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    特殊パロディログ 01【超高校級の概念のない世界】

     豪華なシャンデリアも豪華な料理も、きらびやかなドレスだってちっとも嬉しくなかった。イケメンのボーイから手渡されたのはスパークリングワインで、未成年の夢野は口をつけられるものではない。顔を合わせてすぐ、女子高生マジシャンの夢野さんですよね、と自分で言っておきながら渡すものではないだろう。
     やはり無理矢理にでも断るか、ドタキャンをすればよかった。つま先を睨みつけながら、彼女は進みの遅い時間をひたすらに恨み続ける。
     天才女子高生マジシャン、として持て囃されているのが夢野秘密子という少女だった。たまたまショーを見に来ていたテレビのプロデューサーに出演依頼をされたことで顔が売れ、今では大きなスポンサーが付くまでになった。
     そのスポンサー、の腰巾着のような企業の社長らしい男から誘われたのがこのパーティーである。
    (はぁ、つまらんのう……死ぬほどつまらん……)
     ただのお飾り、見栄を張るために連れていかれるだろうことは知っていた。だから断りも何度も入れたのだが、どうしてもと毎日毎日しつこく、挙げ句の果てには学校まで押しかけてきたのである。
     このままではもっと面倒臭いことになる、と結果根負けした夢野は渋々、嫌々、心の底から面倒臭くはあったもののパーティーに出席することになってしまったのだ。
    (……よく回る口じゃのう)
     件の社長はとっくの昔に夢野のことなど放り、おしゃべりに忙しい。ならばさっさと帰ってしまいたいのだが、駅からも遠い会場であることとタクシー代に不安があったため、帰宅手段がないも同然だ。
     一生分の溜め息を吐いた気もするが、それでもなお湧き上がってくる溜め息を吐き出して。せめてもの反抗心に従い前髪を留めていた髪飾りを外した。
    「それ、取っちゃうの?せっかく可愛いのに」
     ひょいと手元からグラスがなくなる。それと同時に掛けられた声に、夢野はぎょっとした。顔を上げればいつの間にやら目の前に背丈の変わらない少年が立っていたのである。
     しかし夢野が驚いたのは突然少年が現れたことではなく、掛けられた言葉の方だ。
    「か、かわ……?」
    「まぁ嘘なんだけど。キミにはそんな大人びたやつは似合わないよ」
     確認するかのように言葉を反芻しかけたものの、期待はあっさりと破られる。呆気にとられる夢野の反応に満足そうな笑みを浮かべる少年は、先程まで彼女の手にあったグラスに口を付けて。
    「……見たところ、ウチと年は変わらんように思うんじゃが」
    「バレなきゃいいんだよ、こんなのはさ」
     にいと口角を上げて少年は言う。オレとキミだけの秘密だよ、と続けた彼は空になったグラスを側にあったテーブルへ置いた。
    「ところでさ、キミはここに何しにきたの?死ぬほどつまらないーって顔してたけど」
    「あぁ、それは……」
     少年の問いに答えるよう、お喋りに忙しい男へ目を向ける。相変わらず夢野のことは忘れきっているようで、視線に気付く気配すらない。
     言わずとも、それだけで少年は察したようだ。ふーん、と少し考え込むような素振りを見せたかと思えば、間もなくしてにぱっと屈託のない笑顔を夢野へ向ける。
    「ねぇ、オレと一緒にこない?」
    「……どこにじゃ」
    「どこでもいいじゃん。少なくとも、こんなところで突っ立ってるよりマシでしょ」
     ほら、と目の前に差し出される手。懐っこい笑みを浮かべている少年の顔とそれを見比べれば、今度は夢野が考え込む番だった。
     名前も得体も知れない、謎の少年。突如として現れた彼のことをすぐに信用できるわけもない。けれどもこんなところで一人、無駄に時間を過ごすのも嫌だった。できればとっとと帰り、ベッドに潜り込みたい。
     なにせ明日も学校なのだ。
    「では、エスコートは頼むとするかのぅ」
    「にしし!そうこなくっちゃね!」
     手を重ねたその瞬間、しっかりと握り込まれた手を引かれる。つんのめりそうになるのを耐えれば、ごめんね、と全く悪びれた様子もなく言われた。
     怒ろうかとも思ったが、何だか呆れてしまって。ふふ、と夢野が笑いだせば少年はますます楽しそうに口角を上げる。
    「それじゃあまずは……、どうやってここを出ようか?」
    「……?出入り口から出ればよいではないか」
     手を引かれるまま歩き出せば、少年が首を傾げながらそんなことを言う。おかしな提案に夢野も首を傾げるが、彼はその反応に目を丸くしてみせた。
    「何にも知らなかったんだ、キミ」
    「んあ?何がじゃ?」
    「……んーん、何にも。大したことじゃないよ」
     夢野の手を引くまま少年はにこりと笑う。明らかに何かを誤魔化されたが、それを追求する気は起きなかった。これから抜け出すパーティーに意味の知ったところで、何かが変わるわけでもない。
     単に興味がなかったことあるが。
    「じゃあ、ここを使うよ」
    「……ここを」
     するする人並みを抜けてやってきたのは、バックヤード。そこに設置された業務用エレベーターを起動させた少年は、夢野の手を離すことはない。ということはこれに乗らなければならないのだろう。
     疑いの目を向ければ、返ってくるのは綺麗なウィンクだったが、そんな反応が欲しかったわけではない。
    「まぁまぁ、悪いようにはしないからさ!オレも一緒に乗るから安心してよ」
    「う、うーん……」
     ここにきて不安に駆られる。とはいえあのつまらないパーティー会場に戻るつもりはないので、夢野に残された選択肢は初めから一つしかない。
     恐る恐るではあるものの、促されるまま業務用エレベーターへ乗り込んだ。
    「ところでさ、キミの家ってどの辺り?」
    「んあ?何でじゃ?」
    「家まで送ってあげるからだけど」
    「おぉ、それは助かる……!けども、お主運転なんかできるのか?」
     ごうんごうんと轟音に包まれながら、夢野は投げられる問いに答え続ける。そうしている内に湧いた疑問を投げ返せば、少年は笑った。しかしその笑みはこれまでの人がいいものではなく、何かを企んでいるかのような悪意が見え隠れしており。
    「部下がいるんだ」
    「ぶ、か……?な、何の……?」
    「オレの組織の、だよ」
     手を握る力が強くなる。どくり、と心臓が大きく跳ねて、少年から目が離せなくなった。
     あのままパーティー会場に残っていたほうがよかったかもしれない。そんな考えが過る中、少年は溜めに溜めて夢野の問いに答える。
    「オレはね、悪の総統なんだよ」
     しばらくの沈黙。
     心配して損したな、と夢野は見開いていた目を元に戻す。少年の言葉はあまりに突飛で作り話のような、現実味のないものだったからだ。
    「あ、信じてないでしょ?」
    「いや、流石に信じれんじゃろ……」
     ジト目で少年を見る頃、エレベーターは轟音と共に止まる。開いた扉の向こうには、薄暗い廊下が続いていた。
    「えぇ〜?本当かどうか確かめてもいないのに、決めつけるのはよくないよ!」
    「それは、まぁ、そうじゃが……。そもそも本当にお主が悪の総統だとして、簡単に正体を明かすのはどうなんじゃ?」
    「……たはー!そこに気付くとは思わなかったよ。やっぱりキミに、声を掛けてよかった」
     関係者以外立入禁止、の記述がある扉を潜ればそこはもう建物の外だった。辺鄙なところにあるせいで人の気配は近くになく、また辺りは静寂に支配されている。
     ぱ、と目を焼くような眩しい光に晒された。驚いて目を閉じれば、握られた手をそのまま引かれてしまう。
    「ど、どこ行くんじゃ……!?」
    「だから言ったじゃん。家まで送ってあげるって」
     ようやく目が光に慣れた頃、視界に飛び込んでくるのは普通乗用車だった。運転席には男性、助手席には女性が座っており、少年に向けて手を振っている。
    「遅かったっすね〜。このまま帰ろうかと思ってましたよ」
    「てかその子誰です?まさかボス、この状況でナンパしてきたんですか〜〜?」
     車に乗るよう促され、こわごわと乗り込む。するとすぐさま明るい声が飛んできた。興味津々、といった様子の二人は夢野を上から下まで眺める。
     すると後ろから乗り込んできた少年が不機嫌そうに口を尖らせた。そうしてオロオロする彼女を隠すように身を前へ乗り出す。
    「それはいいから!早く車出してよね!」
    「よくないっすよ〜。聞かせてくださいよ〜」
     間もなくして発車する車は、車通りの少ない道路を進んでいく。恐らく静まり返っているだろう外と比べ、車内はとても賑やかでうるさいぐらいだった。
     会話の中、前に座る彼らは少年をボス呼んでいた。まさか先程言っていたことは本当だったのだろうか、と夢野は疑いの目を隣へ向ける。
    「……さっきの話、信じてくれた?」
    「……う、うむ、少しは」
     やがて車は町中に入っていき、見慣れた景色に夢野は少し胸を撫で下ろす。ぐんぐんと止まることなく進んでいけば、見えてくるのは愛しい我が家。
     玄関前でゆっくりと停止した車。扉を開けて外へ出た少年は、仰々しいお辞儀をしながら外に出る夢野へ手を差し伸べる。少しだけ照れくさかったものの素直に手を取れば、転ばないように支えてくれた。
    「エスコート。頼まれたからね」
    「そういえばそうじゃったの……」
     玄関前まで辿り着けば、するりと手が遠のいていく。それが少しだけ寂しくてゆるく握れば、少年は少しだけ目を張った。しかしそれも一瞬のことで、すぐに笑顔が戻ってしまう。
     そういえば名前を聞いていなかった。そう思い至った瞬間に、頭に何かを被せられる。そのままぐいぐいと下に引かれたので、嫌でも顔が下を向いてしまって。
    「じゃあね、夢野秘密子ちゃん」
     え、と上がった声に返事はない。慌てて顔を上げれば遠のいていく車が角を曲がるところで。
     ぽつりと残された夢野は、呆然としたままに被された帽子を手に取る。真っ白な学帽のようなそれは少年の持ち物なのだろう。
    「……変なやつ」
     走り去っていった車の方向を見つめながら呟いた夢野の顔には、わずかに笑みが浮かんでいた。




    『昨夜未明、○○にてカジノを開催したとして一斉摘発が……』
     翌日、友人たちからの絶え間ない連絡の嵐で夢野は目を覚ました。皆が皆、しきりにテレビを見ろというので、寝ぼけ眼でニュース番組のチャンネルを点ければ流れてくるのは。
    「ここは昨日、ウチがいたところではないか……?」
     テレビに映し出される会場には見覚えがあった。そこは昨夜夢野が嫌々参加していたパーティーが開催されていた場所に違いない。手にしていたままの携帯電話が滑り落ちていくが、そんなことを気にする余裕などなかった。
     あのまま、あの場に留まっていたらどうなっていただろう。ゾッと背筋に冷たいものが走って、夢野はその場に蹲った。
    「さ、誘いに乗ってよかった……!」
     口に出してふと、少年のことを思い出す。彼は、このことを知っていたのだろうか。知っていて夢野に声を掛け、連れ出したのだろうか。
    「いや……、まさかな……」
     机の上には、置きっぱなしの白い学帽。それに問いかけてところで、答えなんて返ってくるはずもない。
     けれども夢野は胸に湧いた疑問を、声に出さずにはいられなかった。
    【オフィスパロ】

     取引先からかかってきた電話を取り次いだところで、隣の椅子が引かれる。疲れたぁ、とくたびれた声を上げながらどかりと腰掛けた男。ネクタイを緩めながら溜め息を吐く横顔は、言葉や声に反して疲れを感じさせない。
     ただの口癖なのか、ただのポーズなのか。未だによく分からない彼のことを横目で盗み見た夢野は、何事もなかったかのようにキーボードへ向き合う。
    「あーあ、疲れたなぁ〜。あっちこっち歩き回って汗かくし、無駄に気を遣うばっかりでオレくたびれちゃったなぁ〜〜」
     独り言にしては大きすぎる声は、明らかに誰かへ向けられた言葉に違いない。では誰に向けられたものかといえば、もちろん隣へ座っている夢野である。何故なら二人が席を有しているデスクの島は、タイミングも悪く夢野しか腰掛けていないからだ。
     しかし彼女はあからさまな言葉に反応することはない。自分には任された仕事があるのだし、無駄話をしている暇などないからだ。
     というのは建前で、単純に絡まれると面倒くさいからである。
    「いいよねぇ〜〜、机に座ってあまぁーいコーヒー飲んで。動いてる時間よりもおやつを食べてる時間のほうが長い誰かさんはさぁ」
     はあ、と大きなため息が遠すぎない位置から聞こえた。それでも夢野は、湧き上がる感情に無理やり蓋をしてだんまりを決め込む。彼が飽きるのが先か、誰かが注意をしに来るのが先か。
     どちらにしろこの時間が早く終われと心から願う。
    「……うん、やっぱり太ったよね。それも相当なレベルで」
    「そ、そんなわけなかろう……!」
     けれどそのどちらも、夢野へ助け舟を出すことはなかった。それどころか投げつけられた言葉に反論してしまったので、もう逃げも隠れも出来やしない。
     にしし、と聞こえてきた笑い声を憎らしく感じながら、夢野は渋々横にいる同僚へ目を向けた。
    「ただいま、夢野ちゃん」
    「…………おかえり」
     ひらひらと手を振っているのは、同期入社をした王馬である。やたらめったら絡んでくる彼は、人として難ありであるものの、これでいて仕事はできるのだ。
     今日も交渉が難しい相手先に赴いていたのだと先輩から聞いている。上機嫌な笑顔から仕事が上手くいったことは聞かずとも知れた。
    「……今日はそのまま直帰ではなかったのか、お主」
    「そのつもりだったけど、思ってたり早く終わったし。今度使うプレゼン資料を早めに片付けておこうと思ってね」
     袖を捲りながらノートパソコンを開く。間もなくして起動した画面を見つめたかと思えば、キーボードを叩き始めた。軽快な音を立てながら文字を連ねる姿は悔しいが様になる。
     仕事があるのならこちらに構っていないで、さっさと始めればよいではないか。
     そんな言葉が喉まで出かかるが、運よく無駄に絡まれずに済んだのだから余計なことは言わないに限る。ぐ、と口を一文字に引き結んで、夢野は中断していた思慮つ作成に戻った。
    「あ、そうだ」
     ところが二人の間にあった沈黙はものの数分で破られる。小さな呟きがこぼされたかと思えば、離れていた椅子が勢いよくこちらへ寄ってきた。
    「んあっ、何じゃっ!」
    「夢野ちゃんって桃好きだったよね?」
     これあげる、と渡されたのは可愛らしい個包装をされた何か。持ち上げてみれば少し重いそれは、ふんわりと甘い香りを漂わせる。きょとんとしたまま王馬を見やれば、人差し指を唇に添えて無邪気に笑ってみせて。
    「お土産。キミにだけだよ」
     がらがらとキャスターの音を立てながら、彼は自分の席へと戻っていく。そうして何事もなかったかのようにキーボードを叩き始めたので、夢野は困り眉のまま手にしたお菓子を見つめた。
     どこかへ出張へ行ったりすると、王馬は必ずと言っていいほど夢野へお土産を渡す。全く使えないものから好みに合ったものまでモノは様々だ。今回は好みに合ったもののようで、先程から鼻先をくすぐる香ばしく甘い匂いは小腹を空かせる。
     ところでこのお土産は決まって夢野一人に渡されているのだが、そこに他意はあるのだろうか。贔屓されているのかもしれないという期待と、たまたまだろう自惚れだろうという戒めに、決着は着いていない。
    「お茶とコーヒー、どっちがいい?」
    「そうだな〜、久し振りに夢野ちゃんのヘドロみたいなお手製コーヒーが飲みたいな!」
    「……いつの話をしておるんじゃ」
     苦すぎる失敗を掘り返されて顔が嫌でも引き攣る。けれども夢野はお土産のお礼をするためにと席を立った。何を考えているかわからず、いつまで経っても意図も読めない。だからといって礼もしないのは失礼というものだ。
     とはいえ返せるものは限られているので、夢野はいつも一杯のお茶やコーヒーを淹れている。今のところ何だかんだ文句を言いつつも拒否をされたことはない。
    「ねぇ、夢野ちゃん」
    「んあ?」
     名前を呼ばれて振り返れば、ばちりと目が合う。真っ直ぐな視線はしばらく夢野の方を向いていたが、やがて笑顔になったことで瞳は目蓋の奥へと消えた。
    「……オレ、今日は苦いの飲みたいから砂糖もミルクもいらないよ」
    「そうか、わかった」
     返事もほどほどに王馬へ背を向けた。ついでに自分の分も新しく淹れてしまおう、と空いたマグカップを片手に夢野は給湯室へと消えていく。
     鼻歌交じりに去っていった彼女を見つめていた王馬は、小さなため息を一つ落とした。机に残っている可愛らしい包装紙ではどうも釣りきれなかったらしい。けれども反応を見る限り、確実にこちら側へ揺れ動いてはいるだろう。
     やがて上機嫌で戻ってくる夢野の手にはマグカップが二つ。その片方が自分のためだけに用意されているのならば今はまだ許してやろう。ほとんど完成している資料を眺めながら、王馬はどこまでも鈍い同僚が席へ戻るのを待った。
    【オフィスパロ】

     不安がなかったといえば嘘になる。
     外へ出ていくよりも家に籠もっていることが多いこと、どこかへ遠出するといえば世話焼きの友人が全て手配をしてくれるのだとも聞いていた。
     ホテルの手配なんてやったこともなさそうだよな、と思いつつ。忙しさに目を回しそうなこちらを気遣ってか、自ら進んで予約すると言い出してくれた夢野の厚意に甘えたわけだが。
    「たは〜……、予想通りというかなんというか……」
     やや広めの部屋にベットが一つ。シングルにしてはやや大きめなそれのサイズは確か、セミダブルではなかっただろうか。それともダブルかな、と苦笑いもそのままに王馬は隣で固まっている夢野へ目を向ける。
     顔を真っ赤にして、真っ青にして、真っ白にして。忙しい顔色が治まりきらない内に、スカートのポケットから慌てて携帯電話を取り出した彼女は、メールのアプリを起動させる。
    「な、何故じゃ⁉ ちゃんとツインの部屋を予約したはずじゃぞ⁉」
     画面をスクロールしながら忙しなく目を動かす。やがて探し求めていたものを見つけたのか、必要以上にタップを重ねてからまたスクロールすること数十秒。何度も何度も同じ箇所を見返していた彼女はやがて、小さな声を上げて。
     ゆっくりと王馬を振り返った夢野は、ぎこちない顔でへらりと笑う。
    「ま、間違えて、おった……」
    「だろうねぇ」
     肩から提げていた荷物を部屋の隅へ下ろす。こうなってしまえば仕方がない。ジタバタしたってどうしようもないだろう、と備え付けられた椅子へ歩み寄ったものの。
    「……座んないの?」
     いつまでも突っ立ったまま動かない夢野。真剣に携帯電話を睨み付けているが、一体何をしているのだろう。昼間は散々歩き回ったから早く座りたい、と繰り返していたのは他の誰でもない彼女だ。
    「お〜い、夢野ちゃ〜ん? 何してんの〜?」
    「……今から他に泊まれるところを探しておる」
    「え? 何で?」
    「なっ、何でってそんなの、一緒に泊まるわけにはいかんじゃろっ」
     頬をほんのりと染めながら夢野は言うが、最初に予約をしたのはツインだと言ってはいなかったか。もしも予約が間違っていなかったとして、いずれにせよ同じ部屋に泊まることになるだろう。
     同じベッドが駄目なんだろうなと思いつつ、ベッドが離れていれば同じ部屋で一夜を共にすることは構わないのか、なんて甘い考えも過ってしまって。
    (は〜〜〜、オレ浮かれてんな〜〜〜)
     一緒に出張へ行ってこい、と上司から指令を受けて一週間。自分でも笑って、呆れてしまうほどに浮足立っていた。仕事の話が主ではあるが、夢野といつも以上に会話もできて、二人っきりであちこちを歩き回って。任された仕事はきっちりこなし、初めての出張に緊張しっぱなしの夢野の手を引きつつ。
     そして想像していたよりも王馬へ好都合しかもたらさないハプニングに見舞われた今、にやにやと込み上げてくる笑みを抑えることができない。
    「今から探してもないでしょ? 経費を無駄遣いするわけにもいかないんだし、もう腹括りなよ」
    「んあ〜〜! し、しかし、そんな、一緒のベッドなど……!」
    「シングルに二人で寝るわけじゃないんだからさ、いいじゃん。黙っとけば誰にもバレないんだし」
    「んあー、それはそうかもしれんが……」
     いつもはすぐに説き伏せられてくれるのに今日は中々に手強い。それでも苛立ちもしないのは、やはり舞い上がりきっている証拠なのだろう。
    「ほら、座んなよ。コーヒーでも淹れてあげるって」
    「…………んあ」
     立ち尽くしたまま動かない手を引いて、椅子へと座るように促した。最初こそ躊躇っていた夢野であったが、これから他の宿を探して移動することにやや思うところがあったのだろう。やがて大人しく王馬の真正面へ腰掛けて、差し出されるカップを受け取った。
    「……苦いのう」
    「ミルク入れる?」
    「ん、砂糖も欲しい」
    「はい、どーぞ」
     備え付けのコーヒーセットを広げながら、ようやくついた一息。まだまだ夜は長く、これからどんな波乱が待ち受けているかは予想もつかない。自分用に淹れたインスタントコーヒーを啜りながら、王馬は目の前でちびちびと甘いコーヒーを飲んでいる夢野から目を逸らす。
     下手なことなんて起きるはずもないはずだ。多分、恐らくは。
    【オフィスパロ】

    「ゆ〜めのちゃ〜ん。ちょ〜っといいかな〜?」
     書類の束を手にし、にこにこと笑いながら近寄ってきた王馬の声に、夢野はびくりと肩を跳ねさせた。入社してからだいぶ様になったタイピング。ノリに乗りかけていた手を止めたくはなかったが、無視をするわけにもいかない。
     ゆっくり、ゆっくり。圧がかかってくる方向へ夢野が顔を向ければ、営業用の笑顔を貼り付けている王馬が立っていた。ひらひらとこれみよがしに見せつけられる紙の束。あれはつい昨日、彼女が作った資料だ。
    「んあっ……、な、何じゃ……?」
     成人してそこそこ経つ。まさか資料ができて偉いね〜、なんて褒められるわけがないので、間違いなくミスを叱るために声を掛けられたのだ。
    「ここ、数字がおかしいんだよね〜。二重チェックしてなかったら大変なことになってたよ〜」
     夢野のデスクへ置かれた書類の一枚上。並んでいる数字の一部を指で叩きながら、王馬は不思議そうに首を傾げる。どうして気付かなかったの、見るからにおかしいよね。そうちくちくと刺しつつ、王馬は隣の席から椅子を引き寄せ腰掛ける。
    「んあ……、そうなのか? ウチはあのプログラムに打ち込んだだけじゃぞ? あれは勝手に計算してくれるものなんじゃろ?」
    「え、何? 自分のミスをソフトのせいにすんの?」
    「そ、そういうわけでは……」
     攻めるような視線から逃げるため、自分が間違っていない事を証明するため。夢野は表計算ソフトを一度画面から引っ込めて、問題のプログラムソフトを起動した。
     少し間を置いて表示される画面。いつもと同じ手順で操作を続けていけば、隣から小さな声が上がる。
    「待って。ちょっと戻って」
    「んあ? 戻る、のは……、えっと」
    「……貸して」
     マウスへ手が伸びてくる。反射的に手を引っ込めてしまえば、ちらりと一度だけ視線を向けられたものの、王馬の手はそのままマウスを掴んだ。かち、かち、と何度かどこかをクリックした彼は、目当ての画面を見つけたのか動きを止める。
    「ここ」
    「んあっ? え、へ?」
     近すぎる距離と真剣な横顔。仕事に集中しなければならないとわかっていても、どうしても気になってしまって仕方ない。画面と横顔をちらちらと交互に見ていれば、不意に真剣な眼差しが向けられた。
     驚いて声を上げてしまえば、王馬の顔に怪訝な色がにじむ。慌てて指摘された場所を見れば、そこには確かに夢野が打ち込んだ数字が表示されていた。
     入力元になった資料を手元に出すが、画面の数字とは一桁のずれもない。何度見比べてみたものの、やはり間違いなど見当たらず、夢野は怪訝な顔で画面を睨みつけた。
    「……わかんない?」
    「……んん?」
     肘を付きながら難しい顔をする夢野。その横顔を眺めていた王馬は、ふと笑みをこぼしながら問いかける。すると彼女は眉間に皺を刻んだまま、何が違うんだと横目で訴えかけてきた。
     つい先程まで、忙しなくちらちらと視線を向けてきたというのに。今この瞬間、気にしすぎていたはずの距離の近さは頭から抜けているようだ。
    「入力するのはこっちじゃなくて、こっち」
    「……? ……んあっ、そうなのか⁉」
     いくつかある入力欄の内、夢野が数値を打ち込んだのは請求金額に含まれない特別項目の欄だった。目を見開いて驚いた彼女は、今一度画面を睨みつけ、入力欄の一つ一つを確認していく。
    「……まぁ、これじゃあ分かり辛いよね」
     ぽつりとこぼした言葉は夢野の耳には届かなかったらしい。かちかちとぎこちなくマウスを動かしながら、あれも違うこれも違うと悲しげな瞳で画面を見つめて。
    「…………」
     しょんぼりと肩を落としきった夢野は、やがて王馬へと向き直る。
    「資料は今から作り直す。少しだけ待っててくれんか?」
    「別に急がなくていいよ。それ必要なの来週だし」
     でもよろしくね、と言い残して王馬は席を立つ。別の資料を手に去っていく背中。それを見送った夢野は盛大なため息を吐いた後、凡ミスをした昨日の自分を呪いながら机へ向き直った。





     マウスを動かし、かちかちとクリックしていつも通り立ち上げるプログラムソフト。今日こそは間違えないぞ。そんな意気込みを胸に臨んだ夢野の目に飛び込んでくるのは、昨日とは表示の異なるウィンドウだった。
    「…………んあ?」
     間違えたのかと一度ソフトを閉じ、もう一度アイコンを確かめてから立ち上げるソフトは、やはり昨日とは様子が違っていて。夢野は首を傾げたきり動きを止める。
    「王馬」
    「……ん〜? なに〜?」
     やがて隣の席へと問いかければ、欠伸を噛み殺しながらのんびりとした声が返ってくる。
    「何か、ソフトがバグっておるのじゃが……?」
    「バグ……? あー、それかぁ」
     からからとキャスターを転がして夢野の側へやってきた王馬は、どこか眠そうにしながら画面を覗き込む。そして何を指しているのか理解すると同時にへらりと笑った。
    「あのままだと夢野ちゃん、近いうちにまた間違えるでしょ? その度に修正すんのムダでしかないからね」
     ソフトを修正してもらったんだよ、と締め括った王馬はまた一つ欠伸をこぼして席へ戻っていく。そうして何事もなかったかのように自分の仕事を再開して。
    「…………」
     眠そうな横顔。それをしばらく眺めていた夢野は何かを言いかけて、けれど声にすることはなかった。改めて画面に向き直り、数値を打ち込むためにキーボードへ手を伸ばして、止まる。
    「王馬」
    「えー、何? まだ何かわかんない?」
     間延びした声が届くと同時に首だけがこちらへ向けられる。少しだけ面倒臭そうな視線。それを一身に受けながらも、夢野は王馬へ手を差し出すように促す。
    「……? ほんとどうし、」
     差し出された片手にやる気はない。しかし構わず夢野は、節くれ立った手の上へ私物入れから掴み取ったそれを押し付ける。
     わ、と驚きに目を見張る王馬。慌てて力を入れて取りこぼさない様にすれば、やがて小さな手は遠のいていく。その下から現れたのは、色とりどりのチョコや飴の包装紙の山。
    「……疲れたときには甘いものがいいんじゃぞ」
    「あぁ……、うん。……そうだね」
     ぽかんとしたまま固まる王馬を置いて、夢野は自分の仕事へ戻った。しばらくは視線が刺さっていたが、からりと椅子のキャスターが鳴ると同時に圧はなくなる。キーボードを叩く軽い音。いつもと変わらない空気に戻ったところで、夢野はちらりと横目で彼を見る。
     もごもごと口を動かしながら、眠そうな顔で画面を見つめる横顔。どこか上機嫌なように見えるのはきっと気のせいだろう、と思う。
    「……、よし」
     気持ちを切り替えて夢野はキーボードを叩き始める。作り変えられたソフトの謎も、王馬が眠そうにしている理由も。全て頭から追い出して、できるだけ数字を打ち込むことだけを考えることにした。
    【オオカミ少年と魔法使い】

     出会いとはいつでも唐突なもので、その巡り合わせには必ず意味があるのだ。
     出会い頭にぶつけられた言葉は今でも言霊のように夢野の心へ居座っている。幼い頃より師事している師匠の言葉だから、ということもあった。が、何よりも彼女自身がそういった運命めいたものに憧れを抱いているからだろう。
     買い物に訪れる市場の店主、師匠を頼ってやってくる依頼人、自分を取り巻くありとあらゆる人。それら全てに意味があるのだし、これから先出会うものには必ず意味があるのだ。なんて半ば願いのような言葉を胸に、夢野は毎日を過ごしている。
    「……んあ?」
     可もなく不可もなく、平凡で少し退屈な毎日。今日も今日とて薬草摘みに出かけていた夢野は、背の低い木の影に横たわる何かを見つける。ぱっと見ただけでは死んでいるように見えるそれは、柔らかそうな腹を浅く上下させていた。
     生きているのだとわかり少し怖くなって、けれど抑えられない好奇心に後押しされる。恐る恐る近づいてみれば横たわる影の正体が子どもの犬、もしくは狼なのだと知れた。
    「寝ておるのか……?おーい、生きておるか〜?」
     いつだったか物語の中で見た、魔法使いの眷属が従えていた狼は強く賢く、そして美しかった。幼くはあったが下心がないわけではない夢野は、語り掛けながら狼に近寄る。
     ぴくり、と耳が震えた。次いで薄っすらとまぶたを開いた狼は、己の頭を遠慮がちに撫でる少女を見やって。すうと眠るようにまぶたを下ろす。
    「…………、よし」
     なんとなく、許されたのだろうと思えた。
     夢野は羽織っていたマントを外して狼をその中へと包む。大事に大事にそれを抱えた彼女は、薬草の入ったかごを腕に引っ掛けて師匠の待つ隠れ家へと足を向けた。




     なんてことがあって早数年。
     今や師匠の助けが要らぬほどの魔法使いとして名を馳せる夢野は、市場からの帰り道をとぼとぼ歩いていた。空飛ぶ箒で帰ればいいのに、と自分で思わなくもなかったが、何となくそんな気分にもなれず。微妙に歩き辛い道に文句を言いながら、隠れ家へと足を向けていた。
     やがて見えてくる馴染みの森。特定の位置に立った夢野は何もない場所へと手をかざす。独自に開発した魔法を短縮呪文で起動させれば、何もない場所に穴がポカリと開いた。周囲に誰もいないことを確認し、するりとそこへ滑り込んで空間を閉じる。そうして振り返った先にある建物が彼女の隠れ家だ。
    「……なんじゃ、アイツまた来ておるのか」
     ふと感じた気配に溜め息が一つ溢れる。しかし呆れたような言葉の割りには、声に呆れの色はない。先程より明らかに軽くなった足取りで扉を開けばすぐ、部屋の奥に見慣れたふさふさの尾が見えた。
    「ただいまぁ〜」
     荷物を適当にその辺りへ放って、寝そべっている柔らかな毛並みへ顔を埋める。薄い皮膚越しにどくどくと伝わる心音に耳を傾けていると、もぞりと下にある温かなそれが動いた。
    「重かったか?すまんのう……、しかし今は我慢してくれ……」
     体重の殆どを乗せてしまっていることは非常に申し訳なく思う。けれども相手はただの狼などではない。人に化けることはできないが、魔力のある生き物なのだ。また何度か彼の力で助けてもらったこともあるので、こんなことで弱ってしまうほど軟ではない。
     はあ、とこぼした溜め息は整えられた毛並みに溶ける。途端に嫌そうな視線が飛んできたが、止めてやれるほど夢野には元気もヤル気もなかった。
    「何でみんな、あんなに師匠のことを悪く言うんじゃろうな……」
     抑え込もうとは思っていた弱音がついうっかり口を滑る。けれども言葉にしたところで返事が戻ってくるわけではない。彼が人の言葉を話すことはないのだ。感情を乗せた視線を向けてくることぐらいはあるが、それも気づかなかったフリをすればダメージは少ない。
     甘やかされている。そうわかっているから、こうしてぐずぐず弱音を吐いてしまう。
    「確かに何も言わずに出て行ったのは、ウチも少し怒っておるぞ。でもそれよりも……、心配なんじゃ……」
     ぐす、と鼻をすすれば今度こそ嫌そうに身をよじられる。流石に鼻水を擦り付けるつもりはないが、必ず付けないという保証はできない。
     せめてもの意思表示に埋めていた顔を横向きにする。これで少しは安心してもらえるだろうか。ちらりと視線だけを投げかけてみれば、仕方がないと言わんばかりの瞳が夢野を見ていた。
    「……お主も、いつか何処かへ行くんじゃろうなぁ」
     幼き頃、親切心と下心で連れ帰った子どもの狼。しばらくは居座っていた彼は程なくして隠れ家を出ていった。きっと家族の元に戻ったのだろう、とは頭では分かっていたが、寂しくて泣いたことは今でもよく覚えている。
     けれど程なくして彼は再度、夢野の前に現れた。遊びに来たのかタダ飯を貰いに来たのかは今でも定かではない。だが理由なんてどうでもよかった。彼が、ここにいる。ただそれだけで十分だった。
    「一人になったら、どうしようかのう……」
     ぎゅうと温かな体を抱きしめる。逃げる素振りすら見せない彼に、胸に込み上げてくるものが一つ二つ。熱くなる目頭から何も溢れないようにまぶたをきつく閉じた。
     どくどくと規則的なリズムに耳を傾けて暫くすれば、ゆったりと睡魔が這い寄ってくる。彼には悪いがそのまま身を委ねてしまおうと、夢野は無責任に意識を手放した。




     むくり、と身を起こせばもにょもにょと言葉にならない声が上がる。起きる気配すら見せないことに安心するやら呆れるやら。顔の殆どを隠している髪をそっと上げながら、吐き出す溜め息は夢野の上から落とされる。
    「……言われるのは仕方ないでしょ」
     まだ10歳程度でしかなかった夢野を置いて出ていった師匠。幼いながらも才能を発揮し始めていた彼女のことを恐れたのか、それとも彼女との才能を比較して影で笑う同業者たちから逃げるためか。
     どちらにしろ一人では生きることもままならない弟子の、それも少女を放り出していい理由ではない。
    「馬鹿だなぁ、夢野ちゃんは」
     心ない大人たちから何を言われても、夢野は消えた師匠を待ち続けている。彼が捨てていった隠れ家で一人、魔法の研究をしながら暗い夜に怯えながら、ずっと。
     くたり、ともたれ掛かってくる少女を抱き上げる。だが体勢も変わったというのに全く起きる気配はない。もう少し危機感があってもいいとは思うのだが、それだけ許されているということなのだろう。
    「まぁ……、それにしたって長い付き合いなのに気付かないのはどうかと思うよ」
     出会った頃から、彼は人に化けることができた。けれどただの狼だとすっかり信じ込んでいる夢野が面白く、騙し続けてかれこれ十年。あれから力も付けて透視魔法だって習得したというのに、彼女は未だ気付く気配はない。
     それとも気付かないふりをしているのか、そもそも気付きたくないのか。彼には知る由もない、が特別気にすることではない。
    「今はまだ、キミの望み通りに振る舞ってあげるよ」
     いつかネタバラシをしたとき、顔を真っ赤にして照れるか怒るかするだろう夢野の姿を想像する。きっと期待通りの、いやそれ以上の反応をしてくれるに違いない。
     自然と上がる口角もそのままに、彼女を起こさないようにゆっくりとした足取りで寝室へ向かった。目を覚ましたとき、なんでベッドで寝ているんだろうと変な顔をするだろう様を思いながら。
    【一般人と魔法使い】

     ガサガサ、バキン、ガシャンッドシャッ。
     虫の鳴き声一つもない静かすぎる夜に突如として響いた音に、王馬は手にしていた携帯ゲーム機をうっかり放り投げてしまった。よりにもよってカーペットの敷かれていないフローリングへ叩き付けられたそれは、ガチャンと悲痛な悲鳴を上げながら沈黙する。
     あと少しでラスボスが撃破できそうだったというのに。命拾いしたなアイツ、なんて負け惜しみがつい口に出てしまう。
     携帯ゲーム機を拾い上げ、電源が点くことを確認してほっとした。いつだって高校生の懐は寂しいものである。ゲーム機の修理費なんて捻出できるほど余裕はない。
    「…………猫でも落ちたか?」
     安心してソファに座ったところで、そういえば先程の物音は何だったのかと気になった。あれは恐らく何かが落ちた音だろう。そういえば何度か庭に生えている木に野良猫が勝手に乗っていることを見たことがあったな、と王馬は重い腰を上げて窓へと足を向けた。
     閉め切られたカーテンを勢いよく引き、防犯ロックと鍵を開ける。もしや庭には泥棒がいるのではないかとも考えはした。しかし木から落ちるような間抜けなどそういるわけもないし、仮に失敗して落ちたのだとしてもとっくに逃げているだろう。
     そう判断して勢いよく開いた窓の向こうにいたのは、首元を枝に引っ掛けて目を回している少女だった。


    「………………は?」
     想像だにしていなかった光景に、王馬ができたことといえば間抜けな声をこぼして固まることぐらいだった。
     背の低さや顔から随分と幼そうに見える少女。枝に引っかかったのだろう、真っ赤な髪はぼさぼさになっていた。タイツは所々破れてしまっており隙間から見える肌には薄っすらと傷が付いている。
     まさか泥棒じゃないだろうな、と一瞬は疑ったりもした。しかしどこにマントを首から引っ提げて箒を片手に家屋侵入する泥棒がいるのだろう。傍らの枝に引っかかっている帽子も間違いなく彼女のものに違いない。まるで映画やゲームに出てくる魔法使いの出で立ちではないかと驚きを通り越して呆れてしまう。
    「……どうするかな、これ」
     どういう経緯で王馬の家の庭に落ちてきたのかはわからない。ここは閑静な住宅街で、そこそこ裕福な家庭がそこそこのセキュリティで家を守っている。少しでも不審者が侵入すればすぐに警備会社の警報が鳴るはずだ。もちろん王馬の家も例に漏れない。なのに彼女はそれらのセキュリティを掻い潜ってここにいる。
     今のところ警備会社からの連絡は何もない。家の構造上、庭の木に落ちるには隣の家の塀からくるしかないのだが、そちらの方も特に慌てた様子がなかった。ということはつまり、隣の家からやってきたわけでもない。
     あとは空から降ってくるぐらいしかこの状況を生み出す方法はない。
    「いや、それはないか。……ないよな?」
     屋根から屋根へ伝ってきた、もしくは本当に空を飛んでいた。考えつくのはそのどちらかしかないがあまりに非現実がすぎる。そんなわけがないと溜め息を吐く王馬であった、が視界に入る少女の格好と持ち物はフィクションでよく見る魔法使いのそれで。
     今一度、目を回し続ける少女を観察する。どう見ても泥棒の類ではない。こちらに危害を与えてこようとしたとしても捻じ伏せられるだろう。
    「まぁ、事情は目を覚ましてから聞けばいいか」
     にしし、と弓なりに引き上がった口角。面白くないわけがないおもちゃを目の前にして、王馬は軽い足取りもそのままに少女へ歩み寄った。
     枝に引っかかったマントを取り外してそのまま落ちてくる体を抱きとめる。思いの外、重く感じたのは意識がほぼないに等しいからだ。ぐったりとする体を肩に担いで落とさないようにして家へ運び入れる。
     それでも目を覚まさない鈍さに呆れるやら心配になるやら。溜め息もそこそこに落ちていた箒と引っかかっていた帽子を手にし、部屋へと戻った。
    「重っ……、あれ?」
     ソファに寝かせ、改めて顔を覗き込んで見る。しかめっ面でうんうん唸り声を上げている少女はうわ言を繰り返していた。重力がどうの、魔法がこうの。繰り返される言葉の殆どは意味がわかるようなものではない。
     未だに彼女がどうやってやってきたのか、繰り返すうわ言の意味はわからなかった。けれども一つだけ、気付いたことはある。
     明るい所で見たことにより確信できたこと。今この場所で昏倒している少女は、王馬のクラスメイトだ。
    「……えっと、ゆ、ゆま?……違うなぁ」
     どちらかといえば地味で、快活な友人の影に隠れてしまう小柄な少女。切り揃えられた赤毛といつも眠そうにしている半開きの瞳。そう、確か彼女の名前は。
    「ユメノ、ああそうだ、『ユメノヒミコ』か」
     ぴくりとまぶたが震える。けれども目覚めるまでには至らなかったようで、またすぐにうわ言を上げ始めた。
     幸か不幸か、今日は両親共に出張で家には帰らない。時計を一度見やった王馬はソファに横たわったままである少女の傍らに腰掛けた。問い質す時間は嫌というほどたっぷりある。
     さてどう問い詰めてやったものかと考えながら、彼は再度ゲーム世界を救うために携帯ゲーム機の電源を入れた。
    【一般人と魔法使い】

     爽やかな風が吹き抜ける穏やかな朝。テストもなく体育もない。常ならば軽い足取りで向かうはずの通学路だが、今日はとんでもなく足が重かった。
     原因はわかっている。ずきずきと鈍痛を訴えかける全身、ぴりぴりと痛みを訴えかけてくる小さな擦り傷切り傷。昨晩の大失態が生み出した代償はあまりにも大きかった。
    (んあー……、今からでも帰ろうかのう……)
     とぼとぼといつもに増して遅いペースで歩いてはいるが、着実に目的地には近付いている。嫌だ、行きたくない、憂鬱だ。このまま体調不良だと嘘を吐いて帰ってしまおうかと考えてしまう。
     けれどもそれはできない。秘密を守ってもらうために取り付けた約束を守るため、夢野はどうしても学校に行かなければならなかった。
    「よりにもよって、あやつの家に落ちるだなんて……」
     薄い三日月の夜。魔力も落ちるその日にマナ切れを起こして墜落したのは、クラスメイトである男子の家であった。



    「ゆ〜めのちゃん!どこ行くの?」
     意外にも特に何事もなく授業を終え、あとは帰宅するだけとなった頃。そそくさと隠れて帰ろうとした夢野はあっさりと王馬に捕まった。頼みの綱である友人の茶柱たちは皆、部活動があるからと早々に教室を立ち去ってしまっている。
     また不幸なことにクラスのトラブルメーカーである彼を止めてくれる人間もいない。残っているのはいつも王馬に振り回される者たちばかりで。捕まってしまった夢野へ哀れみの視線を向けるのみだ。
    「ど、どこって、家に帰るんだけど……」
    「……あぁ、そっか。キミって帰宅部なんだっけ?」
     どうしてそんなことを知っているのだろう。疑問に思いはしたが、もしかすると今日一日ずっと夢野のことを調べていたのかもしれない。だから休み時間中もあまり姿が見えず、夢野は平和に過ごせていたのだろう。
     どうせなら放課後もそうしてくれていたらよかったのに、と思わずにはいられない。
    「そ、それで、何か用?」
    「何か用かなんて君が一番知ってると思うけど。それはそうとしてさぁ」
     学校では普通に喋るんだ、と耳元で囁かれる言葉。ぎょっとして王馬を見れば意地の悪い笑みが視界へ飛び込んでくる。
    「ねぇ、色々と教えてよ。昨日のんむぐっ」
    「そ、そうだった!約束してたこと、すっかり忘れてた〜!」
     よく動く王馬の口を慌てて自分の手で塞ぎ、夢野は笑いながらそのまま彼を引きずり歩く。言動があからさま過ぎるとは思ったものの、あの場でバラされてしまってはたまったものではない。
     足早に廊下を通り過ぎて辿り着いたのは、普段は立入禁止となっている屋上の扉の前。周りに誰もいないことを確認した夢野は、ゆっくりとドアノブを握る。
     ギギ、ガチャン。
    「……え、今ので開けたの?」
    「いいからっ」
     キョトンとしながらも目を輝かせる王馬の背を押して屋上へと出る。扉を閉め、もう一度指先に力を込めれば鍵はガチャリと音を立てながら閉まった。
    「すっげ〜!何それ、どうやってやったの⁉」
     耳のすぐ横で上がる大声。耳を抑えようとした手は握られ、上げたり下げたり振ってみたりと好き勝手にされてしまう。
    「んあ〜〜〜!やめい!そんなことしても何にもならん!」
    「お、昨日の喋り方に戻ったね」
     振り払えばあっさりと手は解放される。勢いが余りすぎて思い切り扉にぶつけてしまえば、頭上からにししと笑い声が降ってきた。
     涙目で睨み付けても驚かないし怯まない。楽しそうに笑いながら問い詰めてきて、いざ話し出せば夢野の話に黙って耳を傾ける。今だってこれから何を聞き出そうかと考えているに違いない。
    「……聞かれてもそんなに答えられんぞ」
    「えぇ〜?そんなケチ臭いこと言わないでよ。オレは気になって気になって昨日も六時間しか寝てないんだから!」
    「しっかり寝ておるでないかっ」
     口は想定していた以上に悪い。けれども夢野が本気で嫌がることにはあっさりと身を引いた。知りたいことがあればもっと手段を選ばないような少年であるというのに。そこは意外だな、とは思う。
     それも夢野にうっかり口を滑らせるためなのかもしれないが。
    「ところで夢野ちゃんってさ、実年齢いくつなの?魔法使いなんだから千歳ぐらいのロリババアなの?」
    「いや、ウチは間違いなく十七歳じゃ。花も恥じらう乙女の女子高生じゃぞ」
    「ふ〜ん。喋り方があまりにもジジ臭いからてっきり婆さんかと思ってたよ〜。干物みたいな顔をしてるしね」
    「誰が渋い朝食のメイン顔じゃ!あとジジ臭いはやめんか!せめてババ臭いと言え!」
    「引っかかるとこそこなんだ」
     けらけらと笑いながら王馬は夢野の顔を覗き込む。突然の至近距離に驚いてたじろぐ彼女の表情は訝しげで固い。じりじりと詰められる距離に足がゆっくりと後ろへずれていく。
     やがて背中が扉にぶつかったことで、これがいわゆる壁ドンのそれと同じであると気付いた。
    「な、なん、何じゃ⁉」
     声をひっくり返させながらぎゅっと目を瞑る。しかし近くにある気配はほとんど動くことはない。何を企んでいるのか、何をしようとしているのか。わからないまま時間だけが過ぎていく。
    「……夢野ちゃんさぁ、こういうときこそ魔法でどうにかするもんじゃないの?」
     長い沈黙の末、聞こえてきたのは呆れた声と溜め息だった。遠のいていく気配。恐る恐るまぶたを上げれば、つまらなさそうな顔が見える。
    「ま、魔法は、軽々しく使うものではないんじゃっ」
    「さっき鍵開けるのに使ってたじゃん」
     つい先程の軽々しく使った一例を挙げられ、夢野は押し黙る。あの時は焦っていたしいっぱいいっぱいだったし仕方がない。そう口に出そうとしたものの、それも論破されそうなので黙っておくことにする。
    「あーあ、もっと面白いものが見られると思ってたのになぁ。夢野ちゃんの顔に似合った地味さだね」
    「んあぁ……!ウチはまだ見習いなんじゃっ」
    「へぇ、そっか。見習いなんだぁ……」
     また余計なことを口走ってしまった、と顔を青くする夢野。そんな彼女の目と鼻の先まで詰め寄った王馬は今まで以上に瞳を輝かせ、口角を弓なりに上げたまま囁いた。
    「じゃあさ、新しい魔法を覚えたらオレに見せてよ」
    「なっ、何でそうなるんじゃ!そもそもお主のような一般人に魔法をこれ以上見せるわけには、」
    「ふ〜〜ん、そんなこと言っちゃうんだ。オレは別にいいんだよ?みんなに夢野ちゃんが魔法使いだってバラしちゃってもさぁ」
     にたり、と邪悪とも言える笑顔。低い声で続けられた言葉に夢野はひゅっと息を呑んだ。
     魔法は本来、秘密裏にしなければならないものだ。王馬のような一般人にバレたこと自体が大問題なのである。これ以上のことを彼に知られるわけにはいかない。
     いかないのだが、大衆にバラされてしまう危険に比べれば幾分もマシだろう。
    「…………わ、わか、わかった。約束、する」
     断腸の思いで渋い顔のまま絞り出した声はおよそ女子とは言えないもので。まるでおとぎ話に出てくるしわがれた魔女のようなものだった。
    「うん、約束だからね?」
     嬉しそうに笑った王馬を恨めしげに睨み付ける夢野。けれども元を辿れば大失態を犯した自分が悪いので、彼だけを責めることはできない。
     ぐ、と自分の不甲斐なさに唇を噛み締める夢野。そんな彼女は気付いていない。実際に王馬が夢野のことを魔法使いだとバラしたとしても、嘘つきである彼の言葉など信じないということを。
    【魔法使いと妖精】

     路地裏に落ちているそれを拾ったのは一ヶ月前のことである。ふと立ち上がった幽かな気配が気になり、ごろつき共をちょちょいのちょいと押しのけながら辿り着いた行き止まり。砂と埃をこれでもかと被ったガラクタの上に目にも鮮やかな赤があった。
     手のひらほどの大きさしかない人間。この世間一般的に言えば妖精と呼ばれる類の種族である。浅く胸が上下しているので恐らく死んでいるわけではない。纏っている服や顔立ちを見るに女の子、だと思われる。
     しかし人は見かけによらないものだ。それが妖精といえば尚更のことで、知識でしか知り得ない種族のことなど直ぐに見抜くのは困難だろう。
    「……まぁ、いっか」
     羽根をつまんで手に乗せても尚、すうすうと穏やかな寝息を立てている妖精。危機感がないのか、もしや起きられないほど疲労しているのか。どちらにしても目覚めてから問い質せばいい、と王馬は首に巻いているスカーフを解いて妖精を包んだ。
     後ろでのびていたごろつきたちの唸り声が上がる。さて面倒に巻き込まれる前に退散するか、と懐から取り出した杖で簡易魔法陣を呼び出せば、あっという間に隠れ家へ到着した。



     ぱちぱちと頬を叩く軽い衝撃があった。ようやくまどろみから深い眠りへ落ちそうになっていたというのに、誰が無粋な真似をするのだろう。眉間に皺を寄せながらベッドへ放っていた手を振り回せば、何かに当たる衝撃と共に蛙がつぶれたような悲鳴が上がった。かしゃん、がちゃん。そう大きくはない物音が立ったかと思えばすんすんと鼻をすするような声が耳へ滑り込んできて。
     このまま眠ってしまいたかった王馬であったが、声の主が誰なのかを知っているので渋々目蓋を押し開ける。重い体をゆっくりと起こしながらやや荒れている魔法道具の棚へ目を向けると、ひっくり返っている妖精が半べそをかいていた。
    「……何してんの、夢野ちゃん」
     溜め息もそこそこにベッドから降りた彼は、声を掛けられるなり鬼の形相で睨みつけてくる妖精を摘み上げる。そのまま魔道書が積まれているテーブルにそっと降ろせば、飽きもせず睨み上げてくるそれがようやく口を開いた。
    「何もかにもないわい!変化があったら起こせといったのはお主じゃろうが!」
     古くさいにも程がある婆さん言葉で声を荒げながら、めくれたスカートをぱたぱたと整える妖精。聞いている年齢の割には全く発育していない体のためわかりにくいが、これでも十代後半の女の子である。
    「あ~……、そうだったっけ?覚えてないや」
    「……んぁ、そんなことだろうとは思っておったが、やはりか」
     欠伸を一つ落としながら答えた王馬に、夢野は呆れた溜め息を隠しもしない。
    「ここのところ根を詰めすぎじゃぞ?体力が磨耗していては、溜めた魔力の質が落ちることをお主もよく知っておるじゃろう」
     とん、と軽くテーブルを蹴った彼女はやがてべちべちと大きな紫色の瞳の下にある隈を叩く。元より腕力がないそうなので痛くはないのだが、鬱陶しいことには変わりない。すぐさま動いていない羽根をつまんで引き剥がした。んあ、と小さな悲鳴が上がると同時に、抵抗する為かじたばたと手足をばたつかせる。
    「そんなに暴れるとスカートの中が見えちゃうよ?まあキミのパンツなんか色気もないから見たって何もないけど」
    「んあー!全部お主が選んだものじゃろう!そもそもこんなのはウチの趣味ではない!」
     顔を真っ赤にしながらスカートを押さえる妖精は、半開きの目にいっぱいの涙を溜めながら抗議する。しかしその抗議の言葉には大きな誤りがあるので、王馬は逐一こう反論するのだ。夢野の洋服から下着まで選んで渡してきたのは、魔法使い仲間でありこういった洋裁が得意な東条という女性なのだと。
     一ヶ月前、路地裏の行き止まりで拾った妖精。やたらと古くさい言葉を話す彼女が数日前から行方不明になっている魔法使いなのだと知ったのは、意思疎通ができるようになって二日目のことだった。女の子なのだしいつまでも同じ服を着せているわけにもいかない、不衛生だろうと相談しに訪れたのが東条の隠れ家である。そこで彼女にいろいろとあつらえてもらったのが今、夢野の着用している衣服や下着なのだ。
     決して王馬が選んで着せているわけではない。断じて違う。
    「もー、そんなに怒んないでよ。それで、あっちはどうなってるの?」
     頬を膨らませて拗ねている夢野を手に乗せ、真っ直ぐに向かうのは地下に設置された工房。魔法使いならば持っていないはずのない、新しい魔法の研究や道具の練成を行う為の場所だ。そこには夢野を元へ戻す為に揃えられた道具たちが主の到着を待っている。
     呪いを受けて妖精に変えられてしまったのだろう、とは魔法仲間の一人である真宮寺の見解だ。それだけでも相当に厄介だというのに、彼女が受けている呪いは知らない誰かに掛けられたものが弾かれた際のとばっちりがまた弾かれたとばっちりという、厄介という言葉では収まりきれないものである。幸いなことにとばっちりのとばっちりなので命に別状はないらしい。また簡単に弾かれる程度には質の悪い呪いだったらしく、きちんと手順を踏んで丁寧に解いていけば何とかなるだろうとのことだ。
     そこから夢野が元に戻れるよう、真宮寺から教わった解呪のやり方を実行すること二週間弱。もう少しではた迷惑でしかない呪いが解かれようとしている。
    「……今は、変化が起こった瞬間の時間を固定しておる。よほどのことがない限り変なことにはなっておらんじゃろう」
     頬を膨らませたままではあったが、魔法のことを尋ねられれば夢野は比較的素直に応じる。それほど魔法が好きであり真摯に向き合ってきたのだろうことは、彼女の才能が物語っていた。
     元の魔力量が膨大だったため、妖精になったとしても簡単な魔法が使えると判明したのが解呪の儀式を始めて三日後のこと。遠く離れていた道具を取って欲しいと頼まれた夢野が、移動魔法を難なく使ったことがきっかけである。口に出すことはなかったが、見ず知らずの自分を助けてくれる王馬にどうにかして恩を返せないか、と考えていた彼女はここぞとばかりに力を使って見せた。
     しかし彼女が言う簡単な魔法、とは世間一般で言えば中級から上級のものばかりである。先ほどなんてことない顔で告げてきた時間を固定させる魔法など、才能がなければ一生使えないものなのだ。こんなのも才能に溢れてとんでもない魔力量を持つ魔法使いを今まで知らなかったこと、突然目の前に現れた化け物のような同業者に王馬は悔しさを感じずにいられない。
     それはそれとして、ここまで強い魔法使いなのだから何故呪いを弾けなかったのか。その疑問は未だ解明できていない。
    「……のう、王馬よ」
     見事な安定率を見せる魔法に軽い嫉妬を覚えながら、夢野を安全な位置に座らせる。面倒ではあるが丁寧に作業を行わないといけないので、細心の注意を払いつつ儀式の準備を進めていく。
     そんな中、掛けていた魔法を解こうとしていた夢野が口を開いた。声の調子があまり高めではなかったので、どうかしたのかと振り返れば肩を落としている姿が目に入る。今までの会話から彼女が怒ることはあれ、落ち込むことはなかったはずだ。はてどうしたのかと不思議に思いながら近寄れば、ゆるゆると上がった顔が不安そうな色を滲ませていて。
    「お主はどうして、ここまでウチのことを気にかけてくれるのじゃ?いくら使い勝手がいいからと言っても、してもらっていることとの釣り合いが取れておらん」
     等価交換が必要だという常識は魔法の世界以外でも同じことだ。何かをしてもらうにはそれ相応の対価が必要となる。
     夢野の魔力量や知識、技術力は確かに魔法界でも随一だろう。それを手に入れることは相当の対価が必要になるだろうことはわかっているのだが、これまで彼女を元に戻す為の準備を見ていれば釣り合わないことは一目瞭然だ。少しでも恩を返したいと思っているのだが、時間が経てば経つほど与えられたものと与えたものの対価に差が広がっていく。
     もし仮に、この解呪の儀式が失敗したらどうするのか。なんて考えただけでも卒倒しそうな疑問は流石に口にすることはできなかった。けれども王馬がどうしてここまでしてくれているのかは、全てが終わる前に聞かなければと夢野は常々思っていたのである。
    「どうして、ねぇ」
     顎に手を当てながら首を傾げる王馬。じいと見つめられることは一度や二度のことではないが、やはり真正面から受け止めるためにはやや身構えてしまう。一体どんな言葉が返ってくるのか。ごくりと生唾を何度か飲み込みながら、夢野は飛び出すだろう言葉を待った。
    「……夢野ちゃんがとばっちりの呪いを受けたのは、哀れなほどに鈍臭いからなんだろうね」
    「んあ?」
     予想していたものとは全く異なる言葉を投げつけられ、夢野は目を白黒させる。一体全体どういう意味なのか。考えてみても答えに辿り着くことはできなかった。
     しかし心底バカにされていることは、向けられる視線とあきれ返った溜め息で窺い知れる。
    「し、失礼な奴じゃな!ウチの凄さは誰よりもお主が知っておろう!」
    「あー、はいはい。そうですねー夢野ちゃんはすごい魔法使いですもんねー」
    「んあー!せめてこっちを見ながら言わんか!」
     心なんて篭っていない棒読みにはもう慣れたが、顔も見せずに言うのは流石に失礼すぎるだろう。いつの間にかすっかり定着してしまった『いつもの戯れ』が始まるまで、そう時間はかからなかった。




     すやすやと眠っている夢野は、いい夢でも見ているのかふにゃふにゃとした笑顔で何かを呟いている。先程まで膨れていた頬をつつきながら、王馬は小さく笑う。思い出すのは初めて会ったときのこと。どれだけ揺すっても呼びかけても穏やかに眠り続けたときは死んでしまったのかと肝を冷やしたものだ。
    「どうして、ねぇ……」
     釣り合わない対価で働いている理由など、一つしかない。彼女には早く元に戻ってもらわなければならないからだ。ではどうして早く戻ってもらわなければならないかといえば。
    「アプローチするにも、こんなに小さかったら難しすぎるでしょ」
     ぐいぐい指を押し付けてやれば、苦しそうに夢野はうめき声を上げる。その顔があまりにもおかしくて笑ってしまえば、寝返りを打たれてしまった。
     今はまだ何も知らず、そうして眠っていればいい。秘密裏に行われている計画も、この瞬間も準備期間であることも。本来の姿に戻ったとき、全てに気づいたとき彼女はどれだけ慌てふためいてくれるだろう。今から楽しみでならないと、王馬は止まっている解呪の儀式の準備に戻った。
    【アイドル】

    「やっほー、夢野ちゃん。元気にしてた?」
     ノックもなしにずかずかと入ってきた少年は、そう言うと驚いて固まったままの夢野の隣に腰掛ける。パーカーのポケットから取り出すのは最新モデルのスマートフォン。紫色のそれは先日、彼の所属するグループがイメージキャラクターとして選ばれた商品である。
     まだデビューをして半年足らずだというのに、若者を中心に爆発的な人気を得ている男性アイドルユニット。事務所の大きさからコネクションも多く、また個性的なメンバー揃いの甲斐もあり、あらゆる方面の仕事に引っ張りだこである。中でも夢野に次の仕事をわざわざ教えてくれている少年、王馬小吉は容姿と性格のギャップ、そして大抵のことは何でもこなせる器用さからかなりの人気を得ているらしい。
     そんな少年がどうしてここへ一人で訪れているのかなのだが、残念なことに部屋の主である夢野にはさっぱりわからなかった。同じ仕事が入っているわけでもなく、同じ事務所であるわけでもない。もちろん友だちだというわけでもないのである。
     というか、そもそもの話なのだが。
    「そういえば夢野ちゃんのところ、新しいCM決まったんだってね?おめでとー」
    「…………あ、ありがとう」
     王馬の所属する事務所と夢野の所属する事務所は、並々ならぬ因縁を抱えている。それはこの業界ではよくある話、けれど本来はあってはならない話。誰しもがテレビで一度は見たことがあるだろう事件の名はそう、恋愛スキャンダル。数年前に人気絶頂であった双方のアイドル同士が週刊誌にすっぱ抜かれ、相当なダメージを負ったのだ。
     本来は顔を合わせることすらNGである。しかしそんなワガママを貫き通せるほどこの業界は甘くない。また双方の事務所へ与えるダメージを考慮し、仕事である場合は特別に会話が許されていた。
     ということはつまり、プライベートでの会話は一切許されていないということになる。廊下ですれ違うときも挨拶はすれど目は合わせない、話しかけられても仕事の話以外は応じない。なんて徹底的な教育が双方で施されているのだ。
     もちろん夢野も他のアイドルたちに倣って、事務所の方針に従っていた。もちろん面倒なことを避けたかったからである。とはいえ、そもそも彼らが自分相手にするはずがないだろうことはわかっていた。
     自分に全く自信がないというわけではない。ただ並んでいるメンバーと比べたら見劣りすることはわかりきっているからだ。
    「……夢野ちゃんさ、少し痩せた?ただでさえガリガリのツルッペタなんだから、ちゃんと食べなきゃこっちが見ていられなくなるよ!」
    「…………」
     いつだって明るく可愛いメンバーの後ろに下がっていた。喋ることも得意ではないし、愛想を振りまくようなキャラでもない。喋り方が独特なせいでバラエティでは弄られることはままあるが、歌番組などではほとんど喋ることなく終わることがザラであった。
     その日の収録もいつも通り、センターを張るメンバーが明るく可愛く曲紹介をする後ろに立つ。身長のせいでほぼ見切れているが、何やらファンの間ではそれがいいと話題らしい。わからないものである。
     MCがにこにこと笑いながらステージへ送り出す言葉を述べたので、揃ってスタンバイに向かう最中のことである。頑張ろうねと笑い合うメンバーに遅れないよう付いていっていた夢野のスカートが何かに引っかかった。無理に引っ張って破いてはいけないと振り返った先にいたのは、デビューしたての男性アイドルで。
    「頑張ってね」
     囁くようにそう告げてきた彼はすぐさまスカートの裾から指を離す。そうして何事もなかったかのように真正面を向き、彼と同じグループらしい少年へ何やらを話しかけ始めた。
     まるで何事もなかったかのように。
    「ねぇ、聞いてる?もしかして耳遠くなったの?老化が早くない?」
     突如として耳たぶを引っ張られる。鈍い痛みが走ったことで顔が嫌でも歪んでしまい、それを見るなり王馬はブサイクだと笑いだした。
     けらけらと笑う声。あのとき掛けられた優しい声音とは似ても似つかないそれに、夢野の閉じきった口はついに開いてしまう。
    「お主、この前は太ったアザラシだのなんだの言っておったではないか!だから少し運動してっ、食事制限もしてっ、ようやく痩せたんじゃぞ!」
     君のグループは細い子ばっかりなんだから少しは痩せる努力をしたら、なんて言葉をかけられたのは三ヶ月前のことだ。顔を合わせるなりそう言ってきた王馬を見返してやりたくて、色々と考えを巡らせようやく余分な肉を削ぎ落とせたのである。
     そのおかげでメンバーに心配されたりマネージャーに怪しまれたりと散々だったのだ。褒められてもいいぐらいだろう。それなのに実際に掛けられた言葉がこれではあんまりではないか。
    「オレが言ったことを真に受けたの?バッカだな〜夢野ちゃんってば。あんなの嘘に決まってんじゃん」
    「んあ!?う、嘘じゃと!?」
    「でもそっかぁ、ふーん、オレの言葉でねぇ……」
     にやにやとどことなく嬉しそうに王馬が言う。しかし衝撃の発言に動揺する夢野は、どうして彼が嬉しそうにしているのかなどわかるわけもない。
    「女の子はちょっと丸いほうが愛嬌があるんじゃない?だからさ、ほら、ここ美味しそうだから一緒に食べに行こうよ」
    「んあ?こ、これは確かに美味しそう……、ではない!!さっさと出ていかんか!!」
     どん、と王馬の背中を押し出そうとする夢野。しかしその力は弱すぎて、到底彼を移動させることなど不可能だろう。
     けれどもそろそろ、この部屋には彼女の仲間たちが帰ってくるに違いない。見つかってしまったら二度と会いに来られないかもしれない。それだけは避けなければならなかった。
    「わかったわかった。ちゃんと帰るからそんなに怒んないでってば」
    「うるさい!もう二度と来るでない!」
     顔を真っ赤にしながら押し出してくる夢野に促されるまま、王馬は素直に部屋の出口へと移動する。そうしてもうすぐドアノブに手を掛けようかとしたところで突然振り返って。
    「無理はしないでね。約束だよ、夢野ちゃん」
     答えを返す前に閉まった扉。そうして一人取り残された夢野はうめき声を上げながら蹲った。
    「なんっ……何じゃアイツは……!」
     こうして言葉を交わすことが許されていないのは向こうも同じだろうに、王馬は定期的にやってきては夢野へちょっかいをかけて帰る。そこにどんな意図があるのかはわからない。何もわからないから、どんなアクションを起こせばいいのかもわからないまま、ずるすると今の状態を維持している。
     恋愛禁止、交友禁止。事務所から嫌というほど聞かされた言葉を何度も何度も頭に浮かべて、それでも夢野の脳裏に浮かぶのは王馬の優しい声だった。
    【アイドル】

    「うわっ」
    「んあっ」
     手に取ろうとしたCDの手前でぶつかる指先。驚いて反対側を見やれば、サングラスにマスクで顔を隠した少女がいた。切り揃えられた赤毛。特徴的な口癖のおかげで誰なのかはすぐに特定できた。
     それは相手も同じだったようで、きょとんとした後あからさまに嫌そうな顔をしてみせる。辺りをキョロキョロ見回して、人影がまばらなことを確認してほっと胸を撫で下ろした。
    「何でお主がここにおるのじゃ……!」
    「そりゃあこっちのセリフだよ。キミこそこんなとこで何してんの?」
     CDショップですることなど一つぐらいしかないが、それでもついつい互いに問いかけてしまう。ぶつかり合う訝しげな視線。そこへ乱入してくるのは、訝しげを通り越して完全に不審者を見る目を向けてくる店員だった。
     バレてしまっては厄介である。瞬時にそう判断し、二人はその場にしゃがみこんだ。
    「オレは今日発売のCD買いに来たんだよ」
    「ウチもそうじゃ。忙しくて予約ができんかったから、わざわざ買いに……」
     二つのサングラスが捉えるのは同じ棚、同じアーティスト、そして同じCD。たった一つしかないそれをしばらく見つめた後、顔を見合わせてまた固まる。
    「たはー、こんなことってあるんだね〜」
    「んあー、まさか一つしか残っておらんとは……」
     がくりと肩を落とす少女。溜め息を吐きながら、名残惜しそうにしていた彼女は、やがてのろのろと立ち上がる。
    「あれ、どこ行くの? トイレ?」
    「そんなわけなかろう。……今日は諦めて帰るだけじゃ」
     仕方ない、なんて呟いて踵を返す。それを座ったまま、手首を掴むことで阻んだ。ぎょっとして振り返る相手を無理矢理に座らせてから縮める距離。
    「何で」
    「何でも何も、買えるのは一人だけじゃ」
    「オレが諦める可能性は考えないの?」
    「んあー、それは、まぁ……」
     ちらりと目線をCDに向けた少女の横顔は、やはり名残惜しさが強く滲み出ていた。瞳からだだ漏れている、やっぱり欲しい、なんて声。
     そんな顔でよく諦めるなどと言ったものだ。
    「オレはいいよ。キミが買えば?」
    「んあ? いや、しかし……」
    「いいから。ほら」
     棚から抜き出したCDを少女の手に乗せた。すると困ったように、けれど嬉しさを隠しきれない様子で、でもでもだってと繰り返す。
     あまりにもわかりやすい態度に笑ってしまいそうになった。
    「その代わり。それ、今度貸してよ」
    「もちろんじゃ! ちゃんと借りはかえ……、んあっ」
     にんまりと笑いながら立ち上がる。嬉しそうにしている彼女は放たれた言葉を拾い上げ、打ち返してからようやく意味を理解したらしい。
     さっと顔から血の気を引かせる。
    「じゃ、また今度楽屋にお邪魔するね〜」
    「んあっ、待てっ、やはりお主がっ」
     追いかけてくる声から逃げるように店を後にする。間もなくして聞こえなくなる困りきった声。取り残された彼女の、サングラスとマスクの下にある顔を想像しながら、軽い足取りで家路へとついた。
    【喫茶店員と常連客】

     好きな人に振られた。
     正しくは好きな人に恋人ができたので必然的に振られた、である。相手は顔良し仕事もできるそして人柄もよし。それはお前の妄想の具現化か、と失笑されてもおかしくない、本当にできる男である。
     職場の女子のほとんどが彼に好意を寄せていた。同僚、先輩、後輩。共に仕事をする彼女等の中には、こちらが逆立ちをしたって敵わない女子の鑑がたくさんいた。そんな中で背も低くスタイルもよくない自分は悪目立ちする他ない。
     告白したところでこの想いが報われるわけもなかった。
    「そもそも試合前から諦めていたんじゃから、口出しする資格なんてないことはわかっておる。だがやはり、悔しいというかなんというか、とにかくモヤモヤするんじゃ……」
     相手がどんな女性かわからない、というのも胸に靄がかかる原因の一つだ。風の噂では学生時代から親交のあったおしとやかな女性、と聞いている。まさか実物を見に行けるわけもないので、脳内では清純派の女優をコラージュしたかのような女性が勝手に出来上がっていた。
     今日何度目かのため息を吐いて、コーヒーに映り込んでいるブサイクな顔を見つめる。ただでさえ不機嫌と不満とやるせなさで歪んでいる顔は、下を向いているせいでより歪みに拍車がかかっていた。
    「仮にキミがその男と恋仲になったとしてさ、釣り合うようにって無駄に空回りして潰れてただけでしょ。無様な姿を晒さなくてラッキーだったじゃん」
    「んあぁ、それはまぁ、そうなんじゃが」
     これでも一年ほど、年の割には甘酸っぱく淡い想いを抱いていたわけである。簡単に割り切ってはい次といけるのならば、そもそもこんなに長く不毛な感情を抱えてはいない。
    「ねぇ、もう一回聞くけど、その完璧男って本当に実在してたの? どうせキミの妄想が反映された、半分架空の人間とかなんでしょ」
    「……だったらよかったんじゃがな」
    「……ふぅん」
     言うなり互いに黙り込んでしまったので、穏やかな曲調の洋楽ばかりが耳へ滑り込んでくる。かちゃり、とカップとソーサーがぶつかった音。次いでこぼされた溜め息は果たしてどちらの唇から漏れたものだったか。
    「で、キミはいつまでここでオレにどーでもいい話を続けるわけ? 閉店時間はとっくに過ぎてるんだけど」
    「んあ? 何を言っておる。そんなに遅くなっては……、んあ!? もうこんな時間なのか!?」
     責める視線と言葉。確かに彼にとってはつまらない話だっただろうが、そこまで時間を奪ってはいないはずだ。眉間に皺を寄せ、反論しながら店内の時計へ目を向ければ飛び込んでくる二十ニ時を過ぎた時計盤。驚きに素っ頓狂な声を上げれば、とんでもなく深く重い溜め息がこぼされた。
    「す、すまん! まさかこんな時間になっておるとは……、というかお主も気付いているなら、さっさと話を打ち切ってもよかったんじゃぞっ」
    「うーん、そうなんだけどさぁ。話足りなくてモヤモヤしたままの帰り道で、思い詰めすぎて線路にでも飛び込みれたら寝覚めが悪いじゃん?」
    「そんなことするわけないじゃろ!」
     カップに残る冷え切ったコーヒーを飲み干し、カウンターに広げていたスマートフォンやら手帳やらを鞄へ突っ込む。ばたばたと帰る身支度を整えながら考えるのは帰り道の最短ルートだ。悲しいかな、傷心の心などお構いなしに明日も通常通り仕事なのだ。
     頬杖をついてカウンターの向こうにいた店員が、小さな溜め息を吐きながら動き出す。跳ね橋のように開いたカウンターテーブルを越えてきた彼は、慌てるあまり足をもつれさせそうになる体へ近寄ってきた。
    「慌て過ぎなんだよ。ほら、ちゃんと立つ」
    「んあぁ、すまん……、何から何までほんとに……」
    「謝る暇があったら準備しなよ」
     つんのめった体を止めたのは、自分とそう変わらなく思えるほど細い手だった。がっちりと掴まれた腕はやや痛かったものの、転んだときの物に比べれば可愛いものである。
     謝罪を重ねながらよたよたと歩いていけば、やがて辿り着く喫茶店の入り口。人通りの少なくないはずの大通りは、時間が時間なため閑散としている。
    「えっと、その、話を聞いてくれてありがとう。おかげで胸がすっとしたぞ」
     あと一歩で店の外へ出るところで振り返る。するとドア枠に寄りかかってこちらを見ていた店員は、感謝の言葉に対して「別に」と小さく答えるだけだ。
    「……帰り道、気を付けなよ。思い詰めて道路に飛び出さないでね」
    「だからそんなことはせんと言っておるじゃろ……」
     心配してくれるのは有り難いが、いつも一言多いのだ。何とも言えない顔で言い返せば、ふと笑みがこぼれる。
     そういえば、いつもはにこにこと笑顔の絶えない彼の笑顔を、今日初めて見たのではないだろうか。向けられる眼差しの柔らかさにどきりと心臓が跳ねる。仄かに熱くなる頬の色を隠すように顔を反らした。
     つい先程まで失恋をしたのだと喚き散らしていたのはどこの誰か。ちょっと優しくされたからとすぐに胸をときめかせるだなんて尻軽にも程がある。きっと気のせいだ、きっと錯覚なのだ。なんて自分に言い聞かせて、店から一歩踏み出す。
    「……んぁ、ちょっと待て。ウチはまだ会計しておら、ん、」
    「今ちょっとときめいたでしょ」
     一番忘れてはいけないことを思い出し、勢いよく振り返る。そうしてそのまま店内に戻ろうとしたつま先は、かつんと男物の革靴に当たった。
     すぐ目の前にある端正な顔。柔らかな眼差しはそのまま、ふと口角を上げて微笑むその姿に心臓が口から飛び出そうになる。
    「とっ、とき、ときめいてなどっ、おらっ、おらん!!」
    「嘘。顔が赤いよ」
    「そんっ! そんなことはっ!」
     するりと頬に手が添えられた。びく、と大げさに肩が跳ねる。触れてきた指先の意図が分からず狼狽していると、柔和な微笑みがからかうような笑みへと変わった。
    「んあー、性質の悪い冗談はやめろとあれほど言っておるじゃろっ」
     いつだって、思わせぶりなことをして嘘だと笑う。こうしてからかわれたのだって、今が初めてのことではない。それなのに毎度引っかかってしまう自分の甘さが少しだけ嫌になる。
     頬を膨らませて不服な声を上げれば、くつくつと喉を鳴らして笑っていた彼が一歩踏み出してきた。親指と中指がくっついた手。それが額に近付いてくるのを視界に捉え、何をされるのか一瞬で理解する。
     どうやって逃げよう、と考えている暇も与えてくれない。避けられない衝撃を堪えるため、ぎゅっと目をつぶって身構えた。
    「……バカだな、ほんと」
     掠れた声がすぐ側で溢れる。想像以上の近さに驚いたのも束の間、引き結んでいた唇に触れる冷たさにもっと驚いた。
     まさかデコピンではなく、氷か何かを唇に押し付けられるとは。抗議しようと固く閉じていた目蓋を開けて、息が、詰まる。
    「……マヌケ面」
     ゆっくりと離れていく端正な顔。からかうような笑顔でそう言った彼の指先がさらりと頬から顎へと滑り落ちる。やがて一歩後退った人影は、固まったままの体をとんと押し出して。
    「今キスした意味、ちゃんと考えてね? あとクッソつまんねー話を聞かされ続けた俺の気持ちも」
     じゃあね、と手を振りながら閉ざされた扉。カランと入り口に備え付けられたベルが鳴る音を遠くに聞きながら、そっと唇に触れる。今しがたそこにあったもの。冷たく、けれど柔らかいあれは、間違いなく。
    「んぁ、ぁぅ、うぅ……」
     爆発しそうな心臓。くらくらと止まないめまいに襲われ、いつしかその場に蹲っていた。
     窓ガラスの向こうは未だ明るい。けれどその向こうを覗き込む勇気も、心の整理も付けられなくて。ぐるぐると脳裏を過るのは言葉にできない困惑ばかりだった。
    【バーテンダーと常連客】

     平日の二十二時。ホテルのラウンジには客足もまばらであり、店内へ流れている音楽も大きく聞こえる。鼓膜を揺らすのはピアノの滑らかな音色、バーテンがシェイカーを振る音、そして囁くよう落とされる声。
     日常では滅多に体感することのない空間。何度も足を運んでいるというのに、漂う空気に押し流されてしまいそうになる。気後れする足。そんな両足を叱咤しながらいつもの席へと着けば、くすくすと笑う声が届いた。
    「……まだ慣れない?」
    「しっ、仕方ないじゃろ……」
     頼んでもいないのに差し出されたノンアルコールカクテル。一体いつの間に作ったのだろう、と毎回不思議に思うものの、問うても明確な答えが返ってきた試しはない。
     五つ向こうの男性客に呼ばれ、バーテンダーは彼女の前から去っていく。二言、三言。交わされている会話から、その人が常連客であることは窺えた。
    「……んあー、いつ飲んでも美味いのう」
     暗めの灯りに照らされていた、淡い色をした水面。ちびりと口をつければ鼻を抜けていく甘い香り。舌に広がる爽やかな味に、ほうと吐息を漏らす。
    「今日はどうしたの?」
    「んあ? いや、特に何かあったというわけでは……」
    「へえ。……もしかして、オレに会いに来てくれた、とか?」
    「そっ、そういうわけでも……」
     にやにやと笑いながら頬杖をつくバーテンダー。客に向ける態度としてありえないものであるが、これが彼の持ち味のようなものである。唇を尖らせながらふいと目線をそらしつつ、夢野はもごもごと口籠った。
    「ふーん。そりゃ残念」
    「……あまり客をからかうものではないぞ」
     話し終えるなり使い終わった器具を片付け始める横顔。それを盗み見ながらグラスを空けた彼女は小さく溜め息を吐いてから、今一度バーテンダーへと向き合うため姿勢を直す。
    「今日のオススメは何じゃ?」
    「あれっ、もう飲み終わったの?」
    「うむ。今日は飲みたい気分じゃからのう」
     仕事に失敗したわけでも、フラれたわけでもない。ただ何となく飲みたいと、そう思って今日はやってきたのだ。決してやけ酒をしにきたわけではない、と念を押すように言葉を続ければ、彼はくつくつと喉を鳴らしながら笑う。
     手を伸ばし、棚に飾られている瓶の群れから取り出される数種のブランデー。手慣れた様子でシェイカーに注がれ、小気味いい音を立てながら混ざりあうカクテル。
     やがて目の前へ滑り込んでくる浅いグラスには、可愛らしい桃色に満たされていた。
    「はい、どーぞ」
    「んあ〜、これは……、可愛いのう……!」
    「可愛いのは見た目だけ、かもよ?」
     にやりと彼が笑う。その悪戯な視線にどきりとしつつ、まさかと恐る恐る口をつけてみれば、先程飲んだノンアルコールカクテルよりも甘い香りが鼻を抜けていった。
     予想を大きく裏切った甘ったるい味。嫌いではないその風味に心を踊らせ、恨めしい視線を向けてやる。
    「……また嘘を吐いたんじゃな、お主」
    「にしし……、キミも学習しないね」
     言いながらバーテンダーは片付けを始める。しばらくはその手際の良さに見惚れていたが、ふと夢野は数日前に友人と交わした言葉を思い出した。
    「お主はカクテル言葉というものを知っておるか?」
    「…………え、何急に」
    「友達に聞いたのじゃ。花にも花言葉があるように、カクテルにもカクテル言葉というものがあるらしいとな」
    「あぁー……、まぁ、あるね」
     目を丸くしながら顔を上げる男は、訝しげな視線を彼女へ向ける。流れるように動いていた手はぴたりと止まり、カウンターの向こうは中途半端に散らかったまま。やけに歯切れの悪い答えに違和感を覚えつつも、夢野はやや身を乗り出すようにして言葉を続ける。
    「それで聞きたいのじゃが……、このカクテル言葉は何なんじゃ?」
     目を輝かせながら、期待を込めて問いかけてみる。するとバーテンダーは小さく吐息をこぼしてから、へらりと笑った。
    「知らない」
    「……んあ? いやしかしお主、さっきは知っているような態度を、」
    「カクテル言葉っていうのがあるのは知ってるけど、これがどんな言葉かなんて知らないよ」
    「そ、そうか……。では、調べるのは自分ですると使用かのう。それでこのカクテルの名前は、」
    「それはオレの創作カクテルだから名前なんてないよ」
    「んあ……、そうか……」
     これ以上は問い掛けても無駄だと言わんばかりに畳み掛けられる言葉。いつになく素っ気ないようなそうでもないような、態度の変わりぶりに夢野は首を傾げる。しかしアルコールが少しだけ回り始めた頭では、彼の些細な変化に気付くことはできない。
     変な奴じゃのう、とこぼしながら口を付けたカクテルは、やはり甘ったるくて仕方がなかった。
    【怪盗とマジシャン】

    『今宵、貴方の大事な煌きを頂きに参ります』
     とある大富豪の元へ届けられた予告状。上質な紙に記されるサイコロマークは、ここのところ巷を騒がせている怪盗が差し出したものだと教えてくれる。
     犯行予告を受けているのだから止めればいいのに、件の大富豪は自身の誕生日パーティーを取り止めることはしなかった。日本でも名高い有名ホテルの、よくドラマの撮影などでも使われる大ホール。あちこちを大量の警察官たちが取り囲む中、豪華絢爛な宴は幕を揚げた。
     余興として開催されるショーの主演を務めるのは、仮面で顔を隠したマジシャンの少女。誰も正体を知らない、知る人しか知らない彼女の、まるで魔法のような奇跡の数々。わあ、と歓喜に湧く会場で満足そうな笑みを浮かべたマジシャンは、大きな音を立てながら暗転した視界に目を丸くする。
    「……こっち」
     混乱する観客を鎮めようと口を開きかけた彼女は、不意に背後から飛んできた声に飛び上がった。勢いよく振り返るものの、未だ暗闇に慣れない瞳では正体はわからない。
     しかし、確信はあった。ぐっと唇を噛みながら指先を彷徨わせてやれば、迷いなくその手を取られる。そのままゆっくりと引かれるまま、暗闇の中をひたすらに進んでいけば、段々と薄い明かりが近付いてきて。
    「……残念じゃが、お主の求めておるものはここにはないぞ」
     すっかり遠のいてしまったり喧騒を背に、マジシャンは立ち止まる。するとぐんぐんと進んでいた背中も合わせてぴたりと止まった。
    「ウチが付けておるこれは偽物じゃ。そんなこともわからんとは、噂の怪盗も大したことはないのう」
     首から下げられている真っ赤な宝石。それは大富豪が最も大切にしている代物、のフェイクだった。最初こそショーに華を添えようと本物が渡される予定であったが、予告状を受けて急遽すり替えられたのである。
     してやったり顔で胸を張る少女の、仮面越しのドヤ顔をしばらく眺めていた怪盗は、間もなくして首を傾げた。
    「何言ってんの? オレは確かに、予告状通りに盗んでる最中なんだけど」
    「……んあ?」
     きょとん、とするマジシャンの手を再び引いて歩き出す背中。何を言っているのかわからず首を傾げている内に、どんどん非常用廊下の先へ進んでしまう。
     ひらひらと目の前で揺れているマント。暗闇に紛れる気の全くない、真っ白なスーツに身を包んだ彼の顔はマジシャンと同様に仮面で隠されている。
     やたらと自己主張の激しいシルクハット。あまりにもテンプレートすぎる怪盗の姿をした、見たところ年の変わらなさそうな少年。
    「さて、と。最後の大仕事だね〜」
    「大仕事って一体……、んあっ!?」
     非常扉が開かれると同時に、強く手を握り込まれた。ぎょっとする暇もなく駆け出した背中。半ば引きずられるように進んでいった先にあるのはエレベーターだった。
    「おい、いたぞ!」
     飛んでくる怒号。反応しようにも転ばないよう足を動かすことしかできず、あっという間にエレベーターへ押し込まれた。勢いのままに壁にぶつかりそうになるも、踵を返した怪盗の胸に飛び込むことで怪我を免れる。
     ぎょっとして顔を上げれば、にやりと返される笑み。そのまま肩を抱かれ、またぎょっとしている間に怒号が追いついてくる。
    「待て!!」
    「待つわけないじゃん。お勤め、ご苦労さまでぇ〜す!」
     敬礼しながらにやにやと笑う怪盗。音もなく閉まっていく扉は何者をも拒み、静かに動き出す。カチカチと明滅する数字はどんどん大きくなっていって。
    「ど、どこに行くんじゃ? このままでは袋の鼠ではないか……」
     抱かれたままだった肩から手を振り払い、距離を取る。威嚇するように低い声を絞り出すと、怪盗はあくびをこぼしながら両手を頭の後ろで組んだ。
    「キミ、マジシャンでしょ? そういう凝り固まった考えだと、いつまで経っても三流なんじゃない?」
    「なっ、何じゃと!?」
     失礼な物言いに目を吊り上げるマジシャン。自分から離れた距離を詰め、噛み付くために口を開いた、ものの。組まれていた腕が解かれ、伸びてきた人差し指が唇に添えられる。
     びく、と肩を跳ねさせ固まり、窺うような目を向ける。そこにはもう片方の手で自らの唇へ人差し指を添えた怪盗が、薄っすらと笑みを浮かべていた。
    「ん、いい子」
    「…………、……」
     優しい声で不覚にもどきりと心臓が跳ねる。慌てて再び距離を取ろうとして、しかしまた手を取られることでそれは叶わなかった。
    「さぁ〜て、最後はど派手にいくよ〜!」
    「んあぁ……! どこに行くんじゃ〜〜!」
     バタバタと駆け抜けるスイートルームばかりが並んでいる廊下。その最奥、非常扉から飛び出せば足がすくむほどの高い場所へ出た。金属で作られた、足元が透けている外付けの非常用通路。ひ、とマジシャンの口から悲鳴が漏れる。
     しかし怪盗は足を止めてはくれない。そのまま階段の方ではなく、突き当たりの梯子へと向かった彼は、軽々と登っていってしまう。呆然としたまま、マジシャンはその様子を見つめるしかない。
    「……あれ、何してんの? キミもくるんだよ」
    「……はっ、なっ、何故じゃ!? ウチまで登る必要性はないじゃろ!」
    「いやいや、来てもらわなきゃ困るよ。……もしかして怖いの? なぁ〜んだ、稀代のマジシャン様も大したことないね〜」
    「〜〜〜っ! の、登ればいいんじゃろ!?」
     挑発だとわかっていても、自分の仕事にケチをつけられると腹が立つものだ。マジシャンは自らのチョロさに腹を立てながらも、震える手でしっかりと梯子を掴む。
     ひいひいと口から漏れる恐怖心もそのまま。えっちらおっちら上がり切れば、落ち着く間もなく再び手を取られる。
    「こ、今度は何じゃ……? もしや人質として使うつもりなのか?」
    「だぁ〜から、そんなことしないって。そもそもキミを置いていったら意味ないんだってば」
    「んあー、意味がわからんあっ!?」
     がくがく震えていた足を掬われる。背に添えられた腕は細さの割りには力強く、また膝裏に添えられた腕も男らしさが感じられて。
     状況が状況であるというのにマジシャンはときめきに襲われる。
    「あらら、もう追いつかれちゃったかな?」
     いやいやそんな場合では、とまた己のチョロさを叱責している内に、屋上をぐるりと囲む柵の前まで移動していた。
     遠くから聞こえてくる怒号は徐々に近付いてきている。このままでは捕まるのも時間の問題だろう、と斜め上の顔を見上げると、返ってくるのは不敵な笑み。
    「……ま、まさかお主、ここからっ」
    「あのね」
     さ、と青ざめるマジシャン。不安げに揺れる瞳が捉えるのはもちろん、未だ彼女の自由を奪ったままの怪盗だ。
     しかし彼は不敵に笑うことしかしない。ぎゅうと一回り小さな体を抱え直し、一歩を踏み出す。
    「キミが信じてさえくれれば、泥棒は空を飛ぶことだってできるのに」
    「そ、らを、飛ぶ……?」
    「そう。そんな魔法を使えるのは、何も君だけじゃないんだよ?」
     こつこつ、とヒールの音を立てながら何もない場所を上がる。そうして柵と同じ高さに立った怪盗は、目を丸くしたままのマジシャンに向けてにかっと笑ってみせた。
    「……、ふふ。そこまで言うのならやってみるがよい! ウチが見届けてやるぞ!」
    「にしし! そうこなくっちゃね!」
     投げ出される一歩は夜空に踏み出される。そのまま見えない道を駆け抜ければ、あらゆる場所から悲鳴や怒号が上がった。ちらりと視線を下に投げれば、ネオンに混ざるサイレンの赤。追いかけてくるそれが果たして追いつくことはできるのだろうか。
     ところで、何故自分はこんなところまで連れてこられたのだろう。予告状に書かれていた『煌き』とは一体何を指していたのか。ようやく心が落ち着いたところで、マジシャンは胸に居座る謎を解くために口を開きかけて。
    「あ、そろそろだな。よ〜し、ちゃんと歯を食いしばってね?」
    「んあ? 何じゃ急に、」
    「この道、ここで終わりなんだよね〜」
    「んあ……、んあ〜〜〜〜〜〜〜!?!?!?」
     ひゅ、と全身を襲う浮遊感。驚きと恐怖で怪盗の首へとしがみつくと、げらげらと笑う彼はマジシャンの脇下に手を差し入れる。ぎゅうと抱えられ、それに応えるようマジシャンの腕にも強い力が籠もった。
     間もなくして空に開いたパラシュート。暗い夜の中へと落ちていく二人の影は、やがて溶けて跡形もなく消えていった。
    【幼馴染】

    「……勝手に入るなと何度も言っておるじゃろ」
     ぬいぐるみで飾られたベッドの上。寝転がりながら携帯ゲームに没頭している幼馴染へ掛ける言葉は、日に日に厳しさを増している。今年で互いに十七歳。もう何を考えることもなく共に過ごしていい年齢ではないのだ。
     にも関わらず、この幼馴染は清々しいほど全く聞く耳を持たない。今日も今日とて人の自室へ勝手に転がり込み、我が物顔でベッドを占拠しているのである。
    「王馬! 聞いておるのか!?」
    「わっ」
     返事もしない王馬から携帯ゲーム機を取り上げる。そこでようやく夢野を見上げた彼は、不機嫌さを隠しもせずに唇を尖らせた。
    「また呼び方戻ってるし」
    「……戻るもなにも、これが正しい呼び方じゃろう」
     肩から提げていた鞄を学習机へ置き、溜め息混じりに言葉を返す。
     家が隣同士で親同士の仲がいい、なんて典型的なパターンの幼馴染。幼い頃から何をするにもいつも一緒で、ずっとこんな毎日が続くのだと信じてやまなかった。
     そんなわけがないと思い知ったのは、果たしていつ頃だったろう。
    「ねぇ、秘密子ちゃん」
     いつの間にやら背後に立っていた王馬が囁くように名前を呼ぶ。そっと絡め取られた指先を振り払おうとして、けれど寸でのところで叶わない。
    「オレの名前、ちゃんと呼んでよ」
     ほとんど変わらなかった手のひらが、今では一回りも大きい。背丈も体付きも、声だって今ではこんなにも違う。
     それを思い知る度に夢野の胸は締め付けられた。
    「……王馬、っ」
    「違う。そっちじゃない」
     握りしめられた手が力強く引き寄せられる。あっという間に腕の中に閉じ込められてしまい、夢野は声を詰まらせた。どくどくと激しい主張を繰り返す心音。それが果たしてどちらのものなのかわからないまま、時間だけが過ぎていく。
     十七歳になった王馬は男で、同じく十七歳になった夢野は女なのだ。いつまでも幼い頃と変わらない、ただの幼馴染ではいられない。
    「……秘密子ちゃん、」
     ぎゅう、と背中に回っている腕により力が込められる。縋るような指先が、乞うような声が何を求めているのか、夢野は嫌というほど分かっていた。だからこそ応えることができなくて、唇を噛むしかない。
     遠い昔に交わした約束。幼馴染という、呪いにも似た関係性の上で生まれたこの感情を、恋と呼んでもいいのだろうか。
     答えはまだ、見つからない。
    smy1824 Link Message Mute
    2018/11/10 16:31:07

    特殊パロディログ 01

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    本編及び紅鮭団他とは異なる特殊設定の王夢パロディログです
    世界観が異なる、またキャラクターの位置づけに異なる部分があります

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