秘密 夜半、じっとりと寝間着の背中に汗が染みるのを感じて目が覚めた。
ああまたか、と目蓋を持ち上げる。また今夜も眠れないのか。
ここのところ不眠に悩まされていた。何度も繰り返し見てしまう夢の所為だ。夢の中で、僕はあのひとの刀だった。目の前が真っ赤に染まっていた。確かに記憶しているよりもずっとずっと赤かった。
言えない秘密を抱えても、ここに来てから僕は僕として力を奮ってきた。それでもこうして夜な夜な苛まれるのはきっと、先日の出陣で味方の血を流させてしまったからだ。あのときは僕の袖も真っ赤に濡れて、……ああ、思い返すのはやめにしよう。赤い記憶の詰まった箱の蓋を開いてしまえば、心象はざわめいて落ち着かない。
ため息をひとつ吐いてみる。いっそ酒の力でも借りてしまおうか。その場凌ぎかもしれないが、酔ってしまえば今夜は眠りにつける。
小さい方のキッチンに降りてくると、夜食の握り飯を食べている前田がいた。こんな時間なのに戦闘時の装束を着ているから、夜の警護当番だったのだろう。
「松井さん。こんばんは、夜更かしですね。」
そういった意図がないことはわかっているが、これからしようとしていることを咎められたようにどきりとする。子どもの見た目をした彼に言われるのが少し可笑しくもある。
「ああ、眠れなくてね。」
「お茶でもいかがですか?僕はもう交代したところなので、お淹れしますよ。」
「いや、その……酒を飲もうかと。」
そう伝えるのが何となく後ろめたくて目を逸らしてしまった。眠れないからと何かに頼るのが子どもっぽいような、幼い見た目をした彼にそんな弱さを晒すのがみっともないような。前田は少し黙ってから
「では、僕もご一緒します。」
と答えた。
前田は手早く握り飯を食べ終えると、飲みさしの日本酒の瓶が並んだ棚の前に移動した。棚を探る手付きは慣れないものに見えたけれど、目当てのものははっきりしていたみたいで、ほどなく一つを取り出した。僕も日本酒の棚にはあまり触らないから詳しくないけれど、確か大典太光世のものだ。
「これは僕が断りなく手をつけてもよいそうなので、いただきましょう。僕がお作りします。」
お茶割りがいいですね、と言って前田はてきぱきと湯を沸かし始めた。流れに任せて賛同したけれど、僕はとても驚いていた。意外だった。僕はどこかで飲酒を咎められるのではないかという気がしていたし、前田は宴会では乾杯のグラスに口をつけるものの、それ以外の場面で飲む姿を見かけないから好きじゃないのかと思っていた。
「嫌いなわけではないのですが、あまり飲まないようにしています。僕の身体に毒とはならないとはいえ、任務のために酩酊は望ましくありませんからね。」
湯が沸くのを待ちながら尋ねてみると、前田はそう答えた。今まさに酩酊したくてキッチンにやってきていた僕には少々耳が痛い。
「それと……僕には、悪い飲み物という印象がどうしても強くあるようなのです。」
ふうん、と相槌を打って手鍋の中を覗き込む。ぶくぶくと沸騰していた。沸きましたね、と前田は火を止めて湯をポットに注ぐ。
「それって、ここに来る前の記憶のことかい?」
食器棚から湯呑をふたつ出し、前田の前に並べる。
「ええ。お酒で体調を崩したり、人が変わってしまったりする人たちを何度かそばで見てきました。」
前田は湯呑と急須を湯で温め、一度湯を捨てた急須に茶葉を入れる。洗練されたその動きを僕は間近で見て、美しいと思う。美しい仕草は心をなだらかにする。
「そういう人を見てきて、前田は幻滅しなかったの。」
「そうですね。お酒で失敗するのは避けたいものですが、それほど何かに頼りたかったということでしょう。だからこそ僕たちが守らなければならないのだと今は思います。」
そう、と答えて、僕は滑らかに動く前田の手元を眺めていた。空にした湯呑にお茶が注がれる。そう、酒なんかに頼らずにはいられない弱い人を、前田が突き放すことはないんだね。六分目ほどまでお茶の入った湯呑へ日本酒を注ぐと、ふわりと上品な香りが立ち上った。
「いい香りだ。」
「そうでしょう。さあ、どうぞ。」
礼を言い、ふたふりで湯呑に口をつける。口当たりがいい。温かくて、飲み下すと消化管のつくりがよくわかるようだ。酒よりもお茶の方が多いはずだけれど、腹が空っぽだからすぐに頬が火照る。まろやかな味わいがするそれを、ゆっくりと静かに飲んだ。
「これも、悪い飲み物かな。」
半分ほど湯呑の中身を減らしたところで聞いてみた。
「適量ならば悪いばかりではありませんよ。それに、何かに頼りたいことがあるのは人だけではありません。」
湯呑を傾けていた前田が、口縁から唇を離して答える。
「うん、そうだね。」
やはり前田には、僕の後ろめたさに気付かれているだろうか。まるで見た目と立ち位置が逆になったようだけれど、身体の内側を温める酒が恥じ入る心の動きを鈍くする。
「僕がこんな時間にお酒を飲んだこと、いち兄には内緒にしてくださいね。僕たちだけの秘密です。」
頷き、フ、と笑いを漏らす。
「きみも秘密を持つんだね。」
思いがけないことだったけれど、秘密を共有するというのは初めてだ。小さな秘密でも、互いに肩を預け合う気分は悪くない。残りの酒を時間をかけて飲み干した。眠気を誘うほどの量には足りないけれど、十分だ。
「前田。ありがとう、おかげでよく眠れそうだよ。」
「それは何よりです。おやすみなさい、片付けておきますから。」
「じゃあ、お願いするよ。」
また夢を見るかもしれない。僕の抱えるものはまだ誰にも分けることができない。でも、秘密を分け合うことのできる相手はいる。前田がどこまでお見通しだったのかはわからないけれど、僕の胸は軽やかだ。ほかほかと温かな内臓の所為か血の巡りも先程より良い気がする。これなら本当によく眠れそうだ。
明日、お礼をしよう。たとえまた上手く眠れなくても、秘密を共有してくれたことがありがたかったから。だから、僕たちはきっと新しい秘密をともに持つことだってできるだろう、と思った。