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    漂泊 できる限り物音を立てぬように気を遣いながら、ネハンはリノリウム張りの廊下を歩んでいた。
     曇った窓ガラス、床に薄く均一に積もった埃や喉の奥に絡まるような湿気から、長い間ここに人の出入りがなかったことが窺える。
     しかし隣接した施設に、“残党ども”がたむろしていないとは限らない。元々滞在していた構成員が寝泊まりしていたのは併設の工場内であるし、大勢で落ち延びてきたのでなければ、わざわざこちらを利用することもない。
     マフィアとはいえ、気味が悪いのだろう。多くの無辜の人間が死んでいった場所で、息を潜めて過ごすというのは。
     ことり、ことりと、杖――気休めに先に布を巻いてある――を徐につきながら、ネハンは一切の迷いなく進んでいく。少し薄汚れているだけで、どこも見知った光景と大して変わらない。だが、滑稽なほどに静かだった。



    ***

    「ネハンの護衛を……俺が?」
     依頼主であるらしい男ではなく、グランの方が頷く。ネハンは机に向かって書き物を続けていて、戸惑うシスに一瞥をくれもしない。

     頼まれてほしいことがある、という連絡を受けて、星屑の街を訪れたグランが呼びつけられたのは、ネハンの居室だった。
     これまでも薬の原料や、医学に関する書物の収集を依頼されることはあった。しかしそれらは全て街の代表であり、グランの知己でもある双子を通じて行われていて、ネハンに直接呼ばれるのは、シスが覚えている限り初めてのことだった。
     するとしばらくしてから、今度はグランがシスを呼びに来た。無意識の内に緊張しながら訪れたネハンの部屋で、シスは思いもよらない頼みを、グランの口から聞かされたのだ。

     頼みごとをする立場としてはふてぶてしいような態度のネハンに対して、シスは隠し切れない困惑を、慎重に言葉に表していく。
    「どうして俺に、護衛を任せることにしたんだ?」
     よりにもよって、という言葉を飲み込む。
    「……俺は、隠密行動ができて、単独である程度の戦闘能力を有している者なら誰でも構わないから同行者を派遣してほしいと伝えた。お前を指名したのは、彼だ」
     今、この部屋にいるのは三人だけだ。
    「団長……」
     グランはばつが悪そうに頬を掻く。
    「ネハンの依頼内容を聞いて、一番適任なのがシスだと思ったんだよ」
    「ムゲンは……? 街の外に出かける時はいつも、ムゲンを伴っているだろう」
    「ムゲンは駄目だ」
     シスの言葉を遮るような勢いで、ネハンはピシャリと言い放った。そこで初めてペンを置き、シスの方へと顔を向けた。
    「説明が足りていなかったな。同行を依頼したいのは、マガザンの古い研究施設への潜入だ」
     『マガザン』と聞いて、シスの目の色が変わった。
    「薬品工場を併設した施設だったが、少し前に工場は移転していて、そこは放棄されて長いはずだ。とはいえマガザンの所有していた施設があちこち差し押さえられている現状、潜伏している者がいないとは限らない。……ムゲンは、忍び込むのには向いていない。わかるだろう?」
     椅子に座らせた体を傾け、見上げてくるネハンは、顔色ひとつ変えずに『説明』をする。
     ムゲンの体格がこっそり何かをするのに向いていないのは勿論だ。しかしネハンがこの街で暮らすようになった経緯を考えれば、マガザンの手の者にムゲンを近づけたくない心情は、懇切丁寧に聞かされなくても理解できる。
    「ムゲンでは駄目だ。だが、お前でなくても構わない」
     団長に目配せする。目を合わせた団長は、先程よりも深く頷いた。
     ネハンが「誰でもいい」とは言っても、命を狙われている者を、狙う者の元へと送る仕事だ。その上、ネハン自身も清い身分ではない。場慣れしていて、かつ事情に通じている者が任務に当たるべきだ。
     とはいえ、カトルやエッセルではマガザンとの因縁が濃すぎる。同じ十天衆として、決して侮る訳ではないが、有事の際には二人よりも冷静に動けるという自負がシスにはあった。そしてそれは団長も同じ考えのようだ。
    「ネハン。お前の依頼、俺が承る」
     ネハンの瞬きが、刹那、止まった。
    「……十天衆の手を煩わせる程のことでもない」
    「俺は今、十天衆の仕事を請け負っていない。グランの騎空団の団員として、お前の仕事の依頼を請ける」
     ネハンの視線が揺らぐ。注視していなければ、まるで気づかない程度に。
    「お前は、誰でもいいと言ったな。では、俺が同行してもいいはずだ」
    「…………」
     ネハンが逡巡する姿は、そのままシスを拒む姿として目に映る。それでもシスは、ネハンの言葉をじっと待った。
     あるいは、観念することを。
    「ネハン、その場所には、どうしてもネハン自身が行かなければいけないの?」
     無言の押し問答が繰り広げられようというところに、グランが口を差し挟んだ。
    「何か取ってこなければいけない物があるなら僕たちで取ってくるし、壊したいものがあるなら壊してくる。それじゃあ駄目……なのかな?」
    「それは……」
     ネハンが言葉を詰まらせた。
    「俺は施設の中を熟知している。要らぬ交戦をせずに済む」
    「でも仮にマガザンの残党が潜んでいるなら、施設を制圧すれば、隅々まで調べて回る余裕ができるよね?」
     グランはその場にしゃがみ込み、目線の高さをネハンに合わせ、問い尋ねる。
    「僕たちの騎空団は空域の治安維持にも協力しているから、マガザンの残党がいるかもしれないと聞いて放っておくことはしたくない。だから、できればネハンには個人的な要件の依頼主じゃなくて、マガザンについての情報提供者として、この街で待っていてほしいんだ」
    「『お願いごと』にしては、有無を言わせない物言いだな。俺が何かしでかさないか、疑っているのか」
    「いやいや、そんなことはないよ」
     ふにゃりと笑ってみせるグランに対して、ネハンは厳しい表情を崩さない。
    「僕が提案できるのは二つ。一つは、まず僕たちで施設を制圧してから、確かに誰もいなくなった場所にネハンを連れて行く。二つ目はシスが同行して、ネハンが用事を済ませる手伝いをする。その後に僕たちが施設に踏み入る。どう?」
     ネハンを相手に一丁前に駆け引きをしようとするグランを、シスは黙って、しかし内心はらはらとしながら見守っていた。グランの腹積もりの中には、ネハンに対する思いやりも当然あると知っているが、彼がどう捉えるかはわからない。
     やがて、ネハンはひとつ息をついた。
    「俺が甘かったな。……団長さんの想像通り、あの場所にある『用事』は、できれば衆目に触れさせたくないものだ。そして、攻め入られて自棄を起こした連中に焼き払われてしまっても困る。幸い回収ができる物だ。二つ目の提案を受け入れよう」
    「うん、わかった」
     立ち上がったグランと、ネハンの顔を順繰りに見遣って、シスは背筋を伸ばした。
    「島に大きな艇の発着があれば、マガザンの者がいた場合に警戒される恐れがある。移動用に小型艇の手配も頼めるか」
    「わかった。ここの港から発てるように、お願いしてくるね」
     先んじてグランが部屋を出て行く。ぱたりと扉が閉まると、小さな溜め息が漏れ聞こえた。
    「ネハン……すまないが、堪えてほしい」
    「すまない? 頼みごとをしているのは俺の方だ。お前が『すまなく』思う道理などない」
     そう言って、ネハンは机の上をこつこつと叩き示す。覗き込むと、そこには細い線で簡易な地図が描かれていた。
    「小さな港町から少し離れた場所に村がある。その裏手にある森の奥が目的地だ。建物が並んでいて、大きい建物が薬品工場と労働者の宿泊施設、小さい方が研究施設として使われていた。用があるのはこっちの研究施設の方だ」
     細い指が、紙の上に引かれた図をなぞる。指先は、やがて大小並んで描かれた四角形の、小さな方の上で丸を描く。
    「お前の団長もお察しの通り、この依頼は俺のわがままでしかない。そのわがままに付き合って、せいぜい罪滅ぼしをしたい気持ちでも慰めるといい、シス」
     静かに、淡々と語られる言葉。感情を伴って聞こえないそれは、最早シスの皮膚も心も傷つけない。
     では、ネハンの方はどうなのだろうか? 持って回った言い方で自他を引っ搔いて、確かめたいものがあるのか。
     青白い面差しを眺めながら、シスはぼんやりと考えていた。


    ***

     艇の操縦席はシスに奪われてしまった。自分で運転すると主張したものの、『その身体では咄嗟のことに対処できないかもしれないだろう』と言われてしまっては、ネハンは黙るより他なかった。確かに、己の落ち度でこの男を空の底に放り出すようなことがあってはならない。
    「十天衆さまに送迎まで行わせて、大した身分だな、俺は」
     前後に座席があるだけの小さな艇に乗り込めば、視界はシスの後ろ姿で埋まってしまった。白い外套が風を孕んで大きく膨らんでいる。
    「お前が考えているほど、十天衆は大それた存在ではない」
     風切り音に紛れてついた悪態は、しっかりシスの耳に届いていたらしい。
    「そうか? なにぶん、大仰なことを聞かされていたものだからな」
     十天衆の動向を忌々し気に話していた幹部共の姿が頭をよぎる。頭目を名乗る金髪の男も、初めて会った時に十天衆の理念やら何やら、ご大層に語っていた気がする。
    「騎空団の方も。まともに雇うとしたら、一体いくらかかるんだか」
     今回の依頼の報酬は、情報の提供で「チャラ」にされてしまった。満足な額ではないだろうとは思っていながらも、多少の用意をしていたネハンは虚をつかれる格好となった。自尊心というものが健やかに具わっていれば、面目丸潰れといったところか。
    「金稼ぎのためにやっているんじゃない。特別高いということもないだろう」
     目の前の人物が騎空団の報酬の相場に明るいなどとは到底思えなかったが、あながち嘘という訳ではないのだろう。十天衆も、あの騎空団も。グランのねじの緩んだような笑顔と、星屑の街の質素な暮らしぶりを順繰りに思い浮かべた。
    「俺としては、清廉な奉仕をしていても、巨大な組織を立ち行かせる資金繰りの方に興味があるな」
     欲に塗れた人間の思考の方が余程理解できる。かと言って、理解できぬものを、無理に解したいという気持ちもない。彼我に「決定的な違い」があればこそ、ネハンは精神を保っていられる。そう思っている。
    「お前が首に値札を提げるような真似をせずに済んでいると聞けてよかったよ」
    「……ネハン」
     低く、空気を押し出すような声で名前を呼ばれた瞬間、つむじ風が吹き抜けた。
    「……機嫌が悪いのか?」
     乱れた前髪を撫でつけながら、ネハンは訝し気に眉を顰める。
    「……? いや……何故そう思う?」
    「口数が多い。お前の平生を、よく知っている訳でもない、から……思い違いかもしれないが……」
     シスの語尾が濁っていく。
     ネハンは突如として、自らの感情が丸裸であったことを気づかされたような感覚に陥った。衝撃が薄れると、居心地の悪さが全身に侵襲する。
     今に至るまで不機嫌な様を明け透けにしていたのを気づかずにいたこと。気づかずにいたならまだしも、気づかされてしまったこと。シスが自分の機嫌を窺っていること。全てが癪に障った。
    「今、気分が悪くなった」
     屁理屈を捏ねる子どものような物言いだ。子どもが本当にこのような屁理屈を捏ねるのかなんて、知りもしないことだが。ただ、それまで自分の心の動きになど一切気を払っていなかったネハンの実感としては、間違ったことは言っていない。
    「そうか……今暫く耐えてくれ。仕事はしっかり果たす」
     耳を僅かにしな垂れさせ、シスは口を噤んだ。
    「……別に、お前が随伴するのが嫌な訳ではない」
     胸を騒めかせるものの正体を、ネハン自身も捉えかねている。わからないから蓋をして、見ないようにしているというのに、誰も彼も覗き込んでこようとするから、自分でも直視せざるを得なくなる。
     ごうごうと唸る風の中で、呟きが耳に届いたかは定かではなかった。


    ***

     降り立った港町で情報収集をしたところ、数ヶ月前に荒くれ者の集団が渡航してきたという証言を得られた。
    「もう何年もあんな人たち見かけなかったから、安心していたんだけど……」
     港町での話を聞いて、村の方へは立ち寄らないことに決めた。シスがネハンと共に潜入するのとは別行動で、グランたちが施設を差し押さえにやってくる計画になっている。日が落ちたタイミングで秩序の騎空団の者も伴って強襲をしかけるので、相手に察知される可能性は、最小限に抑えたい。
     ネハンの身体には過酷な行軍を強いてしまうが、やや迂回して目的地へと向かうことになった。
     生い茂った樹々の下草は奔放に伸びている。この辺りを人が行き来した形跡はない。
    「大丈夫か……? 抱えて行っても構わないが」
    「いい。その体力は温存しておけ」
     そう言って、杖をついたネハンの体が前に傾いだ。地面がぬかるんでいたようだ。
    「っ、と、大丈夫か」
     片腕に抱えてなんとか支える。呆気なく引き寄せることのできた体躯は、本当に抱えていけるように思えた。
    「大丈夫だ。……急ごう。騎空団の者たちが来る前に、用事を済ませねば」
     体勢を整えたネハンは、すぐに再び歩み始める。せめてその行き道を踏み固めようと、先程よりも狭い歩幅で用心して進むネハンに慌てて先行する。
    「なあ、ネハン」
     後ろで足を滑らせたりしていないか、しきりに振り向きながら、ずっと気がかりに思っていたことを尋ねた。
    「お前は一体、何のために無茶を犯そうとしているんだ? そんなに大事なものがあるのか……?」
     ネハンがゆっくりと顔を上げた。
    「それは――」
     薄い唇が震える。
    (それは――?)
     ネハンの表情の変化を具に見ようとして、自分自身は顔を仮面で覆い隠していることに、シスははたと気がついた。
     一方的に相手を観察している。
     自分と相手との非対称性。これまでそんなこと、気に留めたこともなかったというのに。
    「……言いたくなければ、構わん」
     視線を外して、さあ先を急ごうと、進行方向へ向き直る。すると、マントの裾が捉えられた。
    「振り回しているというのに、すまない」
    「罪滅ぼしをしている気分にさせてやると、言っていたのはお前だろう?」
     ネハンの口元が緩んだのを見て、少しほっとする。
    「……本当は、お前にこそ見られたくないものなんだ、アレは」
     何が待ち受けているのかわからなかったとしても、なすべきことは変わらない。ネハンが人を頼ってまで取り戻したいと願っている。望みを叶えてやりたい。


    ***

     森を抜けて、がらんとした広場に出る。その中央に、石造りの建物が二つ並び立っていた。
    (何年ぶりだろうか)
     ネハンがマガザンに買い上げられるよりも昔に、土地を切り拓いて建設された施設。元々は別のジョルハが研究のために、マガザンに提供させたものだ。
     いずれ金になると投資をせがまれたのだろう。しかしマガザンの幹部共はネハンを組織に引き上げると、この場所を禁薬の研究と製造をするための施設へと挿げ替えてしまった。より早く稼げる可能性に、目が眩んだのだ。
    (それが大当たりして、更に大きい工場へと移っていった……と)
     ネハンが連れて来られる以前はどんな研究をしていたか露ほども知らないが、どうせ醜悪な実験が行われていたに違いない。
     この場所には死の匂いがこびりついてる。シスも、恐らくそれを嗅ぎつけている。隣に立つ気配が瞬時に薄れた。彼は辺りを強く警戒している。
    「周囲を見回って、中の気配を探ってほしい。特に、手前の方の施設の門が開閉されている様子があるか、見てきてくれ」
     手前の施設は奥のものよりも小ぶりなものの、分厚い石材で造られた表門が厳めしく構えている。その向こうにある入口は鉄扉で閉ざされているのを、ネハンは知っている。侵入者を防ぐというよりも、逃げ出す者を許さない造りだ。
     僅かな風を残し、あっという間に視界から消えたシスは、戻ってくるのも早かった。
    「石門は長い間動かされている気配がない。奥の工場は……比較的周囲の地面が荒れている。建物内に出入りしている者が複数いるのは確かだろう」
     雨が降れば足跡を始め、地面に残された痕跡は掻き消えてしまう。しかし現状で痕跡の残り方に差があるなら、当てにできる可能性が高い。
    「助かった。ついてきてくれ」
     なるべく草むらを移動して、小さい方の建物の裏手へと回る。途中、窓から垣間見えた屋内は、余すところなく薄暗かった。
     懐から鍵を取り出して、非常用口の扉の鍵穴に差し入れた。カチリ。鍵が古いままであったことに、ひとまず安心感を覚える。
    「鍵なんて持っていたんだな」
    「靴底に鍵束を隠していた。変えられていなくてよかった」
     慎重にドアを開けると、埃っぽい匂い共に、淀んだ空気が流れ出す。建物の内部は、すっかり時間が止まっていたようだ。
    「シス」
     足を一歩踏み入れて、仮面の男に向き直った。ちょうど行く手に立ちふさがる格好で、ネハンは告げた。
    「お前はそこで、見張りをしていてくれ」
    「な……!?」
     そっと人差し指を立てて口元に寄せる。
    「二人で忍び込んでいることがバレたら、入り口を固められてしまう恐れがある。経路を確保する意味合いでも、お前にはここに残っていてほしい」
    「しかし……」
    「幸い、建物内の電源が落ちている可能性が高い。連中が表の方から押し寄せるなら、手動で門や扉を開ける音が必ず鳴る。ここで張っていても、すぐに気づけるはずだ」
    「同伴して、直接護衛する方が確実だ。数名に囲まれたところで、突破できる」
    「……あいつらを捕まえるという目的がなければ、俺もそう頼んでいる」
     あの騒動を逃げ延びて、辺鄙な島で大人しく隠れて過ごしている連中だ。接敵したら、果敢に向かってくるよりも、尻尾を巻いて退却する方が自然だろう。グランたちが押さえに来た場所がたとえ『もぬけの殻』でも、拠点の候補地を潰せるという利点はあるのだが、現時点では少なからず潜伏している者がいるとわかっているのだ。どうせなら突き出せる頭数が多い方がいい。
    「目的の物がある場所はわかっている。用を済ませたら、すぐに戻る」
    「……大丈夫なんだな?」
     念押しするシスは、ネハンこそ逃亡してしまわないか恐れている――そんな訳ないことくらい、わかっている。不安に思うのも無理もない。過去の己の振舞いのせいだ。
    「問題があれば、『合図』を送れるように努める。お前の方も、ネズミを一匹たりとも逃さぬよう、警戒していてくれ」
    「……わかった」
     シスがすぐ近くの木立の中に戻り、たっぷり葉をつけた樹木の上に陣取るのを見届けると、ネハンは建物の中に踏み入った。

     目的の部屋への道中、あちらこちらのドアが開け放たれていた。室内を覗き見ると、どこも乱雑にひっくり返されたような形跡がある。
    (寝台や器具を運び出したのか)
     生活空間を纏めることで、有事に備えることにしたらしい。ということはやはり、こちらの建物は現在も使われていないのだ。試しに照明のスイッチを押してみるが、何ら反応しない。
    (俺の部屋も、荒らされていないといいが……)
     とはいえ、油断してはいけない。廊下に層になって積もった埃を杖と革靴で散らしながら、辺りを慎重に検分していく。
     一階には、同じ間取りの小さな部屋がずらりと並んでいる。
    (…………)
     人を人たらしめる正常な精神や意識を奪われた者と、これから奪われる者を収容していた場所。新薬を調合しては、二束三文で買い集められた奴隷たちに投与し、反応を観察する。ここは『ヘヴン』のサンプルの、臨床試験場だった。
     ヘヴンの元となったオリジナルの薬は、即効性のある鎮痛薬だ。痛みを苛烈に鈍麻させる一方で、戦場に立ち続けるために精神に多少の快楽を与え、高揚させる。そして重要なのが、短時間でしっかり抜けること。あくまでも単独行動する戦士が携帯し、大きな負傷をした場合に一時しのぎで服用するものだ。中毒者を生むリスクを最小限に留めるように、長い年月をかけて開発された特効薬。
    (しかしマガザンが欲しがったのは、効能に伴う高い中毒性……市場にばら撒いて、長く利益を生み出し続ける『商品』を求めていた)
     この場所でまだ幼いネハンに求められたのは、より低コストで製造ができ、常用性が高く、離脱症状の強く出る粗悪品の開発だった。
     目を閉じて耳を澄ませば、当時廊下に溢れかえっていた音が聴こえるようだ。苦痛に呻く声。泣き叫ぶ声。怨嗟を呟く声。幻覚に怯える声。そうした声を張り上げるのは、まだ『元気』な者たちである。やがて皆大人しくなり、生体反応を喪っていく。
    (こんなところで暮らせていた人間が、まともであるはずがない)
     まともな人間でないなら、大丈夫。
     杖を握る指先に力を込め直して、二階へと続く階段を上がっていった。

     二階の廊下の突き当りの部屋から、三つ手前の扉。懐かしいという思いが、嫌悪感と虚しさと共に胸に湧き起こる。
     この階は見渡したところ、開け放たれているドアはない。
    (元責任者ではなく、下働きをさせられていた構成員が逃げてきているといったところか……?)
     かつての居室の前に立ち、ドアノブに手をかける。ゆっくり力を込めるが、ドアは開かない。
    「む……」
     鍵がかかっている。
    (ここの鍵は、俺は持っていたことがないな)
     ネハンがマガザンの本拠地の方に呼び寄せられてからも、暫くの間ここは稼働していた。製薬に関する責任者という身分で訪れるようになったため、施設自体の鍵は貸与されていたのだ。しかしここで暮らしていた時は、『逃げないように監視されている元奴隷』でもあったのだ。
     内鍵があった覚えもないが、後から取り付けられたのかもしれない。
    (部屋がそのままになっていないかもしれない……か)
     ネハンは目を細めて思考する。まごついても仕方がない。管理室に行けば、合鍵かマスターキーが見つかるかもしれない。再び階下へと踵を返した。

     ところが階段の踊り場で、ネハンは違和感に気づいた。
    (空気の流れがある……誰か入ってきたか?)
     その場にしゃがみ込んで、耳をそばだてる。痺れを切らせたシスの可能性もあった。
    「……」
     足音がする。一人分のものではない。
    (まずいな)
     どういった経緯で他の者が侵入してきたのかはわからない。しかしこの位置取りでは、屋外へ退避する道が塞がれている。
     入ってきているのがマガザンの残党であれば、恐らく侵入者に気づいて探し出そうとしている。隠れてやり過ごすのは現実的ではない。
    (思い切って窓を割って飛び降りるか……外の状況がわからない以上、博打が過ぎるな)
     シスが交戦を余儀なくされているとして、どこにいるかが把握できない。防音性の高い壁材が屋外の音を遮断している。
    (窓……隙間さえ開ければ、音は拾えるか)
     採光のために踊り場に設置されている、床から天井まで伸びた大窓は、はめ殺しになっていて開けられない。二階に戻り、開けられる窓を探す。
     杖に縋るようにして立ち上がると、階段を一段、二段、細心の注意を払いながら上がっていく。急いても利かぬ身体だ。せめて気配を感づかれぬように動こうとするが、引きずる半身が妙に強張っている。
     自分自身の体に焦れながら、なんとか辿り着いた二階の廊下の窓の鍵に、ネハンはそっと指をかける。ゆっくり引くと、きちんと動いてくれた。
    (さて……出たとこ勝負、といったところか)
     覚悟を決める。取っ手を握る手が汗ばむ。
     力を込めて窓を押し開くと、ギィと軋む音が響いた。何年も放置されていたのだから当然だ。
     瞬時に開いた隙間から風が入ってくるが、声も、武器が振るわれている音も乗っていない。
    (すぐ外には人がいないか……?)
    「オイ! 上だ!」
     そして間髪入れずに、階下に怒号が響き渡る。
     恰幅のいいドラフを先頭に、ヒューマンが二人。エルーンが一人。階段を駆け上がってくる。
    「あぁ!? 技術長……!?」
     踊り場からこちらを見上げて、ヒューマンの内の一人が目を見開く。ネハンの方は相手に見覚えがないが、製薬部門で働いていた構成員だろうか。
    「はあ? 死んだんじゃねぇのか!?」
    「……噂は本当だった、ってことか?」
     ドラフ、続いてエルーンが口を開く。こちらはネハンの顔を知らない。
    (俺がお尋ね者であることを知っていて、誰かが仇討ちしたという情報は得ている……か)
     下っ端の集まりだが、逃げ延びているお偉方を含んだ他の残党と、連絡を取り合っている。鉢合わせた以上、全員野放しにはできない。
    「初めまして。マガザン製薬部門、元技術長のネハンだ。……いや、元マガザン、製薬部門技術長、が正しいか?」
    「クソッタレ……!」
     怒髪天を衝いて銃を引き抜いたヒューマンを、ネハンを見知っていた別の一人が制止する。
    「落ち着け! くたばってなかったってことを証明しないと、殺っても手柄にできねぇ」
    (それなりに冷静な人間もいるか……面倒だな)
     五人の顔を、端から順に眺めていく。今は階上から見下ろしているため、全員いい的であるが、二階に上がってこられると分が悪くなる。距離を詰められるまでに撃ち抜けるのはせいぜい二人が限界か。
    「元技術長さんよぉ。大人しくしててくれねぇかな? そうすれば俺達は乱暴したりしねぇからよ」
     構成員はネハンを睨み上げたまま、口の端だけつり上げて笑顔を繕って見せる。野卑な表情な下には、他人が切って捨てられない、憎悪の念が詰まっているのだろう。
    「そうか」
     腕に固定した杖のベルトを外しながら、半歩前に進み出る。
    「お断りだ」
     ホルスターから引き抜いた銃の撃鉄を起こし、引き金を引いた。


    ***

     ネハンの後ろ姿を見送ってから暫くしても、シスは五感を昂らせたまま、辺り一帯を注視していた。
     地下室に篭っているのでもない限り、内部には人のいる気配がない。気をつけなければいけないのは『外』の方だというのは、シスも同意見だった。
     残党たちが用心深ければ、港の発着を把握できるようにしているだろう。そもそもマガザンがこの場所に施設を隠し持っていた理由こそ、島全体で把握しきれる程度の往来しかないからだと、想像に難くない。
     人通りのある道を避けて警戒網を敷かれる前にたどり着けたものの、常ならぬ艇の着陸があり、その後の足取りが掴めないとなれば、彼らが動き出すのも時間の問題だ。
    (ぎりぎりまで待ってやりたいが……)
     シスは見定めるべきタイムリミットについて頭を巡らせる。
     と、鼓膜が微かな音の変化を拾った。
     呑気な鳥の囀りの合間に聞こえた葉擦れの音は、吹き流れる風が自然に鳴らすものとは異なる――駆け出した身体が草むらをかき分ける音だ。
    「フッ」
     一度大きく息を吸い込み、枝を蹴って着地する。そして二の足で地面を蹴り上げた。
     
     逃げる背中を視界に捉えると、懐から投げナイフを取り出して、腱を狙って投げつけた。
    「ぐっ」
     転倒した男の身体に一気に圧し掛かり、両腕を後ろに捻り上げる。一旦ロープを取り出すために、両脚と片手で地に押さえつけた。
    「クソッ、なんだ、誰だ!」
     シスの身体の下で藻掻くエルーンは、首を必死で捩り、自らの置かれた状況を把握しようとしている。
    「お前!? ね、『ネハン』か!?」
     男の反応に、シスの動きが一瞬固まる。
    「違うな……、もしかして、『本物』の方か?」
     ロープを探る手を止め、男の頭を強く押さえつけた。目の奥が熱くなる。
    「ぐぅ……!」
     こみ上げるものを堪えて、奥歯を噛み締める。
     この男を、ここで殺めたとして――。
    「……寝ていてもらうぞ」
     首にかけた指に力をこめる。やがて失神し、脱力した男の腕と足を縛り上げた。

     縄目に緩みのないことを確認し、立ち上がると、爪先に硬いものが触れる感覚があった。
    「これは……?」
     男が取り落としたらしい、小さな箱状の物体が足元に落ちている。
     指先で拾い上げたそれは見た目よりも重い。手の中で転がして検する。金属製の――機械だろうか。気づいた瞬間、背筋を冷たいものが伝う。
    (これは伝声機の類のもの……!)
     既に施設の『異変』があったことを、仲間に連絡しているかもしれない。
     急いで戻らねば。シスが立ち上がったその時、発砲音とガラスの割れる音が空気を切り裂いた。
    「――!!」
     心臓が跳ね上がる。
     早く。急げ。
    (ネハン……!)
     血が沸き立ったかのように熱い身体をがむしゃらに駆動させて、来た道を急ぎ戻る。

     研究施設まで駆け戻ったシスは、真っ先に銃弾が貫いた跡を探した。
    (銃声と共にガラスの割れる音が微かにした……どこか窓が割れているはずだ)
     耳に届いた銃声は一発だけだった。銃撃戦をしているなら、ここに戻るまでの間に、もっと音を耳にしていてもおかしくない。
     不意に、撃ち抜かれ、その身を赤く染めたネハンの姿が脳裏に閃く。
    (……クソ!)
     そんな光景、自分には見覚えがない。まやかしだ。最悪の予感を振り切るように頭を振った。
    (ネハンは何かあれば、『合図』をすると言っていた……!)
     先の銃声が、ネハンの発砲によるものならば。位置をシスに伝えようとしている可能性が高い。
     壁を注視しながら、正門から建物を回り込んでいく。等間隔に並んだ窓は、不思議なくらい小さなものが多いが――。
    「――あった!」
     壁面にかけられた額縁のような、ひと際大きな窓。その中心が穿たれ、ガラスに亀裂が走っていた。
     侵入に利用した裏口は、ここから少し離れている。幸い、ネハンの銃撃で窓ガラスは脆くなっている。
    (無事でいてくれ……!)
     僅かな助走の後、シスは踏み込んだ脚で地面を強く蹴り飛ばす。ばねで弾かれたかのように飛び上がった体躯は、空中で更に推進力を得て急降下する。あたかもそこに足場があったかのように。
     腕を交差させた身体が、強かに窓を打ち破った。


    ***

    「ハッ! どこ狙って撃ってやがる」
     ネハンの銃口から飛び出した弾は、ドラフのこめかみの横をすり抜けて、踊り場の窓ガラスを突き抜けた。
    「取り押さえろ!」
     二撃目の隙を与えまいと、男たちが猛進してくる。構え直そうとするネハンの右腕は容易く払われ、地に引き倒された。手から取り落とした拳銃は、廊下の奥へと蹴り飛ばされる。
    「死に損ないの不具モンが、抵抗すんな!」
    「……ッ」
     横っ腹を蹴り上げられて、ネハンは思わず息を漏らした。
    「なんか縛り上げられるもの探せ」
     ネハンの肩を踏みつけた一人を残して、男たちは廊下に散り散りになっていく。
     眼帯がずれて、左目にも光が差し込んでいる。ぼんやりとした視界は、目の前の情景を遠くで起きている出来事のように感じさせる。
     各々手当たり次第に物色しているが、鍵で閉ざされた部屋がほとんどらしい。ガチャガチャと粗暴な音が四方に響き渡る。
    (……随分のんびりした連中だ)
     自分ならばさっさと撃ち殺して、骸を袋に詰める。抵抗する可能性のある人間を遠くへ運び出すのは難しいのだ。
     彼らは乱暴者ではあるものの、敵と渡り合って首級を上げるのに慣れていない。そう思えばかわいいものだが……もっと悪趣味な人間が、憂さ晴らしの公開処刑を所望しているのかもしれない。
    「どこも鍵がかかってやがる」
    「下探すか、戻るか?」
     あくまで手柄を上げたい。主人からたんまりと褒美を貰いたい。人並みの欲を持ち合わせた連中で助かった。
     ネハンは内心せせら笑いながら、耳を澄ませる。神経を研ぎ澄ませて聴こうとするのは、悪漢共の立てる粗野な物音でもなければ、こびりついた亡者の声でもない。
    「…………」
     ――なんだ、案外近くにいたじゃないか。
    「何笑ってんだダボ」
     右頬を拳で打ちつけられる。
    「笑っているように見えたか」
    「黙ってろ」
    「教えてやる義理もないが……そんな悠長なことをしていてもいいのか?」
    「あぁ?」
     不機嫌そうな声を上げたエルーンが、ネハンの襟首を掴んで持ち上げた。両腕をだらりと提げたまま、それでもネハンは臆せず、ゆったりとした喋り口で、顔を覗き込んでくる男に問い尋ねる。
    「ろくに身体の利かない男が、一人で貴様らの目を搔い潜って、ここまでノコノコとやって来られたと、本当に思っているのか?」
    「は……?」
     ネハンは残党の苛立たし気な顔越しに、穴の開いた踊り場の大窓に、影が接近するのを見た。
     次の瞬間、盛大な音と共にガラスが弾け飛んだ。
    「なんだ!?」
     破裂音に怯んだエルーンが背後で起きたことを確認しようと振り向いた隙に、ネハンは拘束から抜け出す。
     しかしエルーンはもう、ネハンに構うことはできなかった。
     窓を割って飛び込んできた影――シスはその勢いのままに、一番に目についたエルーンのならず者の懐に飛び込んだ。
    「グアッ……!」
     崩れ落ちる男の下敷きにされないように、ネハンは後ずさった。
     壁にしなだれかかったネハンに一瞥だけくれると、シスは恐慌状態に陥った残党たちに飛びかかっていった。

     その場にいた全員を昏倒させて縛り上げたシスは、ネハンの前に跪いた。
    「すまない……!」
     不意に抱き込まれて、ネハンはひどく驚いた。ただならぬ様子から相当憔悴しているのが伝わってきて、こちらまで申し訳なく思えてくる。早く気分を落ち着けられるように、右手で背中を撫でてやった。
    「……いや、平気だ。ありがとう」
     ややあって身体を離したシスが、顔を覗き込んでくる。
    「怪我をしている」
    「この程度、何とも。余計な挑発をしてしまったのは俺だからな……悪いが、杖を拾ってきてくれないか?」
    「……わかった」
     放り出されていた杖は、割れてしまっていた。これで身体を支えて歩くのは難しいだろう。
    「仕方ない……支えてもらっても?」
    「……ああ」
     銃を拾い上げ、ネハンは今再び居室の扉に対面する。先程とは異なり、シスを横に伴って。
     ――結局、初めからこうしていればよかったな。
     何一つ思い通りに事が運ばないことに、ネハンは最早慣れを感じ始めていた。
    「シス。開けてもらっても構わないか?」
     そう言ってドアノブの横を、三発ほど撃ち抜いた。
    「あ、ああ」
     板材に開いた穴をシスが割り広げ、内鍵を開錠する。
    「……なんとも呆気ないものだな」
     この部屋から出られずに怯えて暮らしていた自分は、なんとちっぽけな存在だっただろう。
    「さあ、中へ」
    「……いいのか?」
    「支えてくれると言っただろう」
    「……ああ」
     シスに左半身を委ねながら、入室する。そっと息を呑んだ。


    ***

     ネハンを支えながら入った部屋は、とても簡素な内装をしていた。作りつけの机と本棚。その反対側の壁にベッドが寄せられている。それだけしかない。
     本棚には書籍は残されておらず、一見してネハンが求めるものは見当たらないように思えた。
    「こっちだ」
     手を引かれて、机の前に立つ。
    「その下から二番目の引き出しを、抜き出してくれ」
    「わかった」
     手前に引き出しても、何も入っているようには見えないが、言われた通りに最後まで引き抜く。
    「抜き取ったものをひっくり返してくれ」
     言われるがままに、箱状の天地を逆様に返した。底だと思っていた板が抜けて、下に落ちる。続いて板の上に分厚い冊子が落下し、本当の底に敷き詰められていた木屑が舞った。
    「……残っていたな」
     引き出しは隠し収納になっていたようだ。そしてカモフラージュの底板に隠されていたのが、このノート。落下する際にめくれたページから、几帳面な文字がびっしりと並んでいるのが見えた。
    「これがお前が取りに来たかったものか?」
    「……そうだ」
     拾い上げて、ネハンに手渡してやる。受け取ったネハンは表紙を左手でゆっくり払い、暫く見つめていた。余程大事なものなのだろうか。ネハンが感慨にふけっているような姿は、ほとんど初めて目の当たりにした。
    「それが何なのか、訊いても?」
     ネハンの視線がノートの表紙から、シスへと向けられる。真っ直ぐな眼差しは、月明りを映した暗い湖の水面を思わせた。
    「これは、ここでの研究日誌だ」
    「ここでの、研究……?」
    「お前は、窓から飛び込んできたから、下の階を見ていないのか」
     行くぞ、と言われて、部屋を後にする。あっさりとこの場を去ることに拍子抜けしたが、ネハンを手伝い、転がったままの残党を避けつつ、階下に降りた。
    「これは……病室か……?」
     どれもそっくりな小部屋がずらりと並んでいるのに異様さを感じながら、シスはネハンに尋ねる。
    「健康な者を病ませるという意味での『病室』だな。ここでは、禁薬のサンプルを開発していた」
    「……!」
    「まさに地獄絵図だった。皆、気を狂わされるために薬漬けにされていたようなものだからな」
     ネハンの顔の左半分は眼帯で覆われているため表情は窺い知れないが、顔色一つ変えずに言葉を繰っているのだろう。その淡々とした声音通りに。
    「そしてその絵図を引いたのが俺だ。このノートには、各被験者に与えた薬の調合と、被験者の経過の観察記録がまとめてある」
     胸が締めつけられるような心地がする。流暢な言葉で語られる内容と、そのように語り上げることができるようになるまでにかかった年月。置かれた境遇から逃げ出せずに心を殺し続けたことを思うと、鼻の奥がツンと痛んだ。
     かける言葉を見つけられないシスをよそに、ネハンは話し続ける。
    「元々あった一族の、秘伝の薬の調合を、より激しく中毒症状と離脱症状を起こすように、粗悪なシロモノにしていくための人体実験だ……このノートは、俺の、二重の罪の証と言ってもいい」
     ネハンの告解を、彼を半ば抱えて歩きながら、シスは黙して聞いていた。

     裏口から施設を抜け出すと、陽はとうに傾き落ち始めていた。来た時と同じように森を抜けて帰るなら、急がねばならない。
     グランたちとは、ここで落ち合う予定はない。あちらは予定時刻と共に行動を開始する。計画上ではその前にこの場所から去っていればよいのだが、ネハンの怪我を早く治療したいというのもある。
    「急ごう。負ぶさってもらえるか?」
     行きは申し出を頑なに断られてしまったが、ネハンも今は大人しく背中に負われてくれた。
     回されたネハンの腕に抱えられているノートが、否が応でも目に入る。
    「ネハン……」
    「なんだ」
     半身を支えていた時よりも、より近い距離で声が響く。なんだかネハンはいつも、遠く離れているか、物凄く近くにいるか、両極端だな、と思う。
    「そのノートを回収して、どうするつもりだったんだ? 禁薬の禁断症状の治療に、役立てられるものなのか?」
     シスが気にかかっていたことを思い切って尋ねると、ネハンは暫く口籠っていた。
    「……いや。あくまでヘヴンのプロトタイプの研究日誌でしかないからな。それに、内容は全て覚えている」
    「ならば、何故だ……?」
    「……何故なんだろうな」
     ネハンはシスの首元に顔を沈めて、くつくつと笑った。
    「放っておいても、誰の目にも触れず、朽ちていっただろうな。残党連中も部屋を開けられなかった。そもそもヘヴンの成分は既に明らかにされていて、治療法も確立しつつある。ノートに書かれた古い情報から似通った薬を開発しても、金にはならんだろう」
     子どもが夢心地で話すようなぼんやりとした語り口で、ネハンは自身の行いの愚かさをあげつらっていく。
    「ネハン……?」
    「何故なんだろうな……でも、あの街でムゲンと、子どもたちと生きていくと決めた時、手元に取り戻さなければならないと思ったんだ」
     ただ己の罪の象徴するものを手元で大事にしておきたいとは、なんと難儀な望みだろう。
     そしてその心情を最もに理解できるのは、自分だ。シスはそう思った。
    「あそこに身を置いていた連中も、下っ端だけだ。逃げている幹部の足取りには繋がらない」
    「……ああ。それでもこの島の住民たちは明日以降、また安心して暮らせるようになるだろう」
    「…………」
     罪に対する強い観念と、自罰的感情を手放せないこと。誰よりも共感してやることができるが、共感を与えてネハンの心を救おうとすることは、自分には許されない。
     彼が自家撞着の苦しみの中に陥るきっかけを与えたのが、他ならぬシス自身だからだ。
    「全てを受け入れ、理解したと思っていた。しかし実際には割り切れないことばかりだ……」
    「俺にも、そういうことがたくさんある。多分、カトルや、エッセルにも」
    「……フフ。ムゲンにはあるだろうか……」
     友人の名前を口にしたネハンは少し平静を取り戻したようで、シスが動きやすいように重心を整えてくれた。
    「ネハン」
    「今度はなんだ?」
    「ありがとう……助けを求めてくれて」
     あの時響いた発砲音は一つだけ。縛り上げた残党に銃創はなかった。
     護衛として同行していたにもかかわらず、己の判断の甘さでネハンを危険に晒したことは深く悔いている。けれども、ネハンが『合図』を優先させて、一人で解決しようとしなかったことに、心の底から安堵していた。
    「当たり前だろう。俺一人で五人を相手取るなど、無理に決まっている」
    「無理に決まっていると思って、俺を呼んでくれたこと嬉しいんだ」
    「なんだそれは。お前以外に誰を呼ぶというんだ? 護衛にと同行しているのはお前一人きりだろうが」
     理解ができない、と、ネハンは鼻を鳴らす。
    「すぐに駆けつけてくれてたのは助かった。今晩も回診しなければならないんだ。戻れなくなったら困る」
     ネハンはごく当然のように、まだ残っている日課の話をする。本当に、他意など一切感じさせずに。そんな調子に、シスは胸の中が温かなもので満ちていくのを感じた。


    ***

     堰を切るとは、なるほどあのような状態を言うのだろうな。
     帰りの艇内で、ネハンはむっつりと黙り込んだまま、前髪を風に遊ばせていた。黄昏の薄明かりの中を、艇は真っ直ぐ進んでいる。
     シスも、最早声は掛けてこなかった。聞きたいことがなくなったのか、ネハンが疲れ切っていると慮ってくれているのか。どちらにせよ放っておいてくれることで、ネハンは帰島する前に頭を冷やす時間を持つことができた。
    (……余計なことを喋りすぎたな)
     薬の原料になる植物や生物の部位。加工の方法。高い薬効を持たせるための調合法。そういったものに、ネハンはとても詳しい。
     しかし自分が今何を感じていて、どうしたいと思っているのか。自分自身の素朴な感情には滅法鈍く、ムゲンや街の子どもたち、カトルやエッセルに言い当てられることで、ようやく「そうだったのか」と腑に落ちる……といった始末が度々起こる。今のネハンの様子にしても、カトルならば「不貞腐れている」と表現してくれるだろう。
    (口にしたことを後悔するならば、そもそも口にするべきではなかった)
     どうしてシスに、わからないことをわからないまま伝えたのか。
     それは、シスなら『理由』を、答えを知っているかもしれないと思ったからだ。
    (……俺が死ねば、お前を糾弾する者は最早この世界からいなくなる)
     そう。
    (俺の存在は、今や平穏に生きるお前に、過去の罪を知らしめる腫物でしかない)
     これまで幾度か喉まで出かかり、ぎりぎりで飲み込んできたシスへの問いを反芻する。
     命を拾い、シスと縁の近い者たちの元で生活することになってしまったが、あえて顔を合わせる必要がある訳でもない。できる限り距離を取る選択は、シスの方にはできるのだ。
     しかし彼の態度は、寧ろネハンと関わりを持とうとしているようにも見える。あまつさえ、呑気にもその背中をネハンに晒しているのだ。
    『ならば、何故だ……?』
     問うてくるシスの言葉に、自分の疑問を重ね合わせる。答えはお前が知っているんじゃないのか?
    (……馬鹿馬鹿しい)
     己が感情の代弁者に、この男を加えようというのか。
    「シス」
    「なんだ……?」
     名前を呼びつけると、すぐに返事がある。
    「今日の目的については、カトルやエッセルには黙っていてくれ。知られない方がいいだろう」
    「ああ。わかった」
     彼らのきょうだいを苦しませた道具の製造についての記録だ。存在すら不愉快なものだろう。知られれば処分されてもおかしくない。……二人の気持ちを裏切ってまで取っておきたいものなのか?
    (……もう考えるのはやめよう)
     シスに答えを求められないなら、自身でいずれ見つけ出すまでだ。けれども今日は頭がひどく痛む。
     ネハンは瞼を固く閉じる。疲れ切った目には落陽も、瞬き出した星の明かりもひどく眩しい。


    ***

     星屑の街にネハンを送り届けたシスは、カトルに杖を壊したことや、ネハンに怪我を負わせたことへの小言を言われながら、宿へと案内されていた。
    「それで。一体何だったんですか?」
     以前に何度か泊まったことがあり、部屋の勝手はわかっている。それでもカトルがついてきたのは、今日のことをシスに尋ねたかったからだろう。
    「カトルには知られない方がいいと言っていた」
    「はあ?」
     露骨に不機嫌そうに、カトルは顔を顰める。ネハンもこのくらい、わかりやすく振舞ってくれれば助かるのだが。
    「つまり、あの人が僕に知られたくないんですね」
    「む……? そうは言っていない」
    「そう言ってるようなものですよ。まあ話したくなったら話せばいいことです」
     そうだっただろうか? シスが指を口元に当てて考え込んでいると、カトルはからかうような調子で、口角を上げる。
    「一緒に過ごしていたらなんとなくわかるようになりますよ」
    「そういうものなのか……?」
     シスは首を傾げながら、ネハンがこの街で目覚め、過ごすようになってから過ぎた月日を、指折り数える。
    「ええ。なんならシスさんもここで暮らします?」
    「団長と合流するまでは、三日ある」
    「三日……三日ねぇ」
     カトルの呆れたような視線を受けながら、シスはたった今数えた月日の数をネハンと共に過ごすことを、ぼんやりと空想してみた。
     何かを想像するというのは、とても難しい。けれど、カトルがネハンを『わかって』いるように、共感すること以外の付き合い方を見つけられるとしたら。それは『とてもよい』ことではないだろうか。仮面の下で、シスはその目を少しだけ輝かせた。

    「まあせいぜい頑張ったらいいんじゃないですか」


    おわり

    wornanddull Link Message Mute
    2022/06/18 18:13:38

    漂泊

    #シスネハ #グラブル
    6.26加筆しました。CP要素薄目・少し暴力描写

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    • Bon appétit!リクエスト「シスネハで2人でラードゥガのお手伝いする話」
      これはハロムゲエピ後なので、嗅覚が快復してるネハン(お前、嗅覚も失ってたのか…)

      (pixivにも同じものを投稿しています。)

      #グラブル #シスネハ
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