紙コップの秘密「たまには二人で抜け出して、真夜中のデートなんてしてみたいよなぁ」
「駄目に決まってるでしょ。部下に示しがつきません」
うっかり出てしまった風を装って声にしてみた桜備の希望は、隣に座る愛しい恋人ににべもなく断られた。予想通りである。
「だよなぁ」
業務中はもとより、業務とプライベートの狭間にあるような時間であっても、火縄は中隊長の相好を崩さない。この上なく頼もしい部下なのだが、恋人としては、時折、ほんの少しだけ構ってもらいたくもなるのが正直なところである。
大きく広げたシートの上に胡坐をかき、1本だけですよと念押しの上で許されたビールを片手に見上げた先には、満開の桜と雲一つない青空が広がっていた。
桜備の隣で律儀に正座をしている火縄の前には、大きな重箱がいくつも広げられていた。ちょっとしたオードブルのように整然と盛り付けられた彼の手料理はどれもこれもが美味で、口にする者を幸せにしてくれる。
同じシートに座る隊員たちは、花より団子で我先にと料理を取り分け、ひと時の安らぎを得ている。森羅とアーサーは日課のように悪態をつきじゃれ合い、環はラッキースケベられをいかんなく発揮し、マキとアイリスは女子トークに花を咲かせている。ここにプリンセス火華が混ざっていることは大目にみよう。
彼らの騒々しさには、こんな青い空がよく似合うと桜備は思う。
時を止めることは、誰にもできない。
火縄が取り分けてくれた唐揚げを咀嚼し、味わう。その味をビールで流し込むことはしない。
彼の料理には余韻があると思うのは、欲目だろうか。馴染みの味となった料理には、彼の生き様が垣間見えて、胸の奥をほんの少し摘まれるような気がするのは、彼と恋に落ちているからだろうか。見事な桜がもたらすひとときが、こんな感傷じみた気持ちにさせるのだろうか。
桜備は、この一瞬を強く生きたいと、そして強く生きてほしいと思う。人類を救う夢と、救ったその後の未来に向けた夢への静かな情熱が胸の奥で騒ぎ出す。
未来に向けた想いをビールで飲み込んで、桜備は空を見上げる。
「いい天気だなぁ」
「そうですね」
キャップを被っていない火縄の胡桃色の柔らかい髪がサラサラと流れる様を、桜備は横目で眺める。「業務外ではキャップを被らないでくれると嬉しい」と火縄に伝えたのは随分前のことだ。
硬質なイメージを与えがちな火縄の、実は柔らかい髪の質感だとか、自分よりも白い肌だとか、それを知り触れてもいいのは自分だけだという独占欲。それらを噛み締めたい。洗いざらしの髪を、なんの隔たりもなく見ていたい。
それほどに、ただ単純に、好きなのだ。
当時の火縄は不思議そうにしていたが、独占欲の話をした途端に「強欲な人ですね」と微笑んで、桜備のこだわりを了承したのだった。
これは、二人だけの暗黙の了解のつもりである。
部下たちの手前、表面上は鉄壁の中隊長であるが、キャップ未着用ということは火縄もそれなりに気を緩めているのだろう。
桜を眺める彼の横顔が柔らかい。
その頬に唇を寄せたい気持ちが湧き上がったが、桜備はまたもビールで想いを流し込んだ。
来年も、再来年も、ずっとずっとその先も、こんな風に彼と並んで桜を見たい。
その未来のためにも、生き抜く自信は、ある。
第8特殊消防隊総出で繰り出したのは、特殊消防教会敷地の裏手にある大きな一本桜の下である。裏通りに面しており、特殊消防教会への出入り口がないことから、毎年満開を迎える時期には一般市民にも開放し、近隣住民に愛されている。
雲一つない青空と、青空に向かってのびる桜の大樹は今年も美しかった。
「桜備大隊長!」
空になって隅に追いやられた重箱に代わり、どこに隠していたのかと思えるほどの大きなスクエア型のケーキが持ち込まれる。
ケーキの上には、カットされ綺麗に盛り付けられた色とりどりのフルーツに、大きなロウソクが三本。真ん中には「HAPPY BIRTHDAY」と書かれたクッキープレート。
ケーキを囲む隊員たちの笑顔。
「これ…いつ用意したんだ?」
「大隊長がトレーニングと書類確認で大隊長室に缶詰めになっていた昨日、全換気扇をフル稼働させ、全ての窓を大開放した上で、総員で製作にあたりました」
むぅ…と桜備は唸る。
昨日はやけに大量の書類が回ってきた。次々に持ち込まれる束に、目の前にあるのは確認書類ではなく廃棄待ち書類ではないかと思った。
そう思いたいほどに、書類が積まれた。
翌日以降に回しても良さそうなものですら、火縄中隊長の眼光は許さなかった。
その眼光には理由があったのだ。
缶詰めになっていたのではなく、意図的にされていたのだ。なんたる飴と鞭だとは思ったが、それも火縄らしい。
「ロウソクに火を」と火縄から指示されたマキが、ライターから生み出したプスプスで火を灯す。「普通でいいのに…」と真顔で呟く火縄に、皆笑いを堪える。
桜の木の下で、大きなケーキに大きなロウソクを立てて、全員で誕生日を祝う。
初めてのことだ。
一昨年は、二人だった。
去年は、四人だった。
今年は、七人になった。
理由はどうあろうとも、第5から足を運んでくれる人間もいる。きっと、これからも増えていくのだろう。
アイリスの合図で始まった祝いの歌声の中で、桜備は息を吸う。
吐き出した息と共に消えるロウソクの火と、幾つものクラッカーが鳴る音と、おめでとうの嵐。
たまらないな、と思った。
生き抜く喜びが胸に湧き上がった。
「ありがとな」
笑顔を向けた先に、また笑顔がある。
第8は、家族だ。
時を止めることは、誰にもできない。
この一瞬を強く生きたい。
この喜びは生き抜く力になる。
夢の先の未来を、彼らと。
……彼と。
改めて湧き上がる強い想いを胸に、桜備は火縄に目を向ける。すると、桜備を見ていたらしい火縄と目が合った。
「賑やかな家族になりましたね」
目元をほんの少し柔らかく綻ばせてそんなことを言う彼に、桜備の胸がキュンと鳴った。
「そうだなぁ」
桜備は、照れ隠しのように残り僅かになったビール缶を傾ける。
「光が満ち溢れて花がいっせいに咲き始める季節に、あなたは生まれたんですね」
桜備にしか聞こえない穏やかな音量で紡がれた言葉に、盛大にむせてしまった。
すぐさま背中をさすってくれた火縄は、更に「あなたは俺たちの光です」と付け加えてきた。
切り分けられたケーキは、甘くて美味しくて、ほんの少しのビールの苦味と、ほんの僅かな涙の味がした。
陽の光が色を変える前に花見と誕生会を終えた面々は、それぞれの業務にあたっている。
大隊長室に戻った桜備がトレーニングを開始した頃、コーヒー入り紙コップをトレイに乗せた火縄が入ってきた。
「よかったら、冷めないうちにどうぞ」
売れ残りだと分かっていながら買い取っているキャップを被った火縄は、完全に中隊長モードに突入しているはずである。しかし、コーヒーをデスクに置き、すぐに退室した彼の後ろ姿からは、それだけではないものが感じられた。
「紙コップ…?」
自分も含め、通常は第8専用マグカップや湯飲み茶碗を使用している。紙コップを使うこともあるが、その頻度は低い。
違和感を感じながらも、桜備は紙コップを手に取った。
インスタントではない、すっきりとした苦味と仄かな酸味が口の中に広がる。桜備の好きな味だ。
誕生日は明日だが、今日は何もかもが特別仕様なのかもしれない。敬愛する両親が祝ってくれた誕生日に似た胸の高鳴りに、どうしても頬が緩む。
あっという間に紙コップの底が見える。
そして、空になった紙コップを目にした桜備は、その場にしゃがみ込んだ。
一気に血が全身を駆け巡る。
鼓動が早鐘のように体中で響いている。
「火縄……くっそぉ……」
思わず紙コップを潰してしまい、ハッとして元の形に広げる。
シワシワになった紙コップ。
その底には、マジックで書かれた文字があった。
『今夜 屋上で』
なんて奴だと思う。
桜の木の下で戯れを装い言ったことをにべもなく却下しておきながら、こんな仕掛けをしてくる。
一番近い場所にいながら、桜備がまだ知らない火縄を見せてくれる。もう忘れたと思っていた胸のときめきを引っ張り出して、更に上書きしてくれる。
きっと、この屋上でのデートが火縄からの誕生日プレゼントなのだろう。
桜備はバーベルを上げる。筋肉を動かさねばどうにかなってしまいそうだ。
火縄はどんな顔をして紙コップの仕掛けを作ったのだろう。
二人で抜け出す真夜中の屋上デートに想いを馳せて、桜備は汗を流す。