エレメントゥム・マギア『プロローグ』『プロローグ』
『──おきて』
やわらかな声がする。大気を揺らすような穏やかな、それでいて切実な声がする。
『──起きて。目を、覚まして』
声は続ける。目を開けようとするが、心地よいまどろみは目蓋をやんわりと閉じさせたままにする。声の主が焦れた気配がした。
『起きて、目を覚まして。でないと、間に合わなくなる────!』
はっ、と燦花は目を覚ました。
なにか夢を見ていたような気がするが、なんとも言えない夢だった。『目を覚まさなければ間に合わなくなる』。そう言った夢の声だけが耳にこびりついている。
(なんだったんだろう?)
うーん、と首を捻りながら、燦花は時計を見て悲鳴をあげた。
七時五十分。
少々長い通学路を考えれば、遅刻ギリギリの時間だ。
「うっわ、やばい!」
燦花はバタバタと制服に着替え、通学バックをひっつかみ、玄関を飛び出す。
後ろからかけられた母親の小言は聞き流して、自転車に跨がり全速力でペダルを漕ぐ。
教室にたどり着いたのは、朝のホームルームで担任の先生が教室を訪れるのとほぼ同時だった。
先生が苦笑する。
「珍しいな、八代。夜更かしはそこそこにしとけよ」
「はぁい」
しょんぼりと肩を下げて自分の机につくと、隣の席の幼馴染みが目を瞬かせていた。
「なあに、瑞希?」
「いや? 燦花が遅刻って珍しいなって。なにかあった?」
首をかしげる瑞希のショートヘアーがさらりと肩を撫でる。
夢の中の声が脳裏を掠めた。
「あ、あのね」
「うん?」
「夢を、見て──」
そこで、始業のチャイムが鳴った。燦花ははっとして口をつぐみ、手のしぐさと表情で『あとでね』と瑞希に伝える。
それに頷き返しながら、瑞希は胸に去来した一抹の不安を振り払うように、固く目を閉じた。
今日の午前は移動教室が多く、なかなか時間がとれなかった燦花が瑞希とゆっくり話ができたのは、お昼休みの時間だった。
「──夢?」
「そう、夢。──目覚めなきゃ、間に合わなくなるよ、って言われる夢」
そう告げた瞬間、瑞希の顔が凍った。やはり変なことを言っただろうかと何か言いかけた燦花を遮って、瑞希はふっと笑った。
「なんだ、そんな夢。早く忘れてしまいなよ。きっと、朝遅刻しそうになったから見ちゃったただの夢だよ」
「そ、そっか。そうだよね!」
瑞希につられるように笑って、燦花は他愛もない話を始めた。なにもかもいつも通り。
そう、疑いもせずに信じていた。
部活が少し長引き、燦花が学校を出る頃には日は暮れかけていた。瑞希は部活に入っていないため、終業とともにさよならと手を振って分かれている。
(急がなきゃ、真っ暗になっちゃう)
チェーンをはずすのももどかしく感じながら自転車に飛び乗り、勢いよくペダルを漕ぐ。びゅおうと耳元で唸る風が冷たくて、燦花は首をすくめた。
その瞬間。
ごうっ、と明らかに異質な風が吹いた。驚いて風の吹いてきた方へ顔を向ける。
電車の踏み切りの、その向こう。
そこには。
見慣れない服を身に纏い、見慣れない道具を手に持った、瑞希によく似た容貌の少女が立っていた。
「……みず、き……?」
思わずあげてしまった声に、少女が振り向く。
その顔がよく見えるか見えないかというタイミングで、電車がふたりの間を裂いた。
じれったい思いで燦花は踏み切りの向こうを睨み付ける。けれど、電車が去ったそのあとには、踏み切りの向こうの少女は消えていた。
「……なんだったの……?」
自転車を止めたまま、燦花は呆然と、少女がいた辺りを見つめていた。
to be continued