さよなら、ウェンディ
どれほど苦しくても、どれほど辛くても。この恋を捨てようとは思えど、忘れようとは思わなかった。
世界でただ一人、自分だけでもでもいい。彼の姿を声を生き様を、なかったことにはしたくなかったのだ。
寮母と東条、そして小泉がキッチンに立っている。そこに西園寺や舞園など、他の手が空いている女子たちが手伝いに入り、他愛もない会話を交わしていた。ほぼ毎日、夕飯時前に見られる光景である。
彼女たちが作る夕飯を楽しみにしているのは、珍しくもほとんどが揃っている寮生たち、つまり自分たちだ。冬休み、そうクリスマスもお正月も近付いているこの時期に、こんなにも共有スペースに人がいるのは珍しい。超高校級の中にはもちろん芸能活動をしている者もいる。そんな彼女らは年末特番の撮影で例年、忙しなく走り回っているのが常だからだ。
「今年は賑やかですわね」
東条の淹れたロイヤルミルクティーに舌鼓を打ちながら、セレスが微笑む。静かな場所を好む彼女かと思いきや、意外にもこういった雰囲気は嫌いではないようだ。
というのも、今この共有スペースに終里や入間がいないからだろう。片やトレーニングだと弐大を引き連れ出掛けており、片や自室に籠もりきりで研究に没頭しているのだ。またセレスからすれば騒々しい部類に入る澪田なども、はしゃいではいるものの小泉から注意されればすぐ大人しくなる。
そう、今この場がたまたま比較的穏やかな空間であるからだ。でなければセレスがこんなところでくつろいでいるわけがない。
「……出てきませんね」
そんな比較的穏やかな空間でただ一人、お通夜のような空気でソファに丸まるのは茶柱だ。とある部屋の方向へ視線を向けたまま、この世のすべてを呪うような声で呟く。
そんな後輩にちらりと目を向け、セレスは含んだ笑いを堪えることができない。くすくすと遠慮なく笑ってやれば、少しだけ咎めるような視線が赤松から向けられた。
「もう、セレスさん! 笑っちゃだめですよ!」
「だって、三日前からずっとこうなんですもの。あまりにも可哀想で、ふふふ」
笑みもそのままに口を付けるロイヤルミルクティーは少し冷めている。けれども味が落ちることはなく、流石超高校級のメイドが淹れたものだと微笑みを深くした。
「それに責められるのが私だけ、だなんて納得できませんわね」
ソーサーにカップを下ろし、にこりとより一層の笑顔を向けるセレス。一体何を言い出すのかと身構える赤松は、次に彼女から突き付けられた言葉にぐうの音も出すことができない。
「この状況を楽しみにしているのは、何も私だけではないでしょう? だからこうして、この共有スペースに珍しく人が集まって、事が動くのを期待して待っている。……違いますか?」
そう、今この女子寮はとある出来事によって湧いていたのである。常に女子しかいないこの場所に、とある一室に、男子がいるのだ。
何があってそうなったのかはわからず、またどうして女子寮を選んだのかもわからない。けれども理由は割とどうでもよかった。あの夢野が、恋愛にあまり興味もなさそうな女子が、よりにもよってあの王馬を部屋に招いているのである。
とはいえあの二人のことなので、何もないような気もしないでもない。例えば互いの才能を活かしたショーを開催しようとしてるだとか、意外と悪乗りする性質なので何かしらのイベントを企画しているだとか。どちらにしてもここですることではないのだが、極度の面倒臭がりな夢野である。この寒い中、外に出るのは嫌だと駄々をこねた可能性も。
「……でも王馬くんは止めなかったんだよねぇ」
うーん、と考えに耽る赤松がこぼした言葉に、セレスが再び含んだ笑みを浮かべる。
「ほら、貴方も気になって仕方がないんでしょう? ……そんなに悩むぐらいなら、部屋の中の様子を探ってきてはいかがです?」
「いやいや! 流石にそんなことはできないよ!?」
「あら、残念。何かわかれば教えて頂こうと思ってましたのに」
くすくすとセレスはいつものように余裕綽々といった様子で笑みを深くする。
ギャンブラーという、ある意味で嘘を生業とする才能の持ち主だ。王馬よりかは理性的でまだ話の通じる相手ではあるが、やはり面と向かってみると難しい相手であることを痛感する。
こんなクラスメイト相手に一歩も引かないのだから、先輩たちの癖の強さを今一度痛感した。そんなときだった。
「やっぱり! 転子は我慢できません!! こんな遅くまで男女が部屋に二人っきりなんて危険に決まってます!!」
だん、と机を叩きながら茶柱が立ち上がる。突然の出来事に近くにいた全員が動きを止め、鼻息を荒くする彼女を見つめた。
驚きに目を丸くしていた一同であったが、すぐに向けている視線へ期待を込める。自分では流石に様子をうかがいに行けない、けれど部屋の中の様子はとてもとても気になって仕方がない。誰か夢野の元へ突撃してくれないだろうか、と誰しもが考えていたからだ。
超高校級の才能を持つ浮世離れした高校生たちであるが、彼女たちも普通の女子高生と同じく人の恋バナが大好きなのである。特に見知った人物のものであるならば盛り上がるというものだ。
「でもでも〜、そんなことしたら秘密子に嫌われちゃうよ?」
そんな中、空気を読まない発言が一つ。敢えて読まなかったのか、はたまた面白がって口を出したのか。にこにことする夜長の考えは誰にも読めない。
「うぐぅっ……! それは、そうなのですが……っ! それでも女にはやらねばならる時があるんです!!」
「ちょ、ちょっと落ち着きなよ茶柱ちゃん!」
このまま殴り込みにでも行きそうな茶柱を、流石に止めようと駆け寄るのは小泉だ。学級委員タイプの彼女はこういったトラブルを避けるため、よく皆の世話を焼いている。今回のことだって、例えあちらに何かしらの非があっても手を出すのはいただけない。それが原因で茶柱が責められる姿は見たくなかった。
けれどもここには、そんなトラブルを好む者が数名いるわけで。
「小泉お姉、そんな奴なんか放っておきなよ〜」
「もしも本当に何かあったとき……、そのことを考えれば茶柱さんに部屋へ行っていただいたほうがよろしいのでは?」
「これが恥情のもつれ、というやつなんですね? ドキがムネムネします!」
最後の一人に悪気がないのはわかっているが、ないからこそ飛び出す言葉に茶柱が今度こそ奇声を上げる。止めようとする小泉や加勢しようとした赤松をすり抜け部屋へ向かって駆け出す、はずだったのだが。
「茶柱よ、少し落ち着かぬか」
がっちりと茶柱を捕えたのは大神である。風の噂で今日のことを聞いた彼女は出歯亀目的ではなく、必ず茶柱が暴走するだろうことを見越し止めるために共有スペースで待機していたのだ。
「お、大神先輩! 離してください! 転子は、転子は……!」
「あやつも考えなしではあるまい。こうも人が集まっている中で下手な手は打たぬだろう」
「う、うぅ……、それは、その通りだとは思うのですが……!」
良くも悪くも知恵が働く男だ。今日もこの女子寮にほとんどの生徒がいることに勘付いているだろう。終里はたまたま居ないが、それ以外の体育会系がいることだって気付いてないわけがない。
茶柱なら見知った相手であるし躱せるかもしれないが、大神を躱すことは不可能だろう。それをわかっている上で暴挙に出るほど向こう見ずではない。
「……あ、開いた」
そんな押し問答をする中、白銀の地味に小さい声が上がる。途端に全員の視線は件の部屋に釘付けになった。
なにか、小さな話し声が聞こえるが全く聞こえない。その才能ゆえ耳がいい赤松ですら聞き取れないそれがふつりと消えた瞬間、飛び出るように姿を表したのは王馬だった。
「お、王馬くん……?」
開いた扉もそのままに、顔を俯かせて大股開きで共有スペースへ歩いてきた彼は、その場にいた全員を無視して玄関へ向かっていく。
「あら、ご飯食べていかないの?」
騒々しさにキッチンから顔を出した寮母が首を傾げる。しかしその頃には王馬の姿は見えなくなっており、静かに玄関の扉が閉まるだけだ。
状況に付いて行けず呆然とする皆であったが、最初に我に返った茶柱が大神の拘束をすり抜ける。ドタバタと駆け抜けていく彼女は真っ直ぐに夢野の部屋へ向かった。
「夢野さん大丈夫ですか!? 男死に変なことされてませんか!?!?」
とんでもない声量にようやく他の面々も我に返り、茶柱ほどではないが騒がしく廊下を駆けていく。やがて辿り着いた夢野の部屋では、おろおろと声を掛けている茶柱とぼうっと座り込んでいる夢野がいて。
「ゆ、夢野さん? 本当に何もされてませんよね? あの……、夢野、さん?」
生きているのか、と疑うほどに生気がない。開かれたままのドアに向けられた瞳の焦点は合っておらず、茶柱が何を話しかけても反応がなかった。
流石にここまで様子がおかしいと、王馬を疑わざるを得ない。しかしその彼も様子が相当おかしかったことは確かだ。俯いて顔を全く見せないことも、誰に絡むこともなく出ていくのも、いつもの彼からはあまり考えられない姿で。
「……夢野、しっかりしなよ」
困惑が渦巻く中で、凛とした春川の声はよく通った。がっしり肩を掴んで揺さぶりながら、真っ直ぐに夢野を捉える瞳は優しい。
「…………んぁ」
ようやく声を漏らした夢野は、部屋の中に揃っている女子生徒たちをゆっくりと見回す。ようやく我に返ったのだろう彼女は、未だぼんやりとしたままではあるが傍らに控える茶柱と春川の名前を呼んだ。
「はい、何ですか夢野さん」
「アイツに何かされた?」
真剣味を帯びた眼差しに晒されても尚、夢野の様子は変わらない。きょとんとした顔のまま首を傾げる。
「……あいつ?」
「王馬さんのことです! ひどいこととかされませんでしたか!?」
今にも夢野の肩を掴んで激しく揺さぶりだしそうな茶柱を抑えるのは春川だ。そんなことをしたら倒れかねない。ただでさえ小さくて体力もないのだ。
これ以上の刺激はよくない、と目で制し合う二人の横で、ゆっくりと倒れていく影が。
「え……、ゆ、夢野さん!?」
「ちょちょちょ! どーしたんスか!?」
「やだ、すごい熱なんだけど!」
くったりと倒れ込む夢野の体は熱く、慌てて駆け寄った朝日奈が素っ頓狂な声を上げる。その声を聞きつけて走ってきたのは寮母と東条だ。すぐに夢野をベッドに移動させ、テキパキと部屋にいる女子たちへ仕事を振っていく。
バタバタと慌ただしくなる室内で、茶柱と春川だけが青い顔で夢野を見つめていた。心配そうに立ち尽くす二人に、夢野の世話を続ける東条は小さく笑う。
「大丈夫よ。そんなに深刻なことではないわ」
「で、でも……急に熱が出るなんて……!」
声を荒らげないように気を遣うものの大きな声を上げてしまう茶柱と、何も言わずに東条を見つめる春川。本当に大丈夫なのかと問いかける四つの瞳に晒されても尚、東条は柔らかな雰囲気を崩さない。
「……何でそんな風に笑えるの」
痺れを切らしたらしい春川の、刺のある言葉が投げつけられた。それに同意するよう首を縦に振る茶柱を交互に眺めて。東条は少しだけ困ったように眉尻を下げる。
「…………そう、気付いてないなら仕方ないわね」
そっと小さな額に熱冷ましシートを貼りながら、溜め息を吐いた東条はじっと夢野の顔を見つめた。
「これは、ただの知恵熱よ」
「……ち、え熱、ですか?」
「えぇ。だからそんなに心配することはないの」
「でも何で知恵熱なんか出すの」
訝しげな表情を浮かべる二人と、うんうん魘されている夢野。そんな彼女らに挟まれた東条は、やはり困ったように首を傾げるしかない。
「そうね……、私の口からはどうとも言えないわ」
ちらりと話を真剣に聞いている二人を見比べる。超高校級の合気道家と超高校級の暗殺者。普段はその才能が発揮されることはないが、どちらも何事かあれば弾丸のように飛んでいく性質持ちだ。事の真相に気付いてしまえば、彼の命が危ういかもしれない。
ふう、と溜め息を吐いた東条は、ベッドに眠る夢野に向き合う。
「とにかく、今は夢野さんの看病をしましょう。悪化させてはいけないもの」
言い聞かせるように告げれば、二人は渋々席を立った。他になにか手伝えることがないかを探しに行くのだろう。
やがて去っていった気配を確認し、東条は夢野の髪をそっと優しく撫でる。
「ここまで随分とかかったわね」
うんうんと唸されている夢野は首まで真っ赤に染まっている。くしゃくしゃに顰められた顔、うわ言のように繰り返される何でという言葉。それらが何を指し示しているのか、夏頃から気付いていた東条は知っている。
ようやく彼らはスタート地点に立ったのだ。
「王馬くんが部屋から出てこない?」
素っ頓狂な声が共有スペースに響いたのは、朝も早い時間だった。身支度も整え後は朝食を食べるだけだと席に着いた神宮寺は、先に朝食を摂っていた天海の言葉に首を傾げる。
そういえば、いつも朝早い彼の姿はどこにも見当たらない。この時間なら既に朝食も終え、他の男子にちょっかいをかけている頃だ。
「でも、たまにはそんなこともあるんじゃない?彼だって人間なんだし」
「いやぁ、それがっすね……」
昨夜のことである。夕飯も食べ終え、共有スペースでバラエティ番組を眺めていると、突然玄関の扉が開いた。どたどたと慌ただしく入ってきたのは王馬で、顔を伏せきって大股に歩く彼は一目散に自室へと飛び込んでいったのである。
それを眺めることしかできなかった天海と左右田は、互いに顔を見合わせて首を傾げた。あまりのらしくなさに驚いたこともあるが、それよりも。
「あの王馬くんが、左右田くんのことイジらないで部屋に入ったんすよ」
「……その確認方法もおかしいと思うけどネ」
各学年に必ずいるからかって面白い男子。最高学年にいる左右田は格好の餌食であり、顔を見れば王馬ほぼ必ずからかいにかかるのである。しかしそんな素振りも見せず、彼はさっさと部屋に引っ込んでしまったのだ。
それから夜が明けて、今日。未だ姿を見せていない王馬のことを心配するのは自然な流れだろう。
「あれ、王馬くんはまだ起きてないの?」
とっくの昔に身支度も朝食も終え、日課の虫たちの世話を終えた獄原が共有スペースに戻ってきた。きょとん、としている彼は辺りを見回して不思議そうに首を傾げる。
「……いいじゃねぇか、静かでよ」
あくび混じりに返すのは大和田だ。髪のセットがあるため意外にも朝が早い彼は、この時間には既にほとんどの身支度を終えている。その隣にはもぐもぐとトーストを食べる不二咲が、豪快にトーストを頬張る九頭竜がいた。
他にも起きている者はいるが、日課のトレーニングに向かってしまったり日直の仕事があると既に学校へ向かったりしている。
「いやぁ、でもちょっと心配ではありますなぁ。それに……、事件の匂いがぷんぷんしますぞ〜」
まだ寝間着姿の山田は、共有スペースにやってくると同時にキメ顔を見せる。彼の言葉に互いの顔を見合わせた一同は、やがて一様に渋い顔を浮かべた。
「じゃあ山田が様子見てこいよ。言い出しっぺはオメェだぞ」
「え? そんなに接点もないのに……?」
大和田の言葉に明らかな動揺を見せる山田。しかし二人とも本気ではないのだろう。ああでもないこうでもないと戯れに言葉を交わすだけで、動く気配はない。
やがて食事を終えた天海が立ち上がると、皆の視線が一手に集まる。
「そもそもの言い出しっぺは俺なんで、様子は俺が見に行くっすよ」
「あ、じゃあゴン太も一緒に行くよ!」
食器を片付けると早速、天海は王馬の部屋を目指す。その後ろを慌てて付いてくるのは獄原で、他のメンバーはそれを見送るのみだ。
「……皆、気にはなってるんだね」
そわそわとした様子で天海たちを見つめる面々に声をかけながら、くくくと神宮寺は笑う。彼の言葉にぎくりと肩を震わせるのがほとんどで、唯一心配そうな視線を送るのは不二咲ぐらいだ。
やがて盛大な溜め息を吐いたのは大和田で。勢いよく立ち上がった彼はのしのしと歩き始める。
「どこ行くんだよ」
頬杖を付きながらその様子を見ていた九頭竜の問いに、頭を掻きつつ振り返らずに大和田はまた溜め息を吐いた。
「話聞いちまった以上、放っておくわけにもいかねぇだろ。あんなやつでも一応後輩だからな」
暴走族の頭をやるような男である。自身は弟であるものの、弟気質を遥かに上回る兄貴分気質が疼いたのかもしれない。ぶつぶつと文句を垂れつつも、天海たちが消えていった方へと歩いていってしまった。
「…………はぁ」
「九頭竜さん?」
短い溜め息を吐いた九頭竜は、がしがし頭を掻きながら立ち上がる。不思議そうに見上げる不二咲を一瞥し、仕方ないと言わんばかりに笑って見せて。
「あんなこと言われちまったら、俺も行かないわけにはいかねぇだろ」
間もなくして消えていく背中を見送って、残された彼らは再度互いの顔を見合わせる。無言のまま探り合うような視線を交わし、数十秒。
誰からともなく一人また一人と共有スペースを後にした。
「王馬くん、そろそろ出てこないと学校遅れるっすよ」
ノックを繰り返しながら問いかけてみるものの、返事はない。言っておきながら、まだ起きていない面々のことを思い出すのだが、彼らの寝坊はいつものことなので横に置いておく。
「返事、ないね。具合が悪いのかなぁ?」
うーん、と考え込む獄原の意見も一理あるかもしれない。寝込んでいるのだとしたら、早くに処置をしたほうがいいだろう。けれどもそうでないのだとしたら、ただの余計な世話でしかない。
もしかすると昨日起きた何かに対しての報復を考えているのかもしれないのだ。下手に刺激して大事にするのは避けたい。
しかし本当に体調不良だとしたら。そんな相反する考えばかりがぐるぐる回り、天海は前に踏み出せずにいた。反応がない以上、どう対処すればいいのか判別が難しいからだ。
「なんだ、まだこんなとこで油売ってんのか」
やがて追いついてきた大和田たちも合流し、王馬の部屋の前にはちょっとした人だかりができる。流石の騒ぎに何人か起きてきたようだが、揃った顔ぶれに統一感がないため首を傾げるばかりだ。
「反応がないんすよ」
「あぁん? じゃあ入っちまえばいいじゃねーか」
「駄目だよ九頭竜くん! 勝手に入るなんて紳士じゃないよ!」
ドアノブに手を掛けようとする九頭竜の前に立ちはだかる獄原。およそ正しい止め方とは言えなかったが、それでも強行突破を止めることはできた。
「じゃあ……、先にノックをすれば入っても平気かなぁ?」
「あ、そうだね! ノックをするなら入ってもいいと思うよ!」
けれどもすぐに首を傾げる不二咲の言葉に、獄原はにっこりと笑ってドアの前から移動する。
それでいいんだ、と誰しもが思うものの口には出さない。折角部屋に踏み込めるようになったのだ。余計な口出しをする、空気の読めない者は今この場にいない。
ずい、と一歩前に出た大和田が扉を乱暴に叩く。がんがんとけたたましい音を立てながら揺れるドアは、もちろん開く気配などない。また室内の気配も動いてる様子はなく、本当に誰かがこの部屋の向こうにいるのかすら怪しく思えてくる。
「おい王馬ぁ! 入るぞぉ!」
獄原の手前、乱暴すぎることはできない。室内へ押し入る前に声をきちんと掛けて、ドアノブを勢いよく捻った。
開いたドアの向こう、散らかった部屋の中にあるベッドの上にはこんもりとした山ができていて。
「うわっ、そんな漫画みたいな丸まり方する人初めて見ましたぞ」
はわわと口に手を当てながら感動する山田は放っておいて、ずんずん進んだ大和田は山になったシーツに話しかける。
「おうこら、いつまで寝てんだオメェ」
「お、大和田くん! 具合が悪いかもしれないんだからぁ…!」
力づくでシーツを剥がそうとする大和田を慌てて不二咲が止めた。頬を膨らませながら怒る彼に逆らえる者はあまりいない。案の定、ぎくりと固まってしまった大和田の横をすり抜け、天海がぴくりとも動かないシーツへ話しかける。
「王馬くん、体調が悪いんすか?」
ぽんぽんと宥めるように語りかければ、これまで沈黙を保っていた彼がようやく口を開いた。
「……ちがうし、なんでもないし」
言動から嫌でも感じられる、放って置いてほしいという王馬の声なき言葉。もぞりと少しばかり動いた山はすぐさま沈黙してしまう。
しん、と静まり返る室内。はてどうしたものかと考えている一行だったが、いつまでもこのまま膠着状態を続けているわけにもいかない。
「本当に具合が悪い訳じゃねえんだな?」
再度確認するように問いかける九頭竜の声に、力なく返ってきた声は肯定するもので。それを聞き届けた彼はよし、と呟いて立ち上がる。
「本人が大丈夫だっつってんだ。なら大丈夫なんだろうよ」
「じゃあ王馬クン、僕らは学校に行くけど、キミは休みと言うことにしておくヨ」
ぞろぞろと部屋を出ていく一行。彼らとともに部屋を出ていこうとしていた天海は、ふと足を止めて振り返る。相変わらず微動だにしない山の中で、王馬は何を考えているのだろうか。
静かに歩み寄った天海は、やがてそっと囁くように問い掛ける。
「何かあったんすか?……夢野さんと」
静寂が破られることはない。やはりシーツの山は動かないし、くぐもった声だって聞こえてくることはなかった。
その沈黙が肯定を示しているのか否定を示しているのか、天海にはわかるはずもない。とはいえこれから学校へ行けば、すぐに答えは分かるだろう。件の少女がいなくとも、一つ屋根の下で暮らしているクラスメイトたちが何も知らないわけがないのだから。
人の気配が完全に消えたことを確認し、王馬はシーツから少しだけ顔を出す。のそのそと起き上がってベッドに腰掛けた彼は、ぼうと自分の足を眺めていたが、やがて勢いよく後ろへ倒れ込む。
「あ゛〜〜〜〜〜〜」
両手で顔を覆いながら上げる声は掠れている。間違いなく昨晩から飲まず食わずで部屋に籠もりきっているせいだ。しかし水を飲みに行く気は全く起きない。腹も全く空いておらず、自分の健康状態にやや不安を覚える。
とはいうものの、自分の健康を気遣ってやれる心の余裕など王馬にはなかった。
盛大で深い溜め息を吐きながら思い返すのは、およそ半日前のことである。自分のために開かれたマジックショーを鑑賞し終わり、いくつか言葉を交わした後。
気付けば行動を起こしていた。
「…………ほんっと、バカじゃないの」
絞り出したのは自分への罵声だ。
夢野から聞いた、秘められた世界の話。目まぐるしく移り変わる日々の中で、ふと気付いてしまった彼女の心。間違いであってほしい、勘違いであってほしい。そう願って問いかければ返ってくるのは、願いに反して肯定であった。
既にこの世にはいない、記憶の中でしか生きていない彼を好きだと語るのは、他の誰でもない夢野本人である。懐かしむような瞳で愛しそうに名前を呼んで、大切な思い出を語る彼女の姿はとても。
(だってさぁ、あんな顔されたら……、くっそ)
苦虫を噛み潰すように顔をしかめて、王馬はシーツを手繰り寄せた。頭からすっぽりと被った彼は、再び枯れた声で言葉にならない声を上げる。
王馬が自分の抱えていたものに気付いたのは、柔らかな視線を向けられたときだった。どきりと跳ねる心臓、少しだけ熱くなる指先。湧き上がる感情をなんと呼ぶのか、認めたくなくても認めざるを得なかった。
けれども王馬は気付いていた。向けられる視線も寄せられる想いも、全て自分を通した向こう側へ捧げられたものである。夢野が見ているのは決して自分ではない。気づいていて、知っていて、わかっていた。
「…………だからって認められるかよ、そんなの」
頭だけをシーツに突っ込んだまま、王馬は恨みがましくぼやく。
自分が抱えていたものに気付いてしまった以上、無視をすることはできない。隠してしまおうかと考えたものの、もうこんなものは捨てるのだと宣言された瞬間にその考えは覆る。
そんな言い方、まるで二度とお前とは恋に落ちないと言われているようではないか。気づいた瞬間にもう振られることが確定してるだなんて、認められるわけがない。その原因が全て『自分』からくるというのなら、尚の事。
頭に血が上った感覚はあった。けれど自分が何をしでかしたのかはすぐに理解ができなくて、けれどそんなことよりも伝えなければと焦燥に駆られ。
「夢野ちゃん、怒ってるかな……」
どんな言い逃れも言い訳も通用しないだろう。それほどひどいことをしたのだ。これでは茶柱に何度投げ飛ばされても、春川に殺されかけても文句は言えない。
目蓋を下ろせば鮮明に焼き付いた、呆然とこちらを見つめる夢野の顔が見えてくる。あんな顔をさせたかったわけじゃないのにな、とこぼれた言葉は誰に拾われることもなかった。
「知恵熱を出してぶっ倒れたぁ?」
ひっくり返った声を出しながら目を見開いたのは、今まさにポテトを口に放り込もうとしていた日向である。彼は学校終わりに左右田たちに誘われてやってきたファーストフード店で、昨夜から今朝にかけて起きたらしい事件の話を聞いていた。
もくもくとハンバーガーを食べていた七海は、同じように目を丸くする左右田たちに頷いて見せる。
「うん。私はその時いなかったんだけど、小泉さんたちが甲斐甲斐しくお世話をしてたんだって」
伝え聞いた話なんだけどね、と締めくくった七海はハンバーガーを一口かじる。のんびりとした様子の彼女をしばらくは眺めていたが、これ以上は新しい情報を得られないようだ。追求することを諦めた日向たちは、一つため息を吐いてから食事を再開する。
「そういえば、左右田は何も知らないのか? 朝とか騒ぎがあったんだろ?」
「あー……、オレ昨日遅くてさぁ。朝遅かったからあんまり知らねーんだわ。でも昨日、アイツの様子が可笑しかったのは確かだぜ」
昨晩、たまたま天海と共にテレビ鑑賞をしていた左右田の後ろを通り過ぎていった後輩。顔は見えなかったが相当深刻な様子で部屋に駆け込んだ彼は、あれから出て来ていないらしい。今朝になって九頭竜たちがああだこうだと世話を焼いたそうだが、それでもベッドからすら出てこなかったのだという。
一体何が起きたのか。寮で起きた事件ということもあり、他学年である左右田たちも朝からこの話題で持ちきりだった。
「罪木は? お前のことだから看病してないことはないだろ?」
「ふえぇ!? はわぁ……そ、そうですねぇ、確かに看病をさせていただきましたぁ」
話を振られると思っていなかったらしく、罪木は大袈裟にびくりと肩を震わせながら悲鳴を上げる。たまたま何も持っていなかったため事故が起きることはなく、オロオロとしていた彼女は辿々しくも当時のことを語り始めた。
「とは言ってもぉ、寮母さんと東条さんにほとんど適切な処置をしていただきましたので……、私はほとんどやることがなかったんですぅ」
えへへ、と何故かそこで照れる罪木。相変わらず捉えどころがないリアクションだな、と思わなくもない。
「それで? 本当に知恵熱だったのかよ」
「はい、ただの知恵熱でしたぁ。今朝もちゃんと起きて、お粥を食べてくださいましたよぉ。……あ、」
何かを思い出したのか、不安そうに眉を下げる。何かあったのだろうかと興味津々になる男子二人に比べ、七海は変わらずハンバーガーに夢中だ。
「何だよ、勿体ぶらないで教えろよ!」
「はうぅ……! すびばせぇん!!」
「おい左右田、そんな風に言ったら罪木が怯えるだろ……」
びくびくと振るえながら縮こまる罪木。それを諌めるようにしながら日向が言えば、左右田が渋い顔をする。
「悪かったよ……」
「い、いえ……、私こそ生意気に勿体ぶっちゃってすみませんでしたぁ……」
頭を下げながら謝り合う二人。放っているといつまでも続きそうなので、程々なところで仲介に入り話の続きを促した。すると罪木は困ったように眉尻を下げながら、考え込むようにして話し出す。
「えっとですね、ご飯を食べる元気もありますし、あとは熱が引いたら学校にも行けると思うんですけどぉ……」
「……あの様子だと、難しそうだよねぇ」
ハンバーガーの包み紙を丸めながら言う七海。突然のアシストにその場にいた三人が目を丸めるものの、罪木は嬉しそうに、他二人は興味津々といった様子でやや机に乗り上げる。
「どう難しいんだ?」
「うーんとね、学校には行けるけど、教室は無理かもって感じかな? 会いたくない、じゃないなぁ」
「あれは会えないって感じですよねぇ、ふふふ」
微笑ましい笑顔を浮かべる罪木と、同じように柔らかく笑む七海。そんな二人の真意がいまいち掴めず、首を傾げる二人。
「……日向くんがわからないのは仕方ないけど、左右田くんがわからないのは、ちょっとどうかと思うよ」
「え!? オレ!?」
素っ頓狂な声を上げる左右田。どうやら七海に指摘をされても全く心当たりもないようで、これでもかと首を傾げながら考え込む。
「ふゆぅ……私が言うのもおこがましいんですけどぉ、左右田さんのそういうところは、そのぅ、直したほうがいいと思いますぅ……」
女子からの攻撃にますます訳がわからない、といった顔で左右田はうんうんと唸り声を上げる。
そんな友人の姿をしばらく観察していた日向は、彼女らの言いたかったことと彼の駄目なところの共通点を探り、そして。
「あぁ、なるほどな」
そう呟いて一人、納得するように頷くのだった。
まだ足元も頭もふわふわしている気がする。いつも見慣れた風景が、どこか別の世界のように思えてならない。隣で話を振ってくれる友人も、すれ違って挨拶をする教師も。何もかもが違って見えて仕方がなかった。
こんなにも世界は一変するものなのか、と夢野はまだぼんやりとする頭で感心する。とはいえ見ている世界がひっくり返ったのは人生二度目、約一年弱ぶりだ。慣れたわけではないが、一度目よりかはショックが小さい。
そもそもひっくり返った原因はまるで内容が違うので、比較するのもおかしな話ではあるのだが。
「おはよう、夢野さん」
隣を歩いていた茶柱が一瞬止まりかけたので、不思議に思って俯きがちな顔を上げると見知ったクラスメイトが一人。心配そうに夢野のことを見つめながら挨拶をしてくるのは、最原だった。
「んぁ……、おはよう」
「熱、大丈夫? まだ休んでなくて平気なの?」
「平気じゃ、たぶん」
本当に平気なの、と苦笑いする最原。そんな、天敵である男子を前にしているにも関わらず、茶柱は静かに二人の様子を見守っていた。
秋も終わりを告げる頃、夢野から明かされたここではないどこかの話。到底信じきれない内容ではあった、ものの夢野がわざわざこんな嘘を吐くメリットなどない。また夢野が意を決して、一番最初に教えてくれたという。
親友として自分を信じ、頼ってくれた。ただそれだけで茶柱は、夢野の話は真実なのだと心の底から信じることができたのである。
そして信じているからこそ、最原と春川の間にある絆を大切にしようと心に決めた。決して入り込むことはできない輪を前にして、寂しさを覚えないこともない。けれど夢野にとって彼らは唯一無二の存在である。茶柱を親友だと言ってくれたように、彼らには彼らへの信頼があるのだから。
「……話が長すぎますよ、最原さん。転子は早く夢野さんを席に着かせてあげたいんですが」
とはいえやはり、男子は『男死』である。ずいずいと夢野の前に出てやれば、慌てて最原は三歩ほど後ろに下がった。まだ例の話を聞く前に同じような展開になった際、茶柱に投げ飛ばされたことがまだトラウマらしい。
これで教室に入れる、と足を進めようとする茶柱だったが、再度慌てて扉の前に最原が立ち塞がる。一体全体何なんだと訝しげな顔を向けてやれば、彼は珍しくもしどろもどろになりながら、ぶつぶつと何かを呟いた。
「んもぅ! ハッキリしてください! 教室に入ったらいけない何かがあるんですか!?」
「いやぁ……、その、何ていうか、えぇっと……」
「特に理由がないなら入りますからね」
「あぁっ、ちょっと待って欲しいっていうか……!」
扉の前で押し問答を始める最原と茶柱。そんな二人のことをぼんやりと眺めていた夢野は、ひっそりと気配を消しながら歩きだす。まさかこんなところで春川に教わった技が光るとは思いもしなかった。
騒ぎを聞きつけて人だかりができるのを横目で確認し、彼女はもう一つある教室の扉のドアノブへ手をかける。気遣ってくれているからこそ口論している二人には悪いのだが、早く席についてしまいたかったのだ。
冷たくて気持ちいいドアノブをしっかり握って、捻ろうと力を込めて。
「「あっ」」
それよりも先に捻られたドアノブが遠くなる。呆気なく離れていってしまったドアの向こうから現れたのは、気まずそうな顔でもう片方の扉の方へ目を向けていた彼だった。
「…………」
「…………」
ぽかん、としたままお互いの顔を見ること数秒。まさかこんなにも早くに顔を合わせるとは思わなかったのだ。互いにどうすればいいのか、といった微妙な空気が漂う。
ドタバタと、更に騒がしくなるあちらの扉。飛び交う野次や増えていくギャラリーで、二人の姿は見えなくなっていた。あまりの賑やかさでようやく我に返った夢野は、つい目の前の彼から目を逸らしてしまう。
気まずい、というか恥ずかしい、というか。言葉にするのが難しい感情を抑えることができない。一体どんな言葉をかければいいのだろう。そればかりに考えが向いてしまい、他のことが考えられない。
「……えっと、」
沈黙に耐えきれず、とりあえずこぼした声。もちろん言葉が続くことがなければ、状況が変わるわけもない。もう少し気の利いたことが言えないのか、と自分で自分が嫌になる。
「……夢野ちゃんさ、熱出して倒れたっていうの嘘でしょ。本当はブサイクを拗らせて倒れたんじゃないの?」
「……んあ?」
にしし、と笑いながら王馬が言う。何を言われたのかすぐに理解ができず、何度か脳裏で反芻することでようやくわかった、のだが。
あんなことがあった後だというのに、何故そんな言葉を掛けられなければならないのか。その理不尽さを理解することはできない、いやしたくない。
(……そもそも、あんなことはなかったのか? ウチの夢か何かじゃったのか?)
そんなことあるわけがないのだが、ついそう願ってしまう。だってそんなことあり得るはずがないのだ。王馬が自分のことを好きだと言わんばかりの行動など、とは言うもののあの感覚が嘘とは思えないのも事実で。
という自問自答は一昨日の晩からずっと繰り返されており、未だ答えは出ていない。
いつまでも悶々と悩むぐらいならいっそ当たって砕けてしまえ、と怖気づきそうになりながらも登校してきたのだ。その答えがこれであるというなら、やはり夢か幻の類だったのかもしれない。
「馬鹿を言うでない。きちんと熱は出たぞ!」
「そこは自慢するところじゃないでしょ、普通」
わあ、と向こう側の扉の前で歓声が上がる。騒動の原因である本人が不在のままだということに誰も気付いていないらしい。本当に気付いていないのか、あえて気付いていないフリをしているのか。
ニ学期最後の登校日だ。休みに入る前にただ騒ぎたいだけなのかもしれない。
「……あのさ」
親友が騒ぎ立てる声を聞きながら複雑な気持ちになっていると、不意に声をかけられた。いつもより静かな声音にドキリとしたが、恐らく他意はないのだろう。意識をしないようにと考えれば考えるほど意識をしてしまうというのは本当らしい。
あれは夢だったのだきっと。そう自分に言い聞かせて夢野は脳裏に過るものを振り払おうとする。
「夢野ちゃんが熱出したのって、オレのせい?」
しかし振り切る前にそんな言葉を掛けられてしまったら、もう誤魔化すこともできない。それでも素直に肯定はできなくて、ぎくりと固まりながら夢野は足元へ目線を落とす。
「ちっ、違うぞ、断じて、そっ、そんなことはっ」
言っておきながら、全く説得力がない返事だなと思った。声はひっくり返るし震えているし、文法もめちゃくちゃである。
こんなもの、実質肯定しているようなものだ。
「ふーん……、あっそ」
じとりとした視線が突き刺さる。疑いだとか呆れだとか、いいとは言えない感情が混ざりあったそれは、容赦がなく冷たい。きっとこう思っているのだろう。嘘を吐くならもっとマシな嘘を吐けと。
そこまで考えて、そもそもなぜ自分が責められているのかと夢野は思い直す。一体誰のせいで知恵熱を出して一日以上無駄にしたと思っているのか。
抗議をしてやろうと勢いよく顔を上げ、浮かんだ恨みつらみを投げつけてやろうと口を開き。
「…………ぅ、」
向けられていた瞳の、表情の柔らかさに頭が真っ白になる。つい先程まで投げつけてきていた冷たい視線が嘘のようだ。じり、と夢野は顔を顰めたまま半歩ほど後ろに下がる。
ずるい。とにかくずるい。もう全部が全部ずるいのだ。
何が、と聞かれても恐らく答えることはできない。むしろ教えてほしいぐらいである。
「……あの時言ったこと、嘘じゃないからね」
「なっ、なんの、ことかっ、わからんのう……」
これ以上ここで話していれば、嫌でもあの話題に触れるだろう。それだけは避けたくて、強行突破しようと肩からかけていたカバンを抱える。あとは勢いよく駆け出して、王馬の横をすり抜ければいい。
しかしクラスで一番鈍くさい夢野だ。あっさり腕を掴まれ、廊下と教室の境界線上で足を止めざるを得なくなる。
「オレは、夢野ちゃんのこと、好きだよ」
「……、…………」
しっかりと目を見て、そんなことを言われてしまえば、今度こそ逃げることなんてできるはずもない。きっと気のせいだ、あれは夢だったのだと自分の記憶に嘘を吐けなくなってしまう。
腕を掴んでいた手が離れると同時に、にこりと笑った王馬はさっさと教室を出ていってしまった。呆然としたままその後ろ姿を眺めていた夢野は、そのままへたり込んで。
「…………嘘だと、言わんか」
いつもは嘘だなんだと触れ回り、人の神経を逆撫でするというのに、どうしてそれを嘘だと言わないのか。
嘘だと、言ってくれないのか。
(……だって、お主がウチのことを好きなわけが、)
あるはずもないと、そう思いたいのに。向けられた瞳の意味も、掴まれた腕から伝わった熱も、素直に紡がれた言葉も。全てが夢野の考えを否定して止まなかった。
最初から報われないと知りながら、あまりにも長く引きずり過ぎたのだろう。彼と『彼』は違うのだと何度も言い聞かせているのに、あまりにも物分りが悪い自分の心が嫌で嫌で堪らない。
確かに捨てようと決めたはずの恋心は、未だ心のふちに引っかかったままだ。
「俺のいない間にそんなことが起きてたのか」
終業式も終わり、クラスメイトのほとんどが帰り人気のなくなった教室。そこで最原の話を静かに聞いていた百田は、彼の言葉に一区切りがつくと、飲んでいたパックジュースから口を離して呟いた。驚いていて、また納得をした口ぶりである。
「僕らの方はそんなに大事じゃなかったんだけど、赤松さんたちが大変だったんだよね」
「うん。びっくりしちゃったよ」
宇宙飛行士になるため必要な資格を取りに行く、ということでここ数日、百田は学園を離れていた。そのため寮で起きていた騒動を知らず、朝も最原と茶柱が揉めていたのを不思議そうに眺めていたのである。
ニ学期最後のホームルームも終え、後は帰るだけといったところで彼は最原や赤松、春川といったいつものメンバーを捕まえた。理由はもちろん、今朝の騒動について問い質すためだ。
「しかしそうかぁ……夢野がなぁ……」
腕を組んでうんうんと頷いてみせる百田。どこか感慨深そうにする様子に赤松は苦笑いを浮かべ、最原と春川は不思議そうに首を傾げる。
「百田くん、何か知ってるの?」
「何かって……、何がだよ?」
「夢野が知恵熱出した理由だよ」
訝しげな顔をしたかと思えば、唖然とした顔になり、信じられないといった様子で赤松を見る。声こそ出なかったものの、大袈裟すぎる反応に二人は驚きつつも眉間に皺を寄せた。
百田がオーバーリアクションなのはよく知っているので、彼の態度に思うところはない。ただ、どうして今の流れで同意を求めるように赤松を見るのだろうか。急に話を振られても迷惑だろうに、と最原たちも赤松へ目を向ける。
「えぇっと、あのね百田くん。多分なんだけど、最原くんと春川さんは気づいてないと思うよ?」
三人の視線に晒された赤松は、困ったように笑いながら百田のリアクションへそう応えた。
「はぁ!? 気付いてないのにあの鉄壁なのかよ!」
「ちょっと、何の話?」
ひっくり返った声を出しながら、百田は改めて最原と春川を見る。一体全体何の話をしているのだ、と不機嫌を顕にするのは春川だ。口を出しはしなかったものの、最原もあまりいい顔をしていない。
「いやぁ、何の話って……、お前ら本当に何も知らないのか?」
「知らないもなにも、アンタが何の話をしてるのかさっぱりなんだけど」
再度確認する百田と、変わらず不機嫌な春川。会話は平行線のまま交わることがない。
それを悟ったらしい彼は、盛大な溜め息を吐いて顔を伏せた。かと思えば勢いよく顔を上げ、真剣な眼差しで二人の顔を見る。
「なら教えてやるよ。王馬はなぁ、」
「ちょ! ちょっと待って百田くん! 勝手に言っちゃだめだよ!」
慌てて話を止めにかかる赤松。しかし言いかけた言葉を撤回することはできず、最原と春川は今まで以上に怪訝な顔をする。
「何で、王馬君の名前が出てくるの?」
これまで話していたのは夢野のことである。なのにどうして今ここで王馬の名前が出てくるのか。話の接点がうまく繋がらず、最原は厳しい顔で百田へ問いかける。
「……なぁ、赤松。これは誰かが言ってやらねぇと一生気付かないぞ?」
「う、うぅ〜〜〜ん」
困りきって唸り声を上げてしまう赤松。しばらくは腕を組んで悩んでいたようだが、やがて何かを決心したのか百田に向き直る。
「……そうだね、このままだと変に拗れちゃうかもしれないし」
「だろぉ? だから、」
「でも百田くんが説明すると余計に拗れるから、私が話すよ」
「お、おぅ……そうか……?」
言い終わると同時に赤松は、難しい顔をした最原と春川に向き直る。何度か深呼吸をした彼女は間もなくして、神妙な面持ちで語りだした。
「あのね、夢野さんが知恵熱を出したのは、多分王馬くんが原因だと思うんだ」
「王馬? ……やっぱりあの時、何かあったんだ」
春川が思い切り顔をしかめる。一昨日の晩、あの騒動が起きる少し前に飛び出していった王馬。突然のことに虚を突かれそのまま見送ってしまったが、とっ捕まえて洗いざらい吐かせればよかったのだ。そうすれば夢野が知恵熱を出し、一日半も寝込まずに済んだかもしれない。
春川のとんでもない殺気に晒され、赤松の口から短い悲鳴が漏れる。
「は、春川さん…! 気持ちはわかるけど抑えて…!」
「…………ごめん」
流石に悪いと思ったのだろう。春川はバツが悪そうにしながら、驚く赤松と宥める最原に詫びた。
けれども拍車がかかった不機嫌まではもとに戻ることはなく、むすっとしたままである。
「えっと、あの時に何が起きたのかは私もわからないんだけどね。兎に角、それにはあることが関係してると思うんだ」
そこまで言うと彼女は辺りをキョロキョロと見回し、誰もいないことを確認する。不思議そうにしている二人へもっと顔を近付けるよう促し、口元に手を当てながら囁いた。
「あのね、王馬くんって夢野さんのことが好きでしょ?」
「「…………は?」」
「だから、もしかしたら告白でもされたのかなぁって思って、」
「ちょ、ちょちょっと待って赤松さん?!」
「アイツが夢野のこと好きってどういうこと?!」
そのまま話を進めていく赤松を二人がかりで全力で止める。一体全体何を根拠にそんなことを言っているのだろうか。半ばパニックに陥っている二人はきょとんとしたままの赤松に詰め寄る。
「おいおい、お前ら! そんなに一気に聞いたら赤松が困っちまうだろーが!」
するとここまで三人を静観していた百田が、二人と赤松の間に割って入った。
「つーか、本当にわかってなかったんだな。お前ら二人とも察しがいい方だから、とっくに気付いてるもんだと思ってたんだがなぁ」
百田の仲裁により、興奮冷めやまないものの最原たちは赤松に詰め寄ることをやめる。どちらかといえば理性的な二人がここまで取り乱すとは珍しい。驚きながらも、やや呆れた様子で百田はがしがしと乱暴に自身の頭を掻いた。
「いや、だって、そんなの」
今にも考え込んでしまいそうな最原は、超高校級の探偵らしからぬ言葉を繰り返している。そんな彼の隣で春川は、眉間に皺を寄せ黙り込んだままだ。
赤松が嘘を言っているとは思わない。しかし内容が内容なだけに信じることができないのである。
最原と春川の脳裏を過る、才囚学園での日々。地獄のような世界で、心を擦り切らせながら駆け抜けたあの時間を忘れることはない。
だからこそ、あり得ないと思うのだ。ただでさえ一度目があったことすら未だ信じられないというのに、まさか二度目があるだなんて考えられない。
「でもよ、アイツが夢野のこと何かと気にかけてたのは流石に知ってるだろ?」
「……それは私たちが隠してることを嗅ぎ回ってたからでしょ」
夢野が茶柱に全てを明かすと聞いたとき、最原たちもまた百田たちへ全てを明かすことにした。ずっと心配されていることはわかっていたし、このまま隠し通せるとも思っていなかったからでもある。
かくして最原たちの抱えた秘密を知る彼らは、春川の切り返しに驚くことはない。
「それは間違いないと思うよ。でもね、それだけじゃあ説明がつかないんだ」
「ただ秘密を嗅ぎ回ってるだけなら、わざわざ一人で困ってる所を助けに行く必要はねぇだろ?」
「……助けに? アイツ、そんなことしてた?」
希望ヶ峰学園に入学してから今日まで、王馬が夢野へ手を差し伸べたことなどあっただろうか。記憶を掘り起こしてみる春川だが、思い当たるような出来事はない。
けれども最原は何かを思い出したのか、あ、と短く言葉を漏らす。そうしてぶつぶつと何事かを呟きながら考えに耽ってしまった。
これまで同じわからない側に立っていた最原の意図せず裏切りに、春川は頬を膨らませながら赤松を見る。
「どういうこと?」
「うーん、私も全部を知ってるわけじゃないんだけどね。ほら、前に文化祭で二人が空き教室にいたことがあったよね?」
思い返すのは二ヶ月程前。学園にとっても学生にとっても一大イベントである文化祭だ。自分な才能を披露するために、純粋に展示や屋台を楽しむために、生徒たちのみならず教師陣まで浮かれていた様子を思い出す。
早くから百田に誘われたことこともあり、いつもの顔ぶれであちこちと校内を歩いていた、その途中。空き教室で突っ立っている二人を見つけた。
「あれって、夢野さんがしつこいスカウトから逃げてたって話だったでしょ?」
「うん、そうだね。でもそれが何?」
赤松の言う通り、夢野はその才能を狙うしつこいスカウトマンに追いかけ回されていた。何度断ってもしつこいのだという男は結局、共に行動することになった春川の殺気に圧され逃げ帰ったのだが、それは横に置いておいて。
「王馬くん、それに気付いてたんだよ。だから一人でいた夢野さんのこと探して、一緒にいたんじゃないかな」
確かに言われてみれば、そもそもあのタイミングで王馬が彼女の隣にいたのは不自然といえば不自然だ。百田たちが最後に彼を見かけたのは、キーボや獄原を引き連れてあちこちの展示室を練り歩いているところである。
けれど次に見たとき、共に行動していたクラスメイトたちの姿は見当たらなかった。
「それもたまたまじゃねぇぞ。あとでゴン太たちに聞いてみたら、急に用事ができたとか言って一人でどっか行っちまったって言ってたからな」
「…………ねぇ、最原はどうなの? 何か心当たりでもあるわけ?」
渋い顔のまま春川は、唸り続ける最原へ話を振った。いい加減、会話に復帰してほしかったこともあるが、僅かにではあるものの否定をしてほしかったのかもしれない。
あの日、夢野と崩壊した学園で交わした涙と言葉を考えると、どうしても信じたくないという気持ちが強まってしまう。
「………………ごめん、春川さん」
しかし最原から返ってきたのは謝罪であり、続けられる言葉が春川の望んでいる答えではないことは確かだった。
「実は……、夏休みも明けてすぐぐらいに、霧切さんに言われたんだ。貴方のクラスメイトもなかなか面倒くさいのねって」
手伝いたいなら早くに切り出せばいいのに、だとか気になるなら部屋に入ってくればよかったのに、だとか。当時は何のことを話しているのかさっぱりわからなかったが、思い返してみればあれは王馬のことを指していたのだろう。
霧切とそんなことを話す数日前、夢野が一人でマジック道具を片付けるために倉庫掃除をしていたらしく、茶柱が呼んでくれればよかったのにと騒いでいたのだ。その時はたまたま通りがかったのだという霧切に手伝ってもらったと聞いている。
もしも赤松と百田の言うことが本当だとすると、あの時の霧切の含み笑いと優しい眼差しにも合点がいく。また事あるごとに夢野の隣に王馬の姿があったことも頷ける、のだが。
「いや……、でも……、うーーん…………」
二人の言葉は信じたい、けれども話の内容は信じられない。いや、信じたくない、の方が正しいのだろう。最原も春川も、夢野の胸の内を痛いほどに知っているのだ。
ようやく捨てる決心がついたと、寂しそうに笑っていた彼女の姿は記憶に新しい。
「そんなに信じられない?」
「だってあの王馬くんだよ? 正直、想像がつかないというか……」
最原たちの記憶に今も焼き付くコロシアイの記憶。それは三人の感覚をじわじわと蝕んでおり、クラスメイトたちに抱く印象はどうしてもそちらの記憶に引きずられてしまう。だから二人の、王馬に対しての警戒心は未だに強い。
「まあ、かなり巧妙に隠してたからな。よっぽどじゃねぇと気付かねぇだろ」
沈痛な面持ちで黙り込む二人をフォローしようとしたのか、百田がそんなことを言い出す。
「それに、そうだな。夢野の態度にも思うところがあったんだろ」
あらゆる嘘を振りまく王馬を否定するでもなく、責めるわけでもない。夢野は最初から、彼はそういう人間なのだと受け入れていたのだ。そんな態度をとっていたのはクラスメイトの中でもたった一人だけである。
王馬の胸中など知る由もないが、その態度は少なくとも惹かれるきっかけの一つだったのかもしれない。
「夢野の態度におかしなところなんてあった?」
王馬に接する態度が優しい時点で大分おかしいとは思うのだが、もちろん百田が言うのはそんなことではない。しかし思い返してみても引っかかるところはなく、春川は怪訝な顔もそのままに問う。
「だってあいつ、本当に王馬を見てたかって言ったら、そうじゃねぇだろ。終一とハルマキもそうだったが、俺たちに重ねて俺たちを見てただろ?」
言い返すことなどできない。最原と春川、そして夢野も含めて思い当たる節が多すぎた。
彼らと『彼ら』は違う。何度言い聞かせても鈍い心は言うことを聞いてくれない。秘密を打ち明けた今でもそれは変わらず、自己嫌悪で死んでしまいたいと何度思っただろうか。
百田も、赤松も。恐らくクラスメイトの半分以上は、理由がわからずとも違和感には気付いていたのだろう。そして勘の鋭い数名は、自分ではない誰かを重ねているのだと気付いていたかもしれない。
洞察力の鋭い王馬が、気付いていないわけがなかったのだ。
「そうは言っても、私たちがどうこうできる話じゃないんだけどね。これは当人同士の問題だし」
苦笑いを浮かべながら言う赤松の言葉は尤もだ。惚れた腫れたの話に他人がそう口を出すものではない。百田と赤松も、この話をしたのは最原たちが全く気付かなかったためだろう。
「……でも、」
ぽつり、と春川の口から滑り落ちる否定。顔を伏せていた彼女はやがてゆっくりと顔を上げると、真剣な眼差しで続ける。
「私は、何があっても夢野の味方だよ。頼ってくるなら全力で応えるし、例えあいつの答えが非難されるようなものであっても関係ない」
声を押し殺して泣いた彼女を知っている。傷付いても抱えていくしかない心の痛みを知っている。だからこそ春川は、例え世界中が敵になったとしても彼女の味方になると決めていた。
「おう、ハルマキはそれでいいと思うぜ! 味方がいるっつーのは心強いもんだからな!」
否定することなく、窘めるわけでもない。百田はニカッと明るい笑顔を浮かべながら、春川の揺るぎない決意に応える。
「……私、彼氏にするなら春川さんがいいなぁ」
「……は? 何、急に」
羨ましそうに呟く赤松。突飛な話の飛び方に春川が怪訝な顔をすれば、彼女は胸の前で手を組む。
「世界中が敵に回っても味方でいるだなんて、私も言われてみたいよ」
まるで映画のワンシーンに出てくるような台詞だった。女子の多くは、一生に一度くらい言われてみたいと夢見ているだろう。
うっとりとしながらここではないどこかを見る赤松。そんな友人をよくわからないものを見る目で眺めていた春川は、やがて隣で微笑む最原を見る。
「…………だってさ、最原」
「ぅえ!? ぼ、僕……!?」
他に誰がいるんだ、と春川の瞳が語る。まさかそんな話の振られ方をすると思わなかった最原は、助けを求めるように百田へ目を向けた。
けれども返されるのは頑張れよ、と言わんばかりの笑顔とサムズアップで。とても助け舟を出してくれるような空気はない。
(何でこんな話になってるんだ……!)
先程までの真剣な空気はどこへやら。期待するような眼差しに晒される最原は、唇を噛みなつつどうやって話題を変えようかと知恵を巡らせるしかなかった。
街路樹に巻きつけられたイルミネーションのせいで、世界は見渡す限りキラキラと輝いている。至るところに飾られるオーナメント、織り交ざる緑色と赤色。そして広間のような場所に設置された、街の中で一番飾り立てられ輝きを放つ巨大なツリー。
クリスマスイブという特別なこの日、家族連れが恋人たちが浮かれている中、夢野は一人で歩いていた。特に行きたいところなど決めていない。ただ人の流れに身を任せてふらふらと彷徨っていた。
元々通っていた学校の友人たちとささやかなクリスマスパーティーを行い、別れてから一時間。真っ直ぐに家へ帰る気も起きず、気付けば時刻は七時を越えようとしている。
誰かに連絡をしようかとも考えた。けれど希望ヶ峰学園の友人たちは皆、クリスマスに予定があると口々に言っていたことを思い出す。例えば赤松はクリスマスリサイタル、春川は孤児院のクリスマスパーティー、夜長は島のみんなと年越し準備。それぞれ、らしい理由で予定が詰まっているのである。
かくいう夢野も、明日は年明け番組の収録にゲストとして招待されていた。もちろん彼女の才能であるマジック、もとい魔法を披露するためである。
「明日のためにも早く帰らねばならんのだがのう」
頭ではわかっているものの、心がそれを受け入れてくれない。駄々をこねている場合でもないのに、と夢野はため息混じりに呟いた。
右を見ればカップルたち、左を見れば家族連れ、前を後ろを見れば友人と騒ぎ立てるグループ。夢野のように一人でいる人間など見当たらない。
「あのぅ、もしかしてユメノさんですかぁ?」
何が楽しくてクリスマスの街を一人で歩かなければならないのか。急に虚しくなって、夢野は今度こそ家へ帰ろうと心に決める。
そんな最中、不意に声を掛けられた。驚いて声のした方を見やれば、にこにこと微笑む女性が夢野を見下ろしている。
「んあ……どちら様じゃ?」
記憶の引き出しを片っ端からひっくり返してみるものの、同じ顔は出てこない。首を傾げながら問いかけてみると、女性の後ろからもう一人女性が顔を出す。
「あたしたち、ユメノさんのファンなんです!」
「そうそう〜。ファンなんですぅ」
笑顔でそういう彼女たちは、夢野のことをまるで品定めをするかのように眺める。ファンという割には初めて見ました、と言わんばかりの態度だ。
しかし、たまたまテレビで見ました、程度のファンであるならばこういった者も多い。夢野の才能は観客がいないと始まらないのだ。小さなファンも大事にしなければ、と彼女は愛想よく笑顔を向ける。
「ありがとう。これからもウチの魔法を楽しみにしてもらえると嬉しいぞ」
差し出した手から、クリスマスのラッピングがされたキャンディを生み出す。もちろん彼女が得意とする魔法でポシェットから取り出したものだ。ぽかん、とする二人の手にキャンディを握らせ、夢野は踵を返す。
けれどもすぐ足早に元の場所へ戻った。
「そのキャンディはさっきそこの店で買ったものじゃ。変なものは入っておらんぞ、断じて!」
言ったあとで、先程披露した魔法を根本から否定するワードを口走ったことに気づく。どうしてよりにもよって買ったとはっきり言ってしまったのか。
恐らく、いや間違いなくファンに声を掛けられて浮かれていたのだ。そういう趣味もなさそうな、同性のファンは滅多にお目にかかれることはない。
「うふふ、面白い人」
百面相をする夢野をしばらく眺めていた女性は、そう言って夢野の手をとった。思いもよらない行動にぎょっとすれば、彼女は尚もにこにこと笑顔を見せながら首を傾げる。
「超高校級の魔法使いさんの魔法をタダで見せていただくなんて、申し訳ないわぁ。よかったらお礼にお茶でも奢らせてくださいな」
「んあ? いや、そんな礼など、」
「あたしたちの自己満足ですから! ね? ね?」
隣の女性も加勢し、ぐいぐいと詰め寄ってくる。本来ならここで断るのが正解なのかもしれない。けれども夢野の脳裏を、帰らなくても咎められない理由ができた、という考えが過る。
今一度、ファンの女性たちを観察した。どちらも興味津々といった様子で夢野のことを見つめている。そこに悪意は、今のところ感じられない。
「……では、お言葉にあまっんあ!?」
「それじゃあ行きましょ〜」
「レッツゴー!」
返事の途中で夢野の両手をそれぞれが掴み、二人は歩き出す。きゃっきゃとはしゃいでいる勢いに完全に呑まれる夢野は、すっ転ばないように気を付けることで精一杯だった。
「ここのコーヒー、とっても美味しいんですよぉ」
「苦いのダメだったらカフェラテとか、ウィンナーコーヒーもあるよ!」
路地裏に入って少し歩いたところにある、レトロなカフェ。静かで独特の雰囲気がある店内で、メニューを広げながら二人は変わらずはしゃいでいる。他の客層を見る限り、どうにも場違いな気がしてならない。
「んあ、それじゃあ……カフェラテにしようかのう」
クリスマスパーティーでケーキをたらふく食べたので、生クリームは遠慮したかった。かといってブラックコーヒーを飲む勇気はないので、無難なカフェラテを選ぶ。
すると長身の方の女性が店員を呼び、注文を始めた。
「カフェラテ一つと、ミックスジュースを一つ」
「あたしはクリームソーダで!」
つい先程、コーヒーがおいしいと言っていなかったか。もしや聞き間違いだったかと思うものの、わざわざ確認するまでのことではない。引っかかるところはあるものの、夢野は黙っていることにした。
統一性のない注文であったが、意外にもすぐ飲み物はテーブル上に揃う。いくら店内が温かいとはいえ、よく冷たい飲み物が飲めるなと感心しながら、夢野は温かいカフェラテに口をつけた。
「ところでユメノさんはこのクリスマスに一人あんなところで何してたんです?」
小柄な方の女性が悪びれもなく聞いてくる。もう少し歯に絹を着せてほしいと思うものの、夢野も逆の立場なら気にするだろうところだ。危うくむせかけそうになるのを堪え、少し息を整えてから彼女は口を開く。
「友人たちとクリスマスパーティーをした帰りだったのじゃ」
「でもぉ、家に帰る感じじゃなかったですよねぇ?」
ファンだと声を掛けてくるぐらいだ。夢野が思っているよりも、随分と前から見られていたのかもしれない。だとすると下手な言い訳は墓穴を掘るだけだろう。
「……何となく、帰りたくなくて」
「ふーん。何か嫌なことでもあったとか?」
「嫌なこと、ではないんじゃが……」
冬休みに入る前、夢野の身に降り掛かったもの。一人では抱えきれず、かといって分け合おうにもその相手が悩みの種なのだ。現状どうすることもできない。
いろいろと整理をしよう、と考えを巡らせてるよう試みている。しかしどうにもこうにもうまくいかなかった。どんな斬り込み方をしてみても、あの学園での出来事が邪魔をする。考えないようにすればするほど、あの日々は色濃く映ってしまうのだ。
「ところでユメノさんは恋人とかいないんですかぁ?」
「んあ!? お、おらんぞ! そんな奴!」
突然の質問に夢野は素っ頓狂な声で答えた。考えていたことがことだけに、動揺が凄まじい。だがうっかりカップを落とすことはなかったので、そこは褒めてほしいところである。
「そ、そんな奴がおるなら、今こうしてお主らとお茶などしておらん!」
「あぁ、それもそうですねぇ」
今気付きました、といった顔ではあるが、恐らく確信犯だろう。にこにこと笑っている目の奥に、からかいの色が見えるのは気のせいではないはずだ。
「じゃあ好きな人は?」
「…………す、きな、人は、」
思い浮かぶ人物など一人しかいない。けれども今、目蓋の裏に浮かび上がるのは果たしてどちらの彼なのだろうか。
そういえば、どうしてファンだという女性たちとこんな話をしているのだろう。出会ってまだ一時間も経っていない相手だ。洗いざらい話すことなどないというのに。
「ユメノさんにそんな顔させるなんて、相手の男はきっとひどいやつなんですねぇ」
「そ! そんなことはないぞ! あやつは性根はとことん曲がり切っておる困ったやつじゃが、意外と優しいところもあるし、冷酷というわけでも……」
「へー、ベタ惚れなんですね!」
さっさと切り上げて帰ろう。そう決意した矢先に飛んできた言葉を、うっかり打ち返してしまった。それだけでも自分を追い詰めるには十分だというのに、さらなる追い打ちを掛けられてしまえばぐうの音もでなくなる。
自分でも薄々気づいていたが、気恥ずかしいし何より癪なので無視をしていた真実。心の底から、あのとんでもない男のことを好きだった。夢野自身、信じられない程ベッタベタに惚れていたのである。
「でも何か、悩みがあるんですよねぇ? よかったら教えてくれませんかぁ?」
ユメノさんの力になりたいんです、と続ける女性の目からは心配よりも興味のほうが強いように思えた。そんな相手に打ち明けていいものかと悩んだ、ものの既に乗りかかった船である。持て余す感情の吐き口が見つかるきっかけを得られるなら、何でも利用してやろうと開き直ることにした。
できるだけ相手のことはぼかしにぼかし、重要なところだけ掻い摘んで話す。何となく今の現状をわかってもらえればそれでよかったからだ。
それにしても彼女らは、どうしてそうもずっと楽しそうなのだろう。会ったときも思ったのだが、夢野に対してもやや馴れ馴れしい。不快に感じるものではないので無視をしていたのだが、ここまできてそれが少しだけ気になった。
「それってつまり、まだ前のオトコを引きずってるから、そんな状態じゃ次のオトコに申し訳ないってこと?」
「うぐっ」
あまりにストレートな物言いに、堪らずうめき声が漏れる。否定できるところが全くない。
しかし改めて人から言われてみると、自分は相当嫌なやつではないだろうか。それなのに彼は夢野に好きだと言うのだから、申し訳なさでいっぱいになる。
「あのぅ、そもそもユメノさんは何で申し訳なさそうにしてるんです?」
ミックスジュースを飲み終え、二杯目であるイチゴオレを口にしていた長身の彼女が首をひねる。
「それは、だって、ウチが失礼なことをしているからじゃが……?」
「でもぉ、さっきまでの話を聞いてると、そこもひっくるめてユメノさんのこと好きになったんじゃないですかぁ?」
「…………んあ?」
言われている意味がわからず、今度は夢野が首をひねる。夢野がかつての王馬を今の王馬に重ねていることを知っていてなお、好きになっただなんて。そんなこと天地がひっくり返ってもないはずだ。
ないはず、なのだが。
「昔のオトコを忘れられないユメノさんのことが好きなら、何も心配することないですね!」
「……それは、それで心配にならんか?」
不安しか覚えない太鼓判を押されながら、夢野は彼女らの言葉を脳内で反芻する。
王馬は確かに、夢野のことを好きだと言った。それは果たされなかった約束を叶えたとき、彼らを重ねて見るのはやめようとした直後。
これからはちゃんと自分を見てくれと、王馬は言っていた。そんなことを言うということは、前から彼は知っていたのだろう。夢野があの時の王馬を、今の王馬に重ねていたことを。
それでいてなお、好きだと言うのだ。もういない相手を想っていることを知りながら、忘れられないこともわかった上で。
(いや、そんな、まさか)
じわじわと鼓動が速度を増す。目の前がくらくらと揺らいでいるような気がしてならない。
「あのボスが健気ですよねぇ、うふふふふ」
「ベッタ惚れなんだもん笑っちゃう!」
二人が何かしらを話しているが、いまいち頭に入ってこなかった。先日出した知恵熱がぶり返しているのかもしれない。纏まらない考えと浮かんでは消える期待。襲い来る感情の洪水に呑まれかけながら、夢野は目の前に残っていたカフェラテを一気に飲み干す。
ミルクの少し多いカフェラテはすっかり冷めきっていて、甘ったるさだけを夢野へ残していった。
「ただいま帰りましたぁ〜」
室内に響き渡るのは間延びした声。次いで喧しいほどの元気な声が飛び込んでくるものだから、突如として騒がしさが増す。どたどた、がちゃがちゃ、ばたばた。何をそんなに騒々しくしているのかと、真っ白い紙とペンを持て余していた王馬は目だけそちらへ向ける。
両手に紙袋を引っ提げて、DICEのアジトへ戻ってきたのは二人の女性。にこにこといつもに増して上機嫌な彼女らは、机に広がっていた企画書やらおもちゃやらを全て床へ落とし、自分たちの荷物をそこへ置いた。途端に男性陣から阿鼻叫喚の嵐が巻き起こるものの、二人は意に介さない。
「うるさいな〜。恋人もいなくて腐ってる寂しいキミたちに折角ケーキ買ってきてあげたのにさ〜」
「そりゃお互い様だろうが。ていうかどうせならケーキじゃなくてチキン買ってきてくれよ」
一つ、二つ、三つと紙袋から出てくるのはどれも有名店のケーキだ。もちろんサイズはワンホール。とてもこの人数で食べ切れる量ではない。もしかして、とざわつく男性陣。互いの顔を見合わせ彼らは再度はしゃいでいる女子を観察する。
彼女らは一緒に買ってきたのだろうジュースとフォークを傍らに、撮影会を始めていた。かわいい、きれい、すてきと口々にいう二人の手元にはナイフも皿もない。
つまり切り分ける気がないのである。
「買ってきたって、そもそも分け与えるつもりねーじゃん」
誰かがそう呟くと、小柄な方の女性がにやりと笑った。先のやり取りで渡す気が失せたのか、それとも元々あげる気などなかったのか。
恐らく後者なのだろうな、とは思う。
「あっ、でもぉ、ボスにはちゃんとお土産あるんですよぉ」
一通りの撮影会を終えると、不意に長身の女性がそんなことを言い出す。浮かれた足取りで、静観していた王馬の元へ近寄った彼女は、満面の笑顔と共に両手を差し出した。
ころり、と小さく転がるのはクリスマスらしいラッピングをされたキャンディが四粒。先程彼女らが可愛いと囃し立てていたケーキとは比べられないほど小さく、また安価である。
「え、嘘だろ、ショッボ!!」
「いやいや、流石にボスへそれ渡すのはないわ〜」
予想していたものを遥かに下回っていたこともあり、一部の男性陣からやんややんやと野次が飛ぶ。けれども彼女は全く相手にせず、というより存在を無視する勢いで気にしていない。
「ぜーったい! 喜んでくれると思いますよ!」
「……ふーん」
そこまで太鼓判を押す、ということは少なくとも本当にショボいものではないのだろう。王馬は半信半疑ではあったものの、折角くれるというのだからと試しに一つつまみ上げた。
見たところ、包み紙が浮かれきっていることを除けば普通のキャンディである。中身を確かめるように包み紙の上から触れてみるが、形に不自然さはない。ならば味が奇天烈なのかと頬張ってみて、ころころと舌の上で転がして、眉間に皺が寄る。
「普通の飴だけど」
「はぁ!? なんだよ、お前ら言ってることが違うじゃん!」
口内に広がる甘ったるい苺味。どこに王馬の喜ぶところがあるのだろう、と女性陣を除く全員の訝しげな視線が彼女らへ集まった。
すると小柄な方の女性がこれでもかと胸を張る。
「普通の飴なんかじゃないですよ? これはなんと〜魔法で出してもらったんです!」
「…………お前、クリスマスの空気にあてられて頭おかしくなったのか?」
怪訝さを隠しもしない男性陣は、可哀想なものを見る目で二人を眺めた。けれども二人はそんな視線にムキになることも怒ることもせず、にやにやとしたままである。
いやほんと頭おかしくなったんじゃないのか。呆れを通り越して心配になってくる、中でふと一人が気づく。先程から全く反応もせず、微動だにもしない人物がいることに。
「えっと、何か変な味でもしました?」
包み紙を凝視したまま固まっているのは、この場にいる全員が慕ってやまないボスである。誰よりも突飛な考えと行動でDICEを引っ張る彼は、基本的に動揺する姿を見せない。ごく稀に部下たちからサプライズで驚くことはあるが、自分のペースを崩すことなどないのだ。
そんなボスが、子どもだって騙されないような言葉を耳にして固まっている。いつもあらゆる笑みを貼り付けてられている顔からは、何の感情も見受けられない。
呼吸すらしているのかも怪しいぐらい、王馬は静止したまま動かなかった。
「結局、それどーしたの? 自分たちで買ってきたんじゃないの?」
「だからぁ、魔法で出してもらったんだって! コンビニで買ったキャンディを!」
「……この子本当に熱でもあるんじゃない?」
「いいえ〜、違いますよぉ。これはぁ、超高校級の魔法使いさんに頂いたんです〜」
ねー、と二人は楽しそうに声を合わせる。そこでようやく明かされた真実に、終始怪訝な顔だった男性陣は納得し、少しだけ安心した。クリスマスの雰囲気にヤケを起こして頭がおかしくなった訳ではなかったらしい。
超高校級の魔法使い、というのはその当人が自称している肩書きである。けれどもその才能の凄まじさは、魔法だと言われても納得ができるものだ。
「理由はわかったけどさぁ、そもそも何で会ってんの? お前たち知り合いだった?」
「いいえ〜。たまたま見かけたのでぇ、ご挨拶したんです〜」
「そうそう。道行くカップルが年明けまでにどれだけ別れるか予想しながら歩いてるときにね」
「うわっ趣味悪っ」
つい数時間前のことである。二人はクリスマス限定ケーキの爆買いをしながら、道行くカップルたちを観察しながらあれは別れるあれは続くかもと茶々を入れながら歩いていた。
もちろん当人たちには聞こえないよう心掛ける。何が楽しくてクリスマスに、そんなしょうもない理由で浮かれたカップルへ進んで絡もうというのか。あくまで自分たちが楽しむだけの遊びなのである。
しかしそんな娯楽も延々と続けば飽きるものだ。右を見ても左を見ても前も後ろも浮かれ切って面倒くさいカップルばかり。いっそのこと直接絡んでやるか、とヤケを起こしかけたときに、その姿を見つけたのだ。
「一人ぼっちで歩いてたから、どーしたのかなーって思って。あとは単純に本物の魔法ってやつを見せてもらおーって思ってさ〜」
「ファンですって言ったら、これをくれたんですよぉ。まさかそんなにあっさりと見せてくれるなんて思わなかったから、嬉しくなっちゃってぇ」
お茶してきちゃいましたぁ、と続けた長身の彼女はおもむろにポケットから領収証を取り出す。何だそれ、と他のメンバーが首を傾げる中、一枚の紙切れは王馬の前に差し出された。
「これ、相談料と送迎代ですぅ」
「ボーナス上乗せしていいんですよ!」
最上級の笑顔を浮かべながら王馬を見る二人は、期待に満ちた眼差しを隠しもしない。そんな彼女らの様子に、勘のいい面々はそれが何を示しているのかを気付いた。
出会ったのは本当にたまたまだったのかもしれない。けれど声をかけてからの行動は確実に狙ったものだろう。お茶をしたということは何かしらの話をしたのだろうが、言葉通り相談に乗ったのか、はたまた要らぬことを吹き込んだのか。どちらにしろいい予感はしない。
何しろ彼女らはDICEの優秀な構成員である。
「……ふーん、そう」
ようやく口を開いたかと思えば、王馬はがりごりと飴を咀嚼した。目の前に置かれた領収証を手に取り、興味もなさそうに眺めていたかと思えばこれでもかと口角を上げる。
「まぁ、送迎代ぐらいは出してあげるよ」
やがて満面の笑顔でそう言った彼は、二人の手に残っていた飴を残らず攫う。ポケットにそれらを乱暴に捩じ込んで、入り口へ向けてさっさと歩き出した。
「え〜〜? 相談料は〜〜?」
膨れっ面で問いかける彼女と、二人のやり取りを見守る他の面々。そんな部下たちを一度だけ振り返った王馬は、変わらず笑顔で答えるのだ。
「むしろオレが欲しいくらいだよ〜〜。娯楽を提供した身としてはさぁ」
ばたん、とそこそこ強めに扉が閉まる。先程までの騒がしさはどこへやら。静まり返った部屋に残された彼らは互いの顔を見合わせた。
「ちぇ〜。これでボスの弱みでも握れるかと思ったのになぁ」
「ざぁんねーん」
ただ二人だけは、頬を膨らませながら不満そうに文句を連ねるばかり。それだけでも引くというのに、もっと勿体ぶったほうがよかったかも、なんて反省会を始めるものだから堪らない。
そそくさと、会話に花を咲かせる女性陣から遠ざかり、男性陣は部屋の隅に移動する。出て行ってしまったボス、そんな彼の弱みを握らんとする部下。一見すると下剋上を狙っているのかとも思うが、彼女らにそんな野心は微塵もない。
二人を突き動かしているのは、他人の恋路に興味津々で首を突っ込みたがる乙女心なのである。
冬休みというものは、イベントの多さの割に期間が短い。クリスマスではしゃぎ、年末年始ではしゃいでいればあっという間に三学期だ。まだまだ遊び足りないと思ってしまうし、夏休みぐらい長くていいのに、なんて願ってしまう。
特に今年は、冬休みに入る前から色々とありすぎた。顔を合わせるのが気まずい、面と向かって喋る自信がない、何を言われても動揺する未来しか見えない。そんな三重苦に、夢野はこの冬休み中ずっと苛まれていた。
会わないことには解決せず、会ってしまえば間違いなく悪化するだろう。じゃあ顔を合わせたくないのか、と言われればそうでもない。様子はもちろん気になるし顔はできれば見ていたかった。
(……何なんじゃ、これは)
今まで恋愛など他人事でしかなかった。自分がこれまで体験した恋など、幼い頃に通っていた学校の先生だとか、テレビの向こうにいる俳優やアイドルが相手である。
今思えば、あれは恋に恋していただけだった。友人や同い年の子たちに触発されて生まれた真似事でしかない。
カツカツと、頭上でフェンスを突く音がする。顔を上げればそこには、餌はないのか、と夢野を見下ろす小さな瞳が一つ二つ三つ。
「お主らはいいのう……呑気で……」
鳩には鳩社会の厳しさがあるのだろうが、少なくともここいる彼らにはそんなものはない。もしも厳しい現実があるとするなら、互いの餌の奪い合いぐらいなものだろう。
雌しかいないこの小屋で、恋に悩む鳩などいないのだ。多分。
「…………はぁ」
あちこちから聞こえる様々な動物たちの鳴き声。やや獣臭さはあるものの、自らのショーで数多の動物を手懐けている夢野としては大して気にはならない。高い天井を仰ぎながら、今日何度目かわからない溜め息を吐く。
滅多に人間の出入りがないこの小屋は、逃げ込むには打ってつけだった。まさかまた、ここへ入り浸るようになるだなんて思いもしなかったが、どうにもこうにも顔が合わせ辛いのだから仕方ない。
(しかし、あやつはあんまり変わらんのう……)
三学期も始まり顔を合わせるや否や、人の顔をなんとも言い難い表現で弄ってきた。にやにやと笑いながら憤慨する夢野をからかう姿は、これまでの王馬と何ら変わりがない。まさか気を使ってくれたのだろうか、とも思ったが全くそんなことはなく。
「ウチばかりが気になっておるようではないか……」
つい目で追ってしまったり、声が聞こえたら気になってしまったり、など。まるで少女漫画に出てくる主人公がよくする行動だ。そんなことあるわけがない、と小馬鹿にしていた一年ほど前の自分を引っ叩きたくなる。
しかし不思議なことに、自分ばかりが気にしていることを悲しいだとも寂しいだとも思わなかった。夢野のマイナス思考に拍車をかけているのはそんな湿っぽいものではない。
彼女の心に居座る感情は、圧倒的に悔しさの一人勝ちである。
「んぁ……、そろそろ戻らんとマズいのう……」
まだ寒さも厳しいこの時期は、日が落ちるのも思いの外早い。気付けば小屋の外は夜に差し掛かりつつある。立ち上がり、スカートに付いた土埃を払って、夢野はのろのろと歩き出した。
この時間ならば、ただでさえ人通りが少ないこの場所で誰かと顔を合わせることはないだろう。あとは寄宿舎へ一直線に帰り、引きこもれる自室へ飛び込めば、興味本位で様子を伺ってくるクラスメイトたちその他を振り切れるのだ。
年頃の女子にとって他人の恋バナほど面白い娯楽はない。
(……寒っ)
コートに耳あてに手袋にマフラー、と防寒対策はばっちりしてきたのだが、それでも冷たい風は隙間から入り込んでくる。自分の身を守るように自分を抱きしめた夢野は、ぶるりと震えながらか細い吐息を吐いた。
ぽつぽつと街灯の並ぶ暗い道。一人で歩くのは少し不安になるようなその先に、ぽつりと浮かぶ人影を見つける。
「………………王馬、」
携帯電話を弄りながら、街灯にもたれ掛かっている。暗闇に浮かび上がる感情の読めない横顔に、どきりと心臓が跳ねた。
こんなところで何をしているのだろう。気にはなったものの、声をかける勇気は出ない。では気付かなかったフリで迂回するのは、とも考えるが帰り道は一本しかないのだ。どうしても、彼の前を通らなければならない。
やがて人の気配に気付いたのか、夢野の方へ視線が向けられる。明らかに狼狽して突っ立っている彼女を確認すると、王馬はふと笑みをこぼした。
「まるまる太ったアザラシが出てきたのかと思ったよ」
にしし、と笑いながら近付いてくる王馬。こうなってしまえば逃げることなど不可能だ。夢野は覚悟を決めて、歩み寄ってくる彼に不満をこぼす。
「お主にしては可愛らしい例えじゃが、それでも罵倒は罵倒じゃぞ」
「え〜? 褒めたつもりだったのに〜」
こんなに寒い夜だというのにコート一枚だけを羽織った王馬の姿は、見ただけでこちらが寒くなる。いくら身軽さを重視しているとはいえ、それでは風邪を引くのではないかと心配になった。
とはいえ、そんな気遣いをしたところで素直に受け取ってもらえる気はしない。そもそも寒さに耐性があるのでそういった軽装をしているのかもしれないし、と自分を納得させようとして。
「……お主、いつからここに立っておったのじゃ?」
いくら表情や言葉、態度で取り繕っても、生理現象を隠し切れることはできない。いつも以上に青白い肌、赤くなった鼻先、少し震え気味の声。それに気付けないほど、夢野は鈍感ではなかった。
訝しげな彼女の問いに、王馬は少し考え込むような仕草を見せる。ちらりと目の前にいる少女の様子を窺い、やがてにこりと人の良さそうな笑顔を浮かべた。
「そうだね、かれこれ一時間はいたかな? 流石にこれ以上は無理かな〜って思ったよ……」
「い、一時間!? お主こんなところで何をしとったんじゃ!」
夢野は慌てて巻いていたマフラーを外し、王馬の首へ巻きつける。可愛らしいピンク色のそれはとんでもなく似合っていなかったが、今はそんなことを言ってる場合ではない。
「何って、人を待ってただけだよ?」
にこにこと変わらず笑顔を浮かべている王馬。寒空の下で一時間も連絡無しで待たせるとは、一体どこの常識知らずなのだろう。カッと頭に血が上り、夢野の声は無意識に荒げていた。
「こんな時間まで待たせるなんて、一致何処のどいつじゃ! ウチが魔法でとっちめてやるぞ!」
「たはー! 自分で自分をとっちめるなんて、夢野ちゃんって器用なんだか不器用なんだからわからないよねー!」
ぴた、と夢野の動きが止まる。それと同時に王馬の笑みは人のいい笑顔を引っ込め、いつもの意地の悪い笑みを向けてきて。
そこでようやく、彼女は距離の近さに気付く。ここ数日、意識しすぎて近寄ることもできなかったというのに、今二人の間には一歩ほどの距離しかない。
「別に夢野ちゃんが気にすることじゃないよ。オレが好きで待ってただけだし」
黙り込んでしまった夢野から一歩離れてそう言うと、王馬は背中を向けてしまう。ゆっくりと離れていくその姿を見送るべきか、それとも追いかけるべきなのか。
なんて考えすら浮かばず、夢野はただそこに立ち尽くす。
「……帰るんでしょ? ほら、早くおいでよ」
不意に振り返った王馬の言葉に、夢野は弾かれるように駆け出した。パタパタと軽い足音は徐々に速度を落とし、先を行っていた彼の隣で止まる。
「…………なんで、待っておったのじゃ」
どちらからともなく暗い夜道を歩き出す。ほとんどの生徒が帰ったためか、学園内は静まり返っており人の気配もあまり感じられない。
なんだか世界に二人きりのようだと思えてしまって、夢野は慌てた頭を振った。そうして馬鹿らしい考えを忘れたいがために沈黙を破る。
「さぁ、何でだと思う?」
「……質問しとるのはウチじゃぞ」
はぐらかすように言い、やはり王馬は笑った。ゆっくりと、夢野の歩幅に合わせて進みながら問いの答えを待つ。
そんな態度をとられたら勘違いしてしまうではないか、と喉まで出かかった言葉を飲み込んで。夢野は必死に、そうではない答えを探した。しかし狼狽え浮かれる頭では都合のいい解釈しか浮かばない。
「う、ウチに用事があった、のは間違いないじゃろう?」
「用事もないのに待ってるなんて馬鹿のすることでしょ」
「う、うむ……、では何か、クラスの仕事で用事があった、とか?」
反応を注意深く観察しながら問いかければ、彼はにこにことしたまま全部ハズレと告げてきた。いつにも増して楽しそうで何よりなのだが、巻き込まれている夢野は堪ったものではない。うーん、と可愛げのない声を出しながら唸り、首をこれでもかと捻る。
考えに耽りすぎて今にも止まりそうになる足。それを満足そうに眺めていた王馬は、無駄に力を入れて握り締められた手をとった。びく、と大袈裟すぎるほどに小さな手が跳ねる。
「ないよ、何にも」
「んあ? 何も……、んん?」
「ほらちゃっちゃと歩きなよ。このままノロノロしてたら本当にアジの開きになっちゃうよ!」
「だ、誰が我が家の定番メニューじゃ!ってちょっと待つのじゃおう、王馬!」
手を引いたままぐんぐんと進めば、夢野は追いかけることに必死になって考える余裕などなくなる。やんややんやと後ろから掛けてくる言葉を聞く限りでは、先程のことなど頭の隅に追いやってしまっているらしい。
しかし王馬はそれでよかった。先の問いかけの答えは寄宿舎へ戻り、一人で考えてくれればいい。そうしてここで、自分が彼女を待っていた理由を知ればいいのである。
「んあぁ〜〜〜! もっとゆっくり歩かんかぁ!」
「ゆっくり歩いてるけど。夢野ちゃんの足が短すぎるだけでしょ〜?」
「んあ〜〜〜〜!!!」
憤慨しつつも手を振りほどくことはない。必死になりながらも付いてくる夢野を、からかいたくて仕方がなかった。けれどもそれも程々にして、王馬は歩くスピードを気付かれないように少しずつ緩めていく。
そうして並び歩きながらからかい混じりの言葉をかけてやれば、夢野は怒ったり呆れながらもやがて笑い出す。その笑い方はお世辞にも可愛いとは言えないものだったが、それでもいい。
少なくともこの夜道をたった一人、不安げに歩くよりかはよっぽどマシだろう。
一月も半ばに差し掛かると、バレンタインというイベントの準備が始まる。テレビや雑誌で特集が組まれ、百貨店などでは催し物の大々的な告知が始まっていた。あっちもこっちも赤とピンクとチョコレート色で飾られ、鮮やかさに目が眩みそうである。
それらを眺めながら、春川は毎年よくやるなと素直に感心した。彼女のこれまでの人生においてバレンタインほど無縁であったイベントはないだろう。
「春川さんは百田くんにあげるの?」
「……………………」
きっとこの先も無縁なのだろうと思っていた。渡す相手など自分にできるわけがない。と、そう信じていたのだが、今年はそういうわけにもいかなくなってしまった。バレンタイン特集の組まれた雑誌を開きながら、にこにこと笑みを絶やさない赤松に捕まってしまったからである。
こうなることがわかっていたので、ここ数日彼女を避けていたというのに。とはいえ流石に一ヶ月近くも接触を断つのは、クラスメイトであり友人という関係上難しいものがあった。悲しそうに寂しそうに名前を呼ばれてしまったら、拒否することなどできない。
もしも昔の、あの記憶が蘇る前の自分なら断ることができたのだろうか。いや、そもそも友人関係にもならなかっただろう。
「……渡して何か意味あるの?」
「え!? そ、それはー……、」
「そもそも宇宙飛行士って体重管理っていうか、なんかそういうのあるでしょ。渡したところで食べられなかったら意味ないし」
「あ、あぁ〜〜、そういうことかぁ……」
しょんぼりとする赤松だが、春川の意見に納得することはあったのか、反論などをすることはなかった。これまでも同様の理由で食事制限をしていた百田を知っているからである。通常の食事でも調整しなければならないというのに、チョコレートなどを渡しても食べることができない可能性は高い。
けれども、あのイベントごとを大事にする彼である。バレンタインに女子からチョコレートを貰えば食べない訳もないし、相手が春川ならばそれは尚の事だと思うのだが。
「……女子のみんなでクラスの男子全員に渡すんでしょ? 私はそれでいいよ」
「えぇ〜……、百田くん絶対喜ぶと思うのに……」
やはり諦めきれずに言うものの、春川が応じる気配はない。自分が言えた口ではないが、彼女は相当な頑固者である。頬を膨らませながら、赤松は渋々引き下がるしかなかった。
これは明日から、春川にチョコレートを貰えなかったとしょぼくれるだろう百田を、慰めるための作戦会議を考えなければならない。先が思いやられるなぁ、という感想は寸での所で留めておく。
春川を巻き込めなかった以上、頼れるのはあと一人だ。ちらりと様子をうかがうように目を向ければ、彼女は赤松の用意した雑誌をペラペラと捲っている。伏せがちな顔からはあまり感情を読むことはできない。
「夢野さんは、その、どうする?」
当たって砕けろ精神で問いかければ、ふと顔を上げた夢野は小さく唸る。
「そうじゃの……、これが気にはなるのじゃが、買いに行くのはめんどいからのう……」
「へぇ、どれどれ? …………えっと」
夢野が指さした先を見れば、魔女がモチーフになったチョコレートが載っていた。それは明らかに異性へ送るものではなく、自分へのご褒美チョコや友チョコに選ばれるようなもので。
やっぱりかぁ、と赤松は苦い笑みを浮かべる。
「……赤松」
ぎろり、と春川から鋭い視線が突き刺さった。殺意こそないものの、中々に鋭利なそれは赤松を無言で責める。
春川の、夢野に対する過保護ぶりは想定していた以上に激しいものだった。それはもちろん夢野を大切に思っているからこそであるが、王馬への強い敵意も要因のひとつだろう。
才囚学園での出来事を思えば仕方がないことだ。けれども赤松としては、いくら当人同士の問題とはいえ放ってはおけなかったのである。
あの騒動が起きてそろそろ一ヶ月。二人の様子を見る限り、進展している気配はない。
「……わかったおるぞ、赤松の言いたいことは」
小さなため息を吐いて、不意に夢野が口を開く。内容を見ていないのか、ペラペラと止めることなく雑誌を捲りながら彼女は続けた。
「いい加減、返事をせねばならぬとは、自分でもわかっておる。しかし、上手く整理がつかんのじゃ」
王馬の気持ちは嘘ではない。真剣に夢野のことを想ってくれているのだろうことは、これまでの言動を見れば一目瞭然だ。だからその気持ちには必ず答えなければ、と思っている。
だからこそ夢野は、自分の気持ちがどうあるのかを必死に見定めていた。彼の気持ちに答えられるだけのものなのか、それとも。
「……それで、十分なんじゃないかな?」
「……んあ?」
うんうんと唸りながら、悩みに悩んでいる夢野。そんな彼女を暫く観察していた赤松は、優しい笑みを浮かべながら思ったままのことを口にする。
伝えられた言葉に返すだけの気持ちが自分にあるのか。その答えを導き出すために、夢野はこれまで時間があればずっと王馬のことを考えに考えて、考えている。それは真摯に気持ちを伝えてくれた彼へ、真摯に応えるためだ。
悩んで考えて答えを探している時点で、答えはほとんど決まっているようなものだろう。
「夢野さんは、王馬くんのこと好き?」
「ちょっと、赤松」
ついに真正面から問いかけ始めた赤松の名を、咎めるように呼ぶのは春川だ。いくら何でも踏み込み過ぎだと言わんばかりの彼女は、心配そうに夢野へと目を向ける。
「ウチは王馬のことが好きじゃぞ」
けれども予想に反して夢野はまっすぐに赤松を見据えていた。そこに迷いなどは見受けられず、彼女の放った言葉に嘘がないことを証明している。
驚いたのはもちろん春川だ。これまで抱えていた想いを捨ててしまったから、王馬の気持ちには応えられない。だから彼女はずっと悩んでいるのだと思っていたのだ。
けれども夢野の心にはまだ、残っているのだという。あの日抱えた想いと同じモノを、あの日とは違う彼に向けたモノが。
「ウチの中で、あの王馬をなかったことにはできん。それはどうしようもないことじゃ。しかし、それをあやつに押し付けたくはないのじゃ」
王馬が好きな夢野秘密子に、あの日の残像は被らない。けれども夢野が好きな王馬小吉からは、あの日の残像が消えることはないだろう。覆らない認識はやがて齟齬を生み出すに違いないのだ。
王馬が好きだと思っているから、大切にしたいと思うからこそ、夢野は答えを出しかねている。今のままでは確実に彼を傷つけることになるとわかっているからだ。
「それでもあやつは、ウチを許してくれるじゃろうか……」
ぽつりとこぼされた言葉は、夢野がこれまで抱え続けていた、大きな不安だった。一人でできる恋愛は自分のことだけを考えていればよかった。しかしその先へ進むには、相手のことも考えなければならない。好きな相手が自分に他の誰かの面影を見ているだなんて、もしも自分が反対の立場ならどう思うだろう。
そう考えたときに夢野が一番最初に抱いたのは、恐怖だった。本当に自分を好きでいてくれるのか、いつかは置いていかれるのではないかという、見えない未来への恐怖だ。
「…………許す許さないとか、どうでもいいよ」
何か声をかけようとした赤松よりも先に、春川の不機嫌極まりない声が上がる。驚いて顔を上げた夢野は想像以上に顰められていた顔に、より目を見開いた。
「アイツが夢野のことを勝手に好きなんでしょ。なんでアンタがそこまで気を遣うの」
「んぁ……、いや、勝手に好きなのはウチも一緒なんじゃが……?」
吐き捨てるように言う春川に、夢野は首を傾げながら答える。すると人間そこまで不機嫌な顔ができるのか、と感心するほど春川の顔が歪められた。
「あんな奴、困らせてやればいいんだ。これまで夢野のこと散々苦しめてきたんだから、今度は自分が苦しんどけばいいんだよ。自業自得なんだし夢野が気にすることじゃない」
「は、春川さん、流石にそれは言いすぎなんじゃないかな……?」
最原から例の話を聞いたあと、赤松は春川から夢野のことも聞いている。だから彼女が言わんとしていることはわかった。わかったのだか、あまりにも一方的で攻撃的な物言いに、ついつい言葉を挟んでしまう。すると、何か文句でもあるのか、と言わんばかりの視線が返ってきた。
根が深いなぁ、と飛び出そうになった言葉は飲み込んで、赤松は同意を求めるように夢野を見る。すると彼女はきょとんとした顔のまま固まっており、やがて考え込むような仕草を見せ始めた。
(あっ、これはよくない予感がする)
この流れで導き出される答えなど、恐らく一つしかないだろう。赤松は引きつった笑みを浮かべながら、不機嫌なままの春川と考え込み続ける夢野を眺めるしかない。
果たして春川の敵意しか感じられないアドバイスで事がどう転んでしまうのか。せめていい方向に向きますように、と強く願うしか赤松にはできなかった。
「お前、夢野に返事とか聞いてねぇのか?」
心底不思議そうな顔で問いかけてくる百田に、王馬はこれでもかと顔を歪めてみせた。顔を合わせるなり振られる話題ではない。それはたまたま居合わせた天海も同じだったようで、笑顔を引き攣らせながら百田を見る。
「……そんなんだから春川ちゃんにチョコ貰えないんだよ」
「あ? 貰えねーも何も、バレンタインはまだまだ先だろうが」
不機嫌そうに言う百田は、貰えると信じて疑っていないらしい。どうやら最原と赤松の『百田が春川からチョコレートを貰えなかったときの慰め会』は無事開催が決定したようだ。
知らないって幸せだなと思わずにはいられない。
「つか、話を誤魔化すなよ。お前聞くつもりねぇのか?」
「何でそんなこと百田ちゃんに言わなきゃいけないわけ? デリカシーって知らないの?そのご自慢の脳みそは飾り?」
「ま、まぁまぁ、一回落ち着くっすよ」
今にもケンカに発展しそうなところへ割り入るのはもちろん天海の役目である。いつもならば喧嘩両成敗、するのだが今回は明らかに百田の方が悪い。咎めるような目を向ければ、彼は唇を尖らせる。
「だってよぉ、心配になるじゃねぇか。終一もハルマキもそのことで気を揉んでるみたいだしよ」
「いやぁ……一番気を揉んでるのはお、」
「天海ちゃん」
ぎり、と脇腹をつねられる。鋭い痛みにうっかり悲鳴を上げてしまい、言葉は王馬が狙ったとおりに遮られた。百田が不思議そうに首を傾げるものの、すぐにまあいいやと呟く。
「お前がどういうつもりなのかは知らないけどよ、俺はお前のこと応援してるぜ!」
ニカッと笑いながらサムズアップをする百田。そんな彼へ白けた目を向ける王馬は、やがて天海の方を見たかと思えば満面の笑顔を浮かべる。
「天海ちゃんって次はいつ海外行くの? 行くならどこの予定なの?」
「あっ、こら! 無視すんな!」
天海の手を引いてさっさと歩き出す王馬は、既に百田の存在自体を無視することに決めたらしい。何を言っても聞く耳を持たず、困ったように笑う天海を手を引き続ける。
常ならばクラスメイトたちの仲が悪くならないよう立ち回る天海だが、やはり今回ばかりは百田の擁護ができそうにない。せめて彼にガツンと言ってくれる人、例えば最原や春川がいればよかったのにと周囲を探してしまう。
そんな最中に見つけてしまう、小さな背中。よりにもよってこのタイミングか、と思ったのは天海だけではないだろう。
「お、噂をすれば夢野じゃねぇか!」
「んあ? ……あぁ、何じゃお主らか」
朝の挨拶もそこそこに済ませれば、三人の顔をそれぞれ見比べた夢野は眉根に皺を寄せた。困っている、というより面倒くさがっているらしい。向けられる視線から、二人には何処かへ行ってほしいという願望が滲んでいる気がした。
しかしそれに気付いたのは、天海と王馬だけである。悲しいかな、何処かへ行ってほしい対象である百田は、先の会話の影響もあってか王馬を見るばかりで気付いていない。
「……まぁ、仕方あるまい」
追い払うことのほうが面倒だと考えたのか、夢野は溜め息を吐くとポケットから封筒を取り出す。ピンク色のそれはよくあるレターセットであったが、夢野にしては可愛らしい柄に思えた。
なんて考えている間に、封筒は王馬の胸元に押し付けられる。
「一人で見るんじゃぞ」
言うや否や、夢野は踵を返してその場から駆け出してしまう。そうして曲がり角へ消えようとしたときに一度だけ振り返り。
「絶対に! 一人で見るんじゃぞ!」
大声で叫んですぐ、小さな影は消えてしまった。残された三人は、ぽかんとしたまま固まり続ける。
やがて我に返った天海と百田は、手紙を押し付けられた王馬を見下ろした。
「はーーーーーーー……、帰ろ」
感情が一切湧いていない顔で、全く感情の読み取れない声で呟いた王馬は、踵を返して歩き出した。それを慌てて引き留めようとした二人であったが、するりと抜けていってしまった彼は、ふらふらとしながらどんどん遠のいていく。
やがて見えなくなってしまった王馬。呼び戻すべきか、それともそのままにしておくべきか。悩みに悩んで天海は突っ立ったままの百田の腕を引いて歩き出す。
もちろん方向は、夢野が消えていった教室のある方角だ。
王馬小吉 様
拝啓
寒さが肌をさす今日このごろでございますが、いかがお過ごしでしょうか。
さて、この度1月△日 19時より希望ヶ峰学園 体育館にて『夢野秘密子のマジカルショー』を開催させて頂くこととなりました。
ご多用中誠に恐縮ではございますが、ぜひご来場を賜りますようお願い申し上げます
敬具
関係者以外立入禁止、と書かれた張り紙の前で足を止める。達筆なそれは招待状の筆跡とは全く異なっており、協力者がいるのだと教えてくれた。
それもそうだろう、彼女一人でこうも大掛かりなことはできまい。体育館を長時間貸し切って、外から見えないように窓という窓を塞ぐなど。
「いらっしゃい、王馬君」
にこり、と微笑むのは東条だった。静かに開かれた扉の向こうより現れた彼女は、そう言うなり招待状を手に立ち尽くす王馬へ道を譲る。
「……一応聞くけど、東条ちゃんはこれ何か知ってるの?」
ひらひらと手にしていた紙を揺らして見せる。すると東条はきょとりとした後、含みのある笑みを浮かべて屋内へ目を向けた。
「いいえ、知らないわ。私はただ彼女から、体育館の貸し切り申請と、外部から見えないようにするための設営準備の手伝いを頼まれただけだもの」
「貸し切り申請するんなら、内容ぐらいは知ってるでしょ」
「……そうね、ショーをすることは知っているわ。でもその内容までは聞いていないもの」
あくまで東条は会場の使用申請と下準備を手伝っただけである。詳しいショーの内容はもちろん、これがどんな意図で開催されるのかも知らない。とはいえ招待客がたった一人の時点で察しはつくが、東条がそこへ踏み入ることはなかった。
要らぬ私情を挟むことは彼女の信条である、滅私奉公を破ることになる。
「ふーん……、そう」
東条の言葉に嘘はない。態度や言葉を注意深く観察してみてもそれは明らかだった。これ以上つついたところで何も出ては来ない。ならば揺さぶりも無駄だと判断し、王馬は招待状をポケットに捩じ込んで、東条の脇をすり抜ける。
ほとんど照明が落とされた体育館内を歩くのは、少しだけ勇気がいる。まだ暗闇に目が慣れていないため、足元に注意しようにも見えないのだからどうにもならない。何でこんなにも無駄に暗くしてるんだとぼやきたくなる。
それでも慎重に歩き続けていれば、背後で扉が閉まる音がした。振り返ってみたものの、やはり暗くて何も見えない。しかし消えた人の気配から、東条が退席したのだろうことを察した。
(……オレ一人か)
僅かに光の入り込んでいた扉も締まり、いよいよ体育館内は暗闇に包まれる。月の光も星の光も届かないほど、窓という窓は塞がれているらしい。流石東条の仕事だなと感心する反面、そこまでする必要はあったのかと疑問に感じる。
会場を暗闇にしなければならないだけなら、ここまでする必要はない。19時という時間ならば、街灯や月明かりが多少入るだろうが、十分暗くなるはずだ。何を目的として窓を塞いでいるのか。
もしかすると光の演出に何かあるのかもしれない。王馬は暗闇に慣れてきた目を頼りに、辺りを見回しながら考える。
「…………っ、」
舞台上に突如として現れるスポットライトに目が眩んだ。焼けるように眩しいそれは、王馬から再び視界を奪う。
どうしてこう極端なのか。小さな悲鳴が上がりそうなのを堪えながら、王馬は徐々に輪郭を取り戻していく世界を睨みつける。
「……ブサイクな顔じゃのう」
やがて鮮烈な光の柱に佇む、一つの影を捉えた。大きな鍔の三角帽に、先がくるりと丸まったショートブーツ。肩には内側が赤い黒マントを羽織り、宝石のようなきらびやかな石が付いたステッキを手にしている。
「……夢野ちゃんに言われたくないんだけど」
舞台の上、スポットライトの中にいたのは、ショーの主催者である夢野秘密子だ。相当眩しいのか、いつもの気だるげな顔がそこそこ顰められている。
ショーの演目ではなく、それを始める前の演出で自滅しかけるマジシャンがこれまでいただろうか。ある意味そこも才能だなと王馬は呆れつつも少しだけ感心した。
「やかましいわい。ほれ、早く席に着かんか」
「席って……、この椅子?」
王馬の指さす先にあるのは学園の備品であるパイプ椅子だ。窓を塞ぎ切るという重労働をするぐらいなら、もう少しいい椅子を用意できただろう。
力を入れるところが違うのではないか、と態度で訴えかければ返ってくるのは小さな呻き声。
「き、傷が付くから駄目だと言われたのじゃ……そこは我慢してもらうしかないというか……」
しどろもどろになりながら目を泳がせる。それが嘘を吐いてるからなのか、それとも気まずさからなのか。さてどちらかと見定めようとした王馬は、ややあって溜め息を吐く。
見定めて、どうするというのか。今更この椅子を変えられるわけもないし、ここまで来たからには帰るという選択肢もない。
この体育館を訪れたその時から、王馬のやるべきことは決まっている。そのためにあらゆる覚悟をして暗闇に足を踏み入れたのだ。
「……ほら、座ったよ」
勢いよく座れば、パイプ椅子はがたんぎしりと音を立てて軋む。強い衝撃で床に傷が付いたかもしれないが、王馬が気にすることはない。
「うむ、ならばよい。……よっこいしょ」
「……………」
王馬が座ったことを確認した夢野は、パタパタと舞台袖へ引っ込んでいく。やがて年寄り臭い掛け声とともに台車を引っ張り出してきた彼女は、それに乗せられていた大きな何かに掛かっている布を取り払った。
ばさり、と大きな音と埃を立てながら、布の下から飛び出すのは大きかったり小さかったりする箱である。
「……ねぇ、夢野ちゃん。もしかしてショーってもう始まってんの?」
「んあ? そうじゃが?」
がちゃがちゃと金具を弄る夢野は、振り返らず王馬の問いに答える。ショーの開催が宣言されることもなく、また雰囲気を出すための演出も効果も一切ない。
これまで彼女が行ってきたショーを考えると、お粗末という言葉では片付けられないほどショボいものである。
「音楽ぐらい流せば? 少しは雰囲気出るでしょ」
「これ、観客がショーに口を挟むでない」
ようやく振り返った夢野は口を尖らせた。手には何に使うのかわかる、ようでわからない道具が握られている。
「今日のショーは全てウチ一人でやらねばならん。魔法を披露するのに手一杯で、演出まで手が回らんのじゃ」
いつも開催しているショーでは、演出や効果を全て舞台スタッフに任せている。多くのスタッフたちと綿密な打ち合わせやリハーサルを繰り返すことでようやく、あのど派手で笑顔に満ちた舞台が完成するのだ。
たった一人で、あれと同じショーを披露することはできない。音響と光の演出は基本的に別室で行うものだ。舞台上からできなくもないが、ショーの最中はどうしても両手が塞がってしまう。仮にできたとしても、あちらもこちらも気にかけ過ぎた結果、どちらも失敗するという未来は想像に容易い。
ならば切り捨てられるものは切り捨てようとした結果が、これである。
「イマイチ盛り上がりにかけるんですけどー?」
「……大人しく待っておれんのか、お主は」
呆れる夢野はぼやきながらも、手にしていた白い布で両手を隠す。しばらくは隠された手をもぞもぞと動かしていた彼女は、咳払い一つを落とすと両腕を上げた。
舞い上がる布の中から飛び出してきたのは、白い鳩たち。ばさばさと羽音を立てながら宙を舞うそれらはやがて、夢野の肩やステッキに降り立った。衝撃で抜けたのだろう白い羽がひらひら落ちてくる中で、彼女は不敵に笑う。
「まぁ、すぐに文句も言えなくなるぞ。ウチの魔法の凄さは、お主も知っておるじゃろう?」
「それは認めるけど……、それはそれとして夢野ちゃん今の状態めちゃくちゃ面白いから写真撮っていい?」
「ならん! 大人しく見ておれ!」
大声に驚いたらしい鳩たちが一斉に飛び立つ。けたたましく夢野から離れていったそれらは、間もなくして体育館の梁部分へととまった。静まり返る体育館には時折、くるると鳴き声が響く。
「あのさ、どうしてオレ一人なの?」
微妙な空気が漂う中、先に口を開いたのは王馬だった。
いくらか考えてみたものの、ショーが開催された理由も観客が一人である理由もいまいちつかめない。準備の念入りさを考えれば、まさか気まぐれというわけでもないだろう。
「……前にしたショーは地味だったからのう。だから改めて、というわけじゃ」
前、というのは間違いなく、夢野の自室で行われた小さなショーのことである。確かにあのときはテーブルマジックが主であり、先程のように鳩が飛び出ることも大掛かりな道具を使うこともなかった。
それでも十分に楽しめたのだが、夢野には何かが物足りなかったらしい。だから改めて、王馬一人に向けたショーの開催を決めたのだろう。
ここでようやく王馬は徹底的に塞がれた窓の意図を察した。あれは『王馬一人に向けて開催するショー』を実現するため、外部から見られないよう東条が準備したのだろう。どこから誰の目があるかなどわかるはずもない。
ならば見られないようにすればいい、だなんて随分と強引な手段を取ったものだ。
「おほん、とにかく! ショーはまだ始まったばかりじゃ。目をよぉ〜くかっ開いて見るのじゃぞ!」
ステッキを振り上げれば、肩に掛けていたマントがばさりと翻る。それと同時に頭上から降り注ぐのは色とりどりの花の雨。
一体どこから取り出したというのか。目の前に落ちてきた花を拾い上げた王馬は、やがてステージへと目を向ける。
ばちりと、目があった。輝きに満ちた瞳はしっかりと王馬を捉えて離すことはない。
「……よく、見ておくのじゃぞ」
念を押すよう静かに囁いた夢野は、再度ステッキを振りかざす。スポットライトは変わらずたった一つ。音楽も演出もなく、後ろに並ぶ道具のせいでショーの演目は丸わかりだった。
それでも王馬は何を言うこともなく、休む間もなく繰り広げられる魔法を眺め続ける。先程拾い上げたばかりの花を握りしめたまま、脳裏を過ぎっていく都合のいい考えを何度も何度も否定しながら。
舞台の上で仰々しく礼をした少女に向けられるのは、会場が割れんばかりの歓声と拍手喝采。豪雨のように降り注ぐ紙吹雪のせいで、気を抜けば小柄な姿など一瞬で見失いかけそうだった。いくら演出とはいえやり過ぎではないかと思うものの、これまで繰り広げられたショーと場の盛り上がりを考えれば過剰になるのも無理はないだろう。
やがてゆっくりと顔を上げた少女は、不敵な笑みを浮かべたかと思えば観客へ向けて言葉をかけた。すると会場は今まで以上にどっと盛り上がる。アンコール、なんてコールまで飛び出す始末だ。
「……すっご」
超高校級のマジシャンとは、いかほどの実力を持つのか。そんな興味本位から探し当て手に入れたマジック、もといマジカルショーの映像。あまり期待せずそれを鑑賞していた王馬は、予想を遥かに上回る演出にいつの間にか前のめりになっていた。
少女の手が生み出すマジックの数々は、魔法だと言われても納得できるほどの高度なテクニックが用いられている。一体どんなトリックが隠されているのか、何度か映像を戻して観察してみるものの、真相に辿り着くことはできない。
「さすがは超高校級ってことか」
広報用に撮影されたため、現地で見るよりも彼女との距離は近いはずだ。にも関わらず、必ずあるはずのトリックは存在を匂わせることすらない。
心の底から感心し、けれど見破れなかったことが悔しくて堪らなくて王馬はつい何度目かのリピートを実行してしまう。
「…………………」
舞台の上で踊るように動き回り、様々なマジックを披露する彼女はどの瞬間でも笑っていた。楽しそうな、時に不敵な笑顔につられ、観客たちにも笑顔が溢れていく。
(…………そんな顔もできるんじゃん)
自分の魔法で皆を笑顔にすることができたら、と満面の笑顔で語る横顔。鳴り止まない拍手と賛辞を小さな身で受け止める彼女は、確かに輝いていた。
それは誰かの顔色を伺いながら逃げるように教室を出ていく横顔とは重ならない。あんな、何かに耐えるような顔よりも、舞台に立っている笑顔の方がよっぽど。
「あーーー…………、」
自然と続きそうになった言葉に王馬は自分の頭を抱えた。じわじわと湧き上がる、言葉にし難い感情が連れてくるのは抑えようのない熱。そんなまさかと自分の心を疑いたくなる、がその自分のことを一番わかっているのは誰かと言えば。
のそりと顔を上げ、付けっぱなしにしていた画面を見つめる。そこでは何度見たかわからない、会場が割れんばかりの歓声を受けて満面の笑顔を見せる少女がいた。
「しかめっ面なんかより、笑ってたほうがよっぽどマシな顔してんじゃん」
負け惜しみのように絞り出した言葉は、画面の向こうに届くわけもない。未だ鳴り止むことのない拍手の嵐。それを聞き流していた王馬は漠然と、はにかむ少女のことをおもった。
ぽつり、ぽつり。頭に体に紙吹雪をくっつけた夢野が仰々しく頭を下げれば、はらりひらりと舞い落ちる。即席で作ったのだろうそれらは、いつも彼女に降り注いでいるものと違い全てが不格好だった。
静まり返る体育館に響くのは、一人分の拍手。早くもなく遅くもない、一定のリズムで鳴らされる音は時間が経つに連れて徐々に小さくなっていく。
やがて何も聞こえなくなったところでようやく、夢野はゆっくりと頭を上げた。
「これでショーは閉幕じゃ。……最後まで見てくれたこと、感謝するぞ」
僅かに笑みを浮かべた彼女は、たった一つの客席へ向けて静かに語りかける。
何もかも、全てが一方的なショーだった。来るかどうかの返事も聞かず、用意した椅子に座るよう指示し、有無を言わさずに延々と演目をこなす。相手のことなど微塵も考えていない、自分勝手で独りよがりのショーだ。怒られても詰られてもおかしくはない暴挙である。
しかし王馬は怒ることも詰ることも、途中退席することすらなく椅子に座り続けた。文句や野次など飛ばすこともしない。ただじっと、静かに夢野を見つめ続けていた。
「…………理由を聞かんのか」
スポットライトから見る王馬の顔は暗く、よく見えない。けれど突き刺さる視線から今もなお、夢野を見つめているだろうことは窺えた。
訪れる、何度目かの静寂。呼吸をするのが辛くなるほど張り詰めた空気の中、耳へ滑り込むのは掠れた声だ。
「聞いていいの?」
相変わらず表情は読めない。けれど張り詰め続ける空気が、いつもより覇気の感じられない声が、緊張しているのだと教えてくれた。いつもは飄々として掴みどころのない彼を緊張させているのは、他の誰でもない自分なのだろう。
これはきっと、自惚れなどではない。
「元々そのつもりじゃ。……いい加減、返事をせねばならんと思っておったからのう」
ぴくり、と空気が揺れる。それは僅かばかりの動揺が引き起こしたものであったが、すぐさま張り詰めた空気が戻ってきてしまった。
しかしその一瞬が引き出せたのなら十分だと、夢野は小さく笑む。何度か深呼吸を繰り返し、躊躇い続けていた一歩を踏み出すため、改めて王馬へ向き直った。
「結論から言えば、ウチは王馬のことが好きじゃ」
あり得ない世界で出会った彼も、何事もない世界で出会った彼も。わかりにくいが優しい嘘で、いつだって夢野を導きながら守ってくれていた。
あれだけ違うと思っていたが、やはり彼らは同じ王馬小吉なのだろう。だからこそ夢野はどちらにも惹かれ、だからこそどちらかを選ぶことなどできなかった。
「最初はお主に失礼じゃと思っておった。あの王馬とお主は違う、重ねるなど傷付けるだけじゃろうとな」
好きだと伝えられて嬉しかった。嬉しかったから、自分の優柔不断な心が許すことができない。こんな中途半端な気持ちでは、王馬の真っ直ぐな気持ちに答える資格すらないと思っていた。
けれどもこれまで、王馬がもう一人の自分を重ねられたことに怒りを顕にしたことはない。今の自分を見ろと言いはしたが、過去の自分を忘れろとは一言もこぼしていないのだ。
「実際のところ、お主がどう思っておるのかはわからん。しかし今もあの告白を嘘だと茶化すことも、取り下げることもしておらんじゃろう?」
中途半端で優柔不断な夢野を怒ることもなく、急かすこともなく、近からず遠からずな位置で王馬は見守り続けている。この関係は恐らく、彼女が納得する答えを見つけるまで続くのだ。誰に何を言われようとも、王馬はずっと待つのだろう。
そんな優しさに気付いた時、夢野の答えはもう決まっていた。
「……ウチは、王馬が好きじゃ。才囚学園で出会ったあやつも、希望ケ峰学園で出会ったお主も。ウチは『王馬小吉』が好きなんじゃ」
夢野秘密子にとっての王馬小吉は、どちらか一つではない。死んでしまった彼も王馬小吉であり、今目の前にいる彼もまた王馬小吉だ。そもそも切り離して考えようとしたことが間違いだったのである。
とはいえこれは、夢野のワガママな主張だった。どちらも知る彼女にとっては都合のいい、あちらを知らない彼には知ったことではない話だ。そんな屁理屈が通じるとは、正直今でも思っていない。
「言ってることめちゃくちゃだけど、自覚ある?」
がたん、と音を立てながらパイプ椅子が倒れた。と同時に座っていた影がゆらりと立ち上がり、舞台へと近付いてくる。
「自覚は、あるぞ。自分でもどうかと思っておるぐらいじゃ」
間もなくしてひらりと舞台へ上がる王馬は、夢野を照らし続けるスポットライトの下へ入り込んだ。そうして逃げ腰になりそうなのを必死に堪える少女を無表情に見下ろして。
「でもさ、そのめちゃくちゃなところはオレ、嫌いじゃないよ」
にい、と王馬は笑いながらそう言った。てっきり怒られるか何かされると思っていた夢野は、ぽかんと口を開けたまま固まる。
「よ、よいのか? ウチはきっと、あの王馬を忘れることはできんのじゃぞ? お主はそれで、」
「いいよ。忘れるなんてしなくてもいい」
喋り続ける夢野の言葉を遮りながら言えば、彼女は力ない声を上げながら黙り込む。しかし困惑しきっている顔が、意図を探るような視線が、飲み込まれた言葉の続きを語っていた。
「そりゃあ、オレの知らないオレも込みで好きなんてさぁ。やっぱりいい気しないよ」
「や、やはりそれなら、」
「だったらさぁ、そいつのことをオレが超えちゃえばいいんだよ」
「んぁ……、んあ?」
不安げな表情が、じわじわと怪訝なものに変わる。言葉にはされなかったが、突き刺さり続けていた視線がどういうことかと訴えてきた。
相変わらず鈍いな、と前置きもそこそこに王馬は夢野の両手を手に取る。
「今はそいつとの思い出のインパクトでかすぎて、オレの影が薄いんでしょ? だからこれからは、それを超えるぐらいの思い出作ってあげるよ」
「理屈はわかるが、具体的にど、」
手にとっていた両手を勢いよく引けば、油断していた夢野はあっさり前滑りになる。途端に悲鳴が上がりかける唇を塞いでやると、彼女はびくりと大きく震えて固まってしまった。
ゆっくりと離れていく熱。あの時の、衝動に任せたものとは違う。今の王馬には確固たる意図を胸に抱いていた。
「……ね、今のでオレの方がインパクト強くなったんじゃない?」
「…………ん、あ、あぁ〜〜〜〜!?!? お、おう、おぬし、いまき、きき、……!!」
がちがちに固まっていた夢野は、王馬からの問いかけに我に返ったかと思えば、これでもかとひっくり返った声を張り上げた。あまりの大音量に耳を塞ぎたくなるが、そんなことをしてしまえば彼女の両手を離さなければならない。
今はまだ、離したくはなかった。大パニックに陥っており、何故逃げられないのかわかっていない夢野をもう少し見ていたかったし、それに。
「好きだよ、夢野ちゃん。容赦なんてしてあげないから、覚悟しててね」
にししと笑いながら告げてやれば、夢野は顔を引きつらせながら真っ赤にしたり真っ青にしたりと忙しい。じりじりと足だけが逃げるものの、すぐに限界は訪れる。
間もなくして逃げることを諦めたらしい夢野は、盛大なため息を吐いた。ジトリと恨めしい視線を向けてくる彼女は、不意に握られたままの手を握り返す。
「少しは、手加減をするんじゃぞ……」
そうでないと心臓がもたん、と続ける夢野は首まで肌を真っ赤に染めている。恥ずかしくなってきたのか、ゆっくりと視線をそらし足元へ落として。ごにょごにょとまだ何かを呟き続ける。
「ねぇ、夢野ちゃん」
呼びかければ、渋々ではあるが落とされた視線が王馬へ向けられる。素直に応じるところを見るに、あんな不意打ちが二度も三度もないと思っているに違いない。
素直なのはいいことかもしれないが、警戒心がないのはどうなのか。そう思いつつも、自分の呼びかけに躊躇うことなく受け入れてくれる夢野のことがどうしようもなく。
「好きだよ、夢野ちゃん。これはホントだよ」
湧き上がってきた衝動のままに抱き寄せれば、可愛げのない悲鳴が上がった。そうしてすぐにでも暴れそうな彼女の耳元で囁きを落とせば、背中を叩くために振り上げられた拳がゆっくり降ろされる。
やがて力の抜けた手のひらは、叩くはずだった背中へ降りる。添えられた指先がほんの少しだけシャツをつまんで。
「ウチも、王馬のことがす、好き、じゃぞ」
今にも消え入りそうな声で夢野はそう、答えた。