でもどちらかといえばマトモな最原である。そんな彼がとんでもなくどうでもいい騒動の中心になるのなら、確かに探偵の性というものは恐ろしいのかもしれない。
「それで、なんでこんなこと聞いたかっていうと」
「いうと?」
首を傾げる茶柱をじいと朝日奈は観察する。キョトンとしている彼女はいつもと変わらないように見えて、ここまで話しておきながら要らない世話だったかもと思い至った。
けれども今更後ろには引けない。意を決して口を開く。
「あのね、きっと好きで隠し事をしてるわけじゃないと思うの」
朝日奈にも同じ経験があった。入学式の当日、ふと思い出したありえない世界の出来事。その場で蹲り動けなくなるほど衝撃的なそれは、今もなお悪夢として蘇ることがある。
黙っていよう、と誰からか言い出したわけではない。けれどこんなことを好き好んで話したくもなかった。あの絶望的な状況を生き残った六人は、そうしてクラスメイトたちに嘘を吐いたのである。入学式に体調が悪かったのはたまたまで、理由など何もないのだと。
そんな必死の努力も、ひょんなことから葉隠がうっかり口を滑らしたことで台無しになったのだが、今は横に置いておいて。
「私が言うのも変な話なんだけどさ」
「いいえ、そんなことはありません。……朝日奈先輩は、転子のことを心配してそう言ってくれているのですから」
にこり、と茶柱が微笑む。今度は思わぬ返しに驚いた朝日奈が言葉を待つ番だった。
「夢野さんたちが何かを隠していることは知っています。その秘密が夢野さんたちを苦しめていることも、知っています」
目を伏せながら続ける茶柱は、少しだけ寂しそうな素振りを見せる。けれどもすぐに満面の笑顔を浮かべた。いつもと変わらない快活な声で、朝日奈の気遣いに答える。
「でも、転子は待ちます! いつか夢野さんたちが、笑って秘密を明かせる日まで!」
「茶柱ちゃん……」
夢野たちが苦しんでいるのなら手を貸してやりたかった。胸を締め付けるものがあれば取り除いてやりたかった。けれども彼女たちが打ち明けないのであれば、茶柱は必要以上に踏み込むことはしない。ただでさえ辛い思いをしているのに、よかれと手を出してこれ以上の悩みを増やすのは本末転倒というものだ。
いつか、夢野たちが話してもいいと思える頃になったら教えてくれればいい。笑い飛ばせるぐらいの思い出話になるのなら、それが一番いいのだから。
「……って、本気で思ってはいるんですよ。でもやっぱり、寂しいといえば嘘になると言いますか……」
困ったように笑う茶柱は、ここで初めて弱音を吐いた。
夢野たちが話してくれるのを待つ、というのは本心から来た言葉である。しかし友人の一人として頼ってもらえないのはやはり寂しいものがあった。彼女らの言動から、茶柱に信頼を置いてくれていることは重々承知していた、けれども。
やはり寂しいものは寂しいのである。
「……茶柱ちゃんはほんっと〜〜にいい子だねぇ!」
「えぇ!? な、何で頭を撫でるんですか!?」
素っ頓狂な声を出しながら固まる茶柱の頭を撫でながら、朝日奈はにこにこと笑顔を浮かべ続けた。
元より茶柱の真っ直ぐな性格は好ましく思っていたし、友達思いなところもよく知っている。芯も強い子だから元気づけるだなんて余計な世話かと思っていたのだが、やはりそう簡単に割り切れる話ではなかったのだ。
「大丈夫だよ! 茶柱ちゃんの気持ちは、ちゃんと届いてるから!」
自信満々に言いはしたが根拠など全くない。けれども言葉を交わせば交わすほど、不思議とそう思えた。そんな朝日奈の言葉に、茶柱は目を丸くした後で嬉しそうにはにかむ。夢野たちを信頼しているとはいえ、どこか不安はあったのかもしれない。
そうだと嬉しいです、と笑った茶柱の笑顔はとても晴れやかだったので、朝日奈は彼女の頭を撫でながらうんうんと頷き続けた。
喧騒を遠くに聞きながら、王馬は微動だにしない夢野へ視線を落とす。驚いているのか、困惑しているのか。確かめようにも整えられた髪に隠され表情は見えない。
握りしめたままの手のひらはじっとりと汗ばんでいる。何かしらの反応が欲しくて少し強めに握ってみるもののぴくりとも動かない。ぐ、と更に距離を詰めてみても状況が変わることはなかった。
「……そうか」
不意に、それまでされるがままでいた夢野がぽつりと耳元で囁く。どこか納得したような口ぶりが気になって体を離せば、見上げてくる瞳と視線がぶつかった。まっすぐに向けられる双眸からは困惑も迷いも感じられない。
想定していなかった反応に困惑するのは王馬の方であった。てっきりパニックにでも陥っているのだろうと思っていたのに、彼女は何でもないような涼しい顔をしてそこにいる。
眉間に皺が寄るのは自然な流れであった。
「……何じゃ、その顔は。ウチが困っておらんのが不満か?」
そんな王馬へ不敵な笑みを向けて、夢野は離れた距離を詰めるように一歩踏み出した。反射的に逃げそうになるのを堪えば、彼女が胸の中へ飛び込むような形になる。
先程までとすっかり逆転してしまった立ち位置。つい一時間前までは徹底的に追い詰めるつもりでいたというのに、まさかこちらが追い詰められそうになるなど予想できるわけがない。
「……聞かれて困らないなら、隠す必要なんてなかったでしょ」
振り回されている。その事実が悔しくて吐き捨てるように言えば、胸元から小さな笑い声が聞こえてきた。
「聞かれたら困るのは、間違いないぞ」
「じゃあ何でそんなに余裕なの」
自分でも不貞腐れた顔をしている自覚はあった。いつもの自分らしくないとも思えたが、いかんせん相手の動きが読めない。次の一手に出ようとも先の展開が見えないのなら、下手に動いて墓穴を掘るのが関の山だろう。
夢野の考えている一端を掴めれば、形勢逆転を狙えるかもしれない。とにかく今は彼女に語ってもらおうと、王馬は問い詰めたい気持ちを抑え込む。
「そうじゃな……、うむ、予想しておったからじゃ」
「……何を?」
「お主ならきっとそこへ辿り着くじゃろうとな」
まあ思っていたよりも遅かったがの、と続ける夢野がへらりと笑う。どこか嬉しそうに見えるのは気のせいだろうか、それとも。
握り込んでいた指を解いて、夢野の肩を少しだけ押す。それに驚くことも戸惑うこともせず、彼女は為すがままに一歩後ろへ下がった。
「教えてやるぞ。お主の知りたいこと、ウチの隠しておること」
「勝手に決めていいの? 無断でバラしたら最原ちゃんと春川ちゃんが怒るんじゃない?」
「んあ……、まあ、春川は怒るじゃろうな……」
視線を外した夢野の顔色は少し悪い。春川が怒ったときの怖さをよく知っているからだろう。普段は物静かな人物だが、感情を爆発させたときの迫力は相当なものだ。特に怒りや殺意を抱いたときのそれは、学園でもトップレベルのものである。
彼女は特に王馬を警戒しているし、嫌っている節があった。これまで守ってきた秘密をよりにもよって彼へバラしたならば、それはもう酷いことになるかもしれない。
それはそれとして、もう一人について言及をしなかったのは何故だろうか。これまでの態度や言動を考えるに、春川ほどではないがそのもう一人も怒りを露わにするはずである。
「……最原は、恐らく勘付いておるぞ。夏休みが明けてから、お主と天海の様子がおかしいと言っておったからのう」
「ふぅん……流石、超高校級の探偵だね」
直接的ではないにしろ、三人の秘密を探るために王馬と天海はあれやこれやと情報収集をしていた。うっかりこぼされたキーワードを紐解くため、件の学園について探ってみたり、希望ヶ峰学園の歴史を洗ってみたり。他にも先輩に当たる超高校級たちに探りを入れてみたりもした。
結果としてわかったのは、先輩である超高校級たちもに似たようなことがあった、ということだけである。三人が抱えている秘密まで辿り着くには至らない。
だから今日、王馬は夢野が一人きりになるタイミングを見計らって追いかけてきたのだ。まさか一緒にかくれんぼをさせられるとは思ってもみなかったが、交換条件を突き付けることで話のきっかけを掴むことができたのである。
とはいえ、王馬が望むような展開にはならなかったのだが。
「で、本当に教えてくれるの?」
「うむ、そうしてやりたいのは山々なのじゃが……」
きょろきょろと辺りを見回して、夢野は困ったように溜め息を吐く。間もなくしておもむろに王馬の腕を掴み、教室の入り口へと向かった。
「ちょっと、どこ行くの?」
そのまま出ていこうとする夢野の腕を握り返し、止める。つんのめり掛けた彼女は眉尻を下げながら一度振り返って、すぐに外の様子を探るように廊下へ顔を出した。
「またアイツが近くを通るかもしれんじゃろ? 話すにしても、邪魔をされたくはないからの」
望んでもない鬼ごっこを強いられている夢野としては、このまま空き教室に残ることは避けたかった。次にいつ、あの男がここを探しに来るかわからない。王馬が側にいるので強硬手段に出ない、とは思うが夢野が捕まらないことにいい加減あちらも痺れを切らしていることだろう。
危害を加えてくる可能性が捨てきれない以上、やはりこの場所に留まり続けていたくはない。
注意深く辺りの気配を探る夢野。そんな彼女の背中を暫く眺めていた王馬は、そっと離れていた距離を詰める。忙しなく動いている小さな頭の横、入り口の柱にもたれ掛かり、無防備な背中へ僅かに体重を掛けて。
「んあっ? 何じゃおう、ま……」
「夢野ちゃんさあ、オレがあんな奴より弱いって思ってんの?」
勢いよく振り返る夢野は、距離の近さに驚いたのかびくりと全身を硬直させた。ぎょっとした顔のまま目と鼻の先にある王馬を見つめる。
お互いに口を開くことなく、どれほどの間見つめ合っていたのだろうか。
がやがやと遠くから騒がしい声が近付いてくることで、二人の視線がようやく離れる。はしゃぎようから生徒なのだろう一行は、先程行われたらしいファッションショーの感想を交わしているようだ。このまま真っ直ぐに進んでくるだろう彼らは間違いなく、この教室の前を通るだろう。
「……ねぇ、夢野ちゃん」
「……なんじゃ」
ゆっくりと距離を取りながら呼びかけてきた王馬は、こわごわとした様子の夢野が言葉を返すと小さく笑む。間もなくして互い顔の位置にまで上げられた拳は、小指だけ立てられたまま。
それが何を意味しているのか、よく知っている。知らないわけがない。
「折角の文化祭なんだしさ、今日は楽しもうよ。話はまた今度でいいからさ」
にい、と笑う王馬と差し出された小指。それを何度か見比べた夢野は、やがて胸の前で己の両手を握り締める。切なそうに苦しそうに眉間に皺を寄せ、重い溜め息を吐きながら目を伏せて。
「…………わかった、約束する」
差し出された指は僅かに震えていた。けれど躊躇うことなく、しっかりと絡んできた小指は温かく柔らかい。
「「ゆーびきーりげーんまん、うーそつーいたら針千本のーます」」
近づく声は止まることなく、そろそろ隣の教室に差し掛かろうとしている。飛び交う声は聞き馴染みのあるものばかりであった。このまま彼らがここへ辿り着いてしまえば、きっと声をかけられるに違いない。
その前に約束をかわさなければと、どちらともなく歌を口ずさんだ。緩やかなリズムを刻むように揺れる手は軽いようで重い。
「「指切った」」
千切られた指、契られた約束。改めて己の指を見つめていた王馬は、目の前で同じように己の指を見つめる夢野へ目を向ける。
(……何だよ、その顔)
唇を噛み締めて、ぐしゃりと歪められた顔は今にも泣き出してしまいそうだった。大切そうに握りしめられる、約束を交わした指。漏れる吐息はひどくか細くあまりにも弱い。
子どもがするような、戯れにも似た約束ではないか。たったそれだけで、何故そんなにも泣きそうな顔をするのだろう。どうして彼女が苦しそうに肩を震わせるのか、王馬にはわからなかった。
そう、わからないのである。何故なら王馬は知らないのだ。夢野が抱えているもの全てを、秘められたままの嘘も、何もかも。
「お、夢野! ……と、王馬か。何してんだこんなところで」
静まり返る空き教室に飛び込む明るい声。それは赤松や最原、春川といったいつものメンバーと共にやってきた百田のものだ。不思議そうに首を傾げていた彼は、しばらく二人の姿を見比べると怪訝そうな表情に変える。
「王馬、お前夢野に何かしたろ」
「……何で決めつけるかな、百田ちゃんは」
教室に入ってきた百田は、大股で近寄ってくる。そうして目の前で仁王立ちしたかと思えば、責めるように詰め寄った。
状況も知らないのに、よくもまあ自信満々に言えるものだと王馬は呆れる。それは慌てて追いかけてきた赤松も同じようだった、ものの基本的に彼女は女子の味方なので怪訝な視線は隠しきれていない。
「じゃあ何でこんなに顔色悪いんだよ」
「え〜〜? そんなの知らないよ! オレが聞きたいぐらいだっての!」
珍しく本心を語るが、もちろん信じてもらえるわけもなかった。ああだこうだと文句をつけてくる百田の話は聞く気など微塵もないので受け流す。それに気付いた彼の文句は激しくなる一方だが、やはり聞く気はないので無視をした。
ちら、と向けた視線の端で捕まえる小さな背中。赤松や春川に声をかけられている夢野は、力なくではあるがはにかみながら何かを話している。
そこには先程の泣きそうな顔も震えもなかった。
「おい王馬! 人の話はちゃんと聞け!」
「やだよ。百田ちゃんの年寄り臭い説教なんて身にもならないし、聞くだけ時間の無駄でしょ」
「何だと!?」
捕まえようと伸ばされる手から逃れ、王馬は教室を飛び出した。すぐさま追いかけてくるであろう百田は間違いなくとんでもなくしつこい。ならば早めに撒いたほうが身のためだろう。
案の定、すぐに地を蹴って駆け出す百田に背を向ければ、怒声が投げつけられた。それも聞こえないふりをして、王馬は人気のない廊下を全速力で駆け抜ける。
(ボディーガードしてあげるって、言ったのになぁ)
やがて人でごった返す廊下に差し掛かる頃、ふと思い出すのは夢野と交わした言葉。器用に人波をすり抜けながら、早速約束を破ってしまったことを少し悔いる。
とはいえ今は赤松に最原、そしてあの春川が彼女の側にいるのだ。三人ならば迷惑極まりない上に空気の読めない男から、難なく守ってやることができるだろう。
(まぁ、今はまだその役目は譲ってあげるよ)
教室から飛び出す瞬間、投げつけられた二つの敵意。ほんの一瞬だけ見えた彼らの顔には確かな怒りが滲んでいた。きっと王馬が、夢野へ何かしらの危害を加えたのだと思っているのだろう。守るように立つ姿、労るように肩へ添えられた手がそれを物語っていた。
二人は二人なりに夢野を守ろうとしている。それをよく知っているからこそ、自分が疑われるのも厭わず、また弁明もせずに王馬は教室を飛び出したのだ。
「王馬ぁ〜〜〜! 待てコラァ〜〜〜〜!!」
「もぉ〜〜〜!! 百田ちゃんしつっこい!!!」
背後から飛んでくる声は止まない。行き交う人々から突き刺さる「またか」という視線が程々に痛かった。けれどもこの足を止めてしまえば、聞きたくもない長ったらしい説教と地味に痛いげんこつを受けなければならないだろう。そんな結末は死んでもゴメンだ。
果たして文化祭を無事に乗り切れることができるのか。不毛な鬼ごっこはまだ始まったばかりである。
「アンタって趣味悪いね」
真正面からどストレートにぶつけられた言葉に反論しようにも、自分でもそう思っているのでぐうの音も出なかった。胸の辺りに手を添え、声にならない呻きを上げながら、夢野はぎゅっと目を瞑る。
武装したキーボにより破壊し尽くされた才囚学園。寸での所で命を拾った最原たちは、歩くことすら困難なこの場所を探索していた。一番は外に出るため、二番目は何かしらの真実が見つけられないか探るためである。
ずんずんと進む最原と春川。その三歩ほど後ろを必死に付いていく夢野。そんな状態がしばらく続いたところで、春川が休憩しようと提案したのだ。恐らく、いや間違いなく夢野を気遣ってのことだろう。有り難いやら申し訳ないやらで自然と頭が下がった。
ちょっと気になることがある、と歩いていってしまった最原を見送り二人きり。比較的被害の少ない場所に腰を下ろして、どちらともなく話しだした。学園でのこと、これまで起きたこと。あまり積極的に言葉を交わすことがなかった春川と夢野だったが、意外にもこの時間を苦痛と感じなかった。
「う、ウチとて好きで好きになったわけじゃないんじゃぞ……」
「……まぁ、それはわかるけどさ」
そんなものとは無縁だと、お互いに思っていた。これまでの人生でこういう類の話は専ら聞き手で、自らの実体験なんてこの先語る場もないだろう。なんて考えていたのだが、人生何が起きるかわからないものだ。
殺し合いなどという非現実な世界が幕を閉じ、ようやく立ち止まったときに初めて気付いた感情。一足早くに自覚をしていた春川は少しだけ吹っ切れていたようだが、夢野はそうではなかった。
五回目の裁判を終えてすぐ始まった、キーボとモノクマたちの戦い。学園内を駆けずり回って手にした情報で挑んだ最後の裁判。それらが終わると共に建屋は全て崩壊してしまったのだ。
恐らく彼はまだあの場所にいる。けれどそこは折り重なる瓦礫の下敷きだ。そんなに何度も潰さなくてもいいだろうに、と夢野は格納庫があった方角を眺める。
「…………別れを、言っておけばよかった」
返事はいらなかった。ただ区切りとして、ケジメとして、声を掛けておけばよかったと思わずにはいられない。瓦礫の量と大きさから、どう頑張ってもあの場所を掘り起こすことは不可能だ。またいつ更なる崩壊が始めるかわからないため、近づくことすら叶わない。
ぽた、と頬を滑り落ちた熱いものが、顎を伝って落ちる。じわじわと滲んでいく世界は変わらず静まり返っていて、まるで最初からこうであったかのように思えてきた。
「…………夢野、」
するりと頭を撫でる手があった。暗殺者だという者の手とは思えない、柔らかく優しい手である。労るように、慰めるように。母親が子を慈しむような暖かさをもって、春川は胸に飛び込んでくる夢野を受け止める。
僅かに肩を震わせながら声を押し殺して泣く、小さな少女。堪えきれない感情を抑えているのだろう。しかしそれは、かつての彼女を支配していた面倒臭がりからくるものではない。どうにもならない感情を、どうしようもなく持て余しているのだ。
絶えず震え続ける頭を背を撫でながら、春川は目を閉じる。思い出すのは五回目の裁判を終えたあとのこと。伸ばした手は空を掴んで、彼は宇宙に旅立ってしまった。その悔しさを、虚しさを、悲しさを。どうしようもない感情を、春川は知っている。
「……やっぱり、私はアイツのこと嫌いだよ」
それでも春川は伝えることができた。行き場のない感情をぶつけることができたのである。例えその感情が実らずとも、間違いなく意味はあったのだ。
けれど夢野はそれができない。何故なら気付いたときにはすべて終わっていたからだ。ただぽつんと、どうにもできないものを抱えさせられ、生きていくしかない。
(あの野郎のことだし、それも見越してたのかもしれない)
いつだったか、最原が王馬に付き合わされたゲーム。そのときに言っていたのだという発言を思い出しながら、春川は顔を顰めた。もしもその言葉通りに夢野の心へ置き土産をしていったというのなら、効果はてきめんである。
(…………こんなの、恋なんてもんじゃないよ)
キラキラとしたものばかりが恋じゃない。そんなことは分かりきっていたはずなのに、目の当たりにするとひどく気分が悪くなった。それが友人を苦しめているというのなら尚更。
潰れた格納庫を睨みつけながら春川は夢野を抱きしめる。あの下で眠っている男のことを、恨まずにはいられなかった。だからきっと、この先何があっても春川は王馬を許すことはないのだろう。
こんなものは恋じゃない。まるで、呪いだ。
懸命に背伸びをしながら、黒板の上部を消そうとしている。椅子を持ってくればいいのにそれをしないのは、彼女の悪い癖が出ている証拠だ。
とはいえ、日頃の鈍臭さを考えてみれば椅子に乗るのは危険なように感じる。うっかりバランスを崩してすっ転ぶ姿は、あまりに想像に容易い。
「その時間が無駄だと思うんだけど」
「……そんなことは、わかっておる……!」
しばらく観察してみたものの、状況が変わることはない。助けを呼ぶなり頼るなりしないのは意地なのか、はたまた面倒臭がっているのか。どちらにしてもこれ以上はただただ無駄だと判断して、王馬はもう一つの黒板消しを手に取る。
夢野とそう身長に差のない彼だが、男女の体格差は明らかだ。あれだけ必死に伸ばされていた夢野の手を軽々超え、残っていた文字を掻き消していく。
「……ずるいのう」
羨ましそうな、恨めしそうな。なんとも言えない視線を投げてくる夢野は、小さな溜め息を吐きながら低い場所の文字を消す。
しばらく無言で黒板に向き合っていた二人は、書き込まれた文字が全て消えたことでようやく目を合わせた。互いに感情らしい感情を顔に出さず、相手の出方を探るように見つめ合って。窓の向こうから聞こえてくる騒々しい声だけが、教室の空気を震わせていた。
「…………頼みたいことが、あるんじゃが」
ふ、と視線がずれた。黒板に背を向けた夢野は、後ろ手を組みながら一歩、二歩と進んでいく。やがて自分の席へ辿り着いた彼女はようやく振り返り、ふわりと微笑んだ。
「……今更あの約束はナシ、っていう頼み事以外なら聞くけど」
「そんなことは頼まん。ただ、」
行儀も悪く机へ浅く腰掛けた夢野は、夕焼けに染まるグラウンドを眺める。そこには体育会系の才能を持つ超高校級の生徒たちと、彼らの練習か特訓かに付き合わされている数名が駆け回っていた。
その中には、夢野の親友である茶柱がいる。楽しそうに、先輩である朝日奈たちと走り込みをしている彼女へ向ける、柔らかな視線。慈しむようなそれは、愛しいものを見るときのものとよく似ていた。
「ただ……、何?」
ゆっくりとした足取りで進みながら、王馬は静かに問いかける。間もなくすれば夢野の傍らへ辿り着くが、彼女がこちらを振り向くことはない。
「話をするのを、少し待ってほしいんじゃ」
「どれぐらい待てばいいの」
間髪入れずに問い返せば、ようやく夢野は王馬の方を向いた。先程まで見せていた柔らかな視線も、慈しむような雰囲気もない。ほとんど感情を見せない顔からは、何を考えているのかを窺えなかった。
夕日による逆光は、徐々に二人の影を濃くしていく。相変わらず教室の空気を震わせるのは、外から飛び込む遠い声ばかりだ。
「そんなに焦るでない。待つと言っても、3日ほどの話じゃ」
やっと口を開いた夢野は再度窓の向こうへ目を向けた。そこにはやはり、親友である茶柱の姿があって。
「……茶柱ちゃんに話すの」
「……うむ」
温かな表情に少しの影が落ちた。細められた瞳から滲むのはきっと寂しさだろう。どこか悔やむような色が見えるのは、気のせいではない。
静かな横顔を見つめながら、王馬も自らの目を細める。彼女が茶柱のことを特別、という言葉で括れないほど大切にしていることは周知の事実だ。そこに何か、特別なものがあるのだろうことも。だから何となく、夢野から話を切り出されたときに茶柱が関連してくるのだろうと思っていた。
まさにその通りとなったわけだが、王馬は文句を言うこともない。二人の関係をからかうこともせず、ただ夢野が振り返るのを待った。
「やはりダメじゃな。約束なんじゃし、先に話すのはお、」
「いいよ。先に話しても」
眉尻を下げながら問いかける夢野は、元から受け入れてもらえないと思っているのだろう。一人で納得したかのように語り出したので、王馬はその先を遮るように返事をした。驚いた顔で見上げてくる彼女に微笑みかければ、吐息に近い小さな声がこぼれる。
「……ありがとう、王馬」
茶柱転子という存在が夢野にとってどれほど大事なのかは、今までの言動を見ていれば十分わかる。そして彼女の存在は、他の何物も敵わないのだということも、薄々勘付いていた。
ならば無駄に駄々をこねず、受け入れたほうが得策だろう。王馬としても、あまり心象を悪くしたくはなかったのだ。ここで選択を誤ってしまえば最悪の場合、約束を破棄されることだってあり得るだろう。
これまでの夢野を見ていれば、そんなことをしないだろうとは思うのだが。念には念を入れるに越したことはない。
「…………のう、王馬よ」
長い沈黙の果て、顔を伏せていた夢野がふと口を開く。意を決したように、震える声で言い出すものだから、王馬はどきりと心臓を跳ねさせた。
けれどもそれを表に出すことはない。これでも自他共に認める嘘つきなのだ。自分で自分に嘘を吐くことなど造作もない。
「もう一つ、頼まれてほしいことがあるのじゃ」
そろりと上げられた顔は、逆光のせいでほとんどを影で塗りつぶされていた。窺いにくい表情と複雑に感情が絡み合った声。これまで以上に意図が読めず、注意深く観察しようとする王馬の前に差し出されるのは。
「果たしていない約束が、あっての。お主にこんなことを頼むのはお門違いなのじゃが……、これはお主にしかできんのじゃ」
ゆるい拳の中で力なく立てられるのは小指だ。ほんの数週間前、秘密を明かす約束をしたときに絡めたそれが今、王馬の前にある。
「……どうしてオレじゃなきゃ駄目なの」
指を差し出すよりも先に、疑問が口に出る。どうして王馬でなければいけないのか、どうしてわざわざ指切りをしなければならないのか。どうして、そんなに泣きそうな顔をしているのかと。
「……それも、あれを話すときにわかる」
「何それ。理由も聞かされずに約束させようとしてるの?」
「……んぁ、そういえばそうなるのう」
は、とした顔で夢野は驚く。どうやら全く気づいていなかったようだ。相変わらず詰めが甘い上に考えがやや粗いのだから締まらない。
はてどうしたものかと考える彼女の指は、ゆっくりと下げられていく。このままいけばあの指は拳の中へ収められてしまうのかもしれない。そうしてこの約束はなかったことになるのだ。
「…………、ウチは何も話しておらんのじゃぞ?」
今にも引っ込められてしまいそうな小指をそっと掬い上げる。全く力の入っていないそれは、いとも簡単に王馬の小指に捕らわた。
顔を上げた夢野は不安げな顔を隠さずに問いかける。約束を交わしたいからか指が逃げることはなかったが、真っ直ぐに突き刺さる疑いの視線は中々に鋭い。
「そうだね。夢野ちゃんは何にも話してくれないし、先に約束したオレなんかより茶柱ちゃんの方が大切みたいだし」
「んあぁ……、じゃから先に話すと、」
「でもさ、面白いじゃん」
疑いの視線が益々強まるが、王馬は気にすることなくいつもの意地が悪そうな笑顔を浮かべる。にしし、と笑いながら絡める指の力を込め、少し逃げ腰になる夢野へ詰め寄る。
「内容もわからない約束なんて、わくわくするじゃん。夢野ちゃんがオレに何をして欲しいかは知らないけどさ、きっとつまらなくないよね?」
問い掛け、ではなく確認だった。眼前に迫る瞳から伝わるのは、もしもつまらなかったらどうなるかわかってるよね、なんていう脅迫めいたもので。
夢野の顔が瞬時に強張り、引き攣り、色味がなくなる。しかしそれも数秒のことで、観念したかのような溜め息を吐くと同時に、絡め取られていた指に力を込めた。
「お主がウチの才能を嫌っておらんなら、つまらなくはないと思うぞ」
怯むことなくぶつけられる視線からは、何かしらの覚悟が感じられた。その正体が何なのかはさっぱりわからない、が今はそれで構わない。
舞台に生きるエンターテイナーが、その才能を持って楽しませてくれると言うのだ。つまらない展開になどなるわけがない。またどうしても辿り着けなかった真実も、併せて全て教えてくれるというのである。多少のデメリットもあるだろうが、それを加味してもメリットが多すぎるのだから、約束を交わさない手はない。
そもそも何かを手に入れるためには、何かしらの代償が必要となるものである。最高の興奮を手に入れるためならば、ある程度の無茶も必要なのだ。
「じゃあ、契約成立だね!」
「……はぁ、やはりお主といると疲れるのう」
ぐったりとした夢野のぼやきは無視をして、一方的に歌いながら絡ませた指を揺らす。すると彼女は慌てて歌を合わせながら、揺らされる指に合わせて己のそれを上下に振り始めた。
やがて交わされる指切りに、王馬は満足そうににこにこと笑みを深くしつつ、歌が終わると同時に絡ませた指を解く。楽しみだね、と珍しく嘘偽りなく語る彼を見つめた夢野は、解放された己の指先を握り締めた。
彼にとっては二度目の指切り、彼女にとっては三度目の指切り。今度こそは確かに果たすのだと夢野は決意を新たにする。
そうして秘密も明かし、果たせなかった約束を叶えて全てが終わったとき。夢野は己の胸に巣食うどうしようもないこの感情を、今度こそ捨ててしまおうとそう、心に決めた。
人の記憶ほど信じられないものはないだろう。機械のようにすべてを事細かに覚えられることも、感情を抜きにして事実だけを捉えられることもない。だから同じ出来事について訪ねても、そもそもの主観が異なっているので同じ答えが返ってくることはないのだ。
そして人の心もまた、信じられないものである。明確な形を持たないそれは形容しがたく、常に形を変えてしまうのだ。すべてが同じである瞬間などないのだろう。
つまり、何が言いたいかというと。
「ま〜〜〜〜だそんなあったかどーかわっかんないこと引きずってんのね〜」
満面の笑顔でそう言ってやれば、日直日誌を書いていた苗木は顔を上げる。やや顔を引きつらせながらも苦笑いを浮かべる彼は、困ったように頬を掻いた。
「……江ノ島さん、今日は用事あるんじゃないの?」
勝手にクラスメイトの椅子を拝借している江ノ島は、にっこりと笑顔を浮かべたあとに苗木の席へ頬杖をつく。そうしてすとん、と表情と声を落として返すのだ。
「質問してんのはこっちなんだけど」
「…………」
言うなりしょんぼりとした様子で己の髪を弄る。相変わらず忙しない変わりぶりだ。きっとそのしょぼくれたキャラクターにもすぐ飽きてしまうのだろう。
その辺りは全く変わっていないんだな、とぼんやり考えながら苗木は手元の日誌へ目を落とした。そこには多少のトラブルや珍事はあるものの、平和な学園生活が続いていることが記されている。
本来あるべきはずだった、あの日の延長線。願って止まなかった日常がここにはあった。
「この記憶に本当にあったかなんて、確かめようがないけど。でも、ボクはそれでいいと思ってる」
江ノ島が一体何を考えて、あの問いを投げつけてきたのかはわからない。けれども全てを否定されてしまうのは、苗木自身が許せなかった。あの閉鎖された世界で生まれた感情に、嘘はない。
ただそれは生き残った人間だけが持てばいいとも思う。あの世界の真実も、殺された者の無念も、殺した者の激情も。そしてすべての元凶が引き起こした世界を滅ぼすほどの絶望など、忘却の彼方に捨ててしまえばいいのだ。
「苗木さぁ、そういう考え方ってヤバイと思わないの? ドン引きするぐらいエゴエゴのエゴじゃん」
呆れて、笑って、引いて。ころころと変わりながら言う江ノ島だが、彼女にとってこれはただの暇潰しだ。苗木が抱えている僅かな傷をつついて暴いて楽しんでいるのだろう。
あの事件を起こしていないとはいえ、根の部分は変わらない。彼女はこれまでも、そしてこれからも超高校級のギャルであり超高校級の絶望として生きていくのだろう。何がトリガーになってあれに似た終末が訪れてしまうかは、未だに掴めていない。けれども二度目など起こさせる気など毛頭なかった。
何故なら苗木もまた超高校級の幸運であり、超高校級の希望として生きていくからだ。
「別にいいけどね。アンタのエゴとかぶっちゃけどうでもいいし。でもクラスのみんながぜーんぶ思い出してギスギスしてくれたらサイッコーなのになぁ〜〜」
「思い出すことはないよ。きっとこれからも」
椅子を揺らしながら自身も揺れていた江ノ島は、苗木の発言にピタリと止まる。大きな瞳で日誌にペンを走らせる彼を捉え、じいっと穴が飽きそうになるほど見つめて。
「マジ萎えるんですけど」
感情が空っぽの顔のままこぼされる言葉。冷ややかなそれは目の前の苗木に投げつけられるが、彼は何でもないように日誌を書き続ける。
間もなくして盛大な溜め息を吐いた江ノ島は、大音量で飽きたと叫びながら席を立った。その拍子に腰掛けていた椅子を倒したのだが、彼女が意に介すことはもちろんない。
「よ〜し、愛しの松田くんに会いに行こっかな!」
年相応の女子がするように、わくわくしながら携帯電話を取り出す。メッセージアプリを起動させた江ノ島はとんでもない速度でメッセージを打ち込んでいく。
毎度思うのだが、あんな長文メッセージを連投されるのを、件の松田はどう思っているのだろうか。まさかすべて読んでいるのか、とまで考えたもののそれはなさそうだなとも思う。
その証拠に。
「やったー!松田くんから返事がきた!」
「……何て返事がきたの?」
「『うるせーブス』だって!」
超高校級のギャルに対してそんな暴言を軽々しく吐けるのも世界に一人ぐらいだろう。幼馴染なのだと聞いてはいるが、それにしたって猛者だなと苗木は苦笑いを浮かべた。
やがて松田へ鬼のように着信を入れる江ノ島は、ふらふらと教室を出ていく。その背中を無言で見送った苗木は、書きかけの日誌を完成させるべくペンを走らせた。
グラウンドでは、クラスメイトたちの一部がミニサッカーを行っている。中心となるのは桑田や大和田で、彼らに懸命についていく山田や不二咲の姿も見えた。コートの外ではやる気があるのかないのか、いまいち判別しづらい女子たちが応援を飛ばしていて。
(あの記憶が本当なのかもわからないけど、そもそもこの世界だって本物かわからないじゃないか)
新世界プログラム。絶望に染まってしまった超高校級の生徒たちを更生させるために使用した電子世界は、本物の世界とほとんど変わりがない。あれがヴァーチャルの世界などと疑う者はいなかった。
有名な映画で、そのようなヴァーチャル世界を題材にした作品がある。自分たちが生きている世界は本物だと思っていた主人公が目を覚ましたのは、大量のカプセル群の中だった。
苗木たちが今いるこの世界も、そのようなヴァーチャル世界なのかもしれない。けれどそれを確かめる術もなければ、きっかけも訪れることはないのだろう。そうして何事もなく卒業して、それぞれの道を歩んでいくのかもしれない。
はたまた突然、電源が落とされるように終わってしまうのか。
(考えたってわからないんだけどね……)
たはは、と一人笑いながら苗木は日誌を閉じる。なんてことない日常が綴られたそれは、二年目の冬について書き記されている。
こんな毎日が続けばいい。そう心の底からの願いを口にすることはなく、苗木はカバンを引っさげて教室を出た。日誌を職員室に提出したら、グラウンドに来いと大和田から誘われているのである。
廊下を走りながら思い出すのは、石丸の怒って泣いた顔。今のこの姿を見つかったら、彼はすごい勢いで起こるんだろうなぁ、なんて考えながらも苗木の足は止まることはない。
楽しみなのだ。クラスメイトたちとの交流が、なんてことない思い出作りのすべてが。
待ちに待った冬休みまで、あと三日。
ほとんどの生徒たちが実家へ帰省する準備をする中、王馬は共有スペースにある古いテレビをぼんやり眺めていた。しかし恐らく内容には毛ほど興味もないのだろう。あの王馬小吉が『カップルにオススメ!クリスマス限定イルミネーションスポット!』なんて番組を真剣に見ているわけもない。
荷造りも終えて後は出発するだけの天海は、しばらくそんなクラスメイトの背中を見つめていた。声をかけるかかけまいか悩むこと数秒。兄気質である彼が今の王馬を放って置けるわけもなく、やがて隣へ腰掛けた。
「アジトには行かないんすか?」
彼のことなので、帰るとしたら実家ではなくDICEのアジトなのだろう。そう考えての問いかけだったが、ちらりと投げられた視線からは否定の色が窺えた。
「みんな実家に呼ばれてるんだって。つまんないよね〜〜〜ほんっとつまんない」
「……とか言いながら、行ったらいるんじゃないんすか? サプライズみたいな感じで」
「……まぁ、そんな気はするけどさぁ」
抱え込んでいたクッションに顔を埋めて、頼りない声を出す。ここまで凹んでいるのは珍しいな、と天海は今一度王馬のことを観察した。
全く興味もないテレビを見ている様子から、時間だけを潰しているかのように思える。ただ暇を潰すなら誰かに絡みに行ってもいいだろうにそれもせず、一人こんなところでぼんやりしていのは何故なのか。
「王馬君、もしかして緊張してます?」
ぴくり、と王馬の肩が跳ねる。どうやら当たっていたらしい、が何に緊張しているかまではわからない。探ってみようかとも思ったが、そこまでするのは野暮のようにも思えた。
いつもは嘘ばかり吐いて周囲を振り回している彼がこうして振り回されている。調子が狂いっぱなしなのだろうことは窺えた。
「……ちょっと、お兄ちゃん発揮すんの止めてくんない?」
しおらしい姿を前にして、ついつい兄気質が顔を出してしまう。下がり気味の頭を優しく撫で、にこにこと笑顔を向ければ、鬱陶しそうな視線を向けられた。そこがまた生意気な弟のようで兄心を擽るのだが、これ以上は流石にやりすぎだろう。
やや名残惜しいが撫でることを止めれば、王馬は長い溜め息を吐いた。
「天海ちゃんさぁ、それ止めなよ。ほんと勘違いされるよ」
「う〜ん、そんなつもりはないんすけどね。ほら、王馬君ってこう、いいサイズじゃないすか?」
「お、喧嘩か? 買うぞ?」
ようやく笑顔を見せた王馬だが、その目は全く笑っていない。握られた拳も見せかけではなく、本気で力を込められているのだろう。
王馬に身長についての話題を振るのは厳禁だが、ついつい彼のコンプレックスをつついてしまうのだ。それが兄気質からくるものなのか、それとも天海の茶目っ気なのか。どちらにしろ王馬からすれば迷惑な話である。
「ははは、冗談っすよ。それで何をそんなに緊張してるんすか?」
「……やっぱり天海ちゃん性格悪いでしょ」
ごろん、とソファに寝転がった王馬がぼやく。心底疲れた、と言わんばかりにぐったりとして、抱えたクッションに顔を埋めて。
やがて顔を上げた彼は、これでもかと顔をしかめていた。
「今日の午後、夢野ちゃんと会うんだよ」
「女子と会うのにそんな顔なんすか?」
いくら超高校級の才能を持つ浮世離れした彼らでも、年頃の男子であることは間違いない。女子と会うのならば多少なりともウキウキするものではないだろうか。
そんな天海の問い掛けに、王馬は再度深い深い溜め息をつく。面倒臭そうに床を眺める彼は覇気のない声で事の真相を語り出した。
「前にさぁ、夢野ちゃんと約束したんだよ。あの学園のことを教えてもらうって。でも何だかんだと忙しくてこんな日になっちゃったんだけど」
「それは……、尚の事楽しみにしてなきゃおかしくないすっか」
今年の春からずっと探っていた真実。それをようやく暴くことができるのだ。王馬は誰よりもそれに固執していたのだから、楽しみにしていなければおかしいのである。
まさかすんなり教えてくれるのがつまらない、などとは言うまい。天海は不思議そうな目もそのままに横に転がるクラスメイトを見つめる。
「……場所だよ」
「場所?」
「その話すんの、夢野ちゃんの部屋なんだってさ」
「へぇ、そうな…………、え?」
深く重いため息がまたこぼれ落ちた。だらりと垂れた手はソファから落ち、カーペットの上にある。全く力もなくヤル気も感じられない王馬は、低い唸り声を絞り出すように漏らしつつ、またクッションに顔を埋めた。
そんな、他のクラスメイトたちが見れば本当にあの王馬かと疑うほどの姿を見せる彼に、天海が向けるのは同情の目である。
「一応聞くんすけど、部屋ってつまり?」
「女子寮の夢野ちゃんの部屋だよ」
「えぇ……? どうやって入るんすか……?」
色々と問いたいことはあったものの、恐らく誘った本人は事の重大さをわかっていないのだろう。でなければ話をする場所にそんな所を選ばないだろうし、こうして王馬が頭を抱えることはない。
「……入り口に迎えに来てくれるってさ。寮母には事情話して了解済みっていう話らしいよ」
本当かどうかは知らないけどさ、と続ける彼の声は相変わらず覇気がない。そこまで話が進んでいるとは思っていなかった天海は尚の事、同情の念を深める。
「寮母さんはよくても、茶柱さんに見つかったらダメっすよねそれ」
「そこも説き伏せたって言ってたよ信じられないよね普通そこまでする!?」
勢いよく跳ね起きた王馬は声を荒げて心からの叫びを上げる。どうやらこの言葉を誰かに言いたくて仕方なかったようで、言い終わると同時にスッキリとした様子でソファに座り直した。
「なんかさぁ、もう一個の約束は夢野ちゃんの部屋じゃないとできないんだって。だからまぁ、あんまり気は進まないけど、行くしかないんだよねぇ〜」
チャンネルをあれこれと変えながら、王馬はクッションに頬杖をついてぼやく。
最原たちが抱えていた秘密を知りたい、けれどあまりにリスクが高すぎるのだ。茶柱のことは夢野が事前に説き伏せている、とは言っていたが『それはそれとして一回はキメさせてください』なんて言い出しそうな予感はする。またクラスメイトに見つかるのも厄介であるし、先輩たちに捕まってしまえば本当に何が起きるかわからない。
それをわかっていても尚、王馬は文句を言いつつ約束を守るために女子寮へ赴くのだろう。
「……なんか、意外っすね」
再放送の刑事ドラマを流し見しながら、口を開いたのは天海だ。王馬のことだから何だかんだと理由をつけて約束をすっぽ抜かしそうなものなのに。そうでなくても場所についてあれこれ文句をつけて言いくるめて変えさせてもおかしくはない。
そのどれもをせず素直に従うなんて、意外でしかなかった。
「…………別に、たまにはいいでしょ」
不貞腐れるように返す王馬は突然立ち上がり、生徒たちの部屋が並ぶ方へと歩き出してしまう。
「王馬君」
振り返らずに声を掛ければふと気配が止まる。怪訝そうな視線が背中に突き刺さるのを感じながら、天海は置き去りにされたリモコンを手に取った。
「事の真相、俺にも教えてくださいね」
「……気が向いたらね」
言い残して去っていく気配を追いながら、天海は微笑みを浮かべる。そうして一人きりになった彼はチャンネルを切り替えつつ、やはり振り返ることなく言葉をかけた。
「心配なんすか、最原くん」
ぴくりと背後で気配が僅かに動く。間もなくすれば足音もなく近付いてきた彼は、少し迷った仕草を見せたあと天海の隣へ腰掛けた。
「……心配もするよ。あの王馬くんだからね」
深刻そうな顔で言う最原は、王馬が消えていった方を睨みつけるように見つめる。
これまでの学園生活で彼ら二人の間に仲がこじれるような事件が起きたことはない。しかし最原はこれでもかと王馬を警戒しているのだ。それもこれも三人しか知らない学園の中で起きたことが原因なんだろう。
未だ天海は才囚学園のことを知らない。なので彼らの間に何があったのかは知らないが、相当なことがあっただろうことは嫌でも知れた。
「ふふ、そんなに心配することじゃないと思うっすよ?」
「……何でそこで笑うのさ」
最初に流しっぱなしになっていたクリスマス特集を選び直して言う天海に、最原は怪訝な顔を隠しもせずぶっきらぼうにぼやく。
「だって、王馬くんをよく見てればわかるじゃないっすか」
「…………?」
怪訝そうな顔から心底不思議そうな顔に変え、最原は顎に手を当てながら考え込んでしまう。ぶつぶつと何かを呟いているのは、先程天海が言ったことを復唱しているのだろうか。大丈夫っすか、と呼びかけてみるものの、うんうん唸ってしまって反応がない。
「もしかして、気付いてなかったんすかね……?」
胸に過る予感は果たしていいものなのか悪いものなのか。もしも天海の予想が当たっているのなら、一波乱も二波乱も、いやそれ以上のことが起きるかもしれない。
これは事前に根回ししたほうがよかったか、とも思ったのだが。
(まぁ、なるようにしかならないっすもんね)
考えに耽っている最原を眺めつつ、天海はこれから起こるであろう騒動に思いを馳せる。せめて悪い結果にならなければいいと願うばかりだ。
寄宿舎は男子と女子でそう作りが変わっていないようだ。毎年入る生徒数もほぼ固定なため、部屋数や共有スペースに置かれているものもほとんど同じである。ただやはり雰囲気というものはまるで違っていて、家電のあれこれも男子寮よりも新しく清潔であるように見えた。
誰もいない共有スペースを通り抜け、ずんずん進む夢野の後を追う。間もなくしてとある扉の前で止まった彼女は、ここじゃと呟いて慣れたようにドアノブを捻った。本当に入るのか、と思いはしたものの、ここまで来て帰られるわけもない。二の足を踏みそうになるのを堪え、王馬は促されるまま室内へ足を進めた。
完全に部屋に入りきる前、ほんの一瞬だけ廊下の先に投げた視線。そこで捉えたのは、ハラハラとワクワクと様々な表情でこちらを見ている馴染みの顔、とたまに見かける先輩方の顔。道理で道すがら誰ともすれ違わないわけだと、王馬は扉を締めたと同時に溜め息を吐く。
「そこに座って待っててくれんか?飲み物とお菓子を持ってくるからのう」
「いいよ、そんな気遣いいらないって」
室内は意外にも質素だった。てっきりメルヘンな世界が広がっているものだと思っていたので、少しだけ拍子抜けする。用意されていた座布団に腰を下ろして、辺りをキョロキョロと見渡せば、部屋を出ていこうとする夢野は渋い顔をした。
「……開けるでないぞ」
「いや幼児服に興味なんてないし」
「好きに開けてよいぞ!」
眉をつり上げながら言い残していった夢野は、先に宣言した通り飲み物と菓子を取りに行くのだろう。それをひらひらと手を振りながら見送って、残される王馬は暇を持て余すしかない。
女子の部屋に入るのは初めてではない。まだ年齢が一桁だった頃に、仲の良かった女子の家に遊びに行ったことが数度あるからだ。けれども才能が露発した後、年頃になってからはもちろんそんな経験はない。
落ち着かなかった。それはもうとんでもなく、落ち着かない。
(……おっそい)
道中で人に捕まっているのだろうか。何もすることなくぼんやりしていた王馬は、やがてふとあることに思い至った。立ち上がって扉の前に歩み寄れば案の定、人の気配が一つ。
「途中で気付かなかったの? ほんと夢野ちゃんって考えなしっていうかさぁ」
「う、うるさい」
お盆を両手で持って立ち尽くす夢野。想像してた通りの展開に呆れてしまうが、文句を垂れている途中で彼女は室内に滑り込んでしまう。
頬を膨らませながら怒る姿はいつも以上に幼く見えた。それもこれも制服姿ではないからだろう。何となくペースが狂うのは、恐らくお互い様なのかもしれない。
「それで? どっちを先にするの?」
「……そうじゃなぁ」
グラスに注がれた炭酸ジュースを一口飲んで、問いかけた。するとクッキーを齧ろうとしていた夢野は口元に指を当てて考え出す。うーん、と軽い唸り声を上げたかと思えば、閉じかけのまぶたをパチリと開いた。
「うむ、学園の話が先じゃ。これを話さんことには、もう一つの約束について説明が難しいからな」
「それって、この部屋じゃないとできないやつ?」
「そうじゃ。誰にも邪魔をされんこの場所でなければできん」
ふふん、と胸を張りながら言う夢野。そんな彼女へ向けて、ふーん、と短い言葉を返して。大きめの皿に盛られた菓子へ手を伸ばす。
やがてしん、と室内が静まったところで、夢野は座布団の上に座り直した。背筋をピンと伸ばして真っ直ぐに王馬を見つめる。
「これから話すことは、本当に起きたことかどうなのか、実のところ全くわからんのじゃ」
頼りない言葉であったが、凛とした声だった。その真剣さを前にして、王馬は崩していた座り方を少しだけ正す。
「でもこの心に残ったものは間違いなく本物じゃ。だから嘘偽りなく、全てをお主に話すぞ」
「……随分と前置きするんだね」
問いかけてみれば夢野は少し困ったように笑う。
「まぁ、荒唐無稽の話じゃからな。ウチが逆の立場じゃったら、頭がイカれとるんかと思うぞ」
「でも、嘘じゃないんでしょ?」
逸らされていた視線が真正面に戻る。じいと見つめてくる王馬の視線を受け止める夢野は、ふと微笑んだ。
「嘘は言わん。約束する」
向けられる視線は優しくて、王馬は何ともいえないむず痒さを感じる。けれど視線を反らすことはしたくなくて。
「それじゃあ、話してよ。夢野ちゃんが抱えてる秘密を、全部」
胸の内にちらつくものを無視するように、王馬はテーブルに寄りかかりながら話を切り出す。そうすれば夢野は数回深呼吸を繰り返したあと、静かな声で語りだすのだ。
季節は冬。桜が散る頃に見つけた嘘が、今まさに暴かれようとしていた。
集められた超高校級の生徒たちが強いられたのは、理不尽なコロシアイのゲームであった。そんなことをするわけがない、皆でこの場所を出るのだと最初こそは意気込んでいた、けれども。
首謀者の存在を知らされた赤松の、このゲームを終わらせるために張った罠が、すべての均衡を崩してしまった。
強制的に開かれた学級裁判、真実と嘘が飛び交う議論の末に暴かれる、残酷な現実。そして始まるオシオキという名の処刑を前にして、彼らはただ立ち尽くすしかなかった。
二度とこんなことは起こさない。そんな決意が意味を成すことは、結果を言えばほとんどなかった。二回目、三回目、四回目、五回目。あらゆる要因が複雑に絡み合い起きてしまったコロシアイ。日に日に広くなる食堂で何度心を痛めたかわからない。
そうして最後に開かれた、六回目の学級裁判。語られる真実、希望と絶望の狭間で、この命を使ってでも戦うと決めた。どうしようもない世界で、どうしようもない結末を迎えることこそが、このゲームに勝ち得ることができるのである。
「そうしてウチと最原、春川はあの裁判に勝つことができたのじゃ」
空になってしまったグラスを握り締め、夢野は目を伏せた。持ってきていたジュースも菓子もとうの昔になくなっており、昼を指していた時計の針も随分と進んでいる。
「……白銀ちゃんとキーボは?」
手持ち無沙汰にグラスを傾けていた王馬は、出てこない名前について言及する。すると目を伏せていた夢野はゆっくりと瞼を開いて、眉根に皺を寄せた。
「キーボは、学園を壊すためにと全ての力を出し切って……、白銀は…………、」
ぐ、と唇を噛んで俯く。顔色はいいとはお世辞には言えず、見ているこちらも苦しくなってくるものだった。
けれども王馬は問いかけを取り下げることはしない。何故なら彼女は確かに約束をしたのだ。胸の内に秘めていたものを全て曝け出すと。
長い間を置いた後、夢野はようやく顔を上げる。やはり顔色はいいとは言えなかったが、真っ直ぐに王馬を捉える目からは確固たる決意が窺えた。
「白銀は、かつての江ノ島盾子を真似るように、潰れて死んだ」
「……そう」
はぁ、と重い溜め息を吐いた夢野は、話し終わったことで少し肩の荷が降りたのだろう。強張っていた表情も和らぎ、グラスを持つ手の力も抜けたようだ。
そんな彼女の一挙一動を観察していた王馬は、やがて持て余し続けているグラスへ目を向ける。
夢野の言うとおり、語られた真実というものは荒唐無稽の内容だった。才囚学園という施設も、コロシアイゲームの中継も、チームダンガンロンパという会社も。これが作り話、いわゆるフィクションであるならば面白い内容だとは思う、が真実であるというなら信じることはできない。
(……でも、夢野ちゃんにとっては真実なんだよな)
彼女にとって真実だというのなら、最原と春川にとってもそうなのだろう。ならば入学式で見せた三人の言動も頷けるというものだ。
しかしそんなことがあり得るのか、という疑問は残る。夢野の話を聞く限り、王馬は既にこの世にいないはずなのだ。それだけではない。夢野と最原、春川の三人以外は全て死んでいるはずである。チームダンガンロンパが作り上げたエンターテイメントなんてものもなければ、そもそも才囚学園という施設も世界中どこを探しても存在しない。
やはり、彼女の語る世界は嘘なのだろうか。そう考えるのが自然な流れではある。けれども。
「まぁ、夢野ちゃんが考えられるような内容じゃないよね。こんな荒唐無稽な話なんてさ」
「んあ……それは貶しとるのか?」
怪訝な顔をしながら言う夢野は、グラスに口を付けようとしてふと止まる。中身がなかったことをすっかり忘れていたらしい。不服そうな顔をした彼女は、ジュースを取りに行くためか立ち上がろうと腰を浮かした。
「で、もう一つの約束は?」
「……んあ! そうじゃった!」
このまま全てが終わってしまいそうな雰囲気だったので、王馬はまだ果たされていないもう一つの約束について話を振る。すると彼女は一瞬だけきょとんとした顔をして、すぐに今思い出したと言わんばかりにハッとした。
自分から約束しておいて忘れるなんて、そう大したものでもないのかもしれない。バタバタと部屋の中をひっくり返す勢いで何かを取り出している夢野の背中を、頬杖をつきながら王馬は眺めた。
やがて可愛らしいキャラクターが描かれた入れ物に、ごちゃごちゃとあらゆるものを詰め込んできた彼女は満面の笑顔を向けてくる。
「これから、ウチのマジカルショーをするぞ!」
「は?」
突拍子もない言葉に、王馬の口から間抜けな声が出た。いそいそと準備を始める夢野は、そんな彼など意に介せず話し続ける。
「大掛かりな仕掛けでは他の誰かに見られてしまう可能性があるからのう。それでは約束が果たせんのじゃ。だからこんな小さな規模になって、」
「ちょ、っと待って。待ってよ、ねぇ約束って結局何なの?」
テーブルの上に並んでいたグラスと皿を片付け、真っ赤なテーブルクロスを広げ始めた夢野の手を掴んで止める。びっくりした顔で固まる彼女は、しばらくすると王馬の言葉をようやく飲み込めたらしい。
「んぁ……、そうか、言っておらんかったのう」
「……はぁ、勘弁してよ」
テーブルクロスはそのままに、夢野はもう一つの約束についてようやく語り出した。
三回目の裁判を終えて数日後、夢野の礼に対して王馬が要求した約束。彼のためだけのマジカルショー、もといマジックショーを開くこと。それを果たせなかったことがずっと心残りであったことを。
「お主とした約束ではないとはわかっておる。しかし、誰でもないお主でなければこの約束を果たすことはできんかったのじゃ」
王馬のためだけに開催するマジカルショー。それを実現するためには、王馬がいなければ意味がないのだ。例えそれが、今目の前にいる彼としたのではないのだとしても。
わがままな約束だとはわかっている。それでも夢野はこれを果たさなければならなかったのだ。抱えている全てを曝け出すために、そして過去と決別するために。
「……嫌か?」
黙り込んだ王馬が何を考えているのかはわからない。けれどもいい気分ではないだろう、とは思う。なので断られることを承知で、夢野は再度彼へ問いかけた。
「まぁ、色々腑に落ちないことはあるけどさ。超高校級の魔法使いのショーを独り占めできるっていうのは、そこそこ魅力的な誘いだからね。いいよ、観てあげる」
「んぁ……、そうか……」
少し困ったよう笑う夢野であったが、すぐに気を取り直してショーの準備を始める。テーブル上で行われるものが主であるならば、確かに派手さはないかもしれない。それでも彼女が、王馬のためだけに構成を考え、その才能を王馬にだけ披露するのである。そんな誘いを断る選択肢は始めからない。
やがて繰り広げられる小さな、けれど観客に笑顔を届ける華やかなショー。小さな手から生まれる魔法のようなマジックの数々に、王馬の目が輝くまであまり時間はかからなかった。
「以上でショーは終わりじゃ。楽しんでもらえたかのう?」
窓の外はすっかり暗くなり、時計の針は七時を指そうとしている。仰々しいお辞儀をした夢野は、にやりと不敵な笑みを浮かべながら顔を上げた。
そんな彼女が向ける視線の先、拍手をする王馬の瞳には輝きが宿っている。その顔を見れば心の底から楽しんでくれたことは一目瞭然だった。
「さて、これで約束は全部果たされたな」
ショーに使った道具を片付けながら、夢野はほっと胸を撫で下ろす。半年以上燻り続けていた全てをようやく吐き出しきることができた。
ほう、と吐き出したのは溜め息ではなく安堵の吐息。本当の意味で夢野は、肩の荷を下ろすことができたのだ。
「いやー、凄かったよ! こんなに凄いなら、普段から出し惜しみしないでもっと魔法を披露すればいいのに」
「……んあ、魔法を使うにも準備がいろいろと必要なんじゃ」
呆れたように言う夢野は、今度こそ溜め息を吐いた。そうして全ての道具を片付け終えたところで、時計の方を見上げる。いつもならばこの時間には夕飯をとっている頃だ。さて今日はどうしようか、と王馬の方を見やって。
真っ直ぐに向けられた真剣な眼差しに、どきりとする。
「一つ、気になってることがあるんだけどさぁ」
驚いた顔のまま固まる夢野から目を逸らさず、王馬は静かな声で続けた。
「夢野ちゃんの話の中で出てくるオレってさ、なんなちょっといい奴だよね」
「そ、そう、か?」
言われて思い返すものの、全くそんなことはなかったはずだ。できるだけ主観が入らないように言葉を選んだし、事実のみを語るようにしていたはず、だとは思う。
ただ客観的に自分の話は聞いていたわけではないので、自信はあまりない。
「本当にそれってオレなの?」
「それは……、いや、そうに決まっておる。今のお主と比べても、違うところを見つけるほうが難しいじゃろ」
何を突然言い出すんだろうか。夢野は怪訝な顔で王馬を見つめ返す。
その疑いに塗れた視線を受け止めて、王馬は何かを考えるかのように少しばかり目を伏せた。間もなくして、大きな瞳がしっかりと彼女の姿を捉える。
「じゃあこの違和感は、夢野ちゃんの主観が入ってるからってことだよね?」
「……んあ? どういうことじゃ?」
「おかしいんだよ。さっきの話の中でオレがやったことって、到底許されることじゃないことばっかりじゃん。なのにキミは、オレのことを根っからの悪党だとは言わない」
きしり、とテーブルが僅かに軋む。テーブルを挟んだ向こう側へ、王馬が詰め寄るように近付いたためだ。反射的に夢野は逃げ腰になる。
じい、と大きな瞳は彼女を捉えて離さない。やがて彼は口角をこれでもかと上げて、囁くように言うのだ。
「夢野ちゃん、オレのこと好きだったの?」
止まる呼吸。いつもは半開きの目はこれでもかと開かれ、顔色は徐々に無くなっていく。
気付かれないように立ち振る舞っていたはずだ。仮に違和感を与えたとしても、理由までは辿り着けるはずもない。だって相手は、想いを寄せることとなったきっかけを知らないのだ。いくら相手が王馬とはいえ、考えが及ぶことはないだろうと。
しかし全ての秘密を明かしてしまった今、その前提は覆ってしまったのだ。そのことをすっかり失念していたと夢野は己の浅はかさを呪う。
「……そうじゃな、ウチは好きじゃったぞ。あの世界で生きていた王馬小吉のことが、好きじゃった」
けれどもそれを知られたところで、何か変わるわけではない。夢野が想いを寄せた相手は、彼女の記憶の中にしかおらず、二度と会うことはできないのである。
あくまで夢野は、まるで地獄のような世界で出会ったあの王馬小吉を好きになったのだ。目の前にいる彼のことを好きだというわけではない。
「……過去形なんだ」
静かな問いに、夢野は苦い笑みを浮かべる。
「当たり前じゃ。もう死んでおる相手をいつまでも想っておるわけにもいかんじゃろ?」
言葉を区切り目を向ける先には、無表情のままでこちらを見つめる王馬がいる。夢野の言動を注意深く観察し、真意を読もうとしているのだろう。
そんな彼を真正面からきちんと受け止めて、彼女は重い口を開いた。
「もう、捨てると決めたのじゃ。いい加減、決別しなければならんと思っておったからのう」
いつまでもあったかどうかもあやふやな過去ばかりを見ているわけにはいかない。いつかはどこかで区切りをつけなければならないだろう。
そう常々思っていたので、王馬に全てを明かすことになりこれはチャンスだと思ったのだ。前を向いていくために、今の彼らにかつての彼らを重ねないようにするためのきっかけになるに違いないと。
「……お主のことを利用した形になってしまったのは、謝るぞ。すまなかった」
頭を下げて謝るものの、反応はない。
怒るのも無理はないだろう。今まで夢野は、本当の意味でクラスメイトたちを見ていなかった。それだけでなく、自らが変えるきっかけを作るために王馬を利用したのである。きっと凄まじい罵詈雑言が飛んでくるに違いない。
そう、思っていたのだが。
「……? おう、ま…………、」
罵倒どころか返事すらない。流石に無反応過ぎないかと不安になり顔を上げれば、突如として腕を掴まれた。まさか殴られでもするのかと強く目をつぶる夢野であったが、想像していた衝撃は来ない。
そう、殴られるような衝撃に襲われてはいなかった。けれども何かにぶつかる感触は確かにあって。
「…………、」
そっと離れていく熱、ぼやけていた視界に映り込む、先程まで遠くにあった顔。掴まれた腕は思いの外二人の距離を狭めていた。
「……じゃあ、これからはさ、オレのことを見てくれる?」
掠れた声がすぐ近くで溢れていく。か細い吐息が触れて、混ざって、消えて。
「ねぇ、夢野ちゃん」
懇願にも似た声が夢野の耳へ滑り込む。けれども反応などできるわけがない。何が起きているのかなんてわからなくて、何を言われるのかなんて予想できなくて。
ただ掴みれたままの腕に食い込む指だけが、これは現実なのだと教えてくれた。
「今、キミの目の前にいる、オレをちゃんと見てよ」
目を覚ますとロッカーの中にいた。
あまりの突飛さに最初は首を傾げるしかなかったが、じっとしていても仕方がない。人の気配がほとんど感じられない廊下に出て探索を開始する。
電子パネルの黒板、剥き出しの配管、屋内だというのに覆い茂っている雑草。近代的なのか廃墟なのかイマイチ判別がつかない屋内を歩いていれば、同じように状況を掴めていない人間に出会った。彼らは一様に覚えていない、わからないと口にしていたので、この先他の人間に出会っても大した情報を得ることはできないだろう。
どうしたものか、と考えを巡らせながら歩くこと数分。曲がり角を進んだ先でしゃがみ込む背中を見つけた。こんなところで何をしているのか、と不思議に思って近寄れば、気配に気付いたのかその人は立ち上がる。
「……何じゃ、人か」
人でなければ何がいるのだろう。振り返るなり面倒臭そうに溜め息を吐いた少女は、ちらりと視線だけをこちらに向けた。
じろじろと不躾に突きつけられるそれに思うところがなかったわけではない。けれどもそんなことより、頭に乗った三角帽やとんがった靴の方が気になって仕方なかった。
そんなものまるでアレのようではないか、そうファンタジーな感じの、アレ。
「お主、あまり顔色がよくないのではないか?」
可愛らしい声なのに喋り方はジジ臭い。これはもう間違いなく狙ってるのだな、と確信できた。となると彼女の才能もある程度は絞れるだろう。
なんてことを考えていると、不意に距離を詰められた。まだ名前も知らない、得体のしれない異性によくこんなに近づけるものだと呆れを通り越して感心する。
「……うむ、ウチに任せるがよい!」
ふふん、と胸を張った少女はおもむろに被っていた帽子を脱ぐ。そうして特徴的なそれを逆さまにひっくり返したところで、じいとこちらを見つめた。
「お主、いいものを持っておるのう。ちょっと貸してくれんか?」
ちょいちょいと胸元を指差される。その先には市松模様のストールがあって。
「悪いようにはせんから、のう?」
言い方が既に怪しさ爆発なのだが、気付いていないのだろうか。まあ気付いていないからそんな言い回しをしているのだろう。
どうしようか少しだけ悩んだが、ここまで怪しいすぎると逆に何もないかもしれない。そんな自分の直感を信じてストールを預ければ、少女は満足そうにそれを帽子に被せる。
やがて空いている手をストール付きの帽子へ翳した彼女は、予想通りの掛け声を口にする。ワン、ツー、スリーとテンポよく紡がれた言葉が言い終わると同時に取り払われたストールの下にあったのは。
「ほれ、これを受け取るがよい」
そっと取り出された小さく白い花束。ストールと共に渡されたそれとこちらの顔を見比べ、少女は微笑む。
「笑顔は大切じゃ。お主もそんな難しい顔ばかりせず、笑ったほうがずうっといいぞ」
言いたいことを一方的に言い、帽子を被り直したかと思えばあっさり背中を向ける。すたすたと歩いていってしまう背中を見送って、手元に残された花束を改めて観察した。
よく見れば、花束に使用されている花は全てその辺りに生えているものである。先程彼女がしゃがみ込んでいたのは、これを摘むためだったのだ。それをどこかで手に入れた紐で纏めて、即席の花束を作ったのだろう。
この短期間で、この状況が全くわからない中で、笑顔は大切だと説いた少女。そういえば名前を聞いていなかったなと気付いたものの、それもすぐに知れることだ。
貰った花束を片手に歩き出すのは、消えていった背中とは逆の方向で。
「……笑顔は大事、ねぇ。にしし!いいこと言うじゃん!」
これでもかと口角を上げながら、口癖にも似た笑い声をこぼす。先ほどとは違う軽い足取りで進んでいれば、やがて視界に入るメカメカしい後ろ姿。今度は一体どんな奇天烈な人間なのだろう。逸る気持ちもそのままに、気配に驚いて振り向くその人へ駆け寄った。
始まりなんてものは些細なことで、どこからきっかけが転がり込んでくるかなどわからない。またその始まりにすぐ気付くことができるかどうかもわからないだろう。
だからこのとき、もう始まっていたのだと誰も知る由がなかったのだ。
そう誰も、周囲の人間はもちろん本人たちにすら気づくことはない。けれど確かに生まれ落ちたそれは、名前を与えられることもないまま心の片隅で静かに息衝いていたのだ。