紅鮭団&育成計画ログ 02【育成計画 / 卒業後】
薄暗い店内に等間隔で設置されている間接照明。夕焼けの色にも似た橙は不平等に横顔を照らしている。ひそりひそりと囁かれる言葉、バーテンが鳴らすシェイカーの音。ビルの最上階に設けられたラウンジで、人々は密やかな時を過ごす。
とても広いとは言えない店内で中央を陣取っているグランドピアノ。鮮烈なスポットライトを浴びているそれは、軽やかな歌声を披露していた。滑らかに耳へと届けられるクラシックのアレンジは、ラウンジの雰囲気をより濃密なものへと作り上げる一端を担っている。
「……いつ聞いても、赤松のピアノはいいものじゃな」
「ええ、転子もそう思います」
コーラルピンクのドレスを纒い、グランドピアノを軽やかに、時に激しく歌わせる女性。かつては超高校級のピアニストと呼ばれていた赤松楓は、今や世界を股にかけるピアニストである。
今日は久々に彼女が日本へ帰国するということで、積もる話もあるだろうとこのラウンジへと集まった。顔なじみが全員揃うことはなかったが、それでも多くは集まったほうだろう。それぞれの世界で活躍する彼らの話は尽きることはない。
「クックック、最原クンには黙っておいてあげたほうがいいかもネ」
「血涙でも流しそうじゃしのう」
店員の一人が赤松に気付いたのは、入店してから一時間ほど経った頃だ。申し訳なさそうに、けれども期待に瞳を輝かせる彼は、是非ともあのピアノを使ってほしいと頼み込んできた。
赤松楓はプロピアニストである。演奏を行うのであればそれなりのお値段がかかるものだが、今日の彼女はすこぶる機嫌がよかった。また元来のお人好しも手伝い、是非とも弾かせてほしいとすぐにピアノへと足を向ける。
ピアノバカとはまさしく彼女のことを言うに違いない。一曲だけ、という口約束は赤松の方から破られてしまった。しかし上機嫌に奏で続ける彼女を止めるのも野暮というもので、旧友たちはカクテルを傾けながら演奏に聞き入り続けている。
「え〜、絶対面白いじゃん。写真送りつけてやろうよ! っていうかもう送っちゃったけど」
「……アンタってやつは本当に変わらないね」
春川から鋭い視線を向けられた王馬は、わざとらしい悲鳴を上げながら夢野の背中に隠れる。すると茶柱が声を荒げそうになるので、挟まれた夢野は慌てて茶柱の口を塞いだ。
「赤松の演奏中じゃぞ。暴れてはならん」
「そ、そうは言われましてもですね……!」
「そーそー。こんなお洒落なラウンジで手足上げるなんて、みっともないったらありゃしないよ?」
「……ぐぬぬ、夢野さんを盾にしてなければ今すぐにでも三つ折りにしたいですっ」
「加勢しようか? 私だったらアイツの言うようにみっともなく足も手も上げないで殺せるけど」
「こ、こらっ、やめんかっ」
この場に似つかわしくない茶柱と春川、二人分の殺気。それを全身に浴びることとなった夢野は震える声を上げる。いくら殺気の向けられている先が自分でないとわかっていても、今日集まった中でワンツートップの攻撃力を持つ二人に睨まれては心臓がもたない。
「わ〜、二人して大人げないなぁ。挟まれる夢野ちゃんの身にもなりなよ」
「王馬もいい加減にせんかっ。元はといえばお主が余計なことを言うからじゃぞっ」
全ての元凶である男を振り返れば、すぐそばにある端正な顔。にやにやと人を馬鹿にするような笑みを浮かべていた彼は、あまりの近さに驚いて固まる夢野へ柔らかな笑みを向ける。
「……あれ、もしかして惚れ直した?」
「だっ、誰がほ、」
「夢野さんが王馬さんに惚れてるわけないじゃないですか」
頬を染める夢野が否定するよりも速く、茶柱の白けた声が飛んできた。突き刺さる冷めた視線は春川のもので、ぽかんとする夢野を通り越し、いつの間にかいつもの調子に戻った王馬へ向けられている。
パチパチ、と拍手が鳴り始めたのはこの頃だった。ようやく我に返ったらしい赤松が、恥ずかしそうに席を立っている。やがてぺこりと礼をした彼女は、はにかみながら元いた席へと戻ってきて。
「う〜、恥ずかしい! 夢中になって全然時間が過ぎてるのに気づかなかったよ〜! みんなも止めてくれればいいのに!」
「あんなに楽しそうに弾いてたんじゃ、水を差すのも気が引けるよ」
両手で頬を包みながら言う赤松に、呆れたようにしながらも笑って返す春川。演奏が素晴らしかった、楽しそうに弾いていた、聞いてて楽しかった。そう口々に皆が言うものだから、やがて彼女はまだ照れくさそうにしながらも誇らしげに笑う。
そうして先程のやり取りはすっかり忘れられてしまったわけだが、夢野は未だに皆の輪に飛び込めないでいた。ちらりと視線を向ければ絡め取られた小指が見える。
『あれ、もしかして惚れ直した?』
きゅう、と締め付けられる指。どきりと跳ねた心臓には気付かなかったフリをして、夢野は会話を弾ませる赤松たちへ目を向ける。けれど先程、耳元で囁かれた優しい声が頭から離れなくて、開いた口は緩やかに閉じる。
「……いい加減さ、嘘吐いてないで正直になりなよ」
耳へ滑り込む低い声。驚いてそちらを見れば、何もかもを見透かしたかのような瞳が、目を丸くする夢野を映していて。
するりと離れていく指先。あっけらかんとした声で最原からのメッセージを読み上げる王馬の背を見送って、夢野はのろのろとカウンターへと向き直る。飲みかけだったぬるいカクテルを一気に飲み干し、呟くのは悔しさに溢れた言葉。
「……惚れ直してなんて、おらん」
だってずっと、彼に恋い焦がれ惚れ続けている。今更よさを再確認することなどないのだから。
【育成計画】
「そ〜とぉ〜! 今度の作戦なんですけど、こんなのどうですかぁ〜?」
「ボス。この前言ってたターゲットの情報、集まったよ」
「ねぇ、総統? この作戦なんだけど、逃走ルートを練り直したの。確認していただける?」
わいわい、きゃあきゃあ。やたらとでかいデスクに向かっている少年の傍らに集まっている女性が三人。素顔を隠すためのピエロを模した仮面は取り外されており、三者三様の綺麗で可愛い顔が並んでいる。
ペンを握る手へつつつ、と添えられる細い指。背中にぴったりと押し付けられている豊満な胸。甘えるような声で腕に絡みつく手。まるでハーレムのような、べったりぴったり女性から纏わりつかれる様は、男性からすれば天国のようだろう。
「…………」
その様子を遠目でちらちらと盗み見る夢野は、空になってしまったグラスを意味もなく手にし続けた。あまり得意ではない炭酸飲料を飲み干すまでに三十分はかかっている。その間も、そして今でも彼女は応接用のソファに座らされたまま放置されていた。
何らかの仕事なのか、それとも次の計画なのか。ペンを走らせている王馬は、時折部下である彼女たちを鬱陶しそうに払ってはいる。しかしやってもやっても絡まれるため、遂には諦めたようだ。
「…………んぁ」
どうして恋人が、部下とはいえ女性に絡まれ続ける姿を見せられなければならないのだろう。関係者以外誰も通したことがない、というアジトに連れてこられ舞い上がっていた心は、どん底を通り越して地下行きだった。
帰ってしまおうか。そんな考えが頭に過るほど夢野は意気消沈していた。初めて見た仮面の下、三者三様に整った顔立ちをしている女性たち。スタイルも三者三様であるが、少なくとも夢野よりかは女性の体付きなのだ。
(……勝てる部分がないではないか)
ちらり、と小さなハーレムへ目を向ける。相変わらず王馬は鬱陶しそうにしながらもペンを走らせ、女性たちはきゃあきゃあと盛り上がっていた。
割って入ろうか、とも思わなくもない。しかし見てくれはどうあれ仕事の話をしているのだから、邪魔するわけにもいかないだろう。そんな遠慮が夢野の足を止め、そしてじわじわと心を沈ませていった。
「…………よし」
帰ろう。そう意気込んで立ち上がった彼女は、入ってきた扉の方へ足を向ける。果たしてまっすぐこのアジトを出られるかはわからないが、なるようになるはずだ。意気込みもそのままに一歩踏み出し、王馬へ帰る旨を伝えようとして。
「んあっ⁉」
目の前に高身長の女性が立っていたことに気付く。ひっくり返った声を上げながら、足をもつれさせてソファに逆戻りする夢野。そんな彼女の隣に腰掛けて、にこりと笑いかけてくる。
「なっ……、なんじゃ?」
「うふふ」
にこにこと笑顔を近付けてきた女性は、そっと夢野の頬へ手を添えた。華奢で柔らかな両手で包み込まれたかと思えば、ぐいと勢いよく手前に引かれる。驚きと痛みで抵抗する間もなく前のめりになれば、鼻の先にキスをされた。
「…………んあ?」
「あーーーーっ!ずるぅい!」
何が起きたのかわからずに固まる夢野。彼女が抵抗しないことをいいことに頬へキスをする女性は、相変わらず柔らかな笑みを浮かべたままである。
大きな声と共にどたばたと足音が近付いてきたのは、それから間もなくしてのことだ。女性とは逆隣に腰掛けてきたツインテールの少女は、夢野の首へと腕を回して自らの方へ引き寄せる。
「抜け駆け禁止っていったのにぃ!」
「約束、忘れたの?」
「あら、ごめんなさい? だってあまりにもいじらしくて、可愛かったものだから」
わいわい、きゃあきゃあ。目を見開いたまま夢野を取り囲んで三人は話に花を咲かせている。何がなんだか、どうなっているのかわからない。
しばらくして、ようやく夢野は我に返った。豊満な胸や擦り付けられる頬から逃げるように藻掻きつつ、ぽつりと残されたデスクへ助けを求める。ぱちり、と目が合うのはもちろん王馬だ。
ペンを走らせる姿勢のまま、目を見開いて固まっていた彼は、涙目の夢野と目を合わすなり勢いよく立ち上がる。
「お前ら! だから今日は鬱陶しかったのか!」
「えぇ〜? なんのことですかぁ〜?」
組織のボスである王馬のことを、もちろん彼女たちは慕っている。しかしボスのことは男としてはちょっと、なんて常々口にしているのだから、先程のような密着をする理由がないのである。
それなのにああも密着してきたのは何故なのか。疑問には思っていたが、ただの気まぐれだと王馬は好きにさせていた。しかしアレにはきちんとした理由があったらしい。
「こら! ベタベタ触るな!」
「嫌なら早く仕事を終わらせて」
「恋人ができて浮かれるのはわかりますけど、きちんとやることはやって頂かないと」
「誤解を招くような言い方をすんなよ! オレはちゃんと仕事してるだろ⁉」
彼女たちが構いたくて仕方がなかったのは王馬ではない。来る者拒まず去る者構わず。恋愛にさほど興味を抱かなかった我らがボスが、年相応の少年として踏んだり蹴ったりしながら漸く捕まえた夢野なのだ。
「ごめんねぇ〜、嫌な思いをさせたい訳じゃなかったんどけどぉ」
「貴女があまりにも可愛かったから、つい。許してくれる?」
「はぁ、それにしても本当に可愛いわ。ねぇひみこちゃん、私たちと一緒に遊びましょう?」
「んあっ……、んあぁ……?」
きゅうきゅうと囲まれ抱き締められ、夢野は目を白黒させながら固まる。顔を真っ赤にしている彼女はちらりちらりと三人の女性を見回して、やがて王馬へと向けられて。
「お、おーまぁ……」
涙目で助けを求めてくる夢野。そこからデスクの椅子がひっくり返るまで、一秒も掛からなかった。
【n周目 / 特殊設定】
埃の積もった図書館。わらわらと集まる顔馴染みたちが驚愕の面持ちで見つめるのは、薄緑の柔らかな髪を真っ赤に染めた青年だ。柔和な笑顔も、含みある言動もなく事切れた彼のこの姿を見るのは、果たして何度目だろう。
繰り返される五十三回目。どれだけ足掻いても未来が変わることはなく、予定調和のように進んでいく結末を迎えると同時に、またリセットされる。最初こそ抗っていた心もとうに擦り切れ、今ではただ同じ流れに身を預ける以外に選択肢はない。
「ぶっさいくな顔」
夜長に誘われて行うマジカルショーも果たして何度目の開催になるのか。慣れてしまった手付きで着々と準備を進めていれば、不意に背後から声をかけられた。
「……何か用か」
振り返るのも面倒で、手元から目を離さずに答える。すると背後にあった気配はゆらゆらと左右に揺れ、やがて夢野の隣へやってきた。
「マジカルショーやるんでしょ? どんなものなのかな〜って見に来たんだよ」
「そうか」
にこにこと人懐っこい笑顔で王馬は言う。興味本位なのかただの冷やかしか。そのどちらであっても、夢野にとってはどうでもいいことだった。素っ気なく言葉を返し、垂れ幕にカーテンフックを取り付ける作業へ移る。
その横顔をしばらく眺めていた王馬だったが、これ以上は反応が望めないとわかるや否や、踵を返して歩き出す。その気配だけを追いながら、夢野は手元を動かし続けた。
どうせ、あと数時間後には『昆虫でなごもう会』が開催される。そこに強制参加をさせられて、寄宿舎に戻って、朝から始めたマジカルショーの最中。水中に放られた星がピラニアに食い散らかされるのだろう。
それに驚いて、学級裁判で水中ショーの仕組みを暴かれ、そして。
(……生きながら死んでいるようじゃな)
与えられた役割を果たすだけの毎日。終わりの見えないコロシアイショーに幕が降りる日はくるのだろうか。いっそのこと自ら命を断てば、この狂った物語に終止符を打つことができるかもしれない、なんて。
「夢野ちゃん」
いつの間にやら戻ってきていた気配が夢野の名前を呼ぶ。しかし顔を上げる気にはならず、また反応してやる気力もなかった。黙々と作業だけを続け、彼が飽きて去るのを待とうとする。
けれども王馬小吉という少年が、夢野の思い通りになった試しなどない。
「そんな死んだ魚の目をしてさ、楽しいの?」
「……楽しいぞ。少なくとも、お主と話しているよりかはな」
「たはー、今日は一段と手厳しいね」
そんなこと微塵も心に思ってもいないくせに。感情を捨てることに特化した心の沼へ声を放り投げ、向けられる笑顔を無視し続ける。
こうすれば飽き性でつまらないことが嫌いな彼は何処かへ行くのだ。今までの経験で、夢野が知り得た一つの知恵である。
「……ねぇ、何をそんなに我慢してるの?」
それなのに王馬は、どういうわけか夢野の隣から離れようとしない。伏せ気味の帽子の鍔。その端を摘見上げながら顔を覗き込んでくる。
嫌でも目が合わされた。何もかも見透かすようなアメジストは、死んだような顔で作業を続ける夢野を映し込んでいる。
「キミが抱えてるそれ、どんな嘘なの。教えてよ」
にんまりと笑ってみせる王馬。きっと言わなければ解放してくれることはないのだろう。今までの経験で知り得た、知りたくなかった面倒な知恵の一つだ。
「……よいぞ。特別に教えてやろう」
ぽそぽそと言葉を漏らせば、暗い色をしたアメジストに輝きが宿る。笑みをより深くした彼はようやく帽子の鍔から手を離した。
どうせ未来は決まっている。足掻いて藻掻いて死んだ心がそれをよく知っていた。今更敷かれたレールから外れたところで何かが変わるわけでもない。
「但し、明日まで生き延びることができたらな」
あと数時間後に始まる『昆虫でなごもう会』に強制参加をさせられて、寄宿舎に戻る。朝から始めたマジカルショーの最中、水中に放られた星がピラニアに食い散らかされるのだ。
何も変わらない、何も変えられない毎日。時間と精神をすり潰されながら決められた明日を生きるだけ。
「うん、わかったよ! オレ、絶対に明日まで生き残るね!」
この瞬間、王馬の計画は確固たるものになっただろう。じゃあねと手を振りながら去っていく背中。薄ら笑いを浮かべながらそれを見送った夢野は、やがて表情を削ぎ落として作業に戻った。
明日になったら少しは変わるだろうか。そんな馬鹿馬鹿しい甘い考えは、準備を整え終わった幕と一緒に畳んで置いておく。
この世界はきっとずっと終わらない。降り積もった根拠のない確信だけが、信頼できる現実だった。
【紅鮭団】
「いや、そこまでしなくてもいいって。ねぇちょっと夢野ちゃん、聞いてんの?」
「やれと言ったのはお主ではないか! 自分の発言には自分で責任を取れと言ったのはお主じゃろ!」
昼時を少し過ぎた頃。賑やかな食堂の中でもやたらめったら賑やかな二人は、片方は呆れたように、もう片方は頬を膨らませながら言葉を掛け合っていた。
今日のランチは東条が腕によりをかけ作ったオムライス。サラダとスープ、デザートまで付いているものだから、女子からはついつい食べすぎて太っちゃうかも、なんて言葉が漏れている。
そのオムライスをスプーンに一口分。やや不格好な形で乗せた夢野は、不服そうな顔をそのままにぐいぐいと王馬へ差し出していた。
「いやまぁ、言ったけどさぁ……」
「ならさっさと食わんか。東条が作ってくれたものを冷ますわけにはいかんからな」
呆れた顔を反らし続け、尚も抵抗を続ける王馬。その態度に不機嫌を更に加速させる夢野は、ついにへの字に曲げられた彼の口の端にスプーンを押し付けた。
「……えっと、」
遅れてやってきた最原は、その光景に言葉を失っていた。それは同じく遅れてやってきた赤松と春川も同じのようで、席に座るなり三人で顔を見合わせる。
「王馬くんがちょっかいを掛けるのはよく見るけど、逆は初めて見るね?」
「うーん、でも夢野さんはちょっかい掛けてるってわけではなさそうだけど……?」
「……またくだらないゲームでもしたんじゃないの?」
「お、ハルマキ冴えてんな〜。正解だぜ!」
ひそひそと囁き合いながら状況を推理する。興味津々の赤松、冷静に観察する最原、興味など微塵もなさそうな春川。そんな三人組に話しかける人物といえばもちろん、百田である。空いていた春川の隣に移動してきた彼は、やや乱暴にオムライスやらが乗ったトレイをテーブルに置く。
「ちょっと」
「悪ぃ悪ぃ。うるさかったよな」
むす、とする春川の言葉にウィンクを飛ばす百田であるが、指摘されたのはトレイのことではない。けれどそれを言ったところで理解される気もせず、また言ってしまえば最後追求されることがわかっていたので春川はそっぽを向いた。
少し困ったように笑った彼は、違う理由ではあるものの同じく苦笑いをする二人へ向き直る。
「さっきの自由時間に何人かでゲームをしたんだよ。負けたやつが一番のやつの世話を焼くっつう罰ゲーム付きで」
「なるほど……。でも意外だね、夢野さんが参加するだなんて」
「あ〜、参加するっつーのとはちょっと違うな」
キーボとゴン太、そして王馬の三人で戯れていたところにやってきたのは、夜長と茶柱と夢野の三人であった。男子嫌いの茶柱があからさまに嫌がりながら文句を言い、王馬が後からやってきたくせにと文句を返す。そんなやり取りを続けている内、売り言葉に買い言葉でゲームが始まったとのことだ。
結果は王馬の圧勝。やる気など微塵もなく運にも見放された夢野が負けてしまったらしい。
「ほら、口を開けんか!」
「いやだから、自分で食べられるって。そこまで赤ちゃんじゃないよ」
夢野ちゃんじゃあるまいし、と面倒臭そうにスプーンを押し返す王馬。そんな返しに何じゃと、と眉を吊り上げる彼女は、先程よりも強引にオムライスを押し付け始める。
「王馬としては茶柱を負かしてパシリに使うか、夢野を負かして悔しがる茶柱に見せつけてやろうとでも思ってたんだろうがなぁ」
「……一応、狙い通りにはなったけどって感じだね」
茶柱が負けることはなかったが、その彼女が愛でて止まない夢野を負かすことはできた。恐らくは夢野をこき使って、悔しがる茶柱に辛辣な言葉を投げつけてやるつもりだったのだろう。その目論見は途中まで成功をしていた、のだが。
しかし想像をしていた以上に、夢野が積極的に世話を焼いてきているのである。それが茶柱へ対する王馬の態度の意趣返しなのかは定かではない。
「い・い・か・ら! 早く食べんか。お主も男なんじゃからいい加減腹を括ったらどうじゃ」
「えぇ……。何それ、脅迫じゃん……」
珍しく困ったように下げられる眉尻。大きな目を半開きにし、面倒臭そうに差し出されたままのスプーンと夢野を交互に見る。やがて、観念したのか盛大なため息を吐いた王馬は、ようやく鼻息も荒く詰め寄ってくる彼女に向き合った。
「わかったよ。夢野ちゃんがそこまで言うなら、食べてあげるよ」
「元はといえばお主が言い出したことじゃろうが」
大きく開かれた口。抵抗する気配がないことを確認した夢野は、ようやく手を下ろすことができると安堵しながらスプーンを差し出した。
けれどもそれが王馬の口へ入ることはない。寸でのところで逃げていった顔は、にんまりとした笑みを浮かべて夢野の視界から消えていく。
「なーんてね! すぐに信じちゃうんだから、夢野ちゃんってばチョロすぎたよね〜!」
「んああ! 王馬、待っ、」
「やーだよ! そんなに食べさせてやりたいなら茶柱ちゃんにでも、」
「王馬君」
さっと立ち上がり、今まさに逃げようとしていた王馬の肩に添えられる手。黒い両手は有無を言わさずに彼の体を椅子へと押し戻した。
「……えっと、東条ちゃん?」
「昼食を出してくれと頼んだのは王馬君、貴方よ。言ったからにはきちんと自分の発言に責任を持つべきだわ」
私の料理が口に合わないのなら仕方がないけれど、と続ける東条の両手は王馬をそこから動かないようがっちりと固定している。明らかに彼女の言動は一致していないが、それを指摘する者はここにはいない。
滅私奉公を信条と掲げる東条から漂うのは、怒り。原因は料理を口にしないことなのか、それとも食堂で騒ぎ散らしていることなのか。しかし後者であるならば夢野も咎められているはずなので、恐らく。
「東条もそう言っておる。ほれ、あーん」
強力な後ろ盾を得たことで夢野はふふんと鼻を鳴らしながら、ずいっとスプーンを突き出した。すっかり冷めてしまった一口分のオムライスは、無駄な攻防のせいで型くずれを起こしている。
スプーンを手にする夢野と、尚も肩を抑えつけてくる東条。どちらも引く気が全く見えず、王馬が取れるべき道はたったの一つしかない。
「…………、……」
今まで見たことのないような複雑な顔。さっと素早く崩れかけのオムライスを口にした彼は、満足そうに笑っている夢野からスプーンを奪おうと手を伸ばす。
しかし今までそこにあったスプーンは姿を消した。突然のことに目を丸くする一同に自慢げな笑みを向けた彼女は、反対の手にスプーンを出現させる。
「今日は一日、面倒を見るんじゃろ? まだ一口しか終わっておらんではないか」
「…………マジかよ」
信じられないものを見る目で射抜かれても尚、夢野スプーンを止めることはない。そうして再度差し出されたオムライスはやはり、食べなければならないだろう。
「こんなにも夢野さんが尽くしてくれているのに、何が不満だって言うんですか。何なら転子が食べさせてあげましょうか?」
夢野の絡んだ珍事だというのに珍しく大人しい茶柱の声は冷えに冷え切っている。ここで大人しく従わなければ、東条だけでなく彼女も敵に回すことになるわけで。
「……王馬くんのあんな顔、初めて見たかも」
黙々とオムライスを食べながらやり取りを眺めていた赤松の視線は優しい。同じくやり取りを眺めていた百田の目も、どこか見守るようなものであった。
なんでそんな目をするんだ、と不思議そうにしながらも、オムライスを食べ進める春川。そんな三人と、渦中の人物たちを観察しながら、最原は苦笑いを浮かべつつスープに口を付けた。
【育成計画 / 卒業後】
ヒートアップしていた打ち合わせも、十九時を超えたあたりで一区切りを付けることとなった。マジカルショーの開催予定日までかなりの余裕がある。今から根を詰めすぎてもよくないこと、昼辺りから続けていたため集中力も切れていたこと。その他諸々の理由からこの日はお開きとなったのだ。
「夢野さん、帰りはどうされるんですか?」
ビルの入り口でぱらぱらと別れていくスタッフ。彼らを見送っていると、衣装係の女性スタッフに声を掛けられた。よかったら駅まで送っていきますよ、と目の前に車のキーを差し出してくる。
「えー、駅までぇ? ケチだな〜。俺だったらきちんと家までお送りしますよ〜」
「……夢野さん、断っていいんですよ」
にっこりと笑いながら話に食い込んできたのは、音響係の男性スタッフだ。事あるごとに夢野に絡んできては、家まで送ると申し出てくる奴である。
ここまで下心を丸出しにする男もそういない。嫌悪感を露わにしながら言う女性スタッフをまあまあと宥めながら、夢野はポケットに突っ込んだままの携帯電話を取り出す。
「申し出は大変有り難いんじゃが、迎えが来ることになっておってな」
「え、そうなんですか?」
「……まさか彼氏っすか?」
表示されるデジタル時計は二十時に差し掛かりそうなことを教えてくれる。ちらりと大通りの方へ目を向ければ、見たことのある車がこちらへ曲がってきた。
「そうじゃのう……、友だち、になるのか?」
派手な音を立てるわけでもなく、すうーっと小道に入ってきたのは左ハンドルのオープンカー。停まるやいなや、夢野の姿を見つけた運転手は眉間の皺を隠しもせずに唇を尖らせる。
「おっそい! いつまで待たせんのさ!」
「じゃから謝ったじゃろうが。……すまんのう、お先に失礼するぞ」
「あっ、はい。お疲れ様でー……す……」
素早く助手席へ乗り込んだ夢野は、シートベルトを締めてからスタッフへと手を振る。はっと我に返った彼らが労いの言葉を言い終わる前に発進してしまった外車は、やがて大通りへと吸い込まれていった。
振っていた手をゆっくりと下ろしながら、女性スタッフは隣で固まっている男性スタッフへ目を向ける。
「脈もないし絶対勝てない相手じゃん。諦めなよ」
可哀想に、という視線を横から背後から向けられた彼が、がっくりと肩を落とすまでそう時間は掛からなかった。
規則的に並んでいる外灯は、あっという間にやってきては通り過ぎていく。夜の中、オレンジ色の灯りで照らされた高速道路にはあまり車が走っていなかった。平日の夜とはいえ、少なすぎるような気がしないでもない。
とはいえ、屋根を取っ払っている車で走るには丁度よかった。排気ガスも少なければ騒音も少ない。そこまで音量を上げなくとも、ラジオが聞こえてくる程度には静かである。
「しかし……、お主が運転できるとは知らんかったぞ」
いつも運転は部下に任せていた王馬である。まさか悪の総統が自ら運転するとでも、と馬鹿にされたことを夢野は今でも根に持っているのだ。
「んー? あぁ〜、まあね。いっつも部下に任せるのもボスとしてどうなのって話じゃん? アイツにもプライベートってもんがあるしさぁ」
「んあー。お主も他人のことが労れるほど、大人になったんじゃな〜」
「……オレのこと馬鹿にしすぎじゃない?」
顔は真正面のままにギロリと視線だけで睨まれる。それに少し恐怖を感じなかったわけではないが、これまでこちらは散々馬鹿にされてきたのだ。少しぐらい言い返しても罰は当たらないだろう。
しかしどうにも気まずくて、耳へ飛び込んでくる音楽へと意識を向ける。スピーカーから流れるのは、渚をテーマにしたヒットナンバーばかり。ラジオのパーソナリティーが、リスナーから届いた海での思い出を語っている。
ふと、夢野は目線を真正面へ向けた。遠くから段々と近付いてくる看板は、とうに彼女の家がある地区の降り場を通り過ぎている。
「……のう、王馬よ」
「なにー?」
「送り迎えすると言ったのは嘘じゃな?」
珍しく連絡が来たかと思えば、送り迎えしてあげようかと提案してきた。何を企んでいるのかと疑いはしたものの、折角の厚意だからと甘えてみれば、これである。
相変わらず顔だけは真正面へ向けたまま、王馬はにししと笑って見せて。
「嘘じゃないよ! 夢野ちゃんを実家に届けてあげてるんだって!」
「……もしやまた魚弄りか? お主、まだウチのことを魚ネタで弄ってくるのか?」
怒りを通り越して呆れてしまい、夢野はため息もそこそこに素知らぬ顔で運転を続ける男へ詰め寄る。
学生時代、入間が始めた魚ネタ弄り。まさか成人してまでもそのネタを引きずられるとは思ってもいなかった。全然変わっていないのかこの男は、と夢野の視線は剣呑さを増していく。
「にしし……。夢野ちゃんにしては冴えてんじゃん?」
「んあー、やはりか! ウチは降りるぞ!」
「いや無理でしょ。っていうか嘘なんだからちょっと落ち着いてよ。ね?」
車を降りる、だなんて宣言はもちろん嘘だ。もちろんお互いにそんなことはわかっている。だからこの会話もただの戯れでしかない。
それなのに王馬はハンドルに添えていた片手を、肘置きに添えられていた夢野の手のひらに重ねる。ぎょっとして運転席に目を向ければ、ほんの一瞬だけ真正面から目があって。
「海沿いにさ、いい店を見つけたんだよね。夢野ちゃんもきっと気にいると思うよ」
「……んぁ、そ、そうか」
間もなくして彼の手はハンドルへと戻っていく。けれど夢野の手にはまだその温もりは残されたままだったので、恥ずかしいやら嬉しいやらで表情は複雑になってしまう。
「ちょっと飛ばすよー」
「んあ!? まっ、待たんか! せめて法定速度をじゃな!」
だって間に合わないかもしれないし、と返した横顔は楽しそうな笑い声をこぼす。シートベルトを握り締めながらスピードに怯える彼女もまた、いつしか笑い声をこぼしていて。
やがて真っ直ぐに伸びた先で見えてくる、暗くもきらめく水平線。生温い風にさらわれてやってきた潮の香りに胸を躍らせるまで、そう時間は掛からないだろう。
それまでに頬の熱が引いてくれればいい。互いの顔を見ることもしない、否、見ることができないまま。渚のヒットナンバーに揺られて夜の街を駆け抜けていった。
【育成計画 / 卒業後】
「…………、……は?」
全国各地を巡るマジカルショーを終え、一週間の休みをもらったらしい。その連絡を受けてから二日後、そろそろだろうと家を訪ねれば、やはり家事もせずにぐうたらと過ごしていた。
これまでの中でも一番ハードだったことは知っている。けれども女子としてこの生活はどうなんだ、とちくちく刺してやれば、夢野は渋々起き上がった。できることなら自分が来る前にそのやる気を起こしてほしいのだが、今回ばかりは仕方がない。
そう甘やかすからいけないのだと毎回自分に言い聞かせてはいるが、ついつい世話を焼いてしまうのだ。
「…………いや、ちょっと、いやいや」
台所周りの片付けを本人に任せ、洗濯機を回すこと数十分。普通逆ではないのかと思うものの、今更下着で取り乱すような仲ではない。とはいえもう少し恥じらいというものを、なんて文句をぶつぶつ連ねていれば、クローゼットから出てきたレースが一つ二つ、三つ。
安っぽい素材で作られた、布地部分がほとんどないレースのワンピースのようなそれは、ベビードールと呼ばれている代物だ。
(え、何で……、誰かから貰った?)
それはそれで大問題なのだが、ベビードールなど自分の恋人が進んで買うわけがない。ならば誰かから貰ったという選択肢しか浮かばないわけで。
(いや誰だよ、んな趣味の悪い……、趣味……、は、まぁ……)
脳裏に浮かんだ感想、想像、その他諸々。それらを振り払うように頭を振ってみたものの、手にしたままのレースに目を向けてしまう。
着たことがあるのだろうか、これを。振り払ったはずの想像もとい妄想がゆるやかに戻ってきては、要らぬ感情を勝手に置いていく。
じわじわと迫り上がってくる衝動が何なのか、わからないほど子どもでもないものだから。
「何をしとるんじゃ」
「うわ!?」
にゅ、と視界の端に飛び込んできた赤毛。不思議そうな顔でこちらの手元を覗き込んできた彼女は、握られたままのレースを見るなり小さく言葉を漏らす。
「あぁ、それか」
適当に放っておいたからのう、と言うなりクローゼットへ散らばっているレースを拾い上げる。それを下着の入っているらしい棚へと押し込んだ、かと思いきやおもむろに手を差し伸べてきた。
「ん。それも仕舞うぞ」
「へ……、は、あぁ……、うん……」
一回り小さな手のひらへレースを乗せれば、彼女は何事もなかったかのようにそれをクローゼットへ仕舞い込む。ぱたん、と閉められる扉。やがて振り返った夢野の目を何となく見ることができなくて、視線を反らしてしまう。
「……? どうかしたのか?」
何も言わないことを不思議に思ったのか、怪訝な視線が突き刺さる。大して後ろめたいことをしたわけではない。けれども脳裏に未だちらつく光景が、どうしても微かな罪悪感を生む。
しかし一つだけ、どうしても確認しなければならないことがあった。意を決し、夢野を真正面から捉える。
「あれさ、買ったの?」
自分で買ったのなら真意を知りたかったし、誰かから貰ったというのなら誰からの贈り物か知りたかったのだ。
「んあー。そうじゃな、自分で買ったものじゃぞ」
「へぇ……、何で?」
「それはそのぅ……あれじゃ、あれ」
少しだけ顔を曇らせる夢野。その態度にやや身構えてしまうものの、後に続いた言葉で段々と肩の力が抜けていく。
曰く、一ヶ月前にかつてのクラスメイトたちで女子会を開催したときのことだ。いつものように入間の下ネタが始まり、その日たまたま標的になった夢野と売り言葉で買い言葉で言い合いになったらしい。お前みたいな幼児体型で相手は満足してんのか、なんて焚き付けられ、つい帰り道に激安量販店で買ったのだという。
「しかしまぁ、お主もよく知っておるじゃろうが。ウチの体型はどう頑張ってもアレには合わんくてのう」
勇んで着たはいいものの、鏡に映った自分の姿を見たときにはっと我に返った。凹凸が少ない夢野はどう頑張ってもパッケージの女性とは同じにならなかったのである。簡単な挑発に乗ってしまったこと、自分のコンプレックスを目の当たりにしたことで、ど派手なレースはクローゼットの奥にしまい込まれた。
「……あ、そう」
しょうもない理由でよかった、と胸を撫で下ろす。けれども、しまい込んだ割には手前にあったな、なんて疑問が過った。
これ以上この話題を突っ込んでどうするんだと思わなくもなかった、ものの。ちらりと視線だけで訴えかけてみれば、夢野は少しの間を置いて再び口を開く。
「いくら安物とはいえ、捨ててしまうのは勿体無いからのう。今はパジャマとして着ておるんじゃ」
「…………え、」
布地が少ないから意外と涼しいぞ、なんて続けながら夢野は笑う。そうして部屋から出ていってしまったので、残されたこちらは呆然と立ち尽くすしかない。
ちら、と視線を向けるのは閉ざされたばかりのクローゼット。そこに眠っている際どいレースはまさかの現役なのだという。
(……聞かなきゃよかった)
消えかけていた想像がよりはっきりと形づいて脳裏に戻ってくる。それを振り払うように大きく頭を振ったものの、少なくとも今夜の内には忘れられそうになかった。
【紅鮭団】
「んあっ」
背後から飛んでくる小さな悲鳴。何事かと振り返れば、困ったように眉を八の字にした夢野が、自らの足元を見つめていた。
「どーしたの? 犬のフンでも踏んだ?」
「……ここには犬なんておらんじゃろ」
そんなことがあり得るわけがないことを王馬もよく知っている。けれどもわかった上でそう問いかけてやれば、彼女は呆れを隠しもせずにジト目で言葉を返してきた。
はぁ、と溜め息を一つ。中途半端な位置で止まっていた足を前に出し、夢野は面倒臭そうにぼやいた。
「引っ掛けてしもうた」
「うわっ」
夢野の細すぎる足を覆っている黒いタイツ。そこへ僅かに空いた穴、加えて伝線した箇所からは真っ白な肌が覗いていた。
反射的に声を出してしまった王馬は、すぐさまその後に続ける言葉を探す。不健康そうな肌の色だとか、いつか入間が言い出した子持ちししゃもネタだとか。あらゆるからかいの言葉が脳裏を過っていくが、上手く言葉にして出てこない。
「んあー、着替えに帰らねばならんのう。……めんどい」
ちらちらと見せつけられる足。ただ面倒くさいことを訴えてきているだけで、そこに何かしらの意図はないのだろう。それは重々わかっていた。けれども、普段見ることなどない素足を前に、王馬の動揺は治まらない。
これまで悪の総統として、世の中の裏を渡り歩きながら引っ掻き回してきた。そう、王馬小吉という男は超高校級と呼ばれるほどの抜きん出た才を持っているのである。
(……白っ)
同じ年頃の者たちと比べれば才能や価値観は抜きん出ている彼なのだが、こと恋愛に関しては他と変わらぬ思春期の男子高校生である。
好意を寄せている相手の、普段見えない素肌など見せられて何も思わないわけがない。
「……何じゃ、そんなに見つめておって」
「……いやー、夢野ちゃんって相変わらずトロいなぁ〜と思ってさぁ」
へらりと笑い、未だ治まらない動揺をひた隠しにして王馬は返す。すると夢野はぷくりと頬を膨らませながら、わざわざ指摘しなくてもわかっておる、とそっぽを向いてしまった。
やがて寄宿舎へ向かって歩き出す背中。面倒臭いといった感情を隠しもせず、のろのろと進んでいく彼女を見つめる。
「面倒くさいならとっとと変えに行けば? 亀じゃないんだから、さっさと歩きなよ!」
「んあー! お主には関係ないじゃろ!」
一度は見送ろうとした夢野を追いかけたのは、この肌を他の誰にも見せたくなかったからだった。あまり目にも心臓にもよくない色のコントラスト。それを知っているのは自分だけでいい、なんて思ったからである。
翌日。数日前にプールで開催された女子会に、何故か最原とキーボが呼ばれていたと聞き、八つ当たりをしたのは言うまでもない。
【紅鮭団】
「ひどいと思わない? オレが何をしたっていうのさ!」
頬をこれでもかと膨らませながら不貞腐れる王馬。大きな身振り手振りを交えながら、聞いてもいないのにマシンガンのように語り続ける。
話の中に登場するのは春川、茶柱、百田、最原。どうしてその四人が共に行動していたのか、と不思議に思ったのは最初だけで、一人また一人と巻き込まれただけであった。
「ちょっと〜、聞いてんの?」
「んあー、どう考えてもお主の日頃の行いが悪いせいじゃろ」
「え、夢野ちゃんまでそんなこと言うの……? ひ、ひどいや……! キミならわかってくれると思ったのに!」
びえあああんと大声で泣き喚かれ、夢野は堪らず自身の両耳を塞ぐ。しかしそんなことをしても王馬が泣き止むわけではない。何かしら彼の心に引っかかる言葉を掛けなければ災害にも似た喧しさは続くのだ。
「んあ……。それで、王馬はウチに何をさせたいんじゃ……?」
「お、今日はすぐ気付いたね。段々オレのことわかってきたんじゃない?」
「……毎日絡まれておったら嫌でもわかってくるわい」
わかりたくなど微塵もないのに、とボヤく夢野であるが、何だかんだといいつつも王馬の戯れに付き合っている。
それというのも断るのがすこぶる面倒で仕方ないのだ。
「はい、これ」
「……? 何じゃこれは……、救急箱?」
差し出された箱は真っ白で、ぽつりと真っ赤な十字マークが一つ記されている。訝しげな顔で開いてみればそこにはぎっちりと薬やら絆創膏などが詰められていた。
「茶柱ちゃんに極められたときにさ、結構強く打っちゃったんだよね〜。自分で出来なくもないけど、折角だから夢野ちゃんに手当してもらおうと思って」
「んあ、折角の意味がわからんぞ」
「にしし。わかんないなら別にいいよ」
茶柱から受けた傷を夢野に手当をしてもらう。それは王馬の考える限りで一番の意趣返しとなるのだ。しかし肝心の夢野はそれに気付くことはない。
茶柱に慕われている自覚はあれど、自身がもたらす彼女への影響力などないと思っているのである。
「手当といっても、ウチは医療の専門ではないんじゃが」
「湿布貼ってくれるだけでいいよ。えーっと、まずはここに……、何してんの?」
服をめくり上げ、貼ってほしい箇所を晒す。そこでふと、王馬の視界に掲げられた救急箱が映り込んだ。何事かと振り返ってみれば、夢野の顔は箱で隠されてしまっていて。
「お〜い、湿布貼ってくれるんじゃないの?」
「んあっ、いや、それはそのぉ……」
掲げられた救急箱を取り上げれば、頬を朱に染めた夢野と目が合う。きょとんとする王馬。そんな彼からぱっと目を逸らした彼女だったが、ちらちらと中途半端にめくれ上がった肌へ視線を向けている。
にやあ、と目を丸くしていた王馬は笑みを深くし、そわそわとする夢野と距離を詰めた。
「ここ、青くなってない? 早く貼ってもらわないと悪化しちゃうな〜〜?」
「んあぁ……! ま、待たんか! 心の準備がまだ……!」
にやにや笑いながらにじり寄ってやれば、ほんのり朱かかっていた頬をみるみる赤くして逃げていく。服をめくり上げ、見せつけるように肌を露出して。早く治療してよ、とからかうのを止めない王馬の痣がもう一つ増えるのは、今から十二時間後のことである。
【紅鮭団】
食堂からの帰り道。さてあとは寄宿舎に戻るだけといったところで、何やら言い争う声が聞こえてきた。ほぼ一方的のように聞こえる罵声は、玄関ホールに近づくにつれて大きくなっていく。
聞き覚えのある二つの声。こんなことなら食堂から直接外に出ればよかった、と並び歩いていた最原と夢野は顔を曇らせた。
ならば今からでも引き返せばいいのだが、運も悪く一方的に責められている彼と目が合ってしまう。ぱ、と明るくなる表情。間違いなく巻き込まれることが確定しても尚、抗おうとする二人は玄関ホールに背を向けた。
「あっ! ちょっと待ってくださいよ!」
最原クン、夢野サン。飛んでくる悲痛な声を掛けられてしまえば、責めていた方の彼から逃げられるわけがない。恐る恐る振り返ってみれば、無視されたことに憤慨するキーボと、きょとんとしながらこちらを振り返る王馬がそこにいた。
「お二人共、無視をするなんてヒドイじゃないですか!」
「いやぁ、その……、取り込み中だったみたいだし」
「最原の言うとおりじゃ。邪魔しては悪いと思ったからのう」
「ボクが好きで王馬クンと絡むことなんてないじゃないですか……。でも、確かに取り込み中と思われても仕方なかったかもしれませんね」
あからさまに怒っています、という態度で絡んでくるキーボ。そんな彼に対し、最原たちは苦笑いを浮かべながら視線を明後日の方向へ飛ばす。その態度はあからさまに嘘を吐いていると述べているようなものだが、感情の機微にやや疎いキーボには効果はあったらしい。
しかしそんなことを、誰よりも嘘吐きである王馬が見逃すわけがない。にやりと意地の悪い笑みを浮かべたかと思いきや、驚いた顔をしながらキーボへと耳打ちをする。
「騙されちゃダメだよ、キー坊! この二人はお前が困ってることを知ってて、見捨てようとしたんだぞ!」
「えっ、そうなんですか? ……いや、最原クンがそんなひどいことをするはずがありません! そうですよね、最原クン!」
「……えっと、」
「……え? まさか本当なんですか……?」
ヒドイです、と最原に詰め寄るキーボ。どうしてなんですかという問いをのらりくらりと躱しながら、何で僕だけが責められるんだろうと隣の夢野を見下ろす。
しかし視線が合うことはない。彼女の視線は最初にキーボから逸らされたまま、明後日の方向へ向けられだままなのだ。
「そ、それで? 二人はこんなところで何してたの?」
最初から期待はしていなかったが、助け舟は望めそうにない。この責め地獄から抜け出すには話の流れを変えるしかない、と最原は怒れるキーボへと声をかけた。もしかすると誘導によっては責められる対象が王馬に向くかもしれないからである。
けれどやはり、王馬がその考えを見抜けないことなどない。にししと笑いながら、表情を引きつらせる最原の顔を覗き込む。
「あからさまに話題を変えてきたね、最原ちゃん。もしかして責められる対象を自分じゃなくて、別の人間にしようと考えてるんじゃないの?」
「……そんなつもりはないよ。僕はただ、二人が言い争ってた理由が気になっただけさ」
「ふぅ〜ん……? まぁ、最原ちゃんがそう言うなら信じてあげなくもないよ」
低い声でそう続けた王馬は、含んだ笑みもそのままに最原から距離を取った。
「オレはね、超高校級のロボットにしては貧弱すぎるキーボの性能を上げてやろうと思ってさ! 茶柱ちゃんに弟子入りするよう説得してたんだ! 超高校級の合気道家に習えばちょっとはマシになるでしょ?」
「だ、か、ら! 嫌ですって何度も言ってるじゃないですか!」
「何でだよ! 強化パーツ交換が嫌なら、方法はこれしか残ってないだろ!お前選り好みできる立場かよ!」
「そもそも性能を上げたいなんて一言も言ってないですー! 勝手に決めないでください!」
ぎゃあぎゃあと言い争いを始める二人。三歩下がってその様子を眺めていた最原と夢野は、互いに顔を見合わせて一歩下がる。先ほどよりもすっかり盛り上がっているこの状況ならば、逃げられるのではないか、と考えたからだ。
「それで? 二人は何してたの?」
気配をできるだけ消して一歩、二歩と距離を取ること数十秒。互いに顔を見合わせ、ここまでくれば大丈夫かと踵を返したところで、背後から飛んでくる声。ゆっくりと振り返れば、にたりと笑う王馬が二人を見つめていた。
その背後で状況がよくわかっていないキーボが、不思議そうに首を傾げている。
「別に、大したことじゃないよ。食堂でお茶してただけだよね、夢野さん?」
「んあ、そうじゃ。最原に魔法の素晴らしさについて教えておっただけじゃぞ」
「へー」
やはり逃げることはできないらしい。肩を落としながら王馬たちの元へ戻った二人は、面倒臭いなといった感情を隠しもせずに答えた。
すると王馬はやや不機嫌そうに短い言葉を漏らす。
「そんなこと言って、本当は二人きりでデートでもしてたんじゃないの? 誰もいない食堂でいちゃいちゃしてたとか!」
「ば、馬鹿なこと言うなよ! 僕は本当に夢野さんの話を聞いてただけだ!」
「にっしっし! その割には必死に否定するね〜?」
「当たり前だろ! 茶柱さんに聞かれたらどうなるか、王馬くんも知ってるだろ?」
夢野のことを慕ってやまない茶柱が、男子とデートしていたと聞いたらどうなるか。きっと夢野から男子を誘っていたとしても、いたいけな女子を誑かすなんて最低です、なんて投げ飛ばされるに違いない。これまでの生活から辿る結末など、火を見るよりも明らかだ。
恐らく王馬はその可能性を考えて、あんな発言をしたに違いない。にやにやと笑いながらも、こちらを見上げてくる王馬の瞳の奥。幽かに揺らめいている感情が何かを、最原は薄々気付いていた。
「最原の言うとおりじゃぞ。食堂には東条や神宮寺もおったからな。二人きりで過ごしてなどおらん」
「へぇ〜、そうなんだ! じゃあ後でその二人にアリバイを聞いておかなくちゃね!」
「何故そこまで追求するんですか……」
目を輝かせて宣言する王馬。そんな彼に呆れてみせるキーボと最原はそっと安堵の溜め息を吐く。
ようやく話も一段落ついたようだ。このままふんわりと解散する流れに持っていけば、多少は突っかかられるかもしれないが、今以上の面倒なことにはならないだろう。
そう、思っていたのだが。
「そもそも王馬よ、お主はどうしてキーボを鍛えるなどと言い出したのじゃ?」
思わぬ伏兵がすぐ隣にいたことを思い出しても時既に遅く。不服そうに頬を膨らませた夢野がそんな問いかけを王馬へ投げていた。
自分たちだけ質問攻めにあったのは不公平だとでも思ったのだろう。この小さな魔法使いはめんどうくさがりではあるが、意外にも負けず嫌いらしい。
「あぁ、それね。さっきキーボと一緒に倉庫へ行ったんだけどさ、ダンボール一つも抱えられなかったんだよね。ロボットのくせに貧弱だと思わない?」
「ですから! あんなに鉄球だらけの箱を抱えるなんてできませんってば!」
「んあー、確かに。ロボットのくせに貧弱じゃのう」
「ゆ、夢野さん!? キミまでなんて事を言うんですか!」
超高校級のロボットとはいえ、できることは一般の男子高校生と比べて少ない。腕力もそう高くもなく、高性能の機能があるわけでもないのだ。入間によって多少の機能が追加されている、とのことだが今のところその機能によって目立った活躍はない。
「二人してヒドイですよ! ロボット差別です!」
「ま、まぁまぁ。落ち着いてよキーボ君」
「最原クン止めないでください!」
さっさとここを立ち去ってしまいたい最原だが、キーボまで火が点いてしまえば益々立ち去ることが難しくなる。
そうしてやんややんやと言葉のドッヂボールを始める三人を前に、いっそこのまま一人で戻ってしまおうか、なんて考えが脳裏を過った。けれどもそんなことをすれば、次に顔を合わせたとき何を言われるかわかったものではない。
はぁ、と溜め息を一つこぼして、最原は事が収束するのを見守ることにした。
「そこまで言うなら王馬クンが持てばよかったじゃないですか!」
「え〜、そんなことする必要ないよ。だってあんな箱使い道ないし」
「え、使いもしないのに持たせたんですか?」
「馬鹿だな〜、キー坊は! こ〜んなわかりやすい嘘に引っかかるなんてさ!」
「き、き、キミという人はぁ……!」
「んあー。そんなことを言って、王馬も持てなかったからキーボに持たせようとしたのではないか?」
ああ言えばこう言う王馬の言葉に、キーボは肩を震わせる。そうして目を吊り上げた彼の言葉は続く、ことはなく夢野の言葉に遮られた。
しんと静まり返る玄関ホール。ぽかんとした三人の視線を受け、夢野は不思議そうに首を傾げる。
「んあ、何じゃ? ウチの顔に何かついておるのか?」
「……前々から思ってたけど、夢野ちゃんってオレのことナメすぎじゃない?」
先程とは比べ物にならないほどの不機嫌な声。じとりとした目で夢野を見つめながら、ゆっくりと距離を詰めていく。
「そうは言うが……。お主、ウチとそう変わらんではないか」
ちら、と夢野の視線は王馬の頭頂部へ向けられた。彼女の言わんとしていることを察した彼は、より眉間への皺を深くする。
空気が読めないとよく責められるキーボですら、今の状況は下手に口出ししてはいけないと察した。じりじりと二人から距離を取りながら、笑顔を引きつらせる最原の隣へ移動する。
「確かにオレと夢野ちゃんはそう身長も変わんないけどさぁ。でも男と女なんだよ? そこんとこ全然違うんだけど」
「んあー、そうか? ウチはお主が男らしくしておるところなど見ておらんぞ」
「発揮する必要性がないからね。信じられないって言うなら、見せてあげるけど?」
「ほう……。ならば見せてみるがよい」
まあ出来ればの話じゃがな、と言い終わるなり夢野は勝ち誇ったように胸を張った。どうせ出来やしないと信じ切っているのだろう。
そんな夢野へ笑みを向けた王馬は、反らされている背へ手を添えた。突然のことに目を丸くする彼女のことなど構うこともない。少しだけしゃがんだ彼はもう片方の手を膝裏に添えて。
「んあぁぁあ!?」
一気に持ち上げられた夢野は、自身の体が宙へ浮いたことで素っ頓狂な悲鳴を上げる。体感したことのない浮遊感と身動きが取れないことへの緊張感で、勝ち気だった表情はすっかり弱気になっていた。
「なっ、なに、何をするんじゃ!?」
「何って……、夢野ちゃんが力があるなら見せてみろって言ったんじゃん」
「んあ!? そ、それは、確かに言ったが……!」
狼狽しきった夢野を前にして、王馬は満足したように笑みを深くする。間もなくするとその場でぐるりと三回転ほどし、半べそをかいている彼女を文字通り振り回し始めた。
ぎゃあ、と可愛げもない悲鳴を上げる夢野。助けを乞うように視線を最原へ向けるが、返ってくるのは頑張れと言わんばかりの優しい視線だけだった。
「んあ〜〜〜!」
「うわっ、耳元で叫ばないでよ! 迷惑だな〜!」
「なら降ろさんかぁ!」
振り落とされないように王馬の首へ抱きつく夢野の刺々しい視線が最原へ向けられる。絶対に許さないと言わんばかりの鋭さ。それを突き立てられて何も思わないわけがない、のだが。
(邪魔したら後が怖いからな……。ごめん、夢野さん)
楽しそうに夢野をからかう王馬。振り回されている彼女には申し訳ないが、最原にはこの流れを断ち切ることなどできなかった。
何故なら先程から、ちくちくと牽制するような視線が突き刺さっているからである。
「王馬クン、ボクだって夢野サンを抱えるぐらいならできますよ!」
「……いや無理でしょ。夢野ちゃんってこう見えてもすっごい重いんだよ? お前の腕力じゃあ腕が落ちるだけだって」
「しっ、失礼な! ウチはそんなに重くはないぞ! 今だって重力魔法をかけて軽くしてやっておるんじゃ!」
「夢野サンが軽いということは、電子生徒手帳を見ればわかることです。そう重くは、」
「えぇ!? 魔法をかけてこんなに重いの!? 夢野ちゃんの本当の体重って……!」
「んあーー! お主いい加減にせんかぁーー!」
「……あの、ボクの話聞いてます?」
またまた騒がしくなっていく玄関ホール。それを遠巻きに見ていた最原は、やがて小さな笑みを漏らす。微笑ましくも見える光景に背を向けて、足を進める先は食堂だ。
「んあ!? さ、最原! どこへ行くんじゃ最原! さいはらーーーー!」
悲痛な叫び声を上げる夢野。次いで追いかけてくる、にししと楽しそうに笑う王馬の声と、話を聞いてくださいなんて騒いでいるキーボの声。どんどん遠くなっていく騒がしさに良心を痛めながら、最原の足は食堂を通り抜けて中庭へと辿り着く。
「僕じゃ止められないから……。待っててね、夢野さん」
目指すのは、超高校級の合気道家の研究教室。あの騒動を止められるのは、最早茶柱しかいないのだ。
【育成計画】
八月も半ばを過ぎたというのに暑さは弱まることを知らず、今日も燦々と照りつける太陽に世界は晒されている。こんな炎天下の中で無防備に歩ける程、夢野に体力はない。
面倒臭がりの彼女がわざわざ日傘を差しているのは、自分の身を守るためである。倒れてしまった後のことを考えれば傘を差すぐらいどうということはない。
「今以上に干されちゃったら、カラッカラで食べられたもんじゃなくなるもんね!」
「んあー、やかましいのう……」
隣に並んで歩く王馬は、ひょいと身を屈ませて笑顔を向けてくる。次いでとんでくるのはいつもの干物ネタ。ただでさえ暑さで体力を奪われているのだから、余計な労力を消費したくはない。いつもは斜め上に飛ぶ夢野のツッコミも、今日はキレが悪かった。
「ていうかさ、顔だけ日除けしたところで意味なくない? かえって顔の色白さだけが目立って……、いやそれはそれで面白いな」
「腕も足もちゃんと日焼け止めを塗っておる。抜かりはないわい」
言い終わるなり、ふんと鼻を鳴らしながらそっぽを向いてしまった。これ以上の無駄な戯れは御免だという意思表示なのだろう。
けれども王馬へそんな態度をとっても、意図はわかってくれても汲んでくれるわけがない。わざわざそっぽを向いた方へ回り込んできた彼は、にやにやとした笑顔をそのままに日傘の下を覗き込んでくる。
「まるでフグだね」
「……フグが威嚇をするときがどんな時か、知らんわけでもないじゃろ」
「にしし。そうつれないこと言わないでさ〜、オレにもっと興味をも……、」
膨れ面の夢野の頬を突いていると、不意に日傘が王馬の頭上へ傾けられた。いきなり何だと僅かに見上げれば、黒い布地が上から覆いかぶさってくる。
咄嗟にぶつからないよう身を屈めた王馬だったが、抵抗も虚しく柔らかい何かにぶつかった。
「……ふふ、間抜け面じゃな」
にんまりと笑って見せた夢野は、満足そうにしながら上げていた踵を下ろす。二人の間で傾けられていた傘は間もなくして彼女だけを隠し、のんびりと遠のいていった。
頭、ではなく唇にぶつかった柔らかい何か。それが何だったのかを理解すると同時に、王馬は呆気にとられていた顔から表情を落とす。
「……夢野ちゃんのくせに生意気」
溜め息と共に吐き出した小さな声。とうの昔に離れてしまった夢野には、当然届くわけがない。しかし届かなくてもいいのだ。
負け惜しみのような言葉なんて聞かれるわけにはいかない。これ以上、失態を重ねるわけにはいかないのである。
「王馬〜? 置いていくぞ〜!」
未だ勝ち誇ったような笑みを浮かべながら手を振る夢野。そんな彼女の表情を壊してやるために、王馬は呼ばれるがままその場から駆け出した。
【紅鮭団】
自分よりも一回り小さな少年の腕を掴んだ茶柱は、力任せに引き寄せてから体をひねった。小さな悲鳴が上がっても躊躇うことはない。勢いのまま、掴んだ腕を巻き込むようにして背負ったら、流れに任せて地面へ叩きつける。
ぎゃあ、と耳へ飛び込んでくる情けない悲鳴。いつもは笑みが絶えない顔を苦痛に歪めながら身悶えるのは、自らを超高校級の総統と称するクラスメイトだ。
「い……ってぇ……! ちょっと茶柱ちゃん! 投げ終わったんなら気が済んだでしょ!?」
投げられた際に捻られたままの腕。それを解こうと藻掻いていた王馬は、目尻に涙を浮かべながら非難の声を上げる。いつもの彼を知る人間ならば嘘泣きかと疑うかもしれない。しかしうめき声を混じえながら痛みに耐える姿を見るに、珍しく本心を晒しているのだろう。
いや、今はそんなことはどうでもよかった。中途半端に捻り上げた腕を掴んでいた茶柱は、目を見開きながら眼下の王馬を見つめる。
「そんな……、何で……、」
震える唇。僅かに開いたそこから漏れ出てくる声は震えていて、怒っているような泣いているようなものだった。
「……お〜い、茶柱ちゃん? オレの声聞こえてる?」
やがて指先から力を抜いた彼女は、ふらふらとした足取りで後退する。ゆっくりと項垂れ、いつもは暑苦しいぐらいの覇気を失っていく快活な合気道家。ついには顔を青褪めさせてしまうものだから、これには王馬も眉をひそめる。
「もしも〜し? ねぇ、本当に大丈夫? 茶柱ちゃうおっ!?」
俯いた顔の前で手を振ってみれば、力なく垂れていた腕が突如として飛んでくる。容赦のない指先はストールの下にある上着までしっかり掴んで、思い切り引き寄せられて。
「王馬さん!! あ、貴方と、貴方という人は……!!」
「えっ、何っ、ほんと訳わかんないんだけど!?」
目と鼻の先まで距離を詰めてきた茶柱は、鼓膜を突き破らん勢いで大声を上げる。今すぐにでも逃げ出したくなる王馬だったが、残念ながら振り解ける気配すらない。
せめてもの抵抗にと両手で塞いだ耳。これで鼓膜を破られるなんてことはないだろう、と安心したのも束の間だった。
「王馬さん……、貴方は夢野さんのことが好きなんですね?」
「は?」
真剣な眼差し。先程の取り乱しようが嘘のように静かで落ち着いた声が告げるのは、想像だにしていない言葉だった。
まさかそんなことを言われるとは思ってもおらず、王馬は取り繕うことも忘れて呆気にとられる。至近距離で突きつけられる、真っ直ぐで全てを見透かしてしまいそうな瞳。
このまま大人しくしていれば、きっと茶柱は辿り着いてしまうだろうことが窺えた。
「……何言ってんの。オレがあんな干物顔を好きになるわけないじゃん」
「嘘ですね。今の転子にはわかります」
ストールごと掴まれていた指先が離れていく。間もなくして王馬から距離を置いた茶柱は、身なりを整える彼へ凛とした表情を向けた。
「……今なら、王馬さんがああも夢野さんへちょっかいをかけていた理由がわかります」
「いやだから、」
「あれはまさしく! 好きな子イジメだったんですね!?」
「……あのさ、話聞いてくんない?」
いくら平静を取り戻したとはいえ、猪突猛進な一面は相変わらずのようだ。何度も否定をしようとする王馬の言葉を遮って、自らの言葉を畳み掛けるように続ける。
このまま放っておけば面倒なことになるのは確実だ。けれどもこれを相手にするのも中々に骨が折れるのだから困ったものである。
「……子ぉ〜〜! 転子ぉ〜〜〜! どこへ行ったんじゃ〜〜!?」
やがて遠くから聞こえてくる、ひいひいと息を切らせるか細い声。そちらへすぐさま反応した茶柱は、声の主を呼ぶために一度は手を挙げた、ものの。
「……これからは容赦しません。覚悟してくださいね」
す、と向けられる鋭い視線。言いたいことだけを一方的に告げた彼女は、軽やかな足取りで声のする方へと駆け出す。
小さくなっていく背中。それを静かに見送った王馬は一つ盛大な溜め息を吐き、ぱっと前を見据える。足を向けるのは、会話に花を咲かせている少女たちのいる方向だ。
あちらが容赦をしない、というのならこちらも手加減をするつもりはない。
【育成計画】
「だって王馬くんは夢野さんのこと大好きだからね」
大きな身を縮こませながら、はにかんだ紳士がそんなことを言い出した。はて、どうしてそんな話の流れになったのだろう。思い出そうにも飛び出してきた言葉のせいで頭が上手く回らない。
「……いや、あやつがウチのことを好きなわけがないじゃろ」
どっと吹き出す汗、痛いほど大きく脈打っている心臓。パニックに陥りかける頭を無理な深呼吸で落ち着かせ、夢野はやがて盛大な溜め息を吐いた。
口を開けば嘘しか言わない少年。そんな彼とのやり取りをできるだけ思い出してみるが、女の子扱いをされた記憶はほぼゼロに等しい。
ごく稀にエスコートなどをしてくることはあるが、それはからかうための前準備でしかなかった。
「というか、ゴン太は王馬のどこ見てそう思ったんじゃ? そんな素振り、ウチは見たことがないぞ」
「え、そうなの? ゴン太が王馬くんを見てるとき、いつもすごく優しい目で夢野さんを見てるから……」
「や、優しい……?」
うーん、と腕を組みながら考え込んでしまう獄原。どうして夢野さんは気付いてないんだろう、と呟く彼からは、いつまで経っても否定の言葉が飛び出さなかった。
きっと獄原の勘違いなのだろう。王馬の好みは赤松や東条のような女性らしい女性であって、間違っても自分のようなちんちくりんなわけがない。仮に好意を抱いていたとしても恋愛的な意味合いなどこれっぽっちもないはずなのだ。
そう何度も言い聞かせてみるものの、夢野の心臓は激しく高鳴るばかりである。
「おっはよ〜、夢野ちゃん! 今日の開き具合も絶妙だね!」
のんびりゆっくり、ゆらゆらと赤い髪を揺らしながら歩いている小さな後ろ姿。朝のこの時間は眠たさに苛まれているため、彼女の背はいつだって丸まっている。
それを驚きで伸ばすことを日課としている王馬は、返ってくるだろうオーバーリアクションを期待して声を掛けた。ニヤニヤと笑みを浮かべたまま、駆け寄って隣に立ち並べば、間抜けな声を上げながら少女は飛び上がる。
はずだった、のだが。
「……お、王馬か」
びくり、と驚きに震えるまでは予想通り。しかし背中は伸びるどころかより縮こまり、下げられた頭は恐る恐るといった様子で王馬を見上げる。あちらこちらへ泳いでいる赤茶色の瞳。やがて逸らされた視線の先を追いかければ、もじもじと交差させる細い指先があった。
おかしい。あの打てば斜め上へと打球を返してくれる魔法使いの、あからさまに動揺している様子に、王馬は眉をひそめる。逸らされてしまった顔を覗き込んで、それでもなお逃げようとする顎を咄嗟に引っ掴んだ。
「んあっ!?」
「何でそんなに逃げるのさ。隠し事とか……、やましい事でもあんの?」
ぐい、と引き寄せれば上がる間抜けな悲鳴。それを右から左に受け流し、泳ぐというより暴れ回っている目を覗き込む。一体何を隠しているのか。わかりやすい彼女のことなのですぐに暴いてやれるだろう、と思いきや思わぬ反撃に遭う。
「そっ、そそそっ、そんなわけないじゃろ!?」
掴まれた顎を勢いのままに引き剥がし、思い切り距離を置く夢野。声をひっくり返しつつ真っ赤に顔を染めるその姿に、少しやりすぎたかと思わなくもない。
「いやいや、動揺しすぎでしょ。そんなの何か隠してますって言ってるようなもんじゃん」
「ちがっ、違うと言ったら違うんじゃ! 隠し事なんてこれっぽっちもないわい!」
「え〜、嘘はよくないよ! 皆には黙っておいてあげるから、ほらほら、とっととゲロっちゃいなって」
離された距離を詰めてから耳元へ囁きを落とす。真っ赤になった横顔。一点を見つめる瞳と震える唇を前に、あと一押しだと王馬は笑みを深くする。
動揺している人間ほど扱いやすいものはない。さてどんな一手で決めてやろうか、と今一度夢野の顔を覗き込んで、ぴたりと固まる。
「お主には、……お主だけには絶対言えん」
頬を赤く染めながら、涙の中で泳いでいる色付いた瞳。ぎゅうと両手を握り締めながら、震える喉でそう告げてきた夢野はやがて弾かれるように駆け出した。
運動など得意なわけがなく、また足の短さからすぐに追いかければ捕まえることはできただろう。けれどもそれができなかったのは、瞬きをしてもまぶたの裏から消えない顔のせいで。
「……は? 何だよ……、その顔……」
まるで恋する乙女のような、熱に浮かされた見慣れない顔。昨日までどれほど距離を詰めたところで、あんな表情を見せたことなどないのに、どうして。
ぽつんと通学路に取り残される王馬。既に見えなくなった背中があった方を呆然と見つめる彼の耳に、やがて始業を告げるチャイムが飛び込んできた。
避けられている、のは気のせいではなかった。声をかければ応じてくれるものの、すぐに何処かへ逃げてしまう。遠くから姿を見つけようものなら、困った顔でふらりと消えてしまうのだ。
これがいつも通りだと思えるわけがない。
(わっかんねぇな〜〜。きっかけらしいものなんてなかっただろ……)
クラスメイトの女子たちと会話に花を咲かせている横顔は常と変わらない。半開きの目を開いてみたり閉じ、魔法をマジックだとイジられて唇を尖らせて拗ねる。のんびりとした口調も相変わらずで、口癖のような鳴き声のような言葉を、声の調子を変えることで返事代わりに使っていた。昨日までと同じ、何ら変わりなどない日常の一コマ。
しかしこれがどういうわけか、王馬に対するときに限って様子がおかしくなる。
他の男子に対しても同じ反応をするならば、聞き込みなり何なりしてある程度の理由がつけられたかもしれない。しかし最原や天海といった綺麗どころと並んでも、夢野ののんびりとした様子は大して変わらなかった。
(昨日は大して絡んでもないし。何か仕掛けたわけでもないんだけど……、誰かに何か吹聴されたとか?)
このクラスには無駄に勘のいい者が多い。超高校級の探偵を始め民俗学者やメイド、冒険家にテニスプレイヤー。そして勘で気付いた宇宙飛行士と、一度投げ王馬を飛ばしたことで勘付いてしまった合気道家。直接的に何かアクションを起こしてくることはないが、彼らは重ねに重ねた嘘の底を薄々気付いている。
夢野の態度がおかしくなったことが、その嘘をバラされたからなのだとしたら多少の辻褄は合うだろう、が。彼らが王馬の抱いているものを彼女へ暴露することはないに等しい。
例えば親切心から、例えば無関心から。兎にも角にも王馬の恋路を応援しようとする輩はこのクラスにいないのである。
「はぁ……。つまんねーの……」
そもそもの話、彼らは違和感の確証をもっているわけではない。王馬が夢野へ好意を寄せている、のかもしれないという、予想の範疇を超えていないはずだ。
動物的な勘で疑い始めた百田と茶柱はともかく、他の面々はきちんと理論立てて証拠を提示した上で、納得をするタイプである。憶測で先走ることはほとんどない。
仮に百田と茶柱がうっかり口を滑らせたところで、夢野があの二人に対して抱く信頼感を考えるに、信じるとは思えなかった。
ならばどうして、夢野がああも動揺するのか。一向に謎は深まるばかりである。
「王馬くん、ちょっといいかな?」
いつも以上につまらなくて退屈な授業を終えた放課後。大きな巨体を縮こまらせながらやってきた獄原は、どこか申し訳なさそうに声を掛けてきた。
しかしそれに対して王馬は特にリアクションを取ることはない。元から些細なことでも自分を責めてしまう、根っからの謝り癖がある獄原である。今回もどうでもいいことで心を痛めているのだろうと判断したためだ。
「どーしたんだよ、ゴン太。捨てられた犬みたいな目をしてさ。同情でも引いて許してもらおうとしてんのか!?」
「ご、ゴン太はそんなことしないよ! それに、許してもらえるとは思ってないから……」
「……んー?」
いつもと同じようでいて、そうではない。これまで見た中でも三本の指に入るような悲壮な顔つきで背を丸める獄原は、今にも泣きそうな顔でごめんと一つ謝罪をこぼす。
こんな様子の彼を他の誰かに見られでもしたら、厄介なことになるに違いない。その理由の半分以上は王馬に責があるのだが、今日ばかりは本当に心当たりがなかった。言い訳しようにも理由がなければうまく切り抜けられるわけがないのである。
「何をそんなに深刻そうにしてるかは知らないけど、まぁ話ぐらいは聞いてやるよ」
「う、うん……」
どこかに隠れようにもこの巨体である。隠れられる場所を探して無駄に歩き回るよりも、とっとと話を聞いてしまったほうが早いだろうと判断した。とはいえすぐに見つかるのも困るので、その場にしゃがみ込むよう促した。
「あのね、王馬くんに謝らなくちゃいけないことがあって。ゴン太はバカだから、言っちゃいけないことだとは知らなかったんだ……!」
「謝るのはいいけど、肝心の中身がサッパリなんだよね〜。まずは何に対して謝ってるかを言えよな!」
「ごっ、ごめん!」
ふわふわとした謝罪。これもまた予想の範疇だったので、王馬は眉を吊り上げながら獄原を責める。とはいえ、もちろん本心から責めているわけではない。二人の間で交わされるやりとりにちょっとした演出を加えるためだ。
「夢野さんに言っちゃったんだ。王馬くんが、夢野さんのことが好きだって……!」
「………………は?」
しかしすぐさま、王馬の顔からは貼り付けた表情が剥がれ落ちることとなる。
「昨日、夢野さんが『自分のことを好きになる男なんていない』って落ち込んでたんだ。夢野さんは素敵な女の子なのにそんなことないって思って、それで、」
「いやいやいや、いや、ちょっと待てよ、え? 何で? オレが夢野ちゃんのことを? 好き?」
「……うん。だって王馬くん、いつも彼女を見てるときにすごく優しい目をしてるでしょ? だから、」
「ちょっと、ちょーーーっと待てよゴン太、お前それ言ったって誰に?」
「え? それはだから……、夢野さんにだよ?」
ダークホース。それは競馬で番狂わせを起こす馬のことを指し、また思わぬ伏兵を指すこともある。
激しい目眩に見舞われた王馬は、その場でくらりとよろめいた。まさか、まさか獄原に気付かれていただけでなく、それを暴露されていただなんて。遅れてやってきた頭痛が王馬の思考力を奪っていく。
生活の一般常識すらずれている男なので、他人の色恋沙汰になど気付くわけもないと思っていた。もしも勘付いても、獄原のことなので仲良しなんだね、程度で済ますだろうと思って、いたのに。
「たはは……、えー……? マジかよ……」
夢野の様子がおかしかったのも頷ける。この立派な紳士を目指している昆虫博士は、誰よりもピュアで正直で何より、嘘を吐けないのだ。そんな男から告げられた真っ直ぐで一転の曇りもない言葉を鵜呑みにしてしまうのも無理はない。
彼女は間違いなく、獄原から告げられたのだという言葉を信じたのだ。今まで王馬が仕掛けてきた数々の仕打ちを忘れて意識してしまうほどに、彼の真摯な言葉は人の感情に疎い心を撃ったのである。
それはそれで腹が立つような気がしないでもない。けれど今はそれどころではなかった。
「やっぱり、言っちゃ駄目なことだったんだよね……。ごめん! 謝っても許されないかもしれないけど、とにかくごめんね……!!」
すぐにでも泣き出してしまいそうな獄原。言ってはいけないことを打ち明けてしまった自分への憤り、秘密をバラされてしまった王馬への罪悪感。その他あらゆる紳士がするべきではない言動の数々を悔いているのだろう。
しかし本当に泣きたいのは王馬の方である。出し抜こうとしたわけでも、嫌がらせするためでもない。ただの親切心から飛び出した言葉なのだ。責めることは簡単だが、獄原をこの場で責め立てて猛省させても、夢野へ植え付けられた感情が元に戻るわけでもない。
(……とりあえず、現状できることを考えよう)
頭痛と目眩で使い物にならない頭をフル回転させる。まずは獄原の言っていた優しい眼差しが気のせいであることを印象付けさせ、それから夢野の誤解ではない誤解を解かなければならない。
項垂れていた頭を持ち上げて、しょぼくれきった獄原を見上げる。ぱちりと合った視線。王馬の様子を窺うような赤い瞳へにんまりと笑みを向けた彼は、やがて口を開いた。
「バカだな〜、ゴン太は」
「えっ?」
にこにこと笑いながら声をかけると、獄原はキョトンとした顔で王馬を見つめた。
「オレがあんな干物顔の女子を好きになるわけがないじゃん。チンチクリンだしツルペタだし、どこをどうして異性として見るっていうんだよ」
呆れたように溜め息を吐けば、獄原はより一層狼狽えてみせる。次から次へと王馬から飛び出してくる否定の言葉。その波に流されないようにしているようだが、只でさえ状況を掴めていない彼はどんどん置いていかれてしまう。
そう、それでいいのだ。王馬は獄原に腕力では絶対勝てるわけもないが、舌戦であれば圧勝できる。それっぽい理屈を並べて重ねて、相手が理解に及ぶ前にこちらの主張を捩じ込んで、無理矢理に納得させてしまえばいい。
今までもそしてこれからも、この手法はどこまでも真っ直ぐな友人に効果は抜群なのだ。
「でも王馬くん、前に夢野さんのことを可愛いって言ってなかった?」
「……ん? お前、幻覚だけじゃなくて幻聴まで聞いたの?」
「幻聴なんかじゃないよ! ……三日前だったかな、女の子たちが髪飾りの話をしてたでしょ? そのときに確かに言っていたよ!」
紳士は嘘をつかない、本当だよ。そう繰り返しながら距離を詰めてくる獄原に、王馬はついに言葉を失った。元々白かった顔から更に色味を消し、呆然と目の前の友人を見つめるしかできない。
完全にこの野生児を舐めていた。教室の端から端程度の距離ぐらいなら、彼の耳は些細な物音すらも拾ってしまうらしい。
誰に聞かれるわけもないだろうとこぼした言葉は、よりにもよって一番厄介な人間に拾われてしまったわけだ。
「……あのね、王馬くん」
獄原を言い包めることは容易、のはずだった。しかし今どんな言葉を投げかけても、彼がたまたま拾い上げられてしまった証拠を覆すことは難しいだろう。
何せこの真っ直ぐでピュアな昆虫博士は、とんでもない頑固者なのだ。
「夢野さんのことが好きなら、あんなことを言ってはいけないよ。それに、自分に嘘をつくのも紳士じゃないと、ゴン太は思うんだ」
「…………、オレは別に紳士なんて目指してねぇし」
優しく冷静に諭された王馬は、力なくそう返すことしかできない。がくりと項垂れながら頭を抱え、押し寄せる目眩に目を閉じた。こうなったら夢野をどうにかして説き伏せ、あれは獄原の勘違いだと刷り込むしかない。
そう思いはするものの、事を知った獄原が何を言い出すかわかったものではなかった。もしも先の発言、可愛いだの何だのと話していたなど暴露された日には、舌を噛み切って死ぬ他ない。
(勘弁してくれよ……、ほんと……)
「王馬くん? だ、大丈夫? 具合でも悪いの?」
狼狽しながら声をかけてくる獄原。それに反応する気力も湧いてこず、王馬はしばらくその場に蹲り続けた。
【育成計画】
突如として背後から伸びてきた腕は、腹の前で組まれたかと思いきや手前へと引かれる。その力に抗うこともできないまま、一歩二歩後ろへと足を進めれば背中に固いものが当たった。
「んあっ、いきなり何をするんじゃ!」
ぎゅうぎゅうと締め付けてくる、腹の上へ添えられた手のひら。夢野と大して太さも変わらないような腕なのに振りほどくことはできない。どこからそんな力が湧いて出るのか不思議でならなかった。
「いや〜、急に寒くなったからさ。湯たんぽが欲しくて」
「誰が子ども体温じゃ!」
「いや実際子ども体温でしょ。こんなに温かいのに」
隙間がなくなるほど密着している体。互いの服を挟んでいるというのにしっかりと伝わる温もりに、ついつい頬を赤く染めてしまう。
けれどもすぐ、ときめいた表情だった夢野は目を見開いた。ぎゃあ、と色気も可愛げもない悲鳴を上げ、腹へと圧迫感を与え続ける手のひらを引き剥がそうともがく。
「くすぐったい! 離せ、離さんかぁ……!」
「ちょっと暴れないでよ。湯たんぽは大人しく抱かれてるもんでしょ?」
「そもそもウチは湯たんぽではない!」
ぐりぐりと肩へ押し付けられる額。さらさら肌の上を滑る髪の毛がくすぐったくて仕方がない。何とか逃れようと藻掻いて暴れるものの、後ろから抱き込む両腕はさっぱり動く気配すらなく。
やがて体力を奪われた夢野は、くったりとしながらわずかに振り向いた。
「……何かあったのか?」
いつもはよく回る口が鈍い。顔は肩口に埋まったままなので表情は窺えず、益々何を考えているのかわからなくなる。
そ、と握り込まれた指先に触れてみた。
「……え、何?」
「いや、だから、何かあったのかと聞いたんじゃが」
「何かって、何が? オレはただ、あんまりにも湯たんぽが温かかったから、うたた寝してただけだけど?」
ぴくりと指が跳ねると同時に上げられる顔。変なものでも見るかのような視線を向けながら、彼は呆れたように夢野を見る。
「んあー、こんなところで寝るやつがあるかっ」
少しでも心配して損した。そうぼやきながら手を振りほどこうと身を捩るが、組まれた指先からは力が抜けない。
「王馬っ」
「いーじゃん、あとちょっとだけだからさ」
にしし、と笑いながら肩へと頭を乗せる。抱き込んでいる体をより引き寄せ、いいでしょと甘えた声を出すものだから、夢野は叩きつけようとした文句を詰まらせた。
「……面倒くさいやつじゃのう、お主は」
やがて溜め息を漏らした彼女は、全体重を背中の方へと預ける。すると少しだけ驚いたように瞬きをした彼は、満足そうに微笑んで膨れ面へと擦り寄った。
【育成計画】
地獄とも思えるほどの暑い日々も過ぎ去り、すっかり秋めいてきた今日この頃。未だ青々とした木陰のベンチに腰掛けていた夢野は、携帯電話を手にしたままぼうと空を見上げていた。些か明度が落ち、目にも優しくなった青色に浮かんでいる白い雲。のんびりと流れていくその様は柔らかい眠気を誘い出す。
くあ、とあくびを一つ漏らし、携帯電話へと目を落とした。画面に表示されている数字は、約束した時間よりも十分ほど早い。
「お、夢野ちゃんだ。こんなところで何してんの?」
「んあ? ……あぁ、王馬か」
こつこつと軽い足音を立てながら近付いてきた気配は、夢野が顔を上げたところでにんまりと笑みを浮かべる。名を呼べば、何の断りもなしに隣へと腰掛けてきた。
「ウチに何か用か?」
「折角だし天日干しの様子でも観察しようかな〜、と思って」
「んあー、お主もそのイジリによく飽きんのう……」
普段から魚顔だの何だのとからかってくる王馬の言いたいことは、わかりたくなくともわかってしまう。しかし素直に反応してやるのも癪なので、溜め息を吐きながら呆れたように返してやった。
案の定、つまらないと顔に出してきた彼は、夢野の手に握られている携帯電話へと目を向ける。何かしらのアプリを開くでもなく、誰かに電話をする気配もない。またこんなところでぽつりと座って何かを待っているような態度に、ピンとこないわけがなかった。
「約束、すっぽかされたんじゃないの?」
「そんなわけなかろう。相手は転子じゃぞ」
けれどもすぐさまバッサリと切り捨てられる。
飛び出てきた名前は、夢野の百倍はしっかりとした少女のものだった。そして誰よりも夢野を敬愛し、時折それを飛び越えそうな不安要素を抱えている彼女が、まさか約束をすっぽかすわけがない。
それを理解すると同時に、いつまでもここにいれば自らに危機が訪れるかもしれないことを王馬は悟る。
「何、これから二人でデートでもするの?」
「んあー、違うわい。次のマジカルショーで使う道具の下見に付き合ってもらうのじゃ」
「へぇ〜……。そんなの魔法でパパっと作ればいいんじゃない?」
「む、それはそうじゃが……。やはりその道の職人に作ってもらったものの方が精度はよいからのう」
からかいの言葉のつもりだったが、素直に受け取られてしまっては次の手の出しようがない。つまんねーの、と口の中で留めたぼやきを飲み込んで、携帯電話を見つめる横顔を観察した。
化粧もしていないのにほんのりと赤い頬が今日はどことなく薄い。小さく吐き出されるため息は待ちぼうけからくるもの、というより別の物のせいに思える。
ちら、とカーディガンから伸びる指先。それがタイツの上を少しだけ擦っているのを確認して、今一度横顔へと目を向けた。
「もしかして寒いの?」
「んあっ……、ど、どうしてわかったんじゃ?」
目を丸くしながら王馬を見る夢野は、言葉を漏らしてからしまったと言わんばかりに口を手で塞いだ。ぱっと逸らされてしまう顔。やがてこれ以上は構ってくるなと言わんばかりの背中を向けられる。
そこに指でも這わせてやろうか、なんて考えも浮かんだものの、いつ茶柱がやってくるかもわからない。下手にからかって投げ飛ばされるのはごめんなので、代わりにと羽織っていた自らのカーディガンを脱ぐ。
「……んあ? な、何じゃ……?」
無視を貫こうとする背中へかけられた、一回りは大きいカーディガン。突然の感触と温もりに目を白黒させて振り向いた夢野は、ベンチから立ち上がる王馬の横顔を目で追う。
「こんなとこで凍え死にされたら困るからね。貸してあげるよ」
「いや、凍えるほどでは……、あっ王馬……!」
ひらひらと手を振りながら歩き出してしまう王馬。追いかけようにも、茶柱と約束した時間は目前まで迫ってきている。
どんどん見えなくなる背中。立ち上がったまま見送るしかない夢野は、困った顔のまま肩に掛けられたカーディガンの裾を握った。
【本編 / 修了式後】
真っ暗闇だった世界の輪郭を取り戻していくネオンの煌めき。耳が痛いほどの静寂を打ち破る、賑やかな音楽と声の群れに誘われて一歩を踏み出せば、力なく垂れ下げていた手を取られた。
「ようこそ、夢野ちゃん。今日はキミとオレだけの貸し切りだよ」
にしし、と悪戯に笑ってみせる少年。マントと学帽を被った彼は、驚きに目を見開く夢野の指先を掴んだまま歩き出す。
キラキラと輝きながら回っているコーヒーカップ、メリーゴーランド。風を切りながら疾走するコースターはあっという間に視界から消えていく。
「あれもこれも、全部キミのためだけに用意されてるんだよ? もっと楽しそうにしてよね! も〜、これだから干物顔の魔法使いはさぁ〜」
ゆっくりと大きな弧を描いている海賊船。その前で足を止め、振り返った少年は不服そうに唇を尖らせる。そうして一気に距離を詰めてきた彼は、俯いたままの夢野の顔を覗き込んできた。
「……ねぇ、だからさ」
はらはらとこぼれ落ちていく涙はネオンに照らされて煌めき解ける。頬に触れる指先は確かにそこにあるはずなのに、どこか遠く思えてならなくて、遂には声を詰まらせていた。
「笑ってよ。今だけは、オレのために」
「…………おう、ま」
顔を上げれば、涙で滲んだ世界が広がる。絶え間なく柔らかな光の中で微笑んでいる少年の顔は、揺れて歪んで、よく見えなかった。
【紅鮭団】
寄宿舎の二階。自分の部屋とはホールを挟んで対象的に配置されたそこで、夢野はインターホンを鳴らしていた。ピンポーンと壁越しに聞こえてくる電子音。ややあってごそごそと物音がして、気配が近付いてきた。
鍵の開く音がする。ゆっくりと開かれたドアの向こうから現れたのは、少しばかり疲れた様子の王馬だった。
「…………ぇ、夢野ちゃん?」
「んあー。何じゃ、狐につままれたような顔をしおって」
ぽかん、としている王馬の顔色は、常よりも少し悪い。どうやら獄原が言っていたとおり、少し体調が悪いようだった。
いやでもこの男のことである。嘘である可能性も捨てきれないと夢野は注意深く目の前で呆然としたままの少年を観察した。
「……何で、ここにいんの?」
しかしどこからどう見ても、今の王馬からは覇気というものが感じられなかった。地に足がついていないような、心がここではないどこかにあるような。彼にしては珍しく、ふわふわとした雰囲気を纏っている。
「何でって……、お主が誘ってきたんじゃぞ。今日の午前中は一緒に過ごすと」
呆れたように返せば、彷徨わせた視線を足元へ落とす。間もなくして返ってきたのは、そうだっけ、という弱々しい声だった。
「……王馬、お主もしや変なものでも食べたのではないか?」
嘘を吐いている可能性が高いが、それにしても態度がおかしすぎる。もしや熱でもあるのではないか、と差し伸ばした手のひらを額に当てようとして、けれども叶わなかった。
勢いよく後ずさり、驚愕の面持ちのまま固まっている王馬。きょとんとしたまま、行き場のない手を浮かせたままの夢野は、やがて訝しげな表情を浮かべる。
「お主、もしや何か隠しておるのではないか? それがバレるのが嫌で、体調不良などと嘘を吐いておるんじゃろ!」
責めるように言葉を掛けながら詰め寄る。すると王馬は明らかに狼狽して見せ、近づけば近づくほど後退していった。
やはりか、と夢野は眉を跳ねさせる。こういったイタズラをするときの彼は徹底して役者になるのだ。この態度も間違いなく、皆を驚かせるための前準備なのだろう。
「全く、お主にも呆れたものじゃ。皆に心配を掛けるような嘘を吐くのも大概にせんか」
「……いや、違うって……、今回は、ほんと……」
「んあー、それも嘘なんじゃろ? さっさと観念するんじゃな。さもないとウチの魔法でお主を丸裸に、」
ふらふらと後退していく王馬。その顔色は青かったり赤かったり白かったりしたが、こいつ遂に顔色まで操れるようになったのか、と感心する他ない。
なんて言っている場合ではなかった。要らぬ騒動を招くわけにはいかないと、夢野は更に王馬との距離を詰めていく。今日はどういうわけか反論にも鋭利さがない。このまま問い詰めてやれば尻尾を出すのではないか、と息巻いた矢先のことだった。
「…………んあ?」
ふと視界をよぎっていった白。それが何かを認識するよりも早くに、夢野の体は引き寄せられていた。すっぽりと納まるように抱え込まれる背中。柔らかくも固い胸板に頬が当たっていることに気付くまで、少し時間が掛かった。
「んあ……、んあ!? んあーー!!」
抱え込まれる体。ほんの少しの身長差しかなく、腕の細さも変わらないというのに、どれだけ暴れても解ける気配はない。
「なっなにっ何をしておるんじゃ!? ……はっ、まさかこうしてウチの心を掻き乱すつもりじゃな! こんな雑な手を使ってでも計画を遂行す、」
「違う。そんなんじゃない」
「んあっ、じゃ、じゃあ何が目的なんじゃ!?」
両手を思い切り突っぱねれば、ほんの少しだけ距離が生まれる。もう少し藻掻けば逃げられるかもしれない。なんて願いを叶えるために身を捩るものの、ぐっと背中に回された手のひらに力が込められてしまった。
「……夢野ちゃん」
「なっ、何じゃ……?」
「……可愛いよね」
「…………何がじゃ?」
至近距離にある王馬の顔はどことなくぼんやりしている。じいと夢野の顔を覗き込んでくる瞳はゆらゆらと頼りなく揺れ、しかし視線を反らすことはない。
やはり熱でも出したのか。見たことのない表情に驚き半分、心配半分でいればふにゃりと笑われる。
「だから……、夢野ちゃんが、可愛いって話」
「……………………んあ?」
言われた意味が理解出来ず、ぽかんとしていると空いていた距離がゼロになった。ぎゅうぎゅうと、先程よりも強い力で抱き締められてしまい、今度こそ逃げることが叶わなくなる。
ほう、と耳元でこぼれる溜め息。いやに熱っぽいそれにどうしていいかわからず、夢野は身を固まらせるしかない。
「まず声が可愛い。ジジ臭い喋り方でも気にならないぐらい可愛い。顔だってキミの言う通り美少女に違いないよ。めちゃくちゃ可愛いから、オレすごく好き」
ぐりぐりと肩口に擦り付けられる額。聞いたこともない甘い声で、落とされ続ける甘い囁きは、夢野の鼓膜を優しく揺らす。
「みんなチビだのなんだの言ってるけど、オレはこのサイズ感がちょうどいいよ。抱き心地も柔らかくていいし、なんか、いい匂いがする……」
「ぎゃっ!?」
首筋に鼻らしきものが当たる。それだけでも悲鳴を上げそうなのに、嗅がれたのでは堪ったものではない。可愛げの欠片もない声を上げた夢野は、これまでの人生の中でも渾身の力を振り絞って暴れた。
けれども悲しいぐらいにビクともしない。腕の力は緩まるどころか強まる一方で、ますます体が密着していってしまう。
「……かわいいね、夢野ちゃん。……嘘なんかじゃないよ、ホントなんだから」
「……ぅ、」
至近距離で見つめられ、夢野は息をすることすら忘れそうになる。せめてもの抵抗にと視線をそらせば、柔く微笑んだ王馬の顔が近づいて来た。
ぎゅっと瞼を下ろし、緊張で身を固くしたまま。来るかもしれない衝撃を待っていれば、肩にとんと軽く乗るものがあった。
「…………んあ? 王馬?」
すうすうと規則正しい呼吸。揺らいでいた瞳はまぶたの奥に仕舞われ、ピクリとも動く気配がない。ゆっくりと伸し掛かる体が重さを増していき、夢野は耐えきれずその場に座り込んだ。
「な……、何だったんじゃ……?」
「あらら、王馬クンってば大事なところで眠っちゃったのね?」
「んあ!? …………何じゃ、モノファニーか」
呆然としたまま、寄り掛かって眠っている王馬の顔を見つめる。起きる気配すら感じられない姿に不安を覚えていれば、いつの間にやらやってきていたらしいピンクのクマが側にいた。
「お主は何か知っておるのか?」
「モチロンよ。だって王馬クンが素直になるようにしたのは、アタシたちだもの」
ふふふ、と嬉しそうに笑いながらモノファニーは言う。仲良しなのはいいことね、コロシアイよりよっぽどいいわ。そんな言葉を続けているぬいぐるみは、満足したのか軽い足取りで王馬の傍らへと移動する。
「いつも隠しすぎてる反動かしらね? でも心配することはないわ。きっとお昼には起きるんじゃないかしら」
「…………おい、モノファニー。お主今なんと、」
「あっ、いけない! アタシそろそろいかなきゃ!」
それじゃあ王馬クンをよろしくね夢野サン、と言い残してモノファニーは跡形もなくその場から消えた。取り残されたのは幸せそうに穏やかな寝息を立てている王馬と、困惑しきりながらも逃げることのできない夢野だけ。
「…………いや、嘘じゃろ。アヤツらのすることじゃから、何か失敗しておるに違いない」
ははは、と乾いた笑い声に返事はなかった。
背中に回っている手はがっちりと組まれ、逃げられそうにもない。時折甘えるように擦り寄ってくる少年が、つい先程落としたばかりの囁き。未だ鼓膜に張り付いて離れないそれは、夢野の心臓を加速させるばかりだった。
【紅鮭団】
まるで威嚇するふぐみたいだな、と膨らんだ両頬を眺める。林檎色の柔らかそうなそこは突けば破裂してしまいそうなほど張り詰めていた。
「ね〜、もういいでしょ? どうせ開けられないんだから諦めなよ」
「んあー! まだじゃ! ウチならやれる!」
全身の力を指先に込めて左右へ引っ張っているようだが、がさがさと乾いた音を立てる袋は開く気配すらない。
このままスナック菓子の袋と格闘する夢野を見ているのも楽しいだろう。しかしせっかく、誰に邪魔されることもなく食堂で二人きりなのだ。もう少し有意義な話をしたいと思うのは、おかしなことではないだろう。
「はい、時間切れ。いや〜、それにしても夢野ちゃんの魔法は相変わらず役立たずだね〜。こういうときにこそ使うものじゃないの?」
「し、仕方なかろう……、小腹が空いてMPも切れておるんじゃ……」
むす、と先ほどよりかは萎んだ頬。尖った唇から漏れてくる言葉は棘だらけだった。少し言い過ぎたかとは思うものの、夢野から飛んでくる視線は咎めるようなものだけではない。どうやら想像していた以上に小腹を空かせているようだ。
ではその期待にお応えして、と王馬は思い切り袋の縁を左右へと引っ張る。
ばんっ、ばらばら、がさがさ。
弾けるように開いた袋は、もう袋としての機能を果たしていない。辺りに広がるのは香ばしい匂いと、飛んで落ちていったスナック菓子。嬉しくないシャワーを浴びた王馬の白い制服に、じわりと油染みが付いた。
「……お、王馬? 大丈夫、か?」
目を丸くして固まっていた夢野は、恐る恐るといった様子で話しかけてくる。そんな彼女をしばらく眺めていた王馬は、やがて盛大な溜め息を吐きつつ、目の前の非力過ぎる少女に噛み付いた。
【紅鮭団】
真っ暗な廊下を転ばないようゆっくり進む。耳が痛いほどの静寂。少しでも気を緩めるとチビッてしまいそうな雰囲気に、ごくりと夢野は生唾を飲み込んだ。
のろのろ歩き続けること数分。ようやく辿り着いた、いやに物々しい大きな扉を開けば、目が焼けてしまいそうなほどの光に包まれる。
「……ようこそ、夢野ちゃん」
あまりの眩しさに怯んでいると、柔らかな声が聞こえると同時に手を引かれた。招かれるまま進んでいくとほんのりと甘い香りが鼻先をくすぐる。
「んあっ。王馬、お主もしや先に食べておらんか?」
「え〜? だって夢野ちゃんがあんまりにも遅いからさぁ」
未だ朧気な世界。早く目を慣れさせるためにもと恐る恐るまぶたを開けば、不満そうにそう呟く王馬の顔が視界に飛び込んできた。けれどもどことなく、笑っているようにも見える。
どこから持ってきたのかわからない椅子の前。手を引かれるままそこへ辿り着くと、夢野は半ば強制的に座らせられることとなる。どすん、と強かに打ち付ける尻。
「痛い! もう少し優しくせんか!」
「にしし……、ごめんごめん」
痛みに驚きと怒りの声を上げれば薄っぺらい謝罪が返ってくる。それがまた夢野の神経を逆撫でするのだが、大きく開けた口にアレが放り込まれることで、言葉が続けられることはない。
もごもご、ごくん。咀嚼を繰り返し、飲み込む頃には瞳を輝いていた。ゆっくりと視線が向けられるのは王馬の手に乗っている可愛らしい箱。
「ね、これでご機嫌直してよ」
「んあー……、仕方ないのう」
ふふ、と漏れる言葉と笑み。差し出される粒を前に口を開けば、ころんと甘くとろけるチョコレートが転がり込んできた。
【育成計画 / 会話文のみ】
「そういえばさ、昼のニュース見た?」
「んあ? 見ておらんが……、何かあったのか?」
「この学園に不審者が侵入したんだって。露出狂らしいんだけど、まだ捕まってないみたいでさ」
「んあー、露出狂……」
「そうそう。まだ暑さも残る時期にロングコート着て、誰彼構わず見せてくるんだって!」
「何でお主はそう楽しそうなんじゃ……」
「え〜、だってわざわざ評価してくださいって言いに来てるようなもんじゃん。どれだけご立派なモノをぶら下げてるのか、想像したらワクワクしてこない?」
「するわけないじゃろ。……というかその話、もしかしなくても嘘じゃな?」
「あれ、どうしてそう思うの?」
「お昼のニュースを確認しておらんから確かではないが、そもそも学園内に不審者が侵入したらもっと大騒ぎになっておるじゃろ。こんなに静かなわけがないわい」
「あちゃ〜、バレちゃったか〜。……なんてね、すぐにバレるとは思ってたよ」
「んあ……、口を開けばすぐ嘘じゃのう……」
「にしし……、安心するのはまだ早いよ。学園内に侵入者がいるのは本当だからね」
「お主先ほど嘘だと言っておらんかったか?」
「露出狂の話はね。侵入者のことは本当なんだってば!」
「ではどうしてこうも静かなのじゃ」
「それはね〜……、騒いだら危ないからだよ」
「何じゃ、武器でも持っておるのか?」
「まあ、ある意味ヤバイ武器を持ってるやつだよ。夢野ちゃんなんて襲われたらひとたまりもないし、オレだって逃げるのがやっとかもね」
「……こんなところを呑気に歩いている場合ではないのではないか?」
「そうだね」
「ところで王馬よ、その侵入者とは一体何なんじゃ? 警戒しようにも特徴がわからないのでは無抵抗に殺されるだけじゃぞ」
「そいつはね、体長二メートルぐらいで肌は茶色かかってるんだ。刺激しなければ大人しいけど、少しでも敵対心を見せると襲いかかってくるよ」
「んあ、そうか。……体長?」
「ねぇ、夢野ちゃん。ちょっと止まって」
「んあっ! な、何じゃ……!?」
「このまま進んでさ、角を曲がった先にいたらどうする?」
「いたらって……、何が……」
「……オレが見たニュースはね、学園の近くに来てた移動式動物園からとある動物が脱走したってものなんだよ」
「ど、動物……、まさか……」
「動物園の花形、百獣の王がここに迷い込んでいるんだ……」
「お、王馬よ。すぐに引き返すぞ? 奴に見つかる前に校舎内へ逃げるのじゃ……!」
「いや、無理だね。だっているもん」
「んあ!?」
「夢野ちゃん、オレがあの角を曲がったら全速力で逃げてね? 振り返っちゃ駄目だよ」
「おっ、王馬! 無茶じゃ!」
「……大丈夫、オレは悪の総統だからね。ちょっとやそっとのことじゃ死なないよ!」
「待てっ、行くな王馬! 置いていくでない……!」
「……、うわあーーーーー!!」
「おうまぁ〜〜〜〜!!」
「にゃ〜ん、うにゃぅ……」
「…………猫ではないか」
「にしし。だから言ったじゃん、オレは死なないよ〜って」
「……まあ、薄々わかっておったがな。ライオンなんぞ紛れ込んでも、田中がすっ飛んできてすぐどうにかするじゃろ」
「あれ、今日は珍しく冴えてるね。もしかして心を読む魔法でも使ってる?」
「途中から迫真さが抜けておったからのう。ライオンと対峙するのに楽しくてたまらんといった顔をするやつがおるわけがない」
「なぁ〜んだ、やけにノリがいいとは思ってたけど、バレてたんだね。がっかりだよ」
「とはいえ、これで目が覚めた。気だるい午後の授業も少しはマシに思えるかもしれんのう。……んあ、何じゃ?」
「校内アナウンスだね。……ふーん、やっと捕まったんだ」
「不審者……、とは、んあ!? もしや侵入者の話は本当じゃったのか!?」
「残念だったね〜、品評会ができなくて」
「いやそんなもの楽しみになどしておらんが……、どういうことじゃ王馬! 説明せんか!」
「ところでこの猫さぁ、色味とかもライオンに近くない? このフェイクファーを顔の周りに巻いてやって……、ほらかわい〜」
「んあ〜、本当じゃのう! ではなくて! あっ、こらどこ行くんじゃ王馬! 待たんか! あと猫はここに置いていけ!!」
【紅鮭団】
階段を降りて上がって突き当たり。自室として充てがわれた部屋の、ホールを挟んでちょうど真向かい。そこで王馬は眉をひそめながら立ち尽くしていた。
何度か押したインターホンには返答がなく、嫌がらせに連打をしても反応がない。あの面倒くさがりのことなので、朝食を終えればとっとと部屋に引っ込むだろう。そう踏んでやってきたのだが、予測は見事に外れてしまったようだ。
これで三日連続空振り、野球であればアウトである。
(おっかしいな〜、連れ出しそうな奴はみんな別の人間と過ごしてんのに)
猪突猛進の合気道家も、お祈り熱心な美術部員。他にも彼女を連れ出しそうな女子面々は、それぞれ別の人間と過ごしているはずである。となれば必然的にペアとなる人間がおらず、部屋に戻ってくるはずなのだ。
しかしインターホンを押しても、室内の気配は動くことがない。もしや居留守か、とも思ったがあれだけ騒がしくしておいて、何の反応もないというのもおかしな話だ。
「……仕方ない、ゴン太かキー坊で遊ぶかぁ」
非常につまらない。つまらないのだが、仕方のないことかとも思う。そもそも共に過ごす約束など取り付けていない。けれどもやはり苛立つことには苛立つので、暇つぶしの相手としていじり甲斐のある二人を探しに出た。
もしかすると、三人で過ごしているのかもしれない。ここへ来てから数日、彼女は件の合気道家と美術部員と特に仲良くしているようだった。そうであるならいないのも頷ける、なんて自分に言い聞かせること数分。王馬の耳にふと探し求めていた声が飛び込んできた。
何だいるんじゃん、とそちらへ足を向けかけて、止まる。想像していた様子に比べて、どうにも彼女の声が高い。仲のいい女子二人と過ごしているとき、あんな甘えたような声は出したことがあっただろうか。
いや、ない。絶対に、間違いなく、ない。
「んあー、流石は天海じゃのう。こうも綺麗になるとは、お主もしや魔法使いの素質があるのではないか?」
「本当っすか? ふふ、もしそうなら嬉しいっすね」
食堂を出て少し先、机と椅子が並んでる仄暗い場所にある二つの影。一つは自らの指へ輝かせた視線を送る魔法使い、もう一つはその姿を微笑ましそうに見つめている超高校級、であるはずの彼のものだ。
「でも、夢野さんの指先はもともと綺麗でしたよ。やっぱり気を使うものなんすか?」
「うむ。間近で披露する魔法は、嫌でも指先に視線が集まるからのう。それに変な形であっては魔法もうまく発動せん」
「なるほど。また一つ勉強になったっす」
天海の手に収まっているのはネイルブラシだ。食堂の真向かいにある、購買部に設置されたマシーンから得られることができる代物である。やがてテーブルの端へ置かれたそれは、既に役目を終えているらしい。その証拠に、夢野はネイルブラシになど目もくれず、自らの指先を眺めている。
二人の間に流れている時間は驚くほど穏やかだ。ぽつりぽつりと交わされる言葉に棘などなく、ただ互いにとりとめのない話題を出し続けている。
「…………、」
手のひらに鈍い痛みが走る。何事かと驚いてそちらを見れば、無意識のうちに握り込んでいた爪先が赤い痕を残していた。
天海蘭太郎。超高校級であるにも関わらず才能は未だ不明で、しかしその人当たりの良さから彼を警戒する人間は少ない。
「しかしやけに手慣れておったのう……。お主、超高校級のネイリストなのではないか?」
「え? ああいや、これはよくせがまれたので身についただけっすよ」
「んあー……、モテ自慢か?」
「えーっと、そういうわけじゃないんっすけど」
交わす言葉や態度からわかるように、夢野は天海をほとんど警戒していない。先程から彼の手をとっては興味深そうに観察している。
天海も天海で夢野の行動を嫌がることはないようだった。取られた手も好きなようにさせ、たまに飛んでくる言葉に優しい声音で答えている。ひょこひょこと揺れる三角帽子。その下で目を輝かせる彼女を見つめる瞳はやはり優しくて。
「あれ、二人ともこんなところで何してんの?」
考えたくはない考えが脳裏を過った、ときには足が前へ出ていた。未だ思考もぐちゃぐちゃのまま、会話の脳内シミュレートも終えていないのに、気付けばぽかんとする二人のすぐ側へ辿り着く。
「王馬君、一人っすか? 珍しいっすね」
「オレだってたまには一人で感傷に浸りたいときだってあるよ」
にしし、と笑えば天海は「そうっすか」と短く答える。どうやらこちらに対して興味が薄いようだが、それは王馬も同じだった。すぐに隣でぽかんとしたままの夢野へ目を向けた。
「オレの顔に何かついてる? ……あぁ、そっか。夢野ちゃんの顔って元から間抜けだったね」
「なっ、何じゃと!? んあー! 顔を合わせるなり何じゃその失礼な言葉は!」
にやにやと笑いながら言葉を掛ければ、はっとした彼女はすぐさま眉を吊り上げる。憤りを隠しもしない声。そこには先程まで天海に掛けられていた、柔らかさなど微塵もない。
「そんなに怒んないでよ〜。折角のデートを邪魔しちゃったのは謝るからさぁ〜」
「で、デートなどではない! ウチはただ、天海に爪を整えてもらっておっただけじゃ!」
「ふ〜ん、一昨日も昨日も今日も? そんなに削ってたら夢野ちゃんの爪無くならない?」
「誰が三日連続で整えてもらうやつがあるか! 一昨日も昨日も別のことをしたわい!」
釣り針にあっさりと引っかかる夢野。ぶつぶつと文句を言いながら恨みがましく睨みつけてくる視線に、貼り付けていた笑みが崩れそうになる。
しかし胸に湧いた感情をぶつけるべきは彼女ではない。にこにこと、どこか楽しそうにこちらを眺めてきている男こそ、すべての元凶なのだ。
「へぇ〜、そんなに毎日一緒に過ごしてて飽きない? それとも天海ちゃんは、こんなちんちくりんのアジの開きにご執心なのかな?」
「だっ、誰が我が家の定番メニューじゃ!」
「ちょっと、今夢野ちゃんには話しかけてないでしょ! 空気読んでよね!」
「んあ〜〜! 何なんじゃお主はぁ!」
遂には感情が抑えきれなくなったのか、勢いよく夢野が立ち上がった。そのまま王馬へ詰め寄ってくる一回り小さな少女。いつもは半開きの瞳に怒りを宿らせた彼女は、非難の言葉を浴びせながら睨みつけてくる。
「……それじゃあ、俺はこのへんで失礼するっす」
がた、と椅子の脚が擦れる音がしたと同時に立ち上がる天海。突然のことに怒りを忘れて目を丸くする夢野は、小さく首を傾げて見せる。
「んあ、どこへ行くんじゃ」
「どことは決めてないっすけど……、とりあえず俺はお邪魔みたいなんで」
「何を言っておる。お邪魔なのはどう考えても王馬のほうじゃろ」
ぎろり、と睨みをきかせる夢野。そちらの方向にはにやにやと笑っている、こともなく冷めた目で天海を見る王馬がいた。どことなく纏う空気がピリピリとしている気がして、夢野はまた首を傾げる。
「とにかく俺は行きますね。それじゃあ夢野さん、また」
「んあ、天海っ……、行ってしまった……」
一体何だったんじゃ、とぼやきながら曲がり角に消えていく背中を見つめる夢野。その瞳にはただただ不思議だと言わんばかりの色が滲んでおり、少なくとも焦がれるようなものはない。
そんな彼女に内心ほっとしながらも、しかし全てわかっていますと言わんばかりの天海の態度には腹立たしさしか感じず。すっかり見えなくなった背中に睨みをきかせながら、やがて大きな溜め息を吐いた。
あのタイミングで噛み付いてしまえば、彼が気付きかけていた真相を肯定するだけである。よく堪えたものだと自分で自分を褒めてやりたい。
「夢野ちゃんがフグみたいに威嚇するから怖くなったんじゃない?」
「んあ〜、ウチは威嚇してなどおらん……。いやそもそもお主が乱入して来なければじゃな」
ぶちぶちと再びこぼされる文句。しかめっ面で睨みあげてくる魔法使いの頭にはもう、ほとんど天海のことなど残っていない。
「うん、それでいいよ」
「んあ、何がじゃ。ウチは全然良くなどないぞ」
聞いておるのか、とますます眉を吊り上げる夢野。その膨れっ面を指で突いてやりながら、王馬はようやく握り締めていた拳を緩めた。
【育成計画 / 会話文のみ】
「何でウチがこんなことをせねばならんのじゃ……」
「興味あるって言ったのは夢野ちゃんでしょ。自分の発言にはきちんと責任持ってよ」
「んあー、それはそうじゃが……。ところで入るところはここで間違いないのか?」
「うん、合ってるよ〜。そんでお金入れてー……、オッケー!」
「あの的に当てればいいんじゃな?」
「そうそう。ヒットでもホームランでもいいから、なにか当ててよ。そうしたら景品もらえるからさ〜」
「んあ、こういうときは女子だとお得じゃのう」
「ほら、そろそろはじまるよ。ちゃんと球見とかないと当てられないでしょ!」
「わかっておるわい! 見ておれ、こんなバッティングマシンの球などウチの魔法で……、ひっ」
「……あれ、どうしたの夢野ちゃん。ぱぱ〜っと魔法でカッ飛ばしてくれるんじゃないの?」
「いや、待て、これは遅い球ではなかったのか!? 想像してたものより速っ、んあー! 王馬ぁー!」
「うるさっ! も〜、そんな発情期の獣みたいに騒がないでよ! 間違いなくここのスペースは遅い球しか出ないんだからさ!」
「う、嘘を吐くでない! とんでもなく速いでは、んあぁーー!」
「速くないよ! そんなの桑田ちゃんの投げる球に比べたらカメよりノロマだからね!」
「桑田と比較すればどれでも遅いじゃろ! 嫌じゃウチはもう出る!!」
「おっと、駄目だよ〜。ここは球が出終わるまで退出禁止で〜す」
「んあー!? そんな話は聞いておらっ、ひぃー!」
「……、ふふ、……ぅくくっ、ははっ」
「わ、笑っておらんで開けんか! 王馬! 聞いておっ、んああああ!」
「あっはっはっは!! 夢野ちゃんその顔傑作だよー。待ち受けにさせてね」
「んあ〜〜〜〜〜!!王馬ぁ〜〜〜〜〜〜!!」
「いや〜、まさかスタッフにここまで絞られるとはね。悪の総統を相手によくやるよ」
「当たり前じゃろ……、あんなに大騒ぎしておったら嫌でも目につくに決まっておる……、ぐす……」
「……そんなに泣くほど怖かった?」
「……調子こいておるお主に直接仕返しできんかったのが悔しい」
「あ、そっちなんだ」
「…………ぐす」
「……ごめんね。アイス奢るからさぁ、許して?」
「……パフェぐらい奢ってもらわんと気が済まん」
「たはー、そういうとこちゃっかりしてるよね〜。でもいいよ。パフェでも何でも奢ってあげる。……だから機嫌直して欲しいな」
「……んあ、言ったな? ならばとことん奢ってもらうぞ」
「立ち直るの早くない? あと何でもっていったけど、ちゃんと良識の範囲内で考えてよ?」
「ふんっ、悪の総統が何を言う。ウチを泣かせたこと、死ぬほど後悔させてやるからな!」
「えぇ〜、オレ今月ピンチなんだけど……って聞いてないね。もー、待ってよ夢野ちゃーん」
【育成計画 / 獣化表現有り】
目が覚めたら子猫になっていた。
何が起きているかさっぱりわからなかったが、まあ夢なのだろうと夢野はすぐに考えることを放棄する。くあ、と小さくあくびをこぼし、折角なのだから好き勝手にごろごろしようと体を丸めた。
少し遠いところで何かが軋む音がする。何事かと耳をピンと立てながらそちらを見れば、大きな足が近付いてきた。ゆっくりと近づいてきたそれはやがて、夢野の目の前で止まる。
「ほら、ごはんだよ〜」
遥か頭上から降ってくる声は聞き慣れたもの。驚いてがばりと顔を上げた先、そこにあったのは見たこともないほど優しい笑みだった。
驚愕に固まっていると、僅かに首を傾げた彼はひょいと夢野を抱き上げる。そのまま顔の位置まで掲げられたかと思えば至近距離まで近付けられて。
「なんだ、腹減ってないんだ? 折角お前用のごはん買ってきたのにさ〜」
「ふみゃ」
にししと笑いながら擦り付けられる額。逃げようにもうまく体が動かせず、せめてもの抵抗にと声を上げれば、ずいぶんと可愛らしい声が上がった。
そんな夢野の、もとい子猫の反応が面白かったらしい。年相応にけらけらと笑ってみせた彼、王馬は彼女を抱えたまま立ち上がる。一気に遠のいていく地面。あまりの遠さにめまいを起こしそうになっているうちに、ベッドへそっと下ろされた。
「眠いならここで寝なよ。……ね?」
「うにゃん……、にゃ……」
隣に腰掛けた王馬が縮こまる夢野の背を優しく撫でる。その心地よさにうっとりとしていれば、覗き込んでくる彼は笑みをより深くした。
見たこともなければ聞いたこともない、優しい声と笑顔。それにうっかりときめいてしまうが、そういえばこれはただの夢だったことを思い出す。
(……夢なんじゃし、うむ)
身じろいで、背を撫でていた手のひらへ頭を擦り付ける。思いっきり甘えた声で名前を呼びながら、嬉しそうにしている王馬との距離を詰めた。
「なんだよお前、甘えただなぁ〜!」
「にゃっ、ふにゃ、んにゃあ」
両手で包み込むと同時にもみくちゃにされる。けれども決して潰さない力加減でころころと転がされて、夢野は少しだけ抗議の意味も込めて鳴いた。
なんてところで唐突な眠気に襲われる。子猫であるからだろうか、構われすぎて体力が残っていないのかもしれない。
重く伸し掛かってくるまぶたに為すすべもなく、彼女は大きな手のひらの中で眠りに落ちた。
「…………うわっ、……は!?」
耳元で上がった大きな声。その直後にどたんばたんと上がった物音に、夢野は重かったまぶたを押し上げる。のそのそと起き上がりながらあくびを一つこぼして、目をこすりながら辺りを見回した。
つい先程まで過ごしていた部屋。ふかふかのベッドの下で呆然とこちらを見上げているのは、驚愕に目を見張る王馬だった。
「な、んで……、夢野ちゃんがオレの部屋にいんの……?」
「んあ? 何故と言われてもそれは……、んあ……?」
うにゃんだとか、ふにゃんだとか。そんな鳴き声が上がるはずだった夢野の唇から滑り落ちていったのは流暢な日本語である。
きょとんとして、目をこすっていた自分の手を見る。そのにあるのはけむくじゃらの肉球ではない。間違いなく、人間の手のひらだった。
「……んあっ、んあ〜〜〜〜〜〜!?」
「ちょっと! 悲鳴を上げたいのはオレの方なんだけど!?」
騒がしさに騒がしさが重なる狭い部屋。どたばたと始まった水掛け論が終わる気配はまだない。
「この前、夢野サンがマジックショーで何かの大賞を取ったでしょ? いやぁ〜、学園長としてはホント鼻が高いよ!」
「マジックショーじゃなくてマジカルショーでちゅよ! 夢野サンも、そこのところは不服そうでちた……」
「まぁ、いいじゃん。言い方ぐらいでネチネチ言うなよ面倒くさいなぁ」
「アチシが言ったわけじゃないんでちゅが……。そんなことより急にそんな話を切り出してどうしたんでちゅか?」
「え、そんなこともわからないの? これだから不出来な妹は困るなぁ〜。あのね、ボクはそんな夢野サンにご褒美をあげたんだよ。とびっきり喜ばれるだろう、素敵なプレゼントをね!」
「不出来とはなんでちゅか! というかそもそも妹でもありまちぇん! ……それで、ご褒美とは何なんでちゅか? まさか変なものじゃないでちょうね!」
「変なものとは失礼だな! ボクはただ、恋のキューピッドになってあげただけだよ」
「ほえ、恋のキューピッド?」
「そうそう。いいじゃん、恋に恋する女子高生なんて応援し甲斐があるよね〜」
「モノクマにもそんな心があったんでちゅね……。うう、アチシは嬉しいでちゅ……!」
「とはいっても、王馬クンがちゃんと拾ってくれればの話なんだけどね」
「ほえ? 拾う?」
「そう簡単にご褒美をあげてもつまんないでしょ? だから夢野サンを子猫にして、王馬クンに拾わせるように仕向けたんだよ」
「え〜〜〜〜!? ど、どういうことでちゅか!?」
「どうもこうも、それ以外に答えはないよ。王馬クンが子猫になった夢野サンを拾えばハッピーエンド、そうでなければどっかで野垂れ死んでるんじゃないかな?」
「な、なんてことするんでちゅか! 許ちぇまちぇん……!」
「お前に許されなくたって気にならないね。というかモノミ、お前いつまでウサギキャラなんて続けてんだよ。時代は猫だよ、猫! ほら、お前が猫になるんだよ!」
「いや〜〜〜〜! 痛いでちゅ! 耳を引っ張ったって猫にはならないでちゅ!! いやぁ〜〜〜〜〜!!」
【紅鮭団】
「あ、王馬君。こんなところにいたんだね。さっきゴン太君が探し、てた、……よ、」
曲がり角の向こうにあった背中へ声を掛けていた最原は、すぐさま向けられた剣呑な視線を受けて足を止める。逃げられないようにと伸ばしかけた手。中途半端な場所で彷徨うそれが掴むのは気まずい空気だけ。
「……んあ、最原か?」
真っ白な背中の向こうからひょこりと顔を覗かせるのは夢野だった。常よりもほんのりと頬が色付いて見えるのは気のせいだと信じたい。
「何か用か?」
「え゛っ、えーっと、王馬君に用があった、んだけど……」
徐々に鋭さを増していく視線。さっさとどこかへ行け、と口ではなく態度で告げてくる王馬は明らかに不機嫌である。漂う空気は気まずいどころではない。
「でもっ、そんなに急ぎじゃないと思うから! ゴン太君には僕から何とか言っておくよ!」
一刻も早くここから逃げ出したくて、最原は逃げ出す理由を捲し立てる。そうしてさっさと踵を返し、駆け出そうとした瞬間であった。
「んあー、そんなことせずともよいぞ。ウチの方が急ぎの用ではないからのう」
捨て台詞のつもりで投げつけた言葉はその役割を全うしてはくれなかった。のんびりとした声と足取りで王馬の向こうから抜け出た夢野は、ひらひらと手を振りながら歩いていってしまう。
間もなくして最原が逃げようとしていた方向に消えていく小さな背中。よりにもよって、今一番共に過ごしたくない相手と二人きりになった最原はごくりと生唾を飲む。
「…………そんなんだからさぁ、最原ちゃんはいつまで経っても童貞なんだよ」
「どっ……、そっ、それは今関係ないだろ……!」
荒々しい舌打ちと共に吐き出された棘しかない言葉。自身の名誉のためにも反論はしたが、ついぞ最原は王馬の顔を見ることはできなかった。
【紅鮭団】
獄原といるかどうかもわからない虫を探し、その道中で見かけたキーボと入間をからかい倒して。たっぷり遊び尽くして帰ってきた寄宿舎に、その不審な背中はあった。
二階の突き当りにある個室。そこに掲げられたプレートへ描かれているのは、市松模様のストールを纏った少年だ。今扉の前で不安定に揺れている三角帽子は、ホールを挟んで反対側のプレートへ描かれている。
「……やっほーーー!! 夢野ちゃんそんなところで何してんの? もしかしてオレの部屋に不法侵入でもしようとしてた!? ひ、ひどいよそんなことするなんて!ゔぇああぁぁあ゛あ゛ああん!!」
「……んあ、驚く暇ぐらい与えんか」
一気に階段を駆け上がり、足音でびくついた背中が振り返ると同時に言葉を畳み掛ける。驚きに悲鳴を上げる隙きも与えず、みっともなく泣き喚くこと数十秒。目を丸くしていた夢野は、やがてまぶたを半分下ろしつつ呆れたように呟いた。
「それはともかく、本当にオレの部屋の前で何してんの? まさか本当に不法侵入でもするつもりだった?」
「……そんなわけなかろう。解錠の魔法はMP消費が激しいんじゃ。そうほいほいとは使わん」
帽子のつばをぎゅっと握り込む夢野。目線は足元へ投げられてしまい、返される声も徐々に小さくなっていく。
背も丸まってしまったことで、すっかり見えなくなってしまった顔。そこへ感情が浮かぶことはあまりないものの、それでも見ないよりかは見たほうが窺い知れるものだ。
「ふーん、そうなんだ。不法侵入目的じゃないってことは……、もしかして夢野ちゃんはオレに会いに来てくれたのかな?」
腰を曲げながら帽子の向こうに隠れた顔を覗き込む。さてどうからかってやろうかと考えながら、にやにやとした笑顔を貼り付けたまま。真っ赤な髪の隙間をくぐり抜けて視線を送った先にあったものは。
「……うるさいっ」
「うわっ」
帽子のつばを握り込んでいた手が伸びてきて、王馬のストールを掴む。そのまま真上に上げられてしまえば、視界は白と黒に塗りつぶされてしまった。
真横を通り抜けていく小さな気配。かんかんと軽い音を立てながら遠のいていった背中は、振り返る頃には寄宿舎を飛び出していた。
「…………えっと、」
一人ぽつりと残された王馬。部屋の扉と寄宿舎の扉へ交互に視線を送り、腕を組むことおよそ数分。刹那に見えた少女の頬はほんのりと赤く、瞳は潤んでいたような気がした。
いやそんなまさか、とこぼしたところで答えなど返ってこない。自惚れに塗れた解釈にそんなわけがないと何度も否定しながら、しかしいつしかまぶたの裏にはまるで照れたような顔がしっかりと焼き付いていた。
【紅鮭団】
恋愛観察バラエティなるものが始まって、早いもので五日目を迎えていた。最初はどうなることかとヒヤヒヤしたものだが、視聴者からの反響は悪くない。あの退屈すぎる世界では、他人の殺し合いも恋愛も同等の刺激なのだろう。
地味に仮染めのクラスメイトたちと友好を深めていく中で、芽吹く恋心というものを何度か見た。なんてったって思春期の少年少女。その上、監禁状態に置かれる中、吊り橋効果も相まって惹かれ合うのは仕方のないことなのだ。
「夢野さんって、王馬君のこと好きなの?」
才能を横に置いておけば、白銀つむぎはごくごく普通の女子高生。他人の恋愛には敏感で、それらしき気配があれば首を突っ込みたがる。といった体を装って暇を見つけてはクラスメイトたちに探りを入れていた。一大エンターテイメントとしてこの企画は絶対に成功させなくてはならないからである。
中庭の一角、藤棚の下でのんびりとしていた夢野を見つけ、隣に腰掛けて他愛ない話をすること数分。そわそわした様子で問いかけてみれば、夢野は緩慢に首を傾げてみせる。
「んあ……、何じゃ急に……」
「急ってわけじゃないよ。地味に気になってたんだよね〜。ほら、夢野さんって何度も王馬くんにからかわれてるでしょ? それなのに嫌ってる様子がないから、そうなのかな〜って」
これは白銀の考察であり、また希望でもあった。何度も何度もからかわれ、その度に不服そうな顔をしている割には夢野が王馬から逃げることはない。単に面倒くさいので放っている可能性も高いが、どう考えても絡まれるより逃げたほうが面倒臭くないはずである。
とはいえ、夢野はここに集められた女子の中でも恋愛から程遠いキャラクター付けをされていた。構われたいから動かない、ではなく本当にただ面倒くさいから動かないという可能性もゼロではない。
「……ありえんじゃろ」
はあ、とため息が一つ。面倒臭そうにそう答えた夢野は、つま先に視線を向けてしまう。その横顔を窺おうとしてみるものの、大きな帽子が邪魔をして読み取り辛い。
やはり可能性は低いのだろうか。白銀は頬に手のひらを添えながら、夢野がこちらを見ていないのをいいことに、眉間へ皺を寄せる。
(夢野さんとの組み合わせで一番人気なのは、やっぱり茶柱さんなんだよね〜。私としても視聴率が上がるならそっちを推したいけど、王馬君との絡みが人気なのも事実だし……)
茶柱と夢野の関係性を推している視聴者は多い。そこにあるものが恋愛か友愛かで論争が起きているらしいが、それは横に置いておいて。運営としてはやはり人気のある組み合わせを贔屓にしたいものなのだ。
だからといって他少数を切り捨てることは得策ではない。難しくはあるが、王道は推しながらも少数を守ることで、よりこの企画を盛り上げることが彼女に課せられた使命である。
そんなわけで、一部に人気が出つつある王馬と夢野の絡み、もとい漫才がより映えるよう掛けた言葉があれだった。
しかし見たところあまり手応えはない。
(折角の恋愛バラエティなのに、地味にロマンスが足りてないんだよね。だから少しでも脈があればって思ったんだけど……、やっぱり難しいかぁ)
小柄な者同士、いわゆるショタとロリの組み合わせはそこそこ人気がある。できればそちらも狙い撃ちしたかったのにな、なんて残念がっていれば不意に夢野の指先がぴくりと跳ねた。
「白銀よ、ウチは用事があるからもう行くぞ」
「え? あぁ、うん。じゃあまたお昼に……、って行っちゃった……」
動くことすら面倒臭いとのたまう彼女は、どうしてか駆け足で校舎の方へ駆けていく。はて、そんなに急ぎの用事でもあったのだろうか。モニターで確認した限りでは、誰かと約束を取り付けた様子もなかったのたが。
「……あれ、白銀ちゃん一人?」
うーん、と首を傾げて考え込んでいれば、問いかけが耳に飛び込んでくる。思いもよらない人物の登場に驚き、ぱっと顔を上げれば何かを探している素振りを見せる王馬が近付いてきていた。
「そうだよ。私一人だけど……、誰か探してるの?」
総統というキャラクター性からなのか、そもそもの素質なのか。王馬小吉はなかなかに鋭い男である。普段ならあまり関わり合いたくないのだが、あからさまに避けようものなら疑われてしまう。
できるだけ自然を装って、不思議そうに首を傾げてやれば、返ってくるのは意外にも笑顔であった。
「そうそう、人探ししてんの。これがなかなか見つからなくてさぁ〜。あちこち回ってるんだけど、あとちょっとのところで逃げられちゃってて」
「ふーん、そうなんだ。……手伝おうか?」
困ったような口ぶりではあるが、表情からは楽しくてたまらないといった感情が透けて見える。とはいえ彼は徹底した嘘つきなのだ。運営側からも超高校級の総統の真意は未だに読めない。
「ううん。いいよ、目星は付いてるしね」
両手を頭の後ろで組みながら歩き出す王馬。鼻歌なんて漏らしつつ悠々と歩いていくその背中を見送っていると、不意に彼は振り返る。
「そう簡単に捕まえないほうが盛り上がるでしょ?」
「……えっ?」
「にしし……、じゃあね〜」
ひらひらと振られている手のひら。それに応えることができないまま、白銀は無意識に腕を組んでいた。
もしや全て見抜いているのだろうか。そんな不安に駆られながらも、胸の内から湧き上がってくるのは好奇心と期待である。
うぷぷ、と笑いながら上機嫌で白銀は立ち上がる。どうしてあのタイミングで夢野が逃げたのか、王馬が何を探して捕まえようとしているのか。今はまだ全てが推測の域を出ることはないものの、近いうちに答えは出されるだろう。
「さーて、頑張りますか」
長いスカートを翻しながら歩み始める彼女の足取りは軽い。茶柱か王馬か、どちらに夢野が転んでも間違いなく面白くなることに違いないのだから。
【紅鮭団 / 会話文のみ】
「夢野ちゃんって予想を裏切らない鈍臭さだよね」
「んあ、何じゃ急に。失礼なやつじゃのう」
「いや〜、だってさぁ。さっき茶柱ちゃんの走る速度に追いつけなくて、すっげー引きずられてたじゃん。やっぱり足が短いから?」
「んあー、足の長さはお主もそう変わらんじゃろ! それに転子の速度には最原もついて行けておらんかったぞ!」
「え、マジで? ふーん、最原ちゃんって見た目以上にもやしっ子なんだね……。貴重な情報をありがとう、夢野ちゃん!」
「一体何に使うつもりなんじゃ……」
「それはまあ色々だよ。それで、さっきの話に戻るんだけどさ」
「んあ、お主の足が短い話じゃったか?」
「何言ってんの。オレの足のどこが短いっていうのさ! ほら、ちゃんとよく見てよ!」
「んあ〜〜! ズボンを脱ごうとするでない! そんなことせんでも見えておるわ!」
「にしし……、いやー夢野ちゃんは期待を裏切らないよね〜。オレとしては楽しい限りだけど、いい加減本題に入るね」
「……本題に入れんのはお主のせいじゃろうが。まあよい。それでお主は何が聞きたいんじゃ」
「うん。夢野ちゃんってさ、スキップできんの?」
「……んあ? スキップ?」
「まず行動がトロいし、脂が乗ってるから体も重いでしょ? だったら軽やかなステップとか踏めなさそうだな〜って」
「んあー、誰が今旬のお財布に優しい鮮魚じゃ」
「そういう返しは今いいからさ。できるの? できないの?」
「……別にスキップなどできなくとも生きていけるじゃろ」
「ははーん、なるほど! やっぱり夢野ちゃんは鈍臭いしリズム感もないから無理だよねー!」
「んあっ、何故無理だと決めつけるんじゃっ」
「何故も何も、さっきの返しだとできないって答えてるようなものじゃん」
「それは……、そうじゃが……。できると言ったらお主はここでやってみせろと言うじゃろ」
「当たり前じゃん! 口だけの嘘かもしれないからね」
「んあ、お主がそれを言うか。ともかく、そんな面倒なことはやりたくないんじゃ」
「え〜? そんなこと言って、本当は出来ないだけなんでしょ? 全く、夢野ちゃんは嘘ばっかり吐くなぁ」
「じゃから嘘ではないと言っておるじゃろ。あまりしつこいとウチの魔法でその口を縫い合わせるぞ」
「何それ、脅迫? にしし、超高校級の総統に喧嘩売るとかいい度胸してるよねー!」
「どうとでも取るがよい。ウチはもう行くぞ」
「ちょっと。喧嘩売るだけ売っといて逃げるとかどういう神経してんの? それとも……、魔法使いの世界ではそれが当たり前なのかな?」
「……違うわい」
「本当に? だったら証拠を見せてよ。まあそんなの証明できるようなものなんて、あるとは思えないけどねー」
「……んあーーー! わかった! やればいいんじゃろ、やれば!」
「うわっ、びっくりした〜。急に大声出さないでよ! 驚きすぎて心臓が止まったら、夢野ちゃんは責任とってくれるの!?」
「嘘つけい。全然驚いてなどおらんくせに」
「にしし、バレた? それで、夢野ちゃんは何をしてくれるのかな? まな板の上で踊ってでもくれるとか?」
「誰が捌かれ待ちの鮮魚じゃ! スキップの方に決まっておるじゃろ!」
「いよっ、待ってました! いや〜、遂にこの目で魔法使いのドスコイステップが見れるんだね!」
「それでは四股になるじゃろうが」
「やだなぁ、嘘だよ嘘。ほらほら、早くやってみせてよ!」
「んあー、その前に確認したいことがある。先程から散々ウチのことをバカにしておるが、そういう王馬はスキップができるのか?」
「は? できないに決まってんじゃん」
「んあ!? 何じゃと!?」
「もちろん嘘だよ! できるに決まってんじゃん。どこぞの魔法使いと違うんだから」
「……信じられん。どうせ嘘じゃろ」
「……もしかしてそれ、挑発してるつもり? ヘッタクソだな〜、もっと煽っていかないと相手は乗ってくれないよ!?」
「う、うるさい! わかっておるならとっとと乗ってこんか!」
「えぇー……、横暴……。まあいいや。夢野ちゃんがちゃんとスキップしてくれるんなら、オレも見せてあげてもいいよ」
「とか言いながらお主、見せんつもりじゃろ」
「どこまで疑り深いのさ。仕方ないな〜、じゃあせーのでスキップしようよ。それなら先だ後だって揉めないで済むでしょ」
「んあ……、些か不安ではあるが……。うむ、よいぞ。いつでもくるがよい」
「にしし。それじゃあいくよ……、せーのっ」
「夢野さん!! 王馬さんと廊下で腕を組みながら呪いのステップを踏んでいたって本当ですか!?」
「んあ!? な、何じゃその話は! ウチはそんなことをしておらん!」
「で、ですが……。アンジーさんが昨日、廊下で何やら不思議な動きをしていたと仰っていまして……」
「昨日……? ああ、あれか……」
「心当たりがあるんですか……? まさか本当に呪いのステップを……!?」
「いや、それはそういうものでは……、んあっ転子どこへ行くんじゃ!?」
「決まっています! 夢野さんを変な儀式に巻き込んだ王馬さんにシメに行ってきます!」
「いや、じゃからそういうものでは……! んあー、話を聞かんか転子〜〜!」
【育成計画 / 会話文のみ】
「とりあえずドリンクバーで劇薬作ってきたんだけど一口飲む?」
「んあー、とりあえずでそんなものを作ってくるでない。ウチは絶対に飲まんぞ」
「え〜? グロいのは見た目だけだって! ほら飲んでみなよ!」
「嫌じゃ。それを飲むぐらいなら、舌を噛み切って死んだほうがマシじゃ」
「ちぇー。つまんないの! ……おえっ、まずっ」
「…………それで、今から何をするんじゃ?」
「何ってそんなの、カラオケに来たらすることなんて一つしかなくない?」
「歌はめんどいから嫌じゃ」
「ねぇ、さっきから嫌だ嫌だばっかりだけどさ。だったら夢野ちゃんはどうしたかったわけ?」
「最原の事務所のすぐ近くにある喫茶店で時間を潰せばよかろう、とは言ったな」
「そうだね。でもさ〜、つまんないじゃん! せっかく二人きりなんだしデートっぽいことしようよ!」
「二人きりにしたのはお主じゃろ。少し離れたところで赤松が手を振っておったこと、気付いておらんかったわけではなかろう」
「うん、そうだね。でもほら、オレは優しいからさ。折角なんだし最原ちゃんと赤松ちゃんを二人きりにしてあげようかな〜と思って」
「んあー。お主が気を使うなど、一体何を企んておるんじゃ」
「やだなー、本当にただの親切心だよ!」
「嘘くさいのう……。そう言っておきながら、最原に何かをせびるつもりじゃろ」
「にしし。夢野ちゃんもオレのことをよくわかってるよね〜! でも今回は、本当に何もせびるつもりはないよ。もう貰ってるし」
「んあ? 何をじゃ?」
「まあ、鈍臭いし泳ぎも遅くてすぐ捕まっちゃう夢野ちゃんには一生わかりっこないことだよ」
「んあーっ、誰が群れからはぐれた回遊魚じゃ!」
「それはそれとして、夢野ちゃんは何歌う? っていうかカラオケとか来たことあんの? 誘ってくれる友達とかいなさそうだけど」
「んあっ、失礼な。友達はおるし、カラオケにもその友達と来たことがあるぞ!」
「へ〜、意外。でも面倒くさがりなキミのことだから、端っこに座ってポテトでも摘んでただけでしょ」
「ふふふ……。王馬よ、ウチを誰だと思っておるのじゃ? かつて超高校級として名を馳せた魔法使い、夢野秘密子じゃぞ?」
「何、改まって自己紹介なんて。もしかしてオレとの関係を一からやり直したいってこと……? ひ、ひどいよ! こんなに仲良くなったのにびええぇああ゛あ゛んあんんん!!」
「んあーー! マイクのスイッチを切らんか!! 耳が死ぬーー!!」
「それで?」
「んあ……、……は? 何がじゃ……?」
「キミがそんなに偉そうにしてた理由」
「あぁ……。んんっ、それはじゃな!」
「うん」
「ウチの歌声には魅了の魔法が込められておるのじゃ!」
「へー、ここのポテトって塩しかないんだ〜。つまんね〜の、激辛ソースとかあればいいのに」
「んあー、王馬が質問してきたんじゃろ! ちゃんと聞かんか!」
「聞いた上で流したんだよ。ちゃんと空気読んだのに怒られるなんて心外だなぁ」
「嘘ではないぞ。ウチがマイクを握れば、観客は皆一様に聞き惚れておったからのう」
「気絶してたんじゃなくて?」
「そんなわけないじゃろ。ウチが歌い終えれば、たちまち部屋の中には拍手が溢れるのじゃ。そして皆、可愛いと褒めちぎってくるんじゃぞ」
「ほ〜ん」
「……信じておらんな」
「聞いたことないしね」
「ならば聞かせてやるぞ! ほれ、その機械を貸さんか」
「えぇ〜〜? ほんとに歌うの〜〜?」
「お主……、先程カラオケですることなど一つしかないと言っておったじゃろ」
「カラオケボックスで歌うなんてありきたり過ぎてつまんないじゃん! ほら夢野ちゃん、まな板の上の鯉みたいに踊ってよ!」
「んあ、それでは微動だにできんではないか。……ってそうではなくてじゃな!」
「はぁ、仕方ないなぁ。そこまで言うなら聞いてあげなくもないよ」
「何故ウチがわがままを言ったような流れになっておるのじゃ……。まあ、よい。お主もすぐにウチの魅了魔法をかけてやるぞ!」
「それは楽しみだね! 今にも緊張してゲロ吐きそうだよ!」
「んあー、何の歌にしようかのう」
「オレはここら辺をオススメするよ。きっと夢野ちゃんの声にぴったりなんじゃない?」
「ウチはシャウトなんてせんぞ。喉を潰してしまっては舞台に上がれなくなるではないか」
「えぇー、残念。声がしわがれたらもっと魔女っぽくなったのにー」
「じゃからウチは魔女ではなく魔法使いなんじゃと……、んあっ」
「大して変わんなくない?」
「変わるわい。それより王馬、これを見てみよ!」
「んー? あ、これ舞園ちゃんのとこの新曲じゃん」
「決めたぞ。ウチはこれにする!」
「えっ、マジで言ってる? これ恋愛ソングだよ?」
「そんなことはわかっておる。何じゃ、ウチが恋愛ソングを歌うことに文句でもあるのか」
「文句ってわけでもないけど……、歌えるの?」
「うむ、もちろんじゃ!」
「ふーん。ならいいけど、もし歌えなかったらこの劇薬ジュース飲みきってね」
「んあ!? な、何故じゃ!」
「あれだけワガママを言ったんだから、できなかったらそりゃ罰ゲームに決まってるじゃん!」
「んあぁ〜〜〜! 見ておれ、すぐにその口から賛辞の言葉を引きずり出してやるぞ!」
「それもう魔法じゃなくて呪いじゃない? ねぇ聞いて……、ああ始まっちゃったかー……。いやー、それにしても夢野ちゃんがこんなど直球ラブソングを選ぶだなんて、明日はアジでも降るんじゃないかなー……、って……、…………」
「……ふふん、どうじゃ! 一曲確かに歌い上げたぞ! これで劇薬ジュースはお主が責任を持って……、何じゃその顔は。ウチの魅了魔法がかかっておらんのか? それとも効きすぎて声も出ないのか? ……こら王馬、何とか言ったらどうじゃ」
「い、や〜〜〜、すごかった! すごいよ夢野ちゃん! オレこんな斬新な歌声初めて聞いたよ!」
「んあ? お主、それは褒めておるのか?」
「もっちろん褒めてるよ〜! まるで発情期のペンギンみたいな鳴き声でさ〜、」
「それは褒めておらん! んあー、これでは証明ができんではないか……。よし、次はこっちの曲にするぞ!」
「……ねぇ、そろそろ最原ちゃんたちと合流しない?」
「んあ、何を言う。まだ入って三十分も経っておらんじゃろ」
「それはそうだけど……、あの童貞原ちゃんが赤松ちゃんと長時間二人きりでいられるかなって。急に不安になってきちゃってさぁ」
「その呼び名を聞くのも久しぶりじゃな。んあー、王馬の言うとおりあの鈍臭い最原を一人残してきたのは、少し心配じゃのう」
「いや最原ちゃんも流石にキミには言われたくないだろうけど。まあ、そういうわけだからさ! 魅了魔法の実証はまた今度ってことで!」
「んあ、何だか逃げられた気もするが……。それよりも最原が心配じゃからのう。勝負はお預けじゃ」
「よーしっ、最原ちゃんがストレスでぶっ倒れる前に早く行こう!」
「んあっ、引っ張るでない! 転ぶじゃろ! こら王馬っ!」
【紅鮭団】
教室の隅で丸まっている背中があった。
しゃがみ込んでいる少女の手には、トレードマークの一つである三角帽子。くるくると回してみたり、上下を逆さまにしてみたり。たまに空洞部分を覗き込んでみたりと忙しないものの、動きはどれも小さい。
元の小ささがそう感じさせるのか、はたまたこっそりと隠れるようにしているからか。恐らくはどっちもなのだろうな、なんて感想を胸にそっと足を忍ばせる。
「んあー……」
息を殺して気配を消し、ゆっくりと歩み寄ればあっという間に辿り着く丸まった背中。どうやら目の前の帽子に集中しているようで、こちらの気配には全く気付いていないらしい。口癖である間の抜けた声を漏らしつつ、首を傾げている。
気付かれないように一つ深呼吸を落とし、王馬は最後の一歩を踏み出した。勢いを付けすぎないよう注意しながら、しかし驚かせるには十分な衝撃を与えるように。
上体を傾けた彼は程なくして、夢野の丸まった背中に覆いかぶさる。
「ゆ〜〜〜めのちゃん! 何してんの!!」
「んあぁあぁあ〜〜〜〜〜!?」
びくん、と跳ね上がった体。そのまま飛んでいきそうなほど大袈裟な動きも、王馬が伸し掛かることでそれも叶わず。代わりに飛んでいったのは小さな手で弄られていた三角帽子だった。
宙返りを二回ほどしたそれはやがて、奇跡的にも王馬の頭へと落ちてくる。ただの偶然なのだろうが、持ち主が夢野であることを考えると、半分ぐらいは必然だったのかもしれない。
なんて馬鹿げた考えはすぐに頭の隅に追いやる。これでもかと背を丸め、真下で唸っている彼女の声を聞き流しつつ、乗っている帽子を手にとった。
「弄くり回してた割には何の仕掛けもされてないね。それとも、これから仕掛けるつもりだった?」
「んあ〜、仕掛けなどせんっ。返さんか!」
あと重い、と不満を爆発させる夢野。もぞもぞと逃げるために身じろぎをしているようだが、王馬の体はぴくりともしない。
たった僅かな体格差であるように見えて、二人のそれは遥かにかけ離れている。方やあちこちで騒ぎを起こし、その度に全力で逃げ回る悪の総統。方やステージ上では快活だが、プライベートではぐうたらな女子である。体の作りも天と地ほどの差があった。
「じゃあ魔法を掛けてたんだ?」
「んあー!違うと言って……、んあ? 」
掛けられた言葉にキョトンとした後、夢野は慌てて肯定する言葉を繰り返す。
彼女の信念からなる『魔法使い』という才能は、どうにも世間から受け入れられ辛い。言いたいことはわかるけど、と何度も何度も否定されてきたためか、こうしてうっかり自分の信念を否定してしまうことがあった。
(仕方ないといえば仕方ないけど)
王馬とて、この世に『魔法』があるとは思っていない。夢野の手から繰り出される奇跡にはタネがあり、仕掛けがあるのだとも知っている。
だからといってわざわざ真っ向から否定するつもりはないが。
「んあぁ……! いい加減にどかんか……!」
「にしし……、夢野ちゃんは体力がないね〜。もっと鍛えとかないと、ご自慢の魔法も不発で終わっちゃうかもよ?」
「んあ、何じゃと? ウチが魔法を失敗するわけなかろう」
伸し掛かっていた体を起こし、縮こまったままの夢野へ手を差し伸べる。疑いの目を強くしながらも、しかし素直にその手を取った彼女を引っ張り上げた。
「そんなこと言って、この前はマナ不足だとか何とかで魔法を見せてくれなかったじゃん」
「あれは……、本当にマナ不足だったんじゃ。流石にウチとて何もないところからは生み出せん」
魔法には対価が必要じゃからのう、とぼやいた夢野は繋がれていた手を緩やかに振りほどく。そうして王馬の手に収まっていた帽子を手に取ると、にやりと笑う。
「王馬、ちと屈め」
「は? 何で」
「魔法が見たかったんじゃろ? 特別に見せて、んぎゃ」
ふふん、と鳴った鼻をやや乱暴につまむ。目を白黒させた夢野はすぐさま抗議するために口を開くが、王馬の頭が下がっていることに気付いて動きを止める。
やがて王馬の頭へ乗せられる三角帽子。重くもなければ軽すぎないそれへ手をかざし、お決まりの数字を魔法使いが唱える。
「……ん?」
こつん、と頭に何かが落ちてきた。それは一つ、二つと続いていき、がさがさと音を立てながら降り注いでいる。
「これでも食べて大人しくしておれ」
おもむろに伸びてきた手が帽子を取り外す、と同時にばらばらと降り注ぐ雨、ではなく飴。色とりどりのフルーツが描かれたパッケージは、食堂の片隅で見かけたものと同じだった。
「オレ、飴とか好きじゃないんだけど」
「嘘をつくでない。この前ぼりぼり食べておったではないか」
それにしても出しすぎた、なんてぼやいた夢野がしゃがみ込む。背を丸め、一つ一つ拾い上げている姿はどこか小動物を彷彿とさせた。
「ていうかさ、これ勝手に持ち出してよかったの? 食堂の食材は東条ちゃんが管理してるけど、それちゃんと申告した?」
「んあ? し、申告がいるのか……?」
真正面にしゃがみ込んで怪訝な顔をしてやれば、驚いた顔をしてみせる。手にした飴を神妙な面持ちで見つめながら、困った様子を隠しもせずに背を丸めて。
「ま、嘘なんだけど」
同じように背を丸め、飴を拾い上げる王馬の言葉。それを耳にした夢野が意味を理解し、勢いのまま立ち上がれば、彼女の手に収まっていた飴が彼の頭上に再び雨を降らした。
【育成計画 / 卒業後】
全国を巡るマジカルショーも最終公演を迎え、無事に笑顔を届けることができて間もなく。満足感に浸りながら戻った控え室で待っていたのは、今日はこの場にいないはずの男だった。
わざとらしく仰々しい会釈をしたかと思えば、にやりと笑う。どうやら「仕事があるからいけないよ」という発言は嘘だったらしい。とはいえ薄々そんな気はしていたので、苦笑いもそこそこに他愛もない話に花を咲かせた。
やがて促されるままやってきたのは、会場近くのホテル。やたらと豪華なフロントに少々緊張しながら、慣れた様子でチェックインをする背中を見つめる。
「……緊張でチビりそう?」
「んあっ、そんなわけないじゃろっ」
くつくつと笑いながら囁かれた言葉に噛み付く。しかし大した攻撃にはならなかったようで、すぐさま指先を絡み取られた。そうして歩いた先にあるのはやはり、やたらと豪華な装飾のされたエレベーターホールで。
「お、王馬、こんな豪華なホテルに泊まるのか? 後になって払う金が無いと言われてもウチは、」
「もー。そういう雰囲気ぶち壊すとこ、ホントに治しなよ? オレがそんな甲斐性なしに見える?」
「んあ、甲斐性は……あるじゃろうが。ウチが慌てふためく姿を見たいからと姿を消しそうではあるな」
「あれっ、バレてた?」
にししと笑う王馬に呆れていれば、目の前の扉が音もなく開いた。ニ、三人の宿泊客が降りていくのを待ってから乗り込めば、間もなくして扉は音もなく閉まる。
王馬が押した階数はほぼ最上階に近い数字だった。それにぎょっと目を剥いていた夢野は、彼が踵を返したことに一瞬遅れる。
「んあっ、なんっ……、んっ……」
絡め取られていた指先が壁に押し付けられる。その勢いで背中が壁に打ち付けられ、驚きと痛みに彼女は僅かに顔を上げた。そうしてすぐに後悔をする。
ぴったりと重なり合った唇。逃げようとすればするほど角度は深くなり、吐息を奪おうと仕掛けてくる。まさかこんなところでキスをしてくるなど、誰が予想できただろうか。一刻も早くやめさせなければ、と理性が叫び声を上げる。
「……、ふ、……っ、」
けれども求められるその気持ちに応えたい、とも思ってしまう。なんと言っても数カ月ぶりの再会だ。お互い各地を飛び回る仕事なのだから仕方がない。そう頭ではわかっていても、心が理解してくれるわけではなかった。
握り込まれた指先を握り返す。ぴくりと跳ねた肩。やがて背中に伸ばされた手のひらが、力強く抱き寄せて。
チン、と軽い音を鳴らしながら小さな密室が上昇を止める。
乗り込んできたのは携帯電話を弄り続ける男性客だった。一度は先客である王馬たちを見たものの、すぐに携帯電話へ目を落とす。
彼が降りるのであろう階のボタンが押されると、エレベーターは再び上昇を始めた。静まり返った個室には男が二人と、俯いたまま顔を上げない女が一人。
(……んあぁ、あ、危なかった)
どくどくと激しく脈打つ心臓。絡まったままの指先を離したいような、やっぱり離したくないような。複雑な心境のまま、何事もなかったように涼しい顔をする王馬を盗み見る。
そこでふと気付く、そう気付いてしまった。天井の端に設置された半球の向こう、刻々とこの場を撮り続けるレンズに。
「……、……!?……っ!?」
どっと吹き出す汗。暑くて寒くて逃げ出したくて、夢野はより一層頭を深く下げていた。
【育成計画】
「あれ、夢野さん? こんなところで会うなんて偶然だね〜!」
街中の大通りにぽつりと立っている影があった。トレードマークの三角帽ではなく、ベレー帽が乗せられている小さな頭。少しだけ傾けられているそれは、赤松の快活な声でぴくりと揺れる。
「んあ……、何じゃ赤松か。お主こそ、こんなところで何をしておるんじゃ?」
「新しい楽譜を買いに来たんだよ。ほら、あそこに専門店があるの」
指で示した方向を見上げた彼女は、看板に並んだ文字を読み上げた。そうして赤松の手にぶら下がっている紙袋を見つめ、納得したかのように頷いてみせる。
「学園の近くにあってよかったのう」
「うん! とっても助かってるよ! ……ところで夢野さんは何してたの?」
今一度、壁に凭れかかっている夢野を見つめる。頭にはベレー帽、タートルネックのセーターにタータンチェックのロングワンピース。ショートブーツからはほんの少し靴下が覗いている。
そして肩に掛けられた、明らかに女物ではない厚手のパーカー。
「んあー、王馬を待っておるんじゃ。混んでいるから足手まといになる、そこで待ってろとコレを置いて行ってしまったんじゃ」
不服そうに頬をふくらませる夢野。ちょいと摘まれたそれは間違いなく、王馬が寄越していったものなのだろう。よく見てみれば彼が好んでいる、らしいブランドの最新作だった。
「そ、そうなんだぁ……」
あやつめ、と恨めしげに呟く彼女の視線は、有名なコーヒーチェーン店へ向けられている。そういえば先日、新しいフレーバーが発売されたらしいと教室でも話題になっていた。
ちらちらと、赤松と夢野へ向けられる視線。超高校級という肩書きを持っている彼女たちへは、常に好奇の目が向けられる。中には下心を丸出しで近付いてくるような男もいるのだが、今日はどうにもその気配がない。
(まあ、あからさまだもんねー……)
不満が募っているのだろう。ぎゅう、とパーカーの裾を握りしめる夢野の姿は、ぱっと見れば彼氏を待っている彼女のようでしかない。その証明を果たすように肩から掛けられたそのパーカーは、簡単に手が出せるような値段のものでもなかった。
「ていうか、王馬くんと夢野さんって付き合ってたんだ? デートの邪魔しちゃ悪いから、私はもう行くね」
「んあ? そんなわけないじゃろ。たまたま目的が同じだったから、一緒に出掛けてただけじゃぞ」
「…………」
ひくりと震える口角。嘘でしょ、と声を荒らげなかった自分を褒めながら、それでも赤松は驚かずにはいられなかった。
やがて背後から近付いてくる足音。それが一瞬だけ止まり、しかしすぐに彼はいつもの調子で話しかけてくる。けれどもその瞳に、ほんの僅かに動揺が滲んでいるように見えたのは気のせいだろうか。
兎にも角にも、なんとも気まずい場面に出くわしてしまった、と赤松は乾いた笑いをこぼすしかなかった。