咄嗟「わッ」
「うわァッ」
ここの曲がり角は見通しが悪い、だから人が通る度に驚かせてしまう。
「驚いた?」
相手の見事に硬直した様子に、ニヤつく顔を抑えることができない。
「エゴロワさん、また貴方ですか。びっくりさせないでくださいよ」
「ははは、白月くんは反応が新鮮で楽しいなあ」
多世界調査機関は天国のような場所だ。
まず、充分な衣食住が完備されている。明日の日への不安などない。暖かい食事をとり、暖かいシャワーを浴び、暖かい布団に入ることはこの世界では特別なことではないのだ。
次に、職に就くことができる。以前いた世界では危うかった研究の道が、まだ続けられるとは。しかも最高に進んだ設備と知識を提供された上で、だ。朝から晩まで、好奇心のまま知と理を貪ることができる。
最後に、人がたくさんいる。多様な世界から人が集まっているから、リアクションも様々で面白い。素直でスレてない人が多く、イタズラし甲斐もプレゼントし甲斐もある。
私は人を驚かせるのが好き、喜ばせるのはもっと好き。自分の存在が他者に前向きな作用をもたらしたと分かると、えも言われぬ享楽を感じる。
私には今、もっとも喜ばせたい人がいる。
指紋認証の扉を開け、虹彩認証のドアを開き、自分の研究室に入る。
明かりは着けない、非常灯を頼りに中を巡る。設備点検異常なし、被検体の状態良好。
私が喜ばせたいのは、博士さんだ。
彼女は昔、人間の意識を別の体へ移す研究をしていたらしい。研究内容自体に興味はなかったが、現在は調査員の為の技術開発に忙しい彼女の代わりに、こっそり意志を継いでやろうと考えた。世話になった彼女の為に恩返しがしたかった。
生物学を専攻していた身、博士さんの残した研究記録も役立って、苦節しながらも存外早めに成果は達成した。
「参ったぞ、エゴ坊」
「博士さん、来てくれたんですね。いま開けます」
腕や足をそこかしこにぶつけながら、出入り口まで走る。迎え入れた博士さんは、可愛らしく利発そうな目で私を見上げていた。
「小生に照覧入れたいものがあると言っていたな」
「はい! こちらです」
分厚い紙の束を博士さんに手渡す。高鳴る心臓の鼓動が紙ごしに伝わりそうだ。
「これは、研究論文か」
「その通りです。実は私、博士さんの研究テーマを引き継いでいたのです」
ここでえっへん、と胸を張る。
「以前に博士さんが行ったのは空の体、人工の肉体に意識を入れるやり方でしょう。でも此度私が試したいのは、既存の人間を使う方法です」
「既存の、人間?」
「ええ。他の人の意識を乗っ取ってしまうんです。記憶をそっくり書き換えれば良いんですよ」
そちらの方が確実で手早いと、私は結論づけた。
「元の体の持ち主の意識はどうなる」
「消えます」
博士さんの視線が下に落ちた。論文を読んでくれてるのかな。
「博士さんのお力添えあれば、すぐにでも臨床まで持って行けます。どうですか、素晴らしいでしょう」
ニッと笑ってみせる。ほら早く博士さんも喜んでくれ。
「許されるはずがないだろう。そのようなこと」
キッとこちらを向いた博士さんは、目尻のつり上がった目で睨んできた。
「え! どうしてですか?」
すると、博士さんが怒鳴った。
私を咎める言葉がつらつら連なっていく。何で怒られてんだろ、私。多分論理的なことしか言ってないと思うけど、ほとんど理解ができない。
途中から何を言われたかは記憶に残っていなかった。気づけば布団の上で、枕を抱えて座っていた。
博士さんも同じか。私はいつも、本当に喜ばせたい人に限って見限られる。親も、親友も、恩師でさえも。
毎昼設定している目覚ましのアラームがなった。眠らぬまま朝を越してしまったようだ。身支度整えぬまま、自室を出る。
いつもの曲がり角。向こうから誰か来る。
「わっ」
「ん……ああ、エゴロワさんですか」
「今日は驚かないんだね。白月くん」
「そう何度も引っかかりませんよ」
つまんないの。
そう思った次の瞬間には、白月くんの首元に手が伸びていた。
喜ばないなら、驚かないなら。
「え。エゴロワさん?」
指に少しずつ力を込める。掠れかすれの呻き声が漏れ、喉がはくはくと喘ぐ。もっと、もっとだ。もっとよく見せろ。
黒い大きな「手」が少年の身体を掴む。
怯えろ泣け慄け怒れ苦しめ憎悪しろ
手と「手」の中で少年の肉体が痙攣して固まった。
これが恐怖しきった人間の姿か。額から流れた汗が、横に開いた口の中に入る。
背後から誰かの声がした気がした。がつん、という音と共に意識が遠のく。
次に目が覚めたのは、医務室のベットだった。
「おはようございます。私どうなったんですか?」
「尋ねたいのは小生の方だ」
カーテンを開け、博士さんが傍に立つ。
「イタ坊は先日の事は覚えていない。オディ坊の話によれば、お前がイタ坊に乱暴しているのを目撃し、殴ってここに連れてきたそうだ」
「ふーん。どうりで後頭部が痛い。後遺症のこってませんかね? 仕事を忘れたかもですね」
「黒い手、とは一体なんだ」
白月くんの身体を掴んだ巨大な手。アレを動かしたときの感覚が呼び起こされる。心臓が冷えるような、血管がささくれだつような、脳が寒天に包まれるような。
そうか。
「私もついに、キズ持ちか」
キズの何たるかを説明した。キズという、精神から発現し心を変容させる異能。キズ持ちという、社会のゴミ、お荷物、災害。
「私はもう人間ではありません。だんだんと『キズ持ち』という生き物に成り果てるでしょう」
「快方の手立ては」
「少なくとも、私の世界では見つかっていません」
博士さんの視線が下に落ちる。床を見つめているワケでもないだろう。
「追い出すなら迅速にどうぞ。ただ私は、まだ機関にいたいと思っています」
博士さんの返答を待つ。待ちながら。
心中苦悩しているだろう博士さんの、彼女の姿に、私は密かに享楽を感じていた。