深夜の60分一本勝負 01【真夜中:育成計画】
暗闇の中でちかちかと光るものがあった。あまりの眩しさに目を覚ました夢野は、重い腕を持ち上げてそれを手繰り寄せる。ホームボタンを押せば、先の光など可愛らしく思えるほど強烈な光が網膜を焼いた。ゔ、と可愛らしくない声が出る。女らしさのかけらも無いものだったが、ここにそれを咎める者はいない。
唸り声を上げながら目が慣れるのを待つこと数分。ようやく文字を認識できる程度には覚醒もした夢野の目にまず飛び込んでくるのは、たった一文だけ。いつもはやかましい程この上ないというのに、こういうときだけはしおらしいのだからなんというか、そう。
「ずるいぞ、お主は」
身をよじりながら起き上がれば、眠る前にはなかった人影がひとつ。ぼう、と窓の向こうを眺めていたその人は、話しかければ夢野へ目を向けてきた。いつだって何を考えているのかわからない彼だが、今日はいつもに増してよくわからない。表情からも瞳からも感情の揺れを感じられなかった。
手にしていたスマートフォンを放り、夢野はのそのそと王馬の横へ腰掛ける。まだ冬の真っ只中であるため布団の外は死ぬほど寒かった、けれども。
「……何か喋らんか、王馬」
もたれ掛かりながら話しかければ、ずしりと重さが返ってくる。それが何を意味しているのか、わからないほど夢野は鈍感でも馬鹿でもなかった。
ベッドに置かれたままの手をとって握りしめる。固くて冷たいそれは、ひくりと動いた後にやんわりと夢野の指を絡め取った。
「あっつ……赤ちゃんかよ……」
「……せめて子供体温と言わんか」
ふふ、と頭上から降ってくる笑い声は柔らかく、漏れた言葉にも嘘はないのだろう。やわやわと強弱を付けながら握られる指先は、体温が混ざり合いすっかり温い。
「それで、何しに来たんじゃ」
ぎゅ、と一際強く握りしめた後に斜め上へ顔を寄せる。するとぴくりと指先を跳ねさせた彼は、面倒臭そうな顔で溜め息を吐いた。ちらと視線だけを未だ明滅を繰り返すランプへ向け、次いで斜め下へ顔を寄せる。
「何って、夢野ちゃん理解力なさすぎでしょ……」
至近距離になったにも関わらず、お互いに避けることも逃げることもしない。じとりとした目で探り合うように見つめ合うばかりだ。
そんな無駄な時間が続くこと数分。先に音を上げたのは夢野の方だった。つい先程まで眠りに落ちていたので、まだまどろみから抜け切れていないのである。このまま睨み合っていても、寝落ちてしまうだけだと、そう判断してのことだ。
「じゃあ本当に、会いに来ただけなんじゃな?」
「最初からそう送ってるじゃん」
呆れたように言われるが、これまでの行いを少し振り返ってほしいものである。なんて思うものの、そんなことを言い出したら不毛なやり取りが延長されるだけだ。夢野は喉まで出かかった溜め息を飲み込んで王馬へと擦り寄る。
「何、眠いの?」
顔にかかった髪をさらりと掬い上げられる。掛けられる声は夢野を心底労るもので、不覚にもどきりとしてしまった。
しかし襲い来る眠気の強烈さに、ときめきもすぐに息絶えてしまうのだから仕方がない。
「……いま、なんじじゃと、おもっとるんじゃ」
先程スマートフォンのディスプレイに表示されていた時刻は、日付をとっくに超えていた。明日は久々のオフなので夜ふかししてもこれといって不都合はないが、もしも仕事であったならば夢野はメールも本人も無視して眠っていただろう。
こくりこくりと船を漕ぐ夢野。それでも王馬の手を離すことはなく、柔い力で握り続けている。
「……ね、今日泊まってっていい?」
囁くように問うてみれば、寝ぼけた眼が彼の姿を捉えた。やがて可愛らしい顔をしかめ、不思議そうに首を傾げる。
「そのつもりで、きたんじゃろ?よいぞ……好きにせい……」
後半になるに連れ小さくなる声だったが、王馬はしっかりと彼女の言葉を聞いた。その投げやりな言葉を言質として押さえ、本当に好きにしてもよかったのだが、今日はそんな気分ではない。
全体重をかけてくる夢野の体をゆっくり倒し、抱え上げる。中途半端に捲られたままのシーツを足で蹴飛ばし、二人分のスペースを確保して。
「おやすみ、夢野ちゃん」
寝入ってしまった少女の額に頬に、そっと自身の唇を寄せる。くすぐったいのか小さな唸り声が上がったものの、起きる気配はない。それに少しだけ安堵して、王馬は夢野をベッドへと横たえる。そうして彼女の横を陣取って、シーツを被せればあとは眠るだけだ。
すやすやと警戒することなく眠りこける幼い顔。寒いのか、暫くすると擦り寄ってくる一回り小さな体を抱き寄せてやれば、僅かに身じろぎをする。
けれども夢野は決して、王馬から逃げることはしない。
(……キミは知らないんだろうなぁ、絶対)
たったそれだけのことで十分なのだ。無自覚の優しさと意識していない甘さ。それをなんの躊躇いもなく与えてくれる彼女のことが、どうにも。
温かく柔らかい体温に包まれて、王馬はまぶたを下ろした。明日の朝、起きたときに夢野は一体どんな反応をするのだろう。照れるのか、怒るのか、それとも全てを許してくれるのか。
どれであってもいいな、とまどろみに沈みながら王馬は今一度擦り寄る体を引き寄せた。
【月:育成計画】
太陽も沈みきり、ただでさえ暗い夜空はいつもよりも黒く染まっている。ざあざあと降り注いでいる雨粒は冷たく、温度という温度を低くしていた。あちこちにできた水溜り、街灯に照らされて艶めく植木の葉。そこに映る自分の顔はとんでもなくブサイクであった。
昼間の天気予報では降り出すのはもっと遅いと告げていたはずなのに、ご覧の有様である。落としたため息は白く広がるもののすぐさま夜に消えて。数日前から育んでいた期待も同じように削れて消えていく。
「……何でよりにも寄って今日なんじゃ」
耐えきれなくなって恨みがましい声を漏らせば、隣に立っていた気配がひょこりと夢野の視界へ飛び込んできた。
「え〜?この雨も夢野ちゃんの魔法で降らせたんじゃないの?」
そう信じて疑わない、といった顔で言う王馬は首を僅かに傾けている。微塵も魔法だと思っていないくせに、よくもまあ無邪気な顔で言えるものだ。
ギロリと鋭い睨みを向けてやる。けれどもその頃には王馬の視線は空へ投げられており、夢野のことなど興味がないようだった。
(…………阿呆らしい)
何だか急に、全てがどうでもよくなるほど虚しくなる。自然と下がっていく視線はやがて足元へ辿り着き、可哀想なほど濡れてしまった靴を捉えた。この日のためにと選んだお気に入りだったのに、とぼやきたくなる。
今日は何年かにある、月が特別綺麗に見える日なのだと朝のニュースで知った。ただでさえ『月』というものは魔法使いにとって特別なものだというのに、それがより一層特別になるのなら見ないという選択肢はない。数日前からわくわくと胸を躍らせながらこの日を待っていたのだ。
(罰が当たったのかのう……?)
王馬と共に見に行くことになったのは、いつものからかい言葉に焚き付けられた結果である。マナを溜めることができるのだと言い張る夢野に、じゃあ本当なのか見せてよなんて彼が言うものだから。ついつい挑発されるまま共に出掛けることになってしまったわけで。
けれどもそれは夢野にとって思わぬ誤算であり、そして嬉しい展開であった。
密かに想いを寄せている相手と、特別な月を見に行く。それはつまりデートと言えるものではないだろうか。相手にその気は、悲しいかなこれっぽっちもなかっただろう。けれどもそんなことはどうでもいい。
好きな相手と共に出かけることができる。たったそれたけで夢野の期待は膨らみに膨らんで膨らみきって、つい数分前に破裂した。
「それにしても寒いよね。どーすんの、この後」
顔をしかめながら言う王馬は、責めるように夢野へ言葉をかける。棘のある言い方に虚しさが募るものの、彼の言うことも最もであった。このままずっとここで雨宿りをしていても仕方がない。
とはいえ傘など持ってきていない二人に残された選択肢は、ここで待つか濡れて帰るかの二択のみだ。どちらかがコンビニまで走って傘を買いに行ってもいいが、そこまでするほどの雨足ではない。
「んあぁ……どうしたものか……」
指の先から冷えてきたことを感じながら、夢野は恨めしげに空を仰ぐ。地上に雨を降らす分厚い雲の向こう側で、煌めき輝く月があるのかと思うと悔しくてならない。
当初の目的を考えれば、雨が止むだけでは足りないのだ。雲が晴れ、特別なのだという月が顔を出さなければ、今日という日の意味がなくなってしまう。
こんなとき、本当に魔法が使えたらいいのに。下唇を噛みながら俯く夢野の目頭は、徐々に熱を帯びていく。
「……………月はさぁ、見えなかったけど」
不意に横から声が掛けられた。凹みきっている夢野はまた責められでもするのかと、より一層頭を下げる。
けれども両頬を包んてきた両手が強制的に上を向かせたことで、彼女は嫌でも王馬の顔を見ざるを得ない。
「うわっ、ブサイクな顔っ」
「誰のせいじゃ!」
ぎゅう、と柔く力を込められていることで、両頬から内側へ向けて顔が寄っている。そんなことをされたら誰でもブサイクになる、と夢野は思い切り冷たい両手を振り払った。
「やだなぁ、そんなに怒んないでよぉ〜。オレはちゃんとこの後どうするか、提案しようとしてたんだからさ〜」
「…………本当か?」
疑いしかない目を向けられても尚、王馬はにこにこと笑っている。そこがまた怪しく思えるし見えるのだが、今に始まったことではない。多少の警戒は残しつつも夢野は王馬の言う提案を聞くことにした。
「この雨足だし濡れて帰るのもいいけど、濡れ鼠で帰ったら東条ちゃんのお説教コースでしょ?そんなの地獄じゃない?」
「それは、まあ、そうじゃのう」
東条は心配してくれているからこそ叱りつけてくるのだとわかっている。その気持ちは有り難いのだが、目的を果たせずに帰るだけでも相当凹んでいるというのに、そこへお説教も追加されてしまったらしばらく立ち直れそうにない。
「で、あそこ。ちょっと走ったところにあるアレ」
「んあ?……おぉ、コーヒーショップではないか」
有名チェーン店のコーヒーショップには、夢野も何度か訪れたことがある。少しでも馴染みがある店を前にして彼女の顔も明るくなった、のだが。
「それがどうしたのじゃ?」
「…………そんなに月が見れなかったのがショックだったの?」
頭働かせなくてもわかるでしょ、と呆れるように王馬は言う。その言葉にムッとするものの、すぐに彼が言いたかったことを悟り、恥ずかしくなった。
雨が止むまでの暇つぶしの提案にと指差されたコーヒーショップ。そこで何をするかなど、王馬の言うとおり考えなくてもわかることだ。
「とりあえず温まろうよ。もちろん、夢野ちゃんの奢りでね!」
「んあぁ!何でそうなるんじゃ!」
突然手を握ってきたかと思えば、王馬は小雨の中を駆け出した。そのまま手を引かれる夢野は、ときめく隙も与えられず駆け出すしかない。
ばしゃばしゃと水溜りの中を走る二つの影。騒がしい声を上げる彼らは、やがてコーヒーショップあるの方へと消えていく。
特別な月を見ることは叶わなかったが、それでもいいかなんて不思議と思えた。お気に入りの服も、お気に入りの靴も濡らしながら。駆け抜ける雨の夜は間違いなく、二人の記憶に残るのだろう。
【太陽:育成計画】
午後の授業も終わり、生徒たちが己の才能にかかる特訓や研究を始まる放課後。クラスメイトたちが汗を流して笑ったり泣いたりしている中、セレスは食堂で優雅なティータイムを過ごしていた。
彼女の持つギャンブラーという才能は、勝ち抜くための特訓も研究も必要ではある。しかしそれらはあくまで技量を磨く術でしかない。セレスの才能を活かすために大切なものは、対戦相手の心を読み取る分析力と洞察力。また場の空気を操作するための臨機応変さと嘘なのだ。
才能を磨くにしても賭け事をする相手がいなければ意味がない。日常の駆け引きなど些細なもので、セレスが常に身を置いている世界での駆け引きとは比べ物にならないほどちっぽけである。
そういう理由から、彼女はいつも放課後に暇を持て余していた。まっすぐに寄宿舎に戻るのもいいが、毎日それではつまらない。なので食堂に人気がないときはこうして一人、紅茶に舌鼓を打つのである。
「ほら、夢野ちゃん早く選んでよ!」
「んあぁ……急かすでない……!」
いつもは静まり返っている食堂に響く、幼さが残る2つの声。常ならば滅多にやってこない小さな影たちは、机を覗き込んでああだこうだと言葉を交わしている。
折角のティータイムだというのに、とんだ邪魔が入ってしまった。最初こそ嫌悪感すら抱いていたセレスであったが、ふとあることを思いつく。
(お二人とも、嘘がお上手ですものね)
うんうんと唸り声を上げている夢野は、日常生活では可哀想なほどお粗末な嘘しか吐けない。しかし舞台上に上がった彼女は、あの嘘が下手くそな少女と同一人物かと疑うほどのショーを披露する。丁寧に隠されたトリックと錯覚を引き起こす演出。まるで魔法だと観客に信じ込ませる演技には目を見張る者がある。
早くカードを選べと急かすのは王馬だ。嘘つきだと自称するだけあり、彼の言葉にはあまり信憑性がない。しかしそれらの嘘へ巧妙に織り交ぜられた本音や誘導で、場の空気を操れるほどの技量はあるのだ。
そういえばまじまじと観察をしたことはなかった、とセレスは暇を潰すために二人へ目を向ける。
「ん〜〜〜……、うむ!これじゃ!」
やがて大きな声を上げながら夢野が机に並べられていたカードを手に取る。すぐに手元へ目を落とした彼女は、やがて胸を張りながらふふんと笑った。
「こんなにいいカードが出たのじゃ!ウチの勝ちじゃな!」
「たはー、そんないいカード出しちゃうなんて、夢野ちゃんてば運を使い果たしたんじゃない?明日事故にでも遭うかもよ」
「んあ!?え、縁起でもないことを言うでない!」
ちらり、と見えたのはタロットカード。太陽が描かれたそのカードが持つ意味を、セレスはよく知っていた。また掲げている様を見るに正位置だったようなので、夢野が自慢をするように掲げたのも頷けるというものである。
とはいえそれも、とセレスはけらけらと笑いながら夢野をからかう王馬へ目を向けた。
「と、とにかく!これでウチの勝ちじゃぞ!今日のジュースは王馬の奢りじゃ!」
「あー、はいはい。わかったからそんなに興奮しないでよ」
溜め息を吐きながら立ち上がる王馬。そんな彼に対して夢野は満足そうに頷き、嬉しそうに太陽が描かれたカードを眺めている。
「そんなに気に入ったなら、それあげるよ。オレはもう必要ないしね」
「んあ?そうか……いやお主のことじゃ、なにか企んでおるんじゃろ」
「やだなー、オレってばそんなに信用ない?」
今にも泣き出しそうな王馬を見てギョッとした夢野は、慌ててフォローを入れ始めた。しかしそのフォローも大声で泣かれたらうるさいし面倒くさいからだろう。現に彼女の顔には罪悪感など微塵もなく、面倒くさいといった心境が滲み出ていた。
しばらくは他愛ないやり取りをしていた二人だったが、いつまでも動かない王馬に痺れを切らした夢野が憤慨したことでそれも唐突に終わる。ぶつぶつと文句を言いながら食堂を出ていこうとする王馬は、不意にセレスへ目を向けた。
「何?」
「……何も。やっと静かになると思っていただけですわ」
にこりと微笑んでやれば、王馬もにこりと笑みを返してきた。けれど細められた目蓋の向こうからは探るような視線が向けられている。
やはり彼には気付かれていたらしい。だからどうということはないが。
「あっそ。じゃあ、オレ行くから」
「アーサー・エドワード・ウェイトをご存知ですか?」
さっさと出ていこうとした足が止まる。ちらりとだけ向けられた視線からは僅かばかりの敵意が滲み出ていて。
あら怖い、とセレスは口元に手を添えて微笑む。
「現実になるといいですわね」
「…………余計なお世話だし」
不機嫌そうに呟いた彼は、やや乱暴な足音もそのままに食堂を出ていった。席に残された少女が怪訝そうにこちらを向いていたが、セレスは気付かないふりもそのままに紅茶へ口をつける。
首を傾げたまま食堂の入り口を見つめる夢野。選ぶカードを誘導されていたことも、そのカードに隠された願望も知ることもないのだろう。
「道程は長そうですわね、とても」
回りくどい方法しか取れない王馬の未来に、果たして『太陽』は輝いているのだろうか。セレスは堪えきれない笑いを上品にこぼしながら、最後の一口を飲み干した。
【卒業式:育成計画】
卒業シーズンといえば桜が咲いているイメージがある。しかし実際にはそんなことなどなく、高校の卒業式は3月の初めということもあり、桜などほぼ枯れ木の様だ。頬を打ち付ける風はまだ冷たく、春の訪れなど微塵も感じられない。
だからといって、何か特別な感情を抱くことはなかった。味気も色味もないのは仕方のないことである。今更じたばたしたところで、桜が気を遣って咲くことなどないのだ。ないものが欲しいと駄々をこねた分だけ、ただ虚しいだけだろう。
「それでは、転子は朝日奈さんたちにご挨拶へ行ってきますね!」
「アンジーもちょっと席を外すぞ〜」
「うむ。では、ウチはここで待つことにするかのう」
三年間、共に過ごしたクラスメイトと同級生。己の才能から交友関係はそれぞれ異なっており、最後に声を掛ける相手はもちろんバラバラだ。駆け出していってしまう友人二人を見送った夢野は、ふうと小さな吐息を漏らしながら備え付けのベンチに腰掛ける。
見上げた空は快晴。冷たい風もなく、穏やかな太陽の光は心地よい。このままここで昼寝をしたら気持ちが良さそうだなあ、なんて考えている彼女の横へ腰掛ける気配が一つ。
「……ウチに何の用じゃ?」
「人と話すときは相手の目を見なさいってママから教わらなかったの?」
目を向けずに問いかければ、返ってくるのは棘も皮肉も隠さない言葉だ。無視をすればよかったか、とぼんやり考えながら視線を下ろせば、満足そうに笑う王馬と目が合う。
「卒業式だっていうのに、こんなところに一人で何してんの?……あぁ、そっか。夢野ちゃん友達いないもんね」
にしし、と笑いながら言う彼の瞳には、やはり隠されていないからかいの色が見える。
三年間という短くも長い期間で、二人が会話を交わした回数はそうなかった。いつも王馬がからかいの言葉をかけると、かならず茶柱や他のクラスメイトたちが割入ってきたからである。
夢野が反論するよりも早くに他の者が言葉を返してしまうので、同じことを喋るぐらいなら黙ったほうが早く終わるだろう。そう考えて会話をほとんどしないまま至った今日。
初めて二人きりで並んだ、ような気がした。
「……そういうお主こそ、こんなところでウチにちょっかいを掛けるなど余程暇なんじゃな」
「オレが暇?冗談言わないでよ、そんなわけないじゃん」
不機嫌そうに言いながらも王馬は席を立たない。へそを曲げれば鋭角な揶揄を言葉に乗せ、それを突き刺してさっさと立ち去ると思っていたのだが。はてどうしたものかと夢野は己のつま先へ目を落とす。
はしゃぐ声、泣き声、激励の言葉。同じ空間にいるのにあまりに遠い音は、まるで別の世界から聞こえているように思えてならない。
「夢野ちゃんはさ、卒業したらどーすんの?」
不意に隣から聞こえてきた声に顔を向ければ、王馬は真正面を向いたまま夢野を見る様子がなかった。先程自分で言ったことをもう忘れたとでもいうのか。少し憤りを感じながらも、彼女は彼に倣って視線を真正面へ向ける。
「そうじゃのう……。まぁ、今までと変わらず各地でショー三昧じゃろうな」
卒業後も夢野へ寄せられる、ショー開催の依頼は途切れることはない。超高校級のマジシャンから、希望ヶ峰学園を卒業したマジシャンの夢野秘密子に肩書きは変わるものの、これまでよりも箔はついた。むしろもっと忙しくなるかもしれない。
その公演の最中で、失踪した師匠探しを続けるつもりだった。いつか出会えると信じる気持ちは、入学当初から変わりはない。
「お主こそ、卒業したらどうするんじゃ?」
「オレは悪の総統なんだよ?これからは闇の世界で生きていくんだから、そう簡単にこれからどうするかなんて教えるわけないじゃん」
馬鹿だなぁ、と笑いながら夢野を見る。自分から話題を振っておいて何なのだ、と今度こそ彼女の胸の内に憤りがハッキリとした形で湧き上がった。
けれども心のどこかで、きっと教える気はないだろうなとも思っていた。結局のところ、王馬の言うことが本当かどうかなど夢野にはわかりっこない。
「野垂れ死にせんように、精々頑張ることじゃな。……縁があればまた会うこともあるじゃろ」
あれほどハッキリとしていた憤りが霧散する。ここで何を言ったところできっと、いや間違いなく暖簾に腕押しなのだ。ならば当たり障りのない餞別の言葉を掛け、それに怒るか飽きるかして去ってくれればいい。
仄かな願いを込めて言い放った夢野は、盗み見るように王馬へ視線だけを向けた。そこには。
「……王馬?」
ベンチには彼がいつも首に巻いていたスカーフが残るのみだった。何度か名前を呼んでみたものの、反応どころか気配すらない。置き去りにされたスカーフを手に立ち上がり、辺りを見回すがやはり姿は見当たらなくて。
「夢野さん!お待たせしましたー、ってどうしたんですか?」
「いやその……、転子よ、王馬を見んかったか?」
駆け寄ってきた茶柱に、夢野はつい問い掛けていた。もしも顔を合わせていれば、男子嫌いの彼女ならまずいの一番に文句を漏らすと知っているというのに。
すると茶柱は首を傾げ、やがてハッとしたかと思えば夢野の肩をガッチリ掴んだ。がくがくと揺らしながら血相を変える彼女の反応から、聞かずとも答えは知れた。
「まさかあの男死!夢野さんに何かしたんですか!?この卒業という門出の日になんて事を!!」
「て、転子よ違うのじゃ……!話を聞かんかぁ……!」
握りしめいたスカーフから、ひらりと落ちるメモ用紙。それに気付くと同時に、頭に血が上った茶柱は夢野を置いて王馬を探しに行ってしまった。そうしてぽつりと残された彼女は、くらくらする頭を抱えながらも落ちたメモを手に取って。
「……………て、転子よ!ウチも一緒に探すぞ!てん、転子ぉ〜〜〜〜!」
走り書きの言葉と数字の羅列。それが指し示す意味を理解した夢野は、弾かれるように駆け出した。脳裏をよぎるのは先ほど交わした言葉の数々。思い出せば思い出すほど、散ったはずの憤りが戻ってくる。
「言っていることとやっていることが違うではないかぁ!」
力の限り叫んだ言葉は、果たして王馬に届いただろうか。握り締めたスカーフとメモはすっかりぐちゃぐちゃになってしまったことに夢野が気付くのは、もう少し先の話。
【旅行:育成計画】
ガタンゴトンと規則的に揺れている車内で、夢野は二つ前の駅で買った駅弁に舌鼓を打っていた。折角の長旅なのだからと奮発して買ったのは、この地方で有名な和牛を使ったものである。冷めた状態でこれなのだから、きっと出来たてはもっと美味しいに違いない。一度は食べてみたいものだ、と添え物の漬物をぽりぽりと咀嚼する。
大きな窓の向こう広がるのは、絵に描いたようにのどかな田園風景。いつだったか、師匠と共にこんなところで小さなショーを開いたことを思い出す。その時もこうして電車に乗り、駅弁に舌鼓を打っていた。とても愛しくて懐かしくて、今となっては切なくなる思い出である。
「夢野ちゃん、牛カツ嫌いなの?なら俺がもらっちゃうね」
「やめい!そんなわけがあるか!」
隣から伸びてきた箸から弁当箱を遠ざければ、つまらなさそうな声が飛んできた。その声の主をジト目で睨みつけながら、夢野は溜め息を吐く。
「……お主、自分の分も食べ終わっていないではないか」
夢野と同じ駅弁の中身は半分も残ってはいない。けれども先程奪われそうになった牛カツは、唇を尖らせる彼の胃へ収まりきっていないようだった。食べ切っていて足りないのならまだしも、どうして他人の物に手を付けようとするのかこの男は。
また奪われそうになっては堪らない。しんなりとした衣のカツを頬張りながら、夢野は隣に座る少年を睨みつけ続ける。
「そもそも、なんで王馬がここにおるんじゃっ」
平日のローカル線には人もまばらで、現に夢野たちがいる車両には彼ら以外の姿は見当たらない。それを確認した上で彼女はやや強めに、責めるように問いかける。
地方でのチャリティーショーを依頼されたのは一ヶ月前のことだ。学園から離れていることもあり、数日間の公休届を出し、旅行カバンを引っ提げて意気揚々と電車に乗ったのが二時間前のこと。さあどうやって暇を潰そうと窓際の席に座って五分後、夢野の隣に腰掛ける影が一つ。
「だからぁ、たまたまだって。オレも組織の仕事でこっちに用事があったんだよ」
ぎょっとする夢野など構いもせず、他に空いている席があるにも関わらず、王馬は彼女の隣から動く気配はなかった。何度か逃げようと試みたものの、彼自身やら彼の旅行カバンやらに阻まれ続け、今に至っている。
早く降りろと願わずにはいられない。けれど恐らくこのままこの状態は続き、降りる駅を共にするのだろうという予感が夢野にはあった。
「こんな片田舎に何の用事があるというんじゃ」
「さてね。何だと思う?」
「……知らん。興味がない」
「たはー!夢野ちゃん、今日はいつも以上に手厳しいね!」
社内アナウンスが次の駅名を告げる。間もなくすれば無人なのだろう駅に到着し、まばらな人の流れが窓の外に見えた。そうしてドアが閉まった後、走り出す列車は先程までと変わらずに規則的な音を立てる。
車内には変わらず、夢野と王馬の姿しかない。
「ねぇ、窓開けていい?」
「んあっ、聞く前から開けておるではないかっ!」
言いながら身を乗り出してきた王馬は、夢野へ了解を得る前に窓を開けた。途端に頬を撫でていく風は温かく、そして柔らかい。窓から差し込む太陽の光の穏やかさ、花を抜けていく緑の匂い。あっという間に静かな車内へ春が滑り込んできた。
窓の向こうには延々とのどかな景色が広がっている。たまに小さな道を走っていく車が遠くなっていき、やがて見えなくなって。
「静かじゃのう……」
ガタンゴトンと揺れる音も心地よく感じて、夢野はぽつりと言葉を漏らす。
学園に入ってからの生活は目まぐるしく、毎日がお祭り騒ぎであった。たまに一人にしてくれと思わないこともない。けれど師匠のことや他の心配事なんて考える暇も、寂しいなどと思う暇だってなかった。
しかしこうして一人、静かな車内にぽつりと座っていたらきっと思い出していたに違いない。忘れていた心細さを思い出して、怖気づいていた可能性だってある。
「……王馬よ、お主もしやウチのことを心配して付いてきたのか?」
今この瞬間までそれを忘れていたのは、隣に座って茶々を入れてき続けていた王馬の存在があったからだ。まさか、と期待を胸に問いかけてみれば、きょとりとした彼は心底嫌そうな顔をする。
「いくら何でも自意識過剰すぎでしょ……」
言いながら盛大な溜め息を吐く。果たしてその言葉が嘘なのか本当なのか、夢野には判断がつかない。
けれどこうした応酬をしているだけで、気が紛れるのは事実だ。掛けられる言葉は決して優しいものではなく、人の神経を逆撫でするものばかりなので思うところはあるが、それでも。
「礼を言うぞ、王馬よ。これはウチからの感謝の品じゃ」
何もないところから取り出したいくつものキャンディを握らせる。ふふん、と胸を張りながらそう言う夢野を暫く眺めていた王馬は、ちらと視線をずらした。
「飴の袋見えてるけど」
「んあっ!?そ、そんなはずは、」
「なーんてね!嘘だよ!」
ケラケラと笑いながら握らされたキャンディを頬張る王馬。そんな彼に対して、礼ぐらい素直に受け取らんか、と憤慨する夢野の口角は上がっていた。
ガタンゴトンと規則的に揺れている電車は二人を乗せて、線路に沿って進み続ける。静まり返っていた車内からはいつしか、笑い声が漏れていた。
【桜:育成計画】
恋のおまじない、などというものは基本的に信じていない。よく雑誌などに紹介されるものは、それらしいことを並べて、これで叶うのだと本人へ思い込ませるためのものだ。効力など皆無だろう。
そもそも本当に叶うのなら、ドラマや漫画のように苦労して恋をすることはない。幼心にその信憑性を疑っていた夢野は、年をとるに連れて疑惑を確信へと変えていた。
とはいえ、彼女とて年頃の女子高生である。友人たちと雑談する際は決まって、恋だの愛だのの話題になった。どちらかといえば行動派の彼女たちなのだが、恥じらう乙女心も手伝ってか『おまじない』に頼ろうとすることもある。効くわけなんてないのにね、と苦笑いしながらも、あわよくばと心のどこかで思っているのかもしれない。
「……まぁ、気持ちはわからんでもないがのう」
超高校級ばかりが集まる学園で恋をした、となればもちろん相手はその超高校級だ。常識人がいないわけではないが、その道のプロに匹敵する彼らは癖がとにかく強すぎる。正攻法のアプローチが通用する相手ではない。
なお自分も超高校級ではないか、という話は棚に上げておく。
「んあぁ……」
春休みに入ったものの、入学式典の準備やら仕事の準備やらで学園へ来ていた夢野は、淡い桃色の雨に降られていた。この調子では入学式典までに全て散ってしまうだろう。
そこそこ絵になる青空と桜のコントラストをぼんやり眺めること数分。夢野はふと赤松が口走っていたことを思い出す。
「こんなに落ちてくるなら楽勝じゃろう」
桜の花びらが落ちるまでにキャッチできれば、恋が叶うのだという話。小学生のときに本で見たと赤松は照れながら言っていた。
一体どこから生まれた話なのかは知らない。けれども夢野は暇潰しと、ちょっとした好奇心から手を伸ばす、ものの。予想に反して花びらはふわふわひらりと小さな手を避けて地面へ落ちた。
まあ最初だし仕方ない。そう気を取り直して伸ばした手に花びらは、乗らなかった。
「な、何故じゃ!?ウチはそんなに動いておらんぞ?!」
ただの好奇心はいつしか意地に変わっていた。あちこちを動き回り手を伸ばしては逃げられ、また移動して手を伸ばしては逃げられる。こんなに花びらを追い回す気はなかったし、もちろんムキになる予定もなかった。いつしか額に汗を滲ませていた夢野は、一度立ち止まり下唇を噛む。
これではまるで、奴との追いかけっ子を再現しているようではないかと。そんな歯がゆさがより、夢野の意地に拍車をかけていた。
「んあーー……、何故捕まらんのじゃ……」
「そりゃあ、無意識に捕まえようと力が入ってるからでしょ」
桜が降り注ぐ中、棒立ちする彼女へ掛けられる声が一つ。今この瞬間、最も見つかりたくなかった人物のものだった。
「折角の春休みだってのに、こんなところで何してんの?時間を無駄にするにも程がない?」
「や、やかましいわい……」
指摘されなくとも、そんなことなどとっくに自覚をしていた。呆れた態度を隠しもしない王馬へ、夢野は顔をしかめながら背を向ける。
正直なところまだ諦めきれない気持ちはあった。しかし彼の前でそれを続ける気には到底なれるわけもなく。とぼとぼと逃げるように歩き出した。
「あれ?夢野ちゃん、これ欲しくないの?」
「……もうよい。どうせ掴まえられんのじゃ」
ため息もそこそこに答えれば、ふーん、と言葉が返される。間もなくして近付いてきた足音は夢野を追い越して、ふと止まった。
「じゃあオレが、掴まえ方のコツを教えてあげる」
「んあ?」
にい、と笑みを深くしながら人差し指を口元に当てる。間違いなく何かを企んでいるのだろう雰囲気に身構えた夢野は、けれども一縷の期待を抱かずにはいられなかった。ついうっかり次の言葉を待ってしまう。
そんな一瞬の隙を前に、王馬は笑みをより深くした。口元に添えていた手を夢野の前に出し、そっと囁くように話し始める。
「こういうのはね、無理に捕まえようとするから逃げちゃうんだよ。ある程度、落ちるところを予測して、そこへ確実にやってくるようコントロールするんだ」
言いながら王馬は、二人の間にひらひらと落ちてくる一欠片へ目を向ける。つられてその桃色を見つめた夢野は、ひらひらふわりと無事に手のひらへ着地するのを見届けた。
やがて彼女は目を輝かせて、すごいと興奮しながら王馬を見上げる。その鼻息で花びらが飛びかけるものの、すぐに握り込まれたことで事なきを得た。
「ちょっとー!これで飛んでいったら夢野ちゃんどう責任とってくれるの!?オレの願いが叶わなくなったらキミのせいだからね!!」
「んあぁっ、す、すまん……!」
慌てて距離をとって謝ったところで、ふと夢野は投げつけられた言葉に違和感を覚える。けれどもすぐにその正体を掴むことはできない。ならば何度か反芻すれば答えに辿り着けるか、と考えに耽ろうとしたところで、唐突に手を取られた。
「……捕まえたいなら、焦っちゃダメだよ?確実に落ちてくるよう、考えて動かなくちゃ」
ね、と念を押すように微笑んだ王馬は、夢野の手のひらへ一欠片を置いて去っていってしまった。ほんのりと温かく柔らかなそれをぼんやりと見下ろして、数分。
「さ、桜の話、じゃよな……?」
まるで自分へ言い聞かせるように呟いた言葉に、返される答えはまだない。
【学園:紅鮭団】
窓を封鎖するために打ち付けられたあれやこれやのせいで、教室も廊下も常に薄暗い。電気があるため不自由をすることはないが、日が落ちてくるとやはり不気味に見えて仕方がなかった。トイレが寄宿舎内にあって本当によかったと、心から思う。
こつこつ、かつかつ。低いヒールの音を鳴らしながら前を歩く王馬を追いかけながら、夢野は封鎖された窓を見る。果たしてどんな意図から全ての窓は封鎖されたのだろうか。
「そんなに気になる?」
いつの間にやら歩みを止めていた王馬が窓を指し示す。一度はにこやかな彼を見やった夢野は、間もなくしてその目を窓へ戻した。
「この校舎内に閉じ込めるなら必要じゃろうが、そんなことはないじゃろ?何の為に封鎖したのか不思議での」
寄宿舎や一部の生徒のために用意された研究教室がある中庭へは自由に行き来ができる。夢野の言うように校舎内へ閉じ込めているわけでもないのに、このような封鎖は必要ないはずだ。
「なるほど、確かにちょっと変だよね。夢野ちゃんにしては冴えてるね」
「……にしては、は余計じゃ」
むす、と不機嫌そうにする夢野へ軽い口調で謝罪した王馬は、やがて踵を返して進み始めてしまう。どうやら探索活動、とやらはまだ続くらしい。
朝食も終えて自由時間に入る少し前。東条の片付けを手伝っている最中に、王馬から才囚学園の謎を探るための探索活動に誘われた。相手が相手なだけに面倒極まりないと一度は思ったが、一人で暇な時間を潰すよりかはマシかもしれない。
手伝いもぼちぼち終わり、いざ指定された集合場所へ赴けば待っていたのは王馬ただ一人だった。
「校舎の中は一通り見たね。じゃあ次は、中庭かな?」
一階から、百田の研究教室のある最上階まで。屋内をくまなく歩き回ってもなお、王馬の足は止まらない。少しは休憩してもいいだろうに、と夢野は棒になりかけている自らの足へ目を落としながら思う。
しかしそうは言い出せなかった。一度は付き合うと言ってしまった以上、投げ出すのもよくないだろう。またいつからか歩くペースが落とされていた。分かり辛くはあるものの、気を遣われているのだと気付いてしまったのである。
「……流石に休憩しようか?」
「んあ、まだイケるぞ……!」
寄宿舎を通り過ぎたところで、また王馬の足が止まる。何となく弱いところを見せたくなくて反射的に声を上げるが、ふーん、と見定めるような目が夢野へ突き刺さった。
「夢野ちゃんって足にバイブレーション機能を付けてたんだね〜。あ、それとも入間ちゃんに無駄な改造でもしてもらったの?」
厭味ったらしい言葉を添えて指差されたのは、がくがくに震えている二本の足。もう歩けないと訴えているのは、火を見るより明らかだ。
「……休憩、したいです」
「無意味な意地張らないで、最初からそう言えばいいんだよ。ほら、こっちおいで」
手を引かれて連れて行かれたのは藤棚の下。ベンチへ腰を掛ければ、どっと押し寄せた疲れが足だけでなく全身を襲う。
うう、と小さなうめき声を上げながら自らの足をマッサージする夢野。そんな彼女を眺めていた王馬だったが、暫くすれば真正面にそびえ立つ校舎へ目を向ける。
窓を封鎖する必要があったのか、という疑問は彼の中にもあった。あれは恐らく、いや間違いなく中庭への逃亡を防ぐために施されたものではない。外部へ校舎内の様子が見えないようにするため、でもないだろう。
ではあれは何なのか。何度も繰り返した自問自答だが、未だに有力な答えは得られていない。
「……それで、次はどこへいくんじゃ?」
「あれ、まだ付き合ってくれるの?」
疲れ切った声の問いかけにそう返せば、しかめっ面がよりしかめられる。
「ここまで来たんじゃ。中途半端に放り出すのも気持ちが悪いじゃろ」
「そう?夢野ちゃんがいいならオレは構わないけど、本当にいいの?」
「しつこいのう。行くと言ったら行くんじゃ」
頬を膨らませて怒る姿は幼い子どものそれと同じである。そんな反応だから子ども扱いをされるし、まな板ロリだなんて言われるし、王馬にからかわれる対象になるのだ。
でもそれを指摘してしまえば、夢野の面白い反応が見れなくなってしまうかもしれない。ならばわざわざ口にすることもないだろう、と王馬は彼女へ向ける言葉を胸の奥へと仕舞いこんだ。
「にしし、そうこなくっちゃね!じゃあ次はあそこに行こうかな〜?」
「んあ、カジノか?ふむ、確かにあそこは探索のしかいが、」
「違う違う。そっちじゃなくて」
言葉を遮りながら、夢野の言う施設の横を指差してやる。ど派手なネオンが真っ昼間でもギラギラとしたそこは、その名もラブアパート。
ぽかん、としていた夢野の顔が見る見るうちに真っ赤になる。はくはくと口を動かしながら、声にならない訴えを向ける彼女の手を握り、立ち上がって。
「付き合ってくれるんでしょ?今更、嘘でした〜なんて言っても聞かないからね!」
「んあっ、やっ、だってあそこに行くとは思っておらんかったんじゃ!」
「それはそれとして、これって何だかデートみたいじゃない?だったら行き着く先はやっぱり、ね?」
「な、なにっ、何を言っておるんじゃお主は!手を離さんかぁ!」
きゃんきゃん騒ぎ立てる夢野の手を引いて、やたらめったら大きな門へと近付いて行く。その足取りは決して軽いものではなかったが、一度も止まることはなかった。
あと数分もすれば、夢野の声は涙混じりのものに変わるだろう。それよりも少しだけ早くに振り返って、嘘だよと囁いてやるつもりだ。
あんな場所へ夢野を連れて向かう気など、最初からさらさらないのだから。
【入学式:育成計画】
ふと思い立って部屋の掃除をしていたら、引き出しの奥から出てきた少し大きめの封筒。さっぱり覚えのないそれを最初こそ不審に思ったが、中身を覗いてみれば何てことはない写真が数枚入っていた。
そういえばこんなこともあったと、懐かしさを誰かと共有したくて鞄に突っ込んたのが一昨日のこと。いつの間にかノートの間に挟まっていたそれは、事もあろうに王馬の前で再び姿を現した。
「うわっ、夢野ちゃんガッチガチじゃん!ちょっと笑えないレベルなんだけど」
「……言いながら笑っておるではないか」
相変わらず言葉と行動がちぐはぐな男である。だからこそ嘘だとわかるのだが、こうやってわかりやすい態度であるときは大抵ツッコミ待ちしているときだ。その通りの反応を返すのは癪だが、しなければ話が進まないことを知っている。
ジト目で言葉を返してきた夢野へ、王馬は満足そうな笑みを向けた。にしし、と笑いながら別の写真へ目を落とした彼は、再びああでもないこうでもないとわかりやすい嘘八百を並べだす。
「もうよい。返さんか」
「え〜〜、やだよ!こんな初々しくて可哀想な夢野ちゃん、もう見れないんだもん!」
希望ヶ峰学園の入学式は、超高校級の写真家である小泉が撮影係を努めた。プロを唸らせるほどの腕前を持つ彼女の手によって撮影されたにも関わらず、写っている夢野の顔はすべてが引きつっている。伝わる緊張は尋常ではなく、見ていると段々可哀相に思えてくるほどだ。
「たは〜!この写真なんてヤバイよ!ほら、こんなに縮こまって顔引きつってる」
「……それは、そうなるじゃろ」
差し出された写真には、大神の隣に立っている夢野が写っていた。確かたまたま近くにいたから、なんて流れで撮影されたものだった、気がする。
涙目で大神の様子を窺う夢野の姿は、どの写真の中でも一層可哀想に見えて仕方がない。なんてったって写っている本人すらそう思うのだから。
「は〜、こんなに面白いことになってるんなら、オレも近くにいればよかったなー。何でもっと早く言ってくれなかったのさ〜」
「……この写真に写っておる人間が、初対面の他人に話し掛けられるように見えるか?絶対無理じゃろ」
「それ自分で言い切っちゃうんだ……」
からかいの目から哀れみの目に変わった王馬から写真をひったくろうとするものの叶わず。自分の醜態ばかりが写っているそれはいつ取り戻せるのだろうか。夢野は悔しさのあまり漏れ出す唸り声もそのまま、睨みをきかせる。
しかし王馬の態度が変わることはない。にやにやと未だお目にかかれていない、彼がよく言うつまらなくない写真を眺め続けている。
「……からかう材料なんて、もうないじゃろ」
「そんなことないってぇ〜。まだまだ言いたいことはたくさん、あるから、ねー……」
一瞬の間と止まる手。それまでのニヤケ顔はそのままであったが、言葉は明らかに先程までの勢いが失われている。
「何じゃ、そんなに変なものでも写っておるのか?」
怪訝な顔のまま首を傾げる夢野だったが、ふと合ってしまった目線にドキリとする。あまり見たことのない、彼の真剣な眼差しに晒されて、どうにも居た堪れない。
ふい、と視線を逸らして逃げたはいいものの、どうして今このタイミングでそんな顔をしたのかが気になった。けれども逸してしまった手前、すぐに顔を上げるのもどうなのかと悩んでしまう。
うんうんと唸ること数十秒。ええいままよと顔を上げた夢野は、引き抜かれた一枚がポケットへ吸い込まれ終わる刹那を目にした。
「…………王馬よ、お主今何をしたんじゃ?」
「は?何が?」
片眉を跳ね上げながら王馬が返してくるので、まさか見間違いかと言い淀む。しかし夢野は自らの洞察力に多少の自信はあった。超高校級としてスカウトされた魔法使いの目を舐めないで欲しい。
「何って、写真じゃ。お主今、一枚抜いたじゃろ」
「え〜〜〜?そんなわけないじゃん!誰がこんな見てるこっちが居た堪れなくなる写真欲しがるってんだよ!」
「そ、それは否定せんが……、いや、やはりウチの目は誤魔化せん!やはりお主は一枚引き抜いておる!何ならウチの魔法で暴いてやるぞ!」
鼻息も荒く言えば少しだけ王馬の顔色が変わった、気がした。けれどそれも束の間のことで、すぐに挑発的な笑みを夢野へ向ける。
「できるもんならやってみなよ。ま、夢野ちゃんのトロ臭さでは無理だろうけどねー!」
「あっ、こら待たんか!やっぱり抜いておったんじゃな!王馬ぁ!」
さっさと逃げてしまう王馬の後を追おうとするが、残された写真を放っておくわけにはいかない。夢野は歯痒さを抱えたまま、それらを封筒へと仕舞い込んだ。尽きない溜め息も程々に、夢野はぽつりと呟く。
「まぁ、何を盗られたかは小泉に聞けばわかるか……」
とぼとぼと歩き出した夢野は知らない。抜き出された写真にいるのが緊張で身を固くした自分ではないことを。恥ずかしそうではあるが柔らかな笑みを浮かべた自分がいることも。
数日後、目を丸くする小泉から聞かされるまで知る由もなかった。
【靴:紅鮭団】
一体どこで引っ掛けたのか、先が丸まっている特徴的な靴は変な方向へ裂かれていた。とはいえ致命傷ではないので寄宿舎へ戻る分には問題ないだろう。そこまで行けば自室のクローゼットに腐るほどスペアがあるのだ。
ただ、いかんせん歩きにくい。力を抜けばすっぽ抜けそうになり、かといってずっと力を入れていると足がとんでもなく疲れる。それでもしばらくは中途半端に足へぶら下がる靴と格闘しようと試みた。けれども極度の面倒臭がりである夢野がその時間に堪えられるわけもなく。
ようやく校舎の入り口までたどり着き、寄宿舎まであと少し。立ち止まった夢野は目の前に続いている舗装された道を眺める。
「……うむ、大丈夫そうじゃな」
しゃがみ込んで破れた靴を脱ぐ。タイツのまま降りた地面は想像以上に冷たくて小さく肩が跳ねた。
そうしてちぐはぐな足元もそのままに歩き出した夢野だったが、背後から聞こえてきた低い声に動きを止める。恐る恐る振り返れば、ドン引きした顔で自分を見ている王馬がいた。
「……な、何じゃ」
「何、はこっちの台詞だよ。まさか本当にそのまま寄宿舎まで行くつもり?」
よりにもよって一番見られたくない人物に見られてしまった。引きつる顔、引いていく血の気。それをどこか他人事のように感じながら口を開けば、信じられないものを見る目が向けられる。
「し、仕方なかろう!破れとるんじゃから!」
「破れてたのはキミが研究教室から出てきたときからでしょ。ここまで来たんだから最後まで行きなよ」
片手にぶら下げていた、もう使い物にならない靴を掲げる。すると王馬は呆れたようにそんなことを言うので、夢野は押し黙るしかなかった。
確かにこの靴へ違和感を覚えたのは、研究教室で新しい魔法の研究を終えた後からである。やけに歩き辛いなと足元を見やれば不格好な亀裂が入っていたのだ。
「……ん?お主、何でそれを知っておるんじゃ?」
まさしくその通りで反論もできない、と思いはしたものの。ふと違和感に襲われて問いかけてみれば、頭の後ろで手を組んでいる彼はにししと笑った。
「いやー、適当に言ってみたんだけど当たるもんなんだね!まさかドンピシャなんて、オレってば魔法の才能が開花したのかな?」
「んあ、適当じゃと……!」
「なんてね、嘘だよ!魔法なんてチート能力使えちゃったらゲームもつまんなくなるからね〜」
けらけらと笑いながら夢野を追い越していく王馬。その視線と声は小憎たらしいほど楽しそうなもので、からかわれているのだと嫌でも思い知らされた。
頬を膨らまし不服の意を無言で主張した夢野は、止めていた足を動かし始める。ずんずんと進む中で足の裏を襲う鋭かったり鈍かったりする痛み。舗装されているとはいえ小石は転がっているようだった。
「靴だけじゃなくてタイツにも穴開いちゃうよ〜?」
「……スペアがあるから平気じゃ」
「そうなんだけどさぁ〜」
「しつこいのう。何が不満なんじゃ」
珍しく煮えきらない言葉で絡んでくる王馬に痺れを切らして夢野は立ち止まる。眉をつり上げながら睨みをきかせれば、彼は両手を上げて降参を示すようなポーズをしてみせた。
「今ここで夢野ちゃんが足を怪我してみなよ。茶柱ちゃんがとんでもなく暴れる未来しかオレには見えないんだ。もしもこの場にいたことがバレたら……、明日の朝日は拝めないかもね」
「そ、れは……、否定できんな」
王馬がこの場にいなかったと嘘を吐いても、きっと茶柱は『そうなんですか、それはそれとしていちどキメさせてください』と問答無用で投げ飛ばすだろう。何せ彼には、ああでもないこうでもないと夢野を弄くり倒している前科があるのだ。
奇声を発しながらクラスメイトを投げ飛ばす友人の姿は容易に想像ができる。なるほど、だから引き留めたのかとようやく彼女は緊張感を解いた。
「王馬の言い分はわかった。しかし、どうするつもりなんじゃ?まさかウチをおぶっていくわけでもあるまい」
「当たり前じゃん。東条ちゃんのおやつをどか食いするような子を背負うなんて、考えただけでもゾッとするね」
舌を出しながら嫌がる王馬に思うところがないわけではない。しかし彼の言う通り、ここに来てから東条の作る料理もお菓子もぺろりと平らげている。
そろそろ制服のサイズが危ういかもしれないという予感があった。
「だからさ、オレの靴を貸してあげるよ」
「んあ?王馬の靴?」
はい、と足元へ差し出される靴。目を丸くして顔を上げればにこりと笑顔が返される。
「これ履いてスペアの靴、取っておいでよ。オレはここで待ってるからさ」
オレが夢野ちゃんの部屋に入って靴を取りに行くのはただの自殺行為だからね、なんて続けられてしまえば確かにその通りでしかない。
素直に借りるべきか、裏があると疑うべきか。しばらく考え込んだ夢野だったが、やはりタイツで歩き回るよりマシだろうと差し出された靴へ足を入れる。
「じゃあ、少しだけ借りるぞ」
「どーぞ」
ひらひらと手を振る王馬へ背を向けて歩き出す。一回り以上大きな借り物はがこがこと音を鳴らして。すっぽ抜けそうになるのを堪えながら、寄宿舎に辿り着いたところで夢野はようやく気付く。
「これでは先程と変わらんではないか……?」
からかわれたのだ、と鈍い頭で弾き出した答え。頭に血が上るのもそのままに大きな靴を放り出した夢野は、早急に文句を言うため自室へと駆け込んだのだった。
【ステッキ:紅鮭団】
超高校級のマジシャン、もとい魔法使いの研究教室はいつでも物で溢れ返っていた。ステージ用なのだろう大道具小道具、一目だけではただの小物に見えるもの。それらのほとんどは才能に関わるものだ、が中には魔法使い感を演出するためだけの物もある。
例えば一体何を煮込んでいるのかわからない大きな鍋だとか。
魔法使いらしさは申し分ないが、部屋のど真ん中に陣取っているそれを邪魔に思わないこともない。今日も今日とて魔法道具の手入れを行いながら、夢野はこの研究教室をレイアウトした誰かに不満を募らせる。
また困ったことに彼女の胸中を掻き乱すものはそれだけではない。二日ほど前からひょっこりこの部屋へやってくるようになったトラブルメーカーの存在だ。
「……邪魔をするなら帰れと言っておるじゃろう」
魔法道具を観察したり触れたり、少し目を離せばいたずらに弄ろうとしたりする。寄宿舎の自室に次ぐ自分のテリトリーであるはずなのにとんでもなく気が休まらなかった。
「え〜?今日はまだ何もしてないじゃん!」
「んあーっ、今日こそは!何もするでないぞ!」
不服そうに唇を尖らせる王馬を、夢野は眉を吊り上げながら叱りつける。けれども相手には全く響いていないようだった。はいはいと適当な返事をしながら、室内をあてもなく歩き始める。
二日前はアイアンメイデンに入って扉を閉めようとし、一日前は謎の鍋で煮込まれる得体の知れない何かを飲もうとした。悪の総統だと豪語する割にはやること為すことが小学生のようにしか思えない。
悪の総統だなんて大逸れたことを言っているが、ただの向こう見ずのバカではないか。なんて本音は反論されたときのことを考え、未だ胸の奥に秘めたままである。
「ところで夢野ちゃんは自分の杖とか持ってんの?」
一通り部屋の中を見終わったらしい王馬は、変わらず道具の手入れをしている夢野の横へ並び立った。不思議そうに覗き込んでくる無邪気な瞳。それを視界の中へ捉えた彼女は間もなくして、疑いに塗れた視線を向ける。
「何じゃ急に」
「ん〜?だってほら、魔法使いって自分だけの杖を持ってるじゃん。夢野ちゃんぐらいの大魔法使いなら持っててもおかしくないでしょ?」
にしし、と笑いながら王馬は期待を込めた声で続ける。からかうための前準備なのか単純に気になっているのか。どちらにしろ明るい未来は見えなかったので無視をするに越したことはない。
ないのだけれども、大魔法使いと呼ばれたことについつい心が揺らいでしまった。何しろ普段からマジシャンだと言われ続けており、魔法使いとして認めてくれる相手がいないに等しいのである。
十六人の中でも相当チョロいとされる夢野が調子に乗らないわけがない。
「ま、まぁ、そうじゃな!ウチぐらいの魔法使いとなれば、杖の一本や二本は持ってて当たり前じゃ!」
鼻高々に胸を張る夢野はもちろん気づいていない。かかった、と王馬が張り付けていた笑みへ意地の悪さを滲ませたことなど。
「へぇ〜、それはすごいね!ぜひ見せてほしいなぁ〜!」
「そ、そうか?……まぁ、特別に見せてやらんこともな、んあ!」
「ふーん、これがその杖なんだ?どっちかっていうとステッキだよね」
道具の山から取り出した金色のそれは、あっさりと夢野の手から王馬の手へと移動する。魔法を使った、というわけではない。ただ単に取り上げただけだ。
ここにきてようやく自分がまた騙されたことに気付いた夢野は、すぐにお気に入りのステッキを取り返そうとする。けれども王馬に腕力も知力も勝てるわけもない。いとも簡単にあっさりと躱されてしまった。
「んあー!返さんか!」
「まぁまぁ、すぐ返すからちょっと待っててよ。えーっと……、こうかな?」
ステッキの先端や中央を一通り弄った彼は、怒りに肩を震わせる夢野の方へそれを振りかざした。突然のことに驚いて頭を庇うように蹲るが、特に何も起きる気配はない。
「な、何をするんじゃ!神聖な道具を鈍器に使うでない!」
「そんなつもりはないよ。オレはただ、花でも出そうかな〜って思っただけだってぇ」
まあ出なかったけどね、とつまらなさそうに続ける王馬は手にしていたステッキを夢野へ突き出す。また何かするのではないかと恐る恐る手を伸ばすが、予想に反して先程以上のアクションが起きることもなかった。
つまんないの。言葉通りつまらなさそうに呟く彼の横顔からは、珍しく本心が垣間見えた気がした。
「……んあー、仕方のない奴じゃのう」
恐らくこれがパーティーグッズのようなマジック道具だと思ったのだろう。だから安易に花が出せるのだと少しだけ期待をした、のかもしれない。
だがこのステッキにはそんな仕掛けはなかった。だから何も起きないのは当たり前のことなのである。
「王馬よ。これは神聖な、魔法使いにとっては大切な道具なのじゃぞ」
「あー、はいはい。そうでしたね」
「じゃからのう、魔法使いが振りかざせば……、ほら!きちんと魔法が使えるのじゃ!」
軽やかに振り上げたステッキの軌跡からはらはらと落ちてくる花たち。色とりどりのそれを頭に乗せられた王馬はきょとんとした後、自らの髪へと手を伸ばした。
「本物だ」
「カーッカッカッ!ウチの魔法の力、思い知ったか!」
今度こそ、鼻高々に胸を張って高笑いをする。そんな夢野と花を見比べていた王馬は少しばかり悔しそうに目を細めるが、調子に乗っている彼女が気付くはずもない。
「うんうん、よく思い知ったよ!夢野ちゃんはこのステッキがないと十分に才能を発揮できないってことがね!」
「んあ?な、何故そんな話になるんじゃ!これがなくてもウチは魔法を使えるに決まっておるじゃろ!」
しかしそれもすぐに笑顔の下に隠して、王馬はいつもと変わらない態度で夢野をからかうのだった。
【クローバー:育成計画】
四つ葉のクローバーといえば幸福の象徴としてあまりにも有名な植物である。それをモチーフにした小物やら何やらは日本中に溢れかえっており、また自ら探し出して栞にするなんて物もいるらしい。
たまたま四つ葉になってしまっただけの三つ葉によくもまあそこまで入れ込めるものだ。それが見つかるまで帰らない、なんて言う同級生を暇な人間だなと放って帰ったことは遠い昔の記憶だ。
「夢野ちゃんってそういう俗物的なジンクスとか信じるタイプだったんだ」
人一倍面倒くさがりな夢野が、わざわざハンカチに包んで持ってきたもの。葉が折れ曲がらないようにと丁寧に置かれた四つ葉はまだ瑞々しさを見せている。
「ジンクスを信じとるわけではない。四つ葉のクローバーにはマナがより多く含まれておるから摘んできただけじゃ」
要は珍しくてそれっぽいから嬉々として摘んできただけではないか。そう指摘したところで夢野は屁理屈を捏ねてああだこうだと反論してくるだろう。穴だらけで論破のしがいがありそうな言葉で。
それはそれで聞いてみたい気もするが、楽しそうにクローバーを眺める様があまりにも幼く閉口する。背丈や容姿から必要以上に幼く見られがちではあるものの、言動まで幼くなってしまってはまるで小学生にしか見えない。
だから東条や天海などから子ども扱いされるのだというのに本人には全く自覚がないようだ。
「……それで、そのクローバーどうするの?」
水を差してもよかった。が、それて泣かれでもしたら茶柱の制裁は待ったなしだろう。感情をあまり表出さない夢野なので可能性は低いとは思うが万が一そうなれば無駄に痛みを負うことになるのだ。
そう、それを避けるためなのだと誰に言うでもない言い訳を胸中でする。何だかんだで彼女に甘いのだという自覚は喉元まで出かかったからかいの言葉と共に奥へと引っ込めた。
「うむ、そうじゃな。んあー……、深くは考えておらんかったのう」
「何それ。そのクローバー摘まれ損じゃん」
「い、今からきちんと使い方を考えるんじゃっ」
だから損などではない、と言い切って夢野は顎に手を置いて考え込みだす。ぶつぶつと尖らせた唇から溢れるのは栞だのアクセサリーだの様々な用途。けれどもしっくりするものがこないのか、傾げられた首はゆっくりと角度を増していく。
「無難に栞にでもしたら?ま、夢野ちゃんって読書しないから使い道ないだろうけど」
「うっ、そ、そんなことは……」
目を泳がせながらしどろもどろで王馬に反論しようとするが、図星を刺されて上手く言葉が返せるような器用者ではない。結局、何か言葉が跳ね返ってくることはなかった。
「……栞にする」
やがて難しい顔のまま夢野は呟く。あまり乗り気ではなかったようだが、それ以外の使い道を思い付けなかったのだから他に手がない。そんな心境がだだ漏れていた。
「なーんだ、本当に無難なものにするんだね。オレはてっきりマナの補充をするために食べるのかと思ったんだけど」
「そんなことをしたら腹を下すじゃろう」
「え〜、そこは魔法的な何かでパパっと治しちゃえばいいのに」
「……お主はウチの魔法を信じておるのかおらんのか、どっちなんじゃ」
呆れているのか怒っているのか。どちらとも取れる顔で溜め息を吐く夢野だったが、クローバーをハンカチで包もうとした矢先に指先を止める。
「そういえば、王馬はクローバーの花言葉を知っておるか?」
唐突にも程がある彼女の問いであるが、王馬も人のことを言えた立場ではない。またこうした突拍子もない話題の振り方は今に始まったことでは無いので、にこりと笑いながら言葉を返した。
「花言葉かぁ……、生きていく上で必要ないからね〜。もちろん知ってるよ!」
何を目的として聞かれたのかはわからない。だからこそ素直に嘘を吐いて反応を待てば、今度こそ呆れ返った表情で王馬を見る。
「お主のことじゃ。どうせ嘘なのかもしれんが……、まぁよい」
ごそごそとポケットの中から取り出したのはもう一枚のハンカチ。丁寧に折り畳まれたそれを開けば今度は三つ葉のクローバーが姿を表した。
「え……、夢野ちゃんもしかして数も数えられなくなったの?これ、四つ葉じゃないけど大丈夫?」
「そんなことわかっておるわい」
ぷく、と頬を膨らませた彼女はおもむろに三つ葉を手に取る。何をするのかと訝しげな顔で見守る王馬の前で、夢野の手により四つ葉と三つ葉のクローバーが重なった。
そうして葉を七つにしたクローバーの細い束が彼の手に握らされる。
「…………え、何?」
「何って、見てわからんか?七つ葉のクローバーじゃ」
「…………あぁ、そうだね」
いやいやそれはないでしょ、と脳裏ではあらゆる突っ込みが飛び交っていたが、実際に口をついて出たのはたったそれだけで。呆気にとられたのか、混乱しているのか。恐らくはそのどちらでもある理由から彼はただ握らされた即席の七つ葉を見つめるしかない。
「お、王馬……?」
固まったまま動かない王馬。まさかここまで無反応とは思っていなかったのか、恐る恐るといった様子で名前を呼んできた。
「一応聞くけど、これは何?」
どう知恵を巡らせても意図が掴めない。聞いたところで解決しない可能性は高いが聞かずにはいられなかった。
すると夢野は少し考えるような素振りをした後、じっと七つ葉を見つめる。
「お主のような偏屈者では、四つ葉では足りんじゃろうと思ってな。七つ葉であれば少しはお主も信じるじゃろ?」
「……ジンクスの話?それとも花言葉?」
「まぁ、どっちもじゃな。とはいっても即席じゃから効果は薄いかもしれんが、ないよりかはマシじゃろう!」
そう言って夢野は満足そうに笑った。何かいい事を言ったのだろう。その笑顔には半分ドヤ顔が混じっていた。
ジンクスはともかく花言葉には明るくない。これまで花とはほぼほぼ無縁の生活を送ってきたのだから、七つ葉のクローバーの花言葉など知らなくて当たり前だ。そう頭ではわかっているが、どうにも悔しいと思ってしまう。
「ウチは心が広い魔法使いじゃからのう。お主のことも気に掛けてやっておるんじゃぞ」
「ふーーーん、あっそう」
「……何じゃその言い方は。もう少し感謝せんか」
手にした七つ葉のクローバーは、ただの四つ葉と三つ葉のクローバーを重ねただけでしかない。けれど何かしらの意味があるというのなら捨てることなど出来はしなかった。
「じゃあ、いつか本物を持ってきてよ。そうしたら少しは感謝してあげる」
「ほ、本物……、そう、じゃな……本物……」
「あれ、できないの?」
「で、できるわい!魔法使いに不可能などないのじゃ!」
顔を青褪めさせながらもやけっぱちで言い切る夢野。きっと一生かかっても見つからないんだろうなと知りながらも、王馬はにししと笑いながら楽しみにしてるねと返す。
もしも本当に見つかったのなら、そのときは素直に喜んでやろうと心に決めながら。
【旅:紅鮭団】
カビと埃の臭いが嫌でも鼻につく薄暗い図書室。無駄に背の高い書架には、日本を代表する文豪たちの名がびっしりと並んでいる。
その前で一冊の本を手にぽつりと立ち尽くしている一人の少女。いつもに増して感情が乗っていない横顔は、すぐ近くまで寄ってきた人の気配に動じることはない。視界の端に映り込んでいるだろう靴も、突き付けられる鋭い視線も。まるで無いものかのように反応すら見せなかった。
「突っ立ったまま死ぬなんて器用だね」
両手は頭の後ろで組んだまま。感心したように声をかけてみれば、本を手にしていた指先がぴくりと揺れた。
けれども緋色の瞳は変わらずこちらへ向けられることはない。やたらと重厚な表紙へ走る、箔押しのタイトルへと落とされている。
銀河鉄道の夜。宮沢賢治の著書の中でも有名な童話作品だ。二人の少年が幻想的な世界をあちこち巡り、そして永遠の離別をする物語。
「キミ、童話とか好きなんだ。やっぱりこういうところからショーのヒントとか盗んでるの?」
ひょいと取り上げてやればようやく待ち望んだ視線が向けられた。けれども想像していたより二倍、三倍も恨めしい色が濃かったため、ほんの少しだけ面食らう。
「そんなに盗られたことが悔しかった?意外と負けず嫌いなんだね」
「…………そんな理由ではない」
じゃあどんな理由なの、と聞いてみたものの返事はない。いくらなんでもあんまりな態度ではないか。そう呟いてすぐ、駄々をこねる幼児のように泣き喚いてみせる。
これで少しはこちらに興味を持つか、と思いきや背を向けられてしまった。
はて、そう連続で無視をされるようなことを彼女へしただろうか。瞬時に涙を引っ込めて思い起こしてみるものの、まだ実行していないはずだという結論が出されるのみである。
「オレはこの話、好きじゃないんだよね〜」
手にしたままの本を開いて適当にページを捲る。パラパラと乾いた紙の音が、静まり返った図書室へ微かに響いた。
「カムパネルラのしたことって世間的には立派なんだろうけどさ。自分だけ助かった友人って奴は、どう思うだろうね?」
裕福で優等生、皆から好かれるカムパネルラ。自らの命を投げ打ってでも友人を助けた姿は、彼がどれほど立派な人間であるかを証明している。これから先、約束された未来が待っていたに違いない。
けれどもその立派な人間性が祟ってカムパネルラは命を落としてしまった。残されたのはジョバンニを心無い言葉でからかう、どこにでもいる普通の少年である。
きっと周囲の大人は言うだろう。カムパネルラが生きていればとよかっただろうに、と。この町で生きていく以上、その話はずっと影のように付いて回るはずだ。
「いつか、何で助けたんだってカムパネルラを逆恨みする日がくるかもしれないね。そう考えると悲惨な話だと思わない?」
にしし、とお決まりの笑い声を上げながら少女を見やる。今日初めてぱちりと合った目。真っ直ぐに見据えてくる瞳には笑顔を貼り付けた自分の顔が映り込んでいる。
「お主はカムパネルラの行いを愚行だと言うのか」
「……勇敢であることと無謀であることは天と地ほどの差がある。彼のしたことは、オレは後者だと思うよ」
ぱたん、と軽い音を立てながら本を閉じる。巻き込まれた空気が風となり前髪を少しだけ揺らした。
「……ではお主が、カムパネルラと同じような状況に立たされたらどうするのじゃ?」
こつこつと軽い足音を立てながら歩み寄ってきた少女は、優しい手つきでそっと本へ触れた。やがて伸ばされた指先は分厚い表紙を撫でていき、ゆっくりと包み込まれる。
「そんなの決まってるじゃん」
そうして彼女の手元へ戻っていった、銀河を巡る夢物語。大事そうに胸へ抱える少女の顔を一瞬だけ見つめてから、目を細めて弧を描くように口角を上げた。
「助けない。そもそも落ちたソイツが悪いんだ。オレは他人のために自分の命なんて使わないよ」
踵を返し、ひらひらと手を振りながら歩き出す。辿り着いた先にある大きな扉は、見た目の割りには軽いためすぐに開いた。するりと抜け出してしまえば、微かに軋む音を生み出した蝶番は元へ戻るため、自然に扉を閉めていく。
ゆっくりと見えなくなっていく本を抱えた少女の姿。変わらず真っ直ぐに向けられる視線が途切れる刹那、小さな唇からこぼれる吐息。
「うそつき」
恨めしく悲しげな緋色の糾弾がどれに向けられているのかはわからなかった。
【パンケーキ:紅鮭団】
質素な皿の上に重ねられたふわふわの黄金色。漂う甘い香り、立ち上がる湯気、くるると鳴る腹の虫。削られたバターは柔らかな山の上に乗せられた途端、音もなくじわじわと溶けていく。
とろとろと注がれるメープルシロップの滝。たっぷりのカロリーが染み込む生地はゆっくりとしぼみ続けている。今この瞬間、舌の上に転がしたときの軽い食感は死んでしまった。けれどもその代わりにじゅわりと広がる甘さと香ばしさは約束されている。
くるる、と再び腹の虫が鳴った。
「はい、お待ちどうさま〜」
三段重ねのパンケーキには生クリームと数種類のフルーツが添えられている。おまけにハチミツ入りのホットミルクを出されてしまったら、もう文句など言えるはずもない。むしろ百点満点だと褒め称えたくなるほどだ。
しかしそう素直に褒めようと思えないのは、この素晴らしいパンケーキを作ったのが東条ではなく王馬だからだろう。一挙一動、飛び出す言葉のほぼ全てが嘘で武装されているだけでも厄介だというのに、その内九割がいたずらに繋がっているのだから性質が悪い。
「……これは、本当にパンケーキなのか?」
「え〜?作ってたの最初から最後まで見てたでしょ?変なもの入れるタイミングなんてなかったってー」
それに台所で下手ないたずらをして東条ちゃんにバレたら今度こそオレの首が飛ぶよ、と息継ぎなしで続けられる言葉。それを聞いて夢野が思い出すのは、一昨日辺りに王馬が百田の夕食へ激辛ソースを忍ばせ、あわや喧嘩に発展しそうになったときのことだ。
ぎゃあぎゃあと言い争う二人の頭にげんこつを落とし、二時間ほど王馬を正座をさせた状態で説教をしていた東条の背中はチビりそうな程恐ろしかった。昨日の今日ではないものの、彼の言う通り下手を打てば今度こそ命はないかもしれない。
「んあー……、本当に大丈夫なんじゃろうな?」
「疑り深いなぁ。そんなに信用ない?」
「普段の行動を省みることもできんのかお主は」
ジト目で睨みつけてやれば、たはー、なんて笑いながら天井を仰ぐ。心当たりがないなどとしらばっくれる気はないらしい。
とはいえ反省する気はないようなので、やはり東条に一度と言わず二度も三度もシメられればいいのにと思わずにはいられなかったが。
「そんなに心配なら毒味しようか?その場合、使うフォークは一緒になるけど」
「んあ?フォークの替えなど腐るほどあるじゃろ」
「洗い物増えるの嫌だもん」
ね、と目をキラキラさせながら小首を傾げる。あざとい。自分の顔をどのように見せれば相手を魅せられるか、よくわかっている計算し尽くされた動きだ。
ゆっくりと伸ばされる少し骨ばった手。指先があと少しで夢野の指先へ触れようとしたところで、フォークは滑るように王馬の魔の手から逃げる。
「王馬のことじゃ。毒味などと言いながら半分以上も食べるつもりなんじゃろう?」
「ありゃ、バレちゃった。さすが夢野ちゃん、魔法でオレの心でも読んだの?」
さっくりフォークの先をパンケーキに沈める。断面からはじゅわりとろりと蜜が溢れて止まない。
「わざわざそんなことにMPを使っておらん。ただの経験則じゃ」
一口分に切り分けた黄金色を頬張る。舌の上で溶けていく生地、鼻から抜けていく香ばしさ、痺れてしまいそうな甘さ。専用ミックス粉で作られているのだから味はわかっていたはずだ。しかし実際に体験してしまえばこれまでの問答すら忘れそうになるほどの感動に襲われる。
流石、余程のことをしなければ失敗などしない魔法の粉。あの嘘つきで信用ならない王馬だって悪い意味で裏切ることのできない約束された味だ。
「ふーん。夢野ちゃんも少しはオレのことわかってきてくれたんだ?」
頬杖を付きながら王馬は薄く笑う。楽しそうな探るような、疑っているような瞳だった。
「……お主が期待するほどのレベルではないがな」
「ちょっと〜、そこは頑張ってオレの期待に応えてよ」
唇を尖らせる王馬の発言は無視をして、夢野は黙々とパンケーキを口に頬張る。お喋りが過ぎてしまい冷たくなりかけてはいたが、気になるほどではない。
やがて言葉だけで絡んできていた彼は、あまりにも反応がないことにへそを曲げてしまったようで。つまんねーの、と言葉を吐き捨ててキッチンへと消えていってしまう。やかてがちゃがちゃと聞こえてくる音は片付けのものか、それとも別の何かなのだろうか。
ホットミルク、というには冷めすぎてしまったそれへ口をつけながら夢野は目を伏せる。やはり王馬の考えていることはよくわからない。先程交わした会話だって、本当に彼が狙っていたことを当てたとは思えなかった。
「はぁ、美味いのう……」
そもそもの話、どうして王馬からパンケーキを振る舞われているか。そんな約束をした記憶もないし、もちろん強請ったわけでもなかった。自由時間をどう過ごそうかとふらついていた所で突然声を掛けられ、気付いたらこうなっていたのである。
一体何を企んでいるのか、何に巻き込もうとしているのか。やっぱりさっぱりわからなかったが、用意されたパンケーキが細工もなしに美味しいので、今はそれでいいかと夢野は考えを振り払う。
どうせ考えたところで王馬の思考回路など理解できないのだから。
【電車:育成計画】
ガタンゴトンと耳障りがいいような悪いような、しかしリズムは心地良い音が鼓膜を打つ。いくつも並んだ窓の無効に流れていくのは見慣れない都会の街並み。やたらめったら大きな看板には、隣のクラスのアイドルが営業スマイルでポージングを決めていた。
そういえばシングルが明日発売するのだと、彼女と同じクラスのチャラ男が騒いでいた気がする。ちょっと迷惑そうに笑っていたアイドルの顔はもう見慣れたものだが、毎度毎度あの男もへこたれないものだなと感心するものだ。
「夢野ちゃん、どうかした?もしかして酔った?」
ぼう、と何の目的もなく眺めていた車窓。目に入る看板の文字を追っていれば、ふと真横に気配を感じた。ちらりと視線だけを向けると眉尻を下げた王馬と目が合う。
「酔ってなどおらん。暇じゃから外を見ておっただけじゃ」
「そっか、ならよかった!公衆の面前でゲロっちゃうとか勘弁してほしいからね」
吐くときはちゃんとトイレに駆け込んでね、と言いながらにししと笑う。もう少し他に言いようがあるだろうにとは思うものの、全てわかっていて口にしているのだ。今も夢野が激高して声を荒げるのを待っているのだろう、瞳をきらきらと輝かせている。
ここが学園の中ならば夢野は王馬の思惑通り声を荒げていたに違いない。しかしここは電車の中、先ほど彼が口にした通り公衆の面前なのだ。それを忘れて騒ぎ立てるほど彼女も馬鹿ではない。
「夢野さん、本当に大丈夫?気分が悪くなったらすぐに言ってね?」
「んあー、平気じゃと言うとるのに。赤松は心配性じゃのう……」
「え〜?そう言ってこの前トイレに籠もったのは夢野ちゃんじゃん!」
「あれはお主がアホみたいに揺さぶったからじゃろっ」
二人の会話を聞いていたらしい赤松がすすすと近寄ってくる。心配そうに夢野の顔を覗き込む彼女は、王馬とは異なり心の底から労りの言葉を掛けてくれた。心配をされるのは正直なところ悪い気はしない。自然と漏れた笑みもそのままに言葉を続ければ、横から舞い上がりかけた心に水をぶっかけられる。
担任の教師から、間近に控えた体育祭の準備に必要な備品があるから買ってきてほしい。そう頼まれた学級委員の赤松と最原、たまたまそこを通り掛かってしまった王馬と夢野で学園外へ買い出しに行くことになった。今日は二回目のそれで、一回目に起きた珍事件によって買い損ねたものを求めて移動中である。
「だって夢野ちゃんが何買うか忘れたとか言うからさぁ〜。揺さぶったら思い出すかな〜って思って?」
「そんなことしなくても僕も赤松さんも覚えてるって言ったじゃないか……。そもそも王馬くんだって覚えてたでしょ?」
「ありゃ、バレちゃってたか〜」
事の発端は、最後に何を買うのか忘れたと夢野がぼやいたことであった。教師から頼まれた備品はそこそこ種類もあり、こんなに必要ならネット通販すればよかっただろうと散々文句を言ったことは記憶に新しい。ただでさえ面倒臭がりな彼女が全てを覚えきっているわけもなかった。
赤松も最原もそれをよくわかっていたので、買い出し用のリストもちゃんと用意していた。王馬もそれを知っていた、はずなのだが急に夢野の肩を掴んで揺さぶり始めたのである。
何で忘れたの、衝撃を与えたら思い出すかも、なんて言いながらがくがく揺すられていた夢野はやがて顔を真っ青にしてしまった。直前に昼食をとっていたことも響いたのだろう。気持ち悪いと微かな声を出して赤松支えられながらトイレに駆け込んだのであった。
「ごめんね。まさか夢野ちゃんがあそこまで虚弱体質だとは思ってなくてさ……」
「いや、あれは夢野さんじゃなくても気持ち悪くなるでしょ」
「とにかく!王馬くんは今日一日、大人しくしてなきゃダメだからね?」
「はぁ〜〜い」
学級委員の二人に詰め寄られ、つまらなさそうに唇を尖らせる王馬。ふいと逸した視線の先には夢野がいた、が既に彼女の興味はこちらにはなかった。ぼうと車窓の向こうに流れる景色を目で追い、たまに小さく唇を動かしている。目に入る看板の名を呟いているのかもしれない。
降りる駅も近付いてきたところで、最原が買い物リストを再確認し始める。赤松もそれに倣ってリストを覗き込みながら今から回るルートを提案し始めてしまった。
こうなると王馬はやることがなくなってしまう。余計なことをするな、とは学園を出る前にクラスメイトから散々釘を刺されていた。きっとここで変なアクションを起こせば明日の我が身は危ういだろう。
「あ、もう着くね!よーし、まずはあのお店に行かなきゃだね!」
「うん。王馬くんと夢野さんも、降りる準備してね」
社内アナウンスによると夢野が体を預けているドアとは反対側が開くらしい。たったそこからそこまでの移動だが、彼女にとってはその距離も面倒臭かった。溜め息を吐きながらとぼとぼと赤松たちの背後につき、電車が目的地に辿り着くのを大人しく待つ。
やがて甲高いブレーキ音を響かせながらホームに滑り込む車体。慣性の法則が強烈に働き、体が吹っ飛びそうになる。けれども夢野の小さな体はそう背丈の変わらない王馬に支えられて事なきを得た。
「んあっ、す、すまんのう王馬」
空気の抜ける音と共に開く扉、駅名を告げる駅員のエコーする声、ぞろぞろと出入りする乗客たち。あっという間に遠くなってしまった赤松と最原の背中は人混みに紛れて消えてしまう。
慌てて追いかけようとするものの、夢野の肩はがっちりと支えられたままだ。このままでは置いていかれてしまう。そう抗議しようと顔を上げた夢野だったが、押し寄せてくる人の波に押されて反対側のドアまで追いやられた。
どん、と頭の横に叩きつけられた手のひらが王馬のものであると気付いたのは、無慈悲にも扉が閉まった後のことである。
「な、なん、何をしておるんじゃ王馬っ」
ゆっくりと走り出す電車はどんどん駅を引き離してしまう。顔を青褪めさせながら声をひっくり返させる夢野は、いわゆる壁ドンをしているような体勢のまま動かない王馬を責めた。
「……悪いな〜、とは思ってたんだよね。これは本当だよ」
「んあ……?何の話をしておるのじゃ?」
「だからお詫びにって思ってね、用意してたんだ」
さっぱり話が見えない夢野は首を傾げるしかないが、目の前に差し出されたチケットが何なのかはよく知っている。それはこの電車が向かう先、途中下車をすれば辿り着くことのできる遊園地の入場券だ。
「ねぇ、夢野ちゃん。君さえよければオレとデートしてくれない?ちゃんとエスコートするからさ」
思えば、二回目の買い出しに王馬が付いてくると聞いたときには耳を疑ったものだ。前回の珍事件で茶柱から問答無用で締められて東条からこってり絞られていたのをよく覚えている。もう二度とこないだろうと夢野だけでなく、赤松たちも思っていた。
「……お主もしや、買い出しの外出許可を利用したのか?」
「さあ、どうだろうね?」
それで、どうするの。にこりと笑いながら握らされたチケットの購入日は、一回目の買い出しの翌日だった。ということはつまり、その時から王馬はこの計画を立てていたということだろう。
ちらりと見上げた先にある顔にはいつもの笑顔があった。しかし握らされたチケットを手放そうとすることを許さないと言わんばかりに、夢野の手は包み込まれたままで。
「……仕方ない。うむ、チャンスをやってもよいぞ」
「にしし、そうこなくっちゃね!」
ガタンゴトンと耳障りがいいような悪いような、しかしリズムは心地良い音が鼓膜を打っている。窓の向こうの景色は徐々に建物が少なくなり、夢の溢れる遊園地がちらりと見え始めていた。
取り敢えず駅に着いたら赤松たちに連絡をしよう。ポケットの中で震え続けている携帯電話を思いながら、握られたままの手がひくりと震える。
どちらの指が先に動いたのかは、きっと誰も知らない。
【心:紅鮭団】
「夢野ちゃんはオレの心を盗んだ張本人なんだから、責任取ってよね」
にししとお決まりの笑い声をおまけに付けてきた王馬は、細めた瞳の奥にいたずら心を覗かせていた。三日月のように弧を描いた唇。愉快だといわんばかりの表情では、言葉にはせずとも嘘だよと告げてきているようなものである。
紅鮭団、などと理解ができない企画に参加させられ早いものでもう三日。一緒に過ごす相手もぼんやりと固まってきており、たった十六人の中でも小規模のグループができ始めていた。
夢野は初日から慕ってきている茶柱と、ひょんなことから共に過ごすようになった夜長と行動を共にすることが多い。とはいうものの三人だからこそしていること、なんてものはなかった。他のグループと同じようにそれぞれの研究教室で過ごしたり、学園の施設で過ごすだけである。
「……いきなり押しかけてきて何を馬鹿なことを言うておるんじゃ」
三人の仲がいい、のは事実であるが四六時中一緒というわけではない。夜長は創作活動のために研究教室へ閉じこもってしまうし、茶柱も体が鈍ってしまうからと研究教室で鍛錬を行うのだ。では夢野は何をするのかといえば、大抵は研究教室で魔法道具の手入れを入念に行っている。
今日も夜長と茶柱がそれぞれの研究教室に赴いてしまったので、夢野もそれに倣って自らの研究教室へやってきていたのだが。
「馬鹿なことじゃないよ!この企画が始まってすぐにオレの心を抜き取る魔法を掛けたでしょ!」
「散々言っておるが、ウチの魔法はみんなを笑顔にするためのものじゃぞ?そんな物騒なことするわけなかろう」
手入れをしても披露する場がなければ宝の持ち腐れだな、なんてぼんやりと思っていた時だった。ノックもなしに入ってきた王馬は、興味深そうにあちこちを見て回ったかと思うといきなりそんなことを言い出したのである。
突然の、思わぬ人物の訪問。それだけでも驚きだというのに全く礼儀がなってないことにも驚いた。暫くはギョッとしたまま固まっていた夢野であったが、彼が話し出したことをきっかけに呆れた溜め息を吐く。
「いーや、嘘だね。キミは確かに魔法をかけてるよ」
「しつこいのう……。大体、心を奪われているならそんなに感情豊かなのはおかしいじゃろうが」
相手をしない、というのも面倒なことになるとたったの三日で思い知らせれている。けれど真正面から受け止めるのは無駄に体力と気力を奪われるだけだとも学んだので、夢野は道具の手入れもしながら言葉だけで対応することにした。
「えー、どうして?心を奪われてるんだから、むしろ感情豊かになるのはおかしくないでしょ」
「んあ、どうして心を奪われたら感情豊かになるのじゃ?理屈が通らんじゃろ」
「……んんー?夢野ちゃんさっきから何言ってんの?オレの話ちゃんと聞いてる?」
「失礼な!ちゃんと聞いておるぞ。お主こそさっきから何を言っておるのじゃ?」
どうにも会話が噛み合わない。二人して怪訝な顔で首を傾げて言葉をぶつけ合う。一体どこで何がズレているのか。不毛とも思える押し問答を繰り返していく内に、ふと王馬が何かに気付いたらしい。目を丸くして、なるほどといった具合に手のひらを拳で叩き、突然笑い出した。
いきなりのことに驚きすぎて、うっかり魔法道具を折ってしまうところだった。ばくばくと激しく脈打つ心臓を抑えるために胸へ手を添えながら、夢野は腹を抱えて笑い転げる男を睨み付ける。
「な、何がおかしいのじゃ!」
「あっはっは!だって夢野ちゃんってば、思いっきり勘違いしてるからさぁ〜!」
「勘違い、じゃと?」
夢野の混乱など構いもせずにゲラゲラと笑っていた王馬はやがてすっきりしたのか、余韻のため息もそこそこに落ち着いたらしい。目尻に浮かんだ涙を拭いながら、にやにやとした笑みもそのままに怪訝な顔で身構える少女の元へ歩み寄った。
「まさかこのオレが『普通』を説く日がくるとは思わなかったなぁ。つくづくキミは退屈しない子だよね」
楽しそうに笑っている王馬はすっと身を屈めると、警戒心を顕にする夢野へ微笑みかける。
「ふ、普通?お主はさっきから何のことを言っておるんじゃっ」
顔の近さに驚いたのか、彼女はすぐさま距離をとろうとする。しかしその手に持った魔法道具を放り出すわけにもいかず、結果的に微妙な距離感が生まれるだけだった。
そんな夢野の焦った様子を満足そうに眺めていた王馬は、自らの唇へ指を添えながらにやりと笑う。
「男が女に心を奪われる、なんて意味は一つしかないんだよ。……ここまで言ってもまだわからない?」
挑発的に言われてしまっては頭にカチンとくるものであるが、残念ながら夢野は王馬の言いたいことが一体何なのか見当も付かなかった。
心を奪われる、ということはつまり感情を奪われるということだろう。残されるものは肉体だけとなり、まるで人形のようになってしまうということだ。少なくとも夢野の知り得る『心を奪われる』状態とはそれ以外にない。
「え、本当にわかんないの?夢野ちゃんの脳みそって皺が入ってないの?」
「う、うるさい!今考えておるんじゃから静かにせんか!」
茶々を入れられては集中ができない。そう吐き捨てて唸り声を上げながら考え込む夢野。眉間に皺をこれでもかと寄せる様は中々にひどいものだったが、王馬はそれを見てもにんまりと笑うだけであった。
「仕方ないなぁ〜。鈍くさい夢野ちゃんのために、特別に正解を教えてあげるよ!」
にしし、とやはりお決まりの笑い声を上げながら彼はそっと夢野の耳元へと唇を寄せた。考えることに夢中で反応が遅れてしまった彼女はその場から逃げることも叶わず。ダイレクトに滑り込んでくる囁きを受け止めるしかない。
「心を奪われたってことはね、キミに恋をしたってことだよ」
常よりも低音な声。それだけでもどきりとするのに、告げられた内容が内容なだけに破裂するのではないかと思うほど大きく心臓が跳ねた。錆びたブリキのようにぎこちなく王馬を見る夢野は、顔色を赤くしたり青くしたり白くしたりと忙しい。
「んぁ、なんっ、そんな、」
面白いぐらい目を泳がせる彼女の姿は見ていて飽きない。握りしめた魔法道具からはみしみしと嫌な音が上がっているが、果たして気付くのはいつになるやら。
最初の計画では焦る夢野に対し、すぐに嘘だよと言うつもりだった。けれども魔法の知識に傾倒しすぎている彼女はこちらの意図に気付くことはなかった。結果として面白いことにはなったのだが、こうもすれ違うとは思いもしなかった。
嘘だという告白をしないつもりはない。けれども狼狽する夢野の姿をもう少し見ていたい気もして、王馬はにやにやと笑ったまま百面相をする少女を暫く眺めていた。
【猫:育成計画】
穏やかな日差しが降り注ぐ中庭。規則的に植えられている木の下、爽やかな風が吹き抜ける木漏れ日でぼんやりと空を仰ぐ。昼休み中ということもあってか騒がしさはあちこちで尽きない。
しかし常よりも静かだと感じるのは、騒動の渦中にいる常連たちが大会やら何やらでこぞって学園内にいないからだろう。数人が消えるだけでこうも穏やかになるとは驚きだ。
自分もその常連に数えられているのだということは棚に上げて、王馬は足の間に埋もれている毛玉を見下ろす。誰とも絡む気が起きず、午後の授業をサボろうとやってきたこの中庭。さして太くもない木の幹に背を預けてあぐらをかいていれば奴はやってきたのである。
「珍しい組み合わせじゃのう」
いい加減、触れている場所が熱くなってきた。どいてもらうために伸ばした手は、不意に降り注いできた声に動きを止める。見上げれば小さく首を傾げている夢野と目が合った。
「キミこそ、こんなところで何してんの? 中庭なんて遠いところまでくるなんてさ」
中途半端に持ち上げていた手は下ろして、体を支えるために地面へと添える。人工ではない芝の感触は柔らかく、そしてくすぐったくて仕方ない。とはいえ耐えられないものではないので、そのまま体重を両腕へと預ける。
「んあ。ウチはただ、珍しい奴が珍しいところにおったから、様子を見に来ただけじゃぞ」
「わざわざ? こんなところにまで? ……明日は槍、いやアジでも降るんじゃないの」
「……相変わらず失礼なやつじゃのう。お主はどうしてそうウチのことを魚に例えたがるのじゃ」
眉間に皺を寄せながら渋い顔する夢野。入学当初に比べれば随分と感情を表に出すようになってくれたが、王馬からすればまだまだ反応が足りない。獄原やキーボまでとは言わないが、もっとリアクションをしてもらわないとつまらないのだ。
とはいえ、そう直接本人に伝えたところで面倒臭いと一蹴されるだけだろう。それどころか絡まれたくないからとノーリアクションになってしまう可能性だってゼロではない。
何が引き金になるのかわからないのだから、余計なことは言うべきではないのだ。
「それは夢野ちゃんが魚顔だからだよ。いや〜、ここまで見事な造形は見たことがないね!」
「…………」
「なんてね! もちろん嘘だよ! オレはキミみたいな可愛い子を前にしたら、緊張でついつい余計なことを言っちゃうんだ。ごめんね?」
「…………よくもまあ、そんなにペラペラと言葉が出てくるものじゃな」
怒りの色を見せることもないまま呆れたため息が目の前に落とされる。そうして続けられた言葉は感心の意を示すものだった、がそこにもやはり呆れの色は滲んでいた。
「ところで王馬よ。お主はこんなところで何をしておったんじゃ?」
もっと嫌そうな顔をするかと思っていたのだが、どうにも思った通りにいかない。だからこそ、あの鈍い表情筋に隠された夢野の感情を引きずり出してやろうと躍起になるのだが、果たして成果は出ているのだろうか。
そんなことを考えていると、いつの間にやら通常運転に戻ってしまった彼女の声が再び降ってくる。しかし問いかけた割には答えを薄々勘付いているようで、王馬の足の辺りにある毛玉を凝視していた。
「いやいや。そんなに人の股間を見つめて、夢野ちゃんこそナニがしたいの?」
「んあっ、ばっ、バカなことを言うでない!」
にやにやと笑いながら言ってやれば、カッと目を見開いて声を荒げてくる。
そうそう、見たかったのはこういう反応だ。頬を赤くしたり慌てふためいたり。否定するため必死に捲し立ててくる、そんな夢野が見たかったのである。
「そんなに怒んないでよ。嘘なんだからさ」
「…………はぁ、もうよい」
がっくりと肩を落とした彼女はふらふらと距離を縮めてきたかと思いきや、間もなくして王馬の隣へ腰掛けた。トレードマークであるとんがり帽を外して傍らに置いて、ピクリと動いた毛玉へと手を伸ばす。
「こやつは人懐っこい奴じゃからのう。誰かの足の間に挟まるのが特に好きなんじゃ」
「……こいつ、田中ちゃんのとこの子なの?」
「いや、野良じゃ。一ヶ月前にここへ迷い込んだらしいぞ」
毛玉を撫でていた夢野の指先が、それの顎へと辿り着く。さわさわと撫でるような揉むような手付き。されるがままになっていた毛玉が喉を鳴らし出すまでにそう時間はかからなかった。
「慣れてるんだね」
「うむ。ウチと契約している眷属は鳥から猫、犬など種類も多いからのう」
「ペットの間違いじゃなくて?」
「け・ん・ぞ・く! で間違いない!」
先程の憤りが胸に残っていたのか、夢野の声には確かに怒りの感情が乗っていた。けれども睨まれたところで何ら怖くもない。クラスメイトたちの中でもダントツで夢野は幼い容姿をしているのだ。迫力も半減どころか十分の一だろう。
一方的で不毛な睨み合いが始まって数十秒。喉を鳴らしていた毛玉が立ち上がり、王馬の足から出ていってしまった。
いたらいたで面倒だが、いないならいないで少し寂しい。冷めていく温もりに名残惜しさを感じていれば、毛玉はにゃおんと鳴いて膝の上に飛び乗る。
「んあっ、何じゃ?」
少しの毛づくろいを終えた毛玉は、体を丸め夢野の足を枕にして眠り込もうとしていた。まさか自分のところにくるとは思ってもいなかったのだろう。驚いた顔もそのままに慌てて持ち上げようと手を伸ばした。
けれども相手だって負けてはいない。スカートに黒タイツに爪を立て、この場から絶対に離れないという強い意志を示してきた。傷付く洋服と鋭い痛み。それに勝てるわけもなく、夢野はものの数秒で毛玉との戦いに敗北することとなる。
「何でウチの方に来たんじゃ……?」
「魚臭かったからじゃない? それともハト臭かったからかな?」
「……お主には聞いておらん」
頬を膨らませながらそっぽを向かれてしまう。けれども両手はちゃっかりと眠り込んでいる毛玉を撫でていた。口では何だかんだと言っているが、膝に乗ってきたことは嬉しいらしい。その証拠に、への字に曲がっていた唇がゆっくりと緩んできている。
さわさわと爽やかな風が吹き抜ける中庭。あと数分で授業の始まりを告げるチャイムが鳴り響くだろう。けれどもここから動く気にはなれず、またそれを教えてやる気にもなれず。
「いいよね〜、猫はさ。何にも考えなくてもいいんだから」
「んあー。猫とて何も考えなしというわけでもあるまい」
薄っすらと笑んでいる横顔。それをこっそりと盗み見ながら柔らかな毛並みを撫でてやれば、指先がほんの少しだけぶつかった。
【誕生日:育成計画】
肌に触れる少しだけ湿っぽい空気。朝から降り続ける雨がもたらす土産は、月が夜空の天辺に到達した今でもなお不快感を残している。時期的に仕方がないとはいえ、もう少しどうにかなってほしいものだ。
真っ暗な教室の中、デザインに一目惚れをして買ったランタンの光がぼんやりと浮いている。いかにも魔法使いが使っているようなそれは、日常生活では浮いてしまうがこういったときには雰囲気が出るものだ。あの時の判断に間違いはなかったと過去の自分を手放しに褒めてやりたくなる。
ペタペタと軽い足音が遠くから近付いてくる。躊躇うこともなく真っ直ぐに向かってくる気配。もう少し疑うなりするかと思っていたのだが、どうやら素直に応じてくれたらしい。もしかするとここへ来ないかもしれない、とも思っていたのでほっと胸を撫で下ろした。
「……うわっ、びっくりした〜。一昨日食べた干物の霊かと思ったよ!」
がらら、と開かれる教室の扉。ずかずかと入ってきた男はランタンに照らされる夢野の顔を見るなり、大袈裟に驚いて見せる。そして息吐く間もなく肩をすくめ、失礼な発言を投げ付けてくるのだ。
すぐさま喉まで反論の言葉たちが迫り上がる。しかし今日は不毛な言い争いをするために呼び出したのではない。ぐっと言葉と一緒に空気も飲み込んで、夢野は目の前までやってきた男、王馬を見上げる。
「化けて出るならお主のところではなく、干物に加工した者の元へ現れるのではないか?」
「渾身のボケにマジレスとか、夢野ちゃんも相変わらず空気が読めないよね。あ、読めるのは潮の流れだったっけ?」
「……ボケにボケを畳み掛けるでない」
ああ言えばこう言い、こう言えばああ言う。王馬の発言はほとんどが本心からの言葉ではない。そうとわかってはいるものの、だからといって投げつけられた言葉を素通りすることはできなかった。
とはいえ、やはり爆発しそうな感情を素直に起爆させるわけにはいかない。一時の感情に任せてしまっては、今日のためにあれやこれやと進めた準備が無駄になってしまうのだ。そんなことは誰よりも夢野自身が許せないのである。
「それにしても……、お主が本当に来るとは思わなかったぞ。適当にはぐらかして逃げられると思ったのじゃが」
王馬の誕生日パーティーを開こう、と言い出したのは獄原だったか赤松だったか。どのような流れでそうなったかはもう覚えていないが、とにかく今日の午後六時から食堂でパーティーが開催されたのである。
同じクラスの者、純粋に祝いに来た者、騒げるからと飛び入り参加した者。気付けば同じ学年の者たちがほとんど揃っていた。騒ぎの中心にいた主役はプレゼントを貰ったり祝いの言葉を掛けられたり。中々にもみくちゃにされていたが、文句を言いながらも笑顔を絶やさなかったので、純粋に楽しんでいたのだろう。
「え〜、何それ。来いって言ったのは夢野ちゃんじゃん! 珍しく素直に来てあげたのに、そんな言い方ってないよ……」
やがて騒ぎも治まってきた頃、王馬の元へ駆け寄った夢野は耳元で囁いたのだ。この後渡したいものがあるからできれば教室にしてほしい、と。
「んあ、いや、パーティーの後はお主の組織のメンバーと会うかもしれんと思っておったのじゃ。誘ったのは急であったし、来てほしいのもウチのワガママじゃったからな」
その場から逃げるように立ち去った後、どうしてその場で答えを聞かなかったのかとは自分でも思った。王馬の予定を聞いて、そこで話を終えてしまえばよかっただけの話である。
しかし、だ。これまで進めてきた準備とそれを贈り届けたい気持ち。それを叶えるためという自分本位な考えから、足を無意識に動かしていたのだろう。
そうすれば疑り深い彼のことなのでやって来てくれるだろうと心の何処かでわかっていたからだ。
「……ふーん、そう。じゃあ『そういうこと』にしてあげる」
暫く探るように夢野の様子を窺っていた王馬は、やがて溜め息を吐いたかと思えばにんまり笑う。一体どこからどこまでを分かっているのやら。心の奥底まで読まれたのではないかと冷や汗をかきながら、夢野は手にしていたランタンの電源を落とす。
「え、なんで消したの? っていうかそれ電池なのかよ」
「本物の炎では危ないからのう。あと消したのはわざとではないぞ? 明かりが邪魔になるからじゃ」
真っ暗闇の中、警戒心を顕わにする王馬の気配。そこからじりじりと距離を取って、夢野は定位置へとついた。手探りで触れた厚手の布を握り締め、脳裏でイメージを繰り返しながら深呼吸を三回。
「ジメジメした梅雨の空、ウチの魔法でふっ飛ばしてみせるぞ。それっ」
ワンツースリーとお決まりの文句を口にしながらカーテンを勢いよく引き寄せる。大きな音を立てながらレールを走るカーテンの向こう、薄くなった雨雲の隙間からは煌めく星たちに囲まれた月が浮かんでいた。
「……改めて王馬よ、誕生日おめでとう。ささやかではあるが、超高校級の魔法使いであるウチからのプレゼントじゃ」
いつだったか、誕生日はいつも雨だとつまらなさそうに文句を漏らしていた。きっとそれは些細な話で、気に留めるようなものではなかったのかもしれない。それでも彼を笑顔にしたいと、夢野は確かにそう強く思ったのだ。
「……雨雲、全部吹き飛んでないけど」
「んあ⁉ ……あー、えーっと、そんなことはなくはないんじゃないかのう……?」
いくら超高校級とはいえ天候を操れる訳ではない。偶然と奇跡が重なって初めてこの魔法は完成するのである。多少の粗は目を瞑って欲しいのだが、やはりそう簡単に納得してはくれないかと夢野は露骨に目を泳がせた。
しかしふと、小さく笑うような声が聞こえる。そんなに挙動が可笑しかったのかと恥ずかしさに苛まれるが、突き刺さる視線の先を辿れば、柔らかい笑みを浮かべている王馬がいた。
「なんてね、嘘だよ。……ありがとう、夢野ちゃん」
言うなり王馬は窓の外へ目を向けてしまう。その横顔に笑みが滲んでいることに今度こそ安心しながらも、加速するばかりの鼓動に夢野は掴んだままのカーテンをこれでもかと握りしめた。
【着せ替え:紅鮭団】
華やかな舞台を飾るために必要なものといえば、もちろん衣装はその一つに数えられるだろう。ピアノの演奏会であればシックなもの、アイドルであればヒラヒラとした可愛らしいもの。披露される演目の内容によって選ばれるタイプは全く異なってくる。
マジカルショーの主役を務める夢野はその才能がより映えるために、また本人のモチベーションを高めるために。子どもから大人まで男女も問わず、ああまさしく魔法使いだな、といった印象を与えるものを好んで選んでいる。
印象操作、といってしまえば聞こえは悪いが、会場を盛り上げるために必要なことだ。超高校級の魔法使いとして人々に笑顔を届ける、一人のエンターテイナーとしてそこを譲ることはできない。
そう、できないはずだった、のだが。
「夢野さん、魔法使いじゃなくて魔法少女路線にしたらどうかな? 折角こんなにも恵まれた容姿なんだしさ! あ、よかったら私の研究教室にある漫画を読んでみない? ストーリーやキャラクターは王道なんだけど、魅せ方が地味に良い味出してるんだよね〜」
色とりどりのフリルとリボン。ふわふわとしたパニエ、どうやって着るのかわからないワンピースやドレス。部屋一面に広げられている衣装を前にして、夢野はげっそりとしながら用意されたソファで項垂れていた。
きっかけは大したことではない。次に行おうと考えているショーの衣装案がなかなか浮かばないので、白銀から魔法使いっぽいモチーフを教えてもらい参考にしようとデートチケットを渡しただけだ。
コスプレ、の世界はよくわからない。けれども白銀の口から次々と飛び出してくる衣装や、実際にイベント会場での魅せ方などの話は、そこそこ参考になるものも多かった。また彼女から請われたこともあり、夢野は自らが行うマジカルショーについての話を、珍しく面倒臭がることなく語っていたのである。
活躍の場は違えど、同じように対人の才能を持つ者同士。意外にも話は盛り上がりに盛り上がったのだ。
「し、白銀、それはまだ続くのか……?」
あれやこれやと様々な衣装を手にとっては悩んでいる白銀。楽しそうな横顔には申し訳無いのだが、かれこれ二時間も着せ替え人形となっている夢野は既に体力も気力も限界だった。ウィッグを被せられ、メイクを施され、ポーズを決めて写真撮影。慣れないことだらけで疲れることこの上ない。
こんなことなら白銀の、私の作ってる衣装に興味あるかな、という質問に頷かなければよかった。
「うーん、そうだなぁ。私と夢野さんだと身長差があるから並んだときに違和感が凄くなるけど、撮影する構図によっては誤魔化せるからね! うん、イケるイケる!」
「何の話をしておるのじゃ、お主は」
「何って、もちろんコスプレの話だよ! というわけで夢野さんはどっちがいい? カードをキャプチャーする魔法少女と、夜の魔女と戦う宿命の魔法少女!」
夢野の髪型と白銀の髪型。それを並べたときにしっくりくるビッグタイトルなのだと力説する白銀だが、どうせウィッグを被るのなら元の髪型がどうであっても変わらないのでは、と思わなくもない。しかし今の彼女にそれを伝えたところで、些細なことだと一蹴されてしまうのだろう。
さて困ったことになったぞ。こちらの答えを聞く前に衣装選びを始めてしまった白銀の背中を眺めながら、夢野はどうすればここから逃げられるかを考え始める。けれども圧倒的な熱で迫ってくる彼女を言葉で打ち負かすことは不可能だ。実力行使で逃げ出したとしても、運動神経はあちらが上に決まっている。そもそも足のリーチが、いやこの話は止めよう。
兎にも角にも今のままでは、夢野がこの状況を打破することなど出来やしなかった。
「あ、そうだ。二人だけだったら撮影は地味に難しいよね。撮影係を誰かに……うん、東条さんに頼まなきゃ」
手のひらに拳をぽん、と置きながら白銀が突如として声を上げる。あまりに古典的なジェスチャーだったので呆気に取られている内に研究教室の扉が開いて閉まった。
そうして一人取り残された夢野は、しばらくぼうっとその場に座り続けていた。あまりに急の事態だったため反応が遅れたのである。
「……んぁっ、今じゃ!」
やがて我に返った彼女は、勢いよく立ち上がって研究教室から飛び出そうと駆け出した。しかし衣装を踏まないように隙間を探しながらでは、なかなか前に進めない。
衣装を拾い上げて端に寄せればよかったのだ、と気づけるほどの余裕は今の夢野にはなかった。
「白銀ちゃーん、前に借りた漫画の続きって……、あれ?」
「げっ!? お、王馬……!」
扉が開いたかと思えば、入ってきたのは白銀ではなく王馬であった。その手に抱えられた漫画は、そちらの方面に詳しくない夢野でも、タイトルだけは知っているメガヒット作品である。
入ってきたときに彼が言っていた通り、彼はただ続きを借りに来ただけだ。目的のものを手に入れることができれば早々に帰るつもりだったのだろう。けれども漫画を読むよりよっぽど楽しそうな退屈潰しが目の前にあれば、もちろんイジらないわけがない。
「へ〜、夢野ちゃんってばどうしたの? おめかしするならフリルとかリボンじゃなくて、柊を使わなきゃ意味がないんじゃない?」
「誰が節分に玄関先へ飾る鬼除けじゃ!」
「にしし、さっすが夢野ちゃん! オレの言いたいことをすぐに察してくれるよね〜」
ローテーブルに漫画を置いて、そのまま散らばっている衣装を手に取る。可愛らしいものから布面積の狭いもの。装飾品の多すぎるゴテゴテした、キャラクター感の強いものまで様々だ。
「ところで白銀ちゃんは? ……まさかそういうプレイの最中だった?」
「そんなわけがなかろう。あやつなら撮影係が欲しいと東条を探しに行ったぞ」
「へぇ。超高校級のコスプレイヤーが被写体なら、東条ちゃんが撮影するのが妥当だよね! それで夢野ちゃんはその横で引き立て役をするわけだ」
「んあー! そんなわけが……、そんなわけあるのう」
本人にその気はないかもしれない。しかし冷静になって考えてみれば、スタイルもよくて超高校級のコスプレイヤーである白銀に並び立てるわけがないのだ。
キャラになりきって撮影にも慣れている彼女と、そもそもキャラを知らず撮影に慣れていない夢野。撮影の風景を思い浮かべてみればただただ悲しい気持ちになるだけである。
「そ、そうじゃ。それを避けるためにもウチは今すぐにでもここから逃げなければならんのじゃっ」
改めて、ここにはいられない。もつれそうになる足でよたよたと入り口に向かう夢野であったが、ふと何も声をかけてこない王馬の存在が気に掛かった。
いつもならばここでからかってくるはずである。そうして無駄に引き留め、夢野が逃げようとしていた相手に捕まったところで王馬は逃げていくのだ。
今日に限って何も言わないことが嫌に不気味だと、そう思ったのである。
「……あれ、行かないの? 早くしないと白銀ちゃんが戻ってきちゃうよ」
「それはそうじゃが。王馬よ、お主は何を企んでおるのじゃ?」
怪訝な視線を突きつけてやれば、最初こそすっとぼけた顔をしていた王馬が徐々に笑みを深くし始めた。先程まで見せていたおもちゃを見つけた子どものようなものではなく、何かを企んでいるような意地の悪いもので。
「なーんだ、バレちゃってるなら仕方ないね。珍しく勘の鋭い夢野ちゃんに、ご褒美として教えてあげる」
「何でそうも上から目線なんじゃお主は。まぁよい。それで、ご褒美とは何じゃ?」
「たはー、キミってば欲しがりさんだよね〜。その欲深さには感服しちゃうよ〜」
「んあー、いいからさっさと教えんかっ」
そうこうしている内にも白銀が戻ってくるまでのタイムリミットは迫っている。急かすように言葉を促せば、王馬はにやにやとしたまま夢野の胸辺りを指さした。そこに一体何があるというのだろう。怪訝な顔のまま視線を落とせば、そこには見慣れない大きなリボンがあって。
「オレとしてはそのまま出てってくれた方が面白かったんだけどね」
「んあ〜〜〜〜〜!!そ、そうじゃった!!」
白銀に着せられた、フリルとリボンがふんだんに使われたワンピース。ウィッグは蒸れるからと早々に外したためすっか。終わったつもりでいたが、まだ着替えていなかったのだ。夢野は顔を赤くしたり青くしたりを繰り返しながら更衣室へと駆け寄る。
「ちょっと夢野ちゃん。着替える服もなしに更衣室へ入ってどうするの? ほら、これに着替えて」
「んあっ、そうじゃった! 恩に切るぞ、王馬!」
差し出された衣装を引ったくるように受け取り、慌てて駆け込んだ更衣室。もたつく手を急かしながらワンピースを脱ぎ捨てた夢野は、先程受け取ったワンピースを手に取る。
「……んあ?」
夢野の制服は一般的なブレザーと同じデザインである。間違ってもワンピースタイプなどではない。
騙された、と気付いたところでどうしようもなかった。まだ更衣室の向こうには王馬の気配がある。まさか下着のまま飛び出して制服を探すわけにもいかないので、夢野が今できることといえばたったの二つ。先程まで着ていたワンピースを着直すか、王馬が渡してきたワンピースを着るか。
悩む時間などもうほとんど残されていないだろう。できることならどちらも着たくはなかったが、夢野は断腸の思いで比較的脱ぎ着がしやすそうなものを手にとった。
「王馬! お主、ウチのことを騙しおったなぁ!」
「え〜、夢野ちゃんだって確認せずにひったくっていったじゃん。オレだけの責任じゃないでしょ?」
「やかましい! 全く、お主というやつは何を考えておるんじゃ!」
声を荒げながら大きな足音を立てて王馬の前を通り過ぎる。向かう先は散らばった衣装の先、丁寧に折り畳まれた正真正銘、夢野の制服の元だ。
「ねぇ、夢野ちゃん。ねー、夢野ちゃんってば〜」
間もなくして目当てのものの元へ辿り着き、体温などとうの昔に消えてしまった冷たい制服を拾い上げる。できるだけさっさと着替えて出て言ってしまわなければ。そう考える夢野の苛立ちを加速させるためなのかどうかはわからないが、王馬がしきりに話しかけてくる。
「………〜〜〜っ、何じゃ!ウチは今忙しっ、んあ!?」
無視を貫こう。そう決意していた彼女であったが、あまりにも呼びかけがしつこかったので、眉を釣り上げて振り返った。もちろん責めるような言葉を添えてである。
ところが途端に視界を奪うかのような光に襲われ、怒りの勢いはあっという間に奪われてしまった。
「な、何じゃ今の光は……? 王馬、お主一体何を、」
言い終わる前にカシャリと音が鳴った。その音はどこかで聞いたことのあるもので、一体どこで聞いたのかと考えているうちに足音が遠のいていくことに気付く。
「開いたアジにしてはなかなか似合ってるんじゃない? これなら白銀ちゃんの横に立っても目立てるよ!」
「褒めるなら素直に褒め、…………お、王馬、お主その手にしておるものは、まさかっ」
「いや〜、面白いものが撮れてよかった! それじゃあ夢野ちゃん、また夕食のときにね〜!」
「まっ、待て王馬! お主、その写真をどうするつもりじゃ!? おう、おーま! こらぁ〜〜!!」
取り返そうと駆け出した夢野の前で無情にも閉まる扉。それでも追いかけようとする彼女は勢いのまま駆け続けたが、ドアノブに触れるよりも早く扉が開いてしまう。
「あれ、夢野さん着替えたの?」
キョトンとしている白銀と東条。その二人を目の前にして夢野は、目の前が真っ暗になるとはこのことを指すのか、なんて考えることしかできなかった。
間抜けな顔で写っているだろう、インスタントカメラの写真。それがいつばら撒かれるのかと震えることが徒労に終わるとは、今の夢野は知らない。
【紙飛行機:育成計画】
「…………今日は一つか」
希望ケ峰学園、女子寮。二階の突き当りにある部屋の窓はいつも十センチほど開けられている。鳩が一羽、または猫が一匹すり抜けられるような僅かな隙間。そこから不定期にやってくる小さな頼りを拾い上げて、夢野は手にしていた荷物を放り出してベッドへ腰を下ろす。
今日はこんなことをしてやった、驚かせてやった、笑わせてやった。そんな活動報告を楽しみに待つようになったのはいつからだったろう。写真など添えられていないのに、当時の光景を思い浮かべられる文章にくすりと笑みが漏れた。
「さて、ウチも書くか」
机の引き出しから取り出した折り紙。その裏面に今日あったことを拙い文章で綴っていく。教室ではこんなことがあった、食堂のメニューはどうだった、新しい魔法の研究に行き詰まっていること。取り留めのない言葉を詰め込んだそれを、いつだったか教えられた通りに折り畳む。
間もなくして準備を終えた夢野は、誰しもが作ったことがあるだろう飛行機を手に部屋を抜け出した。目指す先は彼女が生活をする女子寮と対で作られた男子寮。その一室、夢野と同じ位置にある部屋で生活をしている王馬のもとだ。
王馬へ寮での謹慎処分が下されたのは一週間前のことだ。才能にかかることであればほとんどをなかったことにしてくれる学園が、そんな厳しい処分を下すのは珍しいことである。誰しもがその衝撃的なニュースに耳を疑ったことも記憶に新しい。
では彼が何をしたのかといえば、モノクマの動く仕組みを知りたいなどと言い、少々乱暴な方法で生け捕りにしたのだ。学園長を自称する全自動ロボットがこれに憤慨しないわけがなく。勝手に処分を言い渡し、王馬を男子寮の自室へ押し込めたというわけだ。
しかしこの処分を、本物の学園長は意外にも取り下げることをしなかった。何故ならばここ数日、王馬のイタズラがエスカレートするばかりで、少しお灸を据えてほしいとの訴えが後を絶たなかったからだ。
「しかし勝手に出歩き回っておるようじゃしのう」
手紙に書かれていた活動報告が本当かどうかなど夢野が知る由もない。しかしあの小さな便りをわざわざ彼女の部屋へ投げ入れるためには、必ず自室を出なければならないはずだ。
用心深い彼のことである。まさか他の誰かに頼んでいるわけでもあるまい。
「んあ……、いつ見ても高い……」
鳩が一羽、あるいは猫が一匹通り抜けられそうな窓の隙間。毎度目にする度にその高さに驚くし、毎度投げ入れてくる王馬のコントロール能力に舌を巻く。
しばらくは高い壁を眺めていた夢野だったが、いつまでもここに長居するわけにもいかない。手にしていた、少しばかりよれた紙飛行機を隙間に向けて投げる。
すい、と直角に上がったそれは空中で上下逆さまになり、驚くほど早い速度で急降下した。さく、と軽い音が立つと同時に芝生に刺さるそれ。
「下手くそにも程がない?」
「……おるなら直接取りにこんか」
からからと音を立てながら広げられる隙間。やがてそこから顔を出したのは、部屋の主である王馬だ。頬杖をつきながら見下ろしてくる彼はニヤニヤと笑っており、憎たらしさしか感じられない。
「えぇ〜? やだなぁ、オレが今謹慎処分なの知ってるでしょ。もしかして夢野ちゃんの記憶って一日ももたないの?」
「どの口が言うんじゃ。お主がこそこそ抜け出しておることは知っておるんじゃぞ」
「へぇ、そう。じゃあ証拠を見せてよ」
そんなものないでしょ、と続ける王馬。余裕綽々といった態度が腹立たしくて堪らなくて、夢野はポケットに突っ込んだままの紙を取り出した。
「証拠ならあるぞ! ほら、お主がウチの部屋に投げ入れてきたこれじゃ!」
秘密結社の活動報告が記された、元紙飛行機。ややくしゃくしゃになってしまったものの、文字が消えてなくなっているわけではない。これぞ決定的で動かぬ証拠だ。そう夢野は胸を張ってみせる。
しかし頬杖をついたままの王馬は、やはりにやにやと笑ったまま突き出された紙を一瞥した。
「それをオレが書いたっていう証拠は? 筆跡鑑定でもした?」
「流石にそこまではしておらん。…………まさか、本当にお主ではないのか?」
あまりにも薄すぎる反応に、自信満々だった夢野の顔に影が落ちる。まさか、いやそんなはずは、けれど万が一ということも。そんな否定と肯定を繰り返しながら今一度、手紙へ目を落とす。活動報告とされる内容が綴られた最後。差出人の名前はやはり王馬小吉となっていた。
またこの学園にこんな回りくどい方法で王馬のなりすましをする者がいるとは思えない。
「……やはりこれはお主からの手紙じゃろう」
「さっきからそう言ってるじゃん! も〜、夢野ちゃんってばついさっき言われたことも忘れたの?」
「んあー! そんなこと言っておらんじゃろ!」
一体全体こんなことをして何が楽しいのか。夢野には王馬の考えていることなどさっぱり皆目見当もつかない。
それでも手紙を無視することなどなく、こうして律儀に返事を書いている。面倒臭がりであるはずの自分が、わざわざ男子寮へ赴いて同じ方法で返事を送っている。
というのも理由はたったの一つ。
「ねぇ、早く返事ちょーだいよ。オレ待ちきれなくて昼寝も一時間しかできてないんだから!」
「そこそこしておるではないか……」
こうして会話している瞬間に、手紙をやっとのことで返すことができた瞬間に見せる笑顔。屈託もないそれを目にする度、夢野の手と足は一人でに動いてしまうのだから仕方ない。
紙飛行機に乗せた文通は少なくとも、謹慎が解けるまでのあと三日は続くだろう。
【炭酸:紅鮭団】
「……お主は本当にソレが好きなんじゃな」
半開きの瞳が気怠げに見つめているのは、パチパチと微かな音を立てているペットボトル。半分にも満たない紫色の液体はグレープ味とされているが、果汁は然程入っていないらしい。
「うん、好きだよ! 一ヶ月に一回飲むぐらいにはね!」
「嘘を吐くでない。ここに閉じ込められて五日経つが、お主がソレを飲んでいない日はなかったぞ」
面倒臭そうに指摘してくる夢野を横目に、少し温くなってしまった炭酸飲料を喉へと流し込む。舌の上、喉の上でぱちぱちと弾ける感触は心地よいが、いささか刺激が弱く感じた。
鼻に抜ける匂いはしっかりとぶどうであるが、舌に残る甘みは自然なものには感じられない。僅かな果汁と人工甘味料、そして人の錯覚の上に成り立ったグレープ味は、ジャンクフードを好む舌にはよく馴染む。
「そういう夢野ちゃんは何飲んでんの? 塩水?」
「そんなもの飲むわけないじゃろ。ウチは林檎ではないんじゃぞ」
ぷく、と頬を膨らませながら反論する夢野。彼女の手には倉庫で見つけたのだというアイスココアの缶が握られている。
初日にイジった魚の干物ネタでからかおうとしていた王馬であったが、返ってきた言葉はなんとも可愛らしい果物の名前であった。こいつ本当に自分のことを美少女だと思ってるんだな、なんて呆れると同時に感心してしまう。
しかしそういった意識があるからこそ、こちらもからかい甲斐があるというものだ。にやりと笑うのもそこそこに、ぶつくさと文句を連ねる横顔へペットボトルを差し出す。
「キミは炭酸とかあんまり得意そうじゃないよね。嫌いなの? それとも飲むとブサイクな顔になるから控えてるの?」
「だ、誰がブサイクじゃっ。ウチはただ、パチパチするそれで舌が痺れるのが苦手なだけじゃ!」
先程よりも膨れた頬。ふい、とそっぽを向かれたのは王馬からなのか炭酸飲料からなのか。
恐らくどちらからともなのだろうな、と一人納得してペットボトルを夢野から離す。ほとんど中身の残っていない紫色の海に弾ける泡は先程よりもうんと少ない。薄いプラスチックから伝わる冷たさもほとんどなかった。
「ふーん、美味しいのに。勿体無いなぁ。これが飲めないなんて、夢野ちゃんは人生の九割を損してるよ!」
「……いや、そこまで損しておらんじゃろ」
「いーや、損してるね。世の中、飲料系の新商品にどれだけの炭酸系が出てると思ってるの? キミは嫌いだから知らないだろうけど、毎週少なくとも二つは出てるんだからね!」
「んあぁ……? そんなはずはない、じゃろ、流石に」
否定しながらも夢野は、まさかそんなはずはいやしかしなどと小さく呟く。徐々に視線が足元へ下りていくのは、考えに耽っている証だ。
かかった、と王馬は込み上げる笑いを堪えつつ、手にしていたペットボトルをもう一度差し出す。
「オレが付き合ってあげるからさ、飲めるように練習しようよ。もし残ったら飲んであげるからさ」
「んあー……」
「ほら、これならほとんど炭酸も抜けてるし。まずはこれを飲み切るところから始めてみない?」
優しい声を掛けてやれば、夢野はあっさりとペットボトルを受け取る。その甘っちょろさに声を出して笑いそうになるが、ここは我慢するしかない。
炭酸がほとんど弾けていない炭酸飲料など、ただの砂糖水のようなものだ。それをわかっているのかいないのか、まだ疑いの目をもって紫色の液体を睨みつける。
「本当に大丈夫なんじゃろうな……?」
「それで舌が痺れるんなら医者に罹ったほうがいいね」
難しい顔のまま考え込んでいた夢野はやがて、意を決したのか眉をきりりと上げてペットボトルを睨みつける。掴んでいる手に力を入れて、温くなってしまった液体に挑むために容器をゆっくりと傾けた。
一連の動作を見守っていた王馬は、容器の入り口に夢野の唇が当たる直前で動く。緊張からか身を固くする少女の耳元に唇を寄せ、くすくすと笑いながらこう囁いた。
「これって間接キスになっちゃうね。ゆ・め・の・ちゃん」
「………………………んぁ、」
小さな声が上がった、と同時に夢野は今度こそぴたりと動きを止める。全身をがちがちに固まらせ、白かった肌を顔から首から手まで朱に染め上げて。古びたブリキのオモチャのように、ぎぎぎと首を動かして王馬の方を見た。
「ふ、ふは……っ、あっはっは! 引っかかったね夢野ちゃん! 馬鹿だな〜、オレがそんな親切するとでも思ったぁ?」
ゲラゲラと笑いながら固まる少女の手に握られるペットボトルをひったくる。勢いもそのままに残った炭酸飲料を飲み干して、空になった容器を元あった場所へと返した。
「これ、捨ててくれるんだ? いやぁ〜、キミってば親切だね〜。じゃあお言葉に甘えちゃうね!」
目を丸くしたまま、ぱちぱちと瞬きをする夢野。もう少しその反応を堪能していたかったが、彼女にある程度の判断力が戻る前にこの場を去らなければならない。
言葉を畳み掛けてペットボトルを握らせて、王馬は頭の後ろで手を組みながら踵を返しその場を去る。突き刺さる視線も、震え始める声無き声も、ぺこりとペットボトルの潰れる音も。気付いていたが全てを無視したまま、悠々とした足取りを止めることはない。
「お、おう、王馬‼ お、お主と、お主という奴はぁ‼」
やがて飛んできた怒声は少しだけ涙声だった。その声をきちんと聞き届けた王馬は、にししと笑い声を一つ上げて走り出す。きっとこの後すぐ、声を聞きつけた茶柱が夢野の元にやってくるはずだ。今のうちに距離を置いておくに越したことはない。
(あんな反応をしてくれるんなら、もっと押しとけばよかったな〜。勿体無ぇ〜〜)
とはいえ今ならば投げ飛ばされても笑って許せそうかも、なんて。つい先程、疑惑を確信に変えたせいか柄にもないことを考えながら、王馬は瞼の裏に焼き付けた夢野の真っ赤になった顔を思い出していた。
【デザート:紅鮭団】
甘いものは別腹、という言葉がある。
人間の胃は二つもないのだから別腹という消化器官は存在しない。もちろんそんなことは言われなくても知っているし、ものの例えでしかないことも知っている。けれどもその例えが理解できるかといえば、必ずしもそうとは言い切れなかった。
自由があるのだかないのだか、いまいち判断がつかない学園に閉じ込められて約五日。ランチに出されたオムライスの後に控えていたショートケーキを前に、夢野は難しい顔で生クリームを睨み付けていた。
「んあー」
苺の乗ったショートケーキは見た目も華やかで、ケーキといえばこれと言っても過言ではない王道だ。鼻先をくすぐる柔らかく甘い香り。フォークを差し入れればふわふわのスポンジはさっくり切れてしまうだろう。
そこまでわかっていて尚、手にしたフォークを動かす気にはなれない。不規則にくるくると腹が鳴っている。その音は空腹を知らせるものではなく、満腹で胃腸がフル活動をしているものなのだ。
「食べないならオレが貰っちゃうけど、いいの?」
ここ二日ほど、食事時にはほぼ必ず隣に座るようになった王馬が、ニヤニヤしながらフォークを伸ばしてくる。その手をはたき落としてやろうか、と思うものの、折角東条が作ってくれたケーキを無駄にしたくはなくて。
さく、と生クリームに刺さったフォークを、複雑な表情で見つめることしかできない。
「……本当にもらうけど、いいの?」
「……よくはないが、ウチはもう満腹じゃからな。美味しいうちに誰かに食べられたほうが、こやつも本望じゃろう」
全部が駄目なら、一口だけ食べればよかった。そんな考えも脳裏に過ぎらなかったこともないが、一度口を付けてしまえば他の誰にも渡すことはできない。茶柱ならば喜んで受け取ってくれるかもしれないが、齧りかけのケーキなど貰っても迷惑なだけだ。
「ふーん。ならいいけど」
音もなく切り取られたケーキの先っぽが、王馬の口へと吸い込まれていく。間もなくして閉じられた唇。その向こうで溶けたのだろうスポンジと生クリームは、さぞや甘かったに違いない。ついつい羨むような視線を向けてしまう。
余程凝視していたのか、それとも敏いだけなのか。視線に気づいたらしい彼は片眉を跳ねさせながら、夢野へ目を向ける。
「食べにくいんだけど」
「んあっ、すまん」
さっくりとフォークが突き刺されるケーキ。やがて切り離された一口大は、スポンジに挟まれていた苺を引きずり出す。真っ白い生クリームに包まれた真っ赤な果実。あれもきっと美味しいんだろうなぁ、なんて考えてしまって。
はっと我に返った時には、じとりとした視線がざくざくと刺さっていた。
「食べたかったなら一口でも食べればよかったじゃん。夢野ちゃんってひどい嘘つきだよね」
「嘘を吐いたわけではない。……食べかけなど誰も食べたがらないじゃろ」
「そりゃあそうでしょ。誰かが手を付けたものを欲しがるやつなんて、ほんの一握りだね」
さくり、ふつり、ぱくり。何度か繰り返される一連の動きによってショートケーキも残すところ僅かになった。
そこでふと、夢野は生クリームに埋もれたままの大きな苺へ目を向ける。
「……王馬は最後に食べる派なんじゃな」
最初に食べるか、最後に食べるか。性格診断もどきに使われることもしばしばである、ショートケーキに乗った苺を食べるタイミング。
王馬はきっと最初に食べてしまうタイプなんだろうと思っていたが、実際には未だ苺は飾られたときのままである。少し驚きを混じえながら言葉をかければ、彼はフォークを口元に添えながら首を傾げた。
「美味しいものは最後に食べたいからね」
「意外じゃのう。お主はまず一番最初にいいとこ取りをする奴じゃと思っておったのじゃが……」
思ったことを素直に言えば、返ってくるのはふーんという声だけ。視線は位置も形も変わらない苺へ向けられている。つられて夢野もやや艶めく赤色へと目を向けた。
「ま、ここでは奪ってくる奴はいなさそうだしね。ゆっくりじっくり堪能できるってもんだよ」
「んあ? 何じゃ、そんなに苺を奪い合うような食卓なのか?」
よく食べるタイミングは兄弟の多さで変わると言われている。しかし夢野の記憶違いでなければ、王馬には兄弟はいなかったはずだ。他の誰でもない、彼の言っていたことが本当であれば、の話ではあるが。
「そうそう。油断してるとさらっと盗られちゃうからね〜」
「そうなのか。お主も苦労しておるんじゃのう……」
どちらかといえば、王馬は人のものをさらっと盗る側の人間である。そんな少年の持つ意外なエピソードに驚き半分、感心半分。あと全体的に疑っている気持ちがほんのひとつまみ。
間もなくすればショートケーキも残り二口程になる。ここでようやくフォークは飾られた苺に突き立てられた。ぷし、と瑞々しい音が微かに聞こえる。
「……食べんのか?」
口元まで運ばれるフォーク。僅かに付いてきたクリームとシロップで輝くそれを見つめたまま王馬は動きを止める。まさか苺を食べられることに感動しているわけでもないので、他に理由があるに違いない。
「食べていいの?」
「んあ? 何を言っておる。それはもうお主のものじゃろう。どうしてウチに了承を得る必要があるんじゃ?」
「ふーーん、そう。……なら遠慮なく」
に、と笑って苺を頬張る。甘酸っぱい果実をもくもくと咀嚼している王馬の視線は、ショートケーキの最後の一口、ではなく夢野へ向けられていた。
「なっ、何じゃ?」
「……さぁ、何だろうね?」
さくりとフォークを突き立てられるショートケーキ。ほとんど苺も残っておらず、生クリームとスポンジばかりのそれを頬張った彼は、表情を歪めながらも心底楽しそうな声で甘いとぼやくのだった。
【犬:育成計画】
「おかえり〜。遅かったね?」
お世辞にも広いとは言えない女子寮の自室。どれほどの広さかと問われれば、ベッドを置いてしまうと小さなローテーブルすら邪魔に感じてしまう程だ。
ここにマジカルショーで使用するあれこれが積み重なっていれば、いよいよ生活するどころではないだろう。学園が提供してくれる倉庫には感謝してもしきれなかった。
「…………お主、何をしておるんじゃ」
次回のショーに向けて行っていた打ち合わせを終えたのが午後六時。そこから片付けをし、電車に乗って女子寮へ着いたのは午後七時半。そしてやっと休めるとクタクタになった足を引きずり、自室のドアノブを捻ったのがついさっき。午後七時四十五分のこと。
「何って……見てわかんない? くつろいでんの」
「そういうことを聞いておるのではないっ」
ベッドに寝転がり、ローテーブルへ置きっぱなしにしていた女性誌を読んでいる男。どこから持ってきたのか、炭酸飲料とスナック菓子をローテーブルへこれでもかと広げ、自宅のように寛いでいる。
扉を締め、やや荒い足取りでベッドサイドへと寄った夢野。興味もなさそうに男が眺めている雑誌を取り上げてから、腰に手を当てて胸を張る。
「どうして! 王馬がウチの部屋におるのじゃ!」
女子寮。その名の通り、女子が対象となっているこの寮へは基本的に男子が入ることはない。ごく稀に招かれてやってくる者もちらほらいるが、顔を見るのは苗木や不二咲のように下心がないような者たちばかりだ。
もしかすると多少の下心はあるかもしれない、が今はその話は置いておいて。少なくとも、トラブルしか持ってこない王馬を招く女子などこの寮にはいない。
「ここが一番逃げ込みやすかったからね。あと隠れるにはうってつけだし?」
「何から逃げておるからウチの部屋なんじゃ。百田からならわからんでもないが、ここへ来たところで転子や春川たちに気配でバレるじゃろうが」
彼が普段から逃げている相手といえば茶柱や春川、そして百田だ。男子から逃げるのならば、女子寮はこれ以上にない避難先だろう。よく張り合っている相手はデリカシーがやや欠如しているので、勢い任せに入ってきそうなものではあるが、それを止められる体力自慢の女子は少なくないのだ。
「いつもなら、ね。今日は体育会系がみ〜んな出払っちゃってるでしょ? おまけに春川ちゃんと東条ちゃんも仕事で不在。残ってるのはオレの顔を見たらイヤそうな顔はするけど、無視する奴ばっかりだからさぁ〜」
ぱりぽりとポテトチップスの割れる音。ぷしゅ、と空気の抜ける音は炭酸飲料を飲むため、キャップを捻ったために上がったものだ。
どうやら出ていく気はないらしい。口でも腕力でも頭の回転速度でも勝てない相手には、何をしたって暖簾に腕押しである。
憤りを感じているのはまるで自室のように寛いでいる王馬へなのか、はたまた何もできない無力な自分へなのか。そんなもの両方に決まっている、と胸中で一人ごちた夢野は、勢いよくベッドへ腰を下ろす。
「うわっ。ちょっと〜、ここは川じゃないんだから、飛び跳ねたって上流にはいけないよ?」
「んあー! 川上りなどではない! というかそもそもお主は何から逃げておるのじゃ!」
びし、と人差し指を向けてやる。すると自身が発した失礼な言葉など棚に上げ、失礼だなんだと言い出すものだから、益々腹が立って仕方がない。頭に血が上っていることをどこか他人事のように感じつつ、いつも以上にまぶたを下ろし細い目で睨みつける。
流石にこれ以上のからかいはまずい、と思ったのだろうか。ヤダな〜、とへらへら笑いながら王馬は炭酸飲料のキャップを締める。
「オレが逃げる相手なんて一つしかないよ」
「……いつも言っておる、お主の命を狙っておる殺し屋とか何とかか?」
「そうだね。それも脅威ではあるけど、殺られそうになったら殺り返せばいいし、ここまで逃げるほどじゃない」
「じゃあ誰なんじゃ。他に思い当たる奴などおらんぞ」
不服そうな顔を崩しもせずに夢野が返せば、王馬もまた不服そうな顔で首を傾げる。
「いるじゃん、有名な奴らが。この世界に生きてて知らない人間なんていないよ?」
「んあー? 一体誰だと言うんじゃ。ウチと関わり合いがある奴らなのか?」
「ま、普通に生活してたら滅多にお世話にはならないかな。でもほら、オレは悪の総統だからさぁ」
にやにやしながら、王馬はヒントのようなものを与えてくる。しかし夢野はそのヒントを上手く活用することができない、のではなくしようとしなかった。
そもそもの話。彼女はとっとと彼に帰って欲しいだけであり、ここへ転がり込んできた理由などどうでいいのだ。さっさと飽きるなりして出て行ってくれればそれでいいのである。
「……考えようともしてないよね?」
「そ、そんなことはないぞ」
あっさり見透かされているだろうことは想定済みだったが、指摘されるとどうしても焦ってしまう。それでも何でもない風に、少し言葉に詰まりながら夢野が答えれば、王馬はふーんと小さく漏らして。
「最初から夢野ちゃんには期待してなかったから、別にいいんだけどね。仕方ないから特別に教えてあげるよ!」
だから耳を貸して、と誘われる。本当は心の底から全く乗り気ではなかったのだが、ここで無視をしてしまえばより厄介な展開になるに違いない。やがて夢野は断腸の思いで、恐る恐る手招きをする王馬へと近寄った。
にしし、とよく耳にする笑い声がくすぐったい。今すぐに離れたい気持ちを抑えながら待っていれば、間もなくして囁かれたのは。
「オレを今追いかけてるのは……、『国家の犬』ってやつだよ!」
沈黙、そして沈黙。お互いに顔を見合わせて瞬きを繰り返すこと数回。はぁ、と盛大な溜め息を吐いたのはもちろん、夢野だ。
「…………嘘ばっかり吐きおって。さっさと帰ってくれんか? 迷惑で仕方ないんじゃが」
「え〜〜〜? 流石に決めつけるの早くない? 帰ってくるときにパトカー見たでしょ?」
「見はしたが……、寮とは逆方向に進んでおったからな。お主を探しておるわけではないじゃろ」
ふん、と鼻息も荒くそっぽを向く。本当だよ信じてよと繰り返していた王馬は、暫くすれば夢野ちゃんが冷たいと泣き喚き始めた。
それでも止める気にすらならないのは、これ以上の戯言に付き合う気力がなかったこと。放っておけば反応が薄いことに飽きて勝手に帰ってくれることを願ってのことである。
未だ泣き声と鼻をすする音は止まない。早く終わってくれと徐々に気力が失われながら、もしも先程の話にほんの少しだけでも真実があったのならどうしよう、なんて不安に駆られた。
【匂い/香り:育成計画】
ふと爽やかな香りがする、気がした。顔を上げてみれば、欠伸をこぼしながら目の前を通り過ぎる影が一つ。いつもと変わらない、やや紫がかった髪をぴょこぴょこと跳ねさせているクラスメイトだ。
さっさと夢野の前を通り過ぎ、自分の席へ着いた彼はつまらさそうに頬づえをつきつつ、スマートフォンを弄りだす。ニュースでも見ているのか、それとも仲間たちと連絡を取っているのか。少し離れた席に座ったままの夢野にはわからない。
(……何じゃったんじゃろうか)
あまり嗅いだことのない匂いだった。柑橘系のような、そうでもないような爽やかさ。と思いきや、どこかに甘ったるい余韻を残してくるものの正体。何となく予想はつくものの、彼がそんなものを身に着ける様が想像できなくて、首を傾げてしまう。
うんうんと唸りながら腕を組むことおよそ二分。唐突にがたりと前の席の椅子が引かれた。驚きつつも朝の挨拶をしようと顔を上げた彼女は、その椅子に座った人物に目を丸くする。
「んあっ、王馬?」
「おはよー、夢野ちゃん。朝っぱらからずいぶんと熱烈な視線をくれてたけど、もしかしてオレに惚れでもしちゃった?」
後ろ向きに座ってきた王馬は、夢野の机に頬づえをつきながらにやにやと笑う。朝の挨拶もそこそこに投げつけられた言葉は、彼女の思考能力を低下させるには十分な破壊力だった。
「ほ、惚れ、惚れてなどおらん!」
「え〜、本当に? 教室に入ってからずっ〜とオレのこと見てたじゃん」
嘘吐かないでよ、なんて責めてくる王馬であるが、常日頃から嘘しか吐かない男に言われたくはない。このままでは相手のペースだと、夢野は一度頭にのぼりかけた血を冷ますため一つ咳払いをする。そうして今一度、目の前でにやにやと笑い続ける少年へ向き合った。
ふわり、と鼻先をくすぐる香り。やはり王馬から香っていたのかと確信する。
「お主、今日は何かのまじないでもかけておるのか?」
「は?」
素直に思ったことを口にすれば、ニヤケ顔は一変して怪訝なものに変わった。眉間に皺を寄せながら、訝しげに夢野の顔を覗き込む。
「今日も朝から飛ばしてるね。もしかして熱でもあるんじゃないの?」
「熱などないわい。お主から何か爽やかな香りがしたのでな。何かのまじないとして、その香りを身につけておるのかと思っただけじゃ」
魔法やまじないをする際、香りという媒体を使用することが多々ある。香りそのものに魔法をかけて身に着けたり、魔法をかける際に道具として使用したり。使い方は様々であるが、古くからよく使われる手法である。
まさか王馬がそんなまじないに手を出すとは思えないが、普段は爽やかな香りどころかそもそも匂いすら感じさせない男なのだ。何かあったのかと疑うのも無理はない。
「……へぇ、夢野ちゃんはそう思うんだ?」
「んあ、何じゃその含みのある言い方は。他に理由でもあるのか?」
呆気にとられていた表情は、いつの間にやらいつものニヤケ顔に戻っていた。ふーん、へー、などと口にしながら、楽しそうに夢野の顔を尚も覗き込み続ける。
「なっ、何じゃ……?」
「にしし……、べっつにー? 何でもないよ」
やがて席を立った王馬は、満足そうにしながら自分の席へと足を向けた。一体何が楽しかったのか、一体何に満足したのか。そもそも香りの理由を聞けていないではないか、と気付いたときには背中を向けられていて。
とはいえ、問いかけたところで確かな答えが返ってくるとは思わない。喉まで出かかった言葉は飲み込んで、夢野は小さく溜め息を吐いた。
「あ。ねぇ、夢野ちゃん」
すっかり遠のいた、はずの王馬が戻ってくる。今度は何だと訝しげな視線を返せば、机に手をついたまま夢野の顔を覗き込んできた。
「この香り、嫌い?」
「んあ? いや、まあ、嫌いではないが……」
どちらかといえば好きかもしれない、なんて歯切れも悪く答えれば、王馬はいよいよ上機嫌になった。不思議そうに首を傾げる夢野を置いて、足取りも軽く自らの席へと戻っていく。
結局、あの香りは何だったのか。夢野にはさっぱり見当をつけることができず、ただ鼻先へ残る甘ったるさに困惑するしかなかった。
【ヒーロー:紅鮭団】
下品な笑い声を上げながら暴れまわる怪人が、都会の街をあちこち壊して回っている。倒壊するビル群、降ってくる瓦礫の雨、すっかり様変わりした街並み。その中を逃げ惑っている民衆のうちの一人が、道路の亀裂に足を取られて転んだ。
家族なのか友人なのか、転んだ誰かの名前を必死に呼ぶ。怪我をしたのかその場から動けないその人は、やがて降ってきた瓦礫を前にして瞼を下ろした。自分はこんなところで呆気なく死んでしまうのか。そんなモノローグが続いたところで、いきなり音声が止む。
「んあ、今いいところだったじゃろ」
大きなスクリーンに映し出される絶望に暮れる誰かのどアップ。中途半端なところで止められたせいか、役者の目は半開きになっていた。
「夢野ちゃんはこれからどうなると思う?」
「どうも何も……、スーパーヒーローが助けに来るんじゃろ。ケースの後ろにも紹介画像で載っておったぞ」
テーブルへ放り投げられていたDVDケースを手に取り、夢野はおそらく数十秒後に映る予定だったのだろう画像を指差す。そこには映画のタイトルにもなっているスーパーヒーローと、今まさに絶望に暮れているその人が嬉しそうに微笑んでいた。
「え〜、そうかな? 実はその画像が嘘で、本当はぺっしゃんこになって死ぬかもしれないよ?」
「んあー。もしそうなら詐欺にも程があるじゃろ」
にしし、と笑いながら王馬はリモコンの再生ボタンを押す。止まっていた物語は動き出し、間もなくしてやってきたスーパーヒーローにより民衆たちは救われていく。
バカでかい音を立てながら怪人と戦うスーパーヒーロー。その際にあちこちを壊して回っているのだが、不思議なことに責められることはない。あの場にいる全員が、怪人を追っ払ってくれるなら多少の犠牲も厭わないとでも思っているのだろうか。
一人ぐらいはあれは自分の家だ、と憤慨してもいいだろうに。不思議なものである。
「しかし、意外じゃったな。お主はこういうヒーローものは毛嫌いしておると思っておったが」
超高校級の総統、として名高いらしい彼は、大きな組織を率いているボスなのだという。裏社会を支配しているような人間なのだから、勧善懲悪の傾向がとんでもなく強いスーパーヒーローものを好むとは思えなかった。
とはいえ、王馬の言葉がどこまで本当なのかなど夢野が知る由もない。もしかすると全てが嘘なのかもしれず、本当なのかもしれないのだ。
「わかってないな〜、夢野ちゃんは。悪の総統だからこそ、ヒーローぶってる奴の言動を研究しなくちゃならないんだよ!」
いつの間にやらスーパーヒーローにふっ飛ばされる怪人。倒壊したビルの中、瓦礫の山で拳を上げている彼の姿に、民衆たちから惜しみない拍手と歓声が向けられる。
「んあー、例えばどんな研究をしておるんじゃ?」
「例えば、かぁ。そうだね、まずは社会的地位の失墜をさせるにはどうするか、とかかな?」
ヒーローたちは多くの場合、素性を隠して活動している。彼らのプライベートを暴き、清廉潔白ではない人間性を社会に公開するのだ。
またヒーローたちが世界を守るためにと壊した物の数々。それらの損害を補修するために使用されるのはもちろん税金である。そちらばかりに金が流れて福祉などに回らない、と触れ回ってやれば不満は必ず生まれるものだ。
「二度と活動ができないよう、社会的にヒーローを叩き潰すんだよ。世界征服はヒーローがいなくなった後でもゆっくりできるからね!」
にしし、と意地の悪い笑みを浮かべながら王馬は続ける。そんな彼に対して夢野が抱くものは、相変わらず趣味が悪いのう、という呆れであった。
「しかし……、スーパーヒーローを研究したところで何の役に立つんじゃ? 現実世界にそんな奴などおらんじゃろ」
夢野たちの生きている世界には超常現象を起こすような能力者などいない。もちろん異形の怪物なんているわけがなかった。スーパーヒーローが活躍する世界というものはただのフィクションでしかないのである。
「確かにこういうど派手な能力を使うようなヒーローなんて、オレたちの世界にはいないだろうね。でも能力なんて持ってなくてもヒーローになるやつっていうのはいるんだよ」
「んあー。そういうもんかのう?」
「そういうもんだよ。……もしかしたらオレたちの中にも、今は名前のないヒーローがいるかもね?」
エンドロールも始まったところで再生が止められる。暗転するスクリーン。徐々に明るさと静けさを取り戻していくAVルームで、夢野は残り少ないいちごオレを飲み干した。
自由時間も残り少ない。今から新しい映画を見始めることなどできないので、これでお開きだろうと夢野は隣の王馬へ目を向ける。
「もしもその、名前のないヒーローが出てきたとしてじゃぞ? 王馬はどうするつもりなんじゃ」
特殊能力など持ち得てはいない名もないヒーロー。本当にそんな人間がいたとして、悪の総統だという王馬は一体何を仕掛けるのだろう。ちょっとした好奇心から尋ねてみれば、彼はにこりと笑った。
「そりゃあもう、あらゆる手を尽くして社会的に殺してやるかな!」
「……んあー、そんな人間が現れないことを祈るばかりじゃな」
目を輝かせながら息巻く王馬。そんな超高校級の総統を前にして、夢野は彼の言うヒーローもどきが身内から生まれないことを祈ることしかできなかった。
【傘:紅鮭団】
「これは一体どういうつもりじゃ」
両手を腰へ当てつつ、いつも以上に目を細めながら鋭い視線を向ける夢野。のんびりとしているはずの声に纏わり付いた棘の群れ。責める気しかないその言葉を突きつけられ、真正面に立っていた王馬はきょとんとした顔で首を傾げる。
「どういうつもりって……、何のこと? 心当たりがありすぎてどれの事を指してるのかわかんないよぉ〜」
具体的に言ってくれなきゃ相手に何も伝わらないでしょ、そんなこともわからないなんて夢野ちゃんは馬鹿だな。そう矢継ぎ早に捲し立ててくるものだから、ついつい夢野は怯んでしまう。
けれど今回ばかりは有耶無耶にするわけにはいかない。尚も続きそうな言葉を遮るように大声を上げ、憤慨する気持ちをそのままぶつける。
「んあー! しらばっくれるでない! この机の落書きのことじゃ!」
ばん、と思い切り木製の机を叩いた。うっかり勢いが余りすぎて痺れるほどの痛みが走ったものの、ここで隙きを見せてしまえば揚げ足を取られてしまうだろう。喉から飛び出しそうな悲鳴はぐっと噛み殺した。
「落書き……? あぁ〜、これのこと」
何かを言いたそうにしている視線は、間もなくして夢野の手が添えられた机へ向けられる。木製の、誰しもが見たことがあるだろう、何の変哲もない学校の備品。その片隅に油性マジックの落書きが、一つ。
並んでいるのは王馬と夢野のフルネーム。それを覆うように描き足されているのは、傘のような何かとハートの図。
人はそれを、相合い傘という。
「や、やはりお主が書いたのじゃな!? 」
「え〜、知らないよ。オレが夢野ちゃんみたいな子との相合い傘なんて書くと思う? ナシでしょ、ナシナシ」
「んぁ〜〜っ、ウチとてお主が相手などお断りじゃが、そう言われると腹が立つのう……!」
げんなりとした顔で言い放つ王馬。あり得ないと繰り返している彼の口を、今すぐにでも閉じてやりたくて堪らない。しかし残念なことに、今の夢野には魔法を繰り出せるMPが残っていなかった。
「……というか、王馬でなければ誰がこんな悪趣味なものを書くと言うんじゃ。もちろんウチは書いておらんし、確実に転子のはずでもないぞ」
「そりゃあ、茶柱ちゃんは違うだろうね。こんなの見られたらオレの息の根が止められちゃうかも……!」
恐怖に震えたかと思えば、びえぇああぁぁん、と大声で泣き喚き始める。おもむろに伸びてきた両腕。がしりと夢野の肩を掴んで前後に揺さぶってくる力は遠慮も手加減もない。
「んあー! やめんか! マナを無駄に消費させるでない!!」
何とか腕を振りほどけば、王馬はけろりとした顔で夢野から一歩分の距離を置く。最初から嘘泣きだとはわかっていたが、この身の変わりようはいつ直面しても腹立たしさを加速させた。
「うーん、それにしても一体誰が書いたんだろうね? もしかして……、オレたちがくっついて欲しいって思ってる奴の仕業かな?」
「そ、そんな奴がおるわけ無いじゃろ」
「そうは言うけど、実際にこうして書かれてるわけだし。可能性がゼロとは言い切れないよ」
「……お主に恨みのある者が、ウチとくっつけようとして書いた可能性も、ないことはないじゃろ」
誰もいない教室。書き記した連なる名前を三日間誰にも見つかることが無ければ結ばれるおまじない、という名の呪術。二人の目の前に横たわるそれは、恋が適う☆おまじない全集という本の、両思いになるための項に記されていた内容と酷似している。
王馬の相手に夢野を選んだ理由はわからない。とはいえある程度の予測を立てることはできるのだ。
「好みでもない女子と恋仲になるのじゃ。これ以上にない嫌がらせになるじゃろ? となると、犯人は王馬に恨みのある奴じゃ!」
ふふん、とドヤ顔で披露した推理。しかしそうなると犯人は、この学園で生活している者の殆どが当て嵌まってしまうことに遅れて気付いた。毎日どころか毎時の勢いで仕掛けられるイタズラ。その対象が絞られていることはなく、気付けば彼は怒りを露わにした誰かに追いかけられていた。
ということはつまり、推理は振り出しに戻ることになる。
「んあ。王馬よ、お主がもう少し大人しくしておればすぐに犯人に……、何じゃ?」
そもそも大人しくしていればこんなことにはならなかったのだが、今は横に置いておいて。とりあえず話を進めようとしていた夢野は、ふと注がれる視線に気付いた。顔を上げれば、先程まで元気に回していた口を閉ざし、妙な沈黙を保っている王馬と目が合う。
「はぁ〜〜〜〜〜〜〜……、これだから魔法で何でも解決しようとする怠け者は嫌いなんだよねー」
「……ウチの推理に文句があるのか?」
「当たり前じゃん! 文句しかないよ!」
ギロリと鋭い視線を向けてくるなり、離れていた距離を一気に詰められる。驚いて身を引いたものの、すぐ後ろにあった別の机と椅子に足がぶつかった。
「そもそもさぁ、何でオレだけが恨まれる対象になってるわけ? 夢野ちゃんに恨みのある奴の仕業かもしれないよ?」
「なっ、何じゃと!? ウチが誰かの恨みを買っておるわけがないじゃろ!」
「本当に? 心からそう胸を張って言える? 証拠はあるの? ないって言うなら、可能性がないとは言い切れないよね〜〜!」
「んあぁぁああ……!」
恨み節でたっぷり責められ、またその言葉が正論なので言い返すことができない。地団駄を踏んでしまいたい衝動に襲われながら、夢野は湧き上がる感情を必死に押し止めた。
「決めた! ウチは絶対に犯人を突き止めるぞ! そして誰からも恨みを買ってないことをお主に証明してやる!」
「ふーん、できるものならやってみれば? まぁ、今の夢野ちゃんなら一生掛けても犯人に辿り着けないだろうけどね」
「んあー! 今に見ておれ! ウチの魔法でズバッとまるっと解決してやるからな!?」
声を荒げながら踵を返し、夢野は教室を飛び出ていく。ばたばたと遠のいていく足音。それを聞き届けた王馬はすぐ側にある椅子へと勢いよく腰掛ける。
机へ頬づえをつきながら、書き記された名前を指で撫でて。やがて恨みがましい溜め息を吐きながら、苦々しく呟いた。
「辿り着けるもんなら辿り着いてみろっつーの」
【夏休み:育成計画】
「あーあ、夢野ちゃんと遊べるのも今日が最後かぁ……」
心底残念そうにぼやいた王馬は、今しがた開封したばかりの袋をベンチ横のゴミ箱へ捨てる。取り出されたのはナッツの混ざったチョコレートが掛けられたバニラアイス。躊躇うことなく齧り付いた彼は、いつも同じ味でつまんないな、などと眉をひそめた。
「おふくろの懐かしい手料理ではないんじゃぞ? 同じ味でなければいかんじゃろ」
箱に備え付けられたピックで、チョコレートに包まれたバニラアイスを刺す。それを口に運んだ夢野は、口の中に広がる甘さと冷たさに目を細めた。いつ食べても変わらない味。それに安心感を覚える彼女は、王馬の不満に共感することはできなかった。
「というか、今日が最後とは何じゃ。まるで今生の別れみたいな言い回しをしおって」
「ん〜? だって本当のことじゃん」
さっさと食べ終わったらしい彼は、何も書かれていない棒に唇を尖らせる。全然当たらないじゃん、とまたもや文句をこぼしつつ、ぽいとゴミ箱へ放り投げた。
「今年の夏は今しかないからね。だから、夢野ちゃんと遊べる夏も今日でおしまい」
ひょいとベンチから立ち上がり、夢野の前へとやってきた王馬は、残されているアイスを一つ摘み上げた。あ、と間の抜けた声が上がると同時に、口へと放り込まれるチョコレート。溶けかけたそれはすぐさま彼の口からなくなってしまう。
「んあー。そうは言うが、まだ夏日は続くと天気予報で言っておったぞ? 気が早いにも程があるじゃろ」
消えてしまったアイスのことを咎めたところで反省するとは思えなかった。また全てを食べきれるか少々不安を抱いていた夢野は、アイスの件を目線で責めるだけに留める。
そうして、にししと笑っている少年へ向け会話が続くように言葉を投げ返した。
「わかってないなぁ〜。だから夢野ちゃんはいつまで経ってもアジの開き止まりなんだよ?」
「それはどういう責め方なんじゃ……」
呆れたように返してやれば、にんまりとした笑顔と共に再び手が伸びてくる。流石に二つも取られるのは癪なので、夢野はさっとアイスの残る箱を王馬から遠ざけた。
「来年の夏休みも、こうして馬鹿みたいに遊べるとも限らないでしょ?」
ふ、と笑顔がなくなる。真剣な眼差しで夢野を見下ろしてくる王馬の顔つきはもちろん真顔で。どことなく寂しそうな色が滲んでいるようにも思えた。
けれども彼女は驚くことも、また焦ることもなく残っているアイスを口へ放り込む。
「……ちょっと。人が真面目な話をしてるんだから、ちゃんと聞きなよ」
「お主のことじゃ。どうせ『オレはいつも命を狙われてるからね! 来年の夏まで生きていられるかわからないじゃん!』とでも言うつもりなんじゃろ」
「うわっ、もしかしてそれオレの真似? 似てないにも程があるんですけど!」
「んあ、そもそも似せておらんからな。似るわけないじゃろ」
最後のひと粒を口へ放り込んで、夢野は空になった箱をゴミ箱へと捨てる。
「……つまんない反応だなぁ。オレの知ってる夢野ちゃんはもっと面白い子だったと思うんだけど」
溜め息を吐きながら王馬は再びベンチへ腰掛ける。責めるような視線を、隣でアイスの余韻に浸っている夢野へ突き刺しながら、不服さを頬の膨らみで表してみせた。
「どこかの誰かさんが、暇があればウチのことを振り回したせいじゃろ。あれがなければ、お主の言う面白い夢野秘密子が見れたんじゃろうなぁ〜」
夏休みが始まり、最終日となる今日までのおよそ一ヶ月半。事あるごとに夢野の元へやってきた王馬は、彼女の予定など半ば無視をしてあちこちへと連れ回した。プールに祭り、図書館や映画館や美術館。動物園や水族館など、夏のイベントからそうでもない場所を引きず回し続けたのである。
こうも長い時間を共にすれば、いくら嘘つきの王馬が相手とはいえ、ある程度の考えが読めるようになるものだ。
「えぇ〜、何それ! 自分のつまらなさを人のせいにするなんて最低だね!」
「んあー! 実際そうじゃろ! ウチの貴重な夏休みを奪いおってよく言うわい!」
互いに眉を吊り上げつつ、売り言葉に買い言葉で言い争う。何が楽しくてまだ残暑の続く青空の下で不毛な喧嘩をしなければならないのか。そうは思うものの、一度火が点いてしまえばなかなか止めることはできない。
「……でもさ、つまらなくはなかったでしょ?」
ところがいつもならもっと長く続く言い争いは、突如としてにんまりと笑う王馬の一言で、唐突に終わりを告げる。突きつけようとした言葉をぶつける先を失い、夢野は言葉を詰まらせるしかない。
筋金入りの面倒くさがりである夢野は、この夏休みを寝て過ごそうと決めていた。人でごった返す場所にわざわざ行こうとも思わなかったし、またこの暑さの中で動き回ろうとも思わなかったからである。
もしも王馬が押し掛けてこなければ、今頃彼女の夏の思い出は寄宿者の部屋のみとなっていた、かもしれない。
「んあ……。まあ、つまらなくはなかったぞ。多分」
「何その歯切れの悪さ。オレの親切心を踏みにじるなんて、ひどいよ夢野ちゃん!」
「いや、あれは絶対親切心ではないじゃろ……」
詰め寄ってくる王馬から逃げるように身を捩る。ああだこうだと絶えず責め立ててくる少年。わかったつもりでいたが、やはり何を考えているのかさっぱりわからなくなり、夢野は小さな溜め息を吐いた。
果たして来年の夏休みはどうなってしまうのだろう。そんな不安に駆られながらも、ほんの少しだけなら今年のような賑やかさもいいかな、なんて。
「ちょっと聞いてるの? その耳は飾り?」
「んあー! いい加減しつこいぞ!」
絶対に口になど出してやるものか。そう心に誓って夢野は、にやにやと笑い出す王馬へ鋭い視線を向けた。
【団子:育成計画】
「夢野ちゃんは花より団子だよね」
ひょいとつまみ上げられた黄金色。艶めいている蜜を纏った五つほどの玉は、適度に焦げ目がつけられている。とろりと垂れ落ちそうになる甘く香ばしいそれへ舌を伸ばし、掬い上げるように口へと招き入れた。
「んあっ、こら! それはウチの分じゃぞ!」
「いつまでもノロノロ食べてるのが悪いんでしょ〜? せっかくの焼き立てが冷えたら勿体無いじゃん」
にしし、と串を咥えたまま歯を見せて笑う。すると夢野は行儀が悪いだの手癖が悪いだの、ぶちぶちと文句を連ね始めた。
リクエストされたから、なんて理由から食堂で振る舞われていたみたらし団子。超高校級の料理人とメイドが腕によりをかけて作り上げたそれは、瞬く間に生徒たちの手へと渡った。
「で、話の続きなんだけど」
食べかけの団子を一粒口に含み、もちもちと懸命に食べている横顔を眺めながら声をかける。やがて投げ付けられる訝しげな視線。鋭いはずのそれは、まるで小動物のように団子を咀嚼する本人の顔のせいで、全く威圧など感じない。
「色気より食い気だよね、キミはさ。春先に花見団子が振る舞われてた時も、桜そっちのけで団子を貪り食ってたし」
「んあー、何を言う。ウチは貪るような下品な食べ方はしておらん」
ぷく、と頬を膨らませながらそっぽを向く。その間にも小さな口へ団子は吸い込まれ、串にはひと粒だけ取り残される形になる。
そこからぽとりと蜜が一滴、垂れ落ちた。しかし夢野の膝上には零さないように、と東条が持たせた紙皿が乗っているので汚れることはない。きっとあの気の利くメイドのことなので、分け隔てなく紙皿を渡しているのだろう。
けれどもここまで有効活用している生徒は、きっと彼女ぐらいなものだ。
「ほんっと色気ないよね、キミ」
「何じゃ、今日はやけに突っかかるのう……?」
呆れた顔と声で指摘をしてやれば、最後のひと粒を齧ろうとしていた口が止まった。訝しげだった視線はいつの間にやら面倒臭さを露骨に滲ませ始めている。
それでもきちんと受け答えをしてくれるのは、今以上の面倒に巻き込まれないための自己防衛、なのかもしれない。
「色気っていうか女子力がないんだよ。普通さ、こんなにぼとぼと落としながら食べる?」
「んあ? ……そんなにこぼしておらんじゃろ」
とっくの昔に串だけになったそれで皿を指してやれば、夢野は視線をそこへ向け、不思議そうに首を傾げる。どうやら自分がどれほど皿を汚しているか気付いていないらしい。
東条が、わざわざ夢野さんはこっちね、とやや大きめの皿を渡していたのも頷ける。
「全く……。そうやってすぐ、人の粗を探そうとするものではないぞ」
言いながら齧り付いた団子。半分を幸せそうにもちもちと食べていた彼女は、間もなくして名残惜しそうに最後の一口を招き入れた。
閉じられた唇に浮かんでいる笑み。そこへ纏わりついているものに、夢野は自力で気付くことは出来るのだろうか。
「粗探しなんかじゃなくて、実際に粗だからね」
「んあっ、何じゃと? ウチのどこにそんな、」
ぐい、と口の端を拭ってやる。少し乾燥して粘り気を増した蜜は、真っ白な肌の上から、真っ白な指先へと移っていった。
何をされたのかわからず、最初こそ目を丸くしていた夢野だったが、王馬の親指に乗っている黄金色に気付くと閉口した。信じられないものを見るような顔で凝視し、自らの頬に触れ、情けない声を上げる。
「団子を食べるだけなのにここまで汚くできるなんて、ある意味才能なんじゃない?」
「んあぁ……! そんな才能などいら、……ん、」
にやにやと笑いながら、眉を吊り上げる夢野の前で親指に残る蜜を舐め取る。途端に憤りをぶつけようとしていた彼女は固まり、目を見開いて、わなわなと震え始めた。
「……おっ? 少しは色付いたんじゃない?」
パクパクと口を開閉させながら、声無き声で何事かを訴えてくる夢野。髪色にも負けないほど真っ赤になった彼女へからかいの言葉をかけてみれば、一拍の間を置いて小さな手のひらが背中を襲った。
【砂時計:紅鮭団】
さらさらと落ちていく砂。細かな粒は細いガラスの管を通り、音も立てずに小さな山を作っていく。ぼんやりと雨のように降り注ぐ薄い桃色を眺めていれば、視界の端から白い腕が伸びてきた。
「夢野ちゃんってさ、意外とアナログなもの好きだよね」
持ち上げられ、振られることで鈍ってしまう砂の軌跡。これでは正確な時間が測れないではないか、と奪い返そうとするも、夢野の指先は触れることすらもできなかった。
唇をゆるく噛みつつ眉間に皺を寄せる。不服さを顔全体で訴えながら指を向けるのは、蓋の隙間から湯気を漏らしている容器だ。
「三分きっちり測るからこそ、カップラーメンは美味いんじゃろうが」
「んー、その意見に関しては概ね同意だけどさ。オレたちにはこれがあるじゃん」
言いながら王馬もとある場所へ指を向ける。そこにはカップラーメンの容器が二つと、各生徒に配られている電子生徒手帳が二つ置かれていた。その片方には秒単位で時を測れるタイマーが設定されており、指定した三分まで残り一分四十五秒だと教えてくれる。
「んあ、よいではないか。ウチはこっちの方が好きなんじゃ」
「ふーん。別にいいけどさぁ」
興味も薄そうに呟いた王馬は、意外にもあっさりと夢野の手へ砂時計を返した。てっきり返されないまま時が過ぎるか、返されたとしてもひっくり返されるのではないかと思っていたため、彼女は目を丸める。
できるだけ水平に保つようにすれば、絶え間ない砂の流れは安定していった。ほ、と胸を撫で下ろしながら、時計を最初に置いていた場所へと戻す。
「まぁ、いかにも魔法使いのアイテムって感じはするよね」
夜食にカップラーメンでも食べよう、と誘ってからここまで、共に過ごした殆どを倉庫での時計探しに費やしていた。面倒くさがりである夢野だが、こと魔法にかかることとなると手間を惜しまない。
その癖が悪い方向に出てしまい、気付けば消灯時間も過ぎてしまっていた。
「まさか食堂のある学校で、ガスコンロ使ってお湯沸かすとは思わなかったなぁ〜。オレとしては食堂でパパーっと終わらせたかったんだけど」
「じゃから、それはすまんかったと言っておるじゃろ。まさか砂時計があんなに高い位置に仕舞われてると思いもせんかったんじゃ……」
馬鹿みたいに高い棚の一番上に、ぽつりと置かれていた砂時計たち。集められた超高校級の中でも低身長の二人は、まずそれに気付くことが遅れたのである。また用意されている脚立に登ったはいいものの、想定以上の高さにビビってしまった夢野が、なかなか降りられなかったことも遅くなってしまった原因の一つだ。
ピピピ、とけたたましいアラームが突如として響き渡る。大袈裟に跳ね上がった夢野とは対象的に、王馬は極めて冷静にタイマーの電子音を止めた。そうして待ってましたと言わんばかりに一つ舌なめずりをし、蓋の上に置いていた割り箸をぱきんと割る。
閉じられていた蓋を一気に剥がしてしまえば、香ばしい醤油の香りが鼻先を擽った。くう、と鳴り出す腹の虫。ちらりと目を向けた先ではちょうど砂が落ちきるところだった。
「ひょうひえひゃさ、むめのひゃんはしっへふ?」
「んあー、口の中を空にしてから喋らんか」
むぐむぐと咀嚼を何度か繰り返した王馬は大袈裟に飲み込んでみせる。次いでスープを少しだけ飲んだ彼は、ちゅるちゅると控えめに麺を啜っている夢野へ語りかける。
「砂時計ってさぁ、イメージよくないんだよ」
「んあ? ……、ただの時計ではないか。何がどうして悪いイメージなどつくのじゃ?」
不思議そうに首を傾げながら、砂の落ちきったガラスを眺める。どこからどう見ても、古くから利用されている時間を測るための道具でしかない。
そんな彼女の前で、砂時計は天地を返される。さらさらと再び落ち始める桃色の砂。こつ、とひっくり返した王馬の指が、ガラスを支える木製の支柱を弾いた。
「ヨーロッパでは死のシンボルなんだよ。これは、命の刻限が減っていく様に見えるからね」
「んあ……、なるほど。言われてみれば、そう見えなくもないのう」
それにしても大袈裟なことを言うな、と夢野は続けて、やがて箸先で麺を掬い上げる。あまり啜るのが得意ではないのか、小気味いい音が立つ気配は一向にない。
まるで幼い子どものような食べ方を繰り返す夢野。それをイジってやりたい気もしたが、ここは我慢をして別の言葉をぶつける。
「ねぇ、夢野ちゃん。もしこの砂が全部落ちきるとオレが死んじゃう、ってことになったらどうする?」
指先で軽く弾けば、テーブルの上を滑っていく砂時計。ちょうど夢野の前で止まったそれは、変わらず砂をこぼし続けている。
「……そんなわけなかろう」
「例え話だよ。も〜、これだから潮の流れも読めないアジはさぁ」
「だっ、誰がアジじゃ!」
そんなことわかっている、とぶつぶつこぼされる文句。不機嫌そうに唇を尖らせていた彼女は、間もなくして目の前に差し出された砂時計を見つめる。
上部分に残っている砂は、残り少ない。このまま放置していれば一分も経たずして全てが落ちきるだろう。さて彼女は一体どんな答えを出してくれるのか。
期待半分に待っていれば、落ちきるとまであと僅かといったところで黒い腕が伸ばされる。
「そんなもの、こうすればよいじゃろ」
くるり、と反転する砂時計。溜まっていたほうの砂がゆっくりと下へ注がれていく。
「……え、それだけ?」
あまりにもあっさりした対応に目を丸めれば、夢野もきょとんとした顔で王馬へ目を向けた。
「んあ? 砂が落ちきったら死ぬんじゃろ? ならば砂が落ちきる前に、ひっくり返せばよいじゃろうが」
「……あー、なるほど」
理屈としては間違ってはいないだろう。彼女は言われた通り『砂が全部落ちきると死ぬ』ことに対しての解決策を出してくれたのだ。
「オレはてっきり、夢野ちゃんが魔法で砂を止めてくれるかと思ってたんだけど」
「んあっ。……じ、時間固定の魔法は、数ある魔法の中でも特に難しいのじゃ! 数秒止めるだけでも精一杯なんじゃから、永遠に止めておくのは無理なんじゃ」
言われてから気付いたのだろう。しどろもどろになりながら言葉を続けた彼女は、これ以上は何も聞くなと態度で示しながらラーメンを啜り始めた。
懸命に啜れない麺を啜り続ける夢野。その傍らに置いてある砂時計は、いつの間にか時を刻み終えていた。
「つまり、夢野ちゃんがずっと砂時計をひっくり返してくれるってことだよね? いや〜、助かるよ! オレは忙しい身だからね。いちいち自分でひっくり返すなんてできないもん」
「んあ!? な、何故そんな話になるんじゃ!?」
「何故も何も、キミが言った解決策でしょ? 自分の発言にはちゃんと責任持ってよね!」
ひっそりとひっくり返した砂時計。再び時を刻みだした砂の群れを横目にしながら、王馬は満足そうに笑みを浮かべた。
【お月見:育成計画】
「ねぇ、夢野ちゃん。月が綺麗ですね」
学園主催のお月見パーティーに参加していた夢野は、目の前に現れるなり笑顔で言い放たれた王馬の言葉に眉をひそめる。頬に詰め込んでいた月見団子の味を堪能し、名残惜しみながらも飲み込んで。たっぷり間を置いてからようやく言葉を返す。
「お主、意味をわかってて言っておるのか?」
「当たり前じゃん。っていうか、夢野ちゃんこそ意味わかってんの?」
馬鹿にするような口調で問いかけられ、彼女の眉間にはより深い皺が寄った。
「んあー、有名な話ではないか。どこかの誰かが『I LOVE YOU』をそう訳したというやつじゃろ」
一体どこで聞いたのか、はたまた読んだのかは覚えていない。しかしぼんやりと記憶の片隅に残る程度には多少の興味があったのだろう。不意を突かれたもののすぐに思い出せたのはそのおかげかもしれない。
ドヤ顔で言い終わるや否や、夢野は月見団子を頬張り始める。どうやら花より団子ならぬ月より団子、色気よりも食い気が優先されるらしい。
「な〜んだ、知ってたんだ。つまんないの」
せっかくからかおうと思ったのに。なんて付け足せば彼女は案の定、ただでさえ半分しか開いていないまぶたをより下ろす。じとりと鋭く責めるような視線。けれどそこに声が伴っていないのは、まだ膨らんだ頬の下に団子が残っているからだ。
「ところでさ、オレはあの言葉にロマンとかさっぱり感じないんだけど。夢野ちゃんはどう? やっぱり言われたら嬉しいもんなの?」
問いかけに答えられず、もぐもぐと咀嚼を続けることおよそ一分。怪訝そうな表情はそのままに、夢野は少しだけ考える素振りを見せる。
「……あんなもの、回りくどくて面倒じゃろ」
やがて導き出された答えは素っ気ないものだった。とはいえ彼女らしいといえばらしい答えでもある。
「ふーん。夢野ちゃんは情緒よりもわかりやすさを優先するんだね!」
「んあー、もうちょっと他に言い方があるじゃろ……」
面倒臭そうにぼやいた彼女は、最後の団子を口へ放り込む。頬を少しだけ膨らませながら咀嚼するその姿は小動物を彷彿とさせた。
しばらくはその様子を眺めていた王馬だったが、夢野が団子を飲み込もうとするタイミングでそっと囁きかける。
「好きだよ、夢野ちゃん」
「んんっ!? んぐっ……、なにっ、何を言い出すんじゃお主は!!」
カッと目を見開くものの、見事に喉を詰まらせたらしく言葉を吐き出すことができない。慌てて近くに置いてあった水の入ったペットボトルを手に取り、一気に飲み下す。
あっという間に流れていく月見団子だったもの。それらが完全に喉を通り過ぎていったところで、夢野はひっくり返った声を上げた。
「え? だって夢野ちゃんがわかりやすいほうがいいって言うから」
「そういう意味合いで言ったのではない! いや違う、そうではなくてじゃな!?」
ほんの少し前まではこちらに興味すらほとんど抱いていなかった夢野が、今では顔を真っ赤にして声を震わせている。その騒がしさに一部の生徒たちが王馬たちへ視線を向けるものの、意に介さず言葉を続けた。
「日本語じゃあ解り辛かったかな? よーし、じゃあ I LOVE ゆ、」
「んあ〜〜〜! ウチをからかうでない!」
よりわかりやすく伝えてやろうと耳元へ寄せた唇。低い声でわざとらしく囁いてやれば、言い終わる前に夢野は大声を上げた。
言葉を振り払うように首を横に振った彼女は、息衝く間もなく友人たちの元へと駆けていく。徐々に遠のいていく丸まった背中。真っ赤な髪から垣間見える小さな耳は、同じぐらい真っ赤に染まっていた。
「にしし……。なんてね、嘘だよ」
その嘘が何に対する嘘なのかなど、王馬以外に知る由はなかった。
【本:紅鮭団】
『この本の中身は頂いた。返してほしくば指示に従え』
埃っぽく、使われている気配が薄い地下の図書室。壁に沿って配置された書架の前で、夢野はとある本を開いたまま突っ立っていた。
最原から世界のマジックについて書かれている本が図書室にある、と教えてもらったのは三時間ほど前のことである。マジックではなく魔法だと再三告げているのだが、この探偵はどうにも頭が固いらしい。
そのことを不服に思いながらも、しかし話自体に興味はあったので、詳しい場所を聞きだして。先約であった茶柱との自由時間を終えた夢野は、一人で図書室を訪れたわけなのだが。
「んあー、何じゃこれは……」
例の本を手に取り、期待もそこそこに表紙をめくること数ページ。めくれどもめくれども白紙ばかりが続いたその本は、やがて一枚のカードをひらりと落とす。足元で静止したそれを拾い上げれば、目に飛び込んできたのは脅迫文にも似たメッセージだった。
こんなことをする人間など、この学園には一人しかいない。脳裏に思い浮かぶのはにやにやとした笑顔と聞き慣れてしまった笑い声である。
「…………はぁ、仕方ないのう」
無視をしてもよかった。手にとった本に興味があったことは嘘ではないが、わざわざあの少年に付き合ってやるほどの熱量はない。メッセージなど知らないフリをして、本を元に戻してしまえば見なかったことにもできただろう。
けれども夢野の足は、メッセージで指示されていた場所へと向けられていた。のんびりと図書室を抜け、ゆったりと階段を登って、長い廊下を歩き出す。
「まずは……、食堂じゃな」
白紙の本を手にしたまま、夢野は食堂の扉をくぐる。たまたまお茶をしていた神宮寺と、彼に給仕をしていた東条。不思議そうに見つめてくる二人へ問いかけるのは、カードに記されていたレシピ本の所在だった。
そうして始まった夢野の学園探索。食堂のレシピ本、倉庫の辞書、体育館のルールブック。ピアニストの教室にある楽譜、民俗学者の教室にある文献、探偵の教室にある捜査ファイル。ありとあらゆる場所に置かれた、ありとあらゆる本の隙間にカードは挟まっており、次の本を探すよう指示が記されていた。
「んあぁ……、疲れたぁ……」
歩きっぱなしの三時間。何度も挫けそうになりながら、しかしここまできて諦めるのも負けたような気がして。面倒臭いと訴える体と心を無視して、ようやく辿り着いたのは自分の研究教室だった。
がくがくに震えている足を叱咤して、魔法陣の描かれた扉を開く。少しだけ暗い超高校級の魔法使いの研究教室では、今日もよく分からないものが巨大鍋で煮込まれていた。
「やっほー、夢野ちゃん。よく挫けずにここまで辿り着けたよね〜! いやー、偉い偉い!」
静まり返った室内に響き渡るのは一人分の拍手と白々しい賛辞。ゆったりとした足取りで近付いてきたのは、この事件の犯人である王馬であった。
「お主、また勝手に人の部屋に入りおって……」
「それは夢野ちゃんも同じでしょ? ここへ辿り着くまで、どれだけの研究教室に無断で出入りしたと思ってんのさ」
責めるように言葉を掛ければ、返ってくるのは逆に夢野を攻める言葉だった。その正論具合に一度は言葉を詰まらせかけた、ものの。そもそもこの仕掛けを施すため、王馬も無断で研究教室に出入りしているではないかと気付く。
とはいえそれを告げたところで、本人はケロリとした様子で気にもしないのだ。責めたところで暖簾に腕押しである。
「それで、本はどこにあるのじゃ」
「本? 何のこと?」
「んあー、とぼけるでない! お主が白紙にしたこの本……、んあ?」
すっとぼける王馬に向けて、事実を突きつけるように開いてみせた本。そこには図解付きのありとあらゆる魔法が紹介されており、白紙の部分など余白程度しかなかった。
何度も開いては閉じを繰り返し、首を傾げる夢野。そんな彼女を満足そうに眺めていた王馬は、にししとお決まりの笑い声を上げる。
「その本、すごく勉強になったよ〜。おかげでオレも少しだけ魔法が使えるようになったんだ!」
「んあ、なんじゃと? いや、この魔法はそう簡単に習得などできんはず……」
ぱらぱらとページを捲り続け、眉をひそめながら考える。物をすり替える魔法は高度な技が必要で、いくら手先が器用とはいえ王馬がそう簡単に会得できるものではない。ましてや対象の本は、夢野がほとんど肌身離さず持っていたのである。
そこで不意に、夢野の足元へカードが落ちた。今度はなんだと拾い上げれば、目に飛び込んでくるのはとある一文。
『なんてね! 嘘だよ!』
はしごを登るときには本なんて抱えられないもんね、と続いていた言葉に絶句する。まさか、いやそんなはずは、なんて何度も繰り返す自問自答。しかし頭に過ったそのまさかが真実であれば、本がすり替わっていた理由に説得力が増すのである。
「お、王馬、お主もしやずっとついてきて……!」
勢いよく顔を上げたものの、そこには悪戯っ子のような笑顔はない。ぽつんと研究教室に立ち尽くすのは夢野だけである。
やはり乗るべきではなかった。そう今更後悔したところで、振り回された三時間は取り戻すことはできない。
【劇:育成計画】
「そんなにお姫様が嫌なの?」
白銀が腕によりをかけて作ったのだという、青を基調にしたドレス。女性なら誰しも、と言うわけでもないが、そういった衣服に袖を通すことを嬉しがるものだろう。しかし今、王馬の目の前で頬を膨らませながら不服さを訴えている少女は、そうではないらしい。
理由はもちろん、彼女の持つ肩書きと才能に由来している。それをわかっていて尚も問いかけるのは、一応の確認のためといったところだ。
「……ウチは魔法使い役がよかったんじゃ」
「仕方ないじゃん。文句ならお姫様役を当てちゃった自分に言いなよ」
文化祭の出し物は劇なんかどうかな、なんて提案をしたのは赤松である。劇など準備も大掛かりになるし面倒ではないか。クラスの半分以上がそんな心境であったものの、他にいい案が出ることもなく、あれよあれよと決まって今に至る。
劇の演目はくじ引きで決まったシンデレラ。しかし女子のほとんどが、様々な理由で「シンデレラはちょっと」と口を揃えてしまった。
難航する役決め、時間ばかりを無駄に消費する会議。そんな空気を壊すためか、シンデレラをロボットがやったら面白いのでは、なんて誰かが進言して。
そんなこんなで老若男女、どの役が出るかわからない公平なくじ引きが行われることとなった。恨みっこなしの一発勝負で見事シンデレラ役を引き当てたのは、超高校級の魔法使いこと夢野秘密子である。
「夢野ちゃんはいいじゃん。主役なんだからさぁ」
装飾の多いスーツのような衣服を弄りつつ、王馬は盛大な溜息を吐く。こうも派手な出で立ちではあるが、彼の役は王子の側近なのだ。見せ場はただ一つ、ガラスの靴をシンデレラに履かせるシーンのみ。
「悪の総統が『王子の側近』とか、こんなの部下に見られたら失望されちゃうよ……!」
「んあー、シンデレラに悪の総統が似合う役などおらんじゃろうが」
「あるよ! イジワルな継母とかぴったりじゃん!」
「……女装しておるほうが失望されるのではないか?」
呆れたように溜め息を吐く夢野。その表情には少しだけ不機嫌が残っているものの、数分前に見せたフグのような膨らみはほとんど残っていない。
「しかし……、王子役がキーボになるとは思わんかったのう。そもそもあやつは王子の衣装を着ることができるのか?」
ちらり、と夢野が視線を送るのは、少し離れた場所で頭を抱えている白銀の背中である。彼女の目の前に立っているのは不安そうな顔をしているキーボだ。しきりに大丈夫ですよね、と訊ねているが未だに答えはもらえていない。
そんな二人の間に割って入るのは超高校級の発明家。何に使うのかわからないパーツを山ほど抱えた彼女は、白銀がいい顔をしない言葉や言い回しを織り交ぜながら声高らかに笑い出す。
「大丈夫なんじゃない? 入間ちゃんがそれっぽい装甲パーツ作ってるみたいだし」
「そうみたいじゃのう。んあー、それにしても不安じゃ」
こつこつとわざとらしく夢野はヒールを鳴らす。低いものを用意したらしいが、王馬との目線がほぼほぼ変わらないほどには高さはあった。
劇の本番ではこの慣れないヒールで踊りを披露しなければならない、らしい。講師である東条が言うには「簡単なものだからすぐに覚えられるわ」とのことだが、なにせ彼女も超高校級である。東条の言う『簡単』と、夢野が考えている『簡単』の基準がかけ離れている可能性は極めて高い。
また踊りを共にするのがキーボであることも不安要素の一つである。あの超高校級のロボットは、想像している以上に不器用なのだ。
踊りなどしたことがない一人と一体。運動神経がよいとはいえず、どちらかといえば鈍くさい部類の彼らが、たったの一ヶ月で踊りを習得できるだろうか。
「……そんなに不安になることはないよ。オレがどうにかしてあげるからさ」
「んあ? どうにかとは……、お主はまた何するつもりなんじゃ」
怪訝そうな顔で王馬を見つめる夢野。そんな彼女の力など微塵も入っていない手を取って、軽く引き寄せる。あっさりと胸に飛び込んでくる不機嫌なシンデレラ。目を白黒させる彼女の背に手を添え、その場で適当なステップを踏んでやる。
「超高校級がこんなに集まってるのに、普通の劇なんてしたらつまんないじゃん? だからちょっとした改編をするんだよ」
「んあぁっ、かっ、改編……?」
くるりと回転させられた夢野は、目を丸くしたまま聞き返す。ふらつく足元が落ち着く頃に背中へ添えていた手を離し、一歩分の距離を置いてから仰々しく跪いて。
「鉄くず王子からの略奪愛、なんてどう?」
にしし、と笑いながら握ったままだった小さな手のひらへ唇を落とす、フリをする。びくりと跳ねる指先。膨らませていた頬を真っ赤に染めた夢野は、眉尻を下げ切りながら目を泳がせる。
「……な〜んてね、嘘だよ! 磯の香りがキツい姫なんてオレの趣味じゃないしね〜」
ぽかん、とする彼女の眉がみるみるうちに吊り上がっていった。頬を染めている朱の理由は、先程であった甘い雰囲気からきたものではない。わなわなと震えている拳は、ほどなくして振り上げられる。
「んあー! ウチの乙女心を弄ぶでない!」
突然の大声に驚いた白銀たちだろう視線が背中に突き刺さる。それに気付いていながらも王馬は、目の前で頬を膨らませながら怒りを訴えるシンデレラへ声をかけ続けた。
例え劇であろうと誰かに盗られるなんて冗談ではない。そんな本音は、にやにやとした笑顔の下にひた隠しにしたまま。
【色:紅鮭団】
「う〜〜〜ん、夢野さんはやっぱり赤ってイメージがあるんだけどなぁ」
「そう? 意外と青とか似合うと思うし……、あっ黄色も可愛いよ!」
「ピンクでも白でも黒でも、夢野さんが着るなら何でも似合いますよ〜!」
学園のどこを歩いても女子の姿が見当たらず、はてどこへ行ったのかと探すこと十分弱。そろそろ歩くことにも飽きてきた頃に、微かな声の群れが耳に飛び込んできた。
才囚学園の五階。それらの声は探偵の研究教室でも冒険家の研究教室でもない、コスプレイヤーの研究教室から漏れ出ていた。
「……あら、王馬君。誰かに用事かしら?」
入っていいものか悩んだものの、聞こえてくる会話の内容からすぐさまドアノブを捻った。あらゆる研究教室の中でも上位に入るほどだだっ広い室内。その一角で纏まっている人の群れへと近寄れば、輪から三歩ほど離れたところで佇む東条が振り返る。
「別に用事ってわけでもないよ。ただどこ探しても女の子たちがいないから、もしかして最原ちゃんがハーレムでも作ってんのかな〜って思ってさ」
「そんなことするわけないだろ……」
同じように三歩ほど下がって佇んでいた最原が、あからさまな嫌悪の色を見せる。不機嫌そうに眉間に寄せられた皺。関わり合いたくないと暗に告げてきている視線は無視をして、王馬は優しい眼差しを投げている東条の隣に並び立つ。
「ところでアレは何してんの? 等身大の着せ替え人形遊び?」
「違うわ、と言いたいところだけれど。今はそうなっているかもしれないわね」
微笑ましそうにしながらも、苦い笑みを浮かべる東条。その視線の先を辿れば、ソファにくったりと座り込む夢野がいた。いつもの三角帽子と髪飾りは頭になく、代わりにきらびやかな髪飾りが編み込みを留めている。
東条の話によれば、今日の朝食を摂り終えた後にこの騒ぎは始まったらしい。茶柱だったか白銀だったかが、夢野のステージ衣装について話を振ったのである。
単純な好奇心からきた、他愛もない問いかけのはずだった。しかしお決まりの口癖を呟いた魔法使いの返答に、赤松がそんなの勿体無いよ、と声を上げて。
「折角のステージ衣装なのにいつも同じなのは勿体無い、という話になったのよ」
「ふーん。それでどんな衣装がいいかを決めてるんだね! どうせ何着たって馬子にも衣装なのに、みんな頑張るなぁ〜!」
「あら、そうかしら? 私は夢野さんにはあの衣装が似合うと思うのだけれど」
言いながら東条が指さす先にある、柔らかいピンク色で控えめなレースがあしらわれたドレス。スカート丈も長すぎず短すぎず、また露出部分もそう多くはないため清楚な印象を受ける。
「えぇ〜、ピンクぅ? あんな色じゃあ夢野ちゃんのキャラ自体に負けちゃうでしょ」
「キャラに負けるって何だよ……」
ぼやくように投げられた言葉は引き続き無視をして、衣装話に花を咲かせる女子たちの手元を見る。
白銀が手にする真紅と黒のドレスは余分なレースなどは付いておらず、また大胆に背中の部分が開いていて大人び過ぎている。赤松が手にしている青いドレスはレースやラインストーンがふんだんに盛り込まれており、どこかに引っかかりやすそうであった。茶柱が手にしているのはエメラルドグリーンのドレスで、あの中では一番大人しいタイプのものだが、いかんせん丈が短い。
どれも似合わないことはないだろう。しかし彼女はパーティーに出掛けるわけではなく、ステージで魔法を披露するためにドレスを纏うのだ。
「あれじゃあドレスが目立っちゃって、肝心の夢野ちゃんの影が薄くなっちゃうよ。ショーの主演がずっと見えないままじゃあ、お客さんの気も散るじゃん!」
「文句ばっかりだな。……そういう王馬君ならどれを選ぶんだよ」
「え〜〜〜? オレなら、そうだなぁ〜〜……」
キョロキョロと室内を見渡す。トルソーに掛かっているドレスはほとんどがコスプレ衣装であるものの、一見だけでは判別できないものが多い。その中でもコスプレ衣装のようには見えないものを選別し、かつショーに立つことを前提に考えていけば。
「あれとかいいんじゃない? 地味だし、なんとな〜く魔法使いっぽいし、あとすっげ〜〜地味だし」
遠いところに並べられていたドレスはフリルなどの装飾も多くない。スカート丈もどこかで引っ掛けそうな長さでもなく、すっ転んでも中身をお披露目しなくて済みそうな短さでもなく。またRPGに出てくる魔法使いのローブのように見えなくもないデザインだ。
王馬の指さした先を見つめていた東条は、ふと笑みをこぼしたかと思えば歩き出す。真っ直ぐに止まることなくトルソーへと辿り着き、手早くドレスを脱がせて歩み寄るのはとあるソファ。
「夢野さん、このドレスならどうかしら? どこか魔法使いのようで素敵だとは思わない?」
「んあ……、今度は何じゃ……?」
もう着替えるのはゴメンだ、といった夢野の表情がみるみる内に明るくなる。東条からドレスを受け取った彼女は、目の前でそれを広げつつ目を輝かせた。
「んあ〜! これじゃっ、 この魔法使いのローブのような衣装……! 流石、東条じゃな! ウチのことをよく分かっておる!」
投げ出していた足でしっかりと立ち上がった夢野。にこにこと笑顔を絶やさない東条に、興奮した様子でお礼を重ね続ける。
「いいえ、選んだのは私ではないのよ」
「んあ? そうなのか……、では最原か?」
「それも違うわ。選んだのは……、あら」
先程まで自らが佇んでいた場所へ目を向けた東条だったが、困ったように笑っている最原を見て目を丸くする。辺りを見回してみるものの、つい先程までいたはずの姿が見当たらない。
「東条? どうかしたのか?」
「あれ、東条さん誰か探してるの?」
「夢野さん、そのドレスどうしたんですか? もしかして東条さんが選んだものですか?」
「へぇ〜、紫かぁ。ちょっと地味かもしれないけど……、きっと似合うよ!」
わいわい、きゃあきゃあ。再び湧き始める赤松たちの勢いに流されるまま、夢野は手にしていたドレスを試着すべく更衣室へ向かう。
ステージ衣装にしては確かに地味だが、袖を通してみてわかる動きやすさに驚く。これならば多少無理な動きをしても引っ掛けたりすることはない。
そして何よりもこの、魔法使い感がよくでているデザイン。これに見あった帽子やブーツを履けば、いつもとはまた違った雰囲気を出せるに違いない。
「んあ、やはり東条が選んだものではないのか……?」
鏡の前で一回転をすれば翻るスカート。その波打つ様をぼんやりと眺める彼女が真実を知るのは、半日も後のことになる。
【トリックオアトリート:育成計画】
「王馬、トリックオアトリートじゃ!」
頭に乗せている帽子のリボンは紫色に、ステージでしか纏わない長いマントを引っ提げてやってきた魔法使い。お世辞など言えないほどまな板の胸を張りながら、彼女は鼻息も荒く言葉を投げかけてきた。
「あれ、ハロウィンって昨日じゃなかったっけ?」
「んあー、そんなわけなかろう。正真正銘、今日が本番じゃ!」
何せ東条が言っておったからのう、と鼻高々に夢野は言う。自分の手柄ではないのにどうしてここまで得意げにできるのか。なんて思いはしたものの、そこを突くと話が無駄に長くなるので、喉まで出かかった言葉は飲み込んでおく。
赤を基調とする夢野の制服は、今日に限ってはそうではない。真っ赤なスカートはカボチャ色、帽子のリボンやマントの裏地は紫で統一されている。どこからどう見てもハロウィンを意識した色調だ。
「いくらなんでも浮かれ過ぎじゃない? いつもに増して大分イタい感じになってるけど」
お気に入りのロングステッキはコウモリやら何やらで装飾されている。恐らくは赤松や茶柱辺りが可愛いからと盛りに盛ったのだろうが、何事にも限度というものがあるのだ。
「折角のイベントなんじゃ。ちょっとぐらい浮かれてもいいじゃろ。それより……、ほれ」
少しだけ不服そうにへの字になる唇。ほんの少しだけ頬を膨らませた彼女は、間もなくして王馬へ手のひらを差し出してくる。
「え、何? お手でもしろってこと?」
「そんなわけないじゃろ。トリックオアトリート、じゃ」
小さな手のひらがせがむのは、もちろんお菓子だ。
「そんなこと急に言われても……、お菓子なんて何にも用意してないよ!」
唇を尖らせつつ不服さを隠しもせず、訝しげな顔をする彼女へ嘘を投げつける。
今日がハロウィンであることを知らないわけがない。こういったイベントごとは全力で悪ノリする。それが王馬率いる仲間たちのモットーなのだ。
「……まあ、そんなことだろうとは思っておったがな」
王馬はどちらかといえば、今の夢野のように菓子をせびる側だ。そして何も持っていない相手に全力投球のイタズラを仕掛けるのである。
夢野はそれを知っていたし予想もできていた、ものの。たまには少しぐらい困らせてやりたい。その一心からわざわざ探し歩いて捕まえたのだ。
「お菓子を持っていないことをわかってて、そんなこと言ったの? さ、最初からいたずらが目的だったんだね! 酷いよ夢野ちびゃああぁああぁぁん!」
「んあーー! 耳元で泣き叫ぶのではない!」
目から鼻から口から飛び出る汁。端正な顔立ちをこれでもかと歪めて泣き叫ぶ彼は、夢野の悲鳴を聞くなりケロリとした顔になる。そうして縮こまりかけている彼女の顔を覗き込みんで。
「で、何してくれんの?」
にしし、と笑いながら期待に満ちた瞳が夢野を捉える。その笑顔に思うところがあったのか、彼女の片眉がピクリと跳ねた。王馬が何を考えているのかを探るためにまぶたが細められる。
「ほら、オレはお菓子持ってないよ! だからイタズラするっきゃないよね!」
しかし本心など悟られるような下手を打つわけがない。にやにやとした笑顔を貼り付けたまま、困ったように眉尻を下げる夢野へ詰め寄る。すると彼女はぐうと小さく唸り、ステッキを両手で握り締めた。
果たして小さな魔法使いはどんなイタズラを仕掛けてくれるのだろう。漏れ出る期待はそのままに、王馬はそのへの字に曲がった唇が開くのを待った。