Bon appétit! ちょっとこっちについてきて。見てほしいものがあるんだ。
いま暇があるかとジータに問われて頷いたネハンが、連れてこられたのはグランサイファーの副料理室だった。
食事の伴をせよというのなら『見てほしい』という言葉はそぐわないし、この場所が開けられるのはもう数刻暮れてからのはず。
首を傾げるネハンに構わずジータがドアを開けた先に、彼女の『見てほしいもの』はいた。
「…………」
「…………」
「……なにをしているんだ、シス?」
副料理室――ラードゥガの給仕と揃いの衣装に身を包んだシスが、こちらに顔を向けて固まっている。その手にはモップの柄が握られていた。
「ね、どう?」
傍らでジータが期待に満ちた眼差しをネハンに向ける。
「どう……とは」
「シス! 似合ってるでしょ?」
見てほしいと言われて連れてこられたのだから、この状況に対してコメントを求められているのだとは勘付いていた。しかし、どうしても浮かび上がる疑問がすべての言葉を遮る。
彼は何をしている? お店屋さんごっこにでも付き合わされているのか。
「……馬子にも衣裳?」
「孫……? シス、カッコイイって!」
そのようなことは言っていないのだが、シスは照れたように耳を下げた。
「見せたかったのは『これ』か?」
「うん」
「では用事は済んだな」
「え。ちょっと」
「ま、待ってほしい」
踵を返そうとするネハンの背に、引き留める声がもうひとつ重なった。
「ファスティバが新しく出すメニューの試作を作っている。……味見に付き合わないか?」
他ではない、シスが誘いを申し出てきたことにネハンは驚く。
「……俺に味の良し悪しはわからんぞ」
「構わない……と思う。艇の者に振る舞う料理だ、必要なのはグルメによる評価ではあるまい」
少しばかり逡巡した。すげなく断ることも、事実を打ち明けた上で引き下がってもらうこともできた。
けれどもモップを握りこむ手指の力強さから、彼の緊張のほどが見て取れてしまったのだ。
ちょっとの時間付き合うことで、意気消沈する彼の姿に一晩煩わされずに済むのなら――そちらの方がマシだと思ってしまった。
さながらバーのような内装の一室は、食堂に比べればずっと狭小である。ここに掛けていてくれと通されたカウンターの隅から室内は一望でき、遅々としたへたくそなモップがけを、ネハンは肩肘をついて眺めていた。
「それで、これはどういう意図があってのことなんだ?」
隣に腰掛けたジータに問いただす。首を捻ってとぼけようとするのを許さない。
「扉を開けた時の様子から、あいつも一杯食わされた者だと思っていたが……そもそもどうしてここで手伝いをしている」
「ちょっと前にシスが食器を割っちゃって……弁償として、お手伝いを引き受けてもらったんだって」
働きで償還するというには彼の動きは随分とぎこちない。まるで子どものままごとだ。
「一丁前なのは格好だけだな……ここでギャルソンをしていたのはヒューマンだったと記憶している。あれは借り受けた服ではない。違うか?」
「ハハ……そうだね」
観念したように肩をすくめると、ジータはひそひそと内実を語り出した。
「シスって、艇の他の場所に比べると、ここには結構出入りしてて……それで、常連の女性陣と『ジャミルとお揃いのユニフォーム姿を見てみたいよね』って話で盛り上がって。あれ、カッコいいでしょ?」
求められた同意に生返事をする。衣装の細かなデザインなど、覚えていない。
ジータは活き活きと話し続ける。
「それでファスティバに掛け合ったら『あら、いいじゃない』って話が進んでね。近いデザインで一着仕立ててもらったのをどうやって着てもらおうかな~と考えてたところに、ガッシャーンって」
「それは不運だったな」
「ラッキーだったの!」
軽く頬を膨らませた彼女は、すぐににこりと微笑んだ。
「せっかくだからネハンにもお裾分けしてあげようと思って」
「…………そうか」
ネハンには『せっかく』も『お裾分け』も意味がわからなかったが、要らぬ節介に巻き込まれたことは悟った。
「シスは特に怪しんだりしなかったけどなぁ。『これ着て』って言われることが多くて慣れちゃってるのかな」
一通り説明は終えました、という雰囲気を醸すジータだが、肝心なことを聞けていない。話が逸れてしまいそうになるのを遮って、ネハンは再び問いかけた。
「珍しいものを見せたいという団長の心情はわかった。では俺をここに引き留めた理由は?」
対面した瞬間のシスの動揺っぷりも、ジータの語る内容も、彼が企みに巻き込まれた人間だと伝えている。ならば彼が恐々としながら声をかけてきたのも、ジータたちの企ての一部なのだという考えに自然と至った。
するとジータがきょとんとした顔でネハンを見つめた。
「え、私は知らないよ」
今度はネハンが目を丸くする番だった。
「それにはノータッチだよ。……というか、私は引き留められてないし? そろそろ行くね」
顔の横に上げた両手を、そのまま左右にひらひらと振ると、ジータは徐ろに席を立つ。
「な、」
「ごゆっくり〜」
有無を言わせぬまま退散してしまったジータと入れ違いに、出掛けていたらしいファスティバが部屋に戻ってきた。
「あら、ネハンくん。いらっしゃい」
カウンターに置かれた大きな紙袋から、長いバゲットが覗いている。
「……邪魔している」
「ごめんなさいねぇ、まだ準備中で」
「いや、俺は連れてこられただけで……飲食をねだりにきたわけでは」
「ファスティバ」
背後から芯のある声が投げかけられる。
「ネハンに試作メニューを出してやってくれ。俺が口にするよりは良いアドバイスをしてくれると思う」
「まあ。確かに何人かに意見を聞いた方がいいかもしれないわね。お願いしちゃおうかしら」
どう文句をつけてやろうか考えながら振り返り見ると、シスはモップとバケツをそれぞれの手に持って部屋を出て行こうとしていた。
「片づけてくる」
床掃除はこれで完了……ということなのだろう。しかしモップが絞り切れていなかったのか、床がところどころ濡れて灯りを反射させている。
「こんな適当な仕事をさせていて構わないのか?」
シスの背中が見えなくなってから、カウンター越しのファスティバに尋ねた。
「破損させた食器の弁償に働いていると聞いたが……」
「ふふ……そうなんだけどね。シスくんも初めてだし、頑張ってくれる気持ちが嬉しいのよ」
奴には生計のために下働きのようなことをした経験もないのか。呆れと、身体能力ひとつで生き抜いてきたことへの素直な感心が胸の内で入り混じる。余計な思索に耽りそうになるのを留めるべく、ネハンは机の上で右手をぎゅっと握り締めた。
ファスティバは袋から取り出したバゲットを、パン切り包丁で綺麗に切り分けていく。
「お酒は飲む?」
「いや、お構いなく。まだやることが…………ファスティバ」
少々躊躇ったけれども、ネハンはファスティバに事情を打ち明けておくことにした。
「あいつが何を考えているのかわからないが、奴の言っていたような役目を俺は果たすことができない」
「そんなに身構えなくても、好みかどうか言ってもらえればそれでいいのよ?」
「味覚に異常がある。毒見ならまだしも、味見などとても……。手間をかけて申し訳ないが、あいつの気の済む程度に適当に誤魔化してくれないだろうか」
「……そうだったのね」
ファスティバは眉尻を下げて微笑み、それでも手を動かすことをやめなかった。
「実はね、少し、そうなんじゃないかなぁって思っていたのよ」
「……というと」
「ここに来てくれる時に、いつも匂いを確かめるようにしてからお料理を口にしていたから」
ネハンが騎空団に帯同する際の仕事の多くは、血気盛んな外働きの者たちの持ち帰った大量の獲物から、薬の原料になるものを選って、薬品を調製したり試験したりすることだ。急かされることはないのだがついつい宵っ張りになるため、遅くに食事を取れる副料理室にはしばしば世話になっていた。
「無礼な真似を見せてしまい、すまなかった」
意識はしていなかったが、褒められた振る舞いではない。
「無礼だなんてそんな!」
ファスティバは落っことしてしまいそうなくらいに目を大きく見開いて、かぶりを振った。
「めいっぱい『味わって』くれようとしてたのよね、嬉しいわ」
「……」
なんともむず痒いような気分になり、ネハンは視線を手元に落とした。
「ネハンくんもそうしてくれていたみたいに、食べることって、味そのもの以外にも楽しめる部分がたくさんあると思うの」
星屑の街の子どもたち――ムゲンやエッセルだけでなく、生温いことを嫌いそうなカトルまでも食事は一堂に会して取りたがるのを思い返す。余計な気遣いをさせぬように会食には付き合っているが、ひとりの時にわざわざ食事を楽しもうとする理由などないはずだ。
長きに渡ってただの栄養補給に過ぎなかった行いが、己の中で意味を変えつつあることに改めて直面し、ネハンは戸惑いを覚えていた。
「きっとネハンくんだからこそ気づけることってあるはずよ。アタシはここを団員みんなにとって癒しのあるところに……愛を感じてもらえる場所にしたいと思っているの。無理に感想を言ったりなんてしなくていいし、ほんの少しでいいから、手助けしてくれないかしら? と言っても、お夕飯の前になっちゃうんだけれど……」
ファスティバの物腰は柔らかく、断ったとしてもそれが後を引くようなことはないに違いない。しかしだからこそネハンにはどうにも断りづらかった。
「……わかった」
「ありがとう!」
食べそびれていた遅い昼食だと思おう。そもそも目的を聞かぬまま呼び出しに応じてしまった時点で、そこから起こるすべてを承知してしまったようなものである。
「ファスティバ、次は何をすればいい」
扉の開閉音が響き、シスが帰ってきた。横目でネハンを一瞥する。目の行き届かぬ内にどこかに行ってしまってはいないか、確認をするように。にわかにネハンの居心地が悪くなる。
「それじゃあ、そこにつけ置きしてるグラスを洗って磨いてもらおうかしら。優しく撫でるようなつもりでやってちょうだい」
「わ、わかった」
「傍で見てるから、怖がらなくて大丈夫よ」
シスは手袋を脱ぎ去ると、ファスティバの脇を通って流しの前に立った。二人が並べばシスは随分小柄に見える。繊細なガラス食器を前に萎縮している様子が、彼を余計に小さく見せるのかもしれない。
シスが小さな水桶から取り出したグラスに、おっかなびっくり布巾を滑らせているのを眺めていると、テーブルの上にプレートが差し出された。
「ネハンくん、これどうぞ」
薄切りのバゲットに、クリームチーズやピクルスを乗せてカナッペにしてくれたようだ。まじまじと見つめている皿の横に、音を立てずにおしぼりとアイスティーも置かれる。
「用意をするから、それでもつまんで待っていてね」
そう言ってファスティバは奥の調理場へと姿を消した。
これが試作というわけではないのか。大層なもてなしっぷりだと思いながら、ネハンは手を拭い、皿からひとつを選び取った。刻まれたピクルスは果実を漬けたもののようで、甘酸っぱい芳香が鼻腔をくすぐる。
視線を感じる。
「脇見をしていると、割るぞ」
「……わかっている」
流し台に直に落ちていた流水の音が途絶え、シスは再び真面目にグラスを灌ぎ始めたようだ。
手にしていたカナッペを一口頬張った。爽やかな香りが鼻へと抜けていく。チーズの滑らかさとコシの強いバゲットの食感の中に、瑞々しいピクルスの歯ごたえが混じり――なるほど、これは自分のために作ってくれた一品なのだとネハンは実感する。温かな気持ちが胸を満たした。
キュッと、カランを絞る音が小気味よく鳴った。
ネハンが顔を上げると、水気を切ったグラスを手にしたシスと目が合った。その目が泳ぐ。
「乾いた柔らかい布巾で、全体を優しく磨くように拭いてから仕舞うんだ」
「し、知っている」
視線を彷徨わせていたのでどうすべきかわからず困っているのだと思ったが、余計なお世話だったらしい。残りのカナッペに手を伸ばしながら、彼のお手並みを拝見することにした。
食器棚からお誂え向きの布を見つけ出してきたところまではよかった。
「…………シス」
名前を呼ばれた彼は肩をびくりと跳ねさせる。
「そういう風にグラスを持っては、指紋が残ってしまう」
「……?」
シスはグラスの本体を片手に持って、その内側に布巾を滑らせている。ステムを握って支えていない点については上出来だが、このまま放っておけば次はステムかプレートを持ち、グラスの外側を今つけてしまっている指紋ごと拭うために力を込め、またひとつ壊れた食器を生み出す結末が見える。
彼は自身の壊してしまった食器のために働いているのに、それではあまりに哀れだ。つい口を挟んでしまった。
「布巾を広げて、全体を包み込めるようにするんだ」
一度グラスを置いたシスは、言われるがままに布巾を広げる。
「こんなに大きかったんだな」
「そうだ。その布を端から内側に押し入れて、余りの部分で外側を包むんだ。そうすればグラスに直接触れずに内も外も拭える」
「……こうか?」
「ああ」
やはり不安があったのだろう。シスは大人しくネハンの指示に倣った。
「細い部分は折れやすい。飲み物を注ぐ部分と脚から下は別々に拭え」
「わかった……ありがとう」
ひとつ目のグラスを恐る恐る磨き上げ、二つ、三つとこなしていく内に徐々に手際がよくなっていった。照明にグラスを翳して曇りを確認する佇まいは、堂に入って見えなくもない。馬子にも衣装、グラス磨きだ。
棚にグラスを仕舞い終えると、シスは別の仕事を貰いにファスティバの元へと引っ込んだ。
「おまたせ!」
やがて、ハーブと香辛料の香りを漂わせながら二人が戻ってくる。
シスがカウンターから回り込んできて、ネハンの前に配膳していく。プレートの横にフォークを、見ていてもどかしくなるくらい慎重に置き据える。
「シスくんも自分の分、運んできて」
「ああ」
ネハンは皿の上を観察した。彩りのある野菜が添えられた肉料理。ローストされているのだろうか、しかし一見して、素材がわからない。
「コンフィよ。油で煮てあるの」
「なんの肉だ?」
「それは聞かずに、まずは食べてみてくれないかしら」
言い回しに引っかかりを覚えたが、彼(女)がおかしなものを振る舞うとも思えない。ネハンは盛りつけられた肉を一切れ、徐に口に運んだ。
その身は口の中ですぐに解れた。舌の上のピリピリとした感覚で、よくスパイスの効かされた味付けなのだと知る。
「柔らかくて食べやすい」
「そーお!? よかったわぁ」
味について一切触れないろくでもない感想は、それでもファスティバを甚く安堵させたようだ。彼(女)は胸の前で手を合わせて顔を綻ばせた。
どういうことなのだろうと首を捻っていると、ひとつ席を空けた隣にシスが着く。
「お肉、柔らかいって」
「そうか」
シスが料理に口をつける。
「うん……これなら『食べられる』な」
「…………」
シスの感想も大概なものだが、ファスティバの様子といい、見た目は洒落たこの料理自体が怪しいものなのではないだろうか?
「……これはなんの肉なんだ?」
「一昨日のアレだ」
問いに即答したのは、隣の男だった。
一昨日のアレ。騎空団で討伐した魔物のことだ。
本来は山林で暮らし、人里に下りてくることのない種の魔物が畑を荒らすようになったために駆除と原因の解明が依頼された。
ネハンは、生息域の植生を中心とした環境調査のために呼ばれたのだ。自ら調査したのだから、草食の獣がよからぬものを食べて育ったわけではないと知っているが――。
「異常行動を起こしていた獣の肉だと知っていて、よくもまあ、躊躇なく口にできるものだな」
「食餌を通じて体に毒を溜め込んでいたわけではない、というのが調査結果だろう?」
「それはそうだが……」
事も無げに話す表情に、呆れて言葉に詰まる。
「草食だから臭みも少ないんじゃないかしらと思ったら、ちょーっと身が硬くってね。厨房の子たちと、どうやったら美味しく食べられるか、頭を捻ってたのよ」
仕留めた獣の肉を報酬に含めて引き取っていたのは、依頼元の経済的負担を軽くしてやろうという侠気ゆえの行動だと思っていたが、まさか本当に食糧にするつもりだったとは。
「それじゃあ、今晩、みんなにも食べてもらいましょ」
「ああ。きっと、皆喜ぶ」
ファスティバお手製の魔物料理をもぐもぐと食べ続ける横顔を見る。
(――旨そうだな)
自分が獲った訳でもなければ、調理した訳でもなく。他の獣の肉を同じ方法で調理した方が、もっと味の良い料理に仕上がるものなのかもしれないが。空腹を満たす以上の喜びをシスが感じている。その一端に関われているというのは、悪くない気分だ。
カウンターの向こうにいるファスティバも、にこにこと顔を綻ばせている。
「ん? どうかしたかしら?」
「いや。……貴方がたの喜びというものを、少し理解できたような気がする」
首を傾げるファスティバは、ネハンが料理を『味わう』のも楽しみにしている。
フォークを手に取り、皿の上の赤身に突き立てる。口に含むと広がる豊かな香りに、ネハンは再び目尻を緩ませるのだった。
******
「それで。アルバイトは今日限りで仕舞いなのか?」
「それは……ファスティバ次第だが……」
「とはいえ、ろくな助けになっていないのは、お前も感じているだろう」
「う……」
「そんなことないわよぉ! 気持ちだけでもとっても嬉しいし」
「き、気持ち……」
「……もう少し手伝いをさせてもらって、生活力というものを身に着けさせてもらったらどうだ? 今まで疎かにしてきたことを学べる良い機会だろう」
「……ファスティバが、迷惑でないのなら……」
「あら! アタシは嬉しいけれど、いいのかしら?」
「仕事や鍛錬の時間以外は、余暇を持て余しているから問題はない……が、ネハン」
「なんだ?」
「お前は……また来てくれるのか?」
「?」
「俺がいると、わかっていても……」
「……。まぁ、お前の拙い働きぶりを、冷やかしに来てやってもいい」
「!」
「せいぜい頑張るんだな」
「ああ……待っている」